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2025.04.16 Wednesday
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Wodan
2012.06.10 Sunday
変態の皮を被った紳士。
オジン。
大抵どの学問にも学史というものがありますけど現代では利用価値があまり無いと見做されあまり人気が無かったりします、が、けっこう学ぶところが多かったりします。文学研究というのは、その文人がどのような生活を行ってどのような著作を残したかということが全般に渡った総括的な記録として残っているという点において価値があります。つまりその人物が何の出来事があったどういった時代に生きどういった生活を送りどういった対人関係を営みそれらに関してもしくは関せずにどういったものを残していったのかということを現代に生きる人間が知りうるということでおそらく文学というのは学ぶ価値があります。こういった人間に関することがそれこそ謂わば工学化されて記録として残っていることに価値があるのは、それが歴史上の人物に関することであり既に亡くなっている人間のそれだからであって、今生きている人間の為になり役立つからです。たまに生きている人間に関すること(関係)を工学化しようとする馬鹿が居ますけど、これはそもそもその試み自体が今生きている人間にとって百害あって一利無しどころか失敗するように出来てます。
散文と詩は読んで字の如く全く違います。散文詩というのもありますけど、これは詩(Poesie)と形容するのは適切でないです。
少なくとも2012年時点における日本という国においては物事を為すにおいて詩的解釈が通用するはずがないです。残念ながら他人に因縁を付けてくるような奴が何とでも理由を取りつくろうために事象の詩的解釈を利用しているに過ぎないと言ってしまっても過言ではないです。
日本のマスコミは「こういう人はこうである」「こういう人はこういうことをやる・やらない」等マンガ的なキャラ設定を主とした人単位で物事鑑みるといことを社会通念として一般市民に植え付けようと試み、そしてそうやって釣った真面目な人間がストレスにまみれて悪事を起こすのを待ちそして悪事を起こさせて「…どうしてこんな真面目な人が…」とシラを切りクサいセリフをホザいてネタとして扱うということを少なくとも戦後ひたすら行ってました。私が個人的に知る限りでは、一部の(老齢の)精神科医もこれに同じです。こういった連中は謂わば散文詩的なことを行っていたということであって、その漠然とした妄念でしかないものをそれが流転しうるものでありながら社会に定着させようとしたところで失敗するに決まってます。
私はこのブログの記事内で偉そうなことを書いてますけど、あまり勉強のできる方ではないです。試験の点数が取れるかどうかということと、勉強ができるかどうかということは、もちろん大きく正の相関を示しますけど、基本的には別問題です。だから子供の頃から所謂「勉強ができる」人間であっても義務教育が終わるあたりで実は頭が悪いことが露呈して試験の点数が取れずに下へ落ちていくということも現実問題としては多々あります。が、そんなことはそれこそ別問題としてもちろん勉強(強きに勉める)は行うに越したことはないです。
男の場合で多いですけど、何故いわゆるイジめられっ子が「何もやらない」ことを非難され女のイジめではないところの一発カマされるということを連発されるのか、ということに問題の本質があったりします。ストレスというものは肉体に溜るものであって、生きていく限りにおいてそれはスポーツ等何らかの手段で解決しなければならないものだが、いわゆるイジめられっ子というのはストレスというのは存在しない精神とやらに存し溜まるものであるとアカい発想を抱いているものであり、そこでその発想から謂わば必然的に逃げへと走り(精神的ストレスという発想がそもそもの逃げ)、肉体のストレスは当然解消されずに同時に存在しない精神を設定したところのそこに妄念を抱えただ肉体は悪くなりそして設定された精神も悪化の一途をたどる、ということです。