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J
 悪の華。
 「フロオベエルはお坊ちゃんである。弟子のモオパスサンは大人である。芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。 ―(中略)― ボオドレエルこそは、お坊ちゃん。」
 ヨハン、ヨハネス、ヨハンセン。ヨハネスブルクは金の山。奴らの弱点はバギクロス。Juli, Julei, それは邪悪。Julius turm、これは正当な在り方。
 GIONの丘にて八坂を上れば、"Lecken Sie viel Blut?"......aber das Blut leckt......頂点には清い水の寺がある。蜜の味がするか?それとも蜜を垂れ流しているのか?実在の人物以外に想像上の王など何処にも居ない。普通に生きて死ぬのが幸せかと。花魁マジお断り。売春行為の押し売りは止め(病め)よう(様)ね?誰もおまえなど望まない。




 何故、「分かり合いたい」、だとか、「人は分かり合えるはず」、だとか、人間が「分かり合いたい」とやらの欲求を保持していることが無根拠に前提になっている創作作品その他のモノモノがこう世の中には溢れているのか、私には全く理解不能です。
 普通の人は、少なくとも我々の世代の人間は別に「他人と分かり合いたい」とか思わないんで。なんだコイツウゼーとかダリーとか思ったらそんな他者とは関わらないだけなんで。
 それは職場における場合であっても同じことですね。ただ職務遂行上その場においては協力関係を結んでおいた方が業務効率が上がるから、という理由で職場においては互いに協力するわけですね。だから50代や60代の壮年の男性たちには仕事が終わったら職場の「仲間」と飲み屋で一杯ということを好む人が多いわけであり、我々20代~30代~40いくかいかないかくらいの人間にはそういったものを嫌う、そういったものがウザくて仕方がないという人間が多いわけです。ちなみ日本のマスコミやその周辺にはこういった「他人と分かり合いたい」、甘えを基調とするJudeに汚染されきった女性的人間、というよりはもう幼児的人間、幼児のような人間である連中が極めて多いのでお気をつけ下さい。


 基本的に10歳あたりの年齢を越えた人間、通常の社会的な人間というのは、その人間が意志するところの態度を表明するという形で他者と接し、他者とのコミュニケーションを図るわけですね。というのは、通常人間は他人に自分の考えを知られたら危険であるという意識を保持しているということもその要因のひとつとして挙げられます。だからアノ「まごころ」なる言葉やそれに基づく態度には反吐が出るほどの嫌悪感を普通は抱くはずなんですね。
 哲学者の中島義道さんは、「道徳教育は人間の本性に訴えかけて達成されるものではなく、それに基づいて達成されたかのような外見のもとに、人間を調教することであり、そしてそう教育された者が本心からそれに自己がそれに基づいていると思う時、道徳教育は完成される」という内容のことをおっしゃっておられます。これは当たり前のことです。これを否定するのであれば我々がオギャアと物理的に母親の胎内から産み落とされてから行われる教育一般はなんなのかということになります。もしそれを否定した場合、現代社会に生きる人間たちは皆赤ん坊であり、それこそ「気に入らない奴は犯すなり即殺す」というベジータさんだらけになるとかなんとか言っている以前に、言語は当然として表情やボディランゲージその他によるコミュニケーションを他者と行うことが不可能になります。だから中島義道さんがおっしゃっているような「道徳教育」だけにとどまらず、それを否定した場合、社会性の全く無い人間が出来上がります。漫画やアニメや映画などの画像・映像作品を見て「意味がわからん、意味がわからん」とボヤく連中にはこういった社会性が無いとは言わないまでも社会性の低い人間が多いわけです。その(彼らが言うところの一義的な)「意味」とやらが理解できなくとも、一連の流れを鑑みていれば、そのコンテクストにおける意味は理解できるはずなんですね。要するに(道徳)教育を否定した場合、そういう人間ばかりになり、中世どころか原始時代へ逆戻りになります。だからそういうことを是とする反社会的人間は、もうどっかでそういった人間たちだけの共同体を作って、部外者が間違えて入ってきたら「俺らこういった人間たちだ」と表明して追い返すなりのそういったことを行うべきです。で、自分らの内だけで金を回しているJudenがどうこうと私が言っているのは、詰まるところ何が問題であるかというと、彼らもまた(この日本という国において)一般市民と同じyenという通貨を使用しているということです。経済学的な観点からして、別にこの同じ日本の国土に住んでいてもかまわないので、大多数の一般市民と同じ「円」という通貨を使用することを止めるべきなんですね、彼らは。彼らは彼らの内だけで通用する通貨を新たに作って、それを使用して経済活動を行うべきなんですね。そうすればいわゆる社会問題のうち大方のものは一挙に解決します。いわゆる不良少年少女やロックミュージシャンを見て、「あいつらは社会的に害悪だ」とか言うアタマの弱い・古い・固いオッサンオバサン達もいなくなります(彼らにものを考える脳があるのなら、そういった状況が訪れれば、彼らはそういうことを言わなくなるはずです)。
 ちなみに中島義道さんは、「かといってそのような道徳教育に問題があるのではなく、それが人間の本性であり、それ以上に人間を道徳的によくすることはできない、その事実を自覚しておくことが本質的に重要なのである」ということをおっしゃっておられます。これも当然のことです(だからやはり中島義道さんという方は非常に頭の質の良い人かとは思います)。


 よって、私は実はエヴァのアニメの旧劇映画版は思春期の頃に見てそれこそインパクトは受けました、が、内容は非常に嫌いです、が、あのテレビアニメ版の二十五話と二十六話は結構好きなんですね。面白いとは思いませんけど。というのは、別にオタクの人じゃなくても、やはり自分の存在そのものに不安を抱いている人たちというのは居るらしいんですね、だからそういった人たちにとっては非常に生きる糧になる内容かとは思うからです。私がしゃべったことのある人で、思春期の子供の頃は不良のチンピラ少年ではあったが、エヴァンゲリオンのアニメが好きという人も居ました。が、少なくとも私は「僕を分かってよ!」とかなんだコイツという話であって、普通の人間は「テメーなんざ特に分かりたくねーしおめーも俺のことなんざ分かるわけねーだろ」という話です。やはりテレビ版でもあの第一話はなんだこりゃと思います。もうストーリーどうこう言い出すとあまりにもアレなんであんまり言いたくないんですが、なんであそこで主人公の少年は自分の父親に「知るかバカ」と言って中指立ててその場を立ち去らないんですかね。いきなり呼び出しといてワケわかんねぇロボットもどきに乗れじゃねえどこの見知らぬ奇人だテメーは、って「話」なんで。
 エヴァンゲリオンの主人公の少年はともかくとして、ガンダムに出てくるニュータイプみたいな人間が現実に居たらどういうものか想像してみればいいんですね。アムロやシャアはともかくとして、カミーユみたいのが居たらクソがつくほどウザいこと請け合いです。

 ハッキリ言いますけど、「まごころ」や「人間の本性」とやらを追求して極めればそれこそ「オスとメスでセックスをすれば子供ができる」ということに帰着しますね。物理的な死を否定するがあまり「『群生体として生きる為に生きる』セックス教団の信者であるJuden」、要するにお下劣なフロイト先生の世界になるわけです。ちなみにお下劣フロイト先生はユダヤ系です。過去ユダヤ人と呼ばれていた人々の中にも、アインシュタインのような天才かつ偉人である人も居れば、フロイトのような畜生界の住人である外道も存在したということですね。だからもう現代においてそういったことをグダグダヌカすのは愚劣の極みなので、私もこのブログでJudenがどうこうと言いたくて言っているわけではないです。で、そういったものを基本スタンスとして、漫画・アニメ・小説や文学作品・映画その他創作作品を創り上げたいというならば、んなもんいかがわしい映像作品の監督でもやってろという話です。村上春樹さんは別にいいとして村上龍さんみたいにセックスセックス言って書いてるんであれば、山本普也監督みたいにそういう映像作品を撮ってりゃいいんですね。「自殺よりはセックス」ってあの人はセックスの危険性がどれ程のものか分かって言ってるんですかね?HIVや梅毒やもっとアブないものだっていっぱいあるわけです。あんまり若者にヘンなこと植え付けないで欲しいですね。とは言っても私ですらもう既に村上龍さんにとっての「若者」よりもっと下の年代ですけど。関係ないですけど、Schizophrenieにおける世界認識を村上龍さん流に表現すると「愛と幻想のファシズム」におそらくなるわけですね。

一文引用。

「フロイトのいうようにエスからなんらかの自我が生成すべきaus Es ein Ich werden sollものならば、自我からなんらかのエスが生成aus Ich ein Es werdenすべきでもある。エスから自我への一方通行路しかなくて、自我からエスへの逆行運動が生じないのだと、行きつく先はモラル的な強迫神経症だということになってしまうだろうから。」
 ――Victor von Weizsacker 「Pathosophie」より――

 これを「モラル的な強迫神経症」だと解釈しているところに、ヴァイツゼカー自身の異常心理や反社会性が伺えます。だいたい20歳を越えて、人格がほぼ形成され固まり且つそれが正常なそれであるような人間に「自我からエスへの逆行運動」が生じるのだとすれば、それは発狂状態か被洗脳が成立しうる状態です。


 いわゆる人文科学畑の人々で物語のルートを辿っていけばどうのこうのということを言っておられる人も居ますが、そりゃもう最終的に行き着くところはBibleです。聖書の世界です。少し時代が遡ったところであのあたりのものはギリシア神話も北欧神話もどれも似たような内容です。ただその改変の程度の問題がそこにあるだけ、と言ってしまっても過言ではないです。いわゆる少なくとも近世以来語られている物語なんてものは全部あそこから発祥してます。それを皮肉って否定しているか、逆に肯定しているかの違いがそこに存在するだけです。
 「裸の王様」の寓話なんてものは前者の典型です。これは所詮、「おまえだけが知らないことを、おまえ以外は知っているんだ」というそれこそ「愛と幻想のファシズム」を陳腐な物語化して、その価値意識を幼児に植え付けようとする、「ファシズム」というよりはもはや「Judeを基点とする極めて悪質な全体主義」を助長する以外の何物でもないわけです。要するにセックス教団の信者の産物です。だからアレは間違いなく子供に読ませるべきものではないです、が、あんなモノで洗脳される程今の子供はバカでもヤワでもないですね。私が子供の頃だって既にそうでした。ちなみに大江健三郎さんはこれをひたすら推奨している人です。まあまさに「芽むしり仔撃ち」な人です。大江健三郎さんを肯定したりその作品を推奨している内容の文章というのは私は読んだことも見たこともないんですが、大江さん自身も自伝のようなもので自分のことをお書きになってますが、まあかなりアレな嫌われてる私怨に塗れた人なんじゃないでしょうかね。よっぽと大まかに言って、夏目・芥川・川端・太宰・三島と来てここで絶対に大江とは繋がらないですね。同じフランス文学者でも内田樹さんや、他中島義道さんや他のいろいろな人でも、その主張内容が如何に一見マズいように見えても、やはり後続の人間や若者を何らかの形で育てようとするものが見て取れますが、この大江健三郎さんに限っては、どう見ても若者を潰そうとしている意図が見てとれます。「普通に生きろ」というメッセージすら、それを否定しているように見てとれます。学ぶものは多々ありますけどね。一見大江さんと似たように見えますが、大塚英志さんは「物語で学ぶこともあるし、別に(物語なんてルートはすべて同じなんだから)消費財としてコピーがどんどん生み出されてそれを楽しんでくれるっていうのもアリだし、まあそれを生かしてメシのタネにする道も現代においてはあるんだよ」ということを若者に説いて教えている極めて教育者なことをおっしゃっている人です。
 後者に近いものとしては私は機動戦士ガンダム以外知りません。スターウォーズとかはどうなのか私にはよく分かりません。ジブリのアニメは健全すぎてそういったものを読み取りづらいのでアニメ素人の私には何とも言えません。まあともかく、だから富野由悠季さんという人は天才であり、あれだけ多くの人に支持されるんでしょうね、とは思います。富野ガンダムというのは実際見てて素人目にもアニメとしての質が高いのが分かりますし、面白いです。

 で、その意味では庵野秀明さんという人は「ジンブン科学というモノはこんなにくだらないものなんだよ、こんなにイタいものなんだよ、だからこのアニメ映画を見る君たちはそれを理解して社会科学や自然科学の世界へ行くかまともな勤め人の世界へ行きなさい、ジンブン科学なんてなんの価値もないんだよ、来ちゃだめだよ」ということを当時の少年たちに教えてくれようとしてたのかな?的なことを今は勝手に思ったりもしてます。


 先の記事で言及した、JanneやDirのボーカルの人はおそらく自分で歌詞書いてますね、あの歌い姿と顔つきと歌詞の内容見ればなんとなく分かるっちゃ分かります。まあそりゃ事実どうだかは知りませんけどね。中にはゴーストに歌詞書かせて自称「アーティスト」なミュージシャンも居るっちゃいますからね。実際に(自称)ゴースト稼業をやっている人というのは居ます。でまあ、それを踏まえた上であの人たちの歌詞はパッと見陳腐や異様に見えてもよく内容鑑みればものすごく教訓を含んでるんですね、そして且つそれがどういった方向性であれロックバンドとしての演奏レベルも高いんで、私は彼らの曲は好きなんです。あの人たちは基本的には馬鹿馬鹿しいもん目指してもロクなこと無いからいいから普通に生きとけ、って言ってくれてるんですね。そりゃもちろんヴィジュアル系も含めてロックバンドやその曲なんて9割方はイタいですよ?基本子供騙しなんで。聴く側としてはそれをきちんと自覚した上で聞きましょうということです。それを踏まえた上でも私はJanne Da Arcの曲やDir en greyの曲は別にイタいとは思いませんけど。あと、特にDir en greyの人たちは曲を聴いたり雑誌のインタビュー記事を読む限り、こういったブログ等で題材に使われることを嫌がるであろう人たちであることは私にも簡単に予測できます、だからもしこれが万が一にも彼らの目に付いて不快感を与えてしまうようなことがあれば、それは私に非があるので、この場であらかじめ謝罪を申し上げておきます。こんな普通は書かないようなことをわざわざ書くのは、私が彼らをミュージシャンとして尊敬しているからです。

 この間読売新聞で「格調の高さや教養を身に付けさせるために毎朝生徒に論語の素読をさせている」という女子高の先生のことが載ってたんですが、この女子高校の教員である中年の男性の行動は極めて健全で理に適っているものです。というのはまさか高等学校の教室にCDプレーヤーなりカセットデッキなりを持ち込んでロック音楽を女子高生に聴かせて「これはどうだ」と言って感想文を書かせるわけにはいかないからです。しかし、それもまたその女子生徒たちの学力や知力のレベルによるという問題ではあります。いわゆる偏差値40いくつかの(それ以下は論外として)レベルの高校生に論語の素読をさせたからといって、そんなもの彼ら彼女らにとっては、侮辱的なニュアンスがこもる上に少々的外れなので豚に真珠だとは言いませんが、馬の耳に念仏だからです。一般の人たちがお坊さんの唱えるお経を聴いてもほとんど意味不明なのと同じことです。そしてさらに、もし仮にこの高校教員が教養よりも「格調の高さを授ける」ということを第一義としてそういった行為を行っているのであれば、それはこの中年男性は馬鹿であるとしか言いようがありません。というのは、私自身にも思春期の頃にこういった経験があるのでこういったことはよく理解できるんですが、格調の高さ云々にとらわれていると、それがいったいどういった理念や価値意識や歴史的流れに因り生成・形成されたものであるかが全く理解できなくなるからです。要するに物事や人物の中身を見なくなるということです。
 非常に危険なことに、これは一昔前のネットで言われていたいわゆる「中二病」とやらに繋がってきます。これはつまるところ「中学二年生くらいの年頃の少年少女たちが抱きがちな、自分はちょっと特別で他のカスどもとはちがってちょっと特殊な能力持っちゃってるよ→他者に対して見下したようなハハンという態度とっちゃうよ(そして結果他人にウザがられてたたかれますよ)」というような内容の、まあ言うなれば一種の、というどころかまさに「社会的な病」そのものとでも呼びうるものです。これは最初に伊集院光さんがラジオで発した言葉らしいんですが、まあネットでチラっと見ただけの情報なので本当がどうか分かりませんけど、もしこれが事実ならば、伊集院光さんは天才じゃないかと思いますね。

 ちなみにDirのボーカルの人が昔雑誌で、「ただ自分ら(の異様さ)を見るためだけにライブに来る奴はクズの中のクズなんで」ということを言ってたんですが、これは全くそのとおりな話だとは思いました。例えば私は彼らの曲を「ロック音楽として」好きなんですが、かといってああいった類の音楽のいわゆるライブの会場に行ったことは一度もありません。というのは私はあの熱気に自分が耐えられないことをちゃんと分かってますし、あのノリには自分を合わせたくないので、他のお客さんやステージの上で演奏しているミュージシャンの人たちに迷惑になることが確実に予想できるからです。で、おそらくDirのボーカルの人が言っているのは私みたいな人間のことではないです。というのは、私の知っている人間で、亡くなったX JAPANの故松本秀人さんがやっていたhide with spread beaverのメンバーだった人のソロライブに、その人をわざとバカにするために足を運んで一番後ろに陣取りながら二、三人で鼻で笑いながら嘲ってバカにして帰ってきて、「そしたらニラんできた(笑)」とか言ってたクズ野郎が居ます。これはそれがどんな類の音楽であれそのミュージシャンに対する最大の侮辱です。こういった行動をこそまさにJudeなものと呼びうるわけです。これは横浜銀蝿の時代とかの当時のアブないお兄さんお姉さんが怒声を浴びせながらステージに向かって空きビン投げつけるとかそういったものとは全く種類が違います。あれは「早く演奏しろコラ」とか「もっと激しくノリ良くやりやがれ」とかそういった意味合いが込められているものです。しかし、私が知っているこのバカの行いは明らかにステージの上の人を侮辱するためだけの行為です。私は他人に対してこういった感慨を抱くことはまずないんですが、さすがにこれを聞いた瞬間には「なんだコイツブッ殺したろか」と思いました。ちなみにこの男は絵に描いたようなチンピラです。我々の世代にもこういったJudenなバカがまだ生息しているといえば生息しているんですね。まるで社会面担当の新聞記者、他人の不幸を嗅ぎ付けるのが得意で、人の不幸は蜜の味という伝達者、そしていざとなると被害者を振舞う、分かりやすい偶像としてはドラえもんの漫画のスネ夫のような。ちょうどDir en greyの曲にMr.NEWSMANという曲がありますけど、ちょうどまさにこういったクズ共への多くの人々の怒りを代弁してくれているようであの曲はその意味では聴いていて心地のいい曲で、私は好きです。
 で、私はこのあたりのお話で、黒夢とかの曲は基本的に嫌いです。ちょっと失礼なんですけど、聴いてるとなんだコイツと思いますね。もうなんというか、太宰治なんかと似た成り上がり者のイタさの極致みたいなものを感じます。JanneやDirに関してこういうものは全く感じられません。ちなみに何か具体的な目的があって都市部に来る人たちを馬鹿にする意思は私には全く無いです。

 別にロックのようなジャンルの音楽が存在したって、暴走族の若者たちがいたって別に私は特にそれに対して過剰になる程には問題は無いと考えます。
 しかしまあ後者に関しては明らかに騒音によって一般市民に危害を加えているので普通は(私も)迷惑に感じますし、且つ明らさまに意図的に道路交通法を犯しているので、警察の人たちはいい顔をしないでしょう。というのは、彼らが事故や叩き合いで交通の流れを乱したり損傷を負った場合、彼らだって人間ですから放っておくわけにはいかないからです。つまり消防庁の職員の人たちや警視庁や各県警の警察官の人たちの手を煩わせることになるからです。だからその意味では、動画サイト等でバカにされてますけど、陳腐ではあるが田舎の農道をプヒャララ音を立てながら原付や低排気量のバイクで暴走する若者たちがいたって別に何の問題も無いわけですね。というのは農道では事故る程にスピードは出せませんし、あんなほぼ無人地帯で騒音立てたってだれが迷惑するわけでもないからです。その誰にも迷惑のかからない行為で彼らのストレスが解消されるというのであればそれに超したことはないわけです。これは私の勝手な予測ですが、アレは都市部のチンピラの若者が田舎の同じチンピラの若者をバカにして載っけてるんじゃないかと思いますけどね。
 で、ロックミュージシャンがそのロック音楽によってそれを好まない一般の人々に迷惑かけますか?という問題です。彼らは主にライブハウス、いわゆるハコですね、そういった場所でその外には音が漏れないような工夫がされた場所で自分らの音楽を演奏しているだけです。それが日本武道館や東京ドームだって話は同じです。嫌いならそんなところへ行かなきゃいいだけです。ちなみに私個人はロック音楽そのものは嫌いではありませんが、そういった場所は嫌いです。だから個人的に聴いているだけでそういった場へは行きません。
 クラシック音楽だとて同じことです。私はクラシック音楽もそれなりに聴きますけど、かといってそういった楽団のオーケストラの生演奏を聴く会場へは行きません。ほとんどの人はそうなんじゃないですかね。いわゆるクラシック音楽の聴き手と言える人たちとて、よっぽとその特定のクラシックの音楽を好きな人たちや、上で挙げたいわゆる「中二病」のまま大人になってしまったイタい連中を除いて、家でクラシック音楽を聴いて気分を良くしたりリラックスしたり、という人たちがほとんどじゃないかと思いますけどね。

