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JEDERMANN
 パパは何でも知っている。




 私はロンドンオリンピックの競技を見るために一年数ヶ月ぶりにテレビ番組を見たり新聞を触ってテレビ欄を見たりしているんですけど、見ない方がいいくらいのくだらないバラエティー番組なんかやらなくていいんでもっといろいろな競技の生中継放送やってくれないですかね?
 馬鹿な日本人レポーターが「○○選手にあこがれてオリンピック目指して欲しいですね」とホザいてましたけど、これは前後の内容が行動として全く矛盾していてぜんぜん物事分かってないバカの言かもしくはお仕事で適当に言っているだけのお発言かもしくは悪意を含めて言っているかのどれかですけど、私が見た限りではちょっと許し難いほどに酷いものがありました。陸上競技でフライングをする選手が目立っていたのが印象的だったんですけど、一回のフライングだけで退場させられて競技資格を失うというのがキツ過ぎるというのはちょっと置いておくとしても、日本のNHKのレポーターの

「(フライングの)理由は何でしょうか?」

「あ~~、気持ちのあせりとかでしょう」

とかいったやりとりには心底呆れさせられます。何故フライングの理由を当該選手ではなくて真横であくび半分のジャップのレポーターに聞くんですかね?こんな馬鹿な四コママンガみたいなセリフを吐かれるくらいだったら何も言わない方が余程気が利いていると思うんですけど。あとテレビカメラの前で泣きそうになっている競技に失敗した女子選手に無理してインタビューしなくてもいいでしょ、というかここでこそ気を遣えと思うんですけど。



 ああいったアスリートの世界に生きる人たちは「自分との勝負」といったことをよく言いますけど、如何に主観的ということが大切であるか、自分が「主」観的に「いつもの」力を出せるか、ということが実に大事であるんだな、ということが競技もその競技が行われるにあたって敷かれている個々の具体的形式についても見ていて分かります。
 誰かしらの選手が言っていた言葉かどうかうろ覚えなんですけど、「自分の力を恒常的に出しきることのできることが選手として大事」、これは何事においてもそうです。要するに一種のビビらなさ勝負なんですね。たぶん剣道とかやる人たちはよく知ってそうですけど、平常心とか恒常心とかいったものです。私はこの点においては未熟なので、残念ながらあまり出来た人間ではないです。

 あと日本人が表彰台に上るわけではない競技の表彰式についてほとんど中継されずにカットされてるんですけど、あれもいかにもなんで止めて欲しいです。
 真面目という表現で形容される人間が居ますけど、真面目な人間というのは学校等で公式に教わったこと以外は誤実であると見做します。これは傾向があるどころではなくて、そのままその通りです。私もおそらく真面目の部類に入ります。先の記事で書いた、「ビタミンBが足りなくなると脚気その他で具合が悪くなるから豚肉を食べましょうね」という論理実証主義に根ざした「良いところだけ見せる、悪いところは見せない」教育の落とし穴もここにあるわけであって、こうやって真面目な人間がどんどん犠牲になって釣られていきます。

 私は、親が酷いものを食べさせていたせいで自分が肥満体で筋力が弱くて体の使い方が全く良くなくて、子供の頃から運動が出来る人を見るとうらやましくて仕方がないんですけど、球技はいまだにあまり好きにはなれないです、が、ちょうど昨夜生中継で見ていたところのあの男子トライアスロンの1位と3位で入賞したBrawnlee兄弟はカッコ良かったと思いました。地元選手で兄弟であんなことやったらば格好良いなーと。私も大学生の時にちょっとだけ多摩川沿いをジョギングしていたことがあるんで、あのHyde ParkのThe Serpentineという池のきれいな水辺を走れるのは良いなーと思いました。



 帰納的な(?)人間たちは実際にパズルのピースを重ね合わせると答えが出てくるという形でストーキングを行っておきながら、それにターゲットが気付くと一般の人間はそれを見出す能力は無くそれに気付くはずがないのであって気付いたターゲットは精神が異常であると形づける、というやり方で自分らの暴力を肯定させるというやり方を行います。さらに悪質な人間になると現代の医学における統合失調症であるということを利用する頭の悪いどころか馬鹿な人間まで中には居るのであって、この暴力を告発すると普通は気付くはずのないこの暴力に気付いたから精神が異常であり統合失調症である、という理屈を暴力を振るう側はまかり通らせることができることに何故かなっている、というものです。低脳が調子に乗るなという問題であって、小学生のやる学校の勉強の教科書の問題のように単純に済むわけは無いんで、こんなことがハイそうですかとまかり通るわけがないんですね。私SSの場合は大手マスコミ新聞関係者であった私の父親の関係で日本のマスコミにこれをやられました。で、こんなものは精神分裂病というものが形作られた百何十年の昔もしくはそれ以前のずっと昔からやられていたわけであって、何度も書いているようにVirginia Woolfなんかはこれで自殺しましたしAdolf Hitlerさんはこれで狂気に走らされて何千万人の人々が犠牲になりました。で、現実問題としては加害者側としてはもちろんターゲットの被害者が何らかのアクションを起こしてくれないと面白くないもしくは自分らとしても「やって」られないわけであって、当然あらゆるほのめかしによって自分らが被害者を被害者たらしめていることを被害者に知らしめようとします。ネットでもなりすましその他で勝手に被害者のキャラや人格を捏造してその捏造したものに勝手に発言させての因縁付けその他いくらでも行ってきます。一般的には被害者はもちろん被害を訴えるという行為に出ますけど、その被害の訴えこそが精神が異常であると断定されることの材料として使われるという有様です。まあ分かりやすく言うと、それが絡みではないと普通のヒトの客観視能力では分からないように特に第三者にはそれを証明できないように微少に絡んでおいて逆に被害者に自分たちに対して絡ませて叩くか、もしくは絡んでおいて後からそれが絡みであったと知らせるかというやり方でその時点で自分たちに対して絡ませて叩くか、ということをこういった汚い悪党たちはやらかすということです。何処の犯罪国家なんですかね?この日本という国は。

 トライアスロンというか三段論法じゃないですけど、積み重ねの思考によって人間は思考を展開させていきますけど、抗精神病薬の効能によって知や思考内容の積み重ねその他客観的な時間軸に沿っての思考というものが阻害されます、基本的に。つまり『「ささいな外圧や外的要因によってそれが阻害されてしまうものである』という認知」を植えつけられることになります。よって、暴走バイクの騒音や通行人のささいなニヤつきが、それが不特定多数の人間によるストーカー行為によるものであっても仮にそうでなくても異常なまでの被害感とともに認識されるようになります。抗精神病薬ジプレキサは服薬中、抗精神病薬リスパダールは服薬を止めた後(服薬中は何もまともに考えることは出来ず行動もおかしくなります)、「左」へ釣られやすくなるということです。それぞれの現時点でのDaseinを元にnichtから(何かを)演繹していけばそこに断続的に自己(self)が導かれうる時間軸に沿った一種の帰納的世界が広がるということなんですけど、演繹的な情報の「積み重ね」が如何なる理由みよるものであれ阻害されるということは、自己(self)が引き裂かれるということに他なりません。……実はこれは商品名マイスリーや商品名ロヒプノールといった睡眠薬やパーキンソン病の治療に使われる商品名アキネトンといった薬物で即解消されるものなんですけど。この睡眠薬やアキネトンを使用するとあまり黄色い尿が出なくなります、何より急速に肉体が肥満していくのでその薬効の恐ろしさを身を持って知ることになります。大食いでもあまり太らない人というのはおそらく薬をほとんど飲みません。

 ……その人にとってはそれが普通なので仕方が無い、ということであって、私は男なのでまだよかったですけど、被害者もしくは被治療者にとってトラウマにならないようなやり方を選べということです。そうやって常態へ修正していけばいいんで。
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Apollo
 ガブリエルの身軽さ。
 白いロシアを愛してる。




 昔の記事で抗精神病薬は服薬してからしばらくのその状態で定常たらしめる薬効のあるものとか書いたんですけど、どうやらそうではなくてヒトの肉体にまつわる本来的な定常状態たらしめるものというのが正しいです。というのは、どの抗精神病薬も飲んで寝ると必ず悪夢を見るというのもありますけど、どんどん腑に落としたものが出てくるんですね、記憶の欠片として。おそらくヒトの能力において忘却なんてものは無いのであって、記憶は潜在意識に溜まっているということです。何より最近私はこの統合失調症という病気から実に良くなってるんですけど、あまり以前ほど抗精神病薬が効かない、飲んでもあまり状態的に変わりません。おそらく服薬しているだけでも薬効がある間に時間は経過していきますから、意識上に浮かび上がらせてまた再び腑に落とすという形で同軸別形骸化して記憶を更新するのであっても統合失調症の治療としては効果があるんですね。私はその脳裏に焼きついた(妬きついた)ものが意識上に浮かんだ瞬間に言語化して記録して体外へ出してしまうことをお勧めしますけど。だからやはり精神科医が統合失調症患者に対してひたすら抗精神病薬を投薬しようとするのは理には適ってます、適切とは言い難いですけど(特に抗精神病薬リスパダールの場合は。私のお勧めは抗精神病薬ジプレキサです)。何故ならば精神科医は患者に対してその治療の理念や具体的方針やどのようにして病気が治療されどのような具体的経過を辿っていくのか全く教えないからです。informed consentが聞いて呆れます、まあそれを教えたら真の治療にはならないということなのかもしれないですけど。



 先ほど現地時間お昼12時前後のロンドンオリンピックの男子マラソンの中継を見てたんですけど、優勝したウガンダの選手は特にゴールインの瞬間見ていてとても気持ちがいいものでした。
 そのNHKの実況をしていた二人のレポーターの人のうち、お決まりの通り事実を淡々と言っていく人と、もう一人の関西弁の弱く混じり気のある鼻に少しかかったうっとおしいしゃべり方で実況をする人の声を聞いて「あ、」と思ったんですけど、ここで客観的に事態を感知しようとして不快感に頭を占領されると物事見失うということなんですね。もちろんこれは「事実の報道ともう片っぽはコレだぞ」というアピールです。「右」で定常していると左とはどういったもので右とはどういったものであるということが分かる、「左」で客観的に事態を判断しようとしていると「挑発的なしゃべり文句である」という事実から発生する人間として避けようのない不快感に呑まれて何もかもをも見失う、ということです。それはパスカルが言うところの「審判の不確定」であり、迷いと否定の区別がついていない地獄(煉獄)の状態だということです。デカルトの「われ思う、故にわれあり。」は肉体の背後に精神が在るというcogitoに絶対的にはたどり着けない悲愴な精神の二重性(多重性)を説いているのであって、音楽的であり、キリスト教的な煉獄がそこにありと言われているということなのかもしれません。音楽はやはりドイツというかドイツ語の産物ですけど、Thomas Mannは悲愴というか悲劇的という表現を安易に自国民(wir Deutsche)に適用するなと警告したそうです。

 女子の新体操も見ましたけど、ロシアとかベラルーシとかウクライナの女の人はものすごく奇麗ですねー。球技やレスリングの類はあまり個人的に好きではないというのもあるんですけど、陸上競技だとか演技種目はやっぱり自分との勝負なんであろうということでこれらに興味があります。アトランタやシドニーを見てた年頃はセクシー姉ちゃんくらいの感じで見てただけだったんですけど、今は彼女らの凄さが良く分かります。

