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 「これにて勝て」。




 私は僕という一人称に対して嫌悪感を感じるんですけど、ある程度の主体性を持つ大人になってから僕という自称を使っている男は、「僕」を前提とした「君」を理解していない、オカマ野郎だと考えるのが妥当です。今の若い人たちはネットのおかげでいい意味でも悪い意味でもだいぶん主体性が養われていそうなので、自分のことを「僕」とか言う人はあまり居なそうですけど。

 私がこのブログを書き始めたのはM'z a 悪意医師その他不特定多数の未知もしくは既知の人間による挑発と抗精神病薬リスパダールの作用とマンション階下からの日あたり数時間におよぶ激しいモーター音のような騒音による嫌がらせの相乗効果によってです。釣りや挑発であるといえばそれまでなんでしょうけど、まあ貴様も生きていることを示せとばかりの年上の人間たちからの御達しだったのかもしれないくらいには思ってます。



 歴史上キリスト教徒はユダヤ教徒に改宗をせまることがありましたけど、これは改宗さえすればユダヤ人はユダヤ人でなくなり健常な人間になるということ、そういう考え方なんですね。社会学でnature or matureという分類があるらしいですけど、キリスト教は近世あたりから現れた一部の思想の潮流を除いて完全にmatureです。教育を重んじます。で、科学的態度や実証的態度と言えば聞こえはいいですけど、「ものわかり」の悪い、natureな人たちというのが居るんですね、私もその一人でした。いわゆる論理実証主義に埋没していくことの害毒は先にも書いた通りであって、「ユダヤ」の一言で表すとなると語弊がありますけど、結論ありきの前提のもとに都合の良い事実だけを持ち出すことによるこういった人たちのそうでない人たちに対する逆差別というのは凄まじいです。
 例えば、「何もしていないんだったら病院なんか行かなくていい」と言われた人が居たとして、言った人は「薬物による対処療法に拠ってまで為すべきことも無いのであれば、ほとんど何も食べる必要はないし肉体からどんどん悪いものを出して根本的に事態を改善していけばいい」という意味で言ったのに、言われた人は「みんな体が悪くなったら病院に行くのに、この人はボクにだけ病院へ行くななんて言ってボクを攻撃しようとしている」という場の空気で何たるかを読んでしまっているわけであってこの人は精神を病んでいる病人なんですね。これが「攻撃しようとしている」ならまだしも「攻撃している」だったら完全に発狂してます。ちなみに精神疾患を文明病と呼ぶ言い方も日本語にはあります。

 客観的や主観的といった表現がありますけど、「客」というのはslaveで「主」というのはmasterです。客観性が発達していること・客観的な目を持つことは現実に適応して生きていく上で大事ですし、もちろん文明を発展させてきたのはヒトにおける事象の客観的な認識ですけど、「自分で」ということがどういうことなのか分からないと確実に物事間違えて失敗します。科学的に実証された個々の事実が間違いであるということは無いですけど、その個々の事実から何故か「嘘と真実」というところの「嘘」の方へ走ってしまうように戦後の日本の義務教育によってプログラミングされてしまっている、実証されていないことは事実無根である故間違っていると考えるというよりは思ってしまうように思い込まされてしまっている、ということです。仏教でもキリスト教でもイスラム教でも宗教の考え方を持ってきて「神」がどうであるこうであるというから客観的に物事を見ようとするバイアスが係っている現代人には「分かり」にくいのであって、そもそも「客観的」や「主観的」といったことをあまりにも客観的に捉え過ぎると認識を誤る、「主」観的に事象を捉えると物事何がどうなっているか分かる、つまりヒトの体の構造は皆同じであって知能の高低の個人差によらず考えることは人間皆同じということです。主観的というのはマンガでよくあるような感情剥き出しで何もかも個人的な好き嫌いで判断するとかそういったことではないです。



