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2025.04.17 Thursday
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And then there were none.
2012.09.21 Friday
150年かけて使い捨てられた人々。
メスに対して唯名的に実在してもらってから実在的に唯名してもらおうとするのがおそらくヒトのオスの恋愛行動パターンです。オスにとっては恋というのはmovement、「うごき」だということであって、現象から愛が発生するという。だからオスはまずメスの体を求めるんですね。逆にメスにとっては愛や恋は「存在」です。存在として認可したオスでないとメスは絶対に体を開きません。
高等学校で習った数学なんでちょっとうろ覚えですけど、複素数を考えてもらうと分かりやすいです。y=a+bi(aとbは実数、iは虚数単位)というやつです。一つ前の記事で書いたように、iはオスのとっての母親、Nichtseinです。たとえばこれでiについて解いたりyとiをひっくり返したりしてから両辺を自乗してもyは複素数のままなんですね。……やはり男女関係において男の方で待ってるのは男のエゴ、男の側からイけってことですかね。太宰治の小説に「待つ」という短編がありますけど、「一言言ってさそってくれれば……」というのが女性の恋愛におけるナイーブな「待っている」心理を表しているのかもしれません。その後で女に是か非かの自分についての査定してもらえばよいので、という。もしくは一対一の男女の関係だけは愛ありきで始めないと上手くいかないとか。これが悪魔の存在の証明ではなくて愛の存在の証明になりゃいいんですけどね。これを現実的にカバーするものとして昔からどこの原始的な社会でも結婚という制度があったりします。
「死して生(な)れよ!」というホーフマンスタールの言葉でもそうですし、ヤクザというと極端ですけど江戸以前の日本の社会でも「のっぺらぼう」のお話にあらわれているようにこういった教えがあったでしょうし、キリスト教でもたしかアッシジの聖フランチェスコの「太陽の讃歌」だったと思いますけど「……死んで永遠の命をいただくのですから」という文言がありますし聖書でもそういったものが語られてます。特定の社会に帰属するにあたっての哲学というと大げさですけど、古今東西人間皆考えることはほとんど同じです。脳も含めたヒトの体の構造は皆同じだからです。自分の肉体を認識するところのcogitoのみが有りうるものであって、それは再世界化の道具だということで、それイコール肉体なるものつまり"Je pense,"の具現体が自分の肉体であると考えるとたぶん正解です。つまり食物でもそうですし視覚情報や聴覚情報でも汚い情報を取り入れてしまうと醜いことになるとか。
「 ―前略―トルストイのPolikouchkaを読みはじめた。この小説の主人公は虚栄心や病的傾向や名誉心の入り交じった、複雑な性格の持ち主だった。しかも彼の一生の悲喜劇は多少の修正を加えさえすれば、僕の一生のカリカチュアだった。―後略―」
この芥川龍之介の「歯車」という小説では、のっぺらぼうテーマでその露骨さが描かれてますけど、芥川龍之介は自殺する以前に実際これをやられていたというわけです。外を歩くだけで不特定多数の人間による集団ストーカーの被害に遭うというのなら私SSもやられましたし、戦後の日本でも一昔前まで芸能人になるような人たちにはこういう目に遭った人が居たのかと。これはどういう風に人間社会ひいては世界が歯車ってるかを教えるものでしかないんですけどね。あんたがそこから材料を取り出して歯車を一つ作ってそれをclock worksに組み込んでいるのだ、あんたがそれをカリカチュアたらしめているのだ、決まりごとというのは決まっていて(Dasein)あんたがそれに初めて気付いた・認知を得ただけのことだ、ということです。「人」は物事の関係を乱すものであって、物事の関係において人は関係無い、人 ist 関係 ない、ということです。
事に仕えるにおいて工学化されていないcommunicationizedされたあやふやでなご迷惑なリビドーの昇華物を持ち込むとうっとおしがられますし、他者との人間関係においてそれを工学化しようとすると必ず失敗して自分と相手が加害者になってしまったり被害者になってしまったりします。
