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Ahura Mazda
2012.07.05 Thursday
女性によく効くサイドワインダー。
鳳凰天翔。
仕事を使って人を育てるという発想があります。一般的に特に経済学部とかで行われる現代の大学教育を受けた人間が抱くところの「人を使って仕事が行われる」というものとは物事のとらえ方として逆です。前者は「普遍は個物に先立って存在する」ということであって、おそらく実在論的である(realistic)ということができます。後者は唯名論的、平たく言うとユダヤ的であって、強欲という言葉で形容されます。プロテスタンティズムのその中でも悪名高いカルヴィニズムもこれに同じです。日本語で「唯名論」なんて言葉を使うから分かりにくいのであって、これはnominalであって有名無実であるということです。全共闘とかコレです。「無実なものを名から無理矢理有らしめる」というと分かりやすいです。Max Weberが面白いことを書いてますけど、カトリック的な伝統主義的な一定の形式によって延々となされる労働において、特に未婚婦人がその労働力として使われる場合、仮にちょっと頭をひねればすぐそれより生産性の高い労働の形態を考案する能力を持つ者であってもその意欲に全く欠けており、出来高賃金率を引き上げても慣習に従うという形で同じタームで得られる(彼女らの中では)固定された賃金を得てしまうとそのターム内においてはそれ以上の賃金を得ようとしない、ということが起こるということです。いくら生産性向上の手法を説明してもそれを拒否されるということからして、未婚婦人の少女たちは意欲云々という以前にその宗教的土壌からして心理的に制約を掛けているんですね。で、ヴェーバーはドイツにおいては「慣習の壁にはね返されて」こういった事態が起こる、と言ってますけど、日本ではこれはおそらく逆の事態が起こるんですね。というのは、日本においては「『慣習の壁に押し潰されて』出来高賃金率にしたがって働いた分もらえるお金が増えたよ」という事態が起こります、これは拝金主義の逆パターンです。ドイツにおける前者のような労働態度は、むしろ資本主義イコールで拝金主義に走ってしまいやすい日本では肯定的に扱われ望ましいものとされます、賃金ではなくて事に仕える仕事本位だということであって金より先に仕事があり仕事のおまけとして金をもらえるという事が付随するということです。そしてそもそもウェーバーさんが語ってますけど、この場合においてドイツの企業家が出来高賃金率を上げた意図としては後者である日本における場合の現象が狙われています、これが資本主義です。文化人類学的土壌が違うと違うものは違ってきます。
悪質な精神科医の中にはこれを逆手にとる人間が居ます。人を使って病気をつくる、というわけです。つまり精神科クリニックにて精神科医が患者に対する親しさを装い患者に口を故意に開けさせ、そしてそれを箇条書きの様に情報の最小単位としてそれを記録していきそこから患者の人格その他の再世界化を開始して精神病患者を精神病患者たらしめるくらいのことを行う人間も居るということです。
自称「現場主義者」がいざとなると隠れて見えないところから他者の人格や性格の「タイプ判定」に及んだり、「逃げ」を肯定したりすることほど間違えの極みであってお陳腐なお笑い草の種は無いです。現場をイデオローグ化した瞬間に訪れるのは修羅の世界たる無政府主義であって、だからそれそのものからして他人を見下しての「お笑い」だということであって、「現場主義(笑)」というところに落ち着くことすら出来ない悲惨なほどのギャグのネタです。もちろんエニアグラム自体からは学ぶものは多いです、それこそユダヤの人たちの知恵なんでしょう。
個人的な経験では、M'z a 悪意(仮称)医師は自分ら精神科医の所属する精神医学界が「業界」であると名言してくれた良心的な医師でしたけど、精神科医の中には甘い言葉で女をたぶらかすように精神病患者を釣る悪質な人間が居るんですね。今かかっているN口クリニックのk子kurseマ医師はかなりのニーチェ的人間なんですけど、何故か現代日本ではニーチェ的人間の非ニーチェ的な一般的人間に対する逆差別というものがまだしぶとく存在するんですね。他人を自分特有の空気のみにてgelesenされたものとして扱い鼻で笑って見下す、それこそニーチェだとかガンダムの監督だとか、まあ分かりやすくは中二病だとか厨二病だとかです。現代日本だと一番分かりやすいのは一昔前までのネットの掲示板ですけど、おそらく前世紀までの戦後日本ではこういった弱者蹂躙をよしとする何かを勘違いした弱者がのさばってたんですね。ネットは別にそういう場所なんでいいですけど、現実の社会においてコレをやられた日には国は借金を抱えてボロボロになりました。
今までの人間関係を切らせるというところから精神科医は始めます、が、これは罠です。恐怖におびえる患者を外敵から守るフリをして引き摺り下ろして比べ物にならないほど酷いことを患者に対して行います。個人的な経験では、東京都新宿区舟町にて精神科クリニックを営んでいたN田四R医師はコレを行いました。「希望」という言葉で釣って絶望を与える唯名論者、犯罪者。ヤクザは右の定常状態に戻してくれるところの右な人たちなんでいいですけど、こういった藪医者はもうかるとかいった生ぬるい形容では済まない人を左へ蹴落として笑っている右の豚が自営しててもらうと社会に多大なる損益が生じるんですね。
もう少し個人的なところでは私は自分の母親がこういった人間で、家事はまともに行わず、ただでさえ質の悪い食材を何処から品を仕入れているのだか分からない生活クラブだか生協だかでわざわざ高い値段と引き換えに買ってきてそしてそれをきちんと加熱せず野菜類でも茹でるその他で悪いものを出す等の簡単な手作業を施さずに故意にそれより手間のかかる悪い調理の仕方で食卓に出す、ということをひたすら行っていた一見したところでは何を考えているのだか分からない人間です。ワザとやってるわけでしたけど。私は先にも書いたように精神に先立って肉体がもう若くして悪いんですけど、どうやらこの母親が悪いものを私が極めて幼い子供の頃から食べさせていたということに大きく原因があるようです。私は近日は一般のスーパーで買った極めて簡素な食事だけをしているんですけど、少なくとも悪いものを食わされていた時分に比べると体調ははるかに良いです。
結局はこういった連中は業(カルマ)を巻き起こそうとしているだけなんですね。これを資本主義上の精神なんたらと言うと聞こえはいいですけど、禍が巻き起こった分だけそれが現実問題としてのカネつまり経済学で考えるところの貨幣の流通速度の増加に反映されるかどうかとはちょっと別問題です。これは数学を使って解析できます。拝金主義と資本主義は違うので。金は拝むものではなく道具です。
精神を病んでいる人やそうでなくても女性に多かったりしますけど、「自分で」ということが分からない人が居ます。「自分で(自分の肉体の調子に合わせて事象の認知をコントロールする)」ということです。私も精神病んでいて永らくこれができませんでした。これは別に特別な能力でもなんでもなくて、人口の8割以上の人間には身体の健康を保つべきこととして当然に出来ていることなんですね。人口の8割以上は数学的に生きてます。「弱い人間がどうたらこうたら」という逃げ口上を使うクズが居ますけど、そういった非数学的な連中というのは「弱い」のではなくて「悪い」わけです。ただ単に「弱い」だけの人たちはちゃんと社会的に保護されるように出来てます。
対人関係において危機が訪れると幼児的な道化を行い逃げに走る人間がたまに居ますけど、こういった人間とて当然さすがに幼児的な「道化行為」によって他者を騙せると思っているのではなく、その道化行為のあまりの「幼児性」によって他者を欺き挙句の果てはその場においてのみ異常者であるとすら思わせ如何にしてその場を切り抜けるかということをその行為の第一義としている場合が余程の馬鹿でないかぎりほとんどなんですね。
極論すればこういった自暴自棄になって他人からして除外されるようなことを行う人間というのは「誰にも助けられない見捨てられた自分」に酔っているところすらあるんですね、それを自分がワルで悪党である証であるかのようにイタい勘違いをするということとともに。私はこういった自分の父親のようなカンチガイ野郎の幼児的なマスコミ的ピエロギツネを見ると凄まじく嗜虐心を煽られて殺意を覚えるんですけど、何故こういったのが社会的に許容されて生かされているのか甚だ疑問です。
管理するところは大人がしっかりと子供を見て管理しておかなければいけなかったのに、自由だの個人の意思尊重だのの名目のもとにいい大人たちが無責任であっただけ、neglectに走っていただけだったんですね。
科学的な(実証的な)立場からのものの見方しかできない人は、何らかの事象について合理的な解釈でgelesenしかつそれが説明できないと納得できないどころか自分を保っていることができないので、下手をすると「自分の中に装置が埋め込まれていてそこから電波が発して自分の思考を全て読み取られている!」とか「全人類は地底に埋め込まれた秘密の施設から情報を盗まれている!」だとかおたわけなことを仮にそれが精神科の診察室の中であっても吐いてしまったりするわけです。そう「なって(sein)」いる、ということがこういう人たちには理解できません。つまりは精神医学と文学(哲学的思考?)というのは切り離せません、というか精神科医はそもそもそれを狙って「治療」と称しているわけです、が、まあ一般には受け入れられないでしょうね、ということです。私は受け入れましたけど。大分症状は良くなりました。
漫画作品も漫画作品で紙というハードにコピーされた一つの世界に過ぎないのであって、まあ極端に言えば一つの物語世界として鑑みるのならば蓋然的というか数学的であるということができるかもしれませんけど、ああいったものの何が問題であるかというと、読者の現実問題に対処するにおいての具体的場対応と一つの固定された世界であるに過ぎない紙面の情報を読者自身が関連させてしまうというところにあるんですね。アニメもキャラクターがしゃべるゲームも同じです。前にも書きましたけど、「萌え」というのはそれの最たるものです。だからカワイイ女子中高生のアニメの女の子が出てくる萌えアニメとかは最悪なのであって、サザエさんだとかドラえもんだとかちびまる子だとかの日常を描いているようなマンガも悪質であって、いしいひさいちさんの四コママンガも危険なわけで、現実味の無いところの昔ながらにあるシンデレラとかの昔話や宇宙戦争の類のものが最もマンガとしての害毒が少なくてマシです。ガンダムの何がヤバかったかというと、プラモデルやカードダスやゲームで蓋然的な固定された世界を好き勝手に操作しうるという形で子供やマニアの日常に具体的に入り込んできていたということが危険だったということであって、監督が一つのアニメ作品として仕立て上げただけの単なる一過性のアニメーションだったらよかったんですね。そうすれば、あのロボットがかっこいいだとかあのアニキャラが萌えるだとかいったことに目を奪われずに、子供において「学ぶ」とは何かということについての自覚的理解がきちんと促されることに役立ってました。大塚英志さんは著書で「僕がファミコン時代のRPGに少しでも興味を持ったのは~」というくだりでこれと同じことを書いてました、物語は物語としてありきのものでゲームに存する被操作性が良くないと。プラモデルは子供が物を組み立てる作業を経るということで勉強にはなるかもしれませんけど。だから電子書籍の類で固定された情報を取り出しやすく工夫がされているだとかいったことはとくに何の問題も無さげです、そこに面白みで釣るだけであって学習を阻害するゲーム性が無いのであれば。電子辞書は良くないです、文字順に並んでいる紙の書籍の辞書が学習上良いのであって。同じくメモリを使うのであれば、ヘンな意味で理想的なアニメキャラよりも現実の女に萌えといた方がまだ賢いです。
それこそマンガでよくありますけど「目の前の現実が見えてない」だとかいうセリフ、これはナンセンスなのであって、人間誰しもやはり目の前の現実から完全に目を逸らすことは難しいということです、現象的にセリフとは逆であって。まあ異性間の愛のあるセックスだとかだと現実を失って溺れられるのかもしれませんけど、ちょっと私はそういうものについてはあまり知らないです。たぶん男が女を得るためにはギリギリ限界まで現実から目を逸らさないといけないところがあるんですね。
私は若い頃いわゆるワルだったわけではないので、そういう人たちのことは詳しくは知りませんけど、仮に「コワい」人物が居たとして、その人物に対して何も危害を加えるようなマネをしていない悪いことをしていない後ろめたさが無いというのであれば、別に恐怖の感情なんか湧かないはずなんですね。余程のバカでない限りいたずらに無意味に他者に危害を加えるということは、マンガや小説のお話の中以外では無いです。見た目が恐いだとかなんだとかいうのは小学生レベルなんでどうでもいいです、もちろんその人をその人たらしめるものを判断する材料にはなりますけど。ちなみに自分におけるこの後ろめたさの無さの指標となるものは、言語化して何がどうなっているかを説明可能でありそして自分が間違っていること相手から説明されてそれが合理的である場合はそれに可を下すということです。それが仮に現存在(Dasein)についての説明であっても。
物理的に「光の当たらない場所」というのは人工的に密閉された空間を作らない限り有り得ないですけど、物理的には光というのは電磁波だそうで、この光がその一種であるところの電磁波というのは真空または物質中をその振動が伝播する「現象」であるということです。「|∞|/0の相関関係」というのは物事の繋がりを考える上での分かりやすい言い表しですし、禍根を絶つということにおいてこれもまた分かりやすいものですし、もちろん良いことを行えば良いことになるということでもあります。しかしこれを履き違えると他者に危害を加えてもその現時点においてからの世界のなりゆきを考えるとどのような形でも仕返しを行ってはいけないということになるんですね。だから現実問題としては現時点で俺が何やっても俺の勝手ということになって暴力が跋扈して特定のイデオローグ内での社会は崩壊するということになりかねません。日本でも江戸時代は叉敵はご法度でしたけど、敵打ちは当然の権利として許容どころか認可されていました。この履き違えは全く現実を見ていない上に現実問題の検討能力の無さをアピールしているようなものであって、これが仮にもどこかの釣り以外の何物でもないオカルト新興宗教の教祖サマのように「|∞|/0の因果関係」という形でまかり通っていたならば、現代の社会にある技術はどれも存在しませんでした。瞬時の反応で他者を傷つけるような人間は、それこそ居なくなれどころか存在を許容されないということになります。神サマな人間は世界中何処を探しても居ないので。もしそれを力として振るいたいというのであれば、それは「この女だ!」と思った一人の女性を射止めるためだけにしてくださいということです、おヤクザさんになる覚悟の無い人は。
LEDの光なんてあんなもの光ではないんではないかと。あのLEDの光に照らされていると眼球が破裂しそうな程に痛くなるんですけど。昼間ずっと職場とか学校とかであの光に照らされていると間違いなく悪影響です。誰もが皆蛍光灯や白熱球の光を欲している上にその耐久性からしてもLED電球なんてあんなもの需要とは無関係に生産してます。電光掲示板や信号の等々のみの用途としておけばいいのに、滅茶苦茶です。明らかに蛍光灯や白熱球への需要が在ります。
鳳凰天翔。
仕事を使って人を育てるという発想があります。一般的に特に経済学部とかで行われる現代の大学教育を受けた人間が抱くところの「人を使って仕事が行われる」というものとは物事のとらえ方として逆です。前者は「普遍は個物に先立って存在する」ということであって、おそらく実在論的である(realistic)ということができます。後者は唯名論的、平たく言うとユダヤ的であって、強欲という言葉で形容されます。プロテスタンティズムのその中でも悪名高いカルヴィニズムもこれに同じです。日本語で「唯名論」なんて言葉を使うから分かりにくいのであって、これはnominalであって有名無実であるということです。全共闘とかコレです。「無実なものを名から無理矢理有らしめる」というと分かりやすいです。Max Weberが面白いことを書いてますけど、カトリック的な伝統主義的な一定の形式によって延々となされる労働において、特に未婚婦人がその労働力として使われる場合、仮にちょっと頭をひねればすぐそれより生産性の高い労働の形態を考案する能力を持つ者であってもその意欲に全く欠けており、出来高賃金率を引き上げても慣習に従うという形で同じタームで得られる(彼女らの中では)固定された賃金を得てしまうとそのターム内においてはそれ以上の賃金を得ようとしない、ということが起こるということです。いくら生産性向上の手法を説明してもそれを拒否されるということからして、未婚婦人の少女たちは意欲云々という以前にその宗教的土壌からして心理的に制約を掛けているんですね。で、ヴェーバーはドイツにおいては「慣習の壁にはね返されて」こういった事態が起こる、と言ってますけど、日本ではこれはおそらく逆の事態が起こるんですね。というのは、日本においては「『慣習の壁に押し潰されて』出来高賃金率にしたがって働いた分もらえるお金が増えたよ」という事態が起こります、これは拝金主義の逆パターンです。ドイツにおける前者のような労働態度は、むしろ資本主義イコールで拝金主義に走ってしまいやすい日本では肯定的に扱われ望ましいものとされます、賃金ではなくて事に仕える仕事本位だということであって金より先に仕事があり仕事のおまけとして金をもらえるという事が付随するということです。そしてそもそもウェーバーさんが語ってますけど、この場合においてドイツの企業家が出来高賃金率を上げた意図としては後者である日本における場合の現象が狙われています、これが資本主義です。文化人類学的土壌が違うと違うものは違ってきます。
悪質な精神科医の中にはこれを逆手にとる人間が居ます。人を使って病気をつくる、というわけです。つまり精神科クリニックにて精神科医が患者に対する親しさを装い患者に口を故意に開けさせ、そしてそれを箇条書きの様に情報の最小単位としてそれを記録していきそこから患者の人格その他の再世界化を開始して精神病患者を精神病患者たらしめるくらいのことを行う人間も居るということです。
自称「現場主義者」がいざとなると隠れて見えないところから他者の人格や性格の「タイプ判定」に及んだり、「逃げ」を肯定したりすることほど間違えの極みであってお陳腐なお笑い草の種は無いです。現場をイデオローグ化した瞬間に訪れるのは修羅の世界たる無政府主義であって、だからそれそのものからして他人を見下しての「お笑い」だということであって、「現場主義(笑)」というところに落ち着くことすら出来ない悲惨なほどのギャグのネタです。もちろんエニアグラム自体からは学ぶものは多いです、それこそユダヤの人たちの知恵なんでしょう。
個人的な経験では、M'z a 悪意(仮称)医師は自分ら精神科医の所属する精神医学界が「業界」であると名言してくれた良心的な医師でしたけど、精神科医の中には甘い言葉で女をたぶらかすように精神病患者を釣る悪質な人間が居るんですね。今かかっているN口クリニックのk子kurseマ医師はかなりのニーチェ的人間なんですけど、何故か現代日本ではニーチェ的人間の非ニーチェ的な一般的人間に対する逆差別というものがまだしぶとく存在するんですね。他人を自分特有の空気のみにてgelesenされたものとして扱い鼻で笑って見下す、それこそニーチェだとかガンダムの監督だとか、まあ分かりやすくは中二病だとか厨二病だとかです。現代日本だと一番分かりやすいのは一昔前までのネットの掲示板ですけど、おそらく前世紀までの戦後日本ではこういった弱者蹂躙をよしとする何かを勘違いした弱者がのさばってたんですね。ネットは別にそういう場所なんでいいですけど、現実の社会においてコレをやられた日には国は借金を抱えてボロボロになりました。
今までの人間関係を切らせるというところから精神科医は始めます、が、これは罠です。恐怖におびえる患者を外敵から守るフリをして引き摺り下ろして比べ物にならないほど酷いことを患者に対して行います。個人的な経験では、東京都新宿区舟町にて精神科クリニックを営んでいたN田四R医師はコレを行いました。「希望」という言葉で釣って絶望を与える唯名論者、犯罪者。ヤクザは右の定常状態に戻してくれるところの右な人たちなんでいいですけど、こういった藪医者はもうかるとかいった生ぬるい形容では済まない人を左へ蹴落として笑っている右の豚が自営しててもらうと社会に多大なる損益が生じるんですね。
もう少し個人的なところでは私は自分の母親がこういった人間で、家事はまともに行わず、ただでさえ質の悪い食材を何処から品を仕入れているのだか分からない生活クラブだか生協だかでわざわざ高い値段と引き換えに買ってきてそしてそれをきちんと加熱せず野菜類でも茹でるその他で悪いものを出す等の簡単な手作業を施さずに故意にそれより手間のかかる悪い調理の仕方で食卓に出す、ということをひたすら行っていた一見したところでは何を考えているのだか分からない人間です。ワザとやってるわけでしたけど。私は先にも書いたように精神に先立って肉体がもう若くして悪いんですけど、どうやらこの母親が悪いものを私が極めて幼い子供の頃から食べさせていたということに大きく原因があるようです。私は近日は一般のスーパーで買った極めて簡素な食事だけをしているんですけど、少なくとも悪いものを食わされていた時分に比べると体調ははるかに良いです。
結局はこういった連中は業(カルマ)を巻き起こそうとしているだけなんですね。これを資本主義上の精神なんたらと言うと聞こえはいいですけど、禍が巻き起こった分だけそれが現実問題としてのカネつまり経済学で考えるところの貨幣の流通速度の増加に反映されるかどうかとはちょっと別問題です。これは数学を使って解析できます。拝金主義と資本主義は違うので。金は拝むものではなく道具です。
精神を病んでいる人やそうでなくても女性に多かったりしますけど、「自分で」ということが分からない人が居ます。「自分で(自分の肉体の調子に合わせて事象の認知をコントロールする)」ということです。私も精神病んでいて永らくこれができませんでした。これは別に特別な能力でもなんでもなくて、人口の8割以上の人間には身体の健康を保つべきこととして当然に出来ていることなんですね。人口の8割以上は数学的に生きてます。「弱い人間がどうたらこうたら」という逃げ口上を使うクズが居ますけど、そういった非数学的な連中というのは「弱い」のではなくて「悪い」わけです。ただ単に「弱い」だけの人たちはちゃんと社会的に保護されるように出来てます。
対人関係において危機が訪れると幼児的な道化を行い逃げに走る人間がたまに居ますけど、こういった人間とて当然さすがに幼児的な「道化行為」によって他者を騙せると思っているのではなく、その道化行為のあまりの「幼児性」によって他者を欺き挙句の果てはその場においてのみ異常者であるとすら思わせ如何にしてその場を切り抜けるかということをその行為の第一義としている場合が余程の馬鹿でないかぎりほとんどなんですね。
極論すればこういった自暴自棄になって他人からして除外されるようなことを行う人間というのは「誰にも助けられない見捨てられた自分」に酔っているところすらあるんですね、それを自分がワルで悪党である証であるかのようにイタい勘違いをするということとともに。私はこういった自分の父親のようなカンチガイ野郎の幼児的なマスコミ的ピエロギツネを見ると凄まじく嗜虐心を煽られて殺意を覚えるんですけど、何故こういったのが社会的に許容されて生かされているのか甚だ疑問です。
管理するところは大人がしっかりと子供を見て管理しておかなければいけなかったのに、自由だの個人の意思尊重だのの名目のもとにいい大人たちが無責任であっただけ、neglectに走っていただけだったんですね。
科学的な(実証的な)立場からのものの見方しかできない人は、何らかの事象について合理的な解釈でgelesenしかつそれが説明できないと納得できないどころか自分を保っていることができないので、下手をすると「自分の中に装置が埋め込まれていてそこから電波が発して自分の思考を全て読み取られている!」とか「全人類は地底に埋め込まれた秘密の施設から情報を盗まれている!」だとかおたわけなことを仮にそれが精神科の診察室の中であっても吐いてしまったりするわけです。そう「なって(sein)」いる、ということがこういう人たちには理解できません。つまりは精神医学と文学(哲学的思考?)というのは切り離せません、というか精神科医はそもそもそれを狙って「治療」と称しているわけです、が、まあ一般には受け入れられないでしょうね、ということです。私は受け入れましたけど。大分症状は良くなりました。
漫画作品も漫画作品で紙というハードにコピーされた一つの世界に過ぎないのであって、まあ極端に言えば一つの物語世界として鑑みるのならば蓋然的というか数学的であるということができるかもしれませんけど、ああいったものの何が問題であるかというと、読者の現実問題に対処するにおいての具体的場対応と一つの固定された世界であるに過ぎない紙面の情報を読者自身が関連させてしまうというところにあるんですね。アニメもキャラクターがしゃべるゲームも同じです。前にも書きましたけど、「萌え」というのはそれの最たるものです。だからカワイイ女子中高生のアニメの女の子が出てくる萌えアニメとかは最悪なのであって、サザエさんだとかドラえもんだとかちびまる子だとかの日常を描いているようなマンガも悪質であって、いしいひさいちさんの四コママンガも危険なわけで、現実味の無いところの昔ながらにあるシンデレラとかの昔話や宇宙戦争の類のものが最もマンガとしての害毒が少なくてマシです。ガンダムの何がヤバかったかというと、プラモデルやカードダスやゲームで蓋然的な固定された世界を好き勝手に操作しうるという形で子供やマニアの日常に具体的に入り込んできていたということが危険だったということであって、監督が一つのアニメ作品として仕立て上げただけの単なる一過性のアニメーションだったらよかったんですね。そうすれば、あのロボットがかっこいいだとかあのアニキャラが萌えるだとかいったことに目を奪われずに、子供において「学ぶ」とは何かということについての自覚的理解がきちんと促されることに役立ってました。大塚英志さんは著書で「僕がファミコン時代のRPGに少しでも興味を持ったのは~」というくだりでこれと同じことを書いてました、物語は物語としてありきのものでゲームに存する被操作性が良くないと。プラモデルは子供が物を組み立てる作業を経るということで勉強にはなるかもしれませんけど。だから電子書籍の類で固定された情報を取り出しやすく工夫がされているだとかいったことはとくに何の問題も無さげです、そこに面白みで釣るだけであって学習を阻害するゲーム性が無いのであれば。電子辞書は良くないです、文字順に並んでいる紙の書籍の辞書が学習上良いのであって。同じくメモリを使うのであれば、ヘンな意味で理想的なアニメキャラよりも現実の女に萌えといた方がまだ賢いです。
それこそマンガでよくありますけど「目の前の現実が見えてない」だとかいうセリフ、これはナンセンスなのであって、人間誰しもやはり目の前の現実から完全に目を逸らすことは難しいということです、現象的にセリフとは逆であって。まあ異性間の愛のあるセックスだとかだと現実を失って溺れられるのかもしれませんけど、ちょっと私はそういうものについてはあまり知らないです。たぶん男が女を得るためにはギリギリ限界まで現実から目を逸らさないといけないところがあるんですね。
私は若い頃いわゆるワルだったわけではないので、そういう人たちのことは詳しくは知りませんけど、仮に「コワい」人物が居たとして、その人物に対して何も危害を加えるようなマネをしていない悪いことをしていない後ろめたさが無いというのであれば、別に恐怖の感情なんか湧かないはずなんですね。余程のバカでない限りいたずらに無意味に他者に危害を加えるということは、マンガや小説のお話の中以外では無いです。見た目が恐いだとかなんだとかいうのは小学生レベルなんでどうでもいいです、もちろんその人をその人たらしめるものを判断する材料にはなりますけど。ちなみに自分におけるこの後ろめたさの無さの指標となるものは、言語化して何がどうなっているかを説明可能でありそして自分が間違っていること相手から説明されてそれが合理的である場合はそれに可を下すということです。それが仮に現存在(Dasein)についての説明であっても。
物理的に「光の当たらない場所」というのは人工的に密閉された空間を作らない限り有り得ないですけど、物理的には光というのは電磁波だそうで、この光がその一種であるところの電磁波というのは真空または物質中をその振動が伝播する「現象」であるということです。「|∞|/0の相関関係」というのは物事の繋がりを考える上での分かりやすい言い表しですし、禍根を絶つということにおいてこれもまた分かりやすいものですし、もちろん良いことを行えば良いことになるということでもあります。しかしこれを履き違えると他者に危害を加えてもその現時点においてからの世界のなりゆきを考えるとどのような形でも仕返しを行ってはいけないということになるんですね。だから現実問題としては現時点で俺が何やっても俺の勝手ということになって暴力が跋扈して特定のイデオローグ内での社会は崩壊するということになりかねません。日本でも江戸時代は叉敵はご法度でしたけど、敵打ちは当然の権利として許容どころか認可されていました。この履き違えは全く現実を見ていない上に現実問題の検討能力の無さをアピールしているようなものであって、これが仮にもどこかの釣り以外の何物でもないオカルト新興宗教の教祖サマのように「|∞|/0の因果関係」という形でまかり通っていたならば、現代の社会にある技術はどれも存在しませんでした。瞬時の反応で他者を傷つけるような人間は、それこそ居なくなれどころか存在を許容されないということになります。神サマな人間は世界中何処を探しても居ないので。もしそれを力として振るいたいというのであれば、それは「この女だ!」と思った一人の女性を射止めるためだけにしてくださいということです、おヤクザさんになる覚悟の無い人は。
LEDの光なんてあんなもの光ではないんではないかと。あのLEDの光に照らされていると眼球が破裂しそうな程に痛くなるんですけど。昼間ずっと職場とか学校とかであの光に照らされていると間違いなく悪影響です。誰もが皆蛍光灯や白熱球の光を欲している上にその耐久性からしてもLED電球なんてあんなもの需要とは無関係に生産してます。電光掲示板や信号の等々のみの用途としておけばいいのに、滅茶苦茶です。明らかに蛍光灯や白熱球への需要が在ります。
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CHELSEA GIRL
2012.07.09 Monday
腐らない理性の扉。
自分の育ちの悪さや下俗さを棚に上げて「世の中」だとか「世間」がどうとかバカな中年男が汚い飲み屋でグダグダホザいてそうなグチをまるで世界に対する正当な数学的な解釈であるかのようにのたまう大バカがまるでマンガの世界のように社会の構成員の大半を占めるというのならば、少なくとも私は子供たちにそんな社会に適応しろとは口が避けても言えません。そういう「世の中」なるものがあった方が自分らだけは甘い蜜をすすりサークル外の人間は奴隷にできるという業界豚がこれを必死に喧伝してました。もちろんこういったものを「御免である」と認識することは数学的なわけであって社会的生産性を最大に持っていくべく個々の経済主体が持つべき当然の価値意識なわけですけど、それとは真逆のマザーコンプレックスな(笑)を付けうるような「世の中属性」に「大人」という言葉のアヤとそれによって呼び起こされたトリッキーな感情によって物事の数学的な認識が「大人ではない子供」のものであるかのように見せかけることができるんですね。日本のマスコミの豚共は必死にコレをやってます。まるで「『世の中そううまくはいかない』という頭の悪い俳優が織り成すベタな三文ドラマで見られるような『子供』の価値意識が、ドラマやマンガの枠を飛び越えて現実世界においても『大人』のそれとして通用するかのように見せかける」ことが通用するとある種の自慰的なナルシズムとでも呼びうる方向性にてお幸せなことに思い込んでいる「子供」のように。
私SSが被害に遭った自称竜頭万里子の究極のエニアグラムもうそうですけど、新興宗教の類というのはまず被害者の口封じと既存の人間関係の切断に持っていきます。それは当然ハッキング天国にてということでもそうですし、大切な人との関係を工学化してしまうということにおいてもそうです。例えば自称竜頭万里子の場合だと、「(能動的な差別カテゴリーとして)タイプ2w1」でも「(受動的な被差別カテゴリーとして)末っ子で無政府主義者であるタイプ4」でもそうですけど、社会的に好ましくない被差別部落民のようなカテゴリーやもしくは当該被害者の価値意識における好ましくないカテゴリーを作っておいて、被害者が自己防衛を行おうとするとそれは当該被差別ガテゴリーの証(たる「タイプ2w1」や「タイプ4」)であるという「判定」を下しどんどん被害者の口を封じていくということ行います。しかも自称竜頭万里子の場合は金を取り、その金を取るという形骸が存在しそこでまるでそれが被害者にとって価値のあるものだと錯覚させるというやり方なのであって、教祖たる自称竜頭万里子にとっては被害者をレイプして金まで取れるというダブルでおいしいやり方なわけです。新興宗教のお布施です。オウム真理教とかの類もおそらくこうやって信者を増やしてました。で、教祖にとっては都合の悪いことに理詰めで論駁されてそれが間違いでないことが分かると、「この人はタイプ5だ」と今度は逆に肯定的に「特殊な」被差別カテゴリーのレッテルを貼るということによって逃避に走りそしてそれと同時に「しかしそうではないタイプ2やタイプ4の人もいる」という分かりやすい逃避行動に及ぶと同時に被差別カテゴリーの存在は相対的にキープし続けるという行為に及ぶわけです。当然口では自称竜頭万里子は「すべてのタイプは平等です」という「判定」を行う自分の行動とは真逆の大嘘をホザきます。ちなみに、自称竜頭万里子の場合だと「当該被害者の価値意識における好ましくないカテゴリー」はイコールで「自称竜頭万里子が『判定』したところの当該被害者における性格タイプ」であって、全ての人間に対して不快感を煽りあわよくば全ての人間に対するレイプを行うというコレはやり方だということです。私がこのブログを書き始めるまでの数年間はしかもあろうことか日本のマスコミの豚共がこれを利用して悪乗りをしてました。もちろん大手マスコミ新聞関係者であった私の父親もこれに関わっていた犯罪者です。このマスコミの豚共の所業は、自称竜頭万里子さんが実在するとして自称竜頭万里子さんの本意ではないかもしれません、私の知りうるところではありませんけど。フリーライダーの場合は私SSについては私に損害が及ばない限りにおいていくらでもやってもらって構いませんけど、一般的に悪いと言われるこれとは比べ物にならない程こういった新興宗教の類は悪質です。オカルトペテン教祖が「人間を」分かった気になって文字通り図に乗るなというんですね。「教授系でタイプ7やタイプ5を多く見ます」とか、教授は教授であって「教授系(の人間)」なんてものは存在しません。(笑)を付けるのもはばかられます。自称「判定者」でも教祖でもそうですけど、自分を自分における偶像化したら人間は終わりです。あちらを勃てればこちらを叩き、こちらを叩けばあちらを勃てる、というまあユダヤ的と言えばユダヤ的なものではあります、が、エニアグラム図を悪質な利用の仕方をして実態は当のユダヤの人たち・現代のイスラエル人に対する冒涜です。
