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2025.04.16 Wednesday
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Seelen-Schatz
2012.10.18 Thursday
不幸の原因は、幸せからの逃避。
昔からそうですけど公立中学の教師というのは本当に酷く自分らの好き嫌いを露骨に反映させた成績のつけ方をするんですね。だからまず公立中学の豚教師共の意思が生きてしまう公立高校を潰さないといけないんですね……と思ってこの間本かなにかで高校のレベルのランクを見てみたら、私が中学生の子供だった時よりさらに公立高校のレベルは落ちぶれてどの学区も一番手高以外は私立高校に蹴落とされてクタばってました。
「役に立つ」というのは、工学化された人間関係という舞台において「役」として「立っている」ということであって職場の発想なんで、少なくとも学校に通っている10代の子供に概念として適用させるべきものではないんですね。シェイクスピアの文学作品からはこれをおおいに学べますけど、これは職場だから成り立つのであって、現実的に目の前の人間関係にこれを適用したらば確実に失敗します。
今はだいぶ良くなっている気がありますけど、つまり公立小中学校の教師たちが行っていた「教育」は大多数の子供たちにとってはただの強姦です。先生たちが小学生の子供たちに「理由無くいたずらに人を傷つけてはいけない」とか教えるのは大切なことですけど、子供たちはそういったことは大人に教わらなくても子供たち同士で学ぶものであって有害なヒトは排斥されていくように出来てるんで、基本的には教科書の内容だけ教えていればいいんですね。
我流の解釈や空気でgelesenせずに何が何なのか知るということは大切なことですけど、それが言葉を使ってのものであっても映像を使ってのものであっても何がどうなっているかの認識を得るところにヒトのヒトたる由縁があるのであって、行為の世界に生きている者なんてものはただの野蛮人たるサルです。これはチンピラの「じゃあヤれよ」という頭の悪いセリフに象徴されてますけど、「知」=「行為」ではないです。こんな単純なことが分からないヒトがこの日本という国においては未だに生息してます。
「間違える」というのは「間」を違えるということです。事象における「あいだ」の認知といえば、精神科医の木村敏さんが著書で書いてますけど、この人はそれが妄であろうが想であろうが念の如何なるものかについて解説してます。私はフッサールという人の書いたものは読んだことがないのでこれについては何とも言えないんですけど、このあたりのものが何ものであるかはヘーゲルが「精神現象学」の中で全て説明してくれてます。数学が何故数学であるかを解説するのもまた哲学です。解説ではなくそれそのものの(芸術的)産物が詩です。数学イコール文学における哲学や詩ではないです。100年前において数学で言語をやらかすという間違えたことをやった馬鹿というよりは阿呆であるところのヴィトゲンシュタインですけど、200年前にヘーゲルが実に上手く謂わば数学の数学性のようなものを説明してくれてます。
例えば、日本語において、もう「個々人の考え」という言葉使いがおかしいです。「思いを尊重する」だとか「意思を尊重する」だとかいうのならば妥当ですけど、「考えを尊重する」というのは言語的に矛盾してます。思いや想いというのは人それぞれですけど、少なくともヒトの脳にまつわる考えというのは数学的で全て同じです。当たり前のことだということです。だから二千年や三千年の昔からヒトのエゴに基づく邪教というものは人々の合理的思考のもと何度も何度も潰されて今日の文明社会に至りました。本日ではこの日本という国においてマスコミ教という邪教があります、もうほぼ潰されてますけど。例示として極論するならば、もし仮に政治にエゴに基づく一市民の声が届いてそれが変わってしまう程度のものならば、それはそれで政治というものがもはやエゴイスティックな単一市民と同程度の価値しか持っていないということです。誰にも政治というものが必要とされていない、誰も政治なんか相手にしていない、ということです。それが事実大多数の一般市民による合理的な考えに基づく意見であればそうではないということなんですけどね。というのは、日本ではいまだに一般市民を標榜してマスコミのカメラの前でまるでそれが一般市民一般の意見であるかのように見せかけ原子力発電がどうのこうのと言っているマスコミ子飼いの犬も居るということ、そこにまたこの万禍の元たるエゴの新たな形が発現していたりします。
