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Freund Hein
 死神ハインリヒ。




 太古の時代から、世界中、とは言っても主にはゲルマン語を使用する民族の間ではPoesie(詩)なるものが存在しました。このあたりの歴史について私は詳しくは知らないので、何とも確実なことは言えないんですが、おそらく西暦1521~1522年にMartin Lutherがドイツ語Prosa(散文)の模範であると言われる新約聖書のドイツ語訳を達する以前からも、民間口頭伝承のような形ではとうぜん存在していたでしょうし、他にも印欧語の様々な形式で記された詩が今に残っているのかどうかは知りませんがおそらく存在したでしょう。


「もし皆さん方が、心中に、知識とはべつに、さらに何か力のようなものが、イディッシュ語を感受しつつ理解する、ある能力を賦与してくれる力の連繋が、はたらいているいことに、深く思いをめぐらされるならば、皆さん方は、はやイディッシュ語のすぐ近くにまできておられるのです。皆さん方は、安堵なさって、もはや疎外されているとはお感じにならず、さらに、イディッシュ語が理解できないなどと、もはや嘆いてはいられないことを認識されることでしょう。それがもっとも重要なことなのです、というのは、すべて嘆きとともに、理解も遠ざかっていくのですから。どうか、心を静めて、お待ちになってください、すると、皆さん方は、突然、隠語のただなかにいることに、お気づきになるでしょう。しかし、いったん隠語をつかまえてしまうと――そして、隠語こそは、すべてであり、言葉であり、ハシティズムのメロディーであり、この東方ユダヤ人の俳優の存在そのものなのですから――そのとき、皆さん方はそれまでおもちになっていた平静さを、もはや自覚なさることはないでしょう。それから、皆さん方は、隠語の真の統一を感知されることでしょう、怖ろしいほど強く、しかし、もはや隠語がではなく、自己自身がおそろしくなるほどに。皆さん方はただちに隠語のなかから、この恐怖に対峙し、それを圧倒することのできる自恃が生まれて、皆さん方を助けにきてくれなければ、それをひとりで耐え忍ぶことは、よもやおできにならないでしょう。この自恃を、可能なかぎり享受なさってください。それがしかるのち、早晩、失われるようなことがあれば――実際、ただの一度の朗読会の記憶にたよることなど、無理な話なのですから――、そのときには、この恐怖をも一緒に忘れていただきますように、お願いいたします。なぜなら、この催しは、皆さん方を懲らしめようとするものではないのですから。」
 ――フランツ・カフカ 「イディッシュ語について」より――(独文学者平野嘉彦氏の訳によるもの)

 これはドイツ語ではなくイディッシュと呼ばれる昔ユダヤ人と呼ばれていた人々の間での一種のスラングのようなものが例として引き合いに出されてそれが説明されている、つまりはそれをもとに詩的なものとして説明がなされているものとしての好例だということでここで引用したんですが、要するに「詩的なものにとり憑かれた状態」というのは言語の意味が全て一義化されて母国語が母国語で無くなってしまう状態であると言うことが可能です。全ての固有の単語がその品詞性を失い、文章は単なる語の連なりと化し、文脈がその意味を失い、それが意味不明なまるで見知らぬ異国語の文字列と化してしまうことです。しかし、先天的に知能に障害のある人を除いて、後天的に知能に障害を負うことは物理的に脳が損傷でもしない限り不可能です。よって、そこで私たち日本人の場合に何が起こるかというと、日本人において日本語が全て名詞化される、さらに最悪な状況として固有名詞化されるという状況が訪れます。

 だから本物の詩人というのは、本来的にはコミュニケーションツールであるはずの言語において完全にカイロスに支配されてしまった状態、他者とのコミュニケーションが不可能な人々なはずなんですね、日本語・日本人においては。しかし例えばドイツ語だとこれが可能です。何故ならばドイツ語というのは少なくとも日本語に比べればそういう傾向の強い構造の言語だからです。これは以下で説明します。
 もし日本語で詩人というものをそれこそ詩的に定義するのであれば、それは「しじん」であり、つまり「詩人」と「死人」は同義であると言うことができます、他者とのコミュニケーションが取れないので「死人に口なし」という慣用表現に用いられているという事実においても。
 つまり「しじん」というのは読んで字の如くTotenkopfなアタマのイカれた人たちだということです。
 
 つまり、詩というのは言語が一義化された世界の産物、その意味が一義化された言語、そのものなんですね。だから一義化された言語そのもの、もはやカイロス属性を極めた、というよりは、一流の詩人というのはカイロスそのものと化してしまったような人々のことです。だから少なくとも我々のような現代の普通の義務教育を受けている人間に詩の意味なんて理解できるはずがないんですね。小中学校の国語の教科書には今でも例えば金子みすずや宮沢賢治や石川啄木の詩が載っているのかどうかちょっと分かりませんけど、金子みすずや宮沢賢治のようなまだ「母国語性」を持つ言葉で書かれている詩は理解できるかもしれませんけど、啄木の詩あたりになると小中学生には少々苦しいはずです。ましてやラリった状態のアタマで書かれたロックバンドのお兄さんたちの曲の詞なんてものは中高生の時点ではほぼ理解できません、あの人たちの書く歌詞というのは、もちろん人によりますけど、非常に詩としてはレベルが高いわけです。それと関連して、ドイツ語で書かれた詩、そしてそれをドイツ文学者の人たちが日本語に訳したものを読んでも、年齢に関係なく日本人には理解することはまず不可能です。有名どころでもRainer Maria Rilkeの詩もおそらく難解だと思います。ちなみにリルケも誰かしらとの往復書簡のようなもので上で挙げたカフカの文章と同じような内容のことを言っています。Hoffmanstahlの戯曲のようなものはまだ理解しやすいです(が、まあ独文科の学生か専門の研究者しか読みませんね)。究極の詩人(死人)Heinrich Heineの詩は日本人にはほぼ間違いなく理解不能でしょう。叙情→社会主義→辛辣表現、ロマンツェーロ、格調は高し、程度にしか。