 で、一年といくらかぶりにテレビを見ての感想なんですけど、何をどう考えてもテレビを見ないというのが賢い選択です。皇室の雅子様は家庭内にテレビが無い環境で育ったそうです。



 完全な文学作品を作ろうとしたらば地球に丸すっぽりと表紙を付けるしかないとかなんとか言ったのは坂口安吾ですけど、単純に概念化された二項対立を前世紀のアメリカとソ連の東西冷戦に置き換えて考えるのはアプローチしやすくはありますけど取っ付き方としてあまりよろしいものではないです。この日本という国では前世紀はこういったことを学校で教えられてましたけど、現実問題としてそりゃ皆が仲良くした方が良いに決まってるわけで。どうしても具体的なモノとして概念とそれを置き換えたいというのならば自分の左脳と右脳というところが究極のところっぽいです。

 男はターゲットにおいて先に労働を引き出しておいてそれを確認してから権利(と報酬)を与える、女はターゲットにおいて労働を与えるより先に喜びを提供して「じゃあ、がんばってね」、というやり方です。昔話の「北風と太陽」みたいなものであって、現代社会においてはやはり男原理は暴力と見なされ旅人は余計に服を着込んでしまいます。実は前者が性善説で後者が性悪説なんですけど。まあ男は女を見るだけで喜びを与えられてます、それをカワイイ女の子がイヤらしいといって嫌がるのだとしても。「居てくれるだけでいいから」という女性のための言葉もあったりします。
 
 右は右、左は左、これが本来のものではあります。ただ肉を持つ時点で人間が完全たることはできないのであって、これは67年前に失敗に終わって日本は原子爆弾を二つも落とされて大勢の人が犠牲になるという最悪の結果に終わりました。
 「左」までイききって、そこで止めて皆で我慢しよう、ということでここまで来てやっとよろしいことで。「左」へイききってしまっているが故に無害な(?)神の民ユダヤ人。有害なのは「左」を志向している(帰納的な)蓋然的自己から放れられず自己同一性と主張の内容が同一化されてしまったようなそれを主張してぶつけ合う利己心の強い人間達であろう、という。
 あまり書きたくないですし関係ないですけどOscar Wildeとかは太宰治と同じく重度の中二病患者です。ドリアン・グレイだの退廃だの堕落へのノスタルジーだの、すべて(笑)を付けうる中二のアレです、(笑)を付けるのもはばかられるという程には病的なかわいそうさは無いというところはポイントではありますけど。不特定多数の人間によるストーカーによる私SSの個人的な被害関連で言うと、例えば、スーパーの納豆売り場前で夜の22時前にもかかわらず異様な黒服でベビーカーを一人で押した茶髪の昔のサラリーマンの七三分けの髪型をした20歳代の男が現れる、とか。表情もワザと納豆置き場から逸らす方向へとベタなマンガやドラマの三文芝居的に視線を作ってるんで、見た瞬間に「あっ、アレだ」と思うわけなんですけど、見せ付けとしてアレというかベタ過ぎてツッコむ気にもならないわけであって、まあ具体的詳細を省いて記録するのならば要するにその小学生の学芸会じみたベタベタな見せ付けのアレを解釈によって読了しなければ気になることも無いのだよ、というありがたくも教えを授けるための演劇なのであろうということです。……がしかし、この(ベタベタであり低レベルな)個別の事象からそれを積み上げてそこから新たに低レベルな妄念的解釈(コンテクスト)を生み出しそれに合わさせようとするというのならば、この小学生並のものを行う大根演技者は即刻叩き斬られるべきではあります……と思ってしまったら負けだということのようです。



 人がどうやって独裁者たらしめられていくのか、ということにもまた人間関係の本質が在ったりします。ヒットラーは真面目な人間を評価し尊重しそして当人も真面目過ぎるが故に悪質な連中にほとんど利用されたかわいそうな人でした。スターリンやフセインといった独裁者たちはこの限りではないです。ヒットラーがどういった様にこれら独裁者と違うかということを知りたければ、「わが闘争」をお読みになることをお勧めします。今はネットでも読めるんじゃないですかね。

―前略―
クレメンス「彼は動物の中で死んだ。そして僕らはさまざまな象徴のなかに溶けこむ、と、そう君は考えているんだね。」
ガブリエル「もちろんさ。それらの象徴が僕らを魅惑する力を持っている限りはね。」
クレメンス「だが、何処からその力がそれらの象徴に生ずるのだい?いかにしてあの男は動物とともに死ぬことができたのかね?」
ガブリエル「それは僕らと世界とが決して別々のものではないということからさ。」
クレメンス「君のその考えのうちには何か異常なものがあるな。何か不安な感じを起させるものが。」
ガブリエル「反対に、限りなく安らかなものがあるのさ。自分の重苦しさの一部を振りはなすことができるのは、たとえそれが息を一つ吐く神秘な短い間だけだとしても、唯一の快適なことなのだ。僕らの肉体のなかにはあらゆるものが鬱陶しく圧縮されている。その恐るべき重圧から幾重にも解放されることは、どんなに嬉しいことだろう。」
―後略―

というHugo von Hofmannsthalの"Das Gespräch über Gedichte"(「詩についての対話」)という作品の中で語られているガブリエルには、ホーフマンスタールさんのアニマがあらわれているかのような。文学者の古井由吉さんという人の解説を読むと、「なにか確かな原典を前において知性と感性をかえって自由に透明にはたらかせているといった趣き」と書いてありましたけど、おそらくその通りです。ちなみにこのホーフマンスタールさんはJohnny Depp似の紳士的な美しい顔をしてます。

 私はJポップだと小室哲哉さんの曲とか浜崎あゆみさんの歌とかJanne Da Arcの曲とかが好きなんですけど、特にJanne Da Arcの曲はちょっとJポップ音楽とは思えないほどに出来が良いんで、私は実に好きなんですけど、GUILTY PAINとか歌詞も教訓が含まれていて良いです。ARBEIT MACHT FREIはただの殺人行為であり間違ってますけど、鉄は血と命(の何たるか)を教えるということであって、日の光に当たっときゃ夜も眠くなるのに、ソドムで退廃を極め過ぎると天の火で焼かれます。LED電球の光なんて光とは見做され得ないわけであって、あんなもの鬼畜の技術作品です。



 西洋人は基本的に言語による契約の取り交わしによってコミュニケーションを成り立たせます。だから日本人の言うところの「お友達」なんてのは西洋人的な価値観においては「同じ園での戯れ相手」ということであって、別に友達でも何でもないんですね。だから彼らの間ではHelen Kellerのような人は特別扱いされます。実際現代においても欧米諸国は福祉政策が充実してます。ヘレン・ケラーさんはその身体的な特質からして事象の認知において「ものわかり」から入っていった人です。私はヘレン・ケラーとは逆パターンであって、ものわかり云々というよりは事象の認知において蓋然的に全て記憶するという方法しか知らずに、それを自我意識にまで適用どころか適評してしまって蓋然的な自己を持ち過ぎているという精神の病気でした。
 で、別にこれはこれで文化的にそれぞれ成り立っていくのならばいいんですけど、そうではなくて、外資さんどんどん入って日本の土壌を焼き払って根こそぎ持っていってくださいね、というのが現実なんですね。資本主義が自壊したとか言っている人も居ますけど、ちょっと私はそういった妄言についてはよく知りません。で、だからこそ協力できるところは協力していかなければならないのに、場を離れたらハイ関係は解消で後はネットで適当に連絡取り合って都合に合わせて利用しあってくっついたりはなれたり、ということであってはそりゃ日本の社会も上手くいかないわな、ということです。全共闘とかに走ると失敗するでしょうけど。やはりそこにベースとしてあるのは肉体を持つヒトの限界として東洋の神秘でも何でもなくてただのエゴです。ここのところの記事で何回も書いて説明しているんですけど、特定の異性との男女関係以外にこのエゴを持ち込むなというんですね。いまだに学生の人とかにあるのかどうか知りませんけど、この我一人女を得て他は蹴落とすというこの弱者のエゴイズムが災いの元凶です。あとはエゴと勘違いされただけの正義だとか(実はイエズス会というのは歴史上こういったところがありました)。権利というのをこれに含めてしまうのはちょっと言い過ぎ・現実を見て無さ過ぎですけど、前にも書いた通り正義というのは数学的であるということです。他にあるのは夏目漱石のようなエゴと勘違いされただけの自称のうわべだけの個人主義を振りかざしたりだとか。
 漫画家の三浦健太郎さんが分かりやすい死神とそれに脅かされる人間たちの絵を描いてますけど、Freund Heinという記事で書いたように死というのは共同体への所属であり、「(わざわざ)生み出して、殺す」ということをやらかすのがメタファー上の死神です。ただ単に生きている者に肉体の死をもたらすのは死神ではなくて救世主です。「死」という現象を作り出すからこその(アカい)死神だということです。私は小中学校でそういった教育を受けましたけど、自分にやがては訪れる肉体の死をやたらめったら恐ろしいものであると恐怖感から先に子供たちに教えるのは間違ってます。



 小説でもアニメでもありますけど、社会の裏側というか仮想的な社会主義の象徴としてのメタなピラミッドというものが、創作をする人たちの一連のテーゼになっているのではないかと。「エジプト嫌い、ピラミッド嫌い。仮想上、メタ上のピラミッドを歴史上のそれへタイムスリップして現実に見て、石室に人身御供として押し込められて、そこで愛を確かめあうしかなくなった男女二人の物語。」というような内容の藤子不二雄のどちらかの人の作のアニメを子供の頃に見たのが個人的に印象に残っているんですけど。
 妄想というのは、亡き女を思うこと、亡き女の相の心と書くんですね。ガブリエルは女性的、というか他の天使が男性か両性であるのに対して智天使ガブリエルは女性であるという見なし方もあるそうです。

 私はアメリカも大好きです。アメリカの人たちが開発してくれたおかげで私もネットを使えるので。
Anhedonia
 鐘を鳴らされつづけても拒否するかそれを故意にではなく感知しない男。




 私も私立文系の出なんであまり偉そうなことは言えないんですけど、私立文系なんてクズのチンピラにある程度の社会的価値を付与して黒犬のような愚昧な戦闘力として使用しうる様に形付けるためだけに設けられているものだと言っても過言ではないです、残念ながら。それは早稲田だろうが慶應だろうがほとんど同じです。いかに入ってから勉強させられる上智だとてそうです。しかもMARCHあたりまでは東大から順々に先生たちが降りてきて教職に就くというケースがほどんどであって、その学校で学校に残って先生になった人というのはもう全共闘あたりの年代がほとんど最後です。まあでも流石に東大出の先生たちが優秀なのはよく分かりますけど。
 もし大学受験前の人とかでこれを読む人が居たら言っておきたいんですけど、教科の種類や多少に関係無く基本的に戦闘力は偏差値の数値に従って出ます、例えば慶應SFCの学生とかは数学と英語だけでも旧帝一期校を除いたそこらへんの国公立大学の学生よりはやはりレベルは高いでしょう。が、せっかく大学へ入ってお勉強の内容が乏しかったらどうしようもないということなんですね。戦闘力の高い人間を野放しにしておいてはもったいないということもあるんでしょうけど、ちょっとそういった時代は終わりかかっているみたいではあります。
 上智大学という大学がありますけど、あそこは上智大学というよりは上智高等高等学校みたいなところです。高等教育というよりは高等後期中等教育のような教育をやります。女学校です。専門家的にではなくいろいろなものを幅広く学びたいというgeneralistめいた欲求がある人間にはいいところなんですけど。外国語学部だけは、例えば外国語能力を運用してその類の教職に就きたいだとか学歴ロンダリングで海外の大学院を目指すだとか欧米の銀行に就職したいだとかいった人のために外国語運用能力を徹底して身に着けさせる外国語実業学校的な教育を施してくれますけど、他の学部はやはり高等後期中等教育の色合いが強いです。我々よりもっと上の世代の人たちの時分のその昔は上智は女東大と呼ばれていたそうです。やはり女子学生の数は多くて美女だらけです。私は女の人には近寄りませんけど、やっぱり美女が多いと気分は良いです。

