忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

the apple of my eyes
 エメラルドグリーンのあの娘。
 人魚姫。




 私は思春期の頃から十数年間マスターベーションが止まらなかったんですけど、ここ数ヶ月間ストレスが大幅に解消されて、近日はマスターベーションをすることは無くなりました。ストレス溜まるんだったらエロ画像見てマスターベーションしときゃいいとか書きましたけど、別にストレスがあるでもなく不用意に射精しないと体調も良いです。今になって冷静に考えるとあんなエロ画像とかで自慰行為する人本当に居るんですかね?くらいの。「腎」という文字には精力だとか精液だとかいった意味があります。多分射精をし過ぎると腎臓にくるんですね。ヤバいです。おそらく肥満の原因にもなります。漢方の病名用語で過度の性行為により精液たる腎水が枯渇する症状を腎虚と言います。
 どうやら私は幼児の頃から二十数年間ずっとストレスが溜まっていた状態であったということのようです。三十過ぎた年になってやっとストレスが溜まっていない状態とはどういうものか、ストレスを解消するということはどういうことなのかということを知りました。ストレスが溜まっている状態があまりにも当たり前過ぎてストレスを解消するという発想自体が無かったのだということを知りました。ちょっとズレますけど「本気」ということがどういったことなのかもそもそも発想からして31歳までの私には分かりませんでした。
 パスカルがパンセで「あなた方の蒙を開くこと(ができるできないどうたらこうたら)」とか書いてましたけど、黄色人種の幼児には臀部上部に蒙古斑が見られることがあります。その部分に、成人してからでも毛巣洞(もうそうどう)という空洞ができてその中で毛や古くなった皮膚などの垢や汗なんかが溜まって化膿して炎症を起こすという病気があります。私は10代の半ば頃にこれができて、それが20代の前半で二回膿んだことがあって高熱を発して痛みで歩けなくなって椅子に座ることもできなくなって、病院へ行って金属のドリルのようなもので仙骨あたりから背骨に穴を開けているのではというくらいに痛々しく穴を開けて赤黒い膿を出してもらったことがあります。ちょっと本当にこんな病気があるか不明ですけど、私がかかった精神科医のN田四Rはそう言ってました。「堪忍袋の尾が切れる」というのはおそらくこれではないかと。

 私はイタリア人並みにムダ毛が濃く生えるんですけど、体毛全部剃ってます。脱毛するのは馬鹿というか間違えているのであって、生やしてこまめに剃るのがいいです。黒髪の生える日本人においては毛は穢れたものとおそらく考えられてましたけど、黒いものは黒いものであって、何らかの色素が集約されて黒く見えると化学的に考えるのではなくて、即時的即物的にその時何がどうなっているかという風に考えると正解っぽい、というかおそらく正解です。「その時、黒いもの(が出る)」ということであって、薄い色のものが出る時のものは薄い色のものが出ているに過ぎないということです。それに伴って身体感覚やストレスの感じ方や溜まり方がどうなるかという問題です。物は考え様。髪は頭から生えるので女の美しい黒髪はある意味勲章だということです、たぶん。



 対人関係の場における意味しか見えないとなるとこれは困ったことになりますけど、幸せすぎてcommnicationizedが完了した頭のイっちゃている人以外は、空気を読むのが上手い人間は言語使用において意味を即座に読み取ってしまうところのものであるということで申し分無いということです。例えば、フランス語だとgrand hommeが日本語の「偉人」の意でありhomme grandが日本語の「大男」の意ということみたいなんですけど、これは文法的に字面通り意味を取るgrand hommeの場合とhomme grandの「野郎?ああ、あのでけぇ?」という語味のニュアンスを読み取っての場合と区別出来ないと全く理解できないです。会話の上手い人たちは後者の意味を理解することが容易であるひいては前者と後者の区別が簡単に付きますけど、空気を読むのが下手な人間は前者の字面通りの意味しか分かりません。体がでっかい人は偉い人だ、みたいなことが言えるかどうかについては私にはちょっと断言できないですけど。
 ちなみに、commnicationizedが完了されるところのものは、言語使用においてではなくて、カップルなり夫婦なりでセックスして仲良くすれば無問題ということです。愛しているのならば行為で示せ、という。

