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2025.04.16 Wednesday
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Amerasian
2012.11.08 Thursday
アジア太平洋圏。
Judeな反社会的人間に見られるものとして「敵」「味方」がどうこうというものがありますけど、この発言や発想自体がもう反社会的なんですね。他者を貶めて相対的に自分の位置を上げるといった手段でしか生存する術を知らない者を排斥しない社会的人間は居ないのであって、そのような反社会的人間だからこそ「味方」云々という発想も出てくるというわけです。「味方」だから悪事に及んでも助けてくれる、そのような他者を求め設定する、という甘えの発想です。敵も味方もそんなもの何処にも居ないのであって、反社会的行為に及べば誰もが「味方」になりうるしまた誰もが「敵」になりうるということです。こんなこと幼稚園児の時点で分かることのはずなんですけど。
一般的にキリスト教では結婚は最も軽い罪と見なされてます。人類の存続のためにこれだけは必要であるということで、一対一の男女のその決まった相手との情事という反社会的行為だけは結婚というとある社会的承認を得る儀式を通過した上で許されるということです。
精神科医は診療内容の守秘義務を逆手にとって精神を病んでいたりまた抗精神病薬でシャブ漬けの状態にした来院者に対して精神科の診療室内における出来事は患者によっても守秘されねばならないという錯覚を与えその患者の口封じをした状態で患者に対してその診療行為内においてパワーハラスメントを多々行ってきます。内ゲバの亜種です。幼児的な嫌がらせとかいった生ぬるい表現では済まない程度のものです。だから私も最低限の自己防衛としてこのブログに全てその内容を記述してupするということを行います。
個人的な経験では、N田四R医師は治療に関する患者の質問を老獪に回避し適当に丸め込んで逃げる、M'z a 悪意医師は前にも書いた通り私と年齢が近くてお若かったので患者を挑発して何かをやらせようとしていた気がありましたけどまあ毎度毎度抗精神病薬漬けの状態の脳の患者に対して嫌味を言いパワーハラスメントを連発する、自称k子curseマ医師は毎度毎度言動とその顔面の表情によって汚い嫌味をタラタラと垂れ流す、ということを行ってきます。自称I福T子医師は今まで二回の診療においては前述の通りであって、まあこれからどういった態度に出るかは不明ですけど。「自称」というのは、N田四R医師もM'z a 悪意医師もまあ同じですけど、k子curseマがそれを名乗っている人物の本名である保証は患者の側からは確認できないからです。この自称k子curseマというのはまあ顔を見てもらえれば分かるんですけど、ブタです。別に他人の顔がどうとかどうでもいいんですけど、その診療内容からして人格の内面性の豚々しさが表面に滲み出たとしか形容仕様の無い人豚、というかまあブタです。おそらく40歳は過ぎているであろうに髪の毛は長髪で汚い茶髪にしたり黒に染め直したり、白衣は着用せず毎回同じ黒いセーターのようなものや夏場はTシャツに下半身は青いジーパン、もう開いた口が塞がらないどころか目も当てられません。毎回この不潔なブタとそのモルボルグレートみたいな臭い口から吐かれる嫌味に抗精神病薬漬けの状態で正面の位置から対面させられる患者の身にもなれということです(でした)。近くにはここともう一軒の以前診療を受けたことのあるあまり良くないクリニックがあるだけであって、どこへ行っても精神科というのはこういったところで同じなんで、もういちいち変えはしませんけど。まあぶっちゃけると、前にも書きましたけど、k子curseマもI福T子もコイツらは芸名なんです、下手をすればサクラです。これらのことにN口クリニックのN口先生の意思が関与しているかしていないかまたは関与しているとしてもどのような形をとってのものかは不明ですけど。ちなみにこの自称k子curseマは今度遁走して逃げます。
もちろん個人のクリニックも大きな病院もサクラだらけです、精神科というのはそういうところなんです。
