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2025.04.16 Wednesday
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Fuge
2012.09.05 Wednesday
縁結びの神さま。
普賢真人。
遁走曲。
前にも書きましたけど、犯罪の被害者を加害者に仕立て上げるというのが、人間関係を工学化して理想的人間を一つ設定しそれ以外の人間を左もしくは下たらしめようとする日本人のやり口です。これは悪質極まりないというよりは、愚劣極まりないと言った方が適切です。適切な環境を準備して能力を発揮させて人間を上へ持っていくということではなく、下や左を意図的に作って犯罪者を製作していくというシステムが方法論として義務教育の現場においてまかり通っていたということだからです。アメリカはたぶんこういった能力重視というか物事重視な教育をちゃんとやってますけど、実はAdolf Hitlerさんもそういったことを推進すべきだと言ってたんですけどね。ネット万歳です。
YouTubeでロンドンオリンピックの男子の短距離の陸上競技の映像を見たんですけど、白人の選手が堂々としていたり黒人の選手が余裕の様態でヒップホッパーみたいなポーズのジェスチャーをとばしている中で日本人のタカなんとか選手だけ「あーあー、ブーイングされないかなあ、心配だなぁ」と一瞬気まずそうな表情を見せてからオツムの弱い(日本の)中学生の運動会や学芸会において行われるような極めて低レベルなパフォーマンスをやっちゃってるんですね。もうこれを見た瞬間に「ああ、こりゃダメだわ」と思ったのはたぶん私だけではないです。頭も悪い上にヒョロヒョロしたザコの分際でやたらとデカい騒音を垂れ流して俺強えな気分になっているジャップの珍走族を想起させたりもします。この2012年時点でもまだやらかしてるイタいのがいるんですけど、なんで日本語で暴走族が珍走族とか珍走のバイクだとか言われてバカにされるかと言えば「ねえ、キミ、バイクやバイクの騒音とキミの人間性がまったく合致してないよ?陳腐だよ?滑稽だよ?イタいよ?弱さの証明になっちゃってるよ?」ということだからです。ザコ虫のくせに空威張りがウザいということです(例えば私はそもそも自分が強い人間であるという自覚はないので他者に対して威張ることはありません)。暴音立てる珍走車であってもそうですし、原付であろうが東アジア人がバイクなんか乗ってたところで似合わないんですね。で、このタカなんとかさんは二人居ましたけど、そのどうしようもない低レベルなポージングの通りどちらも競技の結果は8位だか9位だかの最下位です。これが日本で行われていた子供に対する教育の為し得たご苦労さんなモノです。おそらく切り替えが上手くいかないということではなくて、実業の場面においてまで事ではなく人を鑑みてしまって人間関係のしかも悪質なことには工学化されたものをやっちゃてるということです。中国の選手や韓国や北朝鮮の選手はまたこれら日本人とは違ってそうです。私は中国や北朝鮮や韓国の人達とは会話をしたことがないので彼らのことはちょっとよく分からないんですけど、西洋の人たちとはどんどん会話をしてコミュニケーションを取りたいという欲求があります。で、何で日本人の男というのはツラを見せられるだけであんなに不快にさせられるんですかね?おヤクザさんで「あ、これは恐い」という中身ガッシリの人を一回見たことがありますけど、こういった人を除いて、ジャップの男というのは本当に卑屈でタラタラツラツラチャラチャラしたツラでなんであんなに見るだけで胃がムカつくんですかね?ちょっと中身があるかなと思えばテレビジョンのバラエティー番組並の内容のクズであったり、ああコイツはまともそうだなと思えば女とヤることしか考えてない中身スカスカのカスであったり、日本人の男はクズかカスしか居ねーのかよと言いたくなります。おそらくお友達になりたくなさ全世界でNo.1です。たぶん中国や朝鮮の人達の方がいろいろ自分たちの文化や社会について考えてそうです。