学校という場で子供にものを教える教師というものや年上の人間やいわゆる目上の人間というものがどういうものか分かっていれば、いかに対象が馬鹿であっても、そこから何かを学びこそすれ、その教師や目上の人間に逆らおうなどという気は賢い子供には起きないんですね。私は子供の頃教師に逆らいはせずとも嘲っている馬鹿な人間でした。ひたすら教師や目上の人間をバカにして、逆らう価値すら無いと思っている子供でした。が、中には子供の中のそういった負の感情を誘発してしまう馬鹿な人間が教師をやっている場合もあるんですね。たまに何十年も昔の不良少年バリに痛々しくカラんでくるバカな中年教師やキチガイさんも居たりしました。
子供の頃に遭遇した男教師で、生存していればおそらく50代半ばであろうロリコンの変態中年男が居ました。「女の子も小学校高学年になると魅力的になりますからねぇ~」と教壇の上からしたり顔で言ってみたり、男子児童にナイフの所持を勧めたり、小学校の教室に戦時中の刃渡り90cm程度の軍刀を持ちこんでそれをクラスで嫌われ者の問題児に抜き身で構えさせるという銃刀法違反どころか下手をすればその問題児が殺人にまで及んでしまうのではないかという程の最悪に馬鹿な行いに及ぶ、ということをやらかしたりしていました。倫理的に考えて許されない云々というより常識的に考えて異常です。そういえば宮崎勤元死刑囚も生きていれば2012年時点で60歳代半ばです。
また、大学の時外国語の教師が嫌味ったらしく「企業でも教えてるんだよねぇ~、現地ですぐ使うからってことでねぇ~」と言っていたのを覚えているんですけど、常識的に考えて、企業経営者の側は外国における社員の派遣先でドイツ語の運用能力が必要であるというのであればそもそもドイツ語を専門に学んだかもしくはドイツ語の運用に熟練しているという人間を最初から社員として雇うかもしくは通訳としてその当該ビジネスにおけるドイツ語の必要運用能力を満たす人間を臨時的に雇いますね。そもそもドイツにおいてもビジネスにおいてドイツ語を使わなければならない必要性は何処にも無いわけであって、問題は意思の疎通なわけであってほとんどの場合ヨーロッパ語なら英語で使えますね。何処のチンピラ企業ですか?実在するんですか?ソレは、というお話です。これが嘘でなくてこの外国語教師が本意で言っていたとするならば頭悪過ぎますけど、こんな低レベルでオチンケな嘘が経済学部生に通じると思ってるんですかね?ということであって、まあこんなこと大学生でなくても中学生くらいでも分かりますという問題です。バカなんですかね?まあ教師としての質はともかくとしてこの先生個人的に嫌いではありませんでしたけど。
ヴェーバーが言及してますけど、カルヴァン派に端を発するプロテスタンティズムの「天職」概念は、つまるところ噛み砕いて分かりやすく言うと現代におけるご都合主義的芸能的金儲けまたは自分は都合の良いポジションに居て人間同士が互いに見下し合うというマザーコンプレックスにまみれたミクロ経済的な人間集団の構図の捏造に一役買っているということなんですね。現代日本で分かりやすいところだとおそらくは旧自民党的な。まあたぶん前世紀に日本のメディアがお宣伝していたところの資本主義っちゃ資本主義です。ちなみにMartin Luther自身もルター派もカルヴァン派やピューリタン等々の限りではなく、実は価値意識的には伝統主義的というかカトリックに近いものなんですね。ちょっとうろ覚えですけどルターはイタリアを訪れた時にゴテゴテしたバロック様式の建築美術には意のカケラもくれず音楽だけ(?)に興味を及ぼした、とか。ジェズイットはそれこそ自由意志説の具現体というかカトリックであるがプロテスタントにおけるルターの逆パターンみたいなものであって、「反」宗教改革という形でルター派をカルヴァン派と同一視してプロテスタントに対するアンチを行うということによって自己の立ち位置を示していたということんなんですね。だから軽くナチ的なものではあります。
もしかしたら東大生の人とかはこういうことをよく分かってるのかもしれないですけど、地方出身者で太宰治みたいなのに露骨な中二病者が居たりするとか。太宰治は中二病のさきがけですけど、あの村上春樹さんとは逆パターンの都会人でありながら田舎者志向の内田樹さんという人もかなりの中二病者です。内田樹さんは著書で「どの人間もが互いに(誇りやプライドを持って?)見下しあうのが理想的」とか言ってますけど、この人重度の中二病です。極めて強度のプロテスタントな発想です。
しかし残念ながらいわゆる右翼にまつわるイメージというのも馬鹿だとか危険だとかです。一昔前のだと、戦争万歳だとか、中国にやたらとバカみたいな敵対心を向けるだとか。で、本質的にこういったことを考えている本質的なバカだというのではなくて、大切なものを守っていくために右翼の人たちはバカを演じざるをえないということです。
例えば「勉強する」ということにおいて、朝に日が昇り夜に日が沈む生活サイクルにおいて食事や通勤通学等の前後の行動をさしはさんでどの時間帯にどれだけの時間勉強という行動に及ぶか、ということが本質的な問題なのであって、こういった健康第一というか肉体本意や生活本意なことから脱して「これをやるまでは寝れない!」とかもっと高じると「あいつをブチ殺すまでは死ねない!」とかいった女性的な目的達成偏重な価値意識に陥ると人間悪くなるということなんですね。「人間悪くなる」というのは、肉体的にも悪くなる上にそれに従って精神的・人格的にも悪徳な人間になるということです。つまり生活態度の悪い人間はダメだということなのであって、精神科医も精神を病んでいる人間に対してまずそこから改善させようとします。だから学校の勉強の場合で言うと、変にひねった問題を課す私立高校や私立大学は頭の良し悪しにかかわらずあまり良くないということになるわけです、実態は馬鹿な教師が個人の趣味に合わせて凄まじく偏った成績の付け方をして理不尽に蹴落とされた人間を犯罪者予備軍として捏造していただけですけど(これはマンガ的形容表現ではなくて戦後にもナチス第三帝国を日本で作ろうとしていたということです)。ヤクザの人たちというのはおそらくこういったものの考え方、これはイシュタシスというかdas Drittes Reichな発想です。第三帝国というのは文学的に表現すると太陽の国です。Hakenkreuzは古代インダス文明の太陽と豊穣を象徴する紋章です。ユダヤ人というのは日の当たらないジメジメしたところで生きてきた人たち、もしくはそれを余儀なくされていた人たちです。文学的に言うと夜の生活の吸血鬼、物理的に考えると日光に当たらずにまあ病気になってしまった人たちです。ちなみに上智大学(カトリックのジェズイット、上から三つ目)とか名古屋(加藤さん多し、人口第三位の政令指定都市)とか第三帝国ですけど。実際名古屋は高等学校は公立がよろしくて、そこまで頭はよろしくないですけど一番質の良い私学として南山大学というカトリックの大学があります。イエズス会に限って考えるならばこれはおそらく名古屋人には評判悪いです、外出志向なので。前にも書きましたけど、名古屋人は非常な田舎者気質です。で、おそらく戦前の日本ではきちんとこういった何がどうなっているかということを学校で教員が子供に教えていたんですね。こういった大切なもの・大切なこと、「ものわかり」を教えなくなってヤバいということで右翼の人たちは取り敢えず戦後なものをぶっ壊さないとどうしようもないのでああいった一見してはバカなことを言ったりやったりしていたというわけです。私は中産家庭のしかも異常者が作った囲いの中の育ちで公立小中学校へ通ってこういったことは教わりませんでしたけど、現在の日本でもよほどいいお家のお育ちの人はたぶんこういったことを教わっているでしょう。私学でも慶應義塾とかはこういった教育をやっていて、だからあそこに通う男子学生は男っぽいということで「慶應ボーイ」とか呼ばれるわけです。……私は女をオモチャにしてチャラチャラ遊んでそうな慶應少年はあまり好きではないんですけど。ナチス政権下で女性の売春婦(Ishtar)にされ具合は半端ではありませんでした。これは歴史上の事実として記録が残ってます。アドルフ・ヒットラーさんただ一人がおそらくキレイだったに過ぎないです。下手をすればヒットラーも売春夫として政治的プロパガンダをやらされていた気があります。ヒムラーはおそらくかなり汚い人間でした。何度もこのブログ内で書いているように、私の父親は典型的なレイプ魔なんですけど、これは人格的な形容表現だけでは済まずに、おそらくこの男過去女性を何人も強姦してます。放火魔属性を持つまあ典型的な悪党のクズであって、こんなのが大マスコミに居た日にゃおかしいことになるという問題です。個人的なアレな話で申し訳ないんですけど、こういった穢多がのうのうと正当人ぶってる日には陰茎切り落として肛門にブチ込んで見世物にしたろかくらいに思ってます。法律に違反しなけりゃ何やってもいいというスタンスで悪事をやらかす日の光の下の住人を装ったユダヤのブタクズがタダで済むと思ってんの?という問題。しかもこの私の父親に関しては気に入らない相手に危害を加えるためであれば法律違反ですら平気でやるというクズです。こういう業の深い人間には禍が回り回って自分に帰ってくるということが分からないんですね。焼きが回るとか。もうちょっと学術的な風味の説明の仕方をすれば、エゴに因った悪事で超自我が傷ついてイドの破壊欲求が自己に向くということなんですね。潜在意識に溜まるということです。だから悪いことをすると悪くなる、そうなる(sein)ということです。だからこういった性的欲望の為に人間関係を利用する悪徳な男性は、皮肉にも当の男を性的対象として見ている女性に「男って馬鹿よね~」と言われてしまうというわけです。
余談な私事ですけど、私は中学一年の終わりに転校しました。転校する前の中学では不良少年少女も居ませんでしたし、私は優等生だったので下ネタも全く知りませんでしたし、下ネタというものの存在自体も知りませんでしたし、そもそも年頃の男子にありがちな女子生徒を性的対象として見るという発想がありませんでした。で、転校した先の中学では露骨な不良こそ居ませんでしたけど、男子生徒は朝っぱらから下ネタのオンパレードで女子生徒は露骨に太ももが見えるミニスカートでボディラインを見ろといわんばかりのワザとサイズの小さいパッツンパッツンのジャージを穿いてるわけです。同級生の悪友は「やあ!今日もおはよう!チ○コ!マ○コ!」とかそういうことを言うわけです。これがまだ「Helloってエッチエロだよな」とかそういう中学生並みには知的な下ネタだったらばよかったんですけど、私は「マ○コ」という言葉さえ知らずに、女子生徒を見るたびに強制的にエロ本を観覧させられている気分にさせられました。まあ今の中学生はネットがあるんで解消されてるものは解消されてるでしょうけど、当時はエロ本とかを見るなら見るでこっそり一人でとか男友達とニヤニヤ見るのが楽しかったわけで、毎日顔を合わせることになる女子生徒を見るたびにあんなもん見せられる気分にさせられた日にゃ吐き気がするほど気持ちが悪くなります。毎日強姦されに学校へ通っているようなものであって最悪です。しかも、私は中学生の時には一度もマスターベーションをしたことがなかったんですけど、仲のよかった悪友が毎日のように「オナニーしろよ、オナニーしろよ」と勧めてくるわけであって、転校してからの中学校の二年間は非常に苦痛でした。名前を呼び合うのも「~君」「~さん」付けではなく呼び捨てでしたし、教師が生徒を呼ぶのまでもが。何故チンピラが小中学校の教師になれてしまうのかまったくいまだに理解不能ですけど。
失礼な言い方ですけど、私は自分が女性だったら発狂してます。私がこういった状態で発狂せずにいるのはおそらく私がヒトのオスだからです。身体の問題からして四六時中男性にプレッシャーをかけられ、挙句の果てはその災禍の源である男に寄って体を犯されまた自分と同じ悲劇の火種を産むしかない、そしてその子供が悪徳に走ったならば私が女で母親だったらおそらくそのあまりの無意味さと自分の呪われた性で気が狂います。それでも笑う女性の笑顔を可愛いとは思っても私は健気だとか美しいだとかとはとても言えません、痛々しいです。そりゃ女は理想的な男を求めに走るだろうな、ということであって、無理して笑顔つくらなくても気持ちの悪いものウザいものを全部吐き出してしまった方がいいです。女の人がよく泣くのは、あれはたぶんそういうストレス解消な問題です。
このあいだ外を歩いていて夜の8時や9時頃に10歳くらいの女の子が白いドレス(?)みたいなものを着て一人でウロウロしてるのを見たんですけど、あーあーこりゃあぶないんちゃうのと思ってチラっとだけ見るんですけど、親は何を考えてるんですかね?
昔はおそらく暴走族が子供とかさらってました、が、現代日本ではそんなことはできないので、「攫えないんだったら、じゃあ囲っていくか」ということで悪質な連中が王子と乞食のKönigsbergをなんとか頑張って作っているという実情がこの日本という国においてもまだあったりします。わけのわからんところのマスコミとか。
しかしたしかにマスコミも悪いことばかりを行っているようではないようです。反戦に関するイベントだとか。朝日新聞社や毎日新聞社の後援でこの夏の季節になると原爆の悲惨さを伝えるイベントだとか多々行ってます。こういったものの用途としてフリーライディングしてもらうのならそれはいくらでもおおいにけっこう、ということであって、これは私だけでなくほとんどの人がそうです。人々が互いを利用しあって残していかなればならない事実記録なので。
私はもう体があまり固形物を受け付けないので、パンと液体だけ摂取してるんですけど、近日固形物を多少摂取したらば黄色い尿が出なくなって体調が途端に悪くなりました。
勤め人の人たちや若い人でもメガネをかけたオタクのお兄さんの偶像に代表されるように、おそらく低視力者と肥満者の割合は正の相関を示してますけど、目が悪くなるとやはり身体感覚が狂うというか、視力が低下しているということが身体感覚が狂っている証だと考えると妥当です。(視覚)情報ため込み過ぎて腹に(意識が)キちゃってるとか、「読み」は「黄泉(の国)」だとか。というのは私は最近ストレスが解消されて視力が良くなってるんですね。以前と同じメガネでぼやけることなく遠くまでキレイに見えます。断食をすると悪いものは出て良くなるものは良くなるっぽい、身体意識的に頭にクるんですけど、けっこうオススメです。黒いものが出る、腹黒さが改善されるとか。牛乳とかは栄養がありますけどけっこうタマるので成長期を過ぎた成人が飲み過ぎると要注意です。牛乳を飲む罪悪感とか。
信仰というのは不安定です。工学化されていない健全な人間関係そのものであって、男女のものに走られて人口が増えて世の中乱れることになる前に昔の知恵者たちは仏像でもナザレのイエスさんの偶像でもiconを設定しておいたんですね。絶対神アッラーもマホメットさんが設定した一種の像です。女性はたぶんほとんどの人がそうでしょうし、男性でも少なくとも私はそうですけど、信じた相手にしか身をまかせられないのではないのというはちょっと悲しいのであって、婚前性交とか普通に恐ろしいです。
川端康成の「月」という短編小説に、童貞の青年がおもくるしくなった自分のぶらさげものを、月よ、お前にこの感情を上げよう、と告白するというのがありますけど、何も無いところただひとつ空に浮かぶ月にはうさぎさんが住んでいるそうで。
お腹はおだいじに。
自分の育ちの悪さや下俗さを棚に上げて「世の中」だとか「世間」がどうとかバカな中年男が汚い飲み屋でグダグダホザいてそうなグチをまるで世界に対する正当な数学的な解釈であるかのようにのたまう大バカがまるでマンガの世界のように社会の構成員の大半を占めるというのならば、少なくとも私は子供たちにそんな社会に適応しろとは口が避けても言えません。そういう「世の中」なるものがあった方が自分らだけは甘い蜜をすすりサークル外の人間は奴隷にできるという業界豚がこれを必死に喧伝してました。もちろんこういったものを「御免である」と認識することは数学的なわけであって社会的生産性を最大に持っていくべく個々の経済主体が持つべき当然の価値意識なわけですけど、それとは真逆のマザーコンプレックスな(笑)を付けうるような「世の中属性」に「大人」という言葉のアヤとそれによって呼び起こされたトリッキーな感情によって物事の数学的な認識が「大人ではない子供」のものであるかのように見せかけることができるんですね。日本のマスコミの豚共は必死にコレをやってます。まるで「『世の中そううまくはいかない』という頭の悪い俳優が織り成すベタな三文ドラマで見られるような『子供』の価値意識が、ドラマやマンガの枠を飛び越えて現実世界においても『大人』のそれとして通用するかのように見せかける」ことが通用するとある種の自慰的なナルシズムとでも呼びうる方向性にてお幸せなことに思い込んでいる「子供」のように。
私SSが被害に遭った自称竜頭万里子の究極のエニアグラムもうそうですけど、新興宗教の類というのはまず被害者の口封じと既存の人間関係の切断に持っていきます。それは当然ハッキング天国にてということでもそうですし、大切な人との関係を工学化してしまうということにおいてもそうです。例えば自称竜頭万里子の場合だと、「(能動的な差別カテゴリーとして)タイプ2w1」でも「(受動的な被差別カテゴリーとして)末っ子で無政府主義者であるタイプ4」でもそうですけど、社会的に好ましくない被差別部落民のようなカテゴリーやもしくは当該被害者の価値意識における好ましくないカテゴリーを作っておいて、被害者が自己防衛を行おうとするとそれは当該被差別ガテゴリーの証(たる「タイプ2w1」や「タイプ4」)であるという「判定」を下しどんどん被害者の口を封じていくということ行います。しかも自称竜頭万里子の場合は金を取り、その金を取るという形骸が存在しそこでまるでそれが被害者にとって価値のあるものだと錯覚させるというやり方なのであって、教祖たる自称竜頭万里子にとっては被害者をレイプして金まで取れるというダブルでおいしいやり方なわけです。新興宗教のお布施です。オウム真理教とかの類もおそらくこうやって信者を増やしてました。で、教祖にとっては都合の悪いことに理詰めで論駁されてそれが間違いでないことが分かると、「この人はタイプ5だ」と今度は逆に肯定的に「特殊な」被差別カテゴリーのレッテルを貼るということによって逃避に走りそしてそれと同時に「しかしそうではないタイプ2やタイプ4の人もいる」という分かりやすい逃避行動に及ぶと同時に被差別カテゴリーの存在は相対的にキープし続けるという行為に及ぶわけです。当然口では自称竜頭万里子は「すべてのタイプは平等です」という「判定」を行う自分の行動とは真逆の大嘘をホザきます。ちなみに、自称竜頭万里子の場合だと「当該被害者の価値意識における好ましくないカテゴリー」はイコールで「自称竜頭万里子が『判定』したところの当該被害者における性格タイプ」であって、全ての人間に対して不快感を煽りあわよくば全ての人間に対するレイプを行うというコレはやり方だということです。私がこのブログを書き始めるまでの数年間はしかもあろうことか日本のマスコミの豚共がこれを利用して悪乗りをしてました。もちろん大手マスコミ新聞関係者であった私の父親もこれに関わっていた犯罪者です。このマスコミの豚共の所業は、自称竜頭万里子さんが実在するとして自称竜頭万里子さんの本意ではないかもしれません、私の知りうるところではありませんけど。フリーライダーの場合は私SSについては私に損害が及ばない限りにおいていくらでもやってもらって構いませんけど、一般的に悪いと言われるこれとは比べ物にならない程こういった新興宗教の類は悪質です。オカルトペテン教祖が「人間を」分かった気になって文字通り図に乗るなというんですね。「教授系でタイプ7やタイプ5を多く見ます」とか、教授は教授であって「教授系(の人間)」なんてものは存在しません。(笑)を付けるのもはばかられます。自称「判定者」でも教祖でもそうですけど、自分を自分における偶像化したら人間は終わりです。あちらを勃てればこちらを叩き、こちらを叩けばあちらを勃てる、というまあユダヤ的と言えばユダヤ的なものではあります、が、エニアグラム図を悪質な利用の仕方をして実態は当のユダヤの人たち・現代のイスラエル人に対する冒涜です。
学校という場で子供にものを教える教師というものや年上の人間やいわゆる目上の人間というものがどういうものか分かっていれば、いかに対象が馬鹿であっても、そこから何かを学びこそすれ、その教師や目上の人間に逆らおうなどという気は賢い子供には起きないんですね。私は子供の頃教師に逆らいはせずとも嘲っている馬鹿な人間でした。ひたすら教師や目上の人間をバカにして、逆らう価値すら無いと思っている子供でした。が、中には子供の中のそういった負の感情を誘発してしまう馬鹿な人間が教師をやっている場合もあるんですね。たまに何十年も昔の不良少年バリに痛々しくカラんでくるバカな中年教師やキチガイさんも居たりしました。
子供の頃に遭遇した男教師で、生存していればおそらく50代半ばであろうロリコンの変態中年男が居ました。「女の子も小学校高学年になると魅力的になりますからねぇ~」と教壇の上からしたり顔で言ってみたり、男子児童にナイフの所持を勧めたり、小学校の教室に戦時中の刃渡り90cm程度の軍刀を持ちこんでそれをクラスで嫌われ者の問題児に抜き身で構えさせるという銃刀法違反どころか下手をすればその問題児が殺人にまで及んでしまうのではないかという程の最悪に馬鹿な行いに及ぶ、ということをやらかしたりしていました。倫理的に考えて許されない云々というより常識的に考えて異常です。そういえば宮崎勤元死刑囚も生きていれば2012年時点で60歳代半ばです。
また、大学の時外国語の教師が嫌味ったらしく「企業でも教えてるんだよねぇ~、現地ですぐ使うからってことでねぇ~」と言っていたのを覚えているんですけど、常識的に考えて、企業経営者の側は外国における社員の派遣先でドイツ語の運用能力が必要であるというのであればそもそもドイツ語を専門に学んだかもしくはドイツ語の運用に熟練しているという人間を最初から社員として雇うかもしくは通訳としてその当該ビジネスにおけるドイツ語の必要運用能力を満たす人間を臨時的に雇いますね。そもそもドイツにおいてもビジネスにおいてドイツ語を使わなければならない必要性は何処にも無いわけであって、問題は意思の疎通なわけであってほとんどの場合ヨーロッパ語なら英語で使えますね。何処のチンピラ企業ですか?実在するんですか?ソレは、というお話です。これが嘘でなくてこの外国語教師が本意で言っていたとするならば頭悪過ぎますけど、こんな低レベルでオチンケな嘘が経済学部生に通じると思ってるんですかね?ということであって、まあこんなこと大学生でなくても中学生くらいでも分かりますという問題です。バカなんですかね?まあ教師としての質はともかくとしてこの先生個人的に嫌いではありませんでしたけど。
ヴェーバーが言及してますけど、カルヴァン派に端を発するプロテスタンティズムの「天職」概念は、つまるところ噛み砕いて分かりやすく言うと現代におけるご都合主義的芸能的金儲けまたは自分は都合の良いポジションに居て人間同士が互いに見下し合うというマザーコンプレックスにまみれたミクロ経済的な人間集団の構図の捏造に一役買っているということなんですね。現代日本で分かりやすいところだとおそらくは旧自民党的な。まあたぶん前世紀に日本のメディアがお宣伝していたところの資本主義っちゃ資本主義です。ちなみにMartin Luther自身もルター派もカルヴァン派やピューリタン等々の限りではなく、実は価値意識的には伝統主義的というかカトリックに近いものなんですね。ちょっとうろ覚えですけどルターはイタリアを訪れた時にゴテゴテしたバロック様式の建築美術には意のカケラもくれず音楽だけ(?)に興味を及ぼした、とか。ジェズイットはそれこそ自由意志説の具現体というかカトリックであるがプロテスタントにおけるルターの逆パターンみたいなものであって、「反」宗教改革という形でルター派をカルヴァン派と同一視してプロテスタントに対するアンチを行うということによって自己の立ち位置を示していたということんなんですね。だから軽くナチ的なものではあります。
もしかしたら東大生の人とかはこういうことをよく分かってるのかもしれないですけど、地方出身者で太宰治みたいなのに露骨な中二病者が居たりするとか。太宰治は中二病のさきがけですけど、あの村上春樹さんとは逆パターンの都会人でありながら田舎者志向の内田樹さんという人もかなりの中二病者です。内田樹さんは著書で「どの人間もが互いに(誇りやプライドを持って?)見下しあうのが理想的」とか言ってますけど、この人重度の中二病です。極めて強度のプロテスタントな発想です。
しかし残念ながらいわゆる右翼にまつわるイメージというのも馬鹿だとか危険だとかです。一昔前のだと、戦争万歳だとか、中国にやたらとバカみたいな敵対心を向けるだとか。で、本質的にこういったことを考えている本質的なバカだというのではなくて、大切なものを守っていくために右翼の人たちはバカを演じざるをえないということです。
例えば「勉強する」ということにおいて、朝に日が昇り夜に日が沈む生活サイクルにおいて食事や通勤通学等の前後の行動をさしはさんでどの時間帯にどれだけの時間勉強という行動に及ぶか、ということが本質的な問題なのであって、こういった健康第一というか肉体本意や生活本意なことから脱して「これをやるまでは寝れない!」とかもっと高じると「あいつをブチ殺すまでは死ねない!」とかいった女性的な目的達成偏重な価値意識に陥ると人間悪くなるということなんですね。「人間悪くなる」というのは、肉体的にも悪くなる上にそれに従って精神的・人格的にも悪徳な人間になるということです。つまり生活態度の悪い人間はダメだということなのであって、精神科医も精神を病んでいる人間に対してまずそこから改善させようとします。だから学校の勉強の場合で言うと、変にひねった問題を課す私立高校や私立大学は頭の良し悪しにかかわらずあまり良くないということになるわけです、実態は馬鹿な教師が個人の趣味に合わせて凄まじく偏った成績の付け方をして理不尽に蹴落とされた人間を犯罪者予備軍として捏造していただけですけど(これはマンガ的形容表現ではなくて戦後にもナチス第三帝国を日本で作ろうとしていたということです)。ヤクザの人たちというのはおそらくこういったものの考え方、これはイシュタシスというかdas Drittes Reichな発想です。第三帝国というのは文学的に表現すると太陽の国です。Hakenkreuzは古代インダス文明の太陽と豊穣を象徴する紋章です。ユダヤ人というのは日の当たらないジメジメしたところで生きてきた人たち、もしくはそれを余儀なくされていた人たちです。文学的に言うと夜の生活の吸血鬼、物理的に考えると日光に当たらずにまあ病気になってしまった人たちです。ちなみに上智大学(カトリックのジェズイット、上から三つ目)とか名古屋(加藤さん多し、人口第三位の政令指定都市)とか第三帝国ですけど。実際名古屋は高等学校は公立がよろしくて、そこまで頭はよろしくないですけど一番質の良い私学として南山大学というカトリックの大学があります。イエズス会に限って考えるならばこれはおそらく名古屋人には評判悪いです、外出志向なので。前にも書きましたけど、名古屋人は非常な田舎者気質です。で、おそらく戦前の日本ではきちんとこういった何がどうなっているかということを学校で教員が子供に教えていたんですね。こういった大切なもの・大切なこと、「ものわかり」を教えなくなってヤバいということで右翼の人たちは取り敢えず戦後なものをぶっ壊さないとどうしようもないのでああいった一見してはバカなことを言ったりやったりしていたというわけです。私は中産家庭のしかも異常者が作った囲いの中の育ちで公立小中学校へ通ってこういったことは教わりませんでしたけど、現在の日本でもよほどいいお家のお育ちの人はたぶんこういったことを教わっているでしょう。私学でも慶應義塾とかはこういった教育をやっていて、だからあそこに通う男子学生は男っぽいということで「慶應ボーイ」とか呼ばれるわけです。……私は女をオモチャにしてチャラチャラ遊んでそうな慶應少年はあまり好きではないんですけど。ナチス政権下で女性の売春婦(Ishtar)にされ具合は半端ではありませんでした。これは歴史上の事実として記録が残ってます。アドルフ・ヒットラーさんただ一人がおそらくキレイだったに過ぎないです。下手をすればヒットラーも売春夫として政治的プロパガンダをやらされていた気があります。ヒムラーはおそらくかなり汚い人間でした。何度もこのブログ内で書いているように、私の父親は典型的なレイプ魔なんですけど、これは人格的な形容表現だけでは済まずに、おそらくこの男過去女性を何人も強姦してます。放火魔属性を持つまあ典型的な悪党のクズであって、こんなのが大マスコミに居た日にゃおかしいことになるという問題です。個人的なアレな話で申し訳ないんですけど、こういった穢多がのうのうと正当人ぶってる日には陰茎切り落として肛門にブチ込んで見世物にしたろかくらいに思ってます。法律に違反しなけりゃ何やってもいいというスタンスで悪事をやらかす日の光の下の住人を装ったユダヤのブタクズがタダで済むと思ってんの?という問題。しかもこの私の父親に関しては気に入らない相手に危害を加えるためであれば法律違反ですら平気でやるというクズです。こういう業の深い人間には禍が回り回って自分に帰ってくるということが分からないんですね。焼きが回るとか。もうちょっと学術的な風味の説明の仕方をすれば、エゴに因った悪事で超自我が傷ついてイドの破壊欲求が自己に向くということなんですね。潜在意識に溜まるということです。だから悪いことをすると悪くなる、そうなる(sein)ということです。だからこういった性的欲望の為に人間関係を利用する悪徳な男性は、皮肉にも当の男を性的対象として見ている女性に「男って馬鹿よね~」と言われてしまうというわけです。
余談な私事ですけど、私は中学一年の終わりに転校しました。転校する前の中学では不良少年少女も居ませんでしたし、私は優等生だったので下ネタも全く知りませんでしたし、下ネタというものの存在自体も知りませんでしたし、そもそも年頃の男子にありがちな女子生徒を性的対象として見るという発想がありませんでした。で、転校した先の中学では露骨な不良こそ居ませんでしたけど、男子生徒は朝っぱらから下ネタのオンパレードで女子生徒は露骨に太ももが見えるミニスカートでボディラインを見ろといわんばかりのワザとサイズの小さいパッツンパッツンのジャージを穿いてるわけです。同級生の悪友は「やあ!今日もおはよう!チ○コ!マ○コ!」とかそういうことを言うわけです。これがまだ「Helloってエッチエロだよな」とかそういう中学生並みには知的な下ネタだったらばよかったんですけど、私は「マ○コ」という言葉さえ知らずに、女子生徒を見るたびに強制的にエロ本を観覧させられている気分にさせられました。まあ今の中学生はネットがあるんで解消されてるものは解消されてるでしょうけど、当時はエロ本とかを見るなら見るでこっそり一人でとか男友達とニヤニヤ見るのが楽しかったわけで、毎日顔を合わせることになる女子生徒を見るたびにあんなもん見せられる気分にさせられた日にゃ吐き気がするほど気持ちが悪くなります。毎日強姦されに学校へ通っているようなものであって最悪です。しかも、私は中学生の時には一度もマスターベーションをしたことがなかったんですけど、仲のよかった悪友が毎日のように「オナニーしろよ、オナニーしろよ」と勧めてくるわけであって、転校してからの中学校の二年間は非常に苦痛でした。名前を呼び合うのも「~君」「~さん」付けではなく呼び捨てでしたし、教師が生徒を呼ぶのまでもが。何故チンピラが小中学校の教師になれてしまうのかまったくいまだに理解不能ですけど。
失礼な言い方ですけど、私は自分が女性だったら発狂してます。私がこういった状態で発狂せずにいるのはおそらく私がヒトのオスだからです。身体の問題からして四六時中男性にプレッシャーをかけられ、挙句の果てはその災禍の源である男に寄って体を犯されまた自分と同じ悲劇の火種を産むしかない、そしてその子供が悪徳に走ったならば私が女で母親だったらおそらくそのあまりの無意味さと自分の呪われた性で気が狂います。それでも笑う女性の笑顔を可愛いとは思っても私は健気だとか美しいだとかとはとても言えません、痛々しいです。そりゃ女は理想的な男を求めに走るだろうな、ということであって、無理して笑顔つくらなくても気持ちの悪いものウザいものを全部吐き出してしまった方がいいです。女の人がよく泣くのは、あれはたぶんそういうストレス解消な問題です。
このあいだ外を歩いていて夜の8時や9時頃に10歳くらいの女の子が白いドレス(?)みたいなものを着て一人でウロウロしてるのを見たんですけど、あーあーこりゃあぶないんちゃうのと思ってチラっとだけ見るんですけど、親は何を考えてるんですかね?