他者を信用できない人間はいたずらに他者を攻撃します、ある場合は対象の負の要因のみを第三者に対して知らしめまたある場合は汚い広告の如く自分らの利得権益たるものの正の要因のみを部外者に喧伝するというやり方で。また先述の通り媚びへつらいによる引きずり込みやそれが通用しないとなれば見せかけによる騙しを主とする逆差別によって。当然こういった者らは必然的に排斥されるように出来てます。人を信用する本来的には健常な一般市民であるはずの人間がターゲットにされてどんどんこういったJudenによって貶められてやくざ者に仕立て上げられていくんですね。そして最後にはそういった人たちに「暴力」のレッテルを貼り自分らは一般市民を装ってどんどん当該社会に毒を垂れ流して悪化させていく、というこれが反社会的人間の当該社会における行動です。Judenの所業です。ヒットラーはこれをユダヤの毒と呼びました。日本でもネットが普及してからは良くなりましたけど、まあ高度経済成長期や80年代は酷いものだったっぽいです。現在31歳の私ですら子供だった頃に公立小学校の教師の酷さという形でそれを味わってます。私SSは騒音でしょっちゅうやられる・どうやら子供の頃からひたすらやられていたのだということ(に最近気付いた)んですけど、他人に嫌がらせをする個体というのはアレは殺す以外にありません。コレらが様々な社会的な災禍や不幸の火種を些細なマッチの火から作っていくのであって。
私立高校志望の子供たちが塾や予備校でやらされる勉強はそれなりに難しいでしょうけど、公立中学校でやらされる勉強なんか簡単過ぎて絶対評価で五段階評価であれば半数くらいの人間が5や4の成績を取れてしまう程度のものなんですね。あんなものやるかやらないかの問題です。だから相対評価で自分の能力を査定されるということになると試験の成績だけでは決められなくなってくるので結局教師のお気に入り度合いがそれに多分に反映されてしまうという形態が出来上がってしまうのであって、そんなもので中学生が進学先を決められてしまうところの公立高校なんてものはJudeな教師の独善的なユダヤ的基準によって敷かれたカースト以外の何ものでもない上に、人に媚びることを覚えさせられる子供にとっては教育に悪影響どころの問題ではないです。もうとうに公立高校が朽ち果てたところの・レベルの高い私立高校がたくさんあってくれる都市部はいいですけど、地方だとこの2012年現在でも子供たちは理不尽な思いをさせられてるんじゃないですかね。百年近くもの昔の様相が記述してある川端康成の小説とかでも「都会だと英語が難しいでしょう」というセリフでその現象が分かりやすく描かれたりしてます。夏目漱石のだったかもしれませんけど。二つくらい前の記事でも書きましたけど、英語というのはそういった言語で、頭の良し悪しが表れやすいんです。ちなみにあの当時は「修身」だか「道徳」だかで具体的基準に沿って成績を付けられるという形でそういったものが評価されるという形態がちゃんとあったんですね。
私は半年くらい前に書いたいつかの記事で数学的ということと数理的ということは違うと書いたんですけど、これは違うのではなくて当該の問題の現実的な処理にまつわって存在する定常からのズレ具合の問題であって、どちらも実在論的見地に基づくものであって違いは無いんですね。私みたいに肉体に強度の斜視が現れるほどの「左」に筋金の入っている病的なヒトの場合は別かもしれませんけど。これから「右」に戻って定常する身体感覚の気づきみたいなものを与えてくれたのは抗精神病薬です。
前にXPという記事で、
「ヒトの恋愛行動においては、オスはアニマの幻影を特定の異性に求め唯名的かつ実在的になるのに対し、メスはアニムスの具現体としての特定の異性において彼を象徴化して知識のバラつきと同化させようと試み、その条件を満たす相手を理想の男であると見なします。平たく言うと女性は恋愛において絶対知たる自分と同じものを男性に求めるということです。そして何もかも捨て去った時に初めてその自覚が芽生えるイドを満たしてくれる女を想うことが男における肉欲に邪魔されない本物の恋というやつです、『ああ、俺はあの娘が好きだったのか』と。」
