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VIRTUAL INSANITY (über Raum und Zeit)
 Virtual Insanity。
 そのまんま。
 ジャズ、というか何処となくフュージョンぽい音づくりで音楽をやるバンド、Jamiroquaiという人たちがいます。確かメンバーは黒人さんです(後で調べたら白人さんも居ました)。彼ら、Jamiroquaiの曲の中にVirtual Insanityという名曲があります。
 この狂気に取り付かれている状態というのは、最も恐ろしい感覚、というか正確に言うと最上の恐怖感を伴う外界に対する対し方、に支配されている状態と言うことができます。だから私はわざわざその内容をこちらに分けたのです。その対し方によって知らしめられる外界、それを私はVirtual Insanityと呼びます。




 virtualという英語を日本語に訳出しようと試みる場合、①実質上の、②虚(像)の、という二通りの日本語を当てはめる方法がどうやら一般的なようです。このとある言語における一つの単語を別の言語における一つの単語に当てはめるという、単細胞が如何にも好みそうな、言語というものが如何なるものであるか全く理解していない愚か者のやり方は本来絶対的に避けるべきなのですが、まあこの場合簡単の為致し方無い、ということで説明を進めていきます。
 Virtual Insanityにおけるvirtualというものは、①②どちらの意味も備えております。極めて簡便に説明致します。まず②です。これは単純です。読んで字の如しです。Virtual Insanityという言葉をそのまま読んで下さい。要するにアチラの世界へ(虚の世界へ)イっちゃった、ということです。
 次に①ですが、こちらは重要です。結論から言うと、このブログ内で何度も名前を出しているImmanuel Kantの言うところの"Dinge an sich(物自体)"というものに近い意味合いです。ちなみに"Dinge an sich"というのは直訳すると、「モノが原因であるそのモノ」「モノにおいてそのモノ」「モノに対してそのモノ」「モノに取っ掛かってそのモノ」という意味であり、つまり「物自体」というわけで、この訳語が日本語においては最も"Dinge an sich"のニュアンスを的確に表しています。これについてカントは、「我々の認識能力から独立に物を想定してみても、そのようなものは我々には認識できない」という意味合いで用いているようです。
 つまり、Virtual Insanityである外界に対する状態というものは、カントが言うところの絶対に不可能であるはずの"Dinge an sich"の認識が可能になってしまった状態、ということです。

