[PR]
2025.04.16 Wednesday
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
the "Amae"
2011.05.21 Saturday
甘え。
甘えでサーチするとfawnやwheedleといった動詞が出てくるが、これは明らかに日本語で表現される「甘え」とはニュアンスを異にする。
「助け合い」というのは非常に重要である。それは社会にとって有益であるばかりでなく、そもそも倫理的に言って人間として他者と助け合って生きるというのは基本的なところではないかと考えている。身近な例で言えば、例えば日常生活品の貸し借りなどである。今はもう失われてしまったが(田舎の方ではまだこういった光景も見られるのだろうか)、お隣さんと仲良くする、そして困った時は助け合う、ご老人や障害を持つ人たちを助ける、声を掛け合う、道ですれ違ったら挨拶をする、こういったものは私は非常に大切だと思っている。しかし、「助け合い」や「思いやり」といったものと「甘え」とは全く違う。
「甘え」というのは、精神的な他者に対する依存である。よって物理的な他者への加害行為なども含まれるし、心理的な他者への加害行為も余裕で含まれる。
土居健朗氏はその著書「『甘え』の構造」の中で日本人特有の甘えについて論じている。ちなみに土居健朗は非常な女性的人間である、「甘え」に対して肯定的な見解を示しているのだから。私は中国や韓国を訪れたことがないので、中国人の人や韓国人の人々がどうだか分からないが、これはおそらくモンゴロイドというよりは特殊な地理的要因、物理的に隔離された世界で生きてきた日本人という民族のどうしようもないみっともない習性なのである。近年ではもちろんこの国においてもこれは解消されてきている。が、先の記事で書いたように、ここへきてネットの普及でそのような連中がまた暴れだしてはいる。
暴力というものは、他者への甘えの最も単純な形での現れだが、二昔三昔前にいた不良少年少女というのは甘える子供の典型であり、好例である。甘えというものが如何なるものか知りたいという人は、まず不良少年の行動でも観察してみればいい。彼らは例外なく群れる。かといってそこで建設的関係を他者と結んでいるのかというと、そうではない。一見同盟を結びながら、彼らは中で互いに加害行為を行っている。仲間内でも愚かしいケンカ行為をしたりして、甘え合いながら仲良く殺し合いを行っているのである。もちろん部外者に対しては加害意識を丸出しにする、というか少々加害意識を通り越して恐れているような様子も見受けられる(これと日本人については後で述べる)。バイクで集団で暴走してみたり、ほれガンをつけただのなんだのといって人に絡んだり、というのは彼らの甘えを如実に表している。そして部外者の大人にまで身内の甘えが通じると思い込んでいる。だからもっと最悪の非行、性犯罪などへも平気で走る。中学生にでもなればこんなことは自覚していて当然なのだが、その先に被害者の望まない妊娠・出産というものが控えておりその責任を自分が取らなければならないという自覚が性犯罪者には全く無い。性犯罪というのは極限の甘えであると同時に最悪の重犯罪である。現実に奈落の底に突き落とされて地獄の苦しみを味わっている被害者の少女がいるのである。別に男性の性欲の存在自体は否定しない。これが無ければ人類は滅びる。ちなみに私は童貞であり、抗精神病薬の主作用によるものか副作用によるものかは不明だが、ほぼ完全なインポテンツである。しかし、同じ年齢層(私は2011/05/21現在30歳)の健常な男性とは比べ物にならないほどに性欲は薄く量も少なく、しかしまたそのような私にも物理的に精液は精巣に蓄積されるのでマスターベーションは不完全ながらも時々行う。そしてしかし、個人的な抑制能力の優劣により性欲が我慢できないというのであれば、アダルト映像・画像でも何でも見ていればいいのである。あの類のものに存在価値があるとすれば、その主なものの一つは性犯罪抑止効果をもたらすということである。問題は、その性欲のコントロール手段があるにも拘らず、それさえ出来ずに、暴力的に女性にそれを押し付けるというパラノイアックな女々しさにあるということである。もうそれ以前に強姦犯罪者というのは、レイプとセックスの意味内容の区別すらつかない幼児的な性欲を、それをコントロール出来ずにそれに振り回されている情け無い人間としか言い様がない。ちなみに、幼児的な性欲と言ったが、先のSigmund Freudはこれの一つの形態として肛門性欲というものを発見し、ひいては肛門性格というものを自らの学問モデルを為す要素の一つとして見出しながら研究を行っていた人である。簡略に分かり易く言うと誤謬を避けられないのだが、肛門性格者というのはその性欲にまつわる人間の精神の発展段階において幼いままで止まっている、もしくは幼い形での性欲を求める程に退行してしまっている(シュレーバーという人物をフロイトはパラノイアの代表例として挙げている)人間ということである。これらのことからも、これら不良少年連中がパラノイアと呼ばれ得ることが理解できるだろう。
