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2025.04.16 Wednesday
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chef-d'œuvre
2012.07.15 Sunday
君と僕。
人真似というのもまた工学化された人間関係の一であって、当該の人物を真似た人間がその当該人物であるわけではないので当該人物にそれは理解してもらえない、通じないです。男はこんなことされてもちょっとやそっとのことではグラつかないんで平気ですけど、女の人が「ムカつく」と言ってこういったものに抵抗するのをよく見たことがあります。不特定多数の人間にストーカーされていくらつけ回され自分を真似られたところでその人物がそれを自分の映し鏡であるとの認知に完全に至ることはできない……が、仮に人間から被害者意識が消えるとすると、自分にとって他人が存在し、どういった風に世界の構成上自分が存在しているのかという哲学的認識や社会認識を得るに至ります、たぶん。恥意識が消えて罪の意識の自覚が生まれる、ということです。
日本の教育のおかしさは、人間関係を工学化して天皇制みたく理想像をポツっと一つでも二つでも置いておくことから始めるということにあります。おかしいだけならどうでもいいでしょうけど、有害なんですね。男女関係でも強姦はさすがに悪しとされても亭主関白という形で結局はこれが肯定されたりするのであって悪質です。教師がその理想的人間を演じることもありますし、学級委員みたいな理想像を意図的に設置するということもありますけど、人間の関係が工学化されてその定常状態に居る者から後のものは下でも左にでも位置するということになれば、必然的にどんどんその理想的人間以外は悪いものであるあわよくば悪くなっていくということになるんですね。だから天皇制バンザイがどうこうとかいうよりは、こういった人間の関係を工学化しようと試みるどころか工学化されたものとして扱う人間はサッサと全員ヤクザになれということです。ヤクザは「ヤクザ」であって馬鹿の受け皿として居てくれなければ困る人たちですけど、そういった日本的義務教育の映し鏡であるような馬鹿が社会のスタンダードとしてのさばった日にはそれこそサムライゲイシャフジヤマハラキリの世界であって、また黒船どころか原子爆弾を落とされます。馬鹿です。しかもその場合犠牲になるのはいざとなるとスタコラ逃避に走るそういった馬鹿なのではない一般市民の人たちです。そりゃ日本人ダメだわと全世界でバカにされることになります。まあこういうのも今の50代以上の年齢の人間たちが若い人間たちに施していたイタく間違えた頑張りで最後でしょうけど。
キリスト教圏でもこういった馬鹿のテーゼが定式化されていた事態は歴史上あったわけで、例えばJean Calvinのケースだと、カルヴァン自身ただ一人自分が豚ではなかったというだけで、天皇制の如きその予定説なる無知蒙昧な馬鹿教説を強制することによって自分以外の人間を豚たらしめるものだったに過ぎないんですね。別に現代日本で皇室の人たちが居てくれることには何の問題も無いですけど、こんなものを全国民の価値意識どころか生活の細部にまで強要されたらば途端に人間が人間として構成されている社会は危篤状態に陥ります。カルヴァンは結局のところ自説ありきであってその流布を目的として歴史的事件を利用したに過ぎないという忌まわしい極悪人です。
憎むことでしか力が出ない、グングニルを自分に突き刺しユグドラシルに自分を吊り下げ自分の存在を憎むことで力を出すことを得たオーディンはかなりの忌まわし者です。自己を分裂させ欺瞞に満ちた釣り餌(ヴァルキリー)とすることで、演じているだけである「自称」右の定常点な「左」へ釣られる癖のある弱者を叩く欲望を持ちそれをよしとする連中を釣ることができるといえばできます。偶像のナザレのイエスさんの如く完全なる右の定常そのものである人間は弱者を叩くという発想すらがそもそも無いからです。
職場で仕事を為すことにおいて上司部下の関係があることは当然ですし横並びでも役割分担を決めて物事を処理していくのは効率上当然ですけど、ロールプレイングな悪質な役割分担を一般的な人間関係においてまで与えられた場合には、そこに異常な禍が生まれるのは当たり前なんですね。
以下、象徴というタイトルで多くのエッセイが書かれている、パスカルの「パンセ」の第十篇から適当に引用。
「神は、神に属する人々から、滅ぶべき幸福を取りあげようと欲したが、無力のゆえにそうするのではないことを示すために、ユダヤ民族をつくった。」
「ユダヤ、エジプトの両民族は、モーセが出あったあの二人の代表的な人物によって目に見えるように予言されている。ユダヤ人を打つエジプト人、その復讐をしてエジプト人を殺すモーセ、その恩を忘れるユダヤ人。」
