[PR]
2025.04.16 Wednesday
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
Bessarabia
2011.12.12 Monday
血塗られた回廊。
※ この記事では自分語りが混ざっているので、少々イタいです。そういったものが不愉快な方はお読みにならないことをおすすめします。
私は自分の父親が若い女みたいな人間でした。身近な人間には自分と同じであることをひたすら求め、そのエゴイスティックな幼児的欲望が叶わないとなるとまた幼児のようにダダをこねてギャーギャーヒステリックに怒鳴り散らす若い女そのもののような男でした。マザコン男の権化であり、自分の正当性を必死になってでっち上げる為には何でもやって頑張るというナメた人間そのものであり、恐怖感と被害感情に満ち満ちた幼児の女のようなオカマ野郎でした。まるで粗悪な若い女の様な、家の外では醜くへりくだっておべっかを使い回し、家族や部下に対して「たのむからボクにおとなしくイジめられてくれよぉー」という一見俗悪なマンガの中二キャラかと思わせる幼児の様な対応しかできず、自分は他者にいくらでも危害を加える分際で自分が他者に危害を加えられるとなると一転して表情を変え「ボ、ボクを攻撃しないでくれよぉー」と懇願する他人をナメた情けないチキンそのものでした。母親に甘える的なそういったワガママが幼い子供にすら通じないとなるや、「オレのなぐさみものになれえ」と言わんばかりに虐待を始めます。もはや身勝手とかそういったレベルではなくてサイコパスのキチガイです。幼児です。我欲のカタマリです。おそらく宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯みたいな幼い子供を狙って虐殺を行うようなマザコンの変質者はこの類です。自身が幼女的なので自分と同質な幼女を求めるということです。
母親は豚でした。ユダヤの豚肉女という以外に形容し様の無い人間でした。
どちらも愚かで弱い人間でした。テレビを点けるや否や悪口のオンパレードがその場を満たし、そのおかげで私は子供の頃から親が居るだけで反吐が出る程気持ちの悪い思いを強制されていました。特に父親が他人の悪口を言わない日は一日たりともありませんでした。この男は祖父母をはじめとして親戚中で嫌われてました。当人がひたすらエゴの塊であって他人を嫌っているのだから当然のことです。その分際で自分が他人に嫌われることは受け入れられないという薄弱な精神の持ち主です。人に嫌われるカンチガイ野郎の典型です。そういったマザーコンプレックスの人間の作り出す社会・生活環境で育った私は必然的に精神も肉体も病んで統合失調症と精神科で診断されるということに合い成りました。私もまた人格的にかなりの欠陥があることを自分でもよく自覚しています。
こういった人間的に欠陥のある人間というのは物で釣ってきます。もっと極端な場合だとカネで釣ってきます。こういったモノに基点を置く人間というのはたまに居ますけど、少なくとも私の経験ではすべて嫌われ者でした。自分の人徳の足りなさ具合をモノやカネでカバーしようとする愚劣な人間です。彼らは人間関係の未熟さをカバーするために物や金を他者との関係のつがいとして利用するということを行います。非常に危険なのでこういった人間とは絶対に付き合ったらダメです。私は親がこういった幼児的人間だったので非常に苦労をしました。私はあまり人付き合いを好まないんですけど、あまり他人にいたずらに不快な思いをさせたくないので、自分に人格的な欠陥があることを自覚している人間としてはあまり他者とコミュニケーションを取らない方が良いと考えているということもあります。
あとはヘタレ男好きの女というのはヤバいです。マザコンの女の典型です。絶対に近寄ったらダメです。後で妖怪嫉妬豚にバケます。
一つ前の記事でストーカーについて書いたんですけど、ストーカーはそもそも特定の状況にまつわる前提αを恣意的に捏造して、状況Aは本来Aでしかない有り得ないものを(A×α)として被害者に認知させるということを試みてきます。だからストーカー被害に会いつづけているといつの間にかありもしない幻想に囚われたり事象の認知度量衡が歪んでいったりします。そうやって被害妄想や偏見意識や差別感情を煽って被害者をボロボロにして社会的死荷重を巻き起こしていくのがストーカー達の狙いです。ちょっとズレますけど、つまりはマスメディアというのは全国民に対するブロードバンドなストーカーというわけです。これは日本のマスコミの場合であって、イギリスのBBCのニュースなんか見てるとかなりまともです。
人的資本な観点から言えば、つまりはキャラを勝手に作ってそれを好きに叩くということを行うんですね。これの最も分かりやすい典型的な例が某巨大匿名掲示板群です。
