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doch
2011.11.26 Saturday
doch.
語学で暗記学習というのはどの分野ものものでも非常に良いです。というのはもちろん効率的な意味においてもです。内容の良い文をひたすら暗記したり聞いたりすれば、外国語を母国語的に覚えることができます。その意味でも音読は良いです。スピードラーニングはあまりお勧め出来ません。集中力が高い人間は語学のリスニングが良く出来ます。
やっぱり例文としても良い内容のものを覚えた方が良いに決まってるんで、別に例文であることが分かって暗記してるんだからどんなものでも別にいいや的なノリで勉強してると後でイタい目をみます。
対人関係でも、特定の人間を見て、「気に入る」だとか「気に入らない」だとかいう感慨が湧くのは、身体論的にその事象の判断者・被判断者がどういった行動をとるかに因ります。もちろん人間は脳で様々な事象を経験していくので、これには性向や傾向といったものが多々あります。単純にみぎひだりのお話というわけではないです。あえて言うならみぎに傾きやすかったりひだりに傾きやすかったりというのが人によってかなりの個人差があるということです。
この性向や傾向を消すのが抗精神病薬です。ヤバい行動を取ったりそういった性向を持つ人間を限りなくゼロに戻すのが抗精神病薬の効能であって、その上でそういった人たちを良い方向へ持っていくのが精神科医をはじめとした作業療法士だとか音楽療法士だとかそのあたりの医療に携わる人たちの仕事です。もちろん患者当人にその「良い方向」がどういったものなのか自覚があれば抗精神病薬と精神科医一人と患者個人で治すことも可能なのが統合失調症という病気です。
「良い方向」というのは、ネットを使ってでも何でもいいからストレスをバーッと発散させて、そして抗精神病薬を飲みながら生活スタイルから改善していくのが最も効果的であり完治への最短距離だということです。
私個人の経験では、抗精神病薬を飲む前後の数時間は何も食べないとか無理をしないストレスが溜まるようなことは行わないというのがかなり効果的です。というか身体感覚というか体調的にもゼロに戻されてそこからまた傾向を作り出していく薬物が抗精神病薬というものなんで、そうしないとヤバいんですね。精神科医は夜寝る前に薬を飲めと言いますけど、アレはおそらく止めた方が良いです、朝きれいに起きれなくなって昼間中もボーッとしたままで全く治らずに藪医者がもうかるだけというオチに片付いてしまうだけです。だから止めた方が良いどころか寝る前に抗精神病薬なんか飲んでいたら、生活も肉体もボロボロで滅茶苦茶になります。眼圧が上昇することが統合失調症の症状の一つだと書いてある精神科医による本がありますけど、そんなものは就寝前に抗精神病薬を服薬していたら光の無いところでものを見ている状態で眼球やその周辺の筋肉の動きも膠着されるので昼間でも眼圧が上昇して筋肉が張って視力が上がっている状態になるのは当たり前です。下手をすると失明します。だから抗精神病薬を飲んでその後パソコンを何時間も使うだとかテレビを何時間も見るだとかも最悪です。
そして、こういったことに関して、「それは統合失調症のせいだ」というお決まりのセリフを精神科医は吐きます。私も一回「堕ちた」ことがあるんでよく分かるんですけど、基本的にそういった類の田舎者気質の精神科医の仕事は精神的に弱っている人間や社会的弱者をレイプすることなんですね。はっきり言ってそういった精神科医はエヴァンゲリオンだかのブサイクアニメを作っているバカオタクオッサンと何も変わりません。要するに精神科医というのは本当のことを言いません。中にはまともな先生もいらっしゃいますけど、ほとんどの精神科医は、自分が処方する薬物の効能に関する事実を患者に何も告げずに、馬鹿な精神病患者が周りの社会環境や人的環境に釣られるにまかせるという最悪なことを行います。患者当人を取り巻く社会・人的環境にまで責任を持てないというのであれば、抗精神病薬を投薬するなという問題です。その場合あまりに無責任に過ぎます。中には初診の患者を故意にバカにして挑発して悪い状態に持っていくことを試みるという精神科医も多々存在します。例えば、自分が診療する以前に意図的にケースワーカー等医師免許を持たない者や医師国家試験を受ける前やもしくは正式に医師として活動していない30歳前の若い医師に「先生の診療を受けていただく前にちょっとお話をうかがいまーす」的なセリフで面談をさせて、その後正式の医師が出てきてその医師は2、3分患者に対して挑発的にしゃべるだけでまったく診察を行わないというやり方があります。その正式な診療医ではない人間は精神疾患と全く関係の無い質問をひたすら患者に対して浴びせます。それは挑発の意味もありますし、患者個人にとって不利益となる記録を故意に残して、「精神病患者はこんな劣等な人間だ」ということを証明する為もしくは論文・記録のネタ等その他後々様々な目的で材料として使うという為でもあります。ちなみにカルテの情報をその病院外へ持ち出したら医師は医師免許を剥奪されて一発で警察に捕まります(少なくとも医師として社会的に死にます)。大方の精神を病んでいる人間は、事前のその面接の時点でベラベラしゃべってしまいます。で、その医師達の目論見通り、(正式の)医師の挑発には簡単に乗ってしまいます。若い医師や学生を育てる為という口実で精神的に弱っている患者の善人性に漬け込んでくるという極めて悪質なやり方を行ってくるわけです。私はあろうことか最高学府である東京大学の付属病院でこれをやられました。露骨な差別なんで現代日本でこういったことをあまり言いたくはないんですけど、連中も差別を行っているということではっきり言いますと、穢多系統の精神科医にこういったのが多いです。まさに戦後日本社会を象徴する様な穢多による逆差別です。医療とは関係無いですけどやっぱり国公立大学等の公の機関では穢多が様々な局面で増長し易いのかとは思います。
患者を被害者であると同時に加害者に仕立てあげることもできるのが精神科医だということです。
最近官公省庁のコンピュータやPCがハックされたとかなんとか必死にマスコミが報道してますけど、あんなもん故意にやってます。というのは、さすがに官僚の人たちが意図的に流してるということは無いでしょうけど、日本のマスコミが故意に見せ付けるように報道して社会秩序に対するネガキャンを行っているということです。
穢多というのは、「そういった厳密なこと」を説明する能力を故意に奪ってから、「アイツは何も言わない」というレッテルを貼ってレイプを始めるんですね。これは66年前に戦争に負けてから、この国にのさばり出した穢多のやり口です。これは子供の時点で小学校でマザコン教育を受けることを強制されるというところから始まってます。私は男性なんでまだいいですけど、女性はかなり悲惨な目に合うはずです。だいたいレイプをやる類の男というのは、恥意識が強くて絶対に事件について言えないような女性を狙ってやります。こういったことを私刑というかたちで頻繁に行うことを許容してしまったのが戦後の日本社会なんですね。石原慎太郎さんは平和の毒とおっしゃってますけど、こういった連中のやり口というのは非常に汚いんで、本当に気を付けないとダメです。これはアメリカのせいでもなんでもないどころかその真逆であって、例のゼンキョートーだかなんだかの田舎者気質なマザーコンプレックスの豚共に典型的な例を求めることができます。その真逆ではない例として分かりやすいのは村上春樹さんであり、田舎者気質なマザコンの典型例として分かりやすいのは内田樹さんです。村上春樹さんは田舎の人で内田樹さんは都会人ですけど、気質的には逆です。
たしか1989年あたりだったと思いますけど、宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯のような人間は、アレはただの幼い子供をネタにした変質者であって、典型的なマザコンというのとは違います。ちょうどその時期に佐野史郎主演のマザコンの冬彦さんドラマをテレビでやってましたけど、アレはまさにああいった事件を利用して真面目な青年たちや勤め人の人たちのストレスを煽ろうとしているという意味で番組自体が実にマザーコンプレックス的なものに基づくものであり、その意味で実にマザコンなドラマです。だからああいった佐野史郎さんが演じている的な人間がマザコンであるというケースはほとんど無いどころか、露骨にオタク弾圧を狙ってたというだけなんですね。これは新しくオタクという社会的被差別民を作り出そうとするマスコミの穢多共のやり口であり、私もまたそのオタク弾圧の時代をオタクとして生き延びてきた人間のうちの一人です。
ちなみに私は内田樹さんみたいに自分が若い頃はよかったどうだったこうだったとかオッサンどころかジイさんになってまでマザコンなことを言ってるような自慰さんみたいのにはなりたくないということで悪しからず。
「これまでの、確信のいくつかの在り方にあっては、真は、意識から見て意識自身とは別のものであった。しかしこの真の概念は、真について経験して行く間に消えてしまう。対象は直接「自体的」であった。つまりそれは、感覚的確信の存在者、知覚の具体的な物、悟性の力などであったが、それらは、むしろほんとうはそういうものではないことを自ら証明している。そうではなくこのような「自体」は、対象が他者に対する在り方にほかならないものであることが明らかになってくる。自体についての概念は現実の対象に出会うとき、廃棄される。つまり経験上の最初の直接的な(無媒介な)表象は廃棄される。そこで確信は事実上消えてしまった。ところがいまここに、これまでのいくつかの関係のなかでは起こらなかったことが、生じている。つまり自らの真理と等しいという確信が生じている。というのは、この確信は自己自身を自分の対象としており、意識は自己自身にとって真であるからである。なるほどそこに他在も在ることは在る、つまり意識は区別を立てることは立てる。だが、それは、意識にとっては、同時に区別されていないようなものである。われわれが知の運動を概念と呼び、これに対し、静かな統一としての、すなわち自我としての知を対象と呼ぶとすれば、対象が概念に一致するのは、われわれにとってだけのことではなく、知にとってのことでもあることがわかる。言いかえれば、それとはちがった方法で、対象が「自体的」に在るものを概念と呼び、これに対し、対‐象として、つまり、他者に対するものとして、在るものを対象と呼ぶ場合には、自体存在と対‐他‐存在とは同じものであることが明らかになる。というのもここでは「自体」は意識であるからである。だがこの意識は、同じように、一つの他者(「自体」)が相対している当のものなのである。意識にとっては、対象の自体と他者に対する対象の存在とが同じものであるということがある。自我は関係の内容であると同時に関係そのものである。自我は、他者に対して自我自身であると同時に、やはり自我に対して自我自身であるにすぎないようなこの他者を、覆うている。」
これはヘーゲル先生の"Phänomenologie des Geistes"(「精神現象学」)という本から引用してきたものなんですが、なんかヘーゲル先生ではなくてフィヒテ先生の書いたものみたいでちょっとどちらが書いたものなのかよく分からないんですけど、「対象が自体的に在るものを概念と呼」んでる時点でやはりそれが人間の限界だということであり、「経験上の最初の直接的な(無媒介な)表象」は「表象」ではなく、「そこで確信は事実上消えてしまった」のは確「信」ではないということであり、「対象の自体と他者に対する対象の存在とが同じものであるということがある」わけです。
これは前の記事で言ったxy平面上におけるy=|x|のグラフだと考えると分かりやすいです。結果自体は絶対値なんで必ず正の現象として現れ(表れ)ますけど、その対象自体は正なのか負なのかその現象をそれであると捉える個体には認識理解できないということです。「知」というのは人間にとっては結局「運動」であるしかない、「知」は人間において「概念」であることから抜け出せない、人間は自身から思惟能力を除くことはできないということです。
ヘーゲルはこの「精神現象学」の中で、自己意識という呼称で∞は概念という形でとりあえず存在し、そして途中で|∞|も自己意識が自己意識に自体的に対してあるという内容の説明でそこにあると言ってます。要するに∞/0の因果関係は存在するというところで止めておけばよかったのに、∞/0の相関関係も真理という形で存在すべきだとまで言ってます。∞/0の相関関係そのものを「人倫の国」(ギリシア)という形で存在するとまで言ってます。こういうことを言うと哲学研究者の先生達に怒られそうですけど、つまりヘーゲル先生は思惟の方向性的に馬鹿です。ヘーゲルは、
「精神は、その自己意識が二重になり、二重の両者が自立的でありながらも、自己自身と一つであると確信している。」
という病識の無い状態の重度の精神分裂病そのものを自己意識の解説として説明しています。
抗精神病薬を服薬している期間に他人と関わるだとかは、それが良い人間関係であれ悪い人間関係であれ、どちらにしろ悪い方向へ引っ張られていくので、止めた方が良いというか入院するのがこの病気の治療には最適です。
語学で暗記学習というのはどの分野ものものでも非常に良いです。というのはもちろん効率的な意味においてもです。内容の良い文をひたすら暗記したり聞いたりすれば、外国語を母国語的に覚えることができます。その意味でも音読は良いです。スピードラーニングはあまりお勧め出来ません。集中力が高い人間は語学のリスニングが良く出来ます。
やっぱり例文としても良い内容のものを覚えた方が良いに決まってるんで、別に例文であることが分かって暗記してるんだからどんなものでも別にいいや的なノリで勉強してると後でイタい目をみます。
対人関係でも、特定の人間を見て、「気に入る」だとか「気に入らない」だとかいう感慨が湧くのは、身体論的にその事象の判断者・被判断者がどういった行動をとるかに因ります。もちろん人間は脳で様々な事象を経験していくので、これには性向や傾向といったものが多々あります。単純にみぎひだりのお話というわけではないです。あえて言うならみぎに傾きやすかったりひだりに傾きやすかったりというのが人によってかなりの個人差があるということです。
この性向や傾向を消すのが抗精神病薬です。ヤバい行動を取ったりそういった性向を持つ人間を限りなくゼロに戻すのが抗精神病薬の効能であって、その上でそういった人たちを良い方向へ持っていくのが精神科医をはじめとした作業療法士だとか音楽療法士だとかそのあたりの医療に携わる人たちの仕事です。もちろん患者当人にその「良い方向」がどういったものなのか自覚があれば抗精神病薬と精神科医一人と患者個人で治すことも可能なのが統合失調症という病気です。
「良い方向」というのは、ネットを使ってでも何でもいいからストレスをバーッと発散させて、そして抗精神病薬を飲みながら生活スタイルから改善していくのが最も効果的であり完治への最短距離だということです。
私個人の経験では、抗精神病薬を飲む前後の数時間は何も食べないとか無理をしないストレスが溜まるようなことは行わないというのがかなり効果的です。というか身体感覚というか体調的にもゼロに戻されてそこからまた傾向を作り出していく薬物が抗精神病薬というものなんで、そうしないとヤバいんですね。精神科医は夜寝る前に薬を飲めと言いますけど、アレはおそらく止めた方が良いです、朝きれいに起きれなくなって昼間中もボーッとしたままで全く治らずに藪医者がもうかるだけというオチに片付いてしまうだけです。だから止めた方が良いどころか寝る前に抗精神病薬なんか飲んでいたら、生活も肉体もボロボロで滅茶苦茶になります。眼圧が上昇することが統合失調症の症状の一つだと書いてある精神科医による本がありますけど、そんなものは就寝前に抗精神病薬を服薬していたら光の無いところでものを見ている状態で眼球やその周辺の筋肉の動きも膠着されるので昼間でも眼圧が上昇して筋肉が張って視力が上がっている状態になるのは当たり前です。下手をすると失明します。だから抗精神病薬を飲んでその後パソコンを何時間も使うだとかテレビを何時間も見るだとかも最悪です。
そして、こういったことに関して、「それは統合失調症のせいだ」というお決まりのセリフを精神科医は吐きます。私も一回「堕ちた」ことがあるんでよく分かるんですけど、基本的にそういった類の田舎者気質の精神科医の仕事は精神的に弱っている人間や社会的弱者をレイプすることなんですね。はっきり言ってそういった精神科医はエヴァンゲリオンだかのブサイクアニメを作っているバカオタクオッサンと何も変わりません。要するに精神科医というのは本当のことを言いません。中にはまともな先生もいらっしゃいますけど、ほとんどの精神科医は、自分が処方する薬物の効能に関する事実を患者に何も告げずに、馬鹿な精神病患者が周りの社会環境や人的環境に釣られるにまかせるという最悪なことを行います。患者当人を取り巻く社会・人的環境にまで責任を持てないというのであれば、抗精神病薬を投薬するなという問題です。その場合あまりに無責任に過ぎます。中には初診の患者を故意にバカにして挑発して悪い状態に持っていくことを試みるという精神科医も多々存在します。例えば、自分が診療する以前に意図的にケースワーカー等医師免許を持たない者や医師国家試験を受ける前やもしくは正式に医師として活動していない30歳前の若い医師に「先生の診療を受けていただく前にちょっとお話をうかがいまーす」的なセリフで面談をさせて、その後正式の医師が出てきてその医師は2、3分患者に対して挑発的にしゃべるだけでまったく診察を行わないというやり方があります。その正式な診療医ではない人間は精神疾患と全く関係の無い質問をひたすら患者に対して浴びせます。それは挑発の意味もありますし、患者個人にとって不利益となる記録を故意に残して、「精神病患者はこんな劣等な人間だ」ということを証明する為もしくは論文・記録のネタ等その他後々様々な目的で材料として使うという為でもあります。ちなみにカルテの情報をその病院外へ持ち出したら医師は医師免許を剥奪されて一発で警察に捕まります(少なくとも医師として社会的に死にます)。大方の精神を病んでいる人間は、事前のその面接の時点でベラベラしゃべってしまいます。で、その医師達の目論見通り、(正式の)医師の挑発には簡単に乗ってしまいます。若い医師や学生を育てる為という口実で精神的に弱っている患者の善人性に漬け込んでくるという極めて悪質なやり方を行ってくるわけです。私はあろうことか最高学府である東京大学の付属病院でこれをやられました。露骨な差別なんで現代日本でこういったことをあまり言いたくはないんですけど、連中も差別を行っているということではっきり言いますと、穢多系統の精神科医にこういったのが多いです。まさに戦後日本社会を象徴する様な穢多による逆差別です。医療とは関係無いですけどやっぱり国公立大学等の公の機関では穢多が様々な局面で増長し易いのかとは思います。
患者を被害者であると同時に加害者に仕立てあげることもできるのが精神科医だということです。
最近官公省庁のコンピュータやPCがハックされたとかなんとか必死にマスコミが報道してますけど、あんなもん故意にやってます。というのは、さすがに官僚の人たちが意図的に流してるということは無いでしょうけど、日本のマスコミが故意に見せ付けるように報道して社会秩序に対するネガキャンを行っているということです。
穢多というのは、「そういった厳密なこと」を説明する能力を故意に奪ってから、「アイツは何も言わない」というレッテルを貼ってレイプを始めるんですね。これは66年前に戦争に負けてから、この国にのさばり出した穢多のやり口です。これは子供の時点で小学校でマザコン教育を受けることを強制されるというところから始まってます。私は男性なんでまだいいですけど、女性はかなり悲惨な目に合うはずです。だいたいレイプをやる類の男というのは、恥意識が強くて絶対に事件について言えないような女性を狙ってやります。こういったことを私刑というかたちで頻繁に行うことを許容してしまったのが戦後の日本社会なんですね。石原慎太郎さんは平和の毒とおっしゃってますけど、こういった連中のやり口というのは非常に汚いんで、本当に気を付けないとダメです。これはアメリカのせいでもなんでもないどころかその真逆であって、例のゼンキョートーだかなんだかの田舎者気質なマザーコンプレックスの豚共に典型的な例を求めることができます。その真逆ではない例として分かりやすいのは村上春樹さんであり、田舎者気質なマザコンの典型例として分かりやすいのは内田樹さんです。村上春樹さんは田舎の人で内田樹さんは都会人ですけど、気質的には逆です。
たしか1989年あたりだったと思いますけど、宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯のような人間は、アレはただの幼い子供をネタにした変質者であって、典型的なマザコンというのとは違います。ちょうどその時期に佐野史郎主演のマザコンの冬彦さんドラマをテレビでやってましたけど、アレはまさにああいった事件を利用して真面目な青年たちや勤め人の人たちのストレスを煽ろうとしているという意味で番組自体が実にマザーコンプレックス的なものに基づくものであり、その意味で実にマザコンなドラマです。だからああいった佐野史郎さんが演じている的な人間がマザコンであるというケースはほとんど無いどころか、露骨にオタク弾圧を狙ってたというだけなんですね。これは新しくオタクという社会的被差別民を作り出そうとするマスコミの穢多共のやり口であり、私もまたそのオタク弾圧の時代をオタクとして生き延びてきた人間のうちの一人です。
ちなみに私は内田樹さんみたいに自分が若い頃はよかったどうだったこうだったとかオッサンどころかジイさんになってまでマザコンなことを言ってるような自慰さんみたいのにはなりたくないということで悪しからず。
「これまでの、確信のいくつかの在り方にあっては、真は、意識から見て意識自身とは別のものであった。しかしこの真の概念は、真について経験して行く間に消えてしまう。対象は直接「自体的」であった。つまりそれは、感覚的確信の存在者、知覚の具体的な物、悟性の力などであったが、それらは、むしろほんとうはそういうものではないことを自ら証明している。そうではなくこのような「自体」は、対象が他者に対する在り方にほかならないものであることが明らかになってくる。自体についての概念は現実の対象に出会うとき、廃棄される。つまり経験上の最初の直接的な(無媒介な)表象は廃棄される。そこで確信は事実上消えてしまった。ところがいまここに、これまでのいくつかの関係のなかでは起こらなかったことが、生じている。つまり自らの真理と等しいという確信が生じている。というのは、この確信は自己自身を自分の対象としており、意識は自己自身にとって真であるからである。なるほどそこに他在も在ることは在る、つまり意識は区別を立てることは立てる。だが、それは、意識にとっては、同時に区別されていないようなものである。われわれが知の運動を概念と呼び、これに対し、静かな統一としての、すなわち自我としての知を対象と呼ぶとすれば、対象が概念に一致するのは、われわれにとってだけのことではなく、知にとってのことでもあることがわかる。言いかえれば、それとはちがった方法で、対象が「自体的」に在るものを概念と呼び、これに対し、対‐象として、つまり、他者に対するものとして、在るものを対象と呼ぶ場合には、自体存在と対‐他‐存在とは同じものであることが明らかになる。というのもここでは「自体」は意識であるからである。だがこの意識は、同じように、一つの他者(「自体」)が相対している当のものなのである。意識にとっては、対象の自体と他者に対する対象の存在とが同じものであるということがある。自我は関係の内容であると同時に関係そのものである。自我は、他者に対して自我自身であると同時に、やはり自我に対して自我自身であるにすぎないようなこの他者を、覆うている。」
これはヘーゲル先生の"Phänomenologie des Geistes"(「精神現象学」)という本から引用してきたものなんですが、なんかヘーゲル先生ではなくてフィヒテ先生の書いたものみたいでちょっとどちらが書いたものなのかよく分からないんですけど、「対象が自体的に在るものを概念と呼」んでる時点でやはりそれが人間の限界だということであり、「経験上の最初の直接的な(無媒介な)表象」は「表象」ではなく、「そこで確信は事実上消えてしまった」のは確「信」ではないということであり、「対象の自体と他者に対する対象の存在とが同じものであるということがある」わけです。
これは前の記事で言ったxy平面上におけるy=|x|のグラフだと考えると分かりやすいです。結果自体は絶対値なんで必ず正の現象として現れ(表れ)ますけど、その対象自体は正なのか負なのかその現象をそれであると捉える個体には認識理解できないということです。「知」というのは人間にとっては結局「運動」であるしかない、「知」は人間において「概念」であることから抜け出せない、人間は自身から思惟能力を除くことはできないということです。
ヘーゲルはこの「精神現象学」の中で、自己意識という呼称で∞は概念という形でとりあえず存在し、そして途中で|∞|も自己意識が自己意識に自体的に対してあるという内容の説明でそこにあると言ってます。要するに∞/0の因果関係は存在するというところで止めておけばよかったのに、∞/0の相関関係も真理という形で存在すべきだとまで言ってます。∞/0の相関関係そのものを「人倫の国」(ギリシア)という形で存在するとまで言ってます。こういうことを言うと哲学研究者の先生達に怒られそうですけど、つまりヘーゲル先生は思惟の方向性的に馬鹿です。ヘーゲルは、
「精神は、その自己意識が二重になり、二重の両者が自立的でありながらも、自己自身と一つであると確信している。」
という病識の無い状態の重度の精神分裂病そのものを自己意識の解説として説明しています。
抗精神病薬を服薬している期間に他人と関わるだとかは、それが良い人間関係であれ悪い人間関係であれ、どちらにしろ悪い方向へ引っ張られていくので、止めた方が良いというか入院するのがこの病気の治療には最適です。
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ignis fatuus
2011.11.29 Tuesday
消火の炎。
信じる者は(足元を)すくわれる。
今は若い先生たちもいるのでどうだか分かりませんけど、公立小中学校の教師というのは穢多だらけです。というかマザーコンプレックスの具現体たる穢多だからこそ弱い子供たちを嬲り者にできる小学校や中学校の教師になることを望むくらいのノリです。連中は原理的には宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯と何も変わりません。彼らのうちまともな人間は5人に1人くらいしか居ません。この戦後の日本社会であの連中が行っていた(いる)ことというのは、理工学的なものでもなんでもなくて、ミクロ経済的な穢多による穢多のための社会的構図を子供に刷り込むことを狙っていただけなんですね。だから子供の頃からそれを刷り込まれる日本人は愚かな田舎者のアベラールとして生産され続けていた(いる)というのが現状です。賢いアウグスティヌスのような人間は生産されないどころかどんどん潰されていきます。だから当然の如く国は莫大な借金を抱えて社会はボロボロになりました。やっとごく最近になって少し良くなりました。
小中高の教師の言うことを子供が聞かないというのはそういった意味で必然なのであって、小中高の教師になるような人間が自分の言うことを聞かせようとして説教で言うことの内容なんてものは間違っているのが自明なんですね。何故なら彼らは自分の言うことを聞かせることを第一義としてそうった説教を行うからです。そしてそういった教師の類を相手にしないような類の子供、物事の理を理解している人間を「人間嫌いな性格の人間だ」というレッテルを貼ることによって虚構でしかない人間関係とやらに落とし込んでそして「『しかしそうではない人間も居る』という事実を(事実でないにもかかわらず事実として)提示する」という方法でまた間違った認識へ引きずり戻そうとする性格判断は有毒の極みであり有害の極みです。占いはただ参考として学べるものなので特に有害ではないです。
