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Seelen-Schatz
 不幸の原因は、幸せからの逃避。




 昔からそうですけど公立中学の教師というのは本当に酷く自分らの好き嫌いを露骨に反映させた成績のつけ方をするんですね。だからまず公立中学の豚教師共の意思が生きてしまう公立高校を潰さないといけないんですね……と思ってこの間本かなにかで高校のレベルのランクを見てみたら、私が中学生の子供だった時よりさらに公立高校のレベルは落ちぶれてどの学区も一番手高以外は私立高校に蹴落とされてクタばってました。

 「役に立つ」というのは、工学化された人間関係という舞台において「役」として「立っている」ということであって職場の発想なんで、少なくとも学校に通っている10代の子供に概念として適用させるべきものではないんですね。シェイクスピアの文学作品からはこれをおおいに学べますけど、これは職場だから成り立つのであって、現実的に目の前の人間関係にこれを適用したらば確実に失敗します。
 今はだいぶ良くなっている気がありますけど、つまり公立小中学校の教師たちが行っていた「教育」は大多数の子供たちにとってはただの強姦です。先生たちが小学生の子供たちに「理由無くいたずらに人を傷つけてはいけない」とか教えるのは大切なことですけど、子供たちはそういったことは大人に教わらなくても子供たち同士で学ぶものであって有害なヒトは排斥されていくように出来てるんで、基本的には教科書の内容だけ教えていればいいんですね。



 我流の解釈や空気でgelesenせずに何が何なのか知るということは大切なことですけど、それが言葉を使ってのものであっても映像を使ってのものであっても何がどうなっているかの認識を得るところにヒトのヒトたる由縁があるのであって、行為の世界に生きている者なんてものはただの野蛮人たるサルです。これはチンピラの「じゃあヤれよ」という頭の悪いセリフに象徴されてますけど、「知」=「行為」ではないです。こんな単純なことが分からないヒトがこの日本という国においては未だに生息してます。

 「間違える」というのは「間」を違えるということです。事象における「あいだ」の認知といえば、精神科医の木村敏さんが著書で書いてますけど、この人はそれが妄であろうが想であろうが念の如何なるものかについて解説してます。私はフッサールという人の書いたものは読んだことがないのでこれについては何とも言えないんですけど、このあたりのものが何ものであるかはヘーゲルが「精神現象学」の中で全て説明してくれてます。数学が何故数学であるかを解説するのもまた哲学です。解説ではなくそれそのものの(芸術的)産物が詩です。数学イコール文学における哲学や詩ではないです。100年前において数学で言語をやらかすという間違えたことをやった馬鹿というよりは阿呆であるところのヴィトゲンシュタインですけど、200年前にヘーゲルが実に上手く謂わば数学の数学性のようなものを説明してくれてます。

 例えば、日本語において、もう「個々人の考え」という言葉使いがおかしいです。「思いを尊重する」だとか「意思を尊重する」だとかいうのならば妥当ですけど、「考えを尊重する」というのは言語的に矛盾してます。思いや想いというのは人それぞれですけど、少なくともヒトの脳にまつわる考えというのは数学的で全て同じです。当たり前のことだということです。だから二千年や三千年の昔からヒトのエゴに基づく邪教というものは人々の合理的思考のもと何度も何度も潰されて今日の文明社会に至りました。本日ではこの日本という国においてマスコミ教という邪教があります、もうほぼ潰されてますけど。例示として極論するならば、もし仮に政治にエゴに基づく一市民の声が届いてそれが変わってしまう程度のものならば、それはそれで政治というものがもはやエゴイスティックな単一市民と同程度の価値しか持っていないということです。誰にも政治というものが必要とされていない、誰も政治なんか相手にしていない、ということです。それが事実大多数の一般市民による合理的な考えに基づく意見であればそうではないということなんですけどね。というのは、日本ではいまだに一般市民を標榜してマスコミのカメラの前でまるでそれが一般市民一般の意見であるかのように見せかけ原子力発電がどうのこうのと言っているマスコミ子飼いの犬も居るということ、そこにまたこの万禍の元たるエゴの新たな形が発現していたりします。

 以下三度ヘーゲルの「精神現象学」の頭蓋論より引用。

「そういうわけで、この死んだ存在において、脳髄の精神的運動や一定の在り方は、外的現実となって現れる。とはいっても、個人そのものにおいてあるような現実となって、現れるということになろう。これら運動や在り方と、精神を自分自身のうちに内在させていない、死んだ存在としての頭蓋との、関係の代りに現れてくるのは、まず、すでに言ったように固定した関係であり、外的機械的な関係である。そのため、本来の器官――そしてこれらの器官は脳髄にある――が、頭蓋をここでは円い形で表わし、そこでは広くうち出したり、平たくつき出したりすることになる。またそのほか好きなように、この結果を言いあらわすことができる。頭蓋としも有機体の一部であるから、各々の骨においてと同じように、頭蓋においても、生きた自己形成があると考えられねばならない。そのため、頭蓋の方から言えば、脳髄を圧迫して、これを外から制限しているのは、頭蓋だとも考えられる。頭蓋は、脳髄よりも硬いのだから、むしろそうする能力があることになる。だが、その場合でも、やはりいま言った関係は、両者相互のはたらきをどう定めるかという点に在ることに、変りはなかろう。なぜならば、頭蓋が規定するものであるか、規定されうものであるか、ということは、因果関係には何も変化を与えないからである。ただ、原因である頭蓋のなかには、自立(自覚、対自)存在という側面があるため、頭蓋は、自己意識の直接の器官とされることになるだけのことである。とはいえ、自立(自覚、対自)存在は有機的に生命のある形であるため、その両者のうちに同じように帰せられるので、実際には、両者間の因果関係はなくなってしまう。だが、両者が引き続き形成されるとき、その形成は、内面においては関連しており、有機的な予定調和になっているであろう。」

こんなのがオチです。最初からマスメディアとの因果を絶っておけばいいんですね。新聞や雑誌もテレビもラジオもマスメディアの情報は全て汚いです。汚いものは取り入れないという女性の発想からは大いに学ぶところがあります。