私は中学校一年の時に一回学級委員をやってたことがあるんで学級委員云々について言えるというか社会主義的・カースト的に定められかつ隔離された人間の織り成す環境についてよく分かるんですけど、アレは本当に公立学校の低脳教師の斥候であってくだらないんですね。放課後に会議だとか何だとかのお名前のもとオマヌケな会合に集められて、社会科の馬鹿な生徒指導の教師が必死に逆Concentration Campを煽り立てるんですね。で、その逆アウシュビッツ強制収容所の中で何が行われていたかというと極めて低レベルな学芸会ゴッコです。まだ小学校の時友達と外でなにやらゴッコをして遊んでいたものの方がレベルが高かったです。私はその時相方で学級委員をやっていた女の子がカワイくてちょっと好きだったんでその点においてのみまんざらでもなかったんですけど、本当にこの私が所属していた部活の顧問だった生徒指導の社会科の教師の愚かさには今でも殺意を覚えます。いまだによく記憶しているんですけど、この低脳教師がすこぶる偉そうな態度で教壇の上から「このままだったらぁ~、ウチの娘の○○○はこんな学校には入れませぇ~ん」とおホザきになっていたんですけど、そりゃテメーみてえな愚脳教師が生徒指導やらかしてるこんな中学校に入れられなくて○○○ちゃんは正解だっつーの自虐してんじゃねーよバカ(笑)、というわけであって中学生の時点から子供たちとてこんなことは理解しているわけであって暴力的威圧によって口を封じられているから言わないだけです。教師の感知しないところで禍も巻き起こってしまうわけです。これは先の記事で書いたような、本来的には男女関係においてのみ持ち込むべきであるものを一般的な人間関係において持ち込んで人間関係を工学化して間違えるというパターンの亜種です。まあ自分の娘まで道具として引き合いに出して罪を知れというんですね。この教師生きていれば2012年時点で50歳代ですけど、何を勘違いしたか言えないと言わないの区別もつかないようなクズが教育の現場に携わっていたから子供が毎日レイプされに学校へ通うようなことになってたんですね。猿でなく人間であるならば言葉を使えということであって、この教師が口から発していたのは言葉ではなく記号です。自衛隊の隊員さんたちの軍事教練の場ではないので、TPOをわきまえろということです。
私SSは子供の頃からずっとJuden・ユダヤ的日本人に逆差別を受けてきました。私は特に右翼主義者を自称するつもりもありませんしアメリカの人たちがネットを与えてくれた今の時代国家社会主義を振りかざしてどうこうとかちょっとズレた間違えたことに走るつもりもありませんけど、ユダヤかナチスかと言われれば私は確実にナチスの方です。10歳になる前の子供の頃はもちろんナチスがどうこうとかユダヤがどうこうとかイデオロギー的なものや人的資本的なものについて理解することはできなかったわけであって、馬鹿な教師や他者にいたずらに攻撃性をむき出しにする野蛮な原始人みたいな同級生のことについて考える能力は持っていませんでしたけど、私はユダヤ(ユダヤ的日本人)によるナチ狩りにひたすらに遭っていたのだと後になって知りました。私が子供の頃から他人を見て嫌っていたそのものは、ユダヤの小狡さと卑劣さと他者を出し抜き蹴落としながらも自分だけは生き延びようとするあの下劣さであると知りました。公立小中学校で担任を持たれたうち健全だったのは小学校四年の時の担任の先生と中学一年の時の担任の先生だけ、後は一部の音楽の先生がまともだっただけです。男性教員についても女子児童が引いてしまって気分を悪くしたり怯えている中で教壇の上から人種差別や他者排斥を不必要に煽るカーストや人殺しの方法と様態について堂々と語るだとかキチガイじみたものが多々ありましたけど、特に現在生きていれば50歳代~70歳代の当時の中年以上の女性教員によるものに多かったところの、子供の心理をズタズタに傷つけたり能力をいたずらに発揮するなということを恐怖感とともに教え込んだり自分の気分次第で特定の子供に不当な評価を下したり待遇をしたりだとか、そういった光景を私は嫌というほど毎日毎日このオバサン教員たちに逆レイプされる気分で見せられ続けました。大学の時もしょっぱなに卑屈なユダヤの豚とニグロのでくのぼうにやられました、まあ経済学部なんでカトリックの大学にユダヤ人が居ることも仕方がないですけど、しかもそれにNewYork's Financial Districtそのまんま丸出しなユダヤ教授が加わってました。教授の貴様は年はいくつで何の職に就いているのかと。まあ喧嘩上等だとか昔の頭の悪い不良中学生並みだとかなんだとか言うよりは、常識外れもはなはだしいわけであって異常です。ネットということでもし日本の海外の人でこれを読んでくれる人が居たらば是非とも訴えたいですけど、これがfuckin' Japが行っていた教育です。こんな教育を行っていたらばたどり着いたところはネットのブタが作ったブタ掲示板の便所の落書き下ネタ強姦虐殺陵辱文句であるということになるのも当然です。10年とそこらか前にあそこで他者叩きを行っていた連中自身のみに非があるわけでは決してないです。