昔はおそらく暴走族が子供とかさらってました、が、現代日本ではそんなことはできないので、「攫えないんだったら、じゃあ囲っていくか」ということで悪質な連中が王子と乞食のKönigsbergをなんとか頑張って作っているという実情がこの日本という国においてもまだあったりします。わけのわからんところのマスコミとか。
しかしたしかにマスコミも悪いことばかりを行っているようではないようです。反戦に関するイベントだとか。朝日新聞社や毎日新聞社の後援でこの夏の季節になると原爆の悲惨さを伝えるイベントだとか多々行ってます。こういったものの用途としてフリーライディングしてもらうのならそれはいくらでもおおいにけっこう、ということであって、これは私だけでなくほとんどの人がそうです。人々が互いを利用しあって残していかなればならない事実記録なので。
私はもう体があまり固形物を受け付けないので、パンと液体だけ摂取してるんですけど、近日固形物を多少摂取したらば黄色い尿が出なくなって体調が途端に悪くなりました。
勤め人の人たちや若い人でもメガネをかけたオタクのお兄さんの偶像に代表されるように、おそらく低視力者と肥満者の割合は正の相関を示してますけど、目が悪くなるとやはり身体感覚が狂うというか、視力が低下しているということが身体感覚が狂っている証だと考えると妥当です。(視覚)情報ため込み過ぎて腹に(意識が)キちゃってるとか、「読み」は「黄泉(の国)」だとか。というのは私は最近ストレスが解消されて視力が良くなってるんですね。以前と同じメガネでぼやけることなく遠くまでキレイに見えます。断食をすると悪いものは出て良くなるものは良くなるっぽい、身体意識的に頭にクるんですけど、けっこうオススメです。黒いものが出る、腹黒さが改善されるとか。牛乳とかは栄養がありますけどけっこうタマるので成長期を過ぎた成人が飲み過ぎると要注意です。牛乳を飲む罪悪感とか。
信仰というのは不安定です。工学化されていない健全な人間関係そのものであって、男女のものに走られて人口が増えて世の中乱れることになる前に昔の知恵者たちは仏像でもナザレのイエスさんの偶像でもiconを設定しておいたんですね。絶対神アッラーもマホメットさんが設定した一種の像です。女性はたぶんほとんどの人がそうでしょうし、男性でも少なくとも私はそうですけど、信じた相手にしか身をまかせられないのではないのというはちょっと悲しいのであって、婚前性交とか普通に恐ろしいです。
川端康成の「月」という短編小説に、童貞の青年がおもくるしくなった自分のぶらさげものを、月よ、お前にこの感情を上げよう、と告白するというのがありますけど、何も無いところただひとつ空に浮かぶ月にはうさぎさんが住んでいるそうで。
お腹はおだいじに。
Kußecht
2012.07.13 Friday
白い色は、色落ちしない。
人間から全ての不快な記憶を無くしたら、おそらく性欲と食欲を失います。男性の場合は肉体内部に精液がたまるのでなんとも言いがたいですけど、少なくとも私は今精液が溜まってますけどあまり性欲は感じません。
たぶん、意識の表面上、女は男への復讐心により、子を産み育てなんとかしようとします。この子だけは、と。それでは男がその意識上ガラにもなく異性への復讐を誓ったらどうなるかというと、おそらく女性は皆尻軽になって、そして同時に子孫は残されず人口は減る、という事態が招かれるだけです。これは実は男女関係においてアニムスを持つ女性の本質的に望むところと合致するっぽいです。私みたいに心身病んでてあまり見た目のよろしくない男はその限りではありませんけど、ベタベタしないほとんど女を求めない黙っててもイイ男を大方の女性は良ろしいものと考えるとか。
私は今希望があります。「絶望という名の希望」とかいうとちょっと中二病クサいですし、ヘンな話ですけど、生きる気力に溢れてます。苦しく死にたいと思ったことも子供の頃から何度もありましたけど、私は今は死にたいとは思いません。おそらく4歳の頃幼稚園に入ってからこの二十数年間で初めて生きたいと思ってます。自信を持って自分の父親を犯罪者だかヤクザだか分からないような悪質なクズ人間であると言えますし、自信を持って自分の母親を嫉妬に狂った汚らわしい豚であると言えます。悪いものを無理矢理良いと思うことを強制されてきた(これはレイプです)この二十数年間は本当に地獄であったと今になってよく分かります。身共に悪いものが出始めていて、あまり余分なものいらないものを求めなくなりました、これが「生きる」ということ、少なくとも「生」を望む意思だと。そりゃこれだけ喜びみたいなものを恒常的に味わっていれば健常な人たちは生きたくもなる、ガンガン物事をこなそうとか思うだろうな、というお話です。食事も粗末なもので簡単に満足しますし、ストレスで過食に走ることなんか有り得ません。肉や魚を食べたいと思うことなんざ皆無です。女性やオタクのお兄さんに多い過食症者は皆そうですけど、食欲なんてものは単なる憎しみに因る世界に対する反発心の産物です。例えば若い女の人でこのブログにupされている私が書いたものを読んでムカつく人が居たら、それはそれで正当な感情です。性的対象として女を見る時にやはり男は「よろしい女はいちいちムカついたりせず汚い言葉を吐いたりしないおしとやか」という空気を設定します。この空気は現象面だけを男から見たもののうち都合が良いものということで設定されているだけで、男のご都合主義で出来上がってしまってます。一般的に男はご都合主義的ではないですけど、女を性的対象として見る時、もっと突き詰めて考えるのならば射精の瞬間においてのみ(それのために)ご都合主義的になります。で、女の人がこの空気に無理矢理合わせようとして、中に不快なものが溜まっているのに現象面だけはとりつくろおうと溜めたままでいい女を装っているとどんどん見た目も中身も何もかもが悪い女になっていくんですね。どんどんムカつきまくって暴言を吐きまくって悪いものを出しまくってキレイになると考えるのが妥当です。
最近心身ともに健康になってきたせいか女の人に興味が出るんでここのところこういったことをつらつら書いてるんですけど、絡みつくチンピラの男を女性が嫌うのは、彼らが女性を狙うにおいては彼ら男における唯一のエゴを剥き出すからであって、それは特に狙われた女性からすれば「悪いもの」であることがあからさまだからなんですね。どの人間関係においてもソレ(性欲を求めに走っていること)を剥き出しにしてしまう男は恒常的に特定の異性への依存心が強く女と同じものを常に出しているという様に見做されつまり「女々しい男である」ということになって、そんな男に接近される女は「都合のいい時だけ女に甘えるな!」ということをそういった男に対するものとして考えるわけです。たぶん女はあらゆる場面において心で感じることが多いので、射精の瞬間までは自分のエゴをとっておいてそれのために体で自分を女に覚えさせようとする男は性的なものとしては最悪に写るんですね。前世紀にはそこらへんによく居た昔の頭の悪いチンピラ体罰教師とかに高頻度で観察されますけど、ああいうのは体で覚えさせようとします。神話のオーディンみたいに自分の体を傷つけているだけであればまだ世話の余地も少ないんですけど、他人に対して肉体の痛みを強いるということによってです。ワルいクセが教育の場においてすら抜けてないというか、人間関係がどういうものか分かってないということであって、目の前の現実が見えてないということです。それはヤーさんでもないかぎり性的な場面においてだけ出すべきものなのに、孤独感から全ての人間関係どころか全ての場対応全ての現実問題対処においてまでこれを出してしまうということであって、これは女性的であり極論すれば甘えているということです。まともで健全な人たちはああいったチンピラとは付き合いたがりません。現実問題としての一般的な人間関係においてまで他の男を殺して目的の女を得るという行動原理であれば、社会的に他者から排斥されるのは至極当然の事です。ヤーさんはヤーさんでペン的に剣をやる人たちであって殺し屋なのであって、ヒトが言語を使用して説明をするその内容やそれにまつわる現実問題をnichtとして扱っている人たちです。現実の人間関係においてそういった工学化されたものの極致であることを適用して問題を解決するというのならば、それはそれこそサムライみたいに悪を誅する殺し屋になってくださいということであり、私にはそれしか言えないです。
私は思春期の頃チンピラ不良少年たちをバカにして嘲ってましたし、また彼らも私を嘲っていることを知っていましたけど、私は男なので彼らと多少の縁を持って付き合うこともありました。今になってよく分かるんですけど、彼らは子供の頃からワルとして邪険に扱われて私のように精神的に成熟してからではなくて未成熟な子供のうちから周りの大人によって社会的な不安をひたすら与えられるんですね。だから男の悪ガキの場合は、安寧の場である男女関係を求めて外ヅラとしては女子が好きだと見えるということであって、若い頃から女性関係に積極的になるというわけです、他の男を押しのけ、出し抜き、殺して。彼らは「信じるために我知らん」であって唯名論的です。何らかの原因で不幸だったり自分が悪徳であったりするが故に身に振りかかった理不尽さ故に不良少年も不良少女も公益のことを考える余裕は無くなってしまって保身に走るわけです、何とか自分は幸せになって生き残ってやる、と。だから、まるで普通の少年が不良少年に軽蔑の目を向けるのと同じように、彼らは女をいたずらには求めない男に対して敵意を抱きます。つまり先の記事でも書いたように「他人を求めさせてやる」と言わんばかりにこういった連中は自分らと同じではない「孤独を知らない」人間に対して危害を加えてくるというわけです。私SSは不特定多数の人間によるストーカー行為という形でこれをやられましたけど、これが最悪の形をとったものがちょっと派手めに闊歩している女性を輪姦するとかです(やる側もやられる側も英語の"stalker"です)。私は31歳になるこの年まで、彼らが10代の若い頃に抱いたであろう「何も確実なものは無い、誰も確実な人間は居ない、だが今俺が目の前のお前を愛していることだけは真実だ」という不安に基づく異性愛というのは知りませんでしたし、今でも厳密には知りません。で、10代やそれ以前の子供のころから不良少年少女たちが味合わされているこの孤独というのはかなり程度の凄いものです。尾崎豊とかいつか書いたこのブログ内の記事でバカにしましたけど、今になってはあはあなるほどという感慨は抱きます。デカルトだってそうです。デカルトは異性愛に走らずに我が思わなければ我なんざ無いのだよというところにたどり着いた生粋のキリスト教徒に見えますけど、実はヤることはヤって39歳の時にヘレナさんという召し使いの女の人との間に女の子を一人もうけてるんですね。で、そういった不良生徒に真面目な生徒が寄り添っても「(真面目な)おめーには分かんねーよ!」と言ってつっぱねるその原因も分かります、というのは評価を下す大人である教師が凄まじく彼ら彼女らに対して理不尽な扱いをし最悪なまでに不当な評価を下すからということであって、そういった扱いをされたことが生まれてから一度も無い真面目な優等生にはこれが全く理解できません(私の場合は小学校に入る前の子供の時点で自分の親の馬鹿さをよく悟ってましたし、そもそも私の親は自分の子供に対してひたすら言動を圧迫し行動を阻害し「生きるな」というプログラミングをかけようとする人間でした。自分の親の存在によって「死ななければならない」と強制的に思わされていた、というと正確です)。そして彼ら彼女らは生存の手段としてグレに走ります。彼ら彼女らはああやってものすごく生きようとしてるんだな、ということが今はけっこうよく分かります。先のことを考えすぎてストレス溜め過ぎて肉体病んだら元も子も無いということなんですね。私は「生き」を自分の親によってそもそも潰されていたので、この歳の今になってやっと「ああ、これが生きるエネルギー生きようとするエネルギーだな」ということが分かりるようになりました。現代日本では特に首都圏では公立高校が頭悪過ぎてそして同時にまともに頭の良い子供が集まる私立高校がたくさんあるので、彼ら彼女らもグレることはないでしょうけど、たぶん20年や30年やそれ以上の昔はそうとうに酷いものだったっぽいです。
で、こういう経験や性質を持った男が女とくっついて子供ができるとたぶん女の子が生まれる場合が多いんですね。こういう類の人間は女を育てるのに適しているとか、まあそういう方面から考えることもできます。若い頃自分のモノを振り乱して遊んでいた男に対して、女の大切さを教えるべく自戒的な意味合いを持たせるものであるとか。悪いことをやると悪いことになるということであって、悪事は働かないに越したことは無いです。
性的な場面におけるものを全ての現実的対応において適用してしまう愚かな人間ばかりであった場合、男性たちは互いに殺し合い、女性は互いに我関せずであり接点を持とうせず「待ってるだけ」、ということになるっぽいです。何らかの理由で性別や生殖に関心を持たない無性的な人間たちやキリスト教徒的人間は進んで助け合おうとするでしょうけど、おそらく分に合わないことはいさめようとします、合理的に。最後に残るのは、キリストとそれを伝える優等生と月うさぎと人と人にまつわる医療技術・科学技術、キリストが死んだ場合はただ見ている月うさぎと医者のみ。
人間から全ての不快な記憶を無くしたら、おそらく性欲と食欲を失います。男性の場合は肉体内部に精液がたまるのでなんとも言いがたいですけど、少なくとも私は今精液が溜まってますけどあまり性欲は感じません。
たぶん、意識の表面上、女は男への復讐心により、子を産み育てなんとかしようとします。この子だけは、と。それでは男がその意識上ガラにもなく異性への復讐を誓ったらどうなるかというと、おそらく女性は皆尻軽になって、そして同時に子孫は残されず人口は減る、という事態が招かれるだけです。これは実は男女関係においてアニムスを持つ女性の本質的に望むところと合致するっぽいです。私みたいに心身病んでてあまり見た目のよろしくない男はその限りではありませんけど、ベタベタしないほとんど女を求めない黙っててもイイ男を大方の女性は良ろしいものと考えるとか。
私は今希望があります。「絶望という名の希望」とかいうとちょっと中二病クサいですし、ヘンな話ですけど、生きる気力に溢れてます。苦しく死にたいと思ったことも子供の頃から何度もありましたけど、私は今は死にたいとは思いません。おそらく4歳の頃幼稚園に入ってからこの二十数年間で初めて生きたいと思ってます。自信を持って自分の父親を犯罪者だかヤクザだか分からないような悪質なクズ人間であると言えますし、自信を持って自分の母親を嫉妬に狂った汚らわしい豚であると言えます。悪いものを無理矢理良いと思うことを強制されてきた(これはレイプです)この二十数年間は本当に地獄であったと今になってよく分かります。身共に悪いものが出始めていて、あまり余分なものいらないものを求めなくなりました、これが「生きる」ということ、少なくとも「生」を望む意思だと。そりゃこれだけ喜びみたいなものを恒常的に味わっていれば健常な人たちは生きたくもなる、ガンガン物事をこなそうとか思うだろうな、というお話です。食事も粗末なもので簡単に満足しますし、ストレスで過食に走ることなんか有り得ません。肉や魚を食べたいと思うことなんざ皆無です。女性やオタクのお兄さんに多い過食症者は皆そうですけど、食欲なんてものは単なる憎しみに因る世界に対する反発心の産物です。例えば若い女の人でこのブログにupされている私が書いたものを読んでムカつく人が居たら、それはそれで正当な感情です。性的対象として女を見る時にやはり男は「よろしい女はいちいちムカついたりせず汚い言葉を吐いたりしないおしとやか」という空気を設定します。この空気は現象面だけを男から見たもののうち都合が良いものということで設定されているだけで、男のご都合主義で出来上がってしまってます。一般的に男はご都合主義的ではないですけど、女を性的対象として見る時、もっと突き詰めて考えるのならば射精の瞬間においてのみ(それのために)ご都合主義的になります。で、女の人がこの空気に無理矢理合わせようとして、中に不快なものが溜まっているのに現象面だけはとりつくろおうと溜めたままでいい女を装っているとどんどん見た目も中身も何もかもが悪い女になっていくんですね。どんどんムカつきまくって暴言を吐きまくって悪いものを出しまくってキレイになると考えるのが妥当です。
最近心身ともに健康になってきたせいか女の人に興味が出るんでここのところこういったことをつらつら書いてるんですけど、絡みつくチンピラの男を女性が嫌うのは、彼らが女性を狙うにおいては彼ら男における唯一のエゴを剥き出すからであって、それは特に狙われた女性からすれば「悪いもの」であることがあからさまだからなんですね。どの人間関係においてもソレ(性欲を求めに走っていること)を剥き出しにしてしまう男は恒常的に特定の異性への依存心が強く女と同じものを常に出しているという様に見做されつまり「女々しい男である」ということになって、そんな男に接近される女は「都合のいい時だけ女に甘えるな!」ということをそういった男に対するものとして考えるわけです。たぶん女はあらゆる場面において心で感じることが多いので、射精の瞬間までは自分のエゴをとっておいてそれのために体で自分を女に覚えさせようとする男は性的なものとしては最悪に写るんですね。前世紀にはそこらへんによく居た昔の頭の悪いチンピラ体罰教師とかに高頻度で観察されますけど、ああいうのは体で覚えさせようとします。神話のオーディンみたいに自分の体を傷つけているだけであればまだ世話の余地も少ないんですけど、他人に対して肉体の痛みを強いるということによってです。ワルいクセが教育の場においてすら抜けてないというか、人間関係がどういうものか分かってないということであって、目の前の現実が見えてないということです。それはヤーさんでもないかぎり性的な場面においてだけ出すべきものなのに、孤独感から全ての人間関係どころか全ての場対応全ての現実問題対処においてまでこれを出してしまうということであって、これは女性的であり極論すれば甘えているということです。まともで健全な人たちはああいったチンピラとは付き合いたがりません。現実問題としての一般的な人間関係においてまで他の男を殺して目的の女を得るという行動原理であれば、社会的に他者から排斥されるのは至極当然の事です。ヤーさんはヤーさんでペン的に剣をやる人たちであって殺し屋なのであって、ヒトが言語を使用して説明をするその内容やそれにまつわる現実問題をnichtとして扱っている人たちです。現実の人間関係においてそういった工学化されたものの極致であることを適用して問題を解決するというのならば、それはそれこそサムライみたいに悪を誅する殺し屋になってくださいということであり、私にはそれしか言えないです。
私は思春期の頃チンピラ不良少年たちをバカにして嘲ってましたし、また彼らも私を嘲っていることを知っていましたけど、私は男なので彼らと多少の縁を持って付き合うこともありました。今になってよく分かるんですけど、彼らは子供の頃からワルとして邪険に扱われて私のように精神的に成熟してからではなくて未成熟な子供のうちから周りの大人によって社会的な不安をひたすら与えられるんですね。だから男の悪ガキの場合は、安寧の場である男女関係を求めて外ヅラとしては女子が好きだと見えるということであって、若い頃から女性関係に積極的になるというわけです、他の男を押しのけ、出し抜き、殺して。彼らは「信じるために我知らん」であって唯名論的です。何らかの原因で不幸だったり自分が悪徳であったりするが故に身に振りかかった理不尽さ故に不良少年も不良少女も公益のことを考える余裕は無くなってしまって保身に走るわけです、何とか自分は幸せになって生き残ってやる、と。だから、まるで普通の少年が不良少年に軽蔑の目を向けるのと同じように、彼らは女をいたずらには求めない男に対して敵意を抱きます。つまり先の記事でも書いたように「他人を求めさせてやる」と言わんばかりにこういった連中は自分らと同じではない「孤独を知らない」人間に対して危害を加えてくるというわけです。私SSは不特定多数の人間によるストーカー行為という形でこれをやられましたけど、これが最悪の形をとったものがちょっと派手めに闊歩している女性を輪姦するとかです(やる側もやられる側も英語の"stalker"です)。私は31歳になるこの年まで、彼らが10代の若い頃に抱いたであろう「何も確実なものは無い、誰も確実な人間は居ない、だが今俺が目の前のお前を愛していることだけは真実だ」という不安に基づく異性愛というのは知りませんでしたし、今でも厳密には知りません。で、10代やそれ以前の子供のころから不良少年少女たちが味合わされているこの孤独というのはかなり程度の凄いものです。尾崎豊とかいつか書いたこのブログ内の記事でバカにしましたけど、今になってはあはあなるほどという感慨は抱きます。デカルトだってそうです。デカルトは異性愛に走らずに我が思わなければ我なんざ無いのだよというところにたどり着いた生粋のキリスト教徒に見えますけど、実はヤることはヤって39歳の時にヘレナさんという召し使いの女の人との間に女の子を一人もうけてるんですね。で、そういった不良生徒に真面目な生徒が寄り添っても「(真面目な)おめーには分かんねーよ!」と言ってつっぱねるその原因も分かります、というのは評価を下す大人である教師が凄まじく彼ら彼女らに対して理不尽な扱いをし最悪なまでに不当な評価を下すからということであって、そういった扱いをされたことが生まれてから一度も無い真面目な優等生にはこれが全く理解できません(私の場合は小学校に入る前の子供の時点で自分の親の馬鹿さをよく悟ってましたし、そもそも私の親は自分の子供に対してひたすら言動を圧迫し行動を阻害し「生きるな」というプログラミングをかけようとする人間でした。自分の親の存在によって「死ななければならない」と強制的に思わされていた、というと正確です)。そして彼ら彼女らは生存の手段としてグレに走ります。彼ら彼女らはああやってものすごく生きようとしてるんだな、ということが今はけっこうよく分かります。先のことを考えすぎてストレス溜め過ぎて肉体病んだら元も子も無いということなんですね。私は「生き」を自分の親によってそもそも潰されていたので、この歳の今になってやっと「ああ、これが生きるエネルギー生きようとするエネルギーだな」ということが分かりるようになりました。現代日本では特に首都圏では公立高校が頭悪過ぎてそして同時にまともに頭の良い子供が集まる私立高校がたくさんあるので、彼ら彼女らもグレることはないでしょうけど、たぶん20年や30年やそれ以上の昔はそうとうに酷いものだったっぽいです。
で、こういう経験や性質を持った男が女とくっついて子供ができるとたぶん女の子が生まれる場合が多いんですね。こういう類の人間は女を育てるのに適しているとか、まあそういう方面から考えることもできます。若い頃自分のモノを振り乱して遊んでいた男に対して、女の大切さを教えるべく自戒的な意味合いを持たせるものであるとか。悪いことをやると悪いことになるということであって、悪事は働かないに越したことは無いです。
性的な場面におけるものを全ての現実的対応において適用してしまう愚かな人間ばかりであった場合、男性たちは互いに殺し合い、女性は互いに我関せずであり接点を持とうせず「待ってるだけ」、ということになるっぽいです。何らかの理由で性別や生殖に関心を持たない無性的な人間たちやキリスト教徒的人間は進んで助け合おうとするでしょうけど、おそらく分に合わないことはいさめようとします、合理的に。最後に残るのは、キリストとそれを伝える優等生と月うさぎと人と人にまつわる医療技術・科学技術、キリストが死んだ場合はただ見ている月うさぎと医者のみ。
chef-d'œuvre
2012.07.15 Sunday
君と僕。
人真似というのもまた工学化された人間関係の一であって、当該の人物を真似た人間がその当該人物であるわけではないので当該人物にそれは理解してもらえない、通じないです。男はこんなことされてもちょっとやそっとのことではグラつかないんで平気ですけど、女の人が「ムカつく」と言ってこういったものに抵抗するのをよく見たことがあります。不特定多数の人間にストーカーされていくらつけ回され自分を真似られたところでその人物がそれを自分の映し鏡であるとの認知に完全に至ることはできない……が、仮に人間から被害者意識が消えるとすると、自分にとって他人が存在し、どういった風に世界の構成上自分が存在しているのかという哲学的認識や社会認識を得るに至ります、たぶん。恥意識が消えて罪の意識の自覚が生まれる、ということです。
日本の教育のおかしさは、人間関係を工学化して天皇制みたく理想像をポツっと一つでも二つでも置いておくことから始めるということにあります。おかしいだけならどうでもいいでしょうけど、有害なんですね。男女関係でも強姦はさすがに悪しとされても亭主関白という形で結局はこれが肯定されたりするのであって悪質です。教師がその理想的人間を演じることもありますし、学級委員みたいな理想像を意図的に設置するということもありますけど、人間の関係が工学化されてその定常状態に居る者から後のものは下でも左にでも位置するということになれば、必然的にどんどんその理想的人間以外は悪いものであるあわよくば悪くなっていくということになるんですね。だから天皇制バンザイがどうこうとかいうよりは、こういった人間の関係を工学化しようと試みるどころか工学化されたものとして扱う人間はサッサと全員ヤクザになれということです。ヤクザは「ヤクザ」であって馬鹿の受け皿として居てくれなければ困る人たちですけど、そういった日本的義務教育の映し鏡であるような馬鹿が社会のスタンダードとしてのさばった日にはそれこそサムライゲイシャフジヤマハラキリの世界であって、また黒船どころか原子爆弾を落とされます。馬鹿です。しかもその場合犠牲になるのはいざとなるとスタコラ逃避に走るそういった馬鹿なのではない一般市民の人たちです。そりゃ日本人ダメだわと全世界でバカにされることになります。まあこういうのも今の50代以上の年齢の人間たちが若い人間たちに施していたイタく間違えた頑張りで最後でしょうけど。
キリスト教圏でもこういった馬鹿のテーゼが定式化されていた事態は歴史上あったわけで、例えばJean Calvinのケースだと、カルヴァン自身ただ一人自分が豚ではなかったというだけで、天皇制の如きその予定説なる無知蒙昧な馬鹿教説を強制することによって自分以外の人間を豚たらしめるものだったに過ぎないんですね。別に現代日本で皇室の人たちが居てくれることには何の問題も無いですけど、こんなものを全国民の価値意識どころか生活の細部にまで強要されたらば途端に人間が人間として構成されている社会は危篤状態に陥ります。カルヴァンは結局のところ自説ありきであってその流布を目的として歴史的事件を利用したに過ぎないという忌まわしい極悪人です。
憎むことでしか力が出ない、グングニルを自分に突き刺しユグドラシルに自分を吊り下げ自分の存在を憎むことで力を出すことを得たオーディンはかなりの忌まわし者です。自己を分裂させ欺瞞に満ちた釣り餌(ヴァルキリー)とすることで、演じているだけである「自称」右の定常点な「左」へ釣られる癖のある弱者を叩く欲望を持ちそれをよしとする連中を釣ることができるといえばできます。偶像のナザレのイエスさんの如く完全なる右の定常そのものである人間は弱者を叩くという発想すらがそもそも無いからです。
職場で仕事を為すことにおいて上司部下の関係があることは当然ですし横並びでも役割分担を決めて物事を処理していくのは効率上当然ですけど、ロールプレイングな悪質な役割分担を一般的な人間関係においてまで与えられた場合には、そこに異常な禍が生まれるのは当たり前なんですね。
以下、象徴というタイトルで多くのエッセイが書かれている、パスカルの「パンセ」の第十篇から適当に引用。
「神は、神に属する人々から、滅ぶべき幸福を取りあげようと欲したが、無力のゆえにそうするのではないことを示すために、ユダヤ民族をつくった。」
「ユダヤ、エジプトの両民族は、モーセが出あったあの二人の代表的な人物によって目に見えるように予言されている。ユダヤ人を打つエジプト人、その復讐をしてエジプト人を殺すモーセ、その恩を忘れるユダヤ人。」
「 真実である神のことばは、それが字義的にいつわりであるときには、霊的に真である。『わが右に坐すべし』これは字義的にいえば、いつわりである。それゆえ、それは霊的に真である。
このような表現においては、人間について語るときのような仕方で、神のことが語られている。それは要するに、人間が自分の右側にだれかをすわらせるときにもつような意図を、神もまたもつであろう、ということを意味しているにすぎない。それゆえ、それは神の意図を示すものであって、神がその意図をおこなうときの仕方を示すものではない。
―中略―
聖書のうちにあるということを聖書そのものがわれわれに啓示しなかったような意味を、聖書に帰することは許されない。―中略―むしろわれわれは、字義的な意味は真の意味ではない、と言う。なぜなら、予言者たち自身がそう言っているからである。」
パスカルはここで「そう言う」予言者をその告するところの字義ではない肉を持つ人間として扱ってますけど、字義的な意味というのは存在しないわけであって意味である時点で字義ではないのでそれは必然的に「真の」意味足りえないということなんですね。字義的な意味が真の意味ではないのは当たり前であって、字義というのはそこに何も意味など無いのさということであって「真実」と呼ばれうるわけです。これは言語ということで考えるのならば印欧語よりも表意文字である中国の漢字によくこの真実性が表れてます(表音文字はやはり音、特にドイツ語は音楽的で聞く者に心地良さを与えます)。つまり予言者とやらもそうですけど人が「真の」意味や真実であることは有り得ないということであって絶対者なる者は居ませんよということです、教会で神父さんがキリストとなったイエスについて説教しているだけならば良かったんでしょうけど。だから現実的には名と肉は別のものであって、「~の名を汚す者め!」というセリフは名と肉が一緒のものになっている唯名論者のものでありこれは個物の後に妄念的に普遍が作られてしまってます。人(肉)の中に神(名・字義)が居るというのがこれとは逆の実在論(realism)であって、nominalismは名が外に出ちゃってるんですね。「霊的に真」というのは形容矛盾であって、「字義的にいつわり」であるのは単に「いつわり」であり「真ではない」ということです。仮に実生活上一人で孤独で居る人物が居たとしても人間関係を持たない人間というのは居ないのであって、肉の欲望を持つ限りで外圧的な力で人間関係をseinされ自己自身に対して自己自身を工学化されたら普通は発狂します。私はおそらくかなり精神の強い方なんで発狂しませんけど、それでもやはりどこかに狂いがあることは自分でもよく自覚できます。これは敵も味方も居ないフィールドで自分一人RPGを強制的に自分一人に対してやらされているようなものであって、まさにDinge an sichです。自己自身が自己自身に対して宿命的に滑稽陳腐なまでに薔薇薔薇(バラバラ)です。馬鹿に さ れ て (gewesen sein)しまいます。やはりユダヤの人たちは原初から不当な差別を受けていたということです、邪な欲望を持たなければ生きていけないほどに、また邪な欲望を持ちうるがために生きようとするほどに。女性においてはこれは子供を産むということに繋がるんでしょうけど、やはり発狂するでしょう。今はネットがあるおかげで馬鹿みたいに富国強兵する必要も無いんで、嫌がる女の人に無理して子供を産んでもらう必要はないです。
二つ前の記事で夜に白いドレス着て一人でウロウロしてる小学生くらいの女児のことを書きましたけど、まあガキはたいていの男の性欲の対象外だとしても、こういう女に限ってパンツ見られるとキモがるんですね、絶対に見ませんけど。男性に対するきちんとした正統な警戒心を持っている女の人はそもそもパンツを見せうるような格好をしません。こんな女児みたいなバカな行動は取らないということです。ブサイクな女が短いスカートで太ももギリギリまで見せてパンツ見られるとキモがる、というのがたいていのパターンです。コレは男からすると非常にウザいことこの上無いです。普通のまともなキレイな顔した女の人は見せない以前に男のそういった欲求をそそるような格好してません。
