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Styx
 つみ上げ。




 昨日2012/11/14日11:07分に12日ぶりに抗精神病薬ジプレキサを2.5mg錠を二錠で計5mg服薬しました。それから30分程度でこの抗精神病薬ジプレキサが切れはじめた時のつらさが消えました。それ以後16時間程度睡眠しました。それから起きてしばらく経った2012/11/15日9時頃にこの記事を書いてます。食事は2012/11/13日の16:00分前後にオレンジジュースを1リットル飲んだ後2012/11/15日の午前の4:15分にみかんを三個食べただけです。



 「言う」という行為も含めてのことですけど、悪いことを行ったり言ったりすると、まわりまわってそれが自分に戻ってくるようになるってるんですね。愚かだとか馬鹿だとかいった人間にはこの単純なことが分からない、もしくはしっかりしていないのかなんなのか原因は分かりませんけど目の前の快楽に釣られてやってしまうんですね。私だって抗精神病薬の服薬その他で現象的にはそうとう苦しい思いをしてますけど、例えば幼稚園の時に親同士が仲が良かっただけの同卒生の女の子に向かってその場のノリで「大きくなったら結婚しようね」とか言ってしまったりしてます。だから私もまた(たぶん女心をもてあそぶという形で)悪いことを言ってしまっているということです。ちゃんとした親は子供が悪事を働けば怒って叱りますけど、私も小さい子供を思い出せば悪い友達に釣られて通学路を守る交通安全のおばさんに向かって悪口を言うとか小さな悪事を行ったことはあります。マンガだって殺人や暴力のあるシーンのものを見れば悪いことになるということです。こち亀の両津みたいな人間だってあんなもん現実に居たら確実に野垂れ死ぬか殺されるかするように出来てます。だからありゃマンガなんです。「マンガ」というのはそういうもんなんです。リアルでも中学や高校の同級生に多々居ましたけどあの2ちゃんねるで10年くらい前に女性と性交渉をしたことのない男のことを童貞童貞と言ってバカにしていたクズ畜生共は万死に値します。もちろん一般的な男性は自分が童貞であることについてコンプレックスなんか持っていないわけであって、マンガその他サブカルチャーやマスコミが童貞が劣等なものであるかのような社会的コンテクストを必死に捏造していたということです。悪いことはやるな、これに尽きます。
 現実的な問題としてもっと言うならば、その本人が「不快である」と言っていることはやるな、これに尽きます。現代では哲学的思考は一部の分かる人間だけがその思考様式や手段をそれ以外の人たちに情報で伝えていけばいいんであって、人類全てのヒトが哲学者になったら社会が止まる、どころか現実問題として原始時代に逆戻り、下手をすればメスがオスに虐げられるだけの社会というのが現れてそれで終わりということになるだけです。だからその当人が「不快である」ということは行わずにあとは教育の効果を発揮させて現象的に悪いことをさせないかつ悪いものに触れさせなければいいだけです。たぶんそうやって浄化されていくんです。人間の社会がそうであるというよりはもう万物がそうであるとしか言い様がないんで、我々今の社会に居る人間だってその上に立ってるんです。我々現代人は全て昔の王侯貴族と同じです。

 精神科医の木村敏さんが「偶然性の精神病理」という本(岩波現代文庫から出てます)でこういったことについて分かりやすく書いてるんですけど、ヒトの時間の感覚においては通時性と共時性というのがあるんですね。女性において性やセックスというのは共時性というか共時的にあるべきものなんですね、だからこれを「分かってる」男が女にモテるわけです。これが分かるオスは身体感覚的には頭にキている結果として痩せ型のヒトが多いから事態的には結果としてデブではなくて痩せている男が好まれるケースが多い、ということであって、女は男の肉体の外形それのみをとってして男を評価しているわけではないです。とあるヒトのオスにおいてそのオスがメスに好まれないということがあったとしてそのオスの肉体が肥満しているという事実が直結してメスに好まれないという事態につながっているわけではないです。
 バンドの演奏で一番難しいのは演奏者全てでその一瞬だけ音を出すことを止めるブレイクと呼ばれるものだと言われてますけど、ロック音楽というのは共時性の産物です。だからギターの早弾きというのはロックにおいては本来的には邪道なんです、たぶん。ギターという楽器はあれは女体みたいなもんです。だからロックミュージシャンがあまり健全ではないが性的興奮を女に与えるという意味で(不良)女にモテるというのは道理なんですね。だからロックという音楽は覚せい剤をきめてからのライブハウスでの生演奏ありきであって、ラルクみたいなテレビで歌謡ポップスロックもどき?みたいのを歌っているのはそういった昔の本物な人たちにはウソだと言われることになるんでしょうね。が、違法薬物は絶対にやったら駄目です。だから必然的にロックという音楽もいけないものということになってしまいます。ちなみに私はギターの早弾きが好きなんですけど、たぶん女の人と直接な単なるセックスではなくて言語のコミュニケーションも含めてあんなことやこんなことをいろいろ……とか思ってる派なんでしょうね。だからレイプとか嫌いです。

 たぶん音楽をやってる人はそれがロック音楽とかであっても哲学とかそんなに複雑で難しいものでなければ分かる人たちです。ヘーゲルはちょっと難しいですけど、カントとかだったらそんなに難しくないです。
 まあちょっとロックじゃないかもしれないですけどあのAcid Black Cherryのジグソーという曲のPVは出来てるな~と思うんですけど、あれはヒトの腹面と背面について描いてるんですね、「オマエの背中(側)はこんなに汚いんだぞ、」と。鏡の使い方が上手いです。ヒトの体なんて腹筋か背筋しかないんだよ、程度のことです。さらにはジグソーのパズルなんてコインの表か裏の二種類しか無いんだよバカめという嫌味を感じるほどですらあります。あの歌ってる人は左から右への人ですけど、あの人はそれで右を極めることを選択してるんですね。
 以下カントの「判断力批判」より。

「 幸福の概念は、人間が抽象によって本能から導来するような概念でもなければ、従ってまた人間自身の動物性から得てくるような概念でもなくて、或る種の状態の概念――換言すれば、人間が単なる経験的条件のもとで彼らの状態をそれに完全に一致させること(しかしこのことは不可能である)を欲するようにな理念にほかならない。人間はこの理念を、構想力や感覚とからみ合った悟性によって、実にさまざまな仕方で構想してみるばかりでなく、そのうえかかる悟性をしばしば変更するもので、仮に自然が人間のほしいままな意志に完全に服従しているとしても、一定不変な普遍的法則を立てて(幸福という)かかる動揺不定な概念と、従ってまた各人がそれぞれ任意に設けるところの目的とに合致することは絶対に不可能だろう。またたとえ我々がこのような目的を人間に切実な自然的欲求、即ち我々人類に通有な欲求にまで引き下げるか、さもなければ自分の夢想している目的を達成するに必須な熟練をいっそうに上達させるか、この二途のうちいずれかをとるにしても、人間がみずから幸福と解するところのもの、また実際彼自身にとっては自然の最終の目的(自由の目的ではない)であるところのものは、ついに達成され得ないだろう。人間のうちに存する自然は、所有や享楽に関しては何処かで止まり、みずから足ることを知るようなたぐいのものではないからである。
―中略―
それだから人間は、自然と自分自身との間に或る種の目的関係――換言すれば、自然にかかわりなくそれ自身だけで事足り、従ってまた究極目的たり得るような関係を設定するすべを知り、またそうする意志を持ちはするものの、しかしかかる究極目的は自然において求められてはならないものなのである。」

ここで「我々人類に通有な欲求」というのは共時性のことであり「自分の夢想している目的」というのは通時性のことです。前者が「引き下げ(られ)る」ところと見なされているのはおそらく啓蒙思想の影響です。また日本語で「自然」という言葉が使われているのはちょっと誤解されやすいのであって、これは「世界」だというと分かりやすいです。だからそれにもかかわらず起きる・熾きる(おきる)男女関係は奇跡であってその愛の結晶として子供が生まれる、というものの見方なんですね、女性は。



 これは禁書だといって大量の本を燃やしたナチスとは逆のユダヤの所業ですけど、情報の後付や捏造なんていくらでも行われます。これについて何が本当だとかいった表現はあまり適切ではなく、何が事実だったのか確かめる術はありません。だから歴史や情報を数学的に読み解いていくしかないです。これを真実だということです。間違ってなければ良いということになるんですけど、間違ってないものというのは「有名」な人のものしかないということになるんですね。有名ブランドの服や宝飾が好まれるのも同じくそういったことであって、マンガ的に「お高くてなんとなくキレイだから」とかではないです。きちんとしていて人体に合理したものだからです。が、別にアルマーニの下着なんて高いもの買わなくてもグンゼ産業の日本製の肌着が人体にピッタリしていて良かったりもします。E.H.カーという歴史学者は歴史は科学だと言ってますけど、科学的に何らかが実証されてその結果何らかの装置が作られるわけではないので、つまりこれもまたそういうことであって、歴史とはそういった風に扱われるべきものだということです。何らかの歴史的装置が作られるとしても、それはいいところ「ナポレオンはすごかった」という単なる言葉で表されるもの程度のことです。
 あの左の連中のやり方というのは本当に汚いです。結局釣って甘くしてズタズタにした上でさらには虐げるというやり方でも利用し尽くした上で殺します。最悪です。「左→右→左」の連中のエゴありきの行動であっても「右→左→右」な人の「左」へイっちゃってる場合であってもそうですけど、あいつらは自分らが今まで左で積み上げたものを失ってたまるかと必死なんであって、しかもコイツらにそのように「今まで積み上げたものを失ってたまるか」と必死になられればなられるほど社会的にはロスが多くなります。文明の発達は結果として遅れます。昔に比べてやはり悪い人間はどんどん減っているということです。私が書いてるものも、このブログの初期に書いて載せてあるものや二年くらい前に書いていたもう消してしまった昔のブログに載せていたものは左というよりは右から左へ引っ張られてしまったヒトのものであって、レベルが低いわけではなくてあれはストレスが溜まった人間の出しているものなんですね。ストレスというか悪い記憶が溜まるとああなる、現象的にはああなって出てしまうんです。幼稚園児が幼稚園児だけで人間社会を構成できるわけではないんでもちろん「左」というのは必要ですしこれもまた必然であって、まあ先験哲学的といえば先験哲学的です。数学が何故数学であるかを解説するものもその能力も必要なものではあります。が、老人はそれまで生きてきたところの具体的経験だとか勉強だとかで形づくりがしっかりしているんでだから教授とかはしっかりことが言えるかつ自説を主張したりすることができるんですけど、ヒトの肉体における成長期の存在を考えてもらえばすぐ分かると思うんですけど若いうちからああなってしまっていると病んでいる人であるということになってしまっているだけに終わります。ちなみにカント先生はどちらかというと左です。



 私は勝手な良い女像を頭の中で描いてそれを愛しているだけなのかもしれないです。だからやっぱりオタクっちゃオタクです。恋する若い女なんて滅茶苦茶悪いです。何度も書いている私の父親は女々しいつまり恋愛中の若い女みたいな男でしたけど、これを私は子供の頃から男像だとして描くことを余儀なくされていたんで、女特に若い女は自分の父親みたいな身勝手でクズな人間とは真逆のものだと勝手に思ってました。だから自分を暴力的に威圧してくるユダヤ人を見てそれがヤクザだと思い込んでいたということです。だから中学高校と行くに従って同年代の女に悪い人間が増えていくのを見て、どんどん自分はそれから離反していってそして自分の父親の正体を知りました。二つ前の記事でこれについて書きましたし、日本人の男がウザいとか書きましたけど、男なんて性暴力に関しては同じで結局私が勝手に頭の中で思い描いているような良い女にはそもそも暴力をふるわないのであって、悪い女だからヤられるんではないですかね。これを読んでいただける方で私の父親を知っている人は分かると思うんですけど、私SSの父親のMSはアレは女だったら確実にヤられます。息子の私にもそれは分かります。ユダヤ人です。悪いことでもなんでも許容させるどころかそっちへ持っていく、他者をいたずらに傷つけ嫌がることを行い結果として悪くすることによってのみ生きる、それを生業としている人間です。
 私はこういったことを哲学的に読み解いていける能力を幸せにも持っているんでいいですけど、今の若い人たちの大半はそうとう間違えた方向へ釣られやすいどころかもう釣られてしまった後なんではないですかね。ネットなんて使うものなんで、それが上の方にくるものであろうがなんであろうがサーチエンジンの検索結果で出てくるものとかを当然と思い込む・思い込んでしまいうるコンテクストに浸されていると異常者だらけになります。キチガイさんがどうとかいう以前に、それはもう当該本人における身体の不細工さや異常さや痛みというかたちで出てくるはずなんですね。



 ヒトの右脳と左脳は全く機能が違います。ヒトの脳において左右に全く同じものがひとつづつ揃っているというわけではないです。発生される頭の痛みなんかは身体の左右のバランス的に参考にはなりますけど、医師の外科手術とかは別だとしてヒトがヒトに手を加えるにおいては左へイったから右へ引っ張ればいい右へキたから左へ押せばいい(右へイったから左へ引っ張ればいい)、という単純なものではないです。だからあの唯脳論というのは(ですら)間違ってます。