 アカい男というのは悪事を働いておきながら自分に都合の悪い事態が訪れると工学化された人間関係に逃げ込みます。それが相対する人間において自分を上とするか下とするかに拘らずです。例えば、自分が悪事や間違ったことを行ってそれを指摘され注意されると、「あ、あ、あなたはそうやっていちいち間違いを指摘して注意してもらえばいいんで」と発言し普段は見せないへりくだりを見せそして同時に場の問題を人間関係にすり替えて「攻撃者であるあなたが自分より上であると自分は認識していますよ、だから悪事を行う自分を攻撃しないでくれ」という非常にナメ腐った逃げに走る、とかいう場合があったりします。解決されると自分にとっては都合が悪いので問題解決の議題から必死に話を逸らし、そして相手を持ち上げるかもしくは弱みを握ったならばそこを攻撃するという形で人間関係という虚構に逃げ込みます。万死に値するというよりは、何故こういった馬鹿が死なないのか私には全く理解不能です。連中は人単位つまりcommnicationizedされた妄念によって物事を鑑みることがベースになっているということであって、健常な通常人とは逆です。これは恥の文化に生きる人間の発想です。まあ私もそうですけど不運な目に合って寂しさを紛らわせずにはいられないという人たちは居ますけど、そうというよりは、こういった連中は性欲を満たすことが生存の第一義となっている野蛮な生き物であるということです。実際に接してみるとこういう男は同性からしても吐き気がする程ウザいです。上記の健常な場合とは逆であるところの、行為のために愛している(フリをする)、という一番女にモテない馬鹿な男のウザ過ぎて見る者をシラけさせる道化行為です。つまり異性と連れ立って仲良くもしくは助け合い生きていくというのではなくて、性欲を満たす為にあの手この手を尽くし異性と場合によっては仲良さげなフリすらするというブチ殺されるんじゃねえのかコイツという振る舞いです。そりゃ女の人がその生物学的特質からしてこういった男を嫌い避けるのは理に適ってます。そしてこういったのが子供ができて人の親になると平気で子供を虐待するようなマネをするんですね。そもそも性欲を満たすことがこういったのの行動原理であり行動の第一義であるからしてそれもまあ当然と言えば当然です。そしてこういった子供を虐待するような人間の血を引いたその子々孫々は当然まともな人間には育たず滅びに向うというわけであって、必然として適者生存が読んで字の如くそこに体現(体言)されているというわけです。私は自分の両親が恥意識の塊でありまた人様に対しての当人が居ないところでのひたすらな罵倒の文句や見なければ済むことであるにもかかわらずテレビを見て画面に向ってギャーギャー文句を垂れ流すという他者に対して恥意識をなすりつけ振りまくということを行う極めて愚劣な人間でした。
 で、こういったアカがコミュニケーション能力において発達しているかというとほとんどの場合その真逆です。先の記事で書いた、コミュニケーション能力が低いのにもかかわらず何故か人気者になりたがってコミュニケーションにおいて無理をして失敗するウザ男君というのがコレです。私は男女のカップルを見て不愉快になることはないですけど、女にやたらと男がカラみついているのを見ると不快になります。私はあのエロゲーとかギャルゲーは当然手が出ませんでしたしノベルゲーとかですらそれこそ恥ずかしくてやってられないんですけど、ああいうのは何故か平気でやりますね、恥の文化に生きる連中は。



 ニーチェは、自分の見下しうる者をカテゴライズし、そしてまたツァラトゥストラを設定してみたり「強さの厭世主義なるものがあるのか?」とたわけたことを問うてみたり、ということを行っている点において非常に悪魔的です。厭世をイデオローグ化している時点でそれは弱さが強さと履き違えてられているだけです。

