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Albion
2012.07.28 Saturday
健全な良い夢を。
ロンドン五輪の開会式を見たんですけど、途中の産業革命をテーマにした演劇がとても良かったです。最後のPaul Maccartneyさんの歌がとても印象的でした。
私は大学の時に何かの授業で課題を交換し合って採点するというもので女子学生に「完璧過ぎて欠点が見つからなかった」と嫌味を言われて相手が課題をこなしていないということがあったんですけど、そのいきさつを教員に説明しにいったらば同席していた男子学生がこちらを意味ありげな表情で挑発的に見ているということがあったんですけど、その時は「何だコイツ、お前らが悪いじぇねえか」と思いましたけど、今は彼の意味ありげな視線のその意味もよく分かります。というのは、おそらくこれは「やはりお前も自分がバカにされていることは分かるじゃねえか」ということであったと私は今考えるんですけど、しかしそれは私が「これは自分をバカにしているケースだ」というコンテクストを後天的に学んでいることの産物であっておそらく彼らの「分かって」いるところの「分かって」いるわけではないといことです。「分かっている」わけではなくて空気を読んでいるということです。もちろん現実的な問題としてはこんなことを行うこの女子学生と何かを勘違いしているこの男子学生が悪いに決まってはいるんですけど。
蓋然性というのは、t=1、t=2、t=3……と世界を場的に認識することの連続時間的な試みであって、一種の脅迫観念です(この説明において時間軸を設定してしまうのはおそらく間違ってますけど、説明の便宜のために時間の流れを固定しておきます)。だから例えば場の視覚映像や快感を伴った場の聴覚(映像)に思考の筋を重ね合わせて入力もしくは出力するということしかできません。思考や言説の筋を失わないように必死に場の形象にそれをタブらせていくということに大量のエネルギーと脳のメモリを使うということです。だから普通はこのような事象の認識形態であったらばヒトの能力の限界を超えて(越えて)発狂してしまいます。哲学者でこういったことを言う人が居ますけど、「世界は常に壊れ続けてきた」ということになってしまうからです。私は人の名前と顔を覚えるのが非常に得意だったりしますし、本を読むのが遅めだったりします。……私は勉強ということがどういったことなのかこの年まで理解できませんでした。勉強なんてしたことが無かったということです。全て丸暗記していました。人とのコミュニケーションにおいてもそうです。勉強の出来る人というのはおそらくあまりコミュニケーションということを意識することがありません。
場の蓋然的・客観的な認識に走りたがる人間というのは、幼児期から危機対応を学んでしまっているいたり過度の苦痛を味わいそれに対して過度の警戒心を植え付けられている、という場合が多いです。おそらく「ものわかり」というものがどういったことなのだかという理解が生まれる前の幼児期から虐待等によって必要以上に危機管理意識を植え付けられているということです。それはユダヤの人たちでも誰でも歴史上排斥されてきた人たちというのは皆こうやって最悪なやり方で作り上げられました。本当に愚かです。こういうことが無くなった現代においても、いわゆる真面目な人間というのもこれと同じであって、真面目な人間というのは種々の欲望を基本的に我慢してます。私も基本的には真面目ですけど、嫌がらせその他で異常に走ることもあります。やはり我慢・欲望の抑圧というのは、それを何らかの形で昇華させようとする行動となって表れるので(表れようとするので)、必然的に事象の客観的な認識につながります。私はそこまでオツムの程度が良い子供ではありませんでしたけど、ひょっとしたら東京大学とかへ行くとこういった蓋然的な人がある程度居るのかもしれないです。あと教授とか。
完全に世界そのものたる蓋然性を持つ人間というのは居ないので、数学の問題を回答する時にどこかで計算ミスのような細かな間違いをほぼ確実に犯してしまうというものであったり、また「必要のない情報は入れない」ということにも走りやすいわけであって、新しいものに生理的な嫌悪感を抱くことも多々あります。基本的に世界との我慢比べだったりします。だから悪徳が一滴でも垂らされていることを許容できなかったり、それこそ国家社会主義のようなイデオロギーへと傾きやすかったり、主義上は完璧主義に走ったりしやすいです。やっぱり異常と言えば異常です。
