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2025.04.16 Wednesday
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Hellene
2012.06.24 Sunday
賢者。
精神科医は一般的に抗精神病薬には「主作用と副作用がある」と説明しますけど、これは罠だと考えるのが妥当です。認識すべきところは「抗精神病薬を服薬するとどういった作用が自分の肉体に及ぼされるか」ということであって、「副作用があってつらいけど、主作用によって効いているはずだから精神科医の先生の言うとおり薬を飲まなきゃいけないなあ」とか思っているうちは統合失調症は絶対に治りません。つまり後者の発想をする患者は他者依存・他物依存に浸食されきっていて、肉体ひいては脳の調子を整えるという発想が無いので薬物投与以外のことを受容しないできないどころか、今度はその現状では苦しみをもたらすだけである抗精神病薬の服薬以外のことへと依存していくようになってしまいます。で、悪いものをそれと気付かず食べてしまったり、ゲームなんかの悪いものにハマってしまったり、最悪の場合他者に危害を加えかねません。ここでお勧めなのが、作業療法だの音楽療法だのよりも、言語化して記述して残していくという方法です。これによって何度も何度も想起されて胃のむかつきどころではない不快感を与える辛い記憶も一発で脳内から消去されていきます。
また書いてしまいますけど、私SSが個人的にかかわったM'z a 悪意医師(仮称)は精神科医としての職務上故意に患者を挑発し嫉妬豚を演じているという医師でした。東京都小平市にある国立精神・神経センター病院は私がそこへ通院し始めた四年前は国立病院で、その私が通院し始めた一年後から独立行政法人になりました。ここの医師は謂わば医務系の官僚みたいなものです。で、それを漠然と理解させた上で官僚的人間はこういったものであるというマンガ並に低レベルな空気を故意に精神病患者に読ませるわけです。これが功を為すには抗精神病薬の効能による物事の認識能力の低下が前提となっています。少なくともこの精神科医に限って言えば精神病患者に人間関係とはこういったものであると故意に稚拙な演劇を行うことで工学化されたそれを抗精神病薬の効能やストーカーによる恐怖と共に刷り込んで教え込もうとしているということです。しかしこれは一歩間違うと強姦行為です。これがあまりに抗精神病薬が効き過ぎていることによって事象の認知能力が阻害されていると、単純に「官僚はわるいやつだ」という「左」翼な発想へと引っ張って流して落とし込まれるということに相成ってしまいます。
ちなみに私SSは東京大学の付属病院でもこの同じような内容の稚拙な演技をやられました。
人間関係工学化は物分かりの悪さの具象化であって、エニアグラムの性格判断だかで人間の性格にレッテルを貼る行為など物分かりの悪さの具現化現象です。例えば、
「 AさんとBさんという人が居る。AさんはBさんの保護者である。Aさんは世に禍根を巻き起こしたくない為そしてその自分の意志を証明するため、何者の保護者でもあり得ないかもしくはBさんに職業人としての自分に因る重荷を背負わせないかという選択の内、後者を選び、そしてBさんの罰を代わりに受けるという形で自分の正当性を証明している……のみならず、Bさんにストレスを与え追い詰めそして悪事を起こさせそしてその罰を自分が受けるという形で自分が業とは無縁であるという自分の絶対的テーゼを立証することに躍起になっている。……Aさんは神になりたいのである。威張りたいのである。このような人格では子供の頃から他者にひたすら馬鹿にされ疎まれたからであろう。」
という私が書いたこの小話にて体現されているAさんの行動というものも、また人間関係を工学化する人間においては有り得てしまうんですね。これの最たるものが女性が男性によって支配されるという関係であり、場合にもよるでしょうけどそりゃ一方的にやられりゃ女の人は怒るにきまってます。これの極みは強姦だからです。男だってそれとは知らされずにこんなことされたらウザいです。これを愛の証だとか見做すのは、ちょっと旧時代的だとか古代ギリシア的だとかいうよりは、おそらく(女性的な)男の側から解釈した男の生殖機能にまつわる男の唯一のエゴです。結果としてのお話、男という生き物は人間の自由意志を否定したいが為に身を犠牲にしてまでこういった「証明」に走るということなのかもしれません。
これは現代の教育においても同じことが言えます。例えば、ヒトの体においてビタミンB1が不足すると脚気になります。豚肉にはビタミンB類が多く含まれてますけど、豚肉を摂取するにおいて「ビタミンBが足りないから(豚肉を食す)」という発想に取り付かれていると豚肉を食べるということがどういったことなのかということを知ることができない、それに対して盲目になります。例えば、サプリメントなんかでビタミンBを過剰に摂取するとその後に排出される尿の色が過度に黄色くなります。で、豚は「黄色い豚(yellow pig)」とも呼ばれたりします。