 そしてこれは一種の洗脳です。ただのスラングならばそれを使ってそれを知る者の内のみでのヒミツの会話を楽しむことができる、ということで済みますが、言語がその連なりや品詞性を失ってバラバラになってしまったら言語を使用することが不可能になります。これが言語の場合においてということにとどまらず、あらゆる事象の認知においてそういった状態になってしまったのが、知能に障害を持つ人たちやカルトにおいて洗脳されてしまった状態の人の場合です。「実際、ただの一度の朗読会の記憶にたよることなど、無理な話なのですから」、ここに洗脳の洗脳たる由縁が存在します。
 これを味わいたければ、別に違法薬物のアブないおクスリを使用する必要はないので、統合失調症用の抗精神病薬という何故か合法とされている薬物を服薬すれば済みます。間違いなくおすすめはしませんが。


 ちなみに、よく「○○歳でドストエフスキーを読みました!」ということをこれ見よがしに言っているイタい人たちいますけど、ドストエフスキーの長編は私も5つか6つか全て読みましたけど、どう考えてもあの偉作は10代、少なくとも10代前半から半ばまでの年頃の少年少女が読んで内容を理解できるものではないですね。
 東京外国語大学学長の亀山郁夫さんが13歳の時にドストエフスキーの「罪と罰」を読んだということをテレビでおっしゃってましたが、如何に亀山郁夫さんが優れた頭脳をお持ちであれ、この国(否、おそらく世界の何処の国でも)で教育を受けた人間が13歳の時点でその内容を理解できる程には、あの話は単純に「罪」と「罰」な話ではないですね。
 あろうことか頭アッパラパーの芸能アイドルが「10代の時にドストエフスキーの小説を読んで共感して生きる糧になりましたー」とか言ってたのを見たんですけど、もうナメんなよという以外には言い様がありません。別に彼らの一般の人々は体験しないような経験をバカにしているのではなくて、「そうじゃなくてアンタ、頭脳はどうか知らないけどその年で理解できないでしょ」という問題です。やはり、如何に凝縮された(読書)経験を10代のうら若いよかれな時代に短期間で得ることが可能であったからといって、社会的な様々な要因を考慮に含めて鑑みるに、それでもっても20~40代かそれ以上の人間におけるその作品への理解、その深晰さには及びません。ちょっと若い人には分かってもらえないかもしれないですし、あまり頭のよくない高校教師みたいであって言いたくはないことなんですけど、やはりこれに関してはそういったものなんです。やはりその人物がどういった経験を糧にして生きてきたかということは、ある程度の時間を経てそれが様々な形で発露されるということがあります。ドストエフスキーはできればその時点で読むべきものなんです。だからドストエフスキーは少なくともやはり大学へ入ってから、そして読むなら読むで本格的に全ての長編を読むくらいの意気込みで読んでいただきたいと、文学部出ではない私の口からも申し上げたいと思います。