「 ―前略―だからこそ、草を喰んでいる家畜を見たり、あるいはもっと身近なことにすれば、子供を見たりすると、人間はまるで失われた楽園を回想するかのような切ない気持にとらわれるのだ。だって、子供はまだなんら否認すべき過去を持たず、過去と未来の垣の中に、幸福きわまる盲目のなかで遊びたわむれているからである。しかしこの遊戯にも邪魔がはいってこないわけにはいかない。あまりにも早く子供はその忘却状態から、呼びさまされるのだ。そこで子供は『昔は(es war)』という言葉を理解するようになる。「昔は」というあの合言葉、闘争や苦悩や倦怠やがこの合言葉もろとも人間に押し寄せてきて、人間存在が根本において何であるかを否でも応でも想い出させようというのだ――すなわち人間存在がけっして完了することのない一の半過去形Imperfectumであるということを。ついに死があこがれの忘却をもたらすとしても、それは同時に現在ならびに生存をもまきあげてゆくのである。こうして死は結局、『人間存在は不断の『……であった(Gewesen sein)』にすぎない、それは自己自身を否定し、自己自身をくいつくし、自己自身に矛盾することによって生きる一つの事物であるにすぎない』というあの認識に、太鼓判を押すのである。」

「 不眠といい、反芻といい、歴史的感覚といっても、それには一つの限度がある。すなわち人間であれ、あるいは民族であれ、あるいは文化であれ、およそ生きたものがそこなわれ、最後には没落するにいたる一つの限度があるのだ。」

「 ―前略―地平線は閉ざされており、完全である。そしてこの地平のかなたになお人間や情熱や目的やがあるなどということを、彼に想起せしめうるものは、なに一つないのである。すべて生命あるものは、地平線の内部においてのみ、健康に強壮に多産的になりうるということ、これが普遍的法則なのだ。自分のまわりに地平線を引く能力のない場合、あるいはまたあまりに自分一本槍で他人の身になって見ることができない場合、その生活体は、しなびはてて、あるいは息せききって、すみやかに没落してゆくのである。はれやかさ、くもりのない良心、欣然たる行動、来るべきものへの信頼――これらすべては、個人の場合も民族の場合も、見はるかしうる明るいものを、照破しがたい暗いものと屹然と分かつ一線が存すること、適当なときに想起すると同様、適当なときに忘却するすべを心得ていることによるのである。いつ歴史的に感ずることが必要であり、いつ非歴史的に感ずることが必要であるかを、強力な本能で感得することにかかっているのである。次にかかげる命題こそ、読者にとくと考えてもらいたい命題なのだ、『非歴史的なものと歴史的なものとは、個人、民族、文化の健康にとって、ともにひとしく必要である。』」

 これはニーチェの「生に対する歴史の利害について」という著作からの引用です。"es war"という言葉そして言葉が持つ(発する)意味内容としてのes warそして行為におけるes warを使ってImperfectumを場に具現化しようとしたものが対人関係におけるコミュニケーションであり、それの極みがおそらくは異性同士の性愛です。しかし歴史を溜め込み過ぎるとフリーズしてしまうよともニーチェ先生はここで言ってます。恥意識が強すぎると好きな女に近寄ることもできないよということです。
 ちょっとこれ以後はニーチェ先生特有のおかしいことが書いてあるんですけど、ここでヒットラーのようにキリスト的メシアを演じ政治政党を引き連れての壇上での演説ではなかった、生前の不遇な扱いをニーチェに与えることで人々がそれを阻止した、そういうことなんですかね?人々は100年くらいして人たらぬインターネットが社会に出るまで待ってたんですかね?不死者の身を背負いその確認と称して神々に遊ばれ攻撃されていたバルドルを殺してあげたロキは実はやさしい、みたいな。超人な光の神様が何も痛みを感じないなら不死身でもいいですけど。
PR
| prev | top | next |
| 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 |
カレンダー
03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
プロフィール
HN:
SS
性別:
男性
バーコード
ブログ内検索
P R
忍者ブログ  [PR]
  /  Design by Lenny