と書きましたけど、アメリカはこれにおけるオス、日本はこれにおけるメス、そのまんまです。アメリカは唯命的かつ実在的、ちょっと変な言い方ですけど恋する男の国であって表面的には女性性志向なんですね。日本は逆であって象徴的、また変な言い方ですけど恋する女の国であって表面的には男性性志向だということです。もちろんこれの表面だけをとって「アメリカは女の国」だとか「神国日本」だとかいうのは大間違いです。つまり、アメリカはof the people, by the people, for the peopleの国であって、逆に日本はエゴイストの国です。だからアメリカはお国柄的に滅茶苦茶強くて日本はお国柄的に滅茶苦茶弱いんです。アメリカは歴史が最も浅く且つ文明の最も発達した国です。今日の日本では日付変更線が中央右に入ってアメリカ大陸が東側にある世界地図が一般的ですけど、云わばヘーゲル曰くの最も歴史の幼年期でありかつ西の新大陸として世界で最も文明的な国、つまり左右がcrossした良いとこ取りの国ということが言えるっぽいです。南アメリカ大陸のこととかはあまりよく知らないんで、まあ何とも言えないですけど。もちろん世界地図は日本が極東に位置されていてアメリカ大陸が左にあるものが何がどうなっているか分かりやすくて良いです。そして日本は逆に、朝鮮もシャーマニズムの国でしたけど、古来から卑弥呼みたいな悪政を司るアニマの具現体みたいな女が居たんですね。卑弥呼というのは「卑しい弥を呼ぶ(者)」と書きます。だからこそやっぱり日本にはゲイシャやハラキリは別に要りませんけどnichtなサムライが必要だということであって、ヤクザや官僚が否定され得ないのはこういったこともあります。天皇制はあってもなくてもどうでもいいですし、かといってまあ皇室の人たちが居てくれても別になにも問題は無いとは思いますけど。逆にアメリカには自由の女神というかHillary Clintonさんみたいな人が必要だとか。
云うなれば、nichtはニヒルなアニムス、0は肉の穢れたるアニマです。数学では、0というのは一つの具体的定数であって無ではないんですね。日本というのはサムライをはじめとしたnichtな人間たちと奴隷のように愚かなzeroな人間たちが二種に分かれて作っている(た)国だというと分かりやすいかもしれないです、残念ながら。ちょっとうろ覚えなんで断言はできないですけど、たぶん「啓蒙とは何か」だったと思いますけど、どこかの著作ででImmanuel Kantが「暗い部屋にこもってどうたらこうたらのシナの哲人たちがこのnichtと0を混同している」みたいな内容のことを言ってたような。虚無と0という定数とは違うんですね。
ヒットラーはもちろんキリスト教的であり数学的です(自身が数学たるものを志向していました)けど、この人物が子供の頃あまり数学が出来なかったというのは結構有名な話です。自身が数学的であるということは(中高生がやる)数学の問題を解く能力はあまりない、どころかそれが皆無であるということかもしれません。決まりきってるので。私も何度もこのブログにupした文章の中で数学数学と言ってますけど、東大の理系や東工大へ行く高校生たちの数学の問題を解く能力が10段階評価の10で中学校の教科書レベルのものしか理解できないのが10段階の1だとすると、私SSの10代の子供の頃の数学の問題を解く能力は10段階のいいところ7か8くらいであってそこまで特別にいわゆる「数学の出来る」子供だったわけではないです。
数学の問題を解くことがこれに該当するかというとちょっと微妙ですけど、「そうなると→そうなる」という、これをそのまま定常情報としてインプットされてしまう、例えば被洗脳行為から身(頭)を守るためには、何度もこのことはブログで書いてますけど、とりあえずそれを記憶して後でそれを言語化して記述する等で吐き出すということがおそらく有効です。しかし「勉強する」というのはこういう定常情報を拡げていくということなんでしょうけどね。つまり世界知みたいなもので自分を洗脳していくということであって、これは主観性の問題です。つまりは抗精神病薬漬けになっている状態のヒトはあっさりとサブリミナルにはかかってしまってやられます。記憶するというのは客観性の為せる技であってこれは「勉強」ではないです。たぶん記憶というのは「学習」です。だから私はあまり勉強はできませんけど学習能力は高いです、これを多々悪用されることがありはするということなんですけど。先述の、「右→左→右」な身体意識を持つところの、自分の意思にかかわらず何でも記憶してしまうという現象・行為にまつわる感覚を実体感として知っている者としては、やはりこれは病的であり病気のもとであるということが明確に分かりますけど、その後で吐いてしまえばいいんですね。だから私は愚昧な説教をする大人たちのお言説なんざ現象的には馬耳東風のものであって、これを記憶して自分の中で処理して消化するということをやっていた……ら病気になりましたけど、腑に落としたものを再び頭へクるという形で意識上へのぼらせてそれを言語化して吐いてしまったらかなり病状は良くなりました。これをやっていれば愚かな人間の説教に洗脳されるということもありません。たぶん日本人の多くは「左→右→左」の身体意識の持ち主ですけど、欧米人特にキリスト教圏特に英語圏のヒトたちはほとんど皆「右→左→右」の身体意識の持ち主です。私SSは後者であって、前にも書きましたけど日本好きのアメリカ人的です。
