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2025.04.16 Wednesday
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Ahura Mazda
2012.07.05 Thursday
女性によく効くサイドワインダー。
鳳凰天翔。
仕事を使って人を育てるという発想があります。一般的に特に経済学部とかで行われる現代の大学教育を受けた人間が抱くところの「人を使って仕事が行われる」というものとは物事のとらえ方として逆です。前者は「普遍は個物に先立って存在する」ということであって、おそらく実在論的である(realistic)ということができます。後者は唯名論的、平たく言うとユダヤ的であって、強欲という言葉で形容されます。プロテスタンティズムのその中でも悪名高いカルヴィニズムもこれに同じです。日本語で「唯名論」なんて言葉を使うから分かりにくいのであって、これはnominalであって有名無実であるということです。全共闘とかコレです。「無実なものを名から無理矢理有らしめる」というと分かりやすいです。Max Weberが面白いことを書いてますけど、カトリック的な伝統主義的な一定の形式によって延々となされる労働において、特に未婚婦人がその労働力として使われる場合、仮にちょっと頭をひねればすぐそれより生産性の高い労働の形態を考案する能力を持つ者であってもその意欲に全く欠けており、出来高賃金率を引き上げても慣習に従うという形で同じタームで得られる(彼女らの中では)固定された賃金を得てしまうとそのターム内においてはそれ以上の賃金を得ようとしない、ということが起こるということです。いくら生産性向上の手法を説明してもそれを拒否されるということからして、未婚婦人の少女たちは意欲云々という以前にその宗教的土壌からして心理的に制約を掛けているんですね。で、ヴェーバーはドイツにおいては「慣習の壁にはね返されて」こういった事態が起こる、と言ってますけど、日本ではこれはおそらく逆の事態が起こるんですね。というのは、日本においては「『慣習の壁に押し潰されて』出来高賃金率にしたがって働いた分もらえるお金が増えたよ」という事態が起こります、これは拝金主義の逆パターンです。ドイツにおける前者のような労働態度は、むしろ資本主義イコールで拝金主義に走ってしまいやすい日本では肯定的に扱われ望ましいものとされます、賃金ではなくて事に仕える仕事本位だということであって金より先に仕事があり仕事のおまけとして金をもらえるという事が付随するということです。そしてそもそもウェーバーさんが語ってますけど、この場合においてドイツの企業家が出来高賃金率を上げた意図としては後者である日本における場合の現象が狙われています、これが資本主義です。文化人類学的土壌が違うと違うものは違ってきます。
悪質な精神科医の中にはこれを逆手にとる人間が居ます。人を使って病気をつくる、というわけです。つまり精神科クリニックにて精神科医が患者に対する親しさを装い患者に口を故意に開けさせ、そしてそれを箇条書きの様に情報の最小単位としてそれを記録していきそこから患者の人格その他の再世界化を開始して精神病患者を精神病患者たらしめるくらいのことを行う人間も居るということです。
自称「現場主義者」がいざとなると隠れて見えないところから他者の人格や性格の「タイプ判定」に及んだり、「逃げ」を肯定したりすることほど間違えの極みであってお陳腐なお笑い草の種は無いです。現場をイデオローグ化した瞬間に訪れるのは修羅の世界たる無政府主義であって、だからそれそのものからして他人を見下しての「お笑い」だということであって、「現場主義(笑)」というところに落ち着くことすら出来ない悲惨なほどのギャグのネタです。もちろんエニアグラム自体からは学ぶものは多いです、それこそユダヤの人たちの知恵なんでしょう。
個人的な経験では、M'z a 悪意(仮称)医師は自分ら精神科医の所属する精神医学界が「業界」であると名言してくれた良心的な医師でしたけど、精神科医の中には甘い言葉で女をたぶらかすように精神病患者を釣る悪質な人間が居るんですね。今かかっているN口クリニックのk子kurseマ医師はかなりのニーチェ的人間なんですけど、何故か現代日本ではニーチェ的人間の非ニーチェ的な一般的人間に対する逆差別というものがまだしぶとく存在するんですね。他人を自分特有の空気のみにてgelesenされたものとして扱い鼻で笑って見下す、それこそニーチェだとかガンダムの監督だとか、まあ分かりやすくは中二病だとか厨二病だとかです。現代日本だと一番分かりやすいのは一昔前までのネットの掲示板ですけど、おそらく前世紀までの戦後日本ではこういった弱者蹂躙をよしとする何かを勘違いした弱者がのさばってたんですね。ネットは別にそういう場所なんでいいですけど、現実の社会においてコレをやられた日には国は借金を抱えてボロボロになりました。