「 真実である神のことばは、それが字義的にいつわりであるときには、霊的に真である。『わが右に坐すべし』これは字義的にいえば、いつわりである。それゆえ、それは霊的に真である。
このような表現においては、人間について語るときのような仕方で、神のことが語られている。それは要するに、人間が自分の右側にだれかをすわらせるときにもつような意図を、神もまたもつであろう、ということを意味しているにすぎない。それゆえ、それは神の意図を示すものであって、神がその意図をおこなうときの仕方を示すものではない。
―中略―
聖書のうちにあるということを聖書そのものがわれわれに啓示しなかったような意味を、聖書に帰することは許されない。―中略―むしろわれわれは、字義的な意味は真の意味ではない、と言う。なぜなら、予言者たち自身がそう言っているからである。」
パスカルはここで「そう言う」予言者をその告するところの字義ではない肉を持つ人間として扱ってますけど、字義的な意味というのは存在しないわけであって意味である時点で字義ではないのでそれは必然的に「真の」意味足りえないということなんですね。字義的な意味が真の意味ではないのは当たり前であって、字義というのはそこに何も意味など無いのさということであって「真実」と呼ばれうるわけです。これは言語ということで考えるのならば印欧語よりも表意文字である中国の漢字によくこの真実性が表れてます(表音文字はやはり音、特にドイツ語は音楽的で聞く者に心地良さを与えます)。つまり予言者とやらもそうですけど人が「真の」意味や真実であることは有り得ないということであって絶対者なる者は居ませんよということです、教会で神父さんがキリストとなったイエスについて説教しているだけならば良かったんでしょうけど。だから現実的には名と肉は別のものであって、「~の名を汚す者め!」というセリフは名と肉が一緒のものになっている唯名論者のものでありこれは個物の後に妄念的に普遍が作られてしまってます。人(肉)の中に神(名・字義)が居るというのがこれとは逆の実在論(realism)であって、nominalismは名が外に出ちゃってるんですね。「霊的に真」というのは形容矛盾であって、「字義的にいつわり」であるのは単に「いつわり」であり「真ではない」ということです。仮に実生活上一人で孤独で居る人物が居たとしても人間関係を持たない人間というのは居ないのであって、肉の欲望を持つ限りで外圧的な力で人間関係をseinされ自己自身に対して自己自身を工学化されたら普通は発狂します。私はおそらくかなり精神の強い方なんで発狂しませんけど、それでもやはりどこかに狂いがあることは自分でもよく自覚できます。これは敵も味方も居ないフィールドで自分一人RPGを強制的に自分一人に対してやらされているようなものであって、まさにDinge an sichです。自己自身が自己自身に対して宿命的に滑稽陳腐なまでに薔薇薔薇(バラバラ)です。馬鹿に さ れ て (gewesen sein)しまいます。やはりユダヤの人たちは原初から不当な差別を受けていたということです、邪な欲望を持たなければ生きていけないほどに、また邪な欲望を持ちうるがために生きようとするほどに。女性においてはこれは子供を産むということに繋がるんでしょうけど、やはり発狂するでしょう。今はネットがあるおかげで馬鹿みたいに富国強兵する必要も無いんで、嫌がる女の人に無理して子供を産んでもらう必要はないです。
二つ前の記事で夜に白いドレス着て一人でウロウロしてる小学生くらいの女児のことを書きましたけど、まあガキはたいていの男の性欲の対象外だとしても、こういう女に限ってパンツ見られるとキモがるんですね、絶対に見ませんけど。男性に対するきちんとした正統な警戒心を持っている女の人はそもそもパンツを見せうるような格好をしません。こんな女児みたいなバカな行動は取らないということです。ブサイクな女が短いスカートで太ももギリギリまで見せてパンツ見られるとキモがる、というのがたいていのパターンです。コレは男からすると非常にウザいことこの上無いです。普通のまともなキレイな顔した女の人は見せない以前に男のそういった欲求をそそるような格好してません。
「ユダヤ人にとってこれらの書のうえに置かれていた覆いは、悪しきキリスト教徒によっても置かれており、また、すべて自己自身を憎まぬ人たちにとっても置かれている。けれども、われわれは真に自己自身を憎むとき、いかによく、それらの書を理解し、イエス・キリストを知るように仕向けられることであろうか」
人間の敵は自己の情欲だとか。人の性欲を憎むのではなくて人を憎んでいるところの、ユダヤ人もキリスト教徒のうちの悪質な人間たちもまた仮に自己自身を憎まずともそれが外向して他者に向いている大多数の人も、簡単に人のことを忘れることができない人は、夏を忘れる以前に夏を最初から味わうことがなければたぶんそれなりに楽です、良きキリスト教徒の様に。
