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It's only a storm of Judas kisses.
2011.05.04 Wednesday
嵌め。
統合失調症の患者数とされているものについて。現在では「統合失調症の患者数はおおよそ全人口の0.8%つまり約120人に1人」とされている。が、これは統計を取ったわけでもなく何の根拠も無い。はっきり言ってしまえばその数字にゼロが3つくらい足りない。先に述べたように、人口に占めるうち100%の人間を対象に統合失調症か否かの診断を下す為に一定長期間(一週間や10日程度の話ではない)の診療を受けさせることは物理的に不可能であり、そもそもが現代における統合失調症なるものは具体的根拠の無い定義なのであって、統計を取ろうとしても現実的には不可能である。にもかかわらず精神医学会は何故か120人に1人という数字をでっちあげている。これについては実際に「精神科にはかからないけど自分では統合失調症と気付かずに普通に生活している人がいっぱいいる(げへっげへっ、と誤魔化す様に笑いながら)」と私に言った精神科医が実在する。このふざけた精神科医は統合失調症という文字により表されるものと自分の発言との矛盾に気付いていない。統合失調症というのは病気(病名)ではなく定義であり統計も取り用が無いということである。そしてさらには精神科医は統合失調症用の抗精神病薬というものを具体的解決手段として患者に提示するが、これによる実効が無い、どころか凄まじい逆効果をもたらすという事実によって(これについては他の記事で述べていくつもりである)、精神科医は統合失調症が「定義」であることを自ら実証してしまっている。100何十年の昔から「ある」Schizophrenie、精神分裂病という病気を持つ者が現代日本に120人に1人も居たらもっと大っぴらにこの病気についての様々な事柄がいわゆる世間に流布されており、さすがに自らのご都合主義に従ってこの「病気」について何も報道しないマスコミとて黙っていられるとは少々考えにくい。私の知るかぎりでは私がこのブログを書き始めてから偶然か知らないがやっとNHKがネットで少し取り上げ始めた、が、アレをそのまま鵜呑みにするべきではない。そしてもしそのような非報道がまかり通っているのならばこの国の民主主義は標榜されているだけに過ぎない字面だけの大嘘八百であり、ハリボテというか鉄面皮的民主主義である。つまりそもそも7、8年前に統合失調症という名称に改名された100何十年の昔から「ある」Schizophrenieというそれこそ定義ではなく病気を持つ人間は少なくとも現代日本において言えば100000人に1人程度しか居ない可能性が極めて高いのであり、そしてそれと同時に現代日本において120人に1人程度そのようなそれこそ病気ではなく定義に当てはまる人間が居てくれた方が都合がいいという連中が存在するわけである。この120人に1人というのは多くはないがそういった御都合主義者にとっては適度に居てくれる(ことを実体は無いが世間というものに対して、これまた実体は無いが世間知というものとして押し付けることが可能である)という実に絶妙な味わいの数字である。これが10人に1人や1000人に1人や100000に1人では困るのである。
7:15 2011/02/15
追記:
実際に統合失調症の病状を患っている方で、それへの対応策として、もちろん主な治療薬としてのメジャートランキライザーを始めとして、他にはパキシルやルボックスという薬物を投薬されることに相成っていくわけですが、これは実はあまり効果てきめんというわけにはいかないものです。もちろんメジャートランキライザーは必要不可欠のものですが、最も統合失調症の悪い部分を緩和してくれるのは、商品名マイスリー等に代表される「睡眠薬」です。
……で、このあたりのことを鑑みるに、やはり多量の無節操な抗精神病薬の服薬のみを続けていると悲愴なことに合い為ります。
23:12 2011/10/10
統合失調症の患者数とされているものについて。現在では「統合失調症の患者数はおおよそ全人口の0.8%つまり約120人に1人」とされている。が、これは統計を取ったわけでもなく何の根拠も無い。はっきり言ってしまえばその数字にゼロが3つくらい足りない。先に述べたように、人口に占めるうち100%の人間を対象に統合失調症か否かの診断を下す為に一定長期間(一週間や10日程度の話ではない)の診療を受けさせることは物理的に不可能であり、そもそもが現代における統合失調症なるものは具体的根拠の無い定義なのであって、統計を取ろうとしても現実的には不可能である。にもかかわらず精神医学会は何故か120人に1人という数字をでっちあげている。これについては実際に「精神科にはかからないけど自分では統合失調症と気付かずに普通に生活している人がいっぱいいる(げへっげへっ、と誤魔化す様に笑いながら)」と私に言った精神科医が実在する。このふざけた精神科医は統合失調症という文字により表されるものと自分の発言との矛盾に気付いていない。統合失調症というのは病気(病名)ではなく定義であり統計も取り用が無いということである。そしてさらには精神科医は統合失調症用の抗精神病薬というものを具体的解決手段として患者に提示するが、これによる実効が無い、どころか凄まじい逆効果をもたらすという事実によって(これについては他の記事で述べていくつもりである)、精神科医は統合失調症が「定義」であることを自ら実証してしまっている。100何十年の昔から「ある」Schizophrenie、精神分裂病という病気を持つ者が現代日本に120人に1人も居たらもっと大っぴらにこの病気についての様々な事柄がいわゆる世間に流布されており、さすがに自らのご都合主義に従ってこの「病気」について何も報道しないマスコミとて黙っていられるとは少々考えにくい。私の知るかぎりでは私がこのブログを書き始めてから偶然か知らないがやっとNHKがネットで少し取り上げ始めた、が、アレをそのまま鵜呑みにするべきではない。そしてもしそのような非報道がまかり通っているのならばこの国の民主主義は標榜されているだけに過ぎない字面だけの大嘘八百であり、ハリボテというか鉄面皮的民主主義である。つまりそもそも7、8年前に統合失調症という名称に改名された100何十年の昔から「ある」Schizophrenieというそれこそ定義ではなく病気を持つ人間は少なくとも現代日本において言えば100000人に1人程度しか居ない可能性が極めて高いのであり、そしてそれと同時に現代日本において120人に1人程度そのようなそれこそ病気ではなく定義に当てはまる人間が居てくれた方が都合がいいという連中が存在するわけである。この120人に1人というのは多くはないがそういった御都合主義者にとっては適度に居てくれる(ことを実体は無いが世間というものに対して、これまた実体は無いが世間知というものとして押し付けることが可能である)という実に絶妙な味わいの数字である。これが10人に1人や1000人に1人や100000に1人では困るのである。
7:15 2011/02/15
追記:
実際に統合失調症の病状を患っている方で、それへの対応策として、もちろん主な治療薬としてのメジャートランキライザーを始めとして、他にはパキシルやルボックスという薬物を投薬されることに相成っていくわけですが、これは実はあまり効果てきめんというわけにはいかないものです。もちろんメジャートランキライザーは必要不可欠のものですが、最も統合失調症の悪い部分を緩和してくれるのは、商品名マイスリー等に代表される「睡眠薬」です。
……で、このあたりのことを鑑みるに、やはり多量の無節操な抗精神病薬の服薬のみを続けていると悲愴なことに合い為ります。
23:12 2011/10/10
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dirty tricks
2011.05.04 Wednesday
卑劣漢。
ネットというか何処の世界にもマスコミに乗じて、保身の為に特定のターゲットを作って叩きを行う人間が居ます。別にその保身の欲求は否定はしません。ヒトを含めた生物には生存本能のようなものが在りますし、誰だって自分の身がかわいいですから。もう自分らの悪事から取りあえず目を逸らさせる為にそういう特定の人間を叩いたりして祭り上げるわけです。テレビ朝日なんてのはもう劣悪すぎて目もあてられない感じです。個人的には朝日新聞はその内容がかなり良い方だと思いますけど、あのテレビ朝日というのは最悪です。
何時の時代も昔から生活に困っている貧しい人たちがいました。私も子供の頃そういう人をいくらか見ましたし、今になって思い返して「ああ、あの人は貧しかったんだ」とか「子供とは言えそういう人たちのことに気付かなかった自分は愚かしかったガキだな」とかそういう人たちに何故か不思議と申し訳ない気持ちになることもあります。そして今現在になってそういう人たちをマスコミやその他の特定の連中は見世物の如く取り上げてネタどころか道具にしているわけで、そして自分らを含めた社会に害毒垂れ流す悪徳な連中から目を逸らさせようと小学生みたいな分かりやすい構図でそれこそ「わかりやすく」頭の悪い人たちの反感を煽っているわけです。Not currently under Education, Employee or Traineeについてこれを祭り上げることもそうです(ネタにもするし道具にして利用もするという極めて悪質な行為です)。
大体がNot currently under Education, Employee or Traineeの定義によれば専業主婦も定年退職された方も大多数の中小企業経営者・小口事業者の人たちも全てこれに該当します。こういった人たちはもっとマスメディアやネットの一部のバカ共に怒りをぶつけていいと思うんですけどね。
で、家が金持ちで月に遊興費で何十万とか下手をすれば何百万も使うとかそういったお金持ちの家のボンボンみたいな人も居ます。アメリカとかだとこれよりゼロが一つや二つ増えたりするのかもしれません。この人たちだってNot currently under Education, Employee or Traineeな場合も多々ありますし、仮にTraineeやEmployeeでも籍だけおいて悪事に浸ったり遊び呆けているNot currently under Education, Employee or Traineeどころか給料入って遊び呆けという非常にあざといことになっている場合もあります。昔はそういうボンボンな人たちは親のスネかじりと言われてましたけど、今だってそういうNot currently under Education, Employee or Traineeではあるが何故かNot currently under Education, Employee or Traineeと見做されない人たちは大勢居るでしょう。私はこういった人たちのことを否定するつもりはありません。というかほとんど逆です。悪事に染まるのが良いわけはない、つまりはあまり大きな声では言えませんが(共産主義的な漠然とした意味で)そういった類のことについてのカネの回りに貢献してしまうことを是とするわけはないですが、そうではない限り彼らが使えるお金をどう使おうがそんなもの彼らの勝手です。Not currently under Education, Employee or Traineeがどうこうというバカ丸出しの因縁付けで一般市民叩くマスコミやそれに乗じるネットの一部の連中はそれこそ社会に悪徳害毒垂れ流す商売であぶく銭どころかバカ金稼いでその挙句それを家計の貯蓄にまさか回すんではないでしょうね?それこそそのバカ金をタイガーマスクさんみたいに恵まれない子供たちのために寄付をしたり先天的に障害を持った人たちの為に使ったり交通その他の事故等で障害を負ってしまった人たちの為に散財するというのなら、そういう連中の言うそういったことにも耳を傾ける価値はあります。というか匿名タイガーマスクさんの様な方々には心から尊敬の念を覚えます。が、しかしそういったバカ金な連中はそんなことにはカケラも興味はありません、せいぜいいいとこ自らの保身程度のことです。初等のマクロ経済学の教科書を百回くらい読んでこいバカが(マル経でも可(笑))、という話になってしまうわけです。そんな最悪な連中の貯蓄に回されるくらいであれば、そんな連中には一円も稼がれない方がはるかに日本経済にも日本の社会の為にもなるわけです。そういうことを何も理解していない連中がNot currently under Education, Employee or Traineeがどうこうと言って特定の個人(を微少に改変したり、見せかけたり、いわゆるなりきりを行ったりして)やカテゴリーを捏造して叩くわけですから、はっきり言ってもう笑うしかない。養老孟司さんがそれをおっしゃってたというものをどこかで読んだんですけど、あのマスコミ(ジャーナリズム?まともな人・賢い人たちももちろんいらっしゃるのでマスコミやジャーナリズムという言葉であまり一まとめにはしたくはない)を始めとした、というかネットの一部に蔓延ってるゴミクズみたいな連中は、一回一定期間におけるみんなでの集団農作業にでも従事すればいいわけです。もちろんそうなったら私も当然参加します。我々の世代を含めたどの世代でもそうですけど特に年配の人たちに勘違いしてる人たちが多そうなので一言言わせてもらいたいんですが、ネットの一部でみんなでどうこうという連中というのは、あれは「みんなで何かやる」のが趣旨なのではなくてて、「(みんなで)暴力をやったらめたら振るう」のが目的であり趣旨なわけです。「みんなで」はあくまで括弧の中なわけです。つまりああいった連中というのはみんなで赤信号わたるのは恐くないどころか楽しくて仕方が無いが、しかしみんなで青信号わたるのは恐くて仕方が無いという連中です。実際、その養老孟司さんの提案を実現してみれば分かると思いますが、そうやって群れてた連中に限って「は?農作業?ダリーウゼーやんねーよバーカ」とか言って参加したがらないことは火を見るより明らかです。
こういった被害に合っているのはNot currently under Education, Employee or Traineeだけではなく政治家や場合により官僚の人たちもそうです。政治家の仕事というのはマスコミのカメラの前で朝令暮改な説法のようなセリフを垂れ流すことではないです。政治家の人たちはマスコミの前でそういう態度を取りそういう類の中身の無いセリフを垂れ流させられることを強要させられているわけです。何によって?と言えばマスコミ自身によってです。「民衆の代弁者たる」マスコミ様によって「(主には)マスコミが『民衆の代弁者』であることをこれぞとばかりに示させられる為に」、政治家はそういった圧力を掛けられるわけです、が、もう現在の日本のマスコミというのは民衆の代弁者どころか民衆の代弁者の振りをして実は民衆を踏みつけてあざ笑っているような最悪な連中です。
私の知る限りでは一人だけマスコミの前でパフォーマンスではない国民のことを真に思った発言をしてくれた政治家が居ます。前原外相です。「外交は様々なチャンネルで行われている。その全てを今ここで明かすことはできない」という前原外相の発言は非常に良心的なものであり、真に国民のことを考えている、少なくとも国民をバカにはしていないものです。一般市民に政治家の活動全てを明かすことなど出来るわけが無いです。そんなに庶民がどうこうと言って自分はナメ腐った仕事内容で何億や何十億のバカ金稼いでる分際で公共電波使ってフザけたことばかり言うどっかの芸能人みたいに政治家を叩くんだったら(ネットの掲示板やブログや200円のノートブックに鉛筆で書いていればよろしい)、一回「庶民」と政治家を逆転させてみればいいんです。何の意見も行動もまとまらずに即刻国は崩壊です。簡単に言えば、いわゆる庶民の人たちは政治家のような仕事をできるアタマ(能力や知識)を持っていないのでそういった仕事はできませんし、政治家個々人はおおむね庶民程に単純労働で効率をあげることは出来ません。だいたい「庶民versus政治家」という構図がもうマスコミの奸計にまざまざと嵌ってしまっているわけであって、別に庶民と政治家が対立する必然性など何処にも存在しません。
ちなみに政治家には自分を重要人物だと思っててもらわなければ困ります。国民の生活がかかっているわけですから。だから石原慎太郎さんみたいな人はその意味では政治家としては理想的ではないかと思います。実際に何やってるのか一般庶民の私には分かりませんけど。だからアホみたいに「人々のために!皆さんのために!なんちゃらかんちゃら誠心誠意がんばります!」とか選挙活動でたわけた朝令暮改の典型のようなことを言う必要なんか無いどころか有害ですらあるんですね。「自分はこういった政策を打ち出し、具体的に何々こういったことを行うつもりです」ということを選挙前にきちんと提示するということを行うべきなんですね。あんな「何々党のなんとかです!皆様のあたたかいご支援をなんとかかんとか!」なんてものは騒音以外の何物でもないわけです。小沢一郎さんは少なくとも新聞の報道によると具体的内容に沿って選挙前のマニフェストに順じるべきだということを言っておられました。特に我々の世代に多いんですけど、政治に興味の無い人間が多すぎるというのも確かに負の要因として存在します。だから政治家はああいった客寄せのくだらん文句を吐かなきゃいけないという方向へ傾いてしまうんですね。鳩山由紀夫前首相の「国民が政治家の言うことに耳を傾けなくなった」という発言も、マスコミは必死で叩いてましたが、一概に却下否定できるものではないです。鳩山さんの政治政策に問題があるというのなら、それを具体的に指摘して議論でもなんでも行えばいいわけですね、しかしやはり残念なことにマスコミが行っていることは単なるチンピラの因縁づけの叩きみたいなもんです。よってこれに関しては一概に政治家が悪いとかそういったことを言ってしまえる類のことではないです。
8:32 2011/02/18
ネットというか何処の世界にもマスコミに乗じて、保身の為に特定のターゲットを作って叩きを行う人間が居ます。別にその保身の欲求は否定はしません。ヒトを含めた生物には生存本能のようなものが在りますし、誰だって自分の身がかわいいですから。もう自分らの悪事から取りあえず目を逸らさせる為にそういう特定の人間を叩いたりして祭り上げるわけです。テレビ朝日なんてのはもう劣悪すぎて目もあてられない感じです。個人的には朝日新聞はその内容がかなり良い方だと思いますけど、あのテレビ朝日というのは最悪です。
何時の時代も昔から生活に困っている貧しい人たちがいました。私も子供の頃そういう人をいくらか見ましたし、今になって思い返して「ああ、あの人は貧しかったんだ」とか「子供とは言えそういう人たちのことに気付かなかった自分は愚かしかったガキだな」とかそういう人たちに何故か不思議と申し訳ない気持ちになることもあります。そして今現在になってそういう人たちをマスコミやその他の特定の連中は見世物の如く取り上げてネタどころか道具にしているわけで、そして自分らを含めた社会に害毒垂れ流す悪徳な連中から目を逸らさせようと小学生みたいな分かりやすい構図でそれこそ「わかりやすく」頭の悪い人たちの反感を煽っているわけです。Not currently under Education, Employee or Traineeについてこれを祭り上げることもそうです(ネタにもするし道具にして利用もするという極めて悪質な行為です)。
