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Er stand da, wie Gott ihn geschaffen hat.
 真族。




 はじめユダヤ人ロンギヌスが槍でイエスを刺し貫き殺しました。「総統が歴史から姿を消せると思っているのか」、つまり人間の歴史はこうやって作られてきました。時々まるで自分らが人間でないかのような口ぶりで「しかしこの大惨事は人間の手によるものだったということだ、それが驚きだ」とか言う人が居ますけど、彼らはこの場合で言うと、人間の歴史の作られ方だとか、物事の理みたいなものを分かっていてその上で歴史に参加している人たちであって、決して人間ではないわけではないということですけけど、例えば解釈としてはAdolf Hitlerただ一人が人間であってナチス自体は悪魔の集団であったと。前にも書きましたけど、ナチスは日の丸の中心のアカい総統を見て「じゃあこういったのを殺していくか」といって人間を殺していった殺人集団であったと。これを日本の漫画家とかは彼らを「魔族」だとか「神族」だとか別路線のところでは「男の世界」だとか描いたりするわけですけど、漫画家の人達の表現が間違っているわけではないですがあまりにその現在まで教育や家族環境や友人との付き合いで培ってきた人間関係を絶対視し過ぎかつそれが問題行動に直結しているとなると悪魔でも神でもないところの「人間」扱いされた上で馬鹿であるということになったり医師に病気だという判定を下されたりします。ちなみに私は過度の行動の異常でもない限りこれを病気だとか間違っているだとかと判定を下すのは間違っていると思ってます。これは何度もこのブログ内でよろしくないと書いている「空気を読む」ということの一種ですけど、善良であることへの意識が問題視されてしまうようであれば一般的にはそれはその人間が所属する社会の方に問題があります。悪質な人間が家族の一員であったりすると圧力で悪徳を志向させられたり善と悪を履き違えさせられたりすることもあるので危険です、無闇な家族信仰は。
 主に記録が残りはじめてからのものはユダヤ人がその人間の歴史を形づくってきたものであるという説すらもありえます。最も単純化されて分かりやすいのは「君と僕」です。こういった類の説というのは文学的なものの見方から発しているわけであって、詩の世界を脱して現実の人間の関係において適用して鑑みると間違えます。唯名的というと大げさですけど、こういったものは子供が友達に名付けるあだ名や「やーい、やーい、○○」とかいったものにとどめておくべきです。他にはキリスト教のバックにあるのはユダヤ教だとか。イスラエルの人たちは、支配階級のアシュケナジームと被支配階級のセファルディームだとかダティーム(宗教派)とヒローニーム(世俗派)だとかいろいろ分かれてますけど、例えばダティームの人達は宗教規定に厳格でポルノの類を排したりします。ユダヤの人たちはユダヤの人たちで全てが家父長制的家族信仰で下ネタ的であったとかいうわけではないです。現代日本にあるような一部の新興宗教を参考にしてしまうと彼らのことを誤解して簡単に悪のレッテルを貼ってしまえるので危険です。下手をすれば反ユダヤな人間が反ユダヤを煽るために露骨に単純な家父長制度的家族信仰を装っている場合すらあり得ます、某エニアグラムのように。日本だと戦後のマスコミであるとか、右翼左翼関係無く何処の社会にもクズが居るんですね。

 キリスト教徒がヒトのオスとメスというところを超えて何らかの排斥を始めたからそれ以後のユダヤ人が誕生したのか、ユダヤ人がその宗教的特徴によって自ら非キリスト教徒であることを選んだのか、タマゴが先かニワトリが先か、おそらくどちらもです。ユダヤ人の特徴としてユダヤ人がユダヤ人であることに対する嫌悪感・自己嫌悪というのがその一つとしてあるそうですけど、詩人Heinrich Heineにもこの気がよくあらわれているというのが文学者の見解だそうです。

「メッテルニヒの夢――メッテルニヒは、赤いジャコバン党員の帽子のついた棺のなかにいる自分を見る。
ロスチャイルドの夢――ロスチャイルドは100000フランを貧乏人にやった夢を見る。そして、そのために病気になる。」

―着想と警句― より

またこんなものもあります。

「ユダヤ人は、ヨーロッパがキリスト教に帰したとき、信仰の自由を主張した唯一のものであった。」

―着想と警句― より

 Anti-Semitismというのもあります。文科系のインテリであったナチスのJoseph Goebbels宣伝大臣がおそらくそれを象徴するような人物でしたけど、目の前の現実的な諸事情を無視してユダヤ人がユダヤ人であることを理由にして排斥するというケースも多々ありました。まあ詩人が政治に携わった場合の所業です。
 ちなみに第二次世界大戦後はナチ狩りというものがあります。日本でも義務教育の現場で「平等だ、平等だ、皆平等だ」と子供に無理矢理やたらめったら押し付けたせいで、ユダヤ(アカ)が主流を作ってそこから皆に合わせない人間を問い詰めて圧力をかけて自分らと同じ行動をさせるというレイプまがいの学校行事や逆にユダヤ排斥のイジめ(赤狩り)があったりもします。私SSはユダヤかナチスかと言われればナチスであると書きましたけど、子供の頃から20歳あたりまでひたすらなナチ狩りのレイプまがいのものの被害にと後は近年では精神科医も含めた不特定多数の人間によるストーカーの被害に遭ってきました。

 ユダヤの人たちは、キリスト的定常点というと語弊がありますけどキリストたるイエスさんを信じるということによって肉を持つ現世の穢れが祓われるということがどういったことなのだか分からないということで、排斥や迫害を受けてきましたけど、偶像崇拝禁止つまりイエスを偶像として崇拝することの意味と他のものを偶像として崇拝することの違いが分からないということはキリスト教徒足り得るということです。パウロもそうですけど、実際キリスト教徒にはユダヤ教から改宗したJudenchristという人たちが居ました。私はこのブログ記事で何故なのかを言葉で説明してますけど、この人たちは何故そうであるのかを納得するまで言葉をつくして説明されないと何もかもが無理なんですね、だから言葉で必死に説明してあげるしかないということであって、つまりユダヤ人はその特徴的に本来的には詩人足り得ないということです。ハイネもユダヤ人でユダヤ教から改宗したキリスト教徒ですけど、この人はそれのせいでユダヤ人から逆差別と排斥を受けました。
 つまり本人たちが自覚しないそれからの乖離したところがゆえのユダヤ人であることだとか、ロスチャイルド家とかの金融資本でもそうですけど、この人たちが持っているのは「選民」(の思想)ではなくて「自分たちはこんな方法で平和に暮らしていてこんな問題もこういった知識や技術があれば解決しつつ上手くやっていけますよ」という「発想」なんですね。ユダヤ人による世界支配の陰謀がどうとかバカバカしいにも程があるのであって、そりゃユダヤ人の中にも金を稼ぐため金を稼ぐ手段のために目的を選ぶような気の狂った拝金主義者も居るのかもしれませんけど、技術開発やinnovationには金が要ります。中国の故事でも女媧という人物・人名が出てきますけど、どこの国や社会でもヒトの行動原理は同じであると言えば同じです。嫁かわいさに「ホラ、お前にこんなに楽をさせてやれるぞ、」という。これは嫁をモノとして扱っていることには違いが無いんですけどね。ちょっとまた下品な表現で申し訳ないですけど、だから彼らが「おチ○コ」「おマ○コ」の下ネタに走りたがるのも分からないわけではないです。



 E.H.カーという歴史学者が言ってますけど、歴史は科学である、と。たぶんヘーゲルの言うところの宗教や芸術と同じく歴史が成立するということですけど、それを個々の出来事に因った・拠ったイベント単位で鑑みると間違えるということなんですね。イベント単位で、というのはマンガ的・RPG的であるということです。歴史は科学ではないという我々現代日本人には当たり前過ぎるこの歴史の解釈は英語特有の問題だそうですけど、つまりこの(歴史を)間違える現象は英語に端を発しているということっぽいです。日本人になじみ深いところだと、フランス語よりもドイツ語を少し勉強してみるとよく分かるんですけど、たしかに事象を説明するのに英語的解釈は通じないというか、違います。イギリスにもそうでないところの・そうでないところにプライドを持っているニュートンという人が居ましたけどね。再びHeinrich Heineの言葉。

「シェイクスピアの課題は、たんに文学であるばかりでなく、また歴史であった。」

―シェイクスピアの女性たち― より

「シェイクスピアは、われわれに、歴史における人間の性質と外的状況の相互作用だけを示す――第三者としての理念は、シェイクスピアの悲劇には決してあらわれない。したがって、シェイクスピアの展開する世界には、きわめて明瞭な人間の姿、永遠で不変なものがある。人間的なものは、つねにどんな時代にも変わることがないからである。ホメーロスの場合も同様である。両作家の作品は不滅である。けれども、両作家が理念の優勢だった時代、たとえばキリスト教台頭の初期とか宗教改革の時代とか、革命の時代とかいう時代を表現しようとしたら、あのように成功したとは思えない。」

―着想と警句― より

理念が現れないから人間関係が固定されてしまって悲劇の結末を迎えるということになるんですけどね。愛だとかの理念があればハッピーエンドですらも描かれてます。英語は理念の言語だとか?
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die Wittenbergische Nachtigall
 共同不審者。
 ヴィッテンベルクのうぐいす男。




 女のセリフで「男って勝手よね」というのがありますけど、男はやっぱり「関係」というものをナメている・見くびっている感があります。下手をすると禍根を巻き起こして面白くしたいとか思っている男も居るくらいです。男は馬鹿です、やっぱり。村上龍さんの本のタイトルで「全ての男は消耗品である」というのがありましたけど、読んだことないですけど、オスはおそらく生物学的にメスより様々の点で劣等な生き物です。これがall menではなくてthe man of everythingだったら意味も変わってきますけど。



 技術革新に貢献しないどころか目の前の現実に対処することから目を逸らさせるということで文学をそれにアンチなものとしての存在としてタチが悪いと言う人たちもひょっとしたら居るかもしれませんけど、タチが悪いのは文学ではなくて文系です。私がこのブログの記事として書いている文章は、理科系が文学をやった場合にそうなりますよという適当な見本です。私SSは理系です。私が書いていることはそれなりに合理的です。逆に文科系が理科系をやると、究極のエニアグラムの自称竜頭万里子さんとかHide your face.という記事で書いた島見図広吉(仮称)のような人物が仮に実在するとするとこういったものですよということなのであって、極端に間違えたもの(こと)どころか間違いを極めることになります。エゴを一対一の男女関係以外に持ち込んだところの、戦争の火種というのはこうやって熾り(おこり)ます。ちょっと誤解を招きやすい表現ですけど、あえて言うなら、前者は左翼的右翼であって後者は右翼的左翼です。例えばマンガ家だと、三浦健太郎は文科系要素が強くて理系要素が弱い(後者)、浦沢直樹はもう少し文系的要素が弱くて理系的要素が弱い(後者)、冨樫義博は文科系がさらに弱くて理科系要素が強い(前者)つまり面白いということです、不健全ですけど。医師はどの分野の人も理系ですけど、例外として精神科医は理系的文系であって患者に特に抗精神病薬の薬効とそれを用いた治療方針の真実を説明しないところに非常なタチの悪さがありますが、まあ彼らに関しては前にも書いた通りそうしないと真の治療にならないというパラドックスを抱えいている(だからこそ文系)わけであってそれも仕方のないところはあります。私は基本的に言語で数学をやっているのであって前者です。逆に数学で言語をやるコンピュータのシステムのエンジニアのような人たちは後者です、コンピュータ上のプログラムとして完成されたシステムについて間違えたとか間違えてないとかの概念は適用され得ないので何も問題は無いですけど。前者を男性的であると断定することはできませんけけど、後者は確実に女性的であって最も適切な表現は「アカ」です。なんか日本の1980年代は「ニューアカの時代」とかなんとか一部の中二病者たちの間で言われていたらしいですけど、島見図広吉(仮称)のような人物が仮に実在するとするとこのニューアカの典型なんですね。2012年時点での50歳代60歳代にこれが多いわけです。

 

 私も実はそんなに英語の得意な方ではないです。ドイツ語は好きですけど、勉強時間が足りないので使いこなせるほどには身に付いていません。というかドイツ語は使う言語ではなくて物事を学ぶ上で読むのに的した(適した)言語です。私は昔のドイツ語なんか読めませんしそもそも見たこともありませんけど、ルターが偉大なのはよく分かります。

 やはり哲学者でこの人と言えるのはGeorg Wilhelm Friedrich Hegelです。私は文学の門外漢ですけど、素人目に鑑みてもヘーゲルこそが哲学や詩の真髄ひいては言葉というものの何たるかを押さえている感があります。Ludwig Josef Johann Wittgensteinなんてどこが大家なんだか凄いんだか全く理解できないんですけど。ヴィトゲンシュタインは言葉の言葉たる道理の分かっていないただの記号屋さんなんで、現代に生きていれば優れたコンピュータのシステムのエンジニアにでもなれたかもしれないですけど、この人物のせいで不必要に論理実証主義者が台頭することになったんですね。その集団であったWiener Kreis(ウィーン学団)というのが第二次大戦前にあったんですけど、これを排除してくれたのはナチスです。前にも引用したことのあるホーフマンスタールの「詩についての対話」より。

「 聖者ならぬ者にはな告げそ
 ひとびと聞かば嘲らん
 われは 炎の死をば求むる
 たまきはる生命を称えんとす と

 汝がうまれたる はた 汝が生みし
 肌さむき 愛の夜々
 静けき蝋の火はもえて
 あやしきおもいの汝れを襲う

 闇の陰影 もはや汝れをば
 抱き とどむることを得ず
 新たなる欲望にかられ
 いや高きまぐあいをこそ 汝は求む

 遠方も 汝れをへだてず
 光を求め 天がけり
 惹きよせられて 汝れ 胡蝶の身
 いやはては 炎のうちに燃えゆかん

 あわれ「死して生(な)れよ!」
 この意をおのがものとせざるうち
 汝は 暗きこの世の
 悲しき客にすぎざらん


 誰かが死んでゆく部屋の中に聞こえてくる魔法にかけられた夜の鳥の歌のような、この音調が君に聞きとれるかね?―中略―魂の真の体験、それを表現するのは魔法の言葉でなかったら、いったいどんな言葉だろう。ひとつの瞬間が現れて、数千の他の瞬間からその精髄をしぼりだす。それは過去の洞穴のなかへ飛びこむ。すると過去を構成している数千の暗黒な硬直した瞬間のなかから、その光が悉く迸りでるのだ。嘗て存在したことのないもの、現われたことのないものが、いまやそこに存在し、現われている。それは現在であり、また、現在以上のものでもある。嘗ていっしょに存在したことのないものが、いまや同時に存在し、並存して、灼熱と、光輝と、生命を互いに融合しあっているのだ。魂の風景では、その天の川だけが無数の星の集まりであるばかりでなく、その陰影の谷、その暗闇も、あまりに多く群がっているので光を失い、あまりにみちあふれているので窒息してしまった無数の生命の集りなのさ。そして生命がもつれあっているこれらの深淵を隈なく照らし、解き放し、それを集めて天の川をつくりだすことができるのは、或るひとつの瞬間なのだ。そしてこうしたいろいろな瞬間に完全な詩が生まれでるのだよ。だから完全な詩がなんと少ないことだろう。だが、とにかくそのような詩がいくらかでも生まれでるということは奇蹟のようなものじゃないだろうか?いくらかの言葉が並べられて、打たれた暗い石から火花が散るように、そこから星空のように無限な魂の風景がとつぜんに現れるということは?それは時間と空間のなかに拡がって、僕らの内部にあらゆる感覚に優った一つの感覚が、その光景を見ようとして活気を帯びるような風景なのだ。そしてともかくも、そのような詩が生まれでることはあるんだよ……」 