ヒットラーのNichtを求める意志(意思)、またはヒトが唯脳論的な意味合いで最終的にたどり着く左右の二元論というのは、善良な人間が複数の・不特定多数の悪意を持った者たちの意思と接触しそれに翻弄されることを余儀なくされた時、それを処理する方法としてそれら全てを「左」としそれに対するものとして「右」のnichtたる定常を「頭の置き方」として設定するということなのかもしれません。前に唯脳論的見地は間違っていると書きましたけどここで言うのは身体の一器官としての脳のことであって、抗精神病薬を服薬するとこれを身体感覚としての唯脳論的な意味合いで自覚・体感することができる、つまり自分の行動と脳の痛みの因果を自覚できるようになる、つまり「イタいのがドコか」が分かるようになる、ということなんですね。抗精神病薬というのは自分は情報を溜め込んでしまっているということすら分からなくなっているほどに病んでいるヒトに、それが病んでいる状態であるという自覚を与えるきっかけにはなるということです。身体が痛んでいるのにそれの自覚が無いとイタい行動に及んでしまうということです。安静時には「右」で定常していて、「左」への流し・現象を全て釣りであるとする抽象性にたどり着く、というのは善良な人間の自己防衛の本能のようなものによる必然なのかもしれないということです……けどまあしかし少なくとも今の私SSの場合は安静時で「右」で定常している時にも頭はきちんと働いてますけど。
音楽も(審)美的というか数学的ですけど、音痴というのは運動神経の悪さその他と関係あるっぽいです。たぶん音痴の状態、歌を歌って音がとれない状態というのは肉体があまり健康な状態ではなさそうです。私SSは裏声だと音がとれますけど地声だと音程が全くとれないです。どうでもいいですけどだからカラオケとか全然歌えません。喉の使い方的に裏声を出す時というのは私の場合は体意識的に「右」に定常してます。歌手で運動神経の悪そうな人というのはあんまり見たことないですけど、どうなんですかね。
Judeな反社会的人間に見られるものとして「敵」「味方」がどうこうというものがありますけど、この発言や発想自体がもう反社会的なんですね。他者を貶めて相対的に自分の位置を上げるといった手段でしか生存する術を知らない者を排斥しない社会的人間は居ないのであって、そのような反社会的人間だからこそ「味方」云々という発想も出てくるというわけです。「味方」だから悪事に及んでも助けてくれる、そのような他者を求め設定する、という甘えの発想です。敵も味方もそんなもの何処にも居ないのであって、反社会的行為に及べば誰もが「味方」になりうるしまた誰もが「敵」になりうるということです。こんなこと幼稚園児の時点で分かることのはずなんですけど。
一般的にキリスト教では結婚は最も軽い罪と見なされてます。人類の存続のためにこれだけは必要であるということで、一対一の男女のその決まった相手との情事という反社会的行為だけは結婚というとある社会的承認を得る儀式を通過した上で許されるということです。
精神科医は診療内容の守秘義務を逆手にとって精神を病んでいたりまた抗精神病薬でシャブ漬けの状態にした来院者に対して精神科の診療室内における出来事は患者によっても守秘されねばならないという錯覚を与えその患者の口封じをした状態で患者に対してその診療行為内においてパワーハラスメントを多々行ってきます。内ゲバの亜種です。幼児的な嫌がらせとかいった生ぬるい表現では済まない程度のものです。だから私も最低限の自己防衛としてこのブログに全てその内容を記述してupするということを行います。