 私が通ったところの大学には入学時に幼稚園の仲良し学級取り組みみたいなオリエンテーションキャンプとやらの仲良し旅行に参加させられるというものがあったんですけど、旅館の大部屋で18歳や19歳の人間たちが胸に名前の書いた札を付けて自己紹介しあって握手し合うという耐え難いほどに幼稚なものだったんですね。
 で、その後で阿呆な教授が授業中に「オリエンテーション・キャンプなんかやらなくていい、オリエンテーション・キャンプがないと友達が出来ないというのはさびしいことだ!」とかホザいていたのを覚えているんですけど、オリエンテーションキャンプだかなんだかのくだらねえ仲良し旅行ゴッコがあるから友達が出来ねえんだろうが分かれよアホということであって、特に大学へ入るにあたって地方から出てきた人に多いんですけど、まったくこういったもののバカバカしさについて分かって無いんことが多々あるんですね。誰だって馬鹿な人間を相手にはしたくないわけであって、シカト(無視)するものはシカトします。また私も馬鹿な人間にはシカトされて相手にされないことを望んでいるところもあります。

 京のぶぶ漬けなんざその空気を読みきった上で提示者のオツムの上に茶碗をひっくり返して被し返すのに正当な感情と契約の発露が存在するんですね。ウザいというよりは、おそらく西洋人から見ると無能な東洋人が図に乗るなということであって、そりゃLed Zeppelinのおじさんたちも日本刀でホテルの部屋をズタズタに切り裂いて傷つけて帰っていくわけです。しっかりと当人に対して言うことは言葉で直接言え、と。私がこんなこと言わなくても前の記事で書いたような本来的には異性愛関係においてのみ取り交わされるべき日本的コミュニケーションを取っている人間は結局仕事が出来ないと言われてバカにされるんではないですかね?まあよく知りませんけども。



 性善説に基づく対人関係における表面的な他者に対する不信というのは他者への無意識的な加害に繋がってしまっている場合が多々あります。人間関係を工学的に認識してしまっているからです。人を信じられずに場合によっては人を傷つけてしまっているということであって、言語による意味内容の取り交わしの契約関係がそこにあるという前提がそこに無いからこういった齟齬が生まれてしまうということであって、(愛なら)行動で示すだの何だのそういったのは女の子相手のキャッキャウフフのための世界においてのみ通用するものであって、というかそうしてくれ、ただ一人の嫁さんを愛するその為にリビドーを垂れ流さずに保存しておいてくれ、ウザいから、それどころか他人に危害を加えること多々ありきで有害だから、ということです。
 つまりはだから前世紀によく見られた10代の子供の頃から不良になってしまう少年少女には他者を傷つけてでも生きのびねばならないといった行動原理に取り憑かれてしまっていた人間がドラマやマンガの世界だけでなく多かったということです。

 私は「ラブロマンス」という表現に長年疑問を抱いていたんですけど、やはりloveはROMANCE、loveだからこそROMANCEなのであって、男のロマンといったものはお遊びであり嘘臭いです。ドイツ・ロマン派というのは、Novalisとかは私も読んだことがあるんですけど、結構いい感じのラブロマンスじゃない、ラブだからこそのロマンスでいいじゃない、くらいに思いましたけど、中二病な類のものを除いて。
 そして結局昔も今も私は愛とか恋とかいったものは基本的に分からないです。私はホーフマンスタールさんみたいにガブリエル的な神的に清潔なアニマを持っていてその影たる追い求めるべき女性が現存しないとかそういったお高いところに居るわけではないですけど、ごまかしの無い話としてたぶん私が異性である女性を見て感じているのは残念ながら肉欲だけなんで、そういったものを自分の中にだましだまし封じつつ三十路を過ぎてそういった類の欲望ももうほとんど無くなった今、愛だとか恋だとかについては、その愛とか恋とか自分に分からないものがどういったものなのか知ろうとしたところのその内容をガタガタこのブログ記事で言っているこれがこれで私のアカな最後の派手な灯火です、たぶん、これが。一般的な健康的な人たちは10代や20代でこれのもっと激しいものを味わい体験するんでしょうけど、私には結局愛というのも恋というのも理解できませんでした。文字ヅラ的、もうちょっと上手くいけば概念的には理解してますけど、たぶん実体験しないと分からないんでしょうね、こればっかりは、と思います。……先の記事で書いた「何もかも捨て去った時に初めてその自覚が芽生えるイドを満たしてくれる女」を想うことがあるにはあるんですけど。母親以外で。



 恐怖の感情から学ぶことはありますけど、私がこのブログで書き連ねているようなことが、実際私SSにおいてはまかり通ってますけど、まあまかり通るのであれば、誰だっていつ殺されるか分からないという社会環境の下生きることを余儀なくされるわけであって、何処の暴力帝国サードエンパイアだということであって明らかに社会通念上おかしいということになります。ひたすらな脅しと強請り(ゆすり)と下手をすれば集り(たかり)の世界です。あの不良少年たちは凄まじい世界の住人として生きていたんだなという感慨を私は今になって抱きます。そりゃ肉欲でなく真の孤独から女を求めるわけです。しかし現実問題としては、こんなことが平然とまかり通るのであれば誰もが健常には生きていけなくなるのであってじゃあこの日本という国は国民から見放されてさようならということになります。これについてはさすがにわざわざこんなことを言葉にして説明しないと分からないというのは頭が悪い以前に馬鹿であるという以外に言い様がありません。私はまだ中年になったばかりですけど、じゃあ日々質素に暮らしているご老人たちはどうなるんだどういう扱いを受けるんだ、ということになります。これは悪事に加担しない限りでどういった社会生活を送っているかという類の問題ではないです、行われているのは脅しと殺しですから。

 こういった恐怖政治が敷かれているような社会に生きざるを得ないつまり社会制度上「誰も助けてはくれない」ということであれば、それを一部の悪徳な人間たちがいくらひた隠しにしたところで崩壊へと向かっていきます。犯罪者やあわよくば悪党が生産されてしまうからです。人と人とが助け合うのはそれがどういった形態をとろうとも人間社会の基本なので。で、一種の羅刹国であった日本というのはこうやって67年前に戦争に負けて終わったんです。私は戦前の教育等々日本の良いところも書いてますけど、やはり悪いところや臭いものにフタをできるわけはないです。
Wer Wind sät, wird Strum ernten.
 ネタフィジカルな因果応報。




 今日は部屋の窓からおそらく二子玉川でやっていた花火大会の大きな花火が見えてとてもきれいでした。



 先日の記事で夢がどうこうとかそれを記述してどうこうとか書いたので、参考までに私が見たものを書いておきますね。

「何か老年の某俳優E氏と協力して学校の課題か何かを終わらせるというもの。昼間のうちにE氏の家へ行き、そこで課題を共にこなそうとするのだが、E氏は午後も夕方手前あたりからテレビゲーム漬けでありまったく課題をこなそうとしない。私は呆れていたが、途中でE氏の家族か親戚か友人か(おそらく友人ではない)何かとして小学校の同級生Y君が出てきて、そのE氏の課題のこなさなさ具合を賞賛的に扱う。夜の11時頃になって、私は限界だと思い、もう電車がなくなるから課題の「夏の友」だかなんだかの冊子かなにかを返してくれと言うが、そこでE氏とY君が本性をあらわし、そんなもん無いよ~んといった感じ(表情)で私の帰りを邪魔しようとする(駅のイメージは渋谷駅の東急百貨店の下つまり山手線の切符売り場のやや東側あたりがその元となっているものである)。それから時間がさらに少し過ぎ、これはもう二回ほどある乗り換えを考えると、三路線目の電車は夜遅すぎてなくなってしまうのであるということを悟り、冊子「夏の友」は結局見つからないまま旧知人Y(Y君とは別人)の旧家の間取りに似たE氏とY君の家の玄関を出るか出ないかというあたりのところで目が覚める。」

「歌手Kが自居住マンションへ突然現れ、頂上(?)からその特徴的で絶大なボイスで全力で歌うというものであって、その後『じゃあ、なんとかだから僕はバイクで帰るから』とかなんとか言って去っていくというものであった。その周辺に旧知人Sのキャラ(?)影(?)がちらついていたようで、笑えはする。その後ワルい連中が蛮族のようにマンション前にたむろってウロウロしていたので、ああ、ちょっとアブないかな、と思って屋上へよじのぼって避難したが、そこで上から様子を見ていたらいつの間にか何かのセレモニー会場のような式典が敷かれていて、そのワルが居た位置でNHKのロンドンオリンピックの実況番組の司会の上着にエメラルドグリーンの服を着ていた唇の分厚い色気のあるお姉さんが『(なんとかなんとか)、Y先生(とかなんとか』と言って、それへのレスポンスとして私がうつ伏せに寝転がっていた屋上付近の位置から少し下に位置する私のだいたい左斜め前あたりにポジショニングしていた老年の学者Y氏が『なんとかなんとか)を動かしているのはこの男かもしれない、○○○○○○』と何やらカタカナ六文字の名前を発した。」

「欧米の都市部で見られる超巨大なスーパーのようなところを私の知っているR.M嬢が私と一緒に居たり居なくなったりで商品を買うでもなく歩いているというものだが、途中で何か重要な職務の一つとして現場アルバイトのような(ダンボールさばき?)ことを行う某政治家の人や、『これがあなたのクスリよ』と言わんばかりに突如現れてちょっとプライドの高そうな重厚な雰囲気を漂わせ白衣を着た小学校の同級生Uさんが現れたりだとかいったものであった。R.M嬢とUさんとその他に誰か女の人が一人居たには居たが、非常におぼろげであって目覚めた後では顔を思い出せない。」

 これはもちろん抗精神病薬ジプレキサの薬効が加わってます。抗精神病薬を服薬しないとここまひどい内容の夢は見ませんし、見たとしてもこれが恐怖感とともに認識されることはないです。抗精神病薬を飲むとこうやって悪いものが意識上に出てくるということです、それには身体感覚の健常さも伴っています。文字ヅラとは逆説的に、精神医療において行われているのは体罰の逆関数(つまりは体罰の一種)です。つまり、重症の分裂病患者にいきなりやったらめったら抗精神病薬を投薬しても下手をすると逆効果だということです。



 何故私が「空気を読む」ことを覚えたかというと、先の記事でも書いた通り私の父親が幼児の頃の私に対した処遇によって私は危機管理意識を幼児の頃から植えつけられていたからです。「パッとその場の状況を客観的に認識するようつとめて何がどうなっているか知らなければ他者に殺される」という感慨を自分以外の人間に対する基本的なものとして私は私の親に幼児の頃に植え付けられました。これは自分を取り巻く状況を瞬時に全て腑に落とすということであり、24時間常にムカついているということです。女性は男性よりはるかにこの苦しみを味わっているのであって、だから絶対に女には危害を加えるべきでないです。