中学二年生病的解釈は排除して精読してみてください。性的な行為をベースとしてこの文章から何かを学習するのはいいですけど、ちょっと野暮です。あえて言うなら、女性の性的快さというのはこういった「つながる」ところにあるのかと。女の人は心でカンジるんですね。「構成している数千の暗黒な硬直した瞬間」というのはニヒルなアニムスのことです。言葉の言葉たる由縁です。

 前世紀の話になってしまいますけど、そりゃバンドとか音楽をやっている男が女にモテるのは道理です。詩の詩たる道理を言葉無しで説明してくれるのは音楽だけだからです。「音楽をやる男」というのは一種のシンボルです。勝手な演奏で楽団の演奏は出来ません。
Hellequin
 夜の風の見えない親切さ。




 ひとつ手だと思うんですけど、今の10代の前半くらいの人たちは、勉強したくない人たち皆で大学へ行くのをやめりゃいいんじゃないですかね?ネット使って。そうすれば通っても価値の無いいわゆるFランク大学や低層の大学の文系学部は消えて無くなり、そして高層のMARCHレベル以上の私立大学の文系学部のレベルが元に戻るというか高くなります。そうすると法学部や経済学部以外にもまともな学生が集まるようになって文学部が文学部として生き残れます。そして社会的低層としての労働力が余剰しますから今の30代や40代の大人たちはその労働力を生かすためまたは人を人として生かすための何らかの対策を採ります。パートタイマーでストレスの溜まらない仕事で月十数万も稼げれば御の字という人達があちこちに居るわけであって、彼らのために仕事が作られます。バイト君を大量に生み出すわけにはいきませんから、ノンキャリアの特定雇用枠かなにかがあちこちに出来るんです。金を稼ぐという発想のもと労働が行われるという形態の社会ではなくて、社会全体で都合のいいように金を動かせばいいんです。勉強をしたくなかったり学びたいことの無い人達が就職のためにわざわざ大学へ行かなくても、普通につつましやかに暮らすためのお金は楽に稼げるようになります。余分な業界へ流れる人間も減ります。悪事は大分減ります。今の若い人たちはネットのおかげで昔と違って大分頭が良いんでいたずらに生殖に走ることもないです。犯罪も今よりさらに大分減ります。もう昔のようにいたずらに被差別カーストが生まれることもありません。経済学というのはこういったことを考えるための学問で、経済学者という人たちはこういったことを考えている人たちです。彼らは数学を使ってこれらを解析したり説明したりする術も持ってます。慶應や中央に総合政策という学部がありましたけど、そういったところへ行くくらいだったら経済学部へ行くことをおすすめします。
 ちなみにFランクでなくともEランクあたりの私立大学(神奈川大学とか中京大学とか、日東駒専未満)だと理系学部であっても就職先は文系サラリーマンが大多数を占める普通の小企業です。



 自分より下であったり劣っている人間に危害を加えて、後で手痛いしっぺ返しを食らって嘆いている人間が居たとして、「じゃあお前は自分より下の人間であったらもしくは被害が自分に及ばないのであれば他者に危害を加えてもよいのか?」という問題がそもそも根底にあります。そういう小学生のイジめみたいな発想でそういう甘えた行為が通用すると思っているからダメなんですね。こんな人間ばかりであったら社会は崩壊します。これはユダヤです。

 私事ですけど、私は父親を求めているところがあります。弱いくせに悪事に及べば強いと思ってもらえると思って必死に悪事に及ぶ自分の父親があまりに幼児的であり父親としてあまりに情けないので、自分を指導してくれる人間を探しているところがあります。だから学校の先生やなんかには好きや嫌いの感情をその個々人に対して思い切り丸出しにします。これはファザーコンプレックスではないです、いつかの記事で書いたと思いますけどファザコンというものは形容矛盾であって存在しません。そして私はマザコンではないです。コンプレックスを持っているとしたらそれは自分を指導する人間に対してです。だから私は教育に関して興味がありますし、子供のころ一時期学校の先生になりたいと思っていたこともあります。大学の時も教授の話を研究室によく聞きに行きました。

 大手マスコミ新聞関係者であった自分の父親でも独立行政法人国立精神・神経センター病院の精神科医であったM'z a 悪意(仮称)医師でもそうですけど、Judeな論理実証主義者なんてものは帰納的であって最初から目的ありきなものでご都合主義に合わせていくらでもありもしないテーゼを作りだしたり既存の何らかを自分にとって都合のいいように利用したりするんですね。だから気に入らない相手を攻撃するために法律をいくらでも使いますしまた自己保身のためにいくらでも法の目の網をすり抜けて悪事に及びます。ユダヤ人が非道・外道であるというのはこういったことです。私SSは仮に非道や外道と極道のどちらかを選べと言われたらば極道の方を選びます。そんなに何らかの定式が欲しいというのであれば子供のやる数学の勉強でもやっていればいいわけです。まあM'z a 悪意医師はお若い先生だったので診察室で敵役を演じて私を挑発して何かをやらせようとしていてくれたということなのかもしれませんけど。



 仮に人間関係を工学化・人間の関係の「関係」たるものを工学化するとすると、例えば仮にそれがactiveなものであれpassiveなものであれ唯脳論的にでもなんでも何らかの手法で二者択一で世界(da)の有り様を取り決め・設定している人間が居るとして、禍を巻き起こすのであっても禍を消すのであってもその人物が何かを行った瞬間に世界に対する凄まじい影響が発生します、それがどのような経緯をたどったものであっても。つまりこれを考えるにおいて権力や社会的地位は関係無いです。女性というのは男性と違ってその当該人物がどうであるかについて、このあたりのものを見抜く目があるんですね。「いい男」がどうとか。これを論理実証主義的に解明するためには、遠い将来スーパーコンピュータがとある瞬間に世界(Da)に起こった全ての事象を演算して導き出すなりsearch(search forではない。「探す」における対象が目的語にならない。しかしこのsearchは他動詞。つまりこの動詞の目的語になるのは?という意味)するなりしてその結果を何らかの形の言語を用いて記録するということが可能にでもならない限り無理です。それをダビデの星をひん曲げたエニアグラム図にあてはめても、間違った結果が導かれて、お前はたわけか馬鹿の教祖かということになるだけです。
 ……たぶん悪事を働かなかった人間がそういう役割を負うことになるんですね、「いい男」は良い男ひいては善い男だということです。

 前世紀の日本の不良娘たちがよく言っていたところの「いい男」というのが現実に人間が形成する社会において健全な具体的社会的役割を果たすかどうかというと、ちょっと微妙です。しかし彼女ら不良娘というのは人を見る目はあるということであって、変な言い方ですけど健全な不良娘なんですね、他者を貶めるようなことをやる陰湿な論理実証主義者に比べれば。私は知としてはその「いい男」性は知ってます、分かりますけど、客観的にそれを分かっている時点でその「いい男」ではないです、つまり私は男でありながら女性的です(Jesuit的、論理実証主義者とは似て非なるもの。手段を手段として知っているのみ)。で、やはりその「いい男」というのは一歩踏み外せばただの不良チンピラ少年男になってしまうんですね。彼らも肉体のくびきからは逃れられないからです。……女を最後まで守ってくれるとは限らないですよ?それとも逆に肉体のくびきがあるからこそ、最後まで特定一人の女を守ったりとか、ね。精神から肉体の、ではなく、肉体から発生する精神の相思相愛とか。
Schwarz-Rot-Gold? Schwarz, Rot......Weiß.
 夢とか希望っていまいちおいしくないよね。
 黒は維持と痛み。
 黄玉は真ん中へ。




 いくつか前の記事で書いたハイネの表現をもってくるならば、シェイクスピアは理念の優勢でなかった時代にシェイクスピア語を作りました、そしてそれ自体が成功でした。これはルターも同じであり、95ヶ条の意見書でも聖書によるドイツ語統一でもまず成功としての事柄を作りました。

 基本的に社会が良くなればそれは基本的に自分にフィードバックされて帰ってくるわけであって、誰もが社会を良くしようという理念のもと行動しているのは当たり前であって、そういったことを書いている私SSが別に特別な正義漢であるわけでも何でもありません。
 私は今の50代や60代の人間を嫌いなので彼らを叩くことを書いてますけど、30代や40代にもまた彼らは彼らなりの欠点、前十年(decade)のネットの掲示板によく見られたような豚々しさがあります。私もそうでしたけど、彼らは思春期の頃からサブカルチャーに漬け込まれての犠牲になったんです。この日本という風土の国でネットを悪事にいそしむことから回避させる形で上手く社会的に浸透させインフラとして定着させるためには仕方なくサブカルとそれにもとづく特定の空気が必要だったんですね、特定の人間たちを犠牲にして。それへなびかせるアンチなものとしてテレビジョンその他低レベルなマスコミ文化ですらが必要悪でもあったという解釈もできます。サブカルチャーのものにはたまに名作・名ストーリーもありますけどその大半は失敗だらけです。分かりやすい昔ながらのマンガで言うと、大魔王を倒した支配の先の夢を探す、理念から入るからです。最初から人間関係的なものなんです。最初から愛ありきのお話しだから間違えたものになってしまうわけです。別に性愛でもないのに、最初から何故か存在することが前提になっている人間関係的なものから成功としての事柄を作り出そうとしたからその内容もそれに感銘を受けたリアルの人間たちも間違えたことになりました。つまり彼ら肥満したオタクの人たちは社会的な犠牲者になりました。
 私は自分の悪いクセとして物事をこなすにおいて「ちゃんとやらない」ということがあります。私の世代にはこういった人が多いと思うんですけど、人間関係において特定の場の空気のもと人によって対応を変えるまあ戦闘力のコントロール能力みたいなものが裏目に出て物事を為すにおいてもそれが適用されてしまうということです。空気から入るからこういう間違えたことになります。惰性で手を抜いてしまうのであって、そのうち手を抜いている状態が自分の100%の力を発揮した状態である、もうそれでいいや、とかいうことになってしまうどうしようもない悪癖です。ここまでいくと「空気を読む」ということに自らを捧げつくしてしまったところの病気です。現代の精神医学ではこれはほぼ統合失調症と診断され、これは抗精神病薬の服薬で上手く治ったりします。これもやはりサブカルというかマンガ文化の悪影響です。マンガというのはそういった手を抜いた状態で読むという行為をこなせてしまうものだからです、しかも快感を伴って。日本語圏のネット見てりゃ分かりますけど、見えない相手を下げて貶めて相対的に自分の位置を確保するというアカいJudeな所業に及ぶ連中がほとんどです、日本語圏のネット上の特にサブカルチャーで主流を占めているような連中は。見えない相手に手を抜いてコミュニケーションに及ぶとなるとこれ以外にはやり方が無いからです。個人的に単発のアニメ絵は好きなんですけどね。

 Wikipedia日本語版の記事の中二病臭は異様です。私は無理をしてでも英語版を読むようにしてるんですけど、先日チラッと日本語記事を見てしまったところでは、たいていどんな類のものでも英語で書かれた記事と日本語で書かれた記事を読みくらべてもらえば分かりますけど、英語圏のライターの人たちが書いた記事は要点が押さえられていて分かりやすく簡潔によくまとまっているのに対して日本人が書いた日本語の記事はいたるところに不必要な虚栄心の垢がベタベタ塗りたくられていてライターの自尊心が異常なまでに表面に出てしまっているというよりは門外漢を寄せ付けまいとする村意識的なものがあらわになっているものが多々あって読まされると非常に不快なんですね。残念ながら日本語を使っている人間たちはネットをこういった悪い使い方をしてしまうということです。英語圏の人たちは奇麗な理念のもとに生きているのかもしれませんけど、日本語を使っている人間達に英語発祥の理念が適用されるとこういった醜い空気になってしまうということなのかもしれないです。残念ながら日本のサブカルチャーでは名称のみにおいてドイツ語がアクセサリーとして使われるという最悪のことになってるんですけど、ドイツ語は英語に比べて何がどうなっているか構造的に実に分かりやすい言語なので、特に日本語を使っている日本人には英語よりもドイツ語はおすすめです。



 ドイツと言えば食べ物はじゃが芋ですけど、たぶん文学的解釈でいくとじゃが芋は大地の養分が結晶化された大地の恵みそのものです。つまり肥満のもとです。芋食ってると太ります。女性の食べ物です。そりゃ夜食にポテトチップスとかウマくて好まれるわけです。じゃが芋はチーズ以上に黄色い食べ物だという。インドネシアだったかタイだったかどこだったか忘れましたけど、たしか東南アジアの何処かの国で日本で言うところのピンク色みたく「黄色=エッチな色」という価値概念の国があります。なんかじゃが芋食うと病気になるとか言ってる人が過去にリアルでいたような気がするんですけど、事実のところはどうなんですかね?たしかにRudolf Steinerというオーストリアのマイナーな哲学者が、じゃが芋を食すと頭が弱くなるとは言ってます。まあ昔のじいさんばあさんの教えみたいなものであって、これはこれで文学的知恵であって役立ちます。夜間は睡眠する時間帯ですけど、睡眠中に頭が弱いとかそうとうにヤバそうです。潜在意識に何かを刷り込まれたりとか。ヤクザの人たちはサウナで汗を出しますけど、あれは強くなるということです。塩分が出るからです。身体意識的に頭にキます。塩というのはユダヤ、「ユダヤ人というのはスープに入れられた塩みたいなもの、適度には入ってないと美味くないでしょ」という文学的テーゼがあります。つまり夜寝る前にきちんと風呂へ入ってから就寝するという昔ながらの日本人のちゃんとした生活規則は、日本人の文化人類学的特質においては理に適っているということです。私は一時期二ヶ月に一回ずつくらいで血液検査を行っていたんですけど、毎日風呂の湯船にきちんと浸かって汗を出す生活をした直後の検査では肝臓に関する数値も腎臓に関する数値も尿酸値その他も確実に良い結果で出てきます。
 フランス人は黒いものであるところの海草を食べませんけど、私も食べません。しょうゆなんか絶対使いません。塩味は塩です。赤いものでもトマトはやはり健康に絶大な好影響があるそうです。黄色いじゃが芋を食べるくらいだったら、白いパンを食べた方が良いです。カロリー値に関係なく、パンなんかいくら食べても太りません、ほぼ全部が全部黒いものを吸着していったうえで下から出ていってくれます。米は豚の食い物なのでお気をつけ下さい。あしからず。

 三連続で夜テーマで書いたんですけど、夜は心の栄養が必要だとか。食品以外で。私も男なんで秋の夜長にエッチ画像に浸りのぞき見る男性の気持ちはよくわかります。これは直接に交わりたいという西洋人的な男性的な性的欲望ではなくて、東洋人的な女性的な赤と黒の混じりあった欲望です、たぶん。心というのは弱いです。「強い心」というのは強さと弱さが履き違えられているところの表現であって形容矛盾です。恋は盲目です。たぶん愛も同じく。一対一同士の男女間の愛をのぞいて。
Erlaßjahr
 虚数宇宙を生きるもの。




