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kissing kin, kitchen essencials
2012.10.23 Tuesday
遠くの血縁より近くの恋人。
常にあるもの。
私は外国語の習得が遅いです。英語も発音はある程度上手いですけど、ペラ+αくらいであってペラペラと流暢にはしゃべれません。というのは事象の認識が蓋然的であって、何もかも不必要なものまで情報化して溜め込んでしまう非常に悪質なクセがあるからであって、記憶の容量がすぐに許容限界量を超えてしまうためだからです。まあヒトは誰しもストレスが溜まるともの覚えが悪くなりますけど。老人が子供に比べてものを覚えられないのは長年生きてきて情報を溜め込んでしまっているからです。単に「老化しているから」という理由で片付けてしまうのはあまり賢くないです。生まれたての赤ん坊は皆きれいな顔をしてますけど、老人の肉体の外形が醜いのは溜め込んでいる情報の質や量に相関しているというよりは因果していると考えると妥当です。
対人コミュニケーションにおいて何らかの否定的要素に耐えているというのであれば、それは他者をして否定的要素に耐えさしめている者と同じ属性のものかもしれないです。どちらも、文学的表現だと「身体の外に魂が抜けている」、身体が基本になっていないということです……けど、まあ年をとった老人を見れば分かるとおり人間誰しも早かれ遅かれそうなります。死なないヒトは居ません。
Intelligence Quotientの値はテストで計られた精神年齢を実年齢で割ってそれに100を掛けたものです。つまりは幼少時に苦痛を味わって老化しときゃそれ程に知能が高くなるということですけど、肉体の成長期に過度の苦痛を味わえば成長が阻害されて肉体の外形が不恰好になった病気になったり下手をすれば骨格が変形したりしてしまうわけです。私がそうです。10歳で神童と呼ばれた子供が30歳過ぎてただの人になるというのはもちろん味わった苦痛と時間の割合の問題がそこにあるからということですけど、子供の時のように勉強や運動を続けていないと神童も時間が経てば普通の人になるということです。ちなみに30歳のヒト用のIQの試験なんてものはペーパーな試験としては存在し難いわけであって、(悪事を起こさないことや犯罪に加担しないということやいたずらに子供じみた故意の行為による不快感を与えないということや他者に危害を加えたりしないということが絶対的な前提になった上での)社会参画の仕方や仕事能力で評価されるしかないです、それまでに人間として社会での経験を積んでしまっているわけなので。たぶん天才と呼ばれるIQ150だとかIQ160だとかいった過度に知能の高いヒトたちは幼少期に苦を味わい過ぎているのであって、肉体の外形は異様だったり醜かったりする傾向にあるのではないかと。サルトルみたいな醜い小男だとか。
ちなみに抗精神病薬は服薬すると病気は治るでしょうが知能は下がるでしょう、何よりこの薬物を服薬しているヒトはその頭の働かなさ具合を体感として身をもって知ってます。これは悪いものを吐き出さずにいる状態で薬効により強制的に「苦痛を味わっていない・苦痛を味わったことのない状態にする」という薬なわけです。地獄です。だから病んでいるヒトが抗精神病薬を服薬すると初期の頃は凄まじい被害妄想と恐怖感と苦痛を味わいます。これは前にも書いたように体罰の逆関数である体罰であってレイプです。つまり抗精神病薬というのは一種の若返り薬だということです、良い意味でも悪い意味でも。個人的な経験ではM'z a 悪意医師もそうでしたし自称k子curseマ医師もそうでしたし今私がかかっている自称I福T子医師もそうですけど、精神科医が診療室において患者に対してやたらと子供じみた挑発を行ってくるのは抗精神病薬の薬効が効いている間はささいな刺激によるレイプが効力を発揮するからです。道を歩いていて転んだだけでギャアギャアと泣いている子供を考えてもらえば分かりやすいです。副作用なんてものは無いと考えると妥当であって、副作用も主作用も同じく作用です。