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2025.04.16 Wednesday
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woman danger, human nature
2011.10.19 Wednesday
自然と自称のニヒリズム。
私は最近になってやっと所謂「グレる」という、不良少年達の感慨を知りました。例えば中年のオバさん達のあの恵比寿顔と閻魔顔の差というか手の平の返し方はあまりにも薄汚いとしか表現しようがありません。連中は、将来性がある、自分の役に立つ、何らかの利になる、そういった場合は上辺だけはニヤニヤしながら多々おべっかを使ったりゴマすりを行いますけど、そうでない、自分らの得にならないと分かった途端に彼女らは一発で手の平を返します。ここまでやるかというくらいにやります。だから男性の感覚で言うところの友達というのはおそらく女性においては存在しないっぽいです。連中の得意技は裏切りと袋叩きです。あんまりこういう一概的にひとまとめにするようなことは言いたくないんですけど、母親だろうが近所のオバさんだろうが街歩いてる若い女だろうが繁華街の綺麗なオネーサンだろうが全部同じです。まさに使い捨てというか、あの女という生き物は皆芸能人感覚です。ほぼ例外無く「男ってバカよね~」とかそれが意識的にであれ無意識的にであれベタなマンガや安いドラマに出てくるセリフの如く思ってます。まあよくやるよとしか言い様が無いです。だから母親というのは自分にとって最大のユダだと考えるのが妥当です。彼らは10代の子供や下手をすればそれ以下の時分にコノ手の平返しをやられるのかと思うと、そりゃグレるわという話です。中には甘い顔と言葉で10歳かそれ以下の子供に悪い内容のことを教えたり甘いお菓子なんかをドカドカ食べさせたりするオバさんとか居るんですね。最悪の場合オッサンとかでも居ます。で、そういったのが頭の中で何を考えているかというと、「こんなに甘やかして可愛がってくれたオバさんを忘れないでね~」程度です、意識的には。悪意を悪意と自覚していないのか、もしくは子供の将来とか考えてません。もうナメているとか馬鹿とかいうよりは、今思うとああいったのは本当にタチの悪さを極めてます。ちなみにオッサンでこういった人間の場合は馬鹿か悪人です。
こういうオバさんに関すること言えば、桂歌丸さんみたいな人が演壇で中年男の女房のグチとかいうシチュエーションでしゃべってるイメージがありますけど、あの演壇における講談という陳腐なイメージに捕らわれるとマズいことになります。本当にああいった話のスジそのものだと考えた方が良いです。物語論だとかゲームとかのキャラクター論だとかはこういったところで生きてくるのかもしれません。まあ本当に外道としか言いようが無いです。「ああ、こうやって人間ダメにされていくんだな」とは思います。悪い女にダマされてどうこうというのは、「手を出しちゃってどうたらこうたら……」という軽いニュアンスのものではなくて、本当に騙されるわけです。これに関してはそれこそ詩的な解釈というか恒等式的な意味合いと考えて、「悪い→女」⇔「女→悪い」と考えても間違いではないと言い切ってしまっても過言ではないです。「いい女」なんてものは世界中何処を探したって居ないというと言い過ぎですけど、これは形容矛盾です。ところが女にしてみれば手を出してくる男が悪いわけであって、男にとっても女にとってもその先にあるのものはドツボでしかないです。
で、この女という生き物は自分らが醜い中年女や老女になったと理解するや否や今度は今まで意識するどころか媚びへつらうようなマネをする対象であった所謂イイ男に対して嫉妬しだすどころか攻撃を始めるんですね。自分らに対して接触してこないどころか意識すらしてもらえないと理解するので、「自分のものにならないなら殺してやる」と言わんばかりに。キムタクの悪口をオバさんになって突如言い始めるとか。ブサイクの勘違いどうこうというレベルではないというよりは、もう根本的に何かがおかしいです。
他に癇に障る例だと、他人の行動を制御するにおいて何故か自分に無根拠にその行動を抑制する権利が存在するかの様に発言をするというものがあります。「じゃあ勝手に○○すれば!」とかいう昔のベタなマンガに出てきそうな女キャラがホザいてそうなセリフに象徴されるようなものです。この場合においてこういう言動や行動を取る女性が物事に関することにおいて無知ではなく理知的な判断のもとそうであるかというとそうではなくて、ただ
「男から見れば過剰なまでの生存欲求。女は死の世界の住人であり、そしてかつそこで生きようともがいている、男から見れば凄まじく生存欲求と生存能力の高い生き物(例えば流行性感冒に対してはヒトのオスとメスではメスの方がこれに対して強い抵抗力を持つ)。つまり地獄っちゃ地獄。保身。群生体。繁殖と繁殖力。指図したがり。口うるささ、やかましさ、うっとおしさ、そうぞうしさ(オバタリアン等の偶像に象徴されるように、オバサンを想像すればたやすい)、これらを全て同時に持つということ。共時性。見た目大好き。みてくれやうわべ、これらで物事や人格を判断すること、そしてこれらを好むこと。うわべのごまかし、問題を根本的に解決しようとしないこと。妬み。怨嗟。私怨。愚かさ。逃げ、逃避。嫌なものからは目をそらす。陰湿さ。しつこさ、偏執狂。隠蔽。劣等感。恥意識。全体主義。悦楽、快楽主義、極限状態での快楽。マゾヒスティック。上昇志向、選民思想、つまりはイジメ好き、イジメられるのも大好き、嫌がらせをするのもされるのも大好き。虐待。性欲。熱狂。興奮。戯言、それによる自他の現実検討能力の喪失の促し。自己顕示、自己顕示欲。依存心、他者をはじめ「他」を求める心理。恐怖。絶望。不安定さ。狡猾、狡さ。人生とやらへの期待。(無為に)希望を抱こうと試みること。邪悪さ。性悪、性悪説。悪意。悪徳。狂気。穢れ。」
からそういった行為に及んでいるだけである、というのがよほど賢い女の人でない限りのほとんどの場合です。で、やっぱり賢い女性でも他人に対して「自分が見えてない」とかなんとかいうセリフを吐く、これもやはり女性の女性たるものの亜種だったりします。具体的対策を提示せずに、叱りつけるというよりは怒りつけることにイメージ的意味と自己充足と快感を感じているような人たち(女性)です。これはコミュニケーション能力の存在の弊害であって、やはり女性の方がコミュニケーション能力は高いです。ペチャクチャよくしゃべるおばさんとか。