また、いじめというのも、他者に甘える子供の好例である。自分より物理的に弱い相手に対して暴力性を向けることによってその他者に精神的甘えているのである。これは情けないことに大人になっても行おうとする者がいる。ところが大多数の人間は精神的に大人であり、他者に精神的に依存しておらず他人をいじめるなどという発想は無いので、彼らは次第に人々の間から疎外されていく。
ちなみに、少なくとも私の住む首都圏では彼ら不良少年少女はほとんど見なくなった。理由は、未成年者飲酒・喫煙取締りの強化などといったものも遠因としてあるかもしれないが、主にネットの存在である。一昔前のネット上でDQNという言葉で彼らが語られてしまっている様に、不良というのは現代においては若者達の間でダサいものの代名詞のようになってしまったからである。かといって潜在的に不良少年性を持った他者に精神的に甘える人間が減ったかというとそうではない。ためしにネットの掲示板でも何でも覘いてみればいい。彼らは荒らしやその他他人を罵倒するという形で相変わらず存在している。そして彼らはその中でも群れだす。先に挙げたネット上のパラノイア、まあ所謂おかしな連中などというものはその典型だろう。そこで彼らはまた他者に甘え続け自分たちの居場所である掲示板をも潰してしまった。そしてネット上で女性的な依存心で自分たちの精神的な他人への甘えそのもの自体をさらに求め同時に自分達の居場所を求め続けている。
ネットで他者を叩いている人間というのは、仮想世界上ですらどこの誰だか分からない人間に甘えている低級な生き物だが、さらに低級なのは実在の人物を叩いたり貶めたりしている人間である。これはもう精神的に甘える対象を探して彷徨っている、甘える対象を求めるためにネットを利用しているとしか言い様が無い。輪を掛けてこれよりはるかに低級、というか低俗なのが、漫画やアニメなど創作表現の中に登場するキャラクターを叩いて貶めている連中である。もうこれに関してはどうしようもないとしか言い様が無い。アニメのキャラクターにまで甘えているのである。これはオタク云々という問題ではない。そういう問題ではない上に、そもそもオタクの人々はそのようなこと行いたがらない。もう粘着滲みたパラノイア、おかしな連中としか言い様が無い。
子供を虐待する親というのは他者に甘えながら大人になった人間の中でも最悪の部類であるが、これは他者への精神的甘えを捨てきれず幼い自分の子供にすら甘えるような人間である。それで子供が自分を避けるようになるとさらに虐待の度合いを加速させる。要するに「おれもおまえに甘えるから、おまえもおれに甘えろ!(しかも限りなく自分に都合のいい形で)」と言っているわけである。はっきり言ってクズである。ネットのどこかで、親になる為にも自動車の運転免許の様に免許を必要とする様にして欲しいという意見を見たことがあるが、突飛過ぎてはいるだろうがまあもっともな話ではある。
冷たいようだが、自分の子供を虐待する親の子供というのはその自分の子供を虐待する人間の遺伝子を受け継いでおり、人類(生物)の進化ということを考えた場合にその子供の滅びは必然的と言えば必然的であり、自分の子供を虐待するような親が自分の子供を虐待するという行為は然りと言えば然りな話である。劣等な遺伝子は滅びる様に出来ているのである。
彼ら互いに甘えあうパラノイアにとって、精神的に甘えない自立した人間というのは気に入らないようである。「どうして自分は精神的に甘えているのにこいつは甘えないんだ、自分は『他人!他人!他人!他人なんて気に入らない!他人なんて許せない!自分はこんなにすごい!自分はこんなに苦労した!だから自分が!自分だけがー!』と思っているのに、なんでこいつは思わないんだ、こいつにもそう思わせてやる、こいつもおれに甘えさせてやる」、という訳である。
経験とはその人間を為すものの骨格の周りの謂わば肉づけであり、経験が豊富であればある程その人の人間性が豊かになるというのは万人に基本的な見解であろう。しかしよって、経験そのものは所詮経験でしかなく、つまり単なる記憶であり、RPGにおける経験値の如きものである。つまり経験によって得られた感覚や認識や思考形態ひいては能力に価値が在るのであって、経験そのものに価値は無い。ところが甘える人間というのは、経験そのものを売りにするのである。この日本という中進国では高等教育的な能力があまり問われないようなので、経験から感覚や認識を学ばなくても、経験そのものは記録として残り、下手をすればそれが実績という形で珍重されることすらある。はっきり申し上げてバカ丸出しである。実績というのは実績内容そのものの事であってその記録のことではない。RPGで言えば、経験値を得ることによってレベルが上昇することに意味があり価値があるのに、経験値得ることそのものをレベルの上昇と勘違いしているようなものである。もちろん殆どの人間において経験の豊富さと能力の高さや人間性の豊かさは正の相関を示している。しかし、その人間の経験値が高いからといってその人間の能力が高いと断定することもできないし、経験値が低いからといってその人間の能力が低いと断定することもできない。まあマンガ的に言えば、「おれはこんなことをやったんだ、どうだすごいだろう」という訳である。もちろんこれは「こんなこと」を為し得るのに高い能力を必要とする場合に行われる自慢の類とは違う。それは自慢されて然るべきであり、何も不自然なことはない。しかしこのセリフで表されるのは「経験値そのものが(何故か)価値あるものとして扱われてしまっている」というニュアンスである。