ミクロ経済学というのは豚の学問というよりは穢多の学問であり奴隷が現代になってやっとこさ必死になって編み出した形骸のみの学問です。ミクロ経済学者なんてものは単なる穢多奴隷のチキンです。
これは精神病やその患者に関しても同じことで、「統合失調症」であるというレッテルによって、どうとでも症状を捏造できますし、また精神科医は真相を見破られた時の誤魔化し取り繕いとして「それは妄想だ」という一言で済ませられることができてしまうということです。むしろ「それは妄想である」という形で穢多たる自分らのレイプの真相を故意に抗精神病薬の効能で腐った状態の患者に知らしめるということを行いもします。これは村上春樹さんも小説の中で書いてますけど、子供のイジメとかの場合だったら「シカトだバカ」で相手をしなければ済みますけど、連中は抗精神病薬の効能で狂った・腐った状態の頭の患者に「『自分たちは穢多であって、お前をレイプしているんだぞ』ということをわざわざご丁寧に患者に知らしめる」という形でヒビを入れるところからレイプを行い始めるんですね。これは女性一般に対する警句としても通用しますけど、ああいったゴミクズ共は甘い顔をするや否や即のぼせ上がって図に乗ってその甘い部分に付け込んで来ます。だから警察官に頼むのでも弁護士に依頼するのでもどんな手段を用いてでも問題無いんで、さっさと切り捨てないとダメです。子供の時分だとこういったことに全く無頓着であり、また言語化して省察する機会も能力も無いのでどんどん洗脳されていきます。
先の記事でも言ったように、「統合失調症は原因不明」というのは自分達の暴力を隠しつつ且つそれを肯定させるという女性的なエゴイズムの肉塊である穢多による悪質な所業であるということです。事実はそうではなくて先の記事で説明した様に「原因不明なもの因るのが統合失調症」なんで、社会的な要因において感染・伝播はするが、しっかりとまともな医師の診察を受けて投薬を始めとする治療を受けていればサッサと治ります。
で、ストーカーの中には良い方向へもっていこうとしてやってくれる人たちも居ます。そういった人たちのメッセージを全く読み取れなくなってしまっている程に統合失調症の人間は精神を病んでるんですね。当然それと連関して肉体も病んでます。見れば分かるとおり精神病患者には肥満しているその他で奇異な見た目の人間が多いです。そして自分たちが心身を病んでいるという自覚が全くありません。ちなみに見知らぬ人間が不意をついた故意の言動を発するという形で言動的なストーカーを行ってくる人間にこういった「良い方向」へもっていこうとする人間は皆無です。特に性別的な問題からして嫌がらせを好む女性であってストーカーを行ってくるようなロクでもない犬みたいな人間で、この「良い方向」へ持っていこうとする人間というのはまず居ません。つまりは女の穢多というのが最もレイプ大好きというか他者を暴力で踏み付けることが大好きな人間というわけです。
マザーコンプレックスの非常に強い強姦魔的な大江健三郎さんもビジュアル系の人も個人的な原因はどうあれコレをやられてどんどん逆方向へ増長してああなってしまったんですね。コレというのは悪い方向へ持っていこうとする特に女性的なストーキングのことです。
欧米のクリスチャンでもないこの国の人間達が「愛」がどうとかいったクサい歌を歌っていることを万人が不快に感じるのは、こういった連中が歌っているのは「穢」であって「愛」ではないということに因ります。こんな連中にこれが「愛」だとかいって歌われたらクリスチャンの人たちは大迷惑です。ビジュアル系の人はちゃんと自分が歌っているのは「穢」であって「愛」ではないといって歌っている点においてのみまだマシです。
ああいった連中の主張する「愛」には、穢多が民主主義や自由ということと無責任ということを履き違えているということが如実に表れています。
「愛」とかと同じであまりに陳腐なんで取り上げたくもないんですけど、「勝ち」「負け」とか考えてる時点で負けです。だから昔必死に日本のマスコミが喧伝していた「勝ち組」とか「負け組」とかいったものは、故意に同族たる無政府主義者の負け組を作って殺し合いの現場を広げようとする穢多の所業でしかないです。
本当にこういったモノのせいでこの日本という国は滅茶苦茶になりました。しかもこういった連中が陳腐にも民主的なアメリカ派を自称していることが多々あるので本当に始末に終えないです。先の記事で言ったように、そういったのはアメリカ的なわけでも何でもなく単なる「アメリカ好きの日本人」であり、ウザがられてイジめられる連中です。そんな連中にアメリカを自称されたらアメリカ人もオバマ大統領も大迷惑です。
ここまで極端なことを言うのもどうかと思いますけど、偉人の伝記ものを子供に読ませるのも果たしてどうかなといった感じです。「こういった人物になりたい」というのが甘えのはじまりであってそもそもの元凶だったりします。
掃除というのはアンチ男性原理と関係してます、というか女性原理の最たるものだったりします。ロールプレイングゲームで遊ぶことと掃除をすることは実に似てます。ファミコンという玩具は男性の女性化に大きな役割を買っていて、非常な社会的損失・死荷重を生み出しました。小中学校で男子児童生徒に掃除などさせるべきではないです。しかも馬鹿なことに公立学校ではわざわざホウキを使って行わせるんですね。その結果が「女のクセに~」という男性の女性への蔑視です。おそらく欧米の社会では男女差別も日本のように潜在的にという形で存在するわけではないです。つまりは女性が嫌がるという形ではそれは発露しないです。実に単純なことに結果として招かれるのは男女(機会)平等です。そもそも掃除なんてものは男女とも児童生徒に行わせずに掃除婦を雇うのが最良です。私は秋にヨーロッパのとある国へ旅行へ行った時に、住宅街を散歩していて銀杏かなにかの木の落ち葉がきれいにつもっているのを見ました。別に臭いも歩くのにも何も不都合はないです。たぶん時期が来たら地方自治体が清掃作業員を雇って一辺にきれいにするということだと思います。学校でもそういった形で学期末にでも勉強ということで全校挙げて一貫して行わせればいいんです。その方が余程子供には掃除というものがどういったものか分かりやすいですし、記憶や印象にも残ります。
そしてこういったことをとある賢い小学生が考えついて国語の授業か何かで作文に書くとします。そうすると大抵の馬鹿なでもしか先生たちはその作文に×をつけるという体たらくです。一つ一つ事態を解決することを学ばせるとかいうのであればどんどん算数の計算問題でも文章題でも解かせるのが良いです。
こういった比喩は村上春樹さんが好きそうなものでちょっとナニな感じであんまり言いたくないんですけど、ネットは何かに例えるなら謂わば炎みたいなもんです。「ユダヤ」というものを「光」と例えるなら、ディアスポラ開始以来三千年経って出来上がったいわゆる「インターネット」というのは「炎」です。
戦後の日本社会を見ると一般的に物価は上昇していってます。貨幣数量説という有名なものがありますけど、あの歴史の教科書に必ずといっていいほど出てくる兵隊さんが札の山の隣で途方に暮れている写真に見られるような第一次大戦後のドイツのような状態にでもならない限り、短期的に急激なインフレーションは起こらないので、粗悪な財・サービスを薄利多売目的で多産すると同時に何らかの手段で消費者の購買意欲を煽って貨幣の流通速度を低下させないことで貨幣の流通量を増やすことができます。そうなるとどうなるかというと、犯罪者には都合が良い社会が出来上がります。それを防ぐのが現金以外の流動性の存在です。また銀行の存在もこれの防止に一役買っています。犯罪者の類の人間には、最も流動性の高い価値尺度である現金貨幣というものが最も都合がいいわけです。現金貨幣は交換手段として機能しているだけなら良かったが、そう都合よくはいかず価値貯蔵手段として機能し始めた時からよろしくない性質が表われはじめたということです。
江戸っ子が宵越しの金を持たないというのはただの慣習であってマクロ経済的な価値意識に基づくものでも何でもないです。江戸なんてものはまさしく穢土であって強姦天国であり、システム的に最悪の社会の典型として分かりやすいです。
最近お店にならんでいる商品で高価ではないながらもmade in Japanですごく良いものがいろいろな種類の物品でポツポツあります。そういったものを購入していくところから日本を治していけばいいんではないですかね。
信じる者は(足元を)すくわれる。
今は若い先生たちもいるのでどうだか分かりませんけど、公立小中学校の教師というのは穢多だらけです。というかマザーコンプレックスの具現体たる穢多だからこそ弱い子供たちを嬲り者にできる小学校や中学校の教師になることを望むくらいのノリです。連中は原理的には宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯と何も変わりません。彼らのうちまともな人間は5人に1人くらいしか居ません。この戦後の日本社会であの連中が行っていた(いる)ことというのは、理工学的なものでもなんでもなくて、ミクロ経済的な穢多による穢多のための社会的構図を子供に刷り込むことを狙っていただけなんですね。だから子供の頃からそれを刷り込まれる日本人は愚かな田舎者のアベラールとして生産され続けていた(いる)というのが現状です。賢いアウグスティヌスのような人間は生産されないどころかどんどん潰されていきます。だから当然の如く国は莫大な借金を抱えて社会はボロボロになりました。やっとごく最近になって少し良くなりました。
小中高の教師の言うことを子供が聞かないというのはそういった意味で必然なのであって、小中高の教師になるような人間が自分の言うことを聞かせようとして説教で言うことの内容なんてものは間違っているのが自明なんですね。何故なら彼らは自分の言うことを聞かせることを第一義としてそうった説教を行うからです。そしてそういった教師の類を相手にしないような類の子供、物事の理を理解している人間を「人間嫌いな性格の人間だ」というレッテルを貼ることによって虚構でしかない人間関係とやらに落とし込んでそして「『しかしそうではない人間も居る』という事実を(事実でないにもかかわらず事実として)提示する」という方法でまた間違った認識へ引きずり戻そうとする性格判断は有毒の極みであり有害の極みです。占いはただ参考として学べるものなので特に有害ではないです。
ミクロ経済学というのは豚の学問というよりは穢多の学問であり奴隷が現代になってやっとこさ必死になって編み出した形骸のみの学問です。ミクロ経済学者なんてものは単なる穢多奴隷のチキンです。
これは精神病やその患者に関しても同じことで、「統合失調症」であるというレッテルによって、どうとでも症状を捏造できますし、また精神科医は真相を見破られた時の誤魔化し取り繕いとして「それは妄想だ」という一言で済ませられることができてしまうということです。むしろ「それは妄想である」という形で穢多たる自分らのレイプの真相を故意に抗精神病薬の効能で腐った状態の患者に知らしめるということを行いもします。これは村上春樹さんも小説の中で書いてますけど、子供のイジメとかの場合だったら「シカトだバカ」で相手をしなければ済みますけど、連中は抗精神病薬の効能で狂った・腐った状態の頭の患者に「『自分たちは穢多であって、お前をレイプしているんだぞ』ということをわざわざご丁寧に患者に知らしめる」という形でヒビを入れるところからレイプを行い始めるんですね。これは女性一般に対する警句としても通用しますけど、ああいったゴミクズ共は甘い顔をするや否や即のぼせ上がって図に乗ってその甘い部分に付け込んで来ます。だから警察官に頼むのでも弁護士に依頼するのでもどんな手段を用いてでも問題無いんで、さっさと切り捨てないとダメです。子供の時分だとこういったことに全く無頓着であり、また言語化して省察する機会も能力も無いのでどんどん洗脳されていきます。
先の記事でも言ったように、「統合失調症は原因不明」というのは自分達の暴力を隠しつつ且つそれを肯定させるという女性的なエゴイズムの肉塊である穢多による悪質な所業であるということです。事実はそうではなくて先の記事で説明した様に「原因不明なもの因るのが統合失調症」なんで、社会的な要因において感染・伝播はするが、しっかりとまともな医師の診察を受けて投薬を始めとする治療を受けていればサッサと治ります。
で、ストーカーの中には良い方向へもっていこうとしてやってくれる人たちも居ます。そういった人たちのメッセージを全く読み取れなくなってしまっている程に統合失調症の人間は精神を病んでるんですね。当然それと連関して肉体も病んでます。見れば分かるとおり精神病患者には肥満しているその他で奇異な見た目の人間が多いです。そして自分たちが心身を病んでいるという自覚が全くありません。ちなみに見知らぬ人間が不意をついた故意の言動を発するという形で言動的なストーカーを行ってくる人間にこういった「良い方向」へもっていこうとする人間は皆無です。特に性別的な問題からして嫌がらせを好む女性であってストーカーを行ってくるようなロクでもない犬みたいな人間で、この「良い方向」へ持っていこうとする人間というのはまず居ません。つまりは女の穢多というのが最もレイプ大好きというか他者を暴力で踏み付けることが大好きな人間というわけです。
マザーコンプレックスの非常に強い強姦魔的な大江健三郎さんもビジュアル系の人も個人的な原因はどうあれコレをやられてどんどん逆方向へ増長してああなってしまったんですね。コレというのは悪い方向へ持っていこうとする特に女性的なストーキングのことです。
欧米のクリスチャンでもないこの国の人間達が「愛」がどうとかいったクサい歌を歌っていることを万人が不快に感じるのは、こういった連中が歌っているのは「穢」であって「愛」ではないということに因ります。こんな連中にこれが「愛」だとかいって歌われたらクリスチャンの人たちは大迷惑です。ビジュアル系の人はちゃんと自分が歌っているのは「穢」であって「愛」ではないといって歌っている点においてのみまだマシです。
ああいった連中の主張する「愛」には、穢多が民主主義や自由ということと無責任ということを履き違えているということが如実に表れています。
「愛」とかと同じであまりに陳腐なんで取り上げたくもないんですけど、「勝ち」「負け」とか考えてる時点で負けです。だから昔必死に日本のマスコミが喧伝していた「勝ち組」とか「負け組」とかいったものは、故意に同族たる無政府主義者の負け組を作って殺し合いの現場を広げようとする穢多の所業でしかないです。
本当にこういったモノのせいでこの日本という国は滅茶苦茶になりました。しかもこういった連中が陳腐にも民主的なアメリカ派を自称していることが多々あるので本当に始末に終えないです。先の記事で言ったように、そういったのはアメリカ的なわけでも何でもなく単なる「アメリカ好きの日本人」であり、ウザがられてイジめられる連中です。そんな連中にアメリカを自称されたらアメリカ人もオバマ大統領も大迷惑です。
ここまで極端なことを言うのもどうかと思いますけど、偉人の伝記ものを子供に読ませるのも果たしてどうかなといった感じです。「こういった人物になりたい」というのが甘えのはじまりであってそもそもの元凶だったりします。
掃除というのはアンチ男性原理と関係してます、というか女性原理の最たるものだったりします。ロールプレイングゲームで遊ぶことと掃除をすることは実に似てます。ファミコンという玩具は男性の女性化に大きな役割を買っていて、非常な社会的損失・死荷重を生み出しました。小中学校で男子児童生徒に掃除などさせるべきではないです。しかも馬鹿なことに公立学校ではわざわざホウキを使って行わせるんですね。その結果が「女のクセに~」という男性の女性への蔑視です。おそらく欧米の社会では男女差別も日本のように潜在的にという形で存在するわけではないです。つまりは女性が嫌がるという形ではそれは発露しないです。実に単純なことに結果として招かれるのは男女(機会)平等です。そもそも掃除なんてものは男女とも児童生徒に行わせずに掃除婦を雇うのが最良です。私は秋にヨーロッパのとある国へ旅行へ行った時に、住宅街を散歩していて銀杏かなにかの木の落ち葉がきれいにつもっているのを見ました。別に臭いも歩くのにも何も不都合はないです。たぶん時期が来たら地方自治体が清掃作業員を雇って一辺にきれいにするということだと思います。学校でもそういった形で学期末にでも勉強ということで全校挙げて一貫して行わせればいいんです。その方が余程子供には掃除というものがどういったものか分かりやすいですし、記憶や印象にも残ります。
そしてこういったことをとある賢い小学生が考えついて国語の授業か何かで作文に書くとします。そうすると大抵の馬鹿なでもしか先生たちはその作文に×をつけるという体たらくです。一つ一つ事態を解決することを学ばせるとかいうのであればどんどん算数の計算問題でも文章題でも解かせるのが良いです。
こういった比喩は村上春樹さんが好きそうなものでちょっとナニな感じであんまり言いたくないんですけど、ネットは何かに例えるなら謂わば炎みたいなもんです。「ユダヤ」というものを「光」と例えるなら、ディアスポラ開始以来三千年経って出来上がったいわゆる「インターネット」というのは「炎」です。
戦後の日本社会を見ると一般的に物価は上昇していってます。貨幣数量説という有名なものがありますけど、あの歴史の教科書に必ずといっていいほど出てくる兵隊さんが札の山の隣で途方に暮れている写真に見られるような第一次大戦後のドイツのような状態にでもならない限り、短期的に急激なインフレーションは起こらないので、粗悪な財・サービスを薄利多売目的で多産すると同時に何らかの手段で消費者の購買意欲を煽って貨幣の流通速度を低下させないことで貨幣の流通量を増やすことができます。そうなるとどうなるかというと、犯罪者には都合が良い社会が出来上がります。それを防ぐのが現金以外の流動性の存在です。また銀行の存在もこれの防止に一役買っています。犯罪者の類の人間には、最も流動性の高い価値尺度である現金貨幣というものが最も都合がいいわけです。現金貨幣は交換手段として機能しているだけなら良かったが、そう都合よくはいかず価値貯蔵手段として機能し始めた時からよろしくない性質が表われはじめたということです。
江戸っ子が宵越しの金を持たないというのはただの慣習であってマクロ経済的な価値意識に基づくものでも何でもないです。江戸なんてものはまさしく穢土であって強姦天国であり、システム的に最悪の社会の典型として分かりやすいです。
最近お店にならんでいる商品で高価ではないながらもmade in Japanですごく良いものがいろいろな種類の物品でポツポツあります。そういったものを購入していくところから日本を治していけばいいんではないですかね。
Xanadu
2011.12.03 Saturday
東方の楽園。非人間的なのが実情であるとするのは間違っているのであって、物事の理に適っている街、また物事の理をわきまえた人々がただ生活する場所。
学問というのは一つのモデルでありシステマティックなものです。機械というのもそれと同じであって、一つの完成されたシステムです。仮に「機械が神だなんて僕は信じない」というセリフを吐いた人間が居たとして、そのセリフも人間もナンセンスの極みでしかないです。機械も人体も一つのシステムです。つまりはこの発言をした人間は「機械が神ではないことを信じている」というわけです。そもそも現行の人類の技術でコンピュータにとある一瞬に起こる全ての事象を(計算させて)認知させて何らかの形で記録することは不可能であり、そもそもこのテーマ自体が「何言ってんの?」というお話です。
IT関連のサービスの大部分はセキュリティソフトウェアその他のものを除いてほとんどが粗悪な財・サービスの代名詞です。一目瞭然過ぎるんでいまさら言うべくも無いことなんですけど、犯罪者に都合のいい社会を作るのにそういったサービスを提供する企業は一役も二役も買ってます。そういった類の人間に収益を上げられることがGDPでは計れない大きな国家的損益となっています。経済学はあまりに人間個々人の性向を無視し過ぎているが故に過ちに陥り明確な答えを出せずにいます。ミクロ経済学なんかを参考にするのであれば、まだ心理学をマクロ経済的考察の余韻とした方がマシです。最近心理経済学(?)だか行動経済学だかの分野もあるみたいですけど、そもそも経済学というのは人間の行動を分析するものなので心理経済学は陳腐に過ぎるとして行動経済学というネーミングが形容的にダブっているものであって実に間違えてます。ちなみに「幸福度」がどうこうとかいった指標は何の問題解決にもならないお戯れです。こういったところに自分たちが馬鹿なことを行っているということに対する自覚が無いマスメディアの人間たちの認識がよく表れています。
マスコミは就職活動を必死に取りざたしてアピールしてますけど、就職なんて大学の事務の就職課へ行って後は企業見学でも企業説明会にでも行って情報を集めればいいんで、ああいったマスコミが提示する「就職活動の一般的イメージ」に踊らされると非常にマズいことになります。そもそもまともに就職なんかしてもらっては困るような不真面目な若者たちがウジャウジャそこらじゅうに居るわけです。無い方が良い職業というのも現在の日本の社会には多々あります。新聞を始めとしたマスコミ業がその筆頭であり、そもそも明治期には新聞社は穢多の賤業とされてました。そういったものが社会に禍を巻き起こすだけであると賢い昔の人々はしっかりと知っていたということであり、人がすぐ死んでしまうような時代にはマクロ経済的認識を必然のものとして人間は知っていたということです。
だから歴史上ユダヤ人は嫌われてイジめられるどころか殺されるようなことにまでなるということです。こういったことには多々しっかりした理由があるんですね。頭悪過ぎる珍走族も芸能人もどれだけ社会に禍を巻き起こせば気が済むのかということです。最近やっとああいった連中を誰も相手にしなくなりました。少なくともこの10年前後にマスコミが言っていたことは反面教師として総ざらいされうる価値があります。
自分が他人に危害を加えられることは全力で否定するくせに自分は他人に危害を加えても許されると思っている分際の、一昔前のネットで言うところのいわゆるDQNですね、こういったのは共産主義者に多いです。有名なところではドラえもんのマンガのジャイアンというのは露骨な共産主義のメタファーです。共産主義というのは枠を囲って無政府主義やろうよの人間の集いあって、その実態内部では暴力の跋扈する単なるサル山です。要するに暴力的人間が自分の暴力が肯定されうる唯一の場所として自分をお山の大将にしてくれるものを求めて虚構を作り上げたのが共産主義です。そして外部に対してはひたすら被害者を装って右翼が左翼をイジめるから助けてーというキャンペーンを行い、(偽)善人を装いその構図をひたすら子供に植え付けるということが私が子供の頃は行われてました。あのジャイアンというのは見れば分かる通り強姦魔の象徴です。アレは小学生の子供時代としてアニメで描かれているのでまだイジメという形で済んでますけど、ジャイアンは中学生になって性に目覚め始めるや否や間違いなくしずかちゃんを襲います。ちなみにその時出来杉君ならば守れますけどのび太では守れません。本当にあのドラえもんというマンガ・アニメは有害なものの代名詞でした。
低教育な人間にはあらゆる意味での強姦魔が溢れてます。低い教育レベルこそがどう考えても社会の敵です。最後の連中の逃げ口はマザーコンプレックスそのものたる人間関係という虚構であり、「無根拠にターゲットが『他人を求めている』ことにする」というのが穢多のやり方であり自分らの暴力を肯定させる為の幼稚な理由付けなわけです。
マスコミが必死に「家族」「愛」「つながり」をアピるのは、そういった形で社会的な死荷重を増やすと賤業たるマスコミは儲かると同時に穢多たる自分たちの正当性を証明できる(気分になる)からだということです。
母親的に口うるさいのと嫌がらせで口うるさく言ってくるというのとは全く違います。そういったゴミ共の低劣悪さ具合というものは下劣な表現を用いると、「ちょっとぐらいいいじゃねえかよぉ~」といったところです。自分の男性器を受け入れてくれて甘えさせてくれるお母ちゃんを求めてさまよう旅人がユダヤそのものであり共産主義者です。自身もマザーコンプレックスに漬されたマザーズ、強姦魔の群れがイコール「ユダヤ」というものです。こういった連中はは他者への甘えを存在の基調としており、非常に低劣悪で下俗です。子供の頃何でも言うことを聞いてくれる母親に甘やかされて育つとこういった欠陥人間が出来上がります。戦後になって穢多がのさばりだしていわゆる左翼がこういった教育を行ってこの国は滅茶苦茶になりました。最近少し良くなりました。
食品で言うと清涼飲料水あたりが粗悪な財の代表格です。デザートに少しくらいいいかなとは思ったりもしますけど、やはり甘いものは体にも脳にも悪いです。
野菜は本当に社会的価値の高い食物なんで、食べ過ぎるくらいにどんどん食べた方が良いです。キャベツとか本当に値段を倍にしてもいくらでも売れるんではないかというくらいに優れた食べ物です。本当に清涼飲料水なんかマイナスの価格が付いてもおかしくないくらいのもんですけど、野菜は値段が二、三倍になってもいくらでも売れるんでどんどん農家の人に作ってもらいたいくらいの良質な財です。
財の質を価格のみで計っている時点でミクロ経済学の間違えっぷりは誰の目にも明らかです。
弱者共感というのは最も弱者を苦しめる有益な手段です。というかそのことを理解せずに自らの行為に無自覚なままやたら弱者に共感して偽善心にひたって、つまり弱者を蹴落としつつ満足に浸っているという悪質な穢多があまりに多過ぎます。例えば「クマさん」がどうとかとか、熊という動物を擬人化して利用して子供を釣って騙しているだけです。そのような言動・行動に及ぶ者たち自体、自分たちが子供たちに対する釣りを行っているのだということに気付いていません。熊という種類の動物を冒涜して侮辱してます。そもそも去年の冬あたりだったと思いますけど熊が餌のドングリその他が足りなくて山から人里に下りて来ても、「わーくまさんかわいそう」程度で終わらすどころか罠を仕掛けたりあろうことか猟友会が銃で撃ち殺す始末です。ヘリでドングリを空から撒く人たちも居ましたけど、環境省の職員の人たちが指摘する通りそんなことを行ったところで樹木の堆肥になるだけであって無駄です。新聞記事もまた左の方へめくっていくに従って大嘘垂れ流しの有害な弱者共感が多々現れてきます。
人間の孤独を歌う歌とかいったものも分かりやすいほどの弱者共感を装った弱者踏み躙りです。特にこのマザーコンプレックスの強い女性的人間が多数を占める(占めていた)日本という国では、一人で居て、ええじゃないか運動に参加しない者は何故かただそれだけで攻撃されます。これはイナカ的社会を覗けば覗くほどこの傾向が強くなります。で、そういった一人で居る人間にとってはわけのわからんええじゃないか的な他者から攻撃されることが当面の最大の問題なわけです、が、何故かここでええじゃないか運動の馬鹿共はその人間が一人であることが問題であり悲しいと言って陳腐に「孤独だー」と歌に歌ったりするわけです。そしてこれは穢多に典型的なそれをそれと自覚しないどころか偽善心に基づいている凄まじいほどの弱者踏み躙りです。一般市民にとっては、孤独であることが問題である時には進んで他者とかかわろうと試みていくのであって、そうではなくてわけのわからん連中にわけもわからず攻撃されることが問題なわけです。どこのスラム国家だという話です。そこを巧妙に問題を逆転させて自分達の加害行為を正当化しようとする穢多による稚拙で幼稚な内容の試みがこういった弱者共感の自慰行為だというわけです。これは俗悪なゲームやマンガにもよく表れています。つまり一種共産主義的な遅れた社会においては陳腐にも弱者と強者が逆転しているということです。だから当然の如く社会を上手く運営することは出来ません。原爆落とされて戦争にも負けた上に、全共闘がどうだとかブサイクなことをやった挙句に、この10年振り返っても巨大掲示板や動画サイト等を見れば分かる通りまたネットで同じようなバカなことをやりました。