人間の感情を無意味に持ち上げるだとかいうのは本当に女性的な万物の元凶なんで、有害でしかないです。「愛(穢)」という名の性悪というか、女性器的であるとすら言ってしまうことが可能です。性悪説なんてものは本当に俗悪というか、他者への恐怖心の源、そしてまたその恐怖心自体が「性悪説」の大元だったりします。デカルト的に言うとcogitatioというのは本当に穢れそのものでしかないです。石原慎太郎さんはこれを我欲とおっしゃってます。だいたい物事の理というのは決まってるんで、そういうものに関してあまりにも無知どころか、(デカルト的発想に基づいた表現を用いるならば)そもそも意識すら向かなかったりすると自他共に最悪なことになります。つまり現代社会における科学的技術の具体的革新だとかそういったものを除いて、ルネサンス的なもの人間にしかできないこと自分にしかできないことつまりはオンリーワンなことなんてものは存在しません。極論するならば東大卒の官僚がアニメやマンガを描いたり小説を書いたりした方が面白いものが出来上がるということです。ああいった人たちは頭の良し悪しとはあまり関係なく賢いのでそういった馬鹿げたことは行わないですけど。
あまりにも自分の好みにおいて物事におけるとある対象を上だと決め付けてしまう思い込んでしまうことが何かを為すにおいて失敗の原因であることが多々あります。例えば、「馬鹿」と「阿呆」という言葉はそもそも対置を為すものとして元来は使われていました、が、現代においてはどちらも程度の低い・低レベルな・下のものという意味合いでしか使われていませんし辞書にもそういった意味しか載っていません。で、この馬鹿と阿呆、バカとアホというのは、これに関しては属性だということです。だから、(これに関しては)上下という発想では問題があるので、そういった上と下という価値意識を植え付けられている少なくとも戦後の現代社会に生きる我々日本人としての解決策として「知識を重んじることが上と認識する」という方法が存在すると言えば存在します。それをカオスがどうこうと言ってケチをつけるのはそれこそ馬鹿にもほどがあります。あと「頭が良い」「頭が悪い」というのはこれとは別口です。頭が良いがバカな人というのは特にネットを見てれば分かるとおり多々存在します。
ちなみに馬鹿と阿呆だと、阿呆の方がマシです、馬鹿というのは最悪なので。おそらく何百年かそれ以前の語源を辿るに、馬鹿というのは「馬や鹿のようなもの」、つまり現代にその名残として残るものとして分かりやすいのは身体論的に言うと馬面(うまヅラ)の不細工な顔ということです。馬面の顔の人と言うとちょっとアレなんですけど、唇が分厚い顔をしている人には鷲鼻の、いわゆるユダヤ鼻の人が多いです。昔あった絵本か漫画か何かの「いじわるばあさん」の偶像はそのユダヤ鼻も含めて女性の女性たるものを象徴してます。有名人だろうが普通に外歩いてる人だろうが、他はネットでもハードコピーでも広告だろうが、今は整形技術とかで日本人には有り得ない顔でも何とでも造れるので、あまり人の顔を観察するだとかは止めた方がよろしいです。こういったことに関しては、精神科医の春日武彦さんが書いた「顔面考」というかなり興味深い本があります。
で、何でこういったことが昔はやたらとうるさく言われていたかというと、昔は食べ物の質が現代に比べて悪かったんですね。だから「行儀が悪い」ことを昔の人は罰し、「行儀の良さ」を大切なものだと考えていたというのもあります。つまるところ「行儀の良さ」は「善さ」に繋がると考えたわけです。栄養不良に因って身体感覚が現代の人間と比べて非常に過敏だったということです。江戸時代の文化を調べるに、衛生面から言っておそらく雑菌の作用なんかも明らかに関係してます。逆に言うとあまり現代の栄養豊富・カロリー過多な食事を摂りつづけていると、善悪の区別がつかなくなるということでもあります。それの権化が国語辞典の「馬鹿」の項目で「程度が低いこと、愚かなこと、頭が悪いこと」と記載されていることだったりします。何でも上下で分類するというのはヤバいです。下で言うようにこれの最悪なパターン(マザーコンプレックス)が他者を含めた世界の全ての物事をself(自己)を基点に上下で分けるということです。
江戸時代には、佐川急便のシンボル画のモデルになっている飛脚がわらじを履いて両腕と両足を同じ側を同時に前へ出すというやり方で走っていました。これは長距離間において現代日本人には走行不可能な程のかなりの速さだったみたいです。たしか東海道のどれどれの宿場から江戸までということで、文部省発行の公式の書類か何かに日数や距離等の具体的数値でデータとして残っています。要領としてはちょうどスピードスケートの選手が片腕を遠心力を利用して錘(おもり)として利用しながら氷上を滑るということと似ています。このやり方がそもそもの日本人の体型には合っているわけです。明治の開国期に欧米から入ってきた現代日本人の右手と左足・左手と右足を同時に前へ出すという歩き方や走り方は、日本人にはその遺伝的特質からして合っていないわけです。これは武術家の甲野善紀さんもおっしゃっています。時代劇等でよく見られる江戸時代の侍の一対一の果たし合いでも、にじり合う時はそういった体の使い方をしています。そしてこういった体の使い方をする場合には足の裏は間違いなく地面とぴったり合っていて偏平足の状態です、というかそもそもわらじというものがそういったことを前提に作られている履物です。
だから、「男ってバカよね~」と思っている女性は馬鹿の意味をおそらく分かってないです。いじわるばあさんの魔女つながりの特徴だと、魔女が同じ魔女を魔女以外の人間に対して「あいつは魔女」と言って密告するのと同じで、女性というのは基本的に「決める」つまり物事や人格を意識的・思椎的に決め付けるのが好きです。だからいわゆるキャラオタ(キャラクターオタク)とかの人は多分女性が圧倒的に多いです。
大方の正常な人たちには分かっていることなんですけど、マザーコンプレックスというのはそれこそ共同幻想的な諸悪の根源でしかないです。もうこれは社会工学的観点からして社会に存在する妄念、それを経済学的な物の見方をすると可変性を持つ価格ということであり具現化された媒介形式としての貨幣の存在であり、医学的定義によると精神分裂病(統合失調症)であるということです。もっと一般的な分かりやすい表現を使うなら、上で載せたことの復唱になりますけど、私怨です。さらに分かりやすいのは嫉妬です。この私怨だとか嫉妬心だとかにかられやすい人というのは、自分がその時々で私怨に呑まれて行動しているだとか嫉みの青い炎に焦がされて行動を取ったりそういった言動を発しているだとかそういったことが100%確実に自分自身で全く分からなくなってしまってます。100%確実にというのは、もうこういったことは文学的知識に頼らなくても脳科学者や精神科医や先に挙げた身体論の研究者だとかスポーツ科学(工学)の研究者の人たちが物理的に解明してどんどん実証していってくれているということです。これを確かめたかったら自分の体の痛むところや悪いところを調べて病院へ行って医師に具体的な治療方針その他の話を聞いてみれば分かります(それでも医師から有意義な答えを得ることができなかったら、文学的知識が効きます)。
ちなみにこういったマザーコンプレックスの権化みたいな女性的な人というのは2011年現在の60代前半の例のゼンキョートーだかそういった辺りの人たちに多いです。
何故私にこういったことが分かるかというと、私自身近年まで約13年間くらいずっとこういったイヤな人間で、しかも多種の統合失調症用の抗精神病薬の服薬でこの状態が一時的に非常に悪化していたことがあるからです。このブログも多々毒気や「嫌」なものが混じってますが、嫌味を言う人間というものはやはり最悪です。堂々と当人の目の前で問題提起をしたり下手をすれば罵倒したり上手く殴ったりするほうが有効である場合さえもあるので、ネチネチといわゆる「女の腐ったの」みたいに他人に嫌味を言うだとかいう行為は論外です。
