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2025.04.16 Wednesday
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Cordelia
2012.12.05 Wednesday
for dear.
黒は楽、赤は決して楽ではなく、白は厳。
昔の不良少年なんかでよく居ましたけど、やられたらやり返すというのが相手に不幸な出来事が起こらないようにするための最低限の礼儀、という教えというか考えなんですね、彼らにおいては。ガンつけられたらガンをつけ返すだとか、殴られたら殴り返すだとか。愛の感が無いというかかわいそうに人間関係が工学化されてしまっている人たちではありますけど、マクロ的といえばマクロ的です、恒等式的というか。もちろん暴力が肯定されうるはずは無いですけど、勝ち逃げしてしまうと当人にも何時か悪いことが降ってかかるから、ということです、たぶん。罪というものの自覚の問題であって、悪くなると悪い行動に及んでしまうという彼ら自身の特性を彼ら自身よく知っているということです。彼らにおいては睨んだら睨み返してきた相手に対して「ああ、アイツは分かってるよ」というのが「常識」なんです、現象的にはその場で憎みあっているかのような風を見せているのであっても。「ありがとう」と言われたらば「ばかやろう」と言ってくる相手に対しては「お、こいつ親切な奴だな」ということになってじゃあ殴ってやろうということになるんでしょうね。日本語が穢れた言語であるというと語弊があるでしょうけど、誰だったか忘れましたけど日本語にはもともと主語が無かったなんていう学者も居ます。そしてそれは「こんにちは」と挨拶をされたらば「こんにちは」と挨拶をするだとか、「ありがとう」と言われたらば「いえいえこちらこそ、どうもありがとう」と言い返すという日本人における常識のようなものにおいても同じことが言えます。まあこういった右な人たちも心使い過ぎて最後は心臓麻痺でwhite outして死んでしまうのかもしれないですけど。
昔のじいさんばあさんとかで「無駄口叩くな!」「べちゃくちゃおしゃべりするな!」とかよく子供に説教する人とか居ましたけど、日本語が穢れたというかあまり口に出して良いものではない・物事の説明に適した言語ではないことを昔の人はちゃんと知っていた、というか日本人にとって日本語以外には無いところの言葉というものはそういうものであるとの認知を昔の日本人は持っていたということです。日本語というのは英語と逆で理念性の全く無い、単純で一言でそれが通じる・それが通じなければいけなくそれが理解できない者は排斥される、くらいの。日本語が良くない言語だというのは、下手をするとこれはペン的な剣として殺人ツールになってしまうからです。例えば「つき」と言えば「ああ、月、憑き、ツキ(が回ってきた)、突き、ね」というわけであってこれらは皆同じ「つき」であるというような。「子供は風の子」という表現もありますけど、これは本来的には「子供は風のように外を走り駆け回って過ごすべきである」という意味合いの表現なのではなくて、詩的に火・土・水・風の四元素的に「風というものの子たるそれが子供」という言葉だということです。風は気圧の場違いによって起こる現象ですけど、子供は皆小さな王冠を被っているようなものであって、der Königは現象、日本のものではないですけど「王子と乞食」みたいな物語が生まれるのもまた必然であるというわけです。漢字が大陸から入ってくる前や、古事記や日本書紀以前にどういった言葉が使われていたかを示す資料というのはまず残ってないでしょうけど、その頃にどういった日本語が使われていたかということを考えるとけっこう面白そうです。現代では、法律の条文なんか皆そうですし、英語のセンテンス化された・英語のセンテンスに組み込まれた日本語が使われることが一般的なんで、日本語も現実的な問題に対処するべく使われるのが言語であるという西洋的なものに合わせなければいけないというのがもちろん当たり前になってます、もちろん日本語にも文法はありますし。文明の維持発達というともありますし、またそうでなければ特にここ日本ではバカなオスに結果として女性の人権が踏みにじられてしまうことになりかねないという問題があるので、これは当たり前のことですけど。