だから、不特定多数の人間によるストーカー行為でも何でも、蓋然的な人間が外部性の内部化ということにおいてストレスを感じるのはそれこそ必然です。あまりにも場違いであってそれが故意に見せ付けているものであると分かるような、「異様な紫色地のシャツと白パンをはいたおっちゃんが左手後方から追い抜いていった」とか「外へ出て計3~4km歩くだけで視界の右斜め前方に気色の悪いピンク色の服を着た人間が4度5度と現れる」とかいったことにそれについての場対応としてまず不快感を感じてしまうんですね。……まあ普通に考えても何も知らない状態で人間こんなことをやられたらば初回でビビりますけど。事象の認識の問題としてこれらの行為を「フーン、あっそ」でただ済ませられる人間というのは世界中何処を探しても居ません、うっとおしいからです。
で、この蓋然性は間違った物事についての認識の学習にも使われてしまいます。例えば、紫色だから左斜め前属性だとか、緑だから真右方向属性だとか。「属性」云々を認識してしまうのは、被害者に対して加害者たちは何百回でも何千回でも上で書いたようなことを行ってサブリミナルをかけてくるからであって、そして現実を生きていない人間というのは居ないわけでそこに現実問題の認識として「あっ、また来た」という感慨を持たざるを得ないからです。もちろんこれを精神科医に告げるとこの認知は典型的な統合失調症の症状だと言われるだけで、そしてこれがひたすら繰り返されます。物に対して人というのはそういうものであるという形でそこから何かを学ばせると同時に、不特定多数によるストーカー行為を被害者の中で正当化させ、そして同時に「(自分が)読まれている」という自覚を被害者の中に植え付けます。もちろん何度も書いているように悪いものは吐いた方がいいんですけど、今説明していることとは別の問題です。nota beneという記事でも同じようなことを書きましたけど、つまり精神科医はこれの認知が統合失調症である、人間の人間たる由縁が病気だという方向へ持って行きます、つまり巧妙に事象の認知のすり替え・不特定多数のストーカーを使って危害を加えることにより性善説から性悪説への逆転を行うわけであって、男性の患者の場合だと同属他者であるヒトのオスは全て敵であると見なせというところへ持って行きます。また、被害者において何らかの事象について気付いていること気付いていないことというのは個々の物事によって違うわけですけど、被害者が受けている被害において「全てに気付いてそれを無視しているのか」もしくは「まったく気付いていないのか」というどちらかであることに加害者は被害者(患者)を仕立て上げます。巧妙に被害者から被害の実態は残したまま被害者意識を消して都合のいいところへもっていこうとするわけです。最終的には全ての事象における二項対立を認知させるところに帰着します。私もこのブログでかなり常識はずれなことを書いてますけど、(間違ってはいないが)一般常識的にはヤバいことを吐かせるんですね。二項対立の産物と言えばそうです。……というのが不特定多数の人間によるストーカー行為に対する被害者的な解釈です。まあこれは常識的に考えるともちろん幼児に対する虐待ならぬ一般人に対する虐殺です、私はそれがどういった「治療」であるのか知ろうと努力して頑張ってますけど。
私はこの蓋然性の一言で表されるdie Krankheit(病気)が大分良くなりました。少なくとも自分が自分であることにおける無根拠な蓋然的自信というのはほとんどなくなりました。というのはこのブログにupする記事という形で自分の考えていることを形にして吐き出してしまうということもありますし、今も自分の調子に合わせて定期的には服薬している抗精神病薬ジプレキサの薬効もあります。