 で、やっぱり頭の良い人間には馬鹿な人間が多く、頭の悪い人間には賢い人間が多かったりします、少なくとも日本人の場合は。日本の国土がどうこう、「日本」という固有名詞で唯命されたものがそうである、というよりは、第二次大戦後の日本の社会でそういったことを下の世代の人間に植え付ける社会ぐるみでの教育が敷かれていたということです。
 昔、戦時中の軍隊では、ガンダムのアニメなんかでもよくありますけど、「修正」と呼ばれる一見暴力行為以外の何物でもないような、下級兵を直立させて歯をきちんと食い縛らせてそして主に古年兵が彼らの頬を殴るというものがありました。私はもちろんこういった類の暴力行為はそのイメージ的問題からしても非常に嫌いですけど、こういった組織だった一定の秩序下において行われるものにはそれなりの意味や具体的効脳があるものだということを最近知りました。もちろん行為としては論外ですけど。特に昔の人は生きるために目的達成に偏重することなく身体を基本にしていたということです。これはやはり、タチの悪いそれこそ勝慎太郎の兵隊やくざみたいなものは論外ですけど、相手にきちんとした姿勢を取らせきちんとした状態にして、且つ運動神経の優れた者が右手で殴るということを行えば(殴れば)それこそ効果のあるものみたいなんですね。その場合に、彼らはいわゆる「入った」だとか「決まった」とかいう表現を使います。これはもちろん相手を棒の様に突っ立たせて運動神経に優れた・身体能力の高い者が行った場合に為されるものです。要するにそういった人に殴ってもらえば良い効果とは言わないまでも、身体感覚が修正されるものではあるっぽいです。ちなみに左手を使用する、左利きの人間がそういったことを行うのは論外、というか最悪です。間違いなく殴られた方の身体感覚に悪影響を及ぼします。もちろん私はこんなもの肯定しするつもりはありませんし現実的に考えて怪我をするので行為として論外ではありますけど、何故こんなことが行われるのかということを考えてみるところ、無闇な暴力としてまかり通っていたものではなく何らかの効果を狙ってのものであったということです。やはりこういったものを無根拠に全面否定することはこれはこれでナンセンスです。何故そういったことを他者が己に対して行ってくるのか、それをじっくり吟味してみないことには、おそらくいつまでもそういったことをやられ続ける駄目な人間である、ということになってしまいます。そうでなければ被害者意識に絡め取られてどんどん堕落してゆくだけです。そういったことをやられることには何らかの原因があります。根拠をもってして否定しろということです。だから、自分の行動や言動や価値意識の性向等を充分に吟味して、どういった時・場合において何が起こるのか、ということを冷静に考えてみることは、仮にそれが暴力沙汰であっても、大事なことなんですね。反省というやつです。



 以下分かりやすい分類の仕方としてパスカル型とデカルト型という二分類で話を進めます。経済学はパスカル型です、微積分多用して三角関数とか使いません。デカルト型は言っては悪いですけど現代ではちょっと単純過ぎます。が、パスカルの「無用にして不確実なデカルト」というのはパスカルのパスカル的発想によるデカルトに対する嫌味であって、「役に立って」いるのはデカルト(型)の方です。ちなみにこのパスカルさん、ジェズイット嫌いでユダヤ好きです。で、デカルト型は工業高校的であると形容すると分かりやすいです。養老孟司さんが自身を野蛮人であると言ったと内田樹さんの本のあとがきに書いてありましたけど、この人物は実にデカルト的です。本来的に医学というものは薬物を濫りに使用した対処療法ではなくデカルト的であるべきものなんでしょう、人体のマクロ的に。が、現実問題としてデカルト的なものというのはあまりに時代遅れ過ぎて、ここ日本だと2ちゃんねるのような非常~に不健全なところで非常~に頭の悪いチンピラたちが頑張っている(た)だけです。前に某巨大匿名掲示板群はナチスの実態だとか書きましたけど、ナチス下部構成員によって運営されていた強制収容所の現場というのは秩序と混沌たる暴力や釣りの混じったああいったものだったと考えると妥当です。
 デカルト型の人間というのは能力の上下というよりは左右の属性的に無能です。特に現代の日本の社会において最も分かりやすいその表れ方としては、10代の子供の頃に英語が出来ないというところに表れます。言語能力が低いということです。要するに馬鹿か賢いかは別問題として、デカルト型の人間というのは頭が悪い傾向があります。逆に馬鹿であるか賢いかは別としてパスカル型の人間というのは頭が良いです。
 デカルトのような「幾何学的精神」の持ち主に戦場での強さはありません。むしろパスカルの言うところの「繊細な精神」の持ち主の方が百戦錬磨です。ちなみにパスカルは社交界に出入りしてました。で、ジャンセニストは人柄が悪いです。パスカルの「パンセ」を読めば分かりますけど、かなり好き嫌いが混じっているのであって、嫌味というかこういったものの源流はユダヤです。現代においては何よりヤンセンファーマという製薬会社から出ているリスパダールという薬物を服薬すれば「嫌」というものが如何なるものか体感的に一発で理解できます。ヒットラーになりたいヒトにオススメ、よくこんなものが平気で医薬品として認可されているなという問題ですけど。ヘーゲルがユダヤの始祖アブラハムとユダヤの源流について論じてますけど、ユダヤというのは他者や他物ひいては世界に対する反発からそれに対しているということです。ちょっと私の我流の言い方で申し訳ないですけど、パスカルは若い頃に左をやってから年取って右に戻りました。デカルトは若い頃に右でいてから年取ってから左になりました。



 例えば日本人におけるギャグを鑑みるにおいて、それが陳腐であるという理由でそれを(ギャグとして)肯定したりまた逆に否定するクセがつくと物事の本質的なところを見なくなるので、「ああ、これは別にイイや」「これはアリだね」という緩みが生まれて落とし穴にハマる可能性が発生するので危険です。これは罠であり最悪の場合地雷です。「ワザと」を理解する能力のために「嘘を本当だと」思い込んでしまう負の遺産としての能力が発生してしまうということです。「ワザと」がまったく理解できないというヒトはそれはそれで問題ですけど、後継の人間が育たないので。

