[PR]
2025.04.16 Wednesday
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
Soumatou
2012.05.26 Saturday
闇。
"Frailty, thy name is woman!"、キリスト教社会の中心には罪人が居る。
アテネの空の青さ。
江来博士。
雷親父は禿げ頭。
「実績を残すことによって生きる」という発想さえ持っていれば、それが子供の時分であれイジメなんか大した苦にならないんですね。というか男が一見したところではイジめとしか見えないものをやらかす場合は実績を残すことを教えて分からせるという目的で行われるといっても過言ではないです。女のイジメは知りませんけど。
私も少年期から青年期までずっとそうでしたけど、オタクというのはこの発想に欠けてます。だから簡単に悪質な人間やその産物に釣られてしまいます。私SSはそんなに気が弱い方ではないんでそこらへんのチンピラみたいのは怒鳴り返して追い返しますけど、「面白いもの」に釣られるオタクな状態だといとも簡単に負の材料を敵方に与えてしまってしかもそれに気付かないどころか喜んであげるくらいになってしまいます。過度のcommunicationizedの表れです。ドラゴンボールとかのマンガで出てくるような筋肉ムキムキマッチョな場のコンテクストたる「見た目」に騙されて、ああいったチンピラの悪党共が汚いことをやらない正義感であるかのような錯覚を昔の子供や子供のままオタクになった人間は抱かされてしまっていた(る)ということです。現象的な実態としては真逆である場合が多々ある(在る)のであり、オタクや真面目な人間たちをエサに他者を貶し引き摺り下ろすためならば何でもやるという見た目清潔好男子なゴブリンみたいのが少なくとも現代日本ではウヨウヨ居ます。ちなみに真面目というのは「真」+「面」+「目」であって、キリスト教徒は皆真面目であるという表現が適います。
人間が陥りやすい視覚情報ということで考えるのならば、場の形象に世界を見て、歴史的事実をそこに当てはめ一種の合理化を行いそして歴史的真実を編み出すのならばそれは当然の如く歴史的真実たり得るということです、人間の身体に基づく。歴史というものはそうやって作られるということです。Leonard da Vinciの絵で人間の五体をそういう様に表現しているものがあったような気がします。
「言論テロ」というのはナンセンスな表現です。言論はテロではなく、テロリズムというのは物理的に行われるものだからです。
例えば、謝るということはどういうことなのかということにも問題の本質が現れて(表れて)いるのであって、これは身体というものはどういうものなのかということをきちんと鑑みるべく原点に立ち返るということです。「言」+「身」+「寸」、というよりは、「言」→「身」→「寸」ということです。「~的」という表現が、文章表現における万物の元凶だったりもします。そもそも現代日本の義務教育では「分かる」ということがどういうことなのかということをそもそもからして教えないかもしくはその発想自体を子供の頃から奪ってしまうか、という教育をやってました。
同時に「ある程度体を(思春期あたりまでに)作ってしまえば……あとはそれをベースに何をやってもよい」という一見したところではキリスト教的なしかしアンチクライスト以外の何ものでもない猿的な発想もまた万物の元凶です。猿は芝居を打った挙句に失敗して木から滑り落ちる、とか。
「普遍は個物に先立って存在する」という実在論・実念論も、「個物の後に普遍が作られる」としている唯名論・名目論も、「実在論(実念論)」や「唯名論(名目論)」という漢字を使った名詞からだけでは、一体どういうものかそれを理解することは不可能です。下手をすればその内容を名称とは真逆であると勘違いします。また「普遍は個物に先立って存在する」という説明や「個物の後に普遍が作られる」という説明だけであっても誤認が発生します。つまりそれこそ唯名(論)的に「実在論(実念論)」や「唯名論(名目論)」というものを捉えただけでは、誤認が発生します。例えば、日本語よりは分かりやすいものであるということで、英語だと、前者はrealismであり後者はnominalismです。以下パスカルの「パンセ」より少しだけ引用。