今までの人間関係を切らせるというところから精神科医は始めます、が、これは罠です。恐怖におびえる患者を外敵から守るフリをして引き摺り下ろして比べ物にならないほど酷いことを患者に対して行います。個人的な経験では、東京都新宿区舟町にて精神科クリニックを営んでいたN田四R医師はコレを行いました。「希望」という言葉で釣って絶望を与える唯名論者、犯罪者。ヤクザは右の定常状態に戻してくれるところの右な人たちなんでいいですけど、こういった藪医者はもうかるとかいった生ぬるい形容では済まない人を左へ蹴落として笑っている右の豚が自営しててもらうと社会に多大なる損益が生じるんですね。
もう少し個人的なところでは私は自分の母親がこういった人間で、家事はまともに行わず、ただでさえ質の悪い食材を何処から品を仕入れているのだか分からない生活クラブだか生協だかでわざわざ高い値段と引き換えに買ってきてそしてそれをきちんと加熱せず野菜類でも茹でるその他で悪いものを出す等の簡単な手作業を施さずに故意にそれより手間のかかる悪い調理の仕方で食卓に出す、ということをひたすら行っていた一見したところでは何を考えているのだか分からない人間です。ワザとやってるわけでしたけど。私は先にも書いたように精神に先立って肉体がもう若くして悪いんですけど、どうやらこの母親が悪いものを私が極めて幼い子供の頃から食べさせていたということに大きく原因があるようです。私は近日は一般のスーパーで買った極めて簡素な食事だけをしているんですけど、少なくとも悪いものを食わされていた時分に比べると体調ははるかに良いです。
結局はこういった連中は業(カルマ)を巻き起こそうとしているだけなんですね。これを資本主義上の精神なんたらと言うと聞こえはいいですけど、禍が巻き起こった分だけそれが現実問題としてのカネつまり経済学で考えるところの貨幣の流通速度の増加に反映されるかどうかとはちょっと別問題です。これは数学を使って解析できます。拝金主義と資本主義は違うので。金は拝むものではなく道具です。
精神を病んでいる人やそうでなくても女性に多かったりしますけど、「自分で」ということが分からない人が居ます。「自分で(自分の肉体の調子に合わせて事象の認知をコントロールする)」ということです。私も精神病んでいて永らくこれができませんでした。これは別に特別な能力でもなんでもなくて、人口の8割以上の人間には身体の健康を保つべきこととして当然に出来ていることなんですね。人口の8割以上は数学的に生きてます。「弱い人間がどうたらこうたら」という逃げ口上を使うクズが居ますけど、そういった非数学的な連中というのは「弱い」のではなくて「悪い」わけです。ただ単に「弱い」だけの人たちはちゃんと社会的に保護されるように出来てます。
対人関係において危機が訪れると幼児的な道化を行い逃げに走る人間がたまに居ますけど、こういった人間とて当然さすがに幼児的な「道化行為」によって他者を騙せると思っているのではなく、その道化行為のあまりの「幼児性」によって他者を欺き挙句の果てはその場においてのみ異常者であるとすら思わせ如何にしてその場を切り抜けるかということをその行為の第一義としている場合が余程の馬鹿でないかぎりほとんどなんですね。
極論すればこういった自暴自棄になって他人からして除外されるようなことを行う人間というのは「誰にも助けられない見捨てられた自分」に酔っているところすらあるんですね、それを自分がワルで悪党である証であるかのようにイタい勘違いをするということとともに。私はこういった自分の父親のようなカンチガイ野郎の幼児的なマスコミ的ピエロギツネを見ると凄まじく嗜虐心を煽られて殺意を覚えるんですけど、何故こういったのが社会的に許容されて生かされているのか甚だ疑問です。
管理するところは大人がしっかりと子供を見て管理しておかなければいけなかったのに、自由だの個人の意思尊重だのの名目のもとにいい大人たちが無責任であっただけ、neglectに走っていただけだったんですね。