以下三度ヘーゲルの「精神現象学」の頭蓋論より引用。
「そういうわけで、この死んだ存在において、脳髄の精神的運動や一定の在り方は、外的現実となって現れる。とはいっても、個人そのものにおいてあるような現実となって、現れるということになろう。これら運動や在り方と、精神を自分自身のうちに内在させていない、死んだ存在としての頭蓋との、関係の代りに現れてくるのは、まず、すでに言ったように固定した関係であり、外的機械的な関係である。そのため、本来の器官――そしてこれらの器官は脳髄にある――が、頭蓋をここでは円い形で表わし、そこでは広くうち出したり、平たくつき出したりすることになる。またそのほか好きなように、この結果を言いあらわすことができる。頭蓋としも有機体の一部であるから、各々の骨においてと同じように、頭蓋においても、生きた自己形成があると考えられねばならない。そのため、頭蓋の方から言えば、脳髄を圧迫して、これを外から制限しているのは、頭蓋だとも考えられる。頭蓋は、脳髄よりも硬いのだから、むしろそうする能力があることになる。だが、その場合でも、やはりいま言った関係は、両者相互のはたらきをどう定めるかという点に在ることに、変りはなかろう。なぜならば、頭蓋が規定するものであるか、規定されうものであるか、ということは、因果関係には何も変化を与えないからである。ただ、原因である頭蓋のなかには、自立(自覚、対自)存在という側面があるため、頭蓋は、自己意識の直接の器官とされることになるだけのことである。とはいえ、自立(自覚、対自)存在は有機的に生命のある形であるため、その両者のうちに同じように帰せられるので、実際には、両者間の因果関係はなくなってしまう。だが、両者が引き続き形成されるとき、その形成は、内面においては関連しており、有機的な予定調和になっているであろう。」
こんなのがオチです。最初からマスメディアとの因果を絶っておけばいいんですね。新聞や雑誌もテレビもラジオもマスメディアの情報は全て汚いです。汚いものは取り入れないという女性の発想からは大いに学ぶところがあります。
で、やっぱり頭の良い人間には馬鹿な人間が多く、頭の悪い人間には賢い人間が多かったりします、少なくとも日本人の場合は。日本の国土がどうこう、「日本」という固有名詞で唯命されたものがそうである、というよりは、第二次大戦後の日本の社会でそういったことを下の世代の人間に植え付ける社会ぐるみでの教育が敷かれていたということです。
昔、戦時中の軍隊では、ガンダムのアニメなんかでもよくありますけど、「修正」と呼ばれる一見暴力行為以外の何物でもないような、下級兵を直立させて歯をきちんと食い縛らせてそして主に古年兵が彼らの頬を殴るというものがありました。私はもちろんこういった類の暴力行為はそのイメージ的問題からしても非常に嫌いですけど、こういった組織だった一定の秩序下において行われるものにはそれなりの意味や具体的効脳があるものだということを最近知りました。もちろん行為としては論外ですけど。特に昔の人は生きるために目的達成に偏重することなく身体を基本にしていたということです。これはやはり、タチの悪いそれこそ勝慎太郎の兵隊やくざみたいなものは論外ですけど、相手にきちんとした姿勢を取らせきちんとした状態にして、且つ運動神経の優れた者が右手で殴るということを行えば(殴れば)それこそ効果のあるものみたいなんですね。その場合に、彼らはいわゆる「入った」だとか「決まった」とかいう表現を使います。これはもちろん相手を棒の様に突っ立たせて運動神経に優れた・身体能力の高い者が行った場合に為されるものです。要するにそういった人に殴ってもらえば良い効果とは言わないまでも、身体感覚が修正されるものではあるっぽいです。ちなみに左手を使用する、左利きの人間がそういったことを行うのは論外、というか最悪です。間違いなく殴られた方の身体感覚に悪影響を及ぼします。もちろん私はこんなもの肯定しするつもりはありませんし現実的に考えて怪我をするので行為として論外ではありますけど、何故こんなことが行われるのかということを考えてみるところ、無闇な暴力としてまかり通っていたものではなく何らかの効果を狙ってのものであったということです。やはりこういったものを無根拠に全面否定することはこれはこれでナンセンスです。何故そういったことを他者が己に対して行ってくるのか、それをじっくり吟味してみないことには、おそらくいつまでもそういったことをやられ続ける駄目な人間である、ということになってしまいます。そうでなければ被害者意識に絡め取られてどんどん堕落してゆくだけです。そういったことをやられることには何らかの原因があります。根拠をもってして否定しろということです。だから、自分の行動や言動や価値意識の性向等を充分に吟味して、どういった時・場合において何が起こるのか、ということを冷静に考えてみることは、仮にそれが暴力沙汰であっても、大事なことなんですね。反省というやつです。