そして、その経験そのものを価値あるものとして珍重するということを否定された、甘えを基盤とする彼らが、無能力である己を悟り、その上で最終的に彼らが逃げ込む場所はと言えば、それは人間関係という虚構であり虚構の人間関係である。「ボクの知り合いにどうこう……」という訳であり、もちろん知己の存在によって得られるメリットというのは計り知れないが、この場合はそうではない。知り合いの存在自体が自慢の種になってしまうのである。これこれの知り合いを持つ自分は如何なる立場にありそして彼らから如何なるメリットを享受することができるか、ということを通り越して、精神的な依存の対象として知り合いの存在自体を見るようになるのである。
謂わば甘える人間にとって、知り合いや友人というのは、あくまで自分の延長線上のものであり、彼らは他者を他者として扱うということができない。彼らは他者を自分の延長線上にある、謂わば「他者である自分」としてしか他者を認知できず、自分と他者を区別することができない。要するに他者の存在に甘えているのであり、知り合いや友人(の存在自体)に甘えているのだ。おそらく欧米人の人間関係というのは、哲学書等を読めば理解できるが、他者を他者として扱うということから始まっている。その前提としてあるのは、自己の自己意識であり、自分と他者は別の個別の人間であるというしっかりした自己の精神的な自立的意識である。私が先にヘーゲルをパラノイアと言ったのは、彼は(おそらく)欧米人としてのしっかりした自己意識を持っている(た)にも拘らず、「他人を自分の延長線上として扱いましょう」というセリフに近い哲学を表明していたのであり、謂わば精神的に自立した欧米人に対する甘えのススメを行っていたからである。そういったものを哲学として意図的に表明していたヘーゲル自身にもおそらく甘えというのは理解しきれない異国の神秘として映っていたのではないか?と思われる。三島由紀夫の言葉を借りるならば「十九世紀の欧州の阿片吸引者達の夢の中に出てきたアジア的なカオティックな異国の神秘」とでもいったところか。つまり中島義道氏とは真逆であり、Georg Wilhelm Friedrich Hegelという人物は哲学者らしからぬ哲学者であり、その人物自身は非パラノイアックと言えるかもしれない。欧米人には、甘えを前提とした友人関係は理解できないであろう、というかそのようなものを友人関係とは呼ばないだろう。
ちなみに性格だ何だ根拠の皆無なもので人間にレッテルを貼るなど、甘える人間の最も好みそうなことであり、倫理的見地からしても論外である。レッテルを貼るという形で、自分以外の全ての人間(の存在自体)に甘えているということだ。
そうして彼らは、その人間の考えや発言や主張の具体的内容の前にその人間が何者であるかということを意識し始めてしまうようになるのである。こうして最後に甘える人間パラノイア達が堕ち込んでいくのは人種差別的な露骨な偏見意識であり、その最終到達点はアドルフ・ヒットラーの世界である。「諸々の理由などどうでもいい、ユダヤ人だからダメ、ユダヤ人だから殺せ」、と。当然当初はヒットラーとて強姦者的であり拝金主義的であったという理由で当時のユダヤ人を嫌悪していたのであろう。それが彼の中では単純且つ洗練された報復心へと変わってしまったのである。こうなったら地獄である。何が地獄かと言えば、殺されるユダヤ人ももちろん悲惨だが、パラノイアックな被害妄想に苦しみながら「ユダヤ人、ユダヤ人」とひたすらそれに関する散発的な自生思考に苦しむアドルフが一番悲惨な地獄を味わっている(手塚治虫の漫画作品「アドルフに告ぐ」には、苦しむヒットラーの姿が絶妙に描き出されている場面がある)。
こうして彼ら他人に甘える女性的人間・肛門性格者のパラノイアというのは、攻撃し合い、そして同時に慰めあい、傷を舐め合いながら、相互に精神的な依存をどんどん深め合って自他の傷を深め合っていきながら自らと共に自らの集団の滅びへと向かっていくのである。
念の為に言っておくが、これを切磋琢磨と呼ぶのは無知蒙昧どころか愚者の証であり勘違いも甚だしい。下で述べるが、切磋琢磨というのは個人主義的な男性的人間の間にのみ存在しうる意識の持ち様である(助け合いということに通ずるものがある、助け合いと甘えとは全く違う)。
つまり、男性的人間というのは非常に個人主義的であり、女性的人間というのは非常に全体主義的である。これはコーカソイド・ネグロイドの一部とモンゴロイドを見比べて比較すれば容易に理解できるだろう。前者の典型はアメリカ的個人主義であり、後者の典型はこの国のマスコミの社会や40年前のゼンキョートーとその内ゲバの世界である。
ちなみに、コーカソイドやネグロイド達の先進国を含めてどの国でも社会的低層の教育の行き届いていない人々にはやはり女性的な全体主義的傾向が見られる。