 母国語が母国語でなくなる、というのがどれ程恐ろしい状態か普通の人間には理解できません。というかできようがあるはずがないんです。コミュニケーションが取れなくなるわけです。これはいわゆる「アウアウアー(擬声語)な感じ」の状態になって他者との意思疎通が不可能になるだけにはとどまらず、自己自身との意思疎通も不可能になる、つまりは自分でものを考えるどころか思うことも不可能になるということです。そしてこれは言語だけにとどまらず、コンテクストを認識できなくなる、つまりは「空気」を読めなくなるということでもあります。例を挙げるならばここで使用している「アウアウアー(擬声語)な感じ」という表現によって表されるものが一体如何なるものであるのかも理解できなくなる、もしくは理解できない、という状態です。文章なんか当然読めませんし、ましてやその内容を理解することなどほぼ不可能になります。高校生や経済・理科系の大学生のやる数学の記述問題など間違いなく彼らには回答不能です。雑談なんかそれとは比べ物にならない程に当然の如くできません。だから言葉を覚えるのが遅い子供というのはほぼ間違いなく(特に幼年齢の人間が形成する社会においては)排斥されます。つまりは子供時代におけるイジめというものがそこで発生します。古谷実さんの漫画「稲中卓球部」では、これが克明かつ説明的に描かれています。だから私がこの記事で説明していることが非常に分かりやすく載っています。あの漫画は非常に面白いですが非常に下劣であって、北斗の拳等と並んで子供には読ませたくない漫画の五本指には入りますけど、得るものは非常に多いです。稲中に登場するキャラクターはどの人物も例外なく滑稽さを付与されていて、人間の人間たる由縁というか人間の愚劣さが非常に上手く描かれてます。
 そもそも、哲学者なんかでこういったことを言う人が多いんですけど、「言葉で考える」という行為のみによって人間は考えるということを行うわけではないですね。中島義道さんが何かの著書で「人間は言葉で考えている」というようなことを言ってましたし、かつて大学の時に語学教師が「僕らは、言葉で考えてるんだよねぇー」と言ったのを覚えてるんですけど、そうではないですね。例えばフェルメールの「デルフトの眺望」という絵を見て、「中央に聖堂の赴きのあるものがあり、手前には右斜め下方に向けて川が流れ、岸の手前やや左に会話を行うらしき二人の女性が存在しどうたらこうたら……」と脳内で言語化してその絵を記憶し、そしてまた再度その絵を見た時にその様にしてその絵の観覧記憶を言語化して喚起させる人間が居ますか?世界中どこを探しても脳の構造や機能に障害を負っている人以外にそんな人間は居ません。「ああ、この風景は見覚えのある風景だ」という時、それは脳に映像として記憶されているからその風景を見てそれがそれであると喚起せしめられるわけですね。音楽は映像以上にそうです。絵は映像だからこそ上で書いたように言語化することができましたけど、音を言語化することは不可能です。だからそれを記録するために五線譜と音符を使うんですけど、とある曲を聴いてそこで記号の如くその音を脳内で五線譜上の音符化しますか?通常の人間は絶対にそんなことは行いません。その当該の曲の漠然としたイメージのようなものが脳内に喚起せしめられてそこで初めて「『ああ、これはあの曲だ』と思い出すに至る」という状況へと合い成ります。中島義道さんは「哲学病を進行させねば哲学者としてはどうこう……」とかいう内容のことをエッセイで書いてましたけど、「言葉で考える」という行為によってのみしか「考える」という行為に及ぶことができない人間というのは哲学病の馬鹿です。場の空気という類のものも含めて、あらゆる意味での広義の意味でのコンテクストを読みとることができないからです。心理学的に言えば無意識やエスの無い状態というものです、おそらく。だから子供社会の場合だと小学校の先生から教わった「人として言ってはいけないこと」を平気でベラベラと言ってしまったり、大人の場合だとくだらないことで他人に因縁をつけたりガタガタ怒鳴り散らしたりする迷惑な人間(マスコミやその周辺業界に多いです)だとかいうことになるわけです。三島由紀夫が無意識の無い人間だとか言われていたらしいですけど、あれはおそらく間違ってます。三島由紀夫はエスを場合によって自由自在に言語化することができた人です。それによって文学作品を創っていた人です。故三島由紀夫氏くらいのレベルの頭の人間だと、そういうことが可能なわけです。
 よっておそらくは(ホンモノの)哲学者というのは半ばTotenkopfな半ばアタマのイカれた人間のことを指してそう呼ぶ、というのは間違いではないです。だから私としては、自らの考えを、会話中でも論文執筆中でもなんでもいいので、言葉というものを用いるという手段でしかそれを脳内で瞬時にまとめてoutputすることができない、つまりは自らの思考形態を言語にhijackされてしまっている多くの(自称)哲学(研究)者たちの、「思考の流れ」「意識の流れ」に若干興味を惹かれないこともないです。Virginia Woolfの小説あたりにこの辺の答えがないこともないような気もします、例えば"Blue & Green"という短編。

 ちなみに、というか逆に、哲学者と比較するには及びませんけど、他には、低俗なのだと、なんでも単純化・象徴化して「つまりこういうことでしょ」とか言いたがる人、特に中年のオバさんとかに多い気がありますけど、ああいうのは基本的に馬鹿です。そんな単純に一言で言い表せるものではないから、あらゆる人々があらゆる物事をあらゆる言葉を尽くして説明しているわけです。だからそういったのの中でも馬鹿を極めたのだと「人生はナントカである」とか言い出したり、何らかの形象的シンボルによって何らかの対象を表そう(現そう)と試みたり、1や2や3や4や…というアラビア数字に象徴的意味を付加して世界の真実だと標榜するたわけ者というかおそらく恣意的なペテンを試みようとする人間も存在する、というわけです。


 例えば、最もベタな例で、「僕は君を愛する」というのがあります。英語で言うところの"I love you."です。ちなみに、これに近いものでRene Descartesの"Cogito ergo sum"というものがありますが、これに関しては一言二言で語れるものではないので、今は触れません。そして、これを詩的に解釈するならば、世界には「僕」と「君」という属性があり、世界における「僕」属性なものが「君」属性なるものに対して「愛する」という行為に及ぶ、ということになります。この文章の認知の仕方は明らかに異常です。
 「楽しむのは今だけ」ならば、「今」という属性に分類される人種のみが「楽しむ」という行為に及ぶものである、ということになります。この認知も異常の極みです。
 これが極端に高じると、生物学的な物理的にオスとメスであること以外に、人類は全て「男」族と「女」族に分けられるとかいうことを認知してしまう、どころか声高にそれを叫ぶというどっかの馬鹿教祖みたいな大たわけな状態になったりもするわけです。