私もこのブログの記事であまり良くないことをも書いているのは自覚してますし、今まで人を馬鹿にする態度を基本的なものとしてとっていたということについて反省してます。で、やはりそういった他者排斥の類の心理の根底にあるのは恐怖心なんですね。恐怖心が目をくらませているということです。だからちゃんとそれを教育の場でも何でもよいので教えろというんですね、恐怖心は恐怖心であると。恐怖のあまり何が何だか分からなくなっている子供に課題を指図するだけでは、学ぶということがどういったことなのかそもそも分かっていないわけであって闇雲に落とし込んでいくという結果に帰着するだけです。分かるということがどういったことなのか分かっていないのであって、そんな人間をそうではない人間から見て何故分からないのか分からないのは当たり前です。責任を放棄する教師、育児を放棄して場合によっては子供を悪事へと走らせる愚かな親、まあ私は自分の親がこういったロクでもない人間でしたけど、本当に何を考えているんだか分かりません。自分の子供にまで虐待という形やそれが叶わないとなれば故意に幼児的演劇を行うという形で母親的役割を求める「甘え」たマザコン人間の所業です。まあ不特定多数のストーカー達もそれが幼児的演劇であるとターゲットにみなされることを前提とした上で故意に幼児的演劇を見せ付けるというやり方で注意を引くという形で攻撃してくるわけですけど。確かに「人」がストレスになる(ことに対する自覚を促す)というのはありますし、世界に居る人間自分以外の人間が悪人ばかりであるという見地から学ぶことはありますけど、やはり一般的な目線から言うと異常です。それを前提にした上で、何がどうなっているかということを子供に教えるべきであって、現実的に考えて倫理性の方が先です。目の前の現実が見えなくなる(ほどの恋)というのがあるのかもしれませんけど、事物全てが象徴と化して完全に目の前の現実を失うというのはちょっと私には理解できないところがあります。分裂病にも陽性症状というのがありますけど、いわゆる発狂すると全てが象徴と化した世界を見ることになります。
子供を育てるにおいて、行動面における母親の甘やかしとそれと相反する父親の威厳が同時にあるとなると、最悪なことになります。思想面で個々人において違うのは当たり前ですけど、少なくとも育児ということに関しては行動面では一致させておくというのが正解です。
ロンドン五輪の開会式を見たんですけど、途中の産業革命をテーマにした演劇がとても良かったです。最後のPaul Maccartneyさんの歌がとても印象的でした。
私は大学の時に何かの授業で課題を交換し合って採点するというもので女子学生に「完璧過ぎて欠点が見つからなかった」と嫌味を言われて相手が課題をこなしていないということがあったんですけど、そのいきさつを教員に説明しにいったらば同席していた男子学生がこちらを意味ありげな表情で挑発的に見ているということがあったんですけど、その時は「何だコイツ、お前らが悪いじぇねえか」と思いましたけど、今は彼の意味ありげな視線のその意味もよく分かります。というのは、おそらくこれは「やはりお前も自分がバカにされていることは分かるじゃねえか」ということであったと私は今考えるんですけど、しかしそれは私が「これは自分をバカにしているケースだ」というコンテクストを後天的に学んでいることの産物であっておそらく彼らの「分かって」いるところの「分かって」いるわけではないといことです。「分かっている」わけではなくて空気を読んでいるということです。もちろん現実的な問題としてはこんなことを行うこの女子学生と何かを勘違いしているこの男子学生が悪いに決まってはいるんですけど。
蓋然性というのは、t=1、t=2、t=3……と世界を場的に認識することの連続時間的な試みであって、一種の脅迫観念です(この説明において時間軸を設定してしまうのはおそらく間違ってますけど、説明の便宜のために時間の流れを固定しておきます)。だから例えば場の視覚映像や快感を伴った場の聴覚(映像)に思考の筋を重ね合わせて入力もしくは出力するということしかできません。思考や言説の筋を失わないように必死に場の形象にそれをタブらせていくということに大量のエネルギーと脳のメモリを使うということです。だから普通はこのような事象の認識形態であったらばヒトの能力の限界を超えて(越えて)発狂してしまいます。哲学者でこういったことを言う人が居ますけど、「世界は常に壊れ続けてきた」ということになってしまうからです。私は人の名前と顔を覚えるのが非常に得意だったりしますし、本を読むのが遅めだったりします。……私は勉強ということがどういったことなのかこの年まで理解できませんでした。勉強なんてしたことが無かったということです。全て丸暗記していました。人とのコミュニケーションにおいてもそうです。勉強の出来る人というのはおそらくあまりコミュニケーションということを意識することがありません。