個人的な経験では、N田四R医師は治療に関する患者の質問を老獪に回避し適当に丸め込んで逃げる、M'z a 悪意医師は前にも書いた通り私と年齢が近くてお若かったので患者を挑発して何かをやらせようとしていた気がありましたけどまあ毎度毎度抗精神病薬漬けの状態の脳の患者に対して嫌味を言いパワーハラスメントを連発する、自称k子curseマ医師は毎度毎度言動とその顔面の表情によって汚い嫌味をタラタラと垂れ流す、ということを行ってきます。自称I福T子医師は今まで二回の診療においては前述の通りであって、まあこれからどういった態度に出るかは不明ですけど。「自称」というのは、N田四R医師もM'z a 悪意医師もまあ同じですけど、k子curseマがそれを名乗っている人物の本名である保証は患者の側からは確認できないからです。この自称k子curseマというのはまあ顔を見てもらえれば分かるんですけど、ブタです。別に他人の顔がどうとかどうでもいいんですけど、その診療内容からして人格の内面性の豚々しさが表面に滲み出たとしか形容仕様の無い人豚、というかまあブタです。おそらく40歳は過ぎているであろうに髪の毛は長髪で汚い茶髪にしたり黒に染め直したり、白衣は着用せず毎回同じ黒いセーターのようなものや夏場はTシャツに下半身は青いジーパン、もう開いた口が塞がらないどころか目も当てられません。毎回この不潔なブタとそのモルボルグレートみたいな臭い口から吐かれる嫌味に抗精神病薬漬けの状態で正面の位置から対面させられる患者の身にもなれということです(でした)。近くにはここともう一軒の以前診療を受けたことのあるあまり良くないクリニックがあるだけであって、どこへ行っても精神科というのはこういったところで同じなんで、もういちいち変えはしませんけど。まあぶっちゃけると、前にも書きましたけど、k子curseマもI福T子もコイツらは芸名なんです、下手をすればサクラです。これらのことにN口クリニックのN口先生の意思が関与しているかしていないかまたは関与しているとしてもどのような形をとってのものかは不明ですけど。ちなみにこの自称k子curseマは今度遁走して逃げます。
もちろん個人のクリニックも大きな病院もサクラだらけです、精神科というのはそういうところなんです。
他者を信用できない人間はいたずらに他者を攻撃します、ある場合は対象の負の要因のみを第三者に対して知らしめまたある場合は汚い広告の如く自分らの利得権益たるものの正の要因のみを部外者に喧伝するというやり方で。また先述の通り媚びへつらいによる引きずり込みやそれが通用しないとなれば見せかけによる騙しを主とする逆差別によって。当然こういった者らは必然的に排斥されるように出来てます。人を信用する本来的には健常な一般市民であるはずの人間がターゲットにされてどんどんこういったJudenによって貶められてやくざ者に仕立て上げられていくんですね。そして最後にはそういった人たちに「暴力」のレッテルを貼り自分らは一般市民を装ってどんどん当該社会に毒を垂れ流して悪化させていく、というこれが反社会的人間の当該社会における行動です。Judenの所業です。ヒットラーはこれをユダヤの毒と呼びました。日本でもネットが普及してからは良くなりましたけど、まあ高度経済成長期や80年代は酷いものだったっぽいです。現在31歳の私ですら子供だった頃に公立小学校の教師の酷さという形でそれを味わってます。私SSは騒音でしょっちゅうやられる・どうやら子供の頃からひたすらやられていたのだということ(に最近気付いた)んですけど、他人に嫌がらせをする個体というのはアレは殺す以外にありません。コレらが様々な社会的な災禍や不幸の火種を些細なマッチの火から作っていくのであって。
私立高校志望の子供たちが塾や予備校でやらされる勉強はそれなりに難しいでしょうけど、公立中学校でやらされる勉強なんか簡単過ぎて絶対評価で五段階評価であれば半数くらいの人間が5や4の成績を取れてしまう程度のものなんですね。あんなものやるかやらないかの問題です。だから相対評価で自分の能力を査定されるということになると試験の成績だけでは決められなくなってくるので結局教師のお気に入り度合いがそれに多分に反映されてしまうという形態が出来上がってしまうのであって、そんなもので中学生が進学先を決められてしまうところの公立高校なんてものはJudeな教師の独善的なユダヤ的基準によって敷かれたカースト以外の何ものでもない上に、人に媚びることを覚えさせられる子供にとっては教育に悪影響どころの問題ではないです。もうとうに公立高校が朽ち果てたところの・レベルの高い私立高校がたくさんあってくれる都市部はいいですけど、地方だとこの2012年現在でも子供たちは理不尽な思いをさせられてるんじゃないですかね。百年近くもの昔の様相が記述してある川端康成の小説とかでも「都会だと英語が難しいでしょう」というセリフでその現象が分かりやすく描かれたりしてます。夏目漱石のだったかもしれませんけど。二つくらい前の記事でも書きましたけど、英語というのはそういった言語で、頭の良し悪しが表れやすいんです。ちなみにあの当時は「修身」だか「道徳」だかで具体的基準に沿って成績を付けられるという形でそういったものが評価されるという形態がちゃんとあったんですね。