手元にHillary Rodham Clinton女史の「私たちが子どもの未来のためにできること」という本があるが、彼女のこの著書を読むと、非常に個人主義的かつ広い視野・長期的スパンでの物事の見方というのが理解できる。彼女は非常に建設的かつ肯定的な思考を持った男性的人間であり、まさに賢母そのものであることが理解できる。いい加減日本人は先進国の賢い人々からこのようなものの考え方を学んだ方がよい。
欧米で生活している人たちを見ればいい。福祉的にも非常に充実しており、個人主義的であると同時に助け合っているのがよく分かる。動物虐待(これも露骨な甘えの一種である。人間どころか飼っているペットにまで甘えている)などは明らかにアジア(東アジア)より少ない。それどころか他者と協力し合って動物愛護の団体活動を行うほどである。
健全な意識を持ちたいのであれば、他人は他人であるとキチッと割り切ることだ。そこから真の助け合いも他人への思いやりも始まる。甘えは助け合いや思いやりではない。
また、甘える人間というのは、無視をする、ということができない。理由は単純、甘えているからである。他人の存在そのものに甘えているから他人を無視することができないのである。無視することができないから、叩きや虐待、挙句の果てはレッテル張りといった暴力の形で他人に甘えていくのである。
そして同時に彼らは無視されるということについても、非常にこれを恐れる。理由は単純、甘えているからである。これに関しては正確に言うならば、甘え合っているから、である。もし仮に彼らが無視された場合、「おれはあいつに甘えて無視しなかったのに、あいつはおれを無視した。あいつはおれに甘えていない、あいつはおれと殺し合って慰め合う甘えの相互関係を築いていない!」と言って、甘えない人間を「あいつはおれを無視した!」と非難し場合によっては攻撃し始めるのである。
この無視できないということが別の形で現れることもある。「憧れ」である。憧れとは甘えの一種であり、この国で芸能界やマンガ・アニメが盛んなのはそういった理由である。憧れの危険なところは、特に思春期の少年少女に多いのだが、自己投影しだすことである。それは自我の崩壊の微小な始まりであり、それが極端な形になると三島由紀夫のボディビル行為に見られるような突飛な行動として現れるのでかなり危険である。
基本的に、芸能人や創作作品、極端な例で言うと絵などを見て(三島由紀夫は少年時代Saint Sebastianの絵に心頭していた)、「あ、あの人イイ」とか「このキャラいい」そしてヤバいのは「こいつ自分に似てる」とか思い始めたら危険信号である。黄色が点っている。甘えが始まっている。先の記事でアニメのキャラクターについて語った私にはもちろん甘えがある。健全な精神でいたいのなら芸能人や創作作品のキャラクターに入れ込まないことだ。
この「甘え」をどうにかしなくては、日本人がこれから世界で生きていくことはできないだろう。精神的に他者に甘えた民族のままでは、日本人を待っているのはまともな未来ではないだろう。「甘え」た人間達は「甘え」ていない人間に対して(「甘え」た人間達の作る)世間の風は厳しいなどとご説教なされるが、国際社会の嵐はその何百倍も厳しいことは明らかである。彼らは自分達より物理的に弱い相手に「甘え」ながら、自分達を取り巻く環境については何も理解していないのである。囲碁の板上を想像してみるがいい。彼ら「甘え」る黒い駒は内と外から「甘え」ない白い駒に挟まれて圧迫されているのである。最初のnot to let you be a paranoiaという記事で「自分自身をよく洞察し自分が精神的に他人に甘えているということをよく自覚し(物理的な甘えはどうでもよい)、それを止めることだ」と書いたが、これを理解しない限り、経済的な意味においても文明・文化的な意味においても日本人というものは衰退の一途を辿り、精神的な他者への甘えを捨てきれない人間達、三流民族として落ちぶれていくだろう。
海の外にはペコペコ頭を下げ、内では殺し合いと同時に傷の舐め合いを行うという甘えた依存関係を行っているのが日本人という民族である。が、先にも言ったように民衆は知恵を持っておりその全てがバカだのなんだのという話ではない。民衆の一部に女性的な依存心で女々しく甘え合う肛門性格者のパラノイアックな人々がいて、彼ら彼女らはそうではない人々に色々な形で害を及ぼすことが多々あるので問題だ、という話である。別に彼らは"paranoia"というレッテルでenclosureされるべきものではない。私はそんな前時代的で野蛮な愚かなことをここで言っているのではない。
要するに、未来のことを考えた上で、子供たちを虐待やいじめから守りそしてきちんと教育を与え、"paranoia"と言われ得るような人々には彼ら彼女らを健全な状態に戻すべく手ほどきをする、ということである。それは何らかの形での学びであったり、医療であったり、「甘え」のない健全な対人関係であったりするだろう。
少なくとも精神的なことに関して言うのならば、弱さは必ず悪につながる。パラノイアというのはその内に必ずと言っていい程悪意を潜めている。しかし精神力などというものは、具体的に計り得るものではなく、少年漫画の戦闘力のように単純に数値化できるものではない。よって非パラノイアックな正常で健全な精神状態とは如何なるものか、を感覚として掴んでおく必要がある。