大体がNot currently under Education, Employee or Traineeの定義によれば専業主婦も定年退職された方も大多数の中小企業経営者・小口事業者の人たちも全てこれに該当します。こういった人たちはもっとマスメディアやネットの一部のバカ共に怒りをぶつけていいと思うんですけどね。
で、家が金持ちで月に遊興費で何十万とか下手をすれば何百万も使うとかそういったお金持ちの家のボンボンみたいな人も居ます。アメリカとかだとこれよりゼロが一つや二つ増えたりするのかもしれません。この人たちだってNot currently under Education, Employee or Traineeな場合も多々ありますし、仮にTraineeやEmployeeでも籍だけおいて悪事に浸ったり遊び呆けているNot currently under Education, Employee or Traineeどころか給料入って遊び呆けという非常にあざといことになっている場合もあります。昔はそういうボンボンな人たちは親のスネかじりと言われてましたけど、今だってそういうNot currently under Education, Employee or Traineeではあるが何故かNot currently under Education, Employee or Traineeと見做されない人たちは大勢居るでしょう。私はこういった人たちのことを否定するつもりはありません。というかほとんど逆です。悪事に染まるのが良いわけはない、つまりはあまり大きな声では言えませんが(共産主義的な漠然とした意味で)そういった類のことについてのカネの回りに貢献してしまうことを是とするわけはないですが、そうではない限り彼らが使えるお金をどう使おうがそんなもの彼らの勝手です。Not currently under Education, Employee or Traineeがどうこうというバカ丸出しの因縁付けで一般市民叩くマスコミやそれに乗じるネットの一部の連中はそれこそ社会に悪徳害毒垂れ流す商売であぶく銭どころかバカ金稼いでその挙句それを家計の貯蓄にまさか回すんではないでしょうね?それこそそのバカ金をタイガーマスクさんみたいに恵まれない子供たちのために寄付をしたり先天的に障害を持った人たちの為に使ったり交通その他の事故等で障害を負ってしまった人たちの為に散財するというのなら、そういう連中の言うそういったことにも耳を傾ける価値はあります。というか匿名タイガーマスクさんの様な方々には心から尊敬の念を覚えます。が、しかしそういったバカ金な連中はそんなことにはカケラも興味はありません、せいぜいいいとこ自らの保身程度のことです。初等のマクロ経済学の教科書を百回くらい読んでこいバカが(マル経でも可(笑))、という話になってしまうわけです。そんな最悪な連中の貯蓄に回されるくらいであれば、そんな連中には一円も稼がれない方がはるかに日本経済にも日本の社会の為にもなるわけです。そういうことを何も理解していない連中がNot currently under Education, Employee or Traineeがどうこうと言って特定の個人(を微少に改変したり、見せかけたり、いわゆるなりきりを行ったりして)やカテゴリーを捏造して叩くわけですから、はっきり言ってもう笑うしかない。養老孟司さんがそれをおっしゃってたというものをどこかで読んだんですけど、あのマスコミ(ジャーナリズム?まともな人・賢い人たちももちろんいらっしゃるのでマスコミやジャーナリズムという言葉であまり一まとめにはしたくはない)を始めとした、というかネットの一部に蔓延ってるゴミクズみたいな連中は、一回一定期間におけるみんなでの集団農作業にでも従事すればいいわけです。もちろんそうなったら私も当然参加します。我々の世代を含めたどの世代でもそうですけど特に年配の人たちに勘違いしてる人たちが多そうなので一言言わせてもらいたいんですが、ネットの一部でみんなでどうこうという連中というのは、あれは「みんなで何かやる」のが趣旨なのではなくてて、「(みんなで)暴力をやったらめたら振るう」のが目的であり趣旨なわけです。「みんなで」はあくまで括弧の中なわけです。つまりああいった連中というのはみんなで赤信号わたるのは恐くないどころか楽しくて仕方が無いが、しかしみんなで青信号わたるのは恐くて仕方が無いという連中です。実際、その養老孟司さんの提案を実現してみれば分かると思いますが、そうやって群れてた連中に限って「は?農作業?ダリーウゼーやんねーよバーカ」とか言って参加したがらないことは火を見るより明らかです。
こういった被害に合っているのはNot currently under Education, Employee or Traineeだけではなく政治家や場合により官僚の人たちもそうです。政治家の仕事というのはマスコミのカメラの前で朝令暮改な説法のようなセリフを垂れ流すことではないです。政治家の人たちはマスコミの前でそういう態度を取りそういう類の中身の無いセリフを垂れ流させられることを強要させられているわけです。何によって?と言えばマスコミ自身によってです。「民衆の代弁者たる」マスコミ様によって「(主には)マスコミが『民衆の代弁者』であることをこれぞとばかりに示させられる為に」、政治家はそういった圧力を掛けられるわけです、が、もう現在の日本のマスコミというのは民衆の代弁者どころか民衆の代弁者の振りをして実は民衆を踏みつけてあざ笑っているような最悪な連中です。
私の知る限りでは一人だけマスコミの前でパフォーマンスではない国民のことを真に思った発言をしてくれた政治家が居ます。前原外相です。「外交は様々なチャンネルで行われている。その全てを今ここで明かすことはできない」という前原外相の発言は非常に良心的なものであり、真に国民のことを考えている、少なくとも国民をバカにはしていないものです。一般市民に政治家の活動全てを明かすことなど出来るわけが無いです。そんなに庶民がどうこうと言って自分はナメ腐った仕事内容で何億や何十億のバカ金稼いでる分際で公共電波使ってフザけたことばかり言うどっかの芸能人みたいに政治家を叩くんだったら(ネットの掲示板やブログや200円のノートブックに鉛筆で書いていればよろしい)、一回「庶民」と政治家を逆転させてみればいいんです。何の意見も行動もまとまらずに即刻国は崩壊です。簡単に言えば、いわゆる庶民の人たちは政治家のような仕事をできるアタマ(能力や知識)を持っていないのでそういった仕事はできませんし、政治家個々人はおおむね庶民程に単純労働で効率をあげることは出来ません。だいたい「庶民versus政治家」という構図がもうマスコミの奸計にまざまざと嵌ってしまっているわけであって、別に庶民と政治家が対立する必然性など何処にも存在しません。
ちなみに政治家には自分を重要人物だと思っててもらわなければ困ります。国民の生活がかかっているわけですから。だから石原慎太郎さんみたいな人はその意味では政治家としては理想的ではないかと思います。実際に何やってるのか一般庶民の私には分かりませんけど。だからアホみたいに「人々のために!皆さんのために!なんちゃらかんちゃら誠心誠意がんばります!」とか選挙活動でたわけた朝令暮改の典型のようなことを言う必要なんか無いどころか有害ですらあるんですね。「自分はこういった政策を打ち出し、具体的に何々こういったことを行うつもりです」ということを選挙前にきちんと提示するということを行うべきなんですね。あんな「何々党のなんとかです!皆様のあたたかいご支援をなんとかかんとか!」なんてものは騒音以外の何物でもないわけです。小沢一郎さんは少なくとも新聞の報道によると具体的内容に沿って選挙前のマニフェストに順じるべきだということを言っておられました。特に我々の世代に多いんですけど、政治に興味の無い人間が多すぎるというのも確かに負の要因として存在します。だから政治家はああいった客寄せのくだらん文句を吐かなきゃいけないという方向へ傾いてしまうんですね。鳩山由紀夫前首相の「国民が政治家の言うことに耳を傾けなくなった」という発言も、マスコミは必死で叩いてましたが、一概に却下否定できるものではないです。鳩山さんの政治政策に問題があるというのなら、それを具体的に指摘して議論でもなんでも行えばいいわけですね、しかしやはり残念なことにマスコミが行っていることは単なるチンピラの因縁づけの叩きみたいなもんです。よってこれに関しては一概に政治家が悪いとかそういったことを言ってしまえる類のことではないです。
8:32 2011/02/18
s.o.b.
2011.05.04 Wednesday
どうしようもない人間。
この度、京都大学の二次試験の入学試験問題がリアルタイムでネットに流出したそうです。試験会場から携帯電話のメールもしくはカメラ機能を使って撮影され意図的に流されたようです。
まともに教育を受けてきた人間ならば、こういったことは結局自分はおろかみんなのためにならない、別のおカタい言い方で言えば自分は損をするし結果国益の為にもならない(その意味でも自分が損をする、数学的にこれを知りたい人は経済学者に学んで下さい)という、自分は損をする上に自分以外の自分に利益をもたらしてくれる人間のうちほとんどの人間も損をするという最悪の行いであるということが簡単に理解できるはずです。
こういったところにも「群れはするが結局大局的に見てみんなの益にならないようなことばかり行う」甘えを基調とした女性的人間であり全体主義者のthe "Amae"という記事で書いたところに典型的な人間を見ることができます。目先のことに囚われているこういった愉快犯みたいな愚か者の全体主義者が「全体」という言葉とは逆説(逆意)的ですがどんどん秩序の無い社会の形成に貢献していくわけです。仮に自分以外の人間にとって損益であっても自分にとっては利益となる行為、というのならばまだ理解はできます(同意はしません)、が、この場合はそうではありません。愉快犯的感覚で自分のやっていることが分かっていない、だから共時性も機会主義も危険なわけです。これがもうこの一具体例の様に治安の悪化として表れているわけです。
こういったことを行うのはいいところ日本人と韓国人だけです。さすがに中国の人はこういったバカげたことをやらなそうな賢さを持っている感じがします。当然のことながら欧米でこんなバカげたことがあるということはほとんど聞いたことがないです。仮にあったとしても(あると言えばあるのかもしれませんが)その「自分を含め全ての人間にとってマイナスとなる」という愚劣な行いを賢い欧米のマスメディアの人々はバカバカしくて報道してくれないのではないかという話です。
ちなみに「どうしても防げない、防ぐのは難しい(からどうしようもない)」という態度や方向性で報道している日本のマスコミは本当にどうしようもないです。新聞の場合だと、その記事の文面を書いた人間やそれを載せることを許可した人間が本心で言っているにしろ悪意に基づいて言っているにしろどちらにしてもです。私が読んだ読売新聞ですらこれなので、他の大新聞ではもっと(流出を無意味に受容肯定するような意味合いで)どうしようもない記事を載せているのではないかと勘繰りたくなります。少々頭で考えれば分かりますが、携帯電話を利用した流出が云々というのならば、それを防ぐ手立てなど多々簡単に浮かんできます。荷物置き場を用意すれば?モノを入れるスペースの無い服装と着替え場を試験執行側で用意すれば?その管理は警備会社に依頼すれば?筆記用具は大学側で鉛筆と消しゴムでも用意すれば?会場の物理的制約は全国各地の使っていない(公共でも何でも)建物でも利用してキャパを増やして余裕持たせれば?その他いろいろと。特に国立大学法人や人の集まる有名・名門難関私大にとって負担となる程に費用が掛かるとは考えられません。
ちなみにこれが京都大学ではなくて五流やいわゆるFランクの公立・私立○×大学だったら申し訳ないですけど別にいいです。先の記事でも書きましたけど、そういった大学というのは在っても無くても同じような、やってもやらなくても同じような内容の教育(?)を行い、そもそも中学の英語も怪しいという連中が場合によっては何故かその英語だけで入ることができてしまうという、まあ欧米を始めとした海外の人の嘲笑の的になるどころかこの国の人間であっても溜め息をつきたくなるようなとても大学とは呼べないものです。そういった大学(?)における入学試験の場では、今に始まったことではなくこの国で携帯電話が普及し出した頃からそんなこと日常茶飯事だったでしょうし、何十年の昔からそれこそいしいひさいちさんの漫画に描いてあるようなことも冗談ではなく行われていたでしょう。
先の記事で書いた「みんなで赤信号わたるのは恐くないどころか楽しくて仕方が無いが、しかしみんなで青信号わたるのは恐くて仕方が無い」という連中が居ます。何故連中は青信号を恐れるのか?それは青信号を渡るという過程においては能力によって上から順列の決まった組織体系が形成されるからです。例えば私の様にあまり気位の高くない人間だと最初から自分にできること(できそうなこと)とできないこと(できそうにないこと)をある程度理解しています、過剰な努力によって目的を達成しようとする場合も物事によりありけりですが、かといって(だから)自分より能力の高い人間がある特定のヒエラルキーにおいて自分より高い位置に居たところでそれには納得がいきます。ところが気位、プライドの高い人間というのが居ます。これは平明な言い方ですが少々社会学的な意味合いが込められています(ここでの能力という言葉もかなり広義の意味)。こういった人たちでもそのプライドに見合う(プライドの渇きを満たしうる)だけの地位に就きそしてその地位においてそれが発揮されうるような高い能力を持った人ならば何も問題は無いです。しかし、能力が低いのに何故かプライドが高いという人たちが存在します。分かりやすくこの記事における具体例として挙げるならば学校の勉強に関する努力を試み且つそれができなく且つ学校の勉強などどうでもいいという態度を取る人間です。すっぱいブドウの狐の寓話に出てくる狐みたいなもんです。私だって東京大学や京都大学に入学が可能であったほど学校の勉強ができる子供だったわけではないですが、そういったクズみたいな人間とは違います。もうこういった連中というのは諸々の理由で恐くて恐くて青信号を渡ることができないわけです。だから彼らはその能力に見合わない虚栄的な自尊心を満たす為に何をやるか?青信号は渡れません(渡りたがらない)から、赤信号を渡って交通のシステムを理解した上で青信号において通行するまたはそう試みる人々の足を引っ張るような真似をするか、もしくは信号によって管理されている交通のシステムそのものを破壊しようとします。こういう連中を本来的に売国奴というのであって、それは日本に反してどうこうとかいう単純な形容で片付けられる問題ではありません。
12:17 2011/02/27
この度、京都大学の二次試験の入学試験問題がリアルタイムでネットに流出したそうです。試験会場から携帯電話のメールもしくはカメラ機能を使って撮影され意図的に流されたようです。
まともに教育を受けてきた人間ならば、こういったことは結局自分はおろかみんなのためにならない、別のおカタい言い方で言えば自分は損をするし結果国益の為にもならない(その意味でも自分が損をする、数学的にこれを知りたい人は経済学者に学んで下さい)という、自分は損をする上に自分以外の自分に利益をもたらしてくれる人間のうちほとんどの人間も損をするという最悪の行いであるということが簡単に理解できるはずです。
こういったところにも「群れはするが結局大局的に見てみんなの益にならないようなことばかり行う」甘えを基調とした女性的人間であり全体主義者のthe "Amae"という記事で書いたところに典型的な人間を見ることができます。目先のことに囚われているこういった愉快犯みたいな愚か者の全体主義者が「全体」という言葉とは逆説(逆意)的ですがどんどん秩序の無い社会の形成に貢献していくわけです。仮に自分以外の人間にとって損益であっても自分にとっては利益となる行為、というのならばまだ理解はできます(同意はしません)、が、この場合はそうではありません。愉快犯的感覚で自分のやっていることが分かっていない、だから共時性も機会主義も危険なわけです。これがもうこの一具体例の様に治安の悪化として表れているわけです。
こういったことを行うのはいいところ日本人と韓国人だけです。さすがに中国の人はこういったバカげたことをやらなそうな賢さを持っている感じがします。当然のことながら欧米でこんなバカげたことがあるということはほとんど聞いたことがないです。仮にあったとしても(あると言えばあるのかもしれませんが)その「自分を含め全ての人間にとってマイナスとなる」という愚劣な行いを賢い欧米のマスメディアの人々はバカバカしくて報道してくれないのではないかという話です。
ちなみに「どうしても防げない、防ぐのは難しい(からどうしようもない)」という態度や方向性で報道している日本のマスコミは本当にどうしようもないです。新聞の場合だと、その記事の文面を書いた人間やそれを載せることを許可した人間が本心で言っているにしろ悪意に基づいて言っているにしろどちらにしてもです。私が読んだ読売新聞ですらこれなので、他の大新聞ではもっと(流出を無意味に受容肯定するような意味合いで)どうしようもない記事を載せているのではないかと勘繰りたくなります。少々頭で考えれば分かりますが、携帯電話を利用した流出が云々というのならば、それを防ぐ手立てなど多々簡単に浮かんできます。荷物置き場を用意すれば?モノを入れるスペースの無い服装と着替え場を試験執行側で用意すれば?その管理は警備会社に依頼すれば?筆記用具は大学側で鉛筆と消しゴムでも用意すれば?会場の物理的制約は全国各地の使っていない(公共でも何でも)建物でも利用してキャパを増やして余裕持たせれば?その他いろいろと。特に国立大学法人や人の集まる有名・名門難関私大にとって負担となる程に費用が掛かるとは考えられません。
ちなみにこれが京都大学ではなくて五流やいわゆるFランクの公立・私立○×大学だったら申し訳ないですけど別にいいです。先の記事でも書きましたけど、そういった大学というのは在っても無くても同じような、やってもやらなくても同じような内容の教育(?)を行い、そもそも中学の英語も怪しいという連中が場合によっては何故かその英語だけで入ることができてしまうという、まあ欧米を始めとした海外の人の嘲笑の的になるどころかこの国の人間であっても溜め息をつきたくなるようなとても大学とは呼べないものです。そういった大学(?)における入学試験の場では、今に始まったことではなくこの国で携帯電話が普及し出した頃からそんなこと日常茶飯事だったでしょうし、何十年の昔からそれこそいしいひさいちさんの漫画に描いてあるようなことも冗談ではなく行われていたでしょう。
