忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

J
 悪の華。
 「フロオベエルはお坊ちゃんである。弟子のモオパスサンは大人である。芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。 ―(中略)― ボオドレエルこそは、お坊ちゃん。」
 ヨハン、ヨハネス、ヨハンセン。ヨハネスブルクは金の山。奴らの弱点はバギクロス。Juli, Julei, それは邪悪。Julius turm、これは正当な在り方。
 GIONの丘にて八坂を上れば、"Lecken Sie viel Blut?"......aber das Blut leckt......頂点には清い水の寺がある。蜜の味がするか?それとも蜜を垂れ流しているのか?実在の人物以外に想像上の王など何処にも居ない。普通に生きて死ぬのが幸せかと。花魁マジお断り。売春行為の押し売りは止め(病め)よう(様)ね?誰もおまえなど望まない。




 何故、「分かり合いたい」、だとか、「人は分かり合えるはず」、だとか、人間が「分かり合いたい」とやらの欲求を保持していることが無根拠に前提になっている創作作品その他のモノモノがこう世の中には溢れているのか、私には全く理解不能です。
 普通の人は、少なくとも我々の世代の人間は別に「他人と分かり合いたい」とか思わないんで。なんだコイツウゼーとかダリーとか思ったらそんな他者とは関わらないだけなんで。
 それは職場における場合であっても同じことですね。ただ職務遂行上その場においては協力関係を結んでおいた方が業務効率が上がるから、という理由で職場においては互いに協力するわけですね。だから50代や60代の壮年の男性たちには仕事が終わったら職場の「仲間」と飲み屋で一杯ということを好む人が多いわけであり、我々20代~30代~40いくかいかないかくらいの人間にはそういったものを嫌う、そういったものがウザくて仕方がないという人間が多いわけです。ちなみ日本のマスコミやその周辺にはこういった「他人と分かり合いたい」、甘えを基調とするJudeに汚染されきった女性的人間、というよりはもう幼児的人間、幼児のような人間である連中が極めて多いのでお気をつけ下さい。


 基本的に10歳あたりの年齢を越えた人間、通常の社会的な人間というのは、その人間が意志するところの態度を表明するという形で他者と接し、他者とのコミュニケーションを図るわけですね。というのは、通常人間は他人に自分の考えを知られたら危険であるという意識を保持しているということもその要因のひとつとして挙げられます。だからアノ「まごころ」なる言葉やそれに基づく態度には反吐が出るほどの嫌悪感を普通は抱くはずなんですね。
 哲学者の中島義道さんは、「道徳教育は人間の本性に訴えかけて達成されるものではなく、それに基づいて達成されたかのような外見のもとに、人間を調教することであり、そしてそう教育された者が本心からそれに自己がそれに基づいていると思う時、道徳教育は完成される」という内容のことをおっしゃっておられます。これは当たり前のことです。これを否定するのであれば我々がオギャアと物理的に母親の胎内から産み落とされてから行われる教育一般はなんなのかということになります。もしそれを否定した場合、現代社会に生きる人間たちは皆赤ん坊であり、それこそ「気に入らない奴は犯すなり即殺す」というベジータさんだらけになるとかなんとか言っている以前に、言語は当然として表情やボディランゲージその他によるコミュニケーションを他者と行うことが不可能になります。だから中島義道さんがおっしゃっているような「道徳教育」だけにとどまらず、それを否定した場合、社会性の全く無い人間が出来上がります。漫画やアニメや映画などの画像・映像作品を見て「意味がわからん、意味がわからん」とボヤく連中にはこういった社会性が無いとは言わないまでも社会性の低い人間が多いわけです。その(彼らが言うところの一義的な)「意味」とやらが理解できなくとも、一連の流れを鑑みていれば、そのコンテクストにおける意味は理解できるはずなんですね。要するに(道徳)教育を否定した場合、そういう人間ばかりになり、中世どころか原始時代へ逆戻りになります。だからそういうことを是とする反社会的人間は、もうどっかでそういった人間たちだけの共同体を作って、部外者が間違えて入ってきたら「俺らこういった人間たちだ」と表明して追い返すなりのそういったことを行うべきです。で、自分らの内だけで金を回しているJudenがどうこうと私が言っているのは、詰まるところ何が問題であるかというと、彼らもまた(この日本という国において)一般市民と同じyenという通貨を使用しているということです。経済学的な観点からして、別にこの同じ日本の国土に住んでいてもかまわないので、大多数の一般市民と同じ「円」という通貨を使用することを止めるべきなんですね、彼らは。彼らは彼らの内だけで通用する通貨を新たに作って、それを使用して経済活動を行うべきなんですね。そうすればいわゆる社会問題のうち大方のものは一挙に解決します。いわゆる不良少年少女やロックミュージシャンを見て、「あいつらは社会的に害悪だ」とか言うアタマの弱い・古い・固いオッサンオバサン達もいなくなります(彼らにものを考える脳があるのなら、そういった状況が訪れれば、彼らはそういうことを言わなくなるはずです)。
 ちなみに中島義道さんは、「かといってそのような道徳教育に問題があるのではなく、それが人間の本性であり、それ以上に人間を道徳的によくすることはできない、その事実を自覚しておくことが本質的に重要なのである」ということをおっしゃっておられます。これも当然のことです(だからやはり中島義道さんという方は非常に頭の質の良い人かとは思います)。