 ところで、イマヌエル・カントの言う「ア・プリオリな総合的判断」とは、健常人・所謂普通の人々にはそのようなもの必要ない(これは新しく何らかの具体的知識を得るとかそういった低次元の行いのことではない)わけです。これは、その人の物事の認識の偶然性を前提としたものです。というか普通の人にとってはそれが当たり前な訳です。だから昔のブログの記事ではいちいち「普通の人々は偶然性を前提とした外界に対している」などということは書きませんでした。よって正確に述べるならば、「『ア・プリオリな総合的判断』については、健常人・所謂普通の人々にはそのようなものがそれであると(いちいち)認識する必要はなく」という意味です。つまり正常な人たちにとっては、「ア・プリオリな総合的判断」というものは空気のようなもの、と見なしてもよいわけです。
 ところが、外界がVirtual Insanityとなってしまった、狂気に陥ってしまった人々においては、全てが「ア・プリオリな総合的判断」に「なって」しまう訳です。全てが固定された必然性が支配する世界へ堕とされるということです。その世界こそがDante Alighieriが描いたLa Divina Commedia(神曲)の地獄篇の世界な訳です。しかし、その自己に対する外界全てが「ア・プリオリな総合的判断」である時点ではまだ救いはあります。まだ主体性が確保されている訳ですから。これが最悪の状態にまで進行した状態というのは、自己自身でさえもが「ア・プリオリな総合的判断」になってしまう、という状態です。これは、カントが言うところの「純粋理性のオルガノン」が壊れた状態です。もはや認識もクソもなくなってしまう、全ては、自己自身すら外界からのgivenである、というイカれた状態です。これは一種のプラトニズム、森羅万象が一気に襲い掛かってくる、という状態です。この状態は女性的人間にしか体感することはできません(ちなみに我々は下に書くようにとあるおクスリ飲みゃこれを体感できます)。女性的人間ニーチェはそれに抵抗しました。そしておそらく彼はそれに勝りました。女性的人間ヒットラーもそれに抵抗したでしょう。しかし彼はそれに敗れました。敗れて発狂しました。ニーチェは強く、ヒットラーは弱かったのです。
 これが、先の記事でも書きましたアドルフ・ヒットラーの世界であり、フロイトにおける症例シュレーバーの世界なわけです。つまり、この哲学概念を彼らに照らし合わせて現実的・具体的に説明するのならば、それは彼らにおける「私は神から世界を救う使命を与えられた!(だから絶対悪であるユダヤ人を絶滅させる)」「世界のため神の女になり神と交わるのだ!」という狂気の世界から生まれる発想、であるというわけです。ちなみに、まあ神話というと少々ズレますが、聖書のようなもので語られているお話というのは、その神は、自惚れるな、思い上がるなと言って彼らのような「第一天使」を下界へ突き落とし、彼らはサタンとなって地獄を作り上げた、みたいなもの(こと)なんではないでしょうか。実際にヒットラーが行った行為はサタンのそれそのものであり、"Germania"を夢見ながらも、das Drittes Reich(the Ⅲrd Empire)という地獄を作り上げ(ようと試みて失敗し)、自らも自分の内に作り上げた地獄の奥底で破滅的な辛苦を味わいながらのたうちまわっていたのではないでしょうか。三島由紀夫はその作品「わが友ヒットラー」の中で、「ヒットラーはもはや必然の機械に絡め取られた」というようなセリフを確かErnst Röhmに吐かせています。
 ちなみに、再度言いますが、第三帝国というのは、ヒットラーが夢見たHeiliges Romisches Reich Deutscher Nation(Holy Roman Empire of the German Nation、神聖ローマ帝国)を祖とするゲルマン民族による統治形骸のことではなく、「ナチスの支配体制」のことですからお間違えの無き様。それが地獄だ、ということです。

 このあたりのことについて知りたい方は、"Immanuel Kant : Kritik der reinen Vernunft(純粋理性批判)"あたりをお読み下さい。


 ちなみに、このカント氏という人はあまり難しいこと言いません。私は先にも言いましたように哲学科の出でもなければ文学部の出でもないので、哲学者の著作を多量に読んだというわけではないのですが、この人の著作は普通に読んでいけば普通にスラスラと読めます。何を言っているのか普通に理解できます(ちなみに、中島義道さんが言っているようなことは、長く哲学研究を行ってきた者としての権威を振り回したいだけのことなので騙されないで下さい。彼ら哲学研究者がその研究当該の哲学者の哲学をそのまま理解している保障など何処にも無い訳ですから。というか、例えばカント氏ならばカントの哲学を完全に理解しているのはカント本人以外に存在しませんから)。ところが先のヘーゲル氏の著作はかなり難解です。まあ全体として何を言わんとしているのかは理解できないことはないですが、その部分部分では何を言っているのか理解し難い箇所が結構多いです。Friedrich Nietzscheの著作はヘーゲル氏よりは易しいですが、カント氏の著作よりは難解な気(け)があります。先に挙げた「ツァラトゥストラはかく語りき」あたりをお読みになると入り易いのではないかと思われます。Martin Heideggerの「存在と時間」は、難解云々よりも、ギリシアに始まり彼の代までのヨーロッパの哲学を存在を忘却した哲学と非難し、存在者とは区別された存在そのものを求めるという、その内容がまさに(カントの定義をそのままハイデッガーの理屈に当て嵌めるのは好ましくありませんが)"Dinge an sich"的なものでした。
 ちなみにこのマルティン・ハイデッガーは非常にナチスに親和的な人間でした。その人物を知らなくとも、その思想からもはやナチス賛美が窺えます。このハイデッガーの哲学を、別にそのまま取り入れた訳ではないでしょうが、狂気に敗れて具現化してしまったのが憐れなアドルフ・ヒットラーということが言えてしまうかと思われます。