科学的な(実証的な)立場からのものの見方しかできない人は、何らかの事象について合理的な解釈でgelesenしかつそれが説明できないと納得できないどころか自分を保っていることができないので、下手をすると「自分の中に装置が埋め込まれていてそこから電波が発して自分の思考を全て読み取られている!」とか「全人類は地底に埋め込まれた秘密の施設から情報を盗まれている!」だとかおたわけなことを仮にそれが精神科の診察室の中であっても吐いてしまったりするわけです。そう「なって(sein)」いる、ということがこういう人たちには理解できません。つまりは精神医学と文学(哲学的思考?)というのは切り離せません、というか精神科医はそもそもそれを狙って「治療」と称しているわけです、が、まあ一般には受け入れられないでしょうね、ということです。私は受け入れましたけど。大分症状は良くなりました。
漫画作品も漫画作品で紙というハードにコピーされた一つの世界に過ぎないのであって、まあ極端に言えば一つの物語世界として鑑みるのならば蓋然的というか数学的であるということができるかもしれませんけど、ああいったものの何が問題であるかというと、読者の現実問題に対処するにおいての具体的場対応と一つの固定された世界であるに過ぎない紙面の情報を読者自身が関連させてしまうというところにあるんですね。アニメもキャラクターがしゃべるゲームも同じです。前にも書きましたけど、「萌え」というのはそれの最たるものです。だからカワイイ女子中高生のアニメの女の子が出てくる萌えアニメとかは最悪なのであって、サザエさんだとかドラえもんだとかちびまる子だとかの日常を描いているようなマンガも悪質であって、いしいひさいちさんの四コママンガも危険なわけで、現実味の無いところの昔ながらにあるシンデレラとかの昔話や宇宙戦争の類のものが最もマンガとしての害毒が少なくてマシです。ガンダムの何がヤバかったかというと、プラモデルやカードダスやゲームで蓋然的な固定された世界を好き勝手に操作しうるという形で子供やマニアの日常に具体的に入り込んできていたということが危険だったということであって、監督が一つのアニメ作品として仕立て上げただけの単なる一過性のアニメーションだったらよかったんですね。そうすれば、あのロボットがかっこいいだとかあのアニキャラが萌えるだとかいったことに目を奪われずに、子供において「学ぶ」とは何かということについての自覚的理解がきちんと促されることに役立ってました。大塚英志さんは著書で「僕がファミコン時代のRPGに少しでも興味を持ったのは~」というくだりでこれと同じことを書いてました、物語は物語としてありきのものでゲームに存する被操作性が良くないと。プラモデルは子供が物を組み立てる作業を経るということで勉強にはなるかもしれませんけど。だから電子書籍の類で固定された情報を取り出しやすく工夫がされているだとかいったことはとくに何の問題も無さげです、そこに面白みで釣るだけであって学習を阻害するゲーム性が無いのであれば。電子辞書は良くないです、文字順に並んでいる紙の書籍の辞書が学習上良いのであって。同じくメモリを使うのであれば、ヘンな意味で理想的なアニメキャラよりも現実の女に萌えといた方がまだ賢いです。
それこそマンガでよくありますけど「目の前の現実が見えてない」だとかいうセリフ、これはナンセンスなのであって、人間誰しもやはり目の前の現実から完全に目を逸らすことは難しいということです、現象的にセリフとは逆であって。まあ異性間の愛のあるセックスだとかだと現実を失って溺れられるのかもしれませんけど、ちょっと私はそういうものについてはあまり知らないです。たぶん男が女を得るためにはギリギリ限界まで現実から目を逸らさないといけないところがあるんですね。
私は若い頃いわゆるワルだったわけではないので、そういう人たちのことは詳しくは知りませんけど、仮に「コワい」人物が居たとして、その人物に対して何も危害を加えるようなマネをしていない悪いことをしていない後ろめたさが無いというのであれば、別に恐怖の感情なんか湧かないはずなんですね。余程のバカでない限りいたずらに無意味に他者に危害を加えるということは、マンガや小説のお話の中以外では無いです。見た目が恐いだとかなんだとかいうのは小学生レベルなんでどうでもいいです、もちろんその人をその人たらしめるものを判断する材料にはなりますけど。ちなみに自分におけるこの後ろめたさの無さの指標となるものは、言語化して何がどうなっているかを説明可能でありそして自分が間違っていること相手から説明されてそれが合理的である場合はそれに可を下すということです。それが仮に現存在(Dasein)についての説明であっても。