以下分かりやすい分類の仕方としてパスカル型とデカルト型という二分類で話を進めます。経済学はパスカル型です、微積分多用して三角関数とか使いません。デカルト型は言っては悪いですけど現代ではちょっと単純過ぎます。が、パスカルの「無用にして不確実なデカルト」というのはパスカルのパスカル的発想によるデカルトに対する嫌味であって、「役に立って」いるのはデカルト(型)の方です。ちなみにこのパスカルさん、ジェズイット嫌いでユダヤ好きです。で、デカルト型は工業高校的であると形容すると分かりやすいです。養老孟司さんが自身を野蛮人であると言ったと内田樹さんの本のあとがきに書いてありましたけど、この人物は実にデカルト的です。本来的に医学というものは薬物を濫りに使用した対処療法ではなくデカルト的であるべきものなんでしょう、人体のマクロ的に。が、現実問題としてデカルト的なものというのはあまりに時代遅れ過ぎて、ここ日本だと2ちゃんねるのような非常~に不健全なところで非常~に頭の悪いチンピラたちが頑張っている(た)だけです。前に某巨大匿名掲示板群はナチスの実態だとか書きましたけど、ナチス下部構成員によって運営されていた強制収容所の現場というのは秩序と混沌たる暴力や釣りの混じったああいったものだったと考えると妥当です。
デカルト型の人間というのは能力の上下というよりは左右の属性的に無能です。特に現代の日本の社会において最も分かりやすいその表れ方としては、10代の子供の頃に英語が出来ないというところに表れます。言語能力が低いということです。要するに馬鹿か賢いかは別問題として、デカルト型の人間というのは頭が悪い傾向があります。逆に馬鹿であるか賢いかは別としてパスカル型の人間というのは頭が良いです。
デカルトのような「幾何学的精神」の持ち主に戦場での強さはありません。むしろパスカルの言うところの「繊細な精神」の持ち主の方が百戦錬磨です。ちなみにパスカルは社交界に出入りしてました。で、ジャンセニストは人柄が悪いです。パスカルの「パンセ」を読めば分かりますけど、かなり好き嫌いが混じっているのであって、嫌味というかこういったものの源流はユダヤです。現代においては何よりヤンセンファーマという製薬会社から出ているリスパダールという薬物を服薬すれば「嫌」というものが如何なるものか体感的に一発で理解できます。ヒットラーになりたいヒトにオススメ、よくこんなものが平気で医薬品として認可されているなという問題ですけど。ヘーゲルがユダヤの始祖アブラハムとユダヤの源流について論じてますけど、ユダヤというのは他者や他物ひいては世界に対する反発からそれに対しているということです。ちょっと私の我流の言い方で申し訳ないですけど、パスカルは若い頃に左をやってから年取って右に戻りました。デカルトは若い頃に右でいてから年取ってから左になりました。
例えば日本人におけるギャグを鑑みるにおいて、それが陳腐であるという理由でそれを(ギャグとして)肯定したりまた逆に否定するクセがつくと物事の本質的なところを見なくなるので、「ああ、これは別にイイや」「これはアリだね」という緩みが生まれて落とし穴にハマる可能性が発生するので危険です。これは罠であり最悪の場合地雷です。「ワザと」を理解する能力のために「嘘を本当だと」思い込んでしまう負の遺産としての能力が発生してしまうということです。「ワザと」がまったく理解できないというヒトはそれはそれで問題ですけど、後継の人間が育たないので。
謙遜もまた恥意識その他と同じく万物の元凶の一つです。もう今は年が若くなるにつれこういったものも減ってますけど、よほど特殊な能力でもないかぎり謙遜の性向の無い人間がこの日本という国で排斥される傾向にあることは私も知ってます。が、またこれも日本人の愚かな性向の一つです。我慢は万物の元凶であって、いたずらに我慢なんかしていると心身を病みます。これについての真実を知ることができるのは自分の心だけであって、自分の心に嘘をついて我慢なんかしていると何もかもが悪くなります。
