忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

equilibrium
 ドグラマグラ。




 福沢諭吉には非常な偽善と馬鹿さ加減を感じるんですけど、人の上に人が立つと集団の下に同じ人数が蹴落とされるというのがそもそもからして自称「社会」の欺瞞的独善的人間中心主義であり、ミクロ的であり、マザーコンプレックス的であり、愚かで馬鹿な発想です。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と演壇上から語りかけているそこ(da)には、福沢諭吉が上であり聴衆が下であるという場が形成されているに過ぎないです。キリスト教の教会で神父が聴衆に向かって語りかけても教会の外に只一人中に入れてもらえない者が存在するわけではないです。
 日本のマスコミがいくら社会工学的なものひいては自然工学的なものに対してネガティブキャンペーンを行っても無駄です。イジメっ子がイジメっ子を攻撃することは無いですけど、イジメられっ子がイジメられっ子を攻撃することは多々あります。ネットでの叩きとかが最も分かりやすいです。ネットで虚構のリア充アピールしたり叩いたりしてる奴なんざリアルで見てみればほぼ例外無くイジられっ子の典型みたいなグジグジした畜生みたいのです。自称の「社会派」気取りの人間中心主義というのはそういうものだということです。



 現代の日本に敷かれているのはアメリカ的民主主義ではなくユダヤ的民主主義であって、老婆的民主主義です。そりゃ民主主義を「否!」と言ってみたり、極端な右翼主義に走る人間も出てくるというわけです。そしてアメリカの人たちにダメのレッテルを貼られるどころかいい様に利用される構図が出来上がります。さらには悪質なことには、故意に自分の子供を病気にしてその当人を世話して自分の偽善人性を世間にアピールするという自慰豚としか言い様の無い女が出現したりするわけです。人に聞いた話なんで本当かどうか分かりませんけど、このケースは二、三年前に事件として取りざたされ、その女は警察に捕まってました。占いみたいなものはどうだか知りませんけど、自称個人主義の性格判断はこの類ものの最悪なケースであり、非常にユダヤ的です。本当にあの性格判断というのはまさしくブサイクのカタマリです。精神科医の中にもこういった医師が居たりします。こういった人間は謂わば「アメリカ好きの日本人」であり、当のアメリカ人にはメチャメチャにバカにされてウザがられます。逆に、このブログを読んでもらえれば良く分かりますけど、私みたいな人間は「日本好きのアメリカ人」的であり、少なくとも現行の日本ではメチャメチャに嫌われます(自分でもそれはよく自覚してます)。
 ちなみに占いには妥当性がありません。だからこそ逆説的に性格判断だったら占いの方がマシです。

 いくら人間のキャラクターを弄くりまわしてそこから問題解決の糸口をさぐろうとしたところで、それは個々の当該の問題について具体的に答えを出すというものではなく「人間関係」という虚構から折り合いをつけようと試みているものであるという時点で無駄です。
 例えばマンションやアパートにおける騒音の問題を考えてみます。上下左右隣接する住居の住人がドンガンドンガン立てる騒音がうるさいからといって、その騒音と同程度の音を自分も相手に伝えるわけにはいかないと無意義な偽善を気取って「これだけ階下・階上に響いてるんだ」と音をなるべく立てないようにするということは非常に不合理であり非合理的です。そのまま自分が何もせず我慢して隣接する住居の住人が騒音を立て続けるということになれば、問題は何も解決しません。こちらも意図的に騒音を立てるという程までは行わずとも、自分の出す騒音について何も気にせずに生活していれば、隣接する住人にもある程度の音は伝わります。もし仮に隣接する住人が自分と同じ程度に一般常識的に考えられる倫理観を持ち合わせているのならば、彼らもその音を聞き騒音を減らそうとするはずです。そしてまた仮にそうでない場合、自分が感知する騒音は一向に減りません、よってこちらもそのような非倫理的な住人に対して騒音を立てることを気にして意識する必要は無いです。これらについて考えられる最も有益な解決策は苦情を申し入れることであり、また相手が苦情を申し入れてくれることを待つことです。後者の場合でも余程互いが立てる音が大きければ住居が壊れない限りは何時かは苦情を言うか言われるかということになります。
 つまり囚人のジレンマの構図で考えればこの問題は理解しやすく、放置することでナッシュ均衡に達します。隣接する住居の住人が立てる騒音を我慢したままで自分は音を立てないようにすることが最も損益を生むということです。ちなみに有名な囚人のジレンマのサンプルはこのケースとは逆に何も言わない(音を立てない(?))ことが最大の利益になるという場合です。