物理的に「光の当たらない場所」というのは人工的に密閉された空間を作らない限り有り得ないですけど、物理的には光というのは電磁波だそうで、この光がその一種であるところの電磁波というのは真空または物質中をその振動が伝播する「現象」であるということです。「|∞|/0の相関関係」というのは物事の繋がりを考える上での分かりやすい言い表しですし、禍根を絶つということにおいてこれもまた分かりやすいものですし、もちろん良いことを行えば良いことになるということでもあります。しかしこれを履き違えると他者に危害を加えてもその現時点においてからの世界のなりゆきを考えるとどのような形でも仕返しを行ってはいけないということになるんですね。だから現実問題としては現時点で俺が何やっても俺の勝手ということになって暴力が跋扈して特定のイデオローグ内での社会は崩壊するということになりかねません。日本でも江戸時代は叉敵はご法度でしたけど、敵打ちは当然の権利として許容どころか認可されていました。この履き違えは全く現実を見ていない上に現実問題の検討能力の無さをアピールしているようなものであって、これが仮にもどこかの釣り以外の何物でもないオカルト新興宗教の教祖サマのように「|∞|/0の因果関係」という形でまかり通っていたならば、現代の社会にある技術はどれも存在しませんでした。瞬時の反応で他者を傷つけるような人間は、それこそ居なくなれどころか存在を許容されないということになります。神サマな人間は世界中何処を探しても居ないので。もしそれを力として振るいたいというのであれば、それは「この女だ!」と思った一人の女性を射止めるためだけにしてくださいということです、おヤクザさんになる覚悟の無い人は。
LEDの光なんてあんなもの光ではないんではないかと。あのLEDの光に照らされていると眼球が破裂しそうな程に痛くなるんですけど。昼間ずっと職場とか学校とかであの光に照らされていると間違いなく悪影響です。誰もが皆蛍光灯や白熱球の光を欲している上にその耐久性からしてもLED電球なんてあんなもの需要とは無関係に生産してます。電光掲示板や信号の等々のみの用途としておけばいいのに、滅茶苦茶です。明らかに蛍光灯や白熱球への需要が在ります。
鳳凰天翔。
仕事を使って人を育てるという発想があります。一般的に特に経済学部とかで行われる現代の大学教育を受けた人間が抱くところの「人を使って仕事が行われる」というものとは物事のとらえ方として逆です。前者は「普遍は個物に先立って存在する」ということであって、おそらく実在論的である(realistic)ということができます。後者は唯名論的、平たく言うとユダヤ的であって、強欲という言葉で形容されます。プロテスタンティズムのその中でも悪名高いカルヴィニズムもこれに同じです。日本語で「唯名論」なんて言葉を使うから分かりにくいのであって、これはnominalであって有名無実であるということです。全共闘とかコレです。「無実なものを名から無理矢理有らしめる」というと分かりやすいです。Max Weberが面白いことを書いてますけど、カトリック的な伝統主義的な一定の形式によって延々となされる労働において、特に未婚婦人がその労働力として使われる場合、仮にちょっと頭をひねればすぐそれより生産性の高い労働の形態を考案する能力を持つ者であってもその意欲に全く欠けており、出来高賃金率を引き上げても慣習に従うという形で同じタームで得られる(彼女らの中では)固定された賃金を得てしまうとそのターム内においてはそれ以上の賃金を得ようとしない、ということが起こるということです。いくら生産性向上の手法を説明してもそれを拒否されるということからして、未婚婦人の少女たちは意欲云々という以前にその宗教的土壌からして心理的に制約を掛けているんですね。で、ヴェーバーはドイツにおいては「慣習の壁にはね返されて」こういった事態が起こる、と言ってますけど、日本ではこれはおそらく逆の事態が起こるんですね。というのは、日本においては「『慣習の壁に押し潰されて』出来高賃金率にしたがって働いた分もらえるお金が増えたよ」という事態が起こります、これは拝金主義の逆パターンです。ドイツにおける前者のような労働態度は、むしろ資本主義イコールで拝金主義に走ってしまいやすい日本では肯定的に扱われ望ましいものとされます、賃金ではなくて事に仕える仕事本位だということであって金より先に仕事があり仕事のおまけとして金をもらえるという事が付随するということです。そしてそもそもウェーバーさんが語ってますけど、この場合においてドイツの企業家が出来高賃金率を上げた意図としては後者である日本における場合の現象が狙われています、これが資本主義です。文化人類学的土壌が違うと違うものは違ってきます。