「決まっているもの(Dasein)以外は全て演劇(嘘)」という発想を否定的に解釈し咀嚼するとなると、人間関係までをも工学化してしまった、(言語の意味内容をそのまま発信者の真意であると取り決め)契約関係を結ぶということの出来ない、まあ言ってしまえば無能力な人間のそれです。これは実は今でもまだごくわずかにには居る昔よく居たところの嫌がらせや強姦や最悪の場合殺人にまで及ぶ兵隊ヤクザ的な人間のものであって、これは西洋人における契約関係の取り交わしを基本とした対人関係においては通用しません、というか何処の社会であっても社会の秩序を乱す人間である限り排斥されます。で、ちょっと私も個人的にここまでは嫌だとは思いますけど、西洋人においては男女間のセックスまでが契約関係なのかもしれません。カトリックはそうではないですけど、おそらくは根をたどればルターよりもピューリタンひいてはカルヴィニズムに端を発するプロテスタントの国であるアメリカ人とかすぐ離婚しますね。やはり近代以降の人種差別は悪質なカルヴァン主義からきてます。love affairという言葉で表されるものと恋愛という言葉で表されるものの違いがあるとして、それがどういったところにあるのかは私は残念ながらよく知りませんけど。キリスト教文化の土壌に生きている人たちは、仮に熱心なクリスチャンでなくとも、基本的に肉体の死を恐れていないというか肉体の死こそ救いであり肉体の死こそ本来的な姿であるみたいなところがあります。前にも書きましたけど、ということは実は日本のヤクザ(否兵隊ヤクザ的人間)はキリスト的・西洋的であるということかもしれませんけど。
シェイクスピアの「十二夜」という作品ではハムレットみたくバッドエンドではなくてまあだいたいハッピーなエンドが描かれてますけど、この作品でキーパーソンとなる人物は女性であり男装するところから物語の大筋が始まります。装い、女性の男装というのは工学化されていない人間関係の最たるものであって究極のところです、たぶん。日本でも宝塚の歌劇とかであります。これのおかげで結果的には人と人とが結びついて大団円を迎えるというのがこの物語の筋です。逆に男性の女装はこの限りではないどころか真逆の結果をもたらします。極端に言えば宦官であって、関係の象徴たるもの・モノを切って工学化されてしまうということです。女性が男性の男根を見て汚らしさを感じるのは、「関係」という抽象の具現体だからかもしれないです。gayという言葉で表されるものはちょっと違うんですけど、男性同士の同性愛はキリスト教でなくともどこでも否定的に扱われますけど、女性同士のレズビアンはどうなんですかね?ひょっとしたら肯定的な認知を得られていたりだとか。
人間関係ひいては男女の関係についてあまりに分かりすぎているというか、William Shakespeareさんはえらく賢いなと考えさせられます。
……が、これがイき過ぎると病気になってしまいます。このシェイクスピアの「十二夜」という作品には、「魂と身体の縁切り」という表現が出てくるんですけど、これは先の記事で書いた通り、Judenと化すことであり、文学的に言うとフォイエルバッハさんが言っていた魂が外へ抜け出してしまっている状態だとか魂を抜かれてしまっている状態だとかであって、身体意識的に規定点を身体の外へ置いてしまっている心身を病んでいる状態です。
「こういうふうに考えて欲しいわ、求める愛もいいけれど、求めずして得られた愛はもっといいんだ、って」
―William Shakespeare 「TWELFTH NIGHT(十二夜)」 より―
男性もそうですし女性は当然そうですけど、美人だとか美女だとかと形容される人たちはあまり汚いものを見ません。男性アイドル全般そうですけど、女装した男のやらかすビジュアル系とか、ハマってたのは一部の性根まで醜い不美人な女たちであって、ものを見る目のある美女には嫌われるを通りこしてバカにされてますね。まあ不健全であったところの私は一部好きだったりするんですけど。男性でもエロ画像とか見てるとブサイクになるんじゃないですかね。まだ成長期の途中である中高生の時点でエロ画像見るとか絶対にやめた方がいいです。私は最近はネットで見るものも極めて選んで見ます、テレビを見るなんざ論外です。取り入れる情報は極めて選択しないとダメどころかヤバいです。不必要な自由からは走って逃避しておくことをおすすめします。女性がよく口にするところの「きれいになる」というのは真実であり事実です。悪いものは中から外へ出ていく、という。
