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2025.04.16 Wednesday
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Wer Wind sät, wird Strum ernten.
2012.08.18 Saturday
ネタフィジカルな因果応報。
今日は部屋の窓からおそらく二子玉川でやっていた花火大会の大きな花火が見えてとてもきれいでした。
先日の記事で夢がどうこうとかそれを記述してどうこうとか書いたので、参考までに私が見たものを書いておきますね。
「何か老年の某俳優E氏と協力して学校の課題か何かを終わらせるというもの。昼間のうちにE氏の家へ行き、そこで課題を共にこなそうとするのだが、E氏は午後も夕方手前あたりからテレビゲーム漬けでありまったく課題をこなそうとしない。私は呆れていたが、途中でE氏の家族か親戚か友人か(おそらく友人ではない)何かとして小学校の同級生Y君が出てきて、そのE氏の課題のこなさなさ具合を賞賛的に扱う。夜の11時頃になって、私は限界だと思い、もう電車がなくなるから課題の「夏の友」だかなんだかの冊子かなにかを返してくれと言うが、そこでE氏とY君が本性をあらわし、そんなもん無いよ~んといった感じ(表情)で私の帰りを邪魔しようとする(駅のイメージは渋谷駅の東急百貨店の下つまり山手線の切符売り場のやや東側あたりがその元となっているものである)。それから時間がさらに少し過ぎ、これはもう二回ほどある乗り換えを考えると、三路線目の電車は夜遅すぎてなくなってしまうのであるということを悟り、冊子「夏の友」は結局見つからないまま旧知人Y(Y君とは別人)の旧家の間取りに似たE氏とY君の家の玄関を出るか出ないかというあたりのところで目が覚める。」
「歌手Kが自居住マンションへ突然現れ、頂上(?)からその特徴的で絶大なボイスで全力で歌うというものであって、その後『じゃあ、なんとかだから僕はバイクで帰るから』とかなんとか言って去っていくというものであった。その周辺に旧知人Sのキャラ(?)影(?)がちらついていたようで、笑えはする。その後ワルい連中が蛮族のようにマンション前にたむろってウロウロしていたので、ああ、ちょっとアブないかな、と思って屋上へよじのぼって避難したが、そこで上から様子を見ていたらいつの間にか何かのセレモニー会場のような式典が敷かれていて、そのワルが居た位置でNHKのロンドンオリンピックの実況番組の司会の上着にエメラルドグリーンの服を着ていた唇の分厚い色気のあるお姉さんが『(なんとかなんとか)、Y先生(とかなんとか』と言って、それへのレスポンスとして私がうつ伏せに寝転がっていた屋上付近の位置から少し下に位置する私のだいたい左斜め前あたりにポジショニングしていた老年の学者Y氏が『なんとかなんとか)を動かしているのはこの男かもしれない、○○○○○○』と何やらカタカナ六文字の名前を発した。」
「欧米の都市部で見られる超巨大なスーパーのようなところを私の知っているR.M嬢が私と一緒に居たり居なくなったりで商品を買うでもなく歩いているというものだが、途中で何か重要な職務の一つとして現場アルバイトのような(ダンボールさばき?)ことを行う某政治家の人や、『これがあなたのクスリよ』と言わんばかりに突如現れてちょっとプライドの高そうな重厚な雰囲気を漂わせ白衣を着た小学校の同級生Uさんが現れたりだとかいったものであった。R.M嬢とUさんとその他に誰か女の人が一人居たには居たが、非常におぼろげであって目覚めた後では顔を思い出せない。」
これはもちろん抗精神病薬ジプレキサの薬効が加わってます。抗精神病薬を服薬しないとここまひどい内容の夢は見ませんし、見たとしてもこれが恐怖感とともに認識されることはないです。抗精神病薬を飲むとこうやって悪いものが意識上に出てくるということです、それには身体感覚の健常さも伴っています。文字ヅラとは逆説的に、精神医療において行われているのは体罰の逆関数(つまりは体罰の一種)です。つまり、重症の分裂病患者にいきなりやったらめったら抗精神病薬を投薬しても下手をすると逆効果だということです。
