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Dichteritis
2012.11.05 Monday
「東雲の」。
ヘーゲルの「歴史哲学」より。
「ソフィストの根本原理は『人間は万物の尺度である』ということであった。しかし、この命題の中には、ソフィストのどの箴言の中でもそうであるように、二義性が含まれている。というのは、ここに云う人間はその深みと真実さをもつ精神ともとれるし、また勝手気ままな、自分の関心だけを見る精神ともとれるからである。」
ヘーゲルはこの後で「しかし、ソフィスト達はこの場合、単に主観的な人間を考えていた。(つまり後者であり最後は感情的になるだけである)」と言ってますけど、この場合の主観的という日本語の言葉の使い方が怪しいですし自身が批判するところのユダヤ的な単純な二元論に陥ってしまっているっぽいですけどまあ今はそれはどうでもいいとして、この「人間は万物の尺度である」との言を残したプロタゴラスという弁論修辞学家ソフィストの元祖みたいな人のその人たるものに拠ってしまうのならばたしかにここでヘーゲルが言う通りだということになってしまうんですね。そもそもSophistというのは「賢き者」という意味でしたけど、そのうち政治学とかいった何故政治に「学」が付くんだか全く不合理なものをしかも有料で教え始めたあたりから詭弁家と言われるようになってしまったんですね。政治が学問化されたらそれは他者を潰す反社会的ツールになるだけです。賢き者ソフィストはここでいう前者であって、詭弁家ソフィストはここでいう後者です。
哲学者の中島義道さんは「快・不快の哲学」という言語矛盾したタイトルの本を書いておられますけど、快とか不快とかいうのは哲学ではないです。この人が膨大な著書のあちこちで言っているのは「俺らって毎日便所で排便するけど誰もそのことについて目を向けないし語りもしないよね?」というのと同じことです。誰もそのことについて目を向けない眼中に無いのではなくて、誰もそんなこと当たり前に眼中に入り過ぎていて口に出すまでもないという現状が在るのだということです。そりゃ全国から何千通もお前みたいなクズはくたばれ的な内容の手紙が届くわけです。この中島義道さんという人は、キリスト教嫌いだとかユダヤだとかというよりは、あまり良ろしくない意味でのソフィスト的なんですね。
現代日本でも某ソフィア大学の文学部に新聞学科とかいういかにも愚かそうなネーミングの学科がありますし、この中島義道さんという人もそうですけど、だから業界人というのはJudenでないとできないようになってるんです。まあ数年前まで頑張っていたコレら業界人もマスコミ新聞やネットにおけるマスコミ属性の強制収容所的具現体たるそもそもからして終わっていたところのかつて便所のゴミ箱と形容された2ちゃんねるその他と共にもう終わりですけど。まあ今でも投稿を装ったナメ腐った業界人の宣伝文句やフリーソフトのダウンロードツールありきでYouTubeにそういったものがupされてしまっていたりしますし昔あったwinmxだとかwinnyだとかshareだとかのツールやニコなんとか動画だかなんだかもそうですけど、アレはネットでマスコミ属性なカルマなものの延長である演劇を行うことで「ネットとはこんなに悪いものだ」という少なくとも日本におけるところではそのような社会的コンテクストを立ち上げてネットから人々を離反させる、そしてマスコミもテレビや新聞等でそのようにして「立ち上げられた」ものに沿ってネットは悪いものだとして叩き自分らの存在を肯定させるための材料として使う、という悪質な日本のマスコミの存在とその存続との共存関係にあったものなんですね、アノ2ちゃんねるというのは。ネットで違法ダウンロードとかしたらヤバいですし、テレビがつまらないつまらないと言われて、「つまらないテレビのバラエティー」という形で一般市民に意識を向けられて得をするのはテレビ業界なんですね。