普賢真人。
遁走曲。
前にも書きましたけど、犯罪の被害者を加害者に仕立て上げるというのが、人間関係を工学化して理想的人間を一つ設定しそれ以外の人間を左もしくは下たらしめようとする日本人のやり口です。これは悪質極まりないというよりは、愚劣極まりないと言った方が適切です。適切な環境を準備して能力を発揮させて人間を上へ持っていくということではなく、下や左を意図的に作って犯罪者を製作していくというシステムが方法論として義務教育の現場においてまかり通っていたということだからです。アメリカはたぶんこういった能力重視というか物事重視な教育をちゃんとやってますけど、実はAdolf Hitlerさんもそういったことを推進すべきだと言ってたんですけどね。ネット万歳です。
YouTubeでロンドンオリンピックの男子の短距離の陸上競技の映像を見たんですけど、白人の選手が堂々としていたり黒人の選手が余裕の様態でヒップホッパーみたいなポーズのジェスチャーをとばしている中で日本人のタカなんとか選手だけ「あーあー、ブーイングされないかなあ、心配だなぁ」と一瞬気まずそうな表情を見せてからオツムの弱い(日本の)中学生の運動会や学芸会において行われるような極めて低レベルなパフォーマンスをやっちゃってるんですね。もうこれを見た瞬間に「ああ、こりゃダメだわ」と思ったのはたぶん私だけではないです。頭も悪い上にヒョロヒョロしたザコの分際でやたらとデカい騒音を垂れ流して俺強えな気分になっているジャップの珍走族を想起させたりもします。この2012年時点でもまだやらかしてるイタいのがいるんですけど、なんで日本語で暴走族が珍走族とか珍走のバイクだとか言われてバカにされるかと言えば「ねえ、キミ、バイクやバイクの騒音とキミの人間性がまったく合致してないよ?陳腐だよ?滑稽だよ?イタいよ?弱さの証明になっちゃってるよ?」ということだからです。ザコ虫のくせに空威張りがウザいということです(例えば私はそもそも自分が強い人間であるという自覚はないので他者に対して威張ることはありません)。暴音立てる珍走車であってもそうですし、原付であろうが東アジア人がバイクなんか乗ってたところで似合わないんですね。で、このタカなんとかさんは二人居ましたけど、そのどうしようもない低レベルなポージングの通りどちらも競技の結果は8位だか9位だかの最下位です。これが日本で行われていた子供に対する教育の為し得たご苦労さんなモノです。おそらく切り替えが上手くいかないということではなくて、実業の場面においてまで事ではなく人を鑑みてしまって人間関係のしかも悪質なことには工学化されたものをやっちゃてるということです。中国の選手や韓国や北朝鮮の選手はまたこれら日本人とは違ってそうです。私は中国や北朝鮮や韓国の人達とは会話をしたことがないので彼らのことはちょっとよく分からないんですけど、西洋の人たちとはどんどん会話をしてコミュニケーションを取りたいという欲求があります。で、何で日本人の男というのはツラを見せられるだけであんなに不快にさせられるんですかね?おヤクザさんで「あ、これは恐い」という中身ガッシリの人を一回見たことがありますけど、こういった人を除いて、ジャップの男というのは本当に卑屈でタラタラツラツラチャラチャラしたツラでなんであんなに見るだけで胃がムカつくんですかね?ちょっと中身があるかなと思えばテレビジョンのバラエティー番組並の内容のクズであったり、ああコイツはまともそうだなと思えば女とヤることしか考えてない中身スカスカのカスであったり、日本人の男はクズかカスしか居ねーのかよと言いたくなります。おそらくお友達になりたくなさ全世界でNo.1です。たぶん中国や朝鮮の人達の方がいろいろ自分たちの文化や社会について考えてそうです。