 例えば、私が冷蔵庫の野菜室のトマトをどう育って何が含まれているか分からないものとして食さないことを取り決めた時のその直後、私の父親は私に「冷蔵庫にトマトがあるから食せ」と言う、ということを行います。私が子供の時分に私に対して行われていたことは、これが物理的な暴力であったり、幼児の私に対する言論とまた同時に私の言論を封殺することによる暴力でした。当然父親は、まあ親子のものというか私の行動の特質を知り尽くしているというあたりのところから(もしくは、何らかの具体的手段にて)私の感慨を全て見抜いており、これは「実態としては他者に対する加虐行為(虐待)であるが、幼児的判断によれば『第三者には加虐行為としてではなくあわよくば善行として認知してもらえるというもの』であり、他者対する加虐行為を行うという自分本来の目的は達成されると同時に老年故他者においてこのような幼児的判断を下してもらえるはずもないことは知っているが何より自分をも騙して自分は善行を行ったと思い込みうる自慰にひたれる行為」です。この行為に及ぶ私の父親は極めて幼児的であり、不良中学生程度どころではなく幼稚園児程度です。

 前にも書きましたけど、Oliver Hirschbiegel監督の映画「ヒトラー ~最期の12日間~」に登場するヒットラーが自分の父親にそっくりであるという感慨を抱きますし、個人的に「ヒットラーは演技性人格障害である」と言った精神科医を知っているんですけど、私の父親はおそらくこの演技性人格障害の類です。もしかしたら私SSと同じ統合失調症であると診断されるかもしれません、私は妄想型でしたけど、何種類かある統合失調症の型のうち別の型で。精神科医の先生に聞けば分かりますけど、この男自分が精神異常者であると見做されていることを極度に恐れているんですね。よって精神科なんて絶対に行きませんからそもそも精神異常であるかどうかの判断を精神科医に下してもらうことすらできませんし、さらにはこの男内科や外科や歯科ですら医者にかかることを嫌がります。まあだから結論から言うと典型的な精神異常者だということです。真性のキチガイに「自分はキチガイだ!」と言う人間は居ないということであって、精神疾患もこれに似たようなものがあるのであって、特に「自分は統合失調症ではないか?」とワザワザ精神科を訪問して自分からたずねる人間に統合失調症患者は居ないそうです。私の父親は、幼児の頃から他者に対して「自分を傷つけないでくれ!」と言わんばかりの幼児的なキレ方をするその様が異常でしたけど、おそらくはキレるフリをしていたということです。もしくはキレたフリをしてその場の問題から逃れた自分の身の安全さに酔っている、とか。どちらにしろ異常です。はっきり言うと、火炎放射器は使わずにマッチで細かなところから人には分からないように放火して回る朝鮮人にユダヤの卑屈さと不真面目さが加わったような男です(朝鮮の人たちを差別する気は私には無いですけど)。いわゆる左翼の典型です。自分は他人に慈悲を与えるのは嫌だが自分は限りなく他人から慈悲を与えてもらいたい、という幼児というよりは犯罪者みたいなものの典型です。しかもあろうことか60歳を過ぎて人前で泣き真似を行うことすらあるんですね。この異常さ具合を何と表現していいのか私には分かりません。覚悟してヤーさんになるとか以外で、何故悪質な人間が悪質な人間として社会的に許容されて生きていけると甘えに基づいた発想を行うのかが私には全く理解できません。仮にもこういった悪質な人間が学校の教師でもやっていた日には最悪なことになります、まあ今の50歳代がくたばれば大分減るでしょうけど。
 この私の父親は大手マスコミ新聞関係者でしたけど、自分で曰く「社長に嫌われて会社(新聞社)を追い出された」と言ってましたけど、おそらくこれは事実です。で、これは近親として言わせてもらえば当然であって、その社長Aさんが健常な人間としての感覚を持った人であってのことであればこれは当然のことです。どこかの読売赤熱豚新聞とは違うでしょうから。やはり朝日新聞社や毎日新聞社はマスコミとしてはまだまともです、日本の中では。

 統合失調症(精神分裂病)であった私の行動としてあったものは基本的にこの「空気を読む」ということだけでした。この「空気を読む」という行為は「空気で読む」ということでもあり行為として最悪のものであって最も愚劣で最も醜いものです。もちろん現代社会に生きる人間はその成熟に従ってある程度は必然的にこの能力を身に付けざるを得ませんけど、その成長スピードに限度というものがあるわけであって、問題は年齢にそぐわず老化・老成してしまっているということです。よって、例えば私の場合だと肉体の見た目というのは相応に醜く不細工です。何故私がそれでいて悪事や痴れ事に(あまり)走らないかというと、その空気に内容を設定しているからであって、「悪事を行ってはならないという空気」「痴れ事は醜いものであると認知すべき(く)空気」その他によって私は私の行動どころかおそらくは無意識的に思考までをも制御しているからです(教育が効果を発揮しているとも言えます)。つまりは本来的に人間的な中身と見た目が異なる者というのは居ないです(空気によって行動や言動や思考までをも制御することを現代日本人に植え付けたサブカルチャーの功罪は大きいです。まあ本当に子供が読む用の良い漫画も昔はありましたけど。あと良質なのは手塚治虫の漫画とか)。……分裂病患者は生きることを拒否しているわけではないですけど、死なないヒトは居ないということです。生半可な治療を施して放り出すのならば、責任を持って殺してやれということです。

 私もそうですけど、人間関係を実体験から学ぶのが不得手もしくはそもそもあまり興味も持たないという人は、川端康成の「掌の小説」というのが新潮文庫から出ているので、これを読んでるのが分かりやすく且つけっこうな勉強になるのでオススメです。そうすれば、倫理的教育が効果を発揮する云々の以前に、「ものわかり」に基づいた行動の制御についての認知が生まれる、やってはいけないことはやらないようになります。
Parthia
 安息。




 遅ればせながらネットでロンドンオリンピックの閉会式を見ました。John LennonのImagineはしみ入ります。やっぱりああいう人々を感動させる能力を持ったすごい人というのはすごいんだなと思わされます。
 日本のメタファーとして美しい日の出というものがあったりしますけど、イギリスは曇りが多くても夕焼けが美しかったりするんですかね?朝焼けが美しいと天気が悪いとかいうのは聞いたことありますけど。今は平和になりましたけど、大陸へ意識を惹かれやすくつまりは恐れているのが日本人の文化人類学的特質だったりします。

 最近は台所で湯が沸くのを待ちながら立っている時に窓の外から匂ってくる下の階からの煙草のほのかな香りも心地良いんですね。まあ解釈に浸りきった問題意識で実害を受けても笑っていたらただの馬鹿ですけど。



 ちょっと性的な話で申し訳ないんですけど、私はペニスの大きさが健常な成人男性の半分くらいしかありません。だいたい非勃起時の状態で4cmとか5cmとかです。勃起してやっと健常な成人男性の非勃起時の状態より少し大きいくらいです。で、最近よくあるんですけど、状態が良くなって「ああ、今調子が良いな」と思うと非勃起時の状態でも12~13cmくらいあります。この時は精神的に実に安息してます。尿の色も黄色くなってちゃんとしたものが排泄されます。その時に勃起すると「ああ、こりゃmaxだな、」という感じで調子が悪い時に勃起した時よりも少し大きいくらいになります。つまり先天的な形状として陰茎が短小であるということではないです。たぶん泌尿器科とかへ行って医師に見せると異常であると言われますけど、精神的に悪い状態の時だとずっと陰茎がしぼみっ放しであって、それを正常な状態であると見なされてしまうということです。肥満体の男性にはペニスの大きさが小さい人が多いですけど、精神を病んでいる人間の場合はストレスを溜め続けて24時間精神的に悪い状態なので常時ペニスが萎縮したままなんですね。ペニスが萎縮しているのが精神的に悪い・異常な状態の証であると考えるのもまた妥当です。私は肉の付き方も女性的であってきわめて贅肉が付き易いです。ヒトの体は精神的に悪い状態だと水分を摂取しただけでも簡単に肥満したりします。オリンピックの競技の映像で筋肉の付きのいい白人さんや黒人さんを見てると、この陽気な人たちは極めて精神的に良いんだろうな、と思わされます。
 だから私は女性の苦しみとまではいかないまでも老年期を迎えてインポテンツ等を患って性的機能不全に陥った男性の苦しみはよく分かります。私は子供の頃から二十数年間調子が悪い状態で、それが苦しいのだという自覚すら無く、やっと最近健常に近い状態がどういったものなのかを知りました。もちろん女性は健常者であっても下手をすると男性の統合失調症患者以上に苦しい思いをしてます、生殖器的な問題で。

 男性的な発想としては、対人におけるコミュニケーションによる垢のような付着物によって「左」へ増してしまっていても右の定常点へ戻らずには居られないのでその時に虚偽や人間の愚かさが噴出すると言うわけです、例えばシェイクスピアのように。後世にヘーゲルは逆にこの時宗教や芸術が成立すると言ってますけど、おそらく純粋に男性原理的な発想としてはこれは人間にまつわる愚かさ以外の何物でもないんですね。シェイクスピアはこれを権勢等に対する欲求とそれにまつわる実行動の失敗例として、人間の愚かさという形で書きました。というよりは、ハムレットでもジュリアス・シーザーでもシェイクスピアの書いたものを読んで思うんですけど、定常状態からの愚かさによるそれのまぐわしという形でそもそも工学化された人間関係がそこに存在することが(おそらくは無意識的な)絶対的条件となっているのがシェイクスピアの作品の物語筋でありそのバッドエンドたるそのものなのかな、と。男性原理的と言えば男性原理的ですけど、人をモノひいては自然界そのものと同等としか見なすことができず駒としか考えられないのであれば、最終的には女に指一本触れないかもしくは最悪の場合女に絶対服従を突き付けるということになる・そしてそこから(何もかもが)発するんで、工学化された人間関係がそこにある限りで「そりゃそうなるわな」という問題です。

「 シーザー ―前略―なんでもわしの像が、百も水口のある噴水のように、まっ赤な血を吹いたというのだ。すると逞しいローマ人たちが、笑いながらやってきて、その中に手を浸したそうだ。妻はそれをなにか悪いことの起る警告、前兆だというふうに解釈して、ひざまずいてまで、今日は是非家に引籠っていてくれとせがむのだ。

 ディシャス その夢の解釈は間違っております。それはたいへん結構な、目出度い夢でございます。閣下の像がおびただしい水口から血を噴いて、その中に市民たちが、笑いながら手を浸したというのは、それはローマが、閣下を通して復活の血を吸い、貴顕紳士たちがわれ勝ちに、血に浸した形見の品、記念品んどを求めに押寄せるということであります。奥様の夢の意味はそういうことでございます。