 そしてこの「中二病」に関してなんですが、人文科学畑にはこの「中二病」な人間が異様なまでに多いんです。実際私はこのジンブンの教師の、ジンブンに関すること以外は全く知らないがジンブンの事となると他人を鼻で笑うという中学二年生がそのままの精神年齢で中年男になったようなのと話をしたことがあります。欧米文学の研究者の肩書きは持ち非常勤の仕事にはなんとかありついているが、その現在の1ユーロが何円に該当するかは全く知らないという類の人間です。おそらく現在において最も輝かしい村上春樹さんとて例外ではないです。内田樹さんはこれについて嘆いておられるようですが、何故あのジンブン畑の主に研究者の人間に中二が異様なまでに多いかといえば、理由は非常に単純であり、もう人文科学などというものは彼ら研究者の間で言うところのいわゆる「終わった学問」だからです。社会科学においては、地理学あたりがこの「終わった学問」だと言われています。が、人文科学なんてものはもうほとんど全ての領域が「終わった学問」だからです。要するにミもフタも無い言い方をすれば、彼らは中二でなければ職を得ることができないことを本能的に分かっているわけです。「終わった学問」の領域で業績を上げるには、少しでも他人が知らないような情報(人物・その著作)を引っ張り出してきて、少しでも他人とは違ったことをしなければ、「ああキミそれもうどこそこの論文に書いてあるよ」と言われて却下されて(教授)職を得ることができないからです。下手をすればネットを利用して実在しなかった人物やその著作を捏造さえして、事実無根の事柄を並べたてさえもします。だから人文科学というものはもはや論外として、社会科学すらも信用に足らないということになってきます。ちなみに自然科学においてはこれはほぼ不可能です。
 もう言ってしまうならば、私が学生の時に聞いた話においてということなんですが、社会科学畑の研究者ですら科学というものを語る時に自然科学と社会科学についてひたすら語っても人文科学についてはジの字も口に出さないという人も居るんですね。要するに、人文科学なるものは科学ではないというのがコモンセンスになってしまっていると言っても過言ではないでしょう。ひょっとしたらこれは私が生まれる遥か昔、何十年も前からのことなのかもしれません。
 で、特にこれはフランス文学においては多々見られるケースだろうな、とは簡単に想像がつきます。というのは、前述の通りの遊び目的で都会や盛り場に出たがる所謂オノボリさんにこのフランス好きが多いからです。太宰治だって露骨なまでにフランスかぶれ(だったん)ですね。要するに彼らは日本人がおフランスであることのブサイクさが全く分からないまま仏文科とかに間違えて入っちゃうわけです。日本人がフランス語を仮に流暢にであれしゃべったところでブサイクなだけですね。おそらくフランスの非常に美しい発音でフランス語の会話を楽しむ貴婦人たちは(現代にも居ます)、もう日本人だというだけで鼻で笑うでしょうね。ちなみに本当にフランスの文学やフランス語が好きで入るという人たちは何も問題は無いです。これは都会だとか田舎だとか居住地域にあまり関係なく、オノボリさん属性のあまり無い人にはこの滑稽さがよく分かるはずなんです。日本人がフランス語を使うことのブサイクさというのは、大して語学力の無い人間が英会話学校へ通って英語をしゃべれるようになって、それでアメリカ人やイギリス人の前で得意気になって必死に英語をしゃべってthの発音を行う時に露骨に舌先から1.5cmくらい奥を噛んで発音してなお得意気、ということに似た非常なイタさがあります。だからもし年下の人間に指導する立場にある人は、相手が何歳であれ、そういったことをちゃんと教えてあげなければいけないはずなのに、何も言わない、という無責任なことになってることが多々あるっぽいかな、とか思ったりはします。というのは、またその指導する立場の人も同じく中二病であるケースがブンガク研究という領域においては多々あるであろうからです。ちなみに人文科学のジの字も発音しなかったその先生は、数学系の授業で「ここの部分がよくわかりません」と質問すると、次回の授業でその進行予定も遮って親切丁寧に教えてくれる東大出の優秀な研究者でした。
 かといって人文科学的な教育が必要無いと言っているわけではありません。いわゆる「終わった学問」というのは、「そのパラダイムにおいてそれを学ぶ価値が無くなった学問」という意味ではなく、「もうあらかた研究されつくして、それ以上には研究のされようが無い学問領域」という意味です。だから地理学が「終わった学問」であるということも簡単にご理解いただけると思います(ちなみに私は地理学が大好きなんですけど)。だから、その多大なる知財など全部燃やしてしまえ、とかそういうたわけたことを言っているわけではなく、もう過去100年や200年に遡って優れた研究が多く存在するので、それをただ教えればいいのでは?ということです。これらの学問領域においては、もう論文なんか書きたくとて書けないしどう頑張っても書きようがないという事態が到来しているはずなんです。だから、別に高等教育機関に文学部があったって何も問題は無いわけです。しかし、そこで学生にその内容を教える人間の育成や如何に?という問題がここで湧き起こってきます。30年くらい前までだったら、それこそ当時の指導教官の指導を受けて論文を書いて学位をとってその先どうこうという話も通用したかもしれません、が、もうこの2011年の時点で文学研究という領域でそんなものはほとんどナンセンスなわけですね。だから、もう文学においてMasterやPh.D.を研究者志望者に与えるという制度そのものを取り止めて、文学教育者資格制度のようなものを作ればいいんですね。つまり検定試験のようなものを作って、それが大学入学試験と同レベルでは困るというか問題があるので、医師免許取得の為の国家試験のような(人)文科学教育者資格制度をとでも呼べるようなものを創設して、それによって高等教育機関で人文科学領域の教育に携わる人間を創生できるようにすればいいんですね。そしてそれを昔の中国の隋・唐・宋・元・明・清朝あたりに至るまで行われていた科挙とまではいかなくとも難関な試験にすれば、難関国立大学やごく一部の名門難関私立大学にしかそんなものを教える学部・学科は存在しなくなります。要するに頭の良くない子供たちにそんなもの教えてもお下劣フロイト先生の世界へ行くだけなので、ごく一部の本当にそういった人文科学的アプローチに興味があるという頭のレベルの高い子供たちだけがそういった世界で研究を行うようになるわけです。

 ちなみに私は田舎が大好きです。青森とか旅行へ行って最高にいい所だと思いましたけどね。なんで津島さんはあんないいところからくっさい都会のサカリ場へわざわざ出てきたんでしょうね。



 そういうわけでいわゆるお役所の人々の対応というものはまったくもって真摯的です。官公省庁へ足を運んだことはないですけれど、区役所や市役所の職員の人たちの対応、他には警察署の警察官の人たちの一般市民に対する対応は極めて健全でまともだと思うんですけどね。彼らはこちらが求める限りでの必要な情報は間違いなく提示してくれます。場合によってはこちらが求めた以上のこちらの助けになる情報を与えてくれる職員の人まで居ます。そしてその上で「公共の役所ではこういったことはできますがこういったことはできませんよ」ということまで丁寧に説明して教えてくれます。こんな親切な人たちが他のどこにいるのかということです。こちらが頼みもしないことを偽善の押し付けと言わんばかりに行われて、しかもそれで恩着せがましくされて、後でブツクサ「あんなによくしてやったのにどうこう」とか言われて不愉快になるどころか怒りを感じない人間など何処にも居ません。霞ヶ関のコンビニではそれ以外の地域のコンビニのお昼休み時の光景としては見られないような秩序だった礼儀正しい人たちの成り振る舞いが見られるそうです。
 そしてどういった連中にこの人たちを非難するのが多いかというと、50代や60代の仕事が終わったら職場の「仲間」と飲み屋で一杯ということを好む壮年の男性やいわゆる噂話好きのオバタリアン(オバサン)に多いわけです。我々の世代の人間で「お役所仕事がどうこう」と言って文句を垂れる人間なんてほとんど聞いたことがありませんね。
 あの飲み屋で一杯系やオバタリアン達が何故彼らを嫌うかと言えば、理由は単純、彼らは「木で鼻を括ったような説明」が気に入らないからです。内田樹さんは知性も頭脳のレベルも非常に高い方なので、こんな連中と内田樹さんを同列に扱うのは失礼なんですが、あの連中は全部マゾヒスティックなわけです。要するに「素の僕(私)を分かってよ!」系の他者への甘えを基調とするJudeな女性的人間だということです。



 で、またここでちょっと身体論じみた話になるんですが、よくよく観察していると、こういった壮年の男性やオバタリアンには手足の短い人間やズン胴な人間が多いんですね。周知の通りこれはモンゴロイドに多いです。もちろん例外も居ます。が、特に後者は頭モジャパーの手足が短くてズン胴な、「ちょっと奥さん聞いた~?」的なアレが多いことは誰の目から見ても明らかですね。不思議ですね。こういうアレな人間に限って他者に対して胡散臭い目を向けていることが多々あるんですが、こういった連中こそが誰の目から見ても最も胡散臭いわけです。そして自分がその噂のタネになることについてはひたすら恐れます。だからこういったのの中でも暴力性を備えている最もタチの悪いのだと、「テメェ、オレの居ないところでオレの悪口言いやがったな」ということになり、他者に因縁をつけたり嫌がらせをしたり危害を加えたりするわけです。だからこういうのには悪人や犯罪者、つまりは不良人間が多いということです。ちなみに何度も言っているように、マスコミには高学歴でもこういうのが多いです(だから近寄らない近寄らせないように気を付けてください)。
 これに関して、例えば私の場合で言うならば、私は他者が私が居ない所で私の悪口を言ったり罵倒をしていても一向に構いませんし、私もその当該の人物が居ないところで他者の悪口や罵倒の文句などいくらでも言います。人間の事象の認知能力の限界を超えたことが人間にできますか?という問題です。他者が自分の知らないところでどういった行動・言動をとっているかなどという類のことは追及してもキリがありません。だから大方の人間は取り敢えず身を守る程度のことはして、くだらないことは感知しない、自分にとって必要の無い情報は摂取しないか忘却していくという方法を取る、普通の大方の人間はそうやって生きているはずです。私だって現にこのブログや旧ブログでもそういったことを多々書いてます。ただ本人の目の前で言う、つまり何らかの形でその当該の人物にその内容を伝えるもしくは恣意の篭った手段によってそれを(悪意をもって)知らしめることはまったくのナンセンスであるどころか倫理的に言っても論外なので、そういったことはまず行いません。しかしブログに関してはとりあえずネットを利用したその所産なので、その本人の目に付く可能性がゼロではないということで、よっぽとの失礼にならないように批判はしても非難や悪口にはならないように配慮はしています。
 もちろん物理的な見た目をその他者の人格の内容の判断材料に用いるということが如何に不健全であるかということは重々自覚しています。

 記憶といったものもこれには関係しています。レベルの低いところからいくと英単語や公式の暗記だろうが試験の出来だろうがでも文章でも映像でも場の空気でも、記憶が不可能になると、これに対して適切な対処・対応が不可能になります。
 実際私は統合失調症用の抗精神病薬を多量に服薬していた時、記憶力が異様に悪くなっていたことがあります(ちなみに調子を崩すと人間誰でもこうなります、私もこの薬を服薬以前にもう記憶や思考や肉体の調子が悪くなっていた時期があります)。試験なんか当然出来ませんし、人としゃべっていても「俺もうお前に三回くらい同じこと言ってるんだけど?」と当時言われた経験があります。これは普通に頭が悪くて物覚えが悪くて学校のテストでいい点が取れない小中高生の場合とかそういったレベルのものではないです。つい5秒前に自分が何を考えて何を思っていたかも思い出せなくなるという酷い程度のものです。私は「ああ、これが老人の痴呆症(認知症)なんだろうな」とは何とかそれだけ自覚してました。その当時、「統合失調症は昔は精神分裂病そのさらに昔は早発性痴呆と呼ばれてたんですねぇ~」とかその時の若手の精神科医も診療室でこれ見よがしに言ってました(この精神科医の悪意については下で書きます)。
 だからやっぱり賢い人は学校の成績がよかったり精神的に強かったり善良であったりする場合が多いですし、愚かな人は学校の成績が悪かったり精神的に弱かったり悪徳であったりする場合が多いです。まあちょっと小学生に対する説教の言い回しみたいですけど、強い人は大抵優しい人間だし、弱い人は大抵小意地の悪い人間だったりしますね。リケーとブンケーで分けるとかバカバカしいにも程がありますね。英語や国語ができる人間は大抵数学や理科もできますし、暗記物の社会科だってできますね。100年や200年昔の大学者を参考にすれば、大抵どの学問にも精通していたり、中には政治家を兼ねている人だって居ましたね。一芸を持っている人たちというのは、それを専門にそれだけやっているから、結果としてそれだけしかできなくなっているというものであって、別にそれ以外のことは本当に何も出来ないという馬鹿な人間というわけではないです。

 「見返す」とかなんとかいうのも、彼ら彼女ら独特の発想です。ベタな例だと昔のマンガで出てきがちな「ちくしょう、バカにしやがって」とかいうアレですね。よく安いドラマとかで女優というか少女アイドルとかが「見返してやる」みたいなセリフとか態度とかを取っているような感がありますけど、とは言ってもドラマなんて十年近く見ないんでどうだかよく分かりませんけど、普通の人は他人は他人、自分は自分っていう発想ですね。で、彼女ら(彼ら)は何か無根拠な漠然とした劣等意識を抱いているわけです、つまり自分の存在そのものに何故か根拠無く不安を抱いている、と言うことも可能です。だから文字通り他人に「見られている」という意識を常に持っているわけです。だから、「見返す」という文字によって表される発想が彼女ら(彼ら)には湧き起こりうるわけです。
 他の例としては、例えば内向的、外向的な性格でどうやらこうやら、というものがあります。この心理学的な意味での、まだ心理学でもこういった陳腐な用語が実際に使われるらしいですけど、「内向的」「外向的」というのは非常に小学生滲みていて全くもってバカバカしいと思うんですけど、仕方なくここではこれを使用します。この場合だと、本当に内向的な人というのは、特に内向的であることに違和感なんか感じないわけです。だからそういった自己認識のもとそれはそれでその人は上手くやっていけるわけです。もし何らかの問題が発生すればそれはTPOに合わせて具体的に問題を考え、そして具体的に問題を解決すればいい、というか普通の人はそう試みるわけですね。だから、自分が「内向的である」という自覚のもと、それを恥じている人間というのはどう見たって内向的ではない人間ですね。何故かと言えば内向的であることをマイナス要素であると認識しているからです。別に自分が外向的であることによるメリットが無ければ、とりたてて外向的である必要性など無いと考えるのが普通の人間です。だからマスコミの必死の宣伝イメージ印象操作もどう見たって陳腐な感触をもたらすものでしかないですね。マスコミはこういったところで一件一件事件や報道を取りあげるというやり方で謂わば「象徴法(象徴方法)」とでも言おうか、象徴的にやっていくわけですね。だからその意味では抽象的に物事を考えられる人間というのは現実的に物事を考えることもできるわけです。その逆にsymbolizeするのが得意、と言うとちょっと皮肉っぽくてあんまりいい表現じゃないんですけど、何でも象徴化・単純化する人間は抽象的に物事考えることもTPOに合わせて現実的に物事考えることもできないんですね。それが極端に高じると、全ての物理的な具体的な一個一個の物物に何らかの象徴を見いだすという幻覚を見ている異常な状態になってしまいます。それこそまあ象徴的に言うと|∞|なアレな状態になってしまう、「|∞|/0の相関関係」が成り立っている世界を認識してしまうんですね。だからそれこそ単純な二元論が世界の真理だみたいに思いこんじゃったりするわけです。これが行き着くところは左右で人間を分けるという最悪な世界です。何故最悪かと言うと、対話を交わしているくらいならばいいんですが、これが極端に高じるとそれこそ戦争状態になるからです。あの二元論というものは抽象的概念でもなんでもなくて、象徴的意味合いが非常に強い単純思考の極みです。逆に抽象的に物事を考えられるというのは、「『|∞|/0の因果関係』は存在する」、つまり物事はちゃんと繋がっているということを認識できるし理解できるということですね。だから、現実的に考えて、「|∞|/0の因果関係」を全て悟った人間というのは、イコール「|∞|/0の相関関係」が成り立っている世界を認識した人間なのであって、それこそ神様なわけであって、そんな人間は世界中どこを探しても居ないですね。自称神様なアレな人たちとは違って、ナザレのイエスさんもマホメットさんもお釈迦様も天皇陛下もローマ法王もイギリスの女王陛下も君臨者としての(過去幾許かの時代には統治者だったこともあります)一人の人間ですね。



 こういった連中というものには、無条件の素の自分を理解してもらいたいだとか、つまりは「(素の)僕を分かってよ」とか、「他人を見返す」だとか、クサいというかイタいのだと「俺を愛してくれ」だとか、そういった他人をナメたマゾヒスト、Judeな女性的人間がほとんどを占めるということです。アタマ大丈夫か?と言いたくなりますね。で、実際のところ彼ら彼女らはアタマ大丈夫じゃないんです。私はこれを統合失調症用の抗精神病薬の一定長期間の服薬によって知りました(つまり統合失調症用の抗精神病薬を飲むと統合失調症になるわけです。先の記事でも書いたように、だからごく一部の良心的な先生を除いて、現代の精神科医は単なる商売人だということであり、これに関することはもっと詳しく後日書くかもしれません)。
 昔知人が名言を吐いたのを聞いたんですが、ああいうのは「愛していると言ってくれ」(昔のドラマのタイトル?だっけ?)と同時に「愛してくれと言ってくれ」な連中なんですね。その知人はもちろんこれを笑いのネタとして言ったんですが、私はこの「愛してくれと言ってくれ」というのを聞いた瞬間マジで笑いころげて10分くらい笑いが止まりませんでした。もうゴーマンカマしてよかですか?のレベルじゃないですね。小林よしのりさんはネタ要素を含ませて言ってるんでしょうけど、この連中は本気でそう思ってますからね。
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Freund Hein
 死神ハインリヒ。




 太古の時代から、世界中、とは言っても主にはゲルマン語を使用する民族の間ではPoesie(詩)なるものが存在しました。このあたりの歴史について私は詳しくは知らないので、何とも確実なことは言えないんですが、おそらく西暦1521~1522年にMartin Lutherがドイツ語Prosa(散文)の模範であると言われる新約聖書のドイツ語訳を達する以前からも、民間口頭伝承のような形ではとうぜん存在していたでしょうし、他にも印欧語の様々な形式で記された詩が今に残っているのかどうかは知りませんがおそらく存在したでしょう。


「もし皆さん方が、心中に、知識とはべつに、さらに何か力のようなものが、イディッシュ語を感受しつつ理解する、ある能力を賦与してくれる力の連繋が、はたらいているいことに、深く思いをめぐらされるならば、皆さん方は、はやイディッシュ語のすぐ近くにまできておられるのです。皆さん方は、安堵なさって、もはや疎外されているとはお感じにならず、さらに、イディッシュ語が理解できないなどと、もはや嘆いてはいられないことを認識されることでしょう。それがもっとも重要なことなのです、というのは、すべて嘆きとともに、理解も遠ざかっていくのですから。どうか、心を静めて、お待ちになってください、すると、皆さん方は、突然、隠語のただなかにいることに、お気づきになるでしょう。しかし、いったん隠語をつかまえてしまうと――そして、隠語こそは、すべてであり、言葉であり、ハシティズムのメロディーであり、この東方ユダヤ人の俳優の存在そのものなのですから――そのとき、皆さん方はそれまでおもちになっていた平静さを、もはや自覚なさることはないでしょう。それから、皆さん方は、隠語の真の統一を感知されることでしょう、怖ろしいほど強く、しかし、もはや隠語がではなく、自己自身がおそろしくなるほどに。皆さん方はただちに隠語のなかから、この恐怖に対峙し、それを圧倒することのできる自恃が生まれて、皆さん方を助けにきてくれなければ、それをひとりで耐え忍ぶことは、よもやおできにならないでしょう。この自恃を、可能なかぎり享受なさってください。それがしかるのち、早晩、失われるようなことがあれば――実際、ただの一度の朗読会の記憶にたよることなど、無理な話なのですから――、そのときには、この恐怖をも一緒に忘れていただきますように、お願いいたします。なぜなら、この催しは、皆さん方を懲らしめようとするものではないのですから。」
 ――フランツ・カフカ 「イディッシュ語について」より――(独文学者平野嘉彦氏の訳によるもの)

 これはドイツ語ではなくイディッシュと呼ばれる昔ユダヤ人と呼ばれていた人々の間での一種のスラングのようなものが例として引き合いに出されてそれが説明されている、つまりはそれをもとに詩的なものとして説明がなされているものとしての好例だということでここで引用したんですが、要するに「詩的なものにとり憑かれた状態」というのは言語の意味が全て一義化されて母国語が母国語で無くなってしまう状態であると言うことが可能です。全ての固有の単語がその品詞性を失い、文章は単なる語の連なりと化し、文脈がその意味を失い、それが意味不明なまるで見知らぬ異国語の文字列と化してしまうことです。しかし、先天的に知能に障害のある人を除いて、後天的に知能に障害を負うことは物理的に脳が損傷でもしない限り不可能です。よって、そこで私たち日本人の場合に何が起こるかというと、日本人において日本語が全て名詞化される、さらに最悪な状況として固有名詞化されるという状況が訪れます。

 だから本物の詩人というのは、本来的にはコミュニケーションツールであるはずの言語において完全にカイロスに支配されてしまった状態、他者とのコミュニケーションが不可能な人々なはずなんですね、日本語・日本人においては。しかし例えばドイツ語だとこれが可能です。何故ならばドイツ語というのは少なくとも日本語に比べればそういう傾向の強い構造の言語だからです。これは以下で説明します。
 もし日本語で詩人というものをそれこそ詩的に定義するのであれば、それは「しじん」であり、つまり「詩人」と「死人」は同義であると言うことができます、他者とのコミュニケーションが取れないので「死人に口なし」という慣用表現に用いられているという事実においても。
 つまり「しじん」というのは読んで字の如くTotenkopfなアタマのイカれた人たちだということです。
 
 つまり、詩というのは言語が一義化された世界の産物、その意味が一義化された言語、そのものなんですね。だから一義化された言語そのもの、もはやカイロス属性を極めた、というよりは、一流の詩人というのはカイロスそのものと化してしまったような人々のことです。だから少なくとも我々のような現代の普通の義務教育を受けている人間に詩の意味なんて理解できるはずがないんですね。小中学校の国語の教科書には今でも例えば金子みすずや宮沢賢治や石川啄木の詩が載っているのかどうかちょっと分かりませんけど、金子みすずや宮沢賢治のようなまだ「母国語性」を持つ言葉で書かれている詩は理解できるかもしれませんけど、啄木の詩あたりになると小中学生には少々苦しいはずです。ましてやラリった状態のアタマで書かれたロックバンドのお兄さんたちの曲の詞なんてものは中高生の時点ではほぼ理解できません、あの人たちの書く歌詞というのは、もちろん人によりますけど、非常に詩としてはレベルが高いわけです。それと関連して、ドイツ語で書かれた詩、そしてそれをドイツ文学者の人たちが日本語に訳したものを読んでも、年齢に関係なく日本人には理解することはまず不可能です。有名どころでもRainer Maria Rilkeの詩もおそらく難解だと思います。ちなみにリルケも誰かしらとの往復書簡のようなもので上で挙げたカフカの文章と同じような内容のことを言っています。Hoffmanstahlの戯曲のようなものはまだ理解しやすいです(が、まあ独文科の学生か専門の研究者しか読みませんね)。究極の詩人(死人)Heinrich Heineの詩は日本人にはほぼ間違いなく理解不能でしょう。叙情→社会主義→辛辣表現、ロマンツェーロ、格調は高し、程度にしか。


 そしてこれは一種の洗脳です。ただのスラングならばそれを使ってそれを知る者の内のみでのヒミツの会話を楽しむことができる、ということで済みますが、言語がその連なりや品詞性を失ってバラバラになってしまったら言語を使用することが不可能になります。これが言語の場合においてということにとどまらず、あらゆる事象の認知においてそういった状態になってしまったのが、知能に障害を持つ人たちやカルトにおいて洗脳されてしまった状態の人の場合です。「実際、ただの一度の朗読会の記憶にたよることなど、無理な話なのですから」、ここに洗脳の洗脳たる由縁が存在します。
 これを味わいたければ、別に違法薬物のアブないおクスリを使用する必要はないので、統合失調症用の抗精神病薬という何故か合法とされている薬物を服薬すれば済みます。間違いなくおすすめはしませんが。