13:23 2010/10/02
甘えでサーチするとfawnやwheedleといった動詞が出てくるが、これは明らかに日本語で表現される「甘え」とはニュアンスを異にする。
「助け合い」というのは非常に重要である。それは社会にとって有益であるばかりでなく、そもそも倫理的に言って人間として他者と助け合って生きるというのは基本的なところではないかと考えている。身近な例で言えば、例えば日常生活品の貸し借りなどである。今はもう失われてしまったが(田舎の方ではまだこういった光景も見られるのだろうか)、お隣さんと仲良くする、そして困った時は助け合う、ご老人や障害を持つ人たちを助ける、声を掛け合う、道ですれ違ったら挨拶をする、こういったものは私は非常に大切だと思っている。しかし、「助け合い」や「思いやり」といったものと「甘え」とは全く違う。
「甘え」というのは、精神的な他者に対する依存である。よって物理的な他者への加害行為なども含まれるし、心理的な他者への加害行為も余裕で含まれる。
土居健朗氏はその著書「『甘え』の構造」の中で日本人特有の甘えについて論じている。ちなみに土居健朗は非常な女性的人間である、「甘え」に対して肯定的な見解を示しているのだから。私は中国や韓国を訪れたことがないので、中国人の人や韓国人の人々がどうだか分からないが、これはおそらくモンゴロイドというよりは特殊な地理的要因、物理的に隔離された世界で生きてきた日本人という民族のどうしようもないみっともない習性なのである。近年ではもちろんこの国においてもこれは解消されてきている。が、先の記事で書いたように、ここへきてネットの普及でそのような連中がまた暴れだしてはいる。
暴力というものは、他者への甘えの最も単純な形での現れだが、二昔三昔前にいた不良少年少女というのは甘える子供の典型であり、好例である。甘えというものが如何なるものか知りたいという人は、まず不良少年の行動でも観察してみればいい。彼らは例外なく群れる。かといってそこで建設的関係を他者と結んでいるのかというと、そうではない。一見同盟を結びながら、彼らは中で互いに加害行為を行っている。仲間内でも愚かしいケンカ行為をしたりして、甘え合いながら仲良く殺し合いを行っているのである。もちろん部外者に対しては加害意識を丸出しにする、というか少々加害意識を通り越して恐れているような様子も見受けられる(これと日本人については後で述べる)。バイクで集団で暴走してみたり、ほれガンをつけただのなんだのといって人に絡んだり、というのは彼らの甘えを如実に表している。そして部外者の大人にまで身内の甘えが通じると思い込んでいる。だからもっと最悪の非行、性犯罪などへも平気で走る。中学生にでもなればこんなことは自覚していて当然なのだが、その先に被害者の望まない妊娠・出産というものが控えておりその責任を自分が取らなければならないという自覚が性犯罪者には全く無い。性犯罪というのは極限の甘えであると同時に最悪の重犯罪である。現実に奈落の底に突き落とされて地獄の苦しみを味わっている被害者の少女がいるのである。別に男性の性欲の存在自体は否定しない。これが無ければ人類は滅びる。ちなみに私は童貞であり、抗精神病薬の主作用によるものか副作用によるものかは不明だが、ほぼ完全なインポテンツである。しかし、同じ年齢層(私は2011/05/21現在30歳)の健常な男性とは比べ物にならないほどに性欲は薄く量も少なく、しかしまたそのような私にも物理的に精液は精巣に蓄積されるのでマスターベーションは不完全ながらも時々行う。そしてしかし、個人的な抑制能力の優劣により性欲が我慢できないというのであれば、アダルト映像・画像でも何でも見ていればいいのである。あの類のものに存在価値があるとすれば、その主なものの一つは性犯罪抑止効果をもたらすということである。問題は、その性欲のコントロール手段があるにも拘らず、それさえ出来ずに、暴力的に女性にそれを押し付けるというパラノイアックな女々しさにあるということである。もうそれ以前に強姦犯罪者というのは、レイプとセックスの意味内容の区別すらつかない幼児的な性欲を、それをコントロール出来ずにそれに振り回されている情け無い人間としか言い様がない。ちなみに、幼児的な性欲と言ったが、先のSigmund Freudはこれの一つの形態として肛門性欲というものを発見し、ひいては肛門性格というものを自らの学問モデルを為す要素の一つとして見出しながら研究を行っていた人である。簡略に分かり易く言うと誤謬を避けられないのだが、肛門性格者というのはその性欲にまつわる人間の精神の発展段階において幼いままで止まっている、もしくは幼い形での性欲を求める程に退行してしまっている(シュレーバーという人物をフロイトはパラノイアの代表例として挙げている)人間ということである。これらのことからも、これら不良少年連中がパラノイアと呼ばれ得ることが理解できるだろう。
