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die Wittenbergische Nachtigall
 共同不審者。
 ヴィッテンベルクのうぐいす男。




 女のセリフで「男って勝手よね」というのがありますけど、男はやっぱり「関係」というものをナメている・見くびっている感があります。下手をすると禍根を巻き起こして面白くしたいとか思っている男も居るくらいです。男は馬鹿です、やっぱり。村上龍さんの本のタイトルで「全ての男は消耗品である」というのがありましたけど、読んだことないですけど、オスはおそらく生物学的にメスより様々の点で劣等な生き物です。これがall menではなくてthe man of everythingだったら意味も変わってきますけど。



 技術革新に貢献しないどころか目の前の現実に対処することから目を逸らさせるということで文学をそれにアンチなものとしての存在としてタチが悪いと言う人たちもひょっとしたら居るかもしれませんけど、タチが悪いのは文学ではなくて文系です。私がこのブログの記事として書いている文章は、理科系が文学をやった場合にそうなりますよという適当な見本です。私SSは理系です。私が書いていることはそれなりに合理的です。逆に文科系が理科系をやると、究極のエニアグラムの自称竜頭万里子さんとかHide your face.という記事で書いた島見図広吉(仮称)のような人物が仮に実在するとするとこういったものですよということなのであって、極端に間違えたもの(こと)どころか間違いを極めることになります。エゴを一対一の男女関係以外に持ち込んだところの、戦争の火種というのはこうやって熾り(おこり)ます。ちょっと誤解を招きやすい表現ですけど、あえて言うなら、前者は左翼的右翼であって後者は右翼的左翼です。例えばマンガ家だと、三浦健太郎は文科系要素が強くて理系要素が弱い(後者)、浦沢直樹はもう少し文系的要素が弱くて理系的要素が弱い(後者)、冨樫義博は文科系がさらに弱くて理科系要素が強い(前者)つまり面白いということです、不健全ですけど。医師はどの分野の人も理系ですけど、例外として精神科医は理系的文系であって患者に特に抗精神病薬の薬効とそれを用いた治療方針の真実を説明しないところに非常なタチの悪さがありますが、まあ彼らに関しては前にも書いた通りそうしないと真の治療にならないというパラドックスを抱えいている(だからこそ文系)わけであってそれも仕方のないところはあります。私は基本的に言語で数学をやっているのであって前者です。逆に数学で言語をやるコンピュータのシステムのエンジニアのような人たちは後者です、コンピュータ上のプログラムとして完成されたシステムについて間違えたとか間違えてないとかの概念は適用され得ないので何も問題は無いですけど。前者を男性的であると断定することはできませんけけど、後者は確実に女性的であって最も適切な表現は「アカ」です。なんか日本の1980年代は「ニューアカの時代」とかなんとか一部の中二病者たちの間で言われていたらしいですけど、島見図広吉(仮称)のような人物が仮に実在するとするとこのニューアカの典型なんですね。2012年時点での50歳代60歳代にこれが多いわけです。

 

 私も実はそんなに英語の得意な方ではないです。ドイツ語は好きですけど、勉強時間が足りないので使いこなせるほどには身に付いていません。というかドイツ語は使う言語ではなくて物事を学ぶ上で読むのに的した(適した)言語です。私は昔のドイツ語なんか読めませんしそもそも見たこともありませんけど、ルターが偉大なのはよく分かります。

 やはり哲学者でこの人と言えるのはGeorg Wilhelm Friedrich Hegelです。私は文学の門外漢ですけど、素人目に鑑みてもヘーゲルこそが哲学や詩の真髄ひいては言葉というものの何たるかを押さえている感があります。Ludwig Josef Johann Wittgensteinなんてどこが大家なんだか凄いんだか全く理解できないんですけど。ヴィトゲンシュタインは言葉の言葉たる道理の分かっていないただの記号屋さんなんで、現代に生きていれば優れたコンピュータのシステムのエンジニアにでもなれたかもしれないですけど、この人物のせいで不必要に論理実証主義者が台頭することになったんですね。その集団であったWiener Kreis(ウィーン学団)というのが第二次大戦前にあったんですけど、これを排除してくれたのはナチスです。前にも引用したことのあるホーフマンスタールの「詩についての対話」より。

「 聖者ならぬ者にはな告げそ
 ひとびと聞かば嘲らん
 われは 炎の死をば求むる
 たまきはる生命を称えんとす と

 汝がうまれたる はた 汝が生みし
 肌さむき 愛の夜々
 静けき蝋の火はもえて
 あやしきおもいの汝れを襲う

 闇の陰影 もはや汝れをば
 抱き とどむることを得ず
 新たなる欲望にかられ
 いや高きまぐあいをこそ 汝は求む

 遠方も 汝れをへだてず
 光を求め 天がけり
 惹きよせられて 汝れ 胡蝶の身
 いやはては 炎のうちに燃えゆかん

 あわれ「死して生(な)れよ!」
 この意をおのがものとせざるうち
 汝は 暗きこの世の
 悲しき客にすぎざらん


 誰かが死んでゆく部屋の中に聞こえてくる魔法にかけられた夜の鳥の歌のような、この音調が君に聞きとれるかね?―中略―魂の真の体験、それを表現するのは魔法の言葉でなかったら、いったいどんな言葉だろう。ひとつの瞬間が現れて、数千の他の瞬間からその精髄をしぼりだす。それは過去の洞穴のなかへ飛びこむ。すると過去を構成している数千の暗黒な硬直した瞬間のなかから、その光が悉く迸りでるのだ。嘗て存在したことのないもの、現われたことのないものが、いまやそこに存在し、現われている。それは現在であり、また、現在以上のものでもある。嘗ていっしょに存在したことのないものが、いまや同時に存在し、並存して、灼熱と、光輝と、生命を互いに融合しあっているのだ。魂の風景では、その天の川だけが無数の星の集まりであるばかりでなく、その陰影の谷、その暗闇も、あまりに多く群がっているので光を失い、あまりにみちあふれているので窒息してしまった無数の生命の集りなのさ。そして生命がもつれあっているこれらの深淵を隈なく照らし、解き放し、それを集めて天の川をつくりだすことができるのは、或るひとつの瞬間なのだ。そしてこうしたいろいろな瞬間に完全な詩が生まれでるのだよ。だから完全な詩がなんと少ないことだろう。だが、とにかくそのような詩がいくらかでも生まれでるということは奇蹟のようなものじゃないだろうか?いくらかの言葉が並べられて、打たれた暗い石から火花が散るように、そこから星空のように無限な魂の風景がとつぜんに現れるということは?それは時間と空間のなかに拡がって、僕らの内部にあらゆる感覚に優った一つの感覚が、その光景を見ようとして活気を帯びるような風景なのだ。そしてともかくも、そのような詩が生まれでることはあるんだよ……」 

中学二年生病的解釈は排除して精読してみてください。性的な行為をベースとしてこの文章から何かを学習するのはいいですけど、ちょっと野暮です。あえて言うなら、女性の性的快さというのはこういった「つながる」ところにあるのかと。女の人は心でカンジるんですね。「構成している数千の暗黒な硬直した瞬間」というのはニヒルなアニムスのことです。言葉の言葉たる由縁です。

 前世紀の話になってしまいますけど、そりゃバンドとか音楽をやっている男が女にモテるのは道理です。詩の詩たる道理を言葉無しで説明してくれるのは音楽だけだからです。「音楽をやる男」というのは一種のシンボルです。勝手な演奏で楽団の演奏は出来ません。
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