 よって、私は実はエヴァのアニメの旧劇映画版は思春期の頃に見てそれこそインパクトは受けました、が、内容は非常に嫌いです、が、あのテレビアニメ版の二十五話と二十六話は結構好きなんですね。面白いとは思いませんけど。というのは、別にオタクの人じゃなくても、やはり自分の存在そのものに不安を抱いている人たちというのは居るらしいんですね、だからそういった人たちにとっては非常に生きる糧になる内容かとは思うからです。私がしゃべったことのある人で、思春期の子供の頃は不良のチンピラ少年ではあったが、エヴァンゲリオンのアニメが好きという人も居ました。が、少なくとも私は「僕を分かってよ!」とかなんだコイツという話であって、普通の人間は「テメーなんざ特に分かりたくねーしおめーも俺のことなんざ分かるわけねーだろ」という話です。やはりテレビ版でもあの第一話はなんだこりゃと思います。もうストーリーどうこう言い出すとあまりにもアレなんであんまり言いたくないんですが、なんであそこで主人公の少年は自分の父親に「知るかバカ」と言って中指立ててその場を立ち去らないんですかね。いきなり呼び出しといてワケわかんねぇロボットもどきに乗れじゃねえどこの見知らぬ奇人だテメーは、って「話」なんで。
 エヴァンゲリオンの主人公の少年はともかくとして、ガンダムに出てくるニュータイプみたいな人間が現実に居たらどういうものか想像してみればいいんですね。アムロやシャアはともかくとして、カミーユみたいのが居たらクソがつくほどウザいこと請け合いです。

 ハッキリ言いますけど、「まごころ」や「人間の本性」とやらを追求して極めればそれこそ「オスとメスでセックスをすれば子供ができる」ということに帰着しますね。物理的な死を否定するがあまり「『群生体として生きる為に生きる』セックス教団の信者であるJuden」、要するにお下劣なフロイト先生の世界になるわけです。ちなみにお下劣フロイト先生はユダヤ系です。過去ユダヤ人と呼ばれていた人々の中にも、アインシュタインのような天才かつ偉人である人も居れば、フロイトのような畜生界の住人である外道も存在したということですね。だからもう現代においてそういったことをグダグダヌカすのは愚劣の極みなので、私もこのブログでJudenがどうこうと言いたくて言っているわけではないです。で、そういったものを基本スタンスとして、漫画・アニメ・小説や文学作品・映画その他創作作品を創り上げたいというならば、んなもんいかがわしい映像作品の監督でもやってろという話です。村上春樹さんは別にいいとして村上龍さんみたいにセックスセックス言って書いてるんであれば、山本普也監督みたいにそういう映像作品を撮ってりゃいいんですね。「自殺よりはセックス」ってあの人はセックスの危険性がどれ程のものか分かって言ってるんですかね?HIVや梅毒やもっとアブないものだっていっぱいあるわけです。あんまり若者にヘンなこと植え付けないで欲しいですね。とは言っても私ですらもう既に村上龍さんにとっての「若者」よりもっと下の年代ですけど。関係ないですけど、Schizophrenieにおける世界認識を村上龍さん流に表現すると「愛と幻想のファシズム」におそらくなるわけですね。

一文引用。

「フロイトのいうようにエスからなんらかの自我が生成すべきaus Es ein Ich werden sollものならば、自我からなんらかのエスが生成aus Ich ein Es werdenすべきでもある。エスから自我への一方通行路しかなくて、自我からエスへの逆行運動が生じないのだと、行きつく先はモラル的な強迫神経症だということになってしまうだろうから。」
 ――Victor von Weizsacker 「Pathosophie」より――

 これを「モラル的な強迫神経症」だと解釈しているところに、ヴァイツゼカー自身の異常心理や反社会性が伺えます。だいたい20歳を越えて、人格がほぼ形成され固まり且つそれが正常なそれであるような人間に「自我からエスへの逆行運動」が生じるのだとすれば、それは発狂状態か被洗脳が成立しうる状態です。


