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2025.04.16 Wednesday
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Anhedonia
2012.08.15 Wednesday
鐘を鳴らされつづけても拒否するかそれを故意にではなく感知しない男。
私も私立文系の出なんであまり偉そうなことは言えないんですけど、私立文系なんてクズのチンピラにある程度の社会的価値を付与して黒犬のような愚昧な戦闘力として使用しうる様に形付けるためだけに設けられているものだと言っても過言ではないです、残念ながら。それは早稲田だろうが慶應だろうがほとんど同じです。いかに入ってから勉強させられる上智だとてそうです。しかもMARCHあたりまでは東大から順々に先生たちが降りてきて教職に就くというケースがほどんどであって、その学校で学校に残って先生になった人というのはもう全共闘あたりの年代がほとんど最後です。まあでも流石に東大出の先生たちが優秀なのはよく分かりますけど。
もし大学受験前の人とかでこれを読む人が居たら言っておきたいんですけど、教科の種類や多少に関係無く基本的に戦闘力は偏差値の数値に従って出ます、例えば慶應SFCの学生とかは数学と英語だけでも旧帝一期校を除いたそこらへんの国公立大学の学生よりはやはりレベルは高いでしょう。が、せっかく大学へ入ってお勉強の内容が乏しかったらどうしようもないということなんですね。戦闘力の高い人間を野放しにしておいてはもったいないということもあるんでしょうけど、ちょっとそういった時代は終わりかかっているみたいではあります。
上智大学という大学がありますけど、あそこは上智大学というよりは上智高等高等学校みたいなところです。高等教育というよりは高等後期中等教育のような教育をやります。女学校です。専門家的にではなくいろいろなものを幅広く学びたいというgeneralistめいた欲求がある人間にはいいところなんですけど。外国語学部だけは、例えば外国語能力を運用してその類の教職に就きたいだとか学歴ロンダリングで海外の大学院を目指すだとか欧米の銀行に就職したいだとかいった人のために外国語運用能力を徹底して身に着けさせる外国語実業学校的な教育を施してくれますけど、他の学部はやはり高等後期中等教育の色合いが強いです。我々よりもっと上の世代の人たちの時分のその昔は上智は女東大と呼ばれていたそうです。やはり女子学生の数は多くて美女だらけです。私は女の人には近寄りませんけど、やっぱり美女が多いと気分は良いです。
私が通ったところの大学には入学時に幼稚園の仲良し学級取り組みみたいなオリエンテーションキャンプとやらの仲良し旅行に参加させられるというものがあったんですけど、旅館の大部屋で18歳や19歳の人間たちが胸に名前の書いた札を付けて自己紹介しあって握手し合うという耐え難いほどに幼稚なものだったんですね。
で、その後で阿呆な教授が授業中に「オリエンテーション・キャンプなんかやらなくていい、オリエンテーション・キャンプがないと友達が出来ないというのはさびしいことだ!」とかホザいていたのを覚えているんですけど、オリエンテーションキャンプだかなんだかのくだらねえ仲良し旅行ゴッコがあるから友達が出来ねえんだろうが分かれよアホということであって、特に大学へ入るにあたって地方から出てきた人に多いんですけど、まったくこういったもののバカバカしさについて分かって無いんことが多々あるんですね。誰だって馬鹿な人間を相手にはしたくないわけであって、シカト(無視)するものはシカトします。また私も馬鹿な人間にはシカトされて相手にされないことを望んでいるところもあります。
京のぶぶ漬けなんざその空気を読みきった上で提示者のオツムの上に茶碗をひっくり返して被し返すのに正当な感情と契約の発露が存在するんですね。ウザいというよりは、おそらく西洋人から見ると無能な東洋人が図に乗るなということであって、そりゃLed Zeppelinのおじさんたちも日本刀でホテルの部屋をズタズタに切り裂いて傷つけて帰っていくわけです。しっかりと当人に対して言うことは言葉で直接言え、と。私がこんなこと言わなくても前の記事で書いたような本来的には異性愛関係においてのみ取り交わされるべき日本的コミュニケーションを取っている人間は結局仕事が出来ないと言われてバカにされるんではないですかね?まあよく知りませんけども。
