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2025.04.16 Wednesday
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Erinnyen
2012.07.02 Monday
私。
釣り師オーディンと弱者のカラミティ。
自分の成育過程においてかかわってきた大人たちに対するレスポンスとして、私は道化というものに非常な興味を持つ癖があります。冨樫義博さんの描くヒソカだとか、宮崎駿さんの描くマンガ版風の谷のナウシカの神が宿る道化だとか、Heinrich Himmlerもそうですし、ヴィジュアル系ロックバンドとかもそうです。
日本人にはあり得ない高さや形の鼻を持っている人が何故か若者だけに散見されますけど、アレは西洋人の血が混じっているのでなければ全部整形であることが丸分かりです。高校の同級生に一人西洋人の血が濃く混じっている男が居たのでそういうのはよく分かります。中年でもほとんど見ませんし壮年の人には皆無なのにもかからわず、若年層だけにポツポツと見られるということでも。私は日本人の中ではかなり鼻の高い方ですけど、おそらく西洋人の血は混じってません。で、黄色人種のその中でも日本人には有り得ない鼻の高さや形というものがあるので、自分より鼻の高い若者を見るとオッと思って少し観察するんですけど、明らかに「間違えて」ます。自分がその時在る状態が如何なるものか正確に理解して受け入れるということが、健康というかストレスを溜めないということにおいて重要だったりします。
人間関係において、特に人間が嫌いなわけでも人間が信用出来ないわけでもないのに、具体的な対人関係を構築しないというのは、現実の対人の場における場対応においてそれを無根拠に不快だと感じるプログラムを自分の手かもしくは誰かしらの特定他者によって自分に掛けているもしくは掛けられているということです。このプログラムが別の言い方だと「病気(die Krankheit)」だということです。例えば私の父親はひたすら自分の子供に対してコレを行う人間でした。
先にも書いたように私の父親は大手マスコミ新聞関係者でした。もちろん当然の如く私ははるか昔の子供の頃からマスコミとその周辺には目をつけられてやられてました。自分の父親が息子の私を潰そうとしてやらかしているのか、私が私の父親に対して恨みを持つ人間による攻撃の巻き添えを食らっているのか、それとも何かこれらとは別の要因があるのか、そこまでは私は知りません。
この私の父親というのはひたすら人様に恨まれるようなことを行う人外外道の道化のような男であって、成熟不良のチンピラ不良少年が間違えて社会的ステータスを得てしまったという人間です。高給取りだった祖父の作った恵まれた環境で目的達成偏重の異常者であった祖母にアメとムチで育てられ、自分より頭のいい奴は気に入らない、自分より優れている奴は気に入らない、大して頭も良くない分際で皆俺をバカにする奴は許さない、そういった自分にとって気に入らない人間にはネチネチグジグジした嫌がらせを行う、という精神遅滞の10代のバカガキのしかも女のような男です。60歳を過ぎて40代にしか見えませんけど、おそらくは髪を黒く染め、顔面は整形手術か何かでシワを除去してるんじゃないかと疑われる程です。
日本のマスコミは、犯罪被害者を被害者として設定しまた自分らに都合のおよろしくなった機には犯罪加害者として利用しようと、不幸な人たちを選んではそもそもターゲットとして目星をつけるんですね。日本のマスコミというのはこういった豚クズの集まりであって、最高にタチが悪いです。ネタにさえなれば犯罪被害者だろうと犯罪加害者だろうとどちらでもいいというスタンスです。ホシが警察へ関わりそうになると、そこで「こんな警察官の不祥事がありましたあ!だから接触しても無駄ですう!」と必死に報道しだすくらいのこともご苦労さんなことにやるくらいです。で、fuzzという記事で書きましたけど、実際私SSの場合は残念ながら警察署へ訪れても「そういう」職員に対応されました。被害者にとって当該犯罪における真の加害者は加害者ではなくて(日本の)マスコミです、警察も悪乗りしているのかもしれません。加害者もまた被害者と同じく被害者であるということです。漁夫の利という表現は適切ではありません、というのは(日本の)マスコミは被害者が被害者たるように加害者が加害者たるように「事件」へと釣っているからです。だから、(日本の)マスコミというのは漁夫ではなくて漁夫が利を得るのに使う投網そのものということです。
ミクロ経済(学)は、キリスト教文化という文化人類学的土壌が前提になっている社会における構成単位である個々人の行動原理を数理化した産物です。あまりにも一面性に凝った物の見方であるという批判が当然存在しますけど、これはキリスト教の文化の土壌が在りその上での人間の経済活動が営まれるという土地においてはその分析(の複数形)が功を奏しているんですね。ところが文化的土壌の違う日本という国においてそれを適用したところで、人間の経済活動の説明としては足りうるかもしれませんけど、具体的な問題解決に役立つかというとそうではないです。
