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2025.04.16 Wednesday
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This is what becomes (itself) again.
2012.06.04 Monday
罪と痛み。
野菜とかでありますけど、それが何故か都市部で今も残存しているところの農耕地で生産されたものであるにもかかわらず「市内産野菜である」ということを売りのうたい文句にして売っているバカなものがありますけど、空気や土壌の汚れた都市部で作られた野菜なんか良いものであるはずがないんですね。私が住んでいるのは首都圏ですけど、スーパーに並んでいるものでも、こういった地場産であることを売りにしているものはもう実際見た目でよく育っていないという悪いものが多いです。先の記事で書いた「個人主義と産業における分業との悪質な履き違えやおそらくは意図的な混同」というものはこういったところでも表れてきます、精神科医とは逆パターンで。精神科医は産業における分業に個人主義性を絡ませませて逃げますけど、こういった土着な人たちは物理的側面において蓋然的たる個人主義性を何とか無理矢理成立させるために産業における分業を利用して目の前の現実を見ていないと言わざるを得ない阿呆というよりはこれはこれで馬鹿なことをやります。
最近水道の水の味がもの凄く悪いんですけど、殺菌消毒がきちんとなされていないというか、何時からこの日本という国はロシアみたくライフラインの管理が悪くなったんですかね?非常に異様な味がするんですけど、水道の水を安心して飲めないとか個々の経済主体の能力が最大限に発揮されることに水を差している何処の異常馬鹿国家だという問題です。
何か物事を説明している人間に対して「言い訳をするな」とホザく人間が居ますけど、物事の説明を「言い訳」と解釈する発想がそもそもナンセンスです。目の前の現実が見えないとか逃避だとかいうよりは、物事の何がどうなっているかを鑑みる能力が無い人間がこういった発言をしてしまうというのがたいていの場合のオチです。つまり彼ら彼女らにとっては物事の説明というのは文字通り「言い訳」だということであって、しかし神になった人や神サマたりうる人はどこにも居ませんよということで事象の認識能力が無いヒトは脳に障害を負っている人以外には居ないということです。しかしやはり人間誰しも他者を100%完全に信頼するというのは無理なんで、こういった人たちの恐怖心を否定することはできないです。解決策としてはヒトにまつわる唯一の手段である言葉を使ってコミュニケーションを取るということしかないです。あとは人間好きな健常な人たちにおける結婚とか。
オタクが読解力が無いとか言っている人間が居るらしいんですけど、オタクというのは読解力が有り過ぎる人たちのことです。トンチや騙し目的で釣っておいて、騙された人間に対して「読解力が無い」だとか調子に乗るなくたばれクズがというお話です。先の記事で説明したように、オタクというのは現実しか見えないまたは読解力があり過ぎるためにアニメやゲームにハマっている自分にハマっってしまっている人たちのことであって、現象的にはアニメばかり見ていたりゲームばかりをやっていたりするのでオタクではない健常な人たちからすると一つの構成された世界としての「アニメの世界」や「ゲームの世界」にのめり込んでしまっているもしくはそれによって表現されている世界が真実だと思い込んでしまっているものであると見做さざるを得ないということです。オタクの人たちというのは心身ともに病んで老成しているとも形容が可能です。
だからあの哲学者にしては現実問題が見え過ぎている中島義道さんという人はオタクのさきがけです。血が汚れているというとちょっと失礼ですけど、あまりに現実的な問題の解決に関心がイき過ぎて、空気から情報をgelesenする類の人間です、おそらく。ご自身も著書の中で書いてますけど、世界の真理を解き明かすためでなく自分が救われる為に哲学をやっている人間が僅かながら居る、と。
チェーホフの小説に、「異常な騒音に対する苦情を申し立てたらばその現場で騒音を立てていたのが高級娼婦と戯れていた勤め先の上司であった、(そして退職を勧告された)」という理不尽極まりないストーリーによって教訓を説いている短編小説がありますけど、釣りという最悪な行いに及ぶ連中が居ます。