 ちなみに、よく「○○歳でドストエフスキーを読みました!」ということをこれ見よがしに言っているイタい人たちいますけど、ドストエフスキーの長編は私も5つか6つか全て読みましたけど、どう考えてもあの偉作は10代、少なくとも10代前半から半ばまでの年頃の少年少女が読んで内容を理解できるものではないですね。
 東京外国語大学学長の亀山郁夫さんが13歳の時にドストエフスキーの「罪と罰」を読んだということをテレビでおっしゃってましたが、如何に亀山郁夫さんが優れた頭脳をお持ちであれ、この国(否、おそらく世界の何処の国でも)で教育を受けた人間が13歳の時点でその内容を理解できる程には、あの話は単純に「罪」と「罰」な話ではないですね。
 あろうことか頭アッパラパーの芸能アイドルが「10代の時にドストエフスキーの小説を読んで共感して生きる糧になりましたー」とか言ってたのを見たんですけど、もうナメんなよという以外には言い様がありません。別に彼らの一般の人々は体験しないような経験をバカにしているのではなくて、「そうじゃなくてアンタ、頭脳はどうか知らないけどその年で理解できないでしょ」という問題です。やはり、如何に凝縮された(読書)経験を10代のうら若いよかれな時代に短期間で得ることが可能であったからといって、社会的な様々な要因を考慮に含めて鑑みるに、それでもっても20~40代かそれ以上の人間におけるその作品への理解、その深晰さには及びません。ちょっと若い人には分かってもらえないかもしれないですし、あまり頭のよくない高校教師みたいであって言いたくはないことなんですけど、やはりこれに関してはそういったものなんです。やはりその人物がどういった経験を糧にして生きてきたかということは、ある程度の時間を経てそれが様々な形で発露されるということがあります。ドストエフスキーはできればその時点で読むべきものなんです。だからドストエフスキーは少なくともやはり大学へ入ってから、そして読むなら読むで本格的に全ての長編を読むくらいの意気込みで読んでいただきたいと、文学部出ではない私の口からも申し上げたいと思います。



 母国語が母国語でなくなる、というのがどれ程恐ろしい状態か普通の人間には理解できません。というかできようがあるはずがないんです。コミュニケーションが取れなくなるわけです。これはいわゆる「アウアウアー(擬声語)な感じ」の状態になって他者との意思疎通が不可能になるだけにはとどまらず、自己自身との意思疎通も不可能になる、つまりは自分でものを考えるどころか思うことも不可能になるということです。そしてこれは言語だけにとどまらず、コンテクストを認識できなくなる、つまりは「空気」を読めなくなるということでもあります。例を挙げるならばここで使用している「アウアウアー(擬声語)な感じ」という表現によって表されるものが一体如何なるものであるのかも理解できなくなる、もしくは理解できない、という状態です。文章なんか当然読めませんし、ましてやその内容を理解することなどほぼ不可能になります。高校生や経済・理科系の大学生のやる数学の記述問題など間違いなく彼らには回答不能です。雑談なんかそれとは比べ物にならない程に当然の如くできません。だから言葉を覚えるのが遅い子供というのはほぼ間違いなく(特に幼年齢の人間が形成する社会においては)排斥されます。つまりは子供時代におけるイジめというものがそこで発生します。古谷実さんの漫画「稲中卓球部」では、これが克明かつ説明的に描かれています。だから私がこの記事で説明していることが非常に分かりやすく載っています。あの漫画は非常に面白いですが非常に下劣であって、北斗の拳等と並んで子供には読ませたくない漫画の五本指には入りますけど、得るものは非常に多いです。稲中に登場するキャラクターはどの人物も例外なく滑稽さを付与されていて、人間の人間たる由縁というか人間の愚劣さが非常に上手く描かれてます。
 そもそも、哲学者なんかでこういったことを言う人が多いんですけど、「言葉で考える」という行為のみによって人間は考えるということを行うわけではないですね。中島義道さんが何かの著書で「人間は言葉で考えている」というようなことを言ってましたし、かつて大学の時に語学教師が「僕らは、言葉で考えてるんだよねぇー」と言ったのを覚えてるんですけど、そうではないですね。例えばフェルメールの「デルフトの眺望」という絵を見て、「中央に聖堂の赴きのあるものがあり、手前には右斜め下方に向けて川が流れ、岸の手前やや左に会話を行うらしき二人の女性が存在しどうたらこうたら……」と脳内で言語化してその絵を記憶し、そしてまた再度その絵を見た時にその様にしてその絵の観覧記憶を言語化して喚起させる人間が居ますか?世界中どこを探しても脳の構造や機能に障害を負っている人以外にそんな人間は居ません。「ああ、この風景は見覚えのある風景だ」という時、それは脳に映像として記憶されているからその風景を見てそれがそれであると喚起せしめられるわけですね。音楽は映像以上にそうです。絵は映像だからこそ上で書いたように言語化することができましたけど、音を言語化することは不可能です。だからそれを記録するために五線譜と音符を使うんですけど、とある曲を聴いてそこで記号の如くその音を脳内で五線譜上の音符化しますか?通常の人間は絶対にそんなことは行いません。その当該の曲の漠然としたイメージのようなものが脳内に喚起せしめられてそこで初めて「『ああ、これはあの曲だ』と思い出すに至る」という状況へと合い成ります。中島義道さんは「哲学病を進行させねば哲学者としてはどうこう……」とかいう内容のことをエッセイで書いてましたけど、「言葉で考える」という行為によってのみしか「考える」という行為に及ぶことができない人間というのは哲学病の馬鹿です。場の空気という類のものも含めて、あらゆる意味での広義の意味でのコンテクストを読みとることができないからです。心理学的に言えば無意識やエスの無い状態というものです、おそらく。だから子供社会の場合だと小学校の先生から教わった「人として言ってはいけないこと」を平気でベラベラと言ってしまったり、大人の場合だとくだらないことで他人に因縁をつけたりガタガタ怒鳴り散らしたりする迷惑な人間(マスコミやその周辺業界に多いです)だとかいうことになるわけです。三島由紀夫が無意識の無い人間だとか言われていたらしいですけど、あれはおそらく間違ってます。三島由紀夫はエスを場合によって自由自在に言語化することができた人です。それによって文学作品を創っていた人です。故三島由紀夫氏くらいのレベルの頭の人間だと、そういうことが可能なわけです。
 よっておそらくは(ホンモノの)哲学者というのは半ばTotenkopfな半ばアタマのイカれた人間のことを指してそう呼ぶ、というのは間違いではないです。だから私としては、自らの考えを、会話中でも論文執筆中でもなんでもいいので、言葉というものを用いるという手段でしかそれを脳内で瞬時にまとめてoutputすることができない、つまりは自らの思考形態を言語にhijackされてしまっている多くの(自称)哲学(研究)者たちの、「思考の流れ」「意識の流れ」に若干興味を惹かれないこともないです。Virginia Woolfの小説あたりにこの辺の答えがないこともないような気もします、例えば"Blue & Green"という短編。

 ちなみに、というか逆に、哲学者と比較するには及びませんけど、他には、低俗なのだと、なんでも単純化・象徴化して「つまりこういうことでしょ」とか言いたがる人、特に中年のオバさんとかに多い気がありますけど、ああいうのは基本的に馬鹿です。そんな単純に一言で言い表せるものではないから、あらゆる人々があらゆる物事をあらゆる言葉を尽くして説明しているわけです。だからそういったのの中でも馬鹿を極めたのだと「人生はナントカである」とか言い出したり、何らかの形象的シンボルによって何らかの対象を表そう(現そう)と試みたり、1や2や3や4や…というアラビア数字に象徴的意味を付加して世界の真実だと標榜するたわけ者というかおそらく恣意的なペテンを試みようとする人間も存在する、というわけです。


 例えば、最もベタな例で、「僕は君を愛する」というのがあります。英語で言うところの"I love you."です。ちなみに、これに近いものでRene Descartesの"Cogito ergo sum"というものがありますが、これに関しては一言二言で語れるものではないので、今は触れません。そして、これを詩的に解釈するならば、世界には「僕」と「君」という属性があり、世界における「僕」属性なものが「君」属性なるものに対して「愛する」という行為に及ぶ、ということになります。この文章の認知の仕方は明らかに異常です。
 「楽しむのは今だけ」ならば、「今」という属性に分類される人種のみが「楽しむ」という行為に及ぶものである、ということになります。この認知も異常の極みです。
 これが極端に高じると、生物学的な物理的にオスとメスであること以外に、人類は全て「男」族と「女」族に分けられるとかいうことを認知してしまう、どころか声高にそれを叫ぶというどっかの馬鹿教祖みたいな大たわけな状態になったりもするわけです。

 しかし、ドイツ語を使うとなると、"bin ich deine Schwester"という語の羅列も、「Schwesterはdeineでbinであるのがichなのよ」ということで、頭から読んでも意味は通じます、というか理解できます。つまり日本語はそういう言語であり、ドイツ語はそういう言語である、ということです。だから、たわけた分類のアレやカルトのアレになる前に、免疫的な意味でも、ドイツ語を学んでおくのが日本人にとってよろしい、ということです。
 私とてドイツ語の運用能力などいいところ学部の中級レベルです、が、ドイツ語という言語の構造その他から大いに学ぶものはありました、というかドイツ語をそういった形で学ぶためにドイツ語の勉強を多少やってみたということです。


 そして、このカイロス化した状態を詩的に表現するのならば、まさに「死」なわけです。要するに上でも書いたように詩人というのはそのままカタカナ読みで死人とイコールなわけです。普通の人間が認識するところの世界からは逸脱した、同時に逸脱して世界を認識してしまった、この表現は辞書には載っていませんけど、謂うなればdead out、もっと過激な表現を取るのならdead upしてしまった状態です。まあこれについてアメリカの人に聞いてみれば、普通の人ならば「オー、テリブル」くらいに言われるだけかもしれないですけど、我々の世代のもうちょっと気の利いた、例えばゲーマーな人だったら「オマエはアンデッドモンスターかい、ハッハッ」と言われて肩をポンと叩かれるくらいの感じでしょう。だから逆に言えば、他人から見ればその程度のものだということです。ところが当の本人はcoma whiteだとかcoma blackどころではなく、(当人の中では)dead out、dead upしちゃってるわけですから呑気に笑ってられる状態ではありません。これは私の造語ですけど、十六進数の「FF」な感じの具体的な何らかのDead Endではないわけです、dead out でありdead upなわけです。カントはこれを"Dinge an sich"と呼びました。
 これを、「罠」、「DEATH TRAP」、「time leap」、「夢」、「未来」、「共同幻想」、その他いろいろな表現をもって表す人たちも居ます。例えば、通常未来というのは、簡単に言えば時間軸において先の状態のこと、普通の人間はクロノス的価値意識に従って未来というものをこう認知します。だから1秒後も未来ですし、5分後も未来ですし、3時間後も一日後も5年後も100年後も全て未来なわけです、ということで時間軸における現在より先の時点というもの以外は未来ではないわけです。ところが、カイロス的価値意識に支配されきったアレな人間というのは、未来というものを読んで字の如く「未だ来ぬもの(いまだこぬもの)」と認識します。だから時間軸における現在より先の時点以外も未来であり、自分の知らないことは「未だ来ぬもの」ということで未来なわけです。「未来」という言葉の意味するものをこのように用いるということは、普通は考えられません、というか異常です。仏教の世界では「未来」という言葉をいわゆる「あの世」的に用いるということもありますけど、別に彼らは仏教徒でもなんでもありません。例えば「未来をつなぎ合わせる」という詩なり詞なりを書いた人がいたとして、まさにこれは読んで字の如く吉本隆明さんの言うところの「共同幻想」であり、村上龍さんの作品のタイトル「愛と幻想のファシズム」であり、Schizophrenieになるということです。これが百何十年間に渡って精神科医達が格闘してきた精神分裂病の正体(招待)です。
 
 まあつまりこのような、「言葉でしか考えることのできない」とでも形容しうる者、もう少し皮肉を込めてあてつけ気味に言うならば「言葉の世界に生きている」者というのは馬鹿を極めた連中なわけです。

 しかし、村上春樹さんは「風の歌を聴け」の冒頭部分で書いてますが、「少し気を利かせば世界は自分の思いのままになり、あらゆる価値は転換し、時間は流れを変える……そんな気がした。そしてそれが落とし穴だということにずっと後になって気づいた」という内容のことを。これを「落とし穴」だと認識している村上春樹さんに「愛と幻想のファシズム」な村上龍さんとの対比が見てとれます。村上春樹さんは、大塚英志さん的に言えば「柵を越えて行って帰ってきた」人であり、ある意味では三島由紀夫的エスのコントロールスキルを身に付けた人であり、結果全くの健常人です。実際村上春樹さんは「うなぎが自分の中に現れるどうこう」ということをおっしゃっていたらしいですが、このうなぎというのは蛇やS、つまりはエスを陳腐化してからかい気味に表現したものかと思います。ちなみに、故三島由紀夫氏はこのエスの出し入れが素で出来た人でした、つまりは天才だったということです、おそらく。逆に村上龍さんはおそらく少々スキゾっぽい人です。
 
 そして、無知がどうこうということをやたらと言う人外、外道が居ると言えば居るわけですが、彼ら彼女らにとっては、「知ってる奴は知ってる」、が、「知ってない奴は知ってない、つまり無知」ということになるわけです。彼ら彼女らにとっては無知でない人間か無知な人間かのどちらか二種類しか居ないわけです。一個の人間が世界の事象の全てを認知することは絶対に不可能ですね?ナメんなよとしか言い様がありません。どこの神気取りだって話です。ローマ法王だってこんな勘違いした傲慢なことは言いません。はっきり言って通常の人間から言えば、未来を知ってるだとか何処の(自称)超能力者かおカルトペテン教祖だたわけかコイツとしか言い様がないわけですね。結論を言ってしまえば彼ら彼女らは過去穢れたユダヤ人として排斥されました。現代のイスラエルに住む人々がそのように愚かであるとは言いません。しかし、そういう神気取りな人外はこれからもJudenとして排斥されるでしょう。連中は排斥された方がいいでしょう、何より排斥されることを望んでいるのは連中なんですから。ちなみにソクラテスは「無知の知」を提唱してソフィスト達から排斥されました、が「『無知の知』を『知』として知っていた」ソクラテスこそがソフィストの最たる人間だったわけです。ソフィストの敵であったソクラテスこそが最もソフィストだったというのがオチです。実際プラトンの著作を読めば分かりますが、ソクラテスの言っていることなんてものは幾何学に関すること以外(それでさえも場合によっては)滅茶苦茶です。ソクラテスという人物がプラトンが記したとおりのものであったならば。


 我々日本人が、英語は当然として、ドイツ語という言語から一体どれだけ学ぶことが多いかという話です。英語は当然ツールとして利用され(てい)る意味合いが強いので、現代日本においては必要性と共に身に付けられている場合が多いんですが、ドイツ語という言語からは、それこそ大江健三郎さんが推奨されているような意味合いでの「学び」を得ることができます。

"Der Buchstabe toetet den Geist und der Geist macht den Buchstaben lebendig."

これはドイツに伝わる格言のようなもので、直訳すると、

「文字は精神を殺し、精神は文字を生かす。」

という意味ですが、これはまさに、「与えられた情報を一面的に鵜呑みにする馬鹿な頭には真の文意は読み取れないが(情報をコンテクストを無視して直訳的・場当たり的に鵜呑みにすると馬鹿な頭になる)、俯瞰的に(コンテクストに即して)物事をみることのできる賢い頭は真の文意を読み取ることができる」、という意味と理解することが可能です、というかそういう意味です(だから格言だということです)。



 経済学者の今村仁司氏によれば、人間と動物を区分するものは「死の観念」の存在であり、貨幣とは「死の観念の具象化」であるということです。

「『人間と動物を区分するものは「死の観念」の存在であり、貨幣とは「死の観念の具象化」であるということ』を示す典型的な事実がある。それは人間以外の動物はどの動物も墓を持たないという事実である。これには例外が無い。墓は死の観念の具象化である。 ―中略― 死者たちの共同体(墓)を生者の共同体の不可欠の要素にすることである。葬送儀礼は二つの共同体の結合の儀式である」
 ――今村仁司、「貨幣とはなんだろうか」、ちくま新書(1994)より――(若干私の手で改変しました)

 これは非常に興味深い見解であって、墓とは生者の群れと死者の群れをつなぐ媒介形式であり、墓とは名実ともに小さなヴァルハラでありその入り口でもあるということです。
 先の記事でも取り上げたように、貨幣とは死、暴力、カオス、の封じ込め装置であるということができますが、今村仁司氏によると、墓、引いては墓地というものもそれに該当するということです。つまり、人間にとって死ぬとは墓ひいては墓地という空間的に定義された共同体への帰属だと言うこともできます。そしてこれを発展させて考えるのならば、媒介形式の存在とは人間の関係の存在の根底をなすものであり、科学技術の発展、引いてはinnovationともおおいに連関しています。

 詩(死)や詞(死)を書く人々というのは、「眠り」という表現をよく使います。通常言うところの死者に対して「安らかな眠りを」という言葉は、一般の人々でも送ることがあります。しかし、死と眠りは(彼らにとっては)違うもの(らしい)です。これについてはゴチャゴチャ説明するより、ぶっちゃけ死にたきゃ覚醒していなさい、という話です。
 L'Arc~en~Cielの曲で花葬という曲がありますけど、あの曲は私は発売以来13年間ずっとそれこそ死ぬほど好きなんですけど、あの曲の歌詞ではこのあたりのことが全て歌ってありますね。



 いわゆる現代における新書の存在というのは謂わば詩の対極にあるものです。要するにあんなものはお金を払ってまで買う価値の無いような、当時の右肩上がりの経済成長で先行きは希望にあふれ、(全共闘でみんなでギャーギャー騒ごうぜ、というものも含めて)平和真っ盛りだった頃に、ごく一部の極めてお幸せな青春時代を過ごした当時の若者がそのまま老人になったようなのが若年層や中年層の人間に対して自分たちを尊敬しなくなった腹いせに感想文として文句を垂れているだけです。内田樹さんは、まだ健全なことをおっしゃっておられますが、それでも「アカデミック・ハイ」なるものを提唱しておられる時点で、「アンタ自分が若かった頃の楽しいキャンパスライフをもう一度、みたいに夢見ちゃってるだけじゃないの?」とはツッコミたくはなります。
 少なくとも普通はそもそも学校という場所に「楽しさ」や「面白さ」などといったものを期待していないので、というかそういった場所として学校という機関を認知していないので、少なくとも私はそう問われたら「学校?つまんないですよ、学校ですから」としか言い様がないんですね。世代にもよるのかもしれませんけど、これは我々の世代で言っても半数くらいの人間はそうなんじゃないかと思いますけど。高校は規律の厳しい学校でしたけど、「つまんねーつまんねー」連発してる連中とかいましたけど、私は特に学校に違和感は感じませんでした。で、そうひたすらボヤいていたのは例外なくチンピラ属性な連中でした。大学はそもそも勉強するために行く場所なんで、別に無理してサークルとか入る必要ないんですね。そんなに無駄に人と関わりたいんだったら、今はネットを活用するという方法もありますし、そもそも大学内みたいな狭い領域で社交せずに社会人サークルみたいなところへ入ればいいんですね。早稲田大学とか行けばそういったものはいっぱいあります。だから私は大学時代は学内のしゃべる相手と言えば授業中に会話を交わす少数の人間だけで、あとは酒飲み相手の学外の人間と関わっているだけでした。大学のキャンパスは基本授業に出て図書館へ行って教授の研究室訪れて、すなわちは勉強するという目的のためにあるものなんで。学校という場所にそもそも面白さなんか求めてるのが間違ってるんですね。

 先日も私はとある新書を買ってある程度読んだんですけど、はっきり言って感想文の域を出ません。理に適った内容も書いてありました、半分は。しかしそれこそ例えば私がここで書いているブログの感想混じりの内容にも及ばないような私的感想の羅列がもう半分を占めるようなものでした。数人の人間を殺傷した重犯罪者の行為動機について、それに至る詳しい具体的事情など知る由も術も無いにもかかわらず、それを勝手に自分好みの主観的感想で裁いて決め付けるという、見る(読む)に耐えない愚劣な内容の、反面教師としては多々学ぶもののあるものでしたけど。チンピラが一人暮らしの女性を襲って殺したり、同じくチンピラが「エリートが悪い!」と言って嫉妬に狂って国立小学校へ乱入して無差別に優良児童を多数殺傷することと、一般市民の真面目な青年がチンピラ集団に陰湿かつ執拗な嫌がらせを受け続けて追い詰められて気が狂って秋葉原で通り魔事件を起こして何人も人間を殺してしまうこととの違いも理解できていないような、という週刊誌レベルの低俗悪な内容の。幼児虐待や強姦殺人は鼻で笑って見過ごすどころかそれを助長するようなことを書いている分際で、こういったものに関しては過剰になる、当然女性は怒り狂うに決まってます。こういった低脳、というと少々的外れなので別の表現を用いますが、こういった低俗なことばかり言っているから、こういった芸能マスコミュニケーションな連中は一般市民に嫌われるんじゃないですかね。というよりもうテレビカメラ慣れして、一般市民における「道徳的に教育された」というものとは全く別種の、「意図的にポーズをとることが日常茶飯事になってそれが染み付いてしまった異常者」としか形容のしようがない人間なわけですね、こういうのは。実際に面白いかどうかは別として、まだ画面の前の人たちを笑わせようと努力しているお笑い芸人の方が尊敬できますね。
 この本にも書いてあったことではありますが、近年おかしいおかしいと言われているのは若者だけではありません。もちろん特に主に低学力層の若者のネットを使用した行動は異常の極みです、が、確かにここ数年でネット以前の時代にあった類の犯罪が減っているという事実があるというデータもまた存在します。そしておかしいのは若者だけではありません、昔は存在しなかったような異常な老人も一部に存在します。こういった画一的なことは言いたくないということで断っておきますが、もちろん人による話ではありますが。

 まあご高齢な人たちは仕方が無いと言えば仕方が無いのかもしれませんけど、こういったものは書籍として出版してカネをとって販売するというのではなく、それこそ今はネットというその意味では非常に便利なツールが存在するんですから、こういったものを利用すればいいわけです。だからもうマスメディアの凋落と共にその一部を為す出版業界も確実に異常をきたしていいるので、だから近年出版された本など参見(参考として見する)ことなど止めて、何らかの情報を欲するのであれば、高等教育機関付属の図書館や国立国会図書館へ足を運んでその書籍を読み漁って下さい、ということを私は申し上げています。
 このあたりに自称社会通な人種、最も分かりやすい例としてはマスコミ人その他関連業界というものにそれが仮に漠然とであれ所属する人間の勘違いぶりが露呈しているわけです。
 とあるブログのコメント欄かどこかで非常に的確でかつ分かりやすい言い回しの書き込みを見たことがあるんですけど、もはや現代に至ってはマスメディアというものは「メディア屋さん」なわけです。もやはことここに至ってはこの「メディア屋さん」状態とて彼らに一義的に非があるわけではないんですね。そりゃ官僚とマスコミの癒着だとかなんとか言われてますけど、今から二、三年前、念のために何度でもはっきり言っておきますが私はただの一般市民なんですが、三大新聞社のうちの一つの某新聞社の論説委員の人と一杯酒を飲みながら話をしたことがある(別に話なんざしたくねーけどそういうアレになっちゃった)んですが、「官憲が喜ぶような記事を載せないと彼らも(優良な)ネタをくれなくなるんだよね」とこれに関してはステレオタイプな回答をその人はおっしゃっておられました、が、これは非常に高い確率で建前です。というのは、もちろん官僚の中にも真面目に真摯にお仕事をされる方、ちょっとそういうアレな連中と関わってメディアに露出したがる自己顕示欲の強い方、いろいろな方がいらっしゃると思うんですが、現代の新聞や週刊誌等「メディア屋さん」は自分らにとって都合の良くない記事、つまるところそれが仮に株式会社形態を取らずとも(取ってますが)自分らの謂わば共同体にとっての利益とならないようなものを情報として提示するということは有り得ないわけです。彼らが「メディア『屋さん』」である限りは。二、三年前までは「報道の使命がどうたらこうたら」というものもチラチラ散見されたように思いますけど、もう笑わせんなどころかもうナメんなって話ですね。さすがにここ最近は見なくなりました。