基本的にマザーコンプレックスの人間というのはマザーになりたがります。だからオカマっぽいナヨナヨした男性やホモっぽい男性や同性愛者にはマザコンが多いです。gayと呼ばれる人たちはこれとは別です。分かりやすい偶像としてはオタクの人たちやビジュアル系みたいな人たちです。オタクとビジュアル系というのは非常に近いところにあります、というかほぼ同義です。どちらもクズです。ちなみに私自身はつい最近まで思いきりコレというかオタクというかマザコンの典型でした。マザーコンプレックスというのは医薬品や音楽や肉体に負荷のほとんどかからないような簡単なトレーニングできちんと治るものなので、現代においては特に心配することはないです。統合失調症の治療の一環として音楽療法や作業療法というものがあったりします(これは場合によって悪影響なので注意が必要です)。ちなみに抗精神病薬リスパダールはヒットラーになりたいバカな人以外は飲んだらダメです。リスパダールを発売している製薬会社のヤンセンファーマから今年の初めに同じ抗精神病薬のインヴェガという薬が発売されましたけど、これはけっこうオススメです。
マザーコンプレックス、統合失調症というのは基本的に伝染します。というのは、具体的な遺伝情報によりそれがどうであるこうであるというものもおそらく精神科医の人たちが研究してますけど、それよりももっと単純に「マザーコンプレックスの人間というのはマザーコンプレックスの生活環境や社会環境を作り出す」ということに因ります。というかそう考えるのが最も合理的です。これがしっかりと説明されているのがおそらく養老孟司さんの書いた唯脳論という本です。ちなみに統合失調症の人間が子供を作った場合その子供が同じ病気を発症する確率は一般成人が0.8%であるのに比べて10%前後であるというデータがあるみたいです。
私は父母とも非常にマザーコンプレックスの強い人間であるという環境に育ちましたが、間違いなく統合失調症であるような人間に捕らわれて生活すると間違いなくマザーコンプレックスの度合いが強くなって最悪の場合統合失調症と診断されるということになります。だから統合失調症と診断された人は症状が改善するまで他者と関わることを止めるのが最善です。だから医師はこの病気の人には入院を勧めるわけです。
Viktor Emil Frankl著の「夜と霧」という非常に有名な本があります。この本にはアウシュビッツの環境下でのユダヤの人たちの非常に強固なホメオスタシスを物語る部分が出てきます。あの辛辣で過酷な環境下での「病気にならないこと」の異様さが強制収容所を生き延びた著者の経験を通して語られています。これは実のところ「病気にならない」のではなくて、「病識が無い」状態というものです。これが現代における精神疾患だったらまだ救い様があるんですが、とは言っても脳の病気であることがもう解明されているのであまり容易く「救い」なんてことを言えるものでもないんですが、肉体の物理的な病気であるにもかかわらず病識が無い状態だったらただの悲劇です。
自然に完全には溶け込めない人間の本質として、やはりデカルト的発想は必然です。というのはコミュニケーションが不可能な口の無い詩人(死人)というのは存在しないからです。だから、ある程度の年齢になって異様な状態で凝り固まってしまったらそれを解除して正常な状態に戻すということは並大抵の努力では不可能です。つまり、ユダヤの人たちはホメオスタシスを志向するホメオスタシスが非常に強いということです。最悪の場合ホメオスタシスとホメオスタシスで相互補助でこれを自己の中で高めあっていきます。だからこういったマザーコンプレックスの人間は例外無く自虐的です。まさにDinge an sichです。だから昔の記事でも書いたように、ヒットラーも非常にユダヤ的な人間です。マザーコンプレックスの人間というのは一種の「決まりごとには抵抗しないと殺される」という行動原理がプログラミングされているような人々です。
この「夜と霧」という本はみすず書房から刊行されてますが、10年くらい前に出た新しい訳のものよりも昔からある霜山徳爾さんという心理学者の邦訳によるものがオススメです。
男女問わずマザーコンプレックスを持つ人間というのは非常に他者攻撃的というかとある一固定の「敵」を必要とします。つまり非常に他者依存的だと言うことができます。それの最悪なパターン、マザーコンプレックスにおいて最も守るべき者が同時に憎むべき者である状態になって骨肉相食相高めるという最悪な状態になってしまったのがドミチウス・ネロとアグリッピーナの場合です。だからマザーコンプレックスの女性が母親になると最悪なことになります。しかもこのマザコンの女性というのは自己顕示欲が強くて男をいろいろな意味で誘う場合が多いです。さらには母親になりたがります。だから凄まじくタチが悪いです。しかも自分のタチの悪さに全く無自覚である場合が多々あります。分かりやすい例としてはMarilyn Monroeみたいな女性です。ちなみにマリリン・モンローは父親が不確定の母子家庭という悪環境に育った人です。コノ人は唇の分厚い(一見)セクシーな顔をしてます。
彼ら彼女らは物事がどうなっているかを考えたり知ったりする能力が無いので、なんでも全て人間関係でカタがつくと思い込んでます。というよりは目に見えない人間関係こそが最後の彼らの(プライドの)すがりどころです。こういった人間達が上手く人間関係を運ぶことに熟達しているかというとそうではないどころか真逆であって、空気を読めなくてウザがられるどころか彼ら彼女らは破茶滅茶に無政府主義的です。もう引きずり降ろし合いの殺し合いです。現代においてこれをユダヤ人だとかたわけたことを言うのは間違いであって、そうではなくて無教育な人間達です。連中はこの人間関係というものにおいてもDinge an sichです。だから、自分が数学ができない無力さに対して怒りを感じているのに、そこでそれを自分で見て見ぬ振りをして数学というものそのものに対して「こんなの何の役にも立たない!」とかイタいキレ方をしてみたりするわけです。ちなみに数学が無かったら現代日本の社会に存在するものの99%は存在しません。建物も道路もありませんし、自動車や船や飛行機なんかありませんし、食べ物は調理用具も火も無いので肉や魚は食べれませんし加工食品は当然ありませんし野菜もしなびた虫食いだらけのものしかありませんし天候不順があれば即全滅ですし、パソコンも無ければネットなんざ社会に存在しません。で、最後の最後の彼ら彼女らの(プライドの)すがりどころは、それを挑発だと解釈することです。最悪に手の付けられない程に馬鹿なのだと自分に挑発される価値があると思い込んでます。だから、物事一般というだけではなくとある場面場面に応じて何がどうなっているかを言葉で説明されると、それを自分の言葉による反駁能力の無さを初めとした無知無能に因るものではなく相手が自分を挑発しているという人間関係に変換して解釈します。修正仕様の無い一番カワイソウなのは「挑発の仕方が上手いですね」で全てを片付け(られると思い込んで)る馬鹿です。当然こういうのはTPOに合わせた行動はできないです。理由も無く「ムカつく」と他人に対して言ったりそういった態度で意図的に接したり、「ムカつかされている自分は被害者であり自分をムカつかせる相手に悪が存在する」という自分にしか通用しない理屈で自分の正当性を訴え出たりもしますが、その当の相手はそもそもムカついてなどおらずそれにより当然の如くそこで初めてムカつかされるので、当然この訴え出は却下されます。周知の通りこういった人間は女性に多いです。