ストーカーはA×αにおいて通常の(あらゆる意味での)対人関係の齟齬を微妙に超える程度でαを増長させてきます。何故ならば、被害者に微妙な被害感を与えて自分達の相手をさせるためであると同時に、被害者の虚像を都合のいい具合に歪めてゆくのに、その程度がストーカーにとっては都合がいいからです。αが小さ過ぎると被害者は自分達の相手をしてくれず、αが大きすぎると被害者がストーキングを被害だと認知してくれずに虚像が一人歩きするだけでストーキングとしての攻撃効果があらわれないからです。悪質な精神科医はこれを故意に行ってきます。
この被害に遭い続けていると、被害者は事象について個々のそれ(da)が自分に直接関係しているのではないかという認識・妄想に取り憑かれます。つまり、ふとした折に一見してそれが自己に対する客観的な認識であるかのようなものに立ち返る機会が通常では考えられない程に増えるということです。それが繰り返されていくと、自己が外部化され且つまた同時に世界が自己に内部化されるという通常では考えられない事態になります。そうすると、「自分を読まれている」という妄念に取り付かれるようになり、また同時に自己以外の世界の事象を認知しそしてそれが自己内化されているので予測でき(ていると思い込んでい)るようになったりします。その予測が正確であるかどうかは少なくともとある人間一個人に断定できるものではないです、が、やはり人間の身体(脳)の構造的にヒトという生き物としてはそういったものを「同じである」と思う点において合っていると考えてしまうみたいなんですね。だからとある人が他者のそういった妄念を鑑みて「当たっている」と思ったりすることもあるに過ぎないということです。まあ仮にそれが的を得ていたとしても、単なるストーカーの怪我の功名であり同時にストーカーの被害者の怪我の功名であるに過ぎないです。ヘーゲル的に考えれば(言えば)、結果としてその時に宗教や哲学が成立しているということです。オカルトや性格判断を絶対だと信じ込んでしまう異常心理もこういったものです。占いというものはつまりは確固とした自己認識を与えてさまよえる子羊に明確な立ち位置を与えるということを試みるものであって元来的にこういったものだということなのかもしれません。
例えば「晴れの天気である」という事象があります。特定のxさんが行動Aをとった時はxさんは「晴れの天気である」ことには気付きません。xさんが行動Bをとった時にはxさんは「晴れの天気である」ことに気付きます。この場合において行動Bを繰り返していると、xさんは「自分が行動Bをとったから→晴れの天気である」という誤った認識にいつの間にか取り憑かれていきます。ちなみにこの行動Aと行動Bというのは養老孟司さんの唯脳論的な身体感覚+単純な二者択一であって例としては絶対のものだったりします。分かりやすくは先の記事で書いたx軸とy軸で自分の位置がどうのこうのということです。認知する事象がふとした一瞬の映像的な意味での場の構成だったらいいですけど、主に人的なコンテクストが絡んでくると間違えるつまり被害を認識してしまうということです。だから例えば人の滑稽さを一段高いところからバカにする傾向というのはこの統合失調症という被害妄想病への掛かりやすさの尺度として参考になりそうです。
もう一つ例を。私の父親は事象Aについて第三者と話をしているフリをして被害者(私)に意図的に聞かせる(状況A)ということを行ってきます。そしてご丁寧なことにしばらくしてから事象Aについての事柄を私に訊ねるということを行います。これは状況Aを状況ではなく事象(sein)であると被害者に認知させるための子供滲みた行為です。私が自分の父親を女性的で幼いと馬鹿にしているのは、こんなやり方は小学生でも見抜けるというか少なくとも私は小学生の時からそれを理解していましたし、頭の悪さを極めているからということであり、それにもかからわずナチ的に何百万回と繰り返してくるからという意味もあります。極度に頭が悪いか嫌がらせという形で他者の存在に精神的に依存することから抜け出せないかのどちらかです。私がヒットラーに非常に興味を持つのは、アドルフ・ヒットラーという人物もその主張も自分の父親の幼女的稚拙性と非常に被るからです。
これ(コンテクスト)が文字・音であったり、また学問では物理学であったりする場合は、ここで説明しているケースとはまた別であって、絶対的なものと考えて問題無さそうです。その意味ではこういった類の絶対的なものこそが社会主義のテーゼなのかもしれません。それを無知な人間たちが、快楽に溺れて「自由!自由!」と叫びたてるところから社会システムの破綻や禍根その他よろしくないものが始まると考えて間違いなさそうです。だからつまりはナチスは最悪だということです。ナチスの行ったことを鑑みれば分かるとおり、国家社会主義の名目のもとに行われていたものは社会主義や安定した社会システムのアンチテーゼであり、売国行為以外の何物でもないです。