抗精神病薬でシャブ漬けになった状態のヒトは暴走バイク通称珍走族のバイクの音等ただでさえ大したことのないことについてイライラするのにもかかわらず、合理性の無い内容で「言うことをきかせるために言うことをきかせる」というレイプを行ってarbeiter parteiの下部構成員に仕立て上げるということを残念ながら理系的文系たる多くの精神科医が行います。だから大多数のヒトがこの抗精神病薬というものの服薬を途中で止めてしまうわけです。「服薬量が足りないから(精神科医のご都合どおりには)よくならないのだ」という弁明はナンセンスなのであって、服薬量を増やせば当然何も考えられなくなり行動も異常になりシャブ漬けのヒトはもの言わぬ木偶人形に成り果てるからであってそれをして精神科医は「よくなった、治った、治った、さあ(このもの言えぬ状態ならば第三者は治っている・症状が落ち着いているとしか見做さないだろうから)arbeiter parteiの単純作業員に仕立て上げよう」という方向へと被害者を強姦によって無能力化して持っていくわけです。これは先に書いたユダヤの精神科医の所業かナチスの精神科医の所業かというと後者のものですけど、残念なことには結局後者も最悪の冒涜的行為を行うんですね、殺人者の汚名を被ることからは逃避して。しかし安静にして抗精神病薬を服薬することは病気のヒトにとってはコレはコレで必要なわけです。この抗精神病薬商品名ジプレキサというのは魔法の薬です、服薬を止めつつ人体が良くなっていく、という。いつかの記事で書いたとおり自分で服薬量や服薬のペースを自己管理しなければならないというのはこういったことであって、私SSはだいたい4~5日に一回まとめて一日あたり2.5mg錠分のジプレキサを服薬してます。これはここ1年と数ヶ月の間ずっとそうであって、大分良くなったのにはこのことのおかげもあります。当然精神科医の言うとおり毎日なんかこんなものを服薬していたら発狂してしまいますし、毎日服薬するということは症状の良化の全ての原因を抗精神病薬のみに帰することができてしまう理由付けを精神科医に与えてしまうことになるのであって、精神科医の統合失調症の治療における抗精神病薬の投薬のみということを許容させて精神科医の逃避のお手伝いをすることになってしまうからです。……で、統合失調症と精神科医に診断された私SSがこういったことを言うと今度精神科医は「あいつは統合失調症じゃない!」とか言って逃げだすとかいったあたりがオチです。私SSはマンガ的な意味でのいわゆる気狂い(キチガイ)ではないですけど統合失調症という精神を病んでいる病気です、その自覚があるから抗精神病薬の服薬も続けてます、大分良くなりましたけど。
人間の存在に名以外で唯名的レッテルを貼ることもそうですけど、「事実、事実」と叫びたてる連中が目論んでいることは、一つ前の記事で書いた意図された蓋然によって在りもしない虚構のテーゼを作り出すことです。つまり、「事実の捏造」を行うのではなくて、「事実を故意に作りだす」ということそしてそれを連発することを連中は行うわけです。「しかしこういう人も居ます」、と。烏合の衆をいいように使うわけです。自分らのサークル以外の人間を貶めて相対的に自分らが得をしようという同一の目的の下に集まった人間が徒党を組めばこれは簡単に行うことができてしまいます。どこの国でもworldwideな現代の社会における国家がその社会統治上こんなことを行うことは考えにくいですけど、それはユダヤでもイエズス会でもフリーメーソンでもそうです。Adolf Hitler個人は別だとして、ナチスだってそうです。捏造ではなく「事実を作る」ことを連発すれば「これだけ証拠を集めれば我々の(宗教的)教義を正当だと認めさせることができるだろう」というわけです。自然科学において何故research and developmentを進めることができるかというと数学という絶対的な基準があるからであって、当然人間社会一般においてこんなものは通用しません。だから経済学には正当性が在るが社会学なんてものはナンセンスだということです。Judenや悪質な人間たちが自分らの存在を自分らの存在だけで部外者に認可されることは合理的に不可能です。合理的でないということは社会をカオスな状態へと導いて崩壊に向かわせるということですけど、少なくとも戦後の日本においてはエゴと履き違えられた自由や「社会」の名の下チンドンチンドンとマスコミがこれを行ってました。