何故私が「空気を読む」ことを覚えたかというと、先の記事でも書いた通り私の父親が幼児の頃の私に対した処遇によって私は危機管理意識を幼児の頃から植えつけられていたからです。「パッとその場の状況を客観的に認識するようつとめて何がどうなっているか知らなければ他者に殺される」という感慨を自分以外の人間に対する基本的なものとして私は私の親に幼児の頃に植え付けられました。これは自分を取り巻く状況を瞬時に全て腑に落とすということであり、24時間常にムカついているということです。女性は男性よりはるかにこの苦しみを味わっているのであって、だから絶対に女には危害を加えるべきでないです。
例えば、私が冷蔵庫の野菜室のトマトをどう育って何が含まれているか分からないものとして食さないことを取り決めた時のその直後、私の父親は私に「冷蔵庫にトマトがあるから食せ」と言う、ということを行います。私が子供の時分に私に対して行われていたことは、これが物理的な暴力であったり、幼児の私に対する言論とまた同時に私の言論を封殺することによる暴力でした。当然父親は、まあ親子のものというか私の行動の特質を知り尽くしているというあたりのところから(もしくは、何らかの具体的手段にて)私の感慨を全て見抜いており、これは「実態としては他者に対する加虐行為(虐待)であるが、幼児的判断によれば『第三者には加虐行為としてではなくあわよくば善行として認知してもらえるというもの』であり、他者対する加虐行為を行うという自分本来の目的は達成されると同時に老年故他者においてこのような幼児的判断を下してもらえるはずもないことは知っているが何より自分をも騙して自分は善行を行ったと思い込みうる自慰にひたれる行為」です。この行為に及ぶ私の父親は極めて幼児的であり、不良中学生程度どころではなく幼稚園児程度です。
前にも書きましたけど、Oliver Hirschbiegel監督の映画「ヒトラー ~最期の12日間~」に登場するヒットラーが自分の父親にそっくりであるという感慨を抱きますし、個人的に「ヒットラーは演技性人格障害である」と言った精神科医を知っているんですけど、私の父親はおそらくこの演技性人格障害の類です。もしかしたら私SSと同じ統合失調症であると診断されるかもしれません、私は妄想型でしたけど、何種類かある統合失調症の型のうち別の型で。精神科医の先生に聞けば分かりますけど、この男自分が精神異常者であると見做されていることを極度に恐れているんですね。よって精神科なんて絶対に行きませんからそもそも精神異常であるかどうかの判断を精神科医に下してもらうことすらできませんし、さらにはこの男内科や外科や歯科ですら医者にかかることを嫌がります。まあだから結論から言うと典型的な精神異常者だということです。真性のキチガイに「自分はキチガイだ!」と言う人間は居ないということであって、精神疾患もこれに似たようなものがあるのであって、特に「自分は統合失調症ではないか?」とワザワザ精神科を訪問して自分からたずねる人間に統合失調症患者は居ないそうです。私の父親は、幼児の頃から他者に対して「自分を傷つけないでくれ!」と言わんばかりの幼児的なキレ方をするその様が異常でしたけど、おそらくはキレるフリをしていたということです。もしくはキレたフリをしてその場の問題から逃れた自分の身の安全さに酔っている、とか。どちらにしろ異常です。はっきり言うと、火炎放射器は使わずにマッチで細かなところから人には分からないように放火して回る朝鮮人にユダヤの卑屈さと不真面目さが加わったような男です(朝鮮の人たちを差別する気は私には無いですけど)。いわゆる左翼の典型です。自分は他人に慈悲を与えるのは嫌だが自分は限りなく他人から慈悲を与えてもらいたい、という幼児というよりは犯罪者みたいなものの典型です。しかもあろうことか60歳を過ぎて人前で泣き真似を行うことすらあるんですね。この異常さ具合を何と表現していいのか私には分かりません。覚悟してヤーさんになるとか以外で、何故悪質な人間が悪質な人間として社会的に許容されて生きていけると甘えに基づいた発想を行うのかが私には全く理解できません。仮にもこういった悪質な人間が学校の教師でもやっていた日には最悪なことになります、まあ今の50歳代がくたばれば大分減るでしょうけど。