同じく、ニーチェをルサンチマンまみれであるとバカにしたことを「書いて」いる中島義道さんもまた(真の)ニヒリストでも何でもなくヒットラーやニーチェの如きものでありこれらと同じく失礼ですが馬鹿であることからまぬがれないです。この人三島由紀夫もニーチェに対するのと同じ理由でバカにしてますが、勉強ができる人は詩をつくるのが上手いはずなんですけど?私は文学研究者のことはほとんど何も知らないですけど、ニーチェの研究者の先生が「ニーチェは然り」と書くのがおそらく正しい姿です。
「正義は勝つ」という人間が社会を形成するにおいて必然のものとせざるを得ないスタンスを、30年も40年もの昔からサブカルチャーの類によって大抵のケースでは馬鹿であるマンガの主人公の発想や行いであるという陳腐なコンテクストによって当時の子供らに学習させたから、長い期間おかしく路線がズレたことになってたんですね。釣られた人間は皆オタクや病んだ人間になってしまいました。正義が勝つのは当たり前であって、正義が勝ち続けてなかったら社会はとっくに崩壊してます。「正義」というものが一体どういうことなのかということをそもそもマンガ的コンテクストはその認識者をして誤認させているわけであって、これは数学的であるということです。やはり肉体を健康に保つことが「生きる」秘訣、身体感覚がそもそも大事、こういったことも全て数学的な問題です。学校の勉強の数学の問題が解けるか否かということはこれとは基本的には別問題ですけど、数学を理解できない人間は何を行っても考えても駄目です。理想と履き違えられたところの馬鹿な全共闘的妄念でヒトは肉体の健康を維持して生きられるわけではないです。それは特定の異性の伴侶と性愛だけに求めていて下さいというお話であって、特定の問題を解決するにおいて寄り道をすることがあってもやはり収束点というのはだいたい決まってます。
今でも日本人はネットのバカな掲示板とかtwitterとかで勝手に空気作って、男性は当然として女性ですらも結果として女性の肉体にまつわる女性的なものを失って女性として生きにくいという社会的コンテクスでトすらも捏造してるんですね、馬鹿な「業」界な連中が。男性が女性化した挙句にもたらされている状況というのはそれです。そんなことになったら社会は悪くなって崩壊に向うに決まっているのに、何を考えてるんだか分かりませんけど。健康な男の偶像がそれがどういったものであるかを知らしめるものとして必要です、おヤクザさんがそれであるとはさすがに言いづらいですけど、あの人たち病気になりませんね。
自分の男性性をアニムスとして設定し、そこから女性性を意図的に作り出す、オーディンさながらのイタいこと。愛の告白をするとその人のことを忘れてしまうとか、おそらく女性からすると悲しいことです。だからかというか、忘れたくないからなのかどうか分かりませんけど、思えば私も生まれてから一度も女の人に直接そういったことを告げたことはありませんでした。野郎のことはサッサと忘れたいんですけど。
釣り師オーディンと弱者のカラミティ。
自分の成育過程においてかかわってきた大人たちに対するレスポンスとして、私は道化というものに非常な興味を持つ癖があります。冨樫義博さんの描くヒソカだとか、宮崎駿さんの描くマンガ版風の谷のナウシカの神が宿る道化だとか、Heinrich Himmlerもそうですし、ヴィジュアル系ロックバンドとかもそうです。
日本人にはあり得ない高さや形の鼻を持っている人が何故か若者だけに散見されますけど、アレは西洋人の血が混じっているのでなければ全部整形であることが丸分かりです。高校の同級生に一人西洋人の血が濃く混じっている男が居たのでそういうのはよく分かります。中年でもほとんど見ませんし壮年の人には皆無なのにもかからわず、若年層だけにポツポツと見られるということでも。私は日本人の中ではかなり鼻の高い方ですけど、おそらく西洋人の血は混じってません。で、黄色人種のその中でも日本人には有り得ない鼻の高さや形というものがあるので、自分より鼻の高い若者を見るとオッと思って少し観察するんですけど、明らかに「間違えて」ます。自分がその時在る状態が如何なるものか正確に理解して受け入れるということが、健康というかストレスを溜めないということにおいて重要だったりします。
人間関係において、特に人間が嫌いなわけでも人間が信用出来ないわけでもないのに、具体的な対人関係を構築しないというのは、現実の対人の場における場対応においてそれを無根拠に不快だと感じるプログラムを自分の手かもしくは誰かしらの特定他者によって自分に掛けているもしくは掛けられているということです。このプログラムが別の言い方だと「病気(die Krankheit)」だということです。例えば私の父親はひたすら自分の子供に対してコレを行う人間でした。
先にも書いたように私の父親は大手マスコミ新聞関係者でした。もちろん当然の如く私ははるか昔の子供の頃からマスコミとその周辺には目をつけられてやられてました。自分の父親が息子の私を潰そうとしてやらかしているのか、私が私の父親に対して恨みを持つ人間による攻撃の巻き添えを食らっているのか、それとも何かこれらとは別の要因があるのか、そこまでは私は知りません。