 (ここで、間違えの無いようにあらかじめ言及しておきますが、この国における小学校で行われる教育を初等教育、中学校・高等学校で行われる教育を中等教育、大学・大学院で行われる教育を高等教育と呼びますが、私はこの学問の専門家ではないので詳しくは知りませんが、これはおそらく教育学の広義における定義として定められているものです。)
 そして、このことは学校教育、特に高等教育を行う大学・大学院においても言えることなのですが、もう大学教員・各学生を指導する指導教官たちが「教授屋さん」になっているということです。結論から言うと、私はこれを否定しません。私が大学の時の数学を用いて内容を教える授業の先生で「皆さんは我々の所属する教育機関運営団体に対して授業料を支払います、そして我々教職員はその対価としての教育サービスを提供します」とおっしゃっていた教授がいました。もちろん世代にもよるし個々人にもよるとは思いますけど、私はこれを聞いて、「極めて健全で理に適っている、ラクだな」、との感慨を抱きました。というのは私はそれ以前の段階、小・中・高において、いわゆる熱血教師のような類の教員が嫌いだったからです。あんなもの自分一人がheat upしているだけであって、他の教職員も児童生徒も大迷惑以外の何物でもありません。しかもそれによって児童生徒にもたらされる益はゼロどころかマイナスである場合が多々あります。で、その大学の数学の先生は先に挙げた質問すれば彼らにすれば授業料に見合わない程の教育をきちんと施してくれる先生でした。いまでもこの先生には感謝しています。
 私は内田樹さんに対してはその著書や対談を読む限りけっこう尊敬の念を抱いているので、あまり文句になるようなことを言いたくはないんですが、この人はこういった教育方針に全く反対しておられる方です。はっきり言って個人的感想を言わせてもらえば、そういうことをおっしゃる内田さんは学生を見捨てずにきちんと最後まで面倒を見る方なんですか?という疑念を少々抱かざるを得ません。その数学(系の授業を担当する)の先生は、試験で基準点に満たない者は切り捨てて単位を与えない……というわけでもなく一般の大学教員と同じくある程度は大目に見てくれる、そして且つそれに向かって努力学習をするという人間への教育(サービス)はそれが割に合わないものであっても惜しまない、という人でした。
 だから、やはりどういったかたちであれ、マスメディアにこれぞここぞとばかりに登場してくる学会芸者のような人物にはどうしても疑念を抱かざるを得ません。ちなみに内田樹さんや中島義道さんのことは私は尊敬申し上げております。ちょっと養老孟司さんはあの安っぽい新書だとかを読めばわかる通り、言ってることは空疎だけならまだしも滅茶苦茶です。だから読み物として楽しみ方によっては面白いでしょうが、やはりあの内容では読み捨てられて即古本屋へ売られてしまうだろうなとは思います。

 このあたりのことを解決したいのであれば、grandes écoles(グランドゼコール)のようなものを創ればいいと思うんですけどね。
 大方の大学生は勉強する為に大学へ進学するわけではない、というのがこの日本という国における大学教育の現場の現状です。何故勉強しないか?彼らにとってはメリットが無いからです。大学の勉強の成績などロクでもなく悪くとも、出身大学の名前さえ良ければ、イイところに就職できてしまうからです。つまりは、その勉強しない学生というのは、勉強などロクにする気も無いのに遊びと就職の為だけに大学へ来ているわけです。そして大企業や優秀な実績を挙げており、従業員に高額の給与を支払うことを保障する企業でさえそのような学生をいとも簡単に受け入れてしまうんですね。ちなみに私の大学時代の成績は惨々たるものです、というのは学科の授業の勉強などはほとんどやらずに図書館で本読んだり借りて読んだりしてただけだからです。というかむしろその為だけにキャンパスに足を運んでいただけのようなものです。だから遊びには興味が無く且つ成績は悪いという私みたいなのもたまには居ます(そのかわり好きなように論文書けと言われればそれなりのものを書きます、興味無いものだったら駄レポしか出しません)。まあつまり現状のこの日本という、少なくとも教育に関する後進国では、単に後期中等教育までの教育内容によって得られるモノが必要とされているだけであって、高等教育によって得られるモノがほぼ全く生かされていない、と言ってしまっても過言ではないです。それならば高卒の人間を雇いまくればいいではないか、という話ですけど基本的に勉強嫌いが9割を占めるこの日本という後進国では、(高レベル・高偏差値の)大学に入る為の大学入試というカタチを設けそしてその(高レベル・高偏差値の)大学出身の人間しか雇いませんよという形態を作り上げないことには、後期中等教育によって施される教育内容をすらほとんど誰も学ばないから、というわけです。
 つまりその解決策として、その卒業資格によって、肩書きと被教育内容を充分に享受できる現行の大学・大学院とは異なる高等教育機関を設立すればいいと思うんですけどね。もちろんいわゆる高偏差値の大学の学生はそれなりのプライドを持っていますから、現行の国立高専や如何に技術指導内容が優れていたところで専門学校の類では満足しないでしょう。当然周知の通り現在は法科大学院というものも存在しますし、政策研究大学院の類の大学院大学も存在するでしょうけど、やはりそれといっても現行の大文字としての「大学」「大学院」とは大差無しというのが実情では、という問題です。
 もちろん進む職種によって進学先を決めて、教養・学識を身に付けたい、またはそれを生かした職業に就きたいという学生は大学へ行けばいいし、その上で何か特定分野の研究者への志望を持つ人間は大学院へ行けばいいし、主に実学関連のものを身に付けたいという人間はgrandes écolesへ行けばいいわけです。まあ、とは言ってもこれはほぼ文系や理論科学系の人々の場合ということであって、現にある東工大とかはほとんどgrandes écoles的ですね。

 必死に反アメリカを唱える人もいますけど、アメリカの人たちの援助がなかったら今の日本は現状よりもっと程度の悪質な半端ではない犯罪天国だったでしょうね。教育面から鑑みるのであっても。国家云々という議論をしていられるなどという状況ではなく、それどころかどこかの国の植民地になっていたかもしれないですね。



 少々話がズレましたが、だから、養老孟司さん的な考え方をするのならば、例示的に言って、育毛剤で薄髪が治療されるのであれば、先の記事で書きましたけど、それはHelmとしてのWilleが甦ることを意味するということなんでしょうけどね。養老孟司さんは(たしか)「唯脳論」でこういうことを書いておられます。関係ないですけどこのあいだ「Σ」という名の育毛剤の宣伝が流されているのをちらりとテレビで見て、「ああ、キタか」と思いました。
 これは非常に身体論的に意味合い深いものです、が、よって、養老先生が自信満々の方であるとは言ったものの、この価値思想を鑑みる限りにおいては、Nichtsein、少なくともそれを志向しているとしか今の私は表現する術を持ちません。この人は無政府主義者なんですかね?(政治政党的な意味ではなく純粋にイデオロギー的な意味で)この方は共産主義者なんですかね?こんな示唆・教訓の深いものをお書きになっておられるのに、何故あんな陳腐な内容スカスカの「バカの壁」とかいうたわけた内容の新書の駄本をお書きになるんでしょうね?ゴースト稼業の人のことを上の記事で言いましたけど、本当に自分で書いてらっしゃるんでしょうか?あんなにご多忙な御仁が?

 ともかく、身体論的に言うところの、WilleのHelmと頭髪の禿げについて、戦後の西洋医学を学んだ医師に伺ったところ笑われました。たしかに私とてこの類のことをアタマから信じ込んでいる訳ではありません。が、東洋医学的なものの見方・考え方から学ぶものも大いに存在するんですね。……まあ医師とて特に精神科医はその特定の知識しか持たない、且つものの見方がおかしいという人も中には居ます。私の個人的な経験では、小児科医や眼科医や歯科医や整形外科医や内科医や外科医の医師の人たち、いわゆる医師一般ではこの「中二病」な傾向を持つ人間とは出会ったことがありません。
 ヒットラーが晩年に受けていた体調不良のための治療は、所謂今で言うところのホリスティック治療のようなものでした。だから当然薬物は使用されていましたが、それでもどちらかというと東洋医学的な意味合いを持つものではあったらしいんですね。



 最近、私は鏡で自分の顔を見ると、Heinrich Himmler、ナチスの死神ヒムラーによく似て、少々の不気味さと奇妙さの混じった戦慄を覚えます。ネットで誰でも簡単に観覧できるようになっている修正済み画像ではなく、書籍やドキュメンタリー映像作品のね。馬鹿げた子供滲みたものの見方だとは考えますけど、やはり思想・観念・価値意識等そういったものに肉体の外形というものは影響を受けるっぽいと言えば受けるっぽいです。私自身はこんなもの信じたくはありませんが、身体論的に言えばそういったことになる、可逆性の自体の可逆性、というのが、それ自体があのあたりのことを提唱する人たちの(皮肉にも)「定説」なんでしょう。
 しかし現実問題として治安に関して誰がどう見たって問題が今そこに現場の問題として存在しますね?(道徳)教育に端を発するね。……SS, das Himmler untersteht……私はいわゆる過激思想の持ち主ではありませんので、悪しからず。



 前の記事で「『まごころ』なる言葉やそれに基づく態度には反吐が出るほどの嫌悪感を普通は抱くはず」とか書いちゃったんですけど、今では少々反省しています。というのは、警察庁のホームページを観覧していて、(たしか)警察庁長官の人の顔と「まごころをこめて、治安を守ります」みたいな標語の宣伝が出ていたんですね。これを見て中島義道さんの言葉を思い出すと共に「はあ、はあ、なるほど」と思いました。というのは、「本心からそれに自己がそれに基づいていると思う時」とある特定の行動に及ぶわけですから、それはそれでまごごろなわけですね。だからフロイト的な意味でのまごころは何度も説明したように最悪なものです(ちなみに福沢諭吉はフロイトにおけるリビドーのようなものを怨望と呼んだそうです。オス(メス)におけるメス(オス)を他のオス(メス)と交わらせない為の戦争の火種としての)。しかし、一般的に日常会話で使用するにおいての「まごころ」というのは、「本心からそれに自己がそれに基づいて」いると本人が思っているからまごころには違いがないんですね。だから現代社会で警察官の人たちが(本心からそれに自己がそれに基づいていると思って)普通な、正常な、まともな形で治安を守ろうとしてくれるのならば、それは極めて健全なまごころであり、ありがたいことだなと、ぼんやりと思ったりしました。


2011/07/25
Juden...Jugen......Gericht...‘...Are I ?’......‘Alles Gute.’
 アレな人への、また人をアレにすべくして。




 まず始めに、Adolf Hitlerという人物はドイツ(主なプロイセン)の人間ではなく、オーストリア人です。

 ヒットラーという人物は、オーストリアの貧民街で過ごした青年時代に培ってしまった裕福なユダヤ商人ひいては富裕層そのものに対する怨嗟、つまりは極めて個人的な私怨を糧にしてあのような我々現代社会に生きる人間においては考えられない程の愚行を行ってしまったということです。しかもヒットラー個人がdas Drittes Reich(the Ⅲrd Empire)を維持運営していたわけでは決して無く、具体的な社会の運営方策や戦時中の戦略や綿密な戦術を考案し実行していたのはder Führer配下の将校や士官たちでした。ヒットラー個人にはその能力、というかそれに与する能力はおそらくなさそうです。ヒットラーは第一次大戦中は伝令兵として戦場を走っていました。

 まあしかし、事実どういった辛酸をヒットラーが幼少期から舐めさせられていたのか、それを個々の事実に至るまで知る術は現代に生きる少なくとも我々日本人には知る術は皆無と言い切ってしまって過言ではありません。
 しかしヒットラーはそこまで私怨に取り憑かれていても、まだ正気を保ってそれが理性的とは言わないまでも、指示を軍事機構の下部へ対して出すだけの正気は保っていました。菜食主義の栄養不良状態であったにも関わらず。



 近親相姦はユダヤ人が自らの血を守る為に繰り返してきたことと言われていて、ヒットラーもこれについては評価していました、というか過去の歴史を遡るにどこの貴族でも行っていたことという記録や叙述みたいなものが多々残ってます。これを評価しているという点においてのみ鑑みるのならば、ヒットラーというのはやはり非常にアブない人です、仮にそれがリビドーの流出を防ぐ為の(無意識的であれ)理念・信念であったとしても。
 そしてこれは、キリスト教で最も禁忌とされていることです。ここまで読んでいただいた読者諸賢にはご理解いただけるものと存じますが、最も最悪なのは母子相姦です。これに関しては約2000年前のキリスト教徒を猛烈に迫害した悪の権化であるローマ皇帝Domitius Nero(Jugen)が実母Agrippina(Juden)と交わったという叙述みたいなものが残っています。で、その結果どうなったかというと、ローマを一から再建するとか大たわけなことを言い出して放火してローマの街は火の海になったんですね。しかもそのJudgement執行の罪を着せられたのはキリスト教徒でした。


 Thomas Robert Malthusは、人口は等比級数的に増加してゆくが、それを養う為の食料は等差級数的にしか増加しない(させることしかできない)よって必然的に飢饉や疫病や戦争が発生しそれに合わせて人口は減る、という極めて単純なことを言ってますが、このマルサス先生が生きていたのはその頃大陸ではナポレオン帝国がどうであるこうであると言われていた1800年前後のイギリスなんですね。だからこれは今で言う我々にとってはその存在が当たり前の科学技術等は皆無に等しかった時代の発想としては当然なんですね。
 それを意図的に起こしたところにナチスやヒトラーの問題点が存在します。ものの見方によってはヒットラーがそれが意識的なものであるにしろ無意識的なものであるにしろ泥(罪)を被ったとも考えることもできます、が、しかし事実どういった人間の意思や思惑がどういった様に働いていたのか知る術はありません。だから極端なことを言えば、戦争にはおそらく必ずといっていい程何らかの個人の意思が介在する、というかそれを戦争と呼ぶわけであって、あの時代におけるヒットラー的問題意識の最善の解決策として、放っときゃ良かった(善かった)んです。
 現代においては、十何年か前まで中国の人たちが行っていた、子供が一人以下の世帯には報奨金を与えそして子供が二人以上の世帯には税を課すという「一人っ子政策」というのがこの上ない賢策です。人口が増えればGDPが増えて豊かになってバンザーイじゃねえかという単純なことを言っている人は初等のマクロ経済学の勉強をした方がよろしいです。ただ単にそれを学ぶという観点においては、基本的に経済学は物理学とは比べ物にならない程簡単なので取り立てて苦労にはなりません。

 もうあまりサブカルには触れたくないんですが、徳間書店刊の宮崎駿さんのアニメ映画「風の谷のナウシカ」の全七巻の漫画版があります。あの作品自体は質も高くて興味深いものですが、登場するナウシカは本当に心底bitchであって反吐が出る程の不快感を覚えます。あのナウシカは本当に戦争を始めとした人間の不幸の具現体、Judeの具現体であって、一見健全に描かれた蘇妲妃みたいなもんです。


 ナチスがアウシュビッツを始めとした強制収容所で行ったことは、とにもかくにもユダヤ人を無意味にしごいて殺せという最悪なものではなく、なんとかして規律正しくさせよう、しかしその規律正しさに如何様なるものをナチスの幹部が見出しそれへの促しを行ったかは不明ですが、そういったものでした。おそらくは何とかして更正させようとしていたのかもしれません、しかしこんなことは言及する価値も無いような、ナチスSSの下級士官たちや使い走りみたいなのが暴力行為のための捌け口として滅茶苦茶なやり方でユダヤ人の人々が凄惨な目に合わされた、というだけのことであり、それはもう物証的観点・歴史学的観点・心理学的観点その他様々なアプローチで証されています。大戦中に平和的解決を図ろうと試みていたヒムラー個人やあとSAあたりはまだマシだったみたいですけど、あのSSの構成員は今で言うところの単なるチンピラ集団みたいなものでどうしようもなかったみたいです。
 そしてさらに大戦末期になると、敗戦を悟ったナチスはもう何でもいいからユダヤ人の数を減らせと言わんばかりに無差別殺戮を始めました。だから途中からは彼らが独自に描いていたその何らかの意味合いは失われて単なる虐殺へと傾いたのであって、やはりナチスの行ったことは最悪です。

 ナチスやヒットラーの何が最悪だったかというと、WWⅡまでのあの当時、ユダヤ人の人たちは一般の学校へ通うことを許されず、ユダヤ人学校へ入れられていました。だから、当時今の我々の言うところの義務教育にあたるものはおそらく受けさせてもらえず、又ユダヤ人学校でどのような教育が実際行われていたのか現代の日本人に明確に知る術はありませんが、ともかくナチス支配下のドイツだけではなくその当該の社会で排斥されうる者としての教育を施されていたのは紛れも無い事実です。それを明確に認知していたにもかかわらずアドルフ・ヒットラーという人物はあの愚行に走ってしまったわけです。本当にヒットラーが本心からあの愚行に走ってしまったのか、それとも何らかの物理的・経済的・心理的圧力がかかっていたのかどうかは不明です。しかし、ヒットラーが何の根拠にも基づかずにユダヤ人を絶滅させるべき人種だと信じ込んでいたというのはこのあたりのことを研究する専門家の間での定説のようです。しかしだとしたらヒットラーという人物は「絶対」悪だということになってしまうので、ちょっと微妙なところです。ちなみに論拠めいたことは「わが闘争」の中に書いてあります。
 しかし、またヒットラーをそのように駆り立てたのがユダヤ人であるとの見方も存在します。だから、一方的に「ヒットラーが悪い、20世紀の最悪の権化」だとか、そしてまたその逆に「実のところユダヤの陰謀だ」とか短絡的な見解を個々人が安易に想起しうるものではありません。ちなみにこんなものはネットの掲示板の駄言レベルです。

 現代では、様々な有益な知識が残っていたり、優れた技術が多数存在します。だからもうホロコーストの様な過去の悲劇を繰り返す必然性は全く存在しませんし、そのような悲劇が繰り返されることはありません。これについては、様々な技術や知識を残してくれた先人たちに感謝すべきところであり、それこそ過去ユダヤ人として排斥された人々に対する感謝の念を抱くべきところです。
 それは主に欧米、その中でも特にヨーロッパの古典文学や、例えばアメリカの技術者の人たち、また他にも様々な地域の文学・医学的知識、そのような先人達が、多岐に渡る知識や知恵や技術を現代に生きる人間たちの為に残してくれました。
 これに関しては、本当に過去ユダヤ人と呼ばれていた人々に感謝の念を表明しなければいけないところです。おそらく人類史上、地球上で最も知力が高いのは彼らなので。



 何が問題であるかと言えば、自称具体的統治者が欠陥を持つ人間なのであって、そこにその当人以外の人間の意志だとか思いだとかではなく「存在の機」が介在していれば社会体制は上手くいく、とまでは言えないまでも暴君ネロの様な愚昧な人間に統治されている状態よりはまだいいです、おそらく。だから別に現代日本の議員内閣制についてとやかく言うとかそういったつもりは皆無です。
 天皇陛下は象徴と呼ばれていますが、君臨すれども統治しない者としての性格を最も良く的確に表しているのは首長という表現です。

 Wienという街の名はWieenの方が分かりやすいような。
 自然の音に耳を傾けるべし、と。医師に難聴と診断される人は、おそらくLudwig van Beethovenのように本当に耳を物理的に病んで聴こえないのではなくて、聴くまいとしているのでは?ということ。
an + dem AI
 ティアマト殺し。




 たしかドラえもんの映画シリーズでのび太の日本誕生というのがありましたけど、あのアニメに出てくる原始人のクラヤミ族みたいなもんです、詩人というのは。つまり、現代社会においては極端に頭が悪いです、ああいった連中は。現実検討能力の無い、全てが名詞化された世界に生きている「あー」や「うー」といった擬声語とも何かの名前ともつかない声を発している知能に障害を持つ人たちと同じです。だからああいったのを「世界の真理だ」とか「世界の真実だ」とか標榜する頭の悪い人間は、現代社会においてはたいてい学力や知力の低い人間が多いです。あんまり言いたくないんですけど、最も分かりやすい具体的な指標として低学歴にそういった人間が多いです。あと文学部とかだと余程頭のいい大学でないと、こういう頭がイカれちゃったのが多いです。先天的に障害を負っている人たちに何も問題はないですけど、分からないで趣味で紙に鉛筆で詩を書いているとかそういった人はまだそこまで問題ないと思いますけど、現代において詩というものが如何なるものか分かった上で(あまりよろしくない)詩を作ったりしている人間はどうしようもないです。
 子供の頃の記憶なので不確かですけど、のび太の日本誕生のラスボスは女の腐った老婆キガゾンビでした。

 「頭が悪い」や「頭が良い」だとか「愚か」「馬鹿」や「賢い」だとかいったことについては、自分の頭の良さや賢さを、それが自分の特定の特別な職業やそれによる金銭獲得額によって表されるものであると勘違いしている馬鹿な人間も居ます。人をナメ腐ったような歌詞でフザけた歌を歌って宇宙の田んぼだか何だかの一発で何十億もの日本円を稼ぐのも居ました。

 現代社会においてそういう人間が物事の理みたいなものを理解しているかというと、そうではなくてただ単にもの覚えの悪いというか知識量の少ないというか知識をぜんぜん頭に入れることができない人間だというのが大抵の場合のオチです。Hermann Hesseは天才だが、最近減ったような感がありますけど二昔三昔前のテレビ等のメディアのアイドルのなんとかパーちゃんはただのバカということです。というよりはもうああいうので無理しなくていいから、ということです。彼ら彼女らは非常に単純であって、複雑な事というか複雑な物事の関係とか分からないです。例えば幼稚園児や小学校低学年の児童がものの名前ばかり覚える単純な人間というのは至極当たり前なことですけど、高校生や大学生がこんなに単純というかものを覚えるしか能が無いという状態だったら困るというか大問題です。だから高校に入るか入らないかあたりになって数学ができない子供とかにこういう単純な人間が多いです。こんなことは私がグダグダ説明するまでもなくだいたいリアルで人間関係にまつわることと学校の試験の点数とか照らし合わせて見てれば分かります。はっきり言えば不良人間は頭が悪くて勉強はできません。が、何故現代社会においてまで彼らがこういった単純なものに引っぱられてしまうかというと、こういう人たちは学力というよりは全般的に知力が低いです。しかしまあすぐに役に立つ例えばお店の名前や食料品の名前なんかの固有名詞を多々知っている場合があったりするので、こういった人たちのことを一概に頭が悪いとか言って簡単に済ますだとかそういったことはできません。


 「穢」という字には「ワイ」や「アイ」という発音もあります。愛やIと同じ「アイ」。あとベタな「わ~い」とかのセリフとか。元をたどれば。
woman danger, human nature
 自然と自称のニヒリズム。