悪質な精神科医の中にはこれを逆手にとる人間が居ます。人を使って病気をつくる、というわけです。つまり精神科クリニックにて精神科医が患者に対する親しさを装い患者に口を故意に開けさせ、そしてそれを箇条書きの様に情報の最小単位としてそれを記録していきそこから患者の人格その他の再世界化を開始して精神病患者を精神病患者たらしめるくらいのことを行う人間も居るということです。
自称「現場主義者」がいざとなると隠れて見えないところから他者の人格や性格の「タイプ判定」に及んだり、「逃げ」を肯定したりすることほど間違えの極みであってお陳腐なお笑い草の種は無いです。現場をイデオローグ化した瞬間に訪れるのは修羅の世界たる無政府主義であって、だからそれそのものからして他人を見下しての「お笑い」だということであって、「現場主義(笑)」というところに落ち着くことすら出来ない悲惨なほどのギャグのネタです。もちろんエニアグラム自体からは学ぶものは多いです、それこそユダヤの人たちの知恵なんでしょう。
個人的な経験では、M'z a 悪意(仮称)医師は自分ら精神科医の所属する精神医学界が「業界」であると名言してくれた良心的な医師でしたけど、精神科医の中には甘い言葉で女をたぶらかすように精神病患者を釣る悪質な人間が居るんですね。今かかっているN口クリニックのk子kurseマ医師はかなりのニーチェ的人間なんですけど、何故か現代日本ではニーチェ的人間の非ニーチェ的な一般的人間に対する逆差別というものがまだしぶとく存在するんですね。他人を自分特有の空気のみにてgelesenされたものとして扱い鼻で笑って見下す、それこそニーチェだとかガンダムの監督だとか、まあ分かりやすくは中二病だとか厨二病だとかです。現代日本だと一番分かりやすいのは一昔前までのネットの掲示板ですけど、おそらく前世紀までの戦後日本ではこういった弱者蹂躙をよしとする何かを勘違いした弱者がのさばってたんですね。ネットは別にそういう場所なんでいいですけど、現実の社会においてコレをやられた日には国は借金を抱えてボロボロになりました。
今までの人間関係を切らせるというところから精神科医は始めます、が、これは罠です。恐怖におびえる患者を外敵から守るフリをして引き摺り下ろして比べ物にならないほど酷いことを患者に対して行います。個人的な経験では、東京都新宿区舟町にて精神科クリニックを営んでいたN田四R医師はコレを行いました。「希望」という言葉で釣って絶望を与える唯名論者、犯罪者。ヤクザは右の定常状態に戻してくれるところの右な人たちなんでいいですけど、こういった藪医者はもうかるとかいった生ぬるい形容では済まない人を左へ蹴落として笑っている右の豚が自営しててもらうと社会に多大なる損益が生じるんですね。
もう少し個人的なところでは私は自分の母親がこういった人間で、家事はまともに行わず、ただでさえ質の悪い食材を何処から品を仕入れているのだか分からない生活クラブだか生協だかでわざわざ高い値段と引き換えに買ってきてそしてそれをきちんと加熱せず野菜類でも茹でるその他で悪いものを出す等の簡単な手作業を施さずに故意にそれより手間のかかる悪い調理の仕方で食卓に出す、ということをひたすら行っていた一見したところでは何を考えているのだか分からない人間です。ワザとやってるわけでしたけど。私は先にも書いたように精神に先立って肉体がもう若くして悪いんですけど、どうやらこの母親が悪いものを私が極めて幼い子供の頃から食べさせていたということに大きく原因があるようです。私は近日は一般のスーパーで買った極めて簡素な食事だけをしているんですけど、少なくとも悪いものを食わされていた時分に比べると体調ははるかに良いです。
結局はこういった連中は業(カルマ)を巻き起こそうとしているだけなんですね。これを資本主義上の精神なんたらと言うと聞こえはいいですけど、禍が巻き起こった分だけそれが現実問題としてのカネつまり経済学で考えるところの貨幣の流通速度の増加に反映されるかどうかとはちょっと別問題です。これは数学を使って解析できます。拝金主義と資本主義は違うので。金は拝むものではなく道具です。