英語を国語にしとくのが一番良かったんでしょうけどね。ただ、例えば「アカン」とかいうのがどういうことなんだか、日本人でありながら英語的発想に精神を呑まれきってマンガ的コンテクストに頭を支配されていると物事正確に分からなくなるということになるんですね。「『アカン』というのは、不適合・不適切・不合理だとかそういった意味ですねっ」とか言い出したらお終いです。「アカン」は「アカン」のですけど。印欧語であっても文学のテクストからそういった例えば「赤」のようなものをそれがどういうことなのか読み解いていければいいんでしょうけど、ただこれにはある程度高い教育を受けることが必要になってきてしまいます。日本語というのは、これが極めて簡易に理解できるようになっているものであって、コミュニケーションにはあまり適していない言語であるというよりはそのような言葉であるといった方が適当な記号みたいなもんです。
ヒトの体の動きとして自然なものは男女間のセックスだけです。オスだったら腹筋、メスだったら背筋ですね。私みたいな運動のあまり出来ないヒトではなくて運動神経の良い運動の出来るヒトならば体感としてご存知のはずだと思いますけど。しかし、例えば、パソコンやワープロのキーボードを打って文章を書くことが自然でないといえば自然でないのは当然ですけど、それで言うならばペンや鉛筆を使って紙に文字を書くという形で文章を書くのも当然自然ではないんですね。だから、キーボードを打って出る文章とペンを走らせて出る文章の内容は同じでも程度が違っていようがコンピュータのキーボードを使うこともペン等の筆記具を使用することも不自然であるところの問題の方向性としては同じであって、文明の利器にはどんどん慣れて取り入れて使っていかないとどうしようもないんですね。我々の体は2000年前とは造りが違いますししたぶん1000年前とも違うでしょう。まあその文明の利器も肉体の健康を害すほどに多用・悪用していたら元も子もないですけど。
heartを「心」と訳すのは間違いです。heartをヒトの臓器の一つである「心臓」と訳すのは正解ですけど、日本語の「心」の場合は心を使いすぎると心臓にクるというか負担がかかるんですね、日本語というのは「そうなるとそうなる」言葉なんです。逆に、heartfeltやwarm-heartedの場合は心臓にやさしいんです、英語というのは理念的な言語なんです。で、英語だとcordialityという単語を日本語の「心」と訳すのが正解です。
シェイクスピアの「リア王」では、オーディンの如きなリア王の娘のあわれなヴァルキリーのブリュンヒルデのようなコーディリア王女がこのcordiallyな人物として描かれてます。統合失調なリア王はこの物語の初頭で二つ前の記事で書いたような馬耳東風な精神分裂な人間のコーディリア王女に対して怒りを燃やしてしまいますけど、このcordiallyな人間は西洋的な価値意識一般いおいてはheart warmingな人間としては見なされないんですね。以下リア王が娘達に自分の遺産をくれてやるぞと告げコーディリア王女がそれを断る場面からいくつかセリフを抜粋して引用。
コーディリア「コーディリアはどうしようかしら?心で愛して、黙っていましょう。」
コーディリア「かわいそうなコーディリア!でも、そうではないわ。わたしの愛情は舌よりもずっと大きいのだもの。」
コーディリア「陛下、お願いでございます――わたくしはするつもりのあることは、口にするよりもまず実行をと心掛けておりますので、心にもないことを言う滑らかな弁舌が、わたくしには欠けておりますかもしれませんが、と申しますのは、お父上の御寵愛を失いましたのは、わたくしの悪徳の汚れや、人殺しや、不潔な行いや、淫らな所業や、不名誉な振舞いのゆえではなく、持たないことが私を豊かにしてくれるもの、つまりいつもものほしそうな目つきや、わたくしが持たないことを喜んでおります舌、それがないためであることを、おっしゃってくださいませ。そのために御寵愛を失ってしまいましたけれど。」
(父王の遺産をもらい受けた強欲で罪深い姉に対して)
コーディリア「時がたてば、襞の中に隠された悪事もあらわれてしまいましょう。罪を覆い隠すものも、ついには恥辱の嘲笑を受けることになります。―後略―」
