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die Heiligen Drei Könige
 東方の賢者。




 私は中学生の時三年の二学期が始まるまで公立高校を志望していたんですけど、そこでそれを諦めました。最悪なことに塾で実績を出して公立中学の教師を脅すという方法でしか子供たちは生き様が無かったんです。偏差値70いくつかの早稲田や慶應の付属校に入る子供達が公立中学は偏差値60を切るの三番手高か四番手高を無理矢理受けさせられるんです。そもそも一番手高が偏差値65とか66とかのありさまでした。高いお金を出して塾や予備校へ通わないと子供たちは殺されるんです。というか子供たちを守るために塾の先生たちが頑張ってくれてたと言う方が正解かもしれません。英語教師は無能も極みで帰国子女の子達の方が発音も上手くて文法も何もかも含めて英語という言語についてよく分かっていて英語の授業は陳腐な作業ゲームでしかないという有様です。しかもその老婆英語教師は授業が終わって休み時間になった瞬間にアメリカの悪口を大声で中学生の子供に向かって吐き捨てて教室を去っていくとかそういったブザマです。もう教育もクソもなく生徒と教師の引きずり下ろしあいです。教師は教育の現場に携わる者ではなくて自分が教師として稼いで生きるためだけに教師をやっているようなのが8割だという有様です。是非海外の人には知って欲しいんですけど、日本という国では15歳以下の子供たちは公立小中学校で教職員の名を借りた畜生にひたすらレイプされるのが実態です。少なくとも私が中学二年と三年と二年間在籍して卒業した公立中学校はこういった学校でした。まあネットが普及して、若い先生たちが入ってから大分良くなったでしょうけど。田舎の方はまだ子供がつらい思いをさせられているところがあるんじゃないですかね。
 しかしこの種を蒔いたのが誰であるかというと、たぶん戦争直後にGHQがやったんでしょう。戦争万歳というか爆撃好きなマッカーサーは後に当時のトルーマン大統領に罷免されましたけど、戦後ネットが出るまではGHQの敷いたものに日本の国土は翻弄されていたとかいうのが実態かもしれません。財閥解体や農地改革はよかったが教育の民主化に悪質な人間たちが漬け込んだとか。ユダヤ人国家実験場としてどこまでなにがどうなるかを試されていたとか。まあ事実何があったのか真実のところがどうだったのかは分かりませんけど。もっといえば明治の開国直後に「牛鍋うめえなぁ」とか言って日本人の古来からの知恵であった獣肉忌避を無視して肉を食い始めた愚かな先人たちの所業から始まってるんです。



 前に書いた、「右→左→右」の蓋然的な認識を持つ人間は、「左→右→左」の明確に意識的な・意図された蓋然を持つ人間と違って、「自分には知らないことがあるかもしれないという可能性の認識」は明確に抱いているということなんですね。だから当該人物にまつわる具体的な事情も事実も知らずにいたずらに他者を傷つけるべきでないという意識を明確に持ってます。これは苦しいといえば苦しいです。吐き出すものを吐き出しづらくなるからです。特に一般的な労働に従事する人たちはこんな発想では生きてられないでしょう。が、人間関係においてはこういったスタンスでいないと失敗するわけです、特に子育てとか。というか子供ができて母親や父親になるヒトたちは、それまでそういうことが分からなくても子供ができるとこのことが必然的に分かるようになるんじゃないですかね。もちろん教育従事者はこれを当然然るべきものとして自覚しているべきです。アメリカが人権意識が尊重される国で日本は無視されることが多々あるというのはそういうことです。二、三前の記事で書きましたけど、前者は恋する男で後者は恋する女とか。"Tue nicht anderen, was du nicht willst, dass sie dir tun."のちょっと意訳ですけど、後者は「知らないもの知らないことなんかそもそも知りようがなく、知ったことではない、知ろうとも思わない、知る術も無い」というJudeを表す特徴の文言そのまんまです。