 シーザー なるほど、それももっともな解釈だな。」

これはWilliam Shakespeareの「ジュリアス・シーザー」のシーザーを死に至らしめるミステイクの始めのところですけど、キリスト教国家の真っ只中を生きる後世の劇作家の創作であれ皮肉にもシーザーが最も望まぬであろう死が救いであるというキリスト教の教義をイエス・キリスト生誕以前に自身で立ててしまってます、解釈という言葉を象徴・メタファーでとらえずに単に現実に起こりうることの問題解析としてしか見なさずに。この後シーザーは「ブルータス、お前もか?(して汝、わが息子もか)」と言って殺されます、エディプスコンプレックスに。
 私はこのブログの記事で何度も恐怖心というものを否定してますけど、人にはビビらず物にはビビれと。他者をモノ化したらば確実に他者に殺される結末が自身にやってきます。

 それが一時的であれ身体の特徴的にあまり男性的でない私みたいな人間は自分の(問題解析としての)解釈を入れすぎて実害を食らう場合が多いですけど、男性的な男性は他人における(象徴としての)解釈を捨て過ぎてあっさり肉体が死んだりだとか。女をナメてるとたぶんバチが当たるんです。
So be it. & Let it be.
 この記憶消したいだけ。




 私は昔警察官の人と話しをした時に、「器。人間は器だからな。」、と言われたことがあったんですけど、その時は、まあ昔からあるありきたりな説教だな、と愚かしくも蓋然的に判断してそれを読了してしまったんですけど、今は少し勉強してこの警部さんか警視さんかが言ったことの何たるかがよく分かります。つまり世界における再世界化の道具たるcogito、「器」だということです。
 思い出すに、週間少年ジャンプとかで警察官をネタにした最低なマンガがありましたけど、あれは警察官に対する不信感と安っぽさを煽る最悪に悪質なものでした。頭が悪かったり無教育だったりする人間は警察官(公務員)にはなれません、社会制度上そうできてます。

 精神云々で考えて抽象的な方向へ持っていこうとしてしまうから分かりにくいのであって、物理的な現象として考えると分かりやすいです。私は黒く生えてくる体毛を全て剃ってるんですけど、これもまあ然りです。そして、これはWodanという記事でも書きましたけど、おそらくは、行っていることが、象徴的に、「思う」という形で脳裏に浮かぶということなのであって、夢も被害妄想・加害妄想もすべてこれです。やはりフロイトという人は偉大です。ユングはBrutus的というか男にとって女というのがどういったものなのか分かっていないちょっと子供じみた感があります、イドのなんたるかを知らない機能不全めいた。

 前にも書きましたけど、精神医学と文学は切り離せません。「悪いものが内から外へと出てくる」という文学の文学たるコンテクスト(?)のそのままの通りであって、現代の抗精神病薬を用いた投薬治療を主とする精神医学とて精神分析(学)の礎の上にあります。
 だから基本的に統合失調症は薬を飲んでりゃ治ります。私のお勧めは抗精神病薬ジプレキサです。抗精神病薬を服薬しても妄想が出なくなったり身体感覚の異常さを感じなくなったりしたところで完治です。完全にこの状態に至ることは生活を営む肉体を持っているヒトの身としてはあり得ませんけど、成人してある程度経った人では認識力を損なわないままでモノにまつわる感じ方や情景がいたずらに偏向した感動(たとえば中二病的なもの等)を伴わずに子供の頃のそれに戻って美しく感じられだしたところでほぼ問題解決だと考えれば妥当です。後は調子に合わせて服薬したりしなかったりで体調を見計らっていけばいいということです。ここまで治療が上手くいったヒトは、生活するもしくは「生きる」ということがどういったことなのかについての健常な感覚を取り戻しているので、もうタナトスに惹かれて中学二年生なオスカー・ワイルドになることはありません。



 女性は「そこまで生きたところのもの、それが人生」という物事の考え方を理解しにくいです。やはり男性に比べて肉体にハンデを背負っているものとして目的達成に偏ってしまいやすいです、特に子供を産んだ女性は。昔は「子供を背中に負ったおっ母さん」の偶像がかなりあわれなものとして描かれてましたけど、私はあれはちょっと思い浮かべただけでかわいそうになります。

 男性に比べて女性の方がよく口から言葉として出す「生まれてよかった」という言葉は、おそらく体感的には女性よりも男性の方が知ってます。男性にとっては女性が居てくれるので、それが当たり前すぎるものとして自己の存在の無根拠な肯定へと繋がってます。ただやはり知的・知識的には女性の方が知りうるだろうな、という問題であって、それは熱力学方程式でも貨幣数量説でも村上春樹さんが一番最初に言ったありえない「完璧な文章」や「完璧な絶望」でも(もしくは「完璧な絶望から生まれる文章」でも)いいですけど、全ての存在がマクロに世界に関与していることを知っていることの証です。希望と絶望が同じになった時に「生まれてよかった」と女性は愛する男性に対して愛の言葉を口にするのかもしれません。
St. Elmo's fire light
 一番良い光は、火の明かり。
 女と火と技術。




 マンションの一階下に住まう老人からの嫌がらせの巨大なモーター音のような騒音に関することなんですけど、このブログを書き始めてからだんだんと頻度が減っていって、最近ではほどんど無くなりました。そのマンション下階の部屋からは時々掃除機の音がすることがあるんですけど、コンクリートの床越しにかなり微弱な音であってこれは隣室においては別に騒音という程のこともない音です。で、掃除機の音というのは直接聞くとかなりひどい大きな音がするのであって、これを何時間も直接に聞きながら日常生活を営むことは不可能です。だからこのマンション下階のスポーツクラブ経営の老人は明らかに振動の類でコンクリートの壁越しには爆裂な騒音として感知される装置を使って嫌がらせをしていたということです。いったいどういった手段で若いころ不良のゴミであったであろうこの害虫老人がこういったものを入手したのかは私は知りませんけど、こんな嫌がらせ目的の装置なんざ秋葉原あたりへ行けばいくらでも売ってるんですね。ああいったところには盗聴器製造業者が作った盗聴器発見器とかも売っているくらいです。まあ私の視点から言わせてもらえばどれもこれも最悪です。



 もう今あまり居ないと思いますけど、前世紀には頭の悪いので試験の類をやたらと敵視するチンピラが居ましたけど、「人間関係の云々に関して答えさえ合ってればいいっていう……学校の試験みたいに……」ということをホザく人間に関しては、「では実体験でさえあれば答えが間違っていてもいいんですか?」と百回くらい問い詰めたくなります。こういうのは(バカな)男に多いですけど、愛という名のもとに暴力と区別のつかない間違えた答えを女に押し付けて被害者は泣き寝入りするまでダメージを負っているのに当人は愛の証とばかりに意気揚々としているというのが正当なものとしてまかり通っていたものである前世紀は本当にこういったバカ犯罪が多かったわけです。私はセクハラの類を行う男は即刻陰茎と睾丸切除でいいと思うんですけど。射精のし過ぎは体に害があるのであって、一般的な男性にはもちろんお勧めできませんけど、もうこういうのに限ってはネットでエロ画像でも見て適当に解消しとけという問題です。もちろん痴漢冤罪その他男性が被害に遭うケースもあるのであって、私は満員電車に乗る時は女性が接近するとカバンその他でガード壁を必ず作ります。

 若い頃チンピラの不良だったような男に居ますけど、働いているからとか稼いでいるからとか、そんなものが自分の正当性の根拠になるはずが無いんですね。平気で他者特に女に暴力を振るったりだとか第三者には極めて分かりにくいようにマッチで火を付けて放火してローマの街を火の海にして自分は安全地帯からしたり顔で笑っていたりだとかするゴミクズにおいては、いいからお前は稼ぐな、働くな、一刻も早く首を釣って死ねということなのであって、あっさりと首を釣って死なせてもらえることを許容されていることをまだ感謝すべきなんですね、こういったブタにおいては。しかも場合によっては「あれはおれがやったんだどうだすごいだろう」と自分の無力無能を立証して挙句に何を勘違いしたか威張り散らすようなピエロギツネな弱虫男におかれましては、だからテメーは嘲られて軽蔑されてバカにされてイジめられて排斥されるんだろうがいい加減悟れブタ畜生が、という問題です。まあこういったのが平気で跋扈してしまえる社会においては、これらは何処の無政府主義野蛮人国家の住人だということになるんで、どんどん排斥されて然るべきであるということです。犯罪が無いもしくは少ないというのはその当該社会が運営されるにおいて最も重要なfactorです。



 第二次大戦後の日本の大学教育のレベルの低下もそうですけど、労働者階級というよりは、労働者的発想を持った人間たちが社会の上層に入り込んでいったからおかしいことになったんですね。つまり大学のレベルが低下したのではなくて大学というものの社会における属性が変化してしまったというと妥当です。医師や弁護士や大学教授といった職に本来的に就きうる人達は、こういった労働者的発想を持った人間たちとは決定的に違います。あえて言うなら理科系の技術畑の人達はまだ労働者属性に近いものがあります。経済史ではこれをもうちょっと詳しく時代や場所に合わせて独立自営農民だとか下層貴族(ジェントリ)だとか資本家階級だとか労働者の中の有産階級だとか産業資本家だとか賃金労働者だとかその他いろいろに分類して考察します。ヒットラーはArbeiterparteiを引き連れながらもおそらくはあまり労働者属性な人間ではないです、自身も真のニヒリストたる純粋労働者の偶像たらんとしていましたし、現代でも「ヒットラーは実は最高の演出家だったのではないか」と言っている人もいますけど、ある程度はそれを自覚しておこなっていたのかもしれないということです。ご自身も著書で研究室に扉にヒットラーとムッソリーニの写真を貼られていたとおっしゃている、一見したところではこれと似たところの哲学者の中島義道さんという人は、かなり労働者属性の強い人です、逆に。仮にですけど、人間を単純に強者と弱者に分けることができるとすると、