別にその道の専門家ではなくとも私みたいにちょっと歴史をひもといて勉強してみればすぐ分かるんですけど、いたずらに差別はするわ差別されたがり同士でサークルは作るわ、差別且つ被差別大好きなのがユダヤです。だからユダヤ人は豚と呼ばれるわけであって、逆差別のナチ(の指導者属性)狩りを行って被害者をネタにして使い倒せるまで使い倒して自殺させる、ということをやらかしていたんですね。
自分らが奴隷にされていたエジプトから脱出するきっかけを作ってくれたモーセに対して、このユダヤ人というのは「アイツがこんなことをしなければこんな面倒くさいことにはならなかった」として悪態をついた連中です。しかもそれにもかかわらず為ったら為ったでそれに従い付いていくという、単なる烏合の衆ではなくて責任逃れをその行動や言動の根本原理としているような連中です。もちろんヒトが生きるにおいて基本的に努力をすればその分むくわれるようになってます、が、そうではなくて自分らに起こったどのような出来事でもまた自分らが行ったどのような悪事についてでも「なるようにしかならない・なるようになった」、という、認識なのではなくてJudenにおいてはもはやこれを認知としてしまっているんですね。そりゃ労働者属性で云々どころの話ではないのであって、この連中が平然と差別や悪事に及べるのも連中にとってはまた然りというわけです。残念ながら殺人者の汚名を被ってこれらを殺してくれる人たちは英雄だと言うことができてしまいます。
メンデルスゾーンとかいうユダヤ人の自称哲学者が二百何十年か前のドイツに居たらしいんですけど、ヘーゲルによると、
「メンデルスゾーンは、キリスト教に改宗するように勧められたとき、次のように答えた。私の信ずる宗教は、私に対して、永遠の真理を信ぜよとは命じない。むしろただ単に、ある律法を、行動様式を、神事の掟を課すにすぎない。私は、そこでは永遠の真理が命じられているのではないというこのことを、ユダヤ教のもつ一つの卓越した点だと思っている。なぜなら、永遠の真理を見出すのには、理性で充分だからである。すなわち、前者の実定的な法規は、神によって確立されたものであるが、後者の永遠の真理とは、自然法や数学の真理といったものだからである云々、と。」
ということであって、Judenというのは自分らが間違えていることを知らずに愚行に及んでしまっている連中のことではなくてもう自分らで自分らが間違えているそのことを充分過ぎる程に自覚しつつそのこと自体を崇めているような連中のことです。これを現代社会における新興宗教と何ら違わない邪教と呼ばずして何なのかという問題であって、これが何度でも何度でも殺されて潰されるのは必然です。これをJudenでありながら解決しようとしたのは私が知っているところではAlbert Einsteinさんただ一人です。このメンデルスゾーンという人物は哲学者とは到底呼び得ないどころか、哲学というものがどういうものであるのか全く分かってません。この人自分でも数学でないと言ってますけど、ユダヤは哲学たり得ないので。数学が無ければ現代の文明社会にある99%のものは存在しませんし、ここでメンデルスゾーンとやら曰くの「後者」はヒトの必然としてその中にあるものなのであって、そのことを文学的表現だと「魂」だとかいうことになるのかもしれません。つまりJudenというのは「魂が抜けている」「自分らから抜けた魂を唯一神YHWHとしてあがめ奉っている」ということが言えるのであって、この日本という国でも戦争直後の1950年手前くらいの生まれの人たちを指して「団塊の世代」という表現がありました。
私SSは精神医療の現場でこれを散々にやられて被害に遭いましたけど、医療一般における対処療法というのはユダヤの産物なんですね。もちろん怪我の傷口の消毒とかは別ですけど、これは現象面だけを見て・鑑みてそれを外部要因によって現象面だけは解決したように場合によっては見せかけるということでその問題がまるで解決したかのように第二者に対しては騙しを行い第三者に対しては自己保身なエゴイズムに基づく見せかけを行うという鬼畜の所業です。当然このようなものは根本的な治療にはなりようがなく、私SSが個人的に知っているところでは精神科医による恒常的な薬物投与のみによる治療そしてその後作業療法その他によってArbeiterparteiの下部構成員に仕立て上げるという最悪の強姦行為以外の何ものでもない行いというものがあります。