 しかし、ドイツ語を使うとなると、"bin ich deine Schwester"という語の羅列も、「Schwesterはdeineでbinであるのがichなのよ」ということで、頭から読んでも意味は通じます、というか理解できます。つまり日本語はそういう言語であり、ドイツ語はそういう言語である、ということです。だから、たわけた分類のアレやカルトのアレになる前に、免疫的な意味でも、ドイツ語を学んでおくのが日本人にとってよろしい、ということです。
 私とてドイツ語の運用能力などいいところ学部の中級レベルです、が、ドイツ語という言語の構造その他から大いに学ぶものはありました、というかドイツ語をそういった形で学ぶためにドイツ語の勉強を多少やってみたということです。


 そして、このカイロス化した状態を詩的に表現するのならば、まさに「死」なわけです。要するに上でも書いたように詩人というのはそのままカタカナ読みで死人とイコールなわけです。普通の人間が認識するところの世界からは逸脱した、同時に逸脱して世界を認識してしまった、この表現は辞書には載っていませんけど、謂うなればdead out、もっと過激な表現を取るのならdead upしてしまった状態です。まあこれについてアメリカの人に聞いてみれば、普通の人ならば「オー、テリブル」くらいに言われるだけかもしれないですけど、我々の世代のもうちょっと気の利いた、例えばゲーマーな人だったら「オマエはアンデッドモンスターかい、ハッハッ」と言われて肩をポンと叩かれるくらいの感じでしょう。だから逆に言えば、他人から見ればその程度のものだということです。ところが当の本人はcoma whiteだとかcoma blackどころではなく、(当人の中では)dead out、dead upしちゃってるわけですから呑気に笑ってられる状態ではありません。これは私の造語ですけど、十六進数の「FF」な感じの具体的な何らかのDead Endではないわけです、dead out でありdead upなわけです。カントはこれを"Dinge an sich"と呼びました。
 これを、「罠」、「DEATH TRAP」、「time leap」、「夢」、「未来」、「共同幻想」、その他いろいろな表現をもって表す人たちも居ます。例えば、通常未来というのは、簡単に言えば時間軸において先の状態のこと、普通の人間はクロノス的価値意識に従って未来というものをこう認知します。だから1秒後も未来ですし、5分後も未来ですし、3時間後も一日後も5年後も100年後も全て未来なわけです、ということで時間軸における現在より先の時点というもの以外は未来ではないわけです。ところが、カイロス的価値意識に支配されきったアレな人間というのは、未来というものを読んで字の如く「未だ来ぬもの(いまだこぬもの)」と認識します。だから時間軸における現在より先の時点以外も未来であり、自分の知らないことは「未だ来ぬもの」ということで未来なわけです。「未来」という言葉の意味するものをこのように用いるということは、普通は考えられません、というか異常です。仏教の世界では「未来」という言葉をいわゆる「あの世」的に用いるということもありますけど、別に彼らは仏教徒でもなんでもありません。例えば「未来をつなぎ合わせる」という詩なり詞なりを書いた人がいたとして、まさにこれは読んで字の如く吉本隆明さんの言うところの「共同幻想」であり、村上龍さんの作品のタイトル「愛と幻想のファシズム」であり、Schizophrenieになるということです。これが百何十年間に渡って精神科医達が格闘してきた精神分裂病の正体(招待)です。
 
 まあつまりこのような、「言葉でしか考えることのできない」とでも形容しうる者、もう少し皮肉を込めてあてつけ気味に言うならば「言葉の世界に生きている」者というのは馬鹿を極めた連中なわけです。

 しかし、村上春樹さんは「風の歌を聴け」の冒頭部分で書いてますが、「少し気を利かせば世界は自分の思いのままになり、あらゆる価値は転換し、時間は流れを変える……そんな気がした。そしてそれが落とし穴だということにずっと後になって気づいた」という内容のことを。これを「落とし穴」だと認識している村上春樹さんに「愛と幻想のファシズム」な村上龍さんとの対比が見てとれます。村上春樹さんは、大塚英志さん的に言えば「柵を越えて行って帰ってきた」人であり、ある意味では三島由紀夫的エスのコントロールスキルを身に付けた人であり、結果全くの健常人です。実際村上春樹さんは「うなぎが自分の中に現れるどうこう」ということをおっしゃっていたらしいですが、このうなぎというのは蛇やS、つまりはエスを陳腐化してからかい気味に表現したものかと思います。ちなみに、故三島由紀夫氏はこのエスの出し入れが素で出来た人でした、つまりは天才だったということです、おそらく。逆に村上龍さんはおそらく少々スキゾっぽい人です。
 
 そして、無知がどうこうということをやたらと言う人外、外道が居ると言えば居るわけですが、彼ら彼女らにとっては、「知ってる奴は知ってる」、が、「知ってない奴は知ってない、つまり無知」ということになるわけです。彼ら彼女らにとっては無知でない人間か無知な人間かのどちらか二種類しか居ないわけです。一個の人間が世界の事象の全てを認知することは絶対に不可能ですね?ナメんなよとしか言い様がありません。どこの神気取りだって話です。ローマ法王だってこんな勘違いした傲慢なことは言いません。はっきり言って通常の人間から言えば、未来を知ってるだとか何処の(自称)超能力者かおカルトペテン教祖だたわけかコイツとしか言い様がないわけですね。結論を言ってしまえば彼ら彼女らは過去穢れたユダヤ人として排斥されました。現代のイスラエルに住む人々がそのように愚かであるとは言いません。しかし、そういう神気取りな人外はこれからもJudenとして排斥されるでしょう。連中は排斥された方がいいでしょう、何より排斥されることを望んでいるのは連中なんですから。ちなみにソクラテスは「無知の知」を提唱してソフィスト達から排斥されました、が「『無知の知』を『知』として知っていた」ソクラテスこそがソフィストの最たる人間だったわけです。ソフィストの敵であったソクラテスこそが最もソフィストだったというのがオチです。実際プラトンの著作を読めば分かりますが、ソクラテスの言っていることなんてものは幾何学に関すること以外(それでさえも場合によっては)滅茶苦茶です。ソクラテスという人物がプラトンが記したとおりのものであったならば。