釣りということで言えば、私はここ何年か近所のスーパーでよく見るんですけど、わざと一般の客の前で「『こんなまずいことがありました』的なことを店員に告げている場面を見せつける」という稚拙なやり方で不安を煽るというものがあります。もちろんそういった人間の見た目はいかにも穢多っぽくブサイクな子供っぽいもので特徴的に見せつけてきます。もう今の時代、監視のシステム等はばっちりしたものでしかも万人がそれを理解していますし、あまりにそういった人間のアレが小学生レベルでわざとらし過ぎるので一発で分かるということであり、そんなくだらないことを行う人間は不安を故意に煽られない限り発生しないということです。しかも実のところその見せつけ会話の内容が万引きではなくて同じような連中が行っている「中て」についてだったりしたら笑えます。
ちなみにそれが小学生レベルであるものということで言うと、古物回収だとか廃品回収業も小学生レベルの嫌がらせです。というのは、誰もあんな廃品回収の軽トラックなんかに自分のゴミを渡さないということです。当然廃品回収業者側もそんなことは周知のこととして理解しています。その証拠に強い雨の日でも何故か裸のトラックで騒音スピーカーを垂れ流しながら回ってきます。もう回されちゃってんですね。つまり、連中は廃品回収によってダイレクトに収益をあげているというわけでは決してなく、騒音を垂れ流す業務を何者かから負っていると考えるのが自然だということになってきます。「おーきなものやぁーおもたいものなどぉーなんでもかいしゅういたしまあす」「わからないことがありましたらぁーおきがるにぃーごそうだんくださぁーい」というこのひらがなしか読めないような低知能のゴミ騒音からまさに象徴的に日本社会における死荷重が始まっていると言っても過言ではないです。
ビジュアル系とかでも陳腐にそれが表れてるんで分かりやすいですけど、不安を煽るというやり方が穢多のやり口なんですね。私は最近某アニメーション監督が「憎しみでもいいから人を思ってくれよぉー」とホザいている夢を見たんですけど、夢を見ながらその陳腐さに眠りながら笑いが止まらずに呼吸困難に陥りそうになりました。ちなみに他人を思う憎しみが止まらないのは精神分裂病(統合失調症)の主症状である被害妄想です。
以前のストーカーは、それがストーカーであるとは分からないように微妙にストーカーを行っていたんですけど、最近はとうとう露骨にそれであると分かる様なストーカーを行ってくるようになって節操が無くなり始めました。
前から居ましたけど露骨にバイクや自動車を使うのが居ます。雨曇りの天気の日の夕方にブサイクな日本人がサングラスをかけてオープンカーで爆音立てながら暴走していくんですね。高校の時にスボンずり下げたりチャラチャラした格好でチョロチョロしているのを「貴様みたいのが居るから日本がダメになるんだ!」とかやたらうるさく注意する先生居ましたけど、ああいう先生の気持ちも言っている事も今はよく理解できます。本当にあのバイクや自動車で騒音を立てて走る子豚共は社会的公害の代名詞なんで警察の人になんとかしてもらいたいとお願いしたいところです。
新聞配達のカブとかも露骨に騒音が五月蝿いんですけど、アレは普通に運転してれば騒音なんか立てずに走行できるのにワザとローギアでエンジン回して騒音立てて走るんですね。後はブレーキの利きを悪くしてキーッという騒音が立ちやすい様に故意にやるんですね。しかも夜中の2時3時にブイブイ鳴らすんですね。こういった「誰の利益にもならない上に損益になるどころか自らにとっても利益とならない上に損益となる行動」を取る穢多が少なくとも現代のこの日本社会には存在する様です。
他には当て屋というのが居ます。これは昔ありがちだったような安いマンガとかに出てきそうなベタな路線的な自動車を走行させている最中にというものではなくて、歩行中や施設内でぶつけてくるというものがあります。例えばダンボールの大きな荷物を持って体をひねらせたところを狙ってぶつけてくるのが居るんですね。私が個人的に経験した最悪のケースでは、気持ちの悪い陰惨な親子連れで、親が10歳くらいの子供をそのダンボールに頭をぶつける様に上手く中ててきたというのがあります。他には人が一人しか通れないようなスペースで故意にゆっくり歩くというものがあったりします。私が住んでいるのは首都圏ですけど、ここ何年かで急激に現れてきたので、田舎から頑張って出張ってきてるんじゃないの、ということです。私は田舎が好きですし、そういった土地柄には親切な人が多々いるのも知っているんですけど、いわゆる「田舎者」にはそういったベタな不良人間が多々いるのでどうしてもそこらへんの偏見を持ってしまいます。本当に共産主義的な気持ちの悪いアレ物による治安の悪化はここ近年凄まじいものでした。
ああいった不良少年をはじめとする不良人間の行動原理というものを鑑みるに、彼らは見捨てられることに対する恐怖感からあの行動に駆り立てられているということです。社会に対する恐怖・不安・不信から彼らはあらゆる形での非行に走ります。ネットでは掲示板あたりを見ればそれが言語化されて載っているので非常に分かりやすいです。そして彼らは若い女がそうであるように共感してくれる仲間を増やそうとひたすら他者の不安を煽ります。若い女にアイドルタレントやロックミュージシャンの追っかけが多かったのは、そういった「不安を煽り煽られしかしそこに他人がいる仮初めの安心感」を安逸に求める単純な心理(真理)からです。
マザコン馬鹿教育関連で言うと、「人のいいところに着目する」なんてものは絶対にダメです。特にそんなものを意識させようと無理強いしても、子供の目は正直なので大いに逆効果です。特に子供にはどんどん他人の欠点を自覚させてそれを教師打ち明けるかたちで指摘させていって、よっぽとまともな人間とだけ付き合うように仕向けるとおそらく効果的です。ちなみに人の悪いところに着目して当人に対してその欠点をいちいちダイレクトに指摘するなんてものは最悪の行いなので絶対にやらせたらダメです。例えば図書館等の公の機関で「お客様」という呼びかけを来館者に対して行う人間が居るんですけど、これは他者に対する悪点指摘と同じことをヤってしまってるパターンです。公共の図書館を利用する人間はその機関の客ではありません。こういったTPOをわきまえられない人間が日本人にはあまりに多すぎるということです。こういったところにもマザコン教育の悪影響が多々現れてます。
人間集団のうち半分はサクラだと考えると物事が合理的に運んでいきます。つまりは人間のうち半分は他者を貶めることをその存在の第一義としているような穢多です。ちなみにこれを学校の勉強の偏差値と勘違いするとバカなことになります。近年の新聞なんか見れば分かりますけど、最初の3面くらいまでを除いてもう犯罪者やイナカの悪人御用達の内容です。おそらく今世紀に入ってからですけど、ああいうロクでもないのが必死に頑張りだして、ネットとかでもそうですけど、叩き合いながら(叩き合いに見えながら)コラボってるんですね。
歴史を鑑みるに、比較というものはドイツの必然です。ドイツの文学作品を読むとなんとなーくですがそういったものが分かりやすかったりします。その分裂と後進性は、日本の現代の馬鹿社会にも当てはまります。近代におけるドイツの工業化とその下地の存在は、対照的に20世紀後半の戦後の日本のいわゆる「廃墟から立ち上がる」的な、マザーコンプレックスを一見して為し得る状況に酷似しています。が、当然のことながら前者はほぼ成功し後者は失敗しました。原因は簡単であり、前者は唯物的で現実に根ざしたものであり、後者はあやしげな宗教の教義の様に実体が無くあやふやな幻覚に過ぎないからです。皮肉にもさらにそのことが分かりやすいのは、同時代の日本では比べるまでもなく江戸(穢土)が崩壊しかかっていたという事実です。
ちなみにマルサスは史上最大の単細胞です。「人間は性欲が湧き起こるや否や即女とヤる」と言っているのがマルサスです。凄まじくアンチクライストな上に馬鹿さを極めてます。よくこんなバカが歴史上に残ったものだと思います。男が相手だとかそういった特異な趣味を持つ人は除いて、10代や20代の若い男性でこれを読む人がいたら是非とも言っておきたいことがあるんですけど、セックスさえしなければ大丈夫です。レイプなんてのはもっての他ですけど、とにかく女と性交さえしなければ安全です。童貞で何の問題も無い、それどころか童貞だったらば大丈夫です。童貞差別なんてのはマスコミの穢多豚畜生共が作り出した釣りのための幻想です。学校の同級生だろうがそこらへんの女だろうが、女と拘るだけで脅しに使われます。これは用心し過ぎでもなんでもなくてタチの悪い連中というのはそういったもんなんで、しゃべって馴れ合うのも止めた方がいいです。私の場合は自分が女嫌いだというのもありますけど、酒の付き合いで店でとか以外で高校・大学と通して女としゃべったのは20分に満たないです。私は同性愛者ではないですけれど、これについてはけっこう誇りに思ってます。
今の日本では選挙における地域間格差による一票の比重の格差というものがありますけど、時々新聞でそれの是正についての胡散臭さ丸出しの馬鹿宣伝が載ってますけどあんなもの無くしたら犯罪者にとって都合が良くなるだけです。本当にナメてます。資本主義というものはどう頑張っても結局犯罪に結びかざるを得ないということを必死に説明してんのかこのバカ共は、という話です。まさに愚かしい単細胞なミクロ経済的女性原理を地でイってます。
ミクロ経済学に象徴される様に、イジメられっ子というのは大人になってから絶対に何らかの他者をイジめることに走ります。私はそういった子供滲みた大人を何人も見ました。
そういった意味でも女性にはイジメ好きが多いです。女の笑顔ほど嘘に満ちているものは無いです。
他人に自分の言うことを聞かせることに快感を感じそれを行動原理の第一義とする下等な人間つまり穢多が特に1945年以後の日本社会で民主主義の名の下にそれを利用して自由と無責任を(故意に)履き違えてのさばり始めたということです。
私も精神科医による扱いを受けてからよく分かったんですけど、社会的に弱い人たちというのは本当になぶりものにされるんですね。特に封建主義的な田舎に居住しているような弱い人たちは本当に気が弱くて何も言えない、それほどの遅れたイナカがまだ日本にあるということを知りました。私も抗精神病薬(主に抗精神病薬リスパダール)による口封じをカマされてからそういったことをよく理解しました。そりゃこんなもん我関せずで見過ごしてたら洒落にならないどころか最悪だということなんで、特に警察の人たちや弁護士の人たちには絶対にそういった人たちをなんとか助けてもらえるようお願いしないと、本当にどうしようもないという国になっていきます。治安がどうなっているんだという話です。こういった流れでいくとこの国はスラムにされます。
よく出来た文学作品というのは非常にシステマティックなものであり工学的です。だから自然科学と人文科学というのは実に近いところにあります。経済学は自然科学寄りの社会科学です。で、人文科学寄りの社会科学、つまり社会学あたりがアナです。地雷です。女流の社会学の本なんて読むとバカ丸出しなことが多々書いてあります。文学部社会学科なんて一番行ってはいけないところです。逆に文化人類学や経済史や地理学や考古学というのは人文科学であって結構いいところ押さえてます。限界生産力逓減により少なくともこの2011年時点でギリギリまで成長した先進国では、次に文化人類学的なものがモノを言い出します。ドイツ文学やフランス文学やその他の英文日文なんかもそういったシステマティックな観点から考え論じるのであれば大いに価値のあるものっぽいです。だから大塚英志さんの物語論あたりは非常に価値ある面白いものだと思います。
太宰治の小説は文学でも何でもなくただの穢多日記です。偽善性を取り繕って表面的には良さげに見えるだけです。川端康成の「雪国」には駒子という名で日本人のブザマさが小気味よいくらいにありありと描かれています。「さよならだけが本当だ」というのは馬鹿者の言葉です。
学問というのは一つのモデルでありシステマティックなものです。機械というのもそれと同じであって、一つの完成されたシステムです。仮に「機械が神だなんて僕は信じない」というセリフを吐いた人間が居たとして、そのセリフも人間もナンセンスの極みでしかないです。機械も人体も一つのシステムです。つまりはこの発言をした人間は「機械が神ではないことを信じている」というわけです。そもそも現行の人類の技術でコンピュータにとある一瞬に起こる全ての事象を(計算させて)認知させて何らかの形で記録することは不可能であり、そもそもこのテーマ自体が「何言ってんの?」というお話です。
IT関連のサービスの大部分はセキュリティソフトウェアその他のものを除いてほとんどが粗悪な財・サービスの代名詞です。一目瞭然過ぎるんでいまさら言うべくも無いことなんですけど、犯罪者に都合のいい社会を作るのにそういったサービスを提供する企業は一役も二役も買ってます。そういった類の人間に収益を上げられることがGDPでは計れない大きな国家的損益となっています。経済学はあまりに人間個々人の性向を無視し過ぎているが故に過ちに陥り明確な答えを出せずにいます。ミクロ経済学なんかを参考にするのであれば、まだ心理学をマクロ経済的考察の余韻とした方がマシです。最近心理経済学(?)だか行動経済学だかの分野もあるみたいですけど、そもそも経済学というのは人間の行動を分析するものなので心理経済学は陳腐に過ぎるとして行動経済学というネーミングが形容的にダブっているものであって実に間違えてます。ちなみに「幸福度」がどうこうとかいった指標は何の問題解決にもならないお戯れです。こういったところに自分たちが馬鹿なことを行っているということに対する自覚が無いマスメディアの人間たちの認識がよく表れています。
マスコミは就職活動を必死に取りざたしてアピールしてますけど、就職なんて大学の事務の就職課へ行って後は企業見学でも企業説明会にでも行って情報を集めればいいんで、ああいったマスコミが提示する「就職活動の一般的イメージ」に踊らされると非常にマズいことになります。そもそもまともに就職なんかしてもらっては困るような不真面目な若者たちがウジャウジャそこらじゅうに居るわけです。無い方が良い職業というのも現在の日本の社会には多々あります。新聞を始めとしたマスコミ業がその筆頭であり、そもそも明治期には新聞社は穢多の賤業とされてました。そういったものが社会に禍を巻き起こすだけであると賢い昔の人々はしっかりと知っていたということであり、人がすぐ死んでしまうような時代にはマクロ経済的認識を必然のものとして人間は知っていたということです。
だから歴史上ユダヤ人は嫌われてイジめられるどころか殺されるようなことにまでなるということです。こういったことには多々しっかりした理由があるんですね。頭悪過ぎる珍走族も芸能人もどれだけ社会に禍を巻き起こせば気が済むのかということです。最近やっとああいった連中を誰も相手にしなくなりました。少なくともこの10年前後にマスコミが言っていたことは反面教師として総ざらいされうる価値があります。
自分が他人に危害を加えられることは全力で否定するくせに自分は他人に危害を加えても許されると思っている分際の、一昔前のネットで言うところのいわゆるDQNですね、こういったのは共産主義者に多いです。有名なところではドラえもんのマンガのジャイアンというのは露骨な共産主義のメタファーです。共産主義というのは枠を囲って無政府主義やろうよの人間の集いあって、その実態内部では暴力の跋扈する単なるサル山です。要するに暴力的人間が自分の暴力が肯定されうる唯一の場所として自分をお山の大将にしてくれるものを求めて虚構を作り上げたのが共産主義です。そして外部に対してはひたすら被害者を装って右翼が左翼をイジめるから助けてーというキャンペーンを行い、(偽)善人を装いその構図をひたすら子供に植え付けるということが私が子供の頃は行われてました。あのジャイアンというのは見れば分かる通り強姦魔の象徴です。アレは小学生の子供時代としてアニメで描かれているのでまだイジメという形で済んでますけど、ジャイアンは中学生になって性に目覚め始めるや否や間違いなくしずかちゃんを襲います。ちなみにその時出来杉君ならば守れますけどのび太では守れません。本当にあのドラえもんというマンガ・アニメは有害なものの代名詞でした。
低教育な人間にはあらゆる意味での強姦魔が溢れてます。低い教育レベルこそがどう考えても社会の敵です。最後の連中の逃げ口はマザーコンプレックスそのものたる人間関係という虚構であり、「無根拠にターゲットが『他人を求めている』ことにする」というのが穢多のやり方であり自分らの暴力を肯定させる為の幼稚な理由付けなわけです。
マスコミが必死に「家族」「愛」「つながり」をアピるのは、そういった形で社会的な死荷重を増やすと賤業たるマスコミは儲かると同時に穢多たる自分たちの正当性を証明できる(気分になる)からだということです。
母親的に口うるさいのと嫌がらせで口うるさく言ってくるというのとは全く違います。そういったゴミ共の低劣悪さ具合というものは下劣な表現を用いると、「ちょっとぐらいいいじゃねえかよぉ~」といったところです。自分の男性器を受け入れてくれて甘えさせてくれるお母ちゃんを求めてさまよう旅人がユダヤそのものであり共産主義者です。自身もマザーコンプレックスに漬されたマザーズ、強姦魔の群れがイコール「ユダヤ」というものです。こういった連中はは他者への甘えを存在の基調としており、非常に低劣悪で下俗です。子供の頃何でも言うことを聞いてくれる母親に甘やかされて育つとこういった欠陥人間が出来上がります。戦後になって穢多がのさばりだしていわゆる左翼がこういった教育を行ってこの国は滅茶苦茶になりました。最近少し良くなりました。
食品で言うと清涼飲料水あたりが粗悪な財の代表格です。デザートに少しくらいいいかなとは思ったりもしますけど、やはり甘いものは体にも脳にも悪いです。
野菜は本当に社会的価値の高い食物なんで、食べ過ぎるくらいにどんどん食べた方が良いです。キャベツとか本当に値段を倍にしてもいくらでも売れるんではないかというくらいに優れた食べ物です。本当に清涼飲料水なんかマイナスの価格が付いてもおかしくないくらいのもんですけど、野菜は値段が二、三倍になってもいくらでも売れるんでどんどん農家の人に作ってもらいたいくらいの良質な財です。
財の質を価格のみで計っている時点でミクロ経済学の間違えっぷりは誰の目にも明らかです。
弱者共感というのは最も弱者を苦しめる有益な手段です。というかそのことを理解せずに自らの行為に無自覚なままやたら弱者に共感して偽善心にひたって、つまり弱者を蹴落としつつ満足に浸っているという悪質な穢多があまりに多過ぎます。例えば「クマさん」がどうとかとか、熊という動物を擬人化して利用して子供を釣って騙しているだけです。そのような言動・行動に及ぶ者たち自体、自分たちが子供たちに対する釣りを行っているのだということに気付いていません。熊という種類の動物を冒涜して侮辱してます。そもそも去年の冬あたりだったと思いますけど熊が餌のドングリその他が足りなくて山から人里に下りて来ても、「わーくまさんかわいそう」程度で終わらすどころか罠を仕掛けたりあろうことか猟友会が銃で撃ち殺す始末です。ヘリでドングリを空から撒く人たちも居ましたけど、環境省の職員の人たちが指摘する通りそんなことを行ったところで樹木の堆肥になるだけであって無駄です。新聞記事もまた左の方へめくっていくに従って大嘘垂れ流しの有害な弱者共感が多々現れてきます。
人間の孤独を歌う歌とかいったものも分かりやすいほどの弱者共感を装った弱者踏み躙りです。特にこのマザーコンプレックスの強い女性的人間が多数を占める(占めていた)日本という国では、一人で居て、ええじゃないか運動に参加しない者は何故かただそれだけで攻撃されます。これはイナカ的社会を覗けば覗くほどこの傾向が強くなります。で、そういった一人で居る人間にとってはわけのわからんええじゃないか的な他者から攻撃されることが当面の最大の問題なわけです、が、何故かここでええじゃないか運動の馬鹿共はその人間が一人であることが問題であり悲しいと言って陳腐に「孤独だー」と歌に歌ったりするわけです。そしてこれは穢多に典型的なそれをそれと自覚しないどころか偽善心に基づいている凄まじいほどの弱者踏み躙りです。一般市民にとっては、孤独であることが問題である時には進んで他者とかかわろうと試みていくのであって、そうではなくてわけのわからん連中にわけもわからず攻撃されることが問題なわけです。どこのスラム国家だという話です。そこを巧妙に問題を逆転させて自分達の加害行為を正当化しようとする穢多による稚拙で幼稚な内容の試みがこういった弱者共感の自慰行為だというわけです。これは俗悪なゲームやマンガにもよく表れています。つまり一種共産主義的な遅れた社会においては陳腐にも弱者と強者が逆転しているということです。だから当然の如く社会を上手く運営することは出来ません。原爆落とされて戦争にも負けた上に、全共闘がどうだとかブサイクなことをやった挙句に、この10年振り返っても巨大掲示板や動画サイト等を見れば分かる通りまたネットで同じようなバカなことをやりました。
釣りということで言えば、私はここ何年か近所のスーパーでよく見るんですけど、わざと一般の客の前で「『こんなまずいことがありました』的なことを店員に告げている場面を見せつける」という稚拙なやり方で不安を煽るというものがあります。もちろんそういった人間の見た目はいかにも穢多っぽくブサイクな子供っぽいもので特徴的に見せつけてきます。もう今の時代、監視のシステム等はばっちりしたものでしかも万人がそれを理解していますし、あまりにそういった人間のアレが小学生レベルでわざとらし過ぎるので一発で分かるということであり、そんなくだらないことを行う人間は不安を故意に煽られない限り発生しないということです。しかも実のところその見せつけ会話の内容が万引きではなくて同じような連中が行っている「中て」についてだったりしたら笑えます。
ちなみにそれが小学生レベルであるものということで言うと、古物回収だとか廃品回収業も小学生レベルの嫌がらせです。というのは、誰もあんな廃品回収の軽トラックなんかに自分のゴミを渡さないということです。当然廃品回収業者側もそんなことは周知のこととして理解しています。その証拠に強い雨の日でも何故か裸のトラックで騒音スピーカーを垂れ流しながら回ってきます。もう回されちゃってんですね。つまり、連中は廃品回収によってダイレクトに収益をあげているというわけでは決してなく、騒音を垂れ流す業務を何者かから負っていると考えるのが自然だということになってきます。「おーきなものやぁーおもたいものなどぉーなんでもかいしゅういたしまあす」「わからないことがありましたらぁーおきがるにぃーごそうだんくださぁーい」というこのひらがなしか読めないような低知能のゴミ騒音からまさに象徴的に日本社会における死荷重が始まっていると言っても過言ではないです。
ビジュアル系とかでも陳腐にそれが表れてるんで分かりやすいですけど、不安を煽るというやり方が穢多のやり口なんですね。私は最近某アニメーション監督が「憎しみでもいいから人を思ってくれよぉー」とホザいている夢を見たんですけど、夢を見ながらその陳腐さに眠りながら笑いが止まらずに呼吸困難に陥りそうになりました。ちなみに他人を思う憎しみが止まらないのは精神分裂病(統合失調症)の主症状である被害妄想です。
以前のストーカーは、それがストーカーであるとは分からないように微妙にストーカーを行っていたんですけど、最近はとうとう露骨にそれであると分かる様なストーカーを行ってくるようになって節操が無くなり始めました。
前から居ましたけど露骨にバイクや自動車を使うのが居ます。雨曇りの天気の日の夕方にブサイクな日本人がサングラスをかけてオープンカーで爆音立てながら暴走していくんですね。高校の時にスボンずり下げたりチャラチャラした格好でチョロチョロしているのを「貴様みたいのが居るから日本がダメになるんだ!」とかやたらうるさく注意する先生居ましたけど、ああいう先生の気持ちも言っている事も今はよく理解できます。本当にあのバイクや自動車で騒音を立てて走る子豚共は社会的公害の代名詞なんで警察の人になんとかしてもらいたいとお願いしたいところです。
新聞配達のカブとかも露骨に騒音が五月蝿いんですけど、アレは普通に運転してれば騒音なんか立てずに走行できるのにワザとローギアでエンジン回して騒音立てて走るんですね。後はブレーキの利きを悪くしてキーッという騒音が立ちやすい様に故意にやるんですね。しかも夜中の2時3時にブイブイ鳴らすんですね。こういった「誰の利益にもならない上に損益になるどころか自らにとっても利益とならない上に損益となる行動」を取る穢多が少なくとも現代のこの日本社会には存在する様です。
他には当て屋というのが居ます。これは昔ありがちだったような安いマンガとかに出てきそうなベタな路線的な自動車を走行させている最中にというものではなくて、歩行中や施設内でぶつけてくるというものがあります。例えばダンボールの大きな荷物を持って体をひねらせたところを狙ってぶつけてくるのが居るんですね。私が個人的に経験した最悪のケースでは、気持ちの悪い陰惨な親子連れで、親が10歳くらいの子供をそのダンボールに頭をぶつける様に上手く中ててきたというのがあります。他には人が一人しか通れないようなスペースで故意にゆっくり歩くというものがあったりします。私が住んでいるのは首都圏ですけど、ここ何年かで急激に現れてきたので、田舎から頑張って出張ってきてるんじゃないの、ということです。私は田舎が好きですし、そういった土地柄には親切な人が多々いるのも知っているんですけど、いわゆる「田舎者」にはそういったベタな不良人間が多々いるのでどうしてもそこらへんの偏見を持ってしまいます。本当に共産主義的な気持ちの悪いアレ物による治安の悪化はここ近年凄まじいものでした。
ああいった不良少年をはじめとする不良人間の行動原理というものを鑑みるに、彼らは見捨てられることに対する恐怖感からあの行動に駆り立てられているということです。社会に対する恐怖・不安・不信から彼らはあらゆる形での非行に走ります。ネットでは掲示板あたりを見ればそれが言語化されて載っているので非常に分かりやすいです。そして彼らは若い女がそうであるように共感してくれる仲間を増やそうとひたすら他者の不安を煽ります。若い女にアイドルタレントやロックミュージシャンの追っかけが多かったのは、そういった「不安を煽り煽られしかしそこに他人がいる仮初めの安心感」を安逸に求める単純な心理(真理)からです。
マザコン馬鹿教育関連で言うと、「人のいいところに着目する」なんてものは絶対にダメです。特にそんなものを意識させようと無理強いしても、子供の目は正直なので大いに逆効果です。特に子供にはどんどん他人の欠点を自覚させてそれを教師打ち明けるかたちで指摘させていって、よっぽとまともな人間とだけ付き合うように仕向けるとおそらく効果的です。ちなみに人の悪いところに着目して当人に対してその欠点をいちいちダイレクトに指摘するなんてものは最悪の行いなので絶対にやらせたらダメです。例えば図書館等の公の機関で「お客様」という呼びかけを来館者に対して行う人間が居るんですけど、これは他者に対する悪点指摘と同じことをヤってしまってるパターンです。公共の図書館を利用する人間はその機関の客ではありません。こういったTPOをわきまえられない人間が日本人にはあまりに多すぎるということです。こういったところにもマザコン教育の悪影響が多々現れてます。
人間集団のうち半分はサクラだと考えると物事が合理的に運んでいきます。つまりは人間のうち半分は他者を貶めることをその存在の第一義としているような穢多です。ちなみにこれを学校の勉強の偏差値と勘違いするとバカなことになります。近年の新聞なんか見れば分かりますけど、最初の3面くらいまでを除いてもう犯罪者やイナカの悪人御用達の内容です。おそらく今世紀に入ってからですけど、ああいうロクでもないのが必死に頑張りだして、ネットとかでもそうですけど、叩き合いながら(叩き合いに見えながら)コラボってるんですね。
歴史を鑑みるに、比較というものはドイツの必然です。ドイツの文学作品を読むとなんとなーくですがそういったものが分かりやすかったりします。その分裂と後進性は、日本の現代の馬鹿社会にも当てはまります。近代におけるドイツの工業化とその下地の存在は、対照的に20世紀後半の戦後の日本のいわゆる「廃墟から立ち上がる」的な、マザーコンプレックスを一見して為し得る状況に酷似しています。が、当然のことながら前者はほぼ成功し後者は失敗しました。原因は簡単であり、前者は唯物的で現実に根ざしたものであり、後者はあやしげな宗教の教義の様に実体が無くあやふやな幻覚に過ぎないからです。皮肉にもさらにそのことが分かりやすいのは、同時代の日本では比べるまでもなく江戸(穢土)が崩壊しかかっていたという事実です。