性善説に基づく対人関係における表面的な他者に対する不信というのは他者への無意識的な加害に繋がってしまっている場合が多々あります。人間関係を工学的に認識してしまっているからです。人を信じられずに場合によっては人を傷つけてしまっているということであって、言語による意味内容の取り交わしの契約関係がそこにあるという前提がそこに無いからこういった齟齬が生まれてしまうということであって、(愛なら)行動で示すだの何だのそういったのは女の子相手のキャッキャウフフのための世界においてのみ通用するものであって、というかそうしてくれ、ただ一人の嫁さんを愛するその為にリビドーを垂れ流さずに保存しておいてくれ、ウザいから、それどころか他人に危害を加えること多々ありきで有害だから、ということです。
つまりはだから前世紀によく見られた10代の子供の頃から不良になってしまう少年少女には他者を傷つけてでも生きのびねばならないといった行動原理に取り憑かれてしまっていた人間がドラマやマンガの世界だけでなく多かったということです。
私は「ラブロマンス」という表現に長年疑問を抱いていたんですけど、やはりloveはROMANCE、loveだからこそROMANCEなのであって、男のロマンといったものはお遊びであり嘘臭いです。ドイツ・ロマン派というのは、Novalisとかは私も読んだことがあるんですけど、結構いい感じのラブロマンスじゃない、ラブだからこそのロマンスでいいじゃない、くらいに思いましたけど、中二病な類のものを除いて。
そして結局昔も今も私は愛とか恋とかいったものは基本的に分からないです。私はホーフマンスタールさんみたいにガブリエル的な神的に清潔なアニマを持っていてその影たる追い求めるべき女性が現存しないとかそういったお高いところに居るわけではないですけど、ごまかしの無い話としてたぶん私が異性である女性を見て感じているのは残念ながら肉欲だけなんで、そういったものを自分の中にだましだまし封じつつ三十路を過ぎてそういった類の欲望ももうほとんど無くなった今、愛だとか恋だとかについては、その愛とか恋とか自分に分からないものがどういったものなのか知ろうとしたところのその内容をガタガタこのブログ記事で言っているこれがこれで私のアカな最後の派手な灯火です、たぶん、これが。一般的な健康的な人たちは10代や20代でこれのもっと激しいものを味わい体験するんでしょうけど、私には結局愛というのも恋というのも理解できませんでした。文字ヅラ的、もうちょっと上手くいけば概念的には理解してますけど、たぶん実体験しないと分からないんでしょうね、こればっかりは、と思います。……先の記事で書いた「何もかも捨て去った時に初めてその自覚が芽生えるイドを満たしてくれる女」を想うことがあるにはあるんですけど。母親以外で。
恐怖の感情から学ぶことはありますけど、私がこのブログで書き連ねているようなことが、実際私SSにおいてはまかり通ってますけど、まあまかり通るのであれば、誰だっていつ殺されるか分からないという社会環境の下生きることを余儀なくされるわけであって、何処の暴力帝国サードエンパイアだということであって明らかに社会通念上おかしいということになります。ひたすらな脅しと強請り(ゆすり)と下手をすれば集り(たかり)の世界です。あの不良少年たちは凄まじい世界の住人として生きていたんだなという感慨を私は今になって抱きます。そりゃ肉欲でなく真の孤独から女を求めるわけです。しかし現実問題としては、こんなことが平然とまかり通るのであれば誰もが健常には生きていけなくなるのであってじゃあこの日本という国は国民から見放されてさようならということになります。これについてはさすがにわざわざこんなことを言葉にして説明しないと分からないというのは頭が悪い以前に馬鹿であるという以外に言い様がありません。私はまだ中年になったばかりですけど、じゃあ日々質素に暮らしているご老人たちはどうなるんだどういう扱いを受けるんだ、ということになります。これは悪事に加担しない限りでどういった社会生活を送っているかという類の問題ではないです、行われているのは脅しと殺しですから。
こういった恐怖政治が敷かれているような社会に生きざるを得ないつまり社会制度上「誰も助けてはくれない」ということであれば、それを一部の悪徳な人間たちがいくらひた隠しにしたところで崩壊へと向かっていきます。犯罪者やあわよくば悪党が生産されてしまうからです。人と人とが助け合うのはそれがどういった形態をとろうとも人間社会の基本なので。で、一種の羅刹国であった日本というのはこうやって67年前に戦争に負けて終わったんです。私は戦前の教育等々日本の良いところも書いてますけど、やはり悪いところや臭いものにフタをできるわけはないです。