単細胞でコミュニケーション下手な人間というのは、それが具体的行動だろうが言語使用においてであろうが全ての事象について一義性を求めるんですね。だから見た目凄まじく頭が悪く見えますし、実際頭が悪いです。IT関連でシステムのエンジニアとかになれるほどに勉強のできる人だったらいいですけど、大抵の場合では頭が悪くて工学的というよりは工業高校的に決まったこと以外のことをひたすら恐れて人間関係においてまで一義性を他者に強要します。しかし人間誰しも他者に見下されたり暴力を振るわれたりするのは嫌なので、そこで彼らは無根拠に自分が他人より偉くそして相手を自由に操る権限を持っているという前提を設定して他者との人間関係を構築しようとします。だから相手にしてみれば異常なまでにウザいです。凄まじいほどに身勝手の極みです。自分が他人に恐れられていることを快感に感じているようで実のところ自分が他人を恐れているだけです。もうその脳ミソ筋肉な頭の悪い空威張りぶりがありありと見え透いて分かるので極度にウザいです。だからこういった人間は最悪なまでに他者に疎まれて、とくに現代の民主主義社会においては当然のことながら排斥されます。昨今「アラブの春」と言われてどんどん中東で民主化が進んでますけど、歴史上の独裁者や暴君は全てこういった人間たちです。すべて田舎者気質な愚かなアベラール達です。賢いアウグスティヌスのような人間はこういったのには居ません。
一つ例を。私が台所で簡単な料理をしていると、私の父親は「何をやっとるんだ!」と言ってきたので、私は「料理をしている」と答えたところ、「そう言え」という一見して意味不明な言動を行ってきました。これは実のところ意味不明なものでも何でもなく、「単なる事実の伝達であるにもかかわらず、まるで相手がそう(本心から)告げているのではないかのようなテーゼをその場で構築し、相手の被害感情を煽る」という極めて稚拙な試みなわけです。そもそも単なる事実の伝達において、そこに「(本)心」は絡まないわけです。にもかからわず相手においてそこに感情が存在するかの様に前提を設定して他者とのコミュニケーションへと臨むということが、つまり人間関係を構築するにおいての「無根拠な優越性」を他者に強要するものであるというわけです。こういった人間が極めて幼児的であり他者に疎ましがられ排斥されるのは当然のことです。私はこれを幼児の時からひたすら毎日やられ続けました。ちなみに私の父親は、全くの他人に対しては極めて(偽)善人の仮面を被るので、つまりはそういった行為に及んでも自分には危害が及ばないような対象を見つけて故意にこういった行為に及ぶ類の人間です。子供の頃の人間関係を思い出すに、嫌われ者があまり友達のいない一人でいるような子に目を付けて近づいていくのはこういった単純な理由からです。自分の子供に関しては、故意にそういった人間に仕立て上げて自分のキャラを上げる為に利用する、という実に悪徳なエゴイストです。赤の他人は全くこんなことは知りませんが、親族一同はよくこの本性を知っているのでこの男は親族中で嫌われています。
で、嫌われ者のアベラール達が連携して他者を攻撃したり叩きを行っている(た)のが某巨大匿名掲示板群です。YouTubeやtwitterなんてまだぜんぜん健全な香りがします。
水谷修さんという「夜回り先生」の人が居ますけど、あの人は「いいんだよ」とか言ってますけど、こういった連中は「いいんだよ」と言われ続ける度に図に乗って増長するのがもはや性癖なんですね。カンチガイして調子に乗って人を騙したり悪い方向へ陥れるようなことも平気でやります。最悪です。だから最初の一言目だけはユダヤ的なホメオスタシスをやわらかくほぐす為に有効ではあるが、以降は有害以外の何物でもないということです。
やっぱり不良連中というのはどんな形で頑張っても結局ダメなんです。私も10代の頃はそういった不良な人間でもまだ見どころはあるいい奴も居るなんて思ってた時期もあって、無理をして自身も半ば故意に落ちぶれたこともありましたけど、もうそうやって根本的に良くもないものを無理やり良いと思うことにも精魂尽き果てました。なんでああいった馬鹿共は馬鹿なのに死なないんですかね?馬鹿は死ぬように出来てるはずなんですけど?この社会に溢れる面白いもの楽しいものなんてのは全てユダヤの釣りです。某巨大匿名掲示板群あたりを見ればそれがありありと分かります。マンガ?アニメ?ゲーム?ロック音楽?あんなもん揃いも揃って全部クソです。売春婦育成産業です。売春夫育成産業です。別にいいんですよ?あったって。暴走族の若者たちが無人地帯でバイクで暴走してたってそれが彼らのストレス解消になるならいいです。ジブリのアニメやガンダムを見てつかの間の幼児的人間性に惚れ込んでサッと画面から離れてそれを忘れられるならいいです。自分を悪党だと自覚していない悪党が大糞たわけの馬鹿者だということです。