反社会的人間が殺傷されることを必死に事実・事件だと「報道」していた戦後の日本のマスコミはマスコミのマスコミ属性を一般市民に知らしめていたわけであって、それはそれで(連中にとっては逆)効果があったということです。暴力団ひいては暴力の唯名によって敷かれたマンガ的コンテクストによって悪役に仕立て上げられ殺人者の汚名を被ってクズを潰し殺してくれるヤクザというのは基本的に弱い者の味方です。もしかすれば民意です。どんな手段を使ってでも他者に危害を加えることを躊躇することなく生き延びようとする者についての最終的な解決方法は殺すということ以外には無いからです。現代においてユダヤ人だとか断言はしませんけど、例えば第二次大戦後の日本だとマスコミの構成員に多いような反社会的人間が排斥されて殺されるのは当然の数学的帰結です。ちなみに私は何度も書いてますけどこのブログを書き始めるとうの昔から反社会的人間達に取り囲まれて反社会的人間に反反社会的人間扱いされてます、だから皮肉にも勲章みたいなもんですけど。
ちなみに私は、右とか左とかで言うと、「右下」なナチス下部構成員のようなチンピラとは付き合えません。現代の社会を生きている我々にはこのことがよく理解できますけど、ユダヤもナチスも下は同じです。アカいです。オタクの一部に居たりする低脳・低教育な「左下」な人間も嫌は嫌ですけど、可か否か・他人に鉄拳をくれるか見過ごすかといったことのみが判断基準となっているような「右下」な単細胞な馬鹿な男は私は自分に接することを却下します。ヒットラーは「左下」な人たちを無知であっていいように利用されて単に民衆の腐敗を招く人頭数のみとして使われたり論理実証主義的なモノの「事実を故意に作りだす」ことに使われたりするだけだからたのむから居なくなってくれと訴えました。まあ私は個人的な感慨としては「左下」な人たちというのはもうあきらめているというかただそこに居るだけなのであって反社会的ではなく非社会的な人間であるので言っちゃ悪いがどうでもいいです。何より何が問題であるかというと、あの「右下」な反社会的なチンピラたちはヤクザであることからは逃げるという点にあります、結局ああいった連中は「左」に逃げるというか戻るんです。アイツらの死に際のセリフなんざ「うわぁ~ん死にたくねぇよぉ~母ちゃぁ~ん」とかです。最後は絶対に逃げる分際で空威張りっぷりが激烈にウザいわけです。最後の最後であの自称ワルのチンピラたちはエゴに走って逃げます。だからただ居る人たちよりも全くタチが悪いわけです。むしろ最後の最後でエゴに逃げることを前置きとしてその行動のスタンスや行動原理としているようなブタクズがこの「右下」の主流だったりします。昔はドラマとかハードボイルド小説なんかであったと思うんですけど、「都合のいい時だけ女に逃げて!(都合のいい時だけ女に甘えて逃げやがってフザけんな)」とかいう女性のセリフによってその全てが形容される、一番女にモテない・女だけではなく男にも嫌われる、反社会的人間の極みです。こういったチンピラたちは女とヤりたいか女を道具として利用しようとしているかだけなわけであって、愛とか知らないわけです。
母国語以外の言語の習得の能力というのは、ユダヤ的な何処へでも行くその生態を考えるとその高さについての納得を得られるものではあります。私は昔病んでいた時に、どこか特定の場所を観光するのが好きだったというのではなくてただ乗り合いバスや列車に乗ってどこやらへただひたすら行くことそのものが好きだった時期があるんですけど、最近健康になってきてからまったくそういった旅行をしたいとは思わなくなりました。一番大切なものはすぐそばにあるということです。灯台下暗し。台所で嫁さんが作ってくれる食事が一番うまいんでしょう。