 スープに入った塩だとか嫉妬豚と形容されるくらいであるユダヤ人の嫉妬深さは文学的テーゼだとかなんとか言うよりは運命的と形容しても妥当なくらいですけど、嫉妬心が強い・嫉妬深い人間というのは、自分より能力の高い人間の存在を恐れて最初から意識的に右を選んでおくという選択をします。少なくとも私のような「右→左→右」の感覚のヒトからすると「右」というのは定常でしかないんですけど(もちろん頭は働いてます)、Judenは右へガンバるんです。左ありきのために右へ(で)頑張るという行動原理なんです。漢字だと、ツクリが「里」でヘンが「王」な「理」という文字とは逆をいってるんです。その頑張り方としてそれしか知らないんです。自分より能力が高い人間が失敗した時に私らは最初からこっちだった、ということで自分より有力な人間が罠にかかってくたばるのを待ってるんです。場合によっては不必要どころか人口の保養の為に作られたような無い方が良い社会的に禍根を巻き起こすだけの仕事に従事している場合もあるにもかかわらず、仕事人ぶっておくことを保身や攻撃の材料として使うためにとっておくわけです。だから政治家なんかをネタにしてやたらと無根拠に三文新聞記事の如くこきおろして合理的な内容の批判ではなく幼児的に非難するのもまたこういった連中です。これは「左→右→左」の人間の典型的な行動パターンです。何もかもが左のエゴありきのもと進められるんです。だから他人を左へ蹴落とすこともその行動原理として「エェ~、だってそうじゃなきゃ生きてられないでしょ」とかいったマンガ的セリフの如く当然ありきなものとして認知してしまっているわけです。おそらく身体や脳の使い方の問題としてこの連中はそうやって生きる・それが生きるということだということしか知らないんです、だから連中は連中でまた地獄の中を生きているということっぽいです。これは現代ではアメリカ人が日本人を鑑みた時の異様感として感知されるはずです。ちょっとマンガ的な表現で誤解を招く可能性があるんで申し訳ないですけど、中級役人や下級役人だと形容すると分かりやすいです。少なくとも第二次大戦後の日本で言われる「公(おおやけ)」とか「公立」とかいったものは残念ながらこういった意味合いです。嫉妬、というよりは、夢見る少女、恋する女、目的の(男を得る)ためにはどんなに汚いことをやって第三者を貶め蹴落とし危害を加えてでも達成してやる、という。私は父方の叔母がこういった極めて悪どい人間なんでこれが実態的・実体的に観察されて極めてよく分かるんですけど、最悪です。豚です。まあえげつないどころの話ではないです。サークル作ってその中で同属他者を貶めて自分はいいポジションを確保してニヤニヤ笑っているという、アレです。

 で、東大生というのは凄いんです。彼ら彼女らは官僚の候補生です。東京大学に入る子供たちというのはあの年でもうそうとうに物事の理みたいなものを分かってるんです。そうでないと官僚を育てる学校として設定された最高学府の東京大学というところには受からないように出来てるんです、構造的に。ひたすら子供の頃か勉強をし続けてもののなんたるかを知った人たちが集まる大学なんです。東大の赤門をくぐり抜けてから彼らは少しアカいカルマなものを身につけてそして社会へ出る、国を取り仕切る官僚になるというルート上にいるんです。
 理科系はちょっと別だと思いますけど、全国各地に名古屋大学とか北海道大学とか旧帝一期校と呼ばれる国立の大学がありますけど、これが上見上げて妬む中級役人的で若干タチの悪いのが居る気があります。レベル的にはローカルに最高峰であっても官僚を育てる学校ではないからです。各地方自治体のお役人を押し出さなければいけない学校だからです。偏差値教育の弊害はこういったことについて子供の目を盲目にしてしまうということもあります。このあいだ書店で市販されている大学案内の本を立ち読みしたら偏差値なんてお決まりの数値がちょろっと載っているだけで大学の特色や校風が載っているものがほとんどであって、「ああ、ちょっと変わったな、」と思いましたけど。

