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doch
 doch.




 語学で暗記学習というのはどの分野ものものでも非常に良いです。というのはもちろん効率的な意味においてもです。内容の良い文をひたすら暗記したり聞いたりすれば、外国語を母国語的に覚えることができます。その意味でも音読は良いです。スピードラーニングはあまりお勧め出来ません。集中力が高い人間は語学のリスニングが良く出来ます。
 やっぱり例文としても良い内容のものを覚えた方が良いに決まってるんで、別に例文であることが分かって暗記してるんだからどんなものでも別にいいや的なノリで勉強してると後でイタい目をみます。



 対人関係でも、特定の人間を見て、「気に入る」だとか「気に入らない」だとかいう感慨が湧くのは、身体論的にその事象の判断者・被判断者がどういった行動をとるかに因ります。もちろん人間は脳で様々な事象を経験していくので、これには性向や傾向といったものが多々あります。単純にみぎひだりのお話というわけではないです。あえて言うならみぎに傾きやすかったりひだりに傾きやすかったりというのが人によってかなりの個人差があるということです。
 この性向や傾向を消すのが抗精神病薬です。ヤバい行動を取ったりそういった性向を持つ人間を限りなくゼロに戻すのが抗精神病薬の効能であって、その上でそういった人たちを良い方向へ持っていくのが精神科医をはじめとした作業療法士だとか音楽療法士だとかそのあたりの医療に携わる人たちの仕事です。もちろん患者当人にその「良い方向」がどういったものなのか自覚があれば抗精神病薬と精神科医一人と患者個人で治すことも可能なのが統合失調症という病気です。

 「良い方向」というのは、ネットを使ってでも何でもいいからストレスをバーッと発散させて、そして抗精神病薬を飲みながら生活スタイルから改善していくのが最も効果的であり完治への最短距離だということです。
 私個人の経験では、抗精神病薬を飲む前後の数時間は何も食べないとか無理をしないストレスが溜まるようなことは行わないというのがかなり効果的です。というか身体感覚というか体調的にもゼロに戻されてそこからまた傾向を作り出していく薬物が抗精神病薬というものなんで、そうしないとヤバいんですね。精神科医は夜寝る前に薬を飲めと言いますけど、アレはおそらく止めた方が良いです、朝きれいに起きれなくなって昼間中もボーッとしたままで全く治らずに藪医者がもうかるだけというオチに片付いてしまうだけです。だから止めた方が良いどころか寝る前に抗精神病薬なんか飲んでいたら、生活も肉体もボロボロで滅茶苦茶になります。眼圧が上昇することが統合失調症の症状の一つだと書いてある精神科医による本がありますけど、そんなものは就寝前に抗精神病薬を服薬していたら光の無いところでものを見ている状態で眼球やその周辺の筋肉の動きも膠着されるので昼間でも眼圧が上昇して筋肉が張って視力が上がっている状態になるのは当たり前です。下手をすると失明します。だから抗精神病薬を飲んでその後パソコンを何時間も使うだとかテレビを何時間も見るだとかも最悪です。