私は半年くらい前に書いたいつかの記事で数学的ということと数理的ということは違うと書いたんですけど、これは違うのではなくて当該の問題の現実的な処理にまつわって存在する定常からのズレ具合の問題であって、どちらも実在論的見地に基づくものであって違いは無いんですね。私みたいに肉体に強度の斜視が現れるほどの「左」に筋金の入っている病的なヒトの場合は別かもしれませんけど。これから「右」に戻って定常する身体感覚の気づきみたいなものを与えてくれたのは抗精神病薬です。
前にXPという記事で、
「ヒトの恋愛行動においては、オスはアニマの幻影を特定の異性に求め唯名的かつ実在的になるのに対し、メスはアニムスの具現体としての特定の異性において彼を象徴化して知識のバラつきと同化させようと試み、その条件を満たす相手を理想の男であると見なします。平たく言うと女性は恋愛において絶対知たる自分と同じものを男性に求めるということです。そして何もかも捨て去った時に初めてその自覚が芽生えるイドを満たしてくれる女を想うことが男における肉欲に邪魔されない本物の恋というやつです、『ああ、俺はあの娘が好きだったのか』と。」
と書きましたけど、アメリカはこれにおけるオス、日本はこれにおけるメス、そのまんまです。アメリカは唯命的かつ実在的、ちょっと変な言い方ですけど恋する男の国であって表面的には女性性志向なんですね。日本は逆であって象徴的、また変な言い方ですけど恋する女の国であって表面的には男性性志向だということです。もちろんこれの表面だけをとって「アメリカは女の国」だとか「神国日本」だとかいうのは大間違いです。つまり、アメリカはof the people, by the people, for the peopleの国であって、逆に日本はエゴイストの国です。だからアメリカはお国柄的に滅茶苦茶強くて日本はお国柄的に滅茶苦茶弱いんです。アメリカは歴史が最も浅く且つ文明の最も発達した国です。今日の日本では日付変更線が中央右に入ってアメリカ大陸が東側にある世界地図が一般的ですけど、云わばヘーゲル曰くの最も歴史の幼年期でありかつ西の新大陸として世界で最も文明的な国、つまり左右がcrossした良いとこ取りの国ということが言えるっぽいです。南アメリカ大陸のこととかはあまりよく知らないんで、まあ何とも言えないですけど。もちろん世界地図は日本が極東に位置されていてアメリカ大陸が左にあるものが何がどうなっているか分かりやすくて良いです。そして日本は逆に、朝鮮もシャーマニズムの国でしたけど、古来から卑弥呼みたいな悪政を司るアニマの具現体みたいな女が居たんですね。卑弥呼というのは「卑しい弥を呼ぶ(者)」と書きます。だからこそやっぱり日本にはゲイシャやハラキリは別に要りませんけどnichtなサムライが必要だということであって、ヤクザや官僚が否定され得ないのはこういったこともあります。天皇制はあってもなくてもどうでもいいですし、かといってまあ皇室の人たちが居てくれても別になにも問題は無いとは思いますけど。逆にアメリカには自由の女神というかHillary Clintonさんみたいな人が必要だとか。
云うなれば、nichtはニヒルなアニムス、0は肉の穢れたるアニマです。数学では、0というのは一つの具体的定数であって無ではないんですね。日本というのはサムライをはじめとしたnichtな人間たちと奴隷のように愚かなzeroな人間たちが二種に分かれて作っている(た)国だというと分かりやすいかもしれないです、残念ながら。ちょっとうろ覚えなんで断言はできないですけど、たぶん「啓蒙とは何か」だったと思いますけど、どこかの著作ででImmanuel Kantが「暗い部屋にこもってどうたらこうたらのシナの哲人たちがこのnichtと0を混同している」みたいな内容のことを言ってたような。虚無と0という定数とは違うんですね。
ヒットラーはもちろんキリスト教的であり数学的です(自身が数学たるものを志向していました)けど、この人物が子供の頃あまり数学が出来なかったというのは結構有名な話です。自身が数学的であるということは(中高生がやる)数学の問題を解く能力はあまりない、どころかそれが皆無であるということかもしれません。決まりきってるので。私も何度もこのブログにupした文章の中で数学数学と言ってますけど、東大の理系や東工大へ行く高校生たちの数学の問題を解く能力が10段階評価の10で中学校の教科書レベルのものしか理解できないのが10段階の1だとすると、私SSの10代の子供の頃の数学の問題を解く能力は10段階のいいところ7か8くらいであってそこまで特別にいわゆる「数学の出来る」子供だったわけではないです。