 頭の良さとかではなくて、また遺伝的になにがどうであるこうであるというよりは、女にモテるか否かが生まれながらにして決まっていることっぽいです。前にもHellquinという記事で書いたんですけど、女はそれがどういった男であってもその男について見定める鑑識眼みたいなものを持ってます。やはりオスから種をとって子供を産むということただその一点においてメスはメスであって、別にメスにとってオスにモテるかどうかというのは大した問題ではないんですね。女が常に美しくありたいというのは男にモテるかどうかの問題とは女において直接直結してません、あれは女にまつわる審美的感覚にまつわるものであって「美しければ世界に美しい善い影響を及ぼせる」、という。で、オスにとってはメスにモテるかどうかというのはかなり重要な問題です、が、というか、だからこそ、いくら頑張って能力を高めたり知識を得たりしてもモテない男というのは女にはモテません。昔は女にモテたくて頑張った男が「なんでだよぉ~(なんでオレじゃダメなんだよぉ~」と言って女にすがりつく偶像というのがありましたけど、まああんなもんです。女というのは性欲云々第一義で男を見るのではなくて、「この男の子供なら産んでもいいや、」ということで男を選ぶんではないですかね。女は男女関係で少なくとも自分にまつわることについては性欲ではなくてメスとしての立場を見てるんですね。
 ……ちなみにこれを客観的に情報として言語を使って記述している時点で私SSもまた女にモテる男ではないです。通時的です。範疇くらいには入ってるかもしれませんけど、こういう人間はいい女にはあまりモテません。女というのはそこまで見てるんです。
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Virtue is its own reward.
 「近くに座す」。




 寝ている状態・身体を地面と平行にしている状態かつ睡眠に陥らない状態で、頭を「左」へイかせるのはヤバいです。きれいな連想や想像くらいだったらばいいんですけど、そのうち被害妄想が出てくるんですね。最悪の場合眠れなくなります。それをサッと寝返ってノートにでも記録してしまうとかならいいのかもしれませんけど。



 成長期を考える時に、左右1対1だと分かりにくいんで、左右に何項か項目(属性)を置いて、その各状態で教育が効果を発揮しうる・良好化させることができる、ということです。私の場合は、もう10歳で左に傾いて左目が下がる斜視が始まってたんですけど、ヒトの肉体にまつわる成長期を絶対なものとして設定するとすると、かなり歪んだルートで成長期を過ごしてしまったということです。人体の構造的に左は病気になります。癌とかたぶん左です。右は右で心臓麻痺で死んだりするのかもしれませんけど。

「 彼(=プルシャ)の東に向える機能は東方なり。南に向える機能は南方なり。西に向える機能は下方なり。北に向える機能は北方なり。上に向える機能は上方なり。下に向える機能は下方なり。一切の機能は一切方なり。この我は、ただ「非也・非也」と説き得べきのみ。彼は不可捉なり、何となれば彼は捕捉せられざればなり。彼は不可壊なり、何となれば彼は破壊せられざればなり。彼は無染着なり、何となれば彼は染着せられざればなり。彼は束縛せられずして動揺せず、毀損せられず。」

というこれはUpanischadからの引用なんですけど、人間関係について単純な左右の二元論で考えると……(婚前性交が悪いとまでは言わずとも)この人と決めた女の人と以外によろしくないことをするとそれについて相手が肯定的な感情を持っていても結果としてそれが肯定的な感情にまつわるものであってもその女の人を悪くしてしまう、ひいては社会的な禍根を招いてしまうことになる……ということなんですけど、左の人というのは目の前の現実を見ていてかつ結構愛情深かったりするんですね。それでもやはり歪みがどうとかなって表れてしまう、というのが右の人の考えなんですけどね。「右」は「考え」です。
 愛する人との大切なものを捨てながら「右」たることを選択して社会の発展に貢献する人たちの人生というものにおける自己犠牲の尊さには私は頭が上がりません。望まない相手との結婚を強制まではされなくともせざるを得ない人もまだ居るんですね。自己犠牲心の尊さというものはそういうもだったのだ、ということを私はやっとこの歳になって知りました。だからこそそういった人たちは自分たちの犠牲が価値を持つためにということで幸せな人を見ると大切にしてやりたいと思ったりまた幸せを感じたりするんということなんでしょうね。きっとああいう人たちは年老いてから真に愛する人のことを思い出して泣いたりするんですね。酒飲んだ席でもなんでも「言われてつらい」というのはそういうことなんですね。イジめられただとかぶん殴られただとかそんなものは大したことはないです、しかもそういった類のことはやると悪いことになるのはやった方になるようになってるんで。嫌な記憶なんて全部WINDOWSのメモ帳にでも記録して出してしまえばいいんです。
 結婚して子供が生まれて、家族への愛から(そこで愛を知り)外で働き金を稼ぐという行為に繋がる、ということなんでしょうけどね。それを行わないのであれば「右」を選択しておけ、ということです、禍を巻き起こすだけなので。私は最近それをやっと学習しました。だから自己愛というのは罪深いんです。愛は隣人に対するだけで充分ということです。やっぱりそれがPilgrim FathersであろうがAmishであろうがキリスト教は右なんです。



「 父曰く、
『愛児よ、凝結せる牛乳の攪拌せらるる時、その微細なる成分は上方に向って昇り、そはすなわち酪となる。正にかくのごとく、愛児よ、食の食わるる時、その微細な成分は上方に向って昇り、そはすなわち意となる。
 愛児よ、水の飲まるる時、その微細な成分は上方に向って昇り、そはすなわち気息となる。
 愛児よ、火の食わるる時、その微細な成分は上方に向って昇り、そはすなわち言語となる。
 何となれば、愛児よ、意は食所成、気息は水所成、言語火所成なればなり』
と。」

「 ―前略―梵天は彼にいう、『何によりて何時はわが男性的名称を獲得すや』と。『気息によりて』と答うべし。『何によりて中性的名称を』。『意によりて』。『何によりて女性的を』。『語によりて』。―後略―」

これもUpanischadですけど、言葉を使ってる時点で文明の起こし元たる火を使ってるんですね。ちなみにドイツ語の男性名詞Ostは東とか東風(こち)とかいう意味で、Osternは(キリスト教での)復活祭という意味です。
Iron Curtain
 右左。




 体心バランスの問題として、普通の人は右、物を持つ手も右で「右→右」です。普通に法律家とかたぶんこの類です。私SSは「右→左(→右)」ですけど、これは経済の人にたぶん多いです。私は子供の頃絵とか全く描けなくて幼稚園の時とかに無理矢理描かされるのが非常に嫌だった思い出があるんですけど、5、6歳の頃に描いた自分の顔とかの絵を見ると思いきり「左って」ます。これは学校の読書感想文を書かなければいけない時とかもそうでしたけど、ストレスがかかると左へ斜頚するクセがあるんですね。「左→左」というヒトは人体の健康的にたぶん生きていられないんで、おそらく居ないです。で、問題は「左→右(→左)」のヒトなんですけど、たぶんこれが典型的な分裂病パターンなんですね。一般的な言葉を使うとエゴイストです。まあキチガイさんです。私の父親のMSは典型的なこれです。抽象的な二元論とかではなくて自分の体を基本にしての左右で考えると一発で分かるんですけど、現代では特に「左→左」の人が居てくれても居てくれるだけで別に何も問題は無いですし、「右→右」の人はまったくただの一般的な健常者ですけど、この「左→右(→左)」のヒトは「左」を満たすために「右」へ走ってやたらめったら他者を傷つけ「かあちゃん見てくれよ!」と言わんばかりに「左」へ戦利品を持ち帰ってくる、と、形容するとたぶん分かりやすいです。まあ野蛮人です。そりゃひたすら弱い相手を狙ってイジめとかやらかすわけです。自分の子供も全く育て方が分からずに虐待するわけです。何かに怯えてるんでしょうね、たぶん。そりゃひたすらあの手この手で目的の女に言い寄るわけだが、あの手この手な時点でこんな男と結婚したら家庭内暴力連発することは目に見えているので女には嫌われるわけです。これは昔の文学とかに若干居た気があります。で、あのバイクとかって右のハンドル部を手の甲を手前に返す方向へ捻ることによって走行しますね?だからアレです、これがすなわちつまりはネットでさんざん言われていたところの珍走族だということです。あれは「左→右」なんですね。何であいつらが珍走珍走と言われてバカにされていたかがやっと分かりました。私SSは短距離走とかあまりまともに走れません、右は定常していてその状態で機敏な動きとかあまりできないからです、が、柔道の寝技とかは強いです。で、「走る」という行為はあれは右なんですね。「右→右」の人は普通に走れる、というか走るという行為も普通なんでしょう。あれらは「左→右」だから珍走と言われるんですね。分裂病、というか異常者のパターンです。まあ暴音立てるバイクなんて乗り物がそもそも異常なものですけど。
 私SSは二ヶ月前まで診療を受けていたk子curseマ医師に「嫌がらせのストレスその他で統合失調症が発症することもある」と言われたこともあり、右から左へ引っ張られてしまっていたものです。斜視が出るほどのもの(実態はストレス)だったのでこれが定常だとみなされていたのかもしれないです、が、この斜視というのは「右上」や「左上」でないと出ないんですね。私は「左上」で常に他人に怒りを感じそれを腑に落としている感覚のものでした。この「左上」が定常でここから「右下」にイくということは身体感覚的に在り得ません。これが可能だったら体がおかしいです、首の骨がバキッとイきます。力を抜くと「右」へ戻るというのが正常です。また「右上」も右目が下がる斜視が出るほどであるとそうとうヤバいです。ヴィトゲンシュタインとかこれですね。この人物、学校の教師をやっていた時に子供を虐待して辞めさせられたという記録が残ってます。ここ数ヶ月ずっとしているんですけど、耳栓をすると一発でこの「左への引っ張られ」が直るわけなんですけど、どういうことなんですかね?耳栓してるとすごく楽です、少なくともしていない時よりはストレスを感じません。
der König der Könige
 「心なき男、お前の心臓は私のものだ。」




 昔の人の「男は色恋にうつつをぬかすでない」というのは、やはり恋というのは邪道だということなんであって、恋は女の専売特許なんです。愛というのは恋と違って極道とまでは言いませんけどちゃんと道に沿ったものなんですね。男にとって恋は赤い心なんでやっぱり結局たどり着くところは肉欲であるということになってしまうんです。男性でいわゆる女好きの人間がそうでない人間に比べて髪の毛が伸びるのが早いという俗説はおそらく当たってます、黒いものが溜まっていて出やすいという。女の人の場合は女同士の会話のコミュニケーションとかで「恋」な心を解消できるんで問題無いんでしょうけどね。で、男の発想というか考えとしてはそこで待っているのもまた女が男に虐げられるという結果だということなんですね。私も若い頃は赤い心に耐えられずにネットでアダルト画像とかよく見てましたけど、もう私は道ですれちがう女の人の顔をいたずらに確認したりするのもインターネットでアダルト画像見たりするのもやめました。あれはやっぱり全部悪いんです。必要は発明の母、女の力でここまで技術が発展したのもまた真実ですけど。中国の故事で語られているとおり女禍(じょか)が科学技術の発展という形で昇華されないと社会が悪くなってしまうんですね。
 ヤーさんだって嫁さんを恋する夫婦愛だけは肯定するんですね。この場合はそれが愛になりうるからです。「やさしさ」というのはそれをそういうことなんですね。アメリカ人とかすぐ離婚しますけど、結局愛が無いのに連れ添いになってしまって淋しい思いをするのもまたたぶん女なんです。だから私はやっぱり「心」無い人間だったんです。私が女の人を見て「いいな~」と思っていたのはやっぱりただの肉欲だったっぽいです。