 はじめに小話を一つ。

「 それが仮に具体的なものではなくまたどういった仮象をとるものであれユダヤが人をさらっていたずらな苦痛を与えその快感と勘違いされたところの苦痛によって生まれた内容によってネタを作り今まで文明を発展させてきた。これがディアスポラ以来三千年間繰り返されてきた。
 ユダヤがさらっていたのは本物ぶった偽者であったが、さらった者が本物であったらば問題。ネットはその結果の産物。つまりユダヤはユダヤで驚いている。これ以後は、例えば食品を効率的に加工する技術だとか光を効率的に供給するための装置に使われる技術だとか建築構造物の高層の度合いや耐震精度を高める技術だとかそういったものを除いて、テレビジョンやインターネットのようにヒトの感情の抱き方や思考に直接に影響を及ぼして人間社会を変化させるモノ・事はもう現れない。そしてこのことは西暦2000年に達して執り行われるようにそもそも計算されて行われてきた。つまりユダヤの中にも認知されない権力中枢が存在するということである。そうでなければホロコーストに甘んじてわざわざ強制収容所へ送り込まれて殺されたりはしまい。もしかしたらばそれはユダヤがこのようなやり方をせずともヒトの文明はこれとは違った形でもっと高速度・健全に発達したということの証かもしれない。

 世界中何処をさがしてもマンガのようにそんなものが具体的に存在する道理は無いが闇の権力が『ユダヤ』であることは間違いが無い。大多数の個々のユダヤ人とてそんなことは知らない。だからユダヤの中にもエヴァのアニメのゼーレのようなごく少数による権力集団があるのかもしれない、そしてそれは具体的な形をとっているのではなくロートシルトやHarley Davidsonの如きキール・ローレンツはそこらへんのお茶を飲んで野菜の漬け物でご飯を食っているただの目くらのばあさんかもしれない、当然本人にその自覚は無い。女はこれを倒そうとしている、というよりは仮に女性性の象徴たるヒトが居て彼(これはヒトのメスではなくヒトのオス、ここポイント。彼はアニムス。)はこれを倒そうとしている、倒すというのはもちろんエヴァンゲリオンのアニメのように具体的に殺傷したり存在が無くなったりということではなくて、その人物が人間社会の表に引きずり出されて唯名されるということである。」



 このお話しの場合だと「女性性の象徴たるヒトのオス」、これは自分で自分を釣ることをその行動原理としないと行動や思考に及べないようなヒトです。従属変数と独立変数が逆転している、メスを得ることがその行動原理の第一義となっている一般のオスとは逆の関数を生きている、オーディン的という形容があてはまるかというとちょっと微妙ですけど。つまり肉の身を持つヒトとして、動物占いや性格判断やヴィトゲンシュタインのように考えても間違えるというわけであって、ヘーゲルのように考えたりホーフマンスタールのように言葉そのものについて読み解かないと(読み返さないと)理解できないんですね。彼ら自身も自身についてのそれを分かっているからこそ彼らは文学や芸術作品に興味を持ちます。これは論理実証主義の産物である現代の科学ではその云々を解明できません、彼らの脳を調べても個々の具体的データが出てくるだけで何の答えも得られません。
 イスラエルをひたすらミサイルで攻撃したサダム・フセインがどうだったかは私には分かりませんけど、女性性の象徴たるヒトのオスの一人であったかもしくは少なくともそれを志向していたヒットラーは無意識的もしくは意識的にこれを分かってました。だから個々のユダヤ人ではなくてユダヤ民族を絶滅させようつまりユダヤそのものを消し去ろうとしました。もちろん戦争や大量虐殺が肯定されるわけはないのであって、そのやり方が間違ってましたけど。
 他者を誤解させてしまいやすい、変な言い方ですけど誤解されることがその人のクセであるような人間というのが居ます。ニヒルであるところのアニムスの具現体、何も無い虚無主義者であるからこそ誤解されることが彼の本質であり運命であるかのような。



 「法学や医学その他の学問は、それを学ぶ人々に名誉と富とをもたらす」と400年前にデカルトが言いました。しかしこれは人間の魂が救われるということでもなければそれを学んだ人々が人間の魂を救うということでもないです。医学において唯一人間の魂を本質的に救ってくれる・人間を存在として救ってくれる抗精神病薬(ジプレキサ)というものが現代ではあります。キリスト教が誕生して以来2000年経って、偉大なる先人によってようやくバカにつける薬が開発されたんです。
 今度、私が現在通院しているN口クリニックでは、院長であるk子curseマ(仮称)医師が何故か院長であるにもかかわらず辞めて、横すべりでI福(仮称)という名前の医師に私は担当されることになりました。おそらくこのI福さんがここのクリニックの院長をやる、というかやることになってるんでしょう。
 恋愛行動時にヒトのオスはアニマの幻影を特定の異性に求め唯名的かつ実在的になると前に書きましたけど、オスに求められたところのアニマの幻影のうち実在的に唯名する者つまり上で書いたお話で言うところの「そこらへんのお茶を飲んで野菜の漬け物でご飯を食っているただの目くらのばあさん」には名前しかありません。これは母親であって、恋愛の対象たるメスとしてはNichtseinであって一個体としては存在しないものとして扱われます。どのヒトも名や記号の世界にそれとして生きているわけではないので、普通の人間は例えば仮に同じ名で別人を出されたとしたらばそれを異常な行為ではないと認めることはできません。名と個物が同じになってしまっていて、現実問題としてのその識別ツールとしての名前の名前性によりその人よりも名前が外に出てしまっているということであって、これが実在的に唯名する者の本質であり運命です、肉の穢れたる特定の人間集団。唯名的に実在するつまり別の名で同じ人間を出されたらば、それはひょっとするとヒトのオスにとっては恋愛の対象です。現実問題としてネット上でいくつもハンドルネームを使うとかは論外ですけど。

 H.D.レインという精神科医が書いた「結ぼれ」という本がみすず書房から刊行されてます。工学化された人間関係が「ゲーム」と称されそれが異常であると説明されてます。たしかジャックとジルという男女二者によるひたすらなカラミが書いてあるんですけど、唯名論的に興味深い内容です、なぜなら男女関係におけるそれだから。
And then there were none.
 150年かけて使い捨てられた人々。




 メスに対して唯名的に実在してもらってから実在的に唯名してもらおうとするのがおそらくヒトのオスの恋愛行動パターンです。オスにとっては恋というのはmovement、「うごき」だということであって、現象から愛が発生するという。だからオスはまずメスの体を求めるんですね。逆にメスにとっては愛や恋は「存在」です。存在として認可したオスでないとメスは絶対に体を開きません。
 高等学校で習った数学なんでちょっとうろ覚えですけど、複素数を考えてもらうと分かりやすいです。y=a+bi(aとbは実数、iは虚数単位)というやつです。一つ前の記事で書いたように、iはオスのとっての母親、Nichtseinです。たとえばこれでiについて解いたりyとiをひっくり返したりしてから両辺を自乗してもyは複素数のままなんですね。……やはり男女関係において男の方で待ってるのは男のエゴ、男の側からイけってことですかね。太宰治の小説に「待つ」という短編がありますけど、「一言言ってさそってくれれば……」というのが女性の恋愛におけるナイーブな「待っている」心理を表しているのかもしれません。その後で女に是か非かの自分についての査定してもらえばよいので、という。もしくは一対一の男女の関係だけは愛ありきで始めないと上手くいかないとか。これが悪魔の存在の証明ではなくて愛の存在の証明になりゃいいんですけどね。これを現実的にカバーするものとして昔からどこの原始的な社会でも結婚という制度があったりします。



 「死して生(な)れよ!」というホーフマンスタールの言葉でもそうですし、ヤクザというと極端ですけど江戸以前の日本の社会でも「のっぺらぼう」のお話にあらわれているようにこういった教えがあったでしょうし、キリスト教でもたしかアッシジの聖フランチェスコの「太陽の讃歌」だったと思いますけど「……死んで永遠の命をいただくのですから」という文言がありますし聖書でもそういったものが語られてます。特定の社会に帰属するにあたっての哲学というと大げさですけど、古今東西人間皆考えることはほとんど同じです。脳も含めたヒトの体の構造は皆同じだからです。自分の肉体を認識するところのcogitoのみが有りうるものであって、それは再世界化の道具だということで、それイコール肉体なるものつまり"Je pense,"の具現体が自分の肉体であると考えるとたぶん正解です。つまり食物でもそうですし視覚情報や聴覚情報でも汚い情報を取り入れてしまうと醜いことになるとか。

「 ―前略―トルストイのPolikouchkaを読みはじめた。この小説の主人公は虚栄心や病的傾向や名誉心の入り交じった、複雑な性格の持ち主だった。しかも彼の一生の悲喜劇は多少の修正を加えさえすれば、僕の一生のカリカチュアだった。―後略―」

この芥川龍之介の「歯車」という小説では、のっぺらぼうテーマでその露骨さが描かれてますけど、芥川龍之介は自殺する以前に実際これをやられていたというわけです。外を歩くだけで不特定多数の人間による集団ストーカーの被害に遭うというのなら私SSもやられましたし、戦後の日本でも一昔前まで芸能人になるような人たちにはこういう目に遭った人が居たのかと。これはどういう風に人間社会ひいては世界が歯車ってるかを教えるものでしかないんですけどね。あんたがそこから材料を取り出して歯車を一つ作ってそれをclock worksに組み込んでいるのだ、あんたがそれをカリカチュアたらしめているのだ、決まりごとというのは決まっていて(Dasein)あんたがそれに初めて気付いた・認知を得ただけのことだ、ということです。「人」は物事の関係を乱すものであって、物事の関係において人は関係無い、人 ist 関係 ない、ということです。
 事に仕えるにおいて工学化されていないcommunicationizedされたあやふやでなご迷惑なリビドーの昇華物を持ち込むとうっとおしがられますし、他者との人間関係においてそれを工学化しようとすると必ず失敗して自分と相手が加害者になってしまったり被害者になってしまったりします。



 しかし残念ながら、日本人の男、黄色人種たる日本人のヒトのオスの行動に共通するものを考える時に、精神の年齢の度合いが幼稚園児か小学生並であるということを念頭に置くと彼らの行動が全て合理的に説明できてしまう場合が多々あります。人間関係を工学化してしまっているのもそうですけど、そうであるというよりは、快楽主義的に他者に対して嫌がらせを行う幼児的なヒトのオスが残念ながら黄色人種少なくとも日本人のオスには多々居るというこことです。嫌がらせもその方法も何もかもが幼児的だということです。こういった連中においては、とにかくターゲットに不快感を与えることが第一の目的なのであって、それが嫌がらせ行為そのものであろうがもしくはあまりに低レベルな嫌がらせを繰り返すことによって相手に「自分らは貴様のことをこんなに見くびっているぞ・ナメているぞ」ということを知らしめるという目的のものであろうが、まずそれが嫌がらせであるということをまず知らしめることに拠るのであれば、どのようなものであっても有り得てしまうわけです、何故ならヒトが不快感を感じる場合というのは普遍的に決まっているので。さらに悪質なものであると、そこでターゲットがそれをおフザけでやっているかのようなテーゼを勝手に設定して、それが「左」であれ一見したところでは第三者からは健全に見えうるところの「右」の定常へ戻すという行為(「左」だの「右」だのが被害者と加害者の間で共通認識としてまかりとおり、且つ被害者が第三者視点においてそう考えるであろうところのもの)であれ、本人におけるコントロール感を失わせ場合によっては本人に被コントロール感を植え付けた上でどんどん本人が意識しないところのあらぬ方向へと釣っていくということを行い、それを酒の肴にするということも行うということです。つまりこれは輪姦です。the operating radiusという記事で書きましたけど、黄色人種もしくは日本人というのはこういったことを行うわけです。私SSは抗精神病薬リスパダールの効能とのタッグでこれをやられましたけど、加害者としては自分らの攻撃が相手に効いてくれないと自分らの攻撃行動を行う意味が無いんですね。これで最終的に誰が被害を被るかというと、女性、ヒトのメスです。だから人権意識を尊重するアメリカの人達に「これがオメーらだろ?」と言われんばかりの大地にそそり立ったペニスの如きキノコ雲を二本立てられました。しかもそれで犠牲になったのはそれについてはほとんど罪の無い一般の人たちなんですね。ネット掲示板やウザさ極まる広告の群れその他で溢れる日本語圏のネット見ても分かりますけど、残念ながらいまだに日本は子供の国、ガキの国、餓鬼界だということです。私は日本人見てて思いますけど、本当に幼稚園の時に見渡していた人間の戯れる縮図が肉体の成長とそれにまつわる知能だけが成長した人間によるそれとしてそのままで現れているというなという感慨を抱きます。
 その他こういった幼児的な男に見られるものとしては、自分が悪事に及んだ事後におフザけや困ったような顔を表現したりといったことやお道化その他ワザとマンガ的コンテクストをワザワザ自分から設定しその中でそれを表明するということによって被害者の怒りを削ごうと試みるということがあります。この糞道化に至ってはハンパではなくウザいどころか被害者の嗜虐心をこの上無く掻きむしるものなのであって、殺意を覚えるという程度では済まないところのものです。
 つまり私のようなことを言っている人間やその他特定の人間たちが偉くて上であるわけでもなんでもなくて、「テメーらが下なの。」ということです、彼らの幼児的快楽主義意識に付き合って合わせたことを言ってあげるのならば。何故、こんな既に小さな人間社会を構成するところの幼稚園児でも分かるようなことが分からないんですかね?自分ら悪事に及ぶクズだけでは安定した社会を形成できないのであって、健常な一般市民におこぼれとして与えられた社会内の特定の位置にて生息を許されているということが分からないんですかね?……というのはどうやら愚問なようであって、こういったクズな連中というのは学ばないのではなくて快楽のために学習を拒否しているだけであって、怠慢であり逃避であり甘えです。万死に値します。先の記事でも書いたような、「下」属性、労働者属性、それはそれぞれの横ならびなものとして考えるべき特徴であると考えるとそれはそれで納得のいくものではありますけど、百歩譲って。