 我々日本人が、英語は当然として、ドイツ語という言語から一体どれだけ学ぶことが多いかという話です。英語は当然ツールとして利用され(てい)る意味合いが強いので、現代日本においては必要性と共に身に付けられている場合が多いんですが、ドイツ語という言語からは、それこそ大江健三郎さんが推奨されているような意味合いでの「学び」を得ることができます。

"Der Buchstabe toetet den Geist und der Geist macht den Buchstaben lebendig."

これはドイツに伝わる格言のようなもので、直訳すると、

「文字は精神を殺し、精神は文字を生かす。」

という意味ですが、これはまさに、「与えられた情報を一面的に鵜呑みにする馬鹿な頭には真の文意は読み取れないが(情報をコンテクストを無視して直訳的・場当たり的に鵜呑みにすると馬鹿な頭になる)、俯瞰的に(コンテクストに即して)物事をみることのできる賢い頭は真の文意を読み取ることができる」、という意味と理解することが可能です、というかそういう意味です(だから格言だということです)。



 経済学者の今村仁司氏によれば、人間と動物を区分するものは「死の観念」の存在であり、貨幣とは「死の観念の具象化」であるということです。

「『人間と動物を区分するものは「死の観念」の存在であり、貨幣とは「死の観念の具象化」であるということ』を示す典型的な事実がある。それは人間以外の動物はどの動物も墓を持たないという事実である。これには例外が無い。墓は死の観念の具象化である。 ―中略― 死者たちの共同体(墓)を生者の共同体の不可欠の要素にすることである。葬送儀礼は二つの共同体の結合の儀式である」
 ――今村仁司、「貨幣とはなんだろうか」、ちくま新書(1994)より――(若干私の手で改変しました)

 これは非常に興味深い見解であって、墓とは生者の群れと死者の群れをつなぐ媒介形式であり、墓とは名実ともに小さなヴァルハラでありその入り口でもあるということです。
 先の記事でも取り上げたように、貨幣とは死、暴力、カオス、の封じ込め装置であるということができますが、今村仁司氏によると、墓、引いては墓地というものもそれに該当するということです。つまり、人間にとって死ぬとは墓ひいては墓地という空間的に定義された共同体への帰属だと言うこともできます。そしてこれを発展させて考えるのならば、媒介形式の存在とは人間の関係の存在の根底をなすものであり、科学技術の発展、引いてはinnovationともおおいに連関しています。

 詩(死)や詞(死)を書く人々というのは、「眠り」という表現をよく使います。通常言うところの死者に対して「安らかな眠りを」という言葉は、一般の人々でも送ることがあります。しかし、死と眠りは(彼らにとっては)違うもの(らしい)です。これについてはゴチャゴチャ説明するより、ぶっちゃけ死にたきゃ覚醒していなさい、という話です。
 L'Arc~en~Cielの曲で花葬という曲がありますけど、あの曲は私は発売以来13年間ずっとそれこそ死ぬほど好きなんですけど、あの曲の歌詞ではこのあたりのことが全て歌ってありますね。



 いわゆる現代における新書の存在というのは謂わば詩の対極にあるものです。要するにあんなものはお金を払ってまで買う価値の無いような、当時の右肩上がりの経済成長で先行きは希望にあふれ、(全共闘でみんなでギャーギャー騒ごうぜ、というものも含めて)平和真っ盛りだった頃に、ごく一部の極めてお幸せな青春時代を過ごした当時の若者がそのまま老人になったようなのが若年層や中年層の人間に対して自分たちを尊敬しなくなった腹いせに感想文として文句を垂れているだけです。内田樹さんは、まだ健全なことをおっしゃっておられますが、それでも「アカデミック・ハイ」なるものを提唱しておられる時点で、「アンタ自分が若かった頃の楽しいキャンパスライフをもう一度、みたいに夢見ちゃってるだけじゃないの?」とはツッコミたくはなります。
 少なくとも普通はそもそも学校という場所に「楽しさ」や「面白さ」などといったものを期待していないので、というかそういった場所として学校という機関を認知していないので、少なくとも私はそう問われたら「学校?つまんないですよ、学校ですから」としか言い様がないんですね。世代にもよるのかもしれませんけど、これは我々の世代で言っても半数くらいの人間はそうなんじゃないかと思いますけど。高校は規律の厳しい学校でしたけど、「つまんねーつまんねー」連発してる連中とかいましたけど、私は特に学校に違和感は感じませんでした。で、そうひたすらボヤいていたのは例外なくチンピラ属性な連中でした。大学はそもそも勉強するために行く場所なんで、別に無理してサークルとか入る必要ないんですね。そんなに無駄に人と関わりたいんだったら、今はネットを活用するという方法もありますし、そもそも大学内みたいな狭い領域で社交せずに社会人サークルみたいなところへ入ればいいんですね。早稲田大学とか行けばそういったものはいっぱいあります。だから私は大学時代は学内のしゃべる相手と言えば授業中に会話を交わす少数の人間だけで、あとは酒飲み相手の学外の人間と関わっているだけでした。大学のキャンパスは基本授業に出て図書館へ行って教授の研究室訪れて、すなわちは勉強するという目的のためにあるものなんで。学校という場所にそもそも面白さなんか求めてるのが間違ってるんですね。