しかし残念ながら、日本人の男、黄色人種たる日本人のヒトのオスの行動に共通するものを考える時に、精神の年齢の度合いが幼稚園児か小学生並であるということを念頭に置くと彼らの行動が全て合理的に説明できてしまう場合が多々あります。人間関係を工学化してしまっているのもそうですけど、そうであるというよりは、快楽主義的に他者に対して嫌がらせを行う幼児的なヒトのオスが残念ながら黄色人種少なくとも日本人のオスには多々居るというこことです。嫌がらせもその方法も何もかもが幼児的だということです。こういった連中においては、とにかくターゲットに不快感を与えることが第一の目的なのであって、それが嫌がらせ行為そのものであろうがもしくはあまりに低レベルな嫌がらせを繰り返すことによって相手に「自分らは貴様のことをこんなに見くびっているぞ・ナメているぞ」ということを知らしめるという目的のものであろうが、まずそれが嫌がらせであるということをまず知らしめることに拠るのであれば、どのようなものであっても有り得てしまうわけです、何故ならヒトが不快感を感じる場合というのは普遍的に決まっているので。さらに悪質なものであると、そこでターゲットがそれをおフザけでやっているかのようなテーゼを勝手に設定して、それが「左」であれ一見したところでは第三者からは健全に見えうるところの「右」の定常へ戻すという行為(「左」だの「右」だのが被害者と加害者の間で共通認識としてまかりとおり、且つ被害者が第三者視点においてそう考えるであろうところのもの)であれ、本人におけるコントロール感を失わせ場合によっては本人に被コントロール感を植え付けた上でどんどん本人が意識しないところのあらぬ方向へと釣っていくということを行い、それを酒の肴にするということも行うということです。つまりこれは輪姦です。the operating radiusという記事で書きましたけど、黄色人種もしくは日本人というのはこういったことを行うわけです。私SSは抗精神病薬リスパダールの効能とのタッグでこれをやられましたけど、加害者としては自分らの攻撃が相手に効いてくれないと自分らの攻撃行動を行う意味が無いんですね。これで最終的に誰が被害を被るかというと、女性、ヒトのメスです。だから人権意識を尊重するアメリカの人達に「これがオメーらだろ?」と言われんばかりの大地にそそり立ったペニスの如きキノコ雲を二本立てられました。しかもそれで犠牲になったのはそれについてはほとんど罪の無い一般の人たちなんですね。ネット掲示板やウザさ極まる広告の群れその他で溢れる日本語圏のネット見ても分かりますけど、残念ながらいまだに日本は子供の国、ガキの国、餓鬼界だということです。私は日本人見てて思いますけど、本当に幼稚園の時に見渡していた人間の戯れる縮図が肉体の成長とそれにまつわる知能だけが成長した人間によるそれとしてそのままで現れているというなという感慨を抱きます。
その他こういった幼児的な男に見られるものとしては、自分が悪事に及んだ事後におフザけや困ったような顔を表現したりといったことやお道化その他ワザとマンガ的コンテクストをワザワザ自分から設定しその中でそれを表明するということによって被害者の怒りを削ごうと試みるということがあります。この糞道化に至ってはハンパではなくウザいどころか被害者の嗜虐心をこの上無く掻きむしるものなのであって、殺意を覚えるという程度では済まないところのものです。
つまり私のようなことを言っている人間やその他特定の人間たちが偉くて上であるわけでもなんでもなくて、「テメーらが下なの。」ということです、彼らの幼児的快楽主義意識に付き合って合わせたことを言ってあげるのならば。何故、こんな既に小さな人間社会を構成するところの幼稚園児でも分かるようなことが分からないんですかね?自分ら悪事に及ぶクズだけでは安定した社会を形成できないのであって、健常な一般市民におこぼれとして与えられた社会内の特定の位置にて生息を許されているということが分からないんですかね?……というのはどうやら愚問なようであって、こういったクズな連中というのは学ばないのではなくて快楽のために学習を拒否しているだけであって、怠慢であり逃避であり甘えです。万死に値します。先の記事でも書いたような、「下」属性、労働者属性、それはそれぞれの横ならびなものとして考えるべき特徴であると考えるとそれはそれで納得のいくものではありますけど、百歩譲って。