 現代の日本にて目の前の現実を見たことを言うのならば、低学歴且つノンスキルだったりするいわゆる社会的低層の労働者が言っちゃ悪いですけど陳腐にも何らかの社会主義的テーゼのもと「社会に貢献」できることは皆無です。自給数百円や多くとも千いくらかで単純労働力として使われざるを得ない人たちに「出来ること」なんかありません。残酷なようですけど彼ら彼女らに出来ることは悪事や犯罪に走ったりその存在からしてそれの予備軍として社会不安をいたずら煽らない為にサッサと首を釣って一人でも多く死んでもらうことです。人口がいたずらに増えればどういった悲惨なことになるかは歴史上枚挙に暇がありませんし、最近でもアメリカのオバマニューディールとか見れば分かります。しかも現代ではマルサスが言うようには人口は減りません。社会主義を極めたようなおヤクザさんの仕事だってそういった覚悟の要る仕事でしょうし、男しかなれませんし、男性でもよっぽと強い人間でないとやってられないでしょう。決まっていないのは人間関係だけであって、物事は決まってます。「どうせ~」「どうせ俺ら~」とか言うブタも居ますけど、どうせではなく最初からダメなものはダメです。悪事に走れば個人も社会も何もかもが悪くなるということであって、サッサと死ねということです。時々「私たちだって働いてる」とか何故か自信ありげに言う人たちが居ますけど、何の事物にも貢献しないがしかし彼ら彼女らが生きるためにワザワザ作り出されたバイト君御用達の生きる最低限の保証としての自給800円だかなんだかで雇うための仕事によって生かされながら社会主義的なものを振りかざす人たちにおいては、ナメているのかなんなのか知りませんけど、自分らがどういった様に社会的に無能力であってどういった様に社会に仕方なく飼ってもらっているかという事実を的確に認知する必要があるんですね。現代社会では機会は平等に与えられてますけど、人間は平等ではありません。しかも機会が平等である(と見なされている)からこそ、余計に平等ではありません。そしてそれを理解したらば、社会(主義)上自分らは無利益どころか有害であって即刻自殺するべきであるということを理解できるはずなんですね。……しかしヒトとして生まれてきた以上仕方がないことですし、堕落のベクトルを持ったヒト達を放っておくわけにはいきませんし、人道に基づく考えから、問題解決の糸口として、私がいくつか前の記事で書いた生活も具体的にある程度管理され生殖も子供一人だとか最低限のものだけに留められるということを前提にしての非常に楽でストレスの溜まらない仕事のための仕事をこなせばいいだけのノンキャリア特定雇用枠創出のようなものを発想としては考えることもできますよ、ということです。
Dolchstoß von hinten
 アーテミドーラス。
 牛乳愛好家の嘘だらけの未来に終止符を。




 8月の30日のSt. Elmo's fire lightという記事でマンションの一階下に住まうスポーツクラブ経営の老人宅からの嫌がらせの騒音について「最近ではほどんど無くなりました」とこのブログに書いた途端にまた嫌がらせが始まりました。主だったものは以下です。


・ 2012/09/25日、日付が変わった0時前後計2回の衝突音による嫌がらせと巨大なモーター音による嫌がらせがあった。この巨大なモーター音は過去数年間に渡ってやられていたものでありここ半年間は無かったものである。これを記述している0:33 2012/09/25もまだこのモーター音による嫌がらせが続けられているものである。

・ 2012/09/24日、午後の18時頃巨大な2回の衝突音による嫌がらせがあった。

・ 2012/09/24日、マンションの管理会社である東急コミュニティーの田園都市東支店の担当者であるH谷(仮称)という人間(男)に以前警察にこの件について話した時にそのようにしろと言っていた通りに苦情を入れた。「管理会社の方では具体的対策をとることはできない」とH谷は言った。ゆえに私は「このようなことがあったということの記録をとっておいてくれ」ということを申告した。

・ 2012/09/24日、午後の2時半前後に微弱なモーター音による嫌がらせと一回の巨大な衝突音による嫌がらせがあった。

・ 2012/09/24日、午後の12時過ぎあたり数回の巨大な衝突音による嫌がらせがあった。

・ 2012/09/24日、午前の6時前後モーター音による嫌がらせと巨大な計2回の衝突音による嫌がらせがあった。

・ 2012/09/24日、日付けの変わった0時前後モーター音による嫌がらせと巨大な計2回の衝突音による嫌がらせがあった。睡眠中にこれをやられた為、安眠することができず、午前2時前後に起床してしまった。

・ 2012/09/20日、午後の15時あたりに計2回の巨大な衝突音による嫌がらせがあった。寝つきにこれをやられたおかげで眠ることができず。

・ 2012/09/19日、午前の1時から2時頃にかけて微弱なモーター音による嫌がらせがあった。

・ 2012/09/18日、夕方から21:00分頃にかけて巨大な衝突音による嫌がらせがあった。

・ 2012/09/17日、10:05分大きな衝撃音による嫌がらせがあった。

・ 2012/09/17日、午前の1時から2時前後に数回の衝撃音による嫌がらせがあった。

・ 2012/09/16日、午後の23時あたりから微弱なモーター音による嫌がらせがあった。寝つきにこれをやられたおかげで眠ることができず。

・ 2012/09/12日、午後の18時あたりから23時あたりにかけて微弱なモーター音が数十分と数回に渡る衝突音による嫌がらせがあった。寝つきにこれをやられたおかげで眠ることができず。

・ 2012/09/12日、2時30分前後二回の衝撃音による嫌がらせがあった。

・ 2012/09/11日、深夜0時前後あたりからしばらく微弱な振動モーター音と数回の衝突音による嫌がらせがあった。寝つきにこれをやられたおかげで眠ることができず。 

・ 2012/09/10日、深夜0時前後あたりからしばらく微弱な振動モーター音と数回の衝突音による嫌がらせがあった。寝つきにこれをやられたおかげで眠ることができず。

・ 2012/09/04日、15時あたりから18時あたりにかけて巨大な衝突音による嫌がらせが三回あった。

・ 2012/09/02日、21時前後、つづいて2012/09/04深夜あたり、数時間にわたる微弱なモーター音による嫌がらせがあった。寝つきにこれをやられたおかげで眠ることができず。


こういうわけで外を歩くだけでの不特定多数の人間によるストーカー行為と同じくひたすらに挑発して喧嘩を売ってきます。当然警察には話してあります。部屋で仰向けに寝て睡眠をとろうとしているところに背中から衝撃を与えられて眠りを妨害されます。お隣さんの音はまたこれとは別に時々横伝いで壁越しに音が響いてくるので階下からの騒音とは違うということが的確に分かります。前にも書きましたけど、部屋の扉から出たり入ったり耳栓を外したり装着したりする度に聞こえたり聞こえなくなったりするおめでたい幻聴があるわけはないのであって、これについては精神科医もそう言っているところのものつまり騒音その他の嫌がらせによって心気的な症状が起き統合失調症が発現していたということです。また2012月9月24日の昼間に、あまりにひどい衝撃音による嫌がらせに対してこちらが床に衝撃を与え返し「五月蝿いぞ!」と私が怒鳴った時、この階下のスポーツクラブ経営の老人の10歳程度年下の嫁の中年のオバさんが居るんですけどこの女が「そっちが~」という声を発するというレスポンスがありました。これはこの私が居住しているマンションのコンクリートの床越しに衝撃音や怒鳴り声が貫通する(していた)ことの証です。まあ以前から二階下に昔から敢えて擬声語化するならばギャーピーギャーピーとマンガの様に凄まじい声を立てる近所迷惑なオバさんが居たんですけど、今は居なくなりました。ともかく、昔のチンピラ不良少年の如く低俗悪であるとか年甲斐が無いだとかいうよりは、倫理的に論外である行為です。迷惑千万です。

 今の50歳代60歳代の人間にはこういったクズがひたすら多いんですけど、まさかこういう行為によって社会が出来上がるわけもなく、こういったゴミクズが作っているのは戦争と犯罪の火種です。日本のマスコミは戦後ひたすらこれをやりました。戦後に教育の内容の属性が変わってしまって、労働者属性のヒトのオスたちがどんどん社会の上層に入り込んでしまったこともまたこれの要因の一つとしてあります、ご都合主義と何の変哲も無い論理実証主義者とか。一つ前の記事でも書きましたけど残念なことに本当に大多数の日本人は愚かなんで、仮に「google日本から撤退しろ」「ネットの恩恵を日本人に与えるな」「あんなクズ民族は島国に隔離して自滅するにまかせろ」「日本の国土からヒトを居なくして自然公園にしろ」くらいのことを海外の人たちに言われてたとしても仕方がないです。実際日本の海は汚く潮流は激しく日本人は海外へ出るのに一歩引くのが一般的だったりするわけです。中学校の義務教育での英語の教え方というのは、ワザとレベルを下げてるんです、アレは。日本人が渡航によって海外の健全さと豊かさと美しさと賢さを知らないようにするために。悪質というよりは馬鹿です。
 日本でなくとも、ユダヤ人にだっていろいろな人が居たとおり、ナチスは指導部を除いて闇雲にチンピラの群れが加害の対象たる特定カテゴリーを欲しがっていただけというところのものであって、ヒットラーはこれに利用されました。ナチスの下士官たちがヒットラーが目指していたように真にニヒリスティックであったわけでもなくまたゲッベルスのように高邁な理念を抱いていたわけでもないです。許容量を超えていたずらに人口が増えると悲惨な出来事が起こります。

 こういった連中にかかっては下手をするとこちらが加害者扱いされていることもありきなので、すぐ警察に知らせた方がいいです。何もかも事実を全て警察の人に話すべし、ということです。



 前に論理実証主義者とJesuitが似て非なるものと書いたんですけど、論理実証主義者(Juden)は幾多の帰納的なモノ・事によって蓋然性を作り出します、文科系、場合によっては理系的文系です。反して、蓋然的人間(Jesuit)というのは、当初から在るその人格性をも含むところの蓋然性は謂わば必然でありそれに事柄を当てはめていきます。アンチ(アンチテーゼ?)である蓋然と必然が合致してます(これは「知らないものは無いものと同じ」というユダヤの人たちの価値意識と混同されやすいです)。よってそもそも当初から善意の空気を彼らは必要としているということです。つまり黙ったりそれが善事であれ悪事であれ秘密を作ってしまいやすいということであって、女性に多いでしょうけど実にこれは危険です。良い方向でこれが現れると教育に関心を持ったり力を入れているということであって、イエズス会は学問研究・教育を重んじ各国内で大学その他の機関を持っています。ユダヤ人とジェズイットは似て非なるものであって、前者は帰納的であり後者は演繹的です。ジェズイットは決まりごとは決まっているのだということであって数学的です。彼らにおいて彼らが正しいことは最初から決まってます。Ignatius de Loyolaがそもそもそういった理念で当初イエズス会を運営してましたけど、ジェズイットは対新教のための教皇の兵隊・ユダヤ殺しのための神の兵隊だということです。三島由紀夫の「ラディゲの死」という小説がありますけど、この中であまりに若くして性的にも奔放な生活を送っていたRaymond Radiguetは「神の兵隊に銃殺される」と言って死にます。イスラエルの人たちやアインシュタインのような健全であるところのユダヤの人たちをいたずらに侮辱するつもりはありませんけど、逆にユダヤは強姦魔と言うことができてしまいます。ジェズイットが蛇のようにずる賢く目的のために手段を選ばぬと言われて誤解されて非難されることがあるのは、場合によってはこれら敵を子飼いにするところすらがあるからです。毒を持って毒を制するというわけであって、ジェズイットはカトリシズムにおける泥被り役だと言っても過言ではないです。ちょっと内容の具体性的にはズレますけど、以下パスカルの「パンセ」から引用。

「 それゆえ、ジェズイットの頑なさはユダヤ人の頑なさ以上である。というのも、ユダヤ人がイエス・キリストの無罪を信じることを拒んだのは、彼の奇蹟が神から出たものか否かを彼らが疑ったからであるにすぎない。ところが、ジェズイットはポール・ロワイヤルの奇蹟が神から出たものであることを疑うことができないのに、彼らは依然としてこの修道院の無罪を疑うことをやめないからである。」

これは後世になってパスカルが書いたものであるかどうか疑わしいということにされてるみたいなんですけどそれはこの場ではどうでもいいとして、まあこういうことです。どういった風に(ナザレのイエスさんのiconを通して)神を信じるかということは決まっていた方が社会統治上都合がよかった上に、人の自由をあまりに抑圧し過ぎると、ヴェーバーが言ってますけど、プロテスタント的な人格の総合に至るまでの「倫理的態度」からは資本主義が勃興してしまうということであって、おそらくそれを見据えてのことだったんではないかと。もちろん結果的に目覚ましく技術の発展した現代と中世の社会の悪さを比べることはできませんけど、あの時代の当時勢としてはそれがよかったんですね。まあ欧米だけでなく日本もネットのおかげで良くなってるんで、E.H.カーが言うような歴史をとらえてみるとキリスト教が始まって2000年経ったところではThat's all.なのかなと。この現代に生きていられる我々は幸せです。

 私もお世話になっている医薬品その他にまつわる化学の実験とかでもそうですけど、自然科学においてデータの収集を避けて通ることはできないです。が、経済学におけるものはまだ納得できるものではありますけど、社会科学の特に社会学とかで論理実証的になんやらかんやら言っている人たちにおける個々のデータから蓋然的に導き出された答えは「アンタ、それ確実に間違えてるから」というものが多々あるんですね。一言で言うと頭が悪いです。高等教育機関付属の図書館にもその類のものでは結構酷い内容の書籍が並べられていたりします。



 昔は女性でも田嶋陽子さんみたいなたくましい女の人が居たんですけどね。確かに女に危害を加える男の心理が分からないではないです、というのは、ネットと共に育った今の10代の人たちがどういった風なのかちょっと分かりませんけど、30歳前後の私の代には「悪い女」というのがたしかに居たからです。「他人を出し抜き引きずりおろし自分だけは好位置を獲得していい男ゲット」という論理実証な性的欲望を満たすためにその行動原理をすべての場面において持ち込むような。が、やはりどの個体もヒトのメスはヒトのオスとは肉体の構造が違うんで、それが現象的にはどういったものであってもやはりどんどん悪いものは吐いて出していかないとまずいことになるんですね。女の人の「きれいになりたい」というのは趣向の問題ではなくて生存本能からきてます、たぶん。
 私SSの場合は確実に階下から騒音で嫌がらせをされてることが明白だということなんですけど、現代の日本の社会で生きるにおいては、まず第三者・警察に事実を全て知らせるということで言うべきことは言わないと身に危険が及びます。平和だ平和だと無為に実態とは違ったことを喧伝されて学校ですら子供たちがそういったことを教え込まれて盲目を誘発されているこの国がいつの間に犯罪者国家になってしまっていたのも日本人の愚かさにまつわる必然かもしれません。牛乳とか飲んでると頭がしっかりしないというか頭がボヤけるんですけど、成長期を過ぎてからも飲んでもいいものなんですかね?
the chancellor
 Memento Mori.