 いわゆる人文科学畑の人々で物語のルートを辿っていけばどうのこうのということを言っておられる人も居ますが、そりゃもう最終的に行き着くところはBibleです。聖書の世界です。少し時代が遡ったところであのあたりのものはギリシア神話も北欧神話もどれも似たような内容です。ただその改変の程度の問題がそこにあるだけ、と言ってしまっても過言ではないです。いわゆる少なくとも近世以来語られている物語なんてものは全部あそこから発祥してます。それを皮肉って否定しているか、逆に肯定しているかの違いがそこに存在するだけです。
 「裸の王様」の寓話なんてものは前者の典型です。これは所詮、「おまえだけが知らないことを、おまえ以外は知っているんだ」というそれこそ「愛と幻想のファシズム」を陳腐な物語化して、その価値意識を幼児に植え付けようとする、「ファシズム」というよりはもはや「Judeを基点とする極めて悪質な全体主義」を助長する以外の何物でもないわけです。要するにセックス教団の信者の産物です。だからアレは間違いなく子供に読ませるべきものではないです、が、あんなモノで洗脳される程今の子供はバカでもヤワでもないですね。私が子供の頃だって既にそうでした。ちなみに大江健三郎さんはこれをひたすら推奨している人です。まあまさに「芽むしり仔撃ち」な人です。大江健三郎さんを肯定したりその作品を推奨している内容の文章というのは私は読んだことも見たこともないんですが、大江さん自身も自伝のようなもので自分のことをお書きになってますが、まあかなりアレな嫌われてる私怨に塗れた人なんじゃないでしょうかね。よっぽと大まかに言って、夏目・芥川・川端・太宰・三島と来てここで絶対に大江とは繋がらないですね。同じフランス文学者でも内田樹さんや、他中島義道さんや他のいろいろな人でも、その主張内容が如何に一見マズいように見えても、やはり後続の人間や若者を何らかの形で育てようとするものが見て取れますが、この大江健三郎さんに限っては、どう見ても若者を潰そうとしている意図が見てとれます。「普通に生きろ」というメッセージすら、それを否定しているように見てとれます。学ぶものは多々ありますけどね。一見大江さんと似たように見えますが、大塚英志さんは「物語で学ぶこともあるし、別に(物語なんてルートはすべて同じなんだから)消費財としてコピーがどんどん生み出されてそれを楽しんでくれるっていうのもアリだし、まあそれを生かしてメシのタネにする道も現代においてはあるんだよ」ということを若者に説いて教えている極めて教育者なことをおっしゃっている人です。
 後者に近いものとしては私は機動戦士ガンダム以外知りません。スターウォーズとかはどうなのか私にはよく分かりません。ジブリのアニメは健全すぎてそういったものを読み取りづらいのでアニメ素人の私には何とも言えません。まあともかく、だから富野由悠季さんという人は天才であり、あれだけ多くの人に支持されるんでしょうね、とは思います。富野ガンダムというのは実際見てて素人目にもアニメとしての質が高いのが分かりますし、面白いです。

 で、その意味では庵野秀明さんという人は「ジンブン科学というモノはこんなにくだらないものなんだよ、こんなにイタいものなんだよ、だからこのアニメ映画を見る君たちはそれを理解して社会科学や自然科学の世界へ行くかまともな勤め人の世界へ行きなさい、ジンブン科学なんてなんの価値もないんだよ、来ちゃだめだよ」ということを当時の少年たちに教えてくれようとしてたのかな?的なことを今は勝手に思ったりもしてます。


 先の記事で言及した、JanneやDirのボーカルの人はおそらく自分で歌詞書いてますね、あの歌い姿と顔つきと歌詞の内容見ればなんとなく分かるっちゃ分かります。まあそりゃ事実どうだかは知りませんけどね。中にはゴーストに歌詞書かせて自称「アーティスト」なミュージシャンも居るっちゃいますからね。実際に(自称)ゴースト稼業をやっている人というのは居ます。でまあ、それを踏まえた上であの人たちの歌詞はパッと見陳腐や異様に見えてもよく内容鑑みればものすごく教訓を含んでるんですね、そして且つそれがどういった方向性であれロックバンドとしての演奏レベルも高いんで、私は彼らの曲は好きなんです。あの人たちは基本的には馬鹿馬鹿しいもん目指してもロクなこと無いからいいから普通に生きとけ、って言ってくれてるんですね。そりゃもちろんヴィジュアル系も含めてロックバンドやその曲なんて9割方はイタいですよ?基本子供騙しなんで。聴く側としてはそれをきちんと自覚した上で聞きましょうということです。それを踏まえた上でも私はJanne Da Arcの曲やDir en greyの曲は別にイタいとは思いませんけど。あと、特にDir en greyの人たちは曲を聴いたり雑誌のインタビュー記事を読む限り、こういったブログ等で題材に使われることを嫌がるであろう人たちであることは私にも簡単に予測できます、だからもしこれが万が一にも彼らの目に付いて不快感を与えてしまうようなことがあれば、それは私に非があるので、この場であらかじめ謝罪を申し上げておきます。こんな普通は書かないようなことをわざわざ書くのは、私が彼らをミュージシャンとして尊敬しているからです。

