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laissez-faire
2011.05.04 Wednesday
自由の女神は賊にあらず。
前回の話と少し絡めて。
北斗の拳的な世界の到来を危惧(?)、まあ話のネタとして挙げつらねただけかもしれませんが、してらっしゃる方がいらっしゃるんですけど、それは普通に考えて有り得ないのではないかと思います。あれはやはり所詮昔の週間少年ジャンプによくありがちだったようなマンガの典型的な世界構築です。仮にも福島県の放射能汚染地域に犯罪者等が住み着いたところで、特定の物理的に隔離された環境に住み着いていた人たちだって、よっぽと馬鹿な人間でない限りは、普通に人間社会というか人間が織り成すコミュニティーというものがどういうものか理解しているなら、その閉鎖された内部で協力できるところは協力し合って一定の秩序に基づいたものを形成しようと試みるでしょう。その方がその当該コミュニティーに所属する人間としては結果個々人が享受するメリットが、北斗の拳的な個々人同士の露骨な殺し合いの状態よりははるかに大きいからです。あくまでこういった秩序、具体的に言えば法制度その他ですね、あくまでこういったものの規制の範疇で各経済主体がその能力を最大限に発揮して社会を形成していこう、というのがまあおおまかに言ったところの自由主義的経済(史)観というものです。北斗の拳というマンガだとかああいった類のものというのは、それに反対する人たちが当時の子供たちに恐怖感とともにそれに反対する価値意識を植えつけようとロクでもない残虐表現等で必死にアピールしていた類のものなわけですね。その証拠に私が高校生(14~15年前)の時に北斗の拳はもう既にギャグマンガとして読まれてましたし、プレステ等で露骨にギャグ路線で狙ったゲームが発売されてましたね。なんというか今も昔も子供には見せたくないマンガのナンバー1です。大人が気晴らしに読むんだったらいいでしょうけどね。で、現実世界でどういった人間たちがケンシロウの敵であるヒャッホーなお兄さんたちのようにそういった暴力行為をはたらくかと言えば、崩壊したソ連邦やナチスやポル・ポトが行っていたような、laissez-faireとは真逆なものを支持する人間たちです。ちなみにヒットラー個人は一概にこれに該当するとは言えない、“Mein Kampf”(「わが闘争」)を読まれたし。2011/04近辺で言えばカダフィ大佐でありムバラク大統領であり、これはちょっとご本人に大変失礼なので言いにくいのですが西村博之さんもそうでしょうし、あの性格カルト宗教の教祖もその一員です。で、何故連中が自由主義的経済(史)観をあの手この手で否定しようと試みるかといえば、ナチス支配下の強制収容所でもラーゲリでもポル・ポトが行っていた大虐殺でも、カダフィの一般市民を盾に兵器を隠したり篭城させて虐殺したりという行為でもネットの2ちゃんねる上でも性格レッテル貼りでも非常によく観察され得ることですが、anti-laissez-faireな状況下においては暴力によって自分たちの無能力さを隠せる上に暴力という最高に気持ちのいい行為に一種合法的に及ぶことができるからです。だからその意味では自由主義的経済(史)観を持つ人々であっても、「法に触れなければ何を行ってもよい」というスタンスの堀江貴文さんのような人間は、これは経済学者が数理的に導出してくれる、というかおそらくもうとうに結果は出ているものと思いますが、社会全体にとっては損益となるので、取り締まられるという方向へと傾くでしょう。そして、私が今説明したようなことを実証してくれるのが、ほとんど全ての自然科学であり、論理実証主義を価値意識の基本スタンスにしている主に実証的な科学者の人たち(の存在)です。否定的になニュアンスがこもるのでこういった表現はあまり使いたくないのですが、いわゆる「調べ屋さん」です。そして論理実証主義性向と数学を理解し問題を解決する能力の高さというものは基本的に負の相関を示しています。ちなみに私はあまり論理実証主義的な人間ではありません、つまり私にも他者に対する暴力意識というものはきちんと存在しています、数学もそれなりに出来る方です。そしてそもそも完璧に自分の日常生活の隅々にまで論理実証主義的な価値意識を浸透させた人間というのは、その存在からして疑わしいですし、日常会話なんかできないでしょうし、当然の如くギャグは通じませんし、メチャメチャ頭の悪い人間に見えるでしょう。ちょっとそれるんですが、養老孟司さんという方は、非常に科学者らしからぬ科学者です。非常に非論理実証主義的です。だから「頭だけはなく、体で考える」といった類のことを提唱しておられますし、一種科学者としての思考に必須のものでありまた自然科学の発展とその技術の社会浸透つまるところinnovation(※)に必須のものである自由主義的経済(史)観・laissez-faireひいてはアメリカ的個人主義のメタファーとしての「壁」を否定し「バカの壁」という本を出版されておりました。別に養老孟司さんがcommunistだとかそういうことではないでしょう。これは私の勝手な予測ですが、養老孟司さんは超数学の出来る人ではないかと思っております(東京大学医学部卒ですしね)。