 私は最近になってやっと所謂「グレる」という、不良少年達の感慨を知りました。例えば中年のオバさん達のあの恵比寿顔と閻魔顔の差というか手の平の返し方はあまりにも薄汚いとしか表現しようがありません。連中は、将来性がある、自分の役に立つ、何らかの利になる、そういった場合は上辺だけはニヤニヤしながら多々おべっかを使ったりゴマすりを行いますけど、そうでない、自分らの得にならないと分かった途端に彼女らは一発で手の平を返します。ここまでやるかというくらいにやります。だから男性の感覚で言うところの友達というのはおそらく女性においては存在しないっぽいです。連中の得意技は裏切りと袋叩きです。あんまりこういう一概的にひとまとめにするようなことは言いたくないんですけど、母親だろうが近所のオバさんだろうが街歩いてる若い女だろうが繁華街の綺麗なオネーサンだろうが全部同じです。まさに使い捨てというか、あの女という生き物は皆芸能人感覚です。ほぼ例外無く「男ってバカよね~」とかそれが意識的にであれ無意識的にであれベタなマンガや安いドラマに出てくるセリフの如く思ってます。まあよくやるよとしか言い様が無いです。だから母親というのは自分にとって最大のユダだと考えるのが妥当です。彼らは10代の子供や下手をすればそれ以下の時分にコノ手の平返しをやられるのかと思うと、そりゃグレるわという話です。中には甘い顔と言葉で10歳かそれ以下の子供に悪い内容のことを教えたり甘いお菓子なんかをドカドカ食べさせたりするオバさんとか居るんですね。最悪の場合オッサンとかでも居ます。で、そういったのが頭の中で何を考えているかというと、「こんなに甘やかして可愛がってくれたオバさんを忘れないでね~」程度です、意識的には。悪意を悪意と自覚していないのか、もしくは子供の将来とか考えてません。もうナメているとか馬鹿とかいうよりは、今思うとああいったのは本当にタチの悪さを極めてます。ちなみにオッサンでこういった人間の場合は馬鹿か悪人です。
 こういうオバさんに関すること言えば、桂歌丸さんみたいな人が演壇で中年男の女房のグチとかいうシチュエーションでしゃべってるイメージがありますけど、あの演壇における講談という陳腐なイメージに捕らわれるとマズいことになります。本当にああいった話のスジそのものだと考えた方が良いです。物語論だとかゲームとかのキャラクター論だとかはこういったところで生きてくるのかもしれません。まあ本当に外道としか言いようが無いです。「ああ、こうやって人間ダメにされていくんだな」とは思います。悪い女にダマされてどうこうというのは、「手を出しちゃってどうたらこうたら……」という軽いニュアンスのものではなくて、本当に騙されるわけです。これに関してはそれこそ詩的な解釈というか恒等式的な意味合いと考えて、「悪い→女」⇔「女→悪い」と考えても間違いではないと言い切ってしまっても過言ではないです。「いい女」なんてものは世界中何処を探したって居ないというと言い過ぎですけど、これは形容矛盾です。ところが女にしてみれば手を出してくる男が悪いわけであって、男にとっても女にとってもその先にあるのものはドツボでしかないです。
 で、この女という生き物は自分らが醜い中年女や老女になったと理解するや否や今度は今まで意識するどころか媚びへつらうようなマネをする対象であった所謂イイ男に対して嫉妬しだすどころか攻撃を始めるんですね。自分らに対して接触してこないどころか意識すらしてもらえないと理解するので、「自分のものにならないなら殺してやる」と言わんばかりに。キムタクの悪口をオバさんになって突如言い始めるとか。ブサイクの勘違いどうこうというレベルではないというよりは、もう根本的に何かがおかしいです。

 他に癇に障る例だと、他人の行動を制御するにおいて何故か自分に無根拠にその行動を抑制する権利が存在するかの様に発言をするというものがあります。「じゃあ勝手に○○すれば!」とかいう昔のベタなマンガに出てきそうな女キャラがホザいてそうなセリフに象徴されるようなものです。この場合においてこういう言動や行動を取る女性が物事に関することにおいて無知ではなく理知的な判断のもとそうであるかというとそうではなくて、ただ

「男から見れば過剰なまでの生存欲求。女は死の世界の住人であり、そしてかつそこで生きようともがいている、男から見れば凄まじく生存欲求と生存能力の高い生き物(例えば流行性感冒に対してはヒトのオスとメスではメスの方がこれに対して強い抵抗力を持つ)。つまり地獄っちゃ地獄。保身。群生体。繁殖と繁殖力。指図したがり。口うるささ、やかましさ、うっとおしさ、そうぞうしさ(オバタリアン等の偶像に象徴されるように、オバサンを想像すればたやすい)、これらを全て同時に持つということ。共時性。見た目大好き。みてくれやうわべ、これらで物事や人格を判断すること、そしてこれらを好むこと。うわべのごまかし、問題を根本的に解決しようとしないこと。妬み。怨嗟。私怨。愚かさ。逃げ、逃避。嫌なものからは目をそらす。陰湿さ。しつこさ、偏執狂。隠蔽。劣等感。恥意識。全体主義。悦楽、快楽主義、極限状態での快楽。マゾヒスティック。上昇志向、選民思想、つまりはイジメ好き、イジメられるのも大好き、嫌がらせをするのもされるのも大好き。虐待。性欲。熱狂。興奮。戯言、それによる自他の現実検討能力の喪失の促し。自己顕示、自己顕示欲。依存心、他者をはじめ「他」を求める心理。恐怖。絶望。不安定さ。狡猾、狡さ。人生とやらへの期待。(無為に)希望を抱こうと試みること。邪悪さ。性悪、性悪説。悪意。悪徳。狂気。穢れ。」

からそういった行為に及んでいるだけである、というのがよほど賢い女の人でない限りのほとんどの場合です。で、やっぱり賢い女性でも他人に対して「自分が見えてない」とかなんとかいうセリフを吐く、これもやはり女性の女性たるものの亜種だったりします。具体的対策を提示せずに、叱りつけるというよりは怒りつけることにイメージ的意味と自己充足と快感を感じているような人たち(女性)です。これはコミュニケーション能力の存在の弊害であって、やはり女性の方がコミュニケーション能力は高いです。ペチャクチャよくしゃべるおばさんとか。


 人間の感情を無意味に持ち上げるだとかいうのは本当に女性的な万物の元凶なんで、有害でしかないです。「愛(穢)」という名の性悪というか、女性器的であるとすら言ってしまうことが可能です。性悪説なんてものは本当に俗悪というか、他者への恐怖心の源、そしてまたその恐怖心自体が「性悪説」の大元だったりします。デカルト的に言うとcogitatioというのは本当に穢れそのものでしかないです。石原慎太郎さんはこれを我欲とおっしゃってます。だいたい物事の理というのは決まってるんで、そういうものに関してあまりにも無知どころか、(デカルト的発想に基づいた表現を用いるならば)そもそも意識すら向かなかったりすると自他共に最悪なことになります。つまり現代社会における科学的技術の具体的革新だとかそういったものを除いて、ルネサンス的なもの人間にしかできないこと自分にしかできないことつまりはオンリーワンなことなんてものは存在しません。極論するならば東大卒の官僚がアニメやマンガを描いたり小説を書いたりした方が面白いものが出来上がるということです。ああいった人たちは頭の良し悪しとはあまり関係なく賢いのでそういった馬鹿げたことは行わないですけど。
 あまりにも自分の好みにおいて物事におけるとある対象を上だと決め付けてしまう思い込んでしまうことが何かを為すにおいて失敗の原因であることが多々あります。例えば、「馬鹿」と「阿呆」という言葉はそもそも対置を為すものとして元来は使われていました、が、現代においてはどちらも程度の低い・低レベルな・下のものという意味合いでしか使われていませんし辞書にもそういった意味しか載っていません。で、この馬鹿と阿呆、バカとアホというのは、これに関しては属性だということです。だから、(これに関しては)上下という発想では問題があるので、そういった上と下という価値意識を植え付けられている少なくとも戦後の現代社会に生きる我々日本人としての解決策として「知識を重んじることが上と認識する」という方法が存在すると言えば存在します。それをカオスがどうこうと言ってケチをつけるのはそれこそ馬鹿にもほどがあります。あと「頭が良い」「頭が悪い」というのはこれとは別口です。頭が良いがバカな人というのは特にネットを見てれば分かるとおり多々存在します。

 ちなみに馬鹿と阿呆だと、阿呆の方がマシです、馬鹿というのは最悪なので。おそらく何百年かそれ以前の語源を辿るに、馬鹿というのは「馬や鹿のようなもの」、つまり現代にその名残として残るものとして分かりやすいのは身体論的に言うと馬面(うまヅラ)の不細工な顔ということです。馬面の顔の人と言うとちょっとアレなんですけど、唇が分厚い顔をしている人には鷲鼻の、いわゆるユダヤ鼻の人が多いです。昔あった絵本か漫画か何かの「いじわるばあさん」の偶像はそのユダヤ鼻も含めて女性の女性たるものを象徴してます。有名人だろうが普通に外歩いてる人だろうが、他はネットでもハードコピーでも広告だろうが、今は整形技術とかで日本人には有り得ない顔でも何とでも造れるので、あまり人の顔を観察するだとかは止めた方がよろしいです。こういったことに関しては、精神科医の春日武彦さんが書いた「顔面考」というかなり興味深い本があります。
 で、何でこういったことが昔はやたらとうるさく言われていたかというと、昔は食べ物の質が現代に比べて悪かったんですね。だから「行儀が悪い」ことを昔の人は罰し、「行儀の良さ」を大切なものだと考えていたというのもあります。つまるところ「行儀の良さ」は「善さ」に繋がると考えたわけです。栄養不良に因って身体感覚が現代の人間と比べて非常に過敏だったということです。江戸時代の文化を調べるに、衛生面から言っておそらく雑菌の作用なんかも明らかに関係してます。逆に言うとあまり現代の栄養豊富・カロリー過多な食事を摂りつづけていると、善悪の区別がつかなくなるということでもあります。それの権化が国語辞典の「馬鹿」の項目で「程度が低いこと、愚かなこと、頭が悪いこと」と記載されていることだったりします。何でも上下で分類するというのはヤバいです。下で言うようにこれの最悪なパターン(マザーコンプレックス)が他者を含めた世界の全ての物事をself(自己)を基点に上下で分けるということです。

 江戸時代には、佐川急便のシンボル画のモデルになっている飛脚がわらじを履いて両腕と両足を同じ側を同時に前へ出すというやり方で走っていました。これは長距離間において現代日本人には走行不可能な程のかなりの速さだったみたいです。たしか東海道のどれどれの宿場から江戸までということで、文部省発行の公式の書類か何かに日数や距離等の具体的数値でデータとして残っています。要領としてはちょうどスピードスケートの選手が片腕を遠心力を利用して錘(おもり)として利用しながら氷上を滑るということと似ています。このやり方がそもそもの日本人の体型には合っているわけです。明治の開国期に欧米から入ってきた現代日本人の右手と左足・左手と右足を同時に前へ出すという歩き方や走り方は、日本人にはその遺伝的特質からして合っていないわけです。これは武術家の甲野善紀さんもおっしゃっています。時代劇等でよく見られる江戸時代の侍の一対一の果たし合いでも、にじり合う時はそういった体の使い方をしています。そしてこういった体の使い方をする場合には足の裏は間違いなく地面とぴったり合っていて偏平足の状態です、というかそもそもわらじというものがそういったことを前提に作られている履物です。

 だから、「男ってバカよね~」と思っている女性は馬鹿の意味をおそらく分かってないです。いじわるばあさんの魔女つながりの特徴だと、魔女が同じ魔女を魔女以外の人間に対して「あいつは魔女」と言って密告するのと同じで、女性というのは基本的に「決める」つまり物事や人格を意識的・思椎的に決め付けるのが好きです。だからいわゆるキャラオタ(キャラクターオタク)とかの人は多分女性が圧倒的に多いです。



 大方の正常な人たちには分かっていることなんですけど、マザーコンプレックスというのはそれこそ共同幻想的な諸悪の根源でしかないです。もうこれは社会工学的観点からして社会に存在する妄念、それを経済学的な物の見方をすると可変性を持つ価格ということであり具現化された媒介形式としての貨幣の存在であり、医学的定義によると精神分裂病(統合失調症)であるということです。もっと一般的な分かりやすい表現を使うなら、上で載せたことの復唱になりますけど、私怨です。さらに分かりやすいのは嫉妬です。この私怨だとか嫉妬心だとかにかられやすい人というのは、自分がその時々で私怨に呑まれて行動しているだとか嫉みの青い炎に焦がされて行動を取ったりそういった言動を発しているだとかそういったことが100%確実に自分自身で全く分からなくなってしまってます。100%確実にというのは、もうこういったことは文学的知識に頼らなくても脳科学者や精神科医や先に挙げた身体論の研究者だとかスポーツ科学(工学)の研究者の人たちが物理的に解明してどんどん実証していってくれているということです。これを確かめたかったら自分の体の痛むところや悪いところを調べて病院へ行って医師に具体的な治療方針その他の話を聞いてみれば分かります(それでも医師から有意義な答えを得ることができなかったら、文学的知識が効きます)。
 ちなみにこういったマザーコンプレックスの権化みたいな女性的な人というのは2011年現在の60代前半の例のゼンキョートーだかそういった辺りの人たちに多いです。

 何故私にこういったことが分かるかというと、私自身近年まで約13年間くらいずっとこういったイヤな人間で、しかも多種の統合失調症用の抗精神病薬の服薬でこの状態が一時的に非常に悪化していたことがあるからです。このブログも多々毒気や「嫌」なものが混じってますが、嫌味を言う人間というものはやはり最悪です。堂々と当人の目の前で問題提起をしたり下手をすれば罵倒したり上手く殴ったりするほうが有効である場合さえもあるので、ネチネチといわゆる「女の腐ったの」みたいに他人に嫌味を言うだとかいう行為は論外です。


 基本的にマザーコンプレックスの人間というのはマザーになりたがります。だからオカマっぽいナヨナヨした男性やホモっぽい男性や同性愛者にはマザコンが多いです。gayと呼ばれる人たちはこれとは別です。分かりやすい偶像としてはオタクの人たちやビジュアル系みたいな人たちです。オタクとビジュアル系というのは非常に近いところにあります、というかほぼ同義です。どちらもクズです。ちなみに私自身はつい最近まで思いきりコレというかオタクというかマザコンの典型でした。マザーコンプレックスというのは医薬品や音楽や肉体に負荷のほとんどかからないような簡単なトレーニングできちんと治るものなので、現代においては特に心配することはないです。統合失調症の治療の一環として音楽療法や作業療法というものがあったりします(これは場合によって悪影響なので注意が必要です)。ちなみに抗精神病薬リスパダールはヒットラーになりたいバカな人以外は飲んだらダメです。リスパダールを発売している製薬会社のヤンセンファーマから今年の初めに同じ抗精神病薬のインヴェガという薬が発売されましたけど、これはけっこうオススメです。

 マザーコンプレックス、統合失調症というのは基本的に伝染します。というのは、具体的な遺伝情報によりそれがどうであるこうであるというものもおそらく精神科医の人たちが研究してますけど、それよりももっと単純に「マザーコンプレックスの人間というのはマザーコンプレックスの生活環境や社会環境を作り出す」ということに因ります。というかそう考えるのが最も合理的です。これがしっかりと説明されているのがおそらく養老孟司さんの書いた唯脳論という本です。ちなみに統合失調症の人間が子供を作った場合その子供が同じ病気を発症する確率は一般成人が0.8%であるのに比べて10%前後であるというデータがあるみたいです。
 私は父母とも非常にマザーコンプレックスの強い人間であるという環境に育ちましたが、間違いなく統合失調症であるような人間に捕らわれて生活すると間違いなくマザーコンプレックスの度合いが強くなって最悪の場合統合失調症と診断されるということになります。だから統合失調症と診断された人は症状が改善するまで他者と関わることを止めるのが最善です。だから医師はこの病気の人には入院を勧めるわけです。

 Viktor Emil Frankl著の「夜と霧」という非常に有名な本があります。この本にはアウシュビッツの環境下でのユダヤの人たちの非常に強固なホメオスタシスを物語る部分が出てきます。あの辛辣で過酷な環境下での「病気にならないこと」の異様さが強制収容所を生き延びた著者の経験を通して語られています。これは実のところ「病気にならない」のではなくて、「病識が無い」状態というものです。これが現代における精神疾患だったらまだ救い様があるんですが、とは言っても脳の病気であることがもう解明されているのであまり容易く「救い」なんてことを言えるものでもないんですが、肉体の物理的な病気であるにもかかわらず病識が無い状態だったらただの悲劇です。
 自然に完全には溶け込めない人間の本質として、やはりデカルト的発想は必然です。というのはコミュニケーションが不可能な口の無い詩人(死人)というのは存在しないからです。だから、ある程度の年齢になって異様な状態で凝り固まってしまったらそれを解除して正常な状態に戻すということは並大抵の努力では不可能です。つまり、ユダヤの人たちはホメオスタシスを志向するホメオスタシスが非常に強いということです。最悪の場合ホメオスタシスとホメオスタシスで相互補助でこれを自己の中で高めあっていきます。だからこういったマザーコンプレックスの人間は例外無く自虐的です。まさにDinge an sichです。だから昔の記事でも書いたように、ヒットラーも非常にユダヤ的な人間です。マザーコンプレックスの人間というのは一種の「決まりごとには抵抗しないと殺される」という行動原理がプログラミングされているような人々です。
 この「夜と霧」という本はみすず書房から刊行されてますが、10年くらい前に出た新しい訳のものよりも昔からある霜山徳爾さんという心理学者の邦訳によるものがオススメです。

 男女問わずマザーコンプレックスを持つ人間というのは非常に他者攻撃的というかとある一固定の「敵」を必要とします。つまり非常に他者依存的だと言うことができます。それの最悪なパターン、マザーコンプレックスにおいて最も守るべき者が同時に憎むべき者である状態になって骨肉相食相高めるという最悪な状態になってしまったのがドミチウス・ネロとアグリッピーナの場合です。だからマザーコンプレックスの女性が母親になると最悪なことになります。しかもこのマザコンの女性というのは自己顕示欲が強くて男をいろいろな意味で誘う場合が多いです。さらには母親になりたがります。だから凄まじくタチが悪いです。しかも自分のタチの悪さに全く無自覚である場合が多々あります。分かりやすい例としてはMarilyn Monroeみたいな女性です。ちなみにマリリン・モンローは父親が不確定の母子家庭という悪環境に育った人です。コノ人は唇の分厚い(一見)セクシーな顔をしてます。
 彼ら彼女らは物事がどうなっているかを考えたり知ったりする能力が無いので、なんでも全て人間関係でカタがつくと思い込んでます。というよりは目に見えない人間関係こそが最後の彼らの(プライドの)すがりどころです。こういった人間達が上手く人間関係を運ぶことに熟達しているかというとそうではないどころか真逆であって、空気を読めなくてウザがられるどころか彼ら彼女らは破茶滅茶に無政府主義的です。もう引きずり降ろし合いの殺し合いです。現代においてこれをユダヤ人だとかたわけたことを言うのは間違いであって、そうではなくて無教育な人間達です。連中はこの人間関係というものにおいてもDinge an sichです。だから、自分が数学ができない無力さに対して怒りを感じているのに、そこでそれを自分で見て見ぬ振りをして数学というものそのものに対して「こんなの何の役にも立たない!」とかイタいキレ方をしてみたりするわけです。ちなみに数学が無かったら現代日本の社会に存在するものの99%は存在しません。建物も道路もありませんし、自動車や船や飛行機なんかありませんし、食べ物は調理用具も火も無いので肉や魚は食べれませんし加工食品は当然ありませんし野菜もしなびた虫食いだらけのものしかありませんし天候不順があれば即全滅ですし、パソコンも無ければネットなんざ社会に存在しません。で、最後の最後の彼ら彼女らの(プライドの)すがりどころは、それを挑発だと解釈することです。最悪に手の付けられない程に馬鹿なのだと自分に挑発される価値があると思い込んでます。だから、物事一般というだけではなくとある場面場面に応じて何がどうなっているかを言葉で説明されると、それを自分の言葉による反駁能力の無さを初めとした無知無能に因るものではなく相手が自分を挑発しているという人間関係に変換して解釈します。修正仕様の無い一番カワイソウなのは「挑発の仕方が上手いですね」で全てを片付け(られると思い込んで)る馬鹿です。当然こういうのはTPOに合わせた行動はできないです。理由も無く「ムカつく」と他人に対して言ったりそういった態度で意図的に接したり、「ムカつかされている自分は被害者であり自分をムカつかせる相手に悪が存在する」という自分にしか通用しない理屈で自分の正当性を訴え出たりもしますが、その当の相手はそもそもムカついてなどおらずそれにより当然の如くそこで初めてムカつかされるので、当然この訴え出は却下されます。周知の通りこういった人間は女性に多いです。

 ファザーコンプレックスというのは形容矛盾です。おそらく心理学的に言ってもファザーにコンプレックスは存在し得ません。哲学的に考えてもこれに関してはただ、世界がそこにあるだけ、だからです。

 女性を襲ったりするこれまたタチの悪い男子達に多いのは、最近私もやっと知ったんですが、純粋にその当該の女性と関わりたいとかではなく、「何だアノ女調子コキやがって一発カマして修正したろか?」という発想でやるんですね。だから下手をすれば彼らの中ではそこに性欲が直結していない場合すらあるのかもしれません。ちょっと不謹慎な表現ですけどファシズミックな善意だったりするのかもしれません、が、仮にもしそうだとしてもこの場合はそれが裏目に出ます。要するに、これは結論だけ言うと、方向性としては間違ってないんですが、これはやる側もやられる側もその人の本性としか言い様が無い上に女性は少なくとも意識上では嫌な思いをするに決まってますから、コレ自体としては絶対にやってはいけないことなんですね。というのは、こういった類の女性というのはやられるとますます増長するからです。やられればやられる程彼女らはマザコンの度合いを強めていきます。何故かというと、自分らでも表面的な意識や行動から概観するに自分らがマザーコンプレックスを持っている人間であるという自覚が無い、というか、自己像みたいなものが破茶滅茶に歪んでいる場合がほとんどだからです。だから二、三昔前に流行ったアイデンティティがどうのこうのというようなものにしがみついている人間はほとんどがマザコンだったりします。
 これの防止策として有効なのは、「人の嫌がることはしない」と「女には(表面的にも)男を気持ち悪がらせる」ということを二つ同時に子供の頃から徹底して教え込むことです。特にマザーコンプレックスの男性には後者のキモがらせるというのは非常に効果的で、女性に近寄るまいという意識というかそれこそそういったホメオスタシスが生まれて、そのコンプレックスの度合いが強ければ強いほど女性には近寄らなくなります。そして女性と関わらなくなるうちにどんどんマザーコンプレックスの度合いは弱くなって健常に近づいていきます。そして〆に一番肝心なのは、幼い子供の場合は母親に対する依存心が強いので、母親との(精神的な)関係をすっきりと断ち切ることです。子供の中に母親に対する(精神的な)甘えが存在するままでこれを行うと下手をするとマザーコンプレックスが余計に増長します。ちなみに私は30年間女性と個人的に関わったことは一度も無いんですが、それでもマザーコンプレックスが非常に強かったので、オタク少年~オタク青年の典型みたいな人間でした。
 しかしやはり中には本当に性悪としか言い様の無い、褥に狂った豚としか言い様の無い畜生みたいな女も居ます。褥と嫉妬は明らかに関係してます。こういう人間は肉体的にも不健康なばかりか、下手をすると肉体的に不健康であることを自ら志向していることが多々あります。誤解の無い様に言っておきますが私は先にも言った様に童貞です。あまりそういった性欲剥き出しの女とかをある程度の時間見てると気分が悪くなるので。別にホモセクシャルでもないです。関係無いですけど、だから中学とかは地獄でした。中学あたりになって色気を出し始める女の毒気みたいなものに耐えるのに必死だったので。近松門左衛門じゃないですけど「女に殺される油地獄」みたいな。どれだけ男子校の方が気が楽で勉強がはかどったか分からないと今になって思ってます。