先の記事で書いた「みんなで赤信号わたるのは恐くないどころか楽しくて仕方が無いが、しかしみんなで青信号わたるのは恐くて仕方が無い」という連中が居ます。何故連中は青信号を恐れるのか?それは青信号を渡るという過程においては能力によって上から順列の決まった組織体系が形成されるからです。例えば私の様にあまり気位の高くない人間だと最初から自分にできること(できそうなこと)とできないこと(できそうにないこと)をある程度理解しています、過剰な努力によって目的を達成しようとする場合も物事によりありけりですが、かといって(だから)自分より能力の高い人間がある特定のヒエラルキーにおいて自分より高い位置に居たところでそれには納得がいきます。ところが気位、プライドの高い人間というのが居ます。これは平明な言い方ですが少々社会学的な意味合いが込められています(ここでの能力という言葉もかなり広義の意味)。こういった人たちでもそのプライドに見合う(プライドの渇きを満たしうる)だけの地位に就きそしてその地位においてそれが発揮されうるような高い能力を持った人ならば何も問題は無いです。しかし、能力が低いのに何故かプライドが高いという人たちが存在します。分かりやすくこの記事における具体例として挙げるならば学校の勉強に関する努力を試み且つそれができなく且つ学校の勉強などどうでもいいという態度を取る人間です。すっぱいブドウの狐の寓話に出てくる狐みたいなもんです。私だって東京大学や京都大学に入学が可能であったほど学校の勉強ができる子供だったわけではないですが、そういったクズみたいな人間とは違います。もうこういった連中というのは諸々の理由で恐くて恐くて青信号を渡ることができないわけです。だから彼らはその能力に見合わない虚栄的な自尊心を満たす為に何をやるか?青信号は渡れません(渡りたがらない)から、赤信号を渡って交通のシステムを理解した上で青信号において通行するまたはそう試みる人々の足を引っ張るような真似をするか、もしくは信号によって管理されている交通のシステムそのものを破壊しようとします。こういう連中を本来的に売国奴というのであって、それは日本に反してどうこうとかいう単純な形容で片付けられる問題ではありません。
12:17 2011/02/27
s.o.b. 2
2011.05.04 Wednesday
どうしようもない人間。その2。
自称裏事情通のイタさとその情報の不確実さ。
「世の中」派、「世間知」派、それらはただ単に個々の具体的事例もしくはカテゴリーにおける希少価値の高い情報を持っているというだけであって、そもそもそれが事実である保障は何処にも無い。仮にそれが事実であったとしても、それはその個々の具体的事例もしくはカテゴリーにおける傾向や暗黙の了解の下行われている「秘密な」事柄というだけであって、限りある人間の情報蓄積能力から「一人笑いでニヤけていられるような特殊な事柄」だけを取り出し、オウムのアサハラ教祖バリにそこに世界ならぬ世の中の真理とか見ちゃう最もイタい人間、それがオカルト教祖からダウングレードされた全く現実を見ていない「特殊な事柄」の認知に「一人笑いでニヤけていられる」ような夢見ちゃってる自称裏事情通である。
我々が生きている現行の社会は民主主義社会であって同時に資本主義社会である。もし仮に自称裏事情通共が「見た」世の中の真理とやらがそれこそ世界のあらゆるところでまかり通っているのならば、この現代において既存の文明社会が維持されていようはずも無い。この女性的人間の権化であるような口コミに依存しまたその口でcommunicateしていただける相手に依存の極度を求める、そういった自称裏事情通こそは近代的な文明社会の敵であり……とか言うとまた極端に走ってしまうことになるので、まあ場末の酒場でクダをまいている程度でやめておいた方がいいということです(こんなアホっぽいことを書いている私も裏事情通な人たちも、どちらも)。子供時代にやった山手線ゲームを思い出してもらえばよく理解できると思うんですが、ああいったカタチでの情報伝達によっては、具体的事実としての情報はどんどんそのカタチを歪めていきます。だから、その歪められたカタチの事実とはかけ離れてしまった情報に「真理」だとかを見ちゃってる人間というのは極めて危険なわけです。何が危険かと言えば当人にとってです。簡単にダマされます。
是非とも「共産主義者による世界支配」的な一種の陰謀論めいたことを疑うアメリカの優れた学生や(政治経済学・文化人類学等の)研究者の方々には、この日本という後進国における「オウムのアサハラ教祖バリにそこに世界ならぬ世の中の真理とか見ちゃう最もイタい、オカルト教祖からダウングレードされた自称裏事情通」なるものを、ひいてはこの日本という国に蔓延する価値感覚、ひいてはこの日本という国について研究していただきたく思います。実際に討論会のような場所でバラク・オバマ大統領にこの「共産主義者による世界支配」云々という質問をぶつけたアメリカの学生の人がいるそうです。
これには自称共産主義者の人たち、もちろん巷の盛り場でチビチビ酒をすすりながらくだをまいているような連中を彼らと同列に扱うことは彼らに対してあまりに失礼なのでそのような連中をこの中には含めはしませんが、日本共産党という政党の掲げるイデオロギーやそこに所属する人々はほぼ関係ありません。この日本という国は信教の自由は保障されていますし、その人たちがどういった信念をいだこうとそれは彼らの勝手である、ということのみならず、私は今政治的イデオロギーについて一義的に語っているわけではありません。
つまりは、この日本という国を覆い尽くす「共産主義者による世界支配」的なモノ、それへのアプローチとして政治学や経済学や文化人類学系の学問等が利用され得るということです。そのモノの中で何が行われているか?それは単なる内ゲバであり、悲惨を極めるということです。
12:40 2011/04/09
自称裏事情通のイタさとその情報の不確実さ。
「世の中」派、「世間知」派、それらはただ単に個々の具体的事例もしくはカテゴリーにおける希少価値の高い情報を持っているというだけであって、そもそもそれが事実である保障は何処にも無い。仮にそれが事実であったとしても、それはその個々の具体的事例もしくはカテゴリーにおける傾向や暗黙の了解の下行われている「秘密な」事柄というだけであって、限りある人間の情報蓄積能力から「一人笑いでニヤけていられるような特殊な事柄」だけを取り出し、オウムのアサハラ教祖バリにそこに世界ならぬ世の中の真理とか見ちゃう最もイタい人間、それがオカルト教祖からダウングレードされた全く現実を見ていない「特殊な事柄」の認知に「一人笑いでニヤけていられる」ような夢見ちゃってる自称裏事情通である。
我々が生きている現行の社会は民主主義社会であって同時に資本主義社会である。もし仮に自称裏事情通共が「見た」世の中の真理とやらがそれこそ世界のあらゆるところでまかり通っているのならば、この現代において既存の文明社会が維持されていようはずも無い。この女性的人間の権化であるような口コミに依存しまたその口でcommunicateしていただける相手に依存の極度を求める、そういった自称裏事情通こそは近代的な文明社会の敵であり……とか言うとまた極端に走ってしまうことになるので、まあ場末の酒場でクダをまいている程度でやめておいた方がいいということです(こんなアホっぽいことを書いている私も裏事情通な人たちも、どちらも)。子供時代にやった山手線ゲームを思い出してもらえばよく理解できると思うんですが、ああいったカタチでの情報伝達によっては、具体的事実としての情報はどんどんそのカタチを歪めていきます。だから、その歪められたカタチの事実とはかけ離れてしまった情報に「真理」だとかを見ちゃってる人間というのは極めて危険なわけです。何が危険かと言えば当人にとってです。簡単にダマされます。
是非とも「共産主義者による世界支配」的な一種の陰謀論めいたことを疑うアメリカの優れた学生や(政治経済学・文化人類学等の)研究者の方々には、この日本という後進国における「オウムのアサハラ教祖バリにそこに世界ならぬ世の中の真理とか見ちゃう最もイタい、オカルト教祖からダウングレードされた自称裏事情通」なるものを、ひいてはこの日本という国に蔓延する価値感覚、ひいてはこの日本という国について研究していただきたく思います。実際に討論会のような場所でバラク・オバマ大統領にこの「共産主義者による世界支配」云々という質問をぶつけたアメリカの学生の人がいるそうです。
これには自称共産主義者の人たち、もちろん巷の盛り場でチビチビ酒をすすりながらくだをまいているような連中を彼らと同列に扱うことは彼らに対してあまりに失礼なのでそのような連中をこの中には含めはしませんが、日本共産党という政党の掲げるイデオロギーやそこに所属する人々はほぼ関係ありません。この日本という国は信教の自由は保障されていますし、その人たちがどういった信念をいだこうとそれは彼らの勝手である、ということのみならず、私は今政治的イデオロギーについて一義的に語っているわけではありません。
つまりは、この日本という国を覆い尽くす「共産主義者による世界支配」的なモノ、それへのアプローチとして政治学や経済学や文化人類学系の学問等が利用され得るということです。そのモノの中で何が行われているか?それは単なる内ゲバであり、悲惨を極めるということです。
12:40 2011/04/09
in vain
2011.05.04 Wednesday
徒労のススメを行う愚か者。
デイケアだとか福祉作業所だとかいったところが一体どれだけ陳腐かつ空しいことをやらせているかご存知ですか?これは良心的なとある精神科医の先生が教えてくれたんですが、機械を使えば(というか通常はこの方法で行われる)数秒で数千枚単位の処理を施せるものを、わざわざ封筒のノリ付けを一枚一枚手作業で行わせるといった類のことをやるわけです。これはもうナチスのやっていることと同じです。強制収容所において行われていた何もない地面に穴を掘らせてまたそれを埋めさせるという作業を延々と繰り返させるという拷問と何ら違いはありません。これを大方の悪徳な精神科医は「疲れる為にやると思ってください」という合理性という言葉が脳内に存在しないのではないかと思わせる説明で正当化(?)します。これに参加しないことを「孤高の精神」とカルテや診断書に記述する、もう発想が小学生としか言い様の無い大馬鹿者の精神科医が存在するわけです。正常な判断力を持った人間ならば孤高もクソもなくそんなバカげた「誰の利益にもならない上に同時に自分の利益にもならないどころか損をする」という行動を取るということは有り得ないわけです。思うに精神医学者と経済学者というのは対極に位置する人間ではないかと私は考えます。もちろんC.G.Jungのような優れた医師も存在しましたし、精神科医という一般名詞の一括りで全ての精神科医を同列に扱ってしまうのはまともだったり良心的だったりする精神科医の先生に失礼なのであまり言いたくないんですが、現在の大方の精神科医が臨床の場で行っていることは人間の知恵というか備わっている合理性を全く無視した大たわけ行為であり、仮にこの2者の対置が正だとしてどう考えても前者の物の見かたや考え方が理に適っているとは私には思えません。要するに精神科医とて少なくともこの国ではほぼ最高レベルの教育を受けているわけですから、つまるところそれは意図された洗脳なわけです。実際私はとあるシンポジウムで松下正明氏という東大教授の高名(らしい)な精神科医の発言を拝聴したのですが、「現在の精神医学は社会主義的なものに基づいている!」そうです。これは純粋にイデオロギー的な意味で社会主義的なという意味ではなくて、旧ソ連的な意味で社会主義的なという意味です。要するにこれを直訳すれば「(時代は違うが)ラーゲリでドストエフスキーが食ってたようなメシ」を民衆が食わされるハメになることを「現在の精神医学」とやらは助長しているということです。社会主義ではなく国家社会主義ナントカテロリスト連合者党的の間違いだろうがと問いつめたくなるのも無理はないわけです。
私は、所謂イデオロギーにまみれて物事を見る、まあ言っちゃ悪いがそういう類のバカではないですし、そういう類の人間に対してはあまりいい念を抱きませんが、なんとなくいわゆる左の人たちを軽くですが偏見の目で見てしまうことをこの辺りの原因で止めることができません。
しかし例えば日本共産党が別におかしな政党であるとは特に思いません。共産主義、communismという概念そのものを考えた時には疑問も湧いてきますしまた同時に発想に同意できる部分もありますけど。私はただの一般市民なので、政治のことに詳しいわけではなく、いいところ新聞に書いてある程度のことしか知りません。しかし、例えば日本共産党の宣伝や主張が載っているペーパーを(新聞「赤旗」のことではない)隅から隅まで読んだところで、さすがに一般向けなので少々単純に過ぎる感がありますが、特に「おかしな」ことは何も書いてありません。ちょっと馬鹿かと思うところもありますが、健全といえば健全です。貧しい人たちのよる辺(べ)として極めて健全なことが書いてあります。
デイケアその他を療法と呼ぶのであれば、もっと色々な多彩なことを勧めればいいわけです。他人の役に立つことなど意識する必要は全くありません。どうせデイケアだろうが福祉作業所だろうが誰の役にも立たず且つ本人たちが損益を被るという最悪の行いに従事するということに帰着するだけです。このことを理解したければ、全世界のあらゆる優れた頭脳を持つ経済学者があらゆる場でそう言っていますし、あらゆる本や論文に書いています。機械が一瞬にして行えるようなことを無理・無意味にヒトにやらせても誰も何も得しません。その作業に駆り立てられてる人たちが無意味な苦痛を味わってただ単に損をして且つそれが誰の利にもならないという最悪な事態が発生するだけです。ここで倫理的な問題や人道的な問題が発生し場合によってそれが宗教的問題に発展するわけであって、経済理論を当て嵌めて考えるべきでないそれこそ精神科医の出番がやってくるわけです。anarchismが正当であるとは私は考えません。
一体今の精神科医というのは何を研究しているのか甚だしく疑問です。人間をシャブ漬けにしてヒトが機械に到底敵うわけがない類の単純労働能力しか持たない無能力者を製造することが現在の精神科医の仕事だと言うのならばもはや何も言うまい。
20:33 2011/03/03
デイケアだとか福祉作業所だとかいったところが一体どれだけ陳腐かつ空しいことをやらせているかご存知ですか?これは良心的なとある精神科医の先生が教えてくれたんですが、機械を使えば(というか通常はこの方法で行われる)数秒で数千枚単位の処理を施せるものを、わざわざ封筒のノリ付けを一枚一枚手作業で行わせるといった類のことをやるわけです。これはもうナチスのやっていることと同じです。強制収容所において行われていた何もない地面に穴を掘らせてまたそれを埋めさせるという作業を延々と繰り返させるという拷問と何ら違いはありません。これを大方の悪徳な精神科医は「疲れる為にやると思ってください」という合理性という言葉が脳内に存在しないのではないかと思わせる説明で正当化(?)します。これに参加しないことを「孤高の精神」とカルテや診断書に記述する、もう発想が小学生としか言い様の無い大馬鹿者の精神科医が存在するわけです。正常な判断力を持った人間ならば孤高もクソもなくそんなバカげた「誰の利益にもならない上に同時に自分の利益にもならないどころか損をする」という行動を取るということは有り得ないわけです。思うに精神医学者と経済学者というのは対極に位置する人間ではないかと私は考えます。もちろんC.G.Jungのような優れた医師も存在しましたし、精神科医という一般名詞の一括りで全ての精神科医を同列に扱ってしまうのはまともだったり良心的だったりする精神科医の先生に失礼なのであまり言いたくないんですが、現在の大方の精神科医が臨床の場で行っていることは人間の知恵というか備わっている合理性を全く無視した大たわけ行為であり、仮にこの2者の対置が正だとしてどう考えても前者の物の見かたや考え方が理に適っているとは私には思えません。要するに精神科医とて少なくともこの国ではほぼ最高レベルの教育を受けているわけですから、つまるところそれは意図された洗脳なわけです。実際私はとあるシンポジウムで松下正明氏という東大教授の高名(らしい)な精神科医の発言を拝聴したのですが、「現在の精神医学は社会主義的なものに基づいている!」そうです。これは純粋にイデオロギー的な意味で社会主義的なという意味ではなくて、旧ソ連的な意味で社会主義的なという意味です。要するにこれを直訳すれば「(時代は違うが)ラーゲリでドストエフスキーが食ってたようなメシ」を民衆が食わされるハメになることを「現在の精神医学」とやらは助長しているということです。社会主義ではなく国家社会主義ナントカテロリスト連合者党的の間違いだろうがと問いつめたくなるのも無理はないわけです。
私は、所謂イデオロギーにまみれて物事を見る、まあ言っちゃ悪いがそういう類のバカではないですし、そういう類の人間に対してはあまりいい念を抱きませんが、なんとなくいわゆる左の人たちを軽くですが偏見の目で見てしまうことをこの辺りの原因で止めることができません。
しかし例えば日本共産党が別におかしな政党であるとは特に思いません。共産主義、communismという概念そのものを考えた時には疑問も湧いてきますしまた同時に発想に同意できる部分もありますけど。私はただの一般市民なので、政治のことに詳しいわけではなく、いいところ新聞に書いてある程度のことしか知りません。しかし、例えば日本共産党の宣伝や主張が載っているペーパーを(新聞「赤旗」のことではない)隅から隅まで読んだところで、さすがに一般向けなので少々単純に過ぎる感がありますが、特に「おかしな」ことは何も書いてありません。ちょっと馬鹿かと思うところもありますが、健全といえば健全です。貧しい人たちのよる辺(べ)として極めて健全なことが書いてあります。
デイケアその他を療法と呼ぶのであれば、もっと色々な多彩なことを勧めればいいわけです。他人の役に立つことなど意識する必要は全くありません。どうせデイケアだろうが福祉作業所だろうが誰の役にも立たず且つ本人たちが損益を被るという最悪の行いに従事するということに帰着するだけです。このことを理解したければ、全世界のあらゆる優れた頭脳を持つ経済学者があらゆる場でそう言っていますし、あらゆる本や論文に書いています。機械が一瞬にして行えるようなことを無理・無意味にヒトにやらせても誰も何も得しません。その作業に駆り立てられてる人たちが無意味な苦痛を味わってただ単に損をして且つそれが誰の利にもならないという最悪な事態が発生するだけです。ここで倫理的な問題や人道的な問題が発生し場合によってそれが宗教的問題に発展するわけであって、経済理論を当て嵌めて考えるべきでないそれこそ精神科医の出番がやってくるわけです。anarchismが正当であるとは私は考えません。
一体今の精神科医というのは何を研究しているのか甚だしく疑問です。人間をシャブ漬けにしてヒトが機械に到底敵うわけがない類の単純労働能力しか持たない無能力者を製造することが現在の精神科医の仕事だと言うのならばもはや何も言うまい。
20:33 2011/03/03
masochists
2011.05.04 Wednesday
自虐的希死念慮、否、他虐的希死念慮。
……集団自殺か?