昔からそうですけど公立中学の教師というのは本当に酷く自分らの好き嫌いを露骨に反映させた成績のつけ方をするんですね。だからまず公立中学の豚教師共の意思が生きてしまう公立高校を潰さないといけないんですね……と思ってこの間本かなにかで高校のレベルのランクを見てみたら、私が中学生の子供だった時よりさらに公立高校のレベルは落ちぶれてどの学区も一番手高以外は私立高校に蹴落とされてクタばってました。
「役に立つ」というのは、工学化された人間関係という舞台において「役」として「立っている」ということであって職場の発想なんで、少なくとも学校に通っている10代の子供に概念として適用させるべきものではないんですね。シェイクスピアの文学作品からはこれをおおいに学べますけど、これは職場だから成り立つのであって、現実的に目の前の人間関係にこれを適用したらば確実に失敗します。
今はだいぶ良くなっている気がありますけど、つまり公立小中学校の教師たちが行っていた「教育」は大多数の子供たちにとってはただの強姦です。先生たちが小学生の子供たちに「理由無くいたずらに人を傷つけてはいけない」とか教えるのは大切なことですけど、子供たちはそういったことは大人に教わらなくても子供たち同士で学ぶものであって有害なヒトは排斥されていくように出来てるんで、基本的には教科書の内容だけ教えていればいいんですね。
我流の解釈や空気でgelesenせずに何が何なのか知るということは大切なことですけど、それが言葉を使ってのものであっても映像を使ってのものであっても何がどうなっているかの認識を得るところにヒトのヒトたる由縁があるのであって、行為の世界に生きている者なんてものはただの野蛮人たるサルです。これはチンピラの「じゃあヤれよ」という頭の悪いセリフに象徴されてますけど、「知」=「行為」ではないです。こんな単純なことが分からないヒトがこの日本という国においては未だに生息してます。
「間違える」というのは「間」を違えるということです。事象における「あいだ」の認知といえば、精神科医の木村敏さんが著書で書いてますけど、この人はそれが妄であろうが想であろうが念の如何なるものかについて解説してます。私はフッサールという人の書いたものは読んだことがないのでこれについては何とも言えないんですけど、このあたりのものが何ものであるかはヘーゲルが「精神現象学」の中で全て説明してくれてます。数学が何故数学であるかを解説するのもまた哲学です。解説ではなくそれそのものの(芸術的)産物が詩です。数学イコール文学における哲学や詩ではないです。100年前において数学で言語をやらかすという間違えたことをやった馬鹿というよりは阿呆であるところのヴィトゲンシュタインですけど、200年前にヘーゲルが実に上手く謂わば数学の数学性のようなものを説明してくれてます。
例えば、日本語において、もう「個々人の考え」という言葉使いがおかしいです。「思いを尊重する」だとか「意思を尊重する」だとかいうのならば妥当ですけど、「考えを尊重する」というのは言語的に矛盾してます。思いや想いというのは人それぞれですけど、少なくともヒトの脳にまつわる考えというのは数学的で全て同じです。当たり前のことだということです。だから二千年や三千年の昔からヒトのエゴに基づく邪教というものは人々の合理的思考のもと何度も何度も潰されて今日の文明社会に至りました。本日ではこの日本という国においてマスコミ教という邪教があります、もうほぼ潰されてますけど。例示として極論するならば、もし仮に政治にエゴに基づく一市民の声が届いてそれが変わってしまう程度のものならば、それはそれで政治というものがもはやエゴイスティックな単一市民と同程度の価値しか持っていないということです。誰にも政治というものが必要とされていない、誰も政治なんか相手にしていない、ということです。それが事実大多数の一般市民による合理的な考えに基づく意見であればそうではないということなんですけどね。というのは、日本ではいまだに一般市民を標榜してマスコミのカメラの前でまるでそれが一般市民一般の意見であるかのように見せかけ原子力発電がどうのこうのと言っているマスコミ子飼いの犬も居るということ、そこにまたこの万禍の元たるエゴの新たな形が発現していたりします。
以下三度ヘーゲルの「精神現象学」の頭蓋論より引用。