 「左→右(→左)」の人というのは、「そうなるとそうなる」、んですね。つつぬけというか、馬耳東風、左から聞いたものが右へぬけるとかそういうことです。自己が情報化される、それこそ言っては悪いが機械みたいなもんです。だから悪いものを聞いたり見たりすると悪くなってしまうということであって、だからこの人たちはバカにされたり悪口を言われたりするのを恐れるということです。つまりこの人たちにとっては悪口を言われる→相手をぶん殴るという流れも極めて自然であるというわけです。「ナメとんのか!」というセリフとともに相手に襲いかかるとか。「ナメ」はドイツ語のName(ナーメ)ですね、たぶん。まあナメはナメだといわれればそれまでですけど。日本語を表音文字的にとらえるとそれはそれで面白かったりします。で、これは分裂病パターンです。統合失調症と精神分裂病は全く違います。別に英語を使っている英語圏の人たちが英語的発想を持っているのは然りであって何もおかしいことはないですけど、英語的発想というか日本化された英語的なものつまりマンガ的発想に全日本人が頭を占領されて「統合失調症と精神分裂病は名称が違うだけで同じものだ」という建前の説明を鵜呑みにするのはナンセンスであって大馬鹿なことになります。海外の特に欧米の人には是非とも知って欲しいんですけど、前世紀まで精神分裂病(Seishinbunretsubyou)と日本語において訳出されていたschizophreniaやSchizophrenieは10年ほど前に統合失調症(Tougoushittyoushou)という名称にここ日本では変えられたんです。精神科医はこれを分かって「やって」ます。精神分裂病は女の病気です、「左→右→左」パターンです。統合失調症は男の病気です、「右→左→右」パターンです。私SSは統合失調症の典型的なパターンでした。たとえば私の父親のMSは前にも書いた通り典型的な精神分裂病パターンです。で、統合失調症患者と精神分裂病患者があいまみえると、壮絶な殺し合いになります。私の家族をご存知の方はよく分かっていただけると思うんですけど、私と私の父親との関係というのはこういったものです。2012年時点ではインターネットがあるんでこれももう起こりませんけど、精神分裂病患者は統合失調症患者を作ってしまっていて、統合失調症患者は精神分裂病患者を作ってしまっていたんです。私の父親の場合は、もしかしたらもう若い頃に分裂病を発症していたかもしくは酒の飲み過ぎ・アルコール類の摂取のし過ぎや覚せい剤等の薬物を盛られたかなにかしてoverdoseでイかれてしまっていた、という人間が人の親をやっているとこういうことになりますよという典型例です。またネットでも、最近はどうか知りませんけど、数年前までの2ちゃんねるなんかを見てもらえれば即刻これが分かります、あそこは統合失調症患者と精神分裂病患者の引きずり下ろし合い殺し合いの強制収容所です。統合失調症患者の方はnicht(cosmos)で精神分裂病患者の方は0(chaos)だと考えてもらうと分かりやすいです。統合失調症患者は放っておかなければまずいですけど、分裂病患者は隔離しておかないとまずいです。統合失調症患者の方は若くしてオッサンになってしまったようなものであって肉体の見た目がキモいだけで大したことやりませんし悪事もまずやらないんで例えば治安のしっかりと保たれたヨーロッパを放浪旅行させても大丈夫ですけど、精神分裂病患者というのはいわゆるキチガイなんで何をやるか分からないんで建物の中に閉じ込めておかないとまずいんです。ネットがある現代では治安も保たれているのでいいですけど、それこそ統合失調症という名称の無かったその昔は統合失調症患者は事件の被害者に精神分裂病患者は事件の加害者になってしまうというケースが多かったのかもしれないです(「法律は犯罪の加害者のためにある」という発想は精神分裂病患者的なご都合主義的なものです)。分裂病者については、別に監禁とかではなくて、箱入り娘にしてあげればいいんです。気が違ってしまいやすいのはやはりヒトのメスの方です。精神分裂病患者自身が他者が自分に対して何をやるか分からないという恐怖感を抱き常にそれに苛まれているのであって、この人たちは「そうなるとそうなる」んです、machineです。ヤクザの人たちだってあれは分裂病の類です、あの人たちは物理的に社会主義なんですね、だからもちろん人間としては間違ってますけどそもそも子供の時分からして弱い者イジめを行って彼らを排斥するようなクズが居るからこういう間違ったことになるんです、特にヒトのメスの先述の私の父方の叔母のような悪質なのに。ビジュアル系ロックバンドというのはアレは本物の分裂病か分裂病を装った男娼のやっていることで、当然万人に「嫌」がられるわけです。彼らは言語における文法を無くしてしまった人たちです、詩人といえば詩人ですけど。統合失調症患者というのはいわゆる「キモい」人です。精神分裂病患者というのはいわゆる「キチガイ」です。私SSを個人的にご存知の方はすぐにお分かりいただけると思いますけど、私はブサイクではないどころか顔はどちらかというとキレイな方ですけど(だから余計に)キモいです、肉体を病んでいるからです。また私の父親MSを個人的にご存知の方はすぐにお分かりいただけると思いますけど、あれは気狂い(きちがい)です、非常な弱虫です。統合失調症というのは精神障害ではなくて脳を病んでいるという意味合いも含めたところの脳病身体障害なんであって、ガリガリの骨と皮だけのように痩せこけた精神分裂病というのは身体障害ではなくて読んで字の如くの「精」「神」障害なんです。たぶん昔のお医者さんは病んでいる人は入院させて栄養剤か何かを打って「しばらく休んでいなさい」という治療を施すだけだったですけど、これは真実なんですね。これは分裂病を治していた人たちです。みすず書房から刊行されているセシュエー著の「分裂病の少女の手記」という本の表紙に載っている分裂病の少女ルネの写真が、皮肉にも父方の叔父と上述の外から来た叔母との子である私の従兄妹の女の子の顔にそっくりなんですけど、私の父親の顔ももう亡くなった父方の祖母つながりのこの系統なんで、まあそういう血筋が入ってはいるんです。
 欧米では今でもSchizophrenieはSchizophrenieでしょうけど、前にこのブログの記事で説明のために持ってきたことがあるMax Weberが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という著作でこういったことを解説してますけど、資本主義的なものが少なくともここ日本では衰退すると同時に変わるものは変わってきたということなんですね、当然アメリカが黙ってはいないでしょうけど。まあはっきり言ってしまうとミクロ経済学者は全員統合失調症患者であるとかそういうオチになってきます。昔の知恵ある人たちが「精神分裂病」と日本語で訳出したドイツ語のSchizophrenieを現代の日本人のうちの一部の馬鹿が「統合失調症」という日本語に変更してしまったのはアメリカへのせめてもの反発でしょう。経済学者に対して文学的なものの見方を持ってくるのもどうかとは思いますけど、母親から生まれなかったヒトは居ないんであの人たちは「愛」を知らないというよりは「愛」を忘れてしまった人たちだということなんですね。アメリカでは、抗精神病薬そのものだったか商品名リスパダールに限ったことだったか忘れましたけど、この薬物自体があまり使われません。アメリカは食材の質が実に良いらしいんですけど、アメリカ人というのは食品や自然環境・社会環境や人倫的なコミュニケーションにもとづく人間関係その他でお互いに禍根を巻き起こさないように工夫してるんですね。だからつまり「右→左→右」の人というのはアニメやマンガを見ても洗脳されないんです、悪いものを腑に落としてしまうんで肉体は悪くなってキモく(気持ち悪く)なって異性にはモテなくなるでしょうけど。アメリカ人は、そのお国柄からして、馬鹿な日本人しか作らないような悪質なアニメなんかでもジャパニメーションとか言って肯定してくれるくらいです。これは日本語で「心無い」といえば心無いわけですけど、彼らにとってはそれがheartfeltなんですね。日本人としては、サブカルチャーに触れるくらいであれば、英語にどんどん触れれば良いんです。それを狙ってのことかどうかまでは分かりませんけど、サブカルに人が取られ(てオタクにされ)た結果日本人は英語から遠ざかってしまっていたんですね。で、英語は腑に落としても何も問題はありません。悪い内容の文章が載っている・録音されている書籍も多々あるので注意が必要ですけど、英語はスピードラーニングの流し聞きが効力を発揮します。だからあれはどんどん聞けばいいんです。前にも書きましたけど、TOEICなんか頭の悪い人間のための試験のスコアをとりあえず計っとけというだけのものなんで、あんなもので点数出してもまったく英語力の判定にはなりません。TOEICで点数が出たぞやったーといって向こうへ行って欧米人にバカにされてジャパンに帰ってくる馬鹿丸出しというのがオチです。英検でもいいですけど、参考になるのはTOEFLです。ちなみに私はこの一年間くらいドイツ語を毎日毎日聞いていたんですけど、ドイツ語はあれは聞く言語ではないです。英語は速読や速聴、ドイツ語は文章を精読するものなんですね。日本語は……欧米の人で日本語をペラペラしゃべる人たちが居ますけど、あの人たちは苦労してるんではないですかね。

 私が何度もこのブログの記事の中でオススメしている「書いて出す」というのも、どうやら「右→左→右」のヒトに限ったことのようで、またこの人たちにおいても嫌な思い出や悪い思い出を多々書き殴って良い思い出は胸の中にしまっておくのが正解です。紙とかノートとかではなくて、何時でも書いて消せるWINDOWSのメモ帳が便利でオススメです。内容は変に格好つけずにあれがウザいだとかこれがキモいだとかくたばれバカとか子供の言う悪口みたいのをひたすら書きまくるんです。それがその人物に対してのものであろうが第三者に対してのものであろうが実際に人の目の前で悪口を言うというのは最悪なので止めた方がいいです。ネットというかパソコンが発売されてから酒飲み屋とかもバタバタ潰れてるんではないですかね。
 「左→右→左」のヒトたちは悪いことは言わない見ない聞かない、というのが正解です。私SSみたいな「右→左→右」のヒトには運動はストレスになって悪化させるだけのものなんですけど、この「左→右→左」のヒトたちには運動が効くんです。この「左→右→左」の人たちは男性だったら野球のバットの素振り、筋力の無い女性だったらばこのブログ内のいつかの記事でも書きましたけどサランラップの芯とか使えばいいんではないですかね、忍者刀みたいに左手の逆手持ちで手の甲を外側にしてクイックイッと内側へ捻るというやり方で。頭部にどういう感触がもたらされるかということを感じることができればたいしたことないことでも充分に運動になったりします。

 子供の頃によく運動してよく食べる(牛乳を飲む)ということは重要なことですけど、「右→左→右」のヒトにとっては大人になってから運動することはたぶんあまり良くないです。仕事でストレスがたまって病気になるほどまでだったら体を壊して死んでしまうんで元も子も無いですけど、現代ではネットがあるんでそれがあらゆる良い意味で代替物になってくれるんですね。
 よく真実を知る(という矛盾した)ことを「大人になった」とか言う(「左→右→左」の)人たちが居ますけど、あれは大人になったのではなくて子供のまま肉体だけ大人になってしまったヒトの言っていることです。幼稚園の保母さんや保父さんはこういったことをよくお分かりになっていると思うんですけど、子供なんてものは放っておいたら殺し合いです。放っておいたら強姦とかやっちゃうんで、最悪です。だから「真実を知ってさあ大人になって殺し合いで生きるのよ」というガキのまま大人になったヒトの馬鹿認識がまかり通るわけはなく、「真実なんてものは最初から自己に内在しているものであってそれにもとづいて他者に危害を加えずに平和な社会を形成していく」ということが大人になるということです。特に子供がいる親の人たちは「情」を感じることができないと子供は健全には育たないということを知っているはずです。昔からキリスト教でも神道でもたぶんその他の宗教でもどこでもこの自己内にある真実を「神」と呼んでいたんですね、魂がちゃんと肉体の中にあるということです。で、この「左→右→左」の分裂病の気のあるヒトたちはほぼ間違いなく子供を虐待します、典型的な犯罪者性向の持ち主たちなんです。だからちゃんと監視して悪いことからは押さえつけてそれをバットの素振りでもなんでもいいですけど運動に昇華させるということが必要なんです。つまり私みたいな「右→左→右」のヒトたちと違って、この「左→右→左」のヒトたちには恐怖心が必要なのかもしれません。

 で、そうやって「愛」を作って愛し合う男と女を増やして人口を増やして数で責める・責めさせる、というのが第二次大戦後から前世紀までの日本で行われていたことではあるんです。これの糸をひいていたのがひょっとしたら鬼畜米英であったとかそういうことだったのかもしれませんけど、そこまでは私は知りません。不特定多数のストーカーによる脅迫行為も、たぶんこれは私SSがヒトのオスだからやられてるんであって、つまりいたずらに女を苦しめることは禍根を巻き起こすだけなので健全な男はまずやらないということです。昔からどこの国でも共通で、女が苦しみそれを軽減し解決するために男が技術を与えるということなのであって、これが常識と呼ばれうるとかそういうことなのかもしれません。
 子供の頃に済んでいた家の近所の家のオバさんオジさんたちはひたすら「あんたのお父さんは悪い、悪い」と言って子供の私に聞かせました。ひたすらドラえもんやガンダムといった悪質なアニメを見せたりケーキを食べさせたりしたものこのオバさんオジさんたちです。おそらくこれと共謀で私の父親のMSは私の母親に私を甘やかさせるという演劇を行ったんです。だから私の父親は私の母親を犠牲にして私に左右を教えようとしたんでしょうね。私SSにまとわりついている不特定多数のストーカーを行っている人間たちもそうです。私の母親が私に愛情を感じていたかどうかは分かりませんけど、もしそうであれば非常な苦痛を味わったことでしょう。あまりにワザとらしくてクサい演技かと思われる喧嘩を父母が子供の私の目の前で行ったのも、母親が料理も掃除もロクに行わなかったのも粗悪品を高い値段で売りつける生活クラブだか生協だかで食材を仕入れていたのも、母親が父親に脅されてのことだったのかもしれません。もちろん人間放っておけばいつかは死にますし甘い方へ甘い方へ流れるものなので、非常に高い可能性で私を「右」へ引っ張ろうとして仲が悪いという演劇を行って定常たるものがどういうことなのか知らしめてストレスから自分で抜け出す力を身に付けさせようとしていたということなのかもしれませんけど、今となっては真相は分かりません。まあこういう極悪事を行う人間が昔は居て、昔は家同士で潰し合っていたんです、この日本という国の人間たちは。獣肉忌避だった江戸期を描いた時代物の恋愛小説とかありますけど、読んだことないですけど、やっぱり日本人は肉を食べるようになってからおかしくなったんではないですかね。動物の肉なんてヒトの食い物ではないんで、動物性タンパク質なんてものは牛さんからもらう牛乳が最も良質なものであってそれで充分なんですね。
 そりゃ暴力なんて誰だって嫌であって当の暴力を奮う側だって嫌なわけですから、哲学的思考は一部の人間だけが理解してそれを学術的方法で伝えていけば良いんです。で、ここで役に立つのはやはりドイツ語なんですね。



 分裂病系統のあの人たちが最後の最後で「どうせ俺らよぉ~」と言って泣くのは、あれは逃げなんではなくて愛を「知って」いるからなんですね。女性を強姦するなんてものは最悪であり論外ですし、やはり現代では暴力は所詮暴力であり悪事であるとしか認識されません。私もこれをさんざんに否定してきましたけど、愛の鞭というのはやっぱり否定されてしまいます。統合失調症系統の人たちにおいては愛(や心)というのは最初から自己に内在しているものなんです。

 で、統合失調症患者も精神分裂病患者も絶対に抗精神病薬リスパダールは飲んだら駄目です。あれは女性に対する強姦や拷問と同じです。本来的には、「右」から「左」へいくという形で身心を病んでいる人間は溜まっている悪いものを吐き出してやっと良好になるものであるにもかかわらず、また「左」から「右」へイってしまっている人間はそうイき過ぎているからこそヤバいのであるのにもかかわらず、脳の感覚を強引に「右」へ引っ張るんです。そして薬が切れた時にはあっという間に左へ戻るんです。ちょっとあまり言いたくないことなんですけど、あれを服薬すると脳は右へ引っ張られるにもかかわらず陰茎が収縮して肛門の筋肉が緩むんです。つまり「左」も「右」もどちらもヤられるんです、最悪です。私はヒトのオスですけど、ヒトのメスが強姦される心情や感覚を二十四時間四六時中味わうことができてしまいます。さすがJudenchristなポール・ロワイヤルのヤンセンファーマです。そりゃ(女性の人権を無視しているとして)カトリックのイエズス会の神父さんたちに攻撃されるわけです。カルヴァン派はジャンセニズムを歓迎しましたけど、Jean Calvinなんてものはアレはどう考えてもロクなものではないです。
 個人的な経験としてはM'z a 悪意医師はリスパダールを投薬している状態で「外へ出る!」とひたすら私に言いましたけど、これは不特定多数の人間によるストーキングありきのものだったんですね。で、結論から言うとこれは失敗です。これは今年の夏に警察を呼んだ時に警察官の人が私に「(家の建物から)外出てまえばええやん」と何故か関西弁でアドバイスしてくれましたけど、騒音から身を守るためにただ外へ出るということであったならばありだったということなんでしょうけど。ちなみに睡眠薬はあれはなにもかもがどうでもよくなって楽ですけど、情報の吸収の機能や効率が高くなるということで、太りますし老けます、肉体が老化します。抗精神病薬(ジプレキサ)はあれも嫌だこれも嫌だという状態になって非常に苦しいですし本とかまともに読めなくなりますけど、一般的に言われているように太るということもあまり食べなければ無いのであって、若返ります。なにより止めた時が良いです。覚せい剤等の違法薬物や合法ドラッグの類は使用した後で「左」も「右」もヤられる地獄のoverdoseが待っているだけなので絶対に使用したら駄目です。