 この間読売新聞で「格調の高さや教養を身に付けさせるために毎朝生徒に論語の素読をさせている」という女子高の先生のことが載ってたんですが、この女子高校の教員である中年の男性の行動は極めて健全で理に適っているものです。というのはまさか高等学校の教室にCDプレーヤーなりカセットデッキなりを持ち込んでロック音楽を女子高生に聴かせて「これはどうだ」と言って感想文を書かせるわけにはいかないからです。しかし、それもまたその女子生徒たちの学力や知力のレベルによるという問題ではあります。いわゆる偏差値40いくつかの(それ以下は論外として)レベルの高校生に論語の素読をさせたからといって、そんなもの彼ら彼女らにとっては、侮辱的なニュアンスがこもる上に少々的外れなので豚に真珠だとは言いませんが、馬の耳に念仏だからです。一般の人たちがお坊さんの唱えるお経を聴いてもほとんど意味不明なのと同じことです。そしてさらに、もし仮にこの高校教員が教養よりも「格調の高さを授ける」ということを第一義としてそういった行為を行っているのであれば、それはこの中年男性は馬鹿であるとしか言いようがありません。というのは、私自身にも思春期の頃にこういった経験があるのでこういったことはよく理解できるんですが、格調の高さ云々にとらわれていると、それがいったいどういった理念や価値意識や歴史的流れに因り生成・形成されたものであるかが全く理解できなくなるからです。要するに物事や人物の中身を見なくなるということです。
 非常に危険なことに、これは一昔前のネットで言われていたいわゆる「中二病」とやらに繋がってきます。これはつまるところ「中学二年生くらいの年頃の少年少女たちが抱きがちな、自分はちょっと特別で他のカスどもとはちがってちょっと特殊な能力持っちゃってるよ→他者に対して見下したようなハハンという態度とっちゃうよ(そして結果他人にウザがられてたたかれますよ)」というような内容の、まあ言うなれば一種の、というどころかまさに「社会的な病」そのものとでも呼びうるものです。これは最初に伊集院光さんがラジオで発した言葉らしいんですが、まあネットでチラっと見ただけの情報なので本当がどうか分かりませんけど、もしこれが事実ならば、伊集院光さんは天才じゃないかと思いますね。

 ちなみにDirのボーカルの人が昔雑誌で、「ただ自分ら(の異様さ)を見るためだけにライブに来る奴はクズの中のクズなんで」ということを言ってたんですが、これは全くそのとおりな話だとは思いました。例えば私は彼らの曲を「ロック音楽として」好きなんですが、かといってああいった類の音楽のいわゆるライブの会場に行ったことは一度もありません。というのは私はあの熱気に自分が耐えられないことをちゃんと分かってますし、あのノリには自分を合わせたくないので、他のお客さんやステージの上で演奏しているミュージシャンの人たちに迷惑になることが確実に予想できるからです。で、おそらくDirのボーカルの人が言っているのは私みたいな人間のことではないです。というのは、私の知っている人間で、亡くなったX JAPANの故松本秀人さんがやっていたhide with spread beaverのメンバーだった人のソロライブに、その人をわざとバカにするために足を運んで一番後ろに陣取りながら二、三人で鼻で笑いながら嘲ってバカにして帰ってきて、「そしたらニラんできた(笑)」とか言ってたクズ野郎が居ます。これはそれがどんな類の音楽であれそのミュージシャンに対する最大の侮辱です。こういった行動をこそまさにJudeなものと呼びうるわけです。これは横浜銀蝿の時代とかの当時のアブないお兄さんお姉さんが怒声を浴びせながらステージに向かって空きビン投げつけるとかそういったものとは全く種類が違います。あれは「早く演奏しろコラ」とか「もっと激しくノリ良くやりやがれ」とかそういった意味合いが込められているものです。しかし、私が知っているこのバカの行いは明らかにステージの上の人を侮辱するためだけの行為です。私は他人に対してこういった感慨を抱くことはまずないんですが、さすがにこれを聞いた瞬間には「なんだコイツブッ殺したろか」と思いました。ちなみにこの男は絵に描いたようなチンピラです。我々の世代にもこういったJudenなバカがまだ生息しているといえば生息しているんですね。まるで社会面担当の新聞記者、他人の不幸を嗅ぎ付けるのが得意で、人の不幸は蜜の味という伝達者、そしていざとなると被害者を振舞う、分かりやすい偶像としてはドラえもんの漫画のスネ夫のような。ちょうどDir en greyの曲にMr.NEWSMANという曲がありますけど、ちょうどまさにこういったクズ共への多くの人々の怒りを代弁してくれているようであの曲はその意味では聴いていて心地のいい曲で、私は好きです。
 で、私はこのあたりのお話で、黒夢とかの曲は基本的に嫌いです。ちょっと失礼なんですけど、聴いてるとなんだコイツと思いますね。もうなんというか、太宰治なんかと似た成り上がり者のイタさの極致みたいなものを感じます。JanneやDirに関してこういうものは全く感じられません。ちなみに何か具体的な目的があって都市部に来る人たちを馬鹿にする意思は私には全く無いです。