ちなみにマルサスは史上最大の単細胞です。「人間は性欲が湧き起こるや否や即女とヤる」と言っているのがマルサスです。凄まじくアンチクライストな上に馬鹿さを極めてます。よくこんなバカが歴史上に残ったものだと思います。男が相手だとかそういった特異な趣味を持つ人は除いて、10代や20代の若い男性でこれを読む人がいたら是非とも言っておきたいことがあるんですけど、セックスさえしなければ大丈夫です。レイプなんてのはもっての他ですけど、とにかく女と性交さえしなければ安全です。童貞で何の問題も無い、それどころか童貞だったらば大丈夫です。童貞差別なんてのはマスコミの穢多豚畜生共が作り出した釣りのための幻想です。学校の同級生だろうがそこらへんの女だろうが、女と拘るだけで脅しに使われます。これは用心し過ぎでもなんでもなくてタチの悪い連中というのはそういったもんなんで、しゃべって馴れ合うのも止めた方がいいです。私の場合は自分が女嫌いだというのもありますけど、酒の付き合いで店でとか以外で高校・大学と通して女としゃべったのは20分に満たないです。私は同性愛者ではないですけれど、これについてはけっこう誇りに思ってます。
今の日本では選挙における地域間格差による一票の比重の格差というものがありますけど、時々新聞でそれの是正についての胡散臭さ丸出しの馬鹿宣伝が載ってますけどあんなもの無くしたら犯罪者にとって都合が良くなるだけです。本当にナメてます。資本主義というものはどう頑張っても結局犯罪に結びかざるを得ないということを必死に説明してんのかこのバカ共は、という話です。まさに愚かしい単細胞なミクロ経済的女性原理を地でイってます。
ミクロ経済学に象徴される様に、イジメられっ子というのは大人になってから絶対に何らかの他者をイジめることに走ります。私はそういった子供滲みた大人を何人も見ました。
そういった意味でも女性にはイジメ好きが多いです。女の笑顔ほど嘘に満ちているものは無いです。
他人に自分の言うことを聞かせることに快感を感じそれを行動原理の第一義とする下等な人間つまり穢多が特に1945年以後の日本社会で民主主義の名の下にそれを利用して自由と無責任を(故意に)履き違えてのさばり始めたということです。
私も精神科医による扱いを受けてからよく分かったんですけど、社会的に弱い人たちというのは本当になぶりものにされるんですね。特に封建主義的な田舎に居住しているような弱い人たちは本当に気が弱くて何も言えない、それほどの遅れたイナカがまだ日本にあるということを知りました。私も抗精神病薬(主に抗精神病薬リスパダール)による口封じをカマされてからそういったことをよく理解しました。そりゃこんなもん我関せずで見過ごしてたら洒落にならないどころか最悪だということなんで、特に警察の人たちや弁護士の人たちには絶対にそういった人たちをなんとか助けてもらえるようお願いしないと、本当にどうしようもないという国になっていきます。治安がどうなっているんだという話です。こういった流れでいくとこの国はスラムにされます。
よく出来た文学作品というのは非常にシステマティックなものであり工学的です。だから自然科学と人文科学というのは実に近いところにあります。経済学は自然科学寄りの社会科学です。で、人文科学寄りの社会科学、つまり社会学あたりがアナです。地雷です。女流の社会学の本なんて読むとバカ丸出しなことが多々書いてあります。文学部社会学科なんて一番行ってはいけないところです。逆に文化人類学や経済史や地理学や考古学というのは人文科学であって結構いいところ押さえてます。限界生産力逓減により少なくともこの2011年時点でギリギリまで成長した先進国では、次に文化人類学的なものがモノを言い出します。ドイツ文学やフランス文学やその他の英文日文なんかもそういったシステマティックな観点から考え論じるのであれば大いに価値のあるものっぽいです。だから大塚英志さんの物語論あたりは非常に価値ある面白いものだと思います。
太宰治の小説は文学でも何でもなくただの穢多日記です。偽善性を取り繕って表面的には良さげに見えるだけです。川端康成の「雪国」には駒子という名で日本人のブザマさが小気味よいくらいにありありと描かれています。「さよならだけが本当だ」というのは馬鹿者の言葉です。
Aconitum napellus
2011.12.09 Friday
ユダヤトリカブト。
xさんを仮定します。
xさんの事象の認知度量衡yを仮定します。
xさんが経験した状況A、状況Bを仮定します。
x(A)=Ay、x(B)=By がとりあえず成り立つっぽいです。
ストーカーはこれらを足し合わせることを試みてきます。
被害をXとすると、
X=x(A)+x(B)=Ay+By=(A+B)y となります。
で、
A+B+…を具体的に言語化して記述することで認知度量衡yが微妙に歪められながら自分の中に残ります。yを具体的に形象化その他の何らかの方法で示すことは不可能です。
これは偏見だとか差別だとか被害妄想のタネになるので行ってはいけないです。
そもそもこれが主たるストーカーの狙いなわけです。悪質な精神科医はこれを狙って故意に行います。先の記事で書いた、正式なその場の診療医ではない「先生の診療を受けていただく前にちょっとお話をうかがいまーす」の役割を負った人間が見本を見せつけるという形で故意にそれを行ってきます。そして被害妄想で頭がいっぱいの患者はそれが理想的である像であるかのように錯覚させられ思い込まされて、どんどん被害妄想や偏見意識や差別感情が自分の中で増長していきます。ヒットラーが最もこれの分かりやすい典型例です。もちろん精神科医達はこれらを全て理解した上でこういったことを行ってきます、統合失調症という病名を掌っているわけですから。藪医者はもうかる、というお話。
昔のおばあさんおじいさんで「人の悪口を言ってはいけない」という人たちが居ましたけど、おそらくその理由はこういったことです。
AやBやCにまつわってyを抽象的な言葉で書き記すということを行うと、AやBやCから感慨が奪われて純粋な記憶そのものとして残るので良いです。
「~は……だと思う」というのは一見良さげにも見えますけど、yをグラグラ揺らしながら暴走させるだけなのでたぶんまったくよろしくないです。つまりはなんでもかんでも書き記してそこから具体的事象の記録だけをpick upするなんてことは絶対に行ってはいけないことです。そんなもの間違いなく歪んで出てきます。そしてそれを何らかの性向にあてはめるなんてことは絶対に行ってはいけないことです。無根拠な性向の正当性を助長するためのツールに具体的事象が使われるという事態になるただそれだけだけだからです。
この意味でも数学の勉強は大切であり有用です。というか勉強といったら数学に限ります。だから子供時代からして数学が出来ない人間は落下していきますし、そういった人々には「ちくしょうバカにしやがって」のアレが多いということです。数学の先生や数学ができる人は一見して阿呆っぽく見えてもほぼ間違いなく賢いです。
子供の頃算数とか数学が苦手で敬遠していたという人は大人になってからでも遅くはないので中学生用の数学の問題集だとかをやってみてもぜんぜん良さそうです。子供さんがいらっしゃる人は子供と一緒に算数のドリルなんかやってみてもいいんじゃないですかね。
ストーカーの中には有用なことをやってくれる人も居るんですね。これは勉強でもおそらくスポーツとかでもなんでもそうですけど、ストレスは敵にも味方にもなるということです。
ストレスの見方、みたいな。
そして、こういったことはが分かりだすと、yは一定になります。被害妄想もどんどん減っていきます。だから何か危害を加えられていると思ったらまず最初に精神科ではなくて警察へ行った方がいいです。
xさんを仮定します。
xさんの事象の認知度量衡yを仮定します。
xさんが経験した状況A、状況Bを仮定します。
x(A)=Ay、x(B)=By がとりあえず成り立つっぽいです。
ストーカーはこれらを足し合わせることを試みてきます。
被害をXとすると、
X=x(A)+x(B)=Ay+By=(A+B)y となります。
で、
A+B+…を具体的に言語化して記述することで認知度量衡yが微妙に歪められながら自分の中に残ります。yを具体的に形象化その他の何らかの方法で示すことは不可能です。
これは偏見だとか差別だとか被害妄想のタネになるので行ってはいけないです。
そもそもこれが主たるストーカーの狙いなわけです。悪質な精神科医はこれを狙って故意に行います。先の記事で書いた、正式なその場の診療医ではない「先生の診療を受けていただく前にちょっとお話をうかがいまーす」の役割を負った人間が見本を見せつけるという形で故意にそれを行ってきます。そして被害妄想で頭がいっぱいの患者はそれが理想的である像であるかのように錯覚させられ思い込まされて、どんどん被害妄想や偏見意識や差別感情が自分の中で増長していきます。ヒットラーが最もこれの分かりやすい典型例です。もちろん精神科医達はこれらを全て理解した上でこういったことを行ってきます、統合失調症という病名を掌っているわけですから。藪医者はもうかる、というお話。
昔のおばあさんおじいさんで「人の悪口を言ってはいけない」という人たちが居ましたけど、おそらくその理由はこういったことです。
AやBやCにまつわってyを抽象的な言葉で書き記すということを行うと、AやBやCから感慨が奪われて純粋な記憶そのものとして残るので良いです。
「~は……だと思う」というのは一見良さげにも見えますけど、yをグラグラ揺らしながら暴走させるだけなのでたぶんまったくよろしくないです。つまりはなんでもかんでも書き記してそこから具体的事象の記録だけをpick upするなんてことは絶対に行ってはいけないことです。そんなもの間違いなく歪んで出てきます。そしてそれを何らかの性向にあてはめるなんてことは絶対に行ってはいけないことです。無根拠な性向の正当性を助長するためのツールに具体的事象が使われるという事態になるただそれだけだけだからです。
この意味でも数学の勉強は大切であり有用です。というか勉強といったら数学に限ります。だから子供時代からして数学が出来ない人間は落下していきますし、そういった人々には「ちくしょうバカにしやがって」のアレが多いということです。数学の先生や数学ができる人は一見して阿呆っぽく見えてもほぼ間違いなく賢いです。
子供の頃算数とか数学が苦手で敬遠していたという人は大人になってからでも遅くはないので中学生用の数学の問題集だとかをやってみてもぜんぜん良さそうです。子供さんがいらっしゃる人は子供と一緒に算数のドリルなんかやってみてもいいんじゃないですかね。
ストーカーの中には有用なことをやってくれる人も居るんですね。これは勉強でもおそらくスポーツとかでもなんでもそうですけど、ストレスは敵にも味方にもなるということです。
ストレスの見方、みたいな。
そして、こういったことはが分かりだすと、yは一定になります。被害妄想もどんどん減っていきます。だから何か危害を加えられていると思ったらまず最初に精神科ではなくて警察へ行った方がいいです。
Bessarabia
2011.12.12 Monday
血塗られた回廊。
※ この記事では自分語りが混ざっているので、少々イタいです。そういったものが不愉快な方はお読みにならないことをおすすめします。
私は自分の父親が若い女みたいな人間でした。身近な人間には自分と同じであることをひたすら求め、そのエゴイスティックな幼児的欲望が叶わないとなるとまた幼児のようにダダをこねてギャーギャーヒステリックに怒鳴り散らす若い女そのもののような男でした。マザコン男の権化であり、自分の正当性を必死になってでっち上げる為には何でもやって頑張るというナメた人間そのものであり、恐怖感と被害感情に満ち満ちた幼児の女のようなオカマ野郎でした。まるで粗悪な若い女の様な、家の外では醜くへりくだっておべっかを使い回し、家族や部下に対して「たのむからボクにおとなしくイジめられてくれよぉー」という一見俗悪なマンガの中二キャラかと思わせる幼児の様な対応しかできず、自分は他者にいくらでも危害を加える分際で自分が他者に危害を加えられるとなると一転して表情を変え「ボ、ボクを攻撃しないでくれよぉー」と懇願する他人をナメた情けないチキンそのものでした。母親に甘える的なそういったワガママが幼い子供にすら通じないとなるや、「オレのなぐさみものになれえ」と言わんばかりに虐待を始めます。もはや身勝手とかそういったレベルではなくてサイコパスのキチガイです。幼児です。我欲のカタマリです。おそらく宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯みたいな幼い子供を狙って虐殺を行うようなマザコンの変質者はこの類です。自身が幼女的なので自分と同質な幼女を求めるということです。
母親は豚でした。ユダヤの豚肉女という以外に形容し様の無い人間でした。
どちらも愚かで弱い人間でした。テレビを点けるや否や悪口のオンパレードがその場を満たし、そのおかげで私は子供の頃から親が居るだけで反吐が出る程気持ちの悪い思いを強制されていました。特に父親が他人の悪口を言わない日は一日たりともありませんでした。この男は祖父母をはじめとして親戚中で嫌われてました。当人がひたすらエゴの塊であって他人を嫌っているのだから当然のことです。その分際で自分が他人に嫌われることは受け入れられないという薄弱な精神の持ち主です。人に嫌われるカンチガイ野郎の典型です。そういったマザーコンプレックスの人間の作り出す社会・生活環境で育った私は必然的に精神も肉体も病んで統合失調症と精神科で診断されるということに合い成りました。私もまた人格的にかなりの欠陥があることを自分でもよく自覚しています。
こういった人間的に欠陥のある人間というのは物で釣ってきます。もっと極端な場合だとカネで釣ってきます。こういったモノに基点を置く人間というのはたまに居ますけど、少なくとも私の経験ではすべて嫌われ者でした。自分の人徳の足りなさ具合をモノやカネでカバーしようとする愚劣な人間です。彼らは人間関係の未熟さをカバーするために物や金を他者との関係のつがいとして利用するということを行います。非常に危険なのでこういった人間とは絶対に付き合ったらダメです。私は親がこういった幼児的人間だったので非常に苦労をしました。私はあまり人付き合いを好まないんですけど、あまり他人にいたずらに不快な思いをさせたくないので、自分に人格的な欠陥があることを自覚している人間としてはあまり他者とコミュニケーションを取らない方が良いと考えているということもあります。
あとはヘタレ男好きの女というのはヤバいです。マザコンの女の典型です。絶対に近寄ったらダメです。後で妖怪嫉妬豚にバケます。
一つ前の記事でストーカーについて書いたんですけど、ストーカーはそもそも特定の状況にまつわる前提αを恣意的に捏造して、状況Aは本来Aでしかない有り得ないものを(A×α)として被害者に認知させるということを試みてきます。だからストーカー被害に会いつづけているといつの間にかありもしない幻想に囚われたり事象の認知度量衡が歪んでいったりします。そうやって被害妄想や偏見意識や差別感情を煽って被害者をボロボロにして社会的死荷重を巻き起こしていくのがストーカー達の狙いです。ちょっとズレますけど、つまりはマスメディアというのは全国民に対するブロードバンドなストーカーというわけです。これは日本のマスコミの場合であって、イギリスのBBCのニュースなんか見てるとかなりまともです。
人的資本な観点から言えば、つまりはキャラを勝手に作ってそれを好きに叩くということを行うんですね。これの最も分かりやすい典型的な例が某巨大匿名掲示板群です。
ストーカーはA×αにおいて通常の(あらゆる意味での)対人関係の齟齬を微妙に超える程度でαを増長させてきます。何故ならば、被害者に微妙な被害感を与えて自分達の相手をさせるためであると同時に、被害者の虚像を都合のいい具合に歪めてゆくのに、その程度がストーカーにとっては都合がいいからです。αが小さ過ぎると被害者は自分達の相手をしてくれず、αが大きすぎると被害者がストーキングを被害だと認知してくれずに虚像が一人歩きするだけでストーキングとしての攻撃効果があらわれないからです。悪質な精神科医はこれを故意に行ってきます。
この被害に遭い続けていると、被害者は事象について個々のそれ(da)が自分に直接関係しているのではないかという認識・妄想に取り憑かれます。つまり、ふとした折に一見してそれが自己に対する客観的な認識であるかのようなものに立ち返る機会が通常では考えられない程に増えるということです。それが繰り返されていくと、自己が外部化され且つまた同時に世界が自己に内部化されるという通常では考えられない事態になります。そうすると、「自分を読まれている」という妄念に取り付かれるようになり、また同時に自己以外の世界の事象を認知しそしてそれが自己内化されているので予測でき(ていると思い込んでい)るようになったりします。その予測が正確であるかどうかは少なくともとある人間一個人に断定できるものではないです、が、やはり人間の身体(脳)の構造的にヒトという生き物としてはそういったものを「同じである」と思う点において合っていると考えてしまうみたいなんですね。だからとある人が他者のそういった妄念を鑑みて「当たっている」と思ったりすることもあるに過ぎないということです。まあ仮にそれが的を得ていたとしても、単なるストーカーの怪我の功名であり同時にストーカーの被害者の怪我の功名であるに過ぎないです。ヘーゲル的に考えれば(言えば)、結果としてその時に宗教や哲学が成立しているということです。オカルトや性格判断を絶対だと信じ込んでしまう異常心理もこういったものです。占いというものはつまりは確固とした自己認識を与えてさまよえる子羊に明確な立ち位置を与えるということを試みるものであって元来的にこういったものだということなのかもしれません。
例えば「晴れの天気である」という事象があります。特定のxさんが行動Aをとった時はxさんは「晴れの天気である」ことには気付きません。xさんが行動Bをとった時にはxさんは「晴れの天気である」ことに気付きます。この場合において行動Bを繰り返していると、xさんは「自分が行動Bをとったから→晴れの天気である」という誤った認識にいつの間にか取り憑かれていきます。ちなみにこの行動Aと行動Bというのは養老孟司さんの唯脳論的な身体感覚+単純な二者択一であって例としては絶対のものだったりします。分かりやすくは先の記事で書いたx軸とy軸で自分の位置がどうのこうのということです。認知する事象がふとした一瞬の映像的な意味での場の構成だったらいいですけど、主に人的なコンテクストが絡んでくると間違えるつまり被害を認識してしまうということです。だから例えば人の滑稽さを一段高いところからバカにする傾向というのはこの統合失調症という被害妄想病への掛かりやすさの尺度として参考になりそうです。
もう一つ例を。私の父親は事象Aについて第三者と話をしているフリをして被害者(私)に意図的に聞かせる(状況A)ということを行ってきます。そしてご丁寧なことにしばらくしてから事象Aについての事柄を私に訊ねるということを行います。これは状況Aを状況ではなく事象(sein)であると被害者に認知させるための子供滲みた行為です。私が自分の父親を女性的で幼いと馬鹿にしているのは、こんなやり方は小学生でも見抜けるというか少なくとも私は小学生の時からそれを理解していましたし、頭の悪さを極めているからということであり、それにもかからわずナチ的に何百万回と繰り返してくるからという意味もあります。極度に頭が悪いか嫌がらせという形で他者の存在に精神的に依存することから抜け出せないかのどちらかです。私がヒットラーに非常に興味を持つのは、アドルフ・ヒットラーという人物もその主張も自分の父親の幼女的稚拙性と非常に被るからです。
これ(コンテクスト)が文字・音であったり、また学問では物理学であったりする場合は、ここで説明しているケースとはまた別であって、絶対的なものと考えて問題無さそうです。その意味ではこういった類の絶対的なものこそが社会主義のテーゼなのかもしれません。それを無知な人間たちが、快楽に溺れて「自由!自由!」と叫びたてるところから社会システムの破綻や禍根その他よろしくないものが始まると考えて間違いなさそうです。だからつまりはナチスは最悪だということです。ナチスの行ったことを鑑みれば分かるとおり、国家社会主義の名目のもとに行われていたものは社会主義や安定した社会システムのアンチテーゼであり、売国行為以外の何物でもないです。
単細胞でコミュニケーション下手な人間というのは、それが具体的行動だろうが言語使用においてであろうが全ての事象について一義性を求めるんですね。だから見た目凄まじく頭が悪く見えますし、実際頭が悪いです。IT関連でシステムのエンジニアとかになれるほどに勉強のできる人だったらいいですけど、大抵の場合では頭が悪くて工学的というよりは工業高校的に決まったこと以外のことをひたすら恐れて人間関係においてまで一義性を他者に強要します。しかし人間誰しも他者に見下されたり暴力を振るわれたりするのは嫌なので、そこで彼らは無根拠に自分が他人より偉くそして相手を自由に操る権限を持っているという前提を設定して他者との人間関係を構築しようとします。だから相手にしてみれば異常なまでにウザいです。凄まじいほどに身勝手の極みです。自分が他人に恐れられていることを快感に感じているようで実のところ自分が他人を恐れているだけです。もうその脳ミソ筋肉な頭の悪い空威張りぶりがありありと見え透いて分かるので極度にウザいです。だからこういった人間は最悪なまでに他者に疎まれて、とくに現代の民主主義社会においては当然のことながら排斥されます。昨今「アラブの春」と言われてどんどん中東で民主化が進んでますけど、歴史上の独裁者や暴君は全てこういった人間たちです。すべて田舎者気質な愚かなアベラール達です。賢いアウグスティヌスのような人間はこういったのには居ません。
一つ例を。私が台所で簡単な料理をしていると、私の父親は「何をやっとるんだ!」と言ってきたので、私は「料理をしている」と答えたところ、「そう言え」という一見して意味不明な言動を行ってきました。これは実のところ意味不明なものでも何でもなく、「単なる事実の伝達であるにもかかわらず、まるで相手がそう(本心から)告げているのではないかのようなテーゼをその場で構築し、相手の被害感情を煽る」という極めて稚拙な試みなわけです。そもそも単なる事実の伝達において、そこに「(本)心」は絡まないわけです。にもかからわず相手においてそこに感情が存在するかの様に前提を設定して他者とのコミュニケーションへと臨むということが、つまり人間関係を構築するにおいての「無根拠な優越性」を他者に強要するものであるというわけです。こういった人間が極めて幼児的であり他者に疎ましがられ排斥されるのは当然のことです。私はこれを幼児の時からひたすら毎日やられ続けました。ちなみに私の父親は、全くの他人に対しては極めて(偽)善人の仮面を被るので、つまりはそういった行為に及んでも自分には危害が及ばないような対象を見つけて故意にこういった行為に及ぶ類の人間です。子供の頃の人間関係を思い出すに、嫌われ者があまり友達のいない一人でいるような子に目を付けて近づいていくのはこういった単純な理由からです。自分の子供に関しては、故意にそういった人間に仕立て上げて自分のキャラを上げる為に利用する、という実に悪徳なエゴイストです。赤の他人は全くこんなことは知りませんが、親族一同はよくこの本性を知っているのでこの男は親族中で嫌われています。
で、嫌われ者のアベラール達が連携して他者を攻撃したり叩きを行っている(た)のが某巨大匿名掲示板群です。YouTubeやtwitterなんてまだぜんぜん健全な香りがします。
水谷修さんという「夜回り先生」の人が居ますけど、あの人は「いいんだよ」とか言ってますけど、こういった連中は「いいんだよ」と言われ続ける度に図に乗って増長するのがもはや性癖なんですね。カンチガイして調子に乗って人を騙したり悪い方向へ陥れるようなことも平気でやります。最悪です。だから最初の一言目だけはユダヤ的なホメオスタシスをやわらかくほぐす為に有効ではあるが、以降は有害以外の何物でもないということです。
やっぱり不良連中というのはどんな形で頑張っても結局ダメなんです。私も10代の頃はそういった不良な人間でもまだ見どころはあるいい奴も居るなんて思ってた時期もあって、無理をして自身も半ば故意に落ちぶれたこともありましたけど、もうそうやって根本的に良くもないものを無理やり良いと思うことにも精魂尽き果てました。なんでああいった馬鹿共は馬鹿なのに死なないんですかね?馬鹿は死ぬように出来てるはずなんですけど?この社会に溢れる面白いもの楽しいものなんてのは全てユダヤの釣りです。某巨大匿名掲示板群あたりを見ればそれがありありと分かります。マンガ?アニメ?ゲーム?ロック音楽?あんなもん揃いも揃って全部クソです。売春婦育成産業です。売春夫育成産業です。別にいいんですよ?あったって。暴走族の若者たちが無人地帯でバイクで暴走してたってそれが彼らのストレス解消になるならいいです。ジブリのアニメやガンダムを見てつかの間の幼児的人間性に惚れ込んでサッと画面から離れてそれを忘れられるならいいです。自分を悪党だと自覚していない悪党が大糞たわけの馬鹿者だということです。ヤーさんになる覚悟も無しにバイクにまたがらずに趣味で部屋でチンピラロック音楽聞いてたら頭が悪くなるどころか馬鹿になるということです。単なる悪影響の極みです。不良はどう頑張ったって良ではないから不良なんです。不良だからダメなんではなくて、ダメだから不良になるということです。ダメだからダメなんです。不良人間にとって都合のいいギリシア神話的な人倫の国なんて世界の何処を探したってありません。「精神現象学」を読む限りではヘーゲルは不良哲学者です。というか中島義道さんもそうですけど本物の哲学者というのはたいていの場合不良人間です。ナメるのも大概にしろという話です。ダメな奴はダメということ。東大教授だって新聞に愚にもつかない記事を載せてるようなのは不良です。私が学生時代にはあろうことか「成績が良いっていうのはダメですよー」と言うクズ教員が居ました。追い詰めるまでもなく勝手に奴らは秩序から逃げていきます。子供さえ作らせなければ奴らは逃れ逃れて勝手に自滅していきます。それが不良人間が不良人間である必然だからです。なんでこんな単純なことが(奴らには)分からないんですかね?マンガ教育のせいです。「悪い属性の不良人間でも実はいい奴もいる」という内容矛盾の極みであるマザコン馬鹿マンガ教育とそれを推進した公立小中学校の馬鹿教師たちに因ります。10歳に満たない子供の頃からこれをやられ続けて私の世代は多くの真面目な(真面目に先生の言うことを聞かないといけないと思いこんでいる)人間がオタクに作り変えられました。小学校の教師が誘導するような馬鹿丸出しなノリで「みんなでわーたのしい」において楽しくないと思ってくれる人間がいるんでまだ救われてるんですね。これがみんなが楽しくなったら破滅です。国家も何もかもが破綻します。私は実際に程度の低いクズ共をよく見てきましたけど、他者に迷惑をかけない程度に適度に楽しめるという知性のある人間ばかりではないんです。昔の某匿名巨大掲示板群あたりを見ればありありとわかるはずです。筑紫哲也さんが昔ネットを便所のゴミ箱と言ってましたけど、その便所のゴミ箱へ若者を導いたのは当の筑紫哲也さんみたいなマスメディアの人間や左翼の人間たちなんですね。本当にナメ腐ってます。
カフカの「城」という小説がありますけど、あそこに出てくる「城」は当然に官僚主義のメタファーですけど、アレはミクロ経済的価値意識に基づく下から見た官僚機構の像であり極めて悪質なものです。何が悪質かというと「下から見た官僚機構の像でありその着眼点的にミクロ経済的価値意識をベタ塗りにして描かれているから」です。官僚の人たちというのはそういったミクロ経済的なものにとらわれておらず、もっと賢いです。というかそうでないと東京大学にも入れませんし官僚になるための国家試験にも通らないようになってます。だいたいカフカの小説はあまりの精神異常ぶりに読んでてイライラしてくるんですけど、カフカ自身がユダヤ人でミクロ経済的な自己中心的価値意識の持ち主だということです。