ここに「とある事実について明らかであるにもかかわらずその事実を科学的に実証して自らに不利益になるようなことは実証者は実証しない」という論理実証主義の落とし穴があります。「嘘と真実(Lies and Truth)」という表現がありますけど、論理実証主義に落ち込んでいると結果的にこの「嘘」を人々に対して教えている、ということになるんですね。だから一部の良心的な人たちは「学校では嘘教えとる!」ということを言ったりしますけど、これは間違いではないです。学校で情報として与えられる科学的に実証された事柄が事実無根のことであるということはないですけど、教え方を間違えているんですね。「ビタミンBが足りなくなると脚気その他で具合が悪くなるから豚肉を食べましょうね」という教え方を学校ではしますけど、そうではなくて豚肉を食べるということはどういったことなのかそして豚肉を食べるとどういった事態が自分の肉体について起こるのかということをきちんと子供の頃から教えないとマズいということです。ちなみに私は豚肉はもう今は食べません。
ニーチェは「この人を見よ」という著作の最後で自分が「キリスト教道徳を(言語化して)露呈した」ことを自分の誇りでありプラスであるかのように書いてますが、これが大馬鹿だというんですね。さらにはそのまた最後で書いてますけど、善人と悪人が逆転して形容されている、と。これはユダヤの人たちの発想であって、最弱者であるニーチェ先生が弱者蹂躙を謳っているということで非常な選民思想です。ニーチェは実際口が利けなくなったり視力が弱ったりで病気だらけでした。おそらく世の中の人間全てがニーチェになったら滅茶苦茶というか最悪なことになります。
「――私の言うことが、わかったろうか?――十字架に掛けられた者に対するディオニソス……」
とこれの最後にありますけど、キリスト教会が後世にiconとして設置した絶対的シンボルとしてのキリストたるイエスを否として暴露してやった俺はディオニソスだぞどうだすごいだろう、とニーチェ先生酒に酔っ払ってこれを書いたのではないかと疑われるような内容ですけど、この「十字架に掛けられた者」を実在のナザレのイエスさんであるとするとニーチェがニーチェ自身を神と見做していると考えることも可能なんですね。ここでニーチェ先生最後の最後でがらりと価値の転換(保身?)を狙ったのかもしれませんけど、アインシュタインの言っていることを彷彿とさせます。アインシュタインも一歩間違えればニーチェのように、ニーチェも不幸な目に合わなければアインシュタインになっていたのかもしれないです。どちらも地獄でしょうけど。
人生の失敗は単純に「悪いことをやった」ということに尽きます。悪いことを行うと単純に悪い結果が自分を襲ってくるということです。悪事に加担せず真面目にやっていれば順当に社会で出世できるようになってます。administratorな人たちは真面目な人間が最も評価されうるものであるということをきちんと理解してます。
精神科医は一般的に抗精神病薬には「主作用と副作用がある」と説明しますけど、これは罠だと考えるのが妥当です。認識すべきところは「抗精神病薬を服薬するとどういった作用が自分の肉体に及ぼされるか」ということであって、「副作用があってつらいけど、主作用によって効いているはずだから精神科医の先生の言うとおり薬を飲まなきゃいけないなあ」とか思っているうちは統合失調症は絶対に治りません。つまり後者の発想をする患者は他者依存・他物依存に浸食されきっていて、肉体ひいては脳の調子を整えるという発想が無いので薬物投与以外のことを受容しないできないどころか、今度はその現状では苦しみをもたらすだけである抗精神病薬の服薬以外のことへと依存していくようになってしまいます。で、悪いものをそれと気付かず食べてしまったり、ゲームなんかの悪いものにハマってしまったり、最悪の場合他者に危害を加えかねません。ここでお勧めなのが、作業療法だの音楽療法だのよりも、言語化して記述して残していくという方法です。これによって何度も何度も想起されて胃のむかつきどころではない不快感を与える辛い記憶も一発で脳内から消去されていきます。
また書いてしまいますけど、私SSが個人的にかかわったM'z a 悪意医師(仮称)は精神科医としての職務上故意に患者を挑発し嫉妬豚を演じているという医師でした。東京都小平市にある国立精神・神経センター病院は私がそこへ通院し始めた四年前は国立病院で、その私が通院し始めた一年後から独立行政法人になりました。ここの医師は謂わば医務系の官僚みたいなものです。で、それを漠然と理解させた上で官僚的人間はこういったものであるというマンガ並に低レベルな空気を故意に精神病患者に読ませるわけです。これが功を為すには抗精神病薬の効能による物事の認識能力の低下が前提となっています。少なくともこの精神科医に限って言えば精神病患者に人間関係とはこういったものであると故意に稚拙な演劇を行うことで工学化されたそれを抗精神病薬の効能やストーカーによる恐怖と共に刷り込んで教え込もうとしているということです。しかしこれは一歩間違うと強姦行為です。これがあまりに抗精神病薬が効き過ぎていることによって事象の認知能力が阻害されていると、単純に「官僚はわるいやつだ」という「左」翼な発想へと引っ張って流して落とし込まれるということに相成ってしまいます。
ちなみに私SSは東京大学の付属病院でもこの同じような内容の稚拙な演技をやられました。