 謙遜もまた恥意識その他と同じく万物の元凶の一つです。もう今は年が若くなるにつれこういったものも減ってますけど、よほど特殊な能力でもないかぎり謙遜の性向の無い人間がこの日本という国で排斥される傾向にあることは私も知ってます。が、またこれも日本人の愚かな性向の一つです。我慢は万物の元凶であって、いたずらに我慢なんかしていると心身を病みます。これについての真実を知ることができるのは自分の心だけであって、自分の心に嘘をついて我慢なんかしていると何もかもが悪くなります。
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Modus
 論式。
 筋縄。




 行動によってストレスを解消するという発想が無いヒトが居ます。というかネットを見る限りこちらの方が多いです、しかもおそらくは老化していく度にヒトはこうなっていきます。意味内容の世界に生きているというよりは、何らかの原因で意味内容に浸らざるをえないような環境で生きることを強制された挙句にそうなってしまうということです。意味自体が行動化する、挙句に目の前のコミュニケーションに怒り自己との矛盾の怒りを感じ出す、精神分裂ということかもしれない、というかその一種です。仮にそれが周りの人間たちが子供の頃から私に施した洗脳まがいの「教育」による赤化であれもしくは元来的な私の性向であれ私SSは30歳までそうでしたし、Adolf Hitlerさんもそうでした。前にネットのどこかで見ただけの情報なんで事実かどうか分かりませんけど、ヒットラーは周りの人間に「私のスポーツは演説だ」と言っていたとかなんとか。精神科医による抗精神病薬を使用した(だけの)治療でもそうですけど、行為によってストレスを解消するという発想の無い人間に「行為しろ、行為しろ、どんな形でも意思を表明するな」といくら圧迫を掛けても行っていることの方向性的に無駄なのであって、失敗するのは当たり前です。無効果どころか逆効果です。性的な話で申し訳ないですけど、私の場合だとマスターベーションをしてすらもストレス解消にはなりません。やってしまった行為の事実の後悔の観念とそれによる自分の人体へ及ばされるであろう悪影響の恐怖にさいなまれるだけです。筋力が弱いというのも原因の一つとしてありますけど運動やゲームなんかを行ってもその行為による疲労等のストレスが行為とそれにまつわる苦痛として記憶されるだけです。私はゲームはオンラインのはやりませんしFFもⅧでやめましたしVagrant Storyとかこれはこれでおもろいなーとか感慨を抱きつつプレステ1の中期くらいのものでもうやらなくなったんですけど、自分の少なくとも今現在より病んでいた時の性向を思い出すに、だから私は最新のゲーム機器のものではなくてネットに置いてある単純な仕組みのフリーゲームなんかに手を出していたのかなとか思います。
 行動がストレス解消になってしまう、というかその発想の下生きている人間というのはそりゃ他人に危害を加えずには生きていけないわけです。野蛮人・原始人というよりは幼児のまま大人になったサルです。私だってこういう侮蔑的な言い方はしたくないですけど、戦後こういった労働者属性な人間たちが医師や弁護士や大学教授やその他社会の上層に入ってきたからおかしいことになったんですね。アメリカの人たちがネットを与えてくれなかったらば、今世紀に入ってからも大層悲惨なことになってました。野球のバットで素振りだけやっていられれば問題無いんですけど、彼らはそれがどういった形であれ他者への暴力という運動を止めることができないんですね。確かに他人一般をウザいと思うのは私も同じですけど。



 前に「本来的に人間の織り成すコミュニティーは無政府主義的なものでありそれにおいてどう他者を貶め違法行為を行わせて嵌める為に法律を使うかという悪質な発想を行う人間も居る」と書いたんですけど、Judeお得意のこのワザが通じないとなるとJudenというのは仮に法律で他者を貶められないとなるとAnotherなStoryをまるでそれが真実であるかのように見せかけて敷いておくというやり方をするんですね。ヘーゲルは「思想」と「現実」という哲学のての字も無い単純な二元論がユダヤのものであると言ってますけど(Daseinは「現存在」であって日本語で「現実」というと間違えます)、まるで二筋縄な真実がそこにあって「俺らは被排斥者たるこちら側だ」と主張するもしくは他者にこの意識をそれがどんな手段であっても植え付けるというのがJudenです。そこに意識を向けさせて、あわよくば「そうであることにする」んです。ご都合主義者の所業です。どうしても外部に規定点を作りたがります、自己がそれであるだけでは飽き足らずに。これを解決しようと試みたのが物体の運動の速度について考えたアインシュタインの言っていることっぽいですけど、物理学のことについて私にはちょっと断言はできないです。基本的にヒトは誰だって自分に関わりのある人間に誤解されるのは災禍のもとになるということでヒトの生態的に必然的に不快感を感じるようになってるんですけど、これに逆らうんですね。限られた事実に基づいては真実というのは見出せないように出来てます。あえて言うなら、事実を全て無くした時に真実が見出せるようになってるのであって、少なくとも男女関係ひいては人間関係についてヒトの中にイドを見出したフロイトは的を得てます。全部捨てて最後の最後で残っているもの。嫁さんと一緒だったら何処でも良いよ、という。これは「悪」ではなくて、現象としては亜の心が肯定的にあらわれるというか、「愛」だということです。