よってイジめっ子なるものはイジめられっ子に対して何かストレスを解消させようと発破をかけるが、これはストレスを在りもしない精神的なものと解しているイジめられっ子にとって逆効果でしかないということです。何故所謂イジめっ子がイジめをやらかすのか、イジめられっ子には全く理解できず、只負に落として(腑に落として)ゆくだけという最悪のパターンにオチてしまうことが多々あります。人間の胃の構造は食道を抜けたところでやや左方向へと傾く形になってますけど、「左」へベクトルが憑いているとその方向を勝手に意志してしまっているということです。食後の運動がタブーであるのと同じく、「左」方向へ運動衡がついている人間に発破をかけても逆効果でしかないということです。
関係無いですけど、私は嫌いな人間は物理的に避けますし、その人間が私のことを嫌っているであろうと予測のつく人間のことも物理的に避けますけど、避けられた人間からすれば私がその人間を嫌っているから避けたのか私がその人間にただ不快な思いをさせまいとして避けたのか判別がつかないであろうということも予測がつくのであって、つまり私がその当該人物に対して負の関係が構築されるであろうと負の思惟を抱いた人間に対しては即負のものとして処理して関係を築きません。
好々爺という言葉も日本語にはありますし、ジジイキャラというか壮年や老年の男性を変態ジジイと形容するものがありますけど、ブサイクな女こそがたとえ若くとも皆ジジ臭く嫌らしいです。出歯亀とか。先の記事でも書きましたけど、不細工というのは気持ち悪い思いを当人たちもしているところの不細工であって見た目が不細工な女性というのは中身まで不細工です。
人の醸し出す雰囲気というのは自他両方向に向って罠です。女の人が化粧や眼の整形等で意図的にこれを行いますけど、観察眼のある男性は化粧で作られた色のついた女性の雰囲気なんか一発で嘘であると見破ります。男で「雰囲気イケメン」なんてものは論外というか出鱈目です。少なくともその人の「顔」を知りたいというのならば、よく顔面の構成を見ることです。外で見知らぬ人の顔をジロジロ見るのはやめた方がいいですけど。
真のニヒリストなるものを設定してそれが仮に実在するとすると、その人間は何も記憶することができません。よって、そこに肉体の痛みを重ね合わせダブらせて物事を記憶していくというイタいことを行わざるを得ません。「腑に落とす」とはおそらくそういうことでもあります。ちなみに私は外敵である他者の情報を取り入れるのに取りあえず憎しみの感情を意図的に発露させなければ人間に関する情報を記憶できないので、あまり健全な対人関係を築く能力は持っていません。
ニーチェのニヒリズムはイデオロギー的・人的資本的であって、「真の」ニヒリズムとは言いづらいです。そりゃナチスにも利用されるわけです。一つ前の記事で書いたような、人間がデカルトの如く絶対確実なものは何も無いことを悟り絶対の孤独を知った時に、異性愛に走るかそれとも自分は本来的に虚無であるべきであると志向し真のニヒリズムやもしくは教会が当人の死後に取り作ったナザレのイエスさんの偶像を絶対的に崇拝し信じるキリスト教的愛に走るかで、だいたい人間大きく二つに分かれます。本物の恋と形容されうるものがあるのかどうか私にはちょっと分からないですけど、安易な異性愛に走るのはJudenです。真のニヒリズムに走る(走りたがる)のはヒットラーみたいな危険者であって、フロイト先生的な解釈をするのならばこういった人物の行いもまた前者と同じくリビドーの昇華物であるということです。やはり教会が後世にとりあえずiconとして設定したナザレのイエスさんのみが絶対のものであるとしておくのが賢そうです、自分の肉体を認識するところのcogito以外で。
「思う」ということは、真実な観点からすると、既にそれを行っているということです。行っていることが、象徴的に、「思う」という形で脳裏に浮かぶということっぽいです。私はちょっとよく知りませんけど、フロイトの夢分析というのはおそらくはこういったことについて論じているものなのではないかと。それこそ象徴的な物言いをするのならば、「その時点で恐れていることは既に行われていることである」、とか。フロイトの定義する神経症というのはまさにこれです、おそらく。もしくは、黄色い尿を排泄してビールを飲んでいては意味が無い、とか。黄色い尿が排泄されることによる効果が相殺されて肥満してしまいます。悪いものは肉体から出ていくように出来てます。