ヤーさんになる覚悟も無しにバイクにまたがらずに趣味で部屋でチンピラロック音楽聞いてたら頭が悪くなるどころか馬鹿になるということです。単なる悪影響の極みです。不良はどう頑張ったって良ではないから不良なんです。不良だからダメなんではなくて、ダメだから不良になるということです。ダメだからダメなんです。不良人間にとって都合のいいギリシア神話的な人倫の国なんて世界の何処を探したってありません。「精神現象学」を読む限りではヘーゲルは不良哲学者です。というか中島義道さんもそうですけど本物の哲学者というのはたいていの場合不良人間です。ナメるのも大概にしろという話です。ダメな奴はダメということ。東大教授だって新聞に愚にもつかない記事を載せてるようなのは不良です。私が学生時代にはあろうことか「成績が良いっていうのはダメですよー」と言うクズ教員が居ました。追い詰めるまでもなく勝手に奴らは秩序から逃げていきます。子供さえ作らせなければ奴らは逃れ逃れて勝手に自滅していきます。それが不良人間が不良人間である必然だからです。なんでこんな単純なことが(奴らには)分からないんですかね?マンガ教育のせいです。「悪い属性の不良人間でも実はいい奴もいる」という内容矛盾の極みであるマザコン馬鹿マンガ教育とそれを推進した公立小中学校の馬鹿教師たちに因ります。10歳に満たない子供の頃からこれをやられ続けて私の世代は多くの真面目な(真面目に先生の言うことを聞かないといけないと思いこんでいる)人間がオタクに作り変えられました。小学校の教師が誘導するような馬鹿丸出しなノリで「みんなでわーたのしい」において楽しくないと思ってくれる人間がいるんでまだ救われてるんですね。これがみんなが楽しくなったら破滅です。国家も何もかもが破綻します。私は実際に程度の低いクズ共をよく見てきましたけど、他者に迷惑をかけない程度に適度に楽しめるという知性のある人間ばかりではないんです。昔の某匿名巨大掲示板群あたりを見ればありありとわかるはずです。筑紫哲也さんが昔ネットを便所のゴミ箱と言ってましたけど、その便所のゴミ箱へ若者を導いたのは当の筑紫哲也さんみたいなマスメディアの人間や左翼の人間たちなんですね。本当にナメ腐ってます。
カフカの「城」という小説がありますけど、あそこに出てくる「城」は当然に官僚主義のメタファーですけど、アレはミクロ経済的価値意識に基づく下から見た官僚機構の像であり極めて悪質なものです。何が悪質かというと「下から見た官僚機構の像でありその着眼点的にミクロ経済的価値意識をベタ塗りにして描かれているから」です。官僚の人たちというのはそういったミクロ経済的なものにとらわれておらず、もっと賢いです。というかそうでないと東京大学にも入れませんし官僚になるための国家試験にも通らないようになってます。だいたいカフカの小説はあまりの精神異常ぶりに読んでてイライラしてくるんですけど、カフカ自身がユダヤ人でミクロ経済的な自己中心的価値意識の持ち主だということです。
北野武さんがたしかそういった優生学的内容について本で書いてましたし、Heinrich Himmlerは凄まじい優生学的観念に取り憑かれてましたけど、ヒムラーは禍のもとになるものをを消そうとしていたんですね。もちろんその結果としてユダヤ人虐殺に走ったのは最悪であってしかも間違えてます。しかし、「禍根をわざわざ作り出すような、ヒムラー的な憂いのもと」を作り出す人間というのが現代社会においても未だにガンバって生息しているんですね。もし仮にヒムラーがそれを自覚しながら泥を被るつもりで誰かがやらねばならないという考えのもとそれを行ったとしたなら、ヒムラーは実に優しい人です。おそらくあの時代、そのコンテクストにおいてそのままいくと、ユダヤ人だけどころではなく、人類全てが悲惨な目にあって苦しむことをちゃんとヒムラーは分かってたんですね。しかしだからといって強制収容所をつくってユダヤ人その他の「異常な」人々を送り込んで詰め込んでしまったことに時代を映したヒムラーの狂気とナチスの狂気がありありと映されています。当然歴史の教科書が説明するようにヒムラー配下のSchutzstaffelが行ったことは最悪です。メルケル首相もネオナチをドイツの恥みたいなことを言ってます。しかしAdolf Hitler個人は踊らされて利用されたあわれな犠牲者である感があります。しかもヒットラーはそのこと自体を自覚した上で、泥を被ってピエロを演じていた感があります。だからピエロを演じているというピエロであって二重にピエロではなかったかということです。
赤い勢力たちの収奪の場になっていつも苦しめられるのはその地の民衆です。アカな人間というのはどんなに一見した善人性を取り繕っていても人間をダメな方向へダメな方向へ自覚的にも無自覚的にも持っていきます。自分らだけのサークルやファミリーを作って他者を排斥したり攻撃したりするということです。社会的に弱い人たちはそういった場面でいつも犠牲になってきました。しかし今はネットという優れたツールがあります。