 マザーコンプレックス的なものが何故排斥されるかといえば、それは人口過多をはじめとした、それが主な原因となる様々の社会おける不幸へとの玄関口になりうるからです。これは、個々の人間にそれを認知することが不可能というだけであって、(社会)工学的意味合いにおいてのみ言えるものではなく物理学で考えてもおそらく|∞|/0の相関関係が存在します。……女性が気を許すと男はすぐに飛び掛ります。だから男性においても女性においてもマザコンは危険です。
 民主主義が為されるには女性の社会参加が不可欠なのではなく、民主主義というのは女性も男性と同等の権利を持って参画が可能である状態というのが正しいです。だから、この記事で何度も説明しているように、過度に女性が社会に参画しているような状態、つまり女尊男卑が平然とまかり通るような社会は、それは崩壊の中途にあるというかいわゆる「腐った」社会であると言うことが可能です。

 しかしラジオとかで女性の声がしてるとそれはそれで落ち着きます。野郎の声は基本的に萎えます。男性でも伊集院光さんとかやまだひさしさんみたいな面白いトークのできる人の番組だったらいいんですけど、あまりそうでない人のものはちょっとナニかなとは思います。だからこういったことも場合によりけりだということです。ネットは万人が使えるツールなんでポチッとブラウザを操作して見るのを止めればいいんですけど、ラジオは今ではある種アングラなものなのでまだいいとして、テレビの場合はそれこそ(比喩としての意味で)社会工学的に考えてもポチッと電源切って終わりとかそういうレベルで済むものではないです。



 全ては教育の問題です。人種がどうとか民族がどうとかいう問題よりも先に性別の問題、genderではなくてsexの問題が来るはずです。二年前か三年前に日本で生物多様性に関する会議というものが開かれていましたけど、やはり遺伝的に決まっていることは決まっています、が、少なくとも現代の日本の人間社会に関することと言えばほぼ確実に教育問題に端を発しています。



 たしか20年くらい前にあったファミリーコンピューターのドラゴンクエストⅣのソフトはArtficial Intelligenceが昔ながらの技術で搭載されているということが喧伝されているものでしたけど、あれはおそらくあらかじめ用意された何パターンかのプログラムを途中までの行為のデータから選ぶというものだと思いますけど、というかそもそもああいったものはプレーヤーの選択行動からプログラムを形造っていくものなんだと思いますけど、マトリックスみたいな怪しい映画で出てきそうな完全に先読み形でプログラムにプログラム組まれるということになると、どうなるんですかね?それこそ進化の秘法みたいな。



 個人的なアレな話で申し訳ないんですが、私は自分の人生失敗が多かったがセックスだけはヤらなくてよかったと、今になって心の底から思ってます。

 ちなみに女性にバラの花を贈るなんてのはギャグマンガで刷り込まれるキザだとかなんとかそういったベタなイメージ以前に露骨な女性への侮辱です。アレな意味として知っている人間にとっては。情熱がどうとか言っている場合ではないです。あんなもん「私はあなたとセックスがしたいのですが?」としらふでダイレクトに問うているようなもんです。
Hydra
 切り捨て教の敵。
 切っても切っても生えてくる。




 マンガというのが何故悪いかというと、具体的知識や情報を空気で読んでそれが絶対の事実だと思い込むようになるんですね。例えば酒飲み会の席で場の空気を読むとかそういったことはすごく大事なことなんですけど、子供の頃からマンガにおいて場の空気を読むことに慣れてしまうと、マンガ的な滅茶苦茶な価値意識が現実にまで浸透していくんですね。子供のゴッコ遊びで済んでいるうちは問題無いですけど、間違えても間違いだと気付かないどころか、間違えても自分が正当・被害に合わされた自分は悪くない・危害を加えた自分が悪い、むしろ間違えてもそれが自分、とか大馬鹿丸出しな自己認識というか自己認識自体が大馬鹿丸出しなことになるんですね。
 微分積分はグラフを使うと理解しやすいですけど、マンガを読み慣れても現実的な問題に対する適応能力や対応能力が増すわけではないです。
 「~みたいなイメージ」という表現がそもそもマンガ教育の体現たるそのものです。もうマザーコンプレックスという社会的妄念が全ての元凶なんで、本当にやめてもらいたいことというのはあります。結果としてマザコン人間もそもそもの「マザー」性を失わなければいけないような痛い目を見ているし見ることになるようなことというのは現代の日本の社会でも多々残ってます。
 cartoonは良いがcomicは良くない、漫画絵は良いがマンガは良くないです。

 結果としてどういうことが起こっているかというと、(若い)女にいい大人の男が媚びる・媚びざるを得ない形を社会的に作り上げているということです。マザーコンプレックスの男性がこれに大きな役割を買ってます。66年前に原爆を落とされて戦争に負けてから、そういった教育が少なくとも私が知る限り自分が成人する10年前まではひたすら行われてきたということです。これはアメリカという国が悪いとかそういったことではなくて、古来日本からの気候・風土を保ちながらきた66年前の日本という国にGHQが敷いた占領政策の一環が混じり合って成し得た悪疫だということです。ここのところ日教組がどうとか叩かれてますけど、私はこの日教組という組織がどういったものなのか知らないのでこれについて何も言えないんですが、おそらくはそういうことです。中には「私立学校は企業だ!」とかいう内容のことを言うコイツ極左の馬鹿かと思わせるようなことを言う人間も居ます。
 マンガ的な美形の色男やビジュアル系(どちらもマザコン)というのはコレの具現体です。ポイントは女全般にとって好ましい男ではなく、自分と同質なものを求める若い女から鑑みてコミュニケーションの相手として理想的な男である、ということです。ちなみに、だからオタクは美形を描く、特にオタクの女性は美形を描き好むということです。

 もう今となっては戦前に事実どういった教育が行われていたのか知る術はありませんけど、おそらく教えることはしっかりと具体的情報として言葉で教えられてたと思います。私は右翼主義者ではないですけれど、「右翼=戦争讃美者」みたいなイメージで刷り込まれすぎてるんですね。戦争というのはある程度必然的に起こるものであって、国家という組織を運営できなくなったら天変地異や疫病でも起こってくれない限りはそうなるということを歴史を鑑みれば誰でも理解できます。150年くらい前から、技術革新によって農作業等の本来的な労働において必要とされる労働力がどんどん減っていって、それと合いまった人口過多により、社会的損失をもたらす無い方が良い職業とそれに携わる人間というのが跋扈しているわけです。これは別に私が単に原始人的に近代化を否定しているとかそういったわけではなくて、現代日本で騒音撒き散らしたり色々な意味で公害になる職業に携わるくらいであれば死んだ方が良いが、しかしまたそれを自覚しつつもそれによって生きている人々が多々存在しているということです。ちなみに2011年現在これ以後に戦争となると核ミサイルの飛ばしっこです。



 (被害)妄想の強い人間のほとんどはやかましく騒々しいです。例外がオタクの人たちです。
 マザーコンプレックスの女性が母親になると何故マズいかということですけど、例えばオタクの根暗少女を例にとって見てみればいいんですね。猫とか犬とかをかまうところを観察してみればいいんですけど、彼女らは対象に好意を抱いているにもかかわらず非常に扱いが下手です。グニャグニャグニャグニャかまって猫や犬が嫌がっているのにそれを喜んでるとか思いこんで滅茶苦茶に扱うんですね。小学生の子供とかでも理科の授業等で植物なんかを育てさせてみればおそらくよく分かります。強制されるとやる気が無い場合が多々あるので、仮そめの点数か何か基準を作ってそれを結果として教えることをあらかじめ知らせておくという形でやらせてみればいいんです。おそらく全般的に彼女らは上手く育てられません。だからやはり社会的に弱い立場の人もそれが愛であれ憎であれ何らかの形では何らかの対象を抑圧するということです。

 マスコミは自分達の放火魔性を自覚してません。「こんな悪いことがありました!」と言うから、はあそうなのかと諦めが起こり、犯罪の増加を助長させていくということです。なぜそういったことが起こるかといえば、共同幻想的な妄念を煽るバカな公立小学・公立中学の「みんな仲良く」「みんな一緒」教育とマスコミのタッグがそこに発生しているということです。これはおそらく全世界中で日本にしか起こらないことです。



 基本的に抗精神病薬は、覚醒もできず睡眠もできなくなるという、具体的記憶にまつわる妄念の想起と同時に行動不能言動不能を患者にもたらす口封じ薬の役割を果たします。一見睡眠中はぐっすり眠れているように見えてひたすら悪夢を連発的に見ますし、脳は全く眠れていない状態が訪れます。この効能は精神科医の投薬方法や薬物としての抗精神病薬に問題があるというのではなくて、統合失調症の患者は具体的記憶にまつわる妄念ばかりを人にしゃべったりそれをひたすら自分の中で膨らましていったりするので、まず不快な具体的記憶の除去もしくは消化を精神科医は試みるということです。つまり治療の過程で主に精神科医にどんどん言いたいことを言うその他で溜まっているものを吐き出していって、投薬量を順番に減らしていって、投薬が終わった時点で初めて、朝覚醒して夜睡眠するという健全な生活パターンが取り戻されて完治、ということになります。だからリスパダールも服薬量を減らしていって飲むことをやめてはじめてJansenismということです。ちなみにこのリスパダールという薬は非常な居ても立ってもいられないような地獄の不快感を飲む者に与える薬なので、皆ほとんどの被治療者は耐えられずに途中で自らの意思で服薬を止めてしまう薬です。バカな例示でアレなんですけどドラゴンボールの漫画の超神水のようにリスパダールを飲めばジャンセニズムを身に付けられたりBlaise Pascalの様に頭が良くなったり禁欲主義に走ったりするわけでは決してないです。中には作業療法の一環その他としてではなしに患者を治療中に他者と関わらせようとするフザけた医者が居るんですけど、ああいった集まりの中には精神病患者ではないそういった特定の役割を負った人間がウジャウジャ居ます。だからそういったのに釣られて不用意に薬を飲まされたり最悪の場合悪事に加担させられたりすることも多々有り得ます。ちなみに私はこの間とある大学病院へ行って医師に「7年前にはじめは集団ストーカーの認知がまさに統合失調症の症状だといって投薬を開始されたんですけど、どうみても違いますね?」と言ったら、その医師はもう決まりの悪そうに顔を卑屈に歪めて斜め下を向いて否定さえしませんでした。もうそういったのは精神的に弱っている人間やそもそもからして精神的に弱い人達を食い物にしている以外の何物でもないんで、特に抗精神病薬を服薬中に見知らぬ人たちと関わるだとかは止めた方が良いです。昔の記事でも書いたように、全ての抗精神病薬は服薬者の短期記憶をひたすら壊していくので、余計に危険です(学生のうちにこの薬を飲むと服薬期間中は勉強は全くできなくなります)。空気をひたすら読めなくなるのでその意味でも危険です。そして一番やってはいけないのは、服薬中に折り合いの悪いマザーコンプレックスの人間と関わるということです。なぜならば、その状態でネチネチネチネチした嫌がらせを受けると、妄念ばかりが膨らんで頭が憎しみで破裂しそうになり、下手をすると通り魔事件の加害者のような最悪なことになるからです。だから抗精神病薬を服薬しながらネットを見る、特にネットの掲示板を見るだとかは、絶対にやってはいけないことです。ましてやネットを介した会話等でも何処の誰だか分からない人間と関わるだとかは論外です。薬と悪い対人関係のコンボで具体的記憶にまつわって憎悪を過剰に想起するというプログラミングがどんどん為されていきます。それを経験した当時は何とも思わなかったようなとるに足らないとある具体的記憶について、それにまつわる憎悪を想起するように刷り込まれて植え付けられていきます。これは精神医療における治療の負の外部性が起こりうるということ、皮肉にも一種の再世界化が起こるということです。つまり、精神科医は「悪くなっていくのは原因不明で、そもそも原因不明の病気」とかたわけたことを言っていますが、善悪の区別のつかない人間がそこで悪いものに接するといくらでも洗脳されうるということです。そもそも「不明なもの」が原因ということで原因不明なのは当たり前です。これはドイツ語的に考えると一発で理解できます。それはNichtseinであり、|∞|/0の相関関係そのもの、現代におけるわけのわからん新興宗教の教祖その他、つまりは「マザーコンプレックス」ということです。ところが先の記事でも書いた様に、こういった人たち、こういった状態にある人間というのは非常に自虐的になっています。「やるべきでないことだからこそやらなければいけない」とかそういう念慮から抜け出せなくなってます。おそらく女性に関する性的なものといえばこういった感慨なんだと予想します(だから失礼ですけど私は女性には同情します)。アルコールをはじめとする依存症というのはこういったものです。売春婦は居ても売春夫はほとんど居ません。アル中その他の中毒と統合失調症というのは非常に近いところにあります。「妄念ばかりが膨らんで頭が憎しみで破裂しそうになり」というのはそういったことです。どんどん人格が荒廃していきます。まさに愚劣なヒットラーになるわけです。どう頑張ってもパスカルにはなりません。その意味で入院というのは最高の措置です。だから、集団ストーカーを行ったり被害者を貶めることに火をつけたり油を注いだりするチンピラ集団や危害を加えるような犯罪者はどんどん警察の人たちにお願いして取り締まってもらわないとダメです。ちなみにこのストーカー行為や嫌がらせを行うことを好むのは女性です。というかもう精神科医がこれの片棒をかついでいるような有様です。ちなみにネットなんてものは対象のコンピュータをいくらでもhackして情報を盗み取られます。ハッキングツールがそこらへんに落ちてたりいくらでも流れてたりします、絶対にそんな何処の誰が作ったんだか分からないようなツールを使ったりしたらダメです。つい最近も参院議員の公務用PCがやられてましたけど、メール等で自分のことも含めて個人のことをグダグダ書くだとかは絶対に行ったらダメです。

 他人に危害を加えるだとか嫌がらせだとかそういった関連のことだと、もともとやかましかった暴走族の騒音がやたらこの半年くらい五月蝿いんですけど、豚みたいな音を立てるあのバイクという乗り物は警察官の白バイの乗車を除いて公道を走ることを法律でサッサと禁止してもらたいんですけど、そりゃもう珍走とか珍走族とか露骨にバカにされるわけですとしか言い様が無い。尾崎豊なんてあんなのただの子豚です。だいたいI love youがどうとか歌ってる時点でオカマみたいな男がどうとかいうレベルではなくて身体(論)的にオカマ野郎です。例えば私は邦楽ではビジュアル系のJanne Da Arcというバンドの曲だけものすごく大好きなんですけど、この人たちの曲には尾崎豊みたいな女性器臭のただようクサい歌はあからさまに狙ったギャグソング以外ほとんどありません。だいたいそもそも人口の99%は尾崎の歌なんかに興味は無いわけで、尾崎に共感する若者がいなくなったとかなんとかそんなもん元々ほとんどいねーよバカという話です。今になってそれがいなくなったというのは、「尾崎に共感する若者がこんなにいます!」とか喧伝していた低レベルなマスコミが一般市民を騙せなくなったのでわざわざそういったことを言っているだけか、もしくはマスコミという日本社会から隔離された自分らが社会の中心に居ると勘違いした東京ローカルなイナカ者の閉鎖村落内だけで尾崎豊がもてはやされていただけで別に一般市民は誰も相手にしていなかったとかそんなところがオチです。
 今生きている人の悪口をあまり言いたくはないんですけど、村上春樹さんと尾崎豊はすごく被ります。村上春樹さんの小説はちょっとナニな男がすごく背伸びして無理している感じがしてあまり好きになれないんですけど、尾崎豊もこういった感じがします。というか村上春樹さんの小説は非常にマンガ的です。冨樫義博さんみたいな気持ち悪いマンガを描いている人間が、シコシコと小説というジャンルでやってますという感じを受けます。
 しばらく前の記事で演歌だとかなんか書いたと思うんですけど、Janne Da Arcの曲は歌詞だけではなくて音の使い方や曲の構成も含めて物語的なんで、学ぶものも多々ありますし、非常に良いです。この人たちは大阪の人たちですけど、なんか大阪の人たちというのは芸人魂というかあらゆるところでどんな場面においてもどんな社会的状況においても気が利いてる感じがします。ちなみに私は京都はクソがつくほど嫌いです、祇園や八坂に象徴される愚かでしかも頭も悪い勘違いした全てを間違えたブサイク売春婦みたいな。そういえば任天堂とか京都の会社です。今思うと本当にファミコンとかブサイクな玩具でした。アレはどれだけの社会的損失生み出してた(る)んでしょうね。




 意図的に作り上げられたアニメの産物であるのび太や出来杉君の社会的イメージを今の日本の社会から消し去ることは不可能です。ああいったマンガやアニメのせいでどれだけの真面目な少年たちや青年たちが被害にあったかということであり、どれだけ人間を貶めれば気が済むのかという話です。逆も然りであり、昔あった不良中高生が主人公のケンカ暴力マンガも、不良人間が実は良い奴とか絶対に有り得ないんで、あれも非常に社会的な損失を産み出してます。あれに比べればアニオタの人たち御用達の二次元美少女アニメやゲームの方がまだマシです。学ぶ点と言えばのび太は射撃が百発百中でジャイアンは暴力魔ということくらいです。
amino acid
 穢土時代。




 江戸時代は獣肉忌避でしたけど、基本的にこれは日本人の本質です。和食は寿司とかを除いて例えば京野菜とかいっぱいワサワサ使ってあるような薄味な料理とか外国の人には味的にメチャメチャ嫌われますけど、日本人の体には良いんですね。というのは欧米の人特に白人の人たちは非常に男性的性向が強いです。日本人でも北野武さんみたいな人は非常に白人的です。だから彼らはそもそも対ボリュームカロリーどころか対カロリー栄養価の低い日本食なんか食べてたら体がもたないということです(多分米よりも小麦粉を食べた方が良さげです)。こういったものは誰の目から見ても明らかな通り遺伝的に決まってます。太りやすい人というのは非常に女性的であり黄色人種的です。ちなみに太ってはいるが太りやすいのではなくてただメチャメチャに食べる量が多いだけという人も居ます。
 だから食べ物の好き嫌いというのはもの凄く大事なことです。野菜をあまり摂らなかったりするのは良くないですけど、人によって肉体に合う合わないというのはあります。しかし小中学校の給食なんかは先生がきちんと監視して子供に残さず食べさせた方が良さげです。というのはもちろんあの年頃の子供達は骨格も含めて肉体が成長期にあるからです。むしろ母親達に各自治体の教育委員会の用意した朝食と夕食の詳細な献立を押し付けた方がいいくらいです、おそらく。ちなみにスナック菓子やジャンクフードばかりを食べるというのは偏食というのであって、食べ物の好き嫌いというのとは違います。アレはヤバいです。


 給食とかスーパーやチェーン店で買った弁当に髪の毛が入ってると萎え萎えな気分になりますけど、髪の毛を始めとした毛というのは昔から非常に汚いものとされてるんですね。多分昔の人は「体から出てきた黒く穢れたもの」とか考えてたんではないですかね。ポイントはただぼんやりと思ってたとかではなく、そう考えていた、ということです。
 床屋とか行くと女性のお顔剃りとかメニューにあったりしますけど、おそらく体毛とか剃った方がいいです。何故脱毛という行為がイタいかというと毛が生えなくなるんですね。毛根を焼くとか本当にバカ丸出しです。

 私自身自分がそうだったからよく分かるんですけど、馬鹿な人間には考え方という発想自体が無いんで、いくら何らかの考え方を教えても無駄なんですね。自分のあまりにも独善的というか独観的というか毒の混じった主観でその考え方の是非を裁いて決め付けて、ひとつのシステムとして学ぼうとはしないんですね。だから逆説的にこういった人間はあまりにも物理的に過ぎるもの(「物理」感をかもし出しているもの)のみに逃げ込んだりもする場合があります。機械いじりのみが好きだったりする人やオタクの人たちとかが分かりやすいです。理科系の人にはこういった社会的なものについて独善的・独観的な人が一部に蔓延ってたりします。オタクの場合でコレのケースだと現実とアニメ・マンガやゲームとの区別がつかなくなっているかなりアブない人たちです。この逆なら創造的でいいんですけど、サブカルのお話に現実を見ちゃってるような病的な場合です。



 「働らかざる者食うべからず」というのは、農作業を主とした日光に照らされた下で汗を流しながら働くということのみが働くということであった何百年も昔の人たちの知恵です。つまり現代でデスクワークの人たちがもりもり食ってたら病気になったり死んだりするということです。現に中年や壮年の勤め人の男性で肥満体になって生活習慣病やもっとひどい病気を患っている人たちはたくさん居ます。逆に肉体労働者の人たちは毎晩寿司でも焼肉でもステーキでもジャンジャン食えばいいということです。
 日雇いの肉体労働者の人たちの給料はどう考えたところで低すぎます。もうあの人たちはあの凄まじい重労働で日給8千円とか一万円とかでコキ使われることが決まってるんですけど、あんなもん毎晩寿司が食えるくらいに日給三万円とか四万円とかもらっていいです、というかそうなるはずなんです本来的には。それこそミクロ経済学とかで考えればそうなるはずなんですね。なんでそういうことになってるかというと、必要の無いものにお金が流れてるんですね。何かといえばイデオロギーです。観念です。本当にアレは社会的な死荷重生み出してるんで、わけのわからん目に見えないものに吸い取られているとしか言い様が無いです。例えば新聞の広告欄かなんか見てみればいいんですね。こんな程度の低い頭悪過ぎる本誰が買うの?バカなの?というモノしかもう今や載っていません。で、どっから金が出ているかと言えば特定のイデオローグな正体不明な何かのもとに金が回されているということです。国庫や家計の大部分に金が必要十分に回らなくなるということです。だから社会の何処にでもそれらは観察されるということであり、現代のこの国の問題としてそれは主に若者や社会的に弱い人たちの給与から具体的な金銭額という具体的な形で差っ引かれているという形態をとって現れているということです。大卒の初任給が20万円前後とか何処の後進国だという話です。これを特定の誰か偉い権力者が利権とカネをむさぼっているとか解釈してだれこれの政治家が悪いとかがなり立てるのは早計というよりはそれこそ馬鹿です。これは左翼がどうとか右翼がどうとか天皇制がどうとかいった問題というよりは、そういった漠然とした名すらないイデオロギーの下に社会体制を作り出さざるを経ない現状が現存し、少なくともコレは文化人類学的な古来よりの日本という国のいかがわしい因習であるということです。
 ちなみに「現場主義」とやら程ナンセンスなものは無いです。現場をイデオローグ化した瞬間に到来するのは無政府主義です。現場というのはどこへ行っても現場なんで、例えば軍隊で先頭に立って闘う兵隊さんたちも伝令兵も指示を出す将校達も全て現場に生きてます。だから「現場主義」ほど(形容)言語的に矛盾していて破滅へのデマゴーグの具現体であるものは無いです。エヴァンゲリオンじゃねえナメてんのかフザけんなくたばれ消えて無くなれという「話」です。あんなブサイクなアニメに金が回ってるのかと思うだけでムカつきますね。あんなもんだったらガンダムのプラモデルを買って作ってた方がよっぽと勉強になります。



 ミクロ経済学は豚の学問……と言うと少し言い過ぎであって、あれは理論経済学の分析ツールです。あまり役には立たない分析ツールだと思えばいいです。あれは数学的なお楽しみと考えれば良さげです。マクロ経済学は勉強しておかないとマズいものなんで、ミクロ経済学のような一見空論めいたものというわけではないです。たしか中央大学の法学部だったと思いますけど、法律を教えるところでもマクロ経済学を勉強させるところがちゃんとあるみたいです。



 江戸時代の日本なんてものは本当に息苦しい社会です。参勤交代とか馬鹿にも程があります。家康は最初から商人の勃興を狙ってたんですかね?楽市楽座を運営して商人に活動の場を与えると同時に一種の封じ込めを為していた信長の方がまだ賢い感じがします。
 「自然と生きる」だとかいうセリフはバカもほどほどに、というお話です。これはどう考えても「自己(self)以外のものと調和して生きる」ということとは真逆の、「selfを基点としてその上で自然というものと馴れ合う」というものです。前者は非常にマクロ的な発想であり、後者は非常にミクロ的な発想です。有名なところの、西洋的な「自然と相対する」というのは前者です。ここ数年は少し減ったのかもしれませんけど、現代日本を的確に形容している後者は根本的に何かがおかしいです。基本的に自然をナメ過ぎです。ここには畏怖して尊重するという概念というよりは(身体)感覚が全く抜けてます。(身体)感覚として全く抜けてます。

 Joseph Alois Schumpeterは、「資本主義・社会主義・民主主義」という著作の中で資本主義はその失敗の結果ではなくその成功の故に社会主義に成り代わる(転覆する)と言っています。ちなみにこれはカトリック的なゆるい性善説というものとは少し違って、社会哲学的な必然性とでもいったものです。ここで現代において唯名論的なものが勃興するというかそういったものに回帰するということは無いでしょうけど、Max Weberの「社会科学の没価値性」のようなものは当然の様に認知されています。プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神は、それはやはりそもそものルターを祖とする「聖書の文字句に従って」というプロテスタント的な価値意識というか唯名的なものではなくて、人間における何らかの精神的風土に根ざしたそれ自体の産物という時点であまりよろしいものではないです。Bachの曲は聴いていると心地良いですけど、心頭しすぎると毒になります。



 日常生活で食品に関することについて、殺菌・消毒や洗浄をほとんど行わない頭の狂った豚みたいな人間も居ます(私ではないです)。「保存料や食品添加物はよくない」ということを必死に喧伝するバカな人間も居ますけど、摂取し過ぎは禁物として、保存料や食品添加物一般よりも雑菌や毒素の方が比べ物にならない程に人体に有害なんですが?保存料の類の物質が全く使用されていない食品を摂取するより足が早くて腐敗が進んでいる食品を摂取する方がはるかに人体に悪い影響を及ぼすんですが?しかも自然食品を謳っている加工食品に限って消費期限を過ぎても全く腐っていないんですが?馬鹿なんですかね?死ぬんですかね?
Virginie
 Nicht nach Licht.