もちろん私はただの一般人なので養老孟司さんを個人的に存じ上げているような立場の人間ではないのですが、おそらくこの方は雑談をすれば戦前生まれのあの世代の人間としては奇特なほどに面白いトーキングを交わすことのできる人間なのではないかと思われます。これはその世代の人間としては故三島由紀夫などもそういった人である可能性が高いです。三島由紀夫氏はご存命であれば85歳ですが、あの時代を生きていた人間としては考えられない程に、我々の世代がその著作を読んでもギャグ的な意味でも他者に対する皮肉観あふれる感性といえども充分にそれを満喫できるものです。これは18~20世紀の大学者を参考にすれば分かりやすいと思われますが、数学のみならず哲学やその他の学問にしてもそうです。関係ないですが、私が学生時代に所属していた学部は社会科学系の学部だったのでですが、自然科学系の人たちは当然データを実験や観察によって抽出しなければ研究も何もお話になりませんということなので分かる話なのですが、社会科学系で論理実証主義者を自称している人たち(学者)が居るんですね。こういった人たちは基本的に言っちゃ悪いですが頭が悪い傾向にあります。特に経済学部ではなく、法学部は別として、経営学部や商学部等や低層の私立大学に見られるような如何にも狙って間違えちゃったカタカナ語のネーミングの学部(?)、学として必須のものであるモデルを持たない学と呼べるようなものであるかどうかも疑わしいような「学」をその生業としている学部所属の学者にこういった人間が散見されます。どこの何だか分からない下手すりゃそれが事実である確証の無いデータを誤情報だらけのネットから取ってきて、わけのわからん性向のmeasureに当てはめてさらにそこから傾向作り出して、ハイ実証できましたとか「アンタそれぜんぜん実証になってないから」とツッコミたくなるような内容も私は学生時代多々教わりました。しかしそれには該当しない人たちとして、例えば、いわゆるシンクタンク所属の研究者でそういった方がいらっしゃいます。この人テレビ等にも出演されているようなんですが、例えばニッセイ基礎研究所という企業に矢嶋康次さんという方がいらっしゃるんですが、私はこの方の講演(講義)を何回も受けたのですが、かなり有益な情報を与えていただきました。こういった人たちはおもむろに「経済学系」なんですね。
まあともかく、我々日本人とて物理的に隔離された島国でそういった社会を形成している(た)人間集団です。だからちょっと北斗の拳を例示的に引き合いにだしてそういった説明に引き合いに出すのは見当外れです。
※innovationとは、単なる新技術開発や技術革新のことを指すのではなく、それらがおおまかにでも社会の全体に行き渡りspilloverが大部分完了した時点で、それをinnovationと呼ぶものである。
前回の話と少し絡めて。
北斗の拳的な世界の到来を危惧(?)、まあ話のネタとして挙げつらねただけかもしれませんが、してらっしゃる方がいらっしゃるんですけど、それは普通に考えて有り得ないのではないかと思います。あれはやはり所詮昔の週間少年ジャンプによくありがちだったようなマンガの典型的な世界構築です。仮にも福島県の放射能汚染地域に犯罪者等が住み着いたところで、特定の物理的に隔離された環境に住み着いていた人たちだって、よっぽと馬鹿な人間でない限りは、普通に人間社会というか人間が織り成すコミュニティーというものがどういうものか理解しているなら、その閉鎖された内部で協力できるところは協力し合って一定の秩序に基づいたものを形成しようと試みるでしょう。その方がその当該コミュニティーに所属する人間としては結果個々人が享受するメリットが、北斗の拳的な個々人同士の露骨な殺し合いの状態よりははるかに大きいからです。あくまでこういった秩序、具体的に言えば法制度その他ですね、あくまでこういったものの規制の範疇で各経済主体がその能力を最大限に発揮して社会を形成していこう、というのがまあおおまかに言ったところの自由主義的経済(史)観というものです。北斗の拳というマンガだとかああいった類のものというのは、それに反対する人たちが当時の子供たちに恐怖感とともにそれに反対する価値意識を植えつけようとロクでもない残虐表現等で必死にアピールしていた類のものなわけですね。その証拠に私が高校生(14~15年前)の時に北斗の拳はもう既にギャグマンガとして読まれてましたし、プレステ等で露骨にギャグ路線で狙ったゲームが発売されてましたね。なんというか今も昔も子供には見せたくないマンガのナンバー1です。大人が気晴らしに読むんだったらいいでしょうけどね。で、現実世界でどういった人間たちがケンシロウの敵であるヒャッホーなお兄さんたちのようにそういった暴力行為をはたらくかと言えば、崩壊したソ連邦やナチスやポル・ポトが行っていたような、laissez-faireとは真逆なものを支持する人間たちです。ちなみにヒットラー個人は一概にこれに該当するとは言えない、“Mein Kampf”(「わが闘争」)を読まれたし。2011/04近辺で言えばカダフィ大佐でありムバラク大統領であり、これはちょっとご本人に大変失礼なので言いにくいのですが西村博之さんもそうでしょうし、あの性格カルト宗教の教祖もその一員です。