「ユダヤ人にとってこれらの書のうえに置かれていた覆いは、悪しきキリスト教徒によっても置かれており、また、すべて自己自身を憎まぬ人たちにとっても置かれている。けれども、われわれは真に自己自身を憎むとき、いかによく、それらの書を理解し、イエス・キリストを知るように仕向けられることであろうか」
人間の敵は自己の情欲だとか。人の性欲を憎むのではなくて人を憎んでいるところの、ユダヤ人もキリスト教徒のうちの悪質な人間たちもまた仮に自己自身を憎まずともそれが外向して他者に向いている大多数の人も、簡単に人のことを忘れることができない人は、夏を忘れる以前に夏を最初から味わうことがなければたぶんそれなりに楽です、良きキリスト教徒の様に。
人真似というのもまた工学化された人間関係の一であって、当該の人物を真似た人間がその当該人物であるわけではないので当該人物にそれは理解してもらえない、通じないです。男はこんなことされてもちょっとやそっとのことではグラつかないんで平気ですけど、女の人が「ムカつく」と言ってこういったものに抵抗するのをよく見たことがあります。不特定多数の人間にストーカーされていくらつけ回され自分を真似られたところでその人物がそれを自分の映し鏡であるとの認知に完全に至ることはできない……が、仮に人間から被害者意識が消えるとすると、自分にとって他人が存在し、どういった風に世界の構成上自分が存在しているのかという哲学的認識や社会認識を得るに至ります、たぶん。恥意識が消えて罪の意識の自覚が生まれる、ということです。
日本の教育のおかしさは、人間関係を工学化して天皇制みたく理想像をポツっと一つでも二つでも置いておくことから始めるということにあります。おかしいだけならどうでもいいでしょうけど、有害なんですね。男女関係でも強姦はさすがに悪しとされても亭主関白という形で結局はこれが肯定されたりするのであって悪質です。教師がその理想的人間を演じることもありますし、学級委員みたいな理想像を意図的に設置するということもありますけど、人間の関係が工学化されてその定常状態に居る者から後のものは下でも左にでも位置するということになれば、必然的にどんどんその理想的人間以外は悪いものであるあわよくば悪くなっていくということになるんですね。だから天皇制バンザイがどうこうとかいうよりは、こういった人間の関係を工学化しようと試みるどころか工学化されたものとして扱う人間はサッサと全員ヤクザになれということです。ヤクザは「ヤクザ」であって馬鹿の受け皿として居てくれなければ困る人たちですけど、そういった日本的義務教育の映し鏡であるような馬鹿が社会のスタンダードとしてのさばった日にはそれこそサムライゲイシャフジヤマハラキリの世界であって、また黒船どころか原子爆弾を落とされます。馬鹿です。しかもその場合犠牲になるのはいざとなるとスタコラ逃避に走るそういった馬鹿なのではない一般市民の人たちです。そりゃ日本人ダメだわと全世界でバカにされることになります。まあこういうのも今の50代以上の年齢の人間たちが若い人間たちに施していたイタく間違えた頑張りで最後でしょうけど。
キリスト教圏でもこういった馬鹿のテーゼが定式化されていた事態は歴史上あったわけで、例えばJean Calvinのケースだと、カルヴァン自身ただ一人自分が豚ではなかったというだけで、天皇制の如きその予定説なる無知蒙昧な馬鹿教説を強制することによって自分以外の人間を豚たらしめるものだったに過ぎないんですね。別に現代日本で皇室の人たちが居てくれることには何の問題も無いですけど、こんなものを全国民の価値意識どころか生活の細部にまで強要されたらば途端に人間が人間として構成されている社会は危篤状態に陥ります。カルヴァンは結局のところ自説ありきであってその流布を目的として歴史的事件を利用したに過ぎないという忌まわしい極悪人です。
憎むことでしか力が出ない、グングニルを自分に突き刺しユグドラシルに自分を吊り下げ自分の存在を憎むことで力を出すことを得たオーディンはかなりの忌まわし者です。自己を分裂させ欺瞞に満ちた釣り餌(ヴァルキリー)とすることで、演じているだけである「自称」右の定常点な「左」へ釣られる癖のある弱者を叩く欲望を持ちそれをよしとする連中を釣ることができるといえばできます。偶像のナザレのイエスさんの如く完全なる右の定常そのものである人間は弱者を叩くという発想すらがそもそも無いからです。
職場で仕事を為すことにおいて上司部下の関係があることは当然ですし横並びでも役割分担を決めて物事を処理していくのは効率上当然ですけど、ロールプレイングな悪質な役割分担を一般的な人間関係においてまで与えられた場合には、そこに異常な禍が生まれるのは当たり前なんですね。
以下、象徴というタイトルで多くのエッセイが書かれている、パスカルの「パンセ」の第十篇から適当に引用。
「神は、神に属する人々から、滅ぶべき幸福を取りあげようと欲したが、無力のゆえにそうするのではないことを示すために、ユダヤ民族をつくった。」
「ユダヤ、エジプトの両民族は、モーセが出あったあの二人の代表的な人物によって目に見えるように予言されている。ユダヤ人を打つエジプト人、その復讐をしてエジプト人を殺すモーセ、その恩を忘れるユダヤ人。」
「 真実である神のことばは、それが字義的にいつわりであるときには、霊的に真である。『わが右に坐すべし』これは字義的にいえば、いつわりである。それゆえ、それは霊的に真である。
このような表現においては、人間について語るときのような仕方で、神のことが語られている。それは要するに、人間が自分の右側にだれかをすわらせるときにもつような意図を、神もまたもつであろう、ということを意味しているにすぎない。それゆえ、それは神の意図を示すものであって、神がその意図をおこなうときの仕方を示すものではない。
―中略―
聖書のうちにあるということを聖書そのものがわれわれに啓示しなかったような意味を、聖書に帰することは許されない。―中略―むしろわれわれは、字義的な意味は真の意味ではない、と言う。なぜなら、予言者たち自身がそう言っているからである。」
パスカルはここで「そう言う」予言者をその告するところの字義ではない肉を持つ人間として扱ってますけど、字義的な意味というのは存在しないわけであって意味である時点で字義ではないのでそれは必然的に「真の」意味足りえないということなんですね。字義的な意味が真の意味ではないのは当たり前であって、字義というのはそこに何も意味など無いのさということであって「真実」と呼ばれうるわけです。これは言語ということで考えるのならば印欧語よりも表意文字である中国の漢字によくこの真実性が表れてます(表音文字はやはり音、特にドイツ語は音楽的で聞く者に心地良さを与えます)。つまり予言者とやらもそうですけど人が「真の」意味や真実であることは有り得ないということであって絶対者なる者は居ませんよということです、教会で神父さんがキリストとなったイエスについて説教しているだけならば良かったんでしょうけど。だから現実的には名と肉は別のものであって、「~の名を汚す者め!」というセリフは名と肉が一緒のものになっている唯名論者のものでありこれは個物の後に妄念的に普遍が作られてしまってます。人(肉)の中に神(名・字義)が居るというのがこれとは逆の実在論(realism)であって、nominalismは名が外に出ちゃってるんですね。「霊的に真」というのは形容矛盾であって、「字義的にいつわり」であるのは単に「いつわり」であり「真ではない」ということです。仮に実生活上一人で孤独で居る人物が居たとしても人間関係を持たない人間というのは居ないのであって、肉の欲望を持つ限りで外圧的な力で人間関係をseinされ自己自身に対して自己自身を工学化されたら普通は発狂します。私はおそらくかなり精神の強い方なんで発狂しませんけど、それでもやはりどこかに狂いがあることは自分でもよく自覚できます。これは敵も味方も居ないフィールドで自分一人RPGを強制的に自分一人に対してやらされているようなものであって、まさにDinge an sichです。自己自身が自己自身に対して宿命的に滑稽陳腐なまでに薔薇薔薇(バラバラ)です。馬鹿に さ れ て (gewesen sein)しまいます。やはりユダヤの人たちは原初から不当な差別を受けていたということです、邪な欲望を持たなければ生きていけないほどに、また邪な欲望を持ちうるがために生きようとするほどに。女性においてはこれは子供を産むということに繋がるんでしょうけど、やはり発狂するでしょう。今はネットがあるおかげで馬鹿みたいに富国強兵する必要も無いんで、嫌がる女の人に無理して子供を産んでもらう必要はないです。
二つ前の記事で夜に白いドレス着て一人でウロウロしてる小学生くらいの女児のことを書きましたけど、まあガキはたいていの男の性欲の対象外だとしても、こういう女に限ってパンツ見られるとキモがるんですね、絶対に見ませんけど。男性に対するきちんとした正統な警戒心を持っている女の人はそもそもパンツを見せうるような格好をしません。こんな女児みたいなバカな行動は取らないということです。ブサイクな女が短いスカートで太ももギリギリまで見せてパンツ見られるとキモがる、というのがたいていのパターンです。コレは男からすると非常にウザいことこの上無いです。普通のまともなキレイな顔した女の人は見せない以前に男のそういった欲求をそそるような格好してません。
「ユダヤ人にとってこれらの書のうえに置かれていた覆いは、悪しきキリスト教徒によっても置かれており、また、すべて自己自身を憎まぬ人たちにとっても置かれている。けれども、われわれは真に自己自身を憎むとき、いかによく、それらの書を理解し、イエス・キリストを知るように仕向けられることであろうか」
人間の敵は自己の情欲だとか。人の性欲を憎むのではなくて人を憎んでいるところの、ユダヤ人もキリスト教徒のうちの悪質な人間たちもまた仮に自己自身を憎まずともそれが外向して他者に向いている大多数の人も、簡単に人のことを忘れることができない人は、夏を忘れる以前に夏を最初から味わうことがなければたぶんそれなりに楽です、良きキリスト教徒の様に。
against the blood
2012.07.19 Thursday
実用価値のある体言止め。
きれいなのは心。
私SSが相変わらず外を歩くと不特定多数の人間がストーカーとして絡んできますし、マンション階下の住人からの騒音ということでもそうですけど、こういった「保身に走り、何とか自分は幸せになって生き残ってやる」(ということをターゲットに教え込みたい)派の人間たちは、ターゲットが自己防衛(正当防衛)の為に彼らを攻撃することを書くとストーキングや騒音その他で危害を加えるという行動に出て一種の合図を送り「正当に正そう」としてきます。私は彼らがストーキングその他で危害を加えるという行動に出ると自己防衛の為に彼らを攻撃し「正当に正す」内容のことを言ったり書いたりします。で、どちらが社会においてその存在が不都合であるかというとそれは火を見るより明らかであって、私のように言う人間ではなくて彼らのように行動に出る人間たちです。彼らは他者に対して実害を加えるからです。こんなことは小学校に入る前の幼稚園児でも分かることなんですけど。簡単に警察に捕まるのも彼らの方です。私は我慢できずに書いているところがありますけど、我慢できずに他者に危害を加えるという行為に及んでしまうというのであればそれは欠陥人間のレッテルを貼られることを受け入れないわけにはいかないかなり苦しい状況だろうなとは予想します。
ちなみに、現在のロクでもない大人たちが必死に布陣したマンガ的コンテクストのおかげで昔ながらの不良少年の格好ではバカにされるということになっているので、最近の不良少年・不良少女は真面目な子供の格好をしている場合も多々ありきということになってます。
前の記事で書いた工学化された人間関係の一である人真似もそうですけど、特定の人物がその人物以外の人間と関係を持つその一瞬間前に当該人物の意図があらかじめ何からのものとして決定されているという前提のもとに関係を構築し返すという悪質な攻撃のやり方があります。オカルトペテン教祖による性格とやらの「タイプ判定」もそうですけど、それ以外のもっとも分かりやすい一般的一例として、不特定多数の人間よるストーカー被害に合っている被害者が当然場対応としては敵であると認知するところの屋外で擦れ違った人の顔を視覚により確認した時のその瞬間にそれがあまりにも昔のマンガ的にベタなものであるポーズとしてのニヤつき始めるということであれば加害者側は被害者側を何らかの手段により確認しているということはほぼ明白なので被害者はそもそも「見られている」ということになるということがあります、これが一度の外出で何十回も繰り返されそれが毎度の外出においてということであると。もちろん「ほぼ」であって証拠は残りません、よって加害者側は行ってくるわけですけど。おそらく被害者における人間関係を消そうと躍起になっているのでしょうけど、人間関係をnichtとして認知できる人間は世界中何処を探しても居ません。
私SSの場合であると、以前は道で他者と擦れ違う場合は他者の姿を一回視覚で確認してから目を逸らすということを行っていたんですけど、そんなに問題なんですかね?ここは平和な日本であって戦場ではないのだから不躾な真似は止めろというのであれば止めますけど。自分存在や他者の存在というものがどういったものなのかということを知る契機にはなりました。まあ見なきゃいいということであって、ヒトにおいて情報がストレスになるということはあります。
とある事象について「(内容は)~こうである」とそれを言語化して説明し、相手にそれをyesかnoかで答えさせるということによってのみ対話を成立させるという人間が居たとします。この人物にとっては分かっていることというのはそれを言語化して説明できるということなのであって分かりきってます。が、やはりその場の現実における場対応としては感知しないものは全く感知しようとせず自分を相手に押し付けるということにひたすら勤しむだけの人間だと相手の人間に受け取られることを避けられません。だから弁論には長けてるわけなのでnegotiatorとしては役に立ちますけど、事務処理上の情報交換において必要以上にこれを出してしまうのは病的であると言わざるを得ません。相手を丸め込むかさもなくば(ペン的な剣でして撃ち殺して)黙らせるということに帰着するからであって、必要な情報の的確な受け渡しにおいて間違えてしまうことが多いということです。実際見てみても、事務処理の系統の仕事というのは資格なんかを見ても女性のものが多いです。逆に言うと男性の方がやはり仕事は出来るということです、ニーチェみたいに珍妙に走り過ぎて穢れた能力でなければいいんですけど。大学とかでも法学部に比べて経済学部には女子の数が少ないです。蓋然性というのはこういうことですけど、先にも書いたように自分が自分であることについて蓋然的を持つというのは病気であって人間において自分が自分であることが無根拠に優れているわけではないです。「自分が自分であることには根拠が無い、つまりそれが真理だ」というのが人間であって、これは17世紀のフランスにおいて天才デカルトが見抜いたことです。
ファイナルファンタジーⅦの召喚獣のオーディンがエフェクトのビジュアルも含めて分かりやすいものとしていいんですけど、斬鉄剣の代替技のグングニルの場合は対象一体に対して外れたり3000~4000のダメージが通ったりdeathの判定が出て一撃で相手を死に至らしめたりということであって、相手の中に一体でも一撃死を無効とする対象が居た場合はこのグングニルが出て敵全体に一撃死をもたらす斬鉄剣は出ませんね。蓋然性というのはこういうことであって、そもそも関知しない関知し得ない関知できない事象は存在しないものであるということであり、また自分に不可能であることは最初から行わないということです。こういったオーディンな人間というのは他者を必要としないどころか他者が居ない方がいいくらいであって、まあお自慰さん(おじいさん)です。特に女性から見ての恋愛対象としては嫌われそうです。能力は高く仕事量は多いでしょうけど。私SSは特にOdinさんではないです、女の人を見て好きになることあります。
女芸能人で鯛を必死に釣ろうとするユダヤのエビルだかなんだかというのもいましたけど、整形や画像のデジタル加工技術によってツルツルのCGと何が違うのか分からないような顔面を晒して、もう居ないことを祈ってますけどこういったのに釣られて犠牲になる10代の少女とかがたぶんまだごくわずかには居るんですね。自分の外に規定点を作り求めてああいうものにあこがれるというのがもう心身の不美人の第一歩であってここから崩れが始まります、ヤバいです。まあサーチエンジンの画像検索で年齢の概念を失うまでに造りこまれた血まみれのキレイな顔で股開いた画像を載せててくれれば精力を持て余している若い男子たちの役にも立ってくれますけど、いい加減その肉体の見てくれだけを不要な技術によって工学化した不衛生な似非偶像っぷりがうっとおしいんでサッサと居なくならねーかなという問題です。アレは性欲ではなくて食欲で釣ってんですかね?
パスカルは「ユダヤ人の教え」と「ユダヤ人の律法の教え」とを区別してますけど、「(彼らの律法の教えは)ひとりの神のみを拝しかつ愛せよ」というものであるとのことでキリスト教的であるということで、前にも書きましたけどやはりユダヤの指導者の人たちは自分らの民族特有の愚かさを知っていて律法を重視したものです、おそらく。欲望は恥意識の産物とか。一人の神とかいうから分かりにくいのであって、生涯に一人の女性だけを愛せよというのだったらおそらく分かりやすいです。イデアの影ならぬアニマの影を求めて、とか。
男性は一つのアニマしか持たないのに対し女性は複数のアニムスを持つそうですけど、アニマは不可算名詞でありアニムスは可算名詞の複数形であると考えるとたぶん正解です。男はやはり不忠討ち殺すべしというところに帰着します。ヒトの脳には左脳の皮質と右脳の皮質を繋ぐ脳梁と呼ばれる繊維の束がありますけど、この器官はヒトのオスに比べてヒトのメスの方が発達しているそうです。知的営みは女性の方が優れてます。男性は左か右かといったことやdead or aliveのような二者択一の世界に生きていると考えると分かりやすいです。先の記事で、剣的にペンをやるのは唯名論者とか書きましたけど、実際に鉄砲で撃ち殺す殺し屋に限ってはやはり実在論者です。そういった人たちは少なくとも日本では昔からヤクザと呼ばれて存在を肯定されていたんですね、切捨て御免な江戸時代の武士もそうですけど。ちょっと分かりにくい表現で申し訳ないですけど、知のポイントを乱打するような人間というのが唯名論者です。いわゆる論理実証主義者もそうですし、存在しもしない他者の性格タイプ「判定」に及んでしまう人間が実在するとするとこれですけど、唯名論者は物事のつながりや関係を理解できないのであって非数学的です。こういう時はコレを出すああいう時はコレを出すというように、性的な場面における場合だけでなく一般的な人間関係においてまでこういった工学化されたモノにおける場対応をするので、他者にとっては非常に迷惑かつ不快なものであり嫌われるどころか恨みを買います。コチラがダメだったらアチラを勃起させアチラがダメだったらコチラを勃起させる、という相対的な逃げに走るからです。自分にとって都合が悪いことを他者から指摘されると、その内容を鑑みずにそれが相手を暴力で踏みつけることであれ逆に相手に手をこすり合わせながらご機嫌取りをして媚びへつらうことであれ、その場における彼らが勝手に工学化して設定した人間関係へ逃避するということを行います。正常人が「右」の定常状態から人間関係のコミュニケーションを楽しむという形で「左」へ流しつつまた「右」の定常状態へ戻るというパターンなのに対して、こういった禍根を招く唯名論者というのは「左」の不安定な状態から「右」の工学化された形で設定された(設定した)人間関係を利用して「左」の不安定さが仮初めの安定を得る性愛の状態を自分以外の誰も彼もに求める、ということです。前者が事単位で鑑みているのに対して、後者は人単位で鑑みてしまっています。子供の時分の嫌われ者とか思い出すとよく分かりますけど、こういった人間は人間関係のコミュニケーションの妙味が分からずにというよりはその概念がそもそも無いのであって例外無くうっとおしがられて嫌われてイジめられるというのもよくある問題です。弱い子を狙って自分の道具にしようとするイジめっ子というのは例外なく排斥されて逆にイジめの対象になります。こういった人間の対人コミュニケーションというのは半端ではない自己中心性と快楽主義と目立ちたがりその他が織り交ざったようなモノであって他者からすれば下手をすると殺意を覚えるほどに不快だからです。彼らには反省するという概念がおそらく無いので何度でも同じ間違いや悪事に走ってしまう、まあ現実問題としては典型的な犯罪者性向の持ち主たちです。もう今の日本ではこういったのも減りましたけど、レイプだとかお山の大将になりたがりだとかすべてこういったことです。彼らは逃避が行動原理になっていて、昔はアカと呼ばれてました。実は軍国主義を嫌うのにはこういった類の人間が多いんですね、たぶん生粋の軍国主義者にも多いでしょうけど。いわゆる「左翼」と呼ばれる表現でこれが表されうるものなのかどうか私は知りませんし、当然軍国主義に賛成はしない上に戦争万歳とかたわけたことを言うつもりもありませんけど、残念ながらこれは事実です。おそらくヒトの生態学上こういうのが戦争・飢餓・疫病の無い平和時には増えてしまうということであって、文科系の人口学の研究者とかでこういったことについて何か書いている人が居るかもしれません。文学的に言うとこういったのはゴキブリと呼ばれるわけであって、女の人にゴキブリをやたら嫌う人が多いわけですけど、形容の元ネタになっている昆虫のゴキブリさんはともかくとしてこういった人間はまあ男から見ても反吐が出るほどウザいのは同じです。知識を得るということにおいてならば問題は無いんですけど、人間関係において人間のしかも他者の行動だけを取り出してそれを自分に都合の良い度量衡によって測定するもしくは何らかのidealとして判定するという形で鑑みているから、こういった「自分がこんなにしてやったのにあいつは恩に思ってない」という勝手極まる自己流解釈も可能であるということになって、まるで「こんな男につくして損した」と嘆く恋する乙女の如くであってこいつオカマ野郎かということになってしまいます。また法律に違反しなければ何をやってもいいとかいったものや如何にして法律を使って他者を貶めるかという発想も同じようにしてこういった女性的な唯名論者には付きものだということです。「こんなにしてやった」ことの事実内容を当該人物に知らせてあげれば大抵のケースで問題は大きく解決に向かうはずですけど。
歪みが掛かってある程度それに拍車が掛かっている子供や不幸な目にあって良ろしくない人間になってしまってその状態からどうしようもないという人間に対して外圧的に修正するような扱いをするというのならば、その大人は責任を持って対象を殺してやれということなんですね。そういった外圧的なやり方で修正されうるほど人間は単純には出来ていません。人間と人間との関係を工学化する人間は例外なくヤクザになれといったことや、精神医学的には極論すれば抗精神病薬以外で必要な薬というのは副作用の無い覚醒剤やヒトが安楽死できる薬のみであるといったことには、そういったことも含意されています。殺す能力も権限も無いのだったら、問題解決における何らかの具体的手段を教えるなり提供するなりしろということなんですね。溜まっている悪いものを吐き出せ、私がオススメするのは言語化して記述していくというやり方です。精神を病んでいる人は妄想をひたすら自分の気のゆくまで書きつづっても良いし、夢とかでもフロイトみたく分析しなくとも見てから目が覚めてまだ覚えている時はまた腑に落として牛みたく反芻して熟成させることになってしまう前にその内容をサーッと記述してしまうのがいいです。……もちろん不必要に他者の顔面を視認しないというのもまた一つの教えであり方法です。
私は切り傷をよくするんですけど、最近の血の色は朱色をしていてものすごくきれいです。体の表面によく生えてくる毛とか剃ってますけど。
近年ネットの負の側面のせいで増えてしまったであろう無知な馬鹿な女でない限り、女性はおそらく自分の「血」を交わった相手にあげるという発想です、たぶん。だから「愛した」男が死んだりその他よろしくないことになれば私はダメだったのねということで悲しむし、「血」を分けた子供を相手の男のアニマに対する復讐として大切にします。おそらくヒトのメスとしての生態上女性は自分を大切にしているというか、エゴイスティックと言えばエゴイスティックですけど。
存在しない、「心無い」女はおそらく完全なまでに美しい顔をしてます、白痴か全知かのどちらかで。その両方であることを装ったカワイイ女の人は居るかもしれませんけど。
きれいなのは心。
私SSが相変わらず外を歩くと不特定多数の人間がストーカーとして絡んできますし、マンション階下の住人からの騒音ということでもそうですけど、こういった「保身に走り、何とか自分は幸せになって生き残ってやる」(ということをターゲットに教え込みたい)派の人間たちは、ターゲットが自己防衛(正当防衛)の為に彼らを攻撃することを書くとストーキングや騒音その他で危害を加えるという行動に出て一種の合図を送り「正当に正そう」としてきます。私は彼らがストーキングその他で危害を加えるという行動に出ると自己防衛の為に彼らを攻撃し「正当に正す」内容のことを言ったり書いたりします。で、どちらが社会においてその存在が不都合であるかというとそれは火を見るより明らかであって、私のように言う人間ではなくて彼らのように行動に出る人間たちです。彼らは他者に対して実害を加えるからです。こんなことは小学校に入る前の幼稚園児でも分かることなんですけど。簡単に警察に捕まるのも彼らの方です。私は我慢できずに書いているところがありますけど、我慢できずに他者に危害を加えるという行為に及んでしまうというのであればそれは欠陥人間のレッテルを貼られることを受け入れないわけにはいかないかなり苦しい状況だろうなとは予想します。
ちなみに、現在のロクでもない大人たちが必死に布陣したマンガ的コンテクストのおかげで昔ながらの不良少年の格好ではバカにされるということになっているので、最近の不良少年・不良少女は真面目な子供の格好をしている場合も多々ありきということになってます。
前の記事で書いた工学化された人間関係の一である人真似もそうですけど、特定の人物がその人物以外の人間と関係を持つその一瞬間前に当該人物の意図があらかじめ何からのものとして決定されているという前提のもとに関係を構築し返すという悪質な攻撃のやり方があります。オカルトペテン教祖による性格とやらの「タイプ判定」もそうですけど、それ以外のもっとも分かりやすい一般的一例として、不特定多数の人間よるストーカー被害に合っている被害者が当然場対応としては敵であると認知するところの屋外で擦れ違った人の顔を視覚により確認した時のその瞬間にそれがあまりにも昔のマンガ的にベタなものであるポーズとしてのニヤつき始めるということであれば加害者側は被害者側を何らかの手段により確認しているということはほぼ明白なので被害者はそもそも「見られている」ということになるということがあります、これが一度の外出で何十回も繰り返されそれが毎度の外出においてということであると。もちろん「ほぼ」であって証拠は残りません、よって加害者側は行ってくるわけですけど。おそらく被害者における人間関係を消そうと躍起になっているのでしょうけど、人間関係をnichtとして認知できる人間は世界中何処を探しても居ません。
私SSの場合であると、以前は道で他者と擦れ違う場合は他者の姿を一回視覚で確認してから目を逸らすということを行っていたんですけど、そんなに問題なんですかね?ここは平和な日本であって戦場ではないのだから不躾な真似は止めろというのであれば止めますけど。自分存在や他者の存在というものがどういったものなのかということを知る契機にはなりました。まあ見なきゃいいということであって、ヒトにおいて情報がストレスになるということはあります。
とある事象について「(内容は)~こうである」とそれを言語化して説明し、相手にそれをyesかnoかで答えさせるということによってのみ対話を成立させるという人間が居たとします。この人物にとっては分かっていることというのはそれを言語化して説明できるということなのであって分かりきってます。が、やはりその場の現実における場対応としては感知しないものは全く感知しようとせず自分を相手に押し付けるということにひたすら勤しむだけの人間だと相手の人間に受け取られることを避けられません。だから弁論には長けてるわけなのでnegotiatorとしては役に立ちますけど、事務処理上の情報交換において必要以上にこれを出してしまうのは病的であると言わざるを得ません。相手を丸め込むかさもなくば(ペン的な剣でして撃ち殺して)黙らせるということに帰着するからであって、必要な情報の的確な受け渡しにおいて間違えてしまうことが多いということです。実際見てみても、事務処理の系統の仕事というのは資格なんかを見ても女性のものが多いです。逆に言うと男性の方がやはり仕事は出来るということです、ニーチェみたいに珍妙に走り過ぎて穢れた能力でなければいいんですけど。大学とかでも法学部に比べて経済学部には女子の数が少ないです。蓋然性というのはこういうことですけど、先にも書いたように自分が自分であることについて蓋然的を持つというのは病気であって人間において自分が自分であることが無根拠に優れているわけではないです。「自分が自分であることには根拠が無い、つまりそれが真理だ」というのが人間であって、これは17世紀のフランスにおいて天才デカルトが見抜いたことです。
ファイナルファンタジーⅦの召喚獣のオーディンがエフェクトのビジュアルも含めて分かりやすいものとしていいんですけど、斬鉄剣の代替技のグングニルの場合は対象一体に対して外れたり3000~4000のダメージが通ったりdeathの判定が出て一撃で相手を死に至らしめたりということであって、相手の中に一体でも一撃死を無効とする対象が居た場合はこのグングニルが出て敵全体に一撃死をもたらす斬鉄剣は出ませんね。蓋然性というのはこういうことであって、そもそも関知しない関知し得ない関知できない事象は存在しないものであるということであり、また自分に不可能であることは最初から行わないということです。こういったオーディンな人間というのは他者を必要としないどころか他者が居ない方がいいくらいであって、まあお自慰さん(おじいさん)です。特に女性から見ての恋愛対象としては嫌われそうです。能力は高く仕事量は多いでしょうけど。私SSは特にOdinさんではないです、女の人を見て好きになることあります。
女芸能人で鯛を必死に釣ろうとするユダヤのエビルだかなんだかというのもいましたけど、整形や画像のデジタル加工技術によってツルツルのCGと何が違うのか分からないような顔面を晒して、もう居ないことを祈ってますけどこういったのに釣られて犠牲になる10代の少女とかがたぶんまだごくわずかには居るんですね。自分の外に規定点を作り求めてああいうものにあこがれるというのがもう心身の不美人の第一歩であってここから崩れが始まります、ヤバいです。まあサーチエンジンの画像検索で年齢の概念を失うまでに造りこまれた血まみれのキレイな顔で股開いた画像を載せててくれれば精力を持て余している若い男子たちの役にも立ってくれますけど、いい加減その肉体の見てくれだけを不要な技術によって工学化した不衛生な似非偶像っぷりがうっとおしいんでサッサと居なくならねーかなという問題です。アレは性欲ではなくて食欲で釣ってんですかね?