 ニーチェはその思想内容から言って女性的人間でありパラノイアックな人間であったでしょうが、先にも述べましたように、ヒットラーの様にイカれ・発狂はしませんでした。
 ニーチェの言を引用してみましょう。

「真理とはそれがなければある種の生物が生きられないような誤謬のことである。生きることにとっての価値が最終的な決定を下す。」(Friedrich Nietzsche, Der Wille zur Macht. Alfred Kroner Verlag Stuttgart. 1980)

 これは前半は、先にも挙げ以下にも挙げるカントの言とおおむね対を為すものです。ニーチェは"Dinge an sich"を前提としており、それでないものを「誤謬」と呼んでいます。逆にカントは"Dinge an sich"に到達する自己の主体を前提としています。が、後半でニーチェもやはりそれ(真理)は人間という生き物が自己を保ったまま、病気になったり発狂したりすることなく存在していく為には必要なものであると、消極的態度ではありながらも認めています。ここがおそらく同じ女性的人間でありながらニーチェとヒットラーの違うところでしょう。前者は自己を保って人間で在りつづけ、後者は発狂して悪魔になったということです。
 そしてそれはder Wille zur Macht(力への意志)というニーチェの思想体系の一つにもよく表れています。
 以下。

――そしてまた、「力への意志」を、その言葉が記号として表す意味のみをしか認識できないとでも言おうか、上述の表層だけの言葉遊びが大好きな連中に必至までにもと言える傾向であるが、ニーチェの言うところの「力への意志は力の必然である」という1フレーズに表される彼の思想を(詳しい解説は以下)、自慰的自己流に解釈し単なる力(権力等)への意志と取る愚かなある意味幸せな脳を持つ連中の存在もあるのである。「力への意志」とは「意志が意志せざるをへないようなところの意志」である。理神論的ですらある。にもかかわらずまだこの力の一語にしがみ付きたい輩がいる。「力への意志は力の必然で」あり、何物かが「名を与えうる手段」にはまかり間違ってもならず、そもそも「生成」は何物でも無い(「生成」は生成を表す表現であり、生成に「生成」という名が与えられているのではない)。ナチスなどはその言葉記号遊びを意図的に行ってニーチェの思想を利用していたようである。
 力への意志によって存在へと成されたものには、力への意志が言わば宿っているのであり、「力を意志せざるを得ないような力の本質」から逃れるものはない。その意味で、如何なる認識主体にからもそれ以外のものつまりその外にある世界は「勝手にそうな(ってい)る」「あるべくしてある」のであり、それが無限な離散時間的に存在し続けるのである。このように、ニーチェの言う「力への意志」とはある種理神論的見地に立つものかとも思わせる。――

 ちなみにこれは私が昔、学生時代に書いた文章をどっかから引っぱってきたものです。概略として。何かの本の一部を要約したものだったかもしれません。しっかり知りたいという人はニーチェの著作を読んで下さい。

 「力への意志は力の必然である」ということ、そして「意志が意志せざるを得ないようなところの意志」というものは、カントの言うところの「我々の認識能力から独立に物(生成、もしくは力を意志しない力(が存在すると仮定して))を想定してみても、そのようなものは我々には認識できない」ということとだいたい同義であると考えられます。
 つまり、「神は死んだ」と神を否定した女性的人間ニーチェも、「最高(普遍)善」によって神を肯定した男性的人間カントも、"Dinge an sich"に人間が到達することは不可能であるという点、その見解では一致していたというわけです。よって、カントは当然としてニーチェも主体性(自我、自己自身)を最後の点では失うことはなく、主体性を完全に失って自己自身ですらも外界からのgivenとなってしまったヒットラーは発狂しました。