この私の父親は大手マスコミ新聞関係者でしたけど、自分で曰く「社長に嫌われて会社(新聞社)を追い出された」と言ってましたけど、おそらくこれは事実です。で、これは近親として言わせてもらえば当然であって、その社長Aさんが健常な人間としての感覚を持った人であってのことであればこれは当然のことです。どこかの読売赤熱豚新聞とは違うでしょうから。やはり朝日新聞社や毎日新聞社はマスコミとしてはまだまともです、日本の中では。
統合失調症(精神分裂病)であった私の行動としてあったものは基本的にこの「空気を読む」ということだけでした。この「空気を読む」という行為は「空気で読む」ということでもあり行為として最悪のものであって最も愚劣で最も醜いものです。もちろん現代社会に生きる人間はその成熟に従ってある程度は必然的にこの能力を身に付けざるを得ませんけど、その成長スピードに限度というものがあるわけであって、問題は年齢にそぐわず老化・老成してしまっているということです。よって、例えば私の場合だと肉体の見た目というのは相応に醜く不細工です。何故私がそれでいて悪事や痴れ事に(あまり)走らないかというと、その空気に内容を設定しているからであって、「悪事を行ってはならないという空気」「痴れ事は醜いものであると認知すべき(く)空気」その他によって私は私の行動どころかおそらくは無意識的に思考までをも制御しているからです(教育が効果を発揮しているとも言えます)。つまりは本来的に人間的な中身と見た目が異なる者というのは居ないです(空気によって行動や言動や思考までをも制御することを現代日本人に植え付けたサブカルチャーの功罪は大きいです。まあ本当に子供が読む用の良い漫画も昔はありましたけど。あと良質なのは手塚治虫の漫画とか)。……分裂病患者は生きることを拒否しているわけではないですけど、死なないヒトは居ないということです。生半可な治療を施して放り出すのならば、責任を持って殺してやれということです。
私もそうですけど、人間関係を実体験から学ぶのが不得手もしくはそもそもあまり興味も持たないという人は、川端康成の「掌の小説」というのが新潮文庫から出ているので、これを読んでるのが分かりやすく且つけっこうな勉強になるのでオススメです。そうすれば、倫理的教育が効果を発揮する云々の以前に、「ものわかり」に基づいた行動の制御についての認知が生まれる、やってはいけないことはやらないようになります。
今日は部屋の窓からおそらく二子玉川でやっていた花火大会の大きな花火が見えてとてもきれいでした。
先日の記事で夢がどうこうとかそれを記述してどうこうとか書いたので、参考までに私が見たものを書いておきますね。
「何か老年の某俳優E氏と協力して学校の課題か何かを終わらせるというもの。昼間のうちにE氏の家へ行き、そこで課題を共にこなそうとするのだが、E氏は午後も夕方手前あたりからテレビゲーム漬けでありまったく課題をこなそうとしない。私は呆れていたが、途中でE氏の家族か親戚か友人か(おそらく友人ではない)何かとして小学校の同級生Y君が出てきて、そのE氏の課題のこなさなさ具合を賞賛的に扱う。夜の11時頃になって、私は限界だと思い、もう電車がなくなるから課題の「夏の友」だかなんだかの冊子かなにかを返してくれと言うが、そこでE氏とY君が本性をあらわし、そんなもん無いよ~んといった感じ(表情)で私の帰りを邪魔しようとする(駅のイメージは渋谷駅の東急百貨店の下つまり山手線の切符売り場のやや東側あたりがその元となっているものである)。それから時間がさらに少し過ぎ、これはもう二回ほどある乗り換えを考えると、三路線目の電車は夜遅すぎてなくなってしまうのであるということを悟り、冊子「夏の友」は結局見つからないまま旧知人Y(Y君とは別人)の旧家の間取りに似たE氏とY君の家の玄関を出るか出ないかというあたりのところで目が覚める。」