 単純に考えれば分かることなんですけど、キリスト教のカトリックの神父さんは「神」「父」なんですね。ヤーさんも「オヤジ」ですね。だからそういうことなんです。未来は「未だ来ぬもの(いまだこぬもの)」なんです。現実問題としてありえませんけど、(頭に)キちゃって時間が止まるということは神になるということです。
 やっぱりなんだかんだいって「父」属性の方が「正しい」んです。2000年前のキリスト教発祥以前にももちろん戦争はありましたから、つまりは女だけで殺し合いになることも無いでしょうけど男だけで殺し合いになることもないです。ヒトの肉体の構造的に仕方のないことですけど、女がいたずらに嫉妬するところからやはり発祥してるんでしょうね。男の嫉妬というのは見苦しいものなんで本来的にはこれは無いはずのものなんです、あるとすればいたずらに女を得たいといういたずらな赤い欲望だとか。

 なんか昔占い師が2012年で人類は滅びるとか言っているとかいうのがありましたけど、あれはもうそろそろ人間の人間たる愚かさが消え失せるということなんではないんですかね。女性の男性に対する愛も男性の女性に対する愛も消えませんよ?恋は愚かですけど愛は愚かではないんで。「心」を"heart"と訳すのはたぶん罠ですけど、英語の"love"は日本語の「愛」に直訳して正解です。日本語で言うと「愛」、英語で言うと"love"、フランス語で言うと"amour"、ドイツ語で言うと"Liebe"、その他、これだけが世界の共通語です。"I love you."という言葉ほど尊いものは無いです。左右が手をつないで繋がっている。
Übung macht den Meister.
 左手中指というサドの証。




 先日2012/11/28日の昼頃から何年かぶりに発熱して悪寒が滲み出てきてかなり苦しい思いをしてました。薬も飲まずに何も食べずに12時間くらい耐えてましたけど、さすがに限界が来て本日の深夜0時をまわったところで睡眠薬ロヒプノールとアキネトンを服薬したら、急激に楽になって少しものを食べて寝ました。マンションの私の部屋の床下からはそれでも容赦なくこの日に限ってドリルでコンクリートの壁に穴を開けるような音やチェーンソーで木材を切り裂くような音やハンマーでコツコツコツコツと釘を打つような音が鳴らされ続けてましたけどまあそれはどうでもいいとして、熱にしろ悪寒にしろ痛みにしろ毛にしろ皮膚のシワやたるみやニキビの類にしろ悪いものが内から外へ出てくるというのは本当なんですねこれは。真実です。「馬鹿は風邪をひかない」という言説が昔からありましたけど、これは当たってます、溜め込んじゃってるからです。私SSも最近は昔に比べればあまり馬鹿ではなくなってきたので、ということっぽいです。この日の朝は自分の部屋にある余分な荷物の整理と処分をしてました。
 旅行へ行くとよく分かりますけけど、西洋人基本的に水をよく飲みます。というかあの人たち水ばっか飲んでます。水が最もきれいな飲食物です。ペットボトルでお茶をガバガバ飲むとかキチガイじみたことをやるのは日本人だけです。

 イギリスで発展して大陸での啓蒙主義に受けつがれた理神論(deism)は、これはこれでその内容からしてchaoticなものです。汎神論(pantheism)は一見cosmosなものに考えられますけどこれが何故キリスト教において迫害されたかというと、キリストの居ない無神論と同じことで、前にもこのブログの記事で書いたように現実問題としては「何がどうなってもいい、現実問題としては現時点で俺が何やっても俺の勝手」ということになってしまって倫理的に論外であるという結果を招くだけのことになり暴力が跋扈して特定のイデオローグ内での社会は崩壊するということになってしまうからであって、これもまたchaoticなものではあります。
 世界中のどこかに誰にも知られずに何かひっそりしたものがあるとか宇宙人がいるとかそういったことはありえないのであって、嫌な物事を経験したり記憶したりしてしまって情報が蓄積されるとそれが腑に落とされて病気の原因になるという形で汚れを背負うのであっても、また脳裏に浮かんできて意識上で自覚されてそれが分かったからロボット的機械的に下手をしてじゃあやってみようということになるのであっても、宇宙人だとか誰も知らない無政府主義国家に生きる悪党だとかの正体は単に人間の脳の半分だとかそういったことがオチです。左でも右でもいいんで、とにかく、悪いことは行わない、悪いものは食べない、ということが重要で大事なことです。だから、物理的に「唯脳論然り」というのは間違ってますけど、ものの考え方的に「唯脳」というのはありです、というのは要するに左右のバランスの問題的に「左」か「右」かの考え方で教育が効を発揮していけばいいということです。ちょっとまた変に抽象的で分かりにくい説明で申し訳ないですけど、右半分でいくか左半分でいくか決めておいていけばいいということです。物事というか物理的なものの左右のシンメトリーを考えてもらえば分かりやすいです。私は個人的には、というよりは、どう考えても「左」が良いとは考えられはしませんけど。
 統合失調症は精神が歪む病気です、仮にそれが良いものであっても音楽とか聴き過ぎたりして年齢不相応に情報を溜め込んでしまっているとこうなってしまいます。精神分裂病は精神がsplitされて分裂してしまう病気です、いわゆるバチあたり、バチあたりなことを行っているとこういうことになります。前に精神は「左」とか書いた覚えがあるんですけど、これは間違いではないですけど、精神は「右」も「左」もというのが正しいです。というのは、右にもとづいて左があるわけであって、これが左へイき過ぎると統合失調症、「左→右(→左)」で神殺し的に右が分裂すると精神分裂病、ということだからです。「神」を「経て」はいるがちぎれそうなまでに(「左」に)イっちゃっているのが統合失調で、「精神」を引き裂かれて(「右」がバラけて)いる方が精神分裂です。でもまあ、外人さんはほとんど皆太っていて男性だと無駄毛がモジャモジャとかそういうケースがほとんであって、欧米人は皆統合失調症であるとかそういうオチになってきてしまいますけど。だからSchizophrenieは「統合失調症(Tougoushittyoushou)」ではなくて「精神分裂病(Seishinbunretsubyou)」なんです。



 人体にまでこの考えを適用するとおヤクザさんみたいにコワいことになってしまうんでアレですけど、物理的に社会主義、例えば部屋の整理なんかでも決まったものを決まったところへ設置するとかいったことは実に重要なことです。それを「右→左→右」な形で腑に落としてしまうものであろうが「左→右→左」で「そうなるとそうなって」しまうものであろうが、悪くなると悪くなるんです。昔の人たちは子供の教育におけるしつけや礼儀作法にうるさかったですし今でもいいお家の人たちはそういったことを大切にしておららるでしょうけど、これは少なくとも成長期が終わって仕事を始めてお金を稼ぐようになるまではヒトとして健全な発育を促してそういう悪質な歪みを避けなければいけないということのためのものなんですね。ちなみにお金は汚いです。まあ「右→左→右」な人間は外圧を加えられるとそれだけでストレスになって病んでしまうので一概にこれら「しつけ」の類が良いとは言えませんけど。アメリカ人とかこういったことについてはroughです。で、だから、哲学者の中島義道さんはこれをひたすら嫌っておられましたけど、「ゴミはゴミ箱へ!」とかそういった標語の類というのもまたこれはこれでとても大事なものです。
 廃品回収者の「いらないものがありましたらあなんでもかいしゅういたしまあす わからないことがありましたらあなんでもおききくださあい」というのはこれとは逆を狙っているので最悪ですけど。宮崎駿とかいう豚畜生の作ったアニメ並みに悪質です。自分ら悪党人が囲い込んで被害者にしうる人間を奴らが製作してしまえるから、ということです。だからそれに気付かないほどまでにイっちゃっているか諦念に支配されているかしてしまっている統合失調症もこれはこれでまたSchizophrenieとは違った苦痛に満たされきった精神の病ではあります。マスコミも昔はテレビのNHKみんなのうたとかで良い歌を流してましたけど、もう私が中学生になった20年くらい前からはひどい歌が流れ始めてました。他には、例えば、あのスクウェアとかいうゴキブリメーカー製のゲームは本当に汚くて悪質なんであって、まさに上の世代が下の世代に対して禍根を作り巻き起こして苦しめようとすると同時に自分らの保身を計る目的だけのものであるということなんですね。NTT出版の攻略本は良かったですけど。FFⅦはたしかに面白くはありましたけど、その内容からしてどれだけ子供らに悪影響を及ぼしたかという問題です。ネタのネタ性を具現化したネタたるセフィロスなんかどこにも居ません。本当にまさにユダヤのユダヤたる所業を具現化したようなアレです。同じくドラえもんのアニメなんてものも一見健全風味であるが故にさらに悪質であって、ドラえもんは悪魔です、のび太はアレは鬼畜です。サブカルチャー全般そうですけど、ビジュアルと中身をそっくりそのまま逆転させてるんです。子供用にゆるやかに描写してあるんで非常に悪質だったということなんですけど、メガネをかけた真面目な好青年は基本的にあんなのび太みたいな畜生ではありません。広告業界関係者なんてものもアレは全て業の深い穢多畜生です。

 あのイギリスという国はかなりブラックです。別にイギリスが悪いと言っているわけではないです。アメリカは白いです。昔は「日本の社会はアメリカの社会を十年遅れでコピーしている」なんて言説もありましたけど、だからつまり日本を穢れた国にして「需要」させてアメリカがそれに合わせて技術や下手をすれば社会システムすらも与えるという構図というよりはheartfeltなアメリカ的価値意識を利用した戦略をずっと第二次大戦後画策し続けて行い続けていた、ということです、おそらく。しかしそれもやはり女性の人権を守るためには仕方の無いことなのかもしれません。ちなみにイギリスは曇りの天気が多いんですね、「左」っている。人様に汚れを押し付けることでそれを「生きる」というfuckin' Japな価値意識はやはり残念ながら社会的に許容されるわけはないということです。
 イギリスも日本も道路は左側通行で、唯名的に言葉の世界に生きる者は基本的に無政府主義的考えに支配されているわけですけど、表音文字が使われているイギリスは人権意識がアメリカへ飛んで表れて、表意文字が使われている日本ではそれが結局は男が女を支配するという形で裏目に出ているということなんですね。日本語というのは残念ながらあまり良い言語ではないです。例えば女の人の店員がお店で言うあの「おあずかりしま~す」とかいったセリフもアレの類のものは止めた方が良いんではないですかね。



 恋する女の男に対する対し方でも法律でもなんでもそうですけど、既成事実を作ってしまえばそれで悪事も済むという発想が社会的に許されるはずがないんですね。論外であるところの典型的な悪人の発想です。悪事によって他人を騙して修復不可能なヒビを入れてそれによって被害者は何十年も苦しみながらそれをその後なってに訴えられると「そんな昔のこと~」とか「そんな何十年も前のこと~」とかいうセリフを発するのは逃避以外の何物でもないです、というのはそういった悪人の言動や態度がまた後続の人間の新たな悪事へとつながるからです。この発想はどう考えても他力本願のものであって、やはり恋する女です。アメリカが助けてくれなかったら日本は無政府主義国家のままでした。私もその末裔の一人なんでしょうけど、日本人は、能力も低くて、頭も悪くて、悪いことばっかりやってきた民族なんです、昔から。西から東へ、左から右へと逃げてきた人種の末裔なんです。私がいくら右が良いからといってドイツ語でタイトルつけたブログで印欧語タイトルの記事書いていて日本には走らないのもそのためです。ドイツ人でもそうですし欧米人は基本的に詩を大切にしてますけど、気持ちの悪いマンガなんか描くのは日本人だけです。日本人は汚れを他人様になすりつけて左へ蹴落とすというやり方でひたすら生きてきた悪い民族なんです。そりゃ殺し合いになるわけです、女が男に虐待されるわけです。

 私は肩の骨が変形してるんですけど、成長期の9歳くらいの時にベッドにうつ伏せ寝で本やマンガを読んだのが原因でこれになったので、やはりヒトの体の成長期は絶対的にあるんでしょうね……と考えていたら実はこれは全く間違いでした、本来的に出っ張った腹を出すと肩の形が正常になって筋肉の凝りや痛みがあっさりと消えるんです。男の手足をもいだ、否、関節に苦痛を与え歪めながら手足を膨れ上がらせて腹を引っ込めた・引っ込んでいることにさせたのは、女たちだということなんでしょう。それと同時に抗精神病薬リスパダールの服薬で「肩で風を切って歩いている」状態を味わってしまうことができてしまいますけど、これは絶望的に頭がイタいです。統合失調症患者が背負っているのは、手足を切られて子を産む道具にさせられていた女たちによる男への復讐なのかもしれません。男にとって過度の歪んだ愛情で女に惚れるということは地獄を見るということなのかもしれないです。
 私は20代の中ごろに一回心底天地をひっくり返されたような気分になった・いわゆるビビったことがあるんですけど、女性が日頃から感じている恐怖というものについて男性でありながらそれに近いものをよく知ってます。ヒトのメスが性的に絶頂を迎える時というのはおそらく恐怖感でwhite outするような感覚です。
 男はオッサンになるとビールをガバガバと飲みますけど、ビールなんてあんなもの世界で最も汚い飲み物です。その証拠にすぐ太ります。キモいんです(気持ち悪いですし、肝臓にキます)。クサいんです。落花生をおつまみにビールを飲むとか最悪です。私はこのビールという飲み物はまったく飲めないんですけど、味がどうこうとかいうよりはよくあんな汚いもの平気で飲めるなという問題です。私は酒全般が嫌いなんですけど、まだ日本酒の方がマシです。ドイツ人がビールや豚肉のソーセージを夕食に食べるのは、ドイツ人というのはキレイだからです。ドイツ語は音楽的で美しい言語なんです。