しかし結局は愚かなリア王も最後にコーディリア王女の真の「心」(まごころ)を知り、その死を嘆き悲しみ自らも心臓をやられて「気を失って」死にます。最後の最後で心がどういうものか知ったんです。
ハーバード大学の経済学の教授のN.Gregory Mankiwさんが著書の経済学の教科書で言ってますけど、経済学的考え方や経済学的なものの見方を学習するのに知識はほとんど必要ありません。経済学者が自説の正当性を説明するためにデータを大量に持ってくることはあるでしょうけど、経済学というのは特定の知識の存在を前提にそこからものを考えていくという学問ではないんですね。一週間くらい集中して経済学の教科書を読めば理論や基本的な考え方をものにできる(のは当然)、というよりは、もともとこれは合理性に基づいて行動する大多数のヒトの行動を数理的に表現したものです。少なくとも経済学を「学ぶ」という点おいては「知」は法律や文学を学ぶことに比べれば必要ありません。以下「リア王」の結末より。
エドガー「(リア王が)お亡くなりになりました。」
ケント伯爵「むしろ不思議と言うべきだ、これほど長くお耐えになったということが。命を盗んでおられたのだな。」
―中略―
エドガー「この悲しむべき時代の重圧に、われわれは耐えてゆかねばなりません。感じていることを言いましょう。もっとも年老いた者がもっとも多く耐え忍ばれました。若いわれわれはそれほど不幸な目にも遭わず、それほど長生きもしないでしょう。」
年老いた者は悲しみの重圧にそれがそれであると気付かず耐えてしまっていたということです。人体の健康の問題的に「若いわれわれ」は長生きするでしょうけど。自分の汚れや意識下に封じ込めた罪の意識から目を逸らしてその存在と自分の行為の矛盾にもかかわらず他人を裁くということはあまりにも道理に反しているということです、文学的に考えると、経済学には残念ながら。
「リア王」ではリアもコーディリアも死ぬという形で描かれてますけど、この二人は最初から愛ありきではなかったんです。「十二夜」のヴァイオラとオーシーノウ公爵のようにそれがどんなすれちがいであれ最初から愛ありきでの行動が描かれていたならば幸せに結ばれることだということなんですけど。最初から愛があったならば、多分愛があれば、女の人の精神は分裂を起こさずにすむことができて、男が一人愛する女のために犠牲になって汚れを背負っておけば結ばれる、という運命です。
黒は楽、赤は決して楽ではなく、白は厳。
昔の不良少年なんかでよく居ましたけど、やられたらやり返すというのが相手に不幸な出来事が起こらないようにするための最低限の礼儀、という教えというか考えなんですね、彼らにおいては。ガンつけられたらガンをつけ返すだとか、殴られたら殴り返すだとか。愛の感が無いというかかわいそうに人間関係が工学化されてしまっている人たちではありますけど、マクロ的といえばマクロ的です、恒等式的というか。もちろん暴力が肯定されうるはずは無いですけど、勝ち逃げしてしまうと当人にも何時か悪いことが降ってかかるから、ということです、たぶん。罪というものの自覚の問題であって、悪くなると悪い行動に及んでしまうという彼ら自身の特性を彼ら自身よく知っているということです。彼らにおいては睨んだら睨み返してきた相手に対して「ああ、アイツは分かってるよ」というのが「常識」なんです、現象的にはその場で憎みあっているかのような風を見せているのであっても。「ありがとう」と言われたらば「ばかやろう」と言ってくる相手に対しては「お、こいつ親切な奴だな」ということになってじゃあ殴ってやろうということになるんでしょうね。日本語が穢れた言語であるというと語弊があるでしょうけど、誰だったか忘れましたけど日本語にはもともと主語が無かったなんていう学者も居ます。そしてそれは「こんにちは」と挨拶をされたらば「こんにちは」と挨拶をするだとか、「ありがとう」と言われたらば「いえいえこちらこそ、どうもありがとう」と言い返すという日本人における常識のようなものにおいても同じことが言えます。まあこういった右な人たちも心使い過ぎて最後は心臓麻痺でwhite outして死んでしまうのかもしれないですけど。