北野武さんがたしかそういった優生学的内容について本で書いてましたし、Heinrich Himmlerは凄まじい優生学的観念に取り憑かれてましたけど、ヒムラーは禍のもとになるものをを消そうとしていたんですね。もちろんその結果としてユダヤ人虐殺に走ったのは最悪であってしかも間違えてます。しかし、「禍根をわざわざ作り出すような、ヒムラー的な憂いのもと」を作り出す人間というのが現代社会においても未だにガンバって生息しているんですね。もし仮にヒムラーがそれを自覚しながら泥を被るつもりで誰かがやらねばならないという考えのもとそれを行ったとしたなら、ヒムラーは実に優しい人です。おそらくあの時代、そのコンテクストにおいてそのままいくと、ユダヤ人だけどころではなく、人類全てが悲惨な目にあって苦しむことをちゃんとヒムラーは分かってたんですね。しかしだからといって強制収容所をつくってユダヤ人その他の「異常な」人々を送り込んで詰め込んでしまったことに時代を映したヒムラーの狂気とナチスの狂気がありありと映されています。当然歴史の教科書が説明するようにヒムラー配下のSchutzstaffelが行ったことは最悪です。メルケル首相もネオナチをドイツの恥みたいなことを言ってます。しかしAdolf Hitler個人は踊らされて利用されたあわれな犠牲者である感があります。しかもヒットラーはそのこと自体を自覚した上で、泥を被ってピエロを演じていた感があります。だからピエロを演じているというピエロであって二重にピエロではなかったかということです。
赤い勢力たちの収奪の場になっていつも苦しめられるのはその地の民衆です。アカな人間というのはどんなに一見した善人性を取り繕っていても人間をダメな方向へダメな方向へ自覚的にも無自覚的にも持っていきます。自分らだけのサークルやファミリーを作って他者を排斥したり攻撃したりするということです。社会的に弱い人たちはそういった場面でいつも犠牲になってきました。しかし今はネットという優れたツールがあります。
※ この記事では自分語りが混ざっているので、少々イタいです。そういったものが不愉快な方はお読みにならないことをおすすめします。
私は自分の父親が若い女みたいな人間でした。身近な人間には自分と同じであることをひたすら求め、そのエゴイスティックな幼児的欲望が叶わないとなるとまた幼児のようにダダをこねてギャーギャーヒステリックに怒鳴り散らす若い女そのもののような男でした。マザコン男の権化であり、自分の正当性を必死になってでっち上げる為には何でもやって頑張るというナメた人間そのものであり、恐怖感と被害感情に満ち満ちた幼児の女のようなオカマ野郎でした。まるで粗悪な若い女の様な、家の外では醜くへりくだっておべっかを使い回し、家族や部下に対して「たのむからボクにおとなしくイジめられてくれよぉー」という一見俗悪なマンガの中二キャラかと思わせる幼児の様な対応しかできず、自分は他者にいくらでも危害を加える分際で自分が他者に危害を加えられるとなると一転して表情を変え「ボ、ボクを攻撃しないでくれよぉー」と懇願する他人をナメた情けないチキンそのものでした。母親に甘える的なそういったワガママが幼い子供にすら通じないとなるや、「オレのなぐさみものになれえ」と言わんばかりに虐待を始めます。もはや身勝手とかそういったレベルではなくてサイコパスのキチガイです。幼児です。我欲のカタマリです。おそらく宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯みたいな幼い子供を狙って虐殺を行うようなマザコンの変質者はこの類です。自身が幼女的なので自分と同質な幼女を求めるということです。
母親は豚でした。ユダヤの豚肉女という以外に形容し様の無い人間でした。
どちらも愚かで弱い人間でした。テレビを点けるや否や悪口のオンパレードがその場を満たし、そのおかげで私は子供の頃から親が居るだけで反吐が出る程気持ちの悪い思いを強制されていました。特に父親が他人の悪口を言わない日は一日たりともありませんでした。この男は祖父母をはじめとして親戚中で嫌われてました。当人がひたすらエゴの塊であって他人を嫌っているのだから当然のことです。その分際で自分が他人に嫌われることは受け入れられないという薄弱な精神の持ち主です。人に嫌われるカンチガイ野郎の典型です。そういったマザーコンプレックスの人間の作り出す社会・生活環境で育った私は必然的に精神も肉体も病んで統合失調症と精神科で診断されるということに合い成りました。私もまた人格的にかなりの欠陥があることを自分でもよく自覚しています。
こういった人間的に欠陥のある人間というのは物で釣ってきます。もっと極端な場合だとカネで釣ってきます。こういったモノに基点を置く人間というのはたまに居ますけど、少なくとも私の経験ではすべて嫌われ者でした。自分の人徳の足りなさ具合をモノやカネでカバーしようとする愚劣な人間です。彼らは人間関係の未熟さをカバーするために物や金を他者との関係のつがいとして利用するということを行います。非常に危険なのでこういった人間とは絶対に付き合ったらダメです。私は親がこういった幼児的人間だったので非常に苦労をしました。私はあまり人付き合いを好まないんですけど、あまり他人にいたずらに不快な思いをさせたくないので、自分に人格的な欠陥があることを自覚している人間としてはあまり他者とコミュニケーションを取らない方が良いと考えているということもあります。
あとはヘタレ男好きの女というのはヤバいです。マザコンの女の典型です。絶対に近寄ったらダメです。後で妖怪嫉妬豚にバケます。
一つ前の記事でストーカーについて書いたんですけど、ストーカーはそもそも特定の状況にまつわる前提αを恣意的に捏造して、状況Aは本来Aでしかない有り得ないものを(A×α)として被害者に認知させるということを試みてきます。だからストーカー被害に会いつづけているといつの間にかありもしない幻想に囚われたり事象の認知度量衡が歪んでいったりします。そうやって被害妄想や偏見意識や差別感情を煽って被害者をボロボロにして社会的死荷重を巻き起こしていくのがストーカー達の狙いです。ちょっとズレますけど、つまりはマスメディアというのは全国民に対するブロードバンドなストーカーというわけです。これは日本のマスコミの場合であって、イギリスのBBCのニュースなんか見てるとかなりまともです。
人的資本な観点から言えば、つまりはキャラを勝手に作ってそれを好きに叩くということを行うんですね。これの最も分かりやすい典型的な例が某巨大匿名掲示板群です。
ストーカーはA×αにおいて通常の(あらゆる意味での)対人関係の齟齬を微妙に超える程度でαを増長させてきます。何故ならば、被害者に微妙な被害感を与えて自分達の相手をさせるためであると同時に、被害者の虚像を都合のいい具合に歪めてゆくのに、その程度がストーカーにとっては都合がいいからです。αが小さ過ぎると被害者は自分達の相手をしてくれず、αが大きすぎると被害者がストーキングを被害だと認知してくれずに虚像が一人歩きするだけでストーキングとしての攻撃効果があらわれないからです。悪質な精神科医はこれを故意に行ってきます。
この被害に遭い続けていると、被害者は事象について個々のそれ(da)が自分に直接関係しているのではないかという認識・妄想に取り憑かれます。つまり、ふとした折に一見してそれが自己に対する客観的な認識であるかのようなものに立ち返る機会が通常では考えられない程に増えるということです。それが繰り返されていくと、自己が外部化され且つまた同時に世界が自己に内部化されるという通常では考えられない事態になります。そうすると、「自分を読まれている」という妄念に取り付かれるようになり、また同時に自己以外の世界の事象を認知しそしてそれが自己内化されているので予測でき(ていると思い込んでい)るようになったりします。その予測が正確であるかどうかは少なくともとある人間一個人に断定できるものではないです、が、やはり人間の身体(脳)の構造的にヒトという生き物としてはそういったものを「同じである」と思う点において合っていると考えてしまうみたいなんですね。だからとある人が他者のそういった妄念を鑑みて「当たっている」と思ったりすることもあるに過ぎないということです。まあ仮にそれが的を得ていたとしても、単なるストーカーの怪我の功名であり同時にストーカーの被害者の怪我の功名であるに過ぎないです。ヘーゲル的に考えれば(言えば)、結果としてその時に宗教や哲学が成立しているということです。オカルトや性格判断を絶対だと信じ込んでしまう異常心理もこういったものです。占いというものはつまりは確固とした自己認識を与えてさまよえる子羊に明確な立ち位置を与えるということを試みるものであって元来的にこういったものだということなのかもしれません。
例えば「晴れの天気である」という事象があります。特定のxさんが行動Aをとった時はxさんは「晴れの天気である」ことには気付きません。xさんが行動Bをとった時にはxさんは「晴れの天気である」ことに気付きます。この場合において行動Bを繰り返していると、xさんは「自分が行動Bをとったから→晴れの天気である」という誤った認識にいつの間にか取り憑かれていきます。ちなみにこの行動Aと行動Bというのは養老孟司さんの唯脳論的な身体感覚+単純な二者択一であって例としては絶対のものだったりします。分かりやすくは先の記事で書いたx軸とy軸で自分の位置がどうのこうのということです。認知する事象がふとした一瞬の映像的な意味での場の構成だったらいいですけど、主に人的なコンテクストが絡んでくると間違えるつまり被害を認識してしまうということです。だから例えば人の滑稽さを一段高いところからバカにする傾向というのはこの統合失調症という被害妄想病への掛かりやすさの尺度として参考になりそうです。
もう一つ例を。私の父親は事象Aについて第三者と話をしているフリをして被害者(私)に意図的に聞かせる(状況A)ということを行ってきます。そしてご丁寧なことにしばらくしてから事象Aについての事柄を私に訊ねるということを行います。これは状況Aを状況ではなく事象(sein)であると被害者に認知させるための子供滲みた行為です。私が自分の父親を女性的で幼いと馬鹿にしているのは、こんなやり方は小学生でも見抜けるというか少なくとも私は小学生の時からそれを理解していましたし、頭の悪さを極めているからということであり、それにもかからわずナチ的に何百万回と繰り返してくるからという意味もあります。極度に頭が悪いか嫌がらせという形で他者の存在に精神的に依存することから抜け出せないかのどちらかです。私がヒットラーに非常に興味を持つのは、アドルフ・ヒットラーという人物もその主張も自分の父親の幼女的稚拙性と非常に被るからです。
これ(コンテクスト)が文字・音であったり、また学問では物理学であったりする場合は、ここで説明しているケースとはまた別であって、絶対的なものと考えて問題無さそうです。その意味ではこういった類の絶対的なものこそが社会主義のテーゼなのかもしれません。それを無知な人間たちが、快楽に溺れて「自由!自由!」と叫びたてるところから社会システムの破綻や禍根その他よろしくないものが始まると考えて間違いなさそうです。だからつまりはナチスは最悪だということです。ナチスの行ったことを鑑みれば分かるとおり、国家社会主義の名目のもとに行われていたものは社会主義や安定した社会システムのアンチテーゼであり、売国行為以外の何物でもないです。
単細胞でコミュニケーション下手な人間というのは、それが具体的行動だろうが言語使用においてであろうが全ての事象について一義性を求めるんですね。だから見た目凄まじく頭が悪く見えますし、実際頭が悪いです。IT関連でシステムのエンジニアとかになれるほどに勉強のできる人だったらいいですけど、大抵の場合では頭が悪くて工学的というよりは工業高校的に決まったこと以外のことをひたすら恐れて人間関係においてまで一義性を他者に強要します。しかし人間誰しも他者に見下されたり暴力を振るわれたりするのは嫌なので、そこで彼らは無根拠に自分が他人より偉くそして相手を自由に操る権限を持っているという前提を設定して他者との人間関係を構築しようとします。だから相手にしてみれば異常なまでにウザいです。凄まじいほどに身勝手の極みです。自分が他人に恐れられていることを快感に感じているようで実のところ自分が他人を恐れているだけです。もうその脳ミソ筋肉な頭の悪い空威張りぶりがありありと見え透いて分かるので極度にウザいです。だからこういった人間は最悪なまでに他者に疎まれて、とくに現代の民主主義社会においては当然のことながら排斥されます。昨今「アラブの春」と言われてどんどん中東で民主化が進んでますけど、歴史上の独裁者や暴君は全てこういった人間たちです。すべて田舎者気質な愚かなアベラール達です。賢いアウグスティヌスのような人間はこういったのには居ません。
一つ例を。私が台所で簡単な料理をしていると、私の父親は「何をやっとるんだ!」と言ってきたので、私は「料理をしている」と答えたところ、「そう言え」という一見して意味不明な言動を行ってきました。これは実のところ意味不明なものでも何でもなく、「単なる事実の伝達であるにもかかわらず、まるで相手がそう(本心から)告げているのではないかのようなテーゼをその場で構築し、相手の被害感情を煽る」という極めて稚拙な試みなわけです。そもそも単なる事実の伝達において、そこに「(本)心」は絡まないわけです。にもかからわず相手においてそこに感情が存在するかの様に前提を設定して他者とのコミュニケーションへと臨むということが、つまり人間関係を構築するにおいての「無根拠な優越性」を他者に強要するものであるというわけです。こういった人間が極めて幼児的であり他者に疎ましがられ排斥されるのは当然のことです。私はこれを幼児の時からひたすら毎日やられ続けました。ちなみに私の父親は、全くの他人に対しては極めて(偽)善人の仮面を被るので、つまりはそういった行為に及んでも自分には危害が及ばないような対象を見つけて故意にこういった行為に及ぶ類の人間です。子供の頃の人間関係を思い出すに、嫌われ者があまり友達のいない一人でいるような子に目を付けて近づいていくのはこういった単純な理由からです。自分の子供に関しては、故意にそういった人間に仕立て上げて自分のキャラを上げる為に利用する、という実に悪徳なエゴイストです。赤の他人は全くこんなことは知りませんが、親族一同はよくこの本性を知っているのでこの男は親族中で嫌われています。
で、嫌われ者のアベラール達が連携して他者を攻撃したり叩きを行っている(た)のが某巨大匿名掲示板群です。YouTubeやtwitterなんてまだぜんぜん健全な香りがします。
水谷修さんという「夜回り先生」の人が居ますけど、あの人は「いいんだよ」とか言ってますけど、こういった連中は「いいんだよ」と言われ続ける度に図に乗って増長するのがもはや性癖なんですね。カンチガイして調子に乗って人を騙したり悪い方向へ陥れるようなことも平気でやります。最悪です。だから最初の一言目だけはユダヤ的なホメオスタシスをやわらかくほぐす為に有効ではあるが、以降は有害以外の何物でもないということです。
やっぱり不良連中というのはどんな形で頑張っても結局ダメなんです。私も10代の頃はそういった不良な人間でもまだ見どころはあるいい奴も居るなんて思ってた時期もあって、無理をして自身も半ば故意に落ちぶれたこともありましたけど、もうそうやって根本的に良くもないものを無理やり良いと思うことにも精魂尽き果てました。なんでああいった馬鹿共は馬鹿なのに死なないんですかね?馬鹿は死ぬように出来てるはずなんですけど?この社会に溢れる面白いもの楽しいものなんてのは全てユダヤの釣りです。某巨大匿名掲示板群あたりを見ればそれがありありと分かります。マンガ?アニメ?ゲーム?ロック音楽?あんなもん揃いも揃って全部クソです。売春婦育成産業です。売春夫育成産業です。別にいいんですよ?あったって。暴走族の若者たちが無人地帯でバイクで暴走してたってそれが彼らのストレス解消になるならいいです。ジブリのアニメやガンダムを見てつかの間の幼児的人間性に惚れ込んでサッと画面から離れてそれを忘れられるならいいです。自分を悪党だと自覚していない悪党が大糞たわけの馬鹿者だということです。ヤーさんになる覚悟も無しにバイクにまたがらずに趣味で部屋でチンピラロック音楽聞いてたら頭が悪くなるどころか馬鹿になるということです。単なる悪影響の極みです。不良はどう頑張ったって良ではないから不良なんです。不良だからダメなんではなくて、ダメだから不良になるということです。ダメだからダメなんです。不良人間にとって都合のいいギリシア神話的な人倫の国なんて世界の何処を探したってありません。「精神現象学」を読む限りではヘーゲルは不良哲学者です。というか中島義道さんもそうですけど本物の哲学者というのはたいていの場合不良人間です。ナメるのも大概にしろという話です。ダメな奴はダメということ。東大教授だって新聞に愚にもつかない記事を載せてるようなのは不良です。私が学生時代にはあろうことか「成績が良いっていうのはダメですよー」と言うクズ教員が居ました。追い詰めるまでもなく勝手に奴らは秩序から逃げていきます。子供さえ作らせなければ奴らは逃れ逃れて勝手に自滅していきます。それが不良人間が不良人間である必然だからです。なんでこんな単純なことが(奴らには)分からないんですかね?マンガ教育のせいです。「悪い属性の不良人間でも実はいい奴もいる」という内容矛盾の極みであるマザコン馬鹿マンガ教育とそれを推進した公立小中学校の馬鹿教師たちに因ります。10歳に満たない子供の頃からこれをやられ続けて私の世代は多くの真面目な(真面目に先生の言うことを聞かないといけないと思いこんでいる)人間がオタクに作り変えられました。小学校の教師が誘導するような馬鹿丸出しなノリで「みんなでわーたのしい」において楽しくないと思ってくれる人間がいるんでまだ救われてるんですね。これがみんなが楽しくなったら破滅です。国家も何もかもが破綻します。私は実際に程度の低いクズ共をよく見てきましたけど、他者に迷惑をかけない程度に適度に楽しめるという知性のある人間ばかりではないんです。昔の某匿名巨大掲示板群あたりを見ればありありとわかるはずです。筑紫哲也さんが昔ネットを便所のゴミ箱と言ってましたけど、その便所のゴミ箱へ若者を導いたのは当の筑紫哲也さんみたいなマスメディアの人間や左翼の人間たちなんですね。本当にナメ腐ってます。
カフカの「城」という小説がありますけど、あそこに出てくる「城」は当然に官僚主義のメタファーですけど、アレはミクロ経済的価値意識に基づく下から見た官僚機構の像であり極めて悪質なものです。何が悪質かというと「下から見た官僚機構の像でありその着眼点的にミクロ経済的価値意識をベタ塗りにして描かれているから」です。官僚の人たちというのはそういったミクロ経済的なものにとらわれておらず、もっと賢いです。というかそうでないと東京大学にも入れませんし官僚になるための国家試験にも通らないようになってます。だいたいカフカの小説はあまりの精神異常ぶりに読んでてイライラしてくるんですけど、カフカ自身がユダヤ人でミクロ経済的な自己中心的価値意識の持ち主だということです。
北野武さんがたしかそういった優生学的内容について本で書いてましたし、Heinrich Himmlerは凄まじい優生学的観念に取り憑かれてましたけど、ヒムラーは禍のもとになるものをを消そうとしていたんですね。もちろんその結果としてユダヤ人虐殺に走ったのは最悪であってしかも間違えてます。しかし、「禍根をわざわざ作り出すような、ヒムラー的な憂いのもと」を作り出す人間というのが現代社会においても未だにガンバって生息しているんですね。もし仮にヒムラーがそれを自覚しながら泥を被るつもりで誰かがやらねばならないという考えのもとそれを行ったとしたなら、ヒムラーは実に優しい人です。おそらくあの時代、そのコンテクストにおいてそのままいくと、ユダヤ人だけどころではなく、人類全てが悲惨な目にあって苦しむことをちゃんとヒムラーは分かってたんですね。しかしだからといって強制収容所をつくってユダヤ人その他の「異常な」人々を送り込んで詰め込んでしまったことに時代を映したヒムラーの狂気とナチスの狂気がありありと映されています。当然歴史の教科書が説明するようにヒムラー配下のSchutzstaffelが行ったことは最悪です。メルケル首相もネオナチをドイツの恥みたいなことを言ってます。しかしAdolf Hitler個人は踊らされて利用されたあわれな犠牲者である感があります。しかもヒットラーはそのこと自体を自覚した上で、泥を被ってピエロを演じていた感があります。だからピエロを演じているというピエロであって二重にピエロではなかったかということです。
赤い勢力たちの収奪の場になっていつも苦しめられるのはその地の民衆です。アカな人間というのはどんなに一見した善人性を取り繕っていても人間をダメな方向へダメな方向へ自覚的にも無自覚的にも持っていきます。自分らだけのサークルやファミリーを作って他者を排斥したり攻撃したりするということです。社会的に弱い人たちはそういった場面でいつも犠牲になってきました。しかし今はネットという優れたツールがあります。
Äon
2011.12.16 Friday
∞。
「病は気から」というのは大嘘であり人を惑わす最悪の言説です。これは女性原理をベースとした愚にもつかない格言です。「(悪)気は(肉体の)病から」というのが正しいです。やっぱり肉体の不調や病気というのは肉体の外面的なものとして表面に出てきます。だから不美人な女の人で顔のかたちが悪くて悩んでいるような人は、またそのグジグジした悩みでまたどんどん顔面も肉体の調子も悪くなっていきます。最も効果的な解決策は、「自分はもう年で若くないんだから」という意識を持って生活していると、顔面のことなんざ気にならなくなって、どんどん肉体も健康になっていきます。それにつれて顔のかたちも普通の顔のそれに近づいていきます。要するに顔面のブサイクさというのはある程度治ります。いわゆる「こだわり」なんてものは呪い以外の何物でもないマザーコンプレックスが人間に取り憑いた万物の元凶なんで、過去の良い思い出も悪い思い出も全て捨て去らないとどんどん悪くなって、最悪の場合病院で医者の先生に病気であると診断されるということになります。そういったくだらないことにこだわってベタベタ化粧品なんか塗りたくっても特に黄色人種のアジア人は一発でブサイクな顔であるのがありありと見抜かれます。私がこのブログで日本人の顔がブサイクだとかなんとか言っているのは、別に子供染みた挑発というわけではなくて、そんなことを気にすれば気にするほどどんどん肉体も精神も病んで、女性の場合だと顔が悪いとかなんとかでますます(負の)こだわりが生まれて悪循環に陥っていくということです。ちなみに私は10代の途中で肉体・精神を病んで顔が病的なまでにブサイクになりましたが、今は大分良くなって小学生くらいの子供の頃の普通の顔に戻ってます。
「気をしっかり持って(維持して)いれば病気なんか治る」というのは昔の馬鹿な人間たちのよく吐きそうな愚言妄言ですけど、これは病気が治るのでもなんでもなくてただ単に病識が無くなるというだけのことなんですね。だからそんな状態で、他者から見たところでは一見して正常に戻って病気ではないような状態であってはいても、その当該の人物の中では精神も肉体も病巣でボロボロだということです。千紫万紅な状態に憑かれて頭がアッパラパーになってトチ狂うだけです。しかもタチの悪いことに外面的にはいたって普通である場合がほとんどです。抗精神病薬リスパダールというのはこの最悪な状態をもたらすものです(ちなみに抗精神病薬ジプレキサは良い薬です)。だから外面的にはいたって普通だが行動がおかしいということで、精神科医は二週間に一回5分から10分の面談で「特に異常はありませんね(しかし行動が異常である、何故ならば統合失調症であるから)」というレッテルを貼るわけです。つまり、精神科医は抗精神病薬を無理やり投薬して精神分裂病患者(統合失調症患者)というボジションに精神科への来訪者を仕立て上げて、そこから精神分裂病(統合失調症)の症状を個々の患者たちにまつわって病気の形づくりを行っていくわけです。つまり「統合失調症であるという診断を下されるから統合失調症という病気になる」ということです。「精神分裂病(統合失調症)と診断を下す」というところから個々の患者にまつわる最世界化を開始して、そしてその後の患者の経過によって精神分裂病(統合失調症)という病気を作っていく、つまり社会的被差別民の属性を具体的内容(「症状」と精神科医が断定するもの)から作り上げていくというのが悪質な精神科医の常套手段なわけです。これが医学界における被差別部落である精神医学界に所属する精神科医のやり口なんですね。誤解の無いように言っておきますが、もちろん中には健全な人間であるまともな精神科医の先生もいらっしゃいます。あとは内科医や外科医や整形外科医や眼科医や耳鼻咽喉科医その他の医師の先生たちはほぼ例外なくまともで健全な人たちです。
あと顔関連のことで言うなら、白人さんはほとんど皆美しい顔をしてます。黒人さんはブサイクなのではなくて、子供っぽいというか愛嬌のある顔をしてます。黄色人種の顔は残念ながら、どんなに美形でも、どうしても見る者に若干の不快感を与えます。……まあ文化人類学的なものと言ってしまえばそれまでなんですけど。
でもまあこんなものは個々人によるということで、ロシア人とかだとモンゴル系の血が混じったブサイクというよりはおっかない怖い顔をした女性とか居ますし、全般的に子供っぽい顔をした黒人さんでもオバマ大統領とかは男前でいい顔してますし、Marvin GayeとかGeorge Bensonとか整形前のMichael Jacksonとかも格好良いです。
ちょっと気になるんで書くんですけど、市販されているヨーグルトの内容量が同じ値段でどんどん減っていくんですけど、いいんですかねアレは。10年くらい前までは1パック500gだったのがいつの間にか450gになって、とうとう最近400gになりました。ヨーグルトなんて過度に売れたりまた逆に売れないといった製品ではないんで、これはヨーグルトという製品の財としての質がどんどん粗悪になっていっているということなんですけど(食品としてのヨーグルトの質が悪くなっているということではないです)。つまり高い値段で安いモノを売りつけられているということです。どんどんこういった表面的な価格には現れないインフレーションが進んで日本という国家がどんどん貧しくなって露骨にスラムコースなんですけど、そうとうにマズいどころか危険な状態です。だからGDPなんてなんのアテにもならない指標だということです。
慣れというのは基本的に人を殺します。粗悪な財を使用することや劣悪な環境に慣れてしまうことでどんどんユダヤ的ホメオスタシスが強固になっていきます。というかユダヤ人という人々は、何の問題解決の具体的対策も打ち出さず行わずにそうやって苦痛を味わうことに「慣れれば平気」という大馬鹿な認識で下手な鉄砲数打ちゃ当たるの価値意識で人口を大量生産大量消費してきた人々なんですね。ヒットラーはユダヤ人を戦争賛美者であるみたいなことを言ってますけど、これに関してはヒットラーの言も間違いではないです。あの時代には、人口が増えればそういった悲惨な形で禍が具現化するということです。現代だって少なくとも日本に関して言えば全国民総ユダヤ人化されているようなものであって、充分に悲惨です。
誤解の無いように何度も言っておきますが、私は2011年現在でイスラエルに住む人々を侮辱したり馬鹿にしたりする意図はまったく持っていませんしそのような意志も皆無です。私が心の底から憎いと思うのは日本という国における「穢多」や「ユダヤ」であって「イスラエル」ではありません。
で、精神科医の先生たちが処方してくれる抗精神病薬には、自分で自分を良い方向へ傾けていさえすれば、その良い状態で固定化してくれるという作用が(も)あるんですね。だからこういった薬物は、ストレスと同じく敵にも見方にもなるということです。
やはり何らかの対象への依存症というのは男性ではなく女性に多いです。これはもう肉体に男性器が備わっているか女性器が備わっているかという問題に帰着します。だから女性の依存症を責めるなどというのはナンセンスであり単なる虐待であって絶対にやったらダメです。先の記事でも説明したように、女性は逃れ逃れてまたどんどん他のものへの依存を求めていくからです。それがもう女性の性癖なんです。女性は簡単にセックス依存症に陥ります。売春婦は居ても男娼はほとんど居ません。ということは、また男性でもホモセクシャルにはこういった他物・他者への依存心が強い人間が多いということです。