自らに危害を加えようとする他者から身を守る、少なくともそう試みるのは生物として当然であって、そのような他者と進んで関わろうとするのは狂気の沙汰以外の何者でもない。これは危害は無いが自らにとってそれによるメリットの無い相手、いわゆるバカが相手の場合も同じである。こう言うのは私には他者を利用するという発想があまり無いからである。悪徳な人間はバカな人間とこそ進んで関わり利用しようと試みるだろう。最近のマスコミその他が流布する「何でもいいから人と関わらなきゃいけない」などというたわけたソーシャルネットワーク族は、一体幼児や小学生の頃から人間関係について何を学んできたのかと問いつめたくなる。おそらくは犯罪被害者を増やす目的であろう。もはやマスコミはそれこそ民主主義社会の崩壊を目論むアンチソーシャル(=ソーシャルネットワーク)な集団と見做して問題無いようだ。マスコミにも特定のイデオロギーや新興カルトにまみれた人間は大勢所属している。そのような連中にとっては、「何でもいいから人と関わらなきゃいけない」と関係無い人々が思っていてくれた方が都合がよく、そしてまたそのように洗脳しようと試みるわけである。
ソーシャルネットワークて何スか?社会主義者集団の通称っスか?ネットでよく見る叩きとか何スかアレ、ゼンキョートーの内ゲバっスか?という疑問が湧いてくることからも避けられようがない。
21:55 2011/04/14
……集団自殺か?
自らに危害を加えようとする他者から身を守る、少なくともそう試みるのは生物として当然であって、そのような他者と進んで関わろうとするのは狂気の沙汰以外の何者でもない。これは危害は無いが自らにとってそれによるメリットの無い相手、いわゆるバカが相手の場合も同じである。こう言うのは私には他者を利用するという発想があまり無いからである。悪徳な人間はバカな人間とこそ進んで関わり利用しようと試みるだろう。最近のマスコミその他が流布する「何でもいいから人と関わらなきゃいけない」などというたわけたソーシャルネットワーク族は、一体幼児や小学生の頃から人間関係について何を学んできたのかと問いつめたくなる。おそらくは犯罪被害者を増やす目的であろう。もはやマスコミはそれこそ民主主義社会の崩壊を目論むアンチソーシャル(=ソーシャルネットワーク)な集団と見做して問題無いようだ。マスコミにも特定のイデオロギーや新興カルトにまみれた人間は大勢所属している。そのような連中にとっては、「何でもいいから人と関わらなきゃいけない」と関係無い人々が思っていてくれた方が都合がよく、そしてまたそのように洗脳しようと試みるわけである。
ソーシャルネットワークて何スか?社会主義者集団の通称っスか?ネットでよく見る叩きとか何スかアレ、ゼンキョートーの内ゲバっスか?という疑問が湧いてくることからも避けられようがない。
21:55 2011/04/14
pirates
2011.05.04 Wednesday
強奪的。
略奪・強姦・殺人が平気でまかりとおる世界の到来を防ぐために。
2011/04/26に堀江貴文さんの実刑が最高裁での審議拒否が決定されたことにより確定しました。5年前の2006/04/27に堀江さんは東京拘置所から出所したそうですけど、twitterで堀江さんは「このタイミングで(皮肉まじりに)よくやってくれたよ」という内容のツイートを残していたそうです。最高裁で審査を行っていた人たちのその審査の結果、事がこの日にちに偶然なったというわけではなさそうですから、まあもし故意にこの日にちが決定されたというのならちょっと酷い話ではあると私は思います。……私の感覚で言うと、過度の事業展開欲?ヒットラーのような復讐欲?そういった何らかの目的でもない限り、そんなに多量のお金を必要とするもしくは金欲を持ち合わせている一個人が存在するなんてことは考えられないんですね。私とて統合失調症用の抗精神病薬というものを長期間服薬していた身なので理解できたことなのですが、最近の事件で言うと秋葉原通り魔の加藤智大さんが行ってしまった愚行の如く、「人の心はカネで買える」等問題発言や巨大資本を利用しての攻撃的で連続的な企業買収?や裁判の争点になったようなそういった行い(証券取引法違反?私はこれらに関して詳しくないので何も言えないのですが)、を行わなければいけない程に何らかの手法によって追い詰められていた(る)んではないでしょうかと疑いを持ちたくなります。そういったことを行わなければ企業の経営が成り立たなくなる程に汚いやり方で陰湿な攻撃をされた(る)ということです。いわゆる「潰し」です。
で、2011/04/26の読売新聞の夕刊の社会面に「市場を欺いたなんとか罰だ」みたいなたわけたバカ見出しで記事が載ってるんですけど、市場というのは各企業がその利潤最大化を追求してその結果生成される現在進行形なものなわけですね?だから堀江さんは企業が最大の利潤を生み出すべく行動していてそれが法に触れて、そしてその結果云々(このあたりについては具体的知識が無いので何も言えない)ということになって実刑が確定したということになったわけですね。「法に触れなければ何をやってもいい」というのは堀江さんの発言だそうですが、これは極めて「市場的」なものです。よって、もし仮に何らかの手法で堀江さんを陥れた連中が存在するのならば、その連中が行っていることが「市場を欺いている」わけであり、もっと極端に言えば法律が「市場を欺いている」わけです。堀江さんの発言内容や行動は「市場を欺いて」いるどころか極めて「市場的」です。そしてこれを多くの学者や知識人は「anarchism(無政府主義)」と呼びます。そして私はこれには決定的に反対です。先の記事で書いたように、過度の計画経済により運営される社会主義国家はいろいろな意味で(民衆が)悲惨ですが、anarchismはanarchismでpiratesの天下であり、極めて理想論を言うのならばinvisible handによる形而上的には一種共産主義とも呼べる「神の国」とでもいったところのものがあり得るかもしれませんが、現実的に考えてそりゃもう長期的スパンにおいて文明は破壊されて略奪・強姦・殺人なんでもありの原始時代に逆戻り、という状態になること請け合いです。だから私はいわゆる「小さな政府」もしくは「小さめの政府」が現実的な意味で理想的であり、これについてはアメリカのHenry Alfred Kissinger氏もこの間おっしゃってました。
新聞記事に書いてあるとおり「法に触れなければ何をやってもいい」ようなことを堀江さんが行ったというのならばそれはやはり問題だとは思います。しかし、問題のポイントは先にも言った様にそれは堀江さんの本意なのかどうかということです。
私の場合だとこういった危害の実態というものは統合失調症用の抗精神病薬というもので知ることができました(それが主作用であるにしろ副作用であるにしろ)。普通に人間関係のイロハについて分かっている人間ならば本心から「人の心はカネで買える」なんてことを考えるわけがないんですね。しかもこの発言によって堀江さんが享受するメリットは現行の日本の社会では皆無に等しく、そして且つ堀江さんは東京大学文学部中退ですから非常に高い確率でこういったことが理解できないような頭の持ち主ではないでしょう、よってそういった発言が堀江さんの本心からだとはちょっと考えられません。私はクリスチャンの人みたいに博愛精神持ち合わせているわけではないですけど、かといって「人の心はカネで買える」とは考えられません。
つまりはどういうことかと言うと、非常に単純化して分かりやすく言えば子供のイジメみたいなもんです。ああいう子供時代のイジメを好む人間というものは、悪人を作り出して仕立て上げて攻撃の対象として作り上げるということを常套手段として用います。ちなみに私も子供の頃はこういったものに適度に参加していた人間なのでまったくもって反省とともに偉そうなことを言える筋合いなど持たないのですが、ああいったものは非常に陰湿であり、ナチ的です。堀江さんの場合だと「イジメ」などというふざけた言葉で形容できる程レベルの低いものではないでしょうけどね。まあかといって新聞でしか情報を得ることができない私には堀江さんが具体的に何を行っていたのか知る術もありませんし、堀江さんを陥れるようなマネをした連中が居たとしてその連中が何をしていたのかも知ることはできないので、何も確実なことは言うことができません。
で、上の文章を書いたのは2011/04/26なんですが、2011/04/27の読売新聞の朝刊で堀江さんは検察にやられた的なことを言ったという記事が載ってますが……実態は私には計りかねます。
2:51 2011/04/27
略奪・強姦・殺人が平気でまかりとおる世界の到来を防ぐために。
2011/04/26に堀江貴文さんの実刑が最高裁での審議拒否が決定されたことにより確定しました。5年前の2006/04/27に堀江さんは東京拘置所から出所したそうですけど、twitterで堀江さんは「このタイミングで(皮肉まじりに)よくやってくれたよ」という内容のツイートを残していたそうです。最高裁で審査を行っていた人たちのその審査の結果、事がこの日にちに偶然なったというわけではなさそうですから、まあもし故意にこの日にちが決定されたというのならちょっと酷い話ではあると私は思います。……私の感覚で言うと、過度の事業展開欲?ヒットラーのような復讐欲?そういった何らかの目的でもない限り、そんなに多量のお金を必要とするもしくは金欲を持ち合わせている一個人が存在するなんてことは考えられないんですね。私とて統合失調症用の抗精神病薬というものを長期間服薬していた身なので理解できたことなのですが、最近の事件で言うと秋葉原通り魔の加藤智大さんが行ってしまった愚行の如く、「人の心はカネで買える」等問題発言や巨大資本を利用しての攻撃的で連続的な企業買収?や裁判の争点になったようなそういった行い(証券取引法違反?私はこれらに関して詳しくないので何も言えないのですが)、を行わなければいけない程に何らかの手法によって追い詰められていた(る)んではないでしょうかと疑いを持ちたくなります。そういったことを行わなければ企業の経営が成り立たなくなる程に汚いやり方で陰湿な攻撃をされた(る)ということです。いわゆる「潰し」です。
で、2011/04/26の読売新聞の夕刊の社会面に「市場を欺いたなんとか罰だ」みたいなたわけたバカ見出しで記事が載ってるんですけど、市場というのは各企業がその利潤最大化を追求してその結果生成される現在進行形なものなわけですね?だから堀江さんは企業が最大の利潤を生み出すべく行動していてそれが法に触れて、そしてその結果云々(このあたりについては具体的知識が無いので何も言えない)ということになって実刑が確定したということになったわけですね。「法に触れなければ何をやってもいい」というのは堀江さんの発言だそうですが、これは極めて「市場的」なものです。よって、もし仮に何らかの手法で堀江さんを陥れた連中が存在するのならば、その連中が行っていることが「市場を欺いている」わけであり、もっと極端に言えば法律が「市場を欺いている」わけです。堀江さんの発言内容や行動は「市場を欺いて」いるどころか極めて「市場的」です。そしてこれを多くの学者や知識人は「anarchism(無政府主義)」と呼びます。そして私はこれには決定的に反対です。先の記事で書いたように、過度の計画経済により運営される社会主義国家はいろいろな意味で(民衆が)悲惨ですが、anarchismはanarchismでpiratesの天下であり、極めて理想論を言うのならばinvisible handによる形而上的には一種共産主義とも呼べる「神の国」とでもいったところのものがあり得るかもしれませんが、現実的に考えてそりゃもう長期的スパンにおいて文明は破壊されて略奪・強姦・殺人なんでもありの原始時代に逆戻り、という状態になること請け合いです。だから私はいわゆる「小さな政府」もしくは「小さめの政府」が現実的な意味で理想的であり、これについてはアメリカのHenry Alfred Kissinger氏もこの間おっしゃってました。
新聞記事に書いてあるとおり「法に触れなければ何をやってもいい」ようなことを堀江さんが行ったというのならばそれはやはり問題だとは思います。しかし、問題のポイントは先にも言った様にそれは堀江さんの本意なのかどうかということです。
私の場合だとこういった危害の実態というものは統合失調症用の抗精神病薬というもので知ることができました(それが主作用であるにしろ副作用であるにしろ)。普通に人間関係のイロハについて分かっている人間ならば本心から「人の心はカネで買える」なんてことを考えるわけがないんですね。しかもこの発言によって堀江さんが享受するメリットは現行の日本の社会では皆無に等しく、そして且つ堀江さんは東京大学文学部中退ですから非常に高い確率でこういったことが理解できないような頭の持ち主ではないでしょう、よってそういった発言が堀江さんの本心からだとはちょっと考えられません。私はクリスチャンの人みたいに博愛精神持ち合わせているわけではないですけど、かといって「人の心はカネで買える」とは考えられません。
つまりはどういうことかと言うと、非常に単純化して分かりやすく言えば子供のイジメみたいなもんです。ああいう子供時代のイジメを好む人間というものは、悪人を作り出して仕立て上げて攻撃の対象として作り上げるということを常套手段として用います。ちなみに私も子供の頃はこういったものに適度に参加していた人間なのでまったくもって反省とともに偉そうなことを言える筋合いなど持たないのですが、ああいったものは非常に陰湿であり、ナチ的です。堀江さんの場合だと「イジメ」などというふざけた言葉で形容できる程レベルの低いものではないでしょうけどね。まあかといって新聞でしか情報を得ることができない私には堀江さんが具体的に何を行っていたのか知る術もありませんし、堀江さんを陥れるようなマネをした連中が居たとしてその連中が何をしていたのかも知ることはできないので、何も確実なことは言うことができません。
で、上の文章を書いたのは2011/04/26なんですが、2011/04/27の読売新聞の朝刊で堀江さんは検察にやられた的なことを言ったという記事が載ってますが……実態は私には計りかねます。
2:51 2011/04/27
laissez-faire
2011.05.04 Wednesday
自由の女神は賊にあらず。
前回の話と少し絡めて。