で、何故連中が自由主義的経済(史)観をあの手この手で否定しようと試みるかといえば、ナチス支配下の強制収容所でもラーゲリでもポル・ポトが行っていた大虐殺でも、カダフィの一般市民を盾に兵器を隠したり篭城させて虐殺したりという行為でもネットの2ちゃんねる上でも性格レッテル貼りでも非常によく観察され得ることですが、anti-laissez-faireな状況下においては暴力によって自分たちの無能力さを隠せる上に暴力という最高に気持ちのいい行為に一種合法的に及ぶことができるからです。だからその意味では自由主義的経済(史)観を持つ人々であっても、「法に触れなければ何を行ってもよい」というスタンスの堀江貴文さんのような人間は、これは経済学者が数理的に導出してくれる、というかおそらくもうとうに結果は出ているものと思いますが、社会全体にとっては損益となるので、取り締まられるという方向へと傾くでしょう。そして、私が今説明したようなことを実証してくれるのが、ほとんど全ての自然科学であり、論理実証主義を価値意識の基本スタンスにしている主に実証的な科学者の人たち(の存在)です。否定的になニュアンスがこもるのでこういった表現はあまり使いたくないのですが、いわゆる「調べ屋さん」です。そして論理実証主義性向と数学を理解し問題を解決する能力の高さというものは基本的に負の相関を示しています。ちなみに私はあまり論理実証主義的な人間ではありません、つまり私にも他者に対する暴力意識というものはきちんと存在しています、数学もそれなりに出来る方です。そしてそもそも完璧に自分の日常生活の隅々にまで論理実証主義的な価値意識を浸透させた人間というのは、その存在からして疑わしいですし、日常会話なんかできないでしょうし、当然の如くギャグは通じませんし、メチャメチャ頭の悪い人間に見えるでしょう。ちょっとそれるんですが、養老孟司さんという方は、非常に科学者らしからぬ科学者です。非常に非論理実証主義的です。だから「頭だけはなく、体で考える」といった類のことを提唱しておられますし、一種科学者としての思考に必須のものでありまた自然科学の発展とその技術の社会浸透つまるところinnovation(※)に必須のものである自由主義的経済(史)観・laissez-faireひいてはアメリカ的個人主義のメタファーとしての「壁」を否定し「バカの壁」という本を出版されておりました。別に養老孟司さんがcommunistだとかそういうことではないでしょう。これは私の勝手な予測ですが、養老孟司さんは超数学の出来る人ではないかと思っております(東京大学医学部卒ですしね)。もちろん私はただの一般人なので養老孟司さんを個人的に存じ上げているような立場の人間ではないのですが、おそらくこの方は雑談をすれば戦前生まれのあの世代の人間としては奇特なほどに面白いトーキングを交わすことのできる人間なのではないかと思われます。これはその世代の人間としては故三島由紀夫などもそういった人である可能性が高いです。三島由紀夫氏はご存命であれば85歳ですが、あの時代を生きていた人間としては考えられない程に、我々の世代がその著作を読んでもギャグ的な意味でも他者に対する皮肉観あふれる感性といえども充分にそれを満喫できるものです。これは18~20世紀の大学者を参考にすれば分かりやすいと思われますが、数学のみならず哲学やその他の学問にしてもそうです。関係ないですが、私が学生時代に所属していた学部は社会科学系の学部だったのでですが、自然科学系の人たちは当然データを実験や観察によって抽出しなければ研究も何もお話になりませんということなので分かる話なのですが、社会科学系で論理実証主義者を自称している人たち(学者)が居るんですね。こういった人たちは基本的に言っちゃ悪いですが頭が悪い傾向にあります。特に経済学部ではなく、法学部は別として、経営学部や商学部等や低層の私立大学に見られるような如何にも狙って間違えちゃったカタカナ語のネーミングの学部(?)、学として必須のものであるモデルを持たない学と呼べるようなものであるかどうかも疑わしいような「学」をその生業としている学部所属の学者にこういった人間が散見されます。どこの何だか分からない下手すりゃそれが事実である確証の無いデータを誤情報だらけのネットから取ってきて、わけのわからん性向のmeasureに当てはめてさらにそこから傾向作り出して、ハイ実証できましたとか「アンタそれぜんぜん実証になってないから」とツッコミたくなるような内容も私は学生時代多々教わりました。しかしそれには該当しない人たちとして、例えば、いわゆるシンクタンク所属の研究者でそういった方がいらっしゃいます。この人テレビ等にも出演されているようなんですが、例えばニッセイ基礎研究所という企業に矢嶋康次さんという方がいらっしゃるんですが、私はこの方の講演(講義)を何回も受けたのですが、かなり有益な情報を与えていただきました。こういった人たちはおもむろに「経済学系」なんですね。
まあともかく、我々日本人とて物理的に隔離された島国でそういった社会を形成している(た)人間集団です。だからちょっと北斗の拳を例示的に引き合いにだしてそういった説明に引き合いに出すのは見当外れです。
※innovationとは、単なる新技術開発や技術革新のことを指すのではなく、それらがおおまかにでも社会の全体に行き渡りspilloverが大部分完了した時点で、それをinnovationと呼ぶものである。
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