「そういうわけで、この死んだ存在において、脳髄の精神的運動や一定の在り方は、外的現実となって現れる。とはいっても、個人そのものにおいてあるような現実となって、現れるということになろう。これら運動や在り方と、精神を自分自身のうちに内在させていない、死んだ存在としての頭蓋との、関係の代りに現れてくるのは、まず、すでに言ったように固定した関係であり、外的機械的な関係である。そのため、本来の器官――そしてこれらの器官は脳髄にある――が、頭蓋をここでは円い形で表わし、そこでは広くうち出したり、平たくつき出したりすることになる。またそのほか好きなように、この結果を言いあらわすことができる。頭蓋としも有機体の一部であるから、各々の骨においてと同じように、頭蓋においても、生きた自己形成があると考えられねばならない。そのため、頭蓋の方から言えば、脳髄を圧迫して、これを外から制限しているのは、頭蓋だとも考えられる。頭蓋は、脳髄よりも硬いのだから、むしろそうする能力があることになる。だが、その場合でも、やはりいま言った関係は、両者相互のはたらきをどう定めるかという点に在ることに、変りはなかろう。なぜならば、頭蓋が規定するものであるか、規定されうものであるか、ということは、因果関係には何も変化を与えないからである。ただ、原因である頭蓋のなかには、自立(自覚、対自)存在という側面があるため、頭蓋は、自己意識の直接の器官とされることになるだけのことである。とはいえ、自立(自覚、対自)存在は有機的に生命のある形であるため、その両者のうちに同じように帰せられるので、実際には、両者間の因果関係はなくなってしまう。だが、両者が引き続き形成されるとき、その形成は、内面においては関連しており、有機的な予定調和になっているであろう。」
こんなのがオチです。最初からマスメディアとの因果を絶っておけばいいんですね。新聞や雑誌もテレビもラジオもマスメディアの情報は全て汚いです。汚いものは取り入れないという女性の発想からは大いに学ぶところがあります。
で、やっぱり頭の良い人間には馬鹿な人間が多く、頭の悪い人間には賢い人間が多かったりします、少なくとも日本人の場合は。日本の国土がどうこう、「日本」という固有名詞で唯命されたものがそうである、というよりは、第二次大戦後の日本の社会でそういったことを下の世代の人間に植え付ける社会ぐるみでの教育が敷かれていたということです。
昔、戦時中の軍隊では、ガンダムのアニメなんかでもよくありますけど、「修正」と呼ばれる一見暴力行為以外の何物でもないような、下級兵を直立させて歯をきちんと食い縛らせてそして主に古年兵が彼らの頬を殴るというものがありました。私はもちろんこういった類の暴力行為はそのイメージ的問題からしても非常に嫌いですけど、こういった組織だった一定の秩序下において行われるものにはそれなりの意味や具体的効脳があるものだということを最近知りました。もちろん行為としては論外ですけど。特に昔の人は生きるために目的達成に偏重することなく身体を基本にしていたということです。これはやはり、タチの悪いそれこそ勝慎太郎の兵隊やくざみたいなものは論外ですけど、相手にきちんとした姿勢を取らせきちんとした状態にして、且つ運動神経の優れた者が右手で殴るということを行えば(殴れば)それこそ効果のあるものみたいなんですね。その場合に、彼らはいわゆる「入った」だとか「決まった」とかいう表現を使います。これはもちろん相手を棒の様に突っ立たせて運動神経に優れた・身体能力の高い者が行った場合に為されるものです。要するにそういった人に殴ってもらえば良い効果とは言わないまでも、身体感覚が修正されるものではあるっぽいです。ちなみに左手を使用する、左利きの人間がそういったことを行うのは論外、というか最悪です。間違いなく殴られた方の身体感覚に悪影響を及ぼします。もちろん私はこんなもの肯定しするつもりはありませんし現実的に考えて怪我をするので行為として論外ではありますけど、何故こんなことが行われるのかということを考えてみるところ、無闇な暴力としてまかり通っていたものではなく何らかの効果を狙ってのものであったということです。やはりこういったものを無根拠に全面否定することはこれはこれでナンセンスです。何故そういったことを他者が己に対して行ってくるのか、それをじっくり吟味してみないことには、おそらくいつまでもそういったことをやられ続ける駄目な人間である、ということになってしまいます。そうでなければ被害者意識に絡め取られてどんどん堕落してゆくだけです。そういったことをやられることには何らかの原因があります。根拠をもってして否定しろということです。だから、自分の行動や言動や価値意識の性向等を充分に吟味して、どういった時・場合において何が起こるのか、ということを冷静に考えてみることは、仮にそれが暴力沙汰であっても、大事なことなんですね。反省というやつです。