北斗の拳的な世界の到来を危惧(?)、まあ話のネタとして挙げつらねただけかもしれませんが、してらっしゃる方がいらっしゃるんですけど、それは普通に考えて有り得ないのではないかと思います。あれはやはり所詮昔の週間少年ジャンプによくありがちだったようなマンガの典型的な世界構築です。仮にも福島県の放射能汚染地域に犯罪者等が住み着いたところで、特定の物理的に隔離された環境に住み着いていた人たちだって、よっぽと馬鹿な人間でない限りは、普通に人間社会というか人間が織り成すコミュニティーというものがどういうものか理解しているなら、その閉鎖された内部で協力できるところは協力し合って一定の秩序に基づいたものを形成しようと試みるでしょう。その方がその当該コミュニティーに所属する人間としては結果個々人が享受するメリットが、北斗の拳的な個々人同士の露骨な殺し合いの状態よりははるかに大きいからです。あくまでこういった秩序、具体的に言えば法制度その他ですね、あくまでこういったものの規制の範疇で各経済主体がその能力を最大限に発揮して社会を形成していこう、というのがまあおおまかに言ったところの自由主義的経済(史)観というものです。北斗の拳というマンガだとかああいった類のものというのは、それに反対する人たちが当時の子供たちに恐怖感とともにそれに反対する価値意識を植えつけようとロクでもない残虐表現等で必死にアピールしていた類のものなわけですね。その証拠に私が高校生(14~15年前)の時に北斗の拳はもう既にギャグマンガとして読まれてましたし、プレステ等で露骨にギャグ路線で狙ったゲームが発売されてましたね。なんというか今も昔も子供には見せたくないマンガのナンバー1です。大人が気晴らしに読むんだったらいいでしょうけどね。で、現実世界でどういった人間たちがケンシロウの敵であるヒャッホーなお兄さんたちのようにそういった暴力行為をはたらくかと言えば、崩壊したソ連邦やナチスやポル・ポトが行っていたような、laissez-faireとは真逆なものを支持する人間たちです。ちなみにヒットラー個人は一概にこれに該当するとは言えない、“Mein Kampf”(「わが闘争」)を読まれたし。2011/04近辺で言えばカダフィ大佐でありムバラク大統領であり、これはちょっとご本人に大変失礼なので言いにくいのですが西村博之さんもそうでしょうし、あの性格カルト宗教の教祖もその一員です。で、何故連中が自由主義的経済(史)観をあの手この手で否定しようと試みるかといえば、ナチス支配下の強制収容所でもラーゲリでもポル・ポトが行っていた大虐殺でも、カダフィの一般市民を盾に兵器を隠したり篭城させて虐殺したりという行為でもネットの2ちゃんねる上でも性格レッテル貼りでも非常によく観察され得ることですが、anti-laissez-faireな状況下においては暴力によって自分たちの無能力さを隠せる上に暴力という最高に気持ちのいい行為に一種合法的に及ぶことができるからです。だからその意味では自由主義的経済(史)観を持つ人々であっても、「法に触れなければ何を行ってもよい」というスタンスの堀江貴文さんのような人間は、これは経済学者が数理的に導出してくれる、というかおそらくもうとうに結果は出ているものと思いますが、社会全体にとっては損益となるので、取り締まられるという方向へと傾くでしょう。そして、私が今説明したようなことを実証してくれるのが、ほとんど全ての自然科学であり、論理実証主義を価値意識の基本スタンスにしている主に実証的な科学者の人たち(の存在)です。否定的になニュアンスがこもるのでこういった表現はあまり使いたくないのですが、いわゆる「調べ屋さん」です。そして論理実証主義性向と数学を理解し問題を解決する能力の高さというものは基本的に負の相関を示しています。ちなみに私はあまり論理実証主義的な人間ではありません、つまり私にも他者に対する暴力意識というものはきちんと存在しています、数学もそれなりに出来る方です。そしてそもそも完璧に自分の日常生活の隅々にまで論理実証主義的な価値意識を浸透させた人間というのは、その存在からして疑わしいですし、日常会話なんかできないでしょうし、当然の如くギャグは通じませんし、メチャメチャ頭の悪い人間に見えるでしょう。ちょっとそれるんですが、養老孟司さんという方は、非常に科学者らしからぬ科学者です。非常に非論理実証主義的です。だから「頭だけはなく、体で考える」といった類のことを提唱しておられますし、一種科学者としての思考に必須のものでありまた自然科学の発展とその技術の社会浸透つまるところinnovation(※)に必須のものである自由主義的経済(史)観・laissez-faireひいてはアメリカ的個人主義のメタファーとしての「壁」を否定し「バカの壁」という本を出版されておりました。別に養老孟司さんがcommunistだとかそういうことではないでしょう。これは私の勝手な予測ですが、養老孟司さんは超数学の出来る人ではないかと思っております(東京大学医学部卒ですしね)。もちろん私はただの一般人なので養老孟司さんを個人的に存じ上げているような立場の人間ではないのですが、おそらくこの方は雑談をすれば戦前生まれのあの世代の人間としては奇特なほどに面白いトーキングを交わすことのできる人間なのではないかと思われます。これはその世代の人間としては故三島由紀夫などもそういった人である可能性が高いです。三島由紀夫氏はご存命であれば85歳ですが、あの時代を生きていた人間としては考えられない程に、我々の世代がその著作を読んでもギャグ的な意味でも他者に対する皮肉観あふれる感性といえども充分にそれを満喫できるものです。これは18~20世紀の大学者を参考にすれば分かりやすいと思われますが、数学のみならず哲学やその他の学問にしてもそうです。関係ないですが、私が学生時代に所属していた学部は社会科学系の学部だったのでですが、自然科学系の人たちは当然データを実験や観察によって抽出しなければ研究も何もお話になりませんということなので分かる話なのですが、社会科学系で論理実証主義者を自称している人たち(学者)が居るんですね。こういった人たちは基本的に言っちゃ悪いですが頭が悪い傾向にあります。特に経済学部ではなく、法学部は別として、経営学部や商学部等や低層の私立大学に見られるような如何にも狙って間違えちゃったカタカナ語のネーミングの学部(?)、学として必須のものであるモデルを持たない学と呼べるようなものであるかどうかも疑わしいような「学」をその生業としている学部所属の学者にこういった人間が散見されます。どこの何だか分からない下手すりゃそれが事実である確証の無いデータを誤情報だらけのネットから取ってきて、わけのわからん性向のmeasureに当てはめてさらにそこから傾向作り出して、ハイ実証できましたとか「アンタそれぜんぜん実証になってないから」とツッコミたくなるような内容も私は学生時代多々教わりました。しかしそれには該当しない人たちとして、例えば、いわゆるシンクタンク所属の研究者でそういった方がいらっしゃいます。この人テレビ等にも出演されているようなんですが、例えばニッセイ基礎研究所という企業に矢嶋康次さんという方がいらっしゃるんですが、私はこの方の講演(講義)を何回も受けたのですが、かなり有益な情報を与えていただきました。こういった人たちはおもむろに「経済学系」なんですね。
まあともかく、我々日本人とて物理的に隔離された島国でそういった社会を形成している(た)人間集団です。だからちょっと北斗の拳を例示的に引き合いにだしてそういった説明に引き合いに出すのは見当外れです。
※innovationとは、単なる新技術開発や技術革新のことを指すのではなく、それらがおおまかにでも社会の全体に行き渡りspilloverが大部分完了した時点で、それをinnovationと呼ぶものである。
前回の話と少し絡めて。
北斗の拳的な世界の到来を危惧(?)、まあ話のネタとして挙げつらねただけかもしれませんが、してらっしゃる方がいらっしゃるんですけど、それは普通に考えて有り得ないのではないかと思います。あれはやはり所詮昔の週間少年ジャンプによくありがちだったようなマンガの典型的な世界構築です。仮にも福島県の放射能汚染地域に犯罪者等が住み着いたところで、特定の物理的に隔離された環境に住み着いていた人たちだって、よっぽと馬鹿な人間でない限りは、普通に人間社会というか人間が織り成すコミュニティーというものがどういうものか理解しているなら、その閉鎖された内部で協力できるところは協力し合って一定の秩序に基づいたものを形成しようと試みるでしょう。その方がその当該コミュニティーに所属する人間としては結果個々人が享受するメリットが、北斗の拳的な個々人同士の露骨な殺し合いの状態よりははるかに大きいからです。あくまでこういった秩序、具体的に言えば法制度その他ですね、あくまでこういったものの規制の範疇で各経済主体がその能力を最大限に発揮して社会を形成していこう、というのがまあおおまかに言ったところの自由主義的経済(史)観というものです。北斗の拳というマンガだとかああいった類のものというのは、それに反対する人たちが当時の子供たちに恐怖感とともにそれに反対する価値意識を植えつけようとロクでもない残虐表現等で必死にアピールしていた類のものなわけですね。その証拠に私が高校生(14~15年前)の時に北斗の拳はもう既にギャグマンガとして読まれてましたし、プレステ等で露骨にギャグ路線で狙ったゲームが発売されてましたね。なんというか今も昔も子供には見せたくないマンガのナンバー1です。大人が気晴らしに読むんだったらいいでしょうけどね。で、現実世界でどういった人間たちがケンシロウの敵であるヒャッホーなお兄さんたちのようにそういった暴力行為をはたらくかと言えば、崩壊したソ連邦やナチスやポル・ポトが行っていたような、laissez-faireとは真逆なものを支持する人間たちです。ちなみにヒットラー個人は一概にこれに該当するとは言えない、“Mein Kampf”(「わが闘争」)を読まれたし。2011/04近辺で言えばカダフィ大佐でありムバラク大統領であり、これはちょっとご本人に大変失礼なので言いにくいのですが西村博之さんもそうでしょうし、あの性格カルト宗教の教祖もその一員です。で、何故連中が自由主義的経済(史)観をあの手この手で否定しようと試みるかといえば、ナチス支配下の強制収容所でもラーゲリでもポル・ポトが行っていた大虐殺でも、カダフィの一般市民を盾に兵器を隠したり篭城させて虐殺したりという行為でもネットの2ちゃんねる上でも性格レッテル貼りでも非常によく観察され得ることですが、anti-laissez-faireな状況下においては暴力によって自分たちの無能力さを隠せる上に暴力という最高に気持ちのいい行為に一種合法的に及ぶことができるからです。だからその意味では自由主義的経済(史)観を持つ人々であっても、「法に触れなければ何を行ってもよい」というスタンスの堀江貴文さんのような人間は、これは経済学者が数理的に導出してくれる、というかおそらくもうとうに結果は出ているものと思いますが、社会全体にとっては損益となるので、取り締まられるという方向へと傾くでしょう。そして、私が今説明したようなことを実証してくれるのが、ほとんど全ての自然科学であり、論理実証主義を価値意識の基本スタンスにしている主に実証的な科学者の人たち(の存在)です。否定的になニュアンスがこもるのでこういった表現はあまり使いたくないのですが、いわゆる「調べ屋さん」です。そして論理実証主義性向と数学を理解し問題を解決する能力の高さというものは基本的に負の相関を示しています。ちなみに私はあまり論理実証主義的な人間ではありません、つまり私にも他者に対する暴力意識というものはきちんと存在しています、数学もそれなりに出来る方です。そしてそもそも完璧に自分の日常生活の隅々にまで論理実証主義的な価値意識を浸透させた人間というのは、その存在からして疑わしいですし、日常会話なんかできないでしょうし、当然の如くギャグは通じませんし、メチャメチャ頭の悪い人間に見えるでしょう。ちょっとそれるんですが、養老孟司さんという方は、非常に科学者らしからぬ科学者です。非常に非論理実証主義的です。だから「頭だけはなく、体で考える」といった類のことを提唱しておられますし、一種科学者としての思考に必須のものでありまた自然科学の発展とその技術の社会浸透つまるところinnovation(※)に必須のものである自由主義的経済(史)観・laissez-faireひいてはアメリカ的個人主義のメタファーとしての「壁」を否定し「バカの壁」という本を出版されておりました。別に養老孟司さんがcommunistだとかそういうことではないでしょう。これは私の勝手な予測ですが、養老孟司さんは超数学の出来る人ではないかと思っております(東京大学医学部卒ですしね)。もちろん私はただの一般人なので養老孟司さんを個人的に存じ上げているような立場の人間ではないのですが、おそらくこの方は雑談をすれば戦前生まれのあの世代の人間としては奇特なほどに面白いトーキングを交わすことのできる人間なのではないかと思われます。これはその世代の人間としては故三島由紀夫などもそういった人である可能性が高いです。三島由紀夫氏はご存命であれば85歳ですが、あの時代を生きていた人間としては考えられない程に、我々の世代がその著作を読んでもギャグ的な意味でも他者に対する皮肉観あふれる感性といえども充分にそれを満喫できるものです。これは18~20世紀の大学者を参考にすれば分かりやすいと思われますが、数学のみならず哲学やその他の学問にしてもそうです。関係ないですが、私が学生時代に所属していた学部は社会科学系の学部だったのでですが、自然科学系の人たちは当然データを実験や観察によって抽出しなければ研究も何もお話になりませんということなので分かる話なのですが、社会科学系で論理実証主義者を自称している人たち(学者)が居るんですね。こういった人たちは基本的に言っちゃ悪いですが頭が悪い傾向にあります。特に経済学部ではなく、法学部は別として、経営学部や商学部等や低層の私立大学に見られるような如何にも狙って間違えちゃったカタカナ語のネーミングの学部(?)、学として必須のものであるモデルを持たない学と呼べるようなものであるかどうかも疑わしいような「学」をその生業としている学部所属の学者にこういった人間が散見されます。どこの何だか分からない下手すりゃそれが事実である確証の無いデータを誤情報だらけのネットから取ってきて、わけのわからん性向のmeasureに当てはめてさらにそこから傾向作り出して、ハイ実証できましたとか「アンタそれぜんぜん実証になってないから」とツッコミたくなるような内容も私は学生時代多々教わりました。しかしそれには該当しない人たちとして、例えば、いわゆるシンクタンク所属の研究者でそういった方がいらっしゃいます。この人テレビ等にも出演されているようなんですが、例えばニッセイ基礎研究所という企業に矢嶋康次さんという方がいらっしゃるんですが、私はこの方の講演(講義)を何回も受けたのですが、かなり有益な情報を与えていただきました。こういった人たちはおもむろに「経済学系」なんですね。
まあともかく、我々日本人とて物理的に隔離された島国でそういった社会を形成している(た)人間集団です。だからちょっと北斗の拳を例示的に引き合いにだしてそういった説明に引き合いに出すのは見当外れです。
※innovationとは、単なる新技術開発や技術革新のことを指すのではなく、それらがおおまかにでも社会の全体に行き渡りspilloverが大部分完了した時点で、それをinnovationと呼ぶものである。
LOW NUTRITION AND HIGH CALORIES, who know nothing but doing their bests in vain
2011.05.09 Monday
炭水化物的人種。
目先のことしか見ようとしない日本人(の大部分)。
即時的。即物的。エネルギーの配分を考えない、考えられないから一瞬で熱化して一瞬でエネルギー切れ。これもまた機会主義性向の一。意味がパラ化するがさすがにこの意味では東京電力はライフラインを担うだけあってしっかりした企業、きちんと我々は今でも電力の恩恵に与ることができている。
この記事においてはもうバカだとかなんだとかは言わない。これが風土その他に根付く民族性なのだとしたら非常に悲しいことである。
原子力発電所の存在を、またこれを鬼の首を取ったかの如く、機会主義的に叩いている連中が居るんですけど、少なくとも現行の日本の社会では全供給電力のうち最低でも3割前後は原子力発電によってまかなわれているんですが、原発が無くなったらどうなるか分かってるんですかね?
政治家やエコノミストではなくその専門の技術者の方に伺えばおそらく分かりますが、風力発電所や水力発電所は発電量が非常に少なく建設には多額の費用も時間もかかりますので、少なくとも短期的なスパンではこれによる代替は無理ですので、仮に現在の原発による電力供給量の全てを火力その他の供給源により仮にまかなえるとして、大気その他環境は汚れ放題でそれら汚染その他により結果回りまわって自分たちが損をして首を絞めることになるどころか海外の人たちに迷惑がかかることになるんですけど、原子力発電所による電力供給に反対している人たちは自分たちが天に向かってツバを吐いていることを理解できないんですかね?