 ヤクザというとあの人たちはカネを作るために悪いこともやるのでちょっと語弊がありますけど、ナチスみたいな善良側の極善な極道の人たちが正義漢であるということをこの日本という国の第二次大戦後の教育を受けた人間は誰も理解しないできようがないんですね。というのは、やはり真実にのっとったらばメスがオスに虐待されるという結果を招かざるを得ないからです。日本のおヤクザさんたちは、学校では教師たちが子供にそれをきちんと教えずに間違った教育でボロボロにしているところの、「右」の大切なものを後世に伝えて守るために仕方がなく悪いことも行っておカネを作っているんですね。もちろん技術革新を頭とした社会の発展には必要なものであるということで学校がそれだけで悪いわけではないですし、またヤクザもそれだけだと悪いということになってしまうということではあるんですけど。またそして、いたずらに禍を巻き起こすだけのカルマな「左」のユダヤ的悪事とは違うということなんでしょうけど。「左」イコール金というわけではないです。つまりヤクザというのは本来的にはfuckin' Japではないです。この日本という国ではユダヤがキリストを迫害するという構図がずっとこの何十年もまかり通っていたんです。で、だからつまり実のところキリスト教徒というのは恐いですよ?アメリカで何故Hispanicの住民が嫌われるかといえば、スペインには拷問の歴史があるからです。Spainはs+painなんですね。首都はMadridですね。mad+rid。拷問というのは「手」で「考える」ところを「問う」んです。悪質なユダヤ人なんかひたすら拷問されてました。ユダヤ人は排斥されて然るべきようなことを行ってはいますけど、拷問を行って良いわけは無いですけどね。日本語を表音文字的に捉えるのと同じく、それとは逆に印欧語を表意文字的に捉えるとそれはそれで面白いというかものわかりにつながったりします。
 基本的に、逆もそうですけど、「右」の「左」に対する恐れというものはやはりあるということです。左は左を大切にしてますけど、左から右へ行くのは例外無くワルであってエゴイズムにもとづいて他人をいたずらに傷つけて奪うという結果を招くだけのいわゆる後でヤキが回る連中です。それが悪いことだと分かっているなら最初からやるなと。生き死になんかよりも悪事を行わないことや悪事に加担しないことの方がはるかに重要に決まってます。右だけというか「右→右」の人は法律の勉強とかだけやってりゃいいのかもしれませんけど、ヒトの肉体の身を持ちながらまあ右ってるだけだとそれが他者を悪事へ連れ込むような類のものであれそりゃそのような悪事をいつかは起こしてしまうということです。悪人同士で殺し合いやってますね。ちなみに私SSは「右→左(→右」です、アメリカ人的です。

 イギリスは、第二次大戦後、アメリカを利用して、英語を大きく流入させて日本が女を虐げずに「神国日本」であり続けるかそれともゴキブリの行き交うエゴイストのエゴイストによるエゴイストのための穢れた国になるかを試したんではないですかね。で、仮初めの自由を与えたらば結局ヤクザがカネを調達するために仕方なくマンガやアニメやゲームや出版「業」界製の有害な書籍を多数作って、そのせいでそちらに人が取られて文学が失われかかって、キモオタな人たちが大量に生産されて、さらにそれらをキモオタの人たちが需要して悪循環に陥って、結局女が尊重されなくなって女が悲しい思いをすることになったんですね。そしてまたそれのせいで結局「右」が崩壊しかかったというオチです。



 「人間は万物の霊長である」という表現がありますけど、人間は他のものの命をいただいて関連しあって文明や技術を発展させていくんですね。まあ「みんなで生きている」ということです。だから動物愛護もそれも守ることも発想としては当然なんですね、だから私はもう獣肉は食べないんですけど。「命」は「愛の結晶」なんであって、「愛」は工学化され得ないということです。ヒトのオスのヒトのメスに対する扱いもそうですけど動物を虐待するとか馬鹿なことをやるのは日本人だけです。heartfeltではなくて「心ある」「心暖かい」人間だからこそこういったことを行ってしまうということであって、残念ながらあまりよろしくない言語である日本語の持つ業が具現化してしまってこういうことになってしまっていたということです。夏目漱石の「こころ」なんて滅茶苦茶に汚いことがこれが人の心にまつわるしかたのないことだと書いてあったりします。「心」は"heart"だと間違いです。「愛」は"love"で正解です。人間関係ということだけにとどまらず、「愛」というのは絶対に右ってたらダメであるということです。「考える」は「右」だと書きましたけど、「思考」という言葉もあるわけであって、これは「左」と「右」が手をつないで事象を解析するところのヒトが持っている機能です。
Cordelia
 for dear.
 黒は楽、赤は決して楽ではなく、白は厳。




 昔の不良少年なんかでよく居ましたけど、やられたらやり返すというのが相手に不幸な出来事が起こらないようにするための最低限の礼儀、という教えというか考えなんですね、彼らにおいては。ガンつけられたらガンをつけ返すだとか、殴られたら殴り返すだとか。愛の感が無いというかかわいそうに人間関係が工学化されてしまっている人たちではありますけど、マクロ的といえばマクロ的です、恒等式的というか。もちろん暴力が肯定されうるはずは無いですけど、勝ち逃げしてしまうと当人にも何時か悪いことが降ってかかるから、ということです、たぶん。罪というものの自覚の問題であって、悪くなると悪い行動に及んでしまうという彼ら自身の特性を彼ら自身よく知っているということです。彼らにおいては睨んだら睨み返してきた相手に対して「ああ、アイツは分かってるよ」というのが「常識」なんです、現象的にはその場で憎みあっているかのような風を見せているのであっても。「ありがとう」と言われたらば「ばかやろう」と言ってくる相手に対しては「お、こいつ親切な奴だな」ということになってじゃあ殴ってやろうということになるんでしょうね。日本語が穢れた言語であるというと語弊があるでしょうけど、誰だったか忘れましたけど日本語にはもともと主語が無かったなんていう学者も居ます。そしてそれは「こんにちは」と挨拶をされたらば「こんにちは」と挨拶をするだとか、「ありがとう」と言われたらば「いえいえこちらこそ、どうもありがとう」と言い返すという日本人における常識のようなものにおいても同じことが言えます。まあこういった右な人たちも心使い過ぎて最後は心臓麻痺でwhite outして死んでしまうのかもしれないですけど。
 昔のじいさんばあさんとかで「無駄口叩くな!」「べちゃくちゃおしゃべりするな!」とかよく子供に説教する人とか居ましたけど、日本語が穢れたというかあまり口に出して良いものではない・物事の説明に適した言語ではないことを昔の人はちゃんと知っていた、というか日本人にとって日本語以外には無いところの言葉というものはそういうものであるとの認知を昔の日本人は持っていたということです。日本語というのは英語と逆で理念性の全く無い、単純で一言でそれが通じる・それが通じなければいけなくそれが理解できない者は排斥される、くらいの。日本語が良くない言語だというのは、下手をするとこれはペン的な剣として殺人ツールになってしまうからです。例えば「つき」と言えば「ああ、月、憑き、ツキ(が回ってきた)、突き、ね」というわけであってこれらは皆同じ「つき」であるというような。「子供は風の子」という表現もありますけど、これは本来的には「子供は風のように外を走り駆け回って過ごすべきである」という意味合いの表現なのではなくて、詩的に火・土・水・風の四元素的に「風というものの子たるそれが子供」という言葉だということです。風は気圧の場違いによって起こる現象ですけど、子供は皆小さな王冠を被っているようなものであって、der Königは現象、日本のものではないですけど「王子と乞食」みたいな物語が生まれるのもまた必然であるというわけです。漢字が大陸から入ってくる前や、古事記や日本書紀以前にどういった言葉が使われていたかを示す資料というのはまず残ってないでしょうけど、その頃にどういった日本語が使われていたかということを考えるとけっこう面白そうです。現代では、法律の条文なんか皆そうですし、英語のセンテンス化された・英語のセンテンスに組み込まれた日本語が使われることが一般的なんで、日本語も現実的な問題に対処するべく使われるのが言語であるという西洋的なものに合わせなければいけないというのがもちろん当たり前になってます、もちろん日本語にも文法はありますし。文明の維持発達というともありますし、またそうでなければ特にここ日本ではバカなオスに結果として女性の人権が踏みにじられてしまうことになりかねないという問題があるので、これは当たり前のことですけど。英語を国語にしとくのが一番良かったんでしょうけどね。ただ、例えば「アカン」とかいうのがどういうことなんだか、日本人でありながら英語的発想に精神を呑まれきってマンガ的コンテクストに頭を支配されていると物事正確に分からなくなるということになるんですね。「『アカン』というのは、不適合・不適切・不合理だとかそういった意味ですねっ」とか言い出したらお終いです。「アカン」は「アカン」のですけど。印欧語であっても文学のテクストからそういった例えば「赤」のようなものをそれがどういうことなのか読み解いていければいいんでしょうけど、ただこれにはある程度高い教育を受けることが必要になってきてしまいます。日本語というのは、これが極めて簡易に理解できるようになっているものであって、コミュニケーションにはあまり適していない言語であるというよりはそのような言葉であるといった方が適当な記号みたいなもんです。

 ヒトの体の動きとして自然なものは男女間のセックスだけです。オスだったら腹筋、メスだったら背筋ですね。私みたいな運動のあまり出来ないヒトではなくて運動神経の良い運動の出来るヒトならば体感としてご存知のはずだと思いますけど。しかし、例えば、パソコンやワープロのキーボードを打って文章を書くことが自然でないといえば自然でないのは当然ですけど、それで言うならばペンや鉛筆を使って紙に文字を書くという形で文章を書くのも当然自然ではないんですね。だから、キーボードを打って出る文章とペンを走らせて出る文章の内容は同じでも程度が違っていようがコンピュータのキーボードを使うこともペン等の筆記具を使用することも不自然であるところの問題の方向性としては同じであって、文明の利器にはどんどん慣れて取り入れて使っていかないとどうしようもないんですね。我々の体は2000年前とは造りが違いますししたぶん1000年前とも違うでしょう。まあその文明の利器も肉体の健康を害すほどに多用・悪用していたら元も子もないですけど。



 heartを「心」と訳すのは間違いです。heartをヒトの臓器の一つである「心臓」と訳すのは正解ですけど、日本語の「心」の場合は心を使いすぎると心臓にクるというか負担がかかるんですね、日本語というのは「そうなるとそうなる」言葉なんです。逆に、heartfeltやwarm-heartedの場合は心臓にやさしいんです、英語というのは理念的な言語なんです。で、英語だとcordialityという単語を日本語の「心」と訳すのが正解です。
 シェイクスピアの「リア王」では、オーディンの如きなリア王の娘のあわれなヴァルキリーのブリュンヒルデのようなコーディリア王女がこのcordiallyな人物として描かれてます。統合失調なリア王はこの物語の初頭で二つ前の記事で書いたような馬耳東風な精神分裂な人間のコーディリア王女に対して怒りを燃やしてしまいますけど、このcordiallyな人間は西洋的な価値意識一般いおいてはheart warmingな人間としては見なされないんですね。以下リア王が娘達に自分の遺産をくれてやるぞと告げコーディリア王女がそれを断る場面からいくつかセリフを抜粋して引用。

コーディリア「コーディリアはどうしようかしら?心で愛して、黙っていましょう。」

コーディリア「かわいそうなコーディリア!でも、そうではないわ。わたしの愛情は舌よりもずっと大きいのだもの。」

コーディリア「陛下、お願いでございます――わたくしはするつもりのあることは、口にするよりもまず実行をと心掛けておりますので、心にもないことを言う滑らかな弁舌が、わたくしには欠けておりますかもしれませんが、と申しますのは、お父上の御寵愛を失いましたのは、わたくしの悪徳の汚れや、人殺しや、不潔な行いや、淫らな所業や、不名誉な振舞いのゆえではなく、持たないことが私を豊かにしてくれるもの、つまりいつもものほしそうな目つきや、わたくしが持たないことを喜んでおります舌、それがないためであることを、おっしゃってくださいませ。そのために御寵愛を失ってしまいましたけれど。」

(父王の遺産をもらい受けた強欲で罪深い姉に対して)
コーディリア「時がたてば、襞の中に隠された悪事もあらわれてしまいましょう。罪を覆い隠すものも、ついには恥辱の嘲笑を受けることになります。―後略―」

しかし結局は愚かなリア王も最後にコーディリア王女の真の「心」(まごころ)を知り、その死を嘆き悲しみ自らも心臓をやられて「気を失って」死にます。最後の最後で心がどういうものか知ったんです。



 ハーバード大学の経済学の教授のN.Gregory Mankiwさんが著書の経済学の教科書で言ってますけど、経済学的考え方や経済学的なものの見方を学習するのに知識はほとんど必要ありません。経済学者が自説の正当性を説明するためにデータを大量に持ってくることはあるでしょうけど、経済学というのは特定の知識の存在を前提にそこからものを考えていくという学問ではないんですね。一週間くらい集中して経済学の教科書を読めば理論や基本的な考え方をものにできる(のは当然)、というよりは、もともとこれは合理性に基づいて行動する大多数のヒトの行動を数理的に表現したものです。少なくとも経済学を「学ぶ」という点おいては「知」は法律や文学を学ぶことに比べれば必要ありません。以下「リア王」の結末より。