 ADSLの回線の異常で9月25日から2週間くらいネットに繋げなかったので、耳栓をしないと騒音の激しい室内から外へ出るかということで、この間久しぶりに買い物をしに二子玉川へ行ったんですけど、こういうある程度大っぴらな外出だとストーカーの皆さんは絡んでこないんですね。で、そこらへんの近所のスーパーへの買い物だと執拗にカラんでくるというイヤらしさです。
 私は今でも何ヶ月に一回か酒を買うことがあるんですけど、といっても買う銘柄は決まっていてイタリアのDISARONNO社のアマレットというやつです。たぶんマフィアのコワいおじさんたちが作っている酒です。齢31にして体の節々が痛む私には、あんずの核で出来たエキスの入っているこのアマレットという酒はよく効きます。で、これを買う時には決まってスーパーでキモいオバさんや母親になりたてな感じの中年くらいの若いオバさんが見張っていて、「ハハぁぁん、テメェそんなもん買ってんじゃねえよ」という顔でこちらを見てオマエを監視しているんだぞということをこちらに知らしめてくるんですね。文学的解釈上nichtなアニムスはエーテルみたいな媒介物質であるとか、女も子供を産んで中年を過ぎると何もかもがふっ切れてその根底にわだかまっていた実はイヤらしかったところのものが発現しはじめるという……のは男の願望混じりの解釈であって間違ってますけど、やっぱり現象的にはオスよりメスの方がヤラしい、自他両方向にヤらしい思いをしている、のではないかと。
 ちなみに耳栓をすると抗精神病薬を服薬した時と似たような感覚が脳にもたらされます。だから日中夜問わず私SSの脳は騒音でやられていたということです。おそらく私が子供の頃からひたすら騒音で攻撃されつづけていたということです。M'z a 悪意医師はひたすら「外へ出る!」と診療室にて言ってましたけど、私は自分が外へ出て取る行動ばかりに目がいって外へ出ること自体が重要であるという発想がありませんでした。

 あとやっぱり牛乳は一日あたり少量にしておけば摂取した方がいいものみたいです。あまり運動をしない私は牛乳を飲むと黄色い尿が出なくなるんですけど、運動不足の人間が多量に摂ると問題がありそうです。
 変な話ですけど、ヒトは成長期にいたずらに人を攻撃したり「ストレスを解消して」しまうと多分肉体の発育が未熟になります。病気にならない程度にということであって、私SSのようにストレスを溜めすぎて病気になったら元も子も無いですけど。やはり成長期には牛乳を飲んで健全なタメを作っておくのが良いです。今はもうネットというこれの代替物があるんで大丈夫ですけど、苦しみをサッサと解消してしまって人間として大切な何かというものを知らない人間は他人を育てたり他者に対して好意的に接するその仕方を知らないんですね。このコミュニケーション障害風の欠陥者はヒトのメスよりもオスに多いです。こういった自分はしたりメスを得て孕ませるという野蛮な原始人的発想しか抱けない人間が人の親になると確実に子供を虐待して最悪なことになります。私は父親がこういった人間でした、戦後の日本の大手マスコミ新聞関係者であったユダヤのゴキブリブタです。私はたぶんもう4歳児の幼稚園に入ったばかりの子供の時点でもうグレていたんです、おそらく幼児期からして自分の親があまりに不甲斐なくダメであることを見ていて。まあ内心を吐露するのであれば私はコノさんざんヤらかしてくれた親特に父親には未だに復習する気を満々に持ち続けています。私はもうこの擬似マスコミ権力を使ってさんざん自分を嬲り者にしてくれた畜生の如き父親のせいでまともに社会参画はできませんけど、こんなモノの息子でありながらまともに生きる・生きることが可能である気はサラサラありません。当然こんなゴキブリブタと同じにはなりたくないのであって悪事には及びません。なんか現在も某機関に所属し(?、笑)、その存在を証拠づけるために父親MSの名前は記載されていないところの私SSのMSの被扶養者であるという記載がされた健康保険証までが配布されてますけど、現在大方そこらへんにアパートかマンションでも借りて平日だけ背広を着て外出しそこに滞在し夜は不定期な時間を故意に狙って帰宅してくるという演劇を行うといったことあたりがオチの事実です。もちろん役所も精神科クリニックにも手が伸びてます、来院者の許可を取らずに来院者の家族と精神科医が接することは日本の法律で禁じられています、という前にもうN口クリニック院長であったところのN口先生は撤退させられて既に悪党の一員が精神科医として配置されてます、何故こういったものが平然と警察に捕まらずにいることができるのか理解できませんけど。私SSの場合はある意味特例として何処まで騙せるのか実験されているということであって、何度も言ってますけど調子の悪い人は精神科へ行って医師に診てもらってちゃんと医薬品を処方してもらってください。精神科というのは場所によってはそういった悪徳な違法行為も担っており、また逆に精神科医が脅されるケースもあるということです。私SSの場合は私の父親MSがあらゆる汚い手を使って典型的な「『自分はキチガイではない』と叫ぶキチガイ」を私にSSに自分自身のキャラとして演出させるということによって心理的苦痛を与えると同時に若い頃からギャーピー叫び立てる自分をキチガイ扱いした息子への復讐(自分の息子が復讐の対象になっている時点で人間性のタカが知れているが)そしてあわよくば日本のユダヤ赤熱豚マスコミ権力増長を狙って利用するくらいのことを行っていた豚畜生です。まあもう今は誰も人間の人間たる低レベル性の権化であるような新聞も読みませんしテレビも見ませんけど。つまり戦わせるために戦わせようとしているのであって、与えたツールで何処まで足掻くか特定の権力を持った人間たちが実験をしているわけです、が、残念ながら私はこのブログを読んでもらえば分かる通りユダヤからはかけ離れているのであって、私の父親のMSというユダヤのブタ男がまるで私がユダヤであるかのように私SSがMSによって被差別であるという点のみにおいて見せかけユダヤによる逆差別・ナチ狩りを行うということを必死に行っていました。戦争賛美者がユダヤ人であるというのはこういったことです。ナチスの行ったことは間違ってますけど、ヒットラーが「わが闘争」で言っていることは実に合理的です。何時の間にかこの日本という国は悪党の跋扈する無政府主義国家と化していました……ところを近年になってアメリカの人たちがネットを与えてくれたおかげでやっと良くなってきたんですね。……私の父親のこのMSという男はそういった人間です、無力無能で弱いくせにひたすら見せかけと虚構でまるで自分が有能で強いように見せかけ他人を騙し欺き陥れることによって相対的に自分の位置を上げ悪党に向かって「拾ってぇ~」とヌカすユダヤのブタ。

 日本でもおそらく他者を引きずり下ろして自分のポジションを相対的に上げて何かを得るということが行動原理となっているアカい豚があたかも正統な一般人であるかのようにはびこることはおそらく第二次大戦の前にはありませんでした。売国奴という言葉は私は嫌いな上に日本の国土には中国の人や朝鮮の人たちも住んでいるわけであってこの言葉は使いたくないんですけど、先にも書いたように、あろうことかJudeなアカい豚がナチや国粋主義者を装って本来的にそうである人たちを潰すということを行うんですね。まず差別するのが悪いナチスで差別されているのがかわいそうなユダヤ人だという単純発想を子供に対してひたすら刷り込みによって植え付けるところから始めたナチ狩りです。コレを第二次大戦後にサブカルチャーと日教組という豚畜生の集団が教員として公立小中学校で子供たち相手にひたすらおヤりになってくれました。子供は愚劣で卑劣な教師にひたすらレイプされました。ニューアカなんてものは(笑)の付属品です。こういったのは本当に"Hey Jude, Don't let me down."というセリフを他人にぶつけられうることを地でイってます。マスコミなんてものは少なくとも第二次大戦後の日本のものの場合は2ちゃんねると同じです。黄色人種で徒党を組みたがる奴らというのはああいった下劣な連中なんです。読売だろうが毎日だろうが朝日だろうがBBCのニュースサイトなんかと内容の違いを鑑みてもらえば一目瞭然です。
 不本意ながら私も先の記事で日本人が愚かとか言ってしまいましたけど、元来的に日本人が駄目なのではなくて、「日本の国土に生息しているヒトの群れのもと差別はあってはならない」という絶対的テーゼの下に皆同じ日本人という前提で「日本人は○○がダメ」「日本人は~でおかしい」と子供の頃から日教組にお鞭撻された頭の良い優等生であるがしかし馬鹿という中島義道さん的人間(私も10代の子供の頃この類の人間でした)を使って「日本人」なるカテゴリーを悪役に設定し攻撃させる悪質な連中が居る(た)ということです。まあ中島義道も大塚英志も残念ながら売国奴です。これは、日本人はもとより中国人がどうとか朝鮮人がどうとかということではなくて、どのような社会においても社会的低層に数が多い「汚いものをまるでそれを自分が好きであるかのように半ば脅迫的に思い込むことによって現象的にはそれを自分は好んでいることに設定する」という病的な連中、または日本においては第二次大戦後~前世紀の終わりまでのさばっていたところの戦前アカと見なされ戦後は主導を担っていた野蛮人たる戦闘屋やそれに引っ張り込まれた犠牲者たる悪質な人間たちです。



 先に挙げた芥川龍之介の「歯車」という小説では、もちろん主人公である芥川はそもそも在りもしない性欲もしくは潜在意識にわだかまっている性欲を(現象的に)在ることにされてそれを(現象的に)喚起せしめられようとしてますけど、まあフロイト先生の言うところのイドが人間の存在の根底にあるものであることが主人公をストーカーする人間たちの加害行動原理になってます。これは間違いではないですけど、ユダヤ人フロイト先生による被害者本人が受けた教育によって培われた倫理的意識をないがしろにして少なくとも現象的には在りもしないものを在るかのように見せかけてしかもその被害を被害者が告発すると今度は被害者が在りもしないものを在ると言い(性欲を我慢できないのだ)という解釈を被害者に対して押し付ける、ということがいかにもJudenの所業です。豚畜生です。私はナチスやホロコーストを肯定するつもりはありませんけど、Judeな人間ばかりになったら人類は滅亡どころか金満な人間たちのために善良な人間が適当に利用されるというそれ以上に最悪なことになるのであって、当時ユダヤ人と呼ばれていた人たちを殺すというよりはユダヤというものそのものを排除するために仕方なく出来上がってしまったのが七、八十年前のドイツにおけるナチスです。
 たしかこの「歯車」に出てきたセリフだったと思いましたけど、「しかし光のない暗もあるでしょう」というセリフ、光のない暗とは何かというと、「自分が光になってしまうこと」だとかそのへんがオチです。ゆらぎです、Dinge an sichです、ユダヤ化です。神気取りは盲目、聖書にもあったと思いますけど、「神は愚かさを盲目をもって罰する」とかなんとか。自分が光になってしまったら自分以外のものは全てブラックホールです。では現実問題として具体的にどうすればよいかというと、逆を考えればいいわけです、日光によく当たるとか光の強い場所で生活するとか。自分がブラックホールになってしまえばいいんです。太陽の光が最も上質、次に白熱球や蛍光灯の光、LED電球の光なんかあんなもの使っていたらまずいことになるということです。

 だから浦沢直樹作の漫画「Monster」に示されているように、少なくともこの2000年間歴史を作ってきたのはJudenであり、何度も何度もユダヤに火をつけられて勝手にキリストたらしめてこられた人たちが拷問されながら苦しめられ生かされて需要の種類を生み出す装置として犠牲になってきたという文学的解釈は真実かもしれません。ユングはフロイトのリビドーを広く精神的エネルギーとか解釈を広げましたけど、Daに胎動するエネルギーから生じ得るものやいかに?ということでもあります、よほど肯定的なキリスト教的な解釈をするのならば。Adolf Hitlerさんはこれの犠牲者の代名詞です。鬼畜の所業です。差別が起こるのは当たり前です。少なくとも第二次大戦後の日本ではマスコミがひたすらコレをヤってきたのは事実であって、行われてきたものは基本的にはナチ(の指導者)狩りです。まず学校教育やサブカルチャーその他で「ユダヤ人は差別されてきた」「差別されてきたのがユダヤ人だ」というお粗末なテーゼをなぜ差別が生じていたのかということを考えさせず実態を鑑みさせずとりあえず植え付けておきます。「差別はいけない」という上昇志向の強い子供にはめっぽう効く単純な文言で。義務教育の公立小中学校で行われる文化祭や体育祭なんてものはあんなものはマンガです。次に思考や行動においてナチの性向を持つ人間に目を付けます。そして当のユダヤ人によるマンガ的演劇やマスコミを使っての逆差別でそのターゲットに被差別感を植え付けます。被差別者たる社会的コンテクストを植え付けられたもともとは健常な一般市民であったところのナチス狩りの被害者は子供の頃からこれを繰り返され刷り込みを行われユダヤを味方であると思い込むようになります。個々人における環境や知能程度によってこの思い込みは擬似的なものであることの程度に深い浅いの差があります。そして同時にそれがターゲットにとって肯定的なものであれ否定的なものであれ工学化された人間関係を適用します。で、人間関係を工学化しそれにおける仮想的な社会主義を想定しそして「釣ったところのその人間が欲するものは」ということで需要を仮想的に生み出し生み出してきて今に至ったということなんですね。これにおける「ユダヤ」を「悪党」に置き換えても通用します。昔ながらの少年マンガであったような「仲間を集めて大魔王をやっつける」というのは悪党による被害者に対する強姦殺人をキレイにデフォルメしたものです。いわゆる悪党は当該社会内において自分らを一般市民とは違った悪党として通用させながら同時に悪党である自分らの仲間を増やそうとします。ヨハンは犠牲者であって、テンマじゃねえフザけんな糞ストーカーが、という内容のマンガです、アノ「Monster」というマンガは。非常に悪質です。
 ちょっと言い方が悪いですけど技術というのは「失敗の産物」であり「間違いの産物」なんですね。が、今時もう居ませんけどナチ党員みたいな人間だって技術の恩恵に預かっているわけですし、ナチスにだって当たり前ですけど技術者は居ました。だから私は現代の文明社会をまっさら否定する気はありません。当然常識的な考えとしては弱い人間や悪質な人間の加害行為の被害に遭っている人間を助けてくれる人たちが居るということであって、私もそう理解しています。
 つまり百何十年前からかある(ことになっている)schizopfrenieなるものとしては、自分をスキゾたらしめた連中(人間)に対する最大の復讐は自殺することです。精神分裂病者が居なくなって一番困るのは精神分裂病者を精神分裂病者たらしめている人間たちです。彼ら彼女らは王子であり同時に乞食である者が死ぬとまたあらたに生贄の子羊を自分らの中から選び出します、つまり皮肉にも浦沢直樹というマンガ家はMonsterというマンガタイトルで被害者を騙し騙しモンスターたらしめてネタたらしめ見世物にしさらにまたそこからネタを創造してカネを儲けるという自分らの犯罪構図を吐露してくれているというわけです。アカです(「左」への流し)。創価学会というのは池田大作という人がその意思によって作ってますけど、Adolf Hitlerさんは他称の独裁者でした。逆に精神分裂病者を一人でも多く消し去りたい、もしくは抗精神病薬でモノ言わぬシャブ漬けのアンドロイド人形のようなalbeiter parteiの下層部構成員に仕立て上げたい、というヤクザさながらの人間たちも居るのであって、これは男性原理者です(自称「右」の定常点)。スキゾを扱う精神科医は人によってユダヤだったりナチスだったりしますけど、だいたいのところ大きく二つに大別されます。抗精神病薬をいたずらに用いるだけということのみを行う精神科医の治療は結果としては効を奏しませんけど、やろうとしていることの原理的には殺人であってつまり「もう楽になれよ」と言ってくれているということです。しかしそこで何らかの作業療法その他何らかの生存手段を与えるものであればそれは上記のアカいJuden以上にタチの悪い最悪の強姦魔だということです。精神医学的には極論すれば抗精神病薬以外で必要な薬というのは副作用の無い覚醒剤やヒトが安楽死できる薬のみであるというのはこういったことでもあります。