 つまり、Virtual Insanityである外界に対する自己を持つ人々というのは、全てが必然に支配された世界で、その世界の必然性として全てのものの"Dinge an sich"を見、そして全てのものを"das Ding an sich"として見ているわけです。
 そして、とあるもの、そのものを"ein Ding an sich"として見るということは、それが意味する(内包する)「象徴的意味」にそれに対する対し方を支配されるということです。全てが記号、引いては象徴として捉えられざるを得ないということです。象徴というのはVirtual Insanityを構成する要素要素な訳です。
 カントの言を引用してみましょう。
「(前略)それだから我々はこう言い得るだけであろう、通常の知覚は、或るものがこれこれであるということを教えはするが、これこれでなければならないということを教えるものではない、と。」
 上で言った、「全てが記号、引いては象徴として捉えられざるを得ない」というのはつまり「或るものがこれこれでなければならない」という事です。象徴は当然として、記号ですら何かを表すそれとは別の何かな訳ですから。
 もう一つ。
「もし我々が自分自身を内的に直観し、またかかる直観を介して一切の外的現象をも我々の表象力のうちに包括するという我々の直観の仕方を度外視し、従ってまた対象をそれ自体あるがままのものと解するならば、時間はまったく無である。時間は、現象に関してのみ客観的妥当性をもつ、すでに現象というからには、それは我々が我々の感官の対象と見なすような物だからである。これに反してもし我々が、我々の直観を可能ならしめるところの感性を無視し、従ってまた我々に特有な表象方法を度外視して、物一般(物自体)を云々するとなると、時間はもはや客観的ではなくなる。それだから時間は、我々(人間)の直観(この直観は常に感性的である、それは――我々が対象から触発される限りにおいて、と言うことである)の主観的条件にほかならない、そしてこの主観を度外視すれば、時間はそれ自体無である。」
 これは正確に言うと「度外視し」ているわけではなくて、「視認(認識)できなくなっている状態に陥っている」という表現が正確です。だから全てがそのそれぞれの象徴となってしまうわけで、それは同時に必然に支配された世界に陥るということであり、だから外界がVirtual Insanityとなってしまった人間はüber Raum und Zeitな訳です。RaumもZeitも意味を持ちません、というかそのどちらも無くなってしまう訳です。
 理解を深める為にさらにもう一つ。
「諸君は、『二本の直線によって空間を囲むことはできない、従ってこれだけの直線で一個の図形を作ることは不可能である』、という命題を取りあげて、試みにこの命題を直線という概念および二という数の概念から引き出してみ給え。或は『三本の直線を用いて一個の図形を作ることは可能である』、という命題でもよい、前と同じくこの命題を直線という概念および三という数の概念から導来してみ給え。諸君の努力はすべて失敗に帰し、結局は幾何学が常に行っているように、直観を援用せざるを得なくなるだろう。」
 この場合で述べるならば、外界がVirtual Insanityとなってしまった人間というのは、「直線という概念」や「二という数の概念」や「三という数の概念」を象徴として認知し、この命題においてそれらからその命題を導来できて(ると思い込んで)しまうということです。もちろんこれは普通の人にはできません、というかできようが無いわけです。今の私にもできません。「直線」にも概念(concept, begriff)は在りませんし、「二」とか「三」とかいう数字にも概念は在りません、つまりカントがここでどういった意図でこのような表現を用いたのかは分かりませんが「直線という概念」というものも存在しませんし「二(三)という数の概念」も存在しません。数字というものが表意文字ではなく表音文字であることからもそれは理解できるでしょう(起源を辿りゃ何らかの意味は存在するかもしれませんが。しかしそれは何らかの具体的意味であってここで言っている象徴とは違います。ちなみに二とか三とかいう漢字は表意文字です)。ところが彼ら彼女らはそれらに象徴を認知してしまうわけですから、彼ら彼女らの中には「人間(の性格(笑))をtypeA、typeB、typeC、typeD ......typeIに分類できる!」とかのたまうたわけ者、というか気の狂ったペテン教祖みたいのが出てくる、というわけです。

 私は先のhuman intelligenceという記事で「知的直観(intellectual intuition)」という言葉を用い、「知的直観力や思考能力の無い人間は駄目だ」と言いましたが、まあ思考能力云々は置いておいて、ダメどころか直観の無いもしくは直観を無くしてしまった(女性的)人間(の極み)というのは気が狂っているわけです。