ファザーコンプレックスというのは形容矛盾です。おそらく心理学的に言ってもファザーにコンプレックスは存在し得ません。哲学的に考えてもこれに関してはただ、世界がそこにあるだけ、だからです。
女性を襲ったりするこれまたタチの悪い男子達に多いのは、最近私もやっと知ったんですが、純粋にその当該の女性と関わりたいとかではなく、「何だアノ女調子コキやがって一発カマして修正したろか?」という発想でやるんですね。だから下手をすれば彼らの中ではそこに性欲が直結していない場合すらあるのかもしれません。ちょっと不謹慎な表現ですけどファシズミックな善意だったりするのかもしれません、が、仮にもしそうだとしてもこの場合はそれが裏目に出ます。要するに、これは結論だけ言うと、方向性としては間違ってないんですが、これはやる側もやられる側もその人の本性としか言い様が無い上に女性は少なくとも意識上では嫌な思いをするに決まってますから、コレ自体としては絶対にやってはいけないことなんですね。というのは、こういった類の女性というのはやられるとますます増長するからです。やられればやられる程彼女らはマザコンの度合いを強めていきます。何故かというと、自分らでも表面的な意識や行動から概観するに自分らがマザーコンプレックスを持っている人間であるという自覚が無い、というか、自己像みたいなものが破茶滅茶に歪んでいる場合がほとんどだからです。だから二、三昔前に流行ったアイデンティティがどうのこうのというようなものにしがみついている人間はほとんどがマザコンだったりします。
これの防止策として有効なのは、「人の嫌がることはしない」と「女には(表面的にも)男を気持ち悪がらせる」ということを二つ同時に子供の頃から徹底して教え込むことです。特にマザーコンプレックスの男性には後者のキモがらせるというのは非常に効果的で、女性に近寄るまいという意識というかそれこそそういったホメオスタシスが生まれて、そのコンプレックスの度合いが強ければ強いほど女性には近寄らなくなります。そして女性と関わらなくなるうちにどんどんマザーコンプレックスの度合いは弱くなって健常に近づいていきます。そして〆に一番肝心なのは、幼い子供の場合は母親に対する依存心が強いので、母親との(精神的な)関係をすっきりと断ち切ることです。子供の中に母親に対する(精神的な)甘えが存在するままでこれを行うと下手をするとマザーコンプレックスが余計に増長します。ちなみに私は30年間女性と個人的に関わったことは一度も無いんですが、それでもマザーコンプレックスが非常に強かったので、オタク少年~オタク青年の典型みたいな人間でした。
しかしやはり中には本当に性悪としか言い様の無い、褥に狂った豚としか言い様の無い畜生みたいな女も居ます。褥と嫉妬は明らかに関係してます。こういう人間は肉体的にも不健康なばかりか、下手をすると肉体的に不健康であることを自ら志向していることが多々あります。誤解の無い様に言っておきますが私は先にも言った様に童貞です。あまりそういった性欲剥き出しの女とかをある程度の時間見てると気分が悪くなるので。別にホモセクシャルでもないです。関係無いですけど、だから中学とかは地獄でした。中学あたりになって色気を出し始める女の毒気みたいなものに耐えるのに必死だったので。近松門左衛門じゃないですけど「女に殺される油地獄」みたいな。どれだけ男子校の方が気が楽で勉強がはかどったか分からないと今になって思ってます。
マザーコンプレックス的なものが何故排斥されるかといえば、それは人口過多をはじめとした、それが主な原因となる様々の社会おける不幸へとの玄関口になりうるからです。これは、個々の人間にそれを認知することが不可能というだけであって、(社会)工学的意味合いにおいてのみ言えるものではなく物理学で考えてもおそらく|∞|/0の相関関係が存在します。……女性が気を許すと男はすぐに飛び掛ります。だから男性においても女性においてもマザコンは危険です。
民主主義が為されるには女性の社会参加が不可欠なのではなく、民主主義というのは女性も男性と同等の権利を持って参画が可能である状態というのが正しいです。だから、この記事で何度も説明しているように、過度に女性が社会に参画しているような状態、つまり女尊男卑が平然とまかり通るような社会は、それは崩壊の中途にあるというかいわゆる「腐った」社会であると言うことが可能です。
しかしラジオとかで女性の声がしてるとそれはそれで落ち着きます。野郎の声は基本的に萎えます。男性でも伊集院光さんとかやまだひさしさんみたいな面白いトークのできる人の番組だったらいいんですけど、あまりそうでない人のものはちょっとナニかなとは思います。だからこういったことも場合によりけりだということです。ネットは万人が使えるツールなんでポチッとブラウザを操作して見るのを止めればいいんですけど、ラジオは今ではある種アングラなものなのでまだいいとして、テレビの場合はそれこそ(比喩としての意味で)社会工学的に考えてもポチッと電源切って終わりとかそういうレベルで済むものではないです。
全ては教育の問題です。人種がどうとか民族がどうとかいう問題よりも先に性別の問題、genderではなくてsexの問題が来るはずです。二年前か三年前に日本で生物多様性に関する会議というものが開かれていましたけど、やはり遺伝的に決まっていることは決まっています、が、少なくとも現代の日本の人間社会に関することと言えばほぼ確実に教育問題に端を発しています。
たしか20年くらい前にあったファミリーコンピューターのドラゴンクエストⅣのソフトはArtficial Intelligenceが昔ながらの技術で搭載されているということが喧伝されているものでしたけど、あれはおそらくあらかじめ用意された何パターンかのプログラムを途中までの行為のデータから選ぶというものだと思いますけど、というかそもそもああいったものはプレーヤーの選択行動からプログラムを形造っていくものなんだと思いますけど、マトリックスみたいな怪しい映画で出てきそうな完全に先読み形でプログラムにプログラム組まれるということになると、どうなるんですかね?それこそ進化の秘法みたいな。
個人的なアレな話で申し訳ないんですが、私は自分の人生失敗が多かったがセックスだけはヤらなくてよかったと、今になって心の底から思ってます。
ちなみに女性にバラの花を贈るなんてのはギャグマンガで刷り込まれるキザだとかなんとかそういったベタなイメージ以前に露骨な女性への侮辱です。アレな意味として知っている人間にとっては。情熱がどうとか言っている場合ではないです。あんなもん「私はあなたとセックスがしたいのですが?」としらふでダイレクトに問うているようなもんです。