パスカルは「ユダヤ人の教え」と「ユダヤ人の律法の教え」とを区別してますけど、「(彼らの律法の教えは)ひとりの神のみを拝しかつ愛せよ」というものであるとのことでキリスト教的であるということで、前にも書きましたけどやはりユダヤの指導者の人たちは自分らの民族特有の愚かさを知っていて律法を重視したものです、おそらく。欲望は恥意識の産物とか。一人の神とかいうから分かりにくいのであって、生涯に一人の女性だけを愛せよというのだったらおそらく分かりやすいです。イデアの影ならぬアニマの影を求めて、とか。
男性は一つのアニマしか持たないのに対し女性は複数のアニムスを持つそうですけど、アニマは不可算名詞でありアニムスは可算名詞の複数形であると考えるとたぶん正解です。男はやはり不忠討ち殺すべしというところに帰着します。ヒトの脳には左脳の皮質と右脳の皮質を繋ぐ脳梁と呼ばれる繊維の束がありますけど、この器官はヒトのオスに比べてヒトのメスの方が発達しているそうです。知的営みは女性の方が優れてます。男性は左か右かといったことやdead or aliveのような二者択一の世界に生きていると考えると分かりやすいです。先の記事で、剣的にペンをやるのは唯名論者とか書きましたけど、実際に鉄砲で撃ち殺す殺し屋に限ってはやはり実在論者です。そういった人たちは少なくとも日本では昔からヤクザと呼ばれて存在を肯定されていたんですね、切捨て御免な江戸時代の武士もそうですけど。ちょっと分かりにくい表現で申し訳ないですけど、知のポイントを乱打するような人間というのが唯名論者です。いわゆる論理実証主義者もそうですし、存在しもしない他者の性格タイプ「判定」に及んでしまう人間が実在するとするとこれですけど、唯名論者は物事のつながりや関係を理解できないのであって非数学的です。こういう時はコレを出すああいう時はコレを出すというように、性的な場面における場合だけでなく一般的な人間関係においてまでこういった工学化されたモノにおける場対応をするので、他者にとっては非常に迷惑かつ不快なものであり嫌われるどころか恨みを買います。コチラがダメだったらアチラを勃起させアチラがダメだったらコチラを勃起させる、という相対的な逃げに走るからです。自分にとって都合が悪いことを他者から指摘されると、その内容を鑑みずにそれが相手を暴力で踏みつけることであれ逆に相手に手をこすり合わせながらご機嫌取りをして媚びへつらうことであれ、その場における彼らが勝手に工学化して設定した人間関係へ逃避するということを行います。正常人が「右」の定常状態から人間関係のコミュニケーションを楽しむという形で「左」へ流しつつまた「右」の定常状態へ戻るというパターンなのに対して、こういった禍根を招く唯名論者というのは「左」の不安定な状態から「右」の工学化された形で設定された(設定した)人間関係を利用して「左」の不安定さが仮初めの安定を得る性愛の状態を自分以外の誰も彼もに求める、ということです。前者が事単位で鑑みているのに対して、後者は人単位で鑑みてしまっています。子供の時分の嫌われ者とか思い出すとよく分かりますけど、こういった人間は人間関係のコミュニケーションの妙味が分からずにというよりはその概念がそもそも無いのであって例外無くうっとおしがられて嫌われてイジめられるというのもよくある問題です。弱い子を狙って自分の道具にしようとするイジめっ子というのは例外なく排斥されて逆にイジめの対象になります。こういった人間の対人コミュニケーションというのは半端ではない自己中心性と快楽主義と目立ちたがりその他が織り交ざったようなモノであって他者からすれば下手をすると殺意を覚えるほどに不快だからです。彼らには反省するという概念がおそらく無いので何度でも同じ間違いや悪事に走ってしまう、まあ現実問題としては典型的な犯罪者性向の持ち主たちです。もう今の日本ではこういったのも減りましたけど、レイプだとかお山の大将になりたがりだとかすべてこういったことです。彼らは逃避が行動原理になっていて、昔はアカと呼ばれてました。実は軍国主義を嫌うのにはこういった類の人間が多いんですね、たぶん生粋の軍国主義者にも多いでしょうけど。いわゆる「左翼」と呼ばれる表現でこれが表されうるものなのかどうか私は知りませんし、当然軍国主義に賛成はしない上に戦争万歳とかたわけたことを言うつもりもありませんけど、残念ながらこれは事実です。おそらくヒトの生態学上こういうのが戦争・飢餓・疫病の無い平和時には増えてしまうということであって、文科系の人口学の研究者とかでこういったことについて何か書いている人が居るかもしれません。文学的に言うとこういったのはゴキブリと呼ばれるわけであって、女の人にゴキブリをやたら嫌う人が多いわけですけど、形容の元ネタになっている昆虫のゴキブリさんはともかくとしてこういった人間はまあ男から見ても反吐が出るほどウザいのは同じです。知識を得るということにおいてならば問題は無いんですけど、人間関係において人間のしかも他者の行動だけを取り出してそれを自分に都合の良い度量衡によって測定するもしくは何らかのidealとして判定するという形で鑑みているから、こういった「自分がこんなにしてやったのにあいつは恩に思ってない」という勝手極まる自己流解釈も可能であるということになって、まるで「こんな男につくして損した」と嘆く恋する乙女の如くであってこいつオカマ野郎かということになってしまいます。また法律に違反しなければ何をやってもいいとかいったものや如何にして法律を使って他者を貶めるかという発想も同じようにしてこういった女性的な唯名論者には付きものだということです。「こんなにしてやった」ことの事実内容を当該人物に知らせてあげれば大抵のケースで問題は大きく解決に向かうはずですけど。
歪みが掛かってある程度それに拍車が掛かっている子供や不幸な目にあって良ろしくない人間になってしまってその状態からどうしようもないという人間に対して外圧的に修正するような扱いをするというのならば、その大人は責任を持って対象を殺してやれということなんですね。そういった外圧的なやり方で修正されうるほど人間は単純には出来ていません。人間と人間との関係を工学化する人間は例外なくヤクザになれといったことや、精神医学的には極論すれば抗精神病薬以外で必要な薬というのは副作用の無い覚醒剤やヒトが安楽死できる薬のみであるといったことには、そういったことも含意されています。殺す能力も権限も無いのだったら、問題解決における何らかの具体的手段を教えるなり提供するなりしろということなんですね。溜まっている悪いものを吐き出せ、私がオススメするのは言語化して記述していくというやり方です。精神を病んでいる人は妄想をひたすら自分の気のゆくまで書きつづっても良いし、夢とかでもフロイトみたく分析しなくとも見てから目が覚めてまだ覚えている時はまた腑に落として牛みたく反芻して熟成させることになってしまう前にその内容をサーッと記述してしまうのがいいです。……もちろん不必要に他者の顔面を視認しないというのもまた一つの教えであり方法です。
私は切り傷をよくするんですけど、最近の血の色は朱色をしていてものすごくきれいです。体の表面によく生えてくる毛とか剃ってますけど。
近年ネットの負の側面のせいで増えてしまったであろう無知な馬鹿な女でない限り、女性はおそらく自分の「血」を交わった相手にあげるという発想です、たぶん。だから「愛した」男が死んだりその他よろしくないことになれば私はダメだったのねということで悲しむし、「血」を分けた子供を相手の男のアニマに対する復讐として大切にします。おそらくヒトのメスとしての生態上女性は自分を大切にしているというか、エゴイスティックと言えばエゴイスティックですけど。
存在しない、「心無い」女はおそらく完全なまでに美しい顔をしてます、白痴か全知かのどちらかで。その両方であることを装ったカワイイ女の人は居るかもしれませんけど。
XP
2012.07.23 Monday
「これにて勝て」。
私は僕という一人称に対して嫌悪感を感じるんですけど、ある程度の主体性を持つ大人になってから僕という自称を使っている男は、「僕」を前提とした「君」を理解していない、オカマ野郎だと考えるのが妥当です。今の若い人たちはネットのおかげでいい意味でも悪い意味でもだいぶん主体性が養われていそうなので、自分のことを「僕」とか言う人はあまり居なそうですけど。
私がこのブログを書き始めたのはM'z a 悪意医師その他不特定多数の未知もしくは既知の人間による挑発と抗精神病薬リスパダールの作用とマンション階下からの日あたり数時間におよぶ激しいモーター音のような騒音による嫌がらせの相乗効果によってです。釣りや挑発であるといえばそれまでなんでしょうけど、まあ貴様も生きていることを示せとばかりの年上の人間たちからの御達しだったのかもしれないくらいには思ってます。
歴史上キリスト教徒はユダヤ教徒に改宗をせまることがありましたけど、これは改宗さえすればユダヤ人はユダヤ人でなくなり健常な人間になるということ、そういう考え方なんですね。社会学でnature or matureという分類があるらしいですけど、キリスト教は近世あたりから現れた一部の思想の潮流を除いて完全にmatureです。教育を重んじます。で、科学的態度や実証的態度と言えば聞こえはいいですけど、「ものわかり」の悪い、natureな人たちというのが居るんですね、私もその一人でした。いわゆる論理実証主義に埋没していくことの害毒は先にも書いた通りであって、「ユダヤ」の一言で表すとなると語弊がありますけど、結論ありきの前提のもとに都合の良い事実だけを持ち出すことによるこういった人たちのそうでない人たちに対する逆差別というのは凄まじいです。
例えば、「何もしていないんだったら病院なんか行かなくていい」と言われた人が居たとして、言った人は「薬物による対処療法に拠ってまで為すべきことも無いのであれば、ほとんど何も食べる必要はないし肉体からどんどん悪いものを出して根本的に事態を改善していけばいい」という意味で言ったのに、言われた人は「みんな体が悪くなったら病院に行くのに、この人はボクにだけ病院へ行くななんて言ってボクを攻撃しようとしている」という場の空気で何たるかを読んでしまっているわけであってこの人は精神を病んでいる病人なんですね。これが「攻撃しようとしている」ならまだしも「攻撃している」だったら完全に発狂してます。ちなみに精神疾患を文明病と呼ぶ言い方も日本語にはあります。
客観的や主観的といった表現がありますけど、「客」というのはslaveで「主」というのはmasterです。客観性が発達していること・客観的な目を持つことは現実に適応して生きていく上で大事ですし、もちろん文明を発展させてきたのはヒトにおける事象の客観的な認識ですけど、「自分で」ということがどういうことなのか分からないと確実に物事間違えて失敗します。科学的に実証された個々の事実が間違いであるということは無いですけど、その個々の事実から何故か「嘘と真実」というところの「嘘」の方へ走ってしまうように戦後の日本の義務教育によってプログラミングされてしまっている、実証されていないことは事実無根である故間違っていると考えるというよりは思ってしまうように思い込まされてしまっている、ということです。仏教でもキリスト教でもイスラム教でも宗教の考え方を持ってきて「神」がどうであるこうであるというから客観的に物事を見ようとするバイアスが係っている現代人には「分かり」にくいのであって、そもそも「客観的」や「主観的」といったことをあまりにも客観的に捉え過ぎると認識を誤る、「主」観的に事象を捉えると物事何がどうなっているか分かる、つまりヒトの体の構造は皆同じであって知能の高低の個人差によらず考えることは人間皆同じということです。主観的というのはマンガでよくあるような感情剥き出しで何もかも個人的な好き嫌いで判断するとかそういったことではないです。
ちょっと分かりにくく文学チックな表現で申し訳ないですけど、私が知っているところで以下ヒトの行動について簡単に説明します。
ヒトの行動において、健常な人間というのは、原我(イド)たる「右」の定常状態からそれが仕事であっても良心としての超自我の現れとしてのコミュニケーションであってもいいですけど「左」へ流しつつまた「右」の定常状態へ戻るというパターンです。カルマな異常者は、我欲と区別のつかない自我(エゴ)そのものたる「左」の不安定な状態から「右」の工学化された形で勝手に設定した人間関係を利用して「左」の不安定さが仮初めの安定を得る性愛な状態を自分以外の誰も彼もに求めるということであって、他者を知のバラつきとして駒のようにしか見なすことができないということです。
ヒトの恋愛行動においては、オスはアニマの幻影を特定の異性に求め唯名的かつ実在的になるのに対し、メスはアニムスの具現体としての特定の異性において彼を象徴化して知識のバラつきと同化させようと試み、その条件を満たす相手を理想の男であると見なします。平たく言うと女性は恋愛において絶対知たる自分と同じものを男性に求めるということです。そして何もかも捨て去った時に初めてその自覚が芽生えるイドを満たしてくれる女を想うことが男における肉欲に邪魔されない本物の恋というやつです、「ああ、俺はあの娘が好きだったのか」と。特異例として、あまりいい思いをしてない女の人は、「なんで男ってこんなに馬鹿なの?」と言わんばかりに、絶対知たる自分をアニマとして仮想的に設定し男性だけではなく女性も含めて当該他者がそれと同じく定常そのものでないことに対する負の感情として怒り・妬み・憎悪・恥意識その他を仕事やコミュニケーションとして具現化させる男性的人間を演じるので、男から見て好色の対象としての女に見えます。受肉した救い主というか、いい意味でも悪い意味でも救いの女神みたく見えます。中島義道さんはドストエフスキーの憎悪を「血も凍るような」と形容してましたけど、少なくとも数十億人にのぼる人類の半数はドストエフスキーとは比べ物にならない程の憎悪で血が凍るどころか常に沸いてます。女です。女性が腹に抱いている憎しみというのは男性のそれとは比べ物になりません。そして、あまりいい思いをしてない男の人は、それが仕事や一般的なコミュニケーションとして昇華されるべき超自我をアニムスとして仮想的に設定して外ヅラから一見したところでは女性的人間を演じるので、女から見ていい意味でも悪い意味でも完全な男に見えます。デモーニッシュと言えばそりゃそうだということです。前者はヴァルキリーで後者はオーディンだと考えると分かりやすいです。破壊衝動と性欲をお世話をしてくれることによって取り除いてくれるイド・ブレイカーで戦乙女なヴァルキリーさんにとって理想の男はオーディンだけです。
コンピュータのプログラミングとかは子供の積み木遊びみたいなもんなのであって学校の勉強の数学の問題を解くのがそうであるように一つ一つ定題を積み重ねていけば誰でもできるようになってますけど、経済変動は基本的に予測不可能です。Joseph Alois Schumpeterのように後世にそれを分析して景気の変動に循環を見出した人も居ますけど、シュムペーター自身が言うように現代のように短期間で急速に様々な技術によって企業革新が為されているタームにおいては予測どころか分析すらもナンセンスです。この日本という国では去年の震災後どうなっているのか私はよく知りませんけど。
経済学者の中には「経済学は人間の行動を分析するものであって、金の学問だというのは間違っている」と言う人が居ますけど、これは間違ってます。経済学は経て済むことについての学問であって、それを考察するのに現実問題としてヒトの生態における様々な形態での貨幣の利用ということについて鑑みるのが最も理に適っているから、というよりは人間の性愛について経済学的には分析できませんしそもそも分析する価値もありませんし物々交換の経済を想定するのは時代を履き違えており現実に役立たないのであって貨幣の存在を介さずに人間の経済現象を考察するのはナンセンスだからです。ちなみに現在2012年7月23日時点での為替レートが1ユーロ90円台前半だとか、目玉が飛び出るほど驚きます。
私は僕という一人称に対して嫌悪感を感じるんですけど、ある程度の主体性を持つ大人になってから僕という自称を使っている男は、「僕」を前提とした「君」を理解していない、オカマ野郎だと考えるのが妥当です。今の若い人たちはネットのおかげでいい意味でも悪い意味でもだいぶん主体性が養われていそうなので、自分のことを「僕」とか言う人はあまり居なそうですけど。
私がこのブログを書き始めたのはM'z a 悪意医師その他不特定多数の未知もしくは既知の人間による挑発と抗精神病薬リスパダールの作用とマンション階下からの日あたり数時間におよぶ激しいモーター音のような騒音による嫌がらせの相乗効果によってです。釣りや挑発であるといえばそれまでなんでしょうけど、まあ貴様も生きていることを示せとばかりの年上の人間たちからの御達しだったのかもしれないくらいには思ってます。
歴史上キリスト教徒はユダヤ教徒に改宗をせまることがありましたけど、これは改宗さえすればユダヤ人はユダヤ人でなくなり健常な人間になるということ、そういう考え方なんですね。社会学でnature or matureという分類があるらしいですけど、キリスト教は近世あたりから現れた一部の思想の潮流を除いて完全にmatureです。教育を重んじます。で、科学的態度や実証的態度と言えば聞こえはいいですけど、「ものわかり」の悪い、natureな人たちというのが居るんですね、私もその一人でした。いわゆる論理実証主義に埋没していくことの害毒は先にも書いた通りであって、「ユダヤ」の一言で表すとなると語弊がありますけど、結論ありきの前提のもとに都合の良い事実だけを持ち出すことによるこういった人たちのそうでない人たちに対する逆差別というのは凄まじいです。
例えば、「何もしていないんだったら病院なんか行かなくていい」と言われた人が居たとして、言った人は「薬物による対処療法に拠ってまで為すべきことも無いのであれば、ほとんど何も食べる必要はないし肉体からどんどん悪いものを出して根本的に事態を改善していけばいい」という意味で言ったのに、言われた人は「みんな体が悪くなったら病院に行くのに、この人はボクにだけ病院へ行くななんて言ってボクを攻撃しようとしている」という場の空気で何たるかを読んでしまっているわけであってこの人は精神を病んでいる病人なんですね。これが「攻撃しようとしている」ならまだしも「攻撃している」だったら完全に発狂してます。ちなみに精神疾患を文明病と呼ぶ言い方も日本語にはあります。
客観的や主観的といった表現がありますけど、「客」というのはslaveで「主」というのはmasterです。客観性が発達していること・客観的な目を持つことは現実に適応して生きていく上で大事ですし、もちろん文明を発展させてきたのはヒトにおける事象の客観的な認識ですけど、「自分で」ということがどういうことなのか分からないと確実に物事間違えて失敗します。科学的に実証された個々の事実が間違いであるということは無いですけど、その個々の事実から何故か「嘘と真実」というところの「嘘」の方へ走ってしまうように戦後の日本の義務教育によってプログラミングされてしまっている、実証されていないことは事実無根である故間違っていると考えるというよりは思ってしまうように思い込まされてしまっている、ということです。仏教でもキリスト教でもイスラム教でも宗教の考え方を持ってきて「神」がどうであるこうであるというから客観的に物事を見ようとするバイアスが係っている現代人には「分かり」にくいのであって、そもそも「客観的」や「主観的」といったことをあまりにも客観的に捉え過ぎると認識を誤る、「主」観的に事象を捉えると物事何がどうなっているか分かる、つまりヒトの体の構造は皆同じであって知能の高低の個人差によらず考えることは人間皆同じということです。主観的というのはマンガでよくあるような感情剥き出しで何もかも個人的な好き嫌いで判断するとかそういったことではないです。
ちょっと分かりにくく文学チックな表現で申し訳ないですけど、私が知っているところで以下ヒトの行動について簡単に説明します。
ヒトの行動において、健常な人間というのは、原我(イド)たる「右」の定常状態からそれが仕事であっても良心としての超自我の現れとしてのコミュニケーションであってもいいですけど「左」へ流しつつまた「右」の定常状態へ戻るというパターンです。カルマな異常者は、我欲と区別のつかない自我(エゴ)そのものたる「左」の不安定な状態から「右」の工学化された形で勝手に設定した人間関係を利用して「左」の不安定さが仮初めの安定を得る性愛な状態を自分以外の誰も彼もに求めるということであって、他者を知のバラつきとして駒のようにしか見なすことができないということです。
ヒトの恋愛行動においては、オスはアニマの幻影を特定の異性に求め唯名的かつ実在的になるのに対し、メスはアニムスの具現体としての特定の異性において彼を象徴化して知識のバラつきと同化させようと試み、その条件を満たす相手を理想の男であると見なします。平たく言うと女性は恋愛において絶対知たる自分と同じものを男性に求めるということです。そして何もかも捨て去った時に初めてその自覚が芽生えるイドを満たしてくれる女を想うことが男における肉欲に邪魔されない本物の恋というやつです、「ああ、俺はあの娘が好きだったのか」と。特異例として、あまりいい思いをしてない女の人は、「なんで男ってこんなに馬鹿なの?」と言わんばかりに、絶対知たる自分をアニマとして仮想的に設定し男性だけではなく女性も含めて当該他者がそれと同じく定常そのものでないことに対する負の感情として怒り・妬み・憎悪・恥意識その他を仕事やコミュニケーションとして具現化させる男性的人間を演じるので、男から見て好色の対象としての女に見えます。受肉した救い主というか、いい意味でも悪い意味でも救いの女神みたく見えます。中島義道さんはドストエフスキーの憎悪を「血も凍るような」と形容してましたけど、少なくとも数十億人にのぼる人類の半数はドストエフスキーとは比べ物にならない程の憎悪で血が凍るどころか常に沸いてます。女です。女性が腹に抱いている憎しみというのは男性のそれとは比べ物になりません。そして、あまりいい思いをしてない男の人は、それが仕事や一般的なコミュニケーションとして昇華されるべき超自我をアニムスとして仮想的に設定して外ヅラから一見したところでは女性的人間を演じるので、女から見ていい意味でも悪い意味でも完全な男に見えます。デモーニッシュと言えばそりゃそうだということです。前者はヴァルキリーで後者はオーディンだと考えると分かりやすいです。破壊衝動と性欲をお世話をしてくれることによって取り除いてくれるイド・ブレイカーで戦乙女なヴァルキリーさんにとって理想の男はオーディンだけです。
コンピュータのプログラミングとかは子供の積み木遊びみたいなもんなのであって学校の勉強の数学の問題を解くのがそうであるように一つ一つ定題を積み重ねていけば誰でもできるようになってますけど、経済変動は基本的に予測不可能です。Joseph Alois Schumpeterのように後世にそれを分析して景気の変動に循環を見出した人も居ますけど、シュムペーター自身が言うように現代のように短期間で急速に様々な技術によって企業革新が為されているタームにおいては予測どころか分析すらもナンセンスです。この日本という国では去年の震災後どうなっているのか私はよく知りませんけど。
経済学者の中には「経済学は人間の行動を分析するものであって、金の学問だというのは間違っている」と言う人が居ますけど、これは間違ってます。経済学は経て済むことについての学問であって、それを考察するのに現実問題としてヒトの生態における様々な形態での貨幣の利用ということについて鑑みるのが最も理に適っているから、というよりは人間の性愛について経済学的には分析できませんしそもそも分析する価値もありませんし物々交換の経済を想定するのは時代を履き違えており現実に役立たないのであって貨幣の存在を介さずに人間の経済現象を考察するのはナンセンスだからです。ちなみに現在2012年7月23日時点での為替レートが1ユーロ90円台前半だとか、目玉が飛び出るほど驚きます。
Die NATIon stählt meine SS......