 やっぱり人間最も大事なのは生殖器ではなくて脳なんですね。子供の頃よく時代劇とか見たんですけど、たしか大岡越前のドラマに江戸の小石川の医師役で出演していた竹脇無我さんという俳優さんがいますけど、我を無くすとかいうのは古代中国の聖人でも多分無理なんで、やっぱりその意味でもデカルトという人は天才です。水木しげるさんの漫画で、戦時中に極限状態に追い詰められた兵隊が食欲をとるか性欲をとるかということをテーマに会話してるものがありましたけど、その場合間違い無く人間食欲を取ります。生殖能力がダメになっても生存能力は残る上に生存能力が皆無になったら生殖能力も共に消えるというのもありますし、そもそもどう考えたって思椎能力を失ったら生存のための行動を取ることが不可能になるからです。

 昔は穢多・非人と呼ばれる人たちが居ました。この事実を著作の中で堂々と書いておられるのは私が知っているところでは哲学者の中島義道さんだけです。今はどうなっているか知らないですけど、私が子供の頃は教科書に載せることすらはばかられてました。
 穢多と非人というのは全く違います。非人というのは人間扱いされていない人のことで、何百年も千年も昔に人身売買とかで奴隷だとかにされていた人たちのことです。で、この非人を非人たらしめていたのが穢多です。人外外道のことです。最も有名で分かりやすいのは山椒大夫です。あとは昔話に出てくる山姥とかです。

 百年に満たないような昔でも、貧しい家庭では保身のために子供を犠牲にしてました。というのは、そんな時代に人身売買が行われてどうこうというのではなくて、エゴイスティックな保身のために多産を行っていたということです。ロクに教育を与えずに単純労働力として利用したり、自分の面倒を見させるため等、犬猫のように子を孕む孕ませるような人間が考えているのはそんなところです。現代でもテレビで時々やってますけど、貧しい子沢山の家庭とかあります。



 「苦しみに寄り添う」だとか、「弱さに共感する」だとか、そりゃ寄り添って共感してもらったはいいが、何の問題の解決にもならずにそのまま自分も相手も苦しんでいるだけだったウゼえだけだからどっか行けよナメてんのか消えろという話です。で、先の記事でも書きましたけど、そういった弱者共感(を装っている)人間が終いにどういった態度を取るのかと言えば相手を嬲り殺しにするようなことをやるだけなんですね。要するにそういった連中は他者を自分の慰み者にする為に他者を慰めているだけです。現代におけるこれの権化がノーベル賞作家大江健三郎さんの文学であり精神医学です。
 もう現代においては精神医学というのは医学界における被差別部落のようなものです。ちなみに精神科医の中には救世主的な人間も居ます。この救世主を閉鎖村落からなじりものにして追い出すようなことを書いているのが大江健三郎さんです。何が問題かというと、そのまま村落が何事も無く消えて無くなってくれればいいんですけど、しぶとく残り続けて(社会学的観点からしても)村落の外への負のspilloverを起こすんですね。で、私は違法薬物を使用したことはないのでいわゆるoverdoseがどういったものか分からないですけど、おそらく抗精神病薬というものは覚せい剤等のoverdoseでもたらされるものに似た状態に患者を至らしめるものではないかと長期の服薬に渡る経験から考えてます。抗精神病薬を飲んでいる期間中は、眠ることも起き上がって覚醒することも不可能になります。だからこそ服薬量をだんだんと減らしていって、薬を飲まない状態でも夜きちんと眠れるようになって朝きちんと起き上がって昼間は活動してまた夜眠るという生活パターンが取り戻されて、完治、ということです。おそらく覚せい剤とか全般的に麻薬というのは抗精神病薬とは逆に睡眠しながら同時に覚醒しているような状態を味わうことになる薬物なのではないかということです。だから気持ちよくなって異様にハイになって場合によってはCarl Gustav Jungにおける曼陀羅のような世界の真理とかを「そこ(da)」に観察してしまうとかそういったことになることになるのではないかということです。そして後で覚醒も睡眠も不可能という地獄のoverdoseです。統合失調症は全般的に脳が萎縮したりするケースが多いと言われてますけど、こういった様に考えればそれも納得のいくことです。つまり覚せい剤等の違法薬物を使用したり今はもう居ないと思いますけどバカな不良中学生みたいにシンナー吸ったりしていると後で最悪なことになるということです。学校の先生たちは文化祭がどうとかチンケで陳腐でレベルの低いたわけたことを生徒に押し付けている余裕があったら薬物の恐ろしさをしっかりと子供に教え込んで欲しいということです。

 面倒見の良い人間というのは言っちゃ悪いですけど基本的にダメな人間が多いです。当人もダメな場合が多いですし、他人をダメにしてしまうケースが多いです。いわゆる下げマンです。上げマンというのは形容矛盾です。

 私は中学生の時初見の女子に「死ねよバーカ」と言われたことがあるんですけど、その当時はなんだコイツくらいにしか思わなかったんですけど、今になって彼女にはものすごく感謝してます。というのは女の本音を言ってくれたのは彼女だけだからです。あの女という生き物の美辞麗句やそういった態度は全部ウソであって、本人達がそれを嘘だと自覚してない、そもそも自覚する能力が無いだけです。



 強姦事件なんか多分10年くらい前にネットが普及しだしてから減ってると思うんですけど、レイプされた女性の断末魔たるや「きゃー」とかではなく「ちきしょう!ちきしょう!呪い殺してやる」という感じです、たぶん。やる側もやられる側も非常におっかないので絶対にそういったことはやったらダメです。むしろ逆に言えば女という生き物はそういった生き物だということです。あの変なビデオだとかアニメだとかいかがわしいゲームだとかのは、アレは男からみて理想的な娘が演じられたり描かれたりしているだけであって、現実の女というのはあんなに甘くはないのでナメてると陰茎切り落とされるくらいの勢いです。



 京都なんて本当にグロテスクな街なんで、ロッテコアラのマーチみたいなチンドン屋たる知恵遅れのビジュアル系の子豚が生産されるわけであるとしか言い様が無いです。最近知ったんですけど、どうやら中には怖がってもらえると思ってやってる知恵遅れが居るみたいなんですね?ということです。そりゃもうビジュアル系で恐がってもらえると思い込んでいるカッペというか、オノボリの馬鹿としか表現しようがないです。基本的にナメているというよりは未成熟な幼児的人間としか言い様が無いです。そんなにギャーギャーチンチンドンドン自分のアタマの足りなさをアピールするんだったら、京都タワーぶっ潰して平成の京極殿でも立てりゃいいんですね。ちなみに藤原道長なんてのは悪辣の塊です。
 結局我欲どころかもっとタチの悪いことに利己そのものを追い求めるということになってしまえば、実力主義的な(無秩序+無政府)主義の社会になってしまいます。自分だけが都合のいい場所で利己に基づいた社会の対象外ということにはなりません。

 源氏物語なんてのはロリコン変態中年男の生娘もてあそび記でしかないです。あんな舐め腐ったいかがわしいものを学校の国語の教科書に載せるとかいうのは、一体教科書を作っている人間にどういった馬鹿が混じっているのかと疑念を抱かざるを得ません。

 京都というのはあまりよろしくない意味合いで日本の象徴です。日本の象徴は天皇陛下が一人東京の皇居にいらっしゃれば万事可です。

 中国の人たちはあれはああいった文化なんですね。象形文字の漢字というのはそれの具現体であり権化です。日本人だって漢字を使ってます。漢字が無くて平仮名や片仮名だらけだったら現代日本語何言ってるのか分かりません。だから中国の人たちは人間の感情だとか思椎だとかいったものにたぶん非常に敏感だということです。憎しみも喜びも感じやすいんですね。李白や杜甫の詩を読めばすぐに分かります。どちらも非常に感慨深いです。ドイツの詩みたいに日本人に感覚的に分かりにくいとかそういうことはあまりないです。つまり中国の人たちはコミュニケーション能力が高すぎるということです。私は中国の人とは過去一人しかしゃべったことがないですけど、たぶん空気を読むのとか上手いです。たぶん英語とかも日本人より中国人の方がよく出来ます。ドイツ語は中国の人たちは全く苦手みたいです。韓国の人たちはどうなんだかよく知りません。



 特徴的な外形を持つ人間を別のやり方で二度出してくるというストーカーのやり方がある、というか私は最近このやり方でストーカーをやられまくってるんですけど、これはその直前に起こった特定の事象にマイナスの意味を付加してそれを絶対の価値意識+その事実である(sein)という風に認知させるための洗脳行為なんですね。これを何十万何百万回とやり続けるわけです。これはユダヤと言うよりは「馬鹿な」人間達の大得意なやり方です、これは後で説明します。

 昔ドラゴンクエストのダイの大冒険というクソがつく程ブサイクな有害マンガがあったんですけど、こういうもので昔はどんどん子供を洗脳してたんですね。ドラゴンボールとか冨樫義博のマンガとかはまあ色んな意味で笑えるというかおもろいんでストレス解消になるというかまだその存在意義的に救い様があるんですけど、本当に有害なマンガが昔は子供たちの間で跋扈してたんですね。最悪な場合それを読まないと会話についていけないとか。本当にあの公立小中学校の「みんな一緒」という共同幻想的マザコン馬鹿マンガ教育とこういう社会的に有害なモノがコラボってたんで、昔に比べればその意味ではやはり今は良い社会になってるとは思います。
 10年くらい前にしきりに言われてたネットが不道徳でどうこうというのは、ネットにそれが昇華されて表れた(現れた)というだけの話です。俗文化的に言えば、穢土時代は1945年に始まって12年前にネット上における某巨大掲示板群と某ビジュアル系豚ロックバンドのボーカルという最高純度の穢れた形をとって露骨に現れ、極端に言えばやっと近日あたりマシになってきたということです。



 ストーカーの連中のやり口なんですけど、ただ静かに生活したいだけの人間に、攻撃する為の口実を作るために、「『その人間が不必要・無意味に他人を求めている』ことにする」、「『その人間が不必要・無意味に他人を求めている』ことを絶対普遍の前提としてその他人に接触する」ということからヒビを入れていくというやり方をします。これはレイプです。だからマザーコンプレックスの女性的人間、特にマザコンの男性というのはレイプ大好きです。光源氏じゃないですけどロリコン変態中年男とか分かりやすいです。あとは、もう今はこういったイタいことをやる若者もほとんど居ないと思いますけど、ナンパとか大好きです。こういったことは昔潰れて無くなった週刊誌フライデー的なものであり非常に左翼的です。最悪にタチが悪いです。これは先の記事で説明したファシズミックな善意に基づく(一見)不良少年達の一発カマしたろか的なものとは対極のものです。
 そもそもストーカーという攻撃の仕方がユダヤ人のやり方であり、ヒットラーはこれにハマったということです。連中は共同幻想に基づいた封神演技を行うわけです。自分ら人間の集合体が神だと思っている連中だからです。非常にミクロ的です。ネットの掲示板が最も分かりやすいです。ヒットラーは馬鹿で愚かだったことも間違いではないですけど、その1930年代当時のドイツの英雄もしくは救世主であったことも間違いではないです。

 キリスト教は男性的な宗教です。男性が最初の人間だというのは、実に汎神論的発想というか汎世界的です。アラブ圏の人たちというかイスラム教もそうです。前者は理知的で穏健に過ぎるので一見女性的に見えるだけであり、後者は自然に従じ過ぎるが故に若干粗暴的だという先入観が我々日本人の中にあるだけです。ユダヤ教というのが女の宗教であって、まさに「女が女を縛り付ける為の宗教」であり、破滅的に自己破壊的です。逆にキリスト教というのは「救いを求める女に崇拝される男の宗教」だということです。どちらも現象的には女性が主体を為していますが根本的には真逆だということです。ユダヤの人たちは破壊衝動が自己に向いているということです。現代のイスラエルの人たちがどういった生活環境を作っているのか私は知らないのであまり突っ込んだことは言えないんですけど、実際真性のユダヤ教徒の人たちは律法でガチガチに縛り付けられてというか自己を縛りつけてるんですね。だからユダヤ教というのは根本的に性悪説の宗教であり、プロテスタンティズムともおおいに連関してます。ウェーバーの発想はおそらく的を得てます。大塚英志さんの著作で「捨て子の民俗学」というものがありますけど、読んだことがないんで正確なことは分からないですけど、基本的に女というのはそういうものだということです。
 で、何でもかんでもユダヤ教徒のせいにするというのがヨーロッパの歴史を鑑みると慣例の様になってるんですけど、昔はそうではなくてもう人外というか外道というかゴブリンとかトロールみたいな原始人みたいのがのさばってました。おそらく敬虔なユダヤ教徒というのはそういった子豚みたいなどうしようもないのとは本質は同じだが現象的には真逆だということです。ちなみにこれは日本も同じであって、分かりやすいのは応仁の乱とかの時期の治安の乱れ方をみればよく分かります。天智天皇の頃の争いにまつわる社会体制の乱れみたいなものに関する記録というのはおそらく残ってません。



 原始人がどうとかの見た目関連で言うと、髪の毛がハゲるというのはこれは病気のサインです。それは育毛剤でカバーすればいいとかそういった問題ではなくて、肉体の調子が悪くなっているシグナルだと考えて健康に気を使って生活習慣を改めるべく受け取るものだということです。だからストレスなんか溜め込んだらダメです。他人に危害を加えない限りでどんどん解消していかないとマズいです。その意味ではゲームとか結構いいと思うんですけど、ストレスの溜まるゲームは絶対止めた方がいいです。RPGとかもレベル上げまくって俺ツエーするのが一見して快感にも思えますけど、アレはやっぱり全般的にストレス溜まるんであんまりよろしくないです。タバコとかもあんまり妙にストレス溜め込むんだったら吸わないよりはいいかもしれないです。こういうリスク(の管理についてのこと)を具体的にそれらの事々にまつわる価格額で算出してくれるミクロ経済学者とかいるといいとか勝手に思ってるんですけど、無理ですかね?つい今日か昨日かBBCのニュースで医師連がたしか自動車を運転中の喫煙を禁止するよう要請とかそんな記事が出てましたけど、あれはさすがに医者の先生達がおっしゃることだけあって理に適ってます。
 女性は女性ホルモンの影響で髪は禿げにくくなってますけど、多分それはハゲるという現象では肉体的な不調が表れにくくなっているというだけであって、禿げないからOKとかそういった単純なことではなさげです。逆に女性で髪の毛が禿げている人というのは身体的に絶不調にあるということじゃないですかね。女性ホルモンが若返りホルモンでいいとかどうとか昔テレビとかで言ってましたけど、病気を病気と感じさせなくするだけであればあまりいいものではなさげです。納豆とか豆腐とか大豆加工食品に含まれるイソフラボンが体内で女性ホルモンと同じ働きをするとかも言われてましたけど、「腐った」もん食ってられるかという話です。逆に男性ホルモンは老化ホルモンとか言われてましたけど、顔その他がオッサン臭くたって病識が無い状態よりはるかにマシです。



 名古屋という街がありますけど、あそこは日本で人口の多さが三番目の政令指定都市ですけど、田舎です。ものすごく田舎です。というのは、地理的というか場所的にはけっこういい所なんですけど、人間的に田舎者気質な人間が非常に多いんですね。だから異端排斥とかイジメとか多いですし、調べたことないんで正確なことは分かりませんけど、下手をすると強姦犯罪とか多いんじゃないですかね。名古屋城の頂に居座っている金の鯱とかもう他人を食ってるナメた人間の象徴みたいなもんです。織田信長は幼少時は尾張のうつけとか呼ばれてましたけど、多分あの信長公も幼少時はイジめられてたんじゃないですかね。大学も国立名古屋大学がありますけど、あんまりいい大学かどうかちょっと微妙な感じです。

 関係無いですけど、大学受験では偏差値のみをアテにしているとあまりよろしくないですけど、中学受験や高校受験では逆に偏差値のみをアテにした方がいいくらいです。偏差値50を切る高校へ進学しようとしている子供たち、つまり知力や学力で言うところの人口の下半分の子供たちは、そもそもまともな大学進学など考えていないのでむしろ偏差値よりもその学校が如何なるところかを考えて進学先を決めた方がいいですけど、ある程度以上に勉強のできる子供たちはちゃんとまともな大学へ行くことを前提に高校へ進学するんで、中高受験で偏差値というのは最も大事なものと考えた方がいいです。
 大学は自分のために勉強するところなんで、偏差値で進学先を決めるのは止めた方がいいです。私は高校を学校で決めて大学を偏差値で選んだので思いっきりブサイクなことになりました。高等学校は校風は合ってましたが周りの人間的に下等なのが多くてあまり恵まれずかなりの損益を被り、大学はある程度の選好を混じえながらも模擬試験の偏差値とかで選んじゃったんですね。しかしまあ大学はいろいろな面で自己責任気風ということでそれなりに合ってました(だから別に一人で授業出て勉強してたって特に問題なしということです)。

 中学生の人でもこの記事を見る人がいるかもしれないんで言っておきたいんですけど、あまり小学校や中学の同級生程度の友達とは過度に仲良くならない方が良いです。高校もちょっと疑問符が湧くくらいです。というのはやはり学力が合わない人間というのは話も合わない上に、少なくとも現行の日本人の人間関係の構築の仕方だとほとんどのケースで低レベルな人間の方が高レベルの人間の方を引きずり下ろすという形が出来上がります。だから休み時間のギャグネタで一緒に笑う程度の付き合いにして、あまり過度に馬鹿や頭の悪い人間とは関わらない方がいいです。
 大学はちゃんと友人をたくさん作った方がいいです。私は大学の時に学外の酒飲みの相手と関わるだけで学内に友人を一人も作らなかったのでかなり不必要な苦労をしました。

 頭は良いが馬鹿な人間はネットを見れば分かる通り多数居るということを前の記事で書いたんですけど、頭は悪いが馬鹿ではない人間というのも居るんですね。こういった人間というのは、もう今あんまり居なそうですけど、昔のヤンキー少年少女とかにチラホラ居たりします。

 「賢い」「愚か・馬鹿」また「頭が良い」「頭が悪い」というのはx軸とy軸によって表されるxy平面を想像してみれば分かりやすいです。「賢い」のがx軸の正の方向であり「愚か・馬鹿」はその逆、「頭が良い」のはy軸の正の方向であり「頭が悪い」のはその逆、ということです。前者は未知数xな事柄についての対し方、後者は演算能力の高さとでも考えればさらに分かりやすいです。賢い人間は知的好奇心が高かったり未知のものに対してぞんざいさが無かったり、頭が良い人間は問題解決において素晴らしく応用が利いたりといったところです。
 このxy平面上の何処かの点に自分でも架空の一個人でも想定してみればいいんですね。IQが高い人なんかは第一象限とか第二象限とかに多いんではないですかね。馬鹿な人は第二象限とか第三象限とかに多いとか。指示されたことは大抵できるが想定外のことに対応できない人は第四象限あたりとか。ユダヤ人は第二象限で、欧米人一般は第一と第四に多いとか。原点(0,0)からのベクトルで考えても分かりやすいです。また逆に(0,0)からのベクトルでも分かりやすいです。こういったことは絵画の鑑賞や漢字の象形を解析することなんかにも生かせると思うんですけど、絵画論みたいなものというのはないんですかね?