私は最近になってやっと所謂「グレる」という、不良少年達の感慨を知りました。例えば中年のオバさん達のあの恵比寿顔と閻魔顔の差というか手の平の返し方はあまりにも薄汚いとしか表現しようがありません。連中は、将来性がある、自分の役に立つ、何らかの利になる、そういった場合は上辺だけはニヤニヤしながら多々おべっかを使ったりゴマすりを行いますけど、そうでない、自分らの得にならないと分かった途端に彼女らは一発で手の平を返します。ここまでやるかというくらいにやります。だから男性の感覚で言うところの友達というのはおそらく女性においては存在しないっぽいです。連中の得意技は裏切りと袋叩きです。あんまりこういう一概的にひとまとめにするようなことは言いたくないんですけど、母親だろうが近所のオバさんだろうが街歩いてる若い女だろうが繁華街の綺麗なオネーサンだろうが全部同じです。まさに使い捨てというか、あの女という生き物は皆芸能人感覚です。ほぼ例外無く「男ってバカよね~」とかそれが意識的にであれ無意識的にであれベタなマンガや安いドラマに出てくるセリフの如く思ってます。まあよくやるよとしか言い様が無いです。だから母親というのは自分にとって最大のユダだと考えるのが妥当です。彼らは10代の子供や下手をすればそれ以下の時分にコノ手の平返しをやられるのかと思うと、そりゃグレるわという話です。中には甘い顔と言葉で10歳かそれ以下の子供に悪い内容のことを教えたり甘いお菓子なんかをドカドカ食べさせたりするオバさんとか居るんですね。最悪の場合オッサンとかでも居ます。で、そういったのが頭の中で何を考えているかというと、「こんなに甘やかして可愛がってくれたオバさんを忘れないでね~」程度です、意識的には。悪意を悪意と自覚していないのか、もしくは子供の将来とか考えてません。もうナメているとか馬鹿とかいうよりは、今思うとああいったのは本当にタチの悪さを極めてます。ちなみにオッサンでこういった人間の場合は馬鹿か悪人です。
こういうオバさんに関すること言えば、桂歌丸さんみたいな人が演壇で中年男の女房のグチとかいうシチュエーションでしゃべってるイメージがありますけど、あの演壇における講談という陳腐なイメージに捕らわれるとマズいことになります。本当にああいった話のスジそのものだと考えた方が良いです。物語論だとかゲームとかのキャラクター論だとかはこういったところで生きてくるのかもしれません。まあ本当に外道としか言いようが無いです。「ああ、こうやって人間ダメにされていくんだな」とは思います。悪い女にダマされてどうこうというのは、「手を出しちゃってどうたらこうたら……」という軽いニュアンスのものではなくて、本当に騙されるわけです。これに関してはそれこそ詩的な解釈というか恒等式的な意味合いと考えて、「悪い→女」⇔「女→悪い」と考えても間違いではないと言い切ってしまっても過言ではないです。「いい女」なんてものは世界中何処を探したって居ないというと言い過ぎですけど、これは形容矛盾です。ところが女にしてみれば手を出してくる男が悪いわけであって、男にとっても女にとってもその先にあるのものはドツボでしかないです。
で、この女という生き物は自分らが醜い中年女や老女になったと理解するや否や今度は今まで意識するどころか媚びへつらうようなマネをする対象であった所謂イイ男に対して嫉妬しだすどころか攻撃を始めるんですね。自分らに対して接触してこないどころか意識すらしてもらえないと理解するので、「自分のものにならないなら殺してやる」と言わんばかりに。キムタクの悪口をオバさんになって突如言い始めるとか。ブサイクの勘違いどうこうというレベルではないというよりは、もう根本的に何かがおかしいです。
他に癇に障る例だと、他人の行動を制御するにおいて何故か自分に無根拠にその行動を抑制する権利が存在するかの様に発言をするというものがあります。「じゃあ勝手に○○すれば!」とかいう昔のベタなマンガに出てきそうな女キャラがホザいてそうなセリフに象徴されるようなものです。この場合においてこういう言動や行動を取る女性が物事に関することにおいて無知ではなく理知的な判断のもとそうであるかというとそうではなくて、ただ
「男から見れば過剰なまでの生存欲求。女は死の世界の住人であり、そしてかつそこで生きようともがいている、男から見れば凄まじく生存欲求と生存能力の高い生き物(例えば流行性感冒に対してはヒトのオスとメスではメスの方がこれに対して強い抵抗力を持つ)。つまり地獄っちゃ地獄。保身。群生体。繁殖と繁殖力。指図したがり。口うるささ、やかましさ、うっとおしさ、そうぞうしさ(オバタリアン等の偶像に象徴されるように、オバサンを想像すればたやすい)、これらを全て同時に持つということ。共時性。見た目大好き。みてくれやうわべ、これらで物事や人格を判断すること、そしてこれらを好むこと。うわべのごまかし、問題を根本的に解決しようとしないこと。妬み。怨嗟。私怨。愚かさ。逃げ、逃避。嫌なものからは目をそらす。陰湿さ。しつこさ、偏執狂。隠蔽。劣等感。恥意識。全体主義。悦楽、快楽主義、極限状態での快楽。マゾヒスティック。上昇志向、選民思想、つまりはイジメ好き、イジメられるのも大好き、嫌がらせをするのもされるのも大好き。虐待。性欲。熱狂。興奮。戯言、それによる自他の現実検討能力の喪失の促し。自己顕示、自己顕示欲。依存心、他者をはじめ「他」を求める心理。恐怖。絶望。不安定さ。狡猾、狡さ。人生とやらへの期待。(無為に)希望を抱こうと試みること。邪悪さ。性悪、性悪説。悪意。悪徳。狂気。穢れ。」
からそういった行為に及んでいるだけである、というのがよほど賢い女の人でない限りのほとんどの場合です。で、やっぱり賢い女性でも他人に対して「自分が見えてない」とかなんとかいうセリフを吐く、これもやはり女性の女性たるものの亜種だったりします。具体的対策を提示せずに、叱りつけるというよりは怒りつけることにイメージ的意味と自己充足と快感を感じているような人たち(女性)です。これはコミュニケーション能力の存在の弊害であって、やはり女性の方がコミュニケーション能力は高いです。ペチャクチャよくしゃべるおばさんとか。
人間の感情を無意味に持ち上げるだとかいうのは本当に女性的な万物の元凶なんで、有害でしかないです。「愛(穢)」という名の性悪というか、女性器的であるとすら言ってしまうことが可能です。性悪説なんてものは本当に俗悪というか、他者への恐怖心の源、そしてまたその恐怖心自体が「性悪説」の大元だったりします。デカルト的に言うとcogitatioというのは本当に穢れそのものでしかないです。石原慎太郎さんはこれを我欲とおっしゃってます。だいたい物事の理というのは決まってるんで、そういうものに関してあまりにも無知どころか、(デカルト的発想に基づいた表現を用いるならば)そもそも意識すら向かなかったりすると自他共に最悪なことになります。つまり現代社会における科学的技術の具体的革新だとかそういったものを除いて、ルネサンス的なもの人間にしかできないこと自分にしかできないことつまりはオンリーワンなことなんてものは存在しません。極論するならば東大卒の官僚がアニメやマンガを描いたり小説を書いたりした方が面白いものが出来上がるということです。ああいった人たちは頭の良し悪しとはあまり関係なく賢いのでそういった馬鹿げたことは行わないですけど。