 ちなみに私はこの記事の中で、「認識(Erkenntnisse)」という言葉と、「認知(Anerkennung)」という言葉を、的確に使い分けています。外界がVirtual Insanityとなるということは、言うなれば、「認知」は可能だが「認識」は不可能になる、ということです。英語で言うと、acknowledgeは可能だがunderstandは不可能である状態とでもいったところでしょうか。recognizeというとこの中間といった感じなのであまりどちらにも適切でないです。ドイツ語におそらくこの中間色な言葉というのは存在しません。たぶん英独辞典を引けばrecognizeの対応語はカタチとしては載っているでしょうが、その言葉も「中間色な」意味合いを表すものではおそらくないでしょう。erblicken、bemerken、 wahrnehmenといった言葉もありますが、どれもrecognize的なニュアンスを表す言葉ではありません。まあともかく、このらへんがモノを考えるにおいてドイツ語の便利なところです。
 あと、ドイツ文学者という人達が居ますが、この人たちはちょっと失礼ですがあんまり当てになりません。哲学科、哲学研究者の人達も間違いなくドイツ語をやっているでしょうが、この人達に関してはまたちょっと別口です。で、ドイツ語を専門とする言語学者(というかドイツ人)、ドイツ「語」学者のような人たちがたぶんいらっしゃると思いますが、勉強するならこういった人たちのところへ行くなり彼らの書いた本を読むなりした方が良いでしょう。



 この象徴云々ということについて、多くの哲学研究者や哲学者研究者は根拠皆無と言って否定するでしょう。先に挙げたカント研究者中島義道氏(この人は哲学研究者ではなく哲学者ですが)もおそらく否定的見解を示すでしょう。が、先にも述べましたように、これを実感する方法が私の知る限りでは一つ存在します。統合失調症(精神分裂病)用の抗精神病薬の一定長期間に渡る服薬です。もはや、過去数百年に渡って哲学者たちが探求し続けてきたもの、もっと遡れば古代ギリシア、さらに求めるならばメソポタミアその他、もしくは有史以前、そこで過去の賢人達が懸命になって求めていたものは、現代に至っては科学の力で全く簡単に得ることが可能となってしまいました。とあるおクスリを一発キメりゃ(笑)いいわけです。別にこれは違法ではないからご安心下さい。私は丁度3年前これを体験しました。その時は確か商品名エビリファイを大量に服薬していました。しかしどちらかと言うと商品名リスパダールの方がおススメです、もしその地獄を味わいたいという奇特な方がいらっしゃるのであれば。



――それは全てが必然に支配されている世界であり、それぞれのものものがそれぞれであるが故にそれぞれであると意識されるような世界、つまり全てが"Dinge an sich"な世界なわけです。よって全てはいやがおうにも象徴と為らざるを得ないわけです。この世界に生きるということはただひたすらな恐怖です。精神の弱い人間は発狂します。
 手塚治虫はその漫画作品「火の鳥」のどこかの巻で、全ての事象が固定されているという惑星を、罪人を送るための流刑星として描いていましたが、あれは非常に的確な表現です。

 これは男性的脳機能、その主なものとしてはイメージング機能、それ(ら)が全て殺された状態であり、女性的脳機能に認識形態全てを支配され、最極度にパラノイアックになった脳機能がもたらす状態です。要するに、それは認識によって対象を識る(しる、kennenに近い)ということがなくなってしまった状態、と言うこともできるでしょう。かといって、それは「全てを知る(wissenに近い)者」になったということかというと、断じてそうではありません。人間にそんなことは絶対に不可能です。「全て(Dinge, es)が必然的にそう(sich)であるように思い込まされた者」になってしまったに過ぎません。要するに「自分に分からないことは無いと勘違いしている者」、独裁者やカルト宗教のペテン教祖の様になってしまうということです。

 ヒットラーはおそらくユダヤ人を悪の権化の「象徴」として見ていました。彼にとってユダヤ人は「絶対的な」悪だったのであり、ユダヤ人は悪の「記号としてgiven」でした。彼にとってユダヤ人を絶滅させるという行為は、それ自体で成立して(Dinge an sich)しまい、何の理由も必要無かったのです。



 どうやら人類は、その科学力によって神をつくることは不可能であっても悪魔をつくることは可能とした(してしまった)のかもしれません。……薬物は恐ろしいものです、違法・合法にかかわらず。


9:54 2010/11/10
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