 ヒトは他人を言語化したがります。というのも文章化したがるのと記号化したがるものとあります。前者はそれが言語でもボディでもコミュニケーション能力を持っている健常なヒトです。後者はJudenであって他者を文字的に定式化してしまえば楽になるという逃避の行為をその対人スタンスとしているヒト、言語を使うということがsagenという行為の一種として認識されているヒトです。前者が後者から身を守るためには、説明のために言葉を道具として使う必要があります。何のためにヒトがサルとは違った言葉を使う能力を持っているのかという問題がそもそも根本にあります。前者は何度かこのブログ内の記事で書いた蓋然的人間ですけど、こちらには自分の事象の認識における蓋然性がありません。後者も蓋然的な何かを作り出しはしますけど、こちらは自覚的にそれを行っているわけで、悪意のもとの確信犯だということです。前者は右から左へイってまた右へ戻って定常するヒト、後者は左から右へキてまた左へ戻るというヒトです。これはもちろん抽象的なお話だけではなくて、前に書いた頭の使い方つまり人体の頭部・頭蓋の使い方という問題でもあります。右利きのヒトで鉛筆やペンを右手に持って紙に何かを書くことを考えてもらえれば分かりやすいです。たぶん内容のある文章を書こうとする時は頭部が左へ傾きます、メモのようなものをとる・何かを単純に記録するだけの時は頭部が右へ傾きます。ちなみに私の場合は先にも書いたように右手に筆記具を持って(右に)力を入れると基本的に頭部が左へ傾くんですけど、整体師や整形外科医の先生に言わせると首の骨が後ろへ出ていると言われます、実際首の第七頚椎がとくに後ろへ出っ張ってその上部に痛みを発します。いくつか前の記事で書いた説明のものだと、前者は左翼的右翼、後者は右翼的左翼です。私は前者であって、安静時は右で定常してますけど、大人になってからの私SSを個人的に知っている人はああアレねと思うと思うんですけどオーディンのように左目がひどく下に下がる斜視であって右目が非常に痛みストレスというか情報が溜まると左でまるで定常したかのようにそれを維持してしまう非常に悪質なクセがあります。このブログへのリンクの貼ってあるfacebookのページにupした私の坊主頭の顔写真を見てもらってもそれはよく分かってもらえると思います。ちなみに理系というのは、「理」、つまりツクリが「里」でありヘンが「王」だということです、たぶん。平常時は右に定常していて事象の認識や行動においては左へ流れるというヒトのことです。この「左っている」時というのは頭ではなくて胃や腹を使ってしまっている状態です。私に限って言えば、もちろんヒトとして基本は身体ですけど、認識を情報化するクセがあるつまり何でも文章化・映像化して情報として蓄えてしまうクセがあるので、これは女性的だといえばそうです。だから何でも言語化して記述するという形で吐いてしまうことをオススメもしてます。悪いものを吐いてしまえば誰しも健康になったりするんですけどね。
 で、他人が居ないというのは実に楽です。現代においてこれをやるとなると、健全に野生化するということなのかもしれません。生命力というよりは生命力を回復するための自己治癒力が上がって、たぶん病気はどんどん良くなって健康になります。私も最近どんどん回復してます。ヒトのオスにとって嫁さん以外のヒトは居なけりゃいいというのが理想であるところのものか、もしくはその最たる楽な方法として状況や他者の存在そのものについて言語化するつまりレッテルを貼るという行為があります。後者の極致は唯名論というか全てが名詞化される世界かもしれません。ヒトの幼児に観察されるものでもよく指をさして一言なにか言葉を発するだけというのがあります。もちろん性格判断のレッテル貼りはこれであって、こういったものは判定者が判定者のために行っていることです。つまりそこでもう一つのStoryを、それが事実に根ざしているからこそまるで正当であるかのように見せかけた真実・もしくはあわよくば事実そのものという形で作り出して提示しておく(意図された蓋然性)、というのがJudenのやり方です。ユダヤ人がユダヤ人だけで存在することは不可能であることを何よりユダヤ人自身が知っているにもかかわらず。だからこそJudenは自己の外部に規定点を求めます。安寧の泥沼ありきでそれのために数え切れない種を蒔いて「そこを目指せ」と言わんばかりに(左→右→左)。法律をいたずらに他者を攻撃する道具として使う場合なんてものはなんやかんや言う以前の問題としてもちろん論外ですけど、通常の対人関係においてまでコレを行ってくるので極めてウザいんですね。因縁付けというよりは、一種の口封じです。

 私は中学校の時に教師にこのセリフを吐かれたんですけど、「そんな奴何処へ行ったって居るよ」というセリフ、まあこれは悪党というよりは悪質な人間の存在を許容させる第二次大戦後の日本の悪質な教育の具現体です。社会制度的に自己防衛だけしてあとは放置、というまあJudeな発想です。この他者を貶す悪質な人間がまともな人間をヤクザ扱いして「暴力団」の唯命のもとそのマンガ的キャラクター性をターゲットになすりつけて自分らの暴力はひた隠しにして汚いものを被害者に押し付けた挙句自分らはよろしい位置に居すわる、ということを行うんですね。また男性が女性に対してだとか年長者が年少者に対して何を行ってもいいというスタンスを保持しているものとしてこれがあらわれることもあります。家父長制度的というか、上になれば何を行っても自由だとか思い込んでいる下俗悪な馬鹿だということです。

 前にHellequinという記事で女性の鑑識眼について書いたんですけど、だから犠牲者を十字架に掛けてキリストたらしめ需要を作ってきたJudenたちは、女性的であるというよりは、自分らが鑑識眼を持つ者であらんがためという目的ありきでキリスト的犠牲者を犠牲者たらしめている(たらしめてきた)ということであり、これらが行っていることはひたすらな理由後付けに尽きるということです。まあそりゃ女性とか男性とかいう以前にヒト扱いされないわけです。もちろんユダヤの部外者には通用しません。だからユダヤという既得権益集団を、作ろうとするのか、作ったから排斥されたのか、二千年前や三千年前にタマゴが先だったのかニワトリが先だったのかは私は知りませんけど。
kissing kin, kitchen essencials
 遠くの血縁より近くの恋人。
 常にあるもの。