 そして、こういったことに関して、「それは統合失調症のせいだ」というお決まりのセリフを精神科医は吐きます。私も一回「堕ちた」ことがあるんでよく分かるんですけど、基本的にそういった類の田舎者気質の精神科医の仕事は精神的に弱っている人間や社会的弱者をレイプすることなんですね。はっきり言ってそういった精神科医はエヴァンゲリオンだかのブサイクアニメを作っているバカオタクオッサンと何も変わりません。要するに精神科医というのは本当のことを言いません。中にはまともな先生もいらっしゃいますけど、ほとんどの精神科医は、自分が処方する薬物の効能に関する事実を患者に何も告げずに、馬鹿な精神病患者が周りの社会環境や人的環境に釣られるにまかせるという最悪なことを行います。患者当人を取り巻く社会・人的環境にまで責任を持てないというのであれば、抗精神病薬を投薬するなという問題です。その場合あまりに無責任に過ぎます。中には初診の患者を故意にバカにして挑発して悪い状態に持っていくことを試みるという精神科医も多々存在します。例えば、自分が診療する以前に意図的にケースワーカー等医師免許を持たない者や医師国家試験を受ける前やもしくは正式に医師として活動していない30歳前の若い医師に「先生の診療を受けていただく前にちょっとお話をうかがいまーす」的なセリフで面談をさせて、その後正式の医師が出てきてその医師は2、3分患者に対して挑発的にしゃべるだけでまったく診察を行わないというやり方があります。その正式な診療医ではない人間は精神疾患と全く関係の無い質問をひたすら患者に対して浴びせます。それは挑発の意味もありますし、患者個人にとって不利益となる記録を故意に残して、「精神病患者はこんな劣等な人間だ」ということを証明する為もしくは論文・記録のネタ等その他後々様々な目的で材料として使うという為でもあります。ちなみにカルテの情報をその病院外へ持ち出したら医師は医師免許を剥奪されて一発で警察に捕まります(少なくとも医師として社会的に死にます)。大方の精神を病んでいる人間は、事前のその面接の時点でベラベラしゃべってしまいます。で、その医師達の目論見通り、(正式の)医師の挑発には簡単に乗ってしまいます。若い医師や学生を育てる為という口実で精神的に弱っている患者の善人性に漬け込んでくるという極めて悪質なやり方を行ってくるわけです。私はあろうことか最高学府である東京大学の付属病院でこれをやられました。露骨な差別なんで現代日本でこういったことをあまり言いたくはないんですけど、連中も差別を行っているということではっきり言いますと、穢多系統の精神科医にこういったのが多いです。まさに戦後日本社会を象徴する様な穢多による逆差別です。医療とは関係無いですけどやっぱり国公立大学等の公の機関では穢多が様々な局面で増長し易いのかとは思います。

 患者を被害者であると同時に加害者に仕立てあげることもできるのが精神科医だということです。

 最近官公省庁のコンピュータやPCがハックされたとかなんとか必死にマスコミが報道してますけど、あんなもん故意にやってます。というのは、さすがに官僚の人たちが意図的に流してるということは無いでしょうけど、日本のマスコミが故意に見せ付けるように報道して社会秩序に対するネガキャンを行っているということです。

 穢多というのは、「そういった厳密なこと」を説明する能力を故意に奪ってから、「アイツは何も言わない」というレッテルを貼ってレイプを始めるんですね。これは66年前に戦争に負けてから、この国にのさばり出した穢多のやり口です。これは子供の時点で小学校でマザコン教育を受けることを強制されるというところから始まってます。私は男性なんでまだいいですけど、女性はかなり悲惨な目に合うはずです。だいたいレイプをやる類の男というのは、恥意識が強くて絶対に事件について言えないような女性を狙ってやります。こういったことを私刑というかたちで頻繁に行うことを許容してしまったのが戦後の日本社会なんですね。石原慎太郎さんは平和の毒とおっしゃってますけど、こういった連中のやり口というのは非常に汚いんで、本当に気を付けないとダメです。これはアメリカのせいでもなんでもないどころかその真逆であって、例のゼンキョートーだかなんだかの田舎者気質なマザーコンプレックスの豚共に典型的な例を求めることができます。その真逆ではない例として分かりやすいのは村上春樹さんであり、田舎者気質なマザコンの典型例として分かりやすいのは内田樹さんです。村上春樹さんは田舎の人で内田樹さんは都会人ですけど、気質的には逆です。

 たしか1989年あたりだったと思いますけど、宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯のような人間は、アレはただの幼い子供をネタにした変質者であって、典型的なマザコンというのとは違います。ちょうどその時期に佐野史郎主演のマザコンの冬彦さんドラマをテレビでやってましたけど、アレはまさにああいった事件を利用して真面目な青年たちや勤め人の人たちのストレスを煽ろうとしているという意味で番組自体が実にマザーコンプレックス的なものに基づくものであり、その意味で実にマザコンなドラマです。だからああいった佐野史郎さんが演じている的な人間がマザコンであるというケースはほとんど無いどころか、露骨にオタク弾圧を狙ってたというだけなんですね。これは新しくオタクという社会的被差別民を作り出そうとするマスコミの穢多共のやり口であり、私もまたそのオタク弾圧の時代をオタクとして生き延びてきた人間のうちの一人です。
 ちなみに私は内田樹さんみたいに自分が若い頃はよかったどうだったこうだったとかオッサンどころかジイさんになってまでマザコンなことを言ってるような自慰さんみたいのにはなりたくないということで悪しからず。