ちなみに精神科医はまともに日々生活していけるだけの最低でも月20万円程度の収入が得られる就職先を斡旋してくれるわけでもなんでもなくまたその能力も権限も持っていないものであるにもかかわらず先述や上記の強姦行為を行ってきますし、病院や個人のクリニックのケースワーカーに相談しても結局はハローワークへ行けというそれしか無いというのであれば最初からそうするであろうがたわけがという解決手段を提示してくるだけです。特にJudenchristなヤンセンファーマから発売されている商品名リスパダールにこれが顕著ですけど、抗精神病薬を服薬するとその薬効からしてこれが不可能になってしまうんですけど、しっかりとこのあたりのことについては自己防衛しないと非常にまずいことになります。私はヒトのオスですけどヒトのメスがヒトのオスに強姦される心理というのはこういうものなんだろうなと分かりはします。まあ先にも書いたようにこのネットが使える時代に特別な事情を持った老人以外で誰も精神科なんか行きませんけどね。睡眠薬やマイナートランキライザーくらいはもらいに行ってもいいですけど。
「ユダヤでないもの=ユダヤ人を大量虐殺したナチス」みたいな定式を第二次大戦後に必死に公立小中学校の教師たちが子供たちにまたマスコミや出版業界が大衆に刷り込むということを行ってました。マンガ等のサブカルチャーだけではなくて、岩波とか中公とか講談社現代とかの新書の類も少なくとも私が知る前世紀のものはほとんどがそうでした。一部の悪質な書籍の出版業務とかもそうですけどマスコミ特に日本のマスコミというのはユダヤ業界人による賤業務だからであって、そういう社会的コンテクストを敷けば自分らや自分らのお仲間が儲かるから・自分らのお仲間が儲かるような形式をそもそも敷いていてそれに合致するからということです。もちろん他国に対する侵略やその現場で行われていた具体的行為からしてナチスが正しいわけはないですけど、ユダヤに対するものイコールナチスであるわけではないです。何故こういった事態が起こったのか原因を究明せずに、数百万人のユダヤ人が強制収容所で殺されたその事実のみを取り出して何者かにレッテルを貼るというその行為がもう間違いの元なんですね。これに関してはアインシュタインもそうですけど、「戦争はいけない」という文言の前に何故戦争が起こるのかを考えないと何度でも同じく馬鹿な過ちが繰り返されうるということです。
前にも書きましたけど、私SSはもう小学校五年の10歳の時にこのユダヤによる逆差別を受けましたし、二年間在籍して卒業した中学校は敷地内の校舎の配置からしてもう異常なユダヤ人学校みたいな中学校でしたし、高校の時は差別大好きで嫌われ者のウザいチンピラ教員をシカトしていたらば大人げのカケラも無く向こうから10代のガキ相手にカラんできましたし、それでも私が人種差別に走らなかったらば大学へ入ったその当初にユダヤ教授やユダヤ人同級生に挑発その他による逆差別を受けました。前にも書いたようにこれがユダヤによる逆差別であると私が知ったのは大人になってからのことですけど、「差別はいけない」という子供の善良で未成熟な心につけ込んで媚びへつらいによる引きずり込みやそれが通用しないとなれば見せかけを主とする逆差別によって反社会的人間自身が反社会的人間の存在を許容させてきたんですね。文学にはあまり居ないと思いますけど、教授とかでも経済だとユダヤの性向の強いヒトは自説を垂れ流してそのプラモデルを無理矢理学生に暗記させて試験で書かせるということを行うだけの教員が居たりします。