「 詩的な美ということが言われるように、幾何学的な美、医学的な美ということが言われていいはずである。しかし、人はそうは言わない。その理由は、幾何学の目的が何であるかということと、そしてそれが証明にあるということ、また医学の目的が何であるかということ、そしてそれが治療にあるということを、人々はよく知っているからである。けれども、詩の目的である快さがどこに存するかを、人々は知らない。模倣すべき自然的な原型がいかなるものであるかを、人々は知らない。そしてそれを知らないために、人々は奇妙な表現を考え出した。『黄金時代」』「『現代の驚異』『宿命的』等々。こういうきざな言いぐさを、人々は詩的な美と呼んでいる。
しかし、小さなことを大げさなことばで言いあらわすところに存するこの種の原型にしたがって、一人の女を想像する人は、たくさんの鏡や鎖で飾りたてたきれいなお嬢さんを思いうかべて、笑い出すであろう。詩の快さがどこに存するかということよりも、女の快さがどこに存するかということのほうが、わかりやすいからである。けれども、それがわからない人は、そういう装いをした女を賛美するかもしれない。また、彼女を女王と見間違えるような村も多いことであろう。だからわれわれは、そのような原型に基づいて作られたソネットを、村の女王と呼ぶ。」
私はフランス語をさっぱり読めないですし、もちろんこれは日本語訳をただ持ってきたものです。で、これだけだと語弊が生じます。たとえば、「『黄金時代』『現代の驚異』『宿命的』等々」という箇所、というのは漢字が使われている日本語ではこれはこれで詩的なものとしても通用するからです。
頭の悪い人間にこういったことを言う人が多いですけど、他者に対して「分かっていない、分かっていない」と言うのは、自分らの無能力さが故に「一見したところでは分かっていなそうな」事を行う人間に対して湧く疑念に捕らわれているだけであり、当の言う側の人間が自分にとって分かっていない現象について分かり得ないという事態がそこに存在するだけであるケースがほとんどである、ということです。しかし悪いことをやる人間というのは居るのであって、事あるごとにこういったことを言って他者に注意を促してくれる人間が必要であることは間違いが無いです。
"Frailty, thy name is woman!"、キリスト教社会の中心には罪人が居る。
アテネの空の青さ。
江来博士。
雷親父は禿げ頭。
「実績を残すことによって生きる」という発想さえ持っていれば、それが子供の時分であれイジメなんか大した苦にならないんですね。というか男が一見したところではイジめとしか見えないものをやらかす場合は実績を残すことを教えて分からせるという目的で行われるといっても過言ではないです。女のイジメは知りませんけど。
私も少年期から青年期までずっとそうでしたけど、オタクというのはこの発想に欠けてます。だから簡単に悪質な人間やその産物に釣られてしまいます。私SSはそんなに気が弱い方ではないんでそこらへんのチンピラみたいのは怒鳴り返して追い返しますけど、「面白いもの」に釣られるオタクな状態だといとも簡単に負の材料を敵方に与えてしまってしかもそれに気付かないどころか喜んであげるくらいになってしまいます。過度のcommunicationizedの表れです。ドラゴンボールとかのマンガで出てくるような筋肉ムキムキマッチョな場のコンテクストたる「見た目」に騙されて、ああいったチンピラの悪党共が汚いことをやらない正義感であるかのような錯覚を昔の子供や子供のままオタクになった人間は抱かされてしまっていた(る)ということです。現象的な実態としては真逆である場合が多々ある(在る)のであり、オタクや真面目な人間たちをエサに他者を貶し引き摺り下ろすためならば何でもやるという見た目清潔好男子なゴブリンみたいのが少なくとも現代日本ではウヨウヨ居ます。ちなみに真面目というのは「真」+「面」+「目」であって、キリスト教徒は皆真面目であるという表現が適います。
人間が陥りやすい視覚情報ということで考えるのならば、場の形象に世界を見て、歴史的事実をそこに当てはめ一種の合理化を行いそして歴史的真実を編み出すのならばそれは当然の如く歴史的真実たり得るということです、人間の身体に基づく。歴史というものはそうやって作られるということです。Leonard da Vinciの絵で人間の五体をそういう様に表現しているものがあったような気がします。