 私は外国語の習得が遅いです。英語も発音はある程度上手いですけど、ペラ+αくらいであってペラペラと流暢にはしゃべれません。というのは事象の認識が蓋然的であって、何もかも不必要なものまで情報化して溜め込んでしまう非常に悪質なクセがあるからであって、記憶の容量がすぐに許容限界量を超えてしまうためだからです。まあヒトは誰しもストレスが溜まるともの覚えが悪くなりますけど。老人が子供に比べてものを覚えられないのは長年生きてきて情報を溜め込んでしまっているからです。単に「老化しているから」という理由で片付けてしまうのはあまり賢くないです。生まれたての赤ん坊は皆きれいな顔をしてますけど、老人の肉体の外形が醜いのは溜め込んでいる情報の質や量に相関しているというよりは因果していると考えると妥当です。

 対人コミュニケーションにおいて何らかの否定的要素に耐えているというのであれば、それは他者をして否定的要素に耐えさしめている者と同じ属性のものかもしれないです。どちらも、文学的表現だと「身体の外に魂が抜けている」、身体が基本になっていないということです……けど、まあ年をとった老人を見れば分かるとおり人間誰しも早かれ遅かれそうなります。死なないヒトは居ません。

 Intelligence Quotientの値はテストで計られた精神年齢を実年齢で割ってそれに100を掛けたものです。つまりは幼少時に苦痛を味わって老化しときゃそれ程に知能が高くなるということですけど、肉体の成長期に過度の苦痛を味わえば成長が阻害されて肉体の外形が不恰好になった病気になったり下手をすれば骨格が変形したりしてしまうわけです。私がそうです。10歳で神童と呼ばれた子供が30歳過ぎてただの人になるというのはもちろん味わった苦痛と時間の割合の問題がそこにあるからということですけど、子供の時のように勉強や運動を続けていないと神童も時間が経てば普通の人になるということです。ちなみに30歳のヒト用のIQの試験なんてものはペーパーな試験としては存在し難いわけであって、(悪事を起こさないことや犯罪に加担しないということやいたずらに子供じみた故意の行為による不快感を与えないということや他者に危害を加えたりしないということが絶対的な前提になった上での)社会参画の仕方や仕事能力で評価されるしかないです、それまでに人間として社会での経験を積んでしまっているわけなので。たぶん天才と呼ばれるIQ150だとかIQ160だとかいった過度に知能の高いヒトたちは幼少期に苦を味わい過ぎているのであって、肉体の外形は異様だったり醜かったりする傾向にあるのではないかと。サルトルみたいな醜い小男だとか。
 ちなみに抗精神病薬は服薬すると病気は治るでしょうが知能は下がるでしょう、何よりこの薬物を服薬しているヒトはその頭の働かなさ具合を体感として身をもって知ってます。これは悪いものを吐き出さずにいる状態で薬効により強制的に「苦痛を味わっていない・苦痛を味わったことのない状態にする」という薬なわけです。地獄です。だから病んでいるヒトが抗精神病薬を服薬すると初期の頃は凄まじい被害妄想と恐怖感と苦痛を味わいます。これは前にも書いたように体罰の逆関数である体罰であってレイプです。つまり抗精神病薬というのは一種の若返り薬だということです、良い意味でも悪い意味でも。個人的な経験ではM'z a 悪意医師もそうでしたし自称k子curseマ医師もそうでしたし今私がかかっている自称I福T子医師もそうですけど、精神科医が診療室において患者に対してやたらと子供じみた挑発を行ってくるのは抗精神病薬の薬効が効いている間はささいな刺激によるレイプが効力を発揮するからです。道を歩いていて転んだだけでギャアギャアと泣いている子供を考えてもらえば分かりやすいです。副作用なんてものは無いと考えると妥当であって、副作用も主作用も同じく作用です。抗精神病薬でシャブ漬けになった状態のヒトは暴走バイク通称珍走族のバイクの音等ただでさえ大したことのないことについてイライラするのにもかかわらず、合理性の無い内容で「言うことをきかせるために言うことをきかせる」というレイプを行ってarbeiter parteiの下部構成員に仕立て上げるということを残念ながら理系的文系たる多くの精神科医が行います。だから大多数のヒトがこの抗精神病薬というものの服薬を途中で止めてしまうわけです。「服薬量が足りないから(精神科医のご都合どおりには)よくならないのだ」という弁明はナンセンスなのであって、服薬量を増やせば当然何も考えられなくなり行動も異常になりシャブ漬けのヒトはもの言わぬ木偶人形に成り果てるからであってそれをして精神科医は「よくなった、治った、治った、さあ(このもの言えぬ状態ならば第三者は治っている・症状が落ち着いているとしか見做さないだろうから)arbeiter parteiの単純作業員に仕立て上げよう」という方向へと被害者を強姦によって無能力化して持っていくわけです。これは先に書いたユダヤの精神科医の所業かナチスの精神科医の所業かというと後者のものですけど、残念なことには結局後者も最悪の冒涜的行為を行うんですね、殺人者の汚名を被ることからは逃避して。しかし安静にして抗精神病薬を服薬することは病気のヒトにとってはコレはコレで必要なわけです。この抗精神病薬商品名ジプレキサというのは魔法の薬です、服薬を止めつつ人体が良くなっていく、という。いつかの記事で書いたとおり自分で服薬量や服薬のペースを自己管理しなければならないというのはこういったことであって、私SSはだいたい4~5日に一回まとめて一日あたり2.5mg錠分のジプレキサを服薬してます。これはここ1年と数ヶ月の間ずっとそうであって、大分良くなったのにはこのことのおかげもあります。当然精神科医の言うとおり毎日なんかこんなものを服薬していたら発狂してしまいますし、毎日服薬するということは症状の良化の全ての原因を抗精神病薬のみに帰することができてしまう理由付けを精神科医に与えてしまうことになるのであって、精神科医の統合失調症の治療における抗精神病薬の投薬のみということを許容させて精神科医の逃避のお手伝いをすることになってしまうからです。……で、統合失調症と精神科医に診断された私SSがこういったことを言うと今度精神科医は「あいつは統合失調症じゃない!」とか言って逃げだすとかいったあたりがオチです。私SSはマンガ的な意味でのいわゆる気狂い(キチガイ)ではないですけど統合失調症という精神を病んでいる病気です、その自覚があるから抗精神病薬の服薬も続けてます、大分良くなりましたけど。