また、いじめというのも、他者に甘える子供の好例である。自分より物理的に弱い相手に対して暴力性を向けることによってその他者に精神的甘えているのである。これは情けないことに大人になっても行おうとする者がいる。ところが大多数の人間は精神的に大人であり、他者に精神的に依存しておらず他人をいじめるなどという発想は無いので、彼らは次第に人々の間から疎外されていく。
ちなみに、少なくとも私の住む首都圏では彼ら不良少年少女はほとんど見なくなった。理由は、未成年者飲酒・喫煙取締りの強化などといったものも遠因としてあるかもしれないが、主にネットの存在である。一昔前のネット上でDQNという言葉で彼らが語られてしまっている様に、不良というのは現代においては若者達の間でダサいものの代名詞のようになってしまったからである。かといって潜在的に不良少年性を持った他者に精神的に甘える人間が減ったかというとそうではない。ためしにネットの掲示板でも何でも覘いてみればいい。彼らは荒らしやその他他人を罵倒するという形で相変わらず存在している。そして彼らはその中でも群れだす。先に挙げたネット上のパラノイア、まあ所謂おかしな連中などというものはその典型だろう。そこで彼らはまた他者に甘え続け自分たちの居場所である掲示板をも潰してしまった。そしてネット上で女性的な依存心で自分たちの精神的な他人への甘えそのもの自体をさらに求め同時に自分達の居場所を求め続けている。
ネットで他者を叩いている人間というのは、仮想世界上ですらどこの誰だか分からない人間に甘えている低級な生き物だが、さらに低級なのは実在の人物を叩いたり貶めたりしている人間である。これはもう精神的に甘える対象を探して彷徨っている、甘える対象を求めるためにネットを利用しているとしか言い様が無い。輪を掛けてこれよりはるかに低級、というか低俗なのが、漫画やアニメなど創作表現の中に登場するキャラクターを叩いて貶めている連中である。もうこれに関してはどうしようもないとしか言い様が無い。アニメのキャラクターにまで甘えているのである。これはオタク云々という問題ではない。そういう問題ではない上に、そもそもオタクの人々はそのようなこと行いたがらない。もう粘着滲みたパラノイア、おかしな連中としか言い様が無い。
子供を虐待する親というのは他者に甘えながら大人になった人間の中でも最悪の部類であるが、これは他者への精神的甘えを捨てきれず幼い自分の子供にすら甘えるような人間である。それで子供が自分を避けるようになるとさらに虐待の度合いを加速させる。要するに「おれもおまえに甘えるから、おまえもおれに甘えろ!(しかも限りなく自分に都合のいい形で)」と言っているわけである。はっきり言ってクズである。ネットのどこかで、親になる為にも自動車の運転免許の様に免許を必要とする様にして欲しいという意見を見たことがあるが、突飛過ぎてはいるだろうがまあもっともな話ではある。
冷たいようだが、自分の子供を虐待する親の子供というのはその自分の子供を虐待する人間の遺伝子を受け継いでおり、人類(生物)の進化ということを考えた場合にその子供の滅びは必然的と言えば必然的であり、自分の子供を虐待するような親が自分の子供を虐待するという行為は然りと言えば然りな話である。劣等な遺伝子は滅びる様に出来ているのである。
彼ら互いに甘えあうパラノイアにとって、精神的に甘えない自立した人間というのは気に入らないようである。「どうして自分は精神的に甘えているのにこいつは甘えないんだ、自分は『他人!他人!他人!他人なんて気に入らない!他人なんて許せない!自分はこんなにすごい!自分はこんなに苦労した!だから自分が!自分だけがー!』と思っているのに、なんでこいつは思わないんだ、こいつにもそう思わせてやる、こいつもおれに甘えさせてやる」、という訳である。
経験とはその人間を為すものの骨格の周りの謂わば肉づけであり、経験が豊富であればある程その人の人間性が豊かになるというのは万人に基本的な見解であろう。しかしよって、経験そのものは所詮経験でしかなく、つまり単なる記憶であり、RPGにおける経験値の如きものである。つまり経験によって得られた感覚や認識や思考形態ひいては能力に価値が在るのであって、経験そのものに価値は無い。ところが甘える人間というのは、経験そのものを売りにするのである。この日本という中進国では高等教育的な能力があまり問われないようなので、経験から感覚や認識を学ばなくても、経験そのものは記録として残り、下手をすればそれが実績という形で珍重されることすらある。はっきり申し上げてバカ丸出しである。実績というのは実績内容そのものの事であってその記録のことではない。RPGで言えば、経験値を得ることによってレベルが上昇することに意味があり価値があるのに、経験値得ることそのものをレベルの上昇と勘違いしているようなものである。もちろん殆どの人間において経験の豊富さと能力の高さや人間性の豊かさは正の相関を示している。しかし、その人間の経験値が高いからといってその人間の能力が高いと断定することもできないし、経験値が低いからといってその人間の能力が低いと断定することもできない。まあマンガ的に言えば、「おれはこんなことをやったんだ、どうだすごいだろう」という訳である。もちろんこれは「こんなこと」を為し得るのに高い能力を必要とする場合に行われる自慢の類とは違う。それは自慢されて然るべきであり、何も不自然なことはない。しかしこのセリフで表されるのは「経験値そのものが(何故か)価値あるものとして扱われてしまっている」というニュアンスである。