マルクス経済学はヘーゲル哲学の源流を組んでます。特に愚かな革新的ヘーゲル左派(Junghegelianer、青年ヘーゲル学派)が愚かなマルクス主義の源流となりました。これは極めて(人的な)社会学的・ミクロ経済実践的な馬鹿馬鹿しいものなんですね。Karl Heinlich Marxはその当時の時代の社会的コンテクスト上仕方の無いことだとはいえやっぱり労働者の価値を金銭で計ってますけど、それは結局ヘーゲルの哲学を現実の経済活動に応用したという観点からすれば当然のことなんですね。つまりやはりマルクスも非常にユダヤ的ミクロ経済的価値意識の持ち主なんですね。ちなみにヒットラーはマルキシズムを嫌いました。私は現代日本において日給で働く肉体労働者やアルバイターの人たちの給料は現在の2~3倍あっても何もおかしくないと考えてます、というか社会システムに死荷重与えてカネを浪費するマザーコンプレックスなイデオロギーさえ無ければそうなるはずです、おそらく。あの人たちは一日中・毎日働けるわけではないのでそのくらいの給与でもそんなに大量に稼げるわけではないということもそう考える要因としてあります。
前の記事で、物で他人を釣る不良人間のことを書きましたけど、金で買えるようなものは安物です。これはpricelessな文化的な財を重んじる一種のイギリス的工業感覚と考えても妥当性がありそうです、敢えて日本語で表現するならば。嫌味な意味合いはないです。私はアベラールが大嫌いなんですけど、唯名論にはそれなりの価値があるものだと考えてます、それに思念を囚われなければ、つまりそれが「唯名」であって「唯名論」でなければ。
「病は気から」というのは大嘘であり人を惑わす最悪の言説です。これは女性原理をベースとした愚にもつかない格言です。「(悪)気は(肉体の)病から」というのが正しいです。やっぱり肉体の不調や病気というのは肉体の外面的なものとして表面に出てきます。だから不美人な女の人で顔のかたちが悪くて悩んでいるような人は、またそのグジグジした悩みでまたどんどん顔面も肉体の調子も悪くなっていきます。最も効果的な解決策は、「自分はもう年で若くないんだから」という意識を持って生活していると、顔面のことなんざ気にならなくなって、どんどん肉体も健康になっていきます。それにつれて顔のかたちも普通の顔のそれに近づいていきます。要するに顔面のブサイクさというのはある程度治ります。いわゆる「こだわり」なんてものは呪い以外の何物でもないマザーコンプレックスが人間に取り憑いた万物の元凶なんで、過去の良い思い出も悪い思い出も全て捨て去らないとどんどん悪くなって、最悪の場合病院で医者の先生に病気であると診断されるということになります。そういったくだらないことにこだわってベタベタ化粧品なんか塗りたくっても特に黄色人種のアジア人は一発でブサイクな顔であるのがありありと見抜かれます。私がこのブログで日本人の顔がブサイクだとかなんとか言っているのは、別に子供染みた挑発というわけではなくて、そんなことを気にすれば気にするほどどんどん肉体も精神も病んで、女性の場合だと顔が悪いとかなんとかでますます(負の)こだわりが生まれて悪循環に陥っていくということです。ちなみに私は10代の途中で肉体・精神を病んで顔が病的なまでにブサイクになりましたが、今は大分良くなって小学生くらいの子供の頃の普通の顔に戻ってます。
「気をしっかり持って(維持して)いれば病気なんか治る」というのは昔の馬鹿な人間たちのよく吐きそうな愚言妄言ですけど、これは病気が治るのでもなんでもなくてただ単に病識が無くなるというだけのことなんですね。だからそんな状態で、他者から見たところでは一見して正常に戻って病気ではないような状態であってはいても、その当該の人物の中では精神も肉体も病巣でボロボロだということです。千紫万紅な状態に憑かれて頭がアッパラパーになってトチ狂うだけです。しかもタチの悪いことに外面的にはいたって普通である場合がほとんどです。抗精神病薬リスパダールというのはこの最悪な状態をもたらすものです(ちなみに抗精神病薬ジプレキサは良い薬です)。だから外面的にはいたって普通だが行動がおかしいということで、精神科医は二週間に一回5分から10分の面談で「特に異常はありませんね(しかし行動が異常である、何故ならば統合失調症であるから)」というレッテルを貼るわけです。つまり、精神科医は抗精神病薬を無理やり投薬して精神分裂病患者(統合失調症患者)というボジションに精神科への来訪者を仕立て上げて、そこから精神分裂病(統合失調症)の症状を個々の患者たちにまつわって病気の形づくりを行っていくわけです。つまり「統合失調症であるという診断を下されるから統合失調症という病気になる」ということです。「精神分裂病(統合失調症)と診断を下す」というところから個々の患者にまつわる最世界化を開始して、そしてその後の患者の経過によって精神分裂病(統合失調症)という病気を作っていく、つまり社会的被差別民の属性を具体的内容(「症状」と精神科医が断定するもの)から作り上げていくというのが悪質な精神科医の常套手段なわけです。これが医学界における被差別部落である精神医学界に所属する精神科医のやり口なんですね。誤解の無いように言っておきますが、もちろん中には健全な人間であるまともな精神科医の先生もいらっしゃいます。あとは内科医や外科医や整形外科医や眼科医や耳鼻咽喉科医その他の医師の先生たちはほぼ例外なくまともで健全な人たちです。
あと顔関連のことで言うなら、白人さんはほとんど皆美しい顔をしてます。黒人さんはブサイクなのではなくて、子供っぽいというか愛嬌のある顔をしてます。黄色人種の顔は残念ながら、どんなに美形でも、どうしても見る者に若干の不快感を与えます。……まあ文化人類学的なものと言ってしまえばそれまでなんですけど。
でもまあこんなものは個々人によるということで、ロシア人とかだとモンゴル系の血が混じったブサイクというよりはおっかない怖い顔をした女性とか居ますし、全般的に子供っぽい顔をした黒人さんでもオバマ大統領とかは男前でいい顔してますし、Marvin GayeとかGeorge Bensonとか整形前のMichael Jacksonとかも格好良いです。
ちょっと気になるんで書くんですけど、市販されているヨーグルトの内容量が同じ値段でどんどん減っていくんですけど、いいんですかねアレは。10年くらい前までは1パック500gだったのがいつの間にか450gになって、とうとう最近400gになりました。ヨーグルトなんて過度に売れたりまた逆に売れないといった製品ではないんで、これはヨーグルトという製品の財としての質がどんどん粗悪になっていっているということなんですけど(食品としてのヨーグルトの質が悪くなっているということではないです)。つまり高い値段で安いモノを売りつけられているということです。どんどんこういった表面的な価格には現れないインフレーションが進んで日本という国家がどんどん貧しくなって露骨にスラムコースなんですけど、そうとうにマズいどころか危険な状態です。だからGDPなんてなんのアテにもならない指標だということです。
慣れというのは基本的に人を殺します。粗悪な財を使用することや劣悪な環境に慣れてしまうことでどんどんユダヤ的ホメオスタシスが強固になっていきます。というかユダヤ人という人々は、何の問題解決の具体的対策も打ち出さず行わずにそうやって苦痛を味わうことに「慣れれば平気」という大馬鹿な認識で下手な鉄砲数打ちゃ当たるの価値意識で人口を大量生産大量消費してきた人々なんですね。ヒットラーはユダヤ人を戦争賛美者であるみたいなことを言ってますけど、これに関してはヒットラーの言も間違いではないです。あの時代には、人口が増えればそういった悲惨な形で禍が具現化するということです。現代だって少なくとも日本に関して言えば全国民総ユダヤ人化されているようなものであって、充分に悲惨です。
誤解の無いように何度も言っておきますが、私は2011年現在でイスラエルに住む人々を侮辱したり馬鹿にしたりする意図はまったく持っていませんしそのような意志も皆無です。私が心の底から憎いと思うのは日本という国における「穢多」や「ユダヤ」であって「イスラエル」ではありません。
で、精神科医の先生たちが処方してくれる抗精神病薬には、自分で自分を良い方向へ傾けていさえすれば、その良い状態で固定化してくれるという作用が(も)あるんですね。だからこういった薬物は、ストレスと同じく敵にも見方にもなるということです。
やはり何らかの対象への依存症というのは男性ではなく女性に多いです。これはもう肉体に男性器が備わっているか女性器が備わっているかという問題に帰着します。だから女性の依存症を責めるなどというのはナンセンスであり単なる虐待であって絶対にやったらダメです。先の記事でも説明したように、女性は逃れ逃れてまたどんどん他のものへの依存を求めていくからです。それがもう女性の性癖なんです。女性は簡単にセックス依存症に陥ります。売春婦は居ても男娼はほとんど居ません。ということは、また男性でもホモセクシャルにはこういった他物・他者への依存心が強い人間が多いということです。
マルクス経済学はヘーゲル哲学の源流を組んでます。特に愚かな革新的ヘーゲル左派(Junghegelianer、青年ヘーゲル学派)が愚かなマルクス主義の源流となりました。これは極めて(人的な)社会学的・ミクロ経済実践的な馬鹿馬鹿しいものなんですね。Karl Heinlich Marxはその当時の時代の社会的コンテクスト上仕方の無いことだとはいえやっぱり労働者の価値を金銭で計ってますけど、それは結局ヘーゲルの哲学を現実の経済活動に応用したという観点からすれば当然のことなんですね。つまりやはりマルクスも非常にユダヤ的ミクロ経済的価値意識の持ち主なんですね。ちなみにヒットラーはマルキシズムを嫌いました。私は現代日本において日給で働く肉体労働者やアルバイターの人たちの給料は現在の2~3倍あっても何もおかしくないと考えてます、というか社会システムに死荷重与えてカネを浪費するマザーコンプレックスなイデオロギーさえ無ければそうなるはずです、おそらく。あの人たちは一日中・毎日働けるわけではないのでそのくらいの給与でもそんなに大量に稼げるわけではないということもそう考える要因としてあります。
前の記事で、物で他人を釣る不良人間のことを書きましたけど、金で買えるようなものは安物です。これはpricelessな文化的な財を重んじる一種のイギリス的工業感覚と考えても妥当性がありそうです、敢えて日本語で表現するならば。嫌味な意味合いはないです。私はアベラールが大嫌いなんですけど、唯名論にはそれなりの価値があるものだと考えてます、それに思念を囚われなければ、つまりそれが「唯名」であって「唯名論」でなければ。
Der Mensch ist, was er ißt.
2011.12.21 Wednesday
不死身坂から富士山を見ること は 興味が無い。
もうビジュアルでどうとかマンガやアニメやアイドルがどうのこうのとかもうネーミングからしても何もかもがイタいんですね。間違えつくしてます。アレは自分らでやっててイタいとは思わないんですかね?私はサブカルチャーについてあまり知っているわけではないんですけど、知っているところでイタくないのは大塚英志さんその人だけです。もうバカや頭の悪い連中がやると何もかもがイタくて間違えてるものになるんですね。そうやって社会に禍が巻き起こっていく上に、しかもそういったバカ共を助ける不要な技術が現代では多々存在するんですね。そうやってバカ共が死なずにまたそれが禍の大元になっていくんですね。
川端康成の「雪国」に出てくる駒子というのは二次元美少女・ロリアニメキャラのさきがけです。人間的に未成熟で非常に不様です。ロリコンアニメを有害だと叩くのであれば、そういった連中は何故ノーベル賞作家川端康成をまず叩かないんですかね?私はどちらも嫌いです。ロリコンアニメは日本人の必然です、日本人は日本人であるが故にああいうのが大好きなんですから。「眠れる美女」なんてただの美少女マニア好々爺の変態エロクラブです。源氏物語並にいかがわしいです。男性の性欲というのは射精したら終わりです。このことは義務教育である中等教育(中学校)の時点で保健体育の教科書で説明されてます。もしかしたら今はそれよりもっと早く性教育が行われているかもしれません。だからアニメキャラでマスターベーションをしてそれで満足してくれる男性がいてくれるおかげでどれだけ現実に女性が危害を加えられずに済んでいるかということです。絵師の人たちに大感謝するところです。10年くらい前にネットが一般に普及しだしてから性犯罪はおそらく減っていると思うんですけど。ひょっとしたらそれ以外の犯罪も減っているかもしれません。
大多数の男が処女の女を求めるのは、病気でない健全な人間をもとめる健康的な心理からです。売春婦を愛するような川端康成のような人間は非常に不健全です。実際に不健全な内容の小説を書いてます。それが欧米人の目に留まって、オオオージャパニーズブザマソリャセンソウニマケルワケヒャッハーくらいのノリで選んでもらっただけです。それを日本的美でどうこうとかたわけたことをヌカしているからおかしいことになるんですね。あんなものは日本的美でもなんでもなくてただのストレス怨憎の肥溜めです。あの小説に出てくる売春宿を健全だと思えますか?という問題です。正常な感覚を持った人間からすれば何度も言う様に単なる変態ジジイのエロクラブだということです。いろいろと不幸な人たちは今でも居ますし、昔はそういった境遇の人たちが多かったということもあるので川端康成その人を責める筋合いは無いんですけど、あのエロクラブな小説はあまりよろしいものではないです。あんなもの読むのであればエロアニメ画像を見ていた方が余程ストレス解消になって健康的です。その意味では三島由紀夫の小説もストレスの溜まるエロクラブ臭がします。太宰治の小説はスラスラ読めてエロクラブ臭はしません、というかあの時代にしてはギャグセンスは結構高いっぽいです。ストレスはあまり溜まりません。
セックス好きの快楽主義者の売春婦はただそれだけで病気だということです。何故ならばマザーコンプレックスの具現体まさにそれだからです。全ての男は売春婦と結婚したがらないと同時に処女を求めるということは、男性のヒトとしての生存本能に根ざした欲望です。アニオタの人たちの中にはぜんぜんストレスの溜まってないような人がけっこう居たりしますけど、あの人たちはおそらくものすごく健康です。
私はガンダムのアムロが大嫌いなんですけど、あんな幼女的未熟人間をアニメの主人公として描くということには本当にあの時代のブサイクさがありありと現れてます。かといってシャアが大人で現実的というわけではないです。現実では真面目な人間が最も評価されるようになってるんで、ああいった単純な二元的なもので悪意の篭ったものにバカされて騙されて思い込まされると非常にマズいことになります。ガンダムは基本的に「オタクによる、オタクを潰すためのアニメ」だと考えれば妥当性があります。非常にミクロ経済的で悪質です。Lagrange Pointによって規定されためぐり合い宇宙という名の変態エロクラブでひっちゃかめっちゃかヤっているだけです。「子供用のアニメだと自覚して見ている分には問題無い」と思って見ちゃってる人が一番洗脳されやすくて危ないです。
マンガやアニメというのは子供の時に見る(見させられる)から有害だということです。アニメは大人がウサ晴らしにギャグアニメとして見るといいんです。だから何でもギャグ化できる松本人志さんみたいな人が友達に一人いるとよかったりします。「ハハ、陳腐」といってテレビの前から離れて三歩歩いたら忘れるのが正解です。シャアなんて理想的すぎて現実にはありえないという意味で完全にギャグです。マンガもそれがどんな傾向の内容のものであれギャグ的に笑うのを目的として読むことにおいてのみストレス解消になります。ハマるのは厳禁です。三浦健太郎さんの漫画とかはたしか画集が出てて絵的にレベルが高くていいと思うんですけど、冨樫なんとかだとかのマンガなんてのは変質者による有害マンガの最高の見本です。萌えアニメとか最悪にヤバいです。アニメキャラの単なるエロ画像は特にヤバくないです。
いわゆるひきこもりの人々の何がヤバいかというと、物理的に外へ出ないことがヤバいんですね。自由業というか何の職業に就いているか分からない人間というのは居るっちゃいるんで、社会的引きこもりがどうのこうのというマスコミが作り出したマザコンな虚無捏造的妄言に囚われる必要は何処にも無いです。ヒトは太陽の光に当たらないと100%間違いなく健康を害します。肥満の原因にもなります。だから、運動が苦手だという人は日光浴でもぜんぜんいいんで、外へ出て太陽の光に長時間当たった方がいいです。ご老人方でもそうです。曇りや雨の日に無理をして外出する必要は無いです。昔いたギャル男だとかみたいに日焼けサロンへ行けば無問題とかそういうバカなことではないです。あと風呂は換気を良くしてからしっかり入って汗を出した方がいいです。西洋の人はあまり風呂へ入らなくて日本人はよく風呂へ入りますけど、こういった類の慣習はちゃんと身体的な特徴を踏まえてのものなんですね。この風呂に入った方がいいというのはおそらく日本人だけでなく近いところで中国や朝鮮の人たちについても同じです。風呂上がりには牛乳を飲むとか、塩分を摂るとか。塩分については血中におけるCl-の濃度が重要であって(これが低下すると神経が高ぶるそうです)、ナトリウム分はあまり摂らない方が良いです。だから醤油だとかソースケチャップマヨネーズや化学調味料だとかよりも塩がいいです。
川端康成というのは一見健全であるかのように見えるだけの物理的ひきこもりの変態エロ小説家です。それに比べれば宮沢賢治なんてまったく健全です。宮沢賢治は貧しい岩手の農民のことをちゃんと考えてました。春画を集めるのが趣味の一つだったみたいですけど、ストレスを溜めないのが良いというか人間のことについてよく知っているというか、あの時代からして既に日本人の愚かしい部分に気付いてたんではないですかね。実に賢いです。川端康成は女視点というか非常に女性的でグダグダしてるんでイライラしてきます。
こういった身体に関するいろいろな違いというのは属性なんで、この特徴に過ぎないものを特長とか表現するからまたバカなことにおかしいことになるんです。どう考えたって身体機能的には黄色人種は白人や黒人には敵いません。だからその劣った身体的特徴をいろいろな工夫や役立つ技術でカバーしていけば済む話なのに、そこでアイデンティティックにも「特長」とか言う愚か者が居るから馬鹿なことになるんですね。陸上競技で素で戦って欧米人に勝てますか?手足の短い日本人の女性がパリのスーパーモデルに見た目の美しさで敵いますか?という問題です。それをどっかの宣伝屋だか広告屋だかの馬鹿共が小さくてもブサカワイイだとか萌えだとかたわけたことをヌカしているからまたさらにおかしいことになるんです。日本人において見た目なんか問題にしなけりゃいいんです。その点アニオタの男性たちは非常に合理的でした。マスターベーションをして満足してサッとつがいを作って後は淡白、です。
そこで「礼」がどうとか日本人の節度がどうとかまたピーチクパーチク有害なのが愚言をホザきだすんですね。今の若者世代はネットでいろいろ解消されてるんでそういったことを言う人間はまず居ません。自分に都合が悪くなると「礼がどうこう」とかいって逃げるだけなんですね、そういうのは。これは断言できますけど、そういったことを言う人間に限って他者に対する礼は全く欠いていたり平気で横暴を振るったりするんですね。理由は至って単純であり、そういった人間はミクロ経済的価値意識が脳裏に焼きついているからです。つまり自分の都合や利益に応じて場のコンテクストをグダグダに乱してカオスへと導いて、自分だけ都合良くサッと逃げるというのがこういった豚共の行動原理です。これは機動戦士ガンダムというアニメに非常によく観察されます。おそらく実際に戦地へ行ったご老人に覗えば分かると思いますけど、戦場であんなメロドラマ劇をやっていたら即敵に射殺されます。本当にミクロ経済的行動原理を基調とした人間というのはナメてます。自分に対するのみの礼を重んじ、自分に対するのみの節度を他人に求めるという人種であったのが今までの日本人です。こういった連中が跋扈していた社会であったおかげで何度も侵略されたり全世界で唯一原子爆弾を投下されてまで戦争に負けた経験を持つというのに、未だこの国ではこういうのが調子に乗ってのさばってたりするんですね。許し難いとしか言い様が無いです。
心身ともに健康だと野菜とかどんどん食べたくなるんですね。これは全世界の人たちに共通です。ストレスが溜まっていると、肉料理を好んだり、甘いものが食べたくなったり、最悪な場合ジャンクフードに高頻度で手が出てしまったりということになります。それで心身を病んでまたストレスが溜まってまた悪食という悪循環に年とともにわりと簡単に陥るようになります。もしヒットラーがあれで意図的な菜食主義ではなく欲望のままに悪食だったらおそらくもっと早くに病死してました。精神的にも肉体的にも緊張しやすい人というのは肥満しやすく健康を害しやすいですし、逆も然りです。気を遣い過ぎると体に悪いということです。悪循環を抜け出すのにまず第一歩は食生活から変える以外には効果的な方法は無いです。野菜ほど優れた食物はないんで、加熱等の調理をすれば容積も減って食べやすくなりますし、適当に手を加えて何も考えずにどんどん食べた方がいいです。塩をかけて大量に食べれば味的にも量的にも空腹はかなり満たされます。その方がストレスに対する耐性ができたり肉とか甘いものとか体に悪いものを好まなくなって後々いろいろと良くなります。
もうビジュアルでどうとかマンガやアニメやアイドルがどうのこうのとかもうネーミングからしても何もかもがイタいんですね。間違えつくしてます。アレは自分らでやっててイタいとは思わないんですかね?私はサブカルチャーについてあまり知っているわけではないんですけど、知っているところでイタくないのは大塚英志さんその人だけです。もうバカや頭の悪い連中がやると何もかもがイタくて間違えてるものになるんですね。そうやって社会に禍が巻き起こっていく上に、しかもそういったバカ共を助ける不要な技術が現代では多々存在するんですね。そうやってバカ共が死なずにまたそれが禍の大元になっていくんですね。
川端康成の「雪国」に出てくる駒子というのは二次元美少女・ロリアニメキャラのさきがけです。人間的に未成熟で非常に不様です。ロリコンアニメを有害だと叩くのであれば、そういった連中は何故ノーベル賞作家川端康成をまず叩かないんですかね?私はどちらも嫌いです。ロリコンアニメは日本人の必然です、日本人は日本人であるが故にああいうのが大好きなんですから。「眠れる美女」なんてただの美少女マニア好々爺の変態エロクラブです。源氏物語並にいかがわしいです。男性の性欲というのは射精したら終わりです。このことは義務教育である中等教育(中学校)の時点で保健体育の教科書で説明されてます。もしかしたら今はそれよりもっと早く性教育が行われているかもしれません。だからアニメキャラでマスターベーションをしてそれで満足してくれる男性がいてくれるおかげでどれだけ現実に女性が危害を加えられずに済んでいるかということです。絵師の人たちに大感謝するところです。10年くらい前にネットが一般に普及しだしてから性犯罪はおそらく減っていると思うんですけど。ひょっとしたらそれ以外の犯罪も減っているかもしれません。
大多数の男が処女の女を求めるのは、病気でない健全な人間をもとめる健康的な心理からです。売春婦を愛するような川端康成のような人間は非常に不健全です。実際に不健全な内容の小説を書いてます。それが欧米人の目に留まって、オオオージャパニーズブザマソリャセンソウニマケルワケヒャッハーくらいのノリで選んでもらっただけです。それを日本的美でどうこうとかたわけたことをヌカしているからおかしいことになるんですね。あんなものは日本的美でもなんでもなくてただのストレス怨憎の肥溜めです。あの小説に出てくる売春宿を健全だと思えますか?という問題です。正常な感覚を持った人間からすれば何度も言う様に単なる変態ジジイのエロクラブだということです。いろいろと不幸な人たちは今でも居ますし、昔はそういった境遇の人たちが多かったということもあるので川端康成その人を責める筋合いは無いんですけど、あのエロクラブな小説はあまりよろしいものではないです。あんなもの読むのであればエロアニメ画像を見ていた方が余程ストレス解消になって健康的です。その意味では三島由紀夫の小説もストレスの溜まるエロクラブ臭がします。太宰治の小説はスラスラ読めてエロクラブ臭はしません、というかあの時代にしてはギャグセンスは結構高いっぽいです。ストレスはあまり溜まりません。
セックス好きの快楽主義者の売春婦はただそれだけで病気だということです。何故ならばマザーコンプレックスの具現体まさにそれだからです。全ての男は売春婦と結婚したがらないと同時に処女を求めるということは、男性のヒトとしての生存本能に根ざした欲望です。アニオタの人たちの中にはぜんぜんストレスの溜まってないような人がけっこう居たりしますけど、あの人たちはおそらくものすごく健康です。
私はガンダムのアムロが大嫌いなんですけど、あんな幼女的未熟人間をアニメの主人公として描くということには本当にあの時代のブサイクさがありありと現れてます。かといってシャアが大人で現実的というわけではないです。現実では真面目な人間が最も評価されるようになってるんで、ああいった単純な二元的なもので悪意の篭ったものにバカされて騙されて思い込まされると非常にマズいことになります。ガンダムは基本的に「オタクによる、オタクを潰すためのアニメ」だと考えれば妥当性があります。非常にミクロ経済的で悪質です。Lagrange Pointによって規定されためぐり合い宇宙という名の変態エロクラブでひっちゃかめっちゃかヤっているだけです。「子供用のアニメだと自覚して見ている分には問題無い」と思って見ちゃってる人が一番洗脳されやすくて危ないです。
マンガやアニメというのは子供の時に見る(見させられる)から有害だということです。アニメは大人がウサ晴らしにギャグアニメとして見るといいんです。だから何でもギャグ化できる松本人志さんみたいな人が友達に一人いるとよかったりします。「ハハ、陳腐」といってテレビの前から離れて三歩歩いたら忘れるのが正解です。シャアなんて理想的すぎて現実にはありえないという意味で完全にギャグです。マンガもそれがどんな傾向の内容のものであれギャグ的に笑うのを目的として読むことにおいてのみストレス解消になります。ハマるのは厳禁です。三浦健太郎さんの漫画とかはたしか画集が出てて絵的にレベルが高くていいと思うんですけど、冨樫なんとかだとかのマンガなんてのは変質者による有害マンガの最高の見本です。萌えアニメとか最悪にヤバいです。アニメキャラの単なるエロ画像は特にヤバくないです。
いわゆるひきこもりの人々の何がヤバいかというと、物理的に外へ出ないことがヤバいんですね。自由業というか何の職業に就いているか分からない人間というのは居るっちゃいるんで、社会的引きこもりがどうのこうのというマスコミが作り出したマザコンな虚無捏造的妄言に囚われる必要は何処にも無いです。ヒトは太陽の光に当たらないと100%間違いなく健康を害します。肥満の原因にもなります。だから、運動が苦手だという人は日光浴でもぜんぜんいいんで、外へ出て太陽の光に長時間当たった方がいいです。ご老人方でもそうです。曇りや雨の日に無理をして外出する必要は無いです。昔いたギャル男だとかみたいに日焼けサロンへ行けば無問題とかそういうバカなことではないです。あと風呂は換気を良くしてからしっかり入って汗を出した方がいいです。西洋の人はあまり風呂へ入らなくて日本人はよく風呂へ入りますけど、こういった類の慣習はちゃんと身体的な特徴を踏まえてのものなんですね。この風呂に入った方がいいというのはおそらく日本人だけでなく近いところで中国や朝鮮の人たちについても同じです。風呂上がりには牛乳を飲むとか、塩分を摂るとか。塩分については血中におけるCl-の濃度が重要であって(これが低下すると神経が高ぶるそうです)、ナトリウム分はあまり摂らない方が良いです。だから醤油だとかソースケチャップマヨネーズや化学調味料だとかよりも塩がいいです。