 先日も私はとある新書を買ってある程度読んだんですけど、はっきり言って感想文の域を出ません。理に適った内容も書いてありました、半分は。しかしそれこそ例えば私がここで書いているブログの感想混じりの内容にも及ばないような私的感想の羅列がもう半分を占めるようなものでした。数人の人間を殺傷した重犯罪者の行為動機について、それに至る詳しい具体的事情など知る由も術も無いにもかかわらず、それを勝手に自分好みの主観的感想で裁いて決め付けるという、見る(読む)に耐えない愚劣な内容の、反面教師としては多々学ぶもののあるものでしたけど。チンピラが一人暮らしの女性を襲って殺したり、同じくチンピラが「エリートが悪い!」と言って嫉妬に狂って国立小学校へ乱入して無差別に優良児童を多数殺傷することと、一般市民の真面目な青年がチンピラ集団に陰湿かつ執拗な嫌がらせを受け続けて追い詰められて気が狂って秋葉原で通り魔事件を起こして何人も人間を殺してしまうこととの違いも理解できていないような、という週刊誌レベルの低俗悪な内容の。幼児虐待や強姦殺人は鼻で笑って見過ごすどころかそれを助長するようなことを書いている分際で、こういったものに関しては過剰になる、当然女性は怒り狂うに決まってます。こういった低脳、というと少々的外れなので別の表現を用いますが、こういった低俗なことばかり言っているから、こういった芸能マスコミュニケーションな連中は一般市民に嫌われるんじゃないですかね。というよりもうテレビカメラ慣れして、一般市民における「道徳的に教育された」というものとは全く別種の、「意図的にポーズをとることが日常茶飯事になってそれが染み付いてしまった異常者」としか形容のしようがない人間なわけですね、こういうのは。実際に面白いかどうかは別として、まだ画面の前の人たちを笑わせようと努力しているお笑い芸人の方が尊敬できますね。
 この本にも書いてあったことではありますが、近年おかしいおかしいと言われているのは若者だけではありません。もちろん特に主に低学力層の若者のネットを使用した行動は異常の極みです、が、確かにここ数年でネット以前の時代にあった類の犯罪が減っているという事実があるというデータもまた存在します。そしておかしいのは若者だけではありません、昔は存在しなかったような異常な老人も一部に存在します。こういった画一的なことは言いたくないということで断っておきますが、もちろん人による話ではありますが。

 まあご高齢な人たちは仕方が無いと言えば仕方が無いのかもしれませんけど、こういったものは書籍として出版してカネをとって販売するというのではなく、それこそ今はネットというその意味では非常に便利なツールが存在するんですから、こういったものを利用すればいいわけです。だからもうマスメディアの凋落と共にその一部を為す出版業界も確実に異常をきたしていいるので、だから近年出版された本など参見(参考として見する)ことなど止めて、何らかの情報を欲するのであれば、高等教育機関付属の図書館や国立国会図書館へ足を運んでその書籍を読み漁って下さい、ということを私は申し上げています。
 このあたりに自称社会通な人種、最も分かりやすい例としてはマスコミ人その他関連業界というものにそれが仮に漠然とであれ所属する人間の勘違いぶりが露呈しているわけです。
 とあるブログのコメント欄かどこかで非常に的確でかつ分かりやすい言い回しの書き込みを見たことがあるんですけど、もはや現代に至ってはマスメディアというものは「メディア屋さん」なわけです。もやはことここに至ってはこの「メディア屋さん」状態とて彼らに一義的に非があるわけではないんですね。そりゃ官僚とマスコミの癒着だとかなんとか言われてますけど、今から二、三年前、念のために何度でもはっきり言っておきますが私はただの一般市民なんですが、三大新聞社のうちの一つの某新聞社の論説委員の人と一杯酒を飲みながら話をしたことがある(別に話なんざしたくねーけどそういうアレになっちゃった)んですが、「官憲が喜ぶような記事を載せないと彼らも(優良な)ネタをくれなくなるんだよね」とこれに関してはステレオタイプな回答をその人はおっしゃっておられました、が、これは非常に高い確率で建前です。というのは、もちろん官僚の中にも真面目に真摯にお仕事をされる方、ちょっとそういうアレな連中と関わってメディアに露出したがる自己顕示欲の強い方、いろいろな方がいらっしゃると思うんですが、現代の新聞や週刊誌等「メディア屋さん」は自分らにとって都合の良くない記事、つまるところそれが仮に株式会社形態を取らずとも(取ってますが)自分らの謂わば共同体にとっての利益とならないようなものを情報として提示するということは有り得ないわけです。彼らが「メディア『屋さん』」である限りは。二、三年前までは「報道の使命がどうたらこうたら」というものもチラチラ散見されたように思いますけど、もう笑わせんなどころかもうナメんなって話ですね。さすがにここ最近は見なくなりました。