 ちょっと分かりにくく文学チックな表現で申し訳ないですけど、私が知っているところで以下ヒトの行動について簡単に説明します。
 ヒトの行動において、健常な人間というのは、原我(イド)たる「右」の定常状態からそれが仕事であっても良心としての超自我の現れとしてのコミュニケーションであってもいいですけど「左」へ流しつつまた「右」の定常状態へ戻るというパターンです。カルマな異常者は、我欲と区別のつかない自我(エゴ)そのものたる「左」の不安定な状態から「右」の工学化された形で勝手に設定した人間関係を利用して「左」の不安定さが仮初めの安定を得る性愛な状態を自分以外の誰も彼もに求めるということであって、他者を知のバラつきとして駒のようにしか見なすことができないということです。
 ヒトの恋愛行動においては、オスはアニマの幻影を特定の異性に求め唯名的かつ実在的になるのに対し、メスはアニムスの具現体としての特定の異性において彼を象徴化して知識のバラつきと同化させようと試み、その条件を満たす相手を理想の男であると見なします。平たく言うと女性は恋愛において絶対知たる自分と同じものを男性に求めるということです。そして何もかも捨て去った時に初めてその自覚が芽生えるイドを満たしてくれる女を想うことが男における肉欲に邪魔されない本物の恋というやつです、「ああ、俺はあの娘が好きだったのか」と。特異例として、あまりいい思いをしてない女の人は、「なんで男ってこんなに馬鹿なの?」と言わんばかりに、絶対知たる自分をアニマとして仮想的に設定し男性だけではなく女性も含めて当該他者がそれと同じく定常そのものでないことに対する負の感情として怒り・妬み・憎悪・恥意識その他を仕事やコミュニケーションとして具現化させる男性的人間を演じるので、男から見て好色の対象としての女に見えます。受肉した救い主というか、いい意味でも悪い意味でも救いの女神みたく見えます。中島義道さんはドストエフスキーの憎悪を「血も凍るような」と形容してましたけど、少なくとも数十億人にのぼる人類の半数はドストエフスキーとは比べ物にならない程の憎悪で血が凍るどころか常に沸いてます。女です。女性が腹に抱いている憎しみというのは男性のそれとは比べ物になりません。そして、あまりいい思いをしてない男の人は、それが仕事や一般的なコミュニケーションとして昇華されるべき超自我をアニムスとして仮想的に設定して外ヅラから一見したところでは女性的人間を演じるので、女から見ていい意味でも悪い意味でも完全な男に見えます。デモーニッシュと言えばそりゃそうだということです。前者はヴァルキリーで後者はオーディンだと考えると分かりやすいです。破壊衝動と性欲をお世話をしてくれることによって取り除いてくれるイド・ブレイカーで戦乙女なヴァルキリーさんにとって理想の男はオーディンだけです。



 コンピュータのプログラミングとかは子供の積み木遊びみたいなもんなのであって学校の勉強の数学の問題を解くのがそうであるように一つ一つ定題を積み重ねていけば誰でもできるようになってますけど、経済変動は基本的に予測不可能です。Joseph Alois Schumpeterのように後世にそれを分析して景気の変動に循環を見出した人も居ますけど、シュムペーター自身が言うように現代のように短期間で急速に様々な技術によって企業革新が為されているタームにおいては予測どころか分析すらもナンセンスです。この日本という国では去年の震災後どうなっているのか私はよく知りませんけど。
 経済学者の中には「経済学は人間の行動を分析するものであって、金の学問だというのは間違っている」と言う人が居ますけど、これは間違ってます。経済学は経て済むことについての学問であって、それを考察するのに現実問題としてヒトの生態における様々な形態での貨幣の利用ということについて鑑みるのが最も理に適っているから、というよりは人間の性愛について経済学的には分析できませんしそもそも分析する価値もありませんし物々交換の経済を想定するのは時代を履き違えており現実に役立たないのであって貨幣の存在を介さずに人間の経済現象を考察するのはナンセンスだからです。ちなみに現在2012年7月23日時点での為替レートが1ユーロ90円台前半だとか、目玉が飛び出るほど驚きます。
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