あまりにも自分の好みにおいて物事におけるとある対象を上だと決め付けてしまう思い込んでしまうことが何かを為すにおいて失敗の原因であることが多々あります。例えば、「馬鹿」と「阿呆」という言葉はそもそも対置を為すものとして元来は使われていました、が、現代においてはどちらも程度の低い・低レベルな・下のものという意味合いでしか使われていませんし辞書にもそういった意味しか載っていません。で、この馬鹿と阿呆、バカとアホというのは、これに関しては属性だということです。だから、(これに関しては)上下という発想では問題があるので、そういった上と下という価値意識を植え付けられている少なくとも戦後の現代社会に生きる我々日本人としての解決策として「知識を重んじることが上と認識する」という方法が存在すると言えば存在します。それをカオスがどうこうと言ってケチをつけるのはそれこそ馬鹿にもほどがあります。あと「頭が良い」「頭が悪い」というのはこれとは別口です。頭が良いがバカな人というのは特にネットを見てれば分かるとおり多々存在します。
ちなみに馬鹿と阿呆だと、阿呆の方がマシです、馬鹿というのは最悪なので。おそらく何百年かそれ以前の語源を辿るに、馬鹿というのは「馬や鹿のようなもの」、つまり現代にその名残として残るものとして分かりやすいのは身体論的に言うと馬面(うまヅラ)の不細工な顔ということです。馬面の顔の人と言うとちょっとアレなんですけど、唇が分厚い顔をしている人には鷲鼻の、いわゆるユダヤ鼻の人が多いです。昔あった絵本か漫画か何かの「いじわるばあさん」の偶像はそのユダヤ鼻も含めて女性の女性たるものを象徴してます。有名人だろうが普通に外歩いてる人だろうが、他はネットでもハードコピーでも広告だろうが、今は整形技術とかで日本人には有り得ない顔でも何とでも造れるので、あまり人の顔を観察するだとかは止めた方がよろしいです。こういったことに関しては、精神科医の春日武彦さんが書いた「顔面考」というかなり興味深い本があります。
で、何でこういったことが昔はやたらとうるさく言われていたかというと、昔は食べ物の質が現代に比べて悪かったんですね。だから「行儀が悪い」ことを昔の人は罰し、「行儀の良さ」を大切なものだと考えていたというのもあります。つまるところ「行儀の良さ」は「善さ」に繋がると考えたわけです。栄養不良に因って身体感覚が現代の人間と比べて非常に過敏だったということです。江戸時代の文化を調べるに、衛生面から言っておそらく雑菌の作用なんかも明らかに関係してます。逆に言うとあまり現代の栄養豊富・カロリー過多な食事を摂りつづけていると、善悪の区別がつかなくなるということでもあります。それの権化が国語辞典の「馬鹿」の項目で「程度が低いこと、愚かなこと、頭が悪いこと」と記載されていることだったりします。何でも上下で分類するというのはヤバいです。下で言うようにこれの最悪なパターン(マザーコンプレックス)が他者を含めた世界の全ての物事をself(自己)を基点に上下で分けるということです。
江戸時代には、佐川急便のシンボル画のモデルになっている飛脚がわらじを履いて両腕と両足を同じ側を同時に前へ出すというやり方で走っていました。これは長距離間において現代日本人には走行不可能な程のかなりの速さだったみたいです。たしか東海道のどれどれの宿場から江戸までということで、文部省発行の公式の書類か何かに日数や距離等の具体的数値でデータとして残っています。要領としてはちょうどスピードスケートの選手が片腕を遠心力を利用して錘(おもり)として利用しながら氷上を滑るということと似ています。このやり方がそもそもの日本人の体型には合っているわけです。明治の開国期に欧米から入ってきた現代日本人の右手と左足・左手と右足を同時に前へ出すという歩き方や走り方は、日本人にはその遺伝的特質からして合っていないわけです。これは武術家の甲野善紀さんもおっしゃっています。時代劇等でよく見られる江戸時代の侍の一対一の果たし合いでも、にじり合う時はそういった体の使い方をしています。そしてこういった体の使い方をする場合には足の裏は間違いなく地面とぴったり合っていて偏平足の状態です、というかそもそもわらじというものがそういったことを前提に作られている履物です。
だから、「男ってバカよね~」と思っている女性は馬鹿の意味をおそらく分かってないです。いじわるばあさんの魔女つながりの特徴だと、魔女が同じ魔女を魔女以外の人間に対して「あいつは魔女」と言って密告するのと同じで、女性というのは基本的に「決める」つまり物事や人格を意識的・思椎的に決め付けるのが好きです。だからいわゆるキャラオタ(キャラクターオタク)とかの人は多分女性が圧倒的に多いです。
大方の正常な人たちには分かっていることなんですけど、マザーコンプレックスというのはそれこそ共同幻想的な諸悪の根源でしかないです。もうこれは社会工学的観点からして社会に存在する妄念、それを経済学的な物の見方をすると可変性を持つ価格ということであり具現化された媒介形式としての貨幣の存在であり、医学的定義によると精神分裂病(統合失調症)であるということです。もっと一般的な分かりやすい表現を使うなら、上で載せたことの復唱になりますけど、私怨です。さらに分かりやすいのは嫉妬です。この私怨だとか嫉妬心だとかにかられやすい人というのは、自分がその時々で私怨に呑まれて行動しているだとか嫉みの青い炎に焦がされて行動を取ったりそういった言動を発しているだとかそういったことが100%確実に自分自身で全く分からなくなってしまってます。100%確実にというのは、もうこういったことは文学的知識に頼らなくても脳科学者や精神科医や先に挙げた身体論の研究者だとかスポーツ科学(工学)の研究者の人たちが物理的に解明してどんどん実証していってくれているということです。これを確かめたかったら自分の体の痛むところや悪いところを調べて病院へ行って医師に具体的な治療方針その他の話を聞いてみれば分かります(それでも医師から有意義な答えを得ることができなかったら、文学的知識が効きます)。
ちなみにこういったマザーコンプレックスの権化みたいな女性的な人というのは2011年現在の60代前半の例のゼンキョートーだかそういった辺りの人たちに多いです。
何故私にこういったことが分かるかというと、私自身近年まで約13年間くらいずっとこういったイヤな人間で、しかも多種の統合失調症用の抗精神病薬の服薬でこの状態が一時的に非常に悪化していたことがあるからです。このブログも多々毒気や「嫌」なものが混じってますが、嫌味を言う人間というものはやはり最悪です。堂々と当人の目の前で問題提起をしたり下手をすれば罵倒したり上手く殴ったりするほうが有効である場合さえもあるので、ネチネチといわゆる「女の腐ったの」みたいに他人に嫌味を言うだとかいう行為は論外です。