人間関係工学化は物分かりの悪さの具象化であって、エニアグラムの性格判断だかで人間の性格にレッテルを貼る行為など物分かりの悪さの具現化現象です。例えば、
「 AさんとBさんという人が居る。AさんはBさんの保護者である。Aさんは世に禍根を巻き起こしたくない為そしてその自分の意志を証明するため、何者の保護者でもあり得ないかもしくはBさんに職業人としての自分に因る重荷を背負わせないかという選択の内、後者を選び、そしてBさんの罰を代わりに受けるという形で自分の正当性を証明している……のみならず、Bさんにストレスを与え追い詰めそして悪事を起こさせそしてその罰を自分が受けるという形で自分が業とは無縁であるという自分の絶対的テーゼを立証することに躍起になっている。……Aさんは神になりたいのである。威張りたいのである。このような人格では子供の頃から他者にひたすら馬鹿にされ疎まれたからであろう。」
という私が書いたこの小話にて体現されているAさんの行動というものも、また人間関係を工学化する人間においては有り得てしまうんですね。これの最たるものが女性が男性によって支配されるという関係であり、場合にもよるでしょうけどそりゃ一方的にやられりゃ女の人は怒るにきまってます。これの極みは強姦だからです。男だってそれとは知らされずにこんなことされたらウザいです。これを愛の証だとか見做すのは、ちょっと旧時代的だとか古代ギリシア的だとかいうよりは、おそらく(女性的な)男の側から解釈した男の生殖機能にまつわる男の唯一のエゴです。結果としてのお話、男という生き物は人間の自由意志を否定したいが為に身を犠牲にしてまでこういった「証明」に走るということなのかもしれません。
これは現代の教育においても同じことが言えます。例えば、ヒトの体においてビタミンB1が不足すると脚気になります。豚肉にはビタミンB類が多く含まれてますけど、豚肉を摂取するにおいて「ビタミンBが足りないから(豚肉を食す)」という発想に取り付かれていると豚肉を食べるということがどういったことなのかということを知ることができない、それに対して盲目になります。例えば、サプリメントなんかでビタミンBを過剰に摂取するとその後に排出される尿の色が過度に黄色くなります。で、豚は「黄色い豚(yellow pig)」とも呼ばれたりします。
ここに「とある事実について明らかであるにもかかわらずその事実を科学的に実証して自らに不利益になるようなことは実証者は実証しない」という論理実証主義の落とし穴があります。「嘘と真実(Lies and Truth)」という表現がありますけど、論理実証主義に落ち込んでいると結果的にこの「嘘」を人々に対して教えている、ということになるんですね。だから一部の良心的な人たちは「学校では嘘教えとる!」ということを言ったりしますけど、これは間違いではないです。学校で情報として与えられる科学的に実証された事柄が事実無根のことであるということはないですけど、教え方を間違えているんですね。「ビタミンBが足りなくなると脚気その他で具合が悪くなるから豚肉を食べましょうね」という教え方を学校ではしますけど、そうではなくて豚肉を食べるということはどういったことなのかそして豚肉を食べるとどういった事態が自分の肉体について起こるのかということをきちんと子供の頃から教えないとマズいということです。ちなみに私は豚肉はもう今は食べません。
ニーチェは「この人を見よ」という著作の最後で自分が「キリスト教道徳を(言語化して)露呈した」ことを自分の誇りでありプラスであるかのように書いてますが、これが大馬鹿だというんですね。さらにはそのまた最後で書いてますけど、善人と悪人が逆転して形容されている、と。これはユダヤの人たちの発想であって、最弱者であるニーチェ先生が弱者蹂躙を謳っているということで非常な選民思想です。ニーチェは実際口が利けなくなったり視力が弱ったりで病気だらけでした。おそらく世の中の人間全てがニーチェになったら滅茶苦茶というか最悪なことになります。
「――私の言うことが、わかったろうか?――十字架に掛けられた者に対するディオニソス……」
とこれの最後にありますけど、キリスト教会が後世にiconとして設置した絶対的シンボルとしてのキリストたるイエスを否として暴露してやった俺はディオニソスだぞどうだすごいだろう、とニーチェ先生酒に酔っ払ってこれを書いたのではないかと疑われるような内容ですけど、この「十字架に掛けられた者」を実在のナザレのイエスさんであるとするとニーチェがニーチェ自身を神と見做していると考えることも可能なんですね。ここでニーチェ先生最後の最後でがらりと価値の転換(保身?)を狙ったのかもしれませんけど、アインシュタインの言っていることを彷彿とさせます。アインシュタインも一歩間違えればニーチェのように、ニーチェも不幸な目に合わなければアインシュタインになっていたのかもしれないです。どちらも地獄でしょうけど。
人生の失敗は単純に「悪いことをやった」ということに尽きます。悪いことを行うと単純に悪い結果が自分を襲ってくるということです。悪事に加担せず真面目にやっていれば順当に社会で出世できるようになってます。administratorな人たちは真面目な人間が最も評価されうるものであるということをきちんと理解してます。
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