 レポートを一つ。

「 2012年(平成24年)9月26日、N口クリニック本院院内南側の相談室にて自称I福T子(仮称)の診療を受ける。ごちゃごちゃ質問をしてくるI福に対して『以前N和という心理士にこのあたりのことは全て話してあるのだが』と私SSが言ったらば、『わ、わ、わたしここへ来たばっかりだから分からないから』と言った。ここで私が『自称k子curseマ(仮称)に渡した資料にも目を通しておらず、カルテの内容についても私の質問に応じていちいち現場で調べておりつまりロクに読んではいなかったということである』と解釈するのは敵サンの思うツボなわけであって、これは新任であるから(何も知らない)というフリを装って患者の警戒心を解き患者にあらぬことまでベラベラしゃべらせてそれらから自分らに都合のよいものを取り出して記録に付けるという論理実証主義者たるユダヤのブタお得意の汚いやり方だということである。仮に、これがI福T子の言うとおりであるとすると、k子curseマからしっかりと引継ぎをしていないというのはお友達同士でもなく先輩と後輩でもなく上司と部下でもなく患者と医師の関係であってしかもその間に金銭が介在しているところのものにあっては論外である。しかもさらには、カルテを私SSの真正面で記載するにおいては何やら書き手以外には読めない蛇行の如き文字で記載するにもかかわらず、私が過去k子curseマに申告済みである内容について『それはカルテに書いてあるはずである』と申告したところ患者である私SSから隠すようにカルテを机上から斜め上へと持ち上げこちらからは見えないようにして過去のページをめくって確認するということを行った。これは、『患者が言ったことは確実に記載しているということを患者にポーズとして示しはするが、同時にその記載内容が患者が申告した通りの内容であるという確認は現場にてはとらせず、そして後になって事実とは異なることをして『患者がその時そのように発言した』という事実の捏造をすら可能にする手段』であり、悪質な精神科医のこれはこういったやり方だということである。ちなみに睡眠薬の処方について、私はk子curseマに診療を受けた8回のうちこれを処方させたのは2、3回でありそれをI福T子に申告したが、I福T子は『カルテを見ると8回のうち毎回処方していると書いてある』と言った。」

こういったやり方を行ってくるわけであって、明らかに悪いのは向こうの方なんですね。私SSは危害を加えられているわけであって、如何なる状況を強いても如何なる理由後付けをしても無駄です。善行と悪行が決まっていてそれが如何様なものであるかということは、ヒトの脳で合理的に考えれば知的障害のヒトや脳に物理的に損傷を負うその他で障害を負っているヒト以外の万人には理解でき知ることができるものなのであって、何を危害を加える側の人間が怠慢や逃避や甘えであるにもかかわらず正当人ぶっているのかという問題です。こういった汚いやり方で他者に危害を加えてしかし法律には触れずに得てしたりという人間についてはもうヤクザでも警察でもどんどん頼んで殺していってもらわないと社会も個人も何もかもがどんどん悪くなっていくんですね。私も不本意ながらさんざん言ってますけど、2012年時点でユダヤがどうとかそういった単純短絡な人種差別的発想ではいそうですかと終わって済む問題ではないです。社会的上層だとか低層だとかそんなことは基本的にはどうでもいいのであって、エリートサラリーマンや残念ながら理系ではないところの大学教授にすらも論理実証主義のエゴ豚が居たりします。悪徳な人間はサッサとどんどん殺していっていただきたいということです。
 ちなみにもうここまで書いたんではっきり言ってしまいますけど、コイツらは芸名です。ハンドルネームで精神医療の現場ってます。もうギャグのネタとしても通用しません。寒過ぎて笑えません。ちなみにN口クリニック本院は11月末にて閉院するとのことです。その後現N口クリニック分院とやらが現在入っている某ビルの4階の一つ下の3階に新たに本院と分院との区別の無くなったクリニックが入ることが決定しているとのことです。N口クリニック分院なるものが私SSが2012年1月に初回の診療の予約を取った直後に出来たものであるとかであれば笑える、というか笑えませんけど。

 先の記事で「まあいずれにしても、このネットが使える時代に不特定多数の人間によるストーカーたる演技者で満ちあふれる潰れかけの精神科へ行くバカなど私以外にはもう居ません。」と書きましたけど、精神科というのはこういう場所なんです。残念ながら抗精神病薬を処方できる(している)のは精神科医だけなので私SSの場合は通うのも仕方が無いんですけど、精神科はサクラの存在のために存在するのであってつまり何か問題を抱えている老人以外はもう誰も精神科へは行きません。サクラの存在のために存在している精神科はまさに現代社会における社会的禍根の代名詞です。精神科医と精神科クリニックや精神病院全体で患者の反発を煽っているほどの有り様です。脳神経外科の医師だとか内科の医師の先生たちが抗精神病薬を処方できるようになればいいんですけどね。



 ネットの掲示板なんかでよくあります(ありました)けど、第一者に対して第二者が故意に理解しづらい説明をして当然理解不能であるが故に第一者が第二者に対してあらためて言葉で確認をするとサクラである第三者が笑いその他侮辱のposeを行う、という攻撃の仕方があります。これの亜種として第二者と第三者が同一人物であるということもあります。こういったものにおいては脆弱な立場に居る(はずの)ターゲットに自分らの口封じが通用しないとなると、今度はまるでターゲットが特権的に強い立場に居る者であるかのように巧妙に見せかけてその上で加害側である自分らが脆弱な立場に居るということを何らかの手段によってターゲットに知らしめそしてその上で「弱者である(ことになっている)自分らを攻撃しないでくれ」ということをも同時に伝えターゲットの善人性につけ込むというやり方で被害者であるターゲットの口封じを行うというやり方もあります。全ては「見せかけ」です。10年くらい前のネットでも掲示板その他でひたすら行われてましたけど、工作員としか表現しようのない連中によるそれが一般的・通常・普通であるというひたすらな「見せかけ」により被害者にそうであるという自覚を促しめることなく危害を加え被害者たらしめようという試みがひたすら行われていたんですね。そしてその何年経った後でネット掲示板と同程度に下劣悪な日本のマスコミが「二極化、二極化」と必死にやかましいことこの上ないチンドン屋をギャーピーやらかす、ということをやらかしてました。他人に危害を加えてでももしくは他人に危害を加えるために生きようとする弱者ほど悪者はありません。

 「そんなに『言う』ならね~」とか「言い訳するな」と言う人間時々居ますけど、そういった人間が言葉を使う場合その大部分は「言い訳」であるということです。つまりこういったのは他人を蹴落とす以外では生きる術を知らぬものである、というわけです。こういった連中とそうではない一般の人間たちの場合では同じ行為においてでも認上(認識上、認知上)全く違うものであるというのがオチです。こういったのには何がどうなっているか言葉を使って説明をする・されるという発想がありません。内容を鑑みる前にこういった人間にとってそれはsayでありsagenなんですね。唯名論的です。つまり契約関係という発想がありません。つまりその表象上のものとは逆説的に彼らは戦場では生きられません。だからこそ徴兵されません。戦争が内乱に転化された社会でのみ安全に他者貶めを行うという場合においてのみ彼らは生きることができます(にもかからわずこういった人間たちは「右」の定常を極めることができません、「左」から「右」へいくという形でガンバっているからです)。目の前の現実から逃避しているのであって甘えに走っているだけです。言葉で伝えられないこと(ものわかり)というものはありますけど、しかしこういった人間たちが言葉を使う際に発する言葉のその内容はと言えば全て虚構と欺瞞であって、そうではない人間たちが言葉を使う際のような何かを説明するという発想が無いんですね。こういった人間たちにとって言葉や言うという行為というのはワンオブザツールであって、「情報」という発想が無い、何がどうなっているかをそりゃ数学の問題を解くのでも何でもと同じであるところの言葉を使って説明をする・されるということ自体が認知不能なんですね。私もDaseinという単語を連発してこういった連中を擁護することを書きましたけど、残念ながら彼らは野蛮人です。こういった人間はヤクザか哲学者になれというのであって、中島義道さんがヒットラー的であるというのはたしかに道理です。アニムスな真のニヒリストはもちろんおそらくは存在しないのであってこれを志していたヒットラーはDaseinというよりは理科系の頭でかつ女性的であったパターンであり私SSもこれとよく似てます。で、彼らのようなヒトばかりであったらば人類の文明はここまで発達しませんでした。衣服も食品の99%も建物もスポーツ用器具も貨幣も法制度もその他諸々のものも現代社会に存するもののほぼ100%は存在しませんから、そこらへんの原っぱで全裸で枯木をこすって火を起こしながら川の生水を飲み性欲の衝動が起こった瞬間にオスとメスでウホウホヤってろということになります。当然直ぐに死滅します。一対一の男女関係以外の場においてこれを持ち込む彼らは「おチ○コ」「おマ○コ」の世界の住人であり、種の保存のためだけに生きているJudenです。ナチス下層構成員なんてものはJudenと何ら変わりないのであって、私はナチスを肯定する気はサラサラありません。で、実はナチ狩りというのは指導者属性狩りなんですね。いわゆる悪党が目論んでいるのは民主主義というよりは愚衆を招きたがっているところのものであるという表現が適切です。
 「民」の愚かさというのは当たり前の帰結であって、民主主義社会に問題があるというよりは、民主主義社会においてすらもそれが証明されうるということです。民主主義社会のアメリカが生み出した経済活動の構図であっても、大量生産大量消費を基本に消費者の商品の消費スタンスまでをも管理される(形になっている)という一般的アメリカ像は結果としての帰結であって、やはり誰もが安定した社会の存続を望んでいるということです。オスがメスを得るためだけの行いの原理であるべきものを甘えによって個人と個人との契約関係から逃避しそれを無視して場合によっては暴力に走り、一般的な人間関係にこれを持ち込むというおそらくは黄色人種に多々観察される特徴が残念ながら存在するということです。東アジアの国土において民主主義を適用すると残念ながら「民」の愚かさが多分に発現するということであって、黄色人種は(よほど肯定的に表現して)民度が高い、つまりは愚かであるということです。
 経済学というのは元々物事について合理的に考えた結果そうなるということを説明し、またそれを使ってどうしようこうしようというものであって、「経済学を教わる」とか「経済学を教える」という表現ほどナンセンスなものは無いです。そもそも「教える」「教わる」というのが文科系や低学歴の発想であって、例えば数学の問題を実際生徒に解かせずに「数学を教える」数学教師ほど無能で馬鹿な人間は居ません。文部省(文部科学省)の教育指導要領以外の余分なものまで自分の人間たるエゴを丸出しにして子供に押し付け「(人間はこうだと)教えよう」とするのは馬鹿な教師であり最低な教師の典型です。経済学は理科系です。亜流のものであってあまりよろしくないですけど、仮にそれを学ぶのに数学を使わなかったとしてもです。時々理科系であるにもかかわらず論理実証主義を振りかざすバカが居ますけど、論理実証主義は文科系の産物です。人文科学や社会科学において論理実証を振りかざすから論理実証「主義」なわけであって、自然科学において実験をしてデータを集めるのは数学という絶対的定式ありきの必然的行為であり必然的結果の補足です、「ホラ、こうなるでしょ」という。数学という絶対的定式が無いにもかかわらず実証データにより在りもしないまるでそれが数学であるかのような絶対的テーゼを生み出そうとするからそれは間違いであり間違えるということです。経済学は人間は如何なる時も合理的行動を選択するものであるという前提のもと人間の行動を取り扱うものですけど、そうではない文科系の学問分野で絶対的テーゼが欲しいのならば文学の詩でも勉強していろということです。また、もし自分が理科系やであることにこだわりを持っているようなお目出度く間違えたクズが居たらばソレはその人間が文科系の証です、低学歴に多いですけど。中二病臭い科学的態度や理科系であることにこだわっていること自体が自称理系の文系人間のものだからです。

 で、こういったのの中には「じゃあ(自分がやっていることを)お前がやれ」とか何とか言うブタクズが居ますけど、ブタクズにおかれましては当のブタクズ自身らが「お前らはやるな」と言われうるという問題です。自分らの悪事にベールを掛けて誤魔化すための自分らのいたずらな社会参画を前面に押し出すという逃避なんですね、コレは。人口の維持のために仕事がワザワザ作られているブザマな有様が現状なのであって、いいからお前らは何もやらなくていいからサッサとまとめて首を吊って死ねという問題です。悪事に及んだ事の成り行きを帳消しにするためにオシゴトに及ばれるゴミブタクズにおかれましては、「自分らがやってる」という建前を押し出して奴らの存在が肯定される筋など何処にも無いのであって、貴様らは貴様らのために存在しているだけであって貴様らが居なくなれば大方の社会問題は解決される上に労働需要が無駄に圧迫されることは無くなるだろうがたわけが、という問題です。ネットの掲示板で一部にはびこるグダグダグダグダ安全地帯から対象を叩きまくるチキンクズのゴキブリブタ虫共は所詮そういった属性の卑劣者であって最初から被害者には相手にされ得ないにもかかわらず輪姦を繰り返していたイジめられっ子属性の卑屈豚であったということです。
 私SSはこのブログを書き始める前のとうの昔から親の仕事関連もあって狙われてるんで、いわゆる「悪い奴」らにひたすらまとわりつかれてあろうことか場合によっては正義ヅラをされることすらあります。というかそもそも私の場合は近親、両親や犬糞bitchの典型のような母方の伯母や先に書いたように父方の叔母あたりがこの「悪い奴」とやらの典型なのでどうしようもないです。もし仮に私が外を歩くだけで金銭を稼いで得ているというのであれば私が外出するだけでストーキング行為に及んでくる不特定多数の人間たちの行いもまだ百歩譲って理解できますけど、私はこのブログ用の文章を書きネットにupすることも含めた日常生活のすべての面においてそれによって金銭を得ているわけではないです。まあ哲学的に考えるのならば、だから結果として現象を見るならば不特定多数によるストーカー行為を行う連中やそれに派生した連中が働かされるという意識のもとに不本意に働かされるという連中にとっては不本意なDaが結果として現れてしまっているということです。因果応報。