 Ⅰ 自分より強者に対して強く、自分より弱者に対して強い、という人間

 Ⅱ 自分より強者に対して強く、自分より弱者に対して弱い、という人間

 Ⅲ 自分より強者に対して弱く、自分より弱者に対して強い、という人間

 Ⅳ 自分より強者に対して弱く、自分より弱者に対して弱い、という人間

が考えられます。Ⅰの人間はおそらくほとんど居ません。たぶんナポレオンとか前世紀まで歴史上の人物として出てきた指導者なんかによく居た類の人間です。Ⅱもあまり居なそうですけど、おそらくは善良と呼ばれうる類であって、私SSはこの類の人間です。Ⅲはマンガに出てきそうな典型的な悪党であって、クズです、上述の通り社会に禍を巻き起こす業の深い必然的に排斥されうる人間です。Ⅳは一般的な善良な市民であって、人口の大多数を占める人たちです。このうち全ての人間に対してそうであるという点で人間関係を工学化しているのはⅠとⅢです。Ⅰはほとんど存在しない上にそもそも現代社会では許容されませんけど、このⅢの類の人間というのはハンパではなくウザいのが傍目に見て即分かります。Ⅱは逆に全ての人間に対して人間関係を工学化していない人間であって、そのせいで痛い目を見ることが多々あったりします。Ⅲは一匹一匹狙撃していけば簡単に屠れますけど(一撃死が有効)、Ⅱには一定以下のダメージは無効化されて一定以上のダメージは通らないと考えると妥当です、例えばドラゴンクエストのメタルスライムやはぐれメタルのように被ダメージが0か1かしか存在しないとかもしくは攻撃者の攻撃力に合わせて0から数百数千のダメージまでをも与えうるうち10という数値のダメージしか通らないとか(0~9と11~のダメージは被ダメージとして判定されないということ)。Ⅰは主体性があってかつ人間関係を工学化している人間、Ⅱは主体性があってかつ人間関係を工学化していない人間、Ⅲは主体性が無くかつ人間関係が工学化されている人間、Ⅳは主体性が無くかつ人間関係が工学化されていない人間、です。Ⅰはある意味神的であって全ての人間がⅠの種類の人間ばかりだったらば上手くいくでしょうけど残念ながらそうではないです、言うまでもなく人種差別をするのもされるのも大好きで他者を蹴落とし災禍を巻き起こす人災の種となるのはⅢです。
 一般的には、強弱というのは程度問題として考えられます。学校の勉強の点数や偏差値でもそうですし、オリンピックみたいな結果が具体的数値となってあらわれるスポーツ競技会もそうですし、RPG等のゲームとかでもそうです。が、これを数直線上で計られうる上下の程度の問題として認知してしまうのではなくて、「弱」という属性や「強」という属性であると考えると物事分かりやすくなります。たぶん我々子供の頃ゲームはやらずに攻略本を読むのが良かったんですね。昔のファイナルファンタジーの攻略本とかゲームをやらずに読んでるとおそらく勉強になってたっぽいです。
 たしかプレイステーションのFRONT MISSION 2のゲームで、スキル付与で「20以下のダメージ無効」というのと「100以上のダメージ無効(上限ダメ100)」というのがありましたけど、これを両方付けときゃ超高頻度のザコ攻撃やdeath penaltyになりうる破壊的大ダメージは食らわないというわけです。RPGでもがむしゃらに難敵のステータスを高くしたり状態異常無効や特定の属性攻撃無効を付加したりするよりもダメージの数値に属性性を持たせて適当なダメージでないと通らないというふうにすれば倒せない嫌な敵が出来上がると思うんですけど、非レアアイテムを捨てたり売ったりせずに使わざるを得ない状況を作ったりとか操作キャラの自由自在なレベルアップダウンやステータスアップダウンをシステム化するとかいったことを補助手段として。一般的には積み重ねとして不可逆的に上昇していくスペックをツールの一つとして見なすということです。数学の偏微分みたいなものですけど、固定するパラメータを自分のものではなしに敵に置く、もしくは敵が置かれている環境を自分のパラメータとして設定してしまうということです。聞こえがよく言えば敵によって戦略を変えるということです。決して強いことが強いわけではないということなんですけど、ゲーム的には無理なんですかね?

 二次元の世界ですらオタフクのお面みたいな醜い平安時代的日本人顔より金髪お姫様の方が美しくて好まれますけど、まあ属性だと思えばまだなんとか。ちょっと苦しいですけど。私も男性なので。私はアニ絵だと金髪お姫様が好きです。



 ヒトにおいては火を使うことを知ってから文明の発展が始まりましたけど、これは西洋の文化圏でもそうですし日本でもそうですけど、どうしても女を男より弱いもの下のものであると勝手に理解する仕方を我々は植え付けられています、が、「男」という属性と「女」という属性だと考えるとたぶん上手くいきます。私が生まれるもっと以前の40年も50年もの昔は若い男女のカップルをアベック(avec、仏語)とか呼んでたらしいですけど、昔ながらに若い男女が映画館でイチャつきあったり下手をすればセックスにまでもっていく様が描かれていたのは、つまり視覚に関することです。これは文学的表現ということでも通用しますし科学的な観点からしてもそうですけど、光度の低い暗い環境で特定の一光源からのみ光が発されているという状態では人間はマザコンになりやすいということであって、一つのものだけをそれが何故か絶対真実だという風に信じ込むようになる、というか一面性によって何物かへの野蛮な攻撃性にハマりこみやすいということです。戦場で火を焚くと即敵に射殺されます。もちろん映画館は明るい状態よりも暗い状態にしておいた方が客の映画へのストーリーへのハマり込み具合がよくなって、客足が増えるわけですけど。

 服を着ながらセックスをすることはたぶんよほど性癖にバイアスの掛かった人たちの変態プレイでない限り、というかまあそれであっても邪道です。男と女がその現在において相手以外の何もいらないと裸で愛し合うのがセックスです(女性はこういう発想です)。このあいだBBCのニュースサイトでこれに関することが取り上げられてましたけど、遊びめいたセックスで男が女に対して抱いているのは結局単なるヒトの種の保存の本能に根ざした動物的な肉欲であって、これは畜生の行いです。だから余程のもの分かりのいい男でないとセックスとレイプの違いが分からないわけです。女は恋愛行動において男の行動も含めたその様たるものを象徴化して鑑みるので、物理的に卵子と精子がどうこうよりも「男と女で愛し合うとその必然として子供が出来る」という理解の仕方です。前にも書きましたけど、アニマは肉の穢れ、アニムスはニヒルです。男は女に不可算名詞であるところのアニマの幻影を求め、女は男を可算名詞の複数形であるところのアニムスの集合体たる絶対的象徴として見なしたがる、ということであって、女なんか不可算名詞で皆一緒と考えてしまうどころか一部の不健全な馬鹿においてはモノだと見なしてしまう男には分かりづらいですけど、恋愛は赤の心であってアカく、愛の結晶は赤ちゃん、だということです。ちなみにAveは「天使祝詞」とか「めでたし」とかいった意味です。夫婦で奥さんが妊娠することを日本語では「おめでた」と言ったりもします。
Maja
 浮世に愛たる影を求めて。




 ちょっとこの記事はつれづれなるままに書きますね。

 普通人間はストレスを解消するというよりは吐き出すというか外へ出すように生存本能によってプログラムされてますね。これは別に宗教的なものの考え方や文学的なものの見方にこだわらずともそうなってます。物理的にも上から食えば下から出るようになってますし、汗も出れば黒い毛も生えるようになってます。で、病気の人というのが居るんですね。私がここで言うのは内科の先生にかかって具体的に何々の病気だと言われるところの一面的なものではなくて、悪いものを体に溜め込んでしまっているヒトのことです。健常にストレスを吐き出せるように育った人間は、そうではない他の人間の犠牲のもとそれが可能であったことを感謝すべきです、基本的に。とは言うものの、吐き出すものを吐き出してしまえば基本的にまあ人間健康にはなったりはします。
 「人生はそこまで生きたところのもの」ということもそうですし、しばらく前の記事で何回も書いていた「|∞|/0の相関関係」ということもそうですし、昔の大人たちがよく言ってましたけど「みんなで生きている」というのはそういうことです。「今まで自分が苦労したのは、何のためなの?」とか考え出したら病気のサインです。女の人に多そうですけど。年齢に見合わない過度の苦労をしたり苦痛を体験したヒトや、また年を取ればヒトもまた誰でもそうなってしまうっぽいですけど。私は31歳ですけど、このcurseな状態からある程度は回復した身として分かるんですけど、たぶん老人というのは若者には想像もつかないほどの苦を精神ひいては(つまりは)肉体にかかえているっぽいです。希望なんて基本的に嘘であって、希望こそが最も絶望をもたらすものだったりします。いかにためこんでいるものを出して絶望状態になるかということが精神と肉体を健康に保ち生きる上での勝負だったりします。大昔の人が言っていた「男は色恋等にうつつをぬかすでない」というのはたぶんこういったことです。嫁さんがオバさんになってもキレイでカワイけりゃいいでしょうけどね。

 おそらくだいたいヒトは10歳くらいで大人が持つのと変わらない「経験」の概念を持ちはじめて、生きがいや生きる目的というものを探し始めるようになります。私が子供だった頃には、どういった人間として生きるかとかどういった人生を送るべきであるかとかそういったことを考える契機を奪うものとして手塚治虫のものだとかを除いて低レベルなマンガやゲームが子供社会の主たるコンテクストを形づくっていたんですね。私は見ませんでしたけど、これがさらに下俗悪なテレビのバラエティ番組であったこともありました。物事の何がどうなっているかもロクに教えずに「中流に合わせる」ことをひたすら強要される教育を受けさせられていた当時の子供の意識を占めていたのは、こういった下俗なものに触れないと殺されるという逆アウシュビッツ強制収容所下におけるような脅迫的意識でした。今はネットがありますけど、ネットはいくらでも良い使い方ができるものなので、まあ今の子供は恵まれてるなとは思ったりします。ナチスは原爆を作りませんでしたけど、「死」というものの概念を明確に(ドイツ観念論的に?哲学的に?)理解していたというか、「命」や「生」といったものがどういうものであるのかということが逆説的にそのテーゼとなっているかのようなものであって、この国のテレビジョンで垂れ流されていたバラエティの類はアレは原子爆弾に等しいわけであって、あんなもの見た日には被爆だということです。
 この経験の概念が概念として過剰になり過ぎると危険信号だということですけど、まあ我々も老人になったらどうなるんでしょうね?ネットがある社会に群集に見られる天邪鬼心理が四十年前の全共闘みたいなことになることは無いですけど。

 ……そりゃあね、精神病んでる途中に強迫観念に取り付かれて渋谷から四谷の聖イグナチオ教会まで抗精神病薬で肥満した体を解消するための運動と外苑あたりの散歩を兼ねて歩いたろかっつって青山通りふんじばって歩いてる途中の国連大学の前あたりで二十年間も忘れられない子供のころから好きで好きで好きで好きでしょうがない愛しの女の子がストーカーまがいの行為で「プークスクス」というイジワルなジェスチャーとともに向こうがわから歩いてきてそのまますれ違って去っていったら数日数週間どころか数年間寝込むほどにショックだっつーの。
Fuge
 縁結びの神さま。
 普賢真人。
 遁走曲。




