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isc(h)a-riot
 カオティックパンドラ。
 ちなみにPandoraは女、彼女に残されたのは希望(金)を与えられるという名の拷問。
 水。あまりいい比喩ではないが、「清水寺に核ミサイルブチ込んだろか?」、という発想。水は女の代名詞であり象徴。清い水?そんな女世界中何処探したっていねーよ(笑)。ちなみに京都の清水寺はちゃっかり拝観料を取る。つまり世界中の全ての女はjailbaitであるという事実。しかし現実問題として水道水は至高の飲み物。
 百花繚乱。
 ベルンハルト作戦云々。
 そして、「阻血」という名の、具現化され得ぬ虚無を具現化してしまったことに対する虚無による怒り。



 個人は、どのような形であろうと、その存在の必然として、広義の意味での社会(世界という言葉の意味に近い)の中に組み込まれている。Deutsche Hanse(ハンザ同盟)が成立していた時代、それより少し過去を遡れば物々交換により経済活動が成り立っていた時代、それより前時代の自給自足的農耕によって得られた農作物により肉体の生命が維持されていた時代、そしてもっと遡れば狩猟採集時代のような、原始的な経済の社会を考えても、一個の人間としての個人は、消費生活、最低でも食糧を消費しなければその(肉体の)生命を保てないわけであり、その意味で、つまり生命を維持、ひいては個人の個人性を維持するという意味で個人はその存在の必然として社会の中に組み込まれている。むしろ個人を集合的に捉えた実体の無いものを社会と呼ぶのであって、その意味で個人が社会の中に組み込まれているのは必然である。
 個人と社会を二項対立で捉えたがる者達は、特定の個々人の恣意的集合体、つまり大文字のコミュニティーと社会を混同しているのであり、その意味では「彼らの言う意味での社会(特定のコミュニティー)に属さない個人も存在する」ということに彼らとて異論はあるまい。そして基本的にその存在の是非やそれぞれへの参加は個人の意に委ねられている。しかし、生命体の存在にまつわる、実体の無いmetaphysicalなものとしての社会を考える時、それは個々人の意思とは無関係なものであって、個々の大文字のコミュニティーと社会は混同されるべきでない。


 そして、仮に狭義の意味での社会というニュアンスが込められた人間社会という枠組みで考えるにおいても、そのことは貨幣という存在で象徴されている。かつて金本位制に基づいて貨幣の価値が定められていたことはこれに輪をかけてそのことを象徴している。一般的には、最初、兌換可能性の高い財が流通度が高いが故にそれを扱う商業人が増え、やがてそれはより兌換性の高いものへ、つまりある局面・パラダイムにおいて最終的には貴金属(金銀等)に落ち着いきそれが貨幣として用いられるようになったと言われている。
 経済学の用語では貨幣のことをliquidity(流動性)と言う……のは間違っているのであって、最も流動的な、流動性の高い価値資産を貨幣と呼ぶわけある。このliquidityという言葉は、貨幣が社会という大きなうねりのような生き物において個々の細胞である個人と個人との間を流れる血液のようなものであるということを象徴しており、つまりそれは、貨幣の存在によって個人は社会の中に組み込まれているということを示すものである。少々自然科学的な比喩を用いるのならば、人体において血液を多く溜め込みまたそれを必要とし利用する大きな細胞組織の方が小さな細胞組織よりも重要な役割を果たしている。金は現代の人間社会における力である……これがおそらく少なくとも現代のこの国の社会に生きる人間の一般的なカネに対する解釈、認識の仕方であり、そのような枠組みで考えるにおいても貨幣の存在によって個人は必然的に社会に組み込まれていると言うことができる。
 念のため、ここで私は、個人が人間社会へ組み込まれているということの具合が、力、つまり所持する貨幣の量や貨幣の用い方により決定されると言っているのではない。ここで私が言っているのは、個人が人間社会に組み込まれているということは、全ての個人が貨幣を用いうるということに基づいているということである。仮にとある個人の貨幣の所持量がゼロであっても、そしてまたとある個人の消費性向が低かろうと(高かろうと)、その個人が貨幣を用いうる限り、その個人は社会に組み込まれているということである。つまり、自らの所持する貨幣にそれが自分のものだからと言って自分の名前を記入する馬鹿者は居ないということであり、極論してしまうのならばそれが流動性の具現体つまり貨幣というものである。

 私は貨幣というものは、それが電子マネーであろうと紙幣や硬貨であろうと、どのような形態・素材の貨幣形式をとろうと、人類史上最も偉大な発明ではないかと考えている。とある経済学者の話によると、当現代社会において銀行を運営するほど大変な仕事はないということである。
 太古の原始的狩猟時代から貨幣(のようなもの)はあったと言われているが、原初、おそらく小規模な経済共同体において、誰もしくはどの集団がこの偉大な発明を最初に考え出したのかということは、貨幣そしてその歴史の起源をたどるという意味で大変興味深い。もちろん、貨幣の役割を果たすものが物理的である限り、そこには偽造云々という問題が存在したわけではあって、偽造された貨幣という枠組みでの経済も考えられるし、そもそも貨幣の種類云々、これについて言い出すとキリがないので、詳しくは経済史を学ぶことをおすすめする。