 別にロックのようなジャンルの音楽が存在したって、暴走族の若者たちがいたって別に私は特にそれに対して過剰になる程には問題は無いと考えます。
 しかしまあ後者に関しては明らかに騒音によって一般市民に危害を加えているので普通は(私も)迷惑に感じますし、且つ明らさまに意図的に道路交通法を犯しているので、警察の人たちはいい顔をしないでしょう。というのは、彼らが事故や叩き合いで交通の流れを乱したり損傷を負った場合、彼らだって人間ですから放っておくわけにはいかないからです。つまり消防庁の職員の人たちや警視庁や各県警の警察官の人たちの手を煩わせることになるからです。だからその意味では、動画サイト等でバカにされてますけど、陳腐ではあるが田舎の農道をプヒャララ音を立てながら原付や低排気量のバイクで暴走する若者たちがいたって別に何の問題も無いわけですね。というのは農道では事故る程にスピードは出せませんし、あんなほぼ無人地帯で騒音立てたってだれが迷惑するわけでもないからです。その誰にも迷惑のかからない行為で彼らのストレスが解消されるというのであればそれに超したことはないわけです。これは私の勝手な予測ですが、アレは都市部のチンピラの若者が田舎の同じチンピラの若者をバカにして載っけてるんじゃないかと思いますけどね。
 で、ロックミュージシャンがそのロック音楽によってそれを好まない一般の人々に迷惑かけますか?という問題です。彼らは主にライブハウス、いわゆるハコですね、そういった場所でその外には音が漏れないような工夫がされた場所で自分らの音楽を演奏しているだけです。それが日本武道館や東京ドームだって話は同じです。嫌いならそんなところへ行かなきゃいいだけです。ちなみに私個人はロック音楽そのものは嫌いではありませんが、そういった場所は嫌いです。だから個人的に聴いているだけでそういった場へは行きません。
 クラシック音楽だとて同じことです。私はクラシック音楽もそれなりに聴きますけど、かといってそういった楽団のオーケストラの生演奏を聴く会場へは行きません。ほとんどの人はそうなんじゃないですかね。いわゆるクラシック音楽の聴き手と言える人たちとて、よっぽとその特定のクラシックの音楽を好きな人たちや、上で挙げたいわゆる「中二病」のまま大人になってしまったイタい連中を除いて、家でクラシック音楽を聴いて気分を良くしたりリラックスしたり、という人たちがほとんどじゃないかと思いますけどね。

 そしてこの「中二病」に関してなんですが、人文科学畑にはこの「中二病」な人間が異様なまでに多いんです。実際私はこのジンブンの教師の、ジンブンに関すること以外は全く知らないがジンブンの事となると他人を鼻で笑うという中学二年生がそのままの精神年齢で中年男になったようなのと話をしたことがあります。欧米文学の研究者の肩書きは持ち非常勤の仕事にはなんとかありついているが、その現在の1ユーロが何円に該当するかは全く知らないという類の人間です。おそらく現在において最も輝かしい村上春樹さんとて例外ではないです。内田樹さんはこれについて嘆いておられるようですが、何故あのジンブン畑の主に研究者の人間に中二が異様なまでに多いかといえば、理由は非常に単純であり、もう人文科学などというものは彼ら研究者の間で言うところのいわゆる「終わった学問」だからです。社会科学においては、地理学あたりがこの「終わった学問」だと言われています。が、人文科学なんてものはもうほとんど全ての領域が「終わった学問」だからです。要するにミもフタも無い言い方をすれば、彼らは中二でなければ職を得ることができないことを本能的に分かっているわけです。「終わった学問」の領域で業績を上げるには、少しでも他人が知らないような情報(人物・その著作)を引っ張り出してきて、少しでも他人とは違ったことをしなければ、「ああキミそれもうどこそこの論文に書いてあるよ」と言われて却下されて(教授)職を得ることができないからです。下手をすればネットを利用して実在しなかった人物やその著作を捏造さえして、事実無根の事柄を並べたてさえもします。だから人文科学というものはもはや論外として、社会科学すらも信用に足らないということになってきます。ちなみに自然科学においてはこれはほぼ不可能です。
 もう言ってしまうならば、私が学生の時に聞いた話においてということなんですが、社会科学畑の研究者ですら科学というものを語る時に自然科学と社会科学についてひたすら語っても人文科学についてはジの字も口に出さないという人も居るんですね。要するに、人文科学なるものは科学ではないというのがコモンセンスになってしまっていると言っても過言ではないでしょう。ひょっとしたらこれは私が生まれる遥か昔、何十年も前からのことなのかもしれません。
 で、特にこれはフランス文学においては多々見られるケースだろうな、とは簡単に想像がつきます。というのは、前述の通りの遊び目的で都会や盛り場に出たがる所謂オノボリさんにこのフランス好きが多いからです。太宰治だって露骨なまでにフランスかぶれ(だったん)ですね。要するに彼らは日本人がおフランスであることのブサイクさが全く分からないまま仏文科とかに間違えて入っちゃうわけです。日本人がフランス語を仮に流暢にであれしゃべったところでブサイクなだけですね。おそらくフランスの非常に美しい発音でフランス語の会話を楽しむ貴婦人たちは(現代にも居ます)、もう日本人だというだけで鼻で笑うでしょうね。ちなみに本当にフランスの文学やフランス語が好きで入るという人たちは何も問題は無いです。これは都会だとか田舎だとか居住地域にあまり関係なく、オノボリさん属性のあまり無い人にはこの滑稽さがよく分かるはずなんです。日本人がフランス語を使うことのブサイクさというのは、大して語学力の無い人間が英会話学校へ通って英語をしゃべれるようになって、それでアメリカ人やイギリス人の前で得意気になって必死に英語をしゃべってthの発音を行う時に露骨に舌先から1.5cmくらい奥を噛んで発音してなお得意気、ということに似た非常なイタさがあります。だからもし年下の人間に指導する立場にある人は、相手が何歳であれ、そういったことをちゃんと教えてあげなければいけないはずなのに、何も言わない、という無責任なことになってることが多々あるっぽいかな、とか思ったりはします。というのは、またその指導する立場の人も同じく中二病であるケースがブンガク研究という領域においては多々あるであろうからです。ちなみに人文科学のジの字も発音しなかったその先生は、数学系の授業で「ここの部分がよくわかりません」と質問すると、次回の授業でその進行予定も遮って親切丁寧に教えてくれる東大出の優秀な研究者でした。
 かといって人文科学的な教育が必要無いと言っているわけではありません。いわゆる「終わった学問」というのは、「そのパラダイムにおいてそれを学ぶ価値が無くなった学問」という意味ではなく、「もうあらかた研究されつくして、それ以上には研究のされようが無い学問領域」という意味です。だから地理学が「終わった学問」であるということも簡単にご理解いただけると思います(ちなみに私は地理学が大好きなんですけど)。だから、その多大なる知財など全部燃やしてしまえ、とかそういうたわけたことを言っているわけではなく、もう過去100年や200年に遡って優れた研究が多く存在するので、それをただ教えればいいのでは?ということです。これらの学問領域においては、もう論文なんか書きたくとて書けないしどう頑張っても書きようがないという事態が到来しているはずなんです。だから、別に高等教育機関に文学部があったって何も問題は無いわけです。しかし、そこで学生にその内容を教える人間の育成や如何に?という問題がここで湧き起こってきます。30年くらい前までだったら、それこそ当時の指導教官の指導を受けて論文を書いて学位をとってその先どうこうという話も通用したかもしれません、が、もうこの2011年の時点で文学研究という領域でそんなものはほとんどナンセンスなわけですね。だから、もう文学においてMasterやPh.D.を研究者志望者に与えるという制度そのものを取り止めて、文学教育者資格制度のようなものを作ればいいんですね。つまり検定試験のようなものを作って、それが大学入学試験と同レベルでは困るというか問題があるので、医師免許取得の為の国家試験のような(人)文科学教育者資格制度をとでも呼べるようなものを創設して、それによって高等教育機関で人文科学領域の教育に携わる人間を創生できるようにすればいいんですね。そしてそれを昔の中国の隋・唐・宋・元・明・清朝あたりに至るまで行われていた科挙とまではいかなくとも難関な試験にすれば、難関国立大学やごく一部の名門難関私立大学にしかそんなものを教える学部・学科は存在しなくなります。要するに頭の良くない子供たちにそんなもの教えてもお下劣フロイト先生の世界へ行くだけなので、ごく一部の本当にそういった人文科学的アプローチに興味があるという頭のレベルの高い子供たちだけがそういった世界で研究を行うようになるわけです。