人真似というのもまた工学化された人間関係の一であって、当該の人物を真似た人間がその当該人物であるわけではないので当該人物にそれは理解してもらえない、通じないです。男はこんなことされてもちょっとやそっとのことではグラつかないんで平気ですけど、女の人が「ムカつく」と言ってこういったものに抵抗するのをよく見たことがあります。不特定多数の人間にストーカーされていくらつけ回され自分を真似られたところでその人物がそれを自分の映し鏡であるとの認知に完全に至ることはできない……が、仮に人間から被害者意識が消えるとすると、自分にとって他人が存在し、どういった風に世界の構成上自分が存在しているのかという哲学的認識や社会認識を得るに至ります、たぶん。恥意識が消えて罪の意識の自覚が生まれる、ということです。
日本の教育のおかしさは、人間関係を工学化して天皇制みたく理想像をポツっと一つでも二つでも置いておくことから始めるということにあります。おかしいだけならどうでもいいでしょうけど、有害なんですね。男女関係でも強姦はさすがに悪しとされても亭主関白という形で結局はこれが肯定されたりするのであって悪質です。教師がその理想的人間を演じることもありますし、学級委員みたいな理想像を意図的に設置するということもありますけど、人間の関係が工学化されてその定常状態に居る者から後のものは下でも左にでも位置するということになれば、必然的にどんどんその理想的人間以外は悪いものであるあわよくば悪くなっていくということになるんですね。だから天皇制バンザイがどうこうとかいうよりは、こういった人間の関係を工学化しようと試みるどころか工学化されたものとして扱う人間はサッサと全員ヤクザになれということです。ヤクザは「ヤクザ」であって馬鹿の受け皿として居てくれなければ困る人たちですけど、そういった日本的義務教育の映し鏡であるような馬鹿が社会のスタンダードとしてのさばった日にはそれこそサムライゲイシャフジヤマハラキリの世界であって、また黒船どころか原子爆弾を落とされます。馬鹿です。しかもその場合犠牲になるのはいざとなるとスタコラ逃避に走るそういった馬鹿なのではない一般市民の人たちです。そりゃ日本人ダメだわと全世界でバカにされることになります。まあこういうのも今の50代以上の年齢の人間たちが若い人間たちに施していたイタく間違えた頑張りで最後でしょうけど。
キリスト教圏でもこういった馬鹿のテーゼが定式化されていた事態は歴史上あったわけで、例えばJean Calvinのケースだと、カルヴァン自身ただ一人自分が豚ではなかったというだけで、天皇制の如きその予定説なる無知蒙昧な馬鹿教説を強制することによって自分以外の人間を豚たらしめるものだったに過ぎないんですね。別に現代日本で皇室の人たちが居てくれることには何の問題も無いですけど、こんなものを全国民の価値意識どころか生活の細部にまで強要されたらば途端に人間が人間として構成されている社会は危篤状態に陥ります。カルヴァンは結局のところ自説ありきであってその流布を目的として歴史的事件を利用したに過ぎないという忌まわしい極悪人です。
憎むことでしか力が出ない、グングニルを自分に突き刺しユグドラシルに自分を吊り下げ自分の存在を憎むことで力を出すことを得たオーディンはかなりの忌まわし者です。自己を分裂させ欺瞞に満ちた釣り餌(ヴァルキリー)とすることで、演じているだけである「自称」右の定常点な「左」へ釣られる癖のある弱者を叩く欲望を持ちそれをよしとする連中を釣ることができるといえばできます。偶像のナザレのイエスさんの如く完全なる右の定常そのものである人間は弱者を叩くという発想すらがそもそも無いからです。
職場で仕事を為すことにおいて上司部下の関係があることは当然ですし横並びでも役割分担を決めて物事を処理していくのは効率上当然ですけど、ロールプレイングな悪質な役割分担を一般的な人間関係においてまで与えられた場合には、そこに異常な禍が生まれるのは当たり前なんですね。
以下、象徴というタイトルで多くのエッセイが書かれている、パスカルの「パンセ」の第十篇から適当に引用。
「神は、神に属する人々から、滅ぶべき幸福を取りあげようと欲したが、無力のゆえにそうするのではないことを示すために、ユダヤ民族をつくった。」
「ユダヤ、エジプトの両民族は、モーセが出あったあの二人の代表的な人物によって目に見えるように予言されている。ユダヤ人を打つエジプト人、その復讐をしてエジプト人を殺すモーセ、その恩を忘れるユダヤ人。」
「 真実である神のことばは、それが字義的にいつわりであるときには、霊的に真である。『わが右に坐すべし』これは字義的にいえば、いつわりである。それゆえ、それは霊的に真である。