「言論テロ」というのはナンセンスな表現です。言論はテロではなく、テロリズムというのは物理的に行われるものだからです。
例えば、謝るということはどういうことなのかということにも問題の本質が現れて(表れて)いるのであって、これは身体というものはどういうものなのかということをきちんと鑑みるべく原点に立ち返るということです。「言」+「身」+「寸」、というよりは、「言」→「身」→「寸」ということです。「~的」という表現が、文章表現における万物の元凶だったりもします。そもそも現代日本の義務教育では「分かる」ということがどういうことなのかということをそもそもからして教えないかもしくはその発想自体を子供の頃から奪ってしまうか、という教育をやってました。
同時に「ある程度体を(思春期あたりまでに)作ってしまえば……あとはそれをベースに何をやってもよい」という一見したところではキリスト教的なしかしアンチクライスト以外の何ものでもない猿的な発想もまた万物の元凶です。猿は芝居を打った挙句に失敗して木から滑り落ちる、とか。
「普遍は個物に先立って存在する」という実在論・実念論も、「個物の後に普遍が作られる」としている唯名論・名目論も、「実在論(実念論)」や「唯名論(名目論)」という漢字を使った名詞からだけでは、一体どういうものかそれを理解することは不可能です。下手をすればその内容を名称とは真逆であると勘違いします。また「普遍は個物に先立って存在する」という説明や「個物の後に普遍が作られる」という説明だけであっても誤認が発生します。つまりそれこそ唯名(論)的に「実在論(実念論)」や「唯名論(名目論)」というものを捉えただけでは、誤認が発生します。例えば、日本語よりは分かりやすいものであるということで、英語だと、前者はrealismであり後者はnominalismです。以下パスカルの「パンセ」より少しだけ引用。
「 詩的な美ということが言われるように、幾何学的な美、医学的な美ということが言われていいはずである。しかし、人はそうは言わない。その理由は、幾何学の目的が何であるかということと、そしてそれが証明にあるということ、また医学の目的が何であるかということ、そしてそれが治療にあるということを、人々はよく知っているからである。けれども、詩の目的である快さがどこに存するかを、人々は知らない。模倣すべき自然的な原型がいかなるものであるかを、人々は知らない。そしてそれを知らないために、人々は奇妙な表現を考え出した。『黄金時代」』「『現代の驚異』『宿命的』等々。こういうきざな言いぐさを、人々は詩的な美と呼んでいる。
しかし、小さなことを大げさなことばで言いあらわすところに存するこの種の原型にしたがって、一人の女を想像する人は、たくさんの鏡や鎖で飾りたてたきれいなお嬢さんを思いうかべて、笑い出すであろう。詩の快さがどこに存するかということよりも、女の快さがどこに存するかということのほうが、わかりやすいからである。けれども、それがわからない人は、そういう装いをした女を賛美するかもしれない。また、彼女を女王と見間違えるような村も多いことであろう。だからわれわれは、そのような原型に基づいて作られたソネットを、村の女王と呼ぶ。」
私はフランス語をさっぱり読めないですし、もちろんこれは日本語訳をただ持ってきたものです。で、これだけだと語弊が生じます。たとえば、「『黄金時代』『現代の驚異』『宿命的』等々」という箇所、というのは漢字が使われている日本語ではこれはこれで詩的なものとしても通用するからです。
頭の悪い人間にこういったことを言う人が多いですけど、他者に対して「分かっていない、分かっていない」と言うのは、自分らの無能力さが故に「一見したところでは分かっていなそうな」事を行う人間に対して湧く疑念に捕らわれているだけであり、当の言う側の人間が自分にとって分かっていない現象について分かり得ないという事態がそこに存在するだけであるケースがほとんどである、ということです。しかし悪いことをやる人間というのは居るのであって、事あるごとにこういったことを言って他者に注意を促してくれる人間が必要であることは間違いが無いです。
PR