 多くの言語に携わる学者が、ここで言うところの流動性の役割を果たしているものを言語であるとしているようである。しかし、ここで、タイトルにあるように、個人とその存在に関わってくるものを現代の人間社会という意味に絞るのならば、やはり人間の行動に関して、先立つのはコミュニケーションの道具としての言語より貨幣ではなかろうかと私は考える。もし彼らが、象徴としての流動性のことを言いたいのならば、それは言語というよりは固有名詞、ひいては文字、音韻・音声と言った方がいいだろう。世界や人間の行動は言語で説明されうるが、現実的に考えて人間の経済活動の原理が言語を根源的要素として成り立っているのではない。
 驚くことに、人間の行動を観察し、医学的定義に基づいてその異常・非異常を判断するはずの精神科医にも斎藤環氏のようにそれを言語であるとしている者がいるようである。



 以下で言う社会とは狭義の意味での社会、現代における人間社会のことである。
 社会と個人ということを考えるにおいて、その問題の本質は、前述の通り社会の中に個人が組み込まれているということを前提とした上で、一つの個人として個人がその個人性を保つということであり、個人が個人としてその社会の中に存在するということに関することであり、社会と個人が対立するしない云々という低レベルな議題の中にあるのではない(マスコミの煽る、政治家と一般庶民が対立するというテーゼのバカバカしさにこれは象徴されている)。つまり、社会が個人の集合体ではなく、社会が「社会」になってしまっては、社会は成り立たないということであり、そもそもそのようなものは為され得ない。その意味で私は共産主義は為され得ないものだと考えている。私は共産主義は思想面においてのみ為されるべきものだと考えており、そのような形で為された時にのみ価値があり、絶対的価値を発露するものであり、その意味ではキリスト教的隣人愛思想は評価されるべきものだと考えている。あくまで共産主義体制を為すものは個々のヒトであり、内部に勃発する内ゲバからは避けられようが無い。庵野秀明監督作品のエヴァンゲリオンの旧劇映画版のように、ヒトはLCLと化すことはできない。

 精神科医の森山公夫氏は統合失調症(精神分裂病)を「自明性の喪失」という言葉で定義している。個人が人間社会に属している中で、個我つまり自己の自明性を失えば、個人は発狂し、社会もそれ自体として成り立たなくなるだろう。このいわゆる発狂については、現代の医学用語で言えばおおむねSchizophrenieと呼ばれ、しかしあくまでこれは社会(学)的見地、あまりこの言葉は使いたくないが「文科系」的見地に基づくものである(つまりSchizophrenieと言いつつも、ここで言う発狂とは現代医学におけるSchizophrenieの定義とは何ら関係のないものであるかもしれない。個々の医師の判断にも依るだろう)。ちなみに、現在のこの国においては、もはや大文字のマスメディアの一つと化したネットも含めマスコミが必死に個人の自我認識性を失わせようと特定の事実に特定のイメージを添付して提示するということが非常によく観察される。
 胡散臭い話ではあるが、ネットを始めとした様々な情報媒体で、統合失調症の症状とされている集団ストーカーの認知(認識ではなく認知、その意味で症状とみなされるわけである)、その集団は実在しそしてその正体が共産系団体(私はここで日本共産党を非難しているのではない、念のため)とされているのが散見されるが、これは社会と個人やSchizophrenieに関する問題の本質をある程度ついているものだと思われる。
 ……ある程度、本質をついている。経済学者の今村仁司氏の言葉を引用するならば「ビッグマン経済」ということである。共産主義的ビッグマン経済。「オマエのモノはオレのモノ、オレのモノはオレのモノ」というジャイアニズムが共産主義の実態であり、共産主義者の最たる人間こそが暴力性を最も好み最も重度の拝金主義者であるという事実。流動性の概念が無くなった世界では最も暴力性の強い人間が最も暴力的に(多額に)カネをその意思で用いることができ、またそう用いるからである。




 ……まあ、というわけで、何でもカネで片がつく、心ある人たちを踏みにじって世の中カネだとか思ってる連中には石原慎太郎さんがおっしゃっておられるように天罰だとか、天誅だとかが下るんじゃないでしょうかね?今回の地震の様に、タイダルウエイブとメガフレア食らわされて何万人もの人々が死んでいったように。

「私は、金が欲しさにあの人について歩いていたのです。おお、それにちがいない。あの人が、ちっとも私に儲けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素早く寝返りを打ったのだ。金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」 -太宰治 「駈込み訴え」より-

 貨幣も、そして抽象概念としての価格も、人間ではありません、念のため。……イスカリオテのユダという人物は実在したのでしょうか?
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