この私の父親というのはひたすら人様に恨まれるようなことを行う人外外道の道化のような男であって、成熟不良のチンピラ不良少年が間違えて社会的ステータスを得てしまったという人間です。高給取りだった祖父の作った恵まれた環境で目的達成偏重の異常者であった祖母にアメとムチで育てられ、自分より頭のいい奴は気に入らない、自分より優れている奴は気に入らない、大して頭も良くない分際で皆俺をバカにする奴は許さない、そういった自分にとって気に入らない人間にはネチネチグジグジした嫌がらせを行う、という精神遅滞の10代のバカガキのしかも女のような男です。60歳を過ぎて40代にしか見えませんけど、おそらくは髪を黒く染め、顔面は整形手術か何かでシワを除去してるんじゃないかと疑われる程です。
日本のマスコミは、犯罪被害者を被害者として設定しまた自分らに都合のおよろしくなった機には犯罪加害者として利用しようと、不幸な人たちを選んではそもそもターゲットとして目星をつけるんですね。日本のマスコミというのはこういった豚クズの集まりであって、最高にタチが悪いです。ネタにさえなれば犯罪被害者だろうと犯罪加害者だろうとどちらでもいいというスタンスです。ホシが警察へ関わりそうになると、そこで「こんな警察官の不祥事がありましたあ!だから接触しても無駄ですう!」と必死に報道しだすくらいのこともご苦労さんなことにやるくらいです。で、fuzzという記事で書きましたけど、実際私SSの場合は残念ながら警察署へ訪れても「そういう」職員に対応されました。被害者にとって当該犯罪における真の加害者は加害者ではなくて(日本の)マスコミです、警察も悪乗りしているのかもしれません。加害者もまた被害者と同じく被害者であるということです。漁夫の利という表現は適切ではありません、というのは(日本の)マスコミは被害者が被害者たるように加害者が加害者たるように「事件」へと釣っているからです。だから、(日本の)マスコミというのは漁夫ではなくて漁夫が利を得るのに使う投網そのものということです。
ミクロ経済(学)は、キリスト教文化という文化人類学的土壌が前提になっている社会における構成単位である個々人の行動原理を数理化した産物です。あまりにも一面性に凝った物の見方であるという批判が当然存在しますけど、これはキリスト教の文化の土壌が在りその上での人間の経済活動が営まれるという土地においてはその分析(の複数形)が功を奏しているんですね。ところが文化的土壌の違う日本という国においてそれを適用したところで、人間の経済活動の説明としては足りうるかもしれませんけど、具体的な問題解決に役立つかというとそうではないです。
同じく、ニーチェをルサンチマンまみれであるとバカにしたことを「書いて」いる中島義道さんもまた(真の)ニヒリストでも何でもなくヒットラーやニーチェの如きものでありこれらと同じく失礼ですが馬鹿であることからまぬがれないです。この人三島由紀夫もニーチェに対するのと同じ理由でバカにしてますが、勉強ができる人は詩をつくるのが上手いはずなんですけど?私は文学研究者のことはほとんど何も知らないですけど、ニーチェの研究者の先生が「ニーチェは然り」と書くのがおそらく正しい姿です。
「正義は勝つ」という人間が社会を形成するにおいて必然のものとせざるを得ないスタンスを、30年も40年もの昔からサブカルチャーの類によって大抵のケースでは馬鹿であるマンガの主人公の発想や行いであるという陳腐なコンテクストによって当時の子供らに学習させたから、長い期間おかしく路線がズレたことになってたんですね。釣られた人間は皆オタクや病んだ人間になってしまいました。正義が勝つのは当たり前であって、正義が勝ち続けてなかったら社会はとっくに崩壊してます。「正義」というものが一体どういうことなのかということをそもそもマンガ的コンテクストはその認識者をして誤認させているわけであって、これは数学的であるということです。やはり肉体を健康に保つことが「生きる」秘訣、身体感覚がそもそも大事、こういったことも全て数学的な問題です。学校の勉強の数学の問題が解けるか否かということはこれとは基本的には別問題ですけど、数学を理解できない人間は何を行っても考えても駄目です。理想と履き違えられたところの馬鹿な全共闘的妄念でヒトは肉体の健康を維持して生きられるわけではないです。それは特定の異性の伴侶と性愛だけに求めていて下さいというお話であって、特定の問題を解決するにおいて寄り道をすることがあってもやはり収束点というのはだいたい決まってます。
今でも日本人はネットのバカな掲示板とかtwitterとかで勝手に空気作って、男性は当然として女性ですらも結果として女性の肉体にまつわる女性的なものを失って女性として生きにくいという社会的コンテクスでトすらも捏造してるんですね、馬鹿な「業」界な連中が。男性が女性化した挙句にもたらされている状況というのはそれです。そんなことになったら社会は悪くなって崩壊に向うに決まっているのに、何を考えてるんだか分かりませんけど。健康な男の偶像がそれがどういったものであるかを知らしめるものとして必要です、おヤクザさんがそれであるとはさすがに言いづらいですけど、あの人たち病気になりませんね。
自分の男性性をアニムスとして設定し、そこから女性性を意図的に作り出す、オーディンさながらのイタいこと。愛の告白をするとその人のことを忘れてしまうとか、おそらく女性からすると悲しいことです。だからかというか、忘れたくないからなのかどうか分かりませんけど、思えば私も生まれてから一度も女の人に直接そういったことを告げたことはありませんでした。野郎のことはサッサと忘れたいんですけど。
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