精神を病んでいる人やそうでなくても女性に多かったりしますけど、「自分で」ということが分からない人が居ます。「自分で(自分の肉体の調子に合わせて事象の認知をコントロールする)」ということです。私も精神病んでいて永らくこれができませんでした。これは別に特別な能力でもなんでもなくて、人口の8割以上の人間には身体の健康を保つべきこととして当然に出来ていることなんですね。人口の8割以上は数学的に生きてます。「弱い人間がどうたらこうたら」という逃げ口上を使うクズが居ますけど、そういった非数学的な連中というのは「弱い」のではなくて「悪い」わけです。ただ単に「弱い」だけの人たちはちゃんと社会的に保護されるように出来てます。
対人関係において危機が訪れると幼児的な道化を行い逃げに走る人間がたまに居ますけど、こういった人間とて当然さすがに幼児的な「道化行為」によって他者を騙せると思っているのではなく、その道化行為のあまりの「幼児性」によって他者を欺き挙句の果てはその場においてのみ異常者であるとすら思わせ如何にしてその場を切り抜けるかということをその行為の第一義としている場合が余程の馬鹿でないかぎりほとんどなんですね。
極論すればこういった自暴自棄になって他人からして除外されるようなことを行う人間というのは「誰にも助けられない見捨てられた自分」に酔っているところすらあるんですね、それを自分がワルで悪党である証であるかのようにイタい勘違いをするということとともに。私はこういった自分の父親のようなカンチガイ野郎の幼児的なマスコミ的ピエロギツネを見ると凄まじく嗜虐心を煽られて殺意を覚えるんですけど、何故こういったのが社会的に許容されて生かされているのか甚だ疑問です。
管理するところは大人がしっかりと子供を見て管理しておかなければいけなかったのに、自由だの個人の意思尊重だのの名目のもとにいい大人たちが無責任であっただけ、neglectに走っていただけだったんですね。
科学的な(実証的な)立場からのものの見方しかできない人は、何らかの事象について合理的な解釈でgelesenしかつそれが説明できないと納得できないどころか自分を保っていることができないので、下手をすると「自分の中に装置が埋め込まれていてそこから電波が発して自分の思考を全て読み取られている!」とか「全人類は地底に埋め込まれた秘密の施設から情報を盗まれている!」だとかおたわけなことを仮にそれが精神科の診察室の中であっても吐いてしまったりするわけです。そう「なって(sein)」いる、ということがこういう人たちには理解できません。つまりは精神医学と文学(哲学的思考?)というのは切り離せません、というか精神科医はそもそもそれを狙って「治療」と称しているわけです、が、まあ一般には受け入れられないでしょうね、ということです。私は受け入れましたけど。大分症状は良くなりました。
漫画作品も漫画作品で紙というハードにコピーされた一つの世界に過ぎないのであって、まあ極端に言えば一つの物語世界として鑑みるのならば蓋然的というか数学的であるということができるかもしれませんけど、ああいったものの何が問題であるかというと、読者の現実問題に対処するにおいての具体的場対応と一つの固定された世界であるに過ぎない紙面の情報を読者自身が関連させてしまうというところにあるんですね。アニメもキャラクターがしゃべるゲームも同じです。前にも書きましたけど、「萌え」というのはそれの最たるものです。だからカワイイ女子中高生のアニメの女の子が出てくる萌えアニメとかは最悪なのであって、サザエさんだとかドラえもんだとかちびまる子だとかの日常を描いているようなマンガも悪質であって、いしいひさいちさんの四コママンガも危険なわけで、現実味の無いところの昔ながらにあるシンデレラとかの昔話や宇宙戦争の類のものが最もマンガとしての害毒が少なくてマシです。ガンダムの何がヤバかったかというと、プラモデルやカードダスやゲームで蓋然的な固定された世界を好き勝手に操作しうるという形で子供やマニアの日常に具体的に入り込んできていたということが危険だったということであって、監督が一つのアニメ作品として仕立て上げただけの単なる一過性のアニメーションだったらよかったんですね。そうすれば、あのロボットがかっこいいだとかあのアニキャラが萌えるだとかいったことに目を奪われずに、子供において「学ぶ」とは何かということについての自覚的理解がきちんと促されることに役立ってました。