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2025.04.16 Wednesday
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Virtue is its own reward.
2012.11.17 Saturday
「近くに座す」。
寝ている状態・身体を地面と平行にしている状態かつ睡眠に陥らない状態で、頭を「左」へイかせるのはヤバいです。きれいな連想や想像くらいだったらばいいんですけど、そのうち被害妄想が出てくるんですね。最悪の場合眠れなくなります。それをサッと寝返ってノートにでも記録してしまうとかならいいのかもしれませんけど。
成長期を考える時に、左右1対1だと分かりにくいんで、左右に何項か項目(属性)を置いて、その各状態で教育が効果を発揮しうる・良好化させることができる、ということです。私の場合は、もう10歳で左に傾いて左目が下がる斜視が始まってたんですけど、ヒトの肉体にまつわる成長期を絶対なものとして設定するとすると、かなり歪んだルートで成長期を過ごしてしまったということです。人体の構造的に左は病気になります。癌とかたぶん左です。右は右で心臓麻痺で死んだりするのかもしれませんけど。
「 彼(=プルシャ)の東に向える機能は東方なり。南に向える機能は南方なり。西に向える機能は下方なり。北に向える機能は北方なり。上に向える機能は上方なり。下に向える機能は下方なり。一切の機能は一切方なり。この我は、ただ「非也・非也」と説き得べきのみ。彼は不可捉なり、何となれば彼は捕捉せられざればなり。彼は不可壊なり、何となれば彼は破壊せられざればなり。彼は無染着なり、何となれば彼は染着せられざればなり。彼は束縛せられずして動揺せず、毀損せられず。」
というこれはUpanischadからの引用なんですけど、人間関係について単純な左右の二元論で考えると……(婚前性交が悪いとまでは言わずとも)この人と決めた女の人と以外によろしくないことをするとそれについて相手が肯定的な感情を持っていても結果としてそれが肯定的な感情にまつわるものであってもその女の人を悪くしてしまう、ひいては社会的な禍根を招いてしまうことになる……ということなんですけど、左の人というのは目の前の現実を見ていてかつ結構愛情深かったりするんですね。それでもやはり歪みがどうとかなって表れてしまう、というのが右の人の考えなんですけどね。「右」は「考え」です。
愛する人との大切なものを捨てながら「右」たることを選択して社会の発展に貢献する人たちの人生というものにおける自己犠牲の尊さには私は頭が上がりません。望まない相手との結婚を強制まではされなくともせざるを得ない人もまだ居るんですね。自己犠牲心の尊さというものはそういうもだったのだ、ということを私はやっとこの歳になって知りました。だからこそそういった人たちは自分たちの犠牲が価値を持つためにということで幸せな人を見ると大切にしてやりたいと思ったりまた幸せを感じたりするんということなんでしょうね。きっとああいう人たちは年老いてから真に愛する人のことを思い出して泣いたりするんですね。酒飲んだ席でもなんでも「言われてつらい」というのはそういうことなんですね。イジめられただとかぶん殴られただとかそんなものは大したことはないです、しかもそういった類のことはやると悪いことになるのはやった方になるようになってるんで。嫌な記憶なんて全部WINDOWSのメモ帳にでも記録して出してしまえばいいんです。
結婚して子供が生まれて、家族への愛から(そこで愛を知り)外で働き金を稼ぐという行為に繋がる、ということなんでしょうけどね。それを行わないのであれば「右」を選択しておけ、ということです、禍を巻き起こすだけなので。私は最近それをやっと学習しました。だから自己愛というのは罪深いんです。愛は隣人に対するだけで充分ということです。やっぱりそれがPilgrim FathersであろうがAmishであろうがキリスト教は右なんです。
「 父曰く、
『愛児よ、凝結せる牛乳の攪拌せらるる時、その微細なる成分は上方に向って昇り、そはすなわち酪となる。正にかくのごとく、愛児よ、食の食わるる時、その微細な成分は上方に向って昇り、そはすなわち意となる。
愛児よ、水の飲まるる時、その微細な成分は上方に向って昇り、そはすなわち気息となる。
愛児よ、火の食わるる時、その微細な成分は上方に向って昇り、そはすなわち言語となる。
何となれば、愛児よ、意は食所成、気息は水所成、言語火所成なればなり』
と。」
「 ―前略―梵天は彼にいう、『何によりて何時はわが男性的名称を獲得すや』と。『気息によりて』と答うべし。『何によりて中性的名称を』。『意によりて』。『何によりて女性的を』。『語によりて』。―後略―」