このような表現においては、人間について語るときのような仕方で、神のことが語られている。それは要するに、人間が自分の右側にだれかをすわらせるときにもつような意図を、神もまたもつであろう、ということを意味しているにすぎない。それゆえ、それは神の意図を示すものであって、神がその意図をおこなうときの仕方を示すものではない。
―中略―
聖書のうちにあるということを聖書そのものがわれわれに啓示しなかったような意味を、聖書に帰することは許されない。―中略―むしろわれわれは、字義的な意味は真の意味ではない、と言う。なぜなら、予言者たち自身がそう言っているからである。」
パスカルはここで「そう言う」予言者をその告するところの字義ではない肉を持つ人間として扱ってますけど、字義的な意味というのは存在しないわけであって意味である時点で字義ではないのでそれは必然的に「真の」意味足りえないということなんですね。字義的な意味が真の意味ではないのは当たり前であって、字義というのはそこに何も意味など無いのさということであって「真実」と呼ばれうるわけです。これは言語ということで考えるのならば印欧語よりも表意文字である中国の漢字によくこの真実性が表れてます(表音文字はやはり音、特にドイツ語は音楽的で聞く者に心地良さを与えます)。つまり予言者とやらもそうですけど人が「真の」意味や真実であることは有り得ないということであって絶対者なる者は居ませんよということです、教会で神父さんがキリストとなったイエスについて説教しているだけならば良かったんでしょうけど。だから現実的には名と肉は別のものであって、「~の名を汚す者め!」というセリフは名と肉が一緒のものになっている唯名論者のものでありこれは個物の後に妄念的に普遍が作られてしまってます。人(肉)の中に神(名・字義)が居るというのがこれとは逆の実在論(realism)であって、nominalismは名が外に出ちゃってるんですね。「霊的に真」というのは形容矛盾であって、「字義的にいつわり」であるのは単に「いつわり」であり「真ではない」ということです。仮に実生活上一人で孤独で居る人物が居たとしても人間関係を持たない人間というのは居ないのであって、肉の欲望を持つ限りで外圧的な力で人間関係をseinされ自己自身に対して自己自身を工学化されたら普通は発狂します。私はおそらくかなり精神の強い方なんで発狂しませんけど、それでもやはりどこかに狂いがあることは自分でもよく自覚できます。これは敵も味方も居ないフィールドで自分一人RPGを強制的に自分一人に対してやらされているようなものであって、まさにDinge an sichです。自己自身が自己自身に対して宿命的に滑稽陳腐なまでに薔薇薔薇(バラバラ)です。馬鹿に さ れ て (gewesen sein)しまいます。やはりユダヤの人たちは原初から不当な差別を受けていたということです、邪な欲望を持たなければ生きていけないほどに、また邪な欲望を持ちうるがために生きようとするほどに。女性においてはこれは子供を産むということに繋がるんでしょうけど、やはり発狂するでしょう。今はネットがあるおかげで馬鹿みたいに富国強兵する必要も無いんで、嫌がる女の人に無理して子供を産んでもらう必要はないです。
二つ前の記事で夜に白いドレス着て一人でウロウロしてる小学生くらいの女児のことを書きましたけど、まあガキはたいていの男の性欲の対象外だとしても、こういう女に限ってパンツ見られるとキモがるんですね、絶対に見ませんけど。男性に対するきちんとした正統な警戒心を持っている女の人はそもそもパンツを見せうるような格好をしません。こんな女児みたいなバカな行動は取らないということです。ブサイクな女が短いスカートで太ももギリギリまで見せてパンツ見られるとキモがる、というのがたいていのパターンです。コレは男からすると非常にウザいことこの上無いです。普通のまともなキレイな顔した女の人は見せない以前に男のそういった欲求をそそるような格好してません。
「ユダヤ人にとってこれらの書のうえに置かれていた覆いは、悪しきキリスト教徒によっても置かれており、また、すべて自己自身を憎まぬ人たちにとっても置かれている。けれども、われわれは真に自己自身を憎むとき、いかによく、それらの書を理解し、イエス・キリストを知るように仕向けられることであろうか」
人間の敵は自己の情欲だとか。人の性欲を憎むのではなくて人を憎んでいるところの、ユダヤ人もキリスト教徒のうちの悪質な人間たちもまた仮に自己自身を憎まずともそれが外向して他者に向いている大多数の人も、簡単に人のことを忘れることができない人は、夏を忘れる以前に夏を最初から味わうことがなければたぶんそれなりに楽です、良きキリスト教徒の様に。
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