 まあ村上春樹の吐しゃ物のような小説でもエヴァンゲリオンだかのブサイクなしゃくれアゴアニメでも画像修正ツルツルピカピカの下品なユダヤのエビルとかの女芸能人でも、こういったのは自分らJudeな不良チンピラはこうやって必死に生きてる(きた)ということを実態感として教え込みたい・知らしめたいんというものもあるんでしょうね。残念ながら実態としてはもうネットもアメリカの人たちが与えてくれた上に昔とは何もかもが違うんですね。たしかに彼らの感慨は言語化や映像化された「情報」では理解できません、だからネット上の実体感を伴わない「情報」では分からないというのもあります、が、彼らにはちょっと可哀相ですけどそもそもそんなもの残す必要があるのかということです。おそらく地球上の何処に生きる人であっても、現代の社会に生きるにおいて、中世やそれ以前の人をやたらめったら襲っていた夜盗・野盗の感慨なんざ分かりませんし分かる必要もありません。三浦健太郎の漫画とかあんなもの畜生です。同じく前世紀までの戦争なんてものは愚かな人間の愚かな人間による愚かな人間のための野蛮人の所業であって、そういう風に解釈して、データとして残されていれば充分過ぎるということです。戦争なんざあんなもの何も産みません。敢えて言うならユダヤの金貸し屋が儲かるだけです、戦争は最も儲かる事業であるということを言う経済学の研究者も居るくらいです。
 結局、前世紀に威張り散らかしていた正々堂々と勝負するだかなんだかを正面に持ってきて偉丈夫を気取っていた自称本物のワルもたどりついたところはネットの巨大掲示板群その他であって、結局連中がエサにしていたようなチョロチョロ逃げるのと同じかそれ以下の程度の行いをしていたということです。サブカルチャーすらもがこれに利用されてましたけど、結局は自分らの暴力をどうにかして場合によっては美化してまで肯定させることにいそしんでいたということです。私はワルだったわけではないのでそういった世界の人たちのことはよく知りませんけど、ああいった人たちだって自分は本物のワルだぶっている若いチンピラをたぶん下から拾ってくるんですね。その上で「ものわかり」を教えてたぶん後継を育てるという一般的な勤め人と変わらないやり方なんでしょうけど、オタクですらそんなことやらないようなというよりは自称本物ワルだからこそやるような矮小な卑劣行為でターゲットを貶めるあのネットの自称ワル共の子豚虫みたいな所業を見ていると素人目にもああいった人たちの後継になりうるような人間というのは居ないんではないかと思ったりもします。結局ああいった連中も百害あって一利も無いところの女が女を引きずり下ろす女のイジめみたいなものをやるんです、特にこの日本という国土に生きるヒトの場合は。
 「男が戦って女を守る」という時代は前世紀で終わりました。発想的に野蛮人というか下手をすると古代ギリシアまで遡ります。「戦う男がかっけえ(笑)わけねーだろ?」というわけであって、戦う男なんてのはブザマです。私は不本意ながら戦いのために戦わされてますけど、戦う男なんてものは単なるブザマな野蛮人です。というか私は私を戦わせようと強いてくる男に対して戦って他人を押しのけ引きずり下ろし殺してまで生きようとする人間の愚劣さをこれでもかと知らしめるのが大好きなんで、コレは日本人の男に多いんですけどヤクザになる覚悟も無いクセにヒトでありながらサルやゴリラのような野蛮人に野蛮人が社会不適応者たる野蛮人であることを知らしめまた私がこういった野蛮人とは違うということを野蛮人に知らしめることほど楽しいことはないです。悪党に対して自己防衛して後は我関せずという態度を保持することは悪党の存在を悪党として認めることになるんですね。悪党に居場所を与えると悪党はそこで悪党として生き延びようとしてしまいます。逆に私は、現代であっても一人で生きていける強い女の人を見ると尊敬と畏怖の念を抱きます、ちょっと恐いです。St. Elmo's fire lightという記事で人間を弱者と強者に分けることができた場合のカテゴリー分けをして「Ⅲ 自分より強者に対して弱く、自分より弱者に対して強い、という人間」というのを考えましたけど、Ⅲは少なくとも文献の類を読むかぎりでは歴史上の全てのユダヤ人です。タビデの星をひん曲げてそこに強引にヒトをつっ込んだエニアグラムのタイプ1もタイプ2もタイプ3もタイプ4もタイプ5もタイプ6もタイプ7もタイプ8もタイプ9もすべてこのカテゴリーⅢです。こういったのが何故そうやって貶めるべき他者を設定するかというと、当然叩く対象としての第三者の存在がJudenにとっては加害か被害の対象でしかない第二者からのシールドや回避器具の役割を果たしてくれるからです。また、「主体性が無くかつ人間関係が工学化されている」からです。

 当然こういったチンピラというか悪党に働かれると労働需要が減るという点においてもそういった不良人間が所得を得てしまうことによるその使い道による治安の悪化という点その他でも非常な社会的損益が生まれます。健常な一般市民の職と生活がこういった不良チンピラのクズによって奪われるんですね。しかも不良チンピラのクズが所得を得られてしまうことによって何を勘違いしたか「じゃあ自分らの代わりにお前が『やれ』」とホザく始末です。お前ら不良チンピラのクズは「やるな」、一刻も早く首を吊って死ね、ということであって、労働需要が増えて社会不安が減ればそれだけ健常な一般市民が職に就きうるということです。何故こんな単純なことが分からないんですかね?それとも不良チンピラのクズは甘えで自分らの存在が許されると思ってるんですかね?他人を押しのけ危害を加えてでも生きようとする人間に生きられることほど迷惑で有害なことは無いんですね。ちなみにこういったチンピラ男の言う「いい奴」「悪い奴」なんてものは、そういった連中にとって都合がいいか都合が悪いかでしかないわけであって、自分らに都合よく体のいい利用の仕方が出来るか出来ないかでしかないです。現に連中自身よく喧嘩や殺し合いをします。



 ヘーゲルは、自己が外化されてそこから世界としての自己を見るようになる(全て知る)、そしてその後世界化された自己(の肉体、骨)に自己意識が還ると、自己は世界化された自己という世界の中に納められ、そして外界に自己内にある世界を見ることになる、この時宗教や芸術が成立する、みたいなことを言ってます。世界内にある自己が、自己内にある世界を見るということです。

「精神的-有機的な存在は、同時に静止的な存立的な定住という側面を、当然もっている。前者すなわち精神的側面は、自立(対自)存在という極として引きさがり、後者すなわち定住を、他方の極としてそれに対立させねばならない。それから、この他方の極は、精神が原因としてはたらきかける対象である。そこで脳髄と脊髄とは、精神が、いま言ったように、身体的に自立したもの(自覚、対自存在)だとすれば、頭蓋と脊柱が、この自覚(自立、対自)存在から分離された、もう一つの極としてさらにつけ加わり、つまり固定し静止した物としてつけ加わってくることになる。―中略―だから、脊柱は当然捨てられるのだと、言いたければ言ってもよい。頭蓋だけが、精神の諸々の器官を含むものではないという説は、その他多くの自然哲学上の教説と同じように、虚構されたものなのである。というのも、このことは、精神-身体関係という概念からは、すでに除外されてお、そのため、頭蓋が精神の定住する側面だと、されてしまっているからである。言いかえれば、事柄の概念を想い起してはならないというのならば、経験でさえも、器官としての眼が見るのと同じ形で、頭蓋が人殺しをしたり、盗みをしたり、詩をつくったりするのではない、ということを教えてくれる。だから、これからまだ問題となる、頭蓋の意味に対しては、器官という言い方はさしひかえねばならない。なぜならば、理性的な人は、言葉ではなく事柄を問題にする、と普通言われるけれども、だからといって、事柄を事柄にふさわしくない言葉で言い表してもよいとは、考えられないからである。というのは、こういうやり方は、下手なやり方であると同時に、いつわりであるからである。つまり、ただ正しい言葉をもっていないだけだと思いこみ、またそう見せかけるだけであるならば、その概念には正しい言葉もあるだろう。――だからさしあたりここで定められることは、脳髄が生きた頭であるように、頭蓋は死んだ頭であるということだけである。」

これはヘーゲルの「精神現象学」からの引用です。私が先に書いた「悪気は肉体の病から」というのは唯脳論的見地に基づいているのであり、これは唯脳論とともにおそらく間違ってます。唯一在るのは脳ではなくてDaということです。日本語で「神」という文字を使う表現はちょっと誤解を招くのであまり良ろしくないです。ヘーゲルはこれを脳髄とか脊髄とかであると言ってますけど、これも「(生きた頭である限りにおいて)間違って」ます。ヘーゲルの言説内での正解は頭蓋です、精神が定住しないからです。Totenkopfはヘーゲルに拠れば世界だということです。……ということは逆にヒトの肉体の機能を司るものが脳であるという科学的見地によれば精神の存在を事実であると考えてもよいということかもしれません。



 私は時々エロマンガを見るんですけど、男性には元来的に女性を性的にどうにかしてしまいたいという性的欲望があります。だからオスはネットでエロ画像を見るのも万事ありき、という発想のもとそのような行動に及びます。「ああ、ああ、コレコレ、これがオレらの中に内在しているモノさ」という感触です。逆に女性は汚いものを見ると汚くなるつまり悪い情報を取り入れると悪くなるという発想です。だからメスはエロ画像を見るオスや男性器に対して「きゃあ汚い!」という感触を持ちます。元来的には女性には男性に性的にどうにかされてしまいたい・男性を性的にどうにかしてしまいたいという欲望は無いからです。というかもしこの文章を読んでくれる若い女の人が居たら男のペニスに対して汚いという感慨を持って下さい、「えぇ~チ○コじゃん」とかいう適当なノリが一番ヤバいです。で、どちらが合っていて正しいかというとメスの方なんですね。やはり情報はそれがいかなる種類のものであれ潜在意識・無意識下に溜まる、「腑に落ち」ます。情報を腑に落としてもペニスが大きくなるわけではないです、むしろ私みたいに体調が悪くなったり病んだりして萎縮します。男性器が肉の穢れたるアニマで女性器がニヒルなアニムスであると考えるとまたこれはこれで分かりやすかったりします。私は昔知人に「セックスなんざヤっても『アレ?こんなもんなの?』ってなモンよ」と言われたことがあるんですけど、おマ○コなんか見ても「アレれ、中になんも無いじゃん」というところがたぶんオチです。

 このブログもここまで書いてどうやら私SSは女好きなのではなくて男嫌いであることが分かりました。これは自分の父親に端を発してます。第二次大戦後の日本における穢多畜生所業であるユダヤマスコミ新聞業に携わっていたという点においてもそうですし、もちろん論外ではありますけど渡辺恒雄くらいのアレならばともかくチキンクズのザコ虫であるにもかかわらず幼児的演技により強い男ぶりエディプスたらんとするそのカンチガイぶりがウザいの一言では到底形容不可能である程に激烈不快であることもそうです。だから私は、ヤーさんは恐いですけど、いわゆる右翼に親近感を感じます、強い男を体現して強いということがどういうことか教えてくれるからです、高校も右の私立高校を選んで行きました。悪い人間は殺してくれとしか言い様がありません。だから私は遠距離攻撃でひたすら自分らの卑屈さと無能力さをアピールするためにヤらかしてくるそこらへんの一般的ジャップのオスひいては黄色人種のオスが大嫌いであったのだということを最近知りました。とてもあの卑屈な一般的ジャップのオス共を仲間だとは思えませんし考えられません。別に私から彼らに危害を加えようとかどうこうしようとかは思いませんし賃金労働への欲求はありますけどとてもではないがコレらと一緒に働こうという気にはなりません。

 男が女を辱しめるからすぐに女は精神を病みます。分裂症を発症します。明治や大正の昔は産褥熱といって産後の女性が精神的ストレスで病んでその流れで精神分裂病・分裂症発症とか多々ありました。それ以前の江戸時代より昔はたいそう悲惨だったでしょう。

 助けてくれるのも女、危害を加えてくるのも女。男など最初から居なかったのかもしれません。
You may take my life.
 ダビデの星を盗んだ男。




 普通の健常なヒトは、右へ力を入れれば右へ傾いて左へ力を入れれば左へ傾きます。例えば右手にペンや鉛筆を持ち紙面に筆記をすることを考えれば体感的によく分かります。で、時々逆になるヒトというのが居るんですね。私がそうです。右手に力を入れると頭蓋の左半分が意識されて首から上が左へ傾きます。……首を切られているわけです、身体論的に言うと。小学校なんかでよく読書感想文とかで右(上)から左(下)へと向かう作文用紙に字を書かされましたけど、あれは非常に良くないです。普通に大学ノートか何かに横書きで書くのが良いです。

 昔の週間少年マンガの主人公のマンガ内での神秘がかった陳腐な行いとしてヒトの正統な肉体の使い方を子供たちに否定的に学習させそこから反面させてしまうのもそうですけど、エニアグラム図にヒトの性格とやらを設定して場の形象的に偏った一点に意識その他を膠着させることほど有害なことは無いんですね。これは自称竜頭万里子さんだけではなくて、おそらく何処の高等教育機関付属の図書館にも心理学コーナーにエニアグラムに関する鈴木なんとかという人やなんとかリソという人の書いた本が一冊くらいはありますけど、ヒトの性格をそのSolomon's Seal図内の一定位置にあてはめている時点で健全なものではないです。エニアグラム図そのものから学ぶことは多いですけど。あれは円内の各位置からのベクトルの向け方に学ぶところがあります、頭の使い方だと考えると分かりやすいです。一般的に「頭を使う」というと、マンガ的解釈によって「能力を発揮する」という意味だと捉えてしまいがちですけど、そうではなくてこれは「頭蓋を意識している状態」であり身体感覚的に頭にキている状態ということです。糖分もそうですけど、塩分の摂取量を落とすと身体感覚的に頭にキます。あまりものを食べない痩せ型の体系の人に勉強が出来る人たちが多いのはこういったことです。オタクのお兄さんたちだって大抵の場合はストレスで過食に走っているだけであって本来的にはヤセ型、本来的にヤセ型であるからこそ肉が付くと筋肉質ではなく肥満体型、ということです。痩身が筋肉ムキムキマッチョになることは非常に難しいです。頭を使うということがどういうことだか分からないヒトたちは、頭を使うべき場面においてまで胃や腹を使ってしまっているんですね。つまり腑に落として暗記することしかできない、ものわかりという発想がそもそも無い、ということです。これは病気です。だから昔の少年マンガもRPGとかでよくあった能力一拠点偏重上昇のゲームも動物占いの類も性格判断もすべて悪質なんですね。特にエニアグラム性格判断で一固定点にヒトを定常させるなんてものは上記の通り場の形象的に一点に意識を傾けるものであって最悪です。
 風水とかも場の形象についての知識体系ですけど、Yi-Fu Tuanという中国系アメリカ人の地理学者が「トポフィリア」という書籍で場のコスモロジー的な捉え方について論じてます。ちくま学芸文庫から文庫本で出てます。TOPOPHILIAというのは日本語に訳出すると「場所愛」です。

 絵というのはおそらく良いです、見るのも描くのも。鉛筆で絵を描くのとかいいんじゃないですかね。自分で何枚か描いてみた絵を眺めてそこから場の形象に関する何らかのコスモロジーを見ることができれば、自分がどういった状態なのか分かるための資料になるかもしれません。



 図柄とか場の形象といえば、IQテストで計られる知能指数というものがありますけど、だいたいその知能指数の上下の程度によってものの考え方が似通ってくるんですね。たしかアインシュタインはIQ175でニュートンはIQ125と計算されてます。IQ125はだいたい50人に1人くらい、小中学校の1クラスに1人くらいは居る計算であって世界中に1億数千万人は居ます。IQ175は数億人に1人とか10億人に1人とかであって、世界中のヒトのうち両手で数えられるか数えられないかくらいしか居ません。ニュートンという人は私の言い方で言うと絶対的に右に定常していること・知的であることに自信とプライドを持っていた人ですけど、おそらくIQ125あたりに壁があるんです、いくらそっちでいっても限界があるよという。キャリア官僚とノンキャリア官僚の違いみたいなものだと考えてもらえば分かりやすいです。
 ちなみにニュートンはあまり良い顔はしていません。アインシュタインは非常にユダヤ人離れした温和で知的な顔付きをしてます。人種もそうですけど、知能によっても顔つきが変わってきます。