これもUpanischadですけど、言葉を使ってる時点で文明の起こし元たる火を使ってるんですね。ちなみにドイツ語の男性名詞Ostは東とか東風(こち)とかいう意味で、Osternは(キリスト教での)復活祭という意味です。
寝ている状態・身体を地面と平行にしている状態かつ睡眠に陥らない状態で、頭を「左」へイかせるのはヤバいです。きれいな連想や想像くらいだったらばいいんですけど、そのうち被害妄想が出てくるんですね。最悪の場合眠れなくなります。それをサッと寝返ってノートにでも記録してしまうとかならいいのかもしれませんけど。
成長期を考える時に、左右1対1だと分かりにくいんで、左右に何項か項目(属性)を置いて、その各状態で教育が効果を発揮しうる・良好化させることができる、ということです。私の場合は、もう10歳で左に傾いて左目が下がる斜視が始まってたんですけど、ヒトの肉体にまつわる成長期を絶対なものとして設定するとすると、かなり歪んだルートで成長期を過ごしてしまったということです。人体の構造的に左は病気になります。癌とかたぶん左です。右は右で心臓麻痺で死んだりするのかもしれませんけど。
「 彼(=プルシャ)の東に向える機能は東方なり。南に向える機能は南方なり。西に向える機能は下方なり。北に向える機能は北方なり。上に向える機能は上方なり。下に向える機能は下方なり。一切の機能は一切方なり。この我は、ただ「非也・非也」と説き得べきのみ。彼は不可捉なり、何となれば彼は捕捉せられざればなり。彼は不可壊なり、何となれば彼は破壊せられざればなり。彼は無染着なり、何となれば彼は染着せられざればなり。彼は束縛せられずして動揺せず、毀損せられず。」
というこれはUpanischadからの引用なんですけど、人間関係について単純な左右の二元論で考えると……(婚前性交が悪いとまでは言わずとも)この人と決めた女の人と以外によろしくないことをするとそれについて相手が肯定的な感情を持っていても結果としてそれが肯定的な感情にまつわるものであってもその女の人を悪くしてしまう、ひいては社会的な禍根を招いてしまうことになる……ということなんですけど、左の人というのは目の前の現実を見ていてかつ結構愛情深かったりするんですね。それでもやはり歪みがどうとかなって表れてしまう、というのが右の人の考えなんですけどね。「右」は「考え」です。
愛する人との大切なものを捨てながら「右」たることを選択して社会の発展に貢献する人たちの人生というものにおける自己犠牲の尊さには私は頭が上がりません。望まない相手との結婚を強制まではされなくともせざるを得ない人もまだ居るんですね。自己犠牲心の尊さというものはそういうもだったのだ、ということを私はやっとこの歳になって知りました。だからこそそういった人たちは自分たちの犠牲が価値を持つためにということで幸せな人を見ると大切にしてやりたいと思ったりまた幸せを感じたりするんということなんでしょうね。きっとああいう人たちは年老いてから真に愛する人のことを思い出して泣いたりするんですね。酒飲んだ席でもなんでも「言われてつらい」というのはそういうことなんですね。イジめられただとかぶん殴られただとかそんなものは大したことはないです、しかもそういった類のことはやると悪いことになるのはやった方になるようになってるんで。嫌な記憶なんて全部WINDOWSのメモ帳にでも記録して出してしまえばいいんです。
結婚して子供が生まれて、家族への愛から(そこで愛を知り)外で働き金を稼ぐという行為に繋がる、ということなんでしょうけどね。それを行わないのであれば「右」を選択しておけ、ということです、禍を巻き起こすだけなので。私は最近それをやっと学習しました。だから自己愛というのは罪深いんです。愛は隣人に対するだけで充分ということです。やっぱりそれがPilgrim FathersであろうがAmishであろうがキリスト教は右なんです。
「 父曰く、
『愛児よ、凝結せる牛乳の攪拌せらるる時、その微細なる成分は上方に向って昇り、そはすなわち酪となる。正にかくのごとく、愛児よ、食の食わるる時、その微細な成分は上方に向って昇り、そはすなわち意となる。
愛児よ、水の飲まるる時、その微細な成分は上方に向って昇り、そはすなわち気息となる。
愛児よ、火の食わるる時、その微細な成分は上方に向って昇り、そはすなわち言語となる。
何となれば、愛児よ、意は食所成、気息は水所成、言語火所成なればなり』
と。」
「 ―前略―梵天は彼にいう、『何によりて何時はわが男性的名称を獲得すや』と。『気息によりて』と答うべし。『何によりて中性的名称を』。『意によりて』。『何によりて女性的を』。『語によりて』。―後略―」
これもUpanischadですけど、言葉を使ってる時点で文明の起こし元たる火を使ってるんですね。ちなみにドイツ語の男性名詞Ostは東とか東風(こち)とかいう意味で、Osternは(キリスト教での)復活祭という意味です。
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