川端康成というのは一見健全であるかのように見えるだけの物理的ひきこもりの変態エロ小説家です。それに比べれば宮沢賢治なんてまったく健全です。宮沢賢治は貧しい岩手の農民のことをちゃんと考えてました。春画を集めるのが趣味の一つだったみたいですけど、ストレスを溜めないのが良いというか人間のことについてよく知っているというか、あの時代からして既に日本人の愚かしい部分に気付いてたんではないですかね。実に賢いです。川端康成は女視点というか非常に女性的でグダグダしてるんでイライラしてきます。
こういった身体に関するいろいろな違いというのは属性なんで、この特徴に過ぎないものを特長とか表現するからまたバカなことにおかしいことになるんです。どう考えたって身体機能的には黄色人種は白人や黒人には敵いません。だからその劣った身体的特徴をいろいろな工夫や役立つ技術でカバーしていけば済む話なのに、そこでアイデンティティックにも「特長」とか言う愚か者が居るから馬鹿なことになるんですね。陸上競技で素で戦って欧米人に勝てますか?手足の短い日本人の女性がパリのスーパーモデルに見た目の美しさで敵いますか?という問題です。それをどっかの宣伝屋だか広告屋だかの馬鹿共が小さくてもブサカワイイだとか萌えだとかたわけたことをヌカしているからまたさらにおかしいことになるんです。日本人において見た目なんか問題にしなけりゃいいんです。その点アニオタの男性たちは非常に合理的でした。マスターベーションをして満足してサッとつがいを作って後は淡白、です。
そこで「礼」がどうとか日本人の節度がどうとかまたピーチクパーチク有害なのが愚言をホザきだすんですね。今の若者世代はネットでいろいろ解消されてるんでそういったことを言う人間はまず居ません。自分に都合が悪くなると「礼がどうこう」とかいって逃げるだけなんですね、そういうのは。これは断言できますけど、そういったことを言う人間に限って他者に対する礼は全く欠いていたり平気で横暴を振るったりするんですね。理由は至って単純であり、そういった人間はミクロ経済的価値意識が脳裏に焼きついているからです。つまり自分の都合や利益に応じて場のコンテクストをグダグダに乱してカオスへと導いて、自分だけ都合良くサッと逃げるというのがこういった豚共の行動原理です。これは機動戦士ガンダムというアニメに非常によく観察されます。おそらく実際に戦地へ行ったご老人に覗えば分かると思いますけど、戦場であんなメロドラマ劇をやっていたら即敵に射殺されます。本当にミクロ経済的行動原理を基調とした人間というのはナメてます。自分に対するのみの礼を重んじ、自分に対するのみの節度を他人に求めるという人種であったのが今までの日本人です。こういった連中が跋扈していた社会であったおかげで何度も侵略されたり全世界で唯一原子爆弾を投下されてまで戦争に負けた経験を持つというのに、未だこの国ではこういうのが調子に乗ってのさばってたりするんですね。許し難いとしか言い様が無いです。
心身ともに健康だと野菜とかどんどん食べたくなるんですね。これは全世界の人たちに共通です。ストレスが溜まっていると、肉料理を好んだり、甘いものが食べたくなったり、最悪な場合ジャンクフードに高頻度で手が出てしまったりということになります。それで心身を病んでまたストレスが溜まってまた悪食という悪循環に年とともにわりと簡単に陥るようになります。もしヒットラーがあれで意図的な菜食主義ではなく欲望のままに悪食だったらおそらくもっと早くに病死してました。精神的にも肉体的にも緊張しやすい人というのは肥満しやすく健康を害しやすいですし、逆も然りです。気を遣い過ぎると体に悪いということです。悪循環を抜け出すのにまず第一歩は食生活から変える以外には効果的な方法は無いです。野菜ほど優れた食物はないんで、加熱等の調理をすれば容積も減って食べやすくなりますし、適当に手を加えて何も考えずにどんどん食べた方がいいです。塩をかけて大量に食べれば味的にも量的にも空腹はかなり満たされます。その方がストレスに対する耐性ができたり肉とか甘いものとか体に悪いものを好まなくなって後々いろいろと良くなります。
Kroraina
2011.12.24 Saturday
楼蘭住まいのヴァルキリーは売春婦。
礼儀がどうこうということに関してなんですけど、例えば医院で患者を診療室へ呼び入れる時にどこでもたいてい診療を行う医師本人がアナウンスをしますけど、それにもかからわず診療室の扉を開ける時に「失礼しま~す」と言う人間がいるんですね。こういったところに日本人のナンセンスさというか馬鹿さ加減がよく表れていて如何にもみっともない上に愚かしさ怨憎なんですね。TPOをわきまえられないどころの問題ではないです、こういった連中はTPOをわきまえていると勘違いして思いこんでやってるんですから。医師本人がその患者本人に対してアナウンスをしているわけですから、当然医師は準備が整って患者を診察する用意ができてからコールをかけます。ということは医師は患者が入ってくることを当然認知しているわけです。にもかかわらず入室の際に無意味な礼儀とやらの名目の下に「失礼しま~す」等の声をかけるバカが日本人にはいるということです。ノックすら行う必要はありません。もうこういった行動を見ていると馬鹿な人間においては善悪が逆転しているとしか考え様が無いんですね。実態はおそらく善悪という概念そのものが欠落してるということです。
精神科医の中には都合が悪くなるとボケたフリをする人間がいます。精神科医に限らずこういった人間はどんどん潰されていくまでもなく勝手に潰れていくのが必然なんですけど、こういった馬鹿というよりは意図的な悪意の下に豚芝居を行うクズが何故か生きてしまえるのが三昔くらい前までの日本でした。
謙遜というのは、初対面の人間に対して「お互い一つ下(の心持)で対し合いましょう」というところから人間関係を始めるという日本人の、社会に死荷重を巻き起こす目先の事だけ見ている豚の感情の具現体です。知ではないです。節度だとか礼儀というものについても同じことが言えますけど、万人にとって損益となる愚かな対人的習慣なので知恵ではないです。今の若い先生たちがどうか私には分からないですけど、昔は公立小中学校の馬鹿教師達がこれをひたすら児童生徒に植え付けようと必死に試みてました。ところが人間無意味なへりくだりや屈辱を何らかの形で外部に出さずにいられる程に完全な生命体ではありません。そんなことをしていたら病気になります。その証拠に無教育な人間たちはアメーバの様に人口を増やしていきます。これは歴史を学べば誰もが理解できることです。その結果起こったのは疫病の蔓延であり悲惨の極みである戦争なんですね。だからつまりこういった愚劣な日本的慣習やミクロ経済的価値意識から社会的禍が巻き起こっていくというわけです。大方の愚劣な日本人以外はこんなことは当然の常識として悟っています。そういった馬鹿な人間以外が賢いのではなくてそういった馬鹿な連中が並外れて愚かなだけです。
そういった禍を消すには、アニメや映画の鑑賞では確実に無理でしょうし、ゲームでもどうかな?という感じです。というのはいずれにしてもそこにキャラクター性が絡んでくるからなんですね。そういったオタクの彼らもまた同人とかでサークルを作って売りに走ります。ネットでにしてもそうです。だから萌えアニメや萌えゲーの類は最悪だということです。またそれがストレスの源になるだけです。だからゼビウスみたいな昔のシューティングゲームとかキャラクター性の絡まない単純なゲームがストレス解消に良さげです。最近のゲームのハードのインターフェースがどうなってるのかあまり知らないんですけど、コントローラーとかもファミコンやプレステの昔ながらの左手で十字キーを操作して右手でボタン操作というのは最悪なのでその型のコントローラーがUSB接続のやつで売ってたりしますけど使うのはやめた方がいいです。たしか昔のゲームセンターのゲーム機械は右に操作バーがあって左にABCボタンが三つくらいあるやつでしたけど、あれは結構よさげです。つまりパソコンのキーボードでテンキーや十字キー使って操作を行う分には良い、というかやりたきゃそれでやりゃいいんじゃないの?ということです。
ところで最近よく見るんですけど、正午かそれより前くらいの時間帯に小学生くらいの子供がそこらへんをウロウロしてるんですけど、どうなってるんですかねアレは?なんで学校へ行ってないんですかね?親は何をやってるんですかね?もし学校へ行きたがらない子供が居るとしたらそれはそういった環境を形作っている教師に問題があります。教師が「みんなで面白いことをやろう」と言って行う低脳なバカ騒ぎに正直な子供たちは嫌気が差すということです。教科書を淡々となぞるだけであれば不真面目な人間以外は不満を抱えることは無いです。つまり、大人のように具体的な特定の目的を持って教えを乞いに行くというわけではないので、教師という特定一個人のファシストが作り出すマザーコンプレックスな空気が特に子供にとって過剰にストレスであるということです。例えば授業中に子供を名指して立たせて質問に答えさせるとかそういったことを止めればいいんですね。学校に居てくれるだけでいいからという空気を作り出せば子供は学校へ通うことへ何の抵抗もなくなるでしょう。授業中なんかライティングマシーンやリスニングマシーンをやらせておけばいいんです。そうすれば真面目な子供だけに良い成績が付くようになります。与えられた課題を無心にひたすらこなすということだけを学校では行わせればいいんです。内容のある勉強は子供は家へ帰ってから勝手にやります。頭の悪い教師が馬鹿で下劣なエゴを出すから不必要な反発が生まれたり場合によっては勉強をしなくなったりしてしまう子供が出てくるというわけです。齢四十過ぎの男が自分の人間性をエゴイスティックなヒューマニズムとして教壇の上から15、6歳の子供に向かって主張するその行為がどれだけ幼稚で醜くまた教育上有害であるかということです。学校で無駄なストレスを与えなければ、マンガやゲームやその他悪い遊びやお菓子を食べるだとかいった「甘え」へ走ることもなくなります。
親の中には子供をひたすら甘やかして「かわいがって」自分の意にならないとひたすら虐待するという穢多畜生の分際で人の親になるクズでバカなのがまだ未だに生息してはいるんで、そういった穢多畜生から子供が育つ様に守っていないといけないんですね。義務教育というのはそのために設定されているものです。だからもちろん部活動等で学校に長い時間滞在する子供に学校側は高い評価を与えます。先生たちの中でもまともな人間は、幼児児童を相手にする上で、「強きに勉める」という勉強の意味を知っていて、勉強させるクセをつけるという効果を狙うという点においても成績如何よりも勉強の量を見ているということもあります。「強さ」は「良さ」へ向かうことを良く知ってます。だから勉強を行わずにゲーム等で遊んでいる子供を最も忌まわしいものとして見るわけであって、部活動等の運動を評価に入れる(成績評価において見えないプラスとして入れる)のも同じ理由からです。授業中にいくら学校で習う数学が簡単だからといって塾のテキストの問題をひたすら解くなんてことを行っていると(私は愚かしくもやってました)いくら試験でいい点数を取っても学校の先生たちはいい成績をその生徒に対して付けません。もちろん年齢とともに物事の理解度が重要になっていくので、中等教育、高等教育と進んでいくにつれて努力偏重的成績評価は薄れていきます。
歴史上のユダヤ人というのは弱さがアイデンティティになってしまっていた人々のことです。弱さというのは100%必ず悪意や悪徳に繋がるので、弱さを愛することにはなんのメリットも無いです。百害あって一利も無いのはタバコではなくて「弱さ」です。
最近またストーカーの嫌がらせが激しくなってきたんですけど、とにかく被害者を装ってでも加害行為に及んで(ストーキングは加害行為)でも、被害者に対してとにかく自分達が粘着していることを知らしめるという形で粘着するのがストーカーの(最後の)やり方なんですね。つまりターゲットに敵わないとなるや、幼児的な行為を演じてでも自分らのストーキングをアピールするというのがストーカー連中の最後の逃げ場です。例えば、まるで自分がストーカーをされているような被害を露骨に見せつけるようにわざとらしく被害者の前で演じて見せたり、不美人な女性ストーカーが幼児の行う仕草を故意に行って見せ付けてくるというものがあるんですけど、私はそういった女を見ると、太宰や川端の小説に出てきそうな男をえり好みしながら指をさして笑うのが精一杯の、夜は股を開くのが商売の売春婦を即連想するんですけど、結局はああいった連中はそういう連中だということです。ダメな奴はダメだということ。
いわゆる日本の味付けの「サシスセソ」は塩以外揃いも揃って最悪の食品群です。砂糖も醤油も体に悪いです。体に悪いということはもちろん肉体の一部である脳にも悪いです。酢や味噌もあまり摂取して体に良いものではないです。大豆は良いでしょうけど、変に発酵させた食品を摂りすぎると健康に悪影響です。豆腐でもどうか怪しいくらいなのに納豆なんて体に良いわけがないです。あんなもの幼い年齢の時分から食べさせられるから最悪な味なものを美味いと思い込まされているだけです。納豆というのは洗脳食品です。だから乳製品もヨーグルトを食べるより牛乳を飲んだ方がおそらく良さげです。腐りきった発酵人間である売春婦連中に近寄ると腐敗が伝染します。ああいった豚女共は腹の中が腐敗してます。脳味噌も腐りきってます。マザーコンプレックスというのはそういった人間とコミュニケーションを取るという点からしてどんどん伝染していきます。だからクズな連中には近寄るだけで身に危険が及びます。そういった連中には近寄ったらダメです。
礼儀がどうこうということに関してなんですけど、例えば医院で患者を診療室へ呼び入れる時にどこでもたいてい診療を行う医師本人がアナウンスをしますけど、それにもかからわず診療室の扉を開ける時に「失礼しま~す」と言う人間がいるんですね。こういったところに日本人のナンセンスさというか馬鹿さ加減がよく表れていて如何にもみっともない上に愚かしさ怨憎なんですね。TPOをわきまえられないどころの問題ではないです、こういった連中はTPOをわきまえていると勘違いして思いこんでやってるんですから。医師本人がその患者本人に対してアナウンスをしているわけですから、当然医師は準備が整って患者を診察する用意ができてからコールをかけます。ということは医師は患者が入ってくることを当然認知しているわけです。にもかかわらず入室の際に無意味な礼儀とやらの名目の下に「失礼しま~す」等の声をかけるバカが日本人にはいるということです。ノックすら行う必要はありません。もうこういった行動を見ていると馬鹿な人間においては善悪が逆転しているとしか考え様が無いんですね。実態はおそらく善悪という概念そのものが欠落してるということです。
精神科医の中には都合が悪くなるとボケたフリをする人間がいます。精神科医に限らずこういった人間はどんどん潰されていくまでもなく勝手に潰れていくのが必然なんですけど、こういった馬鹿というよりは意図的な悪意の下に豚芝居を行うクズが何故か生きてしまえるのが三昔くらい前までの日本でした。
謙遜というのは、初対面の人間に対して「お互い一つ下(の心持)で対し合いましょう」というところから人間関係を始めるという日本人の、社会に死荷重を巻き起こす目先の事だけ見ている豚の感情の具現体です。知ではないです。節度だとか礼儀というものについても同じことが言えますけど、万人にとって損益となる愚かな対人的習慣なので知恵ではないです。今の若い先生たちがどうか私には分からないですけど、昔は公立小中学校の馬鹿教師達がこれをひたすら児童生徒に植え付けようと必死に試みてました。ところが人間無意味なへりくだりや屈辱を何らかの形で外部に出さずにいられる程に完全な生命体ではありません。そんなことをしていたら病気になります。その証拠に無教育な人間たちはアメーバの様に人口を増やしていきます。これは歴史を学べば誰もが理解できることです。その結果起こったのは疫病の蔓延であり悲惨の極みである戦争なんですね。だからつまりこういった愚劣な日本的慣習やミクロ経済的価値意識から社会的禍が巻き起こっていくというわけです。大方の愚劣な日本人以外はこんなことは当然の常識として悟っています。そういった馬鹿な人間以外が賢いのではなくてそういった馬鹿な連中が並外れて愚かなだけです。
そういった禍を消すには、アニメや映画の鑑賞では確実に無理でしょうし、ゲームでもどうかな?という感じです。というのはいずれにしてもそこにキャラクター性が絡んでくるからなんですね。そういったオタクの彼らもまた同人とかでサークルを作って売りに走ります。ネットでにしてもそうです。だから萌えアニメや萌えゲーの類は最悪だということです。またそれがストレスの源になるだけです。だからゼビウスみたいな昔のシューティングゲームとかキャラクター性の絡まない単純なゲームがストレス解消に良さげです。最近のゲームのハードのインターフェースがどうなってるのかあまり知らないんですけど、コントローラーとかもファミコンやプレステの昔ながらの左手で十字キーを操作して右手でボタン操作というのは最悪なのでその型のコントローラーがUSB接続のやつで売ってたりしますけど使うのはやめた方がいいです。たしか昔のゲームセンターのゲーム機械は右に操作バーがあって左にABCボタンが三つくらいあるやつでしたけど、あれは結構よさげです。つまりパソコンのキーボードでテンキーや十字キー使って操作を行う分には良い、というかやりたきゃそれでやりゃいいんじゃないの?ということです。
ところで最近よく見るんですけど、正午かそれより前くらいの時間帯に小学生くらいの子供がそこらへんをウロウロしてるんですけど、どうなってるんですかねアレは?なんで学校へ行ってないんですかね?親は何をやってるんですかね?もし学校へ行きたがらない子供が居るとしたらそれはそういった環境を形作っている教師に問題があります。教師が「みんなで面白いことをやろう」と言って行う低脳なバカ騒ぎに正直な子供たちは嫌気が差すということです。教科書を淡々となぞるだけであれば不真面目な人間以外は不満を抱えることは無いです。つまり、大人のように具体的な特定の目的を持って教えを乞いに行くというわけではないので、教師という特定一個人のファシストが作り出すマザーコンプレックスな空気が特に子供にとって過剰にストレスであるということです。例えば授業中に子供を名指して立たせて質問に答えさせるとかそういったことを止めればいいんですね。学校に居てくれるだけでいいからという空気を作り出せば子供は学校へ通うことへ何の抵抗もなくなるでしょう。授業中なんかライティングマシーンやリスニングマシーンをやらせておけばいいんです。そうすれば真面目な子供だけに良い成績が付くようになります。与えられた課題を無心にひたすらこなすということだけを学校では行わせればいいんです。内容のある勉強は子供は家へ帰ってから勝手にやります。頭の悪い教師が馬鹿で下劣なエゴを出すから不必要な反発が生まれたり場合によっては勉強をしなくなったりしてしまう子供が出てくるというわけです。齢四十過ぎの男が自分の人間性をエゴイスティックなヒューマニズムとして教壇の上から15、6歳の子供に向かって主張するその行為がどれだけ幼稚で醜くまた教育上有害であるかということです。学校で無駄なストレスを与えなければ、マンガやゲームやその他悪い遊びやお菓子を食べるだとかいった「甘え」へ走ることもなくなります。
親の中には子供をひたすら甘やかして「かわいがって」自分の意にならないとひたすら虐待するという穢多畜生の分際で人の親になるクズでバカなのがまだ未だに生息してはいるんで、そういった穢多畜生から子供が育つ様に守っていないといけないんですね。義務教育というのはそのために設定されているものです。だからもちろん部活動等で学校に長い時間滞在する子供に学校側は高い評価を与えます。先生たちの中でもまともな人間は、幼児児童を相手にする上で、「強きに勉める」という勉強の意味を知っていて、勉強させるクセをつけるという効果を狙うという点においても成績如何よりも勉強の量を見ているということもあります。「強さ」は「良さ」へ向かうことを良く知ってます。だから勉強を行わずにゲーム等で遊んでいる子供を最も忌まわしいものとして見るわけであって、部活動等の運動を評価に入れる(成績評価において見えないプラスとして入れる)のも同じ理由からです。授業中にいくら学校で習う数学が簡単だからといって塾のテキストの問題をひたすら解くなんてことを行っていると(私は愚かしくもやってました)いくら試験でいい点数を取っても学校の先生たちはいい成績をその生徒に対して付けません。もちろん年齢とともに物事の理解度が重要になっていくので、中等教育、高等教育と進んでいくにつれて努力偏重的成績評価は薄れていきます。
歴史上のユダヤ人というのは弱さがアイデンティティになってしまっていた人々のことです。弱さというのは100%必ず悪意や悪徳に繋がるので、弱さを愛することにはなんのメリットも無いです。百害あって一利も無いのはタバコではなくて「弱さ」です。
最近またストーカーの嫌がらせが激しくなってきたんですけど、とにかく被害者を装ってでも加害行為に及んで(ストーキングは加害行為)でも、被害者に対してとにかく自分達が粘着していることを知らしめるという形で粘着するのがストーカーの(最後の)やり方なんですね。つまりターゲットに敵わないとなるや、幼児的な行為を演じてでも自分らのストーキングをアピールするというのがストーカー連中の最後の逃げ場です。例えば、まるで自分がストーカーをされているような被害を露骨に見せつけるようにわざとらしく被害者の前で演じて見せたり、不美人な女性ストーカーが幼児の行う仕草を故意に行って見せ付けてくるというものがあるんですけど、私はそういった女を見ると、太宰や川端の小説に出てきそうな男をえり好みしながら指をさして笑うのが精一杯の、夜は股を開くのが商売の売春婦を即連想するんですけど、結局はああいった連中はそういう連中だということです。ダメな奴はダメだということ。
いわゆる日本の味付けの「サシスセソ」は塩以外揃いも揃って最悪の食品群です。砂糖も醤油も体に悪いです。体に悪いということはもちろん肉体の一部である脳にも悪いです。酢や味噌もあまり摂取して体に良いものではないです。大豆は良いでしょうけど、変に発酵させた食品を摂りすぎると健康に悪影響です。豆腐でもどうか怪しいくらいなのに納豆なんて体に良いわけがないです。あんなもの幼い年齢の時分から食べさせられるから最悪な味なものを美味いと思い込まされているだけです。納豆というのは洗脳食品です。だから乳製品もヨーグルトを食べるより牛乳を飲んだ方がおそらく良さげです。腐りきった発酵人間である売春婦連中に近寄ると腐敗が伝染します。ああいった豚女共は腹の中が腐敗してます。脳味噌も腐りきってます。マザーコンプレックスというのはそういった人間とコミュニケーションを取るという点からしてどんどん伝染していきます。だからクズな連中には近寄るだけで身に危険が及びます。そういった連中には近寄ったらダメです。
Japan, the island of Goebbels
2011.12.30 Friday
鬼ヶ島には核ミサイルがブチ込まれます。
xさんを仮定します。ストーカーはxさんを攻撃しています。
ストーキングにおいて最もベーシックで有効な攻撃方法はターゲットにサブリミナルをかけることです。これは嫌がらせを大きく超えてます。例えば、xさんが特定の行動Aを取った時に限って「行動Aを取れ」と加害者がxさんに命令することを繰り返すことによって、xさんは加害者に対する妄想的な被害感と被コントロール感を煽られ、そのうちに加害者にコントロールされるようになっていく、というわけです。
私はこれを家族にやられ続けているんですけど、抗精神病薬の服薬という事柄についても同じで、抗精神病薬を服薬した時は睡眠が長くなるその他の原因で家族にはそのことが認知されるんでしょうけど、その時に限って家族は「薬を飲め」と催促してくるというわけなんですね。
これは精神医療についても同じであり、悪質な精神科医は、抗精神病薬の作用のうち、それによって患者が被る不利益をそれが抗精神病薬のせいではないかのように患者に見せかける思わせることによってどんどん被害感情と統合失調症の症状を形作っていくわけです。先の記事でも書いたんですけど、一般に統合失調症の症状と言われているものは抗精神病薬の服薬によって発生します。これは私の様々な状況での長期間の服薬の経験に因るので間違い無いです。これが「副作用である」と説明されていたうちはまだよかったわけです、それが統合失調症の症状ではなく抗精神病薬の(負の)効能だったわけですから。しかしそのうちに精神科医はそれすらも笑いで誤魔化していくようになります。精神科医のうち最悪な者は患者を自殺に追い込むまでやり続けます。実際統合失調症と診断された人間のうち3割の人々は自殺する、と、東京都小平市にある国立精神・神経センター病院(NCNP)の医師が言ってました。
精神科医はまず自分の対患者における位置を確保する為、先の記事で説明した「あらかじめ一義化された人間関係」を俳優を使ってまで演出します。それは待合室における患者(のはずである面々)であったり、受付嬢であったり、薬品会社の社員や学会関係者を装った「俳優」であったりします。中には中学生くらいの子供まで居ます。どうやら現代の日本の社会にもそういった家族がまだ居るんです。そこで精神的に弱っている患者に対してこれでもかという劣等意識を植え付けようとひたすら会話言語的・行動的に様々なことを試みます。そうして「精神科医の先生は絶対権威だ」というテーゼをあらゆる手でもって患者の頭に刷り込もうとします。その次は「絶対である精神科医の○○先生の言う通りに抗精神病薬を飲まねばならない」というところへ精神科医は患者を持っていきます。そしてその後が肝心なんですけど、抗精神病薬を一定長期間服薬させてだんだんと薬を減らしていって病気をきちんと治す、という手順を踏んで精神科医が精神病患者をきちんと治そうとするのならいいです。だから入院を勧めてくる先生というのは少なくともその件に関しては良い先生です。ところが中にはそうではない悪質な精神科医が居るんですね。もちろんこういった悪質なのはストーカーとコラボってます。自分はそんな連中とはビタ一関係無い、病院の外でのことは知らないと言いながら、しっかりと知った上で患者を潰しにかかってきます。私個人のケースではこれにマスコミまで加わってます。患者の様態などどうでもよくひたすら薬を飲ませてシャブ漬けにして、そこでストーカーとコラボって患者(の精神)をグチャミソにするんですね。もちろん被害者である患者は病気が良くなるわけもなく、どんどん悪化して抗精神病薬(の副作用)とあいまって覚醒剤中毒患者さながらになります。言うまでもなくこの精神科医の行いはレイプです。ちなみに私は何年間もこの状態でした。
私は抗精神病薬というものを長期間服薬して、女性におけるそういった「気持ち悪さ」というのはある程度は理解できるつもりです。この間初めて東京大学へ行ったんですけど、ものすごく田舎臭がするんですね。基本的に下町からの独特な臭いが漂ってきてそうなっているというのもありますけど、ともかくあまりの閉鎖感に愕然としました。なんというか事務職員等で粗悪というよりは穢れた田舎の風俗嬢みたいな女が多数雇われてるんですね。しかもその対応の質は最悪でした。
で、こういう気持ちの悪い人間、特に女性で他人から見ても気持ちの悪い人間というのは本人も他人に対して気持ちの悪い思いをしてるんですね。ストレスは当然として対人関係にまつわる具体的記憶をいろいろと溜め込んでしまっているということです。
統合失調症というのはつまりはあらゆる情報を溜め込んじゃってる病なんですね。分かりやすく対人関係にまつわる記憶ということで考えれば、悪い思い出はサッサと吐き出してしまえば解消できますけど、良い思い出というのは忘れたくても忘れにくいです。おそらく女性においては、いい思い出というのは、その「いい思い出を持っている自分がこんな悪い目に合うなんて」という理不尽さを感じてしまう原因にもなるんですね。だから悪い思い出よりいい思い出の方がタチが悪いです。サッサと忘れるに限ります。
ストーカーというのは謂わば弱者の絡み手です。手なずけです。こういったところにも日本人その他の愚かな価値意識がよく表れています。つまり、旧社会主義国家とかのカーゲーベーな感じの恐ろしげな人たちを除いて、こういう幼稚園児みたいなことを大人になってまでやってるのは日本人だけです。