この世界に確実な(妄)(想)念など何も無いということをしっかりと実感として知っておくことが生きていく上で重要だったりします。つまり他人がどういった意図でその行動や言動をとっているかということは絶対的に理解できないものであり、対人関係におけるコミュニケーション以外の場において他者に対して何も言う筋合いは無いということです。私はIとyouで為される対人関係においてyouを全て敵であると見做す不快感には若い頃ずっと耐えられませんでした。一言で言うとウザ過ぎて不快感で気が狂いそうだったからです。嫌悪感を抱いたならばその他者とはコミュニケーションを取らなければよいんで、つまりは他人に対していたずらに「好きだ」という感情や心情を表明することですらが(ことこそが)、性悪説の表れであり現しだということで万物の元凶っぽいです。つまりそんなに好きな相手だったらば結婚しろよという問題であって、それ以外で他者に対して安易に好きだとか嫌いだとかいう感情を表明するなよ、ということです。騒音の問題についても同じであって、自分が他人にどれだけ迷惑を掛けているかということは決して断定できるものではないです。知らない世界は結構おぞましいものだったりします。だから肉体に溜まったストレスの解消方法を上手く探り当ててそれに拠って上手く生きていかないとどうしようもないです。ちなみにゲームなんてものはストレス解消にならないどころかストレス解消に見せかけたストレス捏造兼ストレス怨憎でしかないです。
人間どういった状況の時に他者を求めるのか、ということに人間関係における問題の本質があったりします。「本当の孤独」とかいうとちょっと胡散臭くなりますけど、「ああこれが孤独か」、という感触です。それをひょっとしたら「恋」とかいうのかもしれませんけど、私にはちょっとよく理解しかねます。
たしか太宰治が、「罪」の対義語が見つからない、「罪」の対義語は罰ではない、と書いていましたけど、「罪」の対義語は「痛み」です。歪んだ魂が正されていくところの痛み。ストレスが解消されれば人間は正常になるんで、大昔おそらく特に女性がやられてましたけど、五体満足でない状態にするというこれはこれで最悪なことを行う必要なんか無いんですね。ヒトは誰しも汚れを背負って肉体が老化して死んでいくんで、そういう汚れを背負ってくれている人間に暴力を振るえば明らかにそれは間違っているということです。だから女性に暴力を振るってはいけないということであって、老人を大切にしようということは当然の社会的合意に基づくものです。つまり当然の如くナチスみたいな犯罪者集団の行ったことは最悪だということであって、女性はそもそも生まれながらにして汚れを背負ってくれているところの「罪深い存在」という形容は適切ではなく感謝すべき「あり難い存在」だということです。
野菜とかでありますけど、それが何故か都市部で今も残存しているところの農耕地で生産されたものであるにもかかわらず「市内産野菜である」ということを売りのうたい文句にして売っているバカなものがありますけど、空気や土壌の汚れた都市部で作られた野菜なんか良いものであるはずがないんですね。私が住んでいるのは首都圏ですけど、スーパーに並んでいるものでも、こういった地場産であることを売りにしているものはもう実際見た目でよく育っていないという悪いものが多いです。先の記事で書いた「個人主義と産業における分業との悪質な履き違えやおそらくは意図的な混同」というものはこういったところでも表れてきます、精神科医とは逆パターンで。精神科医は産業における分業に個人主義性を絡ませませて逃げますけど、こういった土着な人たちは物理的側面において蓋然的たる個人主義性を何とか無理矢理成立させるために産業における分業を利用して目の前の現実を見ていないと言わざるを得ない阿呆というよりはこれはこれで馬鹿なことをやります。
最近水道の水の味がもの凄く悪いんですけど、殺菌消毒がきちんとなされていないというか、何時からこの日本という国はロシアみたくライフラインの管理が悪くなったんですかね?非常に異様な味がするんですけど、水道の水を安心して飲めないとか個々の経済主体の能力が最大限に発揮されることに水を差している何処の異常馬鹿国家だという問題です。
何か物事を説明している人間に対して「言い訳をするな」とホザく人間が居ますけど、物事の説明を「言い訳」と解釈する発想がそもそもナンセンスです。目の前の現実が見えないとか逃避だとかいうよりは、物事の何がどうなっているかを鑑みる能力が無い人間がこういった発言をしてしまうというのがたいていの場合のオチです。つまり彼ら彼女らにとっては物事の説明というのは文字通り「言い訳」だということであって、しかし神になった人や神サマたりうる人はどこにも居ませんよということで事象の認識能力が無いヒトは脳に障害を負っている人以外には居ないということです。しかしやはり人間誰しも他者を100%完全に信頼するというのは無理なんで、こういった人たちの恐怖心を否定することはできないです。解決策としてはヒトにまつわる唯一の手段である言葉を使ってコミュニケーションを取るということしかないです。あとは人間好きな健常な人たちにおける結婚とか。