たしかに原子力発電所は非常に低い確率でのmeltdownによって周囲の土地に被害を与える危険性はその威力からして非常に高いですが、それを計算に入れても火力発電による環境汚染よりははるかにリスクが少ないです。そりゃ原子力発電所は非常に低確率で起こるmeltdownによるradioactivityの放散という環境へのリスクが存在しますが、火力発電所にも正常運転においてすらCO2を筆頭として環境の体形を崩して破壊さしめてしまうほどのリスクを環境に負わせるだけの能力が存在します。「日本からのradioactivityはボーダーレスに全世界に波及して汚しちゃうかもしんないからゴメンなちゃいね?」、とか言ってられるレベルではなく、火力発電においてはその正常運転下においてもガンガン大気を汚染してゆき、「borderlessがどうこう」のレベルではなく環境汚染が当然の如く全世界へ向けて負のspilloverしてゆくということです。もし原発事故の放射能で全世界が汚染されるというのであればチェルノブイリ原発事故を待つまでもなく、1945/08/06~1945/08/09~もしくはそれ以前に地球上の生物はほぼ絶滅していたでしょう。そして原子力発電は"Nuclear power plants do not spill out radioactivity all over the globe. "というわけで事故が無ければ火力とは比べ物にならない程にクリーンなエネルギー供給源です。
もうこういったことは全て経済学者・エコノミストが算出してくれます。素人の私にはあまり確実なことは言えませんが、経済学には環境経済学という分野があるので、おそらくその類の研究者の人たちがもうとっくに数値で弾き出してくれています。ひょっとしたらおそらくこういった事故が起こる前々から既に。
ドイツでも2011/03/11の日本での事故以来原発の増設の検討見直しとかなんとかいうニュースを読んだか見たかしましたけど、まあ本当かどうかちょっと分かりませんが、ちょっとなに考えてるんだか私には分かりません。
で、実際に原子力発電所が破壊されたことにより被害をこうむっている近隣住民の方々がいらっしゃいます。もちろんこういった人たちには東京電力や国その他地方自治体が補償を行わなければいけないでしょう。が、その責任を東京電力という企業ひとつにひっ被せてどうするんですかね。「それでも東京電力は潰れない」とかなんとかの週刊誌の見出しかなんか見たんですけどそんなもの当たり前です。少なくとも首都の電力供給の全てをまかなう発電所の管理を行っている企業が潰れたらどうなるか分からないんですかね?仮に民間企業を勘定に入れなくても国の機能の全てが破綻します。伝書鳩さんなんかいません。ロウソクの火とかも苦しいですね。下手すりゃ女子供は夜外歩けません。そうでなくてもライフラインによる生活に最低限必要なものの供給が不安定になるならまだしも断たれたら(どこの国でもそうですが)一瞬でこの国は終わりです。全てが止まります。東京大空襲?ファット・マン?リトル・ボーイ?現行の日本の社会においてはそんなものの比では済まないような被害が想定されるでしょう。それこそ北斗の拳の世界がtemporaryにでも到来します。
東京電力の社員をリストラ?新聞は(何処の誰の怒りを代弁しているのだか知りませんが)東電の社員のリストラを前提として東京電力の経営の再建を図るだとか報道してますけど、そんなことを行っても少なくとも短期的には企業の業務遂行能力の低下を招いてこの放射能拡散状態という危機の事態をさらなる危機にさらして悪化させるだけです。その「東電が悪い!東電が悪い!」とここぞとばかりに日頃の不満の捌け口に怒っている人たちにとっても大きな損益となるわけです。こういうこと分からないんですかね?それとも頭の悪い人向けにマスコミはそういった悪質な報道で稼ごうとしてるだけなんですかね?私は専門家ではないので確実なことは言えませんが、何か対策を施すのであれば国が東電に直接資金援助をするか何らかの手段(株式取得買い上げ?国債発行?可能であるのか知りませんが)によって東京電力という企業を結果として(半)国有化するという方向へと持っていくしかないでしょう。ライフラインの国有化?いいんじゃないですか?ライフラインまで市場原理にさらされたら貧しい人たちは下手をすれば生きていけなくなります。それをタネにカネを儲けよう、ともすれば悪質なビジネスモデルを作り上げようとする連中が非常に高い確率で現れるからです。半ではなくて完全に国有化されれば、国民総背番号制というものもありましたが、現在の様に消費量に応じてというのではなく所得に応じたそれらに対するそれぞれの価格というものを累進課税制度の様に取り決めることも可能になるでしょう。ガスはともかくとして貧しい人たちに無理して水道や電気の料金を払ってもらっても誰の利益にもならないでしょう、非常に多額のカネを持っているのに一円でも他人なんかの為に使うのは惜しいという拝金主義者にとって以外にはね。
ちなみに大方の経済学者・エコノミストは計画停電など行わずに、電気料金を吊り上げればというか電力の供給が足りない分相応に吊り上るに決まってんだろ、よって価格の上昇分電力の需要が減るのでそれで問題解決と言うでしょうが、これは中所得者層以上の人たちにとっては大した負担にはならないので彼らにとっては何も問題無いということになるでしょうが、低所得者層の貧しい人たちにとってはやはりその所得の低さに応じてその負担率の度合いが増してゆき負担となってゆくのでこれは思いっ切りバッシングの対象となるでしょう。詳しい課金体制の内容をきちんと説明しない限りは。ちなみにこれを東電救済だとか言ったたわけた解釈を見ましたが、これは単なる問題解決手段の一であると同時に、電力料金吊り上げ(がり)とは関係なく何度も言いますが東京電力を救済しなかったらライフラインとしての電力供給が不安定になる、どころかストップしたならば一瞬でこの国は終わりです。
これはいたる所で流れているんで有名な話なんでしょうけど、私も知人に直接聞いたんですけど、日立や東芝(?)の技術者の人たちに被害にあった発電所の管理を丸投げして、そして彼らから事前にこの状況での原発の運営は危険だ危険だと言われていたにもかかわらずそれを東電の経営者上層部の人たちは放置していたみたいですね。まあ噂話なんで本当かどうかは分かりませんけど。しかしこういったことはおそらく私も含めて一般の人たちに「これが答えである」といって何らかの形で示されるほどには、経費の問題等や外部圧力その他政治チックな話もあるでしょうし簡単にどうこうといって解決できるような簡単な問題ではないのではないかと思いますけどね。
つまりそういった人たちが東京電力の管理の甘さを問題にして議論を行うというのならばまだ理解できますが、原子力発電所の存在そのものを無根拠に時流のノリだけで否定する人たちというのはちょっと申し訳ないですけどどうしようもないです。
……最後に一つ。渋谷のプラカード。世界のあらゆる国々の人たちが日本を助けようと、またアメリカの兵隊さんが行ってくれたように助けてくれたわけですから、from Japan to the World "SORRY" ではなく from Japan to the World "THANKS" です。この辺をいっつも日本人は間違える、というかまったく分かっていないので、だから欧米の人たちやその他中国の人たち等にも「(国際社会において)ツケ入る隙をワザワザ与えてくれるのかい, Ha, Ha」とか「なんだこいつら」とか下手をすればバ……とかさらに最悪なことにはfuc…n'…apとか言われたりするわけです。そしてそのツケ入れられの責任を負わされるのはもう決まって政治家の人たちということになってるんですが、いいんですかねコレは。
目先のことしか見ようとしない日本人(の大部分)。
即時的。即物的。エネルギーの配分を考えない、考えられないから一瞬で熱化して一瞬でエネルギー切れ。これもまた機会主義性向の一。意味がパラ化するがさすがにこの意味では東京電力はライフラインを担うだけあってしっかりした企業、きちんと我々は今でも電力の恩恵に与ることができている。
この記事においてはもうバカだとかなんだとかは言わない。これが風土その他に根付く民族性なのだとしたら非常に悲しいことである。
原子力発電所の存在を、またこれを鬼の首を取ったかの如く、機会主義的に叩いている連中が居るんですけど、少なくとも現行の日本の社会では全供給電力のうち最低でも3割前後は原子力発電によってまかなわれているんですが、原発が無くなったらどうなるか分かってるんですかね?
政治家やエコノミストではなくその専門の技術者の方に伺えばおそらく分かりますが、風力発電所や水力発電所は発電量が非常に少なく建設には多額の費用も時間もかかりますので、少なくとも短期的なスパンではこれによる代替は無理ですので、仮に現在の原発による電力供給量の全てを火力その他の供給源により仮にまかなえるとして、大気その他環境は汚れ放題でそれら汚染その他により結果回りまわって自分たちが損をして首を絞めることになるどころか海外の人たちに迷惑がかかることになるんですけど、原子力発電所による電力供給に反対している人たちは自分たちが天に向かってツバを吐いていることを理解できないんですかね?
たしかに原子力発電所は非常に低い確率でのmeltdownによって周囲の土地に被害を与える危険性はその威力からして非常に高いですが、それを計算に入れても火力発電による環境汚染よりははるかにリスクが少ないです。そりゃ原子力発電所は非常に低確率で起こるmeltdownによるradioactivityの放散という環境へのリスクが存在しますが、火力発電所にも正常運転においてすらCO2を筆頭として環境の体形を崩して破壊さしめてしまうほどのリスクを環境に負わせるだけの能力が存在します。「日本からのradioactivityはボーダーレスに全世界に波及して汚しちゃうかもしんないからゴメンなちゃいね?」、とか言ってられるレベルではなく、火力発電においてはその正常運転下においてもガンガン大気を汚染してゆき、「borderlessがどうこう」のレベルではなく環境汚染が当然の如く全世界へ向けて負のspilloverしてゆくということです。もし原発事故の放射能で全世界が汚染されるというのであればチェルノブイリ原発事故を待つまでもなく、1945/08/06~1945/08/09~もしくはそれ以前に地球上の生物はほぼ絶滅していたでしょう。そして原子力発電は"Nuclear power plants do not spill out radioactivity all over the globe. "というわけで事故が無ければ火力とは比べ物にならない程にクリーンなエネルギー供給源です。
もうこういったことは全て経済学者・エコノミストが算出してくれます。素人の私にはあまり確実なことは言えませんが、経済学には環境経済学という分野があるので、おそらくその類の研究者の人たちがもうとっくに数値で弾き出してくれています。ひょっとしたらおそらくこういった事故が起こる前々から既に。
ドイツでも2011/03/11の日本での事故以来原発の増設の検討見直しとかなんとかいうニュースを読んだか見たかしましたけど、まあ本当かどうかちょっと分かりませんが、ちょっとなに考えてるんだか私には分かりません。
で、実際に原子力発電所が破壊されたことにより被害をこうむっている近隣住民の方々がいらっしゃいます。もちろんこういった人たちには東京電力や国その他地方自治体が補償を行わなければいけないでしょう。が、その責任を東京電力という企業ひとつにひっ被せてどうするんですかね。「それでも東京電力は潰れない」とかなんとかの週刊誌の見出しかなんか見たんですけどそんなもの当たり前です。少なくとも首都の電力供給の全てをまかなう発電所の管理を行っている企業が潰れたらどうなるか分からないんですかね?仮に民間企業を勘定に入れなくても国の機能の全てが破綻します。伝書鳩さんなんかいません。ロウソクの火とかも苦しいですね。下手すりゃ女子供は夜外歩けません。そうでなくてもライフラインによる生活に最低限必要なものの供給が不安定になるならまだしも断たれたら(どこの国でもそうですが)一瞬でこの国は終わりです。全てが止まります。東京大空襲?ファット・マン?リトル・ボーイ?現行の日本の社会においてはそんなものの比では済まないような被害が想定されるでしょう。それこそ北斗の拳の世界がtemporaryにでも到来します。
東京電力の社員をリストラ?新聞は(何処の誰の怒りを代弁しているのだか知りませんが)東電の社員のリストラを前提として東京電力の経営の再建を図るだとか報道してますけど、そんなことを行っても少なくとも短期的には企業の業務遂行能力の低下を招いてこの放射能拡散状態という危機の事態をさらなる危機にさらして悪化させるだけです。その「東電が悪い!東電が悪い!」とここぞとばかりに日頃の不満の捌け口に怒っている人たちにとっても大きな損益となるわけです。こういうこと分からないんですかね?それとも頭の悪い人向けにマスコミはそういった悪質な報道で稼ごうとしてるだけなんですかね?私は専門家ではないので確実なことは言えませんが、何か対策を施すのであれば国が東電に直接資金援助をするか何らかの手段(株式取得買い上げ?国債発行?可能であるのか知りませんが)によって東京電力という企業を結果として(半)国有化するという方向へと持っていくしかないでしょう。ライフラインの国有化?いいんじゃないですか?ライフラインまで市場原理にさらされたら貧しい人たちは下手をすれば生きていけなくなります。それをタネにカネを儲けよう、ともすれば悪質なビジネスモデルを作り上げようとする連中が非常に高い確率で現れるからです。半ではなくて完全に国有化されれば、国民総背番号制というものもありましたが、現在の様に消費量に応じてというのではなく所得に応じたそれらに対するそれぞれの価格というものを累進課税制度の様に取り決めることも可能になるでしょう。ガスはともかくとして貧しい人たちに無理して水道や電気の料金を払ってもらっても誰の利益にもならないでしょう、非常に多額のカネを持っているのに一円でも他人なんかの為に使うのは惜しいという拝金主義者にとって以外にはね。
ちなみに大方の経済学者・エコノミストは計画停電など行わずに、電気料金を吊り上げればというか電力の供給が足りない分相応に吊り上るに決まってんだろ、よって価格の上昇分電力の需要が減るのでそれで問題解決と言うでしょうが、これは中所得者層以上の人たちにとっては大した負担にはならないので彼らにとっては何も問題無いということになるでしょうが、低所得者層の貧しい人たちにとってはやはりその所得の低さに応じてその負担率の度合いが増してゆき負担となってゆくのでこれは思いっ切りバッシングの対象となるでしょう。詳しい課金体制の内容をきちんと説明しない限りは。ちなみにこれを東電救済だとか言ったたわけた解釈を見ましたが、これは単なる問題解決手段の一であると同時に、電力料金吊り上げ(がり)とは関係なく何度も言いますが東京電力を救済しなかったらライフラインとしての電力供給が不安定になる、どころかストップしたならば一瞬でこの国は終わりです。
これはいたる所で流れているんで有名な話なんでしょうけど、私も知人に直接聞いたんですけど、日立や東芝(?)の技術者の人たちに被害にあった発電所の管理を丸投げして、そして彼らから事前にこの状況での原発の運営は危険だ危険だと言われていたにもかかわらずそれを東電の経営者上層部の人たちは放置していたみたいですね。まあ噂話なんで本当かどうかは分かりませんけど。しかしこういったことはおそらく私も含めて一般の人たちに「これが答えである」といって何らかの形で示されるほどには、経費の問題等や外部圧力その他政治チックな話もあるでしょうし簡単にどうこうといって解決できるような簡単な問題ではないのではないかと思いますけどね。
つまりそういった人たちが東京電力の管理の甘さを問題にして議論を行うというのならばまだ理解できますが、原子力発電所の存在そのものを無根拠に時流のノリだけで否定する人たちというのはちょっと申し訳ないですけどどうしようもないです。
……最後に一つ。渋谷のプラカード。世界のあらゆる国々の人たちが日本を助けようと、またアメリカの兵隊さんが行ってくれたように助けてくれたわけですから、from Japan to the World "SORRY" ではなく from Japan to the World "THANKS" です。この辺をいっつも日本人は間違える、というかまったく分かっていないので、だから欧米の人たちやその他中国の人たち等にも「(国際社会において)ツケ入る隙をワザワザ与えてくれるのかい, Ha, Ha」とか「なんだこいつら」とか下手をすればバ……とかさらに最悪なことにはfuc…n'…apとか言われたりするわけです。そしてそのツケ入れられの責任を負わされるのはもう決まって政治家の人たちということになってるんですが、いいんですかねコレは。
the "Amae"
2011.05.21 Saturday
甘え。
甘えでサーチするとfawnやwheedleといった動詞が出てくるが、これは明らかに日本語で表現される「甘え」とはニュアンスを異にする。
「助け合い」というのは非常に重要である。それは社会にとって有益であるばかりでなく、そもそも倫理的に言って人間として他者と助け合って生きるというのは基本的なところではないかと考えている。身近な例で言えば、例えば日常生活品の貸し借りなどである。今はもう失われてしまったが(田舎の方ではまだこういった光景も見られるのだろうか)、お隣さんと仲良くする、そして困った時は助け合う、ご老人や障害を持つ人たちを助ける、声を掛け合う、道ですれ違ったら挨拶をする、こういったものは私は非常に大切だと思っている。しかし、「助け合い」や「思いやり」といったものと「甘え」とは全く違う。
「甘え」というのは、精神的な他者に対する依存である。よって物理的な他者への加害行為なども含まれるし、心理的な他者への加害行為も余裕で含まれる。
土居健朗氏はその著書「『甘え』の構造」の中で日本人特有の甘えについて論じている。ちなみに土居健朗は非常な女性的人間である、「甘え」に対して肯定的な見解を示しているのだから。私は中国や韓国を訪れたことがないので、中国人の人や韓国人の人々がどうだか分からないが、これはおそらくモンゴロイドというよりは特殊な地理的要因、物理的に隔離された世界で生きてきた日本人という民族のどうしようもないみっともない習性なのである。近年ではもちろんこの国においてもこれは解消されてきている。が、先の記事で書いたように、ここへきてネットの普及でそのような連中がまた暴れだしてはいる。