そんなことをやらされても何の役にも立たないどころかそれが正当性や妥当性を持っているものである保証も何処にもなく、もちろん到底勉強にはなり得ません。少なくとも経済学だと良い先生は数学を使ってのものであってもちゃんとモデルの内容を丁寧に一つ一つ説明して学生に分からせていくんですね。だからこそそこから議論や内容の修正の余地も生まれてきたりします。何度も書いてますけど、Judenというのはひたすら人の善意につけ込んでゴキブリのように生きる・生きのびてきた連中だということです。障害を負っている人たちや事故に遭った人たちを差別することは悪事であり論外ですけど、何故人種差別や反社会的人間が排斥されるのかということを考えないと盲目に陥るだけです。しかもこういった人たちを差別するものこそがユダヤ人であったりします、力量的に無抵抗であったはずの身内の非処女に対してすらも。目的の女が非処女になった瞬間に非人間扱いするような奴らがJudenです。人間関係が工学化されているという表現を私は何回も使ってますけど、Judenというのは他人を道具としか見ていないんですね。私はやっぱり川端康成の「雪国」はなんだかんだいっても読むとジーンときますけど。岸恵子さん主演の「雪国」の映画とかけっこう興味あったりします。
2012年時点でこの日本の国土に生きるヒトでもこれはよく観察されますけど、Judenというのは顔に特徴があります。唇はヒトによって太い薄いいろいろありますけど、すれっからし風の埃っぽい風貌と卑屈に垂れ下がった目蓋です。現代日本のオタクとはちょっと違いますけど、一見善良人風のものだと詩人Hermann Hesseなんかにもこれはよく観察されます。「そわそわしていてきちっとしておらず、左右両脇に垂れ下がったような風貌」というとたぶん分かりやすいです。これをユダヤの「豚」と呼ぶわけです。マンガ的に分かりやすくはRPGとかのマンガ絵のゴブリンとかオーガとかです。これは昔の絵本とかでもよくあった鬼とか鬼畜とかですけど、まあこのあたりのものです。別に肉体が肥満しているだけのヒトであれば欧米人は皆そうですし、これは一義的に参考とするのは間違ってます。私SSも身長179cmで体重85kgあるので軽く肥満してます。この国で肥満体の人間が安易にブタと呼ばれてしまうのは、第二次大戦後にマンガやアニメやゲームによって必死に流布されていたマンガ的コンテクストのせいです。「豚」というのは「嫉妬豚」なわけであって、「何にでも嫉妬して卑屈な顔を見せる痩せたブタ」のような人間の偶像あたりを想像してもらえばなお分かりやすいです。まあ今は整形技術や画像のデジタル加工技術もあるんで何とも断言できないですけど。あとはまあ醜くめくれあがった唇もまたそれはそれで不健康の証です。
再びヘーゲルの「歴史哲学」より。
「―前略―このギリシャ精神の概念からいえば、神的なものもまた自然力をやはり要素として含んでいるが、ただこの要素が精神的な力に変容されている。だから、この端初の要素としての自然的要素は精神的な力の観念の中に僅かにその余韻として残っているにすぎない。というのは、ギリシャ人は神を精神的なものとして崇めるからである。それ故に、われわれはギリシャの神をインドの神のように、その内容はそれぞれの自然力で、外形だけが人間の姿をとるにすぎないというように見ることはできない。反対に、その内容こそ精神的なものそのものであって、自然的なものはただその出発点をなしているにとどまるのである。けれども、また他面では、ギリシャの神はまだ絶対的に自由な精神ではなくて、人間的な有限性をもつ特殊な形態をとった精神で、特定の個性を持つものとして、なおいろいろの外的制約にまとわれるものであると云わなければならない。客観的になった美しい諸々の個性がギリシャの神々なのである。」
古代ギリシア人のことをHellene(ヘラス人)と呼びますけど、ドイツ語(ゲルマン語)でhellというのは形容詞で明るい・澄み切った・明白な・色白の・利口な・本当のといった意味があります。地獄を作っているのはヒトの恐怖心であって、真実が地獄だというわけではないです。