そして、その経験そのものを価値あるものとして珍重するということを否定された、甘えを基盤とする彼らが、無能力である己を悟り、その上で最終的に彼らが逃げ込む場所はと言えば、それは人間関係という虚構であり虚構の人間関係である。「ボクの知り合いにどうこう……」という訳であり、もちろん知己の存在によって得られるメリットというのは計り知れないが、この場合はそうではない。知り合いの存在自体が自慢の種になってしまうのである。これこれの知り合いを持つ自分は如何なる立場にありそして彼らから如何なるメリットを享受することができるか、ということを通り越して、精神的な依存の対象として知り合いの存在自体を見るようになるのである。
謂わば甘える人間にとって、知り合いや友人というのは、あくまで自分の延長線上のものであり、彼らは他者を他者として扱うということができない。彼らは他者を自分の延長線上にある、謂わば「他者である自分」としてしか他者を認知できず、自分と他者を区別することができない。要するに他者の存在に甘えているのであり、知り合いや友人(の存在自体)に甘えているのだ。おそらく欧米人の人間関係というのは、哲学書等を読めば理解できるが、他者を他者として扱うということから始まっている。その前提としてあるのは、自己の自己意識であり、自分と他者は別の個別の人間であるというしっかりした自己の精神的な自立的意識である。私が先にヘーゲルをパラノイアと言ったのは、彼は(おそらく)欧米人としてのしっかりした自己意識を持っている(た)にも拘らず、「他人を自分の延長線上として扱いましょう」というセリフに近い哲学を表明していたのであり、謂わば精神的に自立した欧米人に対する甘えのススメを行っていたからである。そういったものを哲学として意図的に表明していたヘーゲル自身にもおそらく甘えというのは理解しきれない異国の神秘として映っていたのではないか?と思われる。三島由紀夫の言葉を借りるならば「十九世紀の欧州の阿片吸引者達の夢の中に出てきたアジア的なカオティックな異国の神秘」とでもいったところか。つまり中島義道氏とは真逆であり、Georg Wilhelm Friedrich Hegelという人物は哲学者らしからぬ哲学者であり、その人物自身は非パラノイアックと言えるかもしれない。欧米人には、甘えを前提とした友人関係は理解できないであろう、というかそのようなものを友人関係とは呼ばないだろう。
ちなみに性格だ何だ根拠の皆無なもので人間にレッテルを貼るなど、甘える人間の最も好みそうなことであり、倫理的見地からしても論外である。レッテルを貼るという形で、自分以外の全ての人間(の存在自体)に甘えているということだ。
そうして彼らは、その人間の考えや発言や主張の具体的内容の前にその人間が何者であるかということを意識し始めてしまうようになるのである。こうして最後に甘える人間パラノイア達が堕ち込んでいくのは人種差別的な露骨な偏見意識であり、その最終到達点はアドルフ・ヒットラーの世界である。「諸々の理由などどうでもいい、ユダヤ人だからダメ、ユダヤ人だから殺せ」、と。当然当初はヒットラーとて強姦者的であり拝金主義的であったという理由で当時のユダヤ人を嫌悪していたのであろう。それが彼の中では単純且つ洗練された報復心へと変わってしまったのである。こうなったら地獄である。何が地獄かと言えば、殺されるユダヤ人ももちろん悲惨だが、パラノイアックな被害妄想に苦しみながら「ユダヤ人、ユダヤ人」とひたすらそれに関する散発的な自生思考に苦しむアドルフが一番悲惨な地獄を味わっている(手塚治虫の漫画作品「アドルフに告ぐ」には、苦しむヒットラーの姿が絶妙に描き出されている場面がある)。
こうして彼ら他人に甘える女性的人間・肛門性格者のパラノイアというのは、攻撃し合い、そして同時に慰めあい、傷を舐め合いながら、相互に精神的な依存をどんどん深め合って自他の傷を深め合っていきながら自らと共に自らの集団の滅びへと向かっていくのである。
念の為に言っておくが、これを切磋琢磨と呼ぶのは無知蒙昧どころか愚者の証であり勘違いも甚だしい。下で述べるが、切磋琢磨というのは個人主義的な男性的人間の間にのみ存在しうる意識の持ち様である(助け合いということに通ずるものがある、助け合いと甘えとは全く違う)。
つまり、男性的人間というのは非常に個人主義的であり、女性的人間というのは非常に全体主義的である。これはコーカソイド・ネグロイドの一部とモンゴロイドを見比べて比較すれば容易に理解できるだろう。前者の典型はアメリカ的個人主義であり、後者の典型はこの国のマスコミの社会や40年前のゼンキョートーとその内ゲバの世界である。
ちなみに、コーカソイドやネグロイド達の先進国を含めてどの国でも社会的低層の教育の行き届いていない人々にはやはり女性的な全体主義的傾向が見られる。