エドガー「(リア王が)お亡くなりになりました。」

ケント伯爵「むしろ不思議と言うべきだ、これほど長くお耐えになったということが。命を盗んでおられたのだな。」

―中略―

エドガー「この悲しむべき時代の重圧に、われわれは耐えてゆかねばなりません。感じていることを言いましょう。もっとも年老いた者がもっとも多く耐え忍ばれました。若いわれわれはそれほど不幸な目にも遭わず、それほど長生きもしないでしょう。」

年老いた者は悲しみの重圧にそれがそれであると気付かず耐えてしまっていたということです。人体の健康の問題的に「若いわれわれ」は長生きするでしょうけど。自分の汚れや意識下に封じ込めた罪の意識から目を逸らしてその存在と自分の行為の矛盾にもかかわらず他人を裁くということはあまりにも道理に反しているということです、文学的に考えると、経済学には残念ながら。

 「リア王」ではリアもコーディリアも死ぬという形で描かれてますけど、この二人は最初から愛ありきではなかったんです。「十二夜」のヴァイオラとオーシーノウ公爵のようにそれがどんなすれちがいであれ最初から愛ありきでの行動が描かれていたならば幸せに結ばれることだということなんですけど。最初から愛があったならば、多分愛があれば、女の人の精神は分裂を起こさずにすむことができて、男が一人愛する女のために犠牲になって汚れを背負っておけば結ばれる、という運命です。
Das schaut auf eins hinaus.
 love potion.
 赤い糸。




 全身の毛のうちで唯一眉毛だけは剃らない方が良いです。黒いものを出すべく毛を剃るのが良いということで私はこのあいだT字かみそりでジョリジョリと頭を剃ってスキンヘッドをやってみたりもしたんですけど、生まれて初めてやらかした眉毛を剃るということだけは失敗でした。「自分の目の黒いうちは(~は行わせない)」という表現が日本語でありますけど、少なくとも黄色人種の日本人の場合目はある程度ブラックでないとものを見ることはできないんですね。ちなみに睫毛を切って短くしてしまうのは良いです、目がぱっちりして大きくなります。女の人の化粧で睫毛を上げるというのがありますけど、あれはたしかに合理的ではあります。



 日本人の男が「日本」の唯名そのまんまのいい男ばっかりだったららよかったんですけど、残念ながら少なくとも前世紀までの大多数の日本人の男はどうしようもなく汚かったんで、この日本という国では女たちは子供の頃から狙われないように男の前で演技をすることまで覚えさせられながら男に対して脅えつつ生きることを強要させらていたんですね。村上春樹さんの醜さと顔のブサイクさと現実にはあり得なさ過ぎる小説の内容の下劣さには露骨な異常臭や異常者臭を感じるんですけど、まあ日本の風土に生きていたヒトのオスの抱いていた欲望が昇華されたところのものの表れがアレかなとは思います。

 例えばおそらくドイツとかはユダヤは左そうでないものは右としっかりと分けてたんですね、言語的にというか文化風土的に。戦後に始まったことなのか戦前からそうだったのかは分かりませんけど、日本だけがユダヤ少なくともユダヤ的発想に基づくものを「左→右(→左)」という形で右に入れることを許容していたから「右」なるものがエゴを満たすための道具に使われておかしな汚れたことになっていたんですね。何度も書いているようにJudenというのは顔を見れば分かりますけど、目蓋に特徴があるところの他人を切り裂くような風貌のまた自らも他人に(精神を)切り裂かれているような醜い風貌のアレ、というか人をひたすらいら立たせるピエロです。ユダヤ人というのは当人たちも嫌な思いをしているところの「嫌」らしい人間なんです。ユダヤは右らせたら駄目なんです。悪いことの懺悔をして完全にキリスト教徒たることが成長が止まり肉体的にと同時に人格的にも悪事に染まるという形で社会になじんで固まってしまってからのヒトの特にオスに可能であったのかどうか分かりませんけど、おそらくは中途半端であったろうJudenchristの名称でそのような人々は結局キリスト教を自分らの都合の良いように作り変えてしまおうとしただけでした。Judenというのはたぶんエゴから逃れられない悲しい人たちなんです。いくつか前の記事でも機械と書きましたけど、彼らには一見したところの人格が無さが露骨です、対人関係において人格を消して・人格を消したことにしてユダヤではない一般他者をあざむき保身を図る(という形で自身のエゴイズムを守る)のが彼らだからです。
 「左→右」の人たちと違って、「右→右」の人たちはもっと自然体で淡白なんですね。例えば私の場合は嫉妬というのは自覚されて胃にクるんですけど、嫉妬で頭が狂いそうになるヒトというのが居るんですね。これがヤバいんです。

 もしかしたら戦前の日本も同じかそれ以上に酷かったのかもしれませんけど、戦後の日本というのも女がひたすら泣かされるソドムだったんですね。結局戦争が終わって、アメリカが援助してくれたにもかかわらず、粗野で野蛮な日本の男共はまた女を好き勝手に傷つけはじめました。女が泣かされるから子供もまともには育ちません。ネットを与えられてからですらあのザマでした、チンピラがまるでそれがオタクな風貌のヒトの所業であるかのように必死に見せかけようと試みていたところの下劣下賤下俗悪なネット掲示板とかの。
 男がキモくなって悲しい思いをするのは女、そしてそもそもキモいところのエゴイズムありきで行動している女々しい男には女は近寄りません。まあエゴイズムに絡み取られずに逆に強くなって(本来の)能力を発揮したり女を愛したりするできるのが本来的な男だということなんでしょうけどね。



 今どきマンガ的というよりは絵本的な「やさしいおじいさんおばあさん像」に捕らわれている馬鹿な子供もまず居ないと思いますけど、日本においては残念ながら一部の老人たち特に汚いジジイ共において甘やかしが通用しないとなると嫌がらせによってまで若者を「左」へ釣ろうそして蹴り落とそうとしてくるのが居ます。まあ義務教育を受けている年頃くらいの子供までは一般的には攻撃の対象からは除かれるとしても、言うこと聞くいい子をかわいがってやろうという見せかけのフリをしながら平気で蹴り落としたりズタズタに踏み潰したりということをやらかすのが10年くらい前までは随所に居ました。私SSもたぶんやられてました。老人で汚いのは本当に汚いです。まあそうでないと第二次大戦後の日本における悪社会でさんざん悪事を働いて同世代の善良な人たちを犠牲にして生きてきた自分らの身が危ないと彼ら自身ご丁寧よろしく認知しているからということもあるんでしょうけど。
 ノーベル賞なんてただのyou're the 爆弾賞です。「ああ、お前さんはここまでよくぞ(正統ではなく)分裂気味な生焼けダイナマイト的に頑張ってくれちゃったから8千万Sクローネでイオナズンの刑ね?」という汚れを溜め込んで汚くなったヒトのオスにおあつらえ向きなご苦労さん表彰賞です。

 直接打撃攻撃でなくてグループ魔法や魔法全体掛けというとちょっとマンガ的表現なんであまり良くないですけど、事象を概念的に一般化して鑑みる現代人のクセや傾向の弱点を突いて攻撃してくる連中というのが居ます。事象Aについてそれを知った後でそれに正や負の感情を絡めて社会的に一般概念化してしまう場合、例えば私のように数学的や哲学的に物事についてつらつら書いている場合それを言語として書き連ねさせるべくそれを想起させる材料になっていたその時点では忘れていた個々の具体的な情報が書いた後になって意識上に出てきて「ああ、あのことじゃん」と思い返されるということがあるんですね。つまりそれについてターゲットが決まった対応や思考を行うことが確定していることをひたすら繰り返しターゲットに対して行うことで、ターゲットが数学的や哲学的に物事を考える場合における結論において事象Aの認知の欠落をターゲットにおいて引き起こすことができてしまうんですね。仮にターゲットが思考し書き連ねるという行為に及ばないのであってもそれは意識上にのぼらない忘却という形でターゲットにおいて現象化されてしまうだとか。ターゲットにとって見知らぬ不特定多数の人間によるストーカーなんてものはこれの典型であって、サブリミナルをかけるということですらそれからのカモフラージュです。男性的なヒトは「そうなるとそうなる」わけではないのであって、やる側はおそらくこれを分かって「やって」ます、攻撃してます。だからそれら個々の具体的事柄についての示唆や促しを情報が提供される他者に対して行っているわけではなく且つ全体魔法掛けでその具体的情報が焼かれてしまう、だけならまだしも、対人関係においては誤解されてトラブルのもとになったりむしろトラブルを引き起こすことを狙って他者と他者の仲を引き裂こうとしたり自分に相対する人間を都合よくpurgeしたりしようと攻撃してくる悪質な連中も居るということです。

 ヒムラーもナチの構成員を統率するのにこういった汚いことをやったらしいですけど、つまり現代に生きるヒトの男性的空間認識能力の高さや学習能力の高さに漬け込んでヤクザ的に「人に言えない何か」を知らしめ同時にそこから「何か」を学習させあわよくば洗脳していこうという試みをやらかしてくる連中というのが居るんですね。女性は恐怖心もあいまってあっさりとそれをそれであると見抜けるので自覚的に回避することもできるんですけど、男性は男性としての自信過剰さに囚われているとこれにあっさりとやられることになりはするんですね。いらないものやくだらないものを情報として溜め込み過ぎるんです。だからきれいな嫁さんは「あの人(夫)は若い頃いい人だったのに……」と年取ってキモく冷たくなった夫を見て嘆くんですね。まただから昔の人は現代人に比べて必死に「悪い奴とは付き合うな!」と善良な人間に対して日常的に警告していたんです。悪人も悪人と接して悪人になったのであって、Judeはどんどん伝染していくということです。私みたいに書いて出してしまえばまだなんとかなりそうですけど。直接その人を傷つけてしまうよりはマシです。



 疑わしきものは罰するあわよくば罰しうるものをすすんで作るという最悪なことを行う人間たちが形成する社会(主義)が崩壊に向かうのは当然なんですね。ハーレーダビッドソンにまたがってブサイクに珍走している分にはいいですけど、それでは済まないです。というか、ヒトのメスを虐げるヒトのオスというのはヒトの文明的な生態上滅びて減少していくように出来てるのではないかと。

 幼稚園なんて非常に恐ろしいところです。大学の勉強なんてあんなもの大したことはないです、私がこのブログで書いているようなことについてデータや参考資料を持ってきて組み変えたり組み合わせたりしてこれこれはこうでありこうであるということを説明するだけであって、理科系でもそれに実証実験が加わるだけということであって基本的には変わりはないです。昔ながらのキリスト教の女学校なんかでは入学して「お年は?お名前は?」と聞かれるだけというところもあったみたいですけど、勉強をはじめる小学校に向けて幼稚園こそはもう唯名的に全てが決まってくるその始まりのところというか「そうなるとそうなる」というところの現象そのものを唯名的に後年になって知らしめ背筋をゾッとさせる。勉強を知らないが故に小学生になる前のまだ無知な幼稚園児の時点では愛を知らない愛が芽生えないのがまだしもの救いです。
Der Himmel küßt die Erde.
 キスは4格を要求する。
 ハチかぶり姫。




 Judenが意図的な故意のピエロのポーズを行うことで、被害者はそのピエロのポーズのなんたるかを学習してしまうどころかそれが故意のピエロのポーズであるということのところそのものをも学習してしまうので、Judenにこれをやられた人は無意識的にJudenに対してそれをやり返すようになるんですね。これは何百年も千年も二千年も前の昔から行われていたであろうキリスト教徒の弱点を突いたユダヤ人によるキリスト教徒への攻撃とそれに対する応酬です。キリスト教(圏)というよりは印欧語圏に対すると言った方がより正確ですけど。つまりJudenに攻撃を受けているこのような「右→左→右」の人たちにおいては、自分を釣ってくる攻撃者たる他人の行動や言動を読んでその行動原理を理解してさらにそれを腑に落としてそれが意識上に上らないようにしてがっちりガードを固めてから、それら攻撃者と同じく攻撃者を釣る行動や言動に及ぶということになってしまいます。これは無意識的に弱者を装っているだけのものであって本質的には凄まじい強者です、が、これに呑まれ過ぎて病気になるよりは私SSのようなこの「右→左→右」のヒトにおいては言語化して書いて吐き出してしまうというのがオススメです。
 例えば、私がこのブログの一つ前の記事で「残念ながら少なくとも前世紀までの大多数の日本人の男はどうしようもなく汚かったん」と書いたらば、スーパーの店屋物のメシが並べてある惣菜コーナーの前で多々汚い格好をした中年のオッサンたちが現れたんですけど、私が「日本人の男の大多数はどうしようもなく汚い」と言ったところの汚い男というのは大手マスコミ新聞関係者であった私の父親MSのような吐き気がするほどに汚くまた汚い卑劣で姑息なやり方で人様に危害を加えるユダヤの豚のことであってこれらかわいそうな中年のむしろ豚畜生共によっていろいろな荷物を背負わされて苦労をさせられているオッサンたちのことではないんですね。もちろん私SSのこのケースだとこの人たちは使われてしまってます。もちろんこれには被攻撃者を汚すという目的と同時に他者一般について誤解しうる認識原理を植え付けるという狙いがあります。一見しては被害者本人を真似していると見せかけて実のところは真似でもなんでもなく加害者側と被害者本人にとってのみそれがそれであると分かるところのただ被害者における被害者本人に対する誤認を招かせるための行為を被害者に対して当て付けて、Dinge an sichなユダヤ人を製造しようと試みる豚クズな連中も居ます。本来的にはそれが自分であるのに、自分になりたいところのその自分を志してしまうとか最悪な場合に引っ張り込まれる場合もあります。こうやってターゲットの被害者を汚くしていくというのが「左→右→左」のJudeなヒトたちの所業なんですね、これが最悪度なことになるとこの豚共は精神分裂病であるということになりますけど。