オジン。
大抵どの学問にも学史というものがありますけど現代では利用価値があまり無いと見做されあまり人気が無かったりします、が、けっこう学ぶところが多かったりします。文学研究というのは、その文人がどのような生活を行ってどのような著作を残したかということが全般に渡った総括的な記録として残っているという点において価値があります。つまりその人物が何の出来事があったどういった時代に生きどういった生活を送りどういった対人関係を営みそれらに関してもしくは関せずにどういったものを残していったのかということを現代に生きる人間が知りうるということでおそらく文学というのは学ぶ価値があります。こういった人間に関することがそれこそ謂わば工学化されて記録として残っていることに価値があるのは、それが歴史上の人物に関することであり既に亡くなっている人間のそれだからであって、今生きている人間の為になり役立つからです。たまに生きている人間に関すること(関係)を工学化しようとする馬鹿が居ますけど、これはそもそもその試み自体が今生きている人間にとって百害あって一利無しどころか失敗するように出来てます。
散文と詩は読んで字の如く全く違います。散文詩というのもありますけど、これは詩(Poesie)と形容するのは適切でないです。
少なくとも2012年時点における日本という国においては物事を為すにおいて詩的解釈が通用するはずがないです。残念ながら他人に因縁を付けてくるような奴が何とでも理由を取りつくろうために事象の詩的解釈を利用しているに過ぎないと言ってしまっても過言ではないです。
日本のマスコミは「こういう人はこうである」「こういう人はこういうことをやる・やらない」等マンガ的なキャラ設定を主とした人単位で物事鑑みるといことを社会通念として一般市民に植え付けようと試み、そしてそうやって釣った真面目な人間がストレスにまみれて悪事を起こすのを待ちそして悪事を起こさせて「…どうしてこんな真面目な人が…」とシラを切りクサいセリフをホザいてネタとして扱うということを少なくとも戦後ひたすら行ってました。私が個人的に知る限りでは、一部の(老齢の)精神科医もこれに同じです。こういった連中は謂わば散文詩的なことを行っていたということであって、その漠然とした妄念でしかないものをそれが流転しうるものでありながら社会に定着させようとしたところで失敗するに決まってます。
私はこのブログの記事内で偉そうなことを書いてますけど、あまり勉強のできる方ではないです。試験の点数が取れるかどうかということと、勉強ができるかどうかということは、もちろん大きく正の相関を示しますけど、基本的には別問題です。だから子供の頃から所謂「勉強ができる」人間であっても義務教育が終わるあたりで実は頭が悪いことが露呈して試験の点数が取れずに下へ落ちていくということも現実問題としては多々あります。が、そんなことはそれこそ別問題としてもちろん勉強(強きに勉める)は行うに越したことはないです。
男の場合で多いですけど、何故いわゆるイジめられっ子が「何もやらない」ことを非難され女のイジめではないところの一発カマされるということを連発されるのか、ということに問題の本質があったりします。ストレスというものは肉体に溜るものであって、生きていく限りにおいてそれはスポーツ等何らかの手段で解決しなければならないものだが、いわゆるイジめられっ子というのはストレスというのは存在しない精神とやらに存し溜まるものであるとアカい発想を抱いているものであり、そこでその発想から謂わば必然的に逃げへと走り(精神的ストレスという発想がそもそもの逃げ)、肉体のストレスは当然解消されずに同時に存在しない精神を設定したところのそこに妄念を抱えただ肉体は悪くなりそして設定された精神も悪化の一途をたどる、ということです。よってイジめっ子なるものはイジめられっ子に対して何かストレスを解消させようと発破をかけるが、これはストレスを在りもしない精神的なものと解しているイジめられっ子にとって逆効果でしかないということです。何故所謂イジめっ子がイジめをやらかすのか、イジめられっ子には全く理解できず、只負に落として(腑に落として)ゆくだけという最悪のパターンにオチてしまうことが多々あります。人間の胃の構造は食道を抜けたところでやや左方向へと傾く形になってますけど、「左」へベクトルが憑いているとその方向を勝手に意志してしまっているということです。食後の運動がタブーであるのと同じく、「左」方向へ運動衡がついている人間に発破をかけても逆効果でしかないということです。