「歌手Kが自居住マンションへ突然現れ、頂上(?)からその特徴的で絶大なボイスで全力で歌うというものであって、その後『じゃあ、なんとかだから僕はバイクで帰るから』とかなんとか言って去っていくというものであった。その周辺に旧知人Sのキャラ(?)影(?)がちらついていたようで、笑えはする。その後ワルい連中が蛮族のようにマンション前にたむろってウロウロしていたので、ああ、ちょっとアブないかな、と思って屋上へよじのぼって避難したが、そこで上から様子を見ていたらいつの間にか何かのセレモニー会場のような式典が敷かれていて、そのワルが居た位置でNHKのロンドンオリンピックの実況番組の司会の上着にエメラルドグリーンの服を着ていた唇の分厚い色気のあるお姉さんが『(なんとかなんとか)、Y先生(とかなんとか』と言って、それへのレスポンスとして私がうつ伏せに寝転がっていた屋上付近の位置から少し下に位置する私のだいたい左斜め前あたりにポジショニングしていた老年の学者Y氏が『なんとかなんとか)を動かしているのはこの男かもしれない、○○○○○○』と何やらカタカナ六文字の名前を発した。」
「欧米の都市部で見られる超巨大なスーパーのようなところを私の知っているR.M嬢が私と一緒に居たり居なくなったりで商品を買うでもなく歩いているというものだが、途中で何か重要な職務の一つとして現場アルバイトのような(ダンボールさばき?)ことを行う某政治家の人や、『これがあなたのクスリよ』と言わんばかりに突如現れてちょっとプライドの高そうな重厚な雰囲気を漂わせ白衣を着た小学校の同級生Uさんが現れたりだとかいったものであった。R.M嬢とUさんとその他に誰か女の人が一人居たには居たが、非常におぼろげであって目覚めた後では顔を思い出せない。」
これはもちろん抗精神病薬ジプレキサの薬効が加わってます。抗精神病薬を服薬しないとここまひどい内容の夢は見ませんし、見たとしてもこれが恐怖感とともに認識されることはないです。抗精神病薬を飲むとこうやって悪いものが意識上に出てくるということです、それには身体感覚の健常さも伴っています。文字ヅラとは逆説的に、精神医療において行われているのは体罰の逆関数(つまりは体罰の一種)です。つまり、重症の分裂病患者にいきなりやったらめったら抗精神病薬を投薬しても下手をすると逆効果だということです。
何故私が「空気を読む」ことを覚えたかというと、先の記事でも書いた通り私の父親が幼児の頃の私に対した処遇によって私は危機管理意識を幼児の頃から植えつけられていたからです。「パッとその場の状況を客観的に認識するようつとめて何がどうなっているか知らなければ他者に殺される」という感慨を自分以外の人間に対する基本的なものとして私は私の親に幼児の頃に植え付けられました。これは自分を取り巻く状況を瞬時に全て腑に落とすということであり、24時間常にムカついているということです。女性は男性よりはるかにこの苦しみを味わっているのであって、だから絶対に女には危害を加えるべきでないです。
例えば、私が冷蔵庫の野菜室のトマトをどう育って何が含まれているか分からないものとして食さないことを取り決めた時のその直後、私の父親は私に「冷蔵庫にトマトがあるから食せ」と言う、ということを行います。私が子供の時分に私に対して行われていたことは、これが物理的な暴力であったり、幼児の私に対する言論とまた同時に私の言論を封殺することによる暴力でした。当然父親は、まあ親子のものというか私の行動の特質を知り尽くしているというあたりのところから(もしくは、何らかの具体的手段にて)私の感慨を全て見抜いており、これは「実態としては他者に対する加虐行為(虐待)であるが、幼児的判断によれば『第三者には加虐行為としてではなくあわよくば善行として認知してもらえるというもの』であり、他者対する加虐行為を行うという自分本来の目的は達成されると同時に老年故他者においてこのような幼児的判断を下してもらえるはずもないことは知っているが何より自分をも騙して自分は善行を行ったと思い込みうる自慰にひたれる行為」です。この行為に及ぶ私の父親は極めて幼児的であり、不良中学生程度どころではなく幼稚園児程度です。
前にも書きましたけど、Oliver Hirschbiegel監督の映画「ヒトラー ~最期の12日間~」に登場するヒットラーが自分の父親にそっくりであるという感慨を抱きますし、個人的に「ヒットラーは演技性人格障害である」と言った精神科医を知っているんですけど、私の父親はおそらくこの演技性人格障害の類です。もしかしたら私SSと同じ統合失調症であると診断されるかもしれません、私は妄想型でしたけど、何種類かある統合失調症の型のうち別の型で。精神科医の先生に聞けば分かりますけど、この男自分が精神異常者であると見做されていることを極度に恐れているんですね。