基本的にマザーコンプレックスの人間というのはマザーになりたがります。だからオカマっぽいナヨナヨした男性やホモっぽい男性や同性愛者にはマザコンが多いです。gayと呼ばれる人たちはこれとは別です。分かりやすい偶像としてはオタクの人たちやビジュアル系みたいな人たちです。オタクとビジュアル系というのは非常に近いところにあります、というかほぼ同義です。どちらもクズです。ちなみに私自身はつい最近まで思いきりコレというかオタクというかマザコンの典型でした。マザーコンプレックスというのは医薬品や音楽や肉体に負荷のほとんどかからないような簡単なトレーニングできちんと治るものなので、現代においては特に心配することはないです。統合失調症の治療の一環として音楽療法や作業療法というものがあったりします(これは場合によって悪影響なので注意が必要です)。ちなみに抗精神病薬リスパダールはヒットラーになりたいバカな人以外は飲んだらダメです。リスパダールを発売している製薬会社のヤンセンファーマから今年の初めに同じ抗精神病薬のインヴェガという薬が発売されましたけど、これはけっこうオススメです。
マザーコンプレックス、統合失調症というのは基本的に伝染します。というのは、具体的な遺伝情報によりそれがどうであるこうであるというものもおそらく精神科医の人たちが研究してますけど、それよりももっと単純に「マザーコンプレックスの人間というのはマザーコンプレックスの生活環境や社会環境を作り出す」ということに因ります。というかそう考えるのが最も合理的です。これがしっかりと説明されているのがおそらく養老孟司さんの書いた唯脳論という本です。ちなみに統合失調症の人間が子供を作った場合その子供が同じ病気を発症する確率は一般成人が0.8%であるのに比べて10%前後であるというデータがあるみたいです。
私は父母とも非常にマザーコンプレックスの強い人間であるという環境に育ちましたが、間違いなく統合失調症であるような人間に捕らわれて生活すると間違いなくマザーコンプレックスの度合いが強くなって最悪の場合統合失調症と診断されるということになります。だから統合失調症と診断された人は症状が改善するまで他者と関わることを止めるのが最善です。だから医師はこの病気の人には入院を勧めるわけです。
Viktor Emil Frankl著の「夜と霧」という非常に有名な本があります。この本にはアウシュビッツの環境下でのユダヤの人たちの非常に強固なホメオスタシスを物語る部分が出てきます。あの辛辣で過酷な環境下での「病気にならないこと」の異様さが強制収容所を生き延びた著者の経験を通して語られています。これは実のところ「病気にならない」のではなくて、「病識が無い」状態というものです。これが現代における精神疾患だったらまだ救い様があるんですが、とは言っても脳の病気であることがもう解明されているのであまり容易く「救い」なんてことを言えるものでもないんですが、肉体の物理的な病気であるにもかかわらず病識が無い状態だったらただの悲劇です。
自然に完全には溶け込めない人間の本質として、やはりデカルト的発想は必然です。というのはコミュニケーションが不可能な口の無い詩人(死人)というのは存在しないからです。だから、ある程度の年齢になって異様な状態で凝り固まってしまったらそれを解除して正常な状態に戻すということは並大抵の努力では不可能です。つまり、ユダヤの人たちはホメオスタシスを志向するホメオスタシスが非常に強いということです。最悪の場合ホメオスタシスとホメオスタシスで相互補助でこれを自己の中で高めあっていきます。だからこういったマザーコンプレックスの人間は例外無く自虐的です。まさにDinge an sichです。だから昔の記事でも書いたように、ヒットラーも非常にユダヤ的な人間です。マザーコンプレックスの人間というのは一種の「決まりごとには抵抗しないと殺される」という行動原理がプログラミングされているような人々です。
この「夜と霧」という本はみすず書房から刊行されてますが、10年くらい前に出た新しい訳のものよりも昔からある霜山徳爾さんという心理学者の邦訳によるものがオススメです。
男女問わずマザーコンプレックスを持つ人間というのは非常に他者攻撃的というかとある一固定の「敵」を必要とします。つまり非常に他者依存的だと言うことができます。それの最悪なパターン、マザーコンプレックスにおいて最も守るべき者が同時に憎むべき者である状態になって骨肉相食相高めるという最悪な状態になってしまったのがドミチウス・ネロとアグリッピーナの場合です。だからマザーコンプレックスの女性が母親になると最悪なことになります。しかもこのマザコンの女性というのは自己顕示欲が強くて男をいろいろな意味で誘う場合が多いです。さらには母親になりたがります。だから凄まじくタチが悪いです。しかも自分のタチの悪さに全く無自覚である場合が多々あります。分かりやすい例としてはMarilyn Monroeみたいな女性です。ちなみにマリリン・モンローは父親が不確定の母子家庭という悪環境に育った人です。コノ人は唇の分厚い(一見)セクシーな顔をしてます。
彼ら彼女らは物事がどうなっているかを考えたり知ったりする能力が無いので、なんでも全て人間関係でカタがつくと思い込んでます。というよりは目に見えない人間関係こそが最後の彼らの(プライドの)すがりどころです。こういった人間達が上手く人間関係を運ぶことに熟達しているかというとそうではないどころか真逆であって、空気を読めなくてウザがられるどころか彼ら彼女らは破茶滅茶に無政府主義的です。もう引きずり降ろし合いの殺し合いです。現代においてこれをユダヤ人だとかたわけたことを言うのは間違いであって、そうではなくて無教育な人間達です。連中はこの人間関係というものにおいてもDinge an sichです。だから、自分が数学ができない無力さに対して怒りを感じているのに、そこでそれを自分で見て見ぬ振りをして数学というものそのものに対して「こんなの何の役にも立たない!」とかイタいキレ方をしてみたりするわけです。ちなみに数学が無かったら現代日本の社会に存在するものの99%は存在しません。建物も道路もありませんし、自動車や船や飛行機なんかありませんし、食べ物は調理用具も火も無いので肉や魚は食べれませんし加工食品は当然ありませんし野菜もしなびた虫食いだらけのものしかありませんし天候不順があれば即全滅ですし、パソコンも無ければネットなんざ社会に存在しません。で、最後の最後の彼ら彼女らの(プライドの)すがりどころは、それを挑発だと解釈することです。最悪に手の付けられない程に馬鹿なのだと自分に挑発される価値があると思い込んでます。だから、物事一般というだけではなくとある場面場面に応じて何がどうなっているかを言葉で説明されると、それを自分の言葉による反駁能力の無さを初めとした無知無能に因るものではなく相手が自分を挑発しているという人間関係に変換して解釈します。修正仕様の無い一番カワイソウなのは「挑発の仕方が上手いですね」で全てを片付け(られると思い込んで)る馬鹿です。当然こういうのはTPOに合わせた行動はできないです。理由も無く「ムカつく」と他人に対して言ったりそういった態度で意図的に接したり、「ムカつかされている自分は被害者であり自分をムカつかせる相手に悪が存在する」という自分にしか通用しない理屈で自分の正当性を訴え出たりもしますが、その当の相手はそもそもムカついてなどおらずそれにより当然の如くそこで初めてムカつかされるので、当然この訴え出は却下されます。周知の通りこういった人間は女性に多いです。