2012.07.27 Friday
卵と牛乳で作る炭焼党のカルボナーラ。
今の50代60代の人間たちというのは何もかもがマンガ的です。おそらくは彼ら彼女らもまたおかしい異常な教育を受けていたということであって、テレビなんてものは一方通行のその最悪なまでの産物です。ベタベタなマンガ的コンテクストによってものを見ることを彼らが作り出したというよりは彼ら(のものの見方)が黒くベタベタなマンガ的コンテクストそのものであって、彼らは戦後の「空気」の義務教育の中でまた彼ら自身が空気たるように育てられました。何十年の昔はきちんと「悪い」と言われていたマンガその他で引っ張られ引きずり落とされた子供たちも何とか社会の成員として一人前にしなければならないのでそういった「空気」を使わなければならなかったんですね。それを自分の行動に反映させるかそれとも無視するかは別問題だとして、子供の頃から「空気」を読み読み生きてきた私のような人間から言わせてもらえば、いちいち空気を相手にしていたら確実に心身病んで病気になります。はっきり言っておきますけど、私は空気を読むのは非常に上手いです、だから病気になりました。オタクは皆空気を読むのが上手いですけど、つまりは彼らも肉体の見た目を見て分かるとおり心身病んでるんですね。能力の高い人間たちにおける空気を読む能力の高さもしくはそういった対人スキルを利用して、オタクという被差別カテゴリーを捏造しそしてオタクとしてそこへ引きずり込まれた当のオタク達自身にオタクたるカテゴリーは何たるかと認識させるということが日本のマスコミによってひたすら行われてましたし、今でもネットの少し暗がりな部分を覗くだけでひたすらこれにいそしんで頑張っている連中が居ます。で、この放火行為によって誰が得をするかということです。私は人種差別の類は嫌いなのであまり言いたくないんですけど、それこそ私がこのブログの記事で言っているようなユダヤだとか新興宗教の類だとか、昔は頭の悪い脳筋がひたすら差別していたような朝鮮の人たちだとか、今だに本当にあるのか知りませんけど同和系集団だかなんだかの人たちだとか……というよりは、それがエニアグラムの性格判断の「判定」されたところの特定の性格タイプであれ「オタクであること」や「見た目の不細工さ」というカテゴリーであれ、現時点での現実を鑑みるに、これら被差別カテゴリーの製作にいそしんでいるのは女を得たくて仕方が無いサカリのついた年頃のチンピラの類か(オタクの類の人間や真面目な品相の人間が自分らチンピラと同じくやたらめったら女を求めていることが勝手に前提にされてます)もしくはそれの成れの果てである「そういった商売を成り立たせて且つそれに携わっていかなければいけないような人たち」ですね。一昔前の芸能もそうですけどアニメやゲームは美形キャラを目白押しにしてハマり込ませて心身とも侵食されたオタクやいわゆる腐女子を作成するという被害者の(リビドーの)能動性を利用したやり方ですけど、ネットの場合は例えばエロマンガをチラ見する程度であってもオタクが定番のように被差別キャラとして描かれてるのが散見されますしもはや誰も見ないような巨大掲示板群なんざ10年の昔から特定のカテゴリーの対する叩きの嵐であってこれはオタクでなくても被害者の受動性を利用したやり方です。さらには、アニメやゲームのキャラの後日談(?)二次創作(?)を勝手に設定してそれを元ネタに場合によってはそのアニキャラやゲームキャラが実在するものであるかの如くひたすら叩くということが行われているのをよく見ましたけど、アレは馬鹿も馬鹿の所業というよりは馬鹿な方向へ引きずられている被害者カテゴリーの人たちをより馬鹿な方向へ引っ張るためにご苦労さんなことに行われていることでした。日本のマスコミ関係者というのはこういった加害者たちのうちでも不本意ながらも取り敢えずでも何故か社会的に公式には認めれられているという連中です。義務教育の時点で子供にマンガ的コンテクストを植え付け日本人を根底からおかしくしたのは、少し前に悪名高い日教組がどうとか騒がれてましたけど、これらの連中であって、アメリカの圧力でも旧ソ連の陰謀でもないです。こういった幼児的な人間達が何故か大人ぶっていたりあろうことか陳腐にも「大人」を自称している場合があったりするんですけど、ただ悪徳なバカガキと形容されうる子供のように不要・有害なことにいそしんでいるだけである分際で何を大人だとか勘違いしているのかという問題です。反社会的行為に及ぶ連中が「大人」であった場合当該の社会は即刻崩壊しているというわけですけど、こんな単純な物事の判断すらもつかないん程に頭が悪いかもしくは救いがたいことには馬鹿なんですかね?
のび太の偶像だとかもそうですけどオタク叩きというのは基本的にヒムラー叩きであって突き詰めれば国家社会主義叩きであり伝統主義叩きカトリック叩きひいてはキリスト教叩きです。これはユダヤがどうとか資本主義でどうこうというよりは、余分な金が欲しくて仕方がない豚と形容されうる連中のやらかしていることです。もちろんナチスの行ったことは最悪ですけど、拝金主義の群像たる豚の群れの行き着く先はどういった社会になるのかという事を考えれば単純に悪というレッテルを貼って片付けられることではないです。ちなみに、私は「ユダヤ」というのは嫌いですけど、今のイスラエルの人たちを侮辱するつもりは全くありません。
ちょっと話の本筋からはズレますけど、現実問題として、抗体を作っておくという言い方は極端ですけど軽くでもある程度は汚れを知らなければ結婚して子供を育てながら企業で働いて金を稼ぐということは出来ないですね。前世紀は何を勘違いしたかチンピラのお兄ちゃんにおいてすらも時々居ましたけど、夢見る少女の理想像に合わせて汚れを知らないキレイな男であっては、現実に女とくっついてから目の前の問題に対処して生きていくことができないです。キレイなままで生きられるのは少なくとも現時点での日本では皇居に居る皇室の人たちだけです。
最近の不特定多数の人間によるストーカーは私SSのこのブログの記事での「『左』へ釣ろうとするものである」という指摘を慮ってかワザワザ私の近隣2~3メートルの右(斜め前)に位置するところで特定のパフォーマンスを行って注意を引いたり異様な音を立てたり特定の注意を引く言葉を発したりしてストーキングを行ってきますけど、ヒトはストレスを感じると胃腸を意識するつまり何度もこのブログで説明しているように腑に落とすわけであってストーキングを行われているという被害の事実自体が被害者を「左」へ引っ張るものなんですね(このこと自体もいくつか前の記事で説明しました)。こういうのはもちろん金で使われてるわけですけど、まあ使っている人たちとその意図は今の問題とは別だとして、こういったクズ共は自分らの暴力のはけ口の一見しては正当な理由付けを求めているだけなんですね。
私が住んでいるマンションの一階下に住むモーター音や壁や天井を殴るような衝撃音によって嫌がらせをしてくる自営業の老人もそうですけど、昔の言い方で言うとヤンキーだとか珍走族だとか若いときチンピラの不良人間であったようなのがそのまま大人になって年を取ると他者に迷惑どころか危害を加えて平然と正当人ぶっているような社会的害虫になるんですね。こういったのが正当な人間ぶっていれば即刻治安の乱れという形で社会は不安定になって崩壊に向かいます。彼らもまた当時のロクでもない大人たちに酷い扱いを受けてこうなったところのものなので、ちょっと酷い言い方ではありますけど、こういったのに労働に勤しまれて金銭を稼がれると社会的に異常な損益が生じるわけです。また、当然のことながらアルバイトの単純労働能力しか持たないような人間がプライドを持って働いていられるわけがないです。当然それは高学歴その他高い能力を持った人間には見下されます。一般かそれ以上のサラリーマンのように単純以上の労働能力を持った人間に対して妬み口をきくというのがもう自分らが純粋な社会主義者ではない証なのであって、自分らが金のために働いているのではないのではないということの証です。残酷なようですけど物を思わずに他者に対して危害を加えずに単純にロボットのように作業機械として何十年の人生をまっとうしてみせる以外に彼らが自分らがその立ち位置であることの正当性を示す手段は彼らにはありません。別に誰も彼らに働くことなんか強制しません、金がもらえなくなるだけだから働くのが嫌なら働くのやめれば?という問題であるということになってしまいます。ちょっと考えればこんなことは分かることですけど、彼らのオツムというのは一体どういった低レベルな具合になっているのか私には全く理解不能です。
スーパーで食品を買う時にその横を通り過ぎた瞬間に私の左斜め前の位置にて「チシッ!」とかいう音を口から発した低身長短手短足でモジャ毛の見るも不潔なゴキブリ虫老婆とかが頻繁に現れたりするんですけど、普通は何だコイツとこういったのに対しては不審の目を向けますね。こういうのが何匹も何匹もドラクエの雑魚モンスターの如く現れると、正常な神経を持った人間であったらば、無知無能なしかも馬鹿で物を考えるオツムも無い下劣愚劣な人間的に最下等な豚肉老婆が何を勘違いして他人様に対して優位を保てると思い込んでんの?と思うことを避けられないということです。穢多です。穢多畜生がそこらへんにウロウロしてるわけです。ひょっとしたら昔ファミコンのRPGとかを最初に作った人はこういったゴミ虫みたいなのをネタにしてフィールド上にモンスターが歩き回る世界みたいなのを作ったのかも、くらいに。他人に危害を加えるその他悪事に及ぶクズは働かずにサッサと首吊って死ねということです。私はよく知りませんけど、ひょっとしたら同和だかなんだかの集団が警察にもつかまらずにそこらへんにのさばってるのかもしれません。
オタクの女にも見る限りでは面倒見の良い母ちゃん的な気の強さげで心身ともに健康な顔をした人も居ますけど、垂れ下がった目蓋のユダヤ丸出しの卑屈さでゴキブリ臭漂う見るだけで吐き気をもよおす女というのが居るんですね。父方の叔母がこの類の人間の典型なんで、子供の頃から見ていてよく分かるんですけど、他人のキャラを勝手に作って陰でコソコソコソコソ噂を流して人を貶める、まあこのオバについては顔面を見れば一発で分かるんですけど、ユダヤ人です。公の場では「ええ~私でいいのぉ~?」とひたすらにマンガの如くありきたりな偽善者ヅラを作っておきながら一枚顔面の皮を剥げば即他人に対する妬みその他汚れ物をポロポロ出してくれるというグロテクスなブタクズなんで極めて分かりやすいです。しかもこういったのに限って被害に合っている人が被害を訴えると「あの子はそんなこと言う子じゃない!」とかおホザきになるんですね。他人様のキャラを勝手に作ってそれを押し付けてまでマスターベーションにいそしむ極めて不潔で不衛生なメスブタのオバ(叔母)さんにおかれましては吐き気を覚えるほどに不快です。私SSに関して言うのならば、私は私の周辺の大人が織り成していた小さな狂った社会においてこんな事実関係について幼児期や10歳になるかならないかの年頃に告発したならばこの日本という国では社会的に抹殺されることを知っていたので当然言わなかっただけであって、私SSの人間性が今になって子供の頃から変化したというわけではないです。人格の中身のグロテスクな豚肉老婆が図に乗って優等生・正当人を演じているのを見ると反吐が出るほどの嫌悪感を覚えます。余談なエピソードですけど、親族関係で温泉旅館かどこかへ行った時、叔父が居る側でこの叔母がどういった話の流れであったか「ワタシはS君(私)派だわ~」とか言ったことがあったんですけど、その後でこの叔父が「じゃあS、みんなでお風呂へ入ろうか」と誘い、おもむろにこの叔母が裸を私に見られるのを嫌がっていたということがありました。もちろん当時思春期の少年であった私は腹黒くて性根の醜い叔母の裸体なんざ見たくないのであって迷惑千万ですし、もちろん私のプライドはこの両者によってズタズタに傷つけられているわけですが、まあこの叔父に関しては面白い演劇を見せてくれたわけであって「叔父さんやるじゃん(笑)」くらいに少年心に思いました。演劇というのはこういったことであって、不特定多数によって私が外を歩く度にストーカー行為に及んでくるそこらへんの無知無能力なチンピラがお願いだから意識してくれとばかりに見せ付けてくるその存在の根底からしてシカトされうる豚演技のことではないです(私は某自己紹介の場所に顔写真と名前をupしてこのブログへのリンクを貼ってますけど、これについて言及しているわけではないです)。
「第一の格率は、私の国の法律と習慣とに服従し、神の恩寵により幼児から教えこまれた宗教をしっかりともちつづけ、ほかのすべてのことでは、私が共に生きてゆかねばならなぬ人々のうちの最も分別ある人々が、普通に実生活においてとっているところの、最も穏健な、極端からは遠い意見にしたがって、自分を導く、ということであった。というのは、いまや私自身の意見をすべて吟味にかけようとして、それらはもはやなんと価値もないと見はじめているのであるから、最も分別ある人々の意見に従うのが最もよいと信じたのである。―後略―」
「私の第二の格率は、私の行動において、できるかぎりしっかりした、またきっぱりした態度をとることであり、いかに疑わしい意見にでも、いったんそれをとると決心した場合は、それがきわめて確実なものであ場合と同様に、変わらぬ態度で、それに従いつづけることであった。―後略―」
「私の第三の格率は、つねに運命によりもむしろ自己にうちかつことにつとめ、世界の秩序よりはむしろ自分の欲望を変えようとつとめること、そして一般的にいって、われわれが完全に支配しうるものとしてはわれわれの思想しかなく、われわれの外なるものについては、最善の努力をつくしてなおなしとげえぬことがらはすべて、われわれにとっては、絶対的に不可能である、と信ずる習慣をつけること、であった。そして、私をしてみずからが獲得しえぬものを未来に望まないようにさせ、したがって私に満足を得させるには、上のことだけで充分であると、私には思われた。―中略―しかしながら、あらゆる事物をこういう角度から見ることに慣れるためには、長い間の訓練と、たびたびくりかえされる思索とを、必要とすることは私もみとめる。そして私は、むかし運命の支配を脱して、苦痛や貧困にかかわらず、神々とその幸福を競うことのできた(ストア派の)哲学者たちの秘訣も、主としてここにあったのだと思う。というのは、かれらは自然によってかれらに課せられた多くの制限をたえず考察しつづけて、けっきょく、かれらの支配しうるものはかれらの思想しかない、ということを完全に確信するに至り、ただこのことによって、他の事物に対するあらゆる執着を脱しえたのだからである。しかしかれらはみずからの思想に対しては絶対的な支配権をもっていたのであって、この点では、たとえ生れつきと社会的地位とにおいていかにめぐまれていても、この哲学をもたず、みずからの欲するところのすべてを決してそれほど自由に支配しえぬ人々のだれよりも、かれらがみずからを、より富んでおり、より有力であり、より自由であり、より幸福でる、と考えたのは、もっともであった。」
これはデカルトの「方法序説」の第三部からの引用ですけど、一見して現実を見ていないと考えられるかのようなこのデカルトの言も異性愛ということにおいて考えるところのものならば合理的であって、どんなヤサ男でも野暮男でも野蛮男でもただ一人の愛する嫁さんが居りゃ幸せだということです。つまり無根拠に工学化された人間関係を現実的に採用するのは愚の極みであるということであって、それは特定一個人の異性(女)に対してだけにするのがベストです。マンガ的コンテクストは嫁さんへの愛としてぶつけるためにとっておくべきであって、いたずらに空気なんか読まなくていいということです。
私は先日牛乳を久しぶりに飲んだんですけど、イライラしなくなって落ち着くという形容は正確ではないところのすごく沈鬱な気分になりました。やっぱりミルクはタマるんです。そりゃ栄養や精もタマるでしょうけど、悪いものもタマります。卵なんざ恐ろしくてとても食べる気にはなりません。
今の50代60代の人間たちというのは何もかもがマンガ的です。おそらくは彼ら彼女らもまたおかしい異常な教育を受けていたということであって、テレビなんてものは一方通行のその最悪なまでの産物です。ベタベタなマンガ的コンテクストによってものを見ることを彼らが作り出したというよりは彼ら(のものの見方)が黒くベタベタなマンガ的コンテクストそのものであって、彼らは戦後の「空気」の義務教育の中でまた彼ら自身が空気たるように育てられました。何十年の昔はきちんと「悪い」と言われていたマンガその他で引っ張られ引きずり落とされた子供たちも何とか社会の成員として一人前にしなければならないのでそういった「空気」を使わなければならなかったんですね。それを自分の行動に反映させるかそれとも無視するかは別問題だとして、子供の頃から「空気」を読み読み生きてきた私のような人間から言わせてもらえば、いちいち空気を相手にしていたら確実に心身病んで病気になります。はっきり言っておきますけど、私は空気を読むのは非常に上手いです、だから病気になりました。オタクは皆空気を読むのが上手いですけど、つまりは彼らも肉体の見た目を見て分かるとおり心身病んでるんですね。能力の高い人間たちにおける空気を読む能力の高さもしくはそういった対人スキルを利用して、オタクという被差別カテゴリーを捏造しそしてオタクとしてそこへ引きずり込まれた当のオタク達自身にオタクたるカテゴリーは何たるかと認識させるということが日本のマスコミによってひたすら行われてましたし、今でもネットの少し暗がりな部分を覗くだけでひたすらこれにいそしんで頑張っている連中が居ます。で、この放火行為によって誰が得をするかということです。私は人種差別の類は嫌いなのであまり言いたくないんですけど、それこそ私がこのブログの記事で言っているようなユダヤだとか新興宗教の類だとか、昔は頭の悪い脳筋がひたすら差別していたような朝鮮の人たちだとか、今だに本当にあるのか知りませんけど同和系集団だかなんだかの人たちだとか……というよりは、それがエニアグラムの性格判断の「判定」されたところの特定の性格タイプであれ「オタクであること」や「見た目の不細工さ」というカテゴリーであれ、現時点での現実を鑑みるに、これら被差別カテゴリーの製作にいそしんでいるのは女を得たくて仕方が無いサカリのついた年頃のチンピラの類か(オタクの類の人間や真面目な品相の人間が自分らチンピラと同じくやたらめったら女を求めていることが勝手に前提にされてます)もしくはそれの成れの果てである「そういった商売を成り立たせて且つそれに携わっていかなければいけないような人たち」ですね。一昔前の芸能もそうですけどアニメやゲームは美形キャラを目白押しにしてハマり込ませて心身とも侵食されたオタクやいわゆる腐女子を作成するという被害者の(リビドーの)能動性を利用したやり方ですけど、ネットの場合は例えばエロマンガをチラ見する程度であってもオタクが定番のように被差別キャラとして描かれてるのが散見されますしもはや誰も見ないような巨大掲示板群なんざ10年の昔から特定のカテゴリーの対する叩きの嵐であってこれはオタクでなくても被害者の受動性を利用したやり方です。さらには、アニメやゲームのキャラの後日談(?)二次創作(?)を勝手に設定してそれを元ネタに場合によってはそのアニキャラやゲームキャラが実在するものであるかの如くひたすら叩くということが行われているのをよく見ましたけど、アレは馬鹿も馬鹿の所業というよりは馬鹿な方向へ引きずられている被害者カテゴリーの人たちをより馬鹿な方向へ引っ張るためにご苦労さんなことに行われていることでした。日本のマスコミ関係者というのはこういった加害者たちのうちでも不本意ながらも取り敢えずでも何故か社会的に公式には認めれられているという連中です。義務教育の時点で子供にマンガ的コンテクストを植え付け日本人を根底からおかしくしたのは、少し前に悪名高い日教組がどうとか騒がれてましたけど、これらの連中であって、アメリカの圧力でも旧ソ連の陰謀でもないです。こういった幼児的な人間達が何故か大人ぶっていたりあろうことか陳腐にも「大人」を自称している場合があったりするんですけど、ただ悪徳なバカガキと形容されうる子供のように不要・有害なことにいそしんでいるだけである分際で何を大人だとか勘違いしているのかという問題です。反社会的行為に及ぶ連中が「大人」であった場合当該の社会は即刻崩壊しているというわけですけど、こんな単純な物事の判断すらもつかないん程に頭が悪いかもしくは救いがたいことには馬鹿なんですかね?
のび太の偶像だとかもそうですけどオタク叩きというのは基本的にヒムラー叩きであって突き詰めれば国家社会主義叩きであり伝統主義叩きカトリック叩きひいてはキリスト教叩きです。これはユダヤがどうとか資本主義でどうこうというよりは、余分な金が欲しくて仕方がない豚と形容されうる連中のやらかしていることです。もちろんナチスの行ったことは最悪ですけど、拝金主義の群像たる豚の群れの行き着く先はどういった社会になるのかという事を考えれば単純に悪というレッテルを貼って片付けられることではないです。ちなみに、私は「ユダヤ」というのは嫌いですけど、今のイスラエルの人たちを侮辱するつもりは全くありません。
ちょっと話の本筋からはズレますけど、現実問題として、抗体を作っておくという言い方は極端ですけど軽くでもある程度は汚れを知らなければ結婚して子供を育てながら企業で働いて金を稼ぐということは出来ないですね。前世紀は何を勘違いしたかチンピラのお兄ちゃんにおいてすらも時々居ましたけど、夢見る少女の理想像に合わせて汚れを知らないキレイな男であっては、現実に女とくっついてから目の前の問題に対処して生きていくことができないです。キレイなままで生きられるのは少なくとも現時点での日本では皇居に居る皇室の人たちだけです。
最近の不特定多数の人間によるストーカーは私SSのこのブログの記事での「『左』へ釣ろうとするものである」という指摘を慮ってかワザワザ私の近隣2~3メートルの右(斜め前)に位置するところで特定のパフォーマンスを行って注意を引いたり異様な音を立てたり特定の注意を引く言葉を発したりしてストーキングを行ってきますけど、ヒトはストレスを感じると胃腸を意識するつまり何度もこのブログで説明しているように腑に落とすわけであってストーキングを行われているという被害の事実自体が被害者を「左」へ引っ張るものなんですね(このこと自体もいくつか前の記事で説明しました)。こういうのはもちろん金で使われてるわけですけど、まあ使っている人たちとその意図は今の問題とは別だとして、こういったクズ共は自分らの暴力のはけ口の一見しては正当な理由付けを求めているだけなんですね。
私が住んでいるマンションの一階下に住むモーター音や壁や天井を殴るような衝撃音によって嫌がらせをしてくる自営業の老人もそうですけど、昔の言い方で言うとヤンキーだとか珍走族だとか若いときチンピラの不良人間であったようなのがそのまま大人になって年を取ると他者に迷惑どころか危害を加えて平然と正当人ぶっているような社会的害虫になるんですね。こういったのが正当な人間ぶっていれば即刻治安の乱れという形で社会は不安定になって崩壊に向かいます。彼らもまた当時のロクでもない大人たちに酷い扱いを受けてこうなったところのものなので、ちょっと酷い言い方ではありますけど、こういったのに労働に勤しまれて金銭を稼がれると社会的に異常な損益が生じるわけです。また、当然のことながらアルバイトの単純労働能力しか持たないような人間がプライドを持って働いていられるわけがないです。当然それは高学歴その他高い能力を持った人間には見下されます。一般かそれ以上のサラリーマンのように単純以上の労働能力を持った人間に対して妬み口をきくというのがもう自分らが純粋な社会主義者ではない証なのであって、自分らが金のために働いているのではないのではないということの証です。残酷なようですけど物を思わずに他者に対して危害を加えずに単純にロボットのように作業機械として何十年の人生をまっとうしてみせる以外に彼らが自分らがその立ち位置であることの正当性を示す手段は彼らにはありません。別に誰も彼らに働くことなんか強制しません、金がもらえなくなるだけだから働くのが嫌なら働くのやめれば?という問題であるということになってしまいます。ちょっと考えればこんなことは分かることですけど、彼らのオツムというのは一体どういった低レベルな具合になっているのか私には全く理解不能です。
スーパーで食品を買う時にその横を通り過ぎた瞬間に私の左斜め前の位置にて「チシッ!」とかいう音を口から発した低身長短手短足でモジャ毛の見るも不潔なゴキブリ虫老婆とかが頻繁に現れたりするんですけど、普通は何だコイツとこういったのに対しては不審の目を向けますね。こういうのが何匹も何匹もドラクエの雑魚モンスターの如く現れると、正常な神経を持った人間であったらば、無知無能なしかも馬鹿で物を考えるオツムも無い下劣愚劣な人間的に最下等な豚肉老婆が何を勘違いして他人様に対して優位を保てると思い込んでんの?と思うことを避けられないということです。穢多です。穢多畜生がそこらへんにウロウロしてるわけです。ひょっとしたら昔ファミコンのRPGとかを最初に作った人はこういったゴミ虫みたいなのをネタにしてフィールド上にモンスターが歩き回る世界みたいなのを作ったのかも、くらいに。他人に危害を加えるその他悪事に及ぶクズは働かずにサッサと首吊って死ねということです。私はよく知りませんけど、ひょっとしたら同和だかなんだかの集団が警察にもつかまらずにそこらへんにのさばってるのかもしれません。
オタクの女にも見る限りでは面倒見の良い母ちゃん的な気の強さげで心身ともに健康な顔をした人も居ますけど、垂れ下がった目蓋のユダヤ丸出しの卑屈さでゴキブリ臭漂う見るだけで吐き気をもよおす女というのが居るんですね。父方の叔母がこの類の人間の典型なんで、子供の頃から見ていてよく分かるんですけど、他人のキャラを勝手に作って陰でコソコソコソコソ噂を流して人を貶める、まあこのオバについては顔面を見れば一発で分かるんですけど、ユダヤ人です。公の場では「ええ~私でいいのぉ~?」とひたすらにマンガの如くありきたりな偽善者ヅラを作っておきながら一枚顔面の皮を剥げば即他人に対する妬みその他汚れ物をポロポロ出してくれるというグロテクスなブタクズなんで極めて分かりやすいです。しかもこういったのに限って被害に合っている人が被害を訴えると「あの子はそんなこと言う子じゃない!」とかおホザきになるんですね。他人様のキャラを勝手に作ってそれを押し付けてまでマスターベーションにいそしむ極めて不潔で不衛生なメスブタのオバ(叔母)さんにおかれましては吐き気を覚えるほどに不快です。私SSに関して言うのならば、私は私の周辺の大人が織り成していた小さな狂った社会においてこんな事実関係について幼児期や10歳になるかならないかの年頃に告発したならばこの日本という国では社会的に抹殺されることを知っていたので当然言わなかっただけであって、私SSの人間性が今になって子供の頃から変化したというわけではないです。人格の中身のグロテスクな豚肉老婆が図に乗って優等生・正当人を演じているのを見ると反吐が出るほどの嫌悪感を覚えます。余談なエピソードですけど、親族関係で温泉旅館かどこかへ行った時、叔父が居る側でこの叔母がどういった話の流れであったか「ワタシはS君(私)派だわ~」とか言ったことがあったんですけど、その後でこの叔父が「じゃあS、みんなでお風呂へ入ろうか」と誘い、おもむろにこの叔母が裸を私に見られるのを嫌がっていたということがありました。もちろん当時思春期の少年であった私は腹黒くて性根の醜い叔母の裸体なんざ見たくないのであって迷惑千万ですし、もちろん私のプライドはこの両者によってズタズタに傷つけられているわけですが、まあこの叔父に関しては面白い演劇を見せてくれたわけであって「叔父さんやるじゃん(笑)」くらいに少年心に思いました。演劇というのはこういったことであって、不特定多数によって私が外を歩く度にストーカー行為に及んでくるそこらへんの無知無能力なチンピラがお願いだから意識してくれとばかりに見せ付けてくるその存在の根底からしてシカトされうる豚演技のことではないです(私は某自己紹介の場所に顔写真と名前をupしてこのブログへのリンクを貼ってますけど、これについて言及しているわけではないです)。
「第一の格率は、私の国の法律と習慣とに服従し、神の恩寵により幼児から教えこまれた宗教をしっかりともちつづけ、ほかのすべてのことでは、私が共に生きてゆかねばならなぬ人々のうちの最も分別ある人々が、普通に実生活においてとっているところの、最も穏健な、極端からは遠い意見にしたがって、自分を導く、ということであった。というのは、いまや私自身の意見をすべて吟味にかけようとして、それらはもはやなんと価値もないと見はじめているのであるから、最も分別ある人々の意見に従うのが最もよいと信じたのである。―後略―」
「私の第二の格率は、私の行動において、できるかぎりしっかりした、またきっぱりした態度をとることであり、いかに疑わしい意見にでも、いったんそれをとると決心した場合は、それがきわめて確実なものであ場合と同様に、変わらぬ態度で、それに従いつづけることであった。―後略―」
「私の第三の格率は、つねに運命によりもむしろ自己にうちかつことにつとめ、世界の秩序よりはむしろ自分の欲望を変えようとつとめること、そして一般的にいって、われわれが完全に支配しうるものとしてはわれわれの思想しかなく、われわれの外なるものについては、最善の努力をつくしてなおなしとげえぬことがらはすべて、われわれにとっては、絶対的に不可能である、と信ずる習慣をつけること、であった。そして、私をしてみずからが獲得しえぬものを未来に望まないようにさせ、したがって私に満足を得させるには、上のことだけで充分であると、私には思われた。―中略―しかしながら、あらゆる事物をこういう角度から見ることに慣れるためには、長い間の訓練と、たびたびくりかえされる思索とを、必要とすることは私もみとめる。そして私は、むかし運命の支配を脱して、苦痛や貧困にかかわらず、神々とその幸福を競うことのできた(ストア派の)哲学者たちの秘訣も、主としてここにあったのだと思う。というのは、かれらは自然によってかれらに課せられた多くの制限をたえず考察しつづけて、けっきょく、かれらの支配しうるものはかれらの思想しかない、ということを完全に確信するに至り、ただこのことによって、他の事物に対するあらゆる執着を脱しえたのだからである。しかしかれらはみずからの思想に対しては絶対的な支配権をもっていたのであって、この点では、たとえ生れつきと社会的地位とにおいていかにめぐまれていても、この哲学をもたず、みずからの欲するところのすべてを決してそれほど自由に支配しえぬ人々のだれよりも、かれらがみずからを、より富んでおり、より有力であり、より自由であり、より幸福でる、と考えたのは、もっともであった。」
これはデカルトの「方法序説」の第三部からの引用ですけど、一見して現実を見ていないと考えられるかのようなこのデカルトの言も異性愛ということにおいて考えるところのものならば合理的であって、どんなヤサ男でも野暮男でも野蛮男でもただ一人の愛する嫁さんが居りゃ幸せだということです。つまり無根拠に工学化された人間関係を現実的に採用するのは愚の極みであるということであって、それは特定一個人の異性(女)に対してだけにするのがベストです。マンガ的コンテクストは嫁さんへの愛としてぶつけるためにとっておくべきであって、いたずらに空気なんか読まなくていいということです。
私は先日牛乳を久しぶりに飲んだんですけど、イライラしなくなって落ち着くという形容は正確ではないところのすごく沈鬱な気分になりました。やっぱりミルクはタマるんです。そりゃ栄養や精もタマるでしょうけど、悪いものもタマります。卵なんざ恐ろしくてとても食べる気にはなりません。
Albion
2012.07.28 Saturday
健全な良い夢を。
ロンドン五輪の開会式を見たんですけど、途中の産業革命をテーマにした演劇がとても良かったです。最後のPaul Maccartneyさんの歌がとても印象的でした。
私は大学の時に何かの授業で課題を交換し合って採点するというもので女子学生に「完璧過ぎて欠点が見つからなかった」と嫌味を言われて相手が課題をこなしていないということがあったんですけど、そのいきさつを教員に説明しにいったらば同席していた男子学生がこちらを意味ありげな表情で挑発的に見ているということがあったんですけど、その時は「何だコイツ、お前らが悪いじぇねえか」と思いましたけど、今は彼の意味ありげな視線のその意味もよく分かります。というのは、おそらくこれは「やはりお前も自分がバカにされていることは分かるじゃねえか」ということであったと私は今考えるんですけど、しかしそれは私が「これは自分をバカにしているケースだ」というコンテクストを後天的に学んでいることの産物であっておそらく彼らの「分かって」いるところの「分かって」いるわけではないといことです。「分かっている」わけではなくて空気を読んでいるということです。もちろん現実的な問題としてはこんなことを行うこの女子学生と何かを勘違いしているこの男子学生が悪いに決まってはいるんですけど。
蓋然性というのは、t=1、t=2、t=3……と世界を場的に認識することの連続時間的な試みであって、一種の脅迫観念です(この説明において時間軸を設定してしまうのはおそらく間違ってますけど、説明の便宜のために時間の流れを固定しておきます)。だから例えば場の視覚映像や快感を伴った場の聴覚(映像)に思考の筋を重ね合わせて入力もしくは出力するということしかできません。思考や言説の筋を失わないように必死に場の形象にそれをタブらせていくということに大量のエネルギーと脳のメモリを使うということです。だから普通はこのような事象の認識形態であったらばヒトの能力の限界を超えて(越えて)発狂してしまいます。哲学者でこういったことを言う人が居ますけど、「世界は常に壊れ続けてきた」ということになってしまうからです。私は人の名前と顔を覚えるのが非常に得意だったりしますし、本を読むのが遅めだったりします。……私は勉強ということがどういったことなのかこの年まで理解できませんでした。勉強なんてしたことが無かったということです。全て丸暗記していました。人とのコミュニケーションにおいてもそうです。勉強の出来る人というのはおそらくあまりコミュニケーションということを意識することがありません。
場の蓋然的・客観的な認識に走りたがる人間というのは、幼児期から危機対応を学んでしまっているいたり過度の苦痛を味わいそれに対して過度の警戒心を植え付けられている、という場合が多いです。おそらく「ものわかり」というものがどういったことなのだかという理解が生まれる前の幼児期から虐待等によって必要以上に危機管理意識を植え付けられているということです。それはユダヤの人たちでも誰でも歴史上排斥されてきた人たちというのは皆こうやって最悪なやり方で作り上げられました。本当に愚かです。こういうことが無くなった現代においても、いわゆる真面目な人間というのもこれと同じであって、真面目な人間というのは種々の欲望を基本的に我慢してます。私も基本的には真面目ですけど、嫌がらせその他で異常に走ることもあります。やはり我慢・欲望の抑圧というのは、それを何らかの形で昇華させようとする行動となって表れるので(表れようとするので)、必然的に事象の客観的な認識につながります。私はそこまでオツムの程度が良い子供ではありませんでしたけど、ひょっとしたら東京大学とかへ行くとこういった蓋然的な人がある程度居るのかもしれないです。あと教授とか。
完全に世界そのものたる蓋然性を持つ人間というのは居ないので、数学の問題を回答する時にどこかで計算ミスのような細かな間違いをほぼ確実に犯してしまうというものであったり、また「必要のない情報は入れない」ということにも走りやすいわけであって、新しいものに生理的な嫌悪感を抱くことも多々あります。基本的に世界との我慢比べだったりします。だから悪徳が一滴でも垂らされていることを許容できなかったり、それこそ国家社会主義のようなイデオロギーへと傾きやすかったり、主義上は完璧主義に走ったりしやすいです。やっぱり異常と言えば異常です。
だから、不特定多数の人間によるストーカー行為でも何でも、蓋然的な人間が外部性の内部化ということにおいてストレスを感じるのはそれこそ必然です。あまりにも場違いであってそれが故意に見せ付けているものであると分かるような、「異様な紫色地のシャツと白パンをはいたおっちゃんが左手後方から追い抜いていった」とか「外へ出て計3~4km歩くだけで視界の右斜め前方に気色の悪いピンク色の服を着た人間が4度5度と現れる」とかいったことにそれについての場対応としてまず不快感を感じてしまうんですね。……まあ普通に考えても何も知らない状態で人間こんなことをやられたらば初回でビビりますけど。事象の認識の問題としてこれらの行為を「フーン、あっそ」でただ済ませられる人間というのは世界中何処を探しても居ません、うっとおしいからです。