暴力というものは、他者への甘えの最も単純な形での現れだが、二昔三昔前にいた不良少年少女というのは甘える子供の典型であり、好例である。甘えというものが如何なるものか知りたいという人は、まず不良少年の行動でも観察してみればいい。彼らは例外なく群れる。かといってそこで建設的関係を他者と結んでいるのかというと、そうではない。一見同盟を結びながら、彼らは中で互いに加害行為を行っている。仲間内でも愚かしいケンカ行為をしたりして、甘え合いながら仲良く殺し合いを行っているのである。もちろん部外者に対しては加害意識を丸出しにする、というか少々加害意識を通り越して恐れているような様子も見受けられる(これと日本人については後で述べる)。バイクで集団で暴走してみたり、ほれガンをつけただのなんだのといって人に絡んだり、というのは彼らの甘えを如実に表している。そして部外者の大人にまで身内の甘えが通じると思い込んでいる。だからもっと最悪の非行、性犯罪などへも平気で走る。中学生にでもなればこんなことは自覚していて当然なのだが、その先に被害者の望まない妊娠・出産というものが控えておりその責任を自分が取らなければならないという自覚が性犯罪者には全く無い。性犯罪というのは極限の甘えであると同時に最悪の重犯罪である。現実に奈落の底に突き落とされて地獄の苦しみを味わっている被害者の少女がいるのである。別に男性の性欲の存在自体は否定しない。これが無ければ人類は滅びる。ちなみに私は童貞であり、抗精神病薬の主作用によるものか副作用によるものかは不明だが、ほぼ完全なインポテンツである。しかし、同じ年齢層(私は2011/05/21現在30歳)の健常な男性とは比べ物にならないほどに性欲は薄く量も少なく、しかしまたそのような私にも物理的に精液は精巣に蓄積されるのでマスターベーションは不完全ながらも時々行う。そしてしかし、個人的な抑制能力の優劣により性欲が我慢できないというのであれば、アダルト映像・画像でも何でも見ていればいいのである。あの類のものに存在価値があるとすれば、その主なものの一つは性犯罪抑止効果をもたらすということである。問題は、その性欲のコントロール手段があるにも拘らず、それさえ出来ずに、暴力的に女性にそれを押し付けるというパラノイアックな女々しさにあるということである。もうそれ以前に強姦犯罪者というのは、レイプとセックスの意味内容の区別すらつかない幼児的な性欲を、それをコントロール出来ずにそれに振り回されている情け無い人間としか言い様がない。ちなみに、幼児的な性欲と言ったが、先のSigmund Freudはこれの一つの形態として肛門性欲というものを発見し、ひいては肛門性格というものを自らの学問モデルを為す要素の一つとして見出しながら研究を行っていた人である。簡略に分かり易く言うと誤謬を避けられないのだが、肛門性格者というのはその性欲にまつわる人間の精神の発展段階において幼いままで止まっている、もしくは幼い形での性欲を求める程に退行してしまっている(シュレーバーという人物をフロイトはパラノイアの代表例として挙げている)人間ということである。これらのことからも、これら不良少年連中がパラノイアと呼ばれ得ることが理解できるだろう。
また、いじめというのも、他者に甘える子供の好例である。自分より物理的に弱い相手に対して暴力性を向けることによってその他者に精神的甘えているのである。これは情けないことに大人になっても行おうとする者がいる。ところが大多数の人間は精神的に大人であり、他者に精神的に依存しておらず他人をいじめるなどという発想は無いので、彼らは次第に人々の間から疎外されていく。
ちなみに、少なくとも私の住む首都圏では彼ら不良少年少女はほとんど見なくなった。理由は、未成年者飲酒・喫煙取締りの強化などといったものも遠因としてあるかもしれないが、主にネットの存在である。一昔前のネット上でDQNという言葉で彼らが語られてしまっている様に、不良というのは現代においては若者達の間でダサいものの代名詞のようになってしまったからである。かといって潜在的に不良少年性を持った他者に精神的に甘える人間が減ったかというとそうではない。ためしにネットの掲示板でも何でも覘いてみればいい。彼らは荒らしやその他他人を罵倒するという形で相変わらず存在している。そして彼らはその中でも群れだす。先に挙げたネット上のパラノイア、まあ所謂おかしな連中などというものはその典型だろう。そこで彼らはまた他者に甘え続け自分たちの居場所である掲示板をも潰してしまった。そしてネット上で女性的な依存心で自分たちの精神的な他人への甘えそのもの自体をさらに求め同時に自分達の居場所を求め続けている。
ネットで他者を叩いている人間というのは、仮想世界上ですらどこの誰だか分からない人間に甘えている低級な生き物だが、さらに低級なのは実在の人物を叩いたり貶めたりしている人間である。これはもう精神的に甘える対象を探して彷徨っている、甘える対象を求めるためにネットを利用しているとしか言い様が無い。輪を掛けてこれよりはるかに低級、というか低俗なのが、漫画やアニメなど創作表現の中に登場するキャラクターを叩いて貶めている連中である。もうこれに関してはどうしようもないとしか言い様が無い。アニメのキャラクターにまで甘えているのである。これはオタク云々という問題ではない。そういう問題ではない上に、そもそもオタクの人々はそのようなこと行いたがらない。もう粘着滲みたパラノイア、おかしな連中としか言い様が無い。
子供を虐待する親というのは他者に甘えながら大人になった人間の中でも最悪の部類であるが、これは他者への精神的甘えを捨てきれず幼い自分の子供にすら甘えるような人間である。それで子供が自分を避けるようになるとさらに虐待の度合いを加速させる。要するに「おれもおまえに甘えるから、おまえもおれに甘えろ!(しかも限りなく自分に都合のいい形で)」と言っているわけである。はっきり言ってクズである。ネットのどこかで、親になる為にも自動車の運転免許の様に免許を必要とする様にして欲しいという意見を見たことがあるが、突飛過ぎてはいるだろうがまあもっともな話ではある。
冷たいようだが、自分の子供を虐待する親の子供というのはその自分の子供を虐待する人間の遺伝子を受け継いでおり、人類(生物)の進化ということを考えた場合にその子供の滅びは必然的と言えば必然的であり、自分の子供を虐待するような親が自分の子供を虐待するという行為は然りと言えば然りな話である。劣等な遺伝子は滅びる様に出来ているのである。
彼ら互いに甘えあうパラノイアにとって、精神的に甘えない自立した人間というのは気に入らないようである。「どうして自分は精神的に甘えているのにこいつは甘えないんだ、自分は『他人!他人!他人!他人なんて気に入らない!他人なんて許せない!自分はこんなにすごい!自分はこんなに苦労した!だから自分が!自分だけがー!』と思っているのに、なんでこいつは思わないんだ、こいつにもそう思わせてやる、こいつもおれに甘えさせてやる」、という訳である。
経験とはその人間を為すものの骨格の周りの謂わば肉づけであり、経験が豊富であればある程その人の人間性が豊かになるというのは万人に基本的な見解であろう。しかしよって、経験そのものは所詮経験でしかなく、つまり単なる記憶であり、RPGにおける経験値の如きものである。つまり経験によって得られた感覚や認識や思考形態ひいては能力に価値が在るのであって、経験そのものに価値は無い。ところが甘える人間というのは、経験そのものを売りにするのである。この日本という中進国では高等教育的な能力があまり問われないようなので、経験から感覚や認識を学ばなくても、経験そのものは記録として残り、下手をすればそれが実績という形で珍重されることすらある。はっきり申し上げてバカ丸出しである。実績というのは実績内容そのものの事であってその記録のことではない。RPGで言えば、経験値を得ることによってレベルが上昇することに意味があり価値があるのに、経験値得ることそのものをレベルの上昇と勘違いしているようなものである。もちろん殆どの人間において経験の豊富さと能力の高さや人間性の豊かさは正の相関を示している。しかし、その人間の経験値が高いからといってその人間の能力が高いと断定することもできないし、経験値が低いからといってその人間の能力が低いと断定することもできない。まあマンガ的に言えば、「おれはこんなことをやったんだ、どうだすごいだろう」という訳である。もちろんこれは「こんなこと」を為し得るのに高い能力を必要とする場合に行われる自慢の類とは違う。それは自慢されて然るべきであり、何も不自然なことはない。しかしこのセリフで表されるのは「経験値そのものが(何故か)価値あるものとして扱われてしまっている」というニュアンスである。
そして、その経験そのものを価値あるものとして珍重するということを否定された、甘えを基盤とする彼らが、無能力である己を悟り、その上で最終的に彼らが逃げ込む場所はと言えば、それは人間関係という虚構であり虚構の人間関係である。「ボクの知り合いにどうこう……」という訳であり、もちろん知己の存在によって得られるメリットというのは計り知れないが、この場合はそうではない。知り合いの存在自体が自慢の種になってしまうのである。これこれの知り合いを持つ自分は如何なる立場にありそして彼らから如何なるメリットを享受することができるか、ということを通り越して、精神的な依存の対象として知り合いの存在自体を見るようになるのである。
謂わば甘える人間にとって、知り合いや友人というのは、あくまで自分の延長線上のものであり、彼らは他者を他者として扱うということができない。彼らは他者を自分の延長線上にある、謂わば「他者である自分」としてしか他者を認知できず、自分と他者を区別することができない。要するに他者の存在に甘えているのであり、知り合いや友人(の存在自体)に甘えているのだ。おそらく欧米人の人間関係というのは、哲学書等を読めば理解できるが、他者を他者として扱うということから始まっている。その前提としてあるのは、自己の自己意識であり、自分と他者は別の個別の人間であるというしっかりした自己の精神的な自立的意識である。私が先にヘーゲルをパラノイアと言ったのは、彼は(おそらく)欧米人としてのしっかりした自己意識を持っている(た)にも拘らず、「他人を自分の延長線上として扱いましょう」というセリフに近い哲学を表明していたのであり、謂わば精神的に自立した欧米人に対する甘えのススメを行っていたからである。そういったものを哲学として意図的に表明していたヘーゲル自身にもおそらく甘えというのは理解しきれない異国の神秘として映っていたのではないか?と思われる。三島由紀夫の言葉を借りるならば「十九世紀の欧州の阿片吸引者達の夢の中に出てきたアジア的なカオティックな異国の神秘」とでもいったところか。つまり中島義道氏とは真逆であり、Georg Wilhelm Friedrich Hegelという人物は哲学者らしからぬ哲学者であり、その人物自身は非パラノイアックと言えるかもしれない。欧米人には、甘えを前提とした友人関係は理解できないであろう、というかそのようなものを友人関係とは呼ばないだろう。
ちなみに性格だ何だ根拠の皆無なもので人間にレッテルを貼るなど、甘える人間の最も好みそうなことであり、倫理的見地からしても論外である。レッテルを貼るという形で、自分以外の全ての人間(の存在自体)に甘えているということだ。
そうして彼らは、その人間の考えや発言や主張の具体的内容の前にその人間が何者であるかということを意識し始めてしまうようになるのである。こうして最後に甘える人間パラノイア達が堕ち込んでいくのは人種差別的な露骨な偏見意識であり、その最終到達点はアドルフ・ヒットラーの世界である。「諸々の理由などどうでもいい、ユダヤ人だからダメ、ユダヤ人だから殺せ」、と。当然当初はヒットラーとて強姦者的であり拝金主義的であったという理由で当時のユダヤ人を嫌悪していたのであろう。それが彼の中では単純且つ洗練された報復心へと変わってしまったのである。こうなったら地獄である。何が地獄かと言えば、殺されるユダヤ人ももちろん悲惨だが、パラノイアックな被害妄想に苦しみながら「ユダヤ人、ユダヤ人」とひたすらそれに関する散発的な自生思考に苦しむアドルフが一番悲惨な地獄を味わっている(手塚治虫の漫画作品「アドルフに告ぐ」には、苦しむヒットラーの姿が絶妙に描き出されている場面がある)。
こうして彼ら他人に甘える女性的人間・肛門性格者のパラノイアというのは、攻撃し合い、そして同時に慰めあい、傷を舐め合いながら、相互に精神的な依存をどんどん深め合って自他の傷を深め合っていきながら自らと共に自らの集団の滅びへと向かっていくのである。
念の為に言っておくが、これを切磋琢磨と呼ぶのは無知蒙昧どころか愚者の証であり勘違いも甚だしい。下で述べるが、切磋琢磨というのは個人主義的な男性的人間の間にのみ存在しうる意識の持ち様である(助け合いということに通ずるものがある、助け合いと甘えとは全く違う)。
つまり、男性的人間というのは非常に個人主義的であり、女性的人間というのは非常に全体主義的である。これはコーカソイド・ネグロイドの一部とモンゴロイドを見比べて比較すれば容易に理解できるだろう。前者の典型はアメリカ的個人主義であり、後者の典型はこの国のマスコミの社会や40年前のゼンキョートーとその内ゲバの世界である。
ちなみに、コーカソイドやネグロイド達の先進国を含めてどの国でも社会的低層の教育の行き届いていない人々にはやはり女性的な全体主義的傾向が見られる。
手元にHillary Rodham Clinton女史の「私たちが子どもの未来のためにできること」という本があるが、彼女のこの著書を読むと、非常に個人主義的かつ広い視野・長期的スパンでの物事の見方というのが理解できる。彼女は非常に建設的かつ肯定的な思考を持った男性的人間であり、まさに賢母そのものであることが理解できる。いい加減日本人は先進国の賢い人々からこのようなものの考え方を学んだ方がよい。
欧米で生活している人たちを見ればいい。福祉的にも非常に充実しており、個人主義的であると同時に助け合っているのがよく分かる。動物虐待(これも露骨な甘えの一種である。人間どころか飼っているペットにまで甘えている)などは明らかにアジア(東アジア)より少ない。それどころか他者と協力し合って動物愛護の団体活動を行うほどである。
健全な意識を持ちたいのであれば、他人は他人であるとキチッと割り切ることだ。そこから真の助け合いも他人への思いやりも始まる。甘えは助け合いや思いやりではない。
また、甘える人間というのは、無視をする、ということができない。理由は単純、甘えているからである。他人の存在そのものに甘えているから他人を無視することができないのである。無視することができないから、叩きや虐待、挙句の果てはレッテル張りといった暴力の形で他人に甘えていくのである。
そして同時に彼らは無視されるということについても、非常にこれを恐れる。理由は単純、甘えているからである。これに関しては正確に言うならば、甘え合っているから、である。もし仮に彼らが無視された場合、「おれはあいつに甘えて無視しなかったのに、あいつはおれを無視した。あいつはおれに甘えていない、あいつはおれと殺し合って慰め合う甘えの相互関係を築いていない!」と言って、甘えない人間を「あいつはおれを無視した!」と非難し場合によっては攻撃し始めるのである。
この無視できないということが別の形で現れることもある。「憧れ」である。憧れとは甘えの一種であり、この国で芸能界やマンガ・アニメが盛んなのはそういった理由である。憧れの危険なところは、特に思春期の少年少女に多いのだが、自己投影しだすことである。それは自我の崩壊の微小な始まりであり、それが極端な形になると三島由紀夫のボディビル行為に見られるような突飛な行動として現れるのでかなり危険である。
基本的に、芸能人や創作作品、極端な例で言うと絵などを見て(三島由紀夫は少年時代Saint Sebastianの絵に心頭していた)、「あ、あの人イイ」とか「このキャラいい」そしてヤバいのは「こいつ自分に似てる」とか思い始めたら危険信号である。黄色が点っている。甘えが始まっている。先の記事でアニメのキャラクターについて語った私にはもちろん甘えがある。健全な精神でいたいのなら芸能人や創作作品のキャラクターに入れ込まないことだ。
この「甘え」をどうにかしなくては、日本人がこれから世界で生きていくことはできないだろう。精神的に他者に甘えた民族のままでは、日本人を待っているのはまともな未来ではないだろう。「甘え」た人間達は「甘え」ていない人間に対して(「甘え」た人間達の作る)世間の風は厳しいなどとご説教なされるが、国際社会の嵐はその何百倍も厳しいことは明らかである。彼らは自分達より物理的に弱い相手に「甘え」ながら、自分達を取り巻く環境については何も理解していないのである。囲碁の板上を想像してみるがいい。彼ら「甘え」る黒い駒は内と外から「甘え」ない白い駒に挟まれて圧迫されているのである。最初のnot to let you be a paranoiaという記事で「自分自身をよく洞察し自分が精神的に他人に甘えているということをよく自覚し(物理的な甘えはどうでもよい)、それを止めることだ」と書いたが、これを理解しない限り、経済的な意味においても文明・文化的な意味においても日本人というものは衰退の一途を辿り、精神的な他者への甘えを捨てきれない人間達、三流民族として落ちぶれていくだろう。
海の外にはペコペコ頭を下げ、内では殺し合いと同時に傷の舐め合いを行うという甘えた依存関係を行っているのが日本人という民族である。が、先にも言ったように民衆は知恵を持っておりその全てがバカだのなんだのという話ではない。民衆の一部に女性的な依存心で女々しく甘え合う肛門性格者のパラノイアックな人々がいて、彼ら彼女らはそうではない人々に色々な形で害を及ぼすことが多々あるので問題だ、という話である。別に彼らは"paranoia"というレッテルでenclosureされるべきものではない。私はそんな前時代的で野蛮な愚かなことをここで言っているのではない。
要するに、未来のことを考えた上で、子供たちを虐待やいじめから守りそしてきちんと教育を与え、"paranoia"と言われ得るような人々には彼ら彼女らを健全な状態に戻すべく手ほどきをする、ということである。それは何らかの形での学びであったり、医療であったり、「甘え」のない健全な対人関係であったりするだろう。
少なくとも精神的なことに関して言うのならば、弱さは必ず悪につながる。パラノイアというのはその内に必ずと言っていい程悪意を潜めている。しかし精神力などというものは、具体的に計り得るものではなく、少年漫画の戦闘力のように単純に数値化できるものではない。よって非パラノイアックな正常で健全な精神状態とは如何なるものか、を感覚として掴んでおく必要がある。
13:23 2010/10/02
甘えでサーチするとfawnやwheedleといった動詞が出てくるが、これは明らかに日本語で表現される「甘え」とはニュアンスを異にする。
「助け合い」というのは非常に重要である。それは社会にとって有益であるばかりでなく、そもそも倫理的に言って人間として他者と助け合って生きるというのは基本的なところではないかと考えている。身近な例で言えば、例えば日常生活品の貸し借りなどである。今はもう失われてしまったが(田舎の方ではまだこういった光景も見られるのだろうか)、お隣さんと仲良くする、そして困った時は助け合う、ご老人や障害を持つ人たちを助ける、声を掛け合う、道ですれ違ったら挨拶をする、こういったものは私は非常に大切だと思っている。しかし、「助け合い」や「思いやり」といったものと「甘え」とは全く違う。
「甘え」というのは、精神的な他者に対する依存である。よって物理的な他者への加害行為なども含まれるし、心理的な他者への加害行為も余裕で含まれる。