※ この記事では自分語りが混ざっているので、少々イタいです。そういったものが不愉快な方はお読みにならないことをおすすめします。
私は自分の父親が若い女みたいな人間でした。身近な人間には自分と同じであることをひたすら求め、そのエゴイスティックな幼児的欲望が叶わないとなるとまた幼児のようにダダをこねてギャーギャーヒステリックに怒鳴り散らす若い女そのもののような男でした。マザコン男の権化であり、自分の正当性を必死になってでっち上げる為には何でもやって頑張るというナメた人間そのものであり、恐怖感と被害感情に満ち満ちた幼児の女のようなオカマ野郎でした。まるで粗悪な若い女の様な、家の外では醜くへりくだっておべっかを使い回し、家族や部下に対して「たのむからボクにおとなしくイジめられてくれよぉー」という一見俗悪なマンガの中二キャラかと思わせる幼児の様な対応しかできず、自分は他者にいくらでも危害を加える分際で自分が他者に危害を加えられるとなると一転して表情を変え「ボ、ボクを攻撃しないでくれよぉー」と懇願する他人をナメた情けないチキンそのものでした。母親に甘える的なそういったワガママが幼い子供にすら通じないとなるや、「オレのなぐさみものになれえ」と言わんばかりに虐待を始めます。もはや身勝手とかそういったレベルではなくてサイコパスのキチガイです。幼児です。我欲のカタマリです。おそらく宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯みたいな幼い子供を狙って虐殺を行うようなマザコンの変質者はこの類です。自身が幼女的なので自分と同質な幼女を求めるということです。
母親は豚でした。ユダヤの豚肉女という以外に形容し様の無い人間でした。
どちらも愚かで弱い人間でした。テレビを点けるや否や悪口のオンパレードがその場を満たし、そのおかげで私は子供の頃から親が居るだけで反吐が出る程気持ちの悪い思いを強制されていました。特に父親が他人の悪口を言わない日は一日たりともありませんでした。この男は祖父母をはじめとして親戚中で嫌われてました。当人がひたすらエゴの塊であって他人を嫌っているのだから当然のことです。その分際で自分が他人に嫌われることは受け入れられないという薄弱な精神の持ち主です。人に嫌われるカンチガイ野郎の典型です。そういったマザーコンプレックスの人間の作り出す社会・生活環境で育った私は必然的に精神も肉体も病んで統合失調症と精神科で診断されるということに合い成りました。私もまた人格的にかなりの欠陥があることを自分でもよく自覚しています。
こういった人間的に欠陥のある人間というのは物で釣ってきます。もっと極端な場合だとカネで釣ってきます。こういったモノに基点を置く人間というのはたまに居ますけど、少なくとも私の経験ではすべて嫌われ者でした。自分の人徳の足りなさ具合をモノやカネでカバーしようとする愚劣な人間です。彼らは人間関係の未熟さをカバーするために物や金を他者との関係のつがいとして利用するということを行います。非常に危険なのでこういった人間とは絶対に付き合ったらダメです。私は親がこういった幼児的人間だったので非常に苦労をしました。私はあまり人付き合いを好まないんですけど、あまり他人にいたずらに不快な思いをさせたくないので、自分に人格的な欠陥があることを自覚している人間としてはあまり他者とコミュニケーションを取らない方が良いと考えているということもあります。
あとはヘタレ男好きの女というのはヤバいです。マザコンの女の典型です。絶対に近寄ったらダメです。後で妖怪嫉妬豚にバケます。
一つ前の記事でストーカーについて書いたんですけど、ストーカーはそもそも特定の状況にまつわる前提αを恣意的に捏造して、状況Aは本来Aでしかない有り得ないものを(A×α)として被害者に認知させるということを試みてきます。だからストーカー被害に会いつづけているといつの間にかありもしない幻想に囚われたり事象の認知度量衡が歪んでいったりします。そうやって被害妄想や偏見意識や差別感情を煽って被害者をボロボロにして社会的死荷重を巻き起こしていくのがストーカー達の狙いです。ちょっとズレますけど、つまりはマスメディアというのは全国民に対するブロードバンドなストーカーというわけです。これは日本のマスコミの場合であって、イギリスのBBCのニュースなんか見てるとかなりまともです。
人的資本な観点から言えば、つまりはキャラを勝手に作ってそれを好きに叩くということを行うんですね。これの最も分かりやすい典型的な例が某巨大匿名掲示板群です。