 (ここで、間違えの無いようにあらかじめ言及しておきますが、この国における小学校で行われる教育を初等教育、中学校・高等学校で行われる教育を中等教育、大学・大学院で行われる教育を高等教育と呼びますが、私はこの学問の専門家ではないので詳しくは知りませんが、これはおそらく教育学の広義における定義として定められているものです。)
 そして、このことは学校教育、特に高等教育を行う大学・大学院においても言えることなのですが、もう大学教員・各学生を指導する指導教官たちが「教授屋さん」になっているということです。結論から言うと、私はこれを否定しません。私が大学の時の数学を用いて内容を教える授業の先生で「皆さんは我々の所属する教育機関運営団体に対して授業料を支払います、そして我々教職員はその対価としての教育サービスを提供します」とおっしゃっていた教授がいました。もちろん世代にもよるし個々人にもよるとは思いますけど、私はこれを聞いて、「極めて健全で理に適っている、ラクだな」、との感慨を抱きました。というのは私はそれ以前の段階、小・中・高において、いわゆる熱血教師のような類の教員が嫌いだったからです。あんなもの自分一人がheat upしているだけであって、他の教職員も児童生徒も大迷惑以外の何物でもありません。しかもそれによって児童生徒にもたらされる益はゼロどころかマイナスである場合が多々あります。で、その大学の数学の先生は先に挙げた質問すれば彼らにすれば授業料に見合わない程の教育をきちんと施してくれる先生でした。いまでもこの先生には感謝しています。
 私は内田樹さんに対してはその著書や対談を読む限りけっこう尊敬の念を抱いているので、あまり文句になるようなことを言いたくはないんですが、この人はこういった教育方針に全く反対しておられる方です。はっきり言って個人的感想を言わせてもらえば、そういうことをおっしゃる内田さんは学生を見捨てずにきちんと最後まで面倒を見る方なんですか?という疑念を少々抱かざるを得ません。その数学(系の授業を担当する)の先生は、試験で基準点に満たない者は切り捨てて単位を与えない……というわけでもなく一般の大学教員と同じくある程度は大目に見てくれる、そして且つそれに向かって努力学習をするという人間への教育(サービス)はそれが割に合わないものであっても惜しまない、という人でした。
 だから、やはりどういったかたちであれ、マスメディアにこれぞここぞとばかりに登場してくる学会芸者のような人物にはどうしても疑念を抱かざるを得ません。ちなみに内田樹さんや中島義道さんのことは私は尊敬申し上げております。ちょっと養老孟司さんはあの安っぽい新書だとかを読めばわかる通り、言ってることは空疎だけならまだしも滅茶苦茶です。だから読み物として楽しみ方によっては面白いでしょうが、やはりあの内容では読み捨てられて即古本屋へ売られてしまうだろうなとは思います。

 このあたりのことを解決したいのであれば、grandes écoles(グランドゼコール)のようなものを創ればいいと思うんですけどね。
 大方の大学生は勉強する為に大学へ進学するわけではない、というのがこの日本という国における大学教育の現場の現状です。何故勉強しないか?彼らにとってはメリットが無いからです。大学の勉強の成績などロクでもなく悪くとも、出身大学の名前さえ良ければ、イイところに就職できてしまうからです。つまりは、その勉強しない学生というのは、勉強などロクにする気も無いのに遊びと就職の為だけに大学へ来ているわけです。そして大企業や優秀な実績を挙げており、従業員に高額の給与を支払うことを保障する企業でさえそのような学生をいとも簡単に受け入れてしまうんですね。ちなみに私の大学時代の成績は惨々たるものです、というのは学科の授業の勉強などはほとんどやらずに図書館で本読んだり借りて読んだりしてただけだからです。というかむしろその為だけにキャンパスに足を運んでいただけのようなものです。だから遊びには興味が無く且つ成績は悪いという私みたいなのもたまには居ます(そのかわり好きなように論文書けと言われればそれなりのものを書きます、興味無いものだったら駄レポしか出しません)。まあつまり現状のこの日本という、少なくとも教育に関する後進国では、単に後期中等教育までの教育内容によって得られるモノが必要とされているだけであって、高等教育によって得られるモノがほぼ全く生かされていない、と言ってしまっても過言ではないです。それならば高卒の人間を雇いまくればいいではないか、という話ですけど基本的に勉強嫌いが9割を占めるこの日本という後進国では、(高レベル・高偏差値の)大学に入る為の大学入試というカタチを設けそしてその(高レベル・高偏差値の)大学出身の人間しか雇いませんよという形態を作り上げないことには、後期中等教育によって施される教育内容をすらほとんど誰も学ばないから、というわけです。
 つまりその解決策として、その卒業資格によって、肩書きと被教育内容を充分に享受できる現行の大学・大学院とは異なる高等教育機関を設立すればいいと思うんですけどね。もちろんいわゆる高偏差値の大学の学生はそれなりのプライドを持っていますから、現行の国立高専や如何に技術指導内容が優れていたところで専門学校の類では満足しないでしょう。当然周知の通り現在は法科大学院というものも存在しますし、政策研究大学院の類の大学院大学も存在するでしょうけど、やはりそれといっても現行の大文字としての「大学」「大学院」とは大差無しというのが実情では、という問題です。
 もちろん進む職種によって進学先を決めて、教養・学識を身に付けたい、またはそれを生かした職業に就きたいという学生は大学へ行けばいいし、その上で何か特定分野の研究者への志望を持つ人間は大学院へ行けばいいし、主に実学関連のものを身に付けたいという人間はgrandes écolesへ行けばいいわけです。まあ、とは言ってもこれはほぼ文系や理論科学系の人々の場合ということであって、現にある東工大とかはほとんどgrandes écoles的ですね。