オタクが読解力が無いとか言っている人間が居るらしいんですけど、オタクというのは読解力が有り過ぎる人たちのことです。トンチや騙し目的で釣っておいて、騙された人間に対して「読解力が無い」だとか調子に乗るなくたばれクズがというお話です。先の記事で説明したように、オタクというのは現実しか見えないまたは読解力があり過ぎるためにアニメやゲームにハマっている自分にハマっってしまっている人たちのことであって、現象的にはアニメばかり見ていたりゲームばかりをやっていたりするのでオタクではない健常な人たちからすると一つの構成された世界としての「アニメの世界」や「ゲームの世界」にのめり込んでしまっているもしくはそれによって表現されている世界が真実だと思い込んでしまっているものであると見做さざるを得ないということです。オタクの人たちというのは心身ともに病んで老成しているとも形容が可能です。
だからあの哲学者にしては現実問題が見え過ぎている中島義道さんという人はオタクのさきがけです。血が汚れているというとちょっと失礼ですけど、あまりに現実的な問題の解決に関心がイき過ぎて、空気から情報をgelesenする類の人間です、おそらく。ご自身も著書の中で書いてますけど、世界の真理を解き明かすためでなく自分が救われる為に哲学をやっている人間が僅かながら居る、と。
チェーホフの小説に、「異常な騒音に対する苦情を申し立てたらばその現場で騒音を立てていたのが高級娼婦と戯れていた勤め先の上司であった、(そして退職を勧告された)」という理不尽極まりないストーリーによって教訓を説いている短編小説がありますけど、釣りという最悪な行いに及ぶ連中が居ます。
この世界に確実な(妄)(想)念など何も無いということをしっかりと実感として知っておくことが生きていく上で重要だったりします。つまり他人がどういった意図でその行動や言動をとっているかということは絶対的に理解できないものであり、対人関係におけるコミュニケーション以外の場において他者に対して何も言う筋合いは無いということです。私はIとyouで為される対人関係においてyouを全て敵であると見做す不快感には若い頃ずっと耐えられませんでした。一言で言うとウザ過ぎて不快感で気が狂いそうだったからです。嫌悪感を抱いたならばその他者とはコミュニケーションを取らなければよいんで、つまりは他人に対していたずらに「好きだ」という感情や心情を表明することですらが(ことこそが)、性悪説の表れであり現しだということで万物の元凶っぽいです。つまりそんなに好きな相手だったらば結婚しろよという問題であって、それ以外で他者に対して安易に好きだとか嫌いだとかいう感情を表明するなよ、ということです。騒音の問題についても同じであって、自分が他人にどれだけ迷惑を掛けているかということは決して断定できるものではないです。知らない世界は結構おぞましいものだったりします。だから肉体に溜まったストレスの解消方法を上手く探り当ててそれに拠って上手く生きていかないとどうしようもないです。ちなみにゲームなんてものはストレス解消にならないどころかストレス解消に見せかけたストレス捏造兼ストレス怨憎でしかないです。
人間どういった状況の時に他者を求めるのか、ということに人間関係における問題の本質があったりします。「本当の孤独」とかいうとちょっと胡散臭くなりますけど、「ああこれが孤独か」、という感触です。それをひょっとしたら「恋」とかいうのかもしれませんけど、私にはちょっとよく理解しかねます。
たしか太宰治が、「罪」の対義語が見つからない、「罪」の対義語は罰ではない、と書いていましたけど、「罪」の対義語は「痛み」です。歪んだ魂が正されていくところの痛み。ストレスが解消されれば人間は正常になるんで、大昔おそらく特に女性がやられてましたけど、五体満足でない状態にするというこれはこれで最悪なことを行う必要なんか無いんですね。ヒトは誰しも汚れを背負って肉体が老化して死んでいくんで、そういう汚れを背負ってくれている人間に暴力を振るえば明らかにそれは間違っているということです。だから女性に暴力を振るってはいけないということであって、老人を大切にしようということは当然の社会的合意に基づくものです。つまり当然の如くナチスみたいな犯罪者集団の行ったことは最悪だということであって、女性はそもそも生まれながらにして汚れを背負ってくれているところの「罪深い存在」という形容は適切ではなく感謝すべき「あり難い存在」だということです。
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