数学の問題を解くことがこれに該当するかというとちょっと微妙ですけど、「そうなると→そうなる」という、これをそのまま定常情報としてインプットされてしまう、例えば被洗脳行為から身(頭)を守るためには、何度もこのことはブログで書いてますけど、とりあえずそれを記憶して後でそれを言語化して記述する等で吐き出すということがおそらく有効です。しかし「勉強する」というのはこういう定常情報を拡げていくということなんでしょうけどね。つまり世界知みたいなもので自分を洗脳していくということであって、これは主観性の問題です。つまりは抗精神病薬漬けになっている状態のヒトはあっさりとサブリミナルにはかかってしまってやられます。記憶するというのは客観性の為せる技であってこれは「勉強」ではないです。たぶん記憶というのは「学習」です。だから私はあまり勉強はできませんけど学習能力は高いです、これを多々悪用されることがありはするということなんですけど。先述の、「右→左→右」な身体意識を持つところの、自分の意思にかかわらず何でも記憶してしまうという現象・行為にまつわる感覚を実体感として知っている者としては、やはりこれは病的であり病気のもとであるということが明確に分かりますけど、その後で吐いてしまえばいいんですね。だから私は愚昧な説教をする大人たちのお言説なんざ現象的には馬耳東風のものであって、これを記憶して自分の中で処理して消化するということをやっていた……ら病気になりましたけど、腑に落としたものを再び頭へクるという形で意識上へのぼらせてそれを言語化して吐いてしまったらかなり病状は良くなりました。これをやっていれば愚かな人間の説教に洗脳されるということもありません。たぶん日本人の多くは「左→右→左」の身体意識の持ち主ですけど、欧米人特にキリスト教圏特に英語圏のヒトたちはほとんど皆「右→左→右」の身体意識の持ち主です。私SSは後者であって、前にも書きましたけど日本好きのアメリカ人的です。
ヒットラーのNichtを求める意志(意思)、またはヒトが唯脳論的な意味合いで最終的にたどり着く左右の二元論というのは、善良な人間が複数の・不特定多数の悪意を持った者たちの意思と接触しそれに翻弄されることを余儀なくされた時、それを処理する方法としてそれら全てを「左」としそれに対するものとして「右」のnichtたる定常を「頭の置き方」として設定するということなのかもしれません。前に唯脳論的見地は間違っていると書きましたけどここで言うのは身体の一器官としての脳のことであって、抗精神病薬を服薬するとこれを身体感覚としての唯脳論的な意味合いで自覚・体感することができる、つまり自分の行動と脳の痛みの因果を自覚できるようになる、つまり「イタいのがドコか」が分かるようになる、ということなんですね。抗精神病薬というのは自分は情報を溜め込んでしまっているということすら分からなくなっているほどに病んでいるヒトに、それが病んでいる状態であるという自覚を与えるきっかけにはなるということです。身体が痛んでいるのにそれの自覚が無いとイタい行動に及んでしまうということです。安静時には「右」で定常していて、「左」への流し・現象を全て釣りであるとする抽象性にたどり着く、というのは善良な人間の自己防衛の本能のようなものによる必然なのかもしれないということです……けどまあしかし少なくとも今の私SSの場合は安静時で「右」で定常している時にも頭はきちんと働いてますけど。
音楽も(審)美的というか数学的ですけど、音痴というのは運動神経の悪さその他と関係あるっぽいです。たぶん音痴の状態、歌を歌って音がとれない状態というのは肉体があまり健康な状態ではなさそうです。私SSは裏声だと音がとれますけど地声だと音程が全くとれないです。どうでもいいですけどだからカラオケとか全然歌えません。喉の使い方的に裏声を出す時というのは私の場合は体意識的に「右」に定常してます。歌手で運動神経の悪そうな人というのはあんまり見たことないですけど、どうなんですかね。
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