 前にも書きましたけど、犯罪の被害者を加害者に仕立て上げるというのが、人間関係を工学化して理想的人間を一つ設定しそれ以外の人間を左もしくは下たらしめようとする日本人のやり口です。これは悪質極まりないというよりは、愚劣極まりないと言った方が適切です。適切な環境を準備して能力を発揮させて人間を上へ持っていくということではなく、下や左を意図的に作って犯罪者を製作していくというシステムが方法論として義務教育の現場においてまかり通っていたということだからです。アメリカはたぶんこういった能力重視というか物事重視な教育をちゃんとやってますけど、実はAdolf Hitlerさんもそういったことを推進すべきだと言ってたんですけどね。ネット万歳です。
 YouTubeでロンドンオリンピックの男子の短距離の陸上競技の映像を見たんですけど、白人の選手が堂々としていたり黒人の選手が余裕の様態でヒップホッパーみたいなポーズのジェスチャーをとばしている中で日本人のタカなんとか選手だけ「あーあー、ブーイングされないかなあ、心配だなぁ」と一瞬気まずそうな表情を見せてからオツムの弱い(日本の)中学生の運動会や学芸会において行われるような極めて低レベルなパフォーマンスをやっちゃってるんですね。もうこれを見た瞬間に「ああ、こりゃダメだわ」と思ったのはたぶん私だけではないです。頭も悪い上にヒョロヒョロしたザコの分際でやたらとデカい騒音を垂れ流して俺強えな気分になっているジャップの珍走族を想起させたりもします。この2012年時点でもまだやらかしてるイタいのがいるんですけど、なんで日本語で暴走族が珍走族とか珍走のバイクだとか言われてバカにされるかと言えば「ねえ、キミ、バイクやバイクの騒音とキミの人間性がまったく合致してないよ?陳腐だよ?滑稽だよ?イタいよ?弱さの証明になっちゃってるよ?」ということだからです。ザコ虫のくせに空威張りがウザいということです(例えば私はそもそも自分が強い人間であるという自覚はないので他者に対して威張ることはありません)。暴音立てる珍走車であってもそうですし、原付であろうが東アジア人がバイクなんか乗ってたところで似合わないんですね。で、このタカなんとかさんは二人居ましたけど、そのどうしようもない低レベルなポージングの通りどちらも競技の結果は8位だか9位だかの最下位です。これが日本で行われていた子供に対する教育の為し得たご苦労さんなモノです。おそらく切り替えが上手くいかないということではなくて、実業の場面においてまで事ではなく人を鑑みてしまって人間関係のしかも悪質なことには工学化されたものをやっちゃてるということです。中国の選手や韓国や北朝鮮の選手はまたこれら日本人とは違ってそうです。私は中国や北朝鮮や韓国の人達とは会話をしたことがないので彼らのことはちょっとよく分からないんですけど、西洋の人たちとはどんどん会話をしてコミュニケーションを取りたいという欲求があります。で、何で日本人の男というのはツラを見せられるだけであんなに不快にさせられるんですかね?おヤクザさんで「あ、これは恐い」という中身ガッシリの人を一回見たことがありますけど、こういった人を除いて、ジャップの男というのは本当に卑屈でタラタラツラツラチャラチャラしたツラでなんであんなに見るだけで胃がムカつくんですかね?ちょっと中身があるかなと思えばテレビジョンのバラエティー番組並の内容のクズであったり、ああコイツはまともそうだなと思えば女とヤることしか考えてない中身スカスカのカスであったり、日本人の男はクズかカスしか居ねーのかよと言いたくなります。おそらくお友達になりたくなさ全世界でNo.1です。たぶん中国や朝鮮の人達の方がいろいろ自分たちの文化や社会について考えてそうです。
 私は中学校一年の時に一回学級委員をやってたことがあるんで学級委員云々について言えるというか社会主義的・カースト的に定められかつ隔離された人間の織り成す環境についてよく分かるんですけど、アレは本当に公立学校の低脳教師の斥候であってくだらないんですね。放課後に会議だとか何だとかのお名前のもとオマヌケな会合に集められて、社会科の馬鹿な生徒指導の教師が必死に逆Concentration Campを煽り立てるんですね。で、その逆アウシュビッツ強制収容所の中で何が行われていたかというと極めて低レベルな学芸会ゴッコです。まだ小学校の時友達と外でなにやらゴッコをして遊んでいたものの方がレベルが高かったです。私はその時相方で学級委員をやっていた女の子がカワイくてちょっと好きだったんでその点においてのみまんざらでもなかったんですけど、本当にこの私が所属していた部活の顧問だった生徒指導の社会科の教師の愚かさには今でも殺意を覚えます。いまだによく記憶しているんですけど、この低脳教師がすこぶる偉そうな態度で教壇の上から「このままだったらぁ~、ウチの娘の○○○はこんな学校には入れませぇ~ん」とおホザきになっていたんですけど、そりゃテメーみてえな愚脳教師が生徒指導やらかしてるこんな中学校に入れられなくて○○○ちゃんは正解だっつーの自虐してんじゃねーよバカ(笑)、というわけであって中学生の時点から子供たちとてこんなことは理解しているわけであって暴力的威圧によって口を封じられているから言わないだけです。教師の感知しないところで禍も巻き起こってしまうわけです。これは先の記事で書いたような、本来的には男女関係においてのみ持ち込むべきであるものを一般的な人間関係において持ち込んで人間関係を工学化して間違えるというパターンの亜種です。まあ自分の娘まで道具として引き合いに出して罪を知れというんですね。この教師生きていれば2012年時点で50歳代ですけど、何を勘違いしたか言えないと言わないの区別もつかないようなクズが教育の現場に携わっていたから子供が毎日レイプされに学校へ通うようなことになってたんですね。猿でなく人間であるならば言葉を使えということであって、この教師が口から発していたのは言葉ではなく記号です。自衛隊の隊員さんたちの軍事教練の場ではないので、TPOをわきまえろということです。
 私SSは子供の頃からずっとJuden・ユダヤ的日本人に逆差別を受けてきました。私は特に右翼主義者を自称するつもりもありませんしアメリカの人たちがネットを与えてくれた今の時代国家社会主義を振りかざしてどうこうとかちょっとズレた間違えたことに走るつもりもありませんけど、ユダヤかナチスかと言われれば私は確実にナチスの方です。10歳になる前の子供の頃はもちろんナチスがどうこうとかユダヤがどうこうとかイデオロギー的なものや人的資本的なものについて理解することはできなかったわけであって、馬鹿な教師や他者にいたずらに攻撃性をむき出しにする野蛮な原始人みたいな同級生のことについて考える能力は持っていませんでしたけど、私はユダヤ(ユダヤ的日本人)によるナチ狩りにひたすらに遭っていたのだと後になって知りました。私が子供の頃から他人を見て嫌っていたそのものは、ユダヤの小狡さと卑劣さと他者を出し抜き蹴落としながらも自分だけは生き延びようとするあの下劣さであると知りました。公立小中学校で担任を持たれたうち健全だったのは小学校四年の時の担任の先生と中学一年の時の担任の先生だけ、後は一部の音楽の先生がまともだっただけです。男性教員についても女子児童が引いてしまって気分を悪くしたり怯えている中で教壇の上から人種差別や他者排斥を不必要に煽るカーストや人殺しの方法と様態について堂々と語るだとかキチガイじみたものが多々ありましたけど、特に現在生きていれば50歳代~70歳代の当時の中年以上の女性教員によるものに多かったところの、子供の心理をズタズタに傷つけたり能力をいたずらに発揮するなということを恐怖感とともに教え込んだり自分の気分次第で特定の子供に不当な評価を下したり待遇をしたりだとか、そういった光景を私は嫌というほど毎日毎日このオバサン教員たちに逆レイプされる気分で見せられ続けました。大学の時もしょっぱなに卑屈なユダヤの豚とニグロのでくのぼうにやられました、まあ経済学部なんでカトリックの大学にユダヤ人が居ることも仕方がないですけど、しかもそれにNewYork's Financial Districtそのまんま丸出しなユダヤ教授が加わってました。教授の貴様は年はいくつで何の職に就いているのかと。まあ喧嘩上等だとか昔の頭の悪い不良中学生並みだとかなんだとか言うよりは、常識外れもはなはだしいわけであって異常です。ネットということでもし日本の海外の人でこれを読んでくれる人が居たらば是非とも訴えたいですけど、これがfuckin' Japが行っていた教育です。こんな教育を行っていたらばたどり着いたところはネットのブタが作ったブタ掲示板の便所の落書き下ネタ強姦虐殺陵辱文句であるということになるのも当然です。10年とそこらか前にあそこで他者叩きを行っていた連中自身のみに非があるわけでは決してないです。

 「決まっているもの(Dasein)以外は全て演劇(嘘)」という発想を否定的に解釈し咀嚼するとなると、人間関係までをも工学化してしまった、(言語の意味内容をそのまま発信者の真意であると取り決め)契約関係を結ぶということの出来ない、まあ言ってしまえば無能力な人間のそれです。これは実は今でもまだごくわずかにには居る昔よく居たところの嫌がらせや強姦や最悪の場合殺人にまで及ぶ兵隊ヤクザ的な人間のものであって、これは西洋人における契約関係の取り交わしを基本とした対人関係においては通用しません、というか何処の社会であっても社会の秩序を乱す人間である限り排斥されます。で、ちょっと私も個人的にここまでは嫌だとは思いますけど、西洋人においては男女間のセックスまでが契約関係なのかもしれません。カトリックはそうではないですけど、おそらくは根をたどればルターよりもピューリタンひいてはカルヴィニズムに端を発するプロテスタントの国であるアメリカ人とかすぐ離婚しますね。やはり近代以降の人種差別は悪質なカルヴァン主義からきてます。love affairという言葉で表されるものと恋愛という言葉で表されるものの違いがあるとして、それがどういったところにあるのかは私は残念ながらよく知りませんけど。キリスト教文化の土壌に生きている人たちは、仮に熱心なクリスチャンでなくとも、基本的に肉体の死を恐れていないというか肉体の死こそ救いであり肉体の死こそ本来的な姿であるみたいなところがあります。前にも書きましたけど、ということは実は日本のヤクザ(否兵隊ヤクザ的人間)はキリスト的・西洋的であるということかもしれませんけど。

 シェイクスピアの「十二夜」という作品ではハムレットみたくバッドエンドではなくてまあだいたいハッピーなエンドが描かれてますけど、この作品でキーパーソンとなる人物は女性であり男装するところから物語の大筋が始まります。装い、女性の男装というのは工学化されていない人間関係の最たるものであって究極のところです、たぶん。日本でも宝塚の歌劇とかであります。これのおかげで結果的には人と人とが結びついて大団円を迎えるというのがこの物語の筋です。逆に男性の女装はこの限りではないどころか真逆の結果をもたらします。極端に言えば宦官であって、関係の象徴たるもの・モノを切って工学化されてしまうということです。女性が男性の男根を見て汚らしさを感じるのは、「関係」という抽象の具現体だからかもしれないです。gayという言葉で表されるものはちょっと違うんですけど、男性同士の同性愛はキリスト教でなくともどこでも否定的に扱われますけど、女性同士のレズビアンはどうなんですかね?ひょっとしたら肯定的な認知を得られていたりだとか。
 人間関係ひいては男女の関係についてあまりに分かりすぎているというか、William Shakespeareさんはえらく賢いなと考えさせられます。
 ……が、これがイき過ぎると病気になってしまいます。このシェイクスピアの「十二夜」という作品には、「魂と身体の縁切り」という表現が出てくるんですけど、これは先の記事で書いた通り、Judenと化すことであり、文学的に言うとフォイエルバッハさんが言っていた魂が外へ抜け出してしまっている状態だとか魂を抜かれてしまっている状態だとかであって、身体意識的に規定点を身体の外へ置いてしまっている心身を病んでいる状態です。

「こういうふうに考えて欲しいわ、求める愛もいいけれど、求めずして得られた愛はもっといいんだ、って」
―William Shakespeare 「TWELFTH NIGHT(十二夜)」 より―



 男性もそうですし女性は当然そうですけど、美人だとか美女だとかと形容される人たちはあまり汚いものを見ません。男性アイドル全般そうですけど、女装した男のやらかすビジュアル系とか、ハマってたのは一部の性根まで醜い不美人な女たちであって、ものを見る目のある美女には嫌われるを通りこしてバカにされてますね。まあ不健全であったところの私は一部好きだったりするんですけど。男性でもエロ画像とか見てるとブサイクになるんじゃないですかね。まだ成長期の途中である中高生の時点でエロ画像見るとか絶対にやめた方がいいです。私は最近はネットで見るものも極めて選んで見ます、テレビを見るなんざ論外です。取り入れる情報は極めて選択しないとダメどころかヤバいです。不必要な自由からは走って逃避しておくことをおすすめします。女性がよく口にするところの「きれいになる」というのは真実であり事実です。悪いものは中から外へ出ていく、という。
Der Mensch denkt, Gott lenkt.
 蛋白質は予想回路持ち、コロッケはナチ党員の食事。