手元にHillary Rodham Clinton女史の「私たちが子どもの未来のためにできること」という本があるが、彼女のこの著書を読むと、非常に個人主義的かつ広い視野・長期的スパンでの物事の見方というのが理解できる。彼女は非常に建設的かつ肯定的な思考を持った男性的人間であり、まさに賢母そのものであることが理解できる。いい加減日本人は先進国の賢い人々からこのようなものの考え方を学んだ方がよい。
欧米で生活している人たちを見ればいい。福祉的にも非常に充実しており、個人主義的であると同時に助け合っているのがよく分かる。動物虐待(これも露骨な甘えの一種である。人間どころか飼っているペットにまで甘えている)などは明らかにアジア(東アジア)より少ない。それどころか他者と協力し合って動物愛護の団体活動を行うほどである。
健全な意識を持ちたいのであれば、他人は他人であるとキチッと割り切ることだ。そこから真の助け合いも他人への思いやりも始まる。甘えは助け合いや思いやりではない。
また、甘える人間というのは、無視をする、ということができない。理由は単純、甘えているからである。他人の存在そのものに甘えているから他人を無視することができないのである。無視することができないから、叩きや虐待、挙句の果てはレッテル張りといった暴力の形で他人に甘えていくのである。
そして同時に彼らは無視されるということについても、非常にこれを恐れる。理由は単純、甘えているからである。これに関しては正確に言うならば、甘え合っているから、である。もし仮に彼らが無視された場合、「おれはあいつに甘えて無視しなかったのに、あいつはおれを無視した。あいつはおれに甘えていない、あいつはおれと殺し合って慰め合う甘えの相互関係を築いていない!」と言って、甘えない人間を「あいつはおれを無視した!」と非難し場合によっては攻撃し始めるのである。
この無視できないということが別の形で現れることもある。「憧れ」である。憧れとは甘えの一種であり、この国で芸能界やマンガ・アニメが盛んなのはそういった理由である。憧れの危険なところは、特に思春期の少年少女に多いのだが、自己投影しだすことである。それは自我の崩壊の微小な始まりであり、それが極端な形になると三島由紀夫のボディビル行為に見られるような突飛な行動として現れるのでかなり危険である。
基本的に、芸能人や創作作品、極端な例で言うと絵などを見て(三島由紀夫は少年時代Saint Sebastianの絵に心頭していた)、「あ、あの人イイ」とか「このキャラいい」そしてヤバいのは「こいつ自分に似てる」とか思い始めたら危険信号である。黄色が点っている。甘えが始まっている。先の記事でアニメのキャラクターについて語った私にはもちろん甘えがある。健全な精神でいたいのなら芸能人や創作作品のキャラクターに入れ込まないことだ。
この「甘え」をどうにかしなくては、日本人がこれから世界で生きていくことはできないだろう。精神的に他者に甘えた民族のままでは、日本人を待っているのはまともな未来ではないだろう。「甘え」た人間達は「甘え」ていない人間に対して(「甘え」た人間達の作る)世間の風は厳しいなどとご説教なされるが、国際社会の嵐はその何百倍も厳しいことは明らかである。彼らは自分達より物理的に弱い相手に「甘え」ながら、自分達を取り巻く環境については何も理解していないのである。囲碁の板上を想像してみるがいい。彼ら「甘え」る黒い駒は内と外から「甘え」ない白い駒に挟まれて圧迫されているのである。最初のnot to let you be a paranoiaという記事で「自分自身をよく洞察し自分が精神的に他人に甘えているということをよく自覚し(物理的な甘えはどうでもよい)、それを止めることだ」と書いたが、これを理解しない限り、経済的な意味においても文明・文化的な意味においても日本人というものは衰退の一途を辿り、精神的な他者への甘えを捨てきれない人間達、三流民族として落ちぶれていくだろう。
海の外にはペコペコ頭を下げ、内では殺し合いと同時に傷の舐め合いを行うという甘えた依存関係を行っているのが日本人という民族である。が、先にも言ったように民衆は知恵を持っておりその全てがバカだのなんだのという話ではない。民衆の一部に女性的な依存心で女々しく甘え合う肛門性格者のパラノイアックな人々がいて、彼ら彼女らはそうではない人々に色々な形で害を及ぼすことが多々あるので問題だ、という話である。別に彼らは"paranoia"というレッテルでenclosureされるべきものではない。私はそんな前時代的で野蛮な愚かなことをここで言っているのではない。
要するに、未来のことを考えた上で、子供たちを虐待やいじめから守りそしてきちんと教育を与え、"paranoia"と言われ得るような人々には彼ら彼女らを健全な状態に戻すべく手ほどきをする、ということである。それは何らかの形での学びであったり、医療であったり、「甘え」のない健全な対人関係であったりするだろう。
少なくとも精神的なことに関して言うのならば、弱さは必ず悪につながる。パラノイアというのはその内に必ずと言っていい程悪意を潜めている。しかし精神力などというものは、具体的に計り得るものではなく、少年漫画の戦闘力のように単純に数値化できるものではない。よって非パラノイアックな正常で健全な精神状態とは如何なるものか、を感覚として掴んでおく必要がある。
13:23 2010/10/02
PR