 やっぱり人間嫌なことがあると目的意識とかを失いやすいです。特に対人関係でウザいことがあったりすると知的好奇心や勤勉さを失ったりします。それのストレス解消にゲームとかやってるとまたどんどんそれがストレスの源になるどころか、アルコールとかでもそうですけどそれに対する依存心が生まれて、そこで逃避する心理が生まれて最悪の場合分別が無くなってストレス解消の為の具体的対応策からすらも逃げるようになってどんどんドツボに嵌って悲惨なことになっていきます。だからやっぱりいわゆる「心のよりどころ」でもアルコールでも嫁さんでも、それに対する依存心を喚起せしめるようなものに最初から心を傾けると非常にマズいです。



 日本語における「民主主義」というものは残念なことに結局ユダヤ教のベールに過ぎないんですね。「資本主義」というのはそもそも元来的にそうです。どんどん才覚ある人間を自称democracyの「民主主義」が食い潰していったということです。これはどこの国ににも見られることではなく、この文化人類学的というか民俗学的というか女性的な黄色人種の国家である日本という国において特に見られることです。アメリカは真に民主主義を為すための土壌・地盤がしっかりしていたということです。というよりは精神的なものだけではなく気候・風土的にもそういった土壌や地盤の基に出来上がったのがアメリカという国であり、democratsの国だということです。
 そしてこれを戦後アメリカに押し付けられたとか言うのは大間違いです。それこそそんなものは他者依存の大たわけ者の馬鹿発想であって、日本人においてそれを為すことが難しいというだけの話であって、そういった馬鹿な発想をしている限りはまたアメリカの人たちに馬鹿にされてもう5、6発原爆落とされるとかリアルでそういう話になってきます。



 田舎者気質な人間というのはアベラールが大好きでアウグスティヌスが大嫌いです。恋愛とか男の子女の子キャッキャウフフが大好き、いしいひさいちさんの漫画にすらその価値意識に根ざしたものが多々見られんですね。だから実に固有名詞が大好きであり、賢いか愚か・馬鹿かとは関係なく頭が悪い人間が多くて、工学的と言えば聞こえは良いが実態はそうではなく言っちゃ悪いが工業高校的に頭が悪くて閉鎖村落的です。やっぱり高校も大学も東京とそれ以外の地域ではレベルが違いすぎます。やっぱりなんだかんだ言って東京はレベルが非常に高いです。もちろん日本社会でも時代が進むとともにこのイナカ者的傾向は減ってきており、現代ではほとんど見られません。ちなみにPierre Abelardは手を出したエロイーズの身内の人間にキレられて去勢されてるんですね。
 私は今30歳なんですけど、今より若い時は馬鹿でも頭が悪いよりはマシとかそれこそバカなことを思ってたんですけど、明らかにそれよりも頭が悪くても馬鹿ではない方がマシです。ネットの掲示板だとか動画サイトだとか見てれば分かる通り、馬鹿というのは頭が良かろうが悪かろうが最悪です。馬鹿ではない人というのはちゃんと時間を掛けて説明すれば理解する、少なくとも理解しようとはするのであまりそんなに問題であるということはないです。

 ユダヤ人というのは過去への憧憬に生きている人たちであり、また恋に恋している人たちです。オタク少女が最も分かりやすく、ヒットラーもこの気が強いです。



 少し前に名古屋大学の物理学の先生が光よりも早い速度で運動している粒子を発見したというのが話題になってましたけど、あれはデカルトみたいに神の存在証明じゃないですけど、実際のところどうなんですかね?もし存在したら間違いなく全てのものを吸収することになるんじゃないですかね?多分どっかしらにミスがあるというか測定を間違ってるんじゃないかと思うんですけど。チラッと新聞で見ただけなんでよく覚えてないんですけど、今年のノーベル賞の受賞者の説は宇宙の収縮がどうこうというものだったような気がするんですけど、その光よりも早い粒子が全宇宙自身であるというオチは無しで。
equilibrium
 ドグラマグラ。




 福沢諭吉には非常な偽善と馬鹿さ加減を感じるんですけど、人の上に人が立つと集団の下に同じ人数が蹴落とされるというのがそもそもからして自称「社会」の欺瞞的独善的人間中心主義であり、ミクロ的であり、マザーコンプレックス的であり、愚かで馬鹿な発想です。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と演壇上から語りかけているそこ(da)には、福沢諭吉が上であり聴衆が下であるという場が形成されているに過ぎないです。キリスト教の教会で神父が聴衆に向かって語りかけても教会の外に只一人中に入れてもらえない者が存在するわけではないです。
 日本のマスコミがいくら社会工学的なものひいては自然工学的なものに対してネガティブキャンペーンを行っても無駄です。イジメっ子がイジメっ子を攻撃することは無いですけど、イジメられっ子がイジメられっ子を攻撃することは多々あります。ネットでの叩きとかが最も分かりやすいです。ネットで虚構のリア充アピールしたり叩いたりしてる奴なんざリアルで見てみればほぼ例外無くイジられっ子の典型みたいなグジグジした畜生みたいのです。自称の「社会派」気取りの人間中心主義というのはそういうものだということです。



 現代の日本に敷かれているのはアメリカ的民主主義ではなくユダヤ的民主主義であって、老婆的民主主義です。そりゃ民主主義を「否!」と言ってみたり、極端な右翼主義に走る人間も出てくるというわけです。そしてアメリカの人たちにダメのレッテルを貼られるどころかいい様に利用される構図が出来上がります。さらには悪質なことには、故意に自分の子供を病気にしてその当人を世話して自分の偽善人性を世間にアピールするという自慰豚としか言い様の無い女が出現したりするわけです。人に聞いた話なんで本当かどうか分かりませんけど、このケースは二、三年前に事件として取りざたされ、その女は警察に捕まってました。占いみたいなものはどうだか知りませんけど、自称個人主義の性格判断はこの類ものの最悪なケースであり、非常にユダヤ的です。本当にあの性格判断というのはまさしくブサイクのカタマリです。精神科医の中にもこういった医師が居たりします。こういった人間は謂わば「アメリカ好きの日本人」であり、当のアメリカ人にはメチャメチャにバカにされてウザがられます。逆に、このブログを読んでもらえれば良く分かりますけど、私みたいな人間は「日本好きのアメリカ人」的であり、少なくとも現行の日本ではメチャメチャに嫌われます(自分でもそれはよく自覚してます)。
 ちなみに占いには妥当性がありません。だからこそ逆説的に性格判断だったら占いの方がマシです。

 いくら人間のキャラクターを弄くりまわしてそこから問題解決の糸口をさぐろうとしたところで、それは個々の当該の問題について具体的に答えを出すというものではなく「人間関係」という虚構から折り合いをつけようと試みているものであるという時点で無駄です。
 例えばマンションやアパートにおける騒音の問題を考えてみます。上下左右隣接する住居の住人がドンガンドンガン立てる騒音がうるさいからといって、その騒音と同程度の音を自分も相手に伝えるわけにはいかないと無意義な偽善を気取って「これだけ階下・階上に響いてるんだ」と音をなるべく立てないようにするということは非常に不合理であり非合理的です。そのまま自分が何もせず我慢して隣接する住居の住人が騒音を立て続けるということになれば、問題は何も解決しません。こちらも意図的に騒音を立てるという程までは行わずとも、自分の出す騒音について何も気にせずに生活していれば、隣接する住人にもある程度の音は伝わります。もし仮に隣接する住人が自分と同じ程度に一般常識的に考えられる倫理観を持ち合わせているのならば、彼らもその音を聞き騒音を減らそうとするはずです。そしてまた仮にそうでない場合、自分が感知する騒音は一向に減りません、よってこちらもそのような非倫理的な住人に対して騒音を立てることを気にして意識する必要は無いです。これらについて考えられる最も有益な解決策は苦情を申し入れることであり、また相手が苦情を申し入れてくれることを待つことです。後者の場合でも余程互いが立てる音が大きければ住居が壊れない限りは何時かは苦情を言うか言われるかということになります。
 つまり囚人のジレンマの構図で考えればこの問題は理解しやすく、放置することでナッシュ均衡に達します。隣接する住居の住人が立てる騒音を我慢したままで自分は音を立てないようにすることが最も損益を生むということです。ちなみに有名な囚人のジレンマのサンプルはこのケースとは逆に何も言わない(音を立てない(?))ことが最大の利益になるという場合です。



 現代で穢多というとあまりに差別的な上に自分も含めてあらゆる人間が嫌な思いをするんであまり言いたくないんですけど、日本人のやり口というのは「共感」して他人を引き摺り降ろして社会をダメにしていくことなんですね。非常に女性的というか女性原理的です。しかもこれは当の日本人において悪意が悪意と自覚されていないどころか悪意が善意と履き違えられている感覚に基づくものです。日本人は非常にマクロ的発想において弱いというか、マクロ的感覚を身に着けるのにかなりの困難を伴うのが日本人です。実のところこれは日本人だからということではなく、まさに穢多の穢多たる由縁というか穢れが多いという意味合いを的確に表している現象です。日本以外のアジアの国がどうだか私はよく知りませんけど、すくなくともこの日本という黄色人種の社会では穢多が自由を無責任と同義だと履き違えてます。昔の本とか見ると載ってるんですけど、何時の時代でも自分が生きている社会を指して「混迷の現代~」と言うところが如何にも日本人的であり、ミクロ的です。他者に気を使うという名の下に誤魔化された、自己本位性に基づくエゴイスティックでセルフィッシュなミクロ経済的な何かがよく表れています。
 多分これと関係ありますけど、日本の海とか全般的にものすごく汚いです。アミノ酸多すぎてプランクトン大量発生の赤潮とかいうよりも、太平洋岸の海とか見てるともう汚泥を見てるような感じがします。

 ミクロ経済的視点は結局大方の社会学と同じく「人」単位で物事を鑑みる前世紀の遺物に過ぎないです。上で挙げたナッシュ均衡の例はこの視点とは逆のものに基づくものです。マクロ経済的視点や経済史的観点のほとんどはそうではないです。一般的にミクロ経済学者は理工学的観点を欠いているか、もしくは自然科学に対する信用が無いのかと疑わざるを得ません。だからこそ、それで極端に走った場合社会主義体制を始めとする計画経済を全く否定してしまうということです。文献史学もミクロ経済的なものに属するものであって、考古学者の中には文献史学を毛嫌いする学者も居ます。歴史(的事実)を軽んじる人間は、自称の神的であり、要するにどこぞのイカサマ教祖的であり、性悪説を自己のモチーフとしているような人間です。彼らは歴史的事実を無視し、そしてひたすら過去への憧憬に生きるということであり、歴史上の人物の偉大さをドラマ的に無意味に持ち上げたりするということでもあります。



 Aurelius AugustinusやMartin Lutherは偉人であり天才的です。Jean CalvinもPierre Abelardも、それが「上から」であろうが「下から」であろうが、予定説も「信ずるために我知らん」も実にミクロ的であり、マザーコンプレックス的であり、共に悪質です。官僚の人たちに失礼ですけど、カルヴァンは実に官僚的であるというと分かりやすいです。アベラールは非常に俗悪であり俗物的です。
 自己を主体として「下から」の自分からの変革を社会に要求することが、マザーコンプレックスのマザーコンプレックスたるものであり、非常に無闇で間違いなく徒労に終わります。工学的観点に欠けてます。カルヴァンのような、自己を主体として「上から」の変革を社会に要求する、つまり社会的弱者を意図的に踏みつけるようなものはそれはそれで悪徳であり、同じくマザーコンプレックスの具現体(無根拠な権力)であり非常に悪質です。



 馬鹿だが頭の良い人間には、「漠然とした工学的認識」さえ与えれば一発で馬鹿が直ります。とは言ってもこれは認知ではなくて認識なので、よほど腕の良い精神分析家にでも掛からない限り無理です。だから抗精神病薬というものを現代では使います。ナザレのイエスさんが馬鹿のイスカリオテに嵌められてロンギヌスに槍で貫かれて死んでから二千年経って、ようやく馬鹿につける薬が開発されたということです(ただ飲んだだけの状態では馬鹿のままです)。
doch
 doch.




 語学で暗記学習というのはどの分野ものものでも非常に良いです。というのはもちろん効率的な意味においてもです。内容の良い文をひたすら暗記したり聞いたりすれば、外国語を母国語的に覚えることができます。その意味でも音読は良いです。スピードラーニングはあまりお勧め出来ません。集中力が高い人間は語学のリスニングが良く出来ます。
 やっぱり例文としても良い内容のものを覚えた方が良いに決まってるんで、別に例文であることが分かって暗記してるんだからどんなものでも別にいいや的なノリで勉強してると後でイタい目をみます。



 対人関係でも、特定の人間を見て、「気に入る」だとか「気に入らない」だとかいう感慨が湧くのは、身体論的にその事象の判断者・被判断者がどういった行動をとるかに因ります。もちろん人間は脳で様々な事象を経験していくので、これには性向や傾向といったものが多々あります。単純にみぎひだりのお話というわけではないです。あえて言うならみぎに傾きやすかったりひだりに傾きやすかったりというのが人によってかなりの個人差があるということです。
 この性向や傾向を消すのが抗精神病薬です。ヤバい行動を取ったりそういった性向を持つ人間を限りなくゼロに戻すのが抗精神病薬の効能であって、その上でそういった人たちを良い方向へ持っていくのが精神科医をはじめとした作業療法士だとか音楽療法士だとかそのあたりの医療に携わる人たちの仕事です。もちろん患者当人にその「良い方向」がどういったものなのか自覚があれば抗精神病薬と精神科医一人と患者個人で治すことも可能なのが統合失調症という病気です。

 「良い方向」というのは、ネットを使ってでも何でもいいからストレスをバーッと発散させて、そして抗精神病薬を飲みながら生活スタイルから改善していくのが最も効果的であり完治への最短距離だということです。
 私個人の経験では、抗精神病薬を飲む前後の数時間は何も食べないとか無理をしないストレスが溜まるようなことは行わないというのがかなり効果的です。というか身体感覚というか体調的にもゼロに戻されてそこからまた傾向を作り出していく薬物が抗精神病薬というものなんで、そうしないとヤバいんですね。精神科医は夜寝る前に薬を飲めと言いますけど、アレはおそらく止めた方が良いです、朝きれいに起きれなくなって昼間中もボーッとしたままで全く治らずに藪医者がもうかるだけというオチに片付いてしまうだけです。だから止めた方が良いどころか寝る前に抗精神病薬なんか飲んでいたら、生活も肉体もボロボロで滅茶苦茶になります。眼圧が上昇することが統合失調症の症状の一つだと書いてある精神科医による本がありますけど、そんなものは就寝前に抗精神病薬を服薬していたら光の無いところでものを見ている状態で眼球やその周辺の筋肉の動きも膠着されるので昼間でも眼圧が上昇して筋肉が張って視力が上がっている状態になるのは当たり前です。下手をすると失明します。だから抗精神病薬を飲んでその後パソコンを何時間も使うだとかテレビを何時間も見るだとかも最悪です。

 そして、こういったことに関して、「それは統合失調症のせいだ」というお決まりのセリフを精神科医は吐きます。私も一回「堕ちた」ことがあるんでよく分かるんですけど、基本的にそういった類の田舎者気質の精神科医の仕事は精神的に弱っている人間や社会的弱者をレイプすることなんですね。はっきり言ってそういった精神科医はエヴァンゲリオンだかのブサイクアニメを作っているバカオタクオッサンと何も変わりません。要するに精神科医というのは本当のことを言いません。中にはまともな先生もいらっしゃいますけど、ほとんどの精神科医は、自分が処方する薬物の効能に関する事実を患者に何も告げずに、馬鹿な精神病患者が周りの社会環境や人的環境に釣られるにまかせるという最悪なことを行います。患者当人を取り巻く社会・人的環境にまで責任を持てないというのであれば、抗精神病薬を投薬するなという問題です。その場合あまりに無責任に過ぎます。中には初診の患者を故意にバカにして挑発して悪い状態に持っていくことを試みるという精神科医も多々存在します。例えば、自分が診療する以前に意図的にケースワーカー等医師免許を持たない者や医師国家試験を受ける前やもしくは正式に医師として活動していない30歳前の若い医師に「先生の診療を受けていただく前にちょっとお話をうかがいまーす」的なセリフで面談をさせて、その後正式の医師が出てきてその医師は2、3分患者に対して挑発的にしゃべるだけでまったく診察を行わないというやり方があります。その正式な診療医ではない人間は精神疾患と全く関係の無い質問をひたすら患者に対して浴びせます。それは挑発の意味もありますし、患者個人にとって不利益となる記録を故意に残して、「精神病患者はこんな劣等な人間だ」ということを証明する為もしくは論文・記録のネタ等その他後々様々な目的で材料として使うという為でもあります。ちなみにカルテの情報をその病院外へ持ち出したら医師は医師免許を剥奪されて一発で警察に捕まります(少なくとも医師として社会的に死にます)。大方の精神を病んでいる人間は、事前のその面接の時点でベラベラしゃべってしまいます。で、その医師達の目論見通り、(正式の)医師の挑発には簡単に乗ってしまいます。若い医師や学生を育てる為という口実で精神的に弱っている患者の善人性に漬け込んでくるという極めて悪質なやり方を行ってくるわけです。私はあろうことか最高学府である東京大学の付属病院でこれをやられました。露骨な差別なんで現代日本でこういったことをあまり言いたくはないんですけど、連中も差別を行っているということではっきり言いますと、穢多系統の精神科医にこういったのが多いです。まさに戦後日本社会を象徴する様な穢多による逆差別です。医療とは関係無いですけどやっぱり国公立大学等の公の機関では穢多が様々な局面で増長し易いのかとは思います。

 患者を被害者であると同時に加害者に仕立てあげることもできるのが精神科医だということです。

 最近官公省庁のコンピュータやPCがハックされたとかなんとか必死にマスコミが報道してますけど、あんなもん故意にやってます。というのは、さすがに官僚の人たちが意図的に流してるということは無いでしょうけど、日本のマスコミが故意に見せ付けるように報道して社会秩序に対するネガキャンを行っているということです。

 穢多というのは、「そういった厳密なこと」を説明する能力を故意に奪ってから、「アイツは何も言わない」というレッテルを貼ってレイプを始めるんですね。これは66年前に戦争に負けてから、この国にのさばり出した穢多のやり口です。これは子供の時点で小学校でマザコン教育を受けることを強制されるというところから始まってます。私は男性なんでまだいいですけど、女性はかなり悲惨な目に合うはずです。だいたいレイプをやる類の男というのは、恥意識が強くて絶対に事件について言えないような女性を狙ってやります。こういったことを私刑というかたちで頻繁に行うことを許容してしまったのが戦後の日本社会なんですね。石原慎太郎さんは平和の毒とおっしゃってますけど、こういった連中のやり口というのは非常に汚いんで、本当に気を付けないとダメです。これはアメリカのせいでもなんでもないどころかその真逆であって、例のゼンキョートーだかなんだかの田舎者気質なマザーコンプレックスの豚共に典型的な例を求めることができます。その真逆ではない例として分かりやすいのは村上春樹さんであり、田舎者気質なマザコンの典型例として分かりやすいのは内田樹さんです。村上春樹さんは田舎の人で内田樹さんは都会人ですけど、気質的には逆です。

 たしか1989年あたりだったと思いますけど、宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯のような人間は、アレはただの幼い子供をネタにした変質者であって、典型的なマザコンというのとは違います。ちょうどその時期に佐野史郎主演のマザコンの冬彦さんドラマをテレビでやってましたけど、アレはまさにああいった事件を利用して真面目な青年たちや勤め人の人たちのストレスを煽ろうとしているという意味で番組自体が実にマザーコンプレックス的なものに基づくものであり、その意味で実にマザコンなドラマです。だからああいった佐野史郎さんが演じている的な人間がマザコンであるというケースはほとんど無いどころか、露骨にオタク弾圧を狙ってたというだけなんですね。これは新しくオタクという社会的被差別民を作り出そうとするマスコミの穢多共のやり口であり、私もまたそのオタク弾圧の時代をオタクとして生き延びてきた人間のうちの一人です。
 ちなみに私は内田樹さんみたいに自分が若い頃はよかったどうだったこうだったとかオッサンどころかジイさんになってまでマザコンなことを言ってるような自慰さんみたいのにはなりたくないということで悪しからず。



 「これまでの、確信のいくつかの在り方にあっては、真は、意識から見て意識自身とは別のものであった。しかしこの真の概念は、真について経験して行く間に消えてしまう。対象は直接「自体的」であった。つまりそれは、感覚的確信の存在者、知覚の具体的な物、悟性の力などであったが、それらは、むしろほんとうはそういうものではないことを自ら証明している。そうではなくこのような「自体」は、対象が他者に対する在り方にほかならないものであることが明らかになってくる。自体についての概念は現実の対象に出会うとき、廃棄される。つまり経験上の最初の直接的な(無媒介な)表象は廃棄される。そこで確信は事実上消えてしまった。ところがいまここに、これまでのいくつかの関係のなかでは起こらなかったことが、生じている。つまり自らの真理と等しいという確信が生じている。というのは、この確信は自己自身を自分の対象としており、意識は自己自身にとって真であるからである。なるほどそこに他在も在ることは在る、つまり意識は区別を立てることは立てる。だが、それは、意識にとっては、同時に区別されていないようなものである。われわれが知の運動を概念と呼び、これに対し、静かな統一としての、すなわち自我としての知を対象と呼ぶとすれば、対象が概念に一致するのは、われわれにとってだけのことではなく、知にとってのことでもあることがわかる。言いかえれば、それとはちがった方法で、対象が「自体的」に在るものを概念と呼び、これに対し、対‐象として、つまり、他者に対するものとして、在るものを対象と呼ぶ場合には、自体存在と対‐他‐存在とは同じものであることが明らかになる。というのもここでは「自体」は意識であるからである。だがこの意識は、同じように、一つの他者(「自体」)が相対している当のものなのである。意識にとっては、対象の自体と他者に対する対象の存在とが同じものであるということがある。自我は関係の内容であると同時に関係そのものである。自我は、他者に対して自我自身であると同時に、やはり自我に対して自我自身であるにすぎないようなこの他者を、覆うている。」

 これはヘーゲル先生の"Phänomenologie des Geistes"(「精神現象学」)という本から引用してきたものなんですが、なんかヘーゲル先生ではなくてフィヒテ先生の書いたものみたいでちょっとどちらが書いたものなのかよく分からないんですけど、「対象が自体的に在るものを概念と呼」んでる時点でやはりそれが人間の限界だということであり、「経験上の最初の直接的な(無媒介な)表象」は「表象」ではなく、「そこで確信は事実上消えてしまった」のは確「信」ではないということであり、「対象の自体と他者に対する対象の存在とが同じものであるということがある」わけです。
 これは前の記事で言ったxy平面上におけるy=|x|のグラフだと考えると分かりやすいです。結果自体は絶対値なんで必ず正の現象として現れ(表れ)ますけど、その対象自体は正なのか負なのかその現象をそれであると捉える個体には認識理解できないということです。「知」というのは人間にとっては結局「運動」であるしかない、「知」は人間において「概念」であることから抜け出せない、人間は自身から思惟能力を除くことはできないということです。

 ヘーゲルはこの「精神現象学」の中で、自己意識という呼称で∞は概念という形でとりあえず存在し、そして途中で|∞|も自己意識が自己意識に自体的に対してあるという内容の説明でそこにあると言ってます。要するに∞/0の因果関係は存在するというところで止めておけばよかったのに、∞/0の相関関係も真理という形で存在すべきだとまで言ってます。∞/0の相関関係そのものを「人倫の国」(ギリシア)という形で存在するとまで言ってます。こういうことを言うと哲学研究者の先生達に怒られそうですけど、つまりヘーゲル先生は思惟の方向性的に馬鹿です。ヘーゲルは、

「精神は、その自己意識が二重になり、二重の両者が自立的でありながらも、自己自身と一つであると確信している。」

という病識の無い状態の重度の精神分裂病そのものを自己意識の解説として説明しています。



 抗精神病薬を服薬している期間に他人と関わるだとかは、それが良い人間関係であれ悪い人間関係であれ、どちらにしろ悪い方向へ引っ張られていくので、止めた方が良いというか入院するのがこの病気の治療には最適です。
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