ストーカーはA×αにおいて通常の(あらゆる意味での)対人関係の齟齬を微妙に超える程度でαを増長させてきます。何故ならば、被害者に微妙な被害感を与えて自分達の相手をさせるためであると同時に、被害者の虚像を都合のいい具合に歪めてゆくのに、その程度がストーカーにとっては都合がいいからです。αが小さ過ぎると被害者は自分達の相手をしてくれず、αが大きすぎると被害者がストーキングを被害だと認知してくれずに虚像が一人歩きするだけでストーキングとしての攻撃効果があらわれないからです。悪質な精神科医はこれを故意に行ってきます。
この被害に遭い続けていると、被害者は事象について個々のそれ(da)が自分に直接関係しているのではないかという認識・妄想に取り憑かれます。つまり、ふとした折に一見してそれが自己に対する客観的な認識であるかのようなものに立ち返る機会が通常では考えられない程に増えるということです。それが繰り返されていくと、自己が外部化され且つまた同時に世界が自己に内部化されるという通常では考えられない事態になります。そうすると、「自分を読まれている」という妄念に取り付かれるようになり、また同時に自己以外の世界の事象を認知しそしてそれが自己内化されているので予測でき(ていると思い込んでい)るようになったりします。その予測が正確であるかどうかは少なくともとある人間一個人に断定できるものではないです、が、やはり人間の身体(脳)の構造的にヒトという生き物としてはそういったものを「同じである」と思う点において合っていると考えてしまうみたいなんですね。だからとある人が他者のそういった妄念を鑑みて「当たっている」と思ったりすることもあるに過ぎないということです。まあ仮にそれが的を得ていたとしても、単なるストーカーの怪我の功名であり同時にストーカーの被害者の怪我の功名であるに過ぎないです。ヘーゲル的に考えれば(言えば)、結果としてその時に宗教や哲学が成立しているということです。オカルトや性格判断を絶対だと信じ込んでしまう異常心理もこういったものです。占いというものはつまりは確固とした自己認識を与えてさまよえる子羊に明確な立ち位置を与えるということを試みるものであって元来的にこういったものだということなのかもしれません。
例えば「晴れの天気である」という事象があります。特定のxさんが行動Aをとった時はxさんは「晴れの天気である」ことには気付きません。xさんが行動Bをとった時にはxさんは「晴れの天気である」ことに気付きます。この場合において行動Bを繰り返していると、xさんは「自分が行動Bをとったから→晴れの天気である」という誤った認識にいつの間にか取り憑かれていきます。ちなみにこの行動Aと行動Bというのは養老孟司さんの唯脳論的な身体感覚+単純な二者択一であって例としては絶対のものだったりします。分かりやすくは先の記事で書いたx軸とy軸で自分の位置がどうのこうのということです。認知する事象がふとした一瞬の映像的な意味での場の構成だったらいいですけど、主に人的なコンテクストが絡んでくると間違えるつまり被害を認識してしまうということです。だから例えば人の滑稽さを一段高いところからバカにする傾向というのはこの統合失調症という被害妄想病への掛かりやすさの尺度として参考になりそうです。
もう一つ例を。私の父親は事象Aについて第三者と話をしているフリをして被害者(私)に意図的に聞かせる(状況A)ということを行ってきます。そしてご丁寧なことにしばらくしてから事象Aについての事柄を私に訊ねるということを行います。これは状況Aを状況ではなく事象(sein)であると被害者に認知させるための子供滲みた行為です。私が自分の父親を女性的で幼いと馬鹿にしているのは、こんなやり方は小学生でも見抜けるというか少なくとも私は小学生の時からそれを理解していましたし、頭の悪さを極めているからということであり、それにもかからわずナチ的に何百万回と繰り返してくるからという意味もあります。極度に頭が悪いか嫌がらせという形で他者の存在に精神的に依存することから抜け出せないかのどちらかです。私がヒットラーに非常に興味を持つのは、アドルフ・ヒットラーという人物もその主張も自分の父親の幼女的稚拙性と非常に被るからです。
これ(コンテクスト)が文字・音であったり、また学問では物理学であったりする場合は、ここで説明しているケースとはまた別であって、絶対的なものと考えて問題無さそうです。その意味ではこういった類の絶対的なものこそが社会主義のテーゼなのかもしれません。それを無知な人間たちが、快楽に溺れて「自由!自由!」と叫びたてるところから社会システムの破綻や禍根その他よろしくないものが始まると考えて間違いなさそうです。だからつまりはナチスは最悪だということです。ナチスの行ったことを鑑みれば分かるとおり、国家社会主義の名目のもとに行われていたものは社会主義や安定した社会システムのアンチテーゼであり、売国行為以外の何物でもないです。