現代の日本にて目の前の現実を見たことを言うのならば、低学歴且つノンスキルだったりするいわゆる社会的低層の労働者が言っちゃ悪いですけど陳腐にも何らかの社会主義的テーゼのもと「社会に貢献」できることは皆無です。自給数百円や多くとも千いくらかで単純労働力として使われざるを得ない人たちに「出来ること」なんかありません。残酷なようですけど彼ら彼女らに出来ることは悪事や犯罪に走ったりその存在からしてそれの予備軍として社会不安をいたずら煽らない為にサッサと首を釣って一人でも多く死んでもらうことです。人口がいたずらに増えればどういった悲惨なことになるかは歴史上枚挙に暇がありませんし、最近でもアメリカのオバマニューディールとか見れば分かります。しかも現代ではマルサスが言うようには人口は減りません。社会主義を極めたようなおヤクザさんの仕事だってそういった覚悟の要る仕事でしょうし、男しかなれませんし、男性でもよっぽと強い人間でないとやってられないでしょう。決まっていないのは人間関係だけであって、物事は決まってます。「どうせ~」「どうせ俺ら~」とか言うブタも居ますけど、どうせではなく最初からダメなものはダメです。悪事に走れば個人も社会も何もかもが悪くなるということであって、サッサと死ねということです。時々「私たちだって働いてる」とか何故か自信ありげに言う人たちが居ますけど、何の事物にも貢献しないがしかし彼ら彼女らが生きるためにワザワザ作り出されたバイト君御用達の生きる最低限の保証としての自給800円だかなんだかで雇うための仕事によって生かされながら社会主義的なものを振りかざす人たちにおいては、ナメているのかなんなのか知りませんけど、自分らがどういった様に社会的に無能力であってどういった様に社会に仕方なく飼ってもらっているかという事実を的確に認知する必要があるんですね。現代社会では機会は平等に与えられてますけど、人間は平等ではありません。しかも機会が平等である(と見なされている)からこそ、余計に平等ではありません。そしてそれを理解したらば、社会(主義)上自分らは無利益どころか有害であって即刻自殺するべきであるということを理解できるはずなんですね。……しかしヒトとして生まれてきた以上仕方がないことですし、堕落のベクトルを持ったヒト達を放っておくわけにはいきませんし、人道に基づく考えから、問題解決の糸口として、私がいくつか前の記事で書いた生活も具体的にある程度管理され生殖も子供一人だとか最低限のものだけに留められるということを前提にしての非常に楽でストレスの溜まらない仕事のための仕事をこなせばいいだけのノンキャリア特定雇用枠創出のようなものを発想としては考えることもできますよ、ということです。
メスに対して唯名的に実在してもらってから実在的に唯名してもらおうとするのがおそらくヒトのオスの恋愛行動パターンです。オスにとっては恋というのはmovement、「うごき」だということであって、現象から愛が発生するという。だからオスはまずメスの体を求めるんですね。逆にメスにとっては愛や恋は「存在」です。存在として認可したオスでないとメスは絶対に体を開きません。
高等学校で習った数学なんでちょっとうろ覚えですけど、複素数を考えてもらうと分かりやすいです。y=a+bi(aとbは実数、iは虚数単位)というやつです。一つ前の記事で書いたように、iはオスのとっての母親、Nichtseinです。たとえばこれでiについて解いたりyとiをひっくり返したりしてから両辺を自乗してもyは複素数のままなんですね。……やはり男女関係において男の方で待ってるのは男のエゴ、男の側からイけってことですかね。太宰治の小説に「待つ」という短編がありますけど、「一言言ってさそってくれれば……」というのが女性の恋愛におけるナイーブな「待っている」心理を表しているのかもしれません。その後で女に是か非かの自分についての査定してもらえばよいので、という。もしくは一対一の男女の関係だけは愛ありきで始めないと上手くいかないとか。これが悪魔の存在の証明ではなくて愛の存在の証明になりゃいいんですけどね。これを現実的にカバーするものとして昔からどこの原始的な社会でも結婚という制度があったりします。
「死して生(な)れよ!」というホーフマンスタールの言葉でもそうですし、ヤクザというと極端ですけど江戸以前の日本の社会でも「のっぺらぼう」のお話にあらわれているようにこういった教えがあったでしょうし、キリスト教でもたしかアッシジの聖フランチェスコの「太陽の讃歌」だったと思いますけど「……死んで永遠の命をいただくのですから」という文言がありますし聖書でもそういったものが語られてます。特定の社会に帰属するにあたっての哲学というと大げさですけど、古今東西人間皆考えることはほとんど同じです。脳も含めたヒトの体の構造は皆同じだからです。自分の肉体を認識するところのcogitoのみが有りうるものであって、それは再世界化の道具だということで、それイコール肉体なるものつまり"Je pense,"の具現体が自分の肉体であると考えるとたぶん正解です。つまり食物でもそうですし視覚情報や聴覚情報でも汚い情報を取り入れてしまうと醜いことになるとか。