場の蓋然的・客観的な認識に走りたがる人間というのは、幼児期から危機対応を学んでしまっているいたり過度の苦痛を味わいそれに対して過度の警戒心を植え付けられている、という場合が多いです。おそらく「ものわかり」というものがどういったことなのだかという理解が生まれる前の幼児期から虐待等によって必要以上に危機管理意識を植え付けられているということです。それはユダヤの人たちでも誰でも歴史上排斥されてきた人たちというのは皆こうやって最悪なやり方で作り上げられました。本当に愚かです。こういうことが無くなった現代においても、いわゆる真面目な人間というのもこれと同じであって、真面目な人間というのは種々の欲望を基本的に我慢してます。私も基本的には真面目ですけど、嫌がらせその他で異常に走ることもあります。やはり我慢・欲望の抑圧というのは、それを何らかの形で昇華させようとする行動となって表れるので(表れようとするので)、必然的に事象の客観的な認識につながります。私はそこまでオツムの程度が良い子供ではありませんでしたけど、ひょっとしたら東京大学とかへ行くとこういった蓋然的な人がある程度居るのかもしれないです。あと教授とか。
完全に世界そのものたる蓋然性を持つ人間というのは居ないので、数学の問題を回答する時にどこかで計算ミスのような細かな間違いをほぼ確実に犯してしまうというものであったり、また「必要のない情報は入れない」ということにも走りやすいわけであって、新しいものに生理的な嫌悪感を抱くことも多々あります。基本的に世界との我慢比べだったりします。だから悪徳が一滴でも垂らされていることを許容できなかったり、それこそ国家社会主義のようなイデオロギーへと傾きやすかったり、主義上は完璧主義に走ったりしやすいです。やっぱり異常と言えば異常です。
だから、不特定多数の人間によるストーカー行為でも何でも、蓋然的な人間が外部性の内部化ということにおいてストレスを感じるのはそれこそ必然です。あまりにも場違いであってそれが故意に見せ付けているものであると分かるような、「異様な紫色地のシャツと白パンをはいたおっちゃんが左手後方から追い抜いていった」とか「外へ出て計3~4km歩くだけで視界の右斜め前方に気色の悪いピンク色の服を着た人間が4度5度と現れる」とかいったことにそれについての場対応としてまず不快感を感じてしまうんですね。……まあ普通に考えても何も知らない状態で人間こんなことをやられたらば初回でビビりますけど。事象の認識の問題としてこれらの行為を「フーン、あっそ」でただ済ませられる人間というのは世界中何処を探しても居ません、うっとおしいからです。
で、この蓋然性は間違った物事についての認識の学習にも使われてしまいます。例えば、紫色だから左斜め前属性だとか、緑だから真右方向属性だとか。「属性」云々を認識してしまうのは、被害者に対して加害者たちは何百回でも何千回でも上で書いたようなことを行ってサブリミナルをかけてくるからであって、そして現実を生きていない人間というのは居ないわけでそこに現実問題の認識として「あっ、また来た」という感慨を持たざるを得ないからです。もちろんこれを精神科医に告げるとこの認知は典型的な統合失調症の症状だと言われるだけで、そしてこれがひたすら繰り返されます。物に対して人というのはそういうものであるという形でそこから何かを学ばせると同時に、不特定多数によるストーカー行為を被害者の中で正当化させ、そして同時に「(自分が)読まれている」という自覚を被害者の中に植え付けます。もちろん何度も書いているように悪いものは吐いた方がいいんですけど、今説明していることとは別の問題です。