土居健朗氏はその著書「『甘え』の構造」の中で日本人特有の甘えについて論じている。ちなみに土居健朗は非常な女性的人間である、「甘え」に対して肯定的な見解を示しているのだから。私は中国や韓国を訪れたことがないので、中国人の人や韓国人の人々がどうだか分からないが、これはおそらくモンゴロイドというよりは特殊な地理的要因、物理的に隔離された世界で生きてきた日本人という民族のどうしようもないみっともない習性なのである。近年ではもちろんこの国においてもこれは解消されてきている。が、先の記事で書いたように、ここへきてネットの普及でそのような連中がまた暴れだしてはいる。
暴力というものは、他者への甘えの最も単純な形での現れだが、二昔三昔前にいた不良少年少女というのは甘える子供の典型であり、好例である。甘えというものが如何なるものか知りたいという人は、まず不良少年の行動でも観察してみればいい。彼らは例外なく群れる。かといってそこで建設的関係を他者と結んでいるのかというと、そうではない。一見同盟を結びながら、彼らは中で互いに加害行為を行っている。仲間内でも愚かしいケンカ行為をしたりして、甘え合いながら仲良く殺し合いを行っているのである。もちろん部外者に対しては加害意識を丸出しにする、というか少々加害意識を通り越して恐れているような様子も見受けられる(これと日本人については後で述べる)。バイクで集団で暴走してみたり、ほれガンをつけただのなんだのといって人に絡んだり、というのは彼らの甘えを如実に表している。そして部外者の大人にまで身内の甘えが通じると思い込んでいる。だからもっと最悪の非行、性犯罪などへも平気で走る。中学生にでもなればこんなことは自覚していて当然なのだが、その先に被害者の望まない妊娠・出産というものが控えておりその責任を自分が取らなければならないという自覚が性犯罪者には全く無い。性犯罪というのは極限の甘えであると同時に最悪の重犯罪である。現実に奈落の底に突き落とされて地獄の苦しみを味わっている被害者の少女がいるのである。別に男性の性欲の存在自体は否定しない。これが無ければ人類は滅びる。ちなみに私は童貞であり、抗精神病薬の主作用によるものか副作用によるものかは不明だが、ほぼ完全なインポテンツである。しかし、同じ年齢層(私は2011/05/21現在30歳)の健常な男性とは比べ物にならないほどに性欲は薄く量も少なく、しかしまたそのような私にも物理的に精液は精巣に蓄積されるのでマスターベーションは不完全ながらも時々行う。そしてしかし、個人的な抑制能力の優劣により性欲が我慢できないというのであれば、アダルト映像・画像でも何でも見ていればいいのである。あの類のものに存在価値があるとすれば、その主なものの一つは性犯罪抑止効果をもたらすということである。問題は、その性欲のコントロール手段があるにも拘らず、それさえ出来ずに、暴力的に女性にそれを押し付けるというパラノイアックな女々しさにあるということである。もうそれ以前に強姦犯罪者というのは、レイプとセックスの意味内容の区別すらつかない幼児的な性欲を、それをコントロール出来ずにそれに振り回されている情け無い人間としか言い様がない。ちなみに、幼児的な性欲と言ったが、先のSigmund Freudはこれの一つの形態として肛門性欲というものを発見し、ひいては肛門性格というものを自らの学問モデルを為す要素の一つとして見出しながら研究を行っていた人である。簡略に分かり易く言うと誤謬を避けられないのだが、肛門性格者というのはその性欲にまつわる人間の精神の発展段階において幼いままで止まっている、もしくは幼い形での性欲を求める程に退行してしまっている(シュレーバーという人物をフロイトはパラノイアの代表例として挙げている)人間ということである。これらのことからも、これら不良少年連中がパラノイアと呼ばれ得ることが理解できるだろう。
また、いじめというのも、他者に甘える子供の好例である。自分より物理的に弱い相手に対して暴力性を向けることによってその他者に精神的甘えているのである。これは情けないことに大人になっても行おうとする者がいる。ところが大多数の人間は精神的に大人であり、他者に精神的に依存しておらず他人をいじめるなどという発想は無いので、彼らは次第に人々の間から疎外されていく。
ちなみに、少なくとも私の住む首都圏では彼ら不良少年少女はほとんど見なくなった。理由は、未成年者飲酒・喫煙取締りの強化などといったものも遠因としてあるかもしれないが、主にネットの存在である。一昔前のネット上でDQNという言葉で彼らが語られてしまっている様に、不良というのは現代においては若者達の間でダサいものの代名詞のようになってしまったからである。かといって潜在的に不良少年性を持った他者に精神的に甘える人間が減ったかというとそうではない。ためしにネットの掲示板でも何でも覘いてみればいい。彼らは荒らしやその他他人を罵倒するという形で相変わらず存在している。そして彼らはその中でも群れだす。先に挙げたネット上のパラノイア、まあ所謂おかしな連中などというものはその典型だろう。そこで彼らはまた他者に甘え続け自分たちの居場所である掲示板をも潰してしまった。そしてネット上で女性的な依存心で自分たちの精神的な他人への甘えそのもの自体をさらに求め同時に自分達の居場所を求め続けている。
ネットで他者を叩いている人間というのは、仮想世界上ですらどこの誰だか分からない人間に甘えている低級な生き物だが、さらに低級なのは実在の人物を叩いたり貶めたりしている人間である。これはもう精神的に甘える対象を探して彷徨っている、甘える対象を求めるためにネットを利用しているとしか言い様が無い。輪を掛けてこれよりはるかに低級、というか低俗なのが、漫画やアニメなど創作表現の中に登場するキャラクターを叩いて貶めている連中である。もうこれに関してはどうしようもないとしか言い様が無い。アニメのキャラクターにまで甘えているのである。これはオタク云々という問題ではない。そういう問題ではない上に、そもそもオタクの人々はそのようなこと行いたがらない。もう粘着滲みたパラノイア、おかしな連中としか言い様が無い。
子供を虐待する親というのは他者に甘えながら大人になった人間の中でも最悪の部類であるが、これは他者への精神的甘えを捨てきれず幼い自分の子供にすら甘えるような人間である。それで子供が自分を避けるようになるとさらに虐待の度合いを加速させる。要するに「おれもおまえに甘えるから、おまえもおれに甘えろ!(しかも限りなく自分に都合のいい形で)」と言っているわけである。はっきり言ってクズである。ネットのどこかで、親になる為にも自動車の運転免許の様に免許を必要とする様にして欲しいという意見を見たことがあるが、突飛過ぎてはいるだろうがまあもっともな話ではある。
冷たいようだが、自分の子供を虐待する親の子供というのはその自分の子供を虐待する人間の遺伝子を受け継いでおり、人類(生物)の進化ということを考えた場合にその子供の滅びは必然的と言えば必然的であり、自分の子供を虐待するような親が自分の子供を虐待するという行為は然りと言えば然りな話である。劣等な遺伝子は滅びる様に出来ているのである。
彼ら互いに甘えあうパラノイアにとって、精神的に甘えない自立した人間というのは気に入らないようである。「どうして自分は精神的に甘えているのにこいつは甘えないんだ、自分は『他人!他人!他人!他人なんて気に入らない!他人なんて許せない!自分はこんなにすごい!自分はこんなに苦労した!だから自分が!自分だけがー!』と思っているのに、なんでこいつは思わないんだ、こいつにもそう思わせてやる、こいつもおれに甘えさせてやる」、という訳である。
経験とはその人間を為すものの骨格の周りの謂わば肉づけであり、経験が豊富であればある程その人の人間性が豊かになるというのは万人に基本的な見解であろう。しかしよって、経験そのものは所詮経験でしかなく、つまり単なる記憶であり、RPGにおける経験値の如きものである。つまり経験によって得られた感覚や認識や思考形態ひいては能力に価値が在るのであって、経験そのものに価値は無い。ところが甘える人間というのは、経験そのものを売りにするのである。この日本という中進国では高等教育的な能力があまり問われないようなので、経験から感覚や認識を学ばなくても、経験そのものは記録として残り、下手をすればそれが実績という形で珍重されることすらある。はっきり申し上げてバカ丸出しである。実績というのは実績内容そのものの事であってその記録のことではない。RPGで言えば、経験値を得ることによってレベルが上昇することに意味があり価値があるのに、経験値得ることそのものをレベルの上昇と勘違いしているようなものである。もちろん殆どの人間において経験の豊富さと能力の高さや人間性の豊かさは正の相関を示している。しかし、その人間の経験値が高いからといってその人間の能力が高いと断定することもできないし、経験値が低いからといってその人間の能力が低いと断定することもできない。まあマンガ的に言えば、「おれはこんなことをやったんだ、どうだすごいだろう」という訳である。もちろんこれは「こんなこと」を為し得るのに高い能力を必要とする場合に行われる自慢の類とは違う。それは自慢されて然るべきであり、何も不自然なことはない。しかしこのセリフで表されるのは「経験値そのものが(何故か)価値あるものとして扱われてしまっている」というニュアンスである。
そして、その経験そのものを価値あるものとして珍重するということを否定された、甘えを基盤とする彼らが、無能力である己を悟り、その上で最終的に彼らが逃げ込む場所はと言えば、それは人間関係という虚構であり虚構の人間関係である。「ボクの知り合いにどうこう……」という訳であり、もちろん知己の存在によって得られるメリットというのは計り知れないが、この場合はそうではない。知り合いの存在自体が自慢の種になってしまうのである。これこれの知り合いを持つ自分は如何なる立場にありそして彼らから如何なるメリットを享受することができるか、ということを通り越して、精神的な依存の対象として知り合いの存在自体を見るようになるのである。
謂わば甘える人間にとって、知り合いや友人というのは、あくまで自分の延長線上のものであり、彼らは他者を他者として扱うということができない。彼らは他者を自分の延長線上にある、謂わば「他者である自分」としてしか他者を認知できず、自分と他者を区別することができない。要するに他者の存在に甘えているのであり、知り合いや友人(の存在自体)に甘えているのだ。おそらく欧米人の人間関係というのは、哲学書等を読めば理解できるが、他者を他者として扱うということから始まっている。その前提としてあるのは、自己の自己意識であり、自分と他者は別の個別の人間であるというしっかりした自己の精神的な自立的意識である。私が先にヘーゲルをパラノイアと言ったのは、彼は(おそらく)欧米人としてのしっかりした自己意識を持っている(た)にも拘らず、「他人を自分の延長線上として扱いましょう」というセリフに近い哲学を表明していたのであり、謂わば精神的に自立した欧米人に対する甘えのススメを行っていたからである。そういったものを哲学として意図的に表明していたヘーゲル自身にもおそらく甘えというのは理解しきれない異国の神秘として映っていたのではないか?と思われる。三島由紀夫の言葉を借りるならば「十九世紀の欧州の阿片吸引者達の夢の中に出てきたアジア的なカオティックな異国の神秘」とでもいったところか。つまり中島義道氏とは真逆であり、Georg Wilhelm Friedrich Hegelという人物は哲学者らしからぬ哲学者であり、その人物自身は非パラノイアックと言えるかもしれない。欧米人には、甘えを前提とした友人関係は理解できないであろう、というかそのようなものを友人関係とは呼ばないだろう。
ちなみに性格だ何だ根拠の皆無なもので人間にレッテルを貼るなど、甘える人間の最も好みそうなことであり、倫理的見地からしても論外である。レッテルを貼るという形で、自分以外の全ての人間(の存在自体)に甘えているということだ。
そうして彼らは、その人間の考えや発言や主張の具体的内容の前にその人間が何者であるかということを意識し始めてしまうようになるのである。こうして最後に甘える人間パラノイア達が堕ち込んでいくのは人種差別的な露骨な偏見意識であり、その最終到達点はアドルフ・ヒットラーの世界である。「諸々の理由などどうでもいい、ユダヤ人だからダメ、ユダヤ人だから殺せ」、と。当然当初はヒットラーとて強姦者的であり拝金主義的であったという理由で当時のユダヤ人を嫌悪していたのであろう。それが彼の中では単純且つ洗練された報復心へと変わってしまったのである。こうなったら地獄である。何が地獄かと言えば、殺されるユダヤ人ももちろん悲惨だが、パラノイアックな被害妄想に苦しみながら「ユダヤ人、ユダヤ人」とひたすらそれに関する散発的な自生思考に苦しむアドルフが一番悲惨な地獄を味わっている(手塚治虫の漫画作品「アドルフに告ぐ」には、苦しむヒットラーの姿が絶妙に描き出されている場面がある)。
こうして彼ら他人に甘える女性的人間・肛門性格者のパラノイアというのは、攻撃し合い、そして同時に慰めあい、傷を舐め合いながら、相互に精神的な依存をどんどん深め合って自他の傷を深め合っていきながら自らと共に自らの集団の滅びへと向かっていくのである。
念の為に言っておくが、これを切磋琢磨と呼ぶのは無知蒙昧どころか愚者の証であり勘違いも甚だしい。下で述べるが、切磋琢磨というのは個人主義的な男性的人間の間にのみ存在しうる意識の持ち様である(助け合いということに通ずるものがある、助け合いと甘えとは全く違う)。
つまり、男性的人間というのは非常に個人主義的であり、女性的人間というのは非常に全体主義的である。これはコーカソイド・ネグロイドの一部とモンゴロイドを見比べて比較すれば容易に理解できるだろう。前者の典型はアメリカ的個人主義であり、後者の典型はこの国のマスコミの社会や40年前のゼンキョートーとその内ゲバの世界である。
ちなみに、コーカソイドやネグロイド達の先進国を含めてどの国でも社会的低層の教育の行き届いていない人々にはやはり女性的な全体主義的傾向が見られる。
手元にHillary Rodham Clinton女史の「私たちが子どもの未来のためにできること」という本があるが、彼女のこの著書を読むと、非常に個人主義的かつ広い視野・長期的スパンでの物事の見方というのが理解できる。彼女は非常に建設的かつ肯定的な思考を持った男性的人間であり、まさに賢母そのものであることが理解できる。いい加減日本人は先進国の賢い人々からこのようなものの考え方を学んだ方がよい。
欧米で生活している人たちを見ればいい。福祉的にも非常に充実しており、個人主義的であると同時に助け合っているのがよく分かる。動物虐待(これも露骨な甘えの一種である。人間どころか飼っているペットにまで甘えている)などは明らかにアジア(東アジア)より少ない。それどころか他者と協力し合って動物愛護の団体活動を行うほどである。
健全な意識を持ちたいのであれば、他人は他人であるとキチッと割り切ることだ。そこから真の助け合いも他人への思いやりも始まる。甘えは助け合いや思いやりではない。
また、甘える人間というのは、無視をする、ということができない。理由は単純、甘えているからである。他人の存在そのものに甘えているから他人を無視することができないのである。無視することができないから、叩きや虐待、挙句の果てはレッテル張りといった暴力の形で他人に甘えていくのである。
そして同時に彼らは無視されるということについても、非常にこれを恐れる。理由は単純、甘えているからである。これに関しては正確に言うならば、甘え合っているから、である。もし仮に彼らが無視された場合、「おれはあいつに甘えて無視しなかったのに、あいつはおれを無視した。あいつはおれに甘えていない、あいつはおれと殺し合って慰め合う甘えの相互関係を築いていない!」と言って、甘えない人間を「あいつはおれを無視した!」と非難し場合によっては攻撃し始めるのである。
この無視できないということが別の形で現れることもある。「憧れ」である。憧れとは甘えの一種であり、この国で芸能界やマンガ・アニメが盛んなのはそういった理由である。憧れの危険なところは、特に思春期の少年少女に多いのだが、自己投影しだすことである。それは自我の崩壊の微小な始まりであり、それが極端な形になると三島由紀夫のボディビル行為に見られるような突飛な行動として現れるのでかなり危険である。
基本的に、芸能人や創作作品、極端な例で言うと絵などを見て(三島由紀夫は少年時代Saint Sebastianの絵に心頭していた)、「あ、あの人イイ」とか「このキャラいい」そしてヤバいのは「こいつ自分に似てる」とか思い始めたら危険信号である。黄色が点っている。甘えが始まっている。先の記事でアニメのキャラクターについて語った私にはもちろん甘えがある。健全な精神でいたいのなら芸能人や創作作品のキャラクターに入れ込まないことだ。
この「甘え」をどうにかしなくては、日本人がこれから世界で生きていくことはできないだろう。精神的に他者に甘えた民族のままでは、日本人を待っているのはまともな未来ではないだろう。「甘え」た人間達は「甘え」ていない人間に対して(「甘え」た人間達の作る)世間の風は厳しいなどとご説教なされるが、国際社会の嵐はその何百倍も厳しいことは明らかである。彼らは自分達より物理的に弱い相手に「甘え」ながら、自分達を取り巻く環境については何も理解していないのである。囲碁の板上を想像してみるがいい。彼ら「甘え」る黒い駒は内と外から「甘え」ない白い駒に挟まれて圧迫されているのである。最初のnot to let you be a paranoiaという記事で「自分自身をよく洞察し自分が精神的に他人に甘えているということをよく自覚し(物理的な甘えはどうでもよい)、それを止めることだ」と書いたが、これを理解しない限り、経済的な意味においても文明・文化的な意味においても日本人というものは衰退の一途を辿り、精神的な他者への甘えを捨てきれない人間達、三流民族として落ちぶれていくだろう。
海の外にはペコペコ頭を下げ、内では殺し合いと同時に傷の舐め合いを行うという甘えた依存関係を行っているのが日本人という民族である。が、先にも言ったように民衆は知恵を持っておりその全てがバカだのなんだのという話ではない。民衆の一部に女性的な依存心で女々しく甘え合う肛門性格者のパラノイアックな人々がいて、彼ら彼女らはそうではない人々に色々な形で害を及ぼすことが多々あるので問題だ、という話である。別に彼らは"paranoia"というレッテルでenclosureされるべきものではない。私はそんな前時代的で野蛮な愚かなことをここで言っているのではない。
要するに、未来のことを考えた上で、子供たちを虐待やいじめから守りそしてきちんと教育を与え、"paranoia"と言われ得るような人々には彼ら彼女らを健全な状態に戻すべく手ほどきをする、ということである。それは何らかの形での学びであったり、医療であったり、「甘え」のない健全な対人関係であったりするだろう。
少なくとも精神的なことに関して言うのならば、弱さは必ず悪につながる。パラノイアというのはその内に必ずと言っていい程悪意を潜めている。しかし精神力などというものは、具体的に計り得るものではなく、少年漫画の戦闘力のように単純に数値化できるものではない。よって非パラノイアックな正常で健全な精神状態とは如何なるものか、を感覚として掴んでおく必要がある。
13:23 2010/10/02