「 ―前略―トルストイのPolikouchkaを読みはじめた。この小説の主人公は虚栄心や病的傾向や名誉心の入り交じった、複雑な性格の持ち主だった。しかも彼の一生の悲喜劇は多少の修正を加えさえすれば、僕の一生のカリカチュアだった。―後略―」
この芥川龍之介の「歯車」という小説では、のっぺらぼうテーマでその露骨さが描かれてますけど、芥川龍之介は自殺する以前に実際これをやられていたというわけです。外を歩くだけで不特定多数の人間による集団ストーカーの被害に遭うというのなら私SSもやられましたし、戦後の日本でも一昔前まで芸能人になるような人たちにはこういう目に遭った人が居たのかと。これはどういう風に人間社会ひいては世界が歯車ってるかを教えるものでしかないんですけどね。あんたがそこから材料を取り出して歯車を一つ作ってそれをclock worksに組み込んでいるのだ、あんたがそれをカリカチュアたらしめているのだ、決まりごとというのは決まっていて(Dasein)あんたがそれに初めて気付いた・認知を得ただけのことだ、ということです。「人」は物事の関係を乱すものであって、物事の関係において人は関係無い、人 ist 関係 ない、ということです。
事に仕えるにおいて工学化されていないcommunicationizedされたあやふやでなご迷惑なリビドーの昇華物を持ち込むとうっとおしがられますし、他者との人間関係においてそれを工学化しようとすると必ず失敗して自分と相手が加害者になってしまったり被害者になってしまったりします。
しかし残念ながら、日本人の男、黄色人種たる日本人のヒトのオスの行動に共通するものを考える時に、精神の年齢の度合いが幼稚園児か小学生並であるということを念頭に置くと彼らの行動が全て合理的に説明できてしまう場合が多々あります。人間関係を工学化してしまっているのもそうですけど、そうであるというよりは、快楽主義的に他者に対して嫌がらせを行う幼児的なヒトのオスが残念ながら黄色人種少なくとも日本人のオスには多々居るというこことです。嫌がらせもその方法も何もかもが幼児的だということです。こういった連中においては、とにかくターゲットに不快感を与えることが第一の目的なのであって、それが嫌がらせ行為そのものであろうがもしくはあまりに低レベルな嫌がらせを繰り返すことによって相手に「自分らは貴様のことをこんなに見くびっているぞ・ナメているぞ」ということを知らしめるという目的のものであろうが、まずそれが嫌がらせであるということをまず知らしめることに拠るのであれば、どのようなものであっても有り得てしまうわけです、何故ならヒトが不快感を感じる場合というのは普遍的に決まっているので。さらに悪質なものであると、そこでターゲットがそれをおフザけでやっているかのようなテーゼを勝手に設定して、それが「左」であれ一見したところでは第三者からは健全に見えうるところの「右」の定常へ戻すという行為(「左」だの「右」だのが被害者と加害者の間で共通認識としてまかりとおり、且つ被害者が第三者視点においてそう考えるであろうところのもの)であれ、本人におけるコントロール感を失わせ場合によっては本人に被コントロール感を植え付けた上でどんどん本人が意識しないところのあらぬ方向へと釣っていくということを行い、それを酒の肴にするということも行うということです。つまりこれは輪姦です。the operating radiusという記事で書きましたけど、黄色人種もしくは日本人というのはこういったことを行うわけです。私SSは抗精神病薬リスパダールの効能とのタッグでこれをやられましたけど、加害者としては自分らの攻撃が相手に効いてくれないと自分らの攻撃行動を行う意味が無いんですね。これで最終的に誰が被害を被るかというと、女性、ヒトのメスです。だから人権意識を尊重するアメリカの人達に「これがオメーらだろ?」と言われんばかりの大地にそそり立ったペニスの如きキノコ雲を二本立てられました。しかもそれで犠牲になったのはそれについてはほとんど罪の無い一般の人たちなんですね。ネット掲示板やウザさ極まる広告の群れその他で溢れる日本語圏のネット見ても分かりますけど、残念ながらいまだに日本は子供の国、ガキの国、餓鬼界だということです。私は日本人見てて思いますけど、本当に幼稚園の時に見渡していた人間の戯れる縮図が肉体の成長とそれにまつわる知能だけが成長した人間によるそれとしてそのままで現れているというなという感慨を抱きます。