ヘーゲルの「歴史哲学」より。
「ソフィストの根本原理は『人間は万物の尺度である』ということであった。しかし、この命題の中には、ソフィストのどの箴言の中でもそうであるように、二義性が含まれている。というのは、ここに云う人間はその深みと真実さをもつ精神ともとれるし、また勝手気ままな、自分の関心だけを見る精神ともとれるからである。」
ヘーゲルはこの後で「しかし、ソフィスト達はこの場合、単に主観的な人間を考えていた。(つまり後者であり最後は感情的になるだけである)」と言ってますけど、この場合の主観的という日本語の言葉の使い方が怪しいですし自身が批判するところのユダヤ的な単純な二元論に陥ってしまっているっぽいですけどまあ今はそれはどうでもいいとして、この「人間は万物の尺度である」との言を残したプロタゴラスという弁論修辞学家ソフィストの元祖みたいな人のその人たるものに拠ってしまうのならばたしかにここでヘーゲルが言う通りだということになってしまうんですね。そもそもSophistというのは「賢き者」という意味でしたけど、そのうち政治学とかいった何故政治に「学」が付くんだか全く不合理なものをしかも有料で教え始めたあたりから詭弁家と言われるようになってしまったんですね。政治が学問化されたらそれは他者を潰す反社会的ツールになるだけです。賢き者ソフィストはここでいう前者であって、詭弁家ソフィストはここでいう後者です。
哲学者の中島義道さんは「快・不快の哲学」という言語矛盾したタイトルの本を書いておられますけど、快とか不快とかいうのは哲学ではないです。この人が膨大な著書のあちこちで言っているのは「俺らって毎日便所で排便するけど誰もそのことについて目を向けないし語りもしないよね?」というのと同じことです。誰もそのことについて目を向けない眼中に無いのではなくて、誰もそんなこと当たり前に眼中に入り過ぎていて口に出すまでもないという現状が在るのだということです。そりゃ全国から何千通もお前みたいなクズはくたばれ的な内容の手紙が届くわけです。この中島義道さんという人は、キリスト教嫌いだとかユダヤだとかというよりは、あまり良ろしくない意味でのソフィスト的なんですね。
現代日本でも某ソフィア大学の文学部に新聞学科とかいういかにも愚かそうなネーミングの学科がありますし、この中島義道さんという人もそうですけど、だから業界人というのはJudenでないとできないようになってるんです。まあ数年前まで頑張っていたコレら業界人もマスコミ新聞やネットにおけるマスコミ属性の強制収容所的具現体たるそもそもからして終わっていたところのかつて便所のゴミ箱と形容された2ちゃんねるその他と共にもう終わりですけど。まあ今でも投稿を装ったナメ腐った業界人の宣伝文句やフリーソフトのダウンロードツールありきでYouTubeにそういったものがupされてしまっていたりしますし昔あったwinmxだとかwinnyだとかshareだとかのツールやニコなんとか動画だかなんだかもそうですけど、アレはネットでマスコミ属性なカルマなものの延長である演劇を行うことで「ネットとはこんなに悪いものだ」という少なくとも日本におけるところではそのような社会的コンテクストを立ち上げてネットから人々を離反させる、そしてマスコミもテレビや新聞等でそのようにして「立ち上げられた」ものに沿ってネットは悪いものだとして叩き自分らの存在を肯定させるための材料として使う、という悪質な日本のマスコミの存在とその存続との共存関係にあったものなんですね、アノ2ちゃんねるというのは。ネットで違法ダウンロードとかしたらヤバいですし、テレビがつまらないつまらないと言われて、「つまらないテレビのバラエティー」という形で一般市民に意識を向けられて得をするのはテレビ業界なんですね。