 ちなみに私は田舎が大好きです。青森とか旅行へ行って最高にいい所だと思いましたけどね。なんで津島さんはあんないいところからくっさい都会のサカリ場へわざわざ出てきたんでしょうね。



 そういうわけでいわゆるお役所の人々の対応というものはまったくもって真摯的です。官公省庁へ足を運んだことはないですけれど、区役所や市役所の職員の人たちの対応、他には警察署の警察官の人たちの一般市民に対する対応は極めて健全でまともだと思うんですけどね。彼らはこちらが求める限りでの必要な情報は間違いなく提示してくれます。場合によってはこちらが求めた以上のこちらの助けになる情報を与えてくれる職員の人まで居ます。そしてその上で「公共の役所ではこういったことはできますがこういったことはできませんよ」ということまで丁寧に説明して教えてくれます。こんな親切な人たちが他のどこにいるのかということです。こちらが頼みもしないことを偽善の押し付けと言わんばかりに行われて、しかもそれで恩着せがましくされて、後でブツクサ「あんなによくしてやったのにどうこう」とか言われて不愉快になるどころか怒りを感じない人間など何処にも居ません。霞ヶ関のコンビニではそれ以外の地域のコンビニのお昼休み時の光景としては見られないような秩序だった礼儀正しい人たちの成り振る舞いが見られるそうです。
 そしてどういった連中にこの人たちを非難するのが多いかというと、50代や60代の仕事が終わったら職場の「仲間」と飲み屋で一杯ということを好む壮年の男性やいわゆる噂話好きのオバタリアン(オバサン)に多いわけです。我々の世代の人間で「お役所仕事がどうこう」と言って文句を垂れる人間なんてほとんど聞いたことがありませんね。
 あの飲み屋で一杯系やオバタリアン達が何故彼らを嫌うかと言えば、理由は単純、彼らは「木で鼻を括ったような説明」が気に入らないからです。内田樹さんは知性も頭脳のレベルも非常に高い方なので、こんな連中と内田樹さんを同列に扱うのは失礼なんですが、あの連中は全部マゾヒスティックなわけです。要するに「素の僕(私)を分かってよ!」系の他者への甘えを基調とするJudeな女性的人間だということです。