常にあるもの。
私は外国語の習得が遅いです。英語も発音はある程度上手いですけど、ペラ+αくらいであってペラペラと流暢にはしゃべれません。というのは事象の認識が蓋然的であって、何もかも不必要なものまで情報化して溜め込んでしまう非常に悪質なクセがあるからであって、記憶の容量がすぐに許容限界量を超えてしまうためだからです。まあヒトは誰しもストレスが溜まるともの覚えが悪くなりますけど。老人が子供に比べてものを覚えられないのは長年生きてきて情報を溜め込んでしまっているからです。単に「老化しているから」という理由で片付けてしまうのはあまり賢くないです。生まれたての赤ん坊は皆きれいな顔をしてますけど、老人の肉体の外形が醜いのは溜め込んでいる情報の質や量に相関しているというよりは因果していると考えると妥当です。
対人コミュニケーションにおいて何らかの否定的要素に耐えているというのであれば、それは他者をして否定的要素に耐えさしめている者と同じ属性のものかもしれないです。どちらも、文学的表現だと「身体の外に魂が抜けている」、身体が基本になっていないということです……けど、まあ年をとった老人を見れば分かるとおり人間誰しも早かれ遅かれそうなります。死なないヒトは居ません。
Intelligence Quotientの値はテストで計られた精神年齢を実年齢で割ってそれに100を掛けたものです。つまりは幼少時に苦痛を味わって老化しときゃそれ程に知能が高くなるということですけど、肉体の成長期に過度の苦痛を味わえば成長が阻害されて肉体の外形が不恰好になった病気になったり下手をすれば骨格が変形したりしてしまうわけです。私がそうです。10歳で神童と呼ばれた子供が30歳過ぎてただの人になるというのはもちろん味わった苦痛と時間の割合の問題がそこにあるからということですけど、子供の時のように勉強や運動を続けていないと神童も時間が経てば普通の人になるということです。ちなみに30歳のヒト用のIQの試験なんてものはペーパーな試験としては存在し難いわけであって、(悪事を起こさないことや犯罪に加担しないということやいたずらに子供じみた故意の行為による不快感を与えないということや他者に危害を加えたりしないということが絶対的な前提になった上での)社会参画の仕方や仕事能力で評価されるしかないです、それまでに人間として社会での経験を積んでしまっているわけなので。たぶん天才と呼ばれるIQ150だとかIQ160だとかいった過度に知能の高いヒトたちは幼少期に苦を味わい過ぎているのであって、肉体の外形は異様だったり醜かったりする傾向にあるのではないかと。サルトルみたいな醜い小男だとか。
ちなみに抗精神病薬は服薬すると病気は治るでしょうが知能は下がるでしょう、何よりこの薬物を服薬しているヒトはその頭の働かなさ具合を体感として身をもって知ってます。これは悪いものを吐き出さずにいる状態で薬効により強制的に「苦痛を味わっていない・苦痛を味わったことのない状態にする」という薬なわけです。地獄です。だから病んでいるヒトが抗精神病薬を服薬すると初期の頃は凄まじい被害妄想と恐怖感と苦痛を味わいます。これは前にも書いたように体罰の逆関数である体罰であってレイプです。つまり抗精神病薬というのは一種の若返り薬だということです、良い意味でも悪い意味でも。個人的な経験ではM'z a 悪意医師もそうでしたし自称k子curseマ医師もそうでしたし今私がかかっている自称I福T子医師もそうですけど、精神科医が診療室において患者に対してやたらと子供じみた挑発を行ってくるのは抗精神病薬の薬効が効いている間はささいな刺激によるレイプが効力を発揮するからです。道を歩いていて転んだだけでギャアギャアと泣いている子供を考えてもらえば分かりやすいです。副作用なんてものは無いと考えると妥当であって、副作用も主作用も同じく作用です。