 被害者において、特定の例えば好意を抱く人の顔であっても、「思考」する場合何かもの考えながら何かものを思ってをそれをflashbackさせるという脳的な行動原理を植え付けられることでその愛する人を傷つけてしまうということがまかりとおらせられてしまうんですね。あろうことか憎しみを抱いている対象のヒトについて考えている時に、愛するヒトの映像がflashbackしてきて、その憎しみが愛する人にぶつけられて愛する人に送るべきである愛が憎しみの対象に注ぎ込まれてしまったりするという最悪な事態を招く現象が起こってきたりもします。愛憎深い(愛憎不快)とこういう最悪なことになっていってしまったりもします。



 学者や研究者の世界におけることだけでなく一般的な意味合いとして(の)論理実証主義者はデータの収集にやっきになりまたそれが如何に論理的で筋の通った理に則したものであっても具体的データに基づいていない他者の言説をただそれだけで否定しますけど、ともかくその第一義な狙いとしてデータを集めさせておくというのが連中の考えているところなんですね。データを集めさせておくことによって要らない情報無い方が良い情報つまりヨゴレモノを保持させておくことが連中の狙いであって、こういった論理実証主義な連中が抱いているのはソイツの説なんかどうでもいいからデータさえ残させておけばまた汚れ物が拡がっていく汚れ物を拡散させていくことができるからという発想です。winnyみたいなもんです、あれは使い方によっては非常に上手く社会的にプラスの価値をもたらすことができますけど。で、これに加担しない人間は社会から排除されていくという汚いJudeの所業が第二次大戦後最近までずっとまかり通っていました。

 これはおそらく、Juden以外のヒトにはJudenのことが分かるがJudenにはJuden以外のヒトのことは分からないという悲しい「左」なヒトの、自分らの弱点をどうにかして克服し社会的にも克服させて得てやろうという試みです、が、残念ながら機械工学等の類の技術の発展においてはこのやり方が必須ですけど社会一般的にはこれが社会を崩壊に向かわせる悪質なものであることは皮肉にも技術のsymbolたる火を見るより明らかです。



 ヒトのメスは特に女々しいヒトのオスにおけるこのうっとおしさやこれがもたらす不快感をよくご存知だと思うんですけど、こういったオスというのは最悪の場合「オレを好きであることにしてやる!」というレイプまがいの言動や行動に及ぶんですね。昔のおチンケな歌謡曲かなんかでありましたけど、「俺色に染まれ」なんてのは反吐が出ます。私SS個人は好きな女の人にその人色に染めてもらうと限りなく嬉しいんですけど、まあ今はそれはおいておいて、前述の通りヒムラーもこれを行ったヤクザが常套手段としてそのように洗脳しようとするものであるところの物理的に社会主義結果として唯名的な象徴社会主義が招かれるところのターゲットの被害者におけるマクロ的認識を逆利用して、その内容をまるで被害者のものであるかのように見せかけるということを行ってくるわけです。被害者は本質的には「右」なのであって、これが行われることによって被害者は「左」へやられてしまうんですね、健常なヒトにおいては人間関係は「左」だからです。もちろん加害者側は、自分らが被害者を貶めることを行っているのは当然自覚しているにもかかわらず自分らは被害者を「右」へ定常させるべく努力を行っているのだという一見しては社会的な正当性を振りかざすことができるので、あろうことか「こんなに俺らがしてやってるのにターゲットはぜんぜんダメだ」という痴呆文句を主張することができたりもしてしまうんですね。

 例えば私SSが外出する度にストーキングをして絡み付いて粘着的に嫌がらせをしてくる不特定多数のヒトがいくら不快であるからといって、

「 いい加減ダルいどころかムカつきが止まらないんで書きますけど、あの『左(→右』であるにもかかわらず調子に乗っちゃっているおそらくは日本のヤクザの下部構成員であるところのユダヤクザのオスのチンピラ豚畜生共におかれましては、あの連中は人に危害をダイレクトに加えるというのではなくて、ひたすら脅しと嫌がらせであきらめさせて慢性的な危害を加えることの被対象にターゲットの被害者を仕立て上げることが狙いであり目的なんですね。おそらくは上の人たちがそうであるようには、こういった下部構成員の芋チンピラ共がある程度の知識を持ちものの分かった人間であるということも無いです。別に右翼の人たちが天皇制を崇拝していることには何も問題は無いですけど、あろうことにもこういったユダヤクザ下部構成員のチンピラ豚畜生のジャップのオス共に現人神ぶられると風景としてうっとおしい以前に糞迷惑どころの問題ではないんですね。こういった卑屈なのはひたすらチマチマチマチマした嫌がらせを行ってターゲットが諦めて病気にでもなるか自殺でもするかというのを待っているのだということです。昔だったら好き勝手に他人に対する暴力三昧であったのが近年それもできなくなるとなれば、一部で有汚名な私SSの父親にあたるMSとかいうユダヤの穢多豚非人畜生に典型的に見られますけどこういった卑屈で卑劣なイジめられっ子のイジめられる原因になる卑屈卑劣行為そのまんまという行動をやらかすんだけなんですね。だからこういったのはユダヤ人よろしくサッサと殺しちゃえばいいと考えるのが普通であり合理的なんですけど、何故サッサと排除して屠殺処分していかないんですかね?こういう悪事にばかり及ぶんで万人にバカにされるブタクズが間違えて出世しちゃうという大たわけなケースが前世紀まではまかり通っていたものであってこうやって一つ前の記事で書いたような若者や下の世代を潰す老人というのができあがってしまうんですね。」

「 学校の勉強を行わなかった馬鹿の分際で、『分かんねぇ~分かんねぇ~』『ここは日本や!』その他のセリフを連発する特にヒトのオスに多く見られるブタクズにおかれましては、所詮メスに危害を加えたいだけで努力も学習も拒否しただけで社会を崩壊に導くだけの分際で何を自分らのことを勘違いして調子に乗っているのだというお話です。」

と書いたりするとこれはこれで危険なわけです。

 例えば、私SSが遭遇した案件だと、ちょうど今から10年前になりますけど、私SSが知人と一緒に彼の右側に私が居るという形で道路を歩いていた時、私と彼が並んで歩いていた真左の位置から突然彼に向かって私から彼を追い払うように彼をにらんで「チッ」とか「シッ」とか言うということを行ったメガネの白髪のユダヤヅラのオッサンが居たということがあったんですけど、これに対して私の左側を歩いていた彼が「うっせ」と言いその直後に私に対してその真左から「今のは向こうがワリィだろ?」と言いました。これはもちろんこのユダヤヅラのオッサンとこの知人が敵同士しかも瞬発的な攻撃を交し合う敵同士であるということを装って私を「左」へ釣ろうとしたところのものです、さらにはもちろん場形象的にも。もちろんこの知人は悪人です、壮絶なユダヤ面をしたヒトでしたけど。他には、人の家で酒を飲んだり、人の家でそのホストの親からの差し入れであるという名目の下に例えばカツサンドかなんかを出前でとっ(たことにし)て皆同じものを食うという表局域な社会的コンテクストを捏造しながら連携している加害者側は後で解毒剤か何かを飲んで特定にターゲッティングした被害者だけに普通に食わせる、ということを行うものもあります。未成年飲酒なんかやってるとこういうところからあっさりつけ込まれます。女性で警戒心が薄いとあっさり狙われます。ワルはワルであって悪質な連中は悪質なんです。
 これらは、社会学で上記の「表局域」だとか「裏局域」だとかいった言葉がありますけど、「『表局域をダシにして裏局域性を高めて友好を深めたフリの実のところの引き摺り下ろしであると見せかけた』という表局域が表局域であることに気付かない被害者の事象の認識の表局域性なクセを利用した引き摺り下ろし」という裏局域に生きるモノたちの所業であって、いわゆるワルというのはこういったことを行うんです。公立小中学校ではこういったことを教えません、教育指導要領を作っている官僚の人たちはこんなことを念頭に考えてそれを作っているわけではないですけど釣られる奴は釣られるにまかせて下を作っとけというのが教育の現場で教育にあたるヒトたちの発想だからです。



 男女同権をひたすらうたって、まるでヒトが構成する社会でオスとメスが同等の権利を持っているかのような表局域のコンテクストを主に悪質なマスコミを使って作り上げながら、悪質な連中というのは人間関係を工学化してナザレのイエスさんでもヒットラーでも作っておくんですね。そして連中はそのようなキリストさんたちには「男女同権は保障されているのだから、男女は同権でないはずはなく、にもかかわらず悪へ走ってしまう女は悪いもしくは女には悪い奴が多い」という認識を植え付けておくんです。その上で実態としてはメスがオスには逆らえないという人体に基づく必然がどうしてもまかり通るわけなのでメスは善良なオスにも自分たちのことを分かってもらえず涙を呑むことになる、というのが少なくとも近代から前世紀までの文明社会における男女の関係の実態でした。
 本来的には、男は女から愛をもらってそれが生きる気力や能力になったりするんで、男がその最初に惚れた女の人に愛情の恩返しをしないとオスもメスも人間存在的にワリが合わないんですね。そのエネルギーで大人になってからお金を稼いでその人に楽をさせてあげる、というのが本来的な男女関係であって、それをゲームだとか酒飲みだとか愛する特定の異性個人以外とのくだらないコミュニケーションに労費してしまうというのは不合理で非常にバチ当たりなんですね。

 今でも英語圏にはDavidさんがいらっしゃいますけど、ミケランジェロのタビデ像に見られるところのダビデの肉体は男性というかオスでありながらかなり愛にあふれている、無邪気な赤ん坊的なんですね。Michelangelo Buonarrotiさんはキリスト教徒、というよりはこの場合においては右といった方が適切ですけど、キリスト教徒から見たユダヤの王ダビデということであるというよりはまあちゃんときちんと(数学的に)作っているということです。女たる左側は本来的には(極)右たるキリストを犠牲者として頂点にいただき、男たる右側は本来的には(極)左たるユダヤの王ダビデを右の管理にはカネが必要であるため頂点にいただいている。
sibylline
 巫女さん。
 予言者。
 預言者。




 私はだいたい2歳前後で日本語のひらがなやカタカナよりも先にAからZまでのローマ字のアルファベットを覚えました。カセットテープから流れる「きらきら星」の歌のメロディーにのせたアルファベットのAからZまでの「ABCの歌」というのを聴いてました。

 女性店員の「おあずかりしま~す」もそうですけど、商業店舗内で「いらっしゃいませ」という掛け声は止めた方が良いんじゃないですかね。ちなみに「いらっしゃいませ」はローマ字で書くと「irasshaimase」です。音韻からして「イラッ shame 汗」です、そもそもこれの前提には「イラッ」という擬態語の存在とそれが発するところの感慨を被害者に学習させておくということがありますけど。他人が「居る」とイライラするとかですかね。「いらっしゃい」も「イラッ shy」で、他人をまるめこんで手籠めにしようとする文化人類学的な意味での日本人のコミュニケーションの意図が丸出しです。「左」へ釣ってるんです、オスは腑に落とさせて気持ち悪くさせて、メスは腑に落とさせて下から出させようとしているということです。分裂気質なJudeの「左→右」な女々しい男たちはこういう見えないところからネチネチチマチマした嫌がらせをターゲットの被害者に対して行って、特にこの被害者が女性である場合は言えないということであるともちろんヒトのメスの体の下から出させることを狙っているわけですし被害を訴えるという形で言うと罠にかかったといわんばかりに「それはお前がいやらしいことを考えているからだ」と指摘するという形で因縁をつけ「つまりそれを言ったお前はいやらしいのだ」という方向へ持っていって被害者を貶めあわよくば危害を加えるということを行うんですね。こういうことに誰も気が付かないか気付いても女の人だったら恐怖で何も言えないか誰かが言ってもどうでもいいものどうでもいいこととして扱われて日本のマスコミが敷いた統制下のもと流布されずに立ち消えになるかということになるというのがこの日本という国ではオチであってしまってました。そこまでして日本人の男というのは女を辱めたいんですかね?私SSはあの「い ら っ し ゃ い ま せ~ → お あ ず か り し ま ~ す → あ り が と う ご ざ い ま し た ~ 」という女性店員が三連コンボで発してこちらに投げかけてくる言葉が言い様もなくおぞましいんですけど、言う側は平気なんですかね?