大塚英志さんは著書で「僕がファミコン時代のRPGに少しでも興味を持ったのは~」というくだりでこれと同じことを書いてました、物語は物語としてありきのものでゲームに存する被操作性が良くないと。プラモデルは子供が物を組み立てる作業を経るということで勉強にはなるかもしれませんけど。だから電子書籍の類で固定された情報を取り出しやすく工夫がされているだとかいったことはとくに何の問題も無さげです、そこに面白みで釣るだけであって学習を阻害するゲーム性が無いのであれば。電子辞書は良くないです、文字順に並んでいる紙の書籍の辞書が学習上良いのであって。同じくメモリを使うのであれば、ヘンな意味で理想的なアニメキャラよりも現実の女に萌えといた方がまだ賢いです。
それこそマンガでよくありますけど「目の前の現実が見えてない」だとかいうセリフ、これはナンセンスなのであって、人間誰しもやはり目の前の現実から完全に目を逸らすことは難しいということです、現象的にセリフとは逆であって。まあ異性間の愛のあるセックスだとかだと現実を失って溺れられるのかもしれませんけど、ちょっと私はそういうものについてはあまり知らないです。たぶん男が女を得るためにはギリギリ限界まで現実から目を逸らさないといけないところがあるんですね。
私は若い頃いわゆるワルだったわけではないので、そういう人たちのことは詳しくは知りませんけど、仮に「コワい」人物が居たとして、その人物に対して何も危害を加えるようなマネをしていない悪いことをしていない後ろめたさが無いというのであれば、別に恐怖の感情なんか湧かないはずなんですね。余程のバカでない限りいたずらに無意味に他者に危害を加えるということは、マンガや小説のお話の中以外では無いです。見た目が恐いだとかなんだとかいうのは小学生レベルなんでどうでもいいです、もちろんその人をその人たらしめるものを判断する材料にはなりますけど。ちなみに自分におけるこの後ろめたさの無さの指標となるものは、言語化して何がどうなっているかを説明可能でありそして自分が間違っていること相手から説明されてそれが合理的である場合はそれに可を下すということです。それが仮に現存在(Dasein)についての説明であっても。
物理的に「光の当たらない場所」というのは人工的に密閉された空間を作らない限り有り得ないですけど、物理的には光というのは電磁波だそうで、この光がその一種であるところの電磁波というのは真空または物質中をその振動が伝播する「現象」であるということです。「|∞|/0の相関関係」というのは物事の繋がりを考える上での分かりやすい言い表しですし、禍根を絶つということにおいてこれもまた分かりやすいものですし、もちろん良いことを行えば良いことになるということでもあります。しかしこれを履き違えると他者に危害を加えてもその現時点においてからの世界のなりゆきを考えるとどのような形でも仕返しを行ってはいけないということになるんですね。だから現実問題としては現時点で俺が何やっても俺の勝手ということになって暴力が跋扈して特定のイデオローグ内での社会は崩壊するということになりかねません。日本でも江戸時代は叉敵はご法度でしたけど、敵打ちは当然の権利として許容どころか認可されていました。この履き違えは全く現実を見ていない上に現実問題の検討能力の無さをアピールしているようなものであって、これが仮にもどこかの釣り以外の何物でもないオカルト新興宗教の教祖サマのように「|∞|/0の因果関係」という形でまかり通っていたならば、現代の社会にある技術はどれも存在しませんでした。瞬時の反応で他者を傷つけるような人間は、それこそ居なくなれどころか存在を許容されないということになります。神サマな人間は世界中何処を探しても居ないので。もしそれを力として振るいたいというのであれば、それは「この女だ!」と思った一人の女性を射止めるためだけにしてくださいということです、おヤクザさんになる覚悟の無い人は。
LEDの光なんてあんなもの光ではないんではないかと。あのLEDの光に照らされていると眼球が破裂しそうな程に痛くなるんですけど。昼間ずっと職場とか学校とかであの光に照らされていると間違いなく悪影響です。誰もが皆蛍光灯や白熱球の光を欲している上にその耐久性からしてもLED電球なんてあんなもの需要とは無関係に生産してます。電光掲示板や信号の等々のみの用途としておけばいいのに、滅茶苦茶です。明らかに蛍光灯や白熱球への需要が在ります。
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