 前にも書いた通り最近では抗精神病薬を服薬しても体感的に数年前に比べて飲んでいない時とあまり変わりがなくなりました。これは薬を服薬して意識上に出てきた妄想やそれとは別に普段から抱いている想念や考えている事を言語化して記述するということを始めてからのことです、つまり良くなりました。抗精神病薬ジプレキサの場合は、服薬してから数時間~半日程度して明確に薬効が意識されるようになります、だからそれ以上に間をいくらか空けた上で日頃私はこれを飲むんですけど、以前は5mg錠を一つ飲んだだけで脳がグワングワン揺らされて何も考えられず首から下の体も力が入らずに上手く動かせないという状態になっていたんですけど今はそんなことは無いです。抗精神病薬リスパダールは煉獄です、全身の筋肉がガチガチに凝りその痛みと事象の認知の異常さで発狂しそうになります、そのストレスで私は一時期前髪が抜けてました。おそらく今これを服薬しても、合わないは合わないでしょうけど、以前ほどには違和感を実感することはないです。
 私は想念でも妄想でも何でも言語化して記述してしまうことをお勧めしてますけど、今のオジサン世代というのはネットが無かったんで飲み屋で仲間と酒を飲みながら雑談や猥談をすることでなんとか溜まったものを解消していたんですね。たぶん戦後でテレビジョンで見せられていたどこかしら自由な空気のものと現実に上の世代から押し付けられるものとのギャップに彼らも苦しんでいたっぽいです。だから彼らは大学へ入っても勉強は二の次にして喫茶店や飲み屋とそれに掛かる費用を調達するためのアルバイトに走っていたというわけです。そうすると教育のレベルは落ちて上から崩壊してその質が変化して属性が変わっていきます。必要は発明の母というわけであって、実学への需要が高まります。理科系の枠の競争率が高まって、昔は「理系にあらずんば人にあらず」とかいうことも言われてたみたいです。
 まあいずれにしても、このネットが使える時代に不特定多数の人間によるストーカーたる演技者で満ちあふれる潰れかけの精神科へ行くバカなど私以外にはもう居ません。潰れかけの精神科なのではなくて、精神科が潰れかけなわけです。何年か前に国立精神・神経センター病院にて一度M'z a 悪意(仮称)医師が診療時に診療室内でそれらしきことをほのめかしたことがあったんですけど、その時に、この演劇人たちはターゲット(この場合だと私SS)が演劇をされてたぶらかされていることを認識せずに騙せていると思い込んでやっているんだろうなと考えていた私は「ハハァ、コイツらこちらに無視されたりバカにされたりといった意識は無かったんだ。コイツらはコイツらでこちらを攻撃するつまりはこちらがそれがベタベタの演技であることを知ったことを知った上でこちらに不快感を与えるためにやっていたんだ。」と知って、その時には衝撃を受けました。……抗精神病薬は使ってみる価値はある薬ではあるんですけどね。あと吐き出せるものはすべて吐き出してから初めて作業療法も音楽療法も効果をあらわし得ます。



 Adolf Hitlerさんは顔だけ見ても正常であってそこまで異様な風体はしてませんけど、少なくともwikipediaで見たところのアドルフの父親のAlois Hitlerは露骨な多虐性嗜好の異常者の風貌であって強欲なユダヤの血が異常に濃く出てます。「これがユダヤだ」というような顔であって、分かりやすくは目蓋です。ヒットラーにユダヤの血が1/4混ざっているかそうではないかというのはずっと長らく研究者の間で論争のテーマになっているみたいですけど、あんなもの父親の顔を見れば一発で分かります。確実なまでにAlois HitlerはJudenです。で、このキチガイブタの父親にAdolf Hitlerさんは凄まじい虐待を受けて少年期を過ごしたんですね。
 逆に絵に描いたような殺し屋の顔をしているのがナチのErnst Kaltenbrunnerです。こちらは目ではなくて口元に特徴があります。
 前者は犯し屋、後者は殺し屋。

 私の父親は私が子供の頃から私に対して必死に二元論な単純なものの見方を植え付けようと試みました。ところがどう鑑みても私は私の父親より頭が良いことが子供のころからして分かってました(そう理解してました、悪人であることが露骨だったので)、だからどうみてもそんなに物事単純ではないそんな善悪のそれに代表される単純な二元論でカタがつくものではない、女と男でも東西冷戦でもアップクォークとダウンクォークでもそれはそれでそれそれぞれの問題である、と思い考えるクセがついてました。だから私は蓋然的な事象の認識や丸暗記に走ったのかもしれません。そしてこれは地雷でした。実のところ単なる父親による嫌がらせと自身のご都合主義による息子の利用だったわけです、自分を意識して欲しいのかなんなのか知りませんけど余程肯定的に解釈して人間とはそういうものであると教えようとしたものであるというところの。言語で記述された知識のみがそうでないというところの。たしかに人間にとって人間というのはどのような肯定的な人間関係であっても男女間のセックス以外は害毒であるということは理解はできますけど、子供のうちは具体的な何らかの二項対立から入っていくものの学び方考え方ということも大切なものとしてあるんですね。もう何度もこのブログ記事で書きましたけど、私の父親は本当に弱い人間でした。貴様はエディプスコンプレックスの対象足りえぬわ愚か者が、というわけであって、Judenというよりは日本人として分かりやすくはアカです。関係ないですけど、どういった汚いやり方をしたらこんな弱く小狡い人間が生きていられるのかと私は子供の頃からずっと日本の社会に不信を抱いていました。
 で、頭の単純な人間はここで「人間(関係)においても男と女しか居ない!これが究極の真理だ!ヤッター!」と全てが工学化された神気取りなアレになってしまって、下品な言い方で申し訳ないですけど女とヤりたいというよりはおマ○コとヤりたいつまり女なら誰でも皆一緒ということになって馬鹿な男だと風俗店通いを始めたりもするわけです。もちろん特定の異性が好きだとかそういうことにはなりません。おそらく私の父親は私をグレさせてワルにしたかった・赤化させたかったんでしょうけど、私は私の父親よりは頭が良かった(そう理解していた)のでそうはなりませんでした。
 浦沢直樹作のMonsterというマンガがありますけど、アレは如何にも日本人が西洋人を偶像化しただけの日本人による日本人のマンガです。発想が人間関係まで含めた全てを工学化したそのまま日本人のものです、ポジション的には(天皇制を)否定してますけど。「終わりの風景」ってアンタそれただ原我を描写しただけじゃん、という。蓋然的な漫画のコマ割りに帰納的に結論ありきでご苦労さん、という問題です。しかもこれは逆ナチスで金の鳴る木としてネタにした被害者を加害者扱いするということが基本的スタンスになっているネタのネタ性をネタにしたカオスで悪質なマンガです。日本人がユダヤ人と間違えられます。Adolfさんみたいないけにえは必要ありません。どこかしらの神の国たるシオンの丘へでも行けというんですね。現代のイスラエルの人達だってこんなに馬鹿ではありません。

 私だって女に嫌な目にそれなりにあわされてます。小学校五年の時に同級生の気の強い女子児童と陰湿な女子児童にイジめられましたし、前にも書いたとおり中学二、三年の時のクラスの女子生徒はポルノ女優であるかという環境で学校へ通わされましたし、中学三年の時に不良じみた派手目の茶髪の女子に初対面で「死ねよバーカ」と言われたこともあります。高校生になってから以降はほとんど女と会話をしたことがありません。そもそも近寄りません、危険なので。大学の時に公然と人前で悪口を吐かれたり馬鹿にされたこともあります。まあそりゃ私も女の人を見て性欲の対象としてではなしにいいと思うこともありますしカテゴリー的に女性が嫌いというわけではないですけど、決していわゆる女好きではないです。
 が、女が男に踏みにじられる社会というのは確実に悪い社会なんですね。肉を持つ人間の身でありながら神の国なんてものは何処にも無いというか、崩壊の途中なんです、それは。Amishみたいな人達が(性的な問題について)どう生きているのか私はよく知らないですけど、女性の人権が大切にされるアメリカの人達の人権意識は明らかに間違ってません。
 ナチスの強制収容所内で行われた数百万人もの人々が虐殺されたHolocaustは少なくとも史上で最悪の行いであり歴史上の汚点ですけど、奇跡的なのはこのConcentration Camp内では女性と男性は分けられて男性の性的欲望を満たすだけの無意味なレイプはおそらくほとんど行われなかったということです。つまり「維持」はしようとしていたのであろう、と。ヒムラーが何を考えていたのかは知る術もありませんけど、この人物常に仏法僧のような無表情な能面であって人と話す時にも何かを読み取られないように視線をある一点に固定しておくという癖があったようです。いずれにしてもこんな虐殺が狂った人間たちによる悪質な行いであることに間違いは無いですけど。どうでもいいですけど、私の父親はAlois Hitlerを整形して柔和にしたものにAdolfを足した感じの顔を黄色人種化したもの、私の顔はHeinrich Himmlerに多少似てます。
 フセインは夜な夜な女性を強姦していた人間ですし、スターリンは売春宿を経営していたマフィアです。こういったものらとは違ってヒットラーは全てこれらを否定していた人間です。悪人ゲッベルスですらエロ本を焼き払いました。ナチスだけは派手な欲望の単純な独裁者による政権とは決定的に違います、また歴史上でナチスだけが殺人工場まで作って意図的に組織的な大量虐殺を行ったとして記録が残っています……残っている個々の具体的記録だけから定説を作り出すという論理実証主義者ご鞭撻の愚行に及んでいると間違えます。記録に事実として残されていないものもあります。

 ナチスにもちゃんと技術者(技術開発者)は居ました。だから隔離されたヒットラーが叫んでいた政治的イデオロギーの究極のところにナチス党の行いが合致していたわけではないです。虐殺が狂った悪党による悪質な行為であることには間違いはありません。後に残ったのは他称独裁者が死んだ後の廃墟たるガレキの山でした。現実問題としてcapitalismに蹂躙されることは私も耐えられませんし、誰もがそうであるように殺したい人間も山ほど居はしますけど。いたずらに諦念的なことは言いたくないですけど、この日本という国はいまだにそういう国です。

 「最終的解決(独:die Endlösung der Judenfrage, 英:the final solution to the Jewish question)」というのは、社会的な問題を解決するための最終的手段としていい加減あの強欲なユダヤの豚共を殺すしかないという意味合い以外に、Judenのdie Frageを発する態度への解決として「ヒトも生き物であるところの殺し合うこの結末」という意味合いをも持たせようとしていたのかなと。日本語だと変な語弊があるんですがね。実際ユダヤ人というのは酷いです、ナチスが極道ならユダヤは非道・外道です。「何故こんなことをするのか?それはヒトであるところのヒトは他の個体たるヒトを押しのけようとするものであるから」、と。「生きようとしなければお前も生きられないのだ」、と。……残念ながらこれは野蛮人の考えであることに間違いがないです。女性がモノ化されていることが前提になっているからです。だからこれを一対一の男女関係以外には持ち込むなと。
 私の最終的解決はAdolfさんがそうであったようにパンと菜食です。最も良質な動物性蛋白質源は牛乳ですけど、私はもうあまり乳製品も摂取しません。

 私はギリシャのヒオス島というところへ行ったことがあるんですけど、そこで宿泊したペンションの老人が"She's Mother, She's Mother."と言って猫の群れに餌をやるのを見せてくれた風景が記憶に残っています。猫を育てていた、「みんなで育てていた」、「みんなで生きている」ということです。
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