私も私立文系の出なんであまり偉そうなことは言えないんですけど、私立文系なんてクズのチンピラにある程度の社会的価値を付与して黒犬のような愚昧な戦闘力として使用しうる様に形付けるためだけに設けられているものだと言っても過言ではないです、残念ながら。それは早稲田だろうが慶應だろうがほとんど同じです。いかに入ってから勉強させられる上智だとてそうです。しかもMARCHあたりまでは東大から順々に先生たちが降りてきて教職に就くというケースがほどんどであって、その学校で学校に残って先生になった人というのはもう全共闘あたりの年代がほとんど最後です。まあでも流石に東大出の先生たちが優秀なのはよく分かりますけど。
もし大学受験前の人とかでこれを読む人が居たら言っておきたいんですけど、教科の種類や多少に関係無く基本的に戦闘力は偏差値の数値に従って出ます、例えば慶應SFCの学生とかは数学と英語だけでも旧帝一期校を除いたそこらへんの国公立大学の学生よりはやはりレベルは高いでしょう。が、せっかく大学へ入ってお勉強の内容が乏しかったらどうしようもないということなんですね。戦闘力の高い人間を野放しにしておいてはもったいないということもあるんでしょうけど、ちょっとそういった時代は終わりかかっているみたいではあります。
上智大学という大学がありますけど、あそこは上智大学というよりは上智高等高等学校みたいなところです。高等教育というよりは高等後期中等教育のような教育をやります。女学校です。専門家的にではなくいろいろなものを幅広く学びたいというgeneralistめいた欲求がある人間にはいいところなんですけど。外国語学部だけは、例えば外国語能力を運用してその類の教職に就きたいだとか学歴ロンダリングで海外の大学院を目指すだとか欧米の銀行に就職したいだとかいった人のために外国語運用能力を徹底して身に着けさせる外国語実業学校的な教育を施してくれますけど、他の学部はやはり高等後期中等教育の色合いが強いです。我々よりもっと上の世代の人たちの時分のその昔は上智は女東大と呼ばれていたそうです。やはり女子学生の数は多くて美女だらけです。私は女の人には近寄りませんけど、やっぱり美女が多いと気分は良いです。
私が通ったところの大学には入学時に幼稚園の仲良し学級取り組みみたいなオリエンテーションキャンプとやらの仲良し旅行に参加させられるというものがあったんですけど、旅館の大部屋で18歳や19歳の人間たちが胸に名前の書いた札を付けて自己紹介しあって握手し合うという耐え難いほどに幼稚なものだったんですね。
で、その後で阿呆な教授が授業中に「オリエンテーション・キャンプなんかやらなくていい、オリエンテーション・キャンプがないと友達が出来ないというのはさびしいことだ!」とかホザいていたのを覚えているんですけど、オリエンテーションキャンプだかなんだかのくだらねえ仲良し旅行ゴッコがあるから友達が出来ねえんだろうが分かれよアホということであって、特に大学へ入るにあたって地方から出てきた人に多いんですけど、まったくこういったもののバカバカしさについて分かって無いんことが多々あるんですね。誰だって馬鹿な人間を相手にはしたくないわけであって、シカト(無視)するものはシカトします。また私も馬鹿な人間にはシカトされて相手にされないことを望んでいるところもあります。
京のぶぶ漬けなんざその空気を読みきった上で提示者のオツムの上に茶碗をひっくり返して被し返すのに正当な感情と契約の発露が存在するんですね。ウザいというよりは、おそらく西洋人から見ると無能な東洋人が図に乗るなということであって、そりゃLed Zeppelinのおじさんたちも日本刀でホテルの部屋をズタズタに切り裂いて傷つけて帰っていくわけです。しっかりと当人に対して言うことは言葉で直接言え、と。私がこんなこと言わなくても前の記事で書いたような本来的には異性愛関係においてのみ取り交わされるべき日本的コミュニケーションを取っている人間は結局仕事が出来ないと言われてバカにされるんではないですかね?まあよく知りませんけども。