別にその道の専門家ではなくとも私みたいにちょっと歴史をひもといて勉強してみればすぐ分かるんですけど、いたずらに差別はするわ差別されたがり同士でサークルは作るわ、差別且つ被差別大好きなのがユダヤです。だからユダヤ人は豚と呼ばれるわけであって、逆差別のナチ(の指導者属性)狩りを行って被害者をネタにして使い倒せるまで使い倒して自殺させる、ということをやらかしていたんですね。
自分らが奴隷にされていたエジプトから脱出するきっかけを作ってくれたモーセに対して、このユダヤ人というのは「アイツがこんなことをしなければこんな面倒くさいことにはならなかった」として悪態をついた連中です。しかもそれにもかかわらず為ったら為ったでそれに従い付いていくという、単なる烏合の衆ではなくて責任逃れをその行動や言動の根本原理としているような連中です。もちろんヒトが生きるにおいて基本的に努力をすればその分むくわれるようになってます、が、そうではなくて自分らに起こったどのような出来事でもまた自分らが行ったどのような悪事についてでも「なるようにしかならない・なるようになった」、という、認識なのではなくてJudenにおいてはもはやこれを認知としてしまっているんですね。そりゃ労働者属性で云々どころの話ではないのであって、この連中が平然と差別や悪事に及べるのも連中にとってはまた然りというわけです。残念ながら殺人者の汚名を被ってこれらを殺してくれる人たちは英雄だと言うことができてしまいます。
メンデルスゾーンとかいうユダヤ人の自称哲学者が二百何十年か前のドイツに居たらしいんですけど、ヘーゲルによると、
「メンデルスゾーンは、キリスト教に改宗するように勧められたとき、次のように答えた。私の信ずる宗教は、私に対して、永遠の真理を信ぜよとは命じない。むしろただ単に、ある律法を、行動様式を、神事の掟を課すにすぎない。私は、そこでは永遠の真理が命じられているのではないというこのことを、ユダヤ教のもつ一つの卓越した点だと思っている。なぜなら、永遠の真理を見出すのには、理性で充分だからである。すなわち、前者の実定的な法規は、神によって確立されたものであるが、後者の永遠の真理とは、自然法や数学の真理といったものだからである云々、と。」
ということであって、Judenというのは自分らが間違えていることを知らずに愚行に及んでしまっている連中のことではなくてもう自分らで自分らが間違えているそのことを充分過ぎる程に自覚しつつそのこと自体を崇めているような連中のことです。これを現代社会における新興宗教と何ら違わない邪教と呼ばずして何なのかという問題であって、これが何度でも何度でも殺されて潰されるのは必然です。これをJudenでありながら解決しようとしたのは私が知っているところではAlbert Einsteinさんただ一人です。このメンデルスゾーンという人物は哲学者とは到底呼び得ないどころか、哲学というものがどういうものであるのか全く分かってません。この人自分でも数学でないと言ってますけど、ユダヤは哲学たり得ないので。数学が無ければ現代の文明社会にある99%のものは存在しませんし、ここでメンデルスゾーンとやら曰くの「後者」はヒトの必然としてその中にあるものなのであって、そのことを文学的表現だと「魂」だとかいうことになるのかもしれません。つまりJudenというのは「魂が抜けている」「自分らから抜けた魂を唯一神YHWHとしてあがめ奉っている」ということが言えるのであって、この日本という国でも戦争直後の1950年手前くらいの生まれの人たちを指して「団塊の世代」という表現がありました。
私SSは精神医療の現場でこれを散々にやられて被害に遭いましたけど、医療一般における対処療法というのはユダヤの産物なんですね。もちろん怪我の傷口の消毒とかは別ですけど、これは現象面だけを見て・鑑みてそれを外部要因によって現象面だけは解決したように場合によっては見せかけるということでその問題がまるで解決したかのように第二者に対しては騙しを行い第三者に対しては自己保身なエゴイズムに基づく見せかけを行うという鬼畜の所業です。当然このようなものは根本的な治療にはなりようがなく、私SSが個人的に知っているところでは精神科医による恒常的な薬物投与のみによる治療そしてその後作業療法その他によってArbeiterparteiの下部構成員に仕立て上げるという最悪の強姦行為以外の何ものでもない行いというものがあります。