 以下ヘーゲルの「歴史哲学」より。

「 この民族にあっては、以上のような純粋な思想に対する関係を表すものとして厳格な宗教的儀式が重んぜられる。具体的な個人主観はまだ自由をもたない。というのは、絶対者そのものまだ具体的精神として把握されておらず、精神はまだ非精神的に措定されたものと見られているからである。なるほど、清い心だの、懺悔だの、信心などといった内面性は云われているが、しかし個々の具体的主観が絶対者の中で自分を対象化し、自分を問題にするというところまで行っていない。そのために主観は従らに儀式と戒律に縛られ、それを杓子定規に守ることになる。この場合この戒律の根底となっているものは、まさに抽象的な自由という意味での純粋自由にほかならない。ユダヤ人は自分が自分であることの根底を、自分の存在の本質を、ただ一者の中にのみおくものであり、その点で個人主観はそれ自身では何らの自由を持たない。スピノザはモーゼの律法を、神がユダヤ人に罰と戒めの鞭とを与えるために送ったものと見ている。つまり、主観、個人はまだ全然その独立性の意識に到達していない。またそのために、ユダヤ人においては霊魂不滅の信仰は見られない。それは主観がまだ即且向自的に・絶対的に・自立的に存在するものとはなっていないからである。ところが、主観はこのようにユダヤ教においては無価値でるのに反して、家族は独立的なものである。というのは、YHWHの信仰は家族に結びついたものであって、家族は実体的なものだからである。だが、それかといって、また国家もユダヤの原理に一致しないものであり、モーゼの立法の趣旨に背くものである。ユダヤ人の観念からすれば、YHWHは彼らユダヤ人をエジプトから連れ出して、彼らにカナーンの地を与えてくれたところのアブラハム、イサク、ヤコブの神である。これらの家長に関するいろいろの物語は中々おもしろい。この歴史の中に族長的な遊牧状態から農業生活への推移が見られるのである。一体にユダヤの歴史は極めて異色のあるものである。ただしかし、それが他の民族精神の排斥を神聖視している点(カナーンの住民の殲滅さえも神の命令だとしている)、一般に教養の欠如している点、並びに自国民だけが高い価値を持つという選民観念に囚われている迷信の点で、その歴史は不純なものにせられ、すっきりしないものとなっている。また奇蹟もこの歴史を歴史と見ることをさまたげる。というのは、具体的な意識が自由なものとならないかぎり、具体的なものの見方も自由に、囚われのないものとなることはできないからである。それで、自然は神性を剥奪されはしたが、しかし自然の理解ということはまだそこにはないのである。」

ヘーゲルはここでユダヤ人は「つまり、主観、個人はまだ全然その独立性の意識に到達していない。(またそのために、ユダヤ人においては霊魂不滅の信仰は見られない。)それは主観がまだ即且向自的に・絶対的に・自立的に存在するものとはなっていないからである。」と言ってますけど、到達していないのではなくて到達し得ないんです、連中は。印欧語から日本語を訳出するという直接対応させる形をとると誤解を招く可能性があるんであまり妥当ではないんですけど、「主」はmasterで「客」はslaveです。「主」は右で「客」は左です。だからJudenにおいて「個人主観が自由を持たない」のは当たり前なんであって、Judenにとっては(個人)主観は道具なんです。だからご都合主義的に「ユダヤ人の観念からすれば、YHWHは彼らユダヤ人をエジプトから連れ出して、彼らにカナーンの地を与えてくれたところのアブラハム、イサク、ヤコブの神」なのであって、普遍的な神(概念)としてのda(Dasein)ではないということです。



 日本では今でも田んぼでお米を作っている人たちが居るんでちょっと言いづらいんですけど、米なんて汚い食べ物です。八方美人な。米と魚と醤油なんて毎日汗を流してかつそれを処理するだけの身体能力(機能)のある肉体労働者のおっちゃんたちの食べ物です。あれを食ってあの人たちはやっと夜に女と交わったり寝たりすることができるんです。このあいだ私はスーパーでノルウェー産塩サバを買って何ヶ月かぶりに魚を食べたんですけど、「ああ、キっついな」と感じました。肉も魚も良い食べ物であるはずがないんですね。肥満のもととしては糖分よりもたぶん塩分の方が影響が強いです。たしかカリウムを摂取すると血中のナトリウム分の排泄が促される(?)んだったと思いますけど、私はナトリウムがわずかでカリウムがある程度多く含まれている栄養機能食品のKIRINのトロピカーナのオレンジジュースを毎日のように飲むんですけど、これを飲むと黄色い色をした臭いの強いきちんとした尿が排泄されます。また一日くらい絶食してきちんと沸かした水道の水を飲むと、これもまた同じく黄色く臭いきちんとした尿が排泄されます。この黄色い尿が出るとその程度や頻度に従って運動をしなくても肉体が痩せていくんです、不思議と。もちろん運動をした後の尿も黄色くなりはします。悪いものが体から出るんです。塩を抜くと体がきれいになります。
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