私は中学校一年の時に一回学級委員をやってたことがあるんで学級委員云々について言えるというか社会主義的・カースト的に定められかつ隔離された人間の織り成す環境についてよく分かるんですけど、アレは本当に公立学校の低脳教師の斥候であってくだらないんですね。放課後に会議だとか何だとかのお名前のもとオマヌケな会合に集められて、社会科の馬鹿な生徒指導の教師が必死に逆Concentration Campを煽り立てるんですね。で、その逆アウシュビッツ強制収容所の中で何が行われていたかというと極めて低レベルな学芸会ゴッコです。まだ小学校の時友達と外でなにやらゴッコをして遊んでいたものの方がレベルが高かったです。私はその時相方で学級委員をやっていた女の子がカワイくてちょっと好きだったんでその点においてのみまんざらでもなかったんですけど、本当にこの私が所属していた部活の顧問だった生徒指導の社会科の教師の愚かさには今でも殺意を覚えます。いまだによく記憶しているんですけど、この低脳教師がすこぶる偉そうな態度で教壇の上から「このままだったらぁ~、ウチの娘の○○○はこんな学校には入れませぇ~ん」とおホザきになっていたんですけど、そりゃテメーみてえな愚脳教師が生徒指導やらかしてるこんな中学校に入れられなくて○○○ちゃんは正解だっつーの自虐してんじゃねーよバカ(笑)、というわけであって中学生の時点から子供たちとてこんなことは理解しているわけであって暴力的威圧によって口を封じられているから言わないだけです。教師の感知しないところで禍も巻き起こってしまうわけです。これは先の記事で書いたような、本来的には男女関係においてのみ持ち込むべきであるものを一般的な人間関係において持ち込んで人間関係を工学化して間違えるというパターンの亜種です。まあ自分の娘まで道具として引き合いに出して罪を知れというんですね。この教師生きていれば2012年時点で50歳代ですけど、何を勘違いしたか言えないと言わないの区別もつかないようなクズが教育の現場に携わっていたから子供が毎日レイプされに学校へ通うようなことになってたんですね。猿でなく人間であるならば言葉を使えということであって、この教師が口から発していたのは言葉ではなく記号です。自衛隊の隊員さんたちの軍事教練の場ではないので、TPOをわきまえろということです。
私SSは子供の頃からずっとJuden・ユダヤ的日本人に逆差別を受けてきました。私は特に右翼主義者を自称するつもりもありませんしアメリカの人たちがネットを与えてくれた今の時代国家社会主義を振りかざしてどうこうとかちょっとズレた間違えたことに走るつもりもありませんけど、ユダヤかナチスかと言われれば私は確実にナチスの方です。10歳になる前の子供の頃はもちろんナチスがどうこうとかユダヤがどうこうとかイデオロギー的なものや人的資本的なものについて理解することはできなかったわけであって、馬鹿な教師や他者にいたずらに攻撃性をむき出しにする野蛮な原始人みたいな同級生のことについて考える能力は持っていませんでしたけど、私はユダヤ(ユダヤ的日本人)によるナチ狩りにひたすらに遭っていたのだと後になって知りました。私が子供の頃から他人を見て嫌っていたそのものは、ユダヤの小狡さと卑劣さと他者を出し抜き蹴落としながらも自分だけは生き延びようとするあの下劣さであると知りました。公立小中学校で担任を持たれたうち健全だったのは小学校四年の時の担任の先生と中学一年の時の担任の先生だけ、後は一部の音楽の先生がまともだっただけです。男性教員についても女子児童が引いてしまって気分を悪くしたり怯えている中で教壇の上から人種差別や他者排斥を不必要に煽るカーストや人殺しの方法と様態について堂々と語るだとかキチガイじみたものが多々ありましたけど、特に現在生きていれば50歳代~70歳代の当時の中年以上の女性教員によるものに多かったところの、子供の心理をズタズタに傷つけたり能力をいたずらに発揮するなということを恐怖感とともに教え込んだり自分の気分次第で特定の子供に不当な評価を下したり待遇をしたりだとか、そういった光景を私は嫌というほど毎日毎日このオバサン教員たちに逆レイプされる気分で見せられ続けました。大学の時もしょっぱなに卑屈なユダヤの豚とニグロのでくのぼうにやられました、まあ経済学部なんでカトリックの大学にユダヤ人が居ることも仕方がないですけど、しかもそれにNewYork's Financial Districtそのまんま丸出しなユダヤ教授が加わってました。教授の貴様は年はいくつで何の職に就いているのかと。まあ喧嘩上等だとか昔の頭の悪い不良中学生並みだとかなんだとか言うよりは、常識外れもはなはだしいわけであって異常です。ネットということでもし日本の海外の人でこれを読んでくれる人が居たらば是非とも訴えたいですけど、これがfuckin' Japが行っていた教育です。こんな教育を行っていたらばたどり着いたところはネットのブタが作ったブタ掲示板の便所の落書き下ネタ強姦虐殺陵辱文句であるということになるのも当然です。10年とそこらか前にあそこで他者叩きを行っていた連中自身のみに非があるわけでは決してないです。