ちなみに精神科医はまともに日々生活していけるだけの最低でも月20万円程度の収入が得られる就職先を斡旋してくれるわけでもなんでもなくまたその能力も権限も持っていないものであるにもかかわらず先述や上記の強姦行為を行ってきますし、病院や個人のクリニックのケースワーカーに相談しても結局はハローワークへ行けというそれしか無いというのであれば最初からそうするであろうがたわけがという解決手段を提示してくるだけです。特にJudenchristなヤンセンファーマから発売されている商品名リスパダールにこれが顕著ですけど、抗精神病薬を服薬するとその薬効からしてこれが不可能になってしまうんですけど、しっかりとこのあたりのことについては自己防衛しないと非常にまずいことになります。私はヒトのオスですけどヒトのメスがヒトのオスに強姦される心理というのはこういうものなんだろうなと分かりはします。まあ先にも書いたようにこのネットが使える時代に特別な事情を持った老人以外で誰も精神科なんか行きませんけどね。睡眠薬やマイナートランキライザーくらいはもらいに行ってもいいですけど。
「ユダヤでないもの=ユダヤ人を大量虐殺したナチス」みたいな定式を第二次大戦後に必死に公立小中学校の教師たちが子供たちにまたマスコミや出版業界が大衆に刷り込むということを行ってました。マンガ等のサブカルチャーだけではなくて、岩波とか中公とか講談社現代とかの新書の類も少なくとも私が知る前世紀のものはほとんどがそうでした。一部の悪質な書籍の出版業務とかもそうですけどマスコミ特に日本のマスコミというのはユダヤ業界人による賤業務だからであって、そういう社会的コンテクストを敷けば自分らや自分らのお仲間が儲かるから・自分らのお仲間が儲かるような形式をそもそも敷いていてそれに合致するからということです。もちろん他国に対する侵略やその現場で行われていた具体的行為からしてナチスが正しいわけはないですけど、ユダヤに対するものイコールナチスであるわけではないです。何故こういった事態が起こったのか原因を究明せずに、数百万人のユダヤ人が強制収容所で殺されたその事実のみを取り出して何者かにレッテルを貼るというその行為がもう間違いの元なんですね。これに関してはアインシュタインもそうですけど、「戦争はいけない」という文言の前に何故戦争が起こるのかを考えないと何度でも同じく馬鹿な過ちが繰り返されうるということです。
前にも書きましたけど、私SSはもう小学校五年の10歳の時にこのユダヤによる逆差別を受けましたし、二年間在籍して卒業した中学校は敷地内の校舎の配置からしてもう異常なユダヤ人学校みたいな中学校でしたし、高校の時は差別大好きで嫌われ者のウザいチンピラ教員をシカトしていたらば大人げのカケラも無く向こうから10代のガキ相手にカラんできましたし、それでも私が人種差別に走らなかったらば大学へ入ったその当初にユダヤ教授やユダヤ人同級生に挑発その他による逆差別を受けました。前にも書いたようにこれがユダヤによる逆差別であると私が知ったのは大人になってからのことですけど、「差別はいけない」という子供の善良で未成熟な心につけ込んで媚びへつらいによる引きずり込みやそれが通用しないとなれば見せかけを主とする逆差別によって反社会的人間自身が反社会的人間の存在を許容させてきたんですね。文学にはあまり居ないと思いますけど、教授とかでも経済だとユダヤの性向の強いヒトは自説を垂れ流してそのプラモデルを無理矢理学生に暗記させて試験で書かせるということを行うだけの教員が居たりします。そんなことをやらされても何の役にも立たないどころかそれが正当性や妥当性を持っているものである保証も何処にもなく、もちろん到底勉強にはなり得ません。