以下分かりやすい分類の仕方としてパスカル型とデカルト型という二分類で話を進めます。経済学はパスカル型です、微積分多用して三角関数とか使いません。デカルト型は言っては悪いですけど現代ではちょっと単純過ぎます。が、パスカルの「無用にして不確実なデカルト」というのはパスカルのパスカル的発想によるデカルトに対する嫌味であって、「役に立って」いるのはデカルト(型)の方です。ちなみにこのパスカルさん、ジェズイット嫌いでユダヤ好きです。で、デカルト型は工業高校的であると形容すると分かりやすいです。養老孟司さんが自身を野蛮人であると言ったと内田樹さんの本のあとがきに書いてありましたけど、この人物は実にデカルト的です。本来的に医学というものは薬物を濫りに使用した対処療法ではなくデカルト的であるべきものなんでしょう、人体のマクロ的に。が、現実問題としてデカルト的なものというのはあまりに時代遅れ過ぎて、ここ日本だと2ちゃんねるのような非常~に不健全なところで非常~に頭の悪いチンピラたちが頑張っている(た)だけです。前に某巨大匿名掲示板群はナチスの実態だとか書きましたけど、ナチス下部構成員によって運営されていた強制収容所の現場というのは秩序と混沌たる暴力や釣りの混じったああいったものだったと考えると妥当です。
デカルト型の人間というのは能力の上下というよりは左右の属性的に無能です。特に現代の日本の社会において最も分かりやすいその表れ方としては、10代の子供の頃に英語が出来ないというところに表れます。言語能力が低いということです。要するに馬鹿か賢いかは別問題として、デカルト型の人間というのは頭が悪い傾向があります。逆に馬鹿であるか賢いかは別としてパスカル型の人間というのは頭が良いです。
デカルトのような「幾何学的精神」の持ち主に戦場での強さはありません。むしろパスカルの言うところの「繊細な精神」の持ち主の方が百戦錬磨です。ちなみにパスカルは社交界に出入りしてました。で、ジャンセニストは人柄が悪いです。パスカルの「パンセ」を読めば分かりますけど、かなり好き嫌いが混じっているのであって、嫌味というかこういったものの源流はユダヤです。現代においては何よりヤンセンファーマという製薬会社から出ているリスパダールという薬物を服薬すれば「嫌」というものが如何なるものか体感的に一発で理解できます。ヒットラーになりたいヒトにオススメ、よくこんなものが平気で医薬品として認可されているなという問題ですけど。ヘーゲルがユダヤの始祖アブラハムとユダヤの源流について論じてますけど、ユダヤというのは他者や他物ひいては世界に対する反発からそれに対しているということです。ちょっと私の我流の言い方で申し訳ないですけど、パスカルは若い頃に左をやってから年取って右に戻りました。デカルトは若い頃に右でいてから年取ってから左になりました。
例えば日本人におけるギャグを鑑みるにおいて、それが陳腐であるという理由でそれを(ギャグとして)肯定したりまた逆に否定するクセがつくと物事の本質的なところを見なくなるので、「ああ、これは別にイイや」「これはアリだね」という緩みが生まれて落とし穴にハマる可能性が発生するので危険です。これは罠であり最悪の場合地雷です。「ワザと」を理解する能力のために「嘘を本当だと」思い込んでしまう負の遺産としての能力が発生してしまうということです。「ワザと」がまったく理解できないというヒトはそれはそれで問題ですけど、後継の人間が育たないので。
謙遜もまた恥意識その他と同じく万物の元凶の一つです。もう今は年が若くなるにつれこういったものも減ってますけど、よほど特殊な能力でもないかぎり謙遜の性向の無い人間がこの日本という国で排斥される傾向にあることは私も知ってます。が、またこれも日本人の愚かな性向の一つです。我慢は万物の元凶であって、いたずらに我慢なんかしていると心身を病みます。これについての真実を知ることができるのは自分の心だけであって、自分の心に嘘をついて我慢なんかしていると何もかもが悪くなります。
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