性善説に基づく対人関係における表面的な他者に対する不信というのは他者への無意識的な加害に繋がってしまっている場合が多々あります。人間関係を工学的に認識してしまっているからです。人を信じられずに場合によっては人を傷つけてしまっているということであって、言語による意味内容の取り交わしの契約関係がそこにあるという前提がそこに無いからこういった齟齬が生まれてしまうということであって、(愛なら)行動で示すだの何だのそういったのは女の子相手のキャッキャウフフのための世界においてのみ通用するものであって、というかそうしてくれ、ただ一人の嫁さんを愛するその為にリビドーを垂れ流さずに保存しておいてくれ、ウザいから、それどころか他人に危害を加えること多々ありきで有害だから、ということです。
つまりはだから前世紀によく見られた10代の子供の頃から不良になってしまう少年少女には他者を傷つけてでも生きのびねばならないといった行動原理に取り憑かれてしまっていた人間がドラマやマンガの世界だけでなく多かったということです。
私は「ラブロマンス」という表現に長年疑問を抱いていたんですけど、やはりloveはROMANCE、loveだからこそROMANCEなのであって、男のロマンといったものはお遊びであり嘘臭いです。ドイツ・ロマン派というのは、Novalisとかは私も読んだことがあるんですけど、結構いい感じのラブロマンスじゃない、ラブだからこそのロマンスでいいじゃない、くらいに思いましたけど、中二病な類のものを除いて。
そして結局昔も今も私は愛とか恋とかいったものは基本的に分からないです。私はホーフマンスタールさんみたいにガブリエル的な神的に清潔なアニマを持っていてその影たる追い求めるべき女性が現存しないとかそういったお高いところに居るわけではないですけど、ごまかしの無い話としてたぶん私が異性である女性を見て感じているのは残念ながら肉欲だけなんで、そういったものを自分の中にだましだまし封じつつ三十路を過ぎてそういった類の欲望ももうほとんど無くなった今、愛だとか恋だとかについては、その愛とか恋とか自分に分からないものがどういったものなのか知ろうとしたところのその内容をガタガタこのブログ記事で言っているこれがこれで私のアカな最後の派手な灯火です、たぶん、これが。一般的な健康的な人たちは10代や20代でこれのもっと激しいものを味わい体験するんでしょうけど、私には結局愛というのも恋というのも理解できませんでした。文字ヅラ的、もうちょっと上手くいけば概念的には理解してますけど、たぶん実体験しないと分からないんでしょうね、こればっかりは、と思います。……先の記事で書いた「何もかも捨て去った時に初めてその自覚が芽生えるイドを満たしてくれる女」を想うことがあるにはあるんですけど。母親以外で。
恐怖の感情から学ぶことはありますけど、私がこのブログで書き連ねているようなことが、実際私SSにおいてはまかり通ってますけど、まあまかり通るのであれば、誰だっていつ殺されるか分からないという社会環境の下生きることを余儀なくされるわけであって、何処の暴力帝国サードエンパイアだということであって明らかに社会通念上おかしいということになります。ひたすらな脅しと強請り(ゆすり)と下手をすれば集り(たかり)の世界です。あの不良少年たちは凄まじい世界の住人として生きていたんだなという感慨を私は今になって抱きます。そりゃ肉欲でなく真の孤独から女を求めるわけです。しかし現実問題としては、こんなことが平然とまかり通るのであれば誰もが健常には生きていけなくなるのであってじゃあこの日本という国は国民から見放されてさようならということになります。これについてはさすがにわざわざこんなことを言葉にして説明しないと分からないというのは頭が悪い以前に馬鹿であるという以外に言い様がありません。私はまだ中年になったばかりですけど、じゃあ日々質素に暮らしているご老人たちはどうなるんだどういう扱いを受けるんだ、ということになります。これは悪事に加担しない限りでどういった社会生活を送っているかという類の問題ではないです、行われているのは脅しと殺しですから。
こういった恐怖政治が敷かれているような社会に生きざるを得ないつまり社会制度上「誰も助けてはくれない」ということであれば、それを一部の悪徳な人間たちがいくらひた隠しにしたところで崩壊へと向かっていきます。犯罪者やあわよくば悪党が生産されてしまうからです。人と人とが助け合うのはそれがどういった形態をとろうとも人間社会の基本なので。で、一種の羅刹国であった日本というのはこうやって67年前に戦争に負けて終わったんです。私は戦前の教育等々日本の良いところも書いてますけど、やはり悪いところや臭いものにフタをできるわけはないです。
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