抗精神病薬でシャブ漬けになった状態のヒトは暴走バイク通称珍走族のバイクの音等ただでさえ大したことのないことについてイライラするのにもかかわらず、合理性の無い内容で「言うことをきかせるために言うことをきかせる」というレイプを行ってarbeiter parteiの下部構成員に仕立て上げるということを残念ながら理系的文系たる多くの精神科医が行います。だから大多数のヒトがこの抗精神病薬というものの服薬を途中で止めてしまうわけです。「服薬量が足りないから(精神科医のご都合どおりには)よくならないのだ」という弁明はナンセンスなのであって、服薬量を増やせば当然何も考えられなくなり行動も異常になりシャブ漬けのヒトはもの言わぬ木偶人形に成り果てるからであってそれをして精神科医は「よくなった、治った、治った、さあ(このもの言えぬ状態ならば第三者は治っている・症状が落ち着いているとしか見做さないだろうから)arbeiter parteiの単純作業員に仕立て上げよう」という方向へと被害者を強姦によって無能力化して持っていくわけです。これは先に書いたユダヤの精神科医の所業かナチスの精神科医の所業かというと後者のものですけど、残念なことには結局後者も最悪の冒涜的行為を行うんですね、殺人者の汚名を被ることからは逃避して。しかし安静にして抗精神病薬を服薬することは病気のヒトにとってはコレはコレで必要なわけです。この抗精神病薬商品名ジプレキサというのは魔法の薬です、服薬を止めつつ人体が良くなっていく、という。いつかの記事で書いたとおり自分で服薬量や服薬のペースを自己管理しなければならないというのはこういったことであって、私SSはだいたい4~5日に一回まとめて一日あたり2.5mg錠分のジプレキサを服薬してます。これはここ1年と数ヶ月の間ずっとそうであって、大分良くなったのにはこのことのおかげもあります。当然精神科医の言うとおり毎日なんかこんなものを服薬していたら発狂してしまいますし、毎日服薬するということは症状の良化の全ての原因を抗精神病薬のみに帰することができてしまう理由付けを精神科医に与えてしまうことになるのであって、精神科医の統合失調症の治療における抗精神病薬の投薬のみということを許容させて精神科医の逃避のお手伝いをすることになってしまうからです。……で、統合失調症と精神科医に診断された私SSがこういったことを言うと今度精神科医は「あいつは統合失調症じゃない!」とか言って逃げだすとかいったあたりがオチです。私SSはマンガ的な意味でのいわゆる気狂い(キチガイ)ではないですけど統合失調症という精神を病んでいる病気です、その自覚があるから抗精神病薬の服薬も続けてます、大分良くなりましたけど。
人間の存在に名以外で唯名的レッテルを貼ることもそうですけど、「事実、事実」と叫びたてる連中が目論んでいることは、一つ前の記事で書いた意図された蓋然によって在りもしない虚構のテーゼを作り出すことです。つまり、「事実の捏造」を行うのではなくて、「事実を故意に作りだす」ということそしてそれを連発することを連中は行うわけです。「しかしこういう人も居ます」、と。烏合の衆をいいように使うわけです。自分らのサークル以外の人間を貶めて相対的に自分らが得をしようという同一の目的の下に集まった人間が徒党を組めばこれは簡単に行うことができてしまいます。どこの国でもworldwideな現代の社会における国家がその社会統治上こんなことを行うことは考えにくいですけど、それはユダヤでもイエズス会でもフリーメーソンでもそうです。Adolf Hitler個人は別だとして、ナチスだってそうです。捏造ではなく「事実を作る」ことを連発すれば「これだけ証拠を集めれば我々の(宗教的)教義を正当だと認めさせることができるだろう」というわけです。自然科学において何故research and developmentを進めることができるかというと数学という絶対的な基準があるからであって、当然人間社会一般においてこんなものは通用しません。だから経済学には正当性が在るが社会学なんてものはナンセンスだということです。Judenや悪質な人間たちが自分らの存在を自分らの存在だけで部外者に認可されることは合理的に不可能です。合理的でないということは社会をカオスな状態へと導いて崩壊に向かわせるということですけど、少なくとも戦後の日本においてはエゴと履き違えられた自由や「社会」の名の下チンドンチンドンとマスコミがこれを行ってました。