単細胞でコミュニケーション下手な人間というのは、それが具体的行動だろうが言語使用においてであろうが全ての事象について一義性を求めるんですね。だから見た目凄まじく頭が悪く見えますし、実際頭が悪いです。IT関連でシステムのエンジニアとかになれるほどに勉強のできる人だったらいいですけど、大抵の場合では頭が悪くて工学的というよりは工業高校的に決まったこと以外のことをひたすら恐れて人間関係においてまで一義性を他者に強要します。しかし人間誰しも他者に見下されたり暴力を振るわれたりするのは嫌なので、そこで彼らは無根拠に自分が他人より偉くそして相手を自由に操る権限を持っているという前提を設定して他者との人間関係を構築しようとします。だから相手にしてみれば異常なまでにウザいです。凄まじいほどに身勝手の極みです。自分が他人に恐れられていることを快感に感じているようで実のところ自分が他人を恐れているだけです。もうその脳ミソ筋肉な頭の悪い空威張りぶりがありありと見え透いて分かるので極度にウザいです。だからこういった人間は最悪なまでに他者に疎まれて、とくに現代の民主主義社会においては当然のことながら排斥されます。昨今「アラブの春」と言われてどんどん中東で民主化が進んでますけど、歴史上の独裁者や暴君は全てこういった人間たちです。すべて田舎者気質な愚かなアベラール達です。賢いアウグスティヌスのような人間はこういったのには居ません。
一つ例を。私が台所で簡単な料理をしていると、私の父親は「何をやっとるんだ!」と言ってきたので、私は「料理をしている」と答えたところ、「そう言え」という一見して意味不明な言動を行ってきました。これは実のところ意味不明なものでも何でもなく、「単なる事実の伝達であるにもかかわらず、まるで相手がそう(本心から)告げているのではないかのようなテーゼをその場で構築し、相手の被害感情を煽る」という極めて稚拙な試みなわけです。そもそも単なる事実の伝達において、そこに「(本)心」は絡まないわけです。にもかからわず相手においてそこに感情が存在するかの様に前提を設定して他者とのコミュニケーションへと臨むということが、つまり人間関係を構築するにおいての「無根拠な優越性」を他者に強要するものであるというわけです。こういった人間が極めて幼児的であり他者に疎ましがられ排斥されるのは当然のことです。私はこれを幼児の時からひたすら毎日やられ続けました。ちなみに私の父親は、全くの他人に対しては極めて(偽)善人の仮面を被るので、つまりはそういった行為に及んでも自分には危害が及ばないような対象を見つけて故意にこういった行為に及ぶ類の人間です。子供の頃の人間関係を思い出すに、嫌われ者があまり友達のいない一人でいるような子に目を付けて近づいていくのはこういった単純な理由からです。自分の子供に関しては、故意にそういった人間に仕立て上げて自分のキャラを上げる為に利用する、という実に悪徳なエゴイストです。赤の他人は全くこんなことは知りませんが、親族一同はよくこの本性を知っているのでこの男は親族中で嫌われています。
で、嫌われ者のアベラール達が連携して他者を攻撃したり叩きを行っている(た)のが某巨大匿名掲示板群です。YouTubeやtwitterなんてまだぜんぜん健全な香りがします。
水谷修さんという「夜回り先生」の人が居ますけど、あの人は「いいんだよ」とか言ってますけど、こういった連中は「いいんだよ」と言われ続ける度に図に乗って増長するのがもはや性癖なんですね。カンチガイして調子に乗って人を騙したり悪い方向へ陥れるようなことも平気でやります。最悪です。だから最初の一言目だけはユダヤ的なホメオスタシスをやわらかくほぐす為に有効ではあるが、以降は有害以外の何物でもないということです。
やっぱり不良連中というのはどんな形で頑張っても結局ダメなんです。私も10代の頃はそういった不良な人間でもまだ見どころはあるいい奴も居るなんて思ってた時期もあって、無理をして自身も半ば故意に落ちぶれたこともありましたけど、もうそうやって根本的に良くもないものを無理やり良いと思うことにも精魂尽き果てました。なんでああいった馬鹿共は馬鹿なのに死なないんですかね?馬鹿は死ぬように出来てるはずなんですけど?この社会に溢れる面白いもの楽しいものなんてのは全てユダヤの釣りです。某巨大匿名掲示板群あたりを見ればそれがありありと分かります。マンガ?アニメ?ゲーム?ロック音楽?あんなもん揃いも揃って全部クソです。売春婦育成産業です。売春夫育成産業です。別にいいんですよ?あったって。暴走族の若者たちが無人地帯でバイクで暴走してたってそれが彼らのストレス解消になるならいいです。ジブリのアニメやガンダムを見てつかの間の幼児的人間性に惚れ込んでサッと画面から離れてそれを忘れられるならいいです。自分を悪党だと自覚していない悪党が大糞たわけの馬鹿者だということです。ヤーさんになる覚悟も無しにバイクにまたがらずに趣味で部屋でチンピラロック音楽聞いてたら頭が悪くなるどころか馬鹿になるということです。