最近のストーカーはストックホルム症候群を狙いだすんですね。もちろんストーカーは屋外においてはストーカー行為以外で直接に自分たちの意を被害者に知らしめるには言語音声を発するしかありませんから、故意の会話を被害者に聞かせるという形をとるわけです。で、その中で(故意の)会話の意味内容的に被害者にとって心地良いものを聞かせてくるケースが多々あるんですね。普通の人は道ですれ違った他人の会話の声の内容なんて全く気にも留めません。が、精神を病んでいる人間にとってそれは異常なまでに意識されるものになります。そうやってどんどん自分たちを意識させてヒビを入れていくというところからストーカーは加害行為を始めていきます。ちなみにこの「ストックホルムな会話を聞かせてくる」という時点ではもう大分被害者にヒビが入って大きな亀裂が出来上がった後なので、被害者がストックホルム症候群の様相を呈しているという時点でストーカーをかわすには若干手遅れの感はあります。
日本という鬼ヶ島が具体的に如何様なモノであったかは、高等教育機関付属の図書館や大きめの図書館で探ってみるとおそらくそういった本が出てきます。絵とかでも日本画でそういったのがあります。ネットで検索して出てくるのはちょっと創作の気があるので微妙なところです。私はグロテスクなものは嫌いなのでそういった具体的なことにはここでは触れません。あえて言うなら江戸時代は強姦天国でした。強姦どころか女性は輪姦され放題でした。最悪です。それより以前の時代は言うに及ばず。
古代ギリシアが人倫の国であるとするなら、日本は鬼畜の国です。前者は奴隷の存在の上に成り立っていた神話的なものであり、後者は現代においても破綻しかかっています。どちらも現実には在り得ません。鬼ヶ島性を排除しない限りは。
xさんを仮定します。ストーカーはxさんを攻撃しています。
ストーキングにおいて最もベーシックで有効な攻撃方法はターゲットにサブリミナルをかけることです。これは嫌がらせを大きく超えてます。例えば、xさんが特定の行動Aを取った時に限って「行動Aを取れ」と加害者がxさんに命令することを繰り返すことによって、xさんは加害者に対する妄想的な被害感と被コントロール感を煽られ、そのうちに加害者にコントロールされるようになっていく、というわけです。
私はこれを家族にやられ続けているんですけど、抗精神病薬の服薬という事柄についても同じで、抗精神病薬を服薬した時は睡眠が長くなるその他の原因で家族にはそのことが認知されるんでしょうけど、その時に限って家族は「薬を飲め」と催促してくるというわけなんですね。
これは精神医療についても同じであり、悪質な精神科医は、抗精神病薬の作用のうち、それによって患者が被る不利益をそれが抗精神病薬のせいではないかのように患者に見せかける思わせることによってどんどん被害感情と統合失調症の症状を形作っていくわけです。先の記事でも書いたんですけど、一般に統合失調症の症状と言われているものは抗精神病薬の服薬によって発生します。これは私の様々な状況での長期間の服薬の経験に因るので間違い無いです。これが「副作用である」と説明されていたうちはまだよかったわけです、それが統合失調症の症状ではなく抗精神病薬の(負の)効能だったわけですから。しかしそのうちに精神科医はそれすらも笑いで誤魔化していくようになります。精神科医のうち最悪な者は患者を自殺に追い込むまでやり続けます。実際統合失調症と診断された人間のうち3割の人々は自殺する、と、東京都小平市にある国立精神・神経センター病院(NCNP)の医師が言ってました。
精神科医はまず自分の対患者における位置を確保する為、先の記事で説明した「あらかじめ一義化された人間関係」を俳優を使ってまで演出します。それは待合室における患者(のはずである面々)であったり、受付嬢であったり、薬品会社の社員や学会関係者を装った「俳優」であったりします。中には中学生くらいの子供まで居ます。どうやら現代の日本の社会にもそういった家族がまだ居るんです。そこで精神的に弱っている患者に対してこれでもかという劣等意識を植え付けようとひたすら会話言語的・行動的に様々なことを試みます。そうして「精神科医の先生は絶対権威だ」というテーゼをあらゆる手でもって患者の頭に刷り込もうとします。その次は「絶対である精神科医の○○先生の言う通りに抗精神病薬を飲まねばならない」というところへ精神科医は患者を持っていきます。そしてその後が肝心なんですけど、抗精神病薬を一定長期間服薬させてだんだんと薬を減らしていって病気をきちんと治す、という手順を踏んで精神科医が精神病患者をきちんと治そうとするのならいいです。だから入院を勧めてくる先生というのは少なくともその件に関しては良い先生です。ところが中にはそうではない悪質な精神科医が居るんですね。もちろんこういった悪質なのはストーカーとコラボってます。自分はそんな連中とはビタ一関係無い、病院の外でのことは知らないと言いながら、しっかりと知った上で患者を潰しにかかってきます。私個人のケースではこれにマスコミまで加わってます。患者の様態などどうでもよくひたすら薬を飲ませてシャブ漬けにして、そこでストーカーとコラボって患者(の精神)をグチャミソにするんですね。もちろん被害者である患者は病気が良くなるわけもなく、どんどん悪化して抗精神病薬(の副作用)とあいまって覚醒剤中毒患者さながらになります。言うまでもなくこの精神科医の行いはレイプです。ちなみに私は何年間もこの状態でした。
私は抗精神病薬というものを長期間服薬して、女性におけるそういった「気持ち悪さ」というのはある程度は理解できるつもりです。この間初めて東京大学へ行ったんですけど、ものすごく田舎臭がするんですね。基本的に下町からの独特な臭いが漂ってきてそうなっているというのもありますけど、ともかくあまりの閉鎖感に愕然としました。なんというか事務職員等で粗悪というよりは穢れた田舎の風俗嬢みたいな女が多数雇われてるんですね。しかもその対応の質は最悪でした。
で、こういう気持ちの悪い人間、特に女性で他人から見ても気持ちの悪い人間というのは本人も他人に対して気持ちの悪い思いをしてるんですね。ストレスは当然として対人関係にまつわる具体的記憶をいろいろと溜め込んでしまっているということです。
統合失調症というのはつまりはあらゆる情報を溜め込んじゃってる病なんですね。分かりやすく対人関係にまつわる記憶ということで考えれば、悪い思い出はサッサと吐き出してしまえば解消できますけど、良い思い出というのは忘れたくても忘れにくいです。おそらく女性においては、いい思い出というのは、その「いい思い出を持っている自分がこんな悪い目に合うなんて」という理不尽さを感じてしまう原因にもなるんですね。だから悪い思い出よりいい思い出の方がタチが悪いです。サッサと忘れるに限ります。
ストーカーというのは謂わば弱者の絡み手です。手なずけです。こういったところにも日本人その他の愚かな価値意識がよく表れています。つまり、旧社会主義国家とかのカーゲーベーな感じの恐ろしげな人たちを除いて、こういう幼稚園児みたいなことを大人になってまでやってるのは日本人だけです。
最近のストーカーはストックホルム症候群を狙いだすんですね。もちろんストーカーは屋外においてはストーカー行為以外で直接に自分たちの意を被害者に知らしめるには言語音声を発するしかありませんから、故意の会話を被害者に聞かせるという形をとるわけです。で、その中で(故意の)会話の意味内容的に被害者にとって心地良いものを聞かせてくるケースが多々あるんですね。普通の人は道ですれ違った他人の会話の声の内容なんて全く気にも留めません。が、精神を病んでいる人間にとってそれは異常なまでに意識されるものになります。そうやってどんどん自分たちを意識させてヒビを入れていくというところからストーカーは加害行為を始めていきます。ちなみにこの「ストックホルムな会話を聞かせてくる」という時点ではもう大分被害者にヒビが入って大きな亀裂が出来上がった後なので、被害者がストックホルム症候群の様相を呈しているという時点でストーカーをかわすには若干手遅れの感はあります。
日本という鬼ヶ島が具体的に如何様なモノであったかは、高等教育機関付属の図書館や大きめの図書館で探ってみるとおそらくそういった本が出てきます。絵とかでも日本画でそういったのがあります。ネットで検索して出てくるのはちょっと創作の気があるので微妙なところです。私はグロテスクなものは嫌いなのでそういった具体的なことにはここでは触れません。あえて言うなら江戸時代は強姦天国でした。強姦どころか女性は輪姦され放題でした。最悪です。それより以前の時代は言うに及ばず。
古代ギリシアが人倫の国であるとするなら、日本は鬼畜の国です。前者は奴隷の存在の上に成り立っていた神話的なものであり、後者は現代においても破綻しかかっています。どちらも現実には在り得ません。鬼ヶ島性を排除しない限りは。
the operating radius
2011.12.31 Saturday
力を抜く。
太平洋戦争中には巷で「日本は神の国」とか言ってる馬鹿がいたみたいですけど、ゼロ戦でフヨフヨしながら神の国じゃねえ真逆だろうがバカがという問題です。三島由紀夫みたいなあのハチマキ巻いて神国日本とか書いてありそうなのをイメージしてもらうと分かりやすいです。だから負けたんです。私は実際戦地へ行ったどこかのジイさんと一晩中語り明かしたことがあるんですけど、その人が言うにはゼロ戦は機動性は抜群だったが耐久性がそれこそゼロに等しくほんの少しやられると即落ちる戦闘機だったらしいです。それで敵にはほとんど全くダメージを与えられずにドカドカやられていきました。しかもそれにも飽き足らず「アメリカは女の国」とか言ってるアホもいたみたいなんですね。女の国はアメリカじゃなくて日本だっつーのバカがという問題です。アメリカが女の国だったら日本は戦争に勝ってます。こういったことに関して男だとか女だとか単純なことを言っているから負けるということです。
戦後日本は思い切り戦争が内乱に転化されてました。三島由紀夫の小説によく書いてありますけど、戦時中というのは内乱が戦争に転化されている状態だったっぽいです。とは言っても戦争なんてものが良いわけもなく、現代ではネットという優れた内乱ツールがあります。逆に言えば日本人はネットというせっかくの優れたツールもそうやって使ってしまうということです。
もちろん近年は改められてますけど、こういった状態をええじゃないか運動のノリで是とする日本は「女の国」と形容されるにふさわしいものであって、ミクロ経済的価値意識に浸された最悪の行いが平気で跋扈する国というわけです。この十年でも海外と日本のネット事情でも見比べて見ればそれがありありと分かります。
邪馬台国の卑弥呼なんて最悪です。あんなもんただのbitchです。
責任転嫁という言葉には女性原理というか女性的な上下による人間関係の構築具合がよく表れています。人間関係の一義化です。もちろんどの女性もこれを互いに行おうとするわけですから当然国家は内乱に陥ります。レーニンの書いたものを読んだことがあるわけではないので断言はできませんけど、おそらくはこのレーニンという人物も発想がかなり女性的です。強姦や輪姦というのは子供が母親に甘えるノリで加害者は被害者に対して危害を加えるんですね。だから女の子供が人形をもてあそぶのと同じで、というかぬいぐるみを弄くるのと同じノリでやってるんで、加害者には加害意識が欠落しているケースがほとんどです。先の記事でも書いたんですけど、女性的なマザーコンプレックスの男性にこういったことを行う人間が多いです。宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯もマザコンの典型みたいな人間でした。昔の日本というのはこういったことが多々行われてました。西洋でもあったでしょうけど、基本的に形はどうあれただの性交であったというのがおそらく欧米人の文化です。ミもフタも無い言い方をすれば女性器にペニスを挿入するのが目的なわけです。日本人のやる「強姦」「輪姦」というのは、目的の女を妊娠させるのが第一義ではなくて、女を辱める・陵辱するのが目的なわけです。だから川端康成の「眠れる美女」みたいな発想が出てくるというわけです。これは女のイジめとそっくりそのまま同じことを(マザコンの)男もやっているということです。これは社会的な死荷重を残すだけというわけであって、最悪です。何も分かってないというか、無知と愚かさの極みです。
中世のヨーロッパでは哲学は神学の婢と呼ばれてましたけど、神学というのは私はほとんど知らないんですけど、おそらくは「知」を重んじるというか出発点にしているものなんではないかと勝手に思ってます。何百年も千年もの昔に西洋でどういったものの考え方が為されていて、そしてそれをもとにどういったものが知であるとされていたのかは正確なことは分かりませんけど、おそらくはそういうことです。哲学にはあまり知は必要ありません、というか知的好奇心の無い人間が哲学という不良学問に走るといっても過言ではないです。Rudolf Steinerという人智(?)神智(?)と言っている百年くらい昔のオーストリアの怪しい哲学者がいるんですけど、この人はそれに関してちょっと示唆的なことを言ってます。ものの見方に関する参考としてまあ面白いと言えば面白いです。
つい最近タクシー会社の前を歩いていたら、30年くらい前のヤンキーのお兄ちゃんかなにかと思わせるような茶髪で
前頭部に剃り込みを露骨に入れた髪形の若者が車の掃除をしてたんですね。で、剃り込みというのはあの髪型は男性器意識が強くなるんですね、形状的に。昔のおっさんとかにM字禿げの男性が多かったのはまあそういうことです。てっぺん禿げの男性はあまり男性的ではありません。
体を楽にして全身の力を抜いた状態だと、男性はペニスが勃起しやすくなります。中国や韓国や朝鮮の人たちがどうなのかはあまり知らないんですけど、日本人がいそいそコソコソしているのに比べて、欧米人はリラックスしてどっしりと構えています。長身であること・筋肉の豊かな付き方・リラックス感、あとは男性ホルモンの分泌量云々、このあたりは明らかに連関があります。背の低い男にはマザコンというかグジグジ気持ち悪い人間が多いです、というか逆も然りです。オタクでも肉体が物理的に大きい人はオタクであることを特に隠してないというか大っぴらにオタクをやっている人が多いです。こういった人にはあまりマザコンな人はいません。おそらく宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯みたいな人間は本当に気持ちの悪いグジグジした感じの人間です。
他人に危害を加えるような自己中心的な行動を連発するような人間をさして「勝手」と日本語では表現しますけど、何か運動行為の時を除いて、腕には力を入れずにブラブラさせておいた方がいいです。「力馬鹿」という表現がありますけど、下腕部の筋力が強い、いわゆる腕力が強い人間には馬鹿な人間が多いです。
今の壮年の世代の男性たちを見れば分かりますけど、昔の人間というのは口がきちっと引き締まったまともな顔をした人間が多いです。昔の白黒の集合写真とか見てもそうですけど、皆整った顔をしています。現代で、とは言っても一昔前ですけど、一部のアイドルが美形だとかなんだとか言われていて若者たちの顔をよくよく見てみればめくれあがった唇や鷲鼻や歪んで綺麗にシンメトリーを描いていないような顔だらけで皆奇形みたいな顔をしている(た)んですね。ぜんぜん美しくもなんともないです。すくなくとも黄色人種の日本人で唇がめくれあがっているというのはもう不健康の証なんで、それだけで異常なんですね。
武術家の甲野善紀さんの本に書いてあったんですけど、五円玉に糸を通してそれを指でつまんで垂らしているだけで体のバランスを治すのに使えます。運動神経の悪さというのはそもそも悪食から始まるんですけど、まあ運動「神経」なるものが仮にあるとして、運動神経の悪い人や筋力の弱い人はこういったところからでも十分トレーニングを始められるんで、何も心配することは無いです。人間の体は左右のどちらかにバランスが崩れています。で、じっと糸をつまんで五円玉を垂らしていると、そのうちにその動きが止まります。そこから微妙に体を回転させるだけで遠心力で五円玉が体と同じ回転運動を始めます。この時に体を回転させる方向が肝心なんですけど、左回転です。時計回りの反対の回転です。そうすると首から上の頭部は意図された体の回転とは逆にねじれる形になります。これがいいんです。個々人によって左右どちらがいいか体の膠着具合によっても違ってきますけど、基本的には左回転で頭部を右に捩れるのがオススメです。その五円玉の回転を指標に微妙に体幹を回転させる運動を続けているだけで非常に体のバランスが良くなってきます。回転させる方向にもよってどちらの肩がという問題ではありますけど、肩こりとかもだいぶ良くなります。ちなみに私はこのバランスの崩れが激しくて非常に不健康体です。
今も古本屋とかへ行くとたくさん置いてありますけど、前世紀~数年前くらいまでの音楽は思い切り頭部の重心を左に傾けさせるものだったんですね。何十年も前のLPレコードがどうだったのか私はよく知りませんけど、クラシックとかでも安物のCDはこういった録音のされ方をしています。イヤホンで聴くとよく分かります。こんなもの聴いていると極端にバカになります。最悪です。
いわゆる論理実証主義の何が問題であるかというと、とある事実について明らかであるにもかかわらずその事実を科学的に実証して自らに不利益になるようなことは実証者は実証しないという点にあります。だから人間に関する具体的行動にベクトルを与えてそれに後付けの性向を当て嵌めて「人間の種類を分類できました!」とか言っているのは大たわけの痴者だということです。現代日本社会においてそれがどういったことになるかというと(なってるかというと)、カネにならないものはやらない(実証しない)、ということになるんですね。で、子供達はそういった環境で育ち大人にとっては明らかであるようなことを何も公式には教わらずに育てられます(ました)。かろうじて噂話で「~は……だって言いますね~」程度で終わらされるということに合い成ります。その行き着く先はミクロ経済的な金銭額だけで全てを計るという大馬鹿丸出しな基準です。こんなものは価値基準でもなんでもなくて子供の算術の挙句のおたわむれです。その挙句の果ては「病気だ、苦しい」というわけです。もう幼児以外の何ものでもないです。そしてそれの対応策として様々な薬物が存在し、またそれがカネの元になるというわけです。おそらく何十年も昔の日本人はこんなに幼児的で愚かではありませんでした。人文科学的知識を軽んじているとそういったことになるんですね。論理実証主義というのはjüdischというか謂わばユダヤ主義です。
過去の人たちはそれが物事に対するどういったアプローチであるにしろ、ちゃんとシステマティックに物事「知って」いたということです。
太平洋戦争中には巷で「日本は神の国」とか言ってる馬鹿がいたみたいですけど、ゼロ戦でフヨフヨしながら神の国じゃねえ真逆だろうがバカがという問題です。三島由紀夫みたいなあのハチマキ巻いて神国日本とか書いてありそうなのをイメージしてもらうと分かりやすいです。だから負けたんです。私は実際戦地へ行ったどこかのジイさんと一晩中語り明かしたことがあるんですけど、その人が言うにはゼロ戦は機動性は抜群だったが耐久性がそれこそゼロに等しくほんの少しやられると即落ちる戦闘機だったらしいです。それで敵にはほとんど全くダメージを与えられずにドカドカやられていきました。しかもそれにも飽き足らず「アメリカは女の国」とか言ってるアホもいたみたいなんですね。女の国はアメリカじゃなくて日本だっつーのバカがという問題です。アメリカが女の国だったら日本は戦争に勝ってます。こういったことに関して男だとか女だとか単純なことを言っているから負けるということです。
戦後日本は思い切り戦争が内乱に転化されてました。三島由紀夫の小説によく書いてありますけど、戦時中というのは内乱が戦争に転化されている状態だったっぽいです。とは言っても戦争なんてものが良いわけもなく、現代ではネットという優れた内乱ツールがあります。逆に言えば日本人はネットというせっかくの優れたツールもそうやって使ってしまうということです。
もちろん近年は改められてますけど、こういった状態をええじゃないか運動のノリで是とする日本は「女の国」と形容されるにふさわしいものであって、ミクロ経済的価値意識に浸された最悪の行いが平気で跋扈する国というわけです。この十年でも海外と日本のネット事情でも見比べて見ればそれがありありと分かります。
邪馬台国の卑弥呼なんて最悪です。あんなもんただのbitchです。
責任転嫁という言葉には女性原理というか女性的な上下による人間関係の構築具合がよく表れています。人間関係の一義化です。もちろんどの女性もこれを互いに行おうとするわけですから当然国家は内乱に陥ります。レーニンの書いたものを読んだことがあるわけではないので断言はできませんけど、おそらくはこのレーニンという人物も発想がかなり女性的です。強姦や輪姦というのは子供が母親に甘えるノリで加害者は被害者に対して危害を加えるんですね。だから女の子供が人形をもてあそぶのと同じで、というかぬいぐるみを弄くるのと同じノリでやってるんで、加害者には加害意識が欠落しているケースがほとんどです。先の記事でも書いたんですけど、女性的なマザーコンプレックスの男性にこういったことを行う人間が多いです。宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯もマザコンの典型みたいな人間でした。昔の日本というのはこういったことが多々行われてました。西洋でもあったでしょうけど、基本的に形はどうあれただの性交であったというのがおそらく欧米人の文化です。ミもフタも無い言い方をすれば女性器にペニスを挿入するのが目的なわけです。日本人のやる「強姦」「輪姦」というのは、目的の女を妊娠させるのが第一義ではなくて、女を辱める・陵辱するのが目的なわけです。だから川端康成の「眠れる美女」みたいな発想が出てくるというわけです。これは女のイジめとそっくりそのまま同じことを(マザコンの)男もやっているということです。これは社会的な死荷重を残すだけというわけであって、最悪です。何も分かってないというか、無知と愚かさの極みです。
中世のヨーロッパでは哲学は神学の婢と呼ばれてましたけど、神学というのは私はほとんど知らないんですけど、おそらくは「知」を重んじるというか出発点にしているものなんではないかと勝手に思ってます。何百年も千年もの昔に西洋でどういったものの考え方が為されていて、そしてそれをもとにどういったものが知であるとされていたのかは正確なことは分かりませんけど、おそらくはそういうことです。哲学にはあまり知は必要ありません、というか知的好奇心の無い人間が哲学という不良学問に走るといっても過言ではないです。Rudolf Steinerという人智(?)神智(?)と言っている百年くらい昔のオーストリアの怪しい哲学者がいるんですけど、この人はそれに関してちょっと示唆的なことを言ってます。ものの見方に関する参考としてまあ面白いと言えば面白いです。
つい最近タクシー会社の前を歩いていたら、30年くらい前のヤンキーのお兄ちゃんかなにかと思わせるような茶髪で
前頭部に剃り込みを露骨に入れた髪形の若者が車の掃除をしてたんですね。で、剃り込みというのはあの髪型は男性器意識が強くなるんですね、形状的に。昔のおっさんとかにM字禿げの男性が多かったのはまあそういうことです。てっぺん禿げの男性はあまり男性的ではありません。
体を楽にして全身の力を抜いた状態だと、男性はペニスが勃起しやすくなります。中国や韓国や朝鮮の人たちがどうなのかはあまり知らないんですけど、日本人がいそいそコソコソしているのに比べて、欧米人はリラックスしてどっしりと構えています。長身であること・筋肉の豊かな付き方・リラックス感、あとは男性ホルモンの分泌量云々、このあたりは明らかに連関があります。背の低い男にはマザコンというかグジグジ気持ち悪い人間が多いです、というか逆も然りです。オタクでも肉体が物理的に大きい人はオタクであることを特に隠してないというか大っぴらにオタクをやっている人が多いです。こういった人にはあまりマザコンな人はいません。おそらく宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯みたいな人間は本当に気持ちの悪いグジグジした感じの人間です。
他人に危害を加えるような自己中心的な行動を連発するような人間をさして「勝手」と日本語では表現しますけど、何か運動行為の時を除いて、腕には力を入れずにブラブラさせておいた方がいいです。「力馬鹿」という表現がありますけど、下腕部の筋力が強い、いわゆる腕力が強い人間には馬鹿な人間が多いです。
今の壮年の世代の男性たちを見れば分かりますけど、昔の人間というのは口がきちっと引き締まったまともな顔をした人間が多いです。昔の白黒の集合写真とか見てもそうですけど、皆整った顔をしています。現代で、とは言っても一昔前ですけど、一部のアイドルが美形だとかなんだとか言われていて若者たちの顔をよくよく見てみればめくれあがった唇や鷲鼻や歪んで綺麗にシンメトリーを描いていないような顔だらけで皆奇形みたいな顔をしている(た)んですね。ぜんぜん美しくもなんともないです。すくなくとも黄色人種の日本人で唇がめくれあがっているというのはもう不健康の証なんで、それだけで異常なんですね。
武術家の甲野善紀さんの本に書いてあったんですけど、五円玉に糸を通してそれを指でつまんで垂らしているだけで体のバランスを治すのに使えます。運動神経の悪さというのはそもそも悪食から始まるんですけど、まあ運動「神経」なるものが仮にあるとして、運動神経の悪い人や筋力の弱い人はこういったところからでも十分トレーニングを始められるんで、何も心配することは無いです。人間の体は左右のどちらかにバランスが崩れています。で、じっと糸をつまんで五円玉を垂らしていると、そのうちにその動きが止まります。そこから微妙に体を回転させるだけで遠心力で五円玉が体と同じ回転運動を始めます。この時に体を回転させる方向が肝心なんですけど、左回転です。時計回りの反対の回転です。そうすると首から上の頭部は意図された体の回転とは逆にねじれる形になります。これがいいんです。個々人によって左右どちらがいいか体の膠着具合によっても違ってきますけど、基本的には左回転で頭部を右に捩れるのがオススメです。その五円玉の回転を指標に微妙に体幹を回転させる運動を続けているだけで非常に体のバランスが良くなってきます。回転させる方向にもよってどちらの肩がという問題ではありますけど、肩こりとかもだいぶ良くなります。ちなみに私はこのバランスの崩れが激しくて非常に不健康体です。
今も古本屋とかへ行くとたくさん置いてありますけど、前世紀~数年前くらいまでの音楽は思い切り頭部の重心を左に傾けさせるものだったんですね。何十年も前のLPレコードがどうだったのか私はよく知りませんけど、クラシックとかでも安物のCDはこういった録音のされ方をしています。イヤホンで聴くとよく分かります。こんなもの聴いていると極端にバカになります。最悪です。
いわゆる論理実証主義の何が問題であるかというと、とある事実について明らかであるにもかかわらずその事実を科学的に実証して自らに不利益になるようなことは実証者は実証しないという点にあります。だから人間に関する具体的行動にベクトルを与えてそれに後付けの性向を当て嵌めて「人間の種類を分類できました!」とか言っているのは大たわけの痴者だということです。現代日本社会においてそれがどういったことになるかというと(なってるかというと)、カネにならないものはやらない(実証しない)、ということになるんですね。で、子供達はそういった環境で育ち大人にとっては明らかであるようなことを何も公式には教わらずに育てられます(ました)。かろうじて噂話で「~は……だって言いますね~」程度で終わらされるということに合い成ります。その行き着く先はミクロ経済的な金銭額だけで全てを計るという大馬鹿丸出しな基準です。こんなものは価値基準でもなんでもなくて子供の算術の挙句のおたわむれです。その挙句の果ては「病気だ、苦しい」というわけです。もう幼児以外の何ものでもないです。そしてそれの対応策として様々な薬物が存在し、またそれがカネの元になるというわけです。おそらく何十年も昔の日本人はこんなに幼児的で愚かではありませんでした。人文科学的知識を軽んじているとそういったことになるんですね。論理実証主義というのはjüdischというか謂わばユダヤ主義です。
過去の人たちはそれが物事に対するどういったアプローチであるにしろ、ちゃんとシステマティックに物事「知って」いたということです。