 必死に反アメリカを唱える人もいますけど、アメリカの人たちの援助がなかったら今の日本は現状よりもっと程度の悪質な半端ではない犯罪天国だったでしょうね。教育面から鑑みるのであっても。国家云々という議論をしていられるなどという状況ではなく、それどころかどこかの国の植民地になっていたかもしれないですね。



 少々話がズレましたが、だから、養老孟司さん的な考え方をするのならば、例示的に言って、育毛剤で薄髪が治療されるのであれば、先の記事で書きましたけど、それはHelmとしてのWilleが甦ることを意味するということなんでしょうけどね。養老孟司さんは(たしか)「唯脳論」でこういうことを書いておられます。関係ないですけどこのあいだ「Σ」という名の育毛剤の宣伝が流されているのをちらりとテレビで見て、「ああ、キタか」と思いました。
 これは非常に身体論的に意味合い深いものです、が、よって、養老先生が自信満々の方であるとは言ったものの、この価値思想を鑑みる限りにおいては、Nichtsein、少なくともそれを志向しているとしか今の私は表現する術を持ちません。この人は無政府主義者なんですかね?(政治政党的な意味ではなく純粋にイデオロギー的な意味で)この方は共産主義者なんですかね?こんな示唆・教訓の深いものをお書きになっておられるのに、何故あんな陳腐な内容スカスカの「バカの壁」とかいうたわけた内容の新書の駄本をお書きになるんでしょうね?ゴースト稼業の人のことを上の記事で言いましたけど、本当に自分で書いてらっしゃるんでしょうか?あんなにご多忙な御仁が?

 ともかく、身体論的に言うところの、WilleのHelmと頭髪の禿げについて、戦後の西洋医学を学んだ医師に伺ったところ笑われました。たしかに私とてこの類のことをアタマから信じ込んでいる訳ではありません。が、東洋医学的なものの見方・考え方から学ぶものも大いに存在するんですね。……まあ医師とて特に精神科医はその特定の知識しか持たない、且つものの見方がおかしいという人も中には居ます。私の個人的な経験では、小児科医や眼科医や歯科医や整形外科医や内科医や外科医の医師の人たち、いわゆる医師一般ではこの「中二病」な傾向を持つ人間とは出会ったことがありません。
 ヒットラーが晩年に受けていた体調不良のための治療は、所謂今で言うところのホリスティック治療のようなものでした。だから当然薬物は使用されていましたが、それでもどちらかというと東洋医学的な意味合いを持つものではあったらしいんですね。



 最近、私は鏡で自分の顔を見ると、Heinrich Himmler、ナチスの死神ヒムラーによく似て、少々の不気味さと奇妙さの混じった戦慄を覚えます。ネットで誰でも簡単に観覧できるようになっている修正済み画像ではなく、書籍やドキュメンタリー映像作品のね。馬鹿げた子供滲みたものの見方だとは考えますけど、やはり思想・観念・価値意識等そういったものに肉体の外形というものは影響を受けるっぽいと言えば受けるっぽいです。私自身はこんなもの信じたくはありませんが、身体論的に言えばそういったことになる、可逆性の自体の可逆性、というのが、それ自体があのあたりのことを提唱する人たちの(皮肉にも)「定説」なんでしょう。
 しかし現実問題として治安に関して誰がどう見たって問題が今そこに現場の問題として存在しますね?(道徳)教育に端を発するね。……SS, das Himmler untersteht……私はいわゆる過激思想の持ち主ではありませんので、悪しからず。



 前の記事で「『まごころ』なる言葉やそれに基づく態度には反吐が出るほどの嫌悪感を普通は抱くはず」とか書いちゃったんですけど、今では少々反省しています。というのは、警察庁のホームページを観覧していて、(たしか)警察庁長官の人の顔と「まごころをこめて、治安を守ります」みたいな標語の宣伝が出ていたんですね。これを見て中島義道さんの言葉を思い出すと共に「はあ、はあ、なるほど」と思いました。というのは、「本心からそれに自己がそれに基づいていると思う時」とある特定の行動に及ぶわけですから、それはそれでまごごろなわけですね。だからフロイト的な意味でのまごころは何度も説明したように最悪なものです(ちなみに福沢諭吉はフロイトにおけるリビドーのようなものを怨望と呼んだそうです。オス(メス)におけるメス(オス)を他のオス(メス)と交わらせない為の戦争の火種としての)。しかし、一般的に日常会話で使用するにおいての「まごころ」というのは、「本心からそれに自己がそれに基づいて」いると本人が思っているからまごころには違いがないんですね。だから現代社会で警察官の人たちが(本心からそれに自己がそれに基づいていると思って)普通な、正常な、まともな形で治安を守ろうとしてくれるのならば、それは極めて健全なまごころであり、ありがたいことだなと、ぼんやりと思ったりしました。


2011/07/25
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