 左は冷で右は熱です。ちなみにheat upは左でcool downは右です、学校の部活動なんかで最初に走りこんで調子を作るのを「アップ」とか言う日本人の何でも自分らのものと同じだと考えてしまう悪質な風習がありますけどあれは間違えてます。つまりヒトの肉体において、寒いと「冷」が内から外へ出て右傾化します、暑いと内から外へ「熱」が出て左傾化します。北方の寒い地方住むヒトたちは肌の色が白くて少食で警戒心が強いです、ロシア人とか。熱帯に住むヒトたちは肌の色が黒くて大食というか何でも食う上に警戒心が弱いです、アフリカ人とか。風邪を引いて熱が出るというのは、短いスパンで急激に「右」へ戻るかまたはキ過ぎて精神分裂気味になるほどに悪気が発生するということに対するヒトの体が必然的に持っている防衛機能なんですね、物理的な問題として熱が出過ぎると肉体が壊れて死にますけど。また、右傾化し過ぎると便秘になります、左傾化し過ぎると尿があまりいいものが出なくなって出るものがすべて透明になってしまったりします。野口英世もこれで亡くなったところの熱帯に過ごしているとよくかかる黄熱病というのがありますけど、これは黄色い尿があまり排泄されなくなるんではないですかね。私SSも抗精神病薬を一定長期間服薬していた時に何ヶ月も全く黄色い尿が出ないということが続いてました、もちろんあまり食べないのに体重は減らないどころか増える一方でした。商品名ジプレキサは人体が左傾化するわりには服薬しても大したことは無い上に服薬することを止めた時に良くなりますけど、Judenchristなヤンセンファーマが発売している商品名リスパダールは脳内の感覚を強引に人為的に「左→右」にせられるだけであってまったく黄色い尿が出なくなる上に服薬することを止めた時には「左」へ落ち込まされてこれを服薬することを始める前よりもさらに悪くなるという最悪なものです。パウロに始まるJudenchristは、キリスト教の中に入り込んでキリスト教を内部から壊すということをそもそもからして念頭に置いていたユダヤの所業もっと言えばヒトのオスがヒトのメスをオスにとって都合のいいようにもてあそんで虐げることができる構図を作るための女々しい男たちの所業だったんですね。
 昔の旧日本軍の登戸731部隊の拷問かなにかでヒトを零下何度かの部屋に全裸で閉じ込めておくというのがありましたけど、あれは昔の人間のヒトを右傾化させようというバカな試みだったんですね、もちろんこんな野蛮な行為がはいそうですかとまかり通るわけはないです。暴力ということにおいてのみ言うのならば、「右」は野蛮、「左」は残虐です。ちなみに私SSはこの季節でも気温10度かもう少し高いくらいの部屋の中で下着のシャツと短パンだけですけど、実に心地良いです、暑いの嫌いなので。



 文学的に考えると、おそらくヒトにおいてオスもメスも生殖器だけが「神」から独立したものなんですね。前も書きましたけど、アニマな女性において女性器はアニムス(性行為においては「右→左→右」)、アニムスな男性において男性器はアニマ(性行為においては「左→右→左」)。行為の後にもずっと抱きしめ続けて愛して欲しいというのが女が男に求めているものなんではないですかね。

 女にとって信じるというのは「左」で我慢するということであって、男のように「右」で定常情報を知りそれを分かるということではないんですね。だからオスが刺激するとメスはいかなる形のルートを通ってもただ我慢して病気になるか分裂した「右」の悪事に走るか性欲へ落ちこむかというところへ辿りつかなければならなくなるので、やはりキリスト教であっても女にとっては苦しいものであるということに違いは無いんですね。もちろん物理的なところへ考えても自分はヒトのオスとは違うヒトのメスの肉体を持った弱い生き物であるということで女はまたその理不尽さに苦しむんです。いくら教会の神父さんが「神を信じなさい」と言ったところで、それは現実問題としては女にとっては「ただ苦痛と恐怖に耐えて我慢すること」ということなんですね。そこでJudenが必死にカラんできます。そこでただ目から涙を流しながら苦痛に耐えているが何時かは釣られる騙されるだろうという恐怖感に苛まれてそしていつかはやられて落とされていくという女の人が百年も千年もの前は大勢居たわけです。ユダヤもキチガイなことをやってましたしキリスト教にも聖ドミニコ会の修道士とか鬼畜な連中が居ましたけど、キリスト教徒にしろユダヤ人にしろいつも犠牲になってきたのはヒトのメスの体を持つ人間なんですね。そしてそもそも日常茶飯事的にそれが男性自身には分かりにくいところのものでもって男性に脅かされている女性は性意識が強いです。つまりはだからそりゃ女が被害に遭って犠牲にならずに苦しまずに済む社会をつくろうとするのは倫理的にとか人間存在的にという以前にヒトの生態的に考えて当然のことなんですね、女性が悪くなると子供も悪くなるので。

 中世のヨーロッパでは領主がその土地の農民の娘に対して初夜権を行使するなんてのもありましたけど、農民の娘に対して酷く残虐なことを行っていたのは同じ農民の男共なんですね。もちろんキリスト教的な見地からして善い娘良い娘は囲って助けて守ってあげなければいけなく少なくともその枠の内では安心を与えてあげなければいけないということです。吸血鬼ドラキュラはあれは農民というか後年のユダヤ人によるユダヤ人のための作り話です。もう最近は無いでしょうけど、現代日本の汚い男たちが酒飲み会でどうのこうのと言って女を連れ出すその他のものに現代日本の女が応じるのは、それに付き合わないと狙われるからです。「狙われる」というのはこの記事の上述の通りです、それが直接肉体を傷つけられるのでなくても「やられる」ということです。



 最近WINDOWS7が入ったパソコンのキーボードを打っていて漢字の変換機能で知ったんですけど、愛知は「あいち」のほかに「えち」とも読むんですね。
Nada Tuda
 無一物中無尽蔵、花あり、目あり、楼台あり。




 初めにレポートをひとつ。

「 2012年時点で使われている日本語は世界各国のあらゆる言語をつぎはぎにしたもの。『思い出もつぎはぎ、omiidmo tugihagi』、もたない言語。『イスラエル(Israel、isuraeru)』の唯名が2012年現在で日本と呼ばれている国であり、『日本(Japan、nihon)』の唯名が2012年現在でイスラエルと呼ばれている国。記録が残っていない二千年以上の昔、日本は愛し合う一個人同士の男と女(オスとメス)が睦み合い愛し合うことのできる国だった。が、世界中のものをつぎはぎにして繋ぎ合わせおそらくキリスト教発祥の前後かその以前数十年か数百年前から西洋から流入してきた連中が居る、これがねたむ神の民。これらが『イスラエル、isuraeru、Israel』であった2012年時点で日本と呼ばれている国をそこへ世界中からの汚れ物を掻き集めてグチャグチャに汚してしまった。つまり2012年時点で日本でヤクザと呼ばれている人たちが西洋人的どころかキリスト的であるのは然りと言えば然り。nihon近海は水が汚い、特に第二次大戦後日本の海は汚くなったとの老人の嘆き。nihonは女の叫び『入ってこないで』、isuraeruは男の叫び『いつか会える』。蛇は消える。
 3000年と少し前、汚いねたむ神の民は全世界に伝播し散らばったがそれは西欧世界におけることだけでなく2012年現在で日本と呼ばれているisuraeruな国にも進入してきた、そして現人神が西欧へ連れ去られ2012年時点でイスラエルと呼ばれているnihonな国へ住まわされキリストたらしめられそれがそれから1000年経ってナザレのイエスという形で現れた。西欧では愛が広まり伝わり結果アメリカというヒトのメスにとっては理想的な国が出来上がった、日本と呼ばれているisuraeruな国では業が閉ざされた島国の中で出口無く紫色に渦巻きそこは悲惨な黄色い無政府主義の鬼ヶ島野蛮人国と成り果てた。それから3000年経った今では、また日本は元の『イスラエル(Israel、isuraeru)』な唯名の愛の国へ戻る、西欧におけるnihonな唯名のイスラエルや全世界各地にのさばっているねたむ神の民はネットその他様々な技術と人々のlove&peaceを求める意識によって消える。」

「日本語」がユダヤ(YHWH)であり、「ヘブライ語」が日本(人の使う言葉)なんですね、本来的に。「isuraeru(2012年現在で日本と呼ばれている国」にはYHWHが居て、「nihon(2012年現在でイスラエルと呼ばれている国)」にはYHWHを崇めながらもまあ現実に居るのか居ないのかは別問題としてその実存を否定するところを心の寄りどころとして生きているねたむ神の民たちがウヨウヨ住まっているというわけです。……ゲルマンの陰謀といえばゲルマンの陰謀かもしれないです。ジークフリートは極悪チキンの見るも見苦しい偽善屋。ヒットラーは純潔に大切なものを守ろうとした偽偽善屋の善人。

 そもそも3400年前エルサレムはヤベえ神殿が築かれる前はエジプト領でした。それから3400年経って、インターネットがある今ではエルサレムはエジプトの美しい女王が支配しているピラミッドと化す時が来たのかもしれないくらいの。もちろんエルサレムはユダヤ教だけではなくてキリスト教の聖地でもあります。ちなみに現代のイスラエルという国の形骸上というか憲法上の首都はエルサレム(Jerusalem、erusaremu)だが事実上の首都はテルアビブ(Tell aviv、teruabibu)だそうです。
 Yahwehはヘブライが具現化したところの人であるところの神です。アドナイ(主)、adonai、現人神。「イスラエル(Israel、isuraeru)」は民族の選民的な自覚による自称で「ヘブライ(Hebrews、heburai)」は世俗的な民族名として他民族による他称だそうです、どこの民族のことを指し示しているのか知りませんけど。



 とある特定の一個人をdharmaというか現存し得ない現人神たるDaseinに仕立て上げ、Judenがそれの悪化具合を象徴と見做しそれに因って従って現実社会内で悪事に及ぶ基準とする同時に悪事に及ぶということを行うというマクロ経済な反社会的行為への加担の仕方があります。もちろんそれには管理者が必要であり、また管理者は金の生る木である被害者の現人神によって作られた金を享受することができます。現実問題として悪事に及べばヒトの体の構造的にそれだけ肉体の見た目も含めて人格も何もかも罪悪感の作用によって腑に落ちるまたは分裂するという形で悪化し破綻していき医学的には一般的にこれは精神分裂病というか精神分裂病たらしめられることを社会的観点からして避けられないようになってるんですけど、少なくとも現代日本の社会においては美容整形技術その他いらない技術が大量に在ってしまっているので、この人間の人間たるものの悪化を金の力でカバーできてしまうので何も知らないヒトからすると一見したところではまるでその悪徳なヒトが健常人・普通人・一般人に見えてしまうということがあるんですね。大手マスコミ新聞関係者であった私SSの父親のMSは最悪の悪党共とつるんでコレを私SSを使ってまた私SSに対してこれを行いました。何度も書いている垂れ下がった色気の無い目蓋にその特徴があるところの醜いユダヤ面の人間に多々観察される他者への加害心です。にもかかわらずここ日本では10年前に犯罪や加害者側による加害行為の被害者が病気であることにされて精神分裂病であるSchizophrenieが統合失調症とやらに勝手に変更され精神分裂病患者が何故か健常人であることにされてしまいました。加害者に危害を加えられ続けて私SSが「精神分裂病」ならぬ「統合失調症」になってしまったのは事実ですけど、これはSchizophrenieではないです。いくつか前の記事でも書きましたし、精神科医ではなくとも一般人が観察しても一瞬にしてそれを見抜くことができますけど、私SSの父親MSは典型的な精神分裂病患者です。
 菩提な達磨でない人間を達磨に仕立て上げる達磨というか、ユダヤ人がユダヤ人でないものを演じユダヤ人でないものがユダヤ人を演じるというやり方によって、無知な人間にユダヤ人が悪徳でないかのように見せかけることができるどころか、悪徳を美徳だと美徳を悪徳だと思い込ませることができてしまったりもします。……釣りはカトリックの専売特許ではないようで。真似というのは恐ろしいです。
 ターゲットが愛情を抱いている特定個人のヒトをとある特定の行為に及ばせさらにその行為の内容を言語を数学のように用いるかの如く詩的言語的に分裂させてその記号化されたものから具体的行為を編み出しそれを例えば嫌がらせという形で否定的な感情や不快感を与えるということとともにターゲットに対してその意図のもとにある人間集団によって何年も何十年もの長期的なスパンで行うことで、ターゲットにおいてその愛する特定個人を無意識に攻撃させるように仕向けることができてしまいます。もちろんこれにはうわべだけの同意をターゲットに強制することを主とする意識の操作が常につきまとっています。実のところこういったことをやられた人間にとって、easyの方が難しくhardの方が簡単だったりします。easyは勉強や知的活動、hardは単なる全体魔法掛けであって大したことはないです。大人になって就職してから、特にアメリカとかで金を稼げるのはhardというかhardworkingなものとして鍛えてきた鍛えられてきたヒトの方なんでしょうけど。女性の人権を守るためには必要な土壌だったのかもしれません。

 涅槃は汚い、というのが正解です。仏像見れば分かりますけど、贅肉だらけです。しかも像によっては他人を切り裂いてやると言わんばかりの剣とか持ってます。目を閉じているのは盲目の証です。なんか海外の、銭屋のヌケサクみたいな変なロックミュージシャンも居ましたけど、"I hate myself and I want to die."なんてのはキチガイによるキチガイのための呪いの言葉です。その「どうせお前ら俺をだます気だろう」と言っているご当人様の腹の中では何が行われているんでしょうね?憎(にく)と腐乱のカタマリだとか。
 強がって時には悪事に走ってまで悪くなると悪くなるという日本的考えのもと子供たちのために自分らの存在の悲惨さを隠して必死に生きる日本人の女たちがどれだけ悲惨でかつ結局は悪くなる子供が出てきてしまうという報われない世界に前世紀までは生きていたかという問題です。女は女も男も大事にしてます、恋する男もそうです。男は女も男も大事にしてません、恋する女もそうです。



 最初に愛した女の人との仲を引き裂こうとする行いには、その二人の間の愛情の行為がどれだけ低年齢におけるものであったとしても結果としてそれに対しての邪魔が結局自分らJudenをさらにJudeにするものでありまたその二人をもJudenと化させてしまうものであることを自覚・・・しつつもそれをやらかすという汚いジジイ共が昔は居たりもしたんですね、保身の為に。まあ年を取るとヒトは誰しも汚れていきますけど、汚い老人たちの中には分裂して狂うのも居るんですね。後者は女々しいというよりは目の前の仮初めのにせものの美にすがりついてバチ当たりにも悪事を連鎖的に行うことから逃れられず分裂していく連中です。生活のなんたるかのものを教えるために、日の当たる当たらないその他、仕事を使って人を育てると言えば聞こえはいいですけど、個々人の能力云々を含む目の前の現実問題を無視して文学的に太陽崇拝していると滅びが待っているだけです。少なくとも英語圏の人たちはこういった日本人の行いを鑑みてcrazyだと言うでしょうけど、むしろ現実問題としてさんさんと日光を肉体に浴びることを習慣としているのは日本人よりも欧米の人たちです。……人を食って馬鹿にしているのはChristではあるがJudenと化してしまっている者、志士を切り裂くのはJudenなChrist。
 嫁さんがいると男は生きる力になるんでしょうね。たぶんお互いに初めて女を知り男を知った相手とはもう心が通じ合って離れていても息ぴったりなんでしょうね。イキ。iki。赤い糸というのはそういうことです。赤い意図。あかいいと。
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