 で、またここでちょっと身体論じみた話になるんですが、よくよく観察していると、こういった壮年の男性やオバタリアンには手足の短い人間やズン胴な人間が多いんですね。周知の通りこれはモンゴロイドに多いです。もちろん例外も居ます。が、特に後者は頭モジャパーの手足が短くてズン胴な、「ちょっと奥さん聞いた~?」的なアレが多いことは誰の目から見ても明らかですね。不思議ですね。こういうアレな人間に限って他者に対して胡散臭い目を向けていることが多々あるんですが、こういった連中こそが誰の目から見ても最も胡散臭いわけです。そして自分がその噂のタネになることについてはひたすら恐れます。だからこういったのの中でも暴力性を備えている最もタチの悪いのだと、「テメェ、オレの居ないところでオレの悪口言いやがったな」ということになり、他者に因縁をつけたり嫌がらせをしたり危害を加えたりするわけです。だからこういうのには悪人や犯罪者、つまりは不良人間が多いということです。ちなみに何度も言っているように、マスコミには高学歴でもこういうのが多いです(だから近寄らない近寄らせないように気を付けてください)。
 これに関して、例えば私の場合で言うならば、私は他者が私が居ない所で私の悪口を言ったり罵倒をしていても一向に構いませんし、私もその当該の人物が居ないところで他者の悪口や罵倒の文句などいくらでも言います。人間の事象の認知能力の限界を超えたことが人間にできますか?という問題です。他者が自分の知らないところでどういった行動・言動をとっているかなどという類のことは追及してもキリがありません。だから大方の人間は取り敢えず身を守る程度のことはして、くだらないことは感知しない、自分にとって必要の無い情報は摂取しないか忘却していくという方法を取る、普通の大方の人間はそうやって生きているはずです。私だって現にこのブログや旧ブログでもそういったことを多々書いてます。ただ本人の目の前で言う、つまり何らかの形でその当該の人物にその内容を伝えるもしくは恣意の篭った手段によってそれを(悪意をもって)知らしめることはまったくのナンセンスであるどころか倫理的に言っても論外なので、そういったことはまず行いません。しかしブログに関してはとりあえずネットを利用したその所産なので、その本人の目に付く可能性がゼロではないということで、よっぽとの失礼にならないように批判はしても非難や悪口にはならないように配慮はしています。
 もちろん物理的な見た目をその他者の人格の内容の判断材料に用いるということが如何に不健全であるかということは重々自覚しています。

 記憶といったものもこれには関係しています。レベルの低いところからいくと英単語や公式の暗記だろうが試験の出来だろうがでも文章でも映像でも場の空気でも、記憶が不可能になると、これに対して適切な対処・対応が不可能になります。
 実際私は統合失調症用の抗精神病薬を多量に服薬していた時、記憶力が異様に悪くなっていたことがあります(ちなみに調子を崩すと人間誰でもこうなります、私もこの薬を服薬以前にもう記憶や思考や肉体の調子が悪くなっていた時期があります)。試験なんか当然出来ませんし、人としゃべっていても「俺もうお前に三回くらい同じこと言ってるんだけど?」と当時言われた経験があります。これは普通に頭が悪くて物覚えが悪くて学校のテストでいい点が取れない小中高生の場合とかそういったレベルのものではないです。つい5秒前に自分が何を考えて何を思っていたかも思い出せなくなるという酷い程度のものです。私は「ああ、これが老人の痴呆症(認知症)なんだろうな」とは何とかそれだけ自覚してました。その当時、「統合失調症は昔は精神分裂病そのさらに昔は早発性痴呆と呼ばれてたんですねぇ~」とかその時の若手の精神科医も診療室でこれ見よがしに言ってました(この精神科医の悪意については下で書きます)。
 だからやっぱり賢い人は学校の成績がよかったり精神的に強かったり善良であったりする場合が多いですし、愚かな人は学校の成績が悪かったり精神的に弱かったり悪徳であったりする場合が多いです。まあちょっと小学生に対する説教の言い回しみたいですけど、強い人は大抵優しい人間だし、弱い人は大抵小意地の悪い人間だったりしますね。リケーとブンケーで分けるとかバカバカしいにも程がありますね。英語や国語ができる人間は大抵数学や理科もできますし、暗記物の社会科だってできますね。100年や200年昔の大学者を参考にすれば、大抵どの学問にも精通していたり、中には政治家を兼ねている人だって居ましたね。一芸を持っている人たちというのは、それを専門にそれだけやっているから、結果としてそれだけしかできなくなっているというものであって、別にそれ以外のことは本当に何も出来ないという馬鹿な人間というわけではないです。