 人間の存在に名以外で唯名的レッテルを貼ることもそうですけど、「事実、事実」と叫びたてる連中が目論んでいることは、一つ前の記事で書いた意図された蓋然によって在りもしない虚構のテーゼを作り出すことです。つまり、「事実の捏造」を行うのではなくて、「事実を故意に作りだす」ということそしてそれを連発することを連中は行うわけです。「しかしこういう人も居ます」、と。烏合の衆をいいように使うわけです。自分らのサークル以外の人間を貶めて相対的に自分らが得をしようという同一の目的の下に集まった人間が徒党を組めばこれは簡単に行うことができてしまいます。どこの国でもworldwideな現代の社会における国家がその社会統治上こんなことを行うことは考えにくいですけど、それはユダヤでもイエズス会でもフリーメーソンでもそうです。Adolf Hitler個人は別だとして、ナチスだってそうです。捏造ではなく「事実を作る」ことを連発すれば「これだけ証拠を集めれば我々の(宗教的)教義を正当だと認めさせることができるだろう」というわけです。自然科学において何故research and developmentを進めることができるかというと数学という絶対的な基準があるからであって、当然人間社会一般においてこんなものは通用しません。だから経済学には正当性が在るが社会学なんてものはナンセンスだということです。Judenや悪質な人間たちが自分らの存在を自分らの存在だけで部外者に認可されることは合理的に不可能です。合理的でないということは社会をカオスな状態へと導いて崩壊に向かわせるということですけど、少なくとも戦後の日本においてはエゴと履き違えられた自由や「社会」の名の下チンドンチンドンとマスコミがこれを行ってました。

 反社会的人間が殺傷されることを必死に事実・事件だと「報道」していた戦後の日本のマスコミはマスコミのマスコミ属性を一般市民に知らしめていたわけであって、それはそれで(連中にとっては逆)効果があったということです。暴力団ひいては暴力の唯名によって敷かれたマンガ的コンテクストによって悪役に仕立て上げられ殺人者の汚名を被ってクズを潰し殺してくれるヤクザというのは基本的に弱い者の味方です。もしかすれば民意です。どんな手段を使ってでも他者に危害を加えることを躊躇することなく生き延びようとする者についての最終的な解決方法は殺すということ以外には無いからです。現代においてユダヤ人だとか断言はしませんけど、例えば第二次大戦後の日本だとマスコミの構成員に多いような反社会的人間が排斥されて殺されるのは当然の数学的帰結です。ちなみに私は何度も書いてますけどこのブログを書き始めるとうの昔から反社会的人間達に取り囲まれて反社会的人間に反反社会的人間扱いされてます、だから皮肉にも勲章みたいなもんですけど。
 ちなみに私は、右とか左とかで言うと、「右下」なナチス下部構成員のようなチンピラとは付き合えません。現代の社会を生きている我々にはこのことがよく理解できますけど、ユダヤもナチスも下は同じです。アカいです。オタクの一部に居たりする低脳・低教育な「左下」な人間も嫌は嫌ですけど、可か否か・他人に鉄拳をくれるか見過ごすかといったことのみが判断基準となっているような「右下」な単細胞な馬鹿な男は私は自分に接することを却下します。ヒットラーは「左下」な人たちを無知であっていいように利用されて単に民衆の腐敗を招く人頭数のみとして使われたり論理実証主義的なモノの「事実を故意に作りだす」ことに使われたりするだけだからたのむから居なくなってくれと訴えました。まあ私は個人的な感慨としては「左下」な人たちというのはもうあきらめているというかただそこに居るだけなのであって反社会的ではなく非社会的な人間であるので言っちゃ悪いがどうでもいいです。何より何が問題であるかというと、あの「右下」な反社会的なチンピラたちはヤクザであることからは逃げるという点にあります、結局ああいった連中は「左」に逃げるというか戻るんです。アイツらの死に際のセリフなんざ「うわぁ~ん死にたくねぇよぉ~母ちゃぁ~ん」とかです。最後は絶対に逃げる分際で空威張りっぷりが激烈にウザいわけです。最後の最後であの自称ワルのチンピラたちはエゴに走って逃げます。だからただ居る人たちよりも全くタチが悪いわけです。むしろ最後の最後でエゴに逃げることを前置きとしてその行動のスタンスや行動原理としているようなブタクズがこの「右下」の主流だったりします。昔はドラマとかハードボイルド小説なんかであったと思うんですけど、「都合のいい時だけ女に逃げて!(都合のいい時だけ女に甘えて逃げやがってフザけんな)」とかいう女性のセリフによってその全てが形容される、一番女にモテない・女だけではなく男にも嫌われる、反社会的人間の極みです。こういったチンピラたちは女とヤりたいか女を道具として利用しようとしているかだけなわけであって、愛とか知らないわけです。



 母国語以外の言語の習得の能力というのは、ユダヤ的な何処へでも行くその生態を考えるとその高さについての納得を得られるものではあります。私は昔病んでいた時に、どこか特定の場所を観光するのが好きだったというのではなくてただ乗り合いバスや列車に乗ってどこやらへただひたすら行くことそのものが好きだった時期があるんですけど、最近健康になってきてからまったくそういった旅行をしたいとは思わなくなりました。一番大切なものはすぐそばにあるということです。灯台下暗し。台所で嫁さんが作ってくれる食事が一番うまいんでしょう。
Rüste
 準備されて西に落ちる日。