少なくとも経済学だと良い先生は数学を使ってのものであってもちゃんとモデルの内容を丁寧に一つ一つ説明して学生に分からせていくんですね。だからこそそこから議論や内容の修正の余地も生まれてきたりします。何度も書いてますけど、Judenというのはひたすら人の善意につけ込んでゴキブリのように生きる・生きのびてきた連中だということです。障害を負っている人たちや事故に遭った人たちを差別することは悪事であり論外ですけど、何故人種差別や反社会的人間が排斥されるのかということを考えないと盲目に陥るだけです。しかもこういった人たちを差別するものこそがユダヤ人であったりします、力量的に無抵抗であったはずの身内の非処女に対してすらも。目的の女が非処女になった瞬間に非人間扱いするような奴らがJudenです。人間関係が工学化されているという表現を私は何回も使ってますけど、Judenというのは他人を道具としか見ていないんですね。私はやっぱり川端康成の「雪国」はなんだかんだいっても読むとジーンときますけど。岸恵子さん主演の「雪国」の映画とかけっこう興味あったりします。
2012年時点でこの日本の国土に生きるヒトでもこれはよく観察されますけど、Judenというのは顔に特徴があります。唇はヒトによって太い薄いいろいろありますけど、すれっからし風の埃っぽい風貌と卑屈に垂れ下がった目蓋です。現代日本のオタクとはちょっと違いますけど、一見善良人風のものだと詩人Hermann Hesseなんかにもこれはよく観察されます。「そわそわしていてきちっとしておらず、左右両脇に垂れ下がったような風貌」というとたぶん分かりやすいです。これをユダヤの「豚」と呼ぶわけです。マンガ的に分かりやすくはRPGとかのマンガ絵のゴブリンとかオーガとかです。これは昔の絵本とかでもよくあった鬼とか鬼畜とかですけど、まあこのあたりのものです。別に肉体が肥満しているだけのヒトであれば欧米人は皆そうですし、これは一義的に参考とするのは間違ってます。私SSも身長179cmで体重85kgあるので軽く肥満してます。この国で肥満体の人間が安易にブタと呼ばれてしまうのは、第二次大戦後にマンガやアニメやゲームによって必死に流布されていたマンガ的コンテクストのせいです。「豚」というのは「嫉妬豚」なわけであって、「何にでも嫉妬して卑屈な顔を見せる痩せたブタ」のような人間の偶像あたりを想像してもらえばなお分かりやすいです。まあ今は整形技術や画像のデジタル加工技術もあるんで何とも断言できないですけど。あとはまあ醜くめくれあがった唇もまたそれはそれで不健康の証です。
再びヘーゲルの「歴史哲学」より。
「―前略―このギリシャ精神の概念からいえば、神的なものもまた自然力をやはり要素として含んでいるが、ただこの要素が精神的な力に変容されている。だから、この端初の要素としての自然的要素は精神的な力の観念の中に僅かにその余韻として残っているにすぎない。というのは、ギリシャ人は神を精神的なものとして崇めるからである。それ故に、われわれはギリシャの神をインドの神のように、その内容はそれぞれの自然力で、外形だけが人間の姿をとるにすぎないというように見ることはできない。反対に、その内容こそ精神的なものそのものであって、自然的なものはただその出発点をなしているにとどまるのである。けれども、また他面では、ギリシャの神はまだ絶対的に自由な精神ではなくて、人間的な有限性をもつ特殊な形態をとった精神で、特定の個性を持つものとして、なおいろいろの外的制約にまとわれるものであると云わなければならない。客観的になった美しい諸々の個性がギリシャの神々なのである。」
古代ギリシア人のことをHellene(ヘラス人)と呼びますけど、ドイツ語(ゲルマン語)でhellというのは形容詞で明るい・澄み切った・明白な・色白の・利口な・本当のといった意味があります。地獄を作っているのはヒトの恐怖心であって、真実が地獄だというわけではないです。
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