で、この蓋然性は間違った物事についての認識の学習にも使われてしまいます。例えば、紫色だから左斜め前属性だとか、緑だから真右方向属性だとか。「属性」云々を認識してしまうのは、被害者に対して加害者たちは何百回でも何千回でも上で書いたようなことを行ってサブリミナルをかけてくるからであって、そして現実を生きていない人間というのは居ないわけでそこに現実問題の認識として「あっ、また来た」という感慨を持たざるを得ないからです。もちろんこれを精神科医に告げるとこの認知は典型的な統合失調症の症状だと言われるだけで、そしてこれがひたすら繰り返されます。物に対して人というのはそういうものであるという形でそこから何かを学ばせると同時に、不特定多数によるストーカー行為を被害者の中で正当化させ、そして同時に「(自分が)読まれている」という自覚を被害者の中に植え付けます。もちろん何度も書いているように悪いものは吐いた方がいいんですけど、今説明していることとは別の問題です。nota beneという記事でも同じようなことを書きましたけど、つまり精神科医はこれの認知が統合失調症である、人間の人間たる由縁が病気だという方向へ持って行きます、つまり巧妙に事象の認知のすり替え・不特定多数のストーカーを使って危害を加えることにより性善説から性悪説への逆転を行うわけであって、男性の患者の場合だと同属他者であるヒトのオスは全て敵であると見なせというところへ持って行きます。また、被害者において何らかの事象について気付いていること気付いていないことというのは個々の物事によって違うわけですけど、被害者が受けている被害において「全てに気付いてそれを無視しているのか」もしくは「まったく気付いていないのか」というどちらかであることに加害者は被害者(患者)を仕立て上げます。巧妙に被害者から被害の実態は残したまま被害者意識を消して都合のいいところへもっていこうとするわけです。最終的には全ての事象における二項対立を認知させるところに帰着します。私もこのブログでかなり常識はずれなことを書いてますけど、(間違ってはいないが)一般常識的にはヤバいことを吐かせるんですね。二項対立の産物と言えばそうです。……というのが不特定多数の人間によるストーカー行為に対する被害者的な解釈です。まあこれは常識的に考えるともちろん幼児に対する虐待ならぬ一般人に対する虐殺です、私はそれがどういった「治療」であるのか知ろうと努力して頑張ってますけど。
私はこの蓋然性の一言で表されるdie Krankheit(病気)が大分良くなりました。少なくとも自分が自分であることにおける無根拠な蓋然的自信というのはほとんどなくなりました。というのはこのブログにupする記事という形で自分の考えていることを形にして吐き出してしまうということもありますし、今も自分の調子に合わせて定期的には服薬している抗精神病薬ジプレキサの薬効もあります。
私もこのブログの記事であまり良くないことをも書いているのは自覚してますし、今まで人を馬鹿にする態度を基本的なものとしてとっていたということについて反省してます。で、やはりそういった他者排斥の類の心理の根底にあるのは恐怖心なんですね。恐怖心が目をくらませているということです。だからちゃんとそれを教育の場でも何でもよいので教えろというんですね、恐怖心は恐怖心であると。恐怖のあまり何が何だか分からなくなっている子供に課題を指図するだけでは、学ぶということがどういったことなのかそもそも分かっていないわけであって闇雲に落とし込んでいくという結果に帰着するだけです。分かるということがどういったことなのか分かっていないのであって、そんな人間をそうではない人間から見て何故分からないのか分からないのは当たり前です。責任を放棄する教師、育児を放棄して場合によっては子供を悪事へと走らせる愚かな親、まあ私は自分の親がこういったロクでもない人間でしたけど、本当に何を考えているんだか分かりません。自分の子供にまで虐待という形やそれが叶わないとなれば故意に幼児的演劇を行うという形で母親的役割を求める「甘え」たマザコン人間の所業です。まあ不特定多数のストーカー達もそれが幼児的演劇であるとターゲットにみなされることを前提とした上で故意に幼児的演劇を見せ付けるというやり方で注意を引くという形で攻撃してくるわけですけど。確かに「人」がストレスになる(ことに対する自覚を促す)というのはありますし、世界に居る人間自分以外の人間が悪人ばかりであるという見地から学ぶことはありますけど、やはり一般的な目線から言うと異常です。それを前提にした上で、何がどうなっているかということを子供に教えるべきであって、現実的に考えて倫理性の方が先です。目の前の現実が見えなくなる(ほどの恋)というのがあるのかもしれませんけど、事物全てが象徴と化して完全に目の前の現実を失うというのはちょっと私には理解できないところがあります。分裂病にも陽性症状というのがありますけど、いわゆる発狂すると全てが象徴と化した世界を見ることになります。
子供を育てるにおいて、行動面における母親の甘やかしとそれと相反する父親の威厳が同時にあるとなると、最悪なことになります。思想面で個々人において違うのは当たり前ですけど、少なくとも育児ということに関しては行動面では一致させておくというのが正解です。
ロンドン五輪の開会式を見たんですけど、途中の産業革命をテーマにした演劇がとても良かったです。最後のPaul Maccartneyさんの歌がとても印象的でした。
私は大学の時に何かの授業で課題を交換し合って採点するというもので女子学生に「完璧過ぎて欠点が見つからなかった」と嫌味を言われて相手が課題をこなしていないということがあったんですけど、そのいきさつを教員に説明しにいったらば同席していた男子学生がこちらを意味ありげな表情で挑発的に見ているということがあったんですけど、その時は「何だコイツ、お前らが悪いじぇねえか」と思いましたけど、今は彼の意味ありげな視線のその意味もよく分かります。というのは、おそらくこれは「やはりお前も自分がバカにされていることは分かるじゃねえか」ということであったと私は今考えるんですけど、しかしそれは私が「これは自分をバカにしているケースだ」というコンテクストを後天的に学んでいることの産物であっておそらく彼らの「分かって」いるところの「分かって」いるわけではないといことです。「分かっている」わけではなくて空気を読んでいるということです。もちろん現実的な問題としてはこんなことを行うこの女子学生と何かを勘違いしているこの男子学生が悪いに決まってはいるんですけど。
蓋然性というのは、t=1、t=2、t=3……と世界を場的に認識することの連続時間的な試みであって、一種の脅迫観念です(この説明において時間軸を設定してしまうのはおそらく間違ってますけど、説明の便宜のために時間の流れを固定しておきます)。だから例えば場の視覚映像や快感を伴った場の聴覚(映像)に思考の筋を重ね合わせて入力もしくは出力するということしかできません。思考や言説の筋を失わないように必死に場の形象にそれをタブらせていくということに大量のエネルギーと脳のメモリを使うということです。だから普通はこのような事象の認識形態であったらばヒトの能力の限界を超えて(越えて)発狂してしまいます。哲学者でこういったことを言う人が居ますけど、「世界は常に壊れ続けてきた」ということになってしまうからです。私は人の名前と顔を覚えるのが非常に得意だったりしますし、本を読むのが遅めだったりします。……私は勉強ということがどういったことなのかこの年まで理解できませんでした。勉強なんてしたことが無かったということです。全て丸暗記していました。人とのコミュニケーションにおいてもそうです。勉強の出来る人というのはおそらくあまりコミュニケーションということを意識することがありません。
場の蓋然的・客観的な認識に走りたがる人間というのは、幼児期から危機対応を学んでしまっているいたり過度の苦痛を味わいそれに対して過度の警戒心を植え付けられている、という場合が多いです。おそらく「ものわかり」というものがどういったことなのだかという理解が生まれる前の幼児期から虐待等によって必要以上に危機管理意識を植え付けられているということです。それはユダヤの人たちでも誰でも歴史上排斥されてきた人たちというのは皆こうやって最悪なやり方で作り上げられました。本当に愚かです。こういうことが無くなった現代においても、いわゆる真面目な人間というのもこれと同じであって、真面目な人間というのは種々の欲望を基本的に我慢してます。私も基本的には真面目ですけど、嫌がらせその他で異常に走ることもあります。やはり我慢・欲望の抑圧というのは、それを何らかの形で昇華させようとする行動となって表れるので(表れようとするので)、必然的に事象の客観的な認識につながります。私はそこまでオツムの程度が良い子供ではありませんでしたけど、ひょっとしたら東京大学とかへ行くとこういった蓋然的な人がある程度居るのかもしれないです。あと教授とか。
完全に世界そのものたる蓋然性を持つ人間というのは居ないので、数学の問題を回答する時にどこかで計算ミスのような細かな間違いをほぼ確実に犯してしまうというものであったり、また「必要のない情報は入れない」ということにも走りやすいわけであって、新しいものに生理的な嫌悪感を抱くことも多々あります。基本的に世界との我慢比べだったりします。だから悪徳が一滴でも垂らされていることを許容できなかったり、それこそ国家社会主義のようなイデオロギーへと傾きやすかったり、主義上は完璧主義に走ったりしやすいです。やっぱり異常と言えば異常です。
だから、不特定多数の人間によるストーカー行為でも何でも、蓋然的な人間が外部性の内部化ということにおいてストレスを感じるのはそれこそ必然です。あまりにも場違いであってそれが故意に見せ付けているものであると分かるような、「異様な紫色地のシャツと白パンをはいたおっちゃんが左手後方から追い抜いていった」とか「外へ出て計3~4km歩くだけで視界の右斜め前方に気色の悪いピンク色の服を着た人間が4度5度と現れる」とかいったことにそれについての場対応としてまず不快感を感じてしまうんですね。……まあ普通に考えても何も知らない状態で人間こんなことをやられたらば初回でビビりますけど。事象の認識の問題としてこれらの行為を「フーン、あっそ」でただ済ませられる人間というのは世界中何処を探しても居ません、うっとおしいからです。
で、この蓋然性は間違った物事についての認識の学習にも使われてしまいます。例えば、紫色だから左斜め前属性だとか、緑だから真右方向属性だとか。「属性」云々を認識してしまうのは、被害者に対して加害者たちは何百回でも何千回でも上で書いたようなことを行ってサブリミナルをかけてくるからであって、そして現実を生きていない人間というのは居ないわけでそこに現実問題の認識として「あっ、また来た」という感慨を持たざるを得ないからです。もちろんこれを精神科医に告げるとこの認知は典型的な統合失調症の症状だと言われるだけで、そしてこれがひたすら繰り返されます。物に対して人というのはそういうものであるという形でそこから何かを学ばせると同時に、不特定多数によるストーカー行為を被害者の中で正当化させ、そして同時に「(自分が)読まれている」という自覚を被害者の中に植え付けます。もちろん何度も書いているように悪いものは吐いた方がいいんですけど、今説明していることとは別の問題です。nota beneという記事でも同じようなことを書きましたけど、つまり精神科医はこれの認知が統合失調症である、人間の人間たる由縁が病気だという方向へ持って行きます、つまり巧妙に事象の認知のすり替え・不特定多数のストーカーを使って危害を加えることにより性善説から性悪説への逆転を行うわけであって、男性の患者の場合だと同属他者であるヒトのオスは全て敵であると見なせというところへ持って行きます。また、被害者において何らかの事象について気付いていること気付いていないことというのは個々の物事によって違うわけですけど、被害者が受けている被害において「全てに気付いてそれを無視しているのか」もしくは「まったく気付いていないのか」というどちらかであることに加害者は被害者(患者)を仕立て上げます。巧妙に被害者から被害の実態は残したまま被害者意識を消して都合のいいところへもっていこうとするわけです。最終的には全ての事象における二項対立を認知させるところに帰着します。私もこのブログでかなり常識はずれなことを書いてますけど、(間違ってはいないが)一般常識的にはヤバいことを吐かせるんですね。二項対立の産物と言えばそうです。……というのが不特定多数の人間によるストーカー行為に対する被害者的な解釈です。まあこれは常識的に考えるともちろん幼児に対する虐待ならぬ一般人に対する虐殺です、私はそれがどういった「治療」であるのか知ろうと努力して頑張ってますけど。
私はこの蓋然性の一言で表されるdie Krankheit(病気)が大分良くなりました。少なくとも自分が自分であることにおける無根拠な蓋然的自信というのはほとんどなくなりました。というのはこのブログにupする記事という形で自分の考えていることを形にして吐き出してしまうということもありますし、今も自分の調子に合わせて定期的には服薬している抗精神病薬ジプレキサの薬効もあります。
私もこのブログの記事であまり良くないことをも書いているのは自覚してますし、今まで人を馬鹿にする態度を基本的なものとしてとっていたということについて反省してます。で、やはりそういった他者排斥の類の心理の根底にあるのは恐怖心なんですね。恐怖心が目をくらませているということです。だからちゃんとそれを教育の場でも何でもよいので教えろというんですね、恐怖心は恐怖心であると。恐怖のあまり何が何だか分からなくなっている子供に課題を指図するだけでは、学ぶということがどういったことなのかそもそも分かっていないわけであって闇雲に落とし込んでいくという結果に帰着するだけです。分かるということがどういったことなのか分かっていないのであって、そんな人間をそうではない人間から見て何故分からないのか分からないのは当たり前です。責任を放棄する教師、育児を放棄して場合によっては子供を悪事へと走らせる愚かな親、まあ私は自分の親がこういったロクでもない人間でしたけど、本当に何を考えているんだか分かりません。自分の子供にまで虐待という形やそれが叶わないとなれば故意に幼児的演劇を行うという形で母親的役割を求める「甘え」たマザコン人間の所業です。まあ不特定多数のストーカー達もそれが幼児的演劇であるとターゲットにみなされることを前提とした上で故意に幼児的演劇を見せ付けるというやり方で注意を引くという形で攻撃してくるわけですけど。確かに「人」がストレスになる(ことに対する自覚を促す)というのはありますし、世界に居る人間自分以外の人間が悪人ばかりであるという見地から学ぶことはありますけど、やはり一般的な目線から言うと異常です。それを前提にした上で、何がどうなっているかということを子供に教えるべきであって、現実的に考えて倫理性の方が先です。目の前の現実が見えなくなる(ほどの恋)というのがあるのかもしれませんけど、事物全てが象徴と化して完全に目の前の現実を失うというのはちょっと私には理解できないところがあります。分裂病にも陽性症状というのがありますけど、いわゆる発狂すると全てが象徴と化した世界を見ることになります。
子供を育てるにおいて、行動面における母親の甘やかしとそれと相反する父親の威厳が同時にあるとなると、最悪なことになります。思想面で個々人において違うのは当たり前ですけど、少なくとも育児ということに関しては行動面では一致させておくというのが正解です。
You're showed.
2012.07.31 Tuesday
心のゲットーを取り壊すため。
私は今日自分の母親が私宛ての郵便物を勝手に封を開けて自分の部屋に保管していたところを発見し、警察に110番通報しました。一回通報してもそれから10分前後警察官の人が来なかったので、もう一度一回目とは別の電話(携帯電話)にて110番通報しました。私が警察へ110番通報したのは31年間生きてきてこれが二回目です。そして警察官が三人私の居住しているマンションの一室へと訪れ、壮年の男性警察官の人が母親の事象聴取、女性警察官が私SSの聴取を行いました。少し遅れて中年の男性警察官の人が玄関の扉から入ってきたんですけど、この警察官に
「もし仮に本人宛ての郵便物であっても、それが家族であったらば本人以外の人間が封を開けても日本の法律には違反していることにはならず、その家族の成員が罪に問われることは無い。」
と説明を受けました。
で、その私の母親が横領・保管していた私SS宛ての郵便物や書類の類の内容なんですけど、
社会保険庁交付の、
・「年金手帳」、交付年月日 平成13年 3月 19日、これが一つ。
・「みんなの国民年金」と書かれたパンフレット、「こんな時は必ず届出を!」と銘打ってある一覧に「自営業の人や学生が20歳になったとき→資格取得の届」また「保険料を納めるのが困難なとき→保険料免除の申請書」その他が記載してあるもの、これが一つ。
居住市区町村における最寄の社会保険事務所(社会保険庁)からの、
・「被保険者記録照会(未納・追納金額)」「被保険者記録照会(納付Ⅱ)」「納付記録の見方」「追納計算式(平成23年度)」「(お問い合わせいただきました) 追納申込書 (を送付します)」「国民年金保険料追納申込書」が入った、「日本年金機構」のロゴと名前が記載されている最寄の市区町村の年金事務所の国民年金課から発送されたという記載のある封が開けられた封筒が一つ。
・「親展 国民年金保険料納付書在中」と記載されている封の開けられた封筒、これが1通。
・「親展」のマークが付いた剥がして見るべくシールで中身が封印されていた開封済みのハガキ、これが11枚。
・「親展」のマークが付いた剥がして見るべくシールで中身が封印されていた開封済みのハガキでハガキ三面分あるものが破り取られて納付状況が記載されている一枚分だけになっているもの、これが1枚。
・「社会保険事務所から国民年金の大切なお知らせです」と記載された何らかの書面に封として貼付されていた静電気式シールの上辺の部分。シールが剥がされた本書の部分は見つからず。これが1枚。
・「社会保険料国民年金保険料 控除証明書」のハガキ一枚分にそこから破られたもの1枚と同じ名称が銘打ってあるもののコピーらしきもの1枚がステイプラーで閉じられたセットになったもの、2組。
・神奈川社会保険事務局 年金課 国民年金係 「国民年金からのお知らせです」と記入された封筒。
・神奈川社会保険事務局 年金課 国民年金係 「国民年金保険料納付書 在中」と記入された封筒。
・「全国大学生活協同組合連合会共済センター」「大学生協の 学生総合共済」からの、「(保険料控除申告用)共済掛金払込証明書 在中」と記載された封の開けられた封筒が2通。これについては宛名は私の父親になってます。
「自動車安全運転センター 東京都事務所」からの、
・「無事故・無違反の達成おめでとうございます。」と記載された私SSが卒業した自動車教習所長(自動車練習所長)の銘が打ってある用紙。
・「無事故・無違反にチャレンジして『SDカード』を!」と記載された、自動車安全運転センター東京都事務所からのSDカード申し込み方法その他が記載された用紙。
・上記のSDカードの所持によって得られる特典について説明がなされたパンフレット。
・「平成15年6月4日 現在過去の5年間の記録は、上記のとおり(無事故・無違反)であることを証明します。 平成15年6月6日 自動車安全運転センター 東京都事務所長」と記載されその横に「自動車安全運転センター 東京都事務所長」の印が押された運転記録証明書。
以上が封入された「重要書類」と銘打ってある封の開けられた封筒、1通。私SSが自動車の運転免許を取得したのは平成14年(2002年)の春であって、その翌年の6月にこの通知が届いているはずですけど、私がこれの存在を知ったのは10年後の本日平成24年(2012年)7月31日です。
以上です。私がこれら上記のものの存在を知ったのは平成24年(2012年)7月31日です。この場合に警察110番通報するというのは一見しては間違っているどころか意味が無いものにも思えますけど、後日法律の専門家に相談する等のこととは別として、きちんと第三者に見てもらって場合によっては何らかの証拠として残しておいてもらった方がいいです。
「被保険者記録照会(未納・追納金額)」「被保険者記録照会(納付Ⅱ)」「納付記録の見方」「追納計算式(平成23年度)」「(お問い合わせいただきました) 追納申込書 (を送付します)」「国民年金保険料追納申込書」については、「免除をご利用いただいた月から数えて10年以内が最終支払期限となります」と記載してあり、初回の未納分が発生しているのが私が大学二年生で20歳であった平成13年(2001年)なので、今となっては私SSはもはや未納分を収めることすらできません。この封筒の中には「国民年金保険料追納申込書」が入っていたことから、おそらく私SSの父親か母親が私SSの意思表示としての行為であるように見せかけるためその理由付けとしてこれを取り寄せた上で納入しないということを故意に行った可能性が高いです、予想ですけど。「被保険者記録照会(未納・追納金額)」には平成13年度から平成23年度までの追納金額がリストになって載っています。
どう考えても私SSは危害を加えられているんですけど、上記の出来事についてこのように考え知ることを統合失調症の症状であるとヌカした東京都新宿区船町にて精神科クリニックを営んでいた元精神科医N田四Rは極悪人です。
これが犯罪ではないというのはどういったことなんですかね?私も自分の親についてこんなことを書きたくはないんですけど、こんな悪質な犯罪者が捕まらないというのは一体どうなっているんですかねこの日本という国は?
これは私の予想ですけど、下手をすると、私SSに対して騒音その他にて嫌がらせを行い同時に私SSの名前で警察に通報を行っていたクズが居るかもしれないくらいには思います。というのは、私が本日母親にこの犯罪行為について問い詰めてシラを切手のらりくらり言い訳をして言い逃れをするので、「いい加減110番するぞ」と私が言ったところ、「そういうことやりたいんだったらやれば?アンタなんかまたコイツかと思われるだけだから」とこの母親が答えたので、「ははあ」と思ったところのものです。
こういった連中の言い分というよりはやり分というのは、上辺だけのあまやかしその他によってターゲットを堕落させておいて「左」へ釣っておいてそしてその現象面だけを第三者に鑑みさせて「やはり人間放っておくとこうなるから、締め付けが必要だ」という社会的コンテクストを捏造しようとするのがそもそもの目的であるということです。前世紀はおそらく反アメリカがどうとかユダヤがどうとか逆にロシアがどうとかそういった単純な理解の仕方で済む問題として教えられていたんですけど、そうではなくて放火魔属性を持った悪党というのが居るということです、特定のなんとか集団としては定義され得ない。これが歴史上カトリック教会であるとかそういった単純なものの見方もできるといえばできます、神父さんや坊さんは神サマではないですから。人間差別されればそれはエネルギーになります、が、そこで無闇なうわべだけの異性愛に走ったらば社会的低層の人口を増やそうとする悪質な人間たちの思うツボです。
いわゆるワルが如何にして火を付けられてワルにされていくかということなんですけど、「能力の低い者が排斥されることはあるが、能力の高い者が排斥されることは無い」というこの東大法学部的な発想は現実に何が行われているかについて無知であるかもしくは馬鹿のそれであり、これを著書の中で言っていた中島義道さんは少なくともこれに関してはペテン師です、たぶん。まあ、禍を巻き起こすカルマなことを出版物には書かないと出版社から許可が下りないとかいうことなのかもしれないですけど、本音でこれが真実だとして書いているのなら大馬鹿です。能力の高い者こそ率先して潰されていく、というのが人間関係が工学化された前世紀までのこの日本という国にまつわる一部の現実でした。つまりごく少数の理想像からした他の人間は左なり下なりへと蹴落とされ追いやられていくというのが実態でした、教育を施す立場の大人が子供に対してそうやるんですから。私が通った大学には阪大の人でやたらと東大と官僚をこきおろす教授が居たんですけど、地方の公立高校とかから来る人の場合は学級委員的というか下がどうやって下たらしめられているのか全く理解していない人がおそらくほとんどだったんですね。もしくは汚いやり方でお試験の点数はよろしくなくても成績だけは取るのとか。
私は13歳の中学二年の時から、母親が買ってくる近くの自称生協だか自称生活クラブだかの加工食品を食べさせられていたんですけど、これは食品添加物未使用を歌い文句に粗悪な品を高値で販売しているという馬鹿丸出しの、利用者がまるで居るかのように見せかける、というのはまあ置いておいて、ともかくそういった物を売っていた場所なんですけど、ここで販売されている食品には「遺伝子組み換え作物NO!」とか「GM対策済み」(?)とかいった記載してあるんですね。私がここのものを食べさせられてから一般のスーパーでも「遺伝子組み換え作物は使用しておりません」という記載がされた食品が売り出されるようになりましたけど、「遺伝子組み換え作物NO!」という表示だけでは「当該商品に遺伝子組み換え作物は使用していない」という意味にはならないんですね。
私の父親は当初ここの食品を母親が購入してくることに反対していましたけど、実力で母親に止めさせようとはしなかったところを考えると、この私の父親が母親に演劇を強要していた可能性もあります。だからまあ私の母親もあわれなピエロを子供の前で演じさせられていただけであるという可能性もあります、今となっては分かりませんしどうでもいいですけど。何度も書きたくはないんですけど、私の父親は大手マスコミ新聞関係者であって人を脅して第三者から見たところでの悪事を第二者に対して行わせその罪を全て第二者になすり付けるということを平気で行うマンガに出てくるお笑いどころでは済まない悪役かと思われることもやる人間です。平気でカネを使って圧力でも何でも掛けて来ます。私はこんなものの圧力には屈しませんけど。このブログの記事とて私が暴力に対する正当防衛の内容を書くとマンション屋外でバイクや暴走車が騒音を鳴らして威嚇して脅してきます。一体この日本という国がどれだけ犯罪者天国になっているのか全く理解不能です。私がこれから先どれだけ生きるか分かりませんけど、今後私の一生涯数十年に渡ってこういった連中は嫌がらせや脅しを行ってくるでしょう。これはこのブログを書き始めてからどうこうということではなくて、何年も前、下手をすれば私がそれをそれと意識していなかっただけで十何年も前から行われていたことです。一見仲良さげな風を装ってくるチンピラも居ますけど、被害者が自己防衛に及ぼうとするその瞬間に当該の被害者が被害者でないことを脅迫・媚びその他どんな手段を使用してでも無根拠に前提にして設定してコミュニケーションに及ぶというやり方でそれがまるでその人のその人たる人格ではないかのような扱いを急激に始めてそうやって自己防衛能力を封じて被害者を被害者もしくは最悪の場合は加害者に「していく」ということです。それが攻撃であるとは分からないように攻撃して、ある程度のところでその攻撃が攻撃であることをターゲットに知らしめてターゲットを被害者であると同時に加害者にも仕立て上げていくというやり方です。
私SSはそうであるとは偉そうなことを言うことはできませんし、それは素行の良さでも知能の高さでも学校の勉強の出来具合でもいいんですけど、社会的にプラスの評価を得ている人間を潰すもしくはマイナスの属性を付与して生かしておくというやり方で既存の価値度量衡を否定することによって、誰が得をするのかということです。単刀直入に言えば、知的障害の人であったり病的なケースを除いて、「素行の良さでも知能の高さでも学校の勉強の出来具合でも既存のプラス要素の計られ具合によってプラス要素が少ない」と判断された人間たちです。自分たちのマイナスであるとの数学的な判断を覆す為に被差別民族を作ろうとする連中ですね。私は基本的にはユダヤがどうとか同和がどうとか朝鮮の人たちがどうとか言うのは嫌いであって、仮に言う場合があっても好きで言っているわけではないです。
一年くらい前までは外を歩いていてよく見たんですけど、全身黒ずくめの服を着ながら母親と一緒に外を歩きその母親に対して何かを幼稚園児語でひたすらしゃべっている人というのが居ました。私は自分の母親に「あの人は知的障害である」と聞かされていました。で、何ヶ月か前にその知的障害者であるはずの人が全く違った雰囲気でスーパーで一人で平然と買い物をしているのを見ました。だから母親役と息子の知的障害者役の「見せかけ」だったということです。まあ絶句するほどの悪質さです。知的障害者の人が知的障害者であるということについてではなくて、あまりにその演技がかった演出されたところの幼児性に不審感というよりは違和感を覚えてはいましたけど。一般的には知的障害の人がこんな場合であることは無いですけど、むしろ知的障害者というのはそういったものであるというコンテクストをそれが私SSであっても別の人であっても植え付けようとしているこれについては悪質な演劇人であるということです。もちろん私は自分の母親にはこんなことは問い詰めてはいません、あまりに小学生的な豚々しい嘘ホザきであっていちいち尋ねるのも馬鹿馬鹿しい上にそうしたところでしらばっくれるのが目に見えているからです。
生きている人間を皆例外なく大切にするというのは、「人間は万物の霊長である」という考え方に基づいてます。生まれたからにはどの人間も世界に存する汚れを吸い取って浄化するのであるということであり、よって能力や性別の如何を問わず人間は皆大切にされるべきであると考えられ、どのような人命でも尊重されねばならないということです。日本の義務教育ではこんなことは教わらないので私もずっと知りませんでしたけど、寺や教会にてお坊さんや神父さんの話しを聞きにいった時、こういった話しをしてもらいました。私個人の意見としては飢餓や貧困で苦しんでいる人たちに無理して生きろなんてことは言えないだろうということなんですけど、人間として生まれたからには汚れを浄化する万物の霊長たるものその命を尊重されねばならないということであって、これはキリスト教でも他のどの宗教でも同じことです。
私は今日自分の母親が私宛ての郵便物を勝手に封を開けて自分の部屋に保管していたところを発見し、警察に110番通報しました。一回通報してもそれから10分前後警察官の人が来なかったので、もう一度一回目とは別の電話(携帯電話)にて110番通報しました。私が警察へ110番通報したのは31年間生きてきてこれが二回目です。そして警察官が三人私の居住しているマンションの一室へと訪れ、壮年の男性警察官の人が母親の事象聴取、女性警察官が私SSの聴取を行いました。少し遅れて中年の男性警察官の人が玄関の扉から入ってきたんですけど、この警察官に
「もし仮に本人宛ての郵便物であっても、それが家族であったらば本人以外の人間が封を開けても日本の法律には違反していることにはならず、その家族の成員が罪に問われることは無い。」
と説明を受けました。
で、その私の母親が横領・保管していた私SS宛ての郵便物や書類の類の内容なんですけど、
社会保険庁交付の、
・「年金手帳」、交付年月日 平成13年 3月 19日、これが一つ。
・「みんなの国民年金」と書かれたパンフレット、「こんな時は必ず届出を!」と銘打ってある一覧に「自営業の人や学生が20歳になったとき→資格取得の届」また「保険料を納めるのが困難なとき→保険料免除の申請書」その他が記載してあるもの、これが一つ。
居住市区町村における最寄の社会保険事務所(社会保険庁)からの、
・「被保険者記録照会(未納・追納金額)」「被保険者記録照会(納付Ⅱ)」「納付記録の見方」「追納計算式(平成23年度)」「(お問い合わせいただきました) 追納申込書 (を送付します)」「国民年金保険料追納申込書」が入った、「日本年金機構」のロゴと名前が記載されている最寄の市区町村の年金事務所の国民年金課から発送されたという記載のある封が開けられた封筒が一つ。
・「親展 国民年金保険料納付書在中」と記載されている封の開けられた封筒、これが1通。
・「親展」のマークが付いた剥がして見るべくシールで中身が封印されていた開封済みのハガキ、これが11枚。
・「親展」のマークが付いた剥がして見るべくシールで中身が封印されていた開封済みのハガキでハガキ三面分あるものが破り取られて納付状況が記載されている一枚分だけになっているもの、これが1枚。
・「社会保険事務所から国民年金の大切なお知らせです」と記載された何らかの書面に封として貼付されていた静電気式シールの上辺の部分。シールが剥がされた本書の部分は見つからず。これが1枚。
・「社会保険料国民年金保険料 控除証明書」のハガキ一枚分にそこから破られたもの1枚と同じ名称が銘打ってあるもののコピーらしきもの1枚がステイプラーで閉じられたセットになったもの、2組。
・神奈川社会保険事務局 年金課 国民年金係 「国民年金からのお知らせです」と記入された封筒。
・神奈川社会保険事務局 年金課 国民年金係 「国民年金保険料納付書 在中」と記入された封筒。
・「全国大学生活協同組合連合会共済センター」「大学生協の 学生総合共済」からの、「(保険料控除申告用)共済掛金払込証明書 在中」と記載された封の開けられた封筒が2通。これについては宛名は私の父親になってます。
「自動車安全運転センター 東京都事務所」からの、
・「無事故・無違反の達成おめでとうございます。」と記載された私SSが卒業した自動車教習所長(自動車練習所長)の銘が打ってある用紙。
・「無事故・無違反にチャレンジして『SDカード』を!」と記載された、自動車安全運転センター東京都事務所からのSDカード申し込み方法その他が記載された用紙。
・上記のSDカードの所持によって得られる特典について説明がなされたパンフレット。
・「平成15年6月4日 現在過去の5年間の記録は、上記のとおり(無事故・無違反)であることを証明します。 平成15年6月6日 自動車安全運転センター 東京都事務所長」と記載されその横に「自動車安全運転センター 東京都事務所長」の印が押された運転記録証明書。
以上が封入された「重要書類」と銘打ってある封の開けられた封筒、1通。私SSが自動車の運転免許を取得したのは平成14年(2002年)の春であって、その翌年の6月にこの通知が届いているはずですけど、私がこれの存在を知ったのは10年後の本日平成24年(2012年)7月31日です。
以上です。私がこれら上記のものの存在を知ったのは平成24年(2012年)7月31日です。この場合に警察110番通報するというのは一見しては間違っているどころか意味が無いものにも思えますけど、後日法律の専門家に相談する等のこととは別として、きちんと第三者に見てもらって場合によっては何らかの証拠として残しておいてもらった方がいいです。
「被保険者記録照会(未納・追納金額)」「被保険者記録照会(納付Ⅱ)」「納付記録の見方」「追納計算式(平成23年度)」「(お問い合わせいただきました) 追納申込書 (を送付します)」「国民年金保険料追納申込書」については、「免除をご利用いただいた月から数えて10年以内が最終支払期限となります」と記載してあり、初回の未納分が発生しているのが私が大学二年生で20歳であった平成13年(2001年)なので、今となっては私SSはもはや未納分を収めることすらできません。この封筒の中には「国民年金保険料追納申込書」が入っていたことから、おそらく私SSの父親か母親が私SSの意思表示としての行為であるように見せかけるためその理由付けとしてこれを取り寄せた上で納入しないということを故意に行った可能性が高いです、予想ですけど。「被保険者記録照会(未納・追納金額)」には平成13年度から平成23年度までの追納金額がリストになって載っています。
どう考えても私SSは危害を加えられているんですけど、上記の出来事についてこのように考え知ることを統合失調症の症状であるとヌカした東京都新宿区船町にて精神科クリニックを営んでいた元精神科医N田四Rは極悪人です。
これが犯罪ではないというのはどういったことなんですかね?私も自分の親についてこんなことを書きたくはないんですけど、こんな悪質な犯罪者が捕まらないというのは一体どうなっているんですかねこの日本という国は?