反社会的人間が殺傷されることを必死に事実・事件だと「報道」していた戦後の日本のマスコミはマスコミのマスコミ属性を一般市民に知らしめていたわけであって、それはそれで(連中にとっては逆)効果があったということです。暴力団ひいては暴力の唯名によって敷かれたマンガ的コンテクストによって悪役に仕立て上げられ殺人者の汚名を被ってクズを潰し殺してくれるヤクザというのは基本的に弱い者の味方です。もしかすれば民意です。どんな手段を使ってでも他者に危害を加えることを躊躇することなく生き延びようとする者についての最終的な解決方法は殺すということ以外には無いからです。現代においてユダヤ人だとか断言はしませんけど、例えば第二次大戦後の日本だとマスコミの構成員に多いような反社会的人間が排斥されて殺されるのは当然の数学的帰結です。ちなみに私は何度も書いてますけどこのブログを書き始めるとうの昔から反社会的人間達に取り囲まれて反社会的人間に反反社会的人間扱いされてます、だから皮肉にも勲章みたいなもんですけど。
ちなみに私は、右とか左とかで言うと、「右下」なナチス下部構成員のようなチンピラとは付き合えません。現代の社会を生きている我々にはこのことがよく理解できますけど、ユダヤもナチスも下は同じです。アカいです。オタクの一部に居たりする低脳・低教育な「左下」な人間も嫌は嫌ですけど、可か否か・他人に鉄拳をくれるか見過ごすかといったことのみが判断基準となっているような「右下」な単細胞な馬鹿な男は私は自分に接することを却下します。ヒットラーは「左下」な人たちを無知であっていいように利用されて単に民衆の腐敗を招く人頭数のみとして使われたり論理実証主義的なモノの「事実を故意に作りだす」ことに使われたりするだけだからたのむから居なくなってくれと訴えました。まあ私は個人的な感慨としては「左下」な人たちというのはもうあきらめているというかただそこに居るだけなのであって反社会的ではなく非社会的な人間であるので言っちゃ悪いがどうでもいいです。何より何が問題であるかというと、あの「右下」な反社会的なチンピラたちはヤクザであることからは逃げるという点にあります、結局ああいった連中は「左」に逃げるというか戻るんです。アイツらの死に際のセリフなんざ「うわぁ~ん死にたくねぇよぉ~母ちゃぁ~ん」とかです。最後は絶対に逃げる分際で空威張りっぷりが激烈にウザいわけです。最後の最後であの自称ワルのチンピラたちはエゴに走って逃げます。だからただ居る人たちよりも全くタチが悪いわけです。むしろ最後の最後でエゴに逃げることを前置きとしてその行動のスタンスや行動原理としているようなブタクズがこの「右下」の主流だったりします。昔はドラマとかハードボイルド小説なんかであったと思うんですけど、「都合のいい時だけ女に逃げて!(都合のいい時だけ女に甘えて逃げやがってフザけんな)」とかいう女性のセリフによってその全てが形容される、一番女にモテない・女だけではなく男にも嫌われる、反社会的人間の極みです。こういったチンピラたちは女とヤりたいか女を道具として利用しようとしているかだけなわけであって、愛とか知らないわけです。
母国語以外の言語の習得の能力というのは、ユダヤ的な何処へでも行くその生態を考えるとその高さについての納得を得られるものではあります。私は昔病んでいた時に、どこか特定の場所を観光するのが好きだったというのではなくてただ乗り合いバスや列車に乗ってどこやらへただひたすら行くことそのものが好きだった時期があるんですけど、最近健康になってきてからまったくそういった旅行をしたいとは思わなくなりました。一番大切なものはすぐそばにあるということです。灯台下暗し。台所で嫁さんが作ってくれる食事が一番うまいんでしょう。
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