 「これまでの、確信のいくつかの在り方にあっては、真は、意識から見て意識自身とは別のものであった。しかしこの真の概念は、真について経験して行く間に消えてしまう。対象は直接「自体的」であった。つまりそれは、感覚的確信の存在者、知覚の具体的な物、悟性の力などであったが、それらは、むしろほんとうはそういうものではないことを自ら証明している。そうではなくこのような「自体」は、対象が他者に対する在り方にほかならないものであることが明らかになってくる。自体についての概念は現実の対象に出会うとき、廃棄される。つまり経験上の最初の直接的な(無媒介な)表象は廃棄される。そこで確信は事実上消えてしまった。ところがいまここに、これまでのいくつかの関係のなかでは起こらなかったことが、生じている。つまり自らの真理と等しいという確信が生じている。というのは、この確信は自己自身を自分の対象としており、意識は自己自身にとって真であるからである。なるほどそこに他在も在ることは在る、つまり意識は区別を立てることは立てる。だが、それは、意識にとっては、同時に区別されていないようなものである。われわれが知の運動を概念と呼び、これに対し、静かな統一としての、すなわち自我としての知を対象と呼ぶとすれば、対象が概念に一致するのは、われわれにとってだけのことではなく、知にとってのことでもあることがわかる。言いかえれば、それとはちがった方法で、対象が「自体的」に在るものを概念と呼び、これに対し、対‐象として、つまり、他者に対するものとして、在るものを対象と呼ぶ場合には、自体存在と対‐他‐存在とは同じものであることが明らかになる。というのもここでは「自体」は意識であるからである。だがこの意識は、同じように、一つの他者(「自体」)が相対している当のものなのである。意識にとっては、対象の自体と他者に対する対象の存在とが同じものであるということがある。自我は関係の内容であると同時に関係そのものである。自我は、他者に対して自我自身であると同時に、やはり自我に対して自我自身であるにすぎないようなこの他者を、覆うている。」

 これはヘーゲル先生の"Phänomenologie des Geistes"(「精神現象学」)という本から引用してきたものなんですが、なんかヘーゲル先生ではなくてフィヒテ先生の書いたものみたいでちょっとどちらが書いたものなのかよく分からないんですけど、「対象が自体的に在るものを概念と呼」んでる時点でやはりそれが人間の限界だということであり、「経験上の最初の直接的な(無媒介な)表象」は「表象」ではなく、「そこで確信は事実上消えてしまった」のは確「信」ではないということであり、「対象の自体と他者に対する対象の存在とが同じものであるということがある」わけです。
 これは前の記事で言ったxy平面上におけるy=|x|のグラフだと考えると分かりやすいです。結果自体は絶対値なんで必ず正の現象として現れ(表れ)ますけど、その対象自体は正なのか負なのかその現象をそれであると捉える個体には認識理解できないということです。「知」というのは人間にとっては結局「運動」であるしかない、「知」は人間において「概念」であることから抜け出せない、人間は自身から思惟能力を除くことはできないということです。

 ヘーゲルはこの「精神現象学」の中で、自己意識という呼称で∞は概念という形でとりあえず存在し、そして途中で|∞|も自己意識が自己意識に自体的に対してあるという内容の説明でそこにあると言ってます。要するに∞/0の因果関係は存在するというところで止めておけばよかったのに、∞/0の相関関係も真理という形で存在すべきだとまで言ってます。∞/0の相関関係そのものを「人倫の国」(ギリシア)という形で存在するとまで言ってます。こういうことを言うと哲学研究者の先生達に怒られそうですけど、つまりヘーゲル先生は思惟の方向性的に馬鹿です。ヘーゲルは、

「精神は、その自己意識が二重になり、二重の両者が自立的でありながらも、自己自身と一つであると確信している。」

という病識の無い状態の重度の精神分裂病そのものを自己意識の解説として説明しています。



 抗精神病薬を服薬している期間に他人と関わるだとかは、それが良い人間関係であれ悪い人間関係であれ、どちらにしろ悪い方向へ引っ張られていくので、止めた方が良いというか入院するのがこの病気の治療には最適です。
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