nota beneという記事でも同じようなことを書きましたけど、つまり精神科医はこれの認知が統合失調症である、人間の人間たる由縁が病気だという方向へ持って行きます、つまり巧妙に事象の認知のすり替え・不特定多数のストーカーを使って危害を加えることにより性善説から性悪説への逆転を行うわけであって、男性の患者の場合だと同属他者であるヒトのオスは全て敵であると見なせというところへ持って行きます。また、被害者において何らかの事象について気付いていること気付いていないことというのは個々の物事によって違うわけですけど、被害者が受けている被害において「全てに気付いてそれを無視しているのか」もしくは「まったく気付いていないのか」というどちらかであることに加害者は被害者(患者)を仕立て上げます。巧妙に被害者から被害の実態は残したまま被害者意識を消して都合のいいところへもっていこうとするわけです。最終的には全ての事象における二項対立を認知させるところに帰着します。私もこのブログでかなり常識はずれなことを書いてますけど、(間違ってはいないが)一般常識的にはヤバいことを吐かせるんですね。二項対立の産物と言えばそうです。……というのが不特定多数の人間によるストーカー行為に対する被害者的な解釈です。まあこれは常識的に考えるともちろん幼児に対する虐待ならぬ一般人に対する虐殺です、私はそれがどういった「治療」であるのか知ろうと努力して頑張ってますけど。
私はこの蓋然性の一言で表されるdie Krankheit(病気)が大分良くなりました。少なくとも自分が自分であることにおける無根拠な蓋然的自信というのはほとんどなくなりました。というのはこのブログにupする記事という形で自分の考えていることを形にして吐き出してしまうということもありますし、今も自分の調子に合わせて定期的には服薬している抗精神病薬ジプレキサの薬効もあります。
私もこのブログの記事であまり良くないことをも書いているのは自覚してますし、今まで人を馬鹿にする態度を基本的なものとしてとっていたということについて反省してます。で、やはりそういった他者排斥の類の心理の根底にあるのは恐怖心なんですね。恐怖心が目をくらませているということです。だからちゃんとそれを教育の場でも何でもよいので教えろというんですね、恐怖心は恐怖心であると。恐怖のあまり何が何だか分からなくなっている子供に課題を指図するだけでは、学ぶということがどういったことなのかそもそも分かっていないわけであって闇雲に落とし込んでいくという結果に帰着するだけです。分かるということがどういったことなのか分かっていないのであって、そんな人間をそうではない人間から見て何故分からないのか分からないのは当たり前です。責任を放棄する教師、育児を放棄して場合によっては子供を悪事へと走らせる愚かな親、まあ私は自分の親がこういったロクでもない人間でしたけど、本当に何を考えているんだか分かりません。自分の子供にまで虐待という形やそれが叶わないとなれば故意に幼児的演劇を行うという形で母親的役割を求める「甘え」たマザコン人間の所業です。まあ不特定多数のストーカー達もそれが幼児的演劇であるとターゲットにみなされることを前提とした上で故意に幼児的演劇を見せ付けるというやり方で注意を引くという形で攻撃してくるわけですけど。確かに「人」がストレスになる(ことに対する自覚を促す)というのはありますし、世界に居る人間自分以外の人間が悪人ばかりであるという見地から学ぶことはありますけど、やはり一般的な目線から言うと異常です。それを前提にした上で、何がどうなっているかということを子供に教えるべきであって、現実的に考えて倫理性の方が先です。目の前の現実が見えなくなる(ほどの恋)というのがあるのかもしれませんけど、事物全てが象徴と化して完全に目の前の現実を失うというのはちょっと私には理解できないところがあります。分裂病にも陽性症状というのがありますけど、いわゆる発狂すると全てが象徴と化した世界を見ることになります。
子供を育てるにおいて、行動面における母親の甘やかしとそれと相反する父親の威厳が同時にあるとなると、最悪なことになります。思想面で個々人において違うのは当たり前ですけど、少なくとも育児ということに関しては行動面では一致させておくというのが正解です。
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