昔のじいさんばあさんとかで「無駄口叩くな!」「べちゃくちゃおしゃべりするな!」とかよく子供に説教する人とか居ましたけど、日本語が穢れたというかあまり口に出して良いものではない・物事の説明に適した言語ではないことを昔の人はちゃんと知っていた、というか日本人にとって日本語以外には無いところの言葉というものはそういうものであるとの認知を昔の日本人は持っていたということです。日本語というのは英語と逆で理念性の全く無い、単純で一言でそれが通じる・それが通じなければいけなくそれが理解できない者は排斥される、くらいの。日本語が良くない言語だというのは、下手をするとこれはペン的な剣として殺人ツールになってしまうからです。例えば「つき」と言えば「ああ、月、憑き、ツキ(が回ってきた)、突き、ね」というわけであってこれらは皆同じ「つき」であるというような。「子供は風の子」という表現もありますけど、これは本来的には「子供は風のように外を走り駆け回って過ごすべきである」という意味合いの表現なのではなくて、詩的に火・土・水・風の四元素的に「風というものの子たるそれが子供」という言葉だということです。風は気圧の場違いによって起こる現象ですけど、子供は皆小さな王冠を被っているようなものであって、der Königは現象、日本のものではないですけど「王子と乞食」みたいな物語が生まれるのもまた必然であるというわけです。漢字が大陸から入ってくる前や、古事記や日本書紀以前にどういった言葉が使われていたかを示す資料というのはまず残ってないでしょうけど、その頃にどういった日本語が使われていたかということを考えるとけっこう面白そうです。現代では、法律の条文なんか皆そうですし、英語のセンテンス化された・英語のセンテンスに組み込まれた日本語が使われることが一般的なんで、日本語も現実的な問題に対処するべく使われるのが言語であるという西洋的なものに合わせなければいけないというのがもちろん当たり前になってます、もちろん日本語にも文法はありますし。文明の維持発達というともありますし、またそうでなければ特にここ日本ではバカなオスに結果として女性の人権が踏みにじられてしまうことになりかねないという問題があるので、これは当たり前のことですけど。英語を国語にしとくのが一番良かったんでしょうけどね。ただ、例えば「アカン」とかいうのがどういうことなんだか、日本人でありながら英語的発想に精神を呑まれきってマンガ的コンテクストに頭を支配されていると物事正確に分からなくなるということになるんですね。「『アカン』というのは、不適合・不適切・不合理だとかそういった意味ですねっ」とか言い出したらお終いです。「アカン」は「アカン」のですけど。印欧語であっても文学のテクストからそういった例えば「赤」のようなものをそれがどういうことなのか読み解いていければいいんでしょうけど、ただこれにはある程度高い教育を受けることが必要になってきてしまいます。日本語というのは、これが極めて簡易に理解できるようになっているものであって、コミュニケーションにはあまり適していない言語であるというよりはそのような言葉であるといった方が適当な記号みたいなもんです。
ヒトの体の動きとして自然なものは男女間のセックスだけです。オスだったら腹筋、メスだったら背筋ですね。私みたいな運動のあまり出来ないヒトではなくて運動神経の良い運動の出来るヒトならば体感としてご存知のはずだと思いますけど。しかし、例えば、パソコンやワープロのキーボードを打って文章を書くことが自然でないといえば自然でないのは当然ですけど、それで言うならばペンや鉛筆を使って紙に文字を書くという形で文章を書くのも当然自然ではないんですね。だから、キーボードを打って出る文章とペンを走らせて出る文章の内容は同じでも程度が違っていようがコンピュータのキーボードを使うこともペン等の筆記具を使用することも不自然であるところの問題の方向性としては同じであって、文明の利器にはどんどん慣れて取り入れて使っていかないとどうしようもないんですね。我々の体は2000年前とは造りが違いますししたぶん1000年前とも違うでしょう。まあその文明の利器も肉体の健康を害すほどに多用・悪用していたら元も子もないですけど。
heartを「心」と訳すのは間違いです。heartをヒトの臓器の一つである「心臓」と訳すのは正解ですけど、日本語の「心」の場合は心を使いすぎると心臓にクるというか負担がかかるんですね、日本語というのは「そうなるとそうなる」言葉なんです。逆に、heartfeltやwarm-heartedの場合は心臓にやさしいんです、英語というのは理念的な言語なんです。で、英語だとcordialityという単語を日本語の「心」と訳すのが正解です。