 このあいだ昼間に近所の小学校の近くで先生が付き添って課外授業か何かの子供たちが歩いているのを見たんですけど、結構ラフにバラバラに歩いていて、一組1対1で手をつないで歩いている男の子と女の子を見たんですね。「ああ、こりゃ日本も少し変わったな、」と思いました。こういうことに関してはたぶん大分良くなるっぽいです、これから。
 おそらく黄色人種は、ユングの言う精神的エネルギーだと考えると理解しやすいですけど、フロイトの言うリビドーのような性的エネルギーみたいなものが強くて、それを無闇に抑圧するからちょっと高尚な「精神的エネルギー」の方ではなくて悪い俗文化の方へ流れちゃうんですね(まあユングの言う精神的エネルギーというのは解釈です)。最悪の場合風俗店通いだとかエロゲーとかへ流れついてしまいます。黄色人種はやはり女性的なんです。場の形象に絵柄を見てコスモロジー的解釈を得るということがユングの表現を借りるならば精神的エネルギーの強さの表れです。中国の人たちの生み出した漢字は黄色人種の誇るべき文化の極致です、が、やはり対人関係でイき過ぎるところがあるんですね。私はそういった人たちと仲良くなることは子供のころからあまりありませんでしたけど、実は黄色人種の日本人の中でもそうではない人たちがスポーツマンの中に大いに居ることは私も知ってます。脳までもが健康ひいては精神的に健康であるヒトたちというのは顔面の表情どころか形に至るまで健康です。形が健康でも表情に悪意が滲み出ているビジュアル系みたいなヒトたちも居ますけど、これは健康ではないです。……私も健康な人たちと仲良くしていた方がより健康であったでしょうけど、残念ながら私は非常に不健全な家庭に育ちました。



 ヘーゲルの「精神現象学」の頭蓋論より再び引用。

「精神の発達が、器官を大きくまたは小さくするか、それとも不恰好で厚ぼったいもの、または上品なものにするかも定まらないであろう。原因がどういう性質のものかは、不定のままなのだから、頭蓋に対する影響がどういうふうに起るか、つまり拡げることになるのか、それとも縮めて、そして両者を一つにすることになるのかも、不定のままである。(――すべてこういう見解に対しては、あれこれともっともらしい理由をもち出すことができよう。というのは、どの場合にも同じように関与している有機的関係は、あれやこれやの理由をどれも不問に付してしまい、そういうすべての悟性に対し無関心だからである。)」

「滅びる」ということは残虐になるということです。moriはmortalityの意で、イコールでMoritatです。頭のてっぺん、頭頂部に百会(ひゃくえ)というツボがあるんですけど、ここは絶対に押さない方が良いです。普通の状態だとちょっと触ってもへこんでいることなんか分かりません。だから、ちょっと押して「ああ、ちょっとへこんでてツボがあるのが分かるな」という時点でもうあまりよろしくないです。ところで百合(ゆり)の花で最も有名なのは鬼百合という名の植物ですけど、いわゆる鬼のツノが生える状態というのはこの百会(ひゃくえ)というツボを押すと側頭部斜め上あたりが意識されてそこがちょうど鬼のツノが生える場所なんですね。究極のサディストは放置を旨とするとか。鬼百合は見てるだけ、見てるだけの鬼百合。
Seelen-Schatz
 不幸の原因は、幸せからの逃避。




 昔からそうですけど公立中学の教師というのは本当に酷く自分らの好き嫌いを露骨に反映させた成績のつけ方をするんですね。だからまず公立中学の豚教師共の意思が生きてしまう公立高校を潰さないといけないんですね……と思ってこの間本かなにかで高校のレベルのランクを見てみたら、私が中学生の子供だった時よりさらに公立高校のレベルは落ちぶれてどの学区も一番手高以外は私立高校に蹴落とされてクタばってました。

 「役に立つ」というのは、工学化された人間関係という舞台において「役」として「立っている」ということであって職場の発想なんで、少なくとも学校に通っている10代の子供に概念として適用させるべきものではないんですね。シェイクスピアの文学作品からはこれをおおいに学べますけど、これは職場だから成り立つのであって、現実的に目の前の人間関係にこれを適用したらば確実に失敗します。
 今はだいぶ良くなっている気がありますけど、つまり公立小中学校の教師たちが行っていた「教育」は大多数の子供たちにとってはただの強姦です。先生たちが小学生の子供たちに「理由無くいたずらに人を傷つけてはいけない」とか教えるのは大切なことですけど、子供たちはそういったことは大人に教わらなくても子供たち同士で学ぶものであって有害なヒトは排斥されていくように出来てるんで、基本的には教科書の内容だけ教えていればいいんですね。



 我流の解釈や空気でgelesenせずに何が何なのか知るということは大切なことですけど、それが言葉を使ってのものであっても映像を使ってのものであっても何がどうなっているかの認識を得るところにヒトのヒトたる由縁があるのであって、行為の世界に生きている者なんてものはただの野蛮人たるサルです。これはチンピラの「じゃあヤれよ」という頭の悪いセリフに象徴されてますけど、「知」=「行為」ではないです。こんな単純なことが分からないヒトがこの日本という国においては未だに生息してます。

 「間違える」というのは「間」を違えるということです。事象における「あいだ」の認知といえば、精神科医の木村敏さんが著書で書いてますけど、この人はそれが妄であろうが想であろうが念の如何なるものかについて解説してます。私はフッサールという人の書いたものは読んだことがないのでこれについては何とも言えないんですけど、このあたりのものが何ものであるかはヘーゲルが「精神現象学」の中で全て説明してくれてます。数学が何故数学であるかを解説するのもまた哲学です。解説ではなくそれそのものの(芸術的)産物が詩です。数学イコール文学における哲学や詩ではないです。100年前において数学で言語をやらかすという間違えたことをやった馬鹿というよりは阿呆であるところのヴィトゲンシュタインですけど、200年前にヘーゲルが実に上手く謂わば数学の数学性のようなものを説明してくれてます。

 例えば、日本語において、もう「個々人の考え」という言葉使いがおかしいです。「思いを尊重する」だとか「意思を尊重する」だとかいうのならば妥当ですけど、「考えを尊重する」というのは言語的に矛盾してます。思いや想いというのは人それぞれですけど、少なくともヒトの脳にまつわる考えというのは数学的で全て同じです。当たり前のことだということです。だから二千年や三千年の昔からヒトのエゴに基づく邪教というものは人々の合理的思考のもと何度も何度も潰されて今日の文明社会に至りました。本日ではこの日本という国においてマスコミ教という邪教があります、もうほぼ潰されてますけど。例示として極論するならば、もし仮に政治にエゴに基づく一市民の声が届いてそれが変わってしまう程度のものならば、それはそれで政治というものがもはやエゴイスティックな単一市民と同程度の価値しか持っていないということです。誰にも政治というものが必要とされていない、誰も政治なんか相手にしていない、ということです。それが事実大多数の一般市民による合理的な考えに基づく意見であればそうではないということなんですけどね。というのは、日本ではいまだに一般市民を標榜してマスコミのカメラの前でまるでそれが一般市民一般の意見であるかのように見せかけ原子力発電がどうのこうのと言っているマスコミ子飼いの犬も居るということ、そこにまたこの万禍の元たるエゴの新たな形が発現していたりします。

 以下三度ヘーゲルの「精神現象学」の頭蓋論より引用。

「そういうわけで、この死んだ存在において、脳髄の精神的運動や一定の在り方は、外的現実となって現れる。とはいっても、個人そのものにおいてあるような現実となって、現れるということになろう。これら運動や在り方と、精神を自分自身のうちに内在させていない、死んだ存在としての頭蓋との、関係の代りに現れてくるのは、まず、すでに言ったように固定した関係であり、外的機械的な関係である。そのため、本来の器官――そしてこれらの器官は脳髄にある――が、頭蓋をここでは円い形で表わし、そこでは広くうち出したり、平たくつき出したりすることになる。またそのほか好きなように、この結果を言いあらわすことができる。頭蓋としも有機体の一部であるから、各々の骨においてと同じように、頭蓋においても、生きた自己形成があると考えられねばならない。そのため、頭蓋の方から言えば、脳髄を圧迫して、これを外から制限しているのは、頭蓋だとも考えられる。頭蓋は、脳髄よりも硬いのだから、むしろそうする能力があることになる。だが、その場合でも、やはりいま言った関係は、両者相互のはたらきをどう定めるかという点に在ることに、変りはなかろう。なぜならば、頭蓋が規定するものであるか、規定されうものであるか、ということは、因果関係には何も変化を与えないからである。ただ、原因である頭蓋のなかには、自立(自覚、対自)存在という側面があるため、頭蓋は、自己意識の直接の器官とされることになるだけのことである。とはいえ、自立(自覚、対自)存在は有機的に生命のある形であるため、その両者のうちに同じように帰せられるので、実際には、両者間の因果関係はなくなってしまう。だが、両者が引き続き形成されるとき、その形成は、内面においては関連しており、有機的な予定調和になっているであろう。」

こんなのがオチです。最初からマスメディアとの因果を絶っておけばいいんですね。新聞や雑誌もテレビもラジオもマスメディアの情報は全て汚いです。汚いものは取り入れないという女性の発想からは大いに学ぶところがあります。



 で、やっぱり頭の良い人間には馬鹿な人間が多く、頭の悪い人間には賢い人間が多かったりします、少なくとも日本人の場合は。日本の国土がどうこう、「日本」という固有名詞で唯命されたものがそうである、というよりは、第二次大戦後の日本の社会でそういったことを下の世代の人間に植え付ける社会ぐるみでの教育が敷かれていたということです。
 昔、戦時中の軍隊では、ガンダムのアニメなんかでもよくありますけど、「修正」と呼ばれる一見暴力行為以外の何物でもないような、下級兵を直立させて歯をきちんと食い縛らせてそして主に古年兵が彼らの頬を殴るというものがありました。私はもちろんこういった類の暴力行為はそのイメージ的問題からしても非常に嫌いですけど、こういった組織だった一定の秩序下において行われるものにはそれなりの意味や具体的効脳があるものだということを最近知りました。もちろん行為としては論外ですけど。特に昔の人は生きるために目的達成に偏重することなく身体を基本にしていたということです。これはやはり、タチの悪いそれこそ勝慎太郎の兵隊やくざみたいなものは論外ですけど、相手にきちんとした姿勢を取らせきちんとした状態にして、且つ運動神経の優れた者が右手で殴るということを行えば(殴れば)それこそ効果のあるものみたいなんですね。その場合に、彼らはいわゆる「入った」だとか「決まった」とかいう表現を使います。これはもちろん相手を棒の様に突っ立たせて運動神経に優れた・身体能力の高い者が行った場合に為されるものです。要するにそういった人に殴ってもらえば良い効果とは言わないまでも、身体感覚が修正されるものではあるっぽいです。ちなみに左手を使用する、左利きの人間がそういったことを行うのは論外、というか最悪です。間違いなく殴られた方の身体感覚に悪影響を及ぼします。もちろん私はこんなもの肯定しするつもりはありませんし現実的に考えて怪我をするので行為として論外ではありますけど、何故こんなことが行われるのかということを考えてみるところ、無闇な暴力としてまかり通っていたものではなく何らかの効果を狙ってのものであったということです。やはりこういったものを無根拠に全面否定することはこれはこれでナンセンスです。何故そういったことを他者が己に対して行ってくるのか、それをじっくり吟味してみないことには、おそらくいつまでもそういったことをやられ続ける駄目な人間である、ということになってしまいます。そうでなければ被害者意識に絡め取られてどんどん堕落してゆくだけです。そういったことをやられることには何らかの原因があります。根拠をもってして否定しろということです。だから、自分の行動や言動や価値意識の性向等を充分に吟味して、どういった時・場合において何が起こるのか、ということを冷静に考えてみることは、仮にそれが暴力沙汰であっても、大事なことなんですね。反省というやつです。



 以下分かりやすい分類の仕方としてパスカル型とデカルト型という二分類で話を進めます。経済学はパスカル型です、微積分多用して三角関数とか使いません。デカルト型は言っては悪いですけど現代ではちょっと単純過ぎます。が、パスカルの「無用にして不確実なデカルト」というのはパスカルのパスカル的発想によるデカルトに対する嫌味であって、「役に立って」いるのはデカルト(型)の方です。ちなみにこのパスカルさん、ジェズイット嫌いでユダヤ好きです。で、デカルト型は工業高校的であると形容すると分かりやすいです。養老孟司さんが自身を野蛮人であると言ったと内田樹さんの本のあとがきに書いてありましたけど、この人物は実にデカルト的です。本来的に医学というものは薬物を濫りに使用した対処療法ではなくデカルト的であるべきものなんでしょう、人体のマクロ的に。が、現実問題としてデカルト的なものというのはあまりに時代遅れ過ぎて、ここ日本だと2ちゃんねるのような非常~に不健全なところで非常~に頭の悪いチンピラたちが頑張っている(た)だけです。前に某巨大匿名掲示板群はナチスの実態だとか書きましたけど、ナチス下部構成員によって運営されていた強制収容所の現場というのは秩序と混沌たる暴力や釣りの混じったああいったものだったと考えると妥当です。
 デカルト型の人間というのは能力の上下というよりは左右の属性的に無能です。特に現代の日本の社会において最も分かりやすいその表れ方としては、10代の子供の頃に英語が出来ないというところに表れます。言語能力が低いということです。要するに馬鹿か賢いかは別問題として、デカルト型の人間というのは頭が悪い傾向があります。逆に馬鹿であるか賢いかは別としてパスカル型の人間というのは頭が良いです。
 デカルトのような「幾何学的精神」の持ち主に戦場での強さはありません。むしろパスカルの言うところの「繊細な精神」の持ち主の方が百戦錬磨です。ちなみにパスカルは社交界に出入りしてました。で、ジャンセニストは人柄が悪いです。パスカルの「パンセ」を読めば分かりますけど、かなり好き嫌いが混じっているのであって、嫌味というかこういったものの源流はユダヤです。現代においては何よりヤンセンファーマという製薬会社から出ているリスパダールという薬物を服薬すれば「嫌」というものが如何なるものか体感的に一発で理解できます。ヒットラーになりたいヒトにオススメ、よくこんなものが平気で医薬品として認可されているなという問題ですけど。ヘーゲルがユダヤの始祖アブラハムとユダヤの源流について論じてますけど、ユダヤというのは他者や他物ひいては世界に対する反発からそれに対しているということです。ちょっと私の我流の言い方で申し訳ないですけど、パスカルは若い頃に左をやってから年取って右に戻りました。デカルトは若い頃に右でいてから年取ってから左になりました。



 例えば日本人におけるギャグを鑑みるにおいて、それが陳腐であるという理由でそれを(ギャグとして)肯定したりまた逆に否定するクセがつくと物事の本質的なところを見なくなるので、「ああ、これは別にイイや」「これはアリだね」という緩みが生まれて落とし穴にハマる可能性が発生するので危険です。これは罠であり最悪の場合地雷です。「ワザと」を理解する能力のために「嘘を本当だと」思い込んでしまう負の遺産としての能力が発生してしまうということです。「ワザと」がまったく理解できないというヒトはそれはそれで問題ですけど、後継の人間が育たないので。

 謙遜もまた恥意識その他と同じく万物の元凶の一つです。もう今は年が若くなるにつれこういったものも減ってますけど、よほど特殊な能力でもないかぎり謙遜の性向の無い人間がこの日本という国で排斥される傾向にあることは私も知ってます。が、またこれも日本人の愚かな性向の一つです。我慢は万物の元凶であって、いたずらに我慢なんかしていると心身を病みます。これについての真実を知ることができるのは自分の心だけであって、自分の心に嘘をついて我慢なんかしていると何もかもが悪くなります。
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