 初めにレポートを二つ。

「 2012年10月24日の11月末に閉鎖される予定になっているN口クリニック本院における自称I福T子の診療について。ネットにブログ記事として自分が書いた文章をupしていることは一ヶ月前の前回告げたのでそれを見てのことであろうが、非常に演技がかった低姿勢・下手に出る具合を演じて見せてきた。『(抗精神病薬を)『毎日』服薬するのはk子curseマ先生との約束でしょぉ~?』とおホザきになった。当然私は自称k子curseマとのそんな『約束』など行ってはいないし、そもそも抗精神病薬を毎日規定通りに服薬することを患者に強制する権利を医師は持ち合わせていない。笑わせるなという問題である。また、睡眠薬ロヒプノールの話をした際『たまってないよね、たまってないよね?』と自称I福T子は私の睡眠薬の保持具合に対し当て付けの嫌味を言ったが、当然これは処方量と『毎日飲んではいない』というこちらの申告から『たまっている』ことを知った上のことであろうが、無根拠に罪悪感を煽ろうとする目的の幼稚な当て付けの嫌味であり笑える。この後彼女は、私が『睡眠薬ロヒプノールやアキネトンといった薬を、恒常的に毎日決まった時間に服薬するのではなく、自分の調子が悪い時だけ服薬するのは良いのか良よろしくないのか?』とたずねたらば、『SSさんがいいならそれでいいのよ』と答えたので、私は『だから、医学的見地からしてそのように自分の調子が悪い時だけロヒプノールを服薬するのは良ろしいのですか良ろしくないのですか?』と再度たずねたらば、自称I福T子医師は『いいのよ、いいのよ』と答えたので、私は『分かりました』と返答した。
 また、この日は正規の診療室が「本日の診療は都合により診療室Ⅱで(建物南側の相談室)で行います」という張り紙が診療室の扉に貼ってあり、前回と同じく診療室Ⅱにて自称I福T子の診療を受けさせられた。」

「 2012年10月24日、居住区の区役所の某窓口の対応職員として出てきた知的障害者風の面構えをした若い男。来訪者にタラタラとした態度で応対に出てきた風の偶然を装いこの男職員が現れた。とある制度に則って私の手持ちの規定の黄色い用紙にあらたに薬局の項目に一軒の追加を申請したらば『薬局の住所とか知ってますかぁ~』『M区にその薬局は一軒しかありませんかぁ~』とこちらにたずねるというボケたことをやらかした。その返答として私が『以前対応に出てきた職員は『医院や薬局のリストがある』と言っていた』ということを言ったらば、この男は『インターネットか何かで調べればぁ~(あるんじゃないすかぁ~』ということを言った。その後に『医院は一件まで、薬局は三件まで、規定の黄色い用紙に登録できる』ということをこちらが口頭で確認した際この男はこれを知っていたものであり、そのような制度を役所が敷いているもとでは規定の黄色い用紙の作成のため当然医院や薬局のリストを役所側が保持していなければならないのであり、以前私SSに対応してきた職員はこの点においては何ら間違ってはいなかったが今回対応職員として出てきたこの知的障害者風の顔面の男については自分の職務の内容について何ら理解していないかもしくはこの対応が故意による悪質なものであるということである。
 そして規定の黄色い用紙は新たに印刷が為されたものが渡され、『そちらに手渡した古いものは?』と聞いたらば『シュレッダーにかけてぇ~…』とノロけながら言った。私はこの黄色い用紙の古いものを手渡されてはいないし、当然シュレッダーにかけられる現場も見てはいない。
 ちなみにこの知的障害者風の顔をした男は番号札を持って待っていた私の右斜め前方から現れ、そして私の左斜め前に位置したところで一瞬このチンピラ男が一般市民に絡むような穢多臭い不快感をあらわにした顔面を故意に見せた上で故意に演出された気色の悪さの風体と言葉使いで『こんにちわぁ~』と言った。しかもあろうことか事務処理が全て終わり私が『はい、どうも』と言って立ち去ろうとしたらば『ありがとうございましたぁ~』と言った。役所は公的機関であり、しかもこの場合において金銭のやりとりは介在しておらず、このセリフをもってした対応は論外である。」

私SSがやられてますけど、つまり特定の真面目な人間を狙って囲い込んでそういった酷い扱いをすることで「日本人はこうでダメだ」と主張させるというやり方で日本人一般を貶めさせるんですね。さらにはこういった畜生はあわよくばまたそこで中国人がどうとか朝鮮人がどうとか言わせて差別意識を植え付けて人種差別を煽りそれを巻き起こすということまで持っていこうとするわけです。そうすれば自分らチンピラの暴力が肯定される環境を作ることができるからです。下手をすればナチスというのは強制収容所の存在のために在らんとしていたものかもしれません。Adolf Hitlerさんはもちろん騙しに騙されてました。少なくとも2012年現在の日本におけるこういったユダヤとナチス下部構成員が混ざったようなアカいのが行っていることは売国行為であって、連中は売国奴です。日本人だけではなくて中国や朝鮮の人たちもこういった連中には大迷惑なわけです。いくつか前のthe chancellorという記事で書いたJudenと単語を置き換えて考えれば分かりやすいところの「悪党」です。文学的テクスト上こういったのは"Juden"と決まってるんですけど。これはそのthe chancellorという記事でも書きましたしCroix de Feuという記事でも書きましたけど、役所をはじめとした公的機関に反発させるための典型的な分かりやすいやり方であり、ターゲットの被害者を貶めると同時に国や地方自治体の公的機関を貶めさせる道具に使うという非常に悪質な行為なんですね。あの演劇者としてヒットラー的な中島義道という人はアカい業界豚の一人と化して青少年を釣るために書籍でワザとああいったことを書いてましたけど、ヒットラー役の演劇人ではないそのまま芸能人中島義道的な愚かな人間はあっさりとこれに引っかかるということです。ヒットラーはこれを嫌悪しました。で、上記のこういったチンピラ豚連中が何時の間にかこの日本という国では公的機関の中にまで入っているというわけです。一般的日本人も日本人で連結してこういった連中に対処しないから欧米の人間に一色たんだと思われてfuckin' Japと言われてしまうんですね。中国や朝鮮の人たちだって自分らの国を作っているわけであって、何処の国にも社会の下部にこういったのが居るというわけで、残念ながら西暦2012年時点においても少なくとも日本の国土にまだこういったのが生息しているみたいです。