その他こういった幼児的な男に見られるものとしては、自分が悪事に及んだ事後におフザけや困ったような顔を表現したりといったことやお道化その他ワザとマンガ的コンテクストをワザワザ自分から設定しその中でそれを表明するということによって被害者の怒りを削ごうと試みるということがあります。この糞道化に至ってはハンパではなくウザいどころか被害者の嗜虐心をこの上無く掻きむしるものなのであって、殺意を覚えるという程度では済まないところのものです。
つまり私のようなことを言っている人間やその他特定の人間たちが偉くて上であるわけでもなんでもなくて、「テメーらが下なの。」ということです、彼らの幼児的快楽主義意識に付き合って合わせたことを言ってあげるのならば。何故、こんな既に小さな人間社会を構成するところの幼稚園児でも分かるようなことが分からないんですかね?自分ら悪事に及ぶクズだけでは安定した社会を形成できないのであって、健常な一般市民におこぼれとして与えられた社会内の特定の位置にて生息を許されているということが分からないんですかね?……というのはどうやら愚問なようであって、こういったクズな連中というのは学ばないのではなくて快楽のために学習を拒否しているだけであって、怠慢であり逃避であり甘えです。万死に値します。先の記事でも書いたような、「下」属性、労働者属性、それはそれぞれの横ならびなものとして考えるべき特徴であると考えるとそれはそれで納得のいくものではありますけど、百歩譲って。
現代の日本にて目の前の現実を見たことを言うのならば、低学歴且つノンスキルだったりするいわゆる社会的低層の労働者が言っちゃ悪いですけど陳腐にも何らかの社会主義的テーゼのもと「社会に貢献」できることは皆無です。自給数百円や多くとも千いくらかで単純労働力として使われざるを得ない人たちに「出来ること」なんかありません。残酷なようですけど彼ら彼女らに出来ることは悪事や犯罪に走ったりその存在からしてそれの予備軍として社会不安をいたずら煽らない為にサッサと首を釣って一人でも多く死んでもらうことです。人口がいたずらに増えればどういった悲惨なことになるかは歴史上枚挙に暇がありませんし、最近でもアメリカのオバマニューディールとか見れば分かります。しかも現代ではマルサスが言うようには人口は減りません。社会主義を極めたようなおヤクザさんの仕事だってそういった覚悟の要る仕事でしょうし、男しかなれませんし、男性でもよっぽと強い人間でないとやってられないでしょう。決まっていないのは人間関係だけであって、物事は決まってます。「どうせ~」「どうせ俺ら~」とか言うブタも居ますけど、どうせではなく最初からダメなものはダメです。悪事に走れば個人も社会も何もかもが悪くなるということであって、サッサと死ねということです。時々「私たちだって働いてる」とか何故か自信ありげに言う人たちが居ますけど、何の事物にも貢献しないがしかし彼ら彼女らが生きるためにワザワザ作り出されたバイト君御用達の生きる最低限の保証としての自給800円だかなんだかで雇うための仕事によって生かされながら社会主義的なものを振りかざす人たちにおいては、ナメているのかなんなのか知りませんけど、自分らがどういった様に社会的に無能力であってどういった様に社会に仕方なく飼ってもらっているかという事実を的確に認知する必要があるんですね。現代社会では機会は平等に与えられてますけど、人間は平等ではありません。しかも機会が平等である(と見なされている)からこそ、余計に平等ではありません。そしてそれを理解したらば、社会(主義)上自分らは無利益どころか有害であって即刻自殺するべきであるということを理解できるはずなんですね。……しかしヒトとして生まれてきた以上仕方がないことですし、堕落のベクトルを持ったヒト達を放っておくわけにはいきませんし、人道に基づく考えから、問題解決の糸口として、私がいくつか前の記事で書いた生活も具体的にある程度管理され生殖も子供一人だとか最低限のものだけに留められるということを前提にしての非常に楽でストレスの溜まらない仕事のための仕事をこなせばいいだけのノンキャリア特定雇用枠創出のようなものを発想としては考えることもできますよ、ということです。
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