関係無いですけど、私は嫌いな人間は物理的に避けますし、その人間が私のことを嫌っているであろうと予測のつく人間のことも物理的に避けますけど、避けられた人間からすれば私がその人間を嫌っているから避けたのか私がその人間にただ不快な思いをさせまいとして避けたのか判別がつかないであろうということも予測がつくのであって、つまり私がその当該人物に対して負の関係が構築されるであろうと負の思惟を抱いた人間に対しては即負のものとして処理して関係を築きません。
好々爺という言葉も日本語にはありますし、ジジイキャラというか壮年や老年の男性を変態ジジイと形容するものがありますけど、ブサイクな女こそがたとえ若くとも皆ジジ臭く嫌らしいです。出歯亀とか。先の記事でも書きましたけど、不細工というのは気持ち悪い思いを当人たちもしているところの不細工であって見た目が不細工な女性というのは中身まで不細工です。
人の醸し出す雰囲気というのは自他両方向に向って罠です。女の人が化粧や眼の整形等で意図的にこれを行いますけど、観察眼のある男性は化粧で作られた色のついた女性の雰囲気なんか一発で嘘であると見破ります。男で「雰囲気イケメン」なんてものは論外というか出鱈目です。少なくともその人の「顔」を知りたいというのならば、よく顔面の構成を見ることです。外で見知らぬ人の顔をジロジロ見るのはやめた方がいいですけど。
真のニヒリストなるものを設定してそれが仮に実在するとすると、その人間は何も記憶することができません。よって、そこに肉体の痛みを重ね合わせダブらせて物事を記憶していくというイタいことを行わざるを得ません。「腑に落とす」とはおそらくそういうことでもあります。ちなみに私は外敵である他者の情報を取り入れるのに取りあえず憎しみの感情を意図的に発露させなければ人間に関する情報を記憶できないので、あまり健全な対人関係を築く能力は持っていません。
ニーチェのニヒリズムはイデオロギー的・人的資本的であって、「真の」ニヒリズムとは言いづらいです。そりゃナチスにも利用されるわけです。一つ前の記事で書いたような、人間がデカルトの如く絶対確実なものは何も無いことを悟り絶対の孤独を知った時に、異性愛に走るかそれとも自分は本来的に虚無であるべきであると志向し真のニヒリズムやもしくは教会が当人の死後に取り作ったナザレのイエスさんの偶像を絶対的に崇拝し信じるキリスト教的愛に走るかで、だいたい人間大きく二つに分かれます。本物の恋と形容されうるものがあるのかどうか私にはちょっと分からないですけど、安易な異性愛に走るのはJudenです。真のニヒリズムに走る(走りたがる)のはヒットラーみたいな危険者であって、フロイト先生的な解釈をするのならばこういった人物の行いもまた前者と同じくリビドーの昇華物であるということです。やはり教会が後世にとりあえずiconとして設定したナザレのイエスさんのみが絶対のものであるとしておくのが賢そうです、自分の肉体を認識するところのcogito以外で。
「思う」ということは、真実な観点からすると、既にそれを行っているということです。行っていることが、象徴的に、「思う」という形で脳裏に浮かぶということっぽいです。私はちょっとよく知りませんけど、フロイトの夢分析というのはおそらくはこういったことについて論じているものなのではないかと。それこそ象徴的な物言いをするのならば、「その時点で恐れていることは既に行われていることである」、とか。フロイトの定義する神経症というのはまさにこれです、おそらく。もしくは、黄色い尿を排泄してビールを飲んでいては意味が無い、とか。黄色い尿が排泄されることによる効果が相殺されて肥満してしまいます。悪いものは肉体から出ていくように出来てます。
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