これは私の予想ですけど、下手をすると、私SSに対して騒音その他にて嫌がらせを行い同時に私SSの名前で警察に通報を行っていたクズが居るかもしれないくらいには思います。というのは、私が本日母親にこの犯罪行為について問い詰めてシラを切手のらりくらり言い訳をして言い逃れをするので、「いい加減110番するぞ」と私が言ったところ、「そういうことやりたいんだったらやれば?アンタなんかまたコイツかと思われるだけだから」とこの母親が答えたので、「ははあ」と思ったところのものです。
こういった連中の言い分というよりはやり分というのは、上辺だけのあまやかしその他によってターゲットを堕落させておいて「左」へ釣っておいてそしてその現象面だけを第三者に鑑みさせて「やはり人間放っておくとこうなるから、締め付けが必要だ」という社会的コンテクストを捏造しようとするのがそもそもの目的であるということです。前世紀はおそらく反アメリカがどうとかユダヤがどうとか逆にロシアがどうとかそういった単純な理解の仕方で済む問題として教えられていたんですけど、そうではなくて放火魔属性を持った悪党というのが居るということです、特定のなんとか集団としては定義され得ない。これが歴史上カトリック教会であるとかそういった単純なものの見方もできるといえばできます、神父さんや坊さんは神サマではないですから。人間差別されればそれはエネルギーになります、が、そこで無闇なうわべだけの異性愛に走ったらば社会的低層の人口を増やそうとする悪質な人間たちの思うツボです。
いわゆるワルが如何にして火を付けられてワルにされていくかということなんですけど、「能力の低い者が排斥されることはあるが、能力の高い者が排斥されることは無い」というこの東大法学部的な発想は現実に何が行われているかについて無知であるかもしくは馬鹿のそれであり、これを著書の中で言っていた中島義道さんは少なくともこれに関してはペテン師です、たぶん。まあ、禍を巻き起こすカルマなことを出版物には書かないと出版社から許可が下りないとかいうことなのかもしれないですけど、本音でこれが真実だとして書いているのなら大馬鹿です。能力の高い者こそ率先して潰されていく、というのが人間関係が工学化された前世紀までのこの日本という国にまつわる一部の現実でした。つまりごく少数の理想像からした他の人間は左なり下なりへと蹴落とされ追いやられていくというのが実態でした、教育を施す立場の大人が子供に対してそうやるんですから。私が通った大学には阪大の人でやたらと東大と官僚をこきおろす教授が居たんですけど、地方の公立高校とかから来る人の場合は学級委員的というか下がどうやって下たらしめられているのか全く理解していない人がおそらくほとんどだったんですね。もしくは汚いやり方でお試験の点数はよろしくなくても成績だけは取るのとか。
私は13歳の中学二年の時から、母親が買ってくる近くの自称生協だか自称生活クラブだかの加工食品を食べさせられていたんですけど、これは食品添加物未使用を歌い文句に粗悪な品を高値で販売しているという馬鹿丸出しの、利用者がまるで居るかのように見せかける、というのはまあ置いておいて、ともかくそういった物を売っていた場所なんですけど、ここで販売されている食品には「遺伝子組み換え作物NO!」とか「GM対策済み」(?)とかいった記載してあるんですね。私がここのものを食べさせられてから一般のスーパーでも「遺伝子組み換え作物は使用しておりません」という記載がされた食品が売り出されるようになりましたけど、「遺伝子組み換え作物NO!」という表示だけでは「当該商品に遺伝子組み換え作物は使用していない」という意味にはならないんですね。
私の父親は当初ここの食品を母親が購入してくることに反対していましたけど、実力で母親に止めさせようとはしなかったところを考えると、この私の父親が母親に演劇を強要していた可能性もあります。だからまあ私の母親もあわれなピエロを子供の前で演じさせられていただけであるという可能性もあります、今となっては分かりませんしどうでもいいですけど。何度も書きたくはないんですけど、私の父親は大手マスコミ新聞関係者であって人を脅して第三者から見たところでの悪事を第二者に対して行わせその罪を全て第二者になすり付けるということを平気で行うマンガに出てくるお笑いどころでは済まない悪役かと思われることもやる人間です。平気でカネを使って圧力でも何でも掛けて来ます。私はこんなものの圧力には屈しませんけど。このブログの記事とて私が暴力に対する正当防衛の内容を書くとマンション屋外でバイクや暴走車が騒音を鳴らして威嚇して脅してきます。一体この日本という国がどれだけ犯罪者天国になっているのか全く理解不能です。私がこれから先どれだけ生きるか分かりませんけど、今後私の一生涯数十年に渡ってこういった連中は嫌がらせや脅しを行ってくるでしょう。これはこのブログを書き始めてからどうこうということではなくて、何年も前、下手をすれば私がそれをそれと意識していなかっただけで十何年も前から行われていたことです。一見仲良さげな風を装ってくるチンピラも居ますけど、被害者が自己防衛に及ぼうとするその瞬間に当該の被害者が被害者でないことを脅迫・媚びその他どんな手段を使用してでも無根拠に前提にして設定してコミュニケーションに及ぶというやり方でそれがまるでその人のその人たる人格ではないかのような扱いを急激に始めてそうやって自己防衛能力を封じて被害者を被害者もしくは最悪の場合は加害者に「していく」ということです。それが攻撃であるとは分からないように攻撃して、ある程度のところでその攻撃が攻撃であることをターゲットに知らしめてターゲットを被害者であると同時に加害者にも仕立て上げていくというやり方です。
私SSはそうであるとは偉そうなことを言うことはできませんし、それは素行の良さでも知能の高さでも学校の勉強の出来具合でもいいんですけど、社会的にプラスの評価を得ている人間を潰すもしくはマイナスの属性を付与して生かしておくというやり方で既存の価値度量衡を否定することによって、誰が得をするのかということです。単刀直入に言えば、知的障害の人であったり病的なケースを除いて、「素行の良さでも知能の高さでも学校の勉強の出来具合でも既存のプラス要素の計られ具合によってプラス要素が少ない」と判断された人間たちです。自分たちのマイナスであるとの数学的な判断を覆す為に被差別民族を作ろうとする連中ですね。私は基本的にはユダヤがどうとか同和がどうとか朝鮮の人たちがどうとか言うのは嫌いであって、仮に言う場合があっても好きで言っているわけではないです。
一年くらい前までは外を歩いていてよく見たんですけど、全身黒ずくめの服を着ながら母親と一緒に外を歩きその母親に対して何かを幼稚園児語でひたすらしゃべっている人というのが居ました。私は自分の母親に「あの人は知的障害である」と聞かされていました。で、何ヶ月か前にその知的障害者であるはずの人が全く違った雰囲気でスーパーで一人で平然と買い物をしているのを見ました。だから母親役と息子の知的障害者役の「見せかけ」だったということです。まあ絶句するほどの悪質さです。知的障害者の人が知的障害者であるということについてではなくて、あまりにその演技がかった演出されたところの幼児性に不審感というよりは違和感を覚えてはいましたけど。一般的には知的障害の人がこんな場合であることは無いですけど、むしろ知的障害者というのはそういったものであるというコンテクストをそれが私SSであっても別の人であっても植え付けようとしているこれについては悪質な演劇人であるということです。もちろん私は自分の母親にはこんなことは問い詰めてはいません、あまりに小学生的な豚々しい嘘ホザきであっていちいち尋ねるのも馬鹿馬鹿しい上にそうしたところでしらばっくれるのが目に見えているからです。
生きている人間を皆例外なく大切にするというのは、「人間は万物の霊長である」という考え方に基づいてます。生まれたからにはどの人間も世界に存する汚れを吸い取って浄化するのであるということであり、よって能力や性別の如何を問わず人間は皆大切にされるべきであると考えられ、どのような人命でも尊重されねばならないということです。日本の義務教育ではこんなことは教わらないので私もずっと知りませんでしたけど、寺や教会にてお坊さんや神父さんの話しを聞きにいった時、こういった話しをしてもらいました。私個人の意見としては飢餓や貧困で苦しんでいる人たちに無理して生きろなんてことは言えないだろうということなんですけど、人間として生まれたからには汚れを浄化する万物の霊長たるものその命を尊重されねばならないということであって、これはキリスト教でも他のどの宗教でも同じことです。
rocaille
2012.08.04 Saturday
人柱癖。
石ころだらけの礫土に生きている。
摂取カロリーイコール栄養だという馬鹿なことを言う人が居たりするんですけど、カロリー比における栄養価が高い食べ物というのは牛乳とかですけど、ファストフード等の高カロリー低栄養価な食べ物というのも多々存在します。脂のたっぷりのった牛や豚や鶏の肉なんか食べるよりはマシでしょうけど。油分なんてそこらへんの乾いた食べ物とか植物にも適量含まれてるんで、動物の脂身等を摂取することほど馬鹿馬鹿しいことは無いです。南北戦争の以前、奴隷制の下にあったアメリカでは、黒人の奴隷の人たちは豚の脂身なんかを一日3000~4000キロカロリー分程度食べさせられていたそうです、栄養価なんざ無視で。最悪です。近年だいぶん良くなってる気がありますけど、少し前までの現代日本人も高カロリー低栄養価の食品を食べる傾向がそれなりに高かったです。10年か20年かの前テレビのニュース番組か何かでやってたのを覚えてるんですけど、「沖縄の海は六十年前に比べて汚くなった」と言う沖縄で漁猟を行う老人の話がドキュメントされてました。日本の国土から栄養が海に流れ出してしまっているというメタファーだと考えるとそれなりに納得がいくものでもあります。
知的減弱が認められない統合失調症患者に典型的に観察されるケースとしては、記憶力が良い、ハードディスクの容量も大きくreadやwriteのスピードもよろしいしメモリの性能もよろしいしCPUの性能も高い、と来てどこが異常であるのかというとマザーボードが若くしてもはやガタガタボロボロであるというオチがあったりします。肉体から病んでいるというわけで、肉体を病む方向を志向することを強迫観念的に抱いているということです。私の場合も、私の親が私に子供の頃から酷いものを食べさせ、またストレスをいたずらに与えてきたせいで、もう私はベースとなる肉体がかなり老化してます、というか子供の頃から既にボロボロに病んだ肥満体の異常体型でした。タニタのいろいろな機能が付いた体重計で体内年齢というのを計ったらば、実年齢が31歳であるのに対して体内年齢が54歳と出ました。
そもそも人間に必然的に備わっているそのものわかりの能力を潰すもしくは分かるということがどういったことなのかを学ばせないというやり方で虐待を行って、後天的に何らかの具体的定義を与えることでそれまでに被害者が加えられた被害を無かったことにしてしまうという悪質な危害の加え方があります。精神科医は統合失調症と診断した人間に対してちゃんと投薬治療というやり方で治療をしてくれるのでいいですけど、私SSが被害に遭った竜頭万里子という一個人を自称する究極のエニアグラムとやらの性格レッテル貼りはこの悪質なものの典型です。というか釣りそのものです、日本のマスコミとのタグがそこにありましたけど。もちろん悪いことを行えば悪いことになるのはその加害者当人であって、別にどうでもいいんですけど、あまりにやられ具合の度が過ぎると私SSのようになってしまいます。痛みを伴わないとものを覚えることができないという自分が知らないものに対して興味を持つことの無い精神がそこで出来上がってしまいます。蓋然性というのは場を母国語的に学んでくということであり、だからあまりに蓋然的たる物事の学習の仕方に取り付かれていると当然新規なものはストレスになって何を行うにも過度のストレスがそこに発生して苦しくなるわけです。これは「知る」という行為ではないわけなので。これはたぶん現代の医学ではヒトにおける統合失調症の典型的な症状として観察されます。
そういった苦痛を身に焼き付ける異常精神から得られる身体感覚の持ち主としての経験から言うと、統合失調症は十日でも二週間でも何も食べずに抗精神病薬だけ服薬していればたぶん治ります。超人的な精神力がないと何も食べずにそこまで持たないでしょうけど。主に使用されるのはジプレキサかリスパダールでしょうけど、自分に合う方を選べば良いです。私の場合は、ジプレキサが合うとは言い難いですけど、リスパダールは全く合いません。ちなみに抗精神病薬リスパダールは先の記事で書いたように強烈な薬効により造意的な「右への引っ張られ」が生じ(て思考・行動は当然今までのようには出来ず不安定になり)ますけど、糖尿病のリスクが高まります。インシュリンの分泌が悪くなるということです。リスパダールを定期的に服薬する場合は必ず医師に申告して血液検査その他を定期的に行ってもらわないとダメです、というかまともな医師はきちんとリスパダールを投薬するにあたって血糖の量を計るべくきちんと血液検査を行います。ちょっと私の我流の説明の仕方を織り交ぜてしまって分かりにくくて申し訳ないんですけど、高血糖状態を改善するインシュリンは「左」へ引っ張りまた「左」へひっぱられることで分泌される証だと考えると妥当です。食後や糖分を摂取した後にリラックスしてボヤボヤしている感覚を想像してもらうと分かりやすいです。あとこのインシュリンというのは膵臓のランゲルハンス島という内分泌細胞の群れから分泌されます。Paul Langerhansさんが発見した。ハンスですHans。HansというのはJohannesの略称で、「奴さん(やっこさん)」とか「間抜けの熊さん」といった意味合いがあります。「キリスト教社会の中心には罪人が居る」というのは誰かの言った有名な定説ですけど、日本語キーボードの真ん中の位置には「H」と「J」そして「く」「ま」とあります。……森のクマさん、原子力発電所とか。
パスカルは基本的に人間を善と悪や左と右の「中間者」として、どちらでもあるもの、肉の穢れを許容してその中態であるとしている気が強いです。逆に、という言い回しがおかしいのは以下で説明しますけど、デカルトのものもそうですし禅僧だとかのそれに観察されるようにいわゆる「東洋の神秘」というのは無我の境地にいたり全てに溶け込む、そういったキリスト教的な見地からするとナザレのイエスさん以外に完全な者は居ないはずなのにジャンヌダルクをやってしまう一種悪魔的なものであると考えざるをえないものです。別に東洋人全てが東洋の神秘の境地にいるわけではない、むしろそれこそその逆ですけど。左か右かの二者択一のうちそれを拒否して中道をとるというのと、無我もしくは知に溶け込む(可算名詞の複数形たるアニムス、右の定常点)というのは違います。
「煉獄の最大の苦しみは、審判の不確定ということである。」とパスカルは言ってますけど、この前に「あらゆる状態は~」とあって、まあこの価値意識に従えばすべてこの世煉獄といったところです。
事象の認知において、それと五感との間に新たに「空気」を設定してそれを自己によってgelesenされたものとして扱わなければならない、というのは、事象の認知が不可能だということであり、世界が分裂している証です。このような仕方でしか物事を理解できないとあらば、嫌な思い出も良い思い出も忘れることができないつまり記憶を失っていくことができないということであって地獄です、発狂します。しかしやはり印欧語圏(主にキリスト教圏)の人間は基本的に契約関係の中に生きてます。契約関係を取り交わすことについて拝金主義を連想するのは間違っているのであって、契約というのは「自分が行われて嫌なことは他人に対しても行わない」という前提のもとに成り立ってます、が、これに飲まれると物事見えなくなってcommunicationizedされてしまうということです。沸騰直前止めで男戦士を釣ることをプログラミングされてしまった、哀れなブリュンヒルデのようなvalkyrieな人も居るというわけです。私は個人的な人間関係でよくやられましたけど、ギャグとかのネタにされたりするわけであってさらにはそれに乗り返したりのコミュニケーションとか。あまり良いものではないです。あと私は西洋人とは会話をするのは平気ですけど、日本人が相手だとやはり初対面の人の場合緊張したり警戒して敵がい心を抱いたりします。
communicationizedされた、快楽を半ば無意識的に主義にしてしまっている人間というのは常に楽しいです。だから「これが楽しみで生きてきたけど……」という発想は、別に、彼らが楽しみというものを全くただの一度も知らないというわけではなく、彼らには通じません。彼らもまた地獄の中を生きてます、おそらく。
石ころだらけの礫土に生きている。
摂取カロリーイコール栄養だという馬鹿なことを言う人が居たりするんですけど、カロリー比における栄養価が高い食べ物というのは牛乳とかですけど、ファストフード等の高カロリー低栄養価な食べ物というのも多々存在します。脂のたっぷりのった牛や豚や鶏の肉なんか食べるよりはマシでしょうけど。油分なんてそこらへんの乾いた食べ物とか植物にも適量含まれてるんで、動物の脂身等を摂取することほど馬鹿馬鹿しいことは無いです。南北戦争の以前、奴隷制の下にあったアメリカでは、黒人の奴隷の人たちは豚の脂身なんかを一日3000~4000キロカロリー分程度食べさせられていたそうです、栄養価なんざ無視で。最悪です。近年だいぶん良くなってる気がありますけど、少し前までの現代日本人も高カロリー低栄養価の食品を食べる傾向がそれなりに高かったです。10年か20年かの前テレビのニュース番組か何かでやってたのを覚えてるんですけど、「沖縄の海は六十年前に比べて汚くなった」と言う沖縄で漁猟を行う老人の話がドキュメントされてました。日本の国土から栄養が海に流れ出してしまっているというメタファーだと考えるとそれなりに納得がいくものでもあります。
知的減弱が認められない統合失調症患者に典型的に観察されるケースとしては、記憶力が良い、ハードディスクの容量も大きくreadやwriteのスピードもよろしいしメモリの性能もよろしいしCPUの性能も高い、と来てどこが異常であるのかというとマザーボードが若くしてもはやガタガタボロボロであるというオチがあったりします。肉体から病んでいるというわけで、肉体を病む方向を志向することを強迫観念的に抱いているということです。私の場合も、私の親が私に子供の頃から酷いものを食べさせ、またストレスをいたずらに与えてきたせいで、もう私はベースとなる肉体がかなり老化してます、というか子供の頃から既にボロボロに病んだ肥満体の異常体型でした。タニタのいろいろな機能が付いた体重計で体内年齢というのを計ったらば、実年齢が31歳であるのに対して体内年齢が54歳と出ました。
そもそも人間に必然的に備わっているそのものわかりの能力を潰すもしくは分かるということがどういったことなのかを学ばせないというやり方で虐待を行って、後天的に何らかの具体的定義を与えることでそれまでに被害者が加えられた被害を無かったことにしてしまうという悪質な危害の加え方があります。精神科医は統合失調症と診断した人間に対してちゃんと投薬治療というやり方で治療をしてくれるのでいいですけど、私SSが被害に遭った竜頭万里子という一個人を自称する究極のエニアグラムとやらの性格レッテル貼りはこの悪質なものの典型です。というか釣りそのものです、日本のマスコミとのタグがそこにありましたけど。もちろん悪いことを行えば悪いことになるのはその加害者当人であって、別にどうでもいいんですけど、あまりにやられ具合の度が過ぎると私SSのようになってしまいます。痛みを伴わないとものを覚えることができないという自分が知らないものに対して興味を持つことの無い精神がそこで出来上がってしまいます。蓋然性というのは場を母国語的に学んでくということであり、だからあまりに蓋然的たる物事の学習の仕方に取り付かれていると当然新規なものはストレスになって何を行うにも過度のストレスがそこに発生して苦しくなるわけです。これは「知る」という行為ではないわけなので。これはたぶん現代の医学ではヒトにおける統合失調症の典型的な症状として観察されます。
そういった苦痛を身に焼き付ける異常精神から得られる身体感覚の持ち主としての経験から言うと、統合失調症は十日でも二週間でも何も食べずに抗精神病薬だけ服薬していればたぶん治ります。超人的な精神力がないと何も食べずにそこまで持たないでしょうけど。主に使用されるのはジプレキサかリスパダールでしょうけど、自分に合う方を選べば良いです。私の場合は、ジプレキサが合うとは言い難いですけど、リスパダールは全く合いません。ちなみに抗精神病薬リスパダールは先の記事で書いたように強烈な薬効により造意的な「右への引っ張られ」が生じ(て思考・行動は当然今までのようには出来ず不安定になり)ますけど、糖尿病のリスクが高まります。インシュリンの分泌が悪くなるということです。リスパダールを定期的に服薬する場合は必ず医師に申告して血液検査その他を定期的に行ってもらわないとダメです、というかまともな医師はきちんとリスパダールを投薬するにあたって血糖の量を計るべくきちんと血液検査を行います。ちょっと私の我流の説明の仕方を織り交ぜてしまって分かりにくくて申し訳ないんですけど、高血糖状態を改善するインシュリンは「左」へ引っ張りまた「左」へひっぱられることで分泌される証だと考えると妥当です。食後や糖分を摂取した後にリラックスしてボヤボヤしている感覚を想像してもらうと分かりやすいです。あとこのインシュリンというのは膵臓のランゲルハンス島という内分泌細胞の群れから分泌されます。Paul Langerhansさんが発見した。ハンスですHans。HansというのはJohannesの略称で、「奴さん(やっこさん)」とか「間抜けの熊さん」といった意味合いがあります。「キリスト教社会の中心には罪人が居る」というのは誰かの言った有名な定説ですけど、日本語キーボードの真ん中の位置には「H」と「J」そして「く」「ま」とあります。……森のクマさん、原子力発電所とか。
パスカルは基本的に人間を善と悪や左と右の「中間者」として、どちらでもあるもの、肉の穢れを許容してその中態であるとしている気が強いです。逆に、という言い回しがおかしいのは以下で説明しますけど、デカルトのものもそうですし禅僧だとかのそれに観察されるようにいわゆる「東洋の神秘」というのは無我の境地にいたり全てに溶け込む、そういったキリスト教的な見地からするとナザレのイエスさん以外に完全な者は居ないはずなのにジャンヌダルクをやってしまう一種悪魔的なものであると考えざるをえないものです。別に東洋人全てが東洋の神秘の境地にいるわけではない、むしろそれこそその逆ですけど。左か右かの二者択一のうちそれを拒否して中道をとるというのと、無我もしくは知に溶け込む(可算名詞の複数形たるアニムス、右の定常点)というのは違います。
「煉獄の最大の苦しみは、審判の不確定ということである。」とパスカルは言ってますけど、この前に「あらゆる状態は~」とあって、まあこの価値意識に従えばすべてこの世煉獄といったところです。
事象の認知において、それと五感との間に新たに「空気」を設定してそれを自己によってgelesenされたものとして扱わなければならない、というのは、事象の認知が不可能だということであり、世界が分裂している証です。このような仕方でしか物事を理解できないとあらば、嫌な思い出も良い思い出も忘れることができないつまり記憶を失っていくことができないということであって地獄です、発狂します。しかしやはり印欧語圏(主にキリスト教圏)の人間は基本的に契約関係の中に生きてます。契約関係を取り交わすことについて拝金主義を連想するのは間違っているのであって、契約というのは「自分が行われて嫌なことは他人に対しても行わない」という前提のもとに成り立ってます、が、これに飲まれると物事見えなくなってcommunicationizedされてしまうということです。沸騰直前止めで男戦士を釣ることをプログラミングされてしまった、哀れなブリュンヒルデのようなvalkyrieな人も居るというわけです。私は個人的な人間関係でよくやられましたけど、ギャグとかのネタにされたりするわけであってさらにはそれに乗り返したりのコミュニケーションとか。あまり良いものではないです。あと私は西洋人とは会話をするのは平気ですけど、日本人が相手だとやはり初対面の人の場合緊張したり警戒して敵がい心を抱いたりします。
communicationizedされた、快楽を半ば無意識的に主義にしてしまっている人間というのは常に楽しいです。だから「これが楽しみで生きてきたけど……」という発想は、別に、彼らが楽しみというものを全くただの一度も知らないというわけではなく、彼らには通じません。彼らもまた地獄の中を生きてます、おそらく。