よって精神科なんて絶対に行きませんからそもそも精神異常であるかどうかの判断を精神科医に下してもらうことすらできませんし、さらにはこの男内科や外科や歯科ですら医者にかかることを嫌がります。まあだから結論から言うと典型的な精神異常者だということです。真性のキチガイに「自分はキチガイだ!」と言う人間は居ないということであって、精神疾患もこれに似たようなものがあるのであって、特に「自分は統合失調症ではないか?」とワザワザ精神科を訪問して自分からたずねる人間に統合失調症患者は居ないそうです。私の父親は、幼児の頃から他者に対して「自分を傷つけないでくれ!」と言わんばかりの幼児的なキレ方をするその様が異常でしたけど、おそらくはキレるフリをしていたということです。もしくはキレたフリをしてその場の問題から逃れた自分の身の安全さに酔っている、とか。どちらにしろ異常です。はっきり言うと、火炎放射器は使わずにマッチで細かなところから人には分からないように放火して回る朝鮮人にユダヤの卑屈さと不真面目さが加わったような男です(朝鮮の人たちを差別する気は私には無いですけど)。いわゆる左翼の典型です。自分は他人に慈悲を与えるのは嫌だが自分は限りなく他人から慈悲を与えてもらいたい、という幼児というよりは犯罪者みたいなものの典型です。しかもあろうことか60歳を過ぎて人前で泣き真似を行うことすらあるんですね。この異常さ具合を何と表現していいのか私には分かりません。覚悟してヤーさんになるとか以外で、何故悪質な人間が悪質な人間として社会的に許容されて生きていけると甘えに基づいた発想を行うのかが私には全く理解できません。仮にもこういった悪質な人間が学校の教師でもやっていた日には最悪なことになります、まあ今の50歳代がくたばれば大分減るでしょうけど。
この私の父親は大手マスコミ新聞関係者でしたけど、自分で曰く「社長に嫌われて会社(新聞社)を追い出された」と言ってましたけど、おそらくこれは事実です。で、これは近親として言わせてもらえば当然であって、その社長Aさんが健常な人間としての感覚を持った人であってのことであればこれは当然のことです。どこかの読売赤熱豚新聞とは違うでしょうから。やはり朝日新聞社や毎日新聞社はマスコミとしてはまだまともです、日本の中では。
統合失調症(精神分裂病)であった私の行動としてあったものは基本的にこの「空気を読む」ということだけでした。この「空気を読む」という行為は「空気で読む」ということでもあり行為として最悪のものであって最も愚劣で最も醜いものです。もちろん現代社会に生きる人間はその成熟に従ってある程度は必然的にこの能力を身に付けざるを得ませんけど、その成長スピードに限度というものがあるわけであって、問題は年齢にそぐわず老化・老成してしまっているということです。よって、例えば私の場合だと肉体の見た目というのは相応に醜く不細工です。何故私がそれでいて悪事や痴れ事に(あまり)走らないかというと、その空気に内容を設定しているからであって、「悪事を行ってはならないという空気」「痴れ事は醜いものであると認知すべき(く)空気」その他によって私は私の行動どころかおそらくは無意識的に思考までをも制御しているからです(教育が効果を発揮しているとも言えます)。つまりは本来的に人間的な中身と見た目が異なる者というのは居ないです(空気によって行動や言動や思考までをも制御することを現代日本人に植え付けたサブカルチャーの功罪は大きいです。まあ本当に子供が読む用の良い漫画も昔はありましたけど。あと良質なのは手塚治虫の漫画とか)。……分裂病患者は生きることを拒否しているわけではないですけど、死なないヒトは居ないということです。生半可な治療を施して放り出すのならば、責任を持って殺してやれということです。
私もそうですけど、人間関係を実体験から学ぶのが不得手もしくはそもそもあまり興味も持たないという人は、川端康成の「掌の小説」というのが新潮文庫から出ているので、これを読んでるのが分かりやすく且つけっこうな勉強になるのでオススメです。そうすれば、倫理的教育が効果を発揮する云々の以前に、「ものわかり」に基づいた行動の制御についての認知が生まれる、やってはいけないことはやらないようになります。
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