シェイクスピアの「リア王」では、オーディンの如きなリア王の娘のあわれなヴァルキリーのブリュンヒルデのようなコーディリア王女がこのcordiallyな人物として描かれてます。統合失調なリア王はこの物語の初頭で二つ前の記事で書いたような馬耳東風な精神分裂な人間のコーディリア王女に対して怒りを燃やしてしまいますけど、このcordiallyな人間は西洋的な価値意識一般いおいてはheart warmingな人間としては見なされないんですね。以下リア王が娘達に自分の遺産をくれてやるぞと告げコーディリア王女がそれを断る場面からいくつかセリフを抜粋して引用。
コーディリア「コーディリアはどうしようかしら?心で愛して、黙っていましょう。」
コーディリア「かわいそうなコーディリア!でも、そうではないわ。わたしの愛情は舌よりもずっと大きいのだもの。」
コーディリア「陛下、お願いでございます――わたくしはするつもりのあることは、口にするよりもまず実行をと心掛けておりますので、心にもないことを言う滑らかな弁舌が、わたくしには欠けておりますかもしれませんが、と申しますのは、お父上の御寵愛を失いましたのは、わたくしの悪徳の汚れや、人殺しや、不潔な行いや、淫らな所業や、不名誉な振舞いのゆえではなく、持たないことが私を豊かにしてくれるもの、つまりいつもものほしそうな目つきや、わたくしが持たないことを喜んでおります舌、それがないためであることを、おっしゃってくださいませ。そのために御寵愛を失ってしまいましたけれど。」
(父王の遺産をもらい受けた強欲で罪深い姉に対して)
コーディリア「時がたてば、襞の中に隠された悪事もあらわれてしまいましょう。罪を覆い隠すものも、ついには恥辱の嘲笑を受けることになります。―後略―」
しかし結局は愚かなリア王も最後にコーディリア王女の真の「心」(まごころ)を知り、その死を嘆き悲しみ自らも心臓をやられて「気を失って」死にます。最後の最後で心がどういうものか知ったんです。
ハーバード大学の経済学の教授のN.Gregory Mankiwさんが著書の経済学の教科書で言ってますけど、経済学的考え方や経済学的なものの見方を学習するのに知識はほとんど必要ありません。経済学者が自説の正当性を説明するためにデータを大量に持ってくることはあるでしょうけど、経済学というのは特定の知識の存在を前提にそこからものを考えていくという学問ではないんですね。一週間くらい集中して経済学の教科書を読めば理論や基本的な考え方をものにできる(のは当然)、というよりは、もともとこれは合理性に基づいて行動する大多数のヒトの行動を数理的に表現したものです。少なくとも経済学を「学ぶ」という点おいては「知」は法律や文学を学ぶことに比べれば必要ありません。以下「リア王」の結末より。
エドガー「(リア王が)お亡くなりになりました。」
ケント伯爵「むしろ不思議と言うべきだ、これほど長くお耐えになったということが。命を盗んでおられたのだな。」
―中略―
エドガー「この悲しむべき時代の重圧に、われわれは耐えてゆかねばなりません。感じていることを言いましょう。もっとも年老いた者がもっとも多く耐え忍ばれました。若いわれわれはそれほど不幸な目にも遭わず、それほど長生きもしないでしょう。」
年老いた者は悲しみの重圧にそれがそれであると気付かず耐えてしまっていたということです。人体の健康の問題的に「若いわれわれ」は長生きするでしょうけど。自分の汚れや意識下に封じ込めた罪の意識から目を逸らしてその存在と自分の行為の矛盾にもかかわらず他人を裁くということはあまりにも道理に反しているということです、文学的に考えると、経済学には残念ながら。
「リア王」ではリアもコーディリアも死ぬという形で描かれてますけど、この二人は最初から愛ありきではなかったんです。「十二夜」のヴァイオラとオーシーノウ公爵のようにそれがどんなすれちがいであれ最初から愛ありきでの行動が描かれていたならば幸せに結ばれることだということなんですけど。最初から愛があったならば、多分愛があれば、女の人の精神は分裂を起こさずにすむことができて、男が一人愛する女のために犠牲になって汚れを背負っておけば結ばれる、という運命です。
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