単なる悪影響の極みです。不良はどう頑張ったって良ではないから不良なんです。不良だからダメなんではなくて、ダメだから不良になるということです。ダメだからダメなんです。不良人間にとって都合のいいギリシア神話的な人倫の国なんて世界の何処を探したってありません。「精神現象学」を読む限りではヘーゲルは不良哲学者です。というか中島義道さんもそうですけど本物の哲学者というのはたいていの場合不良人間です。ナメるのも大概にしろという話です。ダメな奴はダメということ。東大教授だって新聞に愚にもつかない記事を載せてるようなのは不良です。私が学生時代にはあろうことか「成績が良いっていうのはダメですよー」と言うクズ教員が居ました。追い詰めるまでもなく勝手に奴らは秩序から逃げていきます。子供さえ作らせなければ奴らは逃れ逃れて勝手に自滅していきます。それが不良人間が不良人間である必然だからです。なんでこんな単純なことが(奴らには)分からないんですかね?マンガ教育のせいです。「悪い属性の不良人間でも実はいい奴もいる」という内容矛盾の極みであるマザコン馬鹿マンガ教育とそれを推進した公立小中学校の馬鹿教師たちに因ります。10歳に満たない子供の頃からこれをやられ続けて私の世代は多くの真面目な(真面目に先生の言うことを聞かないといけないと思いこんでいる)人間がオタクに作り変えられました。小学校の教師が誘導するような馬鹿丸出しなノリで「みんなでわーたのしい」において楽しくないと思ってくれる人間がいるんでまだ救われてるんですね。これがみんなが楽しくなったら破滅です。国家も何もかもが破綻します。私は実際に程度の低いクズ共をよく見てきましたけど、他者に迷惑をかけない程度に適度に楽しめるという知性のある人間ばかりではないんです。昔の某匿名巨大掲示板群あたりを見ればありありとわかるはずです。筑紫哲也さんが昔ネットを便所のゴミ箱と言ってましたけど、その便所のゴミ箱へ若者を導いたのは当の筑紫哲也さんみたいなマスメディアの人間や左翼の人間たちなんですね。本当にナメ腐ってます。
カフカの「城」という小説がありますけど、あそこに出てくる「城」は当然に官僚主義のメタファーですけど、アレはミクロ経済的価値意識に基づく下から見た官僚機構の像であり極めて悪質なものです。何が悪質かというと「下から見た官僚機構の像でありその着眼点的にミクロ経済的価値意識をベタ塗りにして描かれているから」です。官僚の人たちというのはそういったミクロ経済的なものにとらわれておらず、もっと賢いです。というかそうでないと東京大学にも入れませんし官僚になるための国家試験にも通らないようになってます。だいたいカフカの小説はあまりの精神異常ぶりに読んでてイライラしてくるんですけど、カフカ自身がユダヤ人でミクロ経済的な自己中心的価値意識の持ち主だということです。
北野武さんがたしかそういった優生学的内容について本で書いてましたし、Heinrich Himmlerは凄まじい優生学的観念に取り憑かれてましたけど、ヒムラーは禍のもとになるものをを消そうとしていたんですね。もちろんその結果としてユダヤ人虐殺に走ったのは最悪であってしかも間違えてます。しかし、「禍根をわざわざ作り出すような、ヒムラー的な憂いのもと」を作り出す人間というのが現代社会においても未だにガンバって生息しているんですね。もし仮にヒムラーがそれを自覚しながら泥を被るつもりで誰かがやらねばならないという考えのもとそれを行ったとしたなら、ヒムラーは実に優しい人です。おそらくあの時代、そのコンテクストにおいてそのままいくと、ユダヤ人だけどころではなく、人類全てが悲惨な目にあって苦しむことをちゃんとヒムラーは分かってたんですね。しかしだからといって強制収容所をつくってユダヤ人その他の「異常な」人々を送り込んで詰め込んでしまったことに時代を映したヒムラーの狂気とナチスの狂気がありありと映されています。当然歴史の教科書が説明するようにヒムラー配下のSchutzstaffelが行ったことは最悪です。メルケル首相もネオナチをドイツの恥みたいなことを言ってます。しかしAdolf Hitler個人は踊らされて利用されたあわれな犠牲者である感があります。しかもヒットラーはそのこと自体を自覚した上で、泥を被ってピエロを演じていた感があります。だからピエロを演じているというピエロであって二重にピエロではなかったかということです。
赤い勢力たちの収奪の場になっていつも苦しめられるのはその地の民衆です。アカな人間というのはどんなに一見した善人性を取り繕っていても人間をダメな方向へダメな方向へ自覚的にも無自覚的にも持っていきます。自分らだけのサークルやファミリーを作って他者を排斥したり攻撃したりするということです。社会的に弱い人たちはそういった場面でいつも犠牲になってきました。しかし今はネットという優れたツールがあります。
PR