 現代で穢多というとあまりに差別的な上に自分も含めてあらゆる人間が嫌な思いをするんであまり言いたくないんですけど、日本人のやり口というのは「共感」して他人を引き摺り降ろして社会をダメにしていくことなんですね。非常に女性的というか女性原理的です。しかもこれは当の日本人において悪意が悪意と自覚されていないどころか悪意が善意と履き違えられている感覚に基づくものです。日本人は非常にマクロ的発想において弱いというか、マクロ的感覚を身に着けるのにかなりの困難を伴うのが日本人です。実のところこれは日本人だからということではなく、まさに穢多の穢多たる由縁というか穢れが多いという意味合いを的確に表している現象です。日本以外のアジアの国がどうだか私はよく知りませんけど、すくなくともこの日本という黄色人種の社会では穢多が自由を無責任と同義だと履き違えてます。昔の本とか見ると載ってるんですけど、何時の時代でも自分が生きている社会を指して「混迷の現代~」と言うところが如何にも日本人的であり、ミクロ的です。他者に気を使うという名の下に誤魔化された、自己本位性に基づくエゴイスティックでセルフィッシュなミクロ経済的な何かがよく表れています。
 多分これと関係ありますけど、日本の海とか全般的にものすごく汚いです。アミノ酸多すぎてプランクトン大量発生の赤潮とかいうよりも、太平洋岸の海とか見てるともう汚泥を見てるような感じがします。

 ミクロ経済的視点は結局大方の社会学と同じく「人」単位で物事を鑑みる前世紀の遺物に過ぎないです。上で挙げたナッシュ均衡の例はこの視点とは逆のものに基づくものです。マクロ経済的視点や経済史的観点のほとんどはそうではないです。一般的にミクロ経済学者は理工学的観点を欠いているか、もしくは自然科学に対する信用が無いのかと疑わざるを得ません。だからこそ、それで極端に走った場合社会主義体制を始めとする計画経済を全く否定してしまうということです。文献史学もミクロ経済的なものに属するものであって、考古学者の中には文献史学を毛嫌いする学者も居ます。歴史(的事実)を軽んじる人間は、自称の神的であり、要するにどこぞのイカサマ教祖的であり、性悪説を自己のモチーフとしているような人間です。彼らは歴史的事実を無視し、そしてひたすら過去への憧憬に生きるということであり、歴史上の人物の偉大さをドラマ的に無意味に持ち上げたりするということでもあります。



 Aurelius AugustinusやMartin Lutherは偉人であり天才的です。Jean CalvinもPierre Abelardも、それが「上から」であろうが「下から」であろうが、予定説も「信ずるために我知らん」も実にミクロ的であり、マザーコンプレックス的であり、共に悪質です。官僚の人たちに失礼ですけど、カルヴァンは実に官僚的であるというと分かりやすいです。アベラールは非常に俗悪であり俗物的です。
 自己を主体として「下から」の自分からの変革を社会に要求することが、マザーコンプレックスのマザーコンプレックスたるものであり、非常に無闇で間違いなく徒労に終わります。工学的観点に欠けてます。カルヴァンのような、自己を主体として「上から」の変革を社会に要求する、つまり社会的弱者を意図的に踏みつけるようなものはそれはそれで悪徳であり、同じくマザーコンプレックスの具現体(無根拠な権力)であり非常に悪質です。



 馬鹿だが頭の良い人間には、「漠然とした工学的認識」さえ与えれば一発で馬鹿が直ります。とは言ってもこれは認知ではなくて認識なので、よほど腕の良い精神分析家にでも掛からない限り無理です。だから抗精神病薬というものを現代では使います。ナザレのイエスさんが馬鹿のイスカリオテに嵌められてロンギヌスに槍で貫かれて死んでから二千年経って、ようやく馬鹿につける薬が開発されたということです(ただ飲んだだけの状態では馬鹿のままです)。
PR
| prev | top | next |
| 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 |
カレンダー
03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
プロフィール
HN:
SS
性別:
男性
バーコード
ブログ内検索
P R
忍者ブログ  [PR]
  /  Design by Lenny