 「見返す」とかなんとかいうのも、彼ら彼女ら独特の発想です。ベタな例だと昔のマンガで出てきがちな「ちくしょう、バカにしやがって」とかいうアレですね。よく安いドラマとかで女優というか少女アイドルとかが「見返してやる」みたいなセリフとか態度とかを取っているような感がありますけど、とは言ってもドラマなんて十年近く見ないんでどうだかよく分かりませんけど、普通の人は他人は他人、自分は自分っていう発想ですね。で、彼女ら(彼ら)は何か無根拠な漠然とした劣等意識を抱いているわけです、つまり自分の存在そのものに何故か根拠無く不安を抱いている、と言うことも可能です。だから文字通り他人に「見られている」という意識を常に持っているわけです。だから、「見返す」という文字によって表される発想が彼女ら(彼ら)には湧き起こりうるわけです。
 他の例としては、例えば内向的、外向的な性格でどうやらこうやら、というものがあります。この心理学的な意味での、まだ心理学でもこういった陳腐な用語が実際に使われるらしいですけど、「内向的」「外向的」というのは非常に小学生滲みていて全くもってバカバカしいと思うんですけど、仕方なくここではこれを使用します。この場合だと、本当に内向的な人というのは、特に内向的であることに違和感なんか感じないわけです。だからそういった自己認識のもとそれはそれでその人は上手くやっていけるわけです。もし何らかの問題が発生すればそれはTPOに合わせて具体的に問題を考え、そして具体的に問題を解決すればいい、というか普通の人はそう試みるわけですね。だから、自分が「内向的である」という自覚のもと、それを恥じている人間というのはどう見たって内向的ではない人間ですね。何故かと言えば内向的であることをマイナス要素であると認識しているからです。別に自分が外向的であることによるメリットが無ければ、とりたてて外向的である必要性など無いと考えるのが普通の人間です。だからマスコミの必死の宣伝イメージ印象操作もどう見たって陳腐な感触をもたらすものでしかないですね。マスコミはこういったところで一件一件事件や報道を取りあげるというやり方で謂わば「象徴法(象徴方法)」とでも言おうか、象徴的にやっていくわけですね。だからその意味では抽象的に物事を考えられる人間というのは現実的に物事を考えることもできるわけです。その逆にsymbolizeするのが得意、と言うとちょっと皮肉っぽくてあんまりいい表現じゃないんですけど、何でも象徴化・単純化する人間は抽象的に物事考えることもTPOに合わせて現実的に物事考えることもできないんですね。それが極端に高じると、全ての物理的な具体的な一個一個の物物に何らかの象徴を見いだすという幻覚を見ている異常な状態になってしまいます。それこそまあ象徴的に言うと|∞|なアレな状態になってしまう、「|∞|/0の相関関係」が成り立っている世界を認識してしまうんですね。だからそれこそ単純な二元論が世界の真理だみたいに思いこんじゃったりするわけです。これが行き着くところは左右で人間を分けるという最悪な世界です。何故最悪かと言うと、対話を交わしているくらいならばいいんですが、これが極端に高じるとそれこそ戦争状態になるからです。あの二元論というものは抽象的概念でもなんでもなくて、象徴的意味合いが非常に強い単純思考の極みです。逆に抽象的に物事を考えられるというのは、「『|∞|/0の因果関係』は存在する」、つまり物事はちゃんと繋がっているということを認識できるし理解できるということですね。だから、現実的に考えて、「|∞|/0の因果関係」を全て悟った人間というのは、イコール「|∞|/0の相関関係」が成り立っている世界を認識した人間なのであって、それこそ神様なわけであって、そんな人間は世界中どこを探しても居ないですね。自称神様なアレな人たちとは違って、ナザレのイエスさんもマホメットさんもお釈迦様も天皇陛下もローマ法王もイギリスの女王陛下も君臨者としての(過去幾許かの時代には統治者だったこともあります)一人の人間ですね。



 こういった連中というものには、無条件の素の自分を理解してもらいたいだとか、つまりは「(素の)僕を分かってよ」とか、「他人を見返す」だとか、クサいというかイタいのだと「俺を愛してくれ」だとか、そういった他人をナメたマゾヒスト、Judeな女性的人間がほとんどを占めるということです。アタマ大丈夫か?と言いたくなりますね。で、実際のところ彼ら彼女らはアタマ大丈夫じゃないんです。私はこれを統合失調症用の抗精神病薬の一定長期間の服薬によって知りました(つまり統合失調症用の抗精神病薬を飲むと統合失調症になるわけです。先の記事でも書いたように、だからごく一部の良心的な先生を除いて、現代の精神科医は単なる商売人だということであり、これに関することはもっと詳しく後日書くかもしれません)。
 昔知人が名言を吐いたのを聞いたんですが、ああいうのは「愛していると言ってくれ」(昔のドラマのタイトル?だっけ?)と同時に「愛してくれと言ってくれ」な連中なんですね。その知人はもちろんこれを笑いのネタとして言ったんですが、私はこの「愛してくれと言ってくれ」というのを聞いた瞬間マジで笑いころげて10分くらい笑いが止まりませんでした。もうゴーマンカマしてよかですか?のレベルじゃないですね。小林よしのりさんはネタ要素を含ませて言ってるんでしょうけど、この連中は本気でそう思ってますからね。
PR
| prev | top | next |
| 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
カレンダー
03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
プロフィール
HN:
SS
性別:
男性
バーコード
ブログ内検索
P R
忍者ブログ  [PR]
  /  Design by Lenny