「決まっているもの(Dasein)以外は全て演劇(嘘)」という発想を否定的に解釈し咀嚼するとなると、人間関係までをも工学化してしまった、(言語の意味内容をそのまま発信者の真意であると取り決め)契約関係を結ぶということの出来ない、まあ言ってしまえば無能力な人間のそれです。これは実は今でもまだごくわずかにには居る昔よく居たところの嫌がらせや強姦や最悪の場合殺人にまで及ぶ兵隊ヤクザ的な人間のものであって、これは西洋人における契約関係の取り交わしを基本とした対人関係においては通用しません、というか何処の社会であっても社会の秩序を乱す人間である限り排斥されます。で、ちょっと私も個人的にここまでは嫌だとは思いますけど、西洋人においては男女間のセックスまでが契約関係なのかもしれません。カトリックはそうではないですけど、おそらくは根をたどればルターよりもピューリタンひいてはカルヴィニズムに端を発するプロテスタントの国であるアメリカ人とかすぐ離婚しますね。やはり近代以降の人種差別は悪質なカルヴァン主義からきてます。love affairという言葉で表されるものと恋愛という言葉で表されるものの違いがあるとして、それがどういったところにあるのかは私は残念ながらよく知りませんけど。キリスト教文化の土壌に生きている人たちは、仮に熱心なクリスチャンでなくとも、基本的に肉体の死を恐れていないというか肉体の死こそ救いであり肉体の死こそ本来的な姿であるみたいなところがあります。前にも書きましたけど、ということは実は日本のヤクザ(否兵隊ヤクザ的人間)はキリスト的・西洋的であるということかもしれませんけど。
シェイクスピアの「十二夜」という作品ではハムレットみたくバッドエンドではなくてまあだいたいハッピーなエンドが描かれてますけど、この作品でキーパーソンとなる人物は女性であり男装するところから物語の大筋が始まります。装い、女性の男装というのは工学化されていない人間関係の最たるものであって究極のところです、たぶん。日本でも宝塚の歌劇とかであります。これのおかげで結果的には人と人とが結びついて大団円を迎えるというのがこの物語の筋です。逆に男性の女装はこの限りではないどころか真逆の結果をもたらします。極端に言えば宦官であって、関係の象徴たるもの・モノを切って工学化されてしまうということです。女性が男性の男根を見て汚らしさを感じるのは、「関係」という抽象の具現体だからかもしれないです。gayという言葉で表されるものはちょっと違うんですけど、男性同士の同性愛はキリスト教でなくともどこでも否定的に扱われますけど、女性同士のレズビアンはどうなんですかね?ひょっとしたら肯定的な認知を得られていたりだとか。
人間関係ひいては男女の関係についてあまりに分かりすぎているというか、William Shakespeareさんはえらく賢いなと考えさせられます。
……が、これがイき過ぎると病気になってしまいます。このシェイクスピアの「十二夜」という作品には、「魂と身体の縁切り」という表現が出てくるんですけど、これは先の記事で書いた通り、Judenと化すことであり、文学的に言うとフォイエルバッハさんが言っていた魂が外へ抜け出してしまっている状態だとか魂を抜かれてしまっている状態だとかであって、身体意識的に規定点を身体の外へ置いてしまっている心身を病んでいる状態です。
「こういうふうに考えて欲しいわ、求める愛もいいけれど、求めずして得られた愛はもっといいんだ、って」
―William Shakespeare 「TWELFTH NIGHT(十二夜)」 より―
男性もそうですし女性は当然そうですけど、美人だとか美女だとかと形容される人たちはあまり汚いものを見ません。男性アイドル全般そうですけど、女装した男のやらかすビジュアル系とか、ハマってたのは一部の性根まで醜い不美人な女たちであって、ものを見る目のある美女には嫌われるを通りこしてバカにされてますね。まあ不健全であったところの私は一部好きだったりするんですけど。男性でもエロ画像とか見てるとブサイクになるんじゃないですかね。まだ成長期の途中である中高生の時点でエロ画像見るとか絶対にやめた方がいいです。私は最近はネットで見るものも極めて選んで見ます、テレビを見るなんざ論外です。取り入れる情報は極めて選択しないとダメどころかヤバいです。不必要な自由からは走って逃避しておくことをおすすめします。女性がよく口にするところの「きれいになる」というのは真実であり事実です。悪いものは中から外へ出ていく、という。
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