ファザーコンプレックスというのは形容矛盾です。おそらく心理学的に言ってもファザーにコンプレックスは存在し得ません。哲学的に考えてもこれに関してはただ、世界がそこにあるだけ、だからです。
女性を襲ったりするこれまたタチの悪い男子達に多いのは、最近私もやっと知ったんですが、純粋にその当該の女性と関わりたいとかではなく、「何だアノ女調子コキやがって一発カマして修正したろか?」という発想でやるんですね。だから下手をすれば彼らの中ではそこに性欲が直結していない場合すらあるのかもしれません。ちょっと不謹慎な表現ですけどファシズミックな善意だったりするのかもしれません、が、仮にもしそうだとしてもこの場合はそれが裏目に出ます。要するに、これは結論だけ言うと、方向性としては間違ってないんですが、これはやる側もやられる側もその人の本性としか言い様が無い上に女性は少なくとも意識上では嫌な思いをするに決まってますから、コレ自体としては絶対にやってはいけないことなんですね。というのは、こういった類の女性というのはやられるとますます増長するからです。やられればやられる程彼女らはマザコンの度合いを強めていきます。何故かというと、自分らでも表面的な意識や行動から概観するに自分らがマザーコンプレックスを持っている人間であるという自覚が無い、というか、自己像みたいなものが破茶滅茶に歪んでいる場合がほとんどだからです。だから二、三昔前に流行ったアイデンティティがどうのこうのというようなものにしがみついている人間はほとんどがマザコンだったりします。
これの防止策として有効なのは、「人の嫌がることはしない」と「女には(表面的にも)男を気持ち悪がらせる」ということを二つ同時に子供の頃から徹底して教え込むことです。特にマザーコンプレックスの男性には後者のキモがらせるというのは非常に効果的で、女性に近寄るまいという意識というかそれこそそういったホメオスタシスが生まれて、そのコンプレックスの度合いが強ければ強いほど女性には近寄らなくなります。そして女性と関わらなくなるうちにどんどんマザーコンプレックスの度合いは弱くなって健常に近づいていきます。そして〆に一番肝心なのは、幼い子供の場合は母親に対する依存心が強いので、母親との(精神的な)関係をすっきりと断ち切ることです。子供の中に母親に対する(精神的な)甘えが存在するままでこれを行うと下手をするとマザーコンプレックスが余計に増長します。ちなみに私は30年間女性と個人的に関わったことは一度も無いんですが、それでもマザーコンプレックスが非常に強かったので、オタク少年~オタク青年の典型みたいな人間でした。
しかしやはり中には本当に性悪としか言い様の無い、褥に狂った豚としか言い様の無い畜生みたいな女も居ます。褥と嫉妬は明らかに関係してます。こういう人間は肉体的にも不健康なばかりか、下手をすると肉体的に不健康であることを自ら志向していることが多々あります。誤解の無い様に言っておきますが私は先にも言った様に童貞です。あまりそういった性欲剥き出しの女とかをある程度の時間見てると気分が悪くなるので。別にホモセクシャルでもないです。関係無いですけど、だから中学とかは地獄でした。中学あたりになって色気を出し始める女の毒気みたいなものに耐えるのに必死だったので。近松門左衛門じゃないですけど「女に殺される油地獄」みたいな。どれだけ男子校の方が気が楽で勉強がはかどったか分からないと今になって思ってます。
マザーコンプレックス的なものが何故排斥されるかといえば、それは人口過多をはじめとした、それが主な原因となる様々の社会おける不幸へとの玄関口になりうるからです。これは、個々の人間にそれを認知することが不可能というだけであって、(社会)工学的意味合いにおいてのみ言えるものではなく物理学で考えてもおそらく|∞|/0の相関関係が存在します。……女性が気を許すと男はすぐに飛び掛ります。だから男性においても女性においてもマザコンは危険です。
民主主義が為されるには女性の社会参加が不可欠なのではなく、民主主義というのは女性も男性と同等の権利を持って参画が可能である状態というのが正しいです。だから、この記事で何度も説明しているように、過度に女性が社会に参画しているような状態、つまり女尊男卑が平然とまかり通るような社会は、それは崩壊の中途にあるというかいわゆる「腐った」社会であると言うことが可能です。
しかしラジオとかで女性の声がしてるとそれはそれで落ち着きます。野郎の声は基本的に萎えます。男性でも伊集院光さんとかやまだひさしさんみたいな面白いトークのできる人の番組だったらいいんですけど、あまりそうでない人のものはちょっとナニかなとは思います。だからこういったことも場合によりけりだということです。ネットは万人が使えるツールなんでポチッとブラウザを操作して見るのを止めればいいんですけど、ラジオは今ではある種アングラなものなのでまだいいとして、テレビの場合はそれこそ(比喩としての意味で)社会工学的に考えてもポチッと電源切って終わりとかそういうレベルで済むものではないです。
全ては教育の問題です。人種がどうとか民族がどうとかいう問題よりも先に性別の問題、genderではなくてsexの問題が来るはずです。二年前か三年前に日本で生物多様性に関する会議というものが開かれていましたけど、やはり遺伝的に決まっていることは決まっています、が、少なくとも現代の日本の人間社会に関することと言えばほぼ確実に教育問題に端を発しています。
たしか20年くらい前にあったファミリーコンピューターのドラゴンクエストⅣのソフトはArtficial Intelligenceが昔ながらの技術で搭載されているということが喧伝されているものでしたけど、あれはおそらくあらかじめ用意された何パターンかのプログラムを途中までの行為のデータから選ぶというものだと思いますけど、というかそもそもああいったものはプレーヤーの選択行動からプログラムを形造っていくものなんだと思いますけど、マトリックスみたいな怪しい映画で出てきそうな完全に先読み形でプログラムにプログラム組まれるということになると、どうなるんですかね?それこそ進化の秘法みたいな。
個人的なアレな話で申し訳ないんですが、私は自分の人生失敗が多かったがセックスだけはヤらなくてよかったと、今になって心の底から思ってます。
ちなみに女性にバラの花を贈るなんてのはギャグマンガで刷り込まれるキザだとかなんとかそういったベタなイメージ以前に露骨な女性への侮辱です。アレな意味として知っている人間にとっては。情熱がどうとか言っている場合ではないです。あんなもん「私はあなたとセックスがしたいのですが?」としらふでダイレクトに問うているようなもんです。
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