 母親が甘やかすと基本的に子供はダメになります。この「甘い」というのはポイントです。「甘い」と事象・物事の捉え方がミクロ経済的になるんですね。認識がボヤけます。悪意を持った他者にいいように利用されるようになってしまうということです。糖分を摂取し過ぎると肉体の健康も害します。遊びざかりの子供ならまだいいですけど、おやつとか成長期の子供にあまり与え過ぎない方がいいんじゃないですかね。代わりに栄養のある牛乳を飲ませるとか。ちなみにおやつは漢字で書くと「お八つ」です。江戸時代の習慣の一つであったやつがしら(八つ頭?)とかなんとかで、やまたのおろち的なニュアンスも存在するかもしれないです。しっかりこういうところを管理して教えるものは教えておかないと後で辛い思いをするのは子供なんですね。そして教えなかったら教えなかった親も親で不利益を被るんですね。そして結果として社会悪に繋がっていってしまうということになります。
 しかし頭の質の良い子供は簡単には納得しません。やはり馬鹿な人間の方が頭が良く賢い人間の方が頭が悪い傾向があります、少なくともこの日本という国では。だから教える側にも何故そうなのかをきちんと説明したり上手く教え込むだけの頭が必要です。
 飲酒とかのケースで分かりやすいように、ああいう依存性のあるものは一回ハマったら抜け出すには結構な自制心が必要になります。病気になってしまってから治すより日頃から予防しておいた方が明らかにリスクが少ないというかコストがかからないんで、こういうことに気を使って損することはないです。まあ甘いものを食ってコスパ意識が芽生えりゃ甘いものを食わなくなるのかもしれないですけど。

 運動前に甘いものを摂取するのは絶対に止めた方がいいです。運動を止めてもうこれ以上はその日睡眠に至るまで運動をしないという時に甘いものは摂取すべきものなんですね。だから夕食の後にデザートがあります。
 塩化物イオンの濃度が血中において下がると、神経が高ぶるそうです。だから、糖分と同じく塩分も過剰に摂取するとリラックスし過ぎた状態になります。塩分も糖分と同じく摂取し過ぎると肥満の原因になります、塩水とか飲んでみりゃ分かります。糖分はさっさとエネルギーに変わりますけどナトリウム分は簡単に排泄されないんじゃないですかね。過度にリラックスし過ぎて体を上手く使えない時に運動をすると体を壊します。おそらくそういう無理なことを続けていると、体がおかしな筋肉の付き方をして、下手をすると骨が変形します。最悪の場合ヘルニアになったりするんじゃないですかね。そういうことを避けるためにも、食事の後すぐに運動するということは絶対に止めた方がいいです。摂取した食物が胃から腸へと移動して血糖値が食前の値に下がるまでの3時間くらいは食後に休憩してから運動をした方がおそらく良いです。



 姿勢の悪い人は、自分の骨格それも頭骸骨にいたるまで意識して生活していれば、けっこうまともに姿勢が良くなったり、肩凝りや背中の筋肉の凝りが消散していきます、というか一発で凝りが消えたりします。実はこれにはそんなに筋肉は必要ありません、筋肉が凝っているからです。女性もほとんど肉の無い細身の人に姿勢が良い人はいくらでも居る、というかそういった女性の方が姿勢が良かったりします。私は若い頃太ったり痩せたりの差が激しかったのでよく分かるんですけど、筋肉であろうが脂肪質の贅肉であろうが「肉」の無い人というのは肉体の表皮的な体意識が弱いです。マッチョはデブ、デブはマッチョ、痩せている人はどちらにもなりにくいです。肥満体の人というのは、自分の骨格ではなくて、主に分厚い贅肉で膨れ上がった皮膚のシルエットを自己体型感覚として意識しているんですね、それが自覚的なものであるにしろ無自覚的な無意識的なものであるにしろ。体を少し動かすだけでも無理をしやすいということであって、肉体が外面的にも内面的にも壊れやすいということです。粗忽で怪我をしやすかったりする人は内臓的にも疾患を抱えている場合が多かったりするんですね。「体が悪い」んです。細身の痩せている人というのは身体意識的に頭にキているのでストレスのもととなる情報でも何でもいろいろなものを溜め込まないんですね。しかも痩身だと、体意識がスケルトン的になりやすいというか皮膚の下の贅肉がほとんど無いために骨格を意識することがたやすくなったりもします。だから自然体でいても美しく正しい姿勢でいられたりします。
 長髪は40年くらい前は反抗の象徴だったらしいですけど、髪が長いのは良くない(善くない)というのは身体論的に考えると骨格を意識することが難しくなるということに因ります。上に乗っかぶさっててうっとおしいんですね。最良の髪型はやはり坊主頭です。「長髪」は「挑発」みたいな。

 以下ヘーゲルの「精神現象学」の頭蓋論より四度引用。

「 さて精神的個別性は、身体に結果となって影響をあたえるためには、それ自身が原因として身体的でなければならない。だが、この個別性を、原因として、含んでいる身体的なものは、器官ではあるが、この器官は、外的現実に対する行為の器官ではなく、自己意識的なものが、自己自身のうちで行為するときの器官であり、外と言っても、ただ自分の身体に向かうだけのことである。何がそういう器官でありうるかは、すぐに見透せるものではない。ただ器官一般というようなものが考えられるとすれば、労働の器官一般、また性衝動の器官などが、手っ取り早くあげられるであろう。しかしこういう器官は、道具または部分としてかんがえられるべきであって、これらの器官は、一方の極である精神が、外的対象である他方の極に対して、媒介者としているものである。だがこの場合、器官と理解されているものにあっては、一方の極である自己意識的個人は、自分自身でありながら自分に体居るtしている現実に対し、自分自身に保持しているようなものであり、それは、同時に外に向けられた個人ではなく、自己の行為において自己に帰った個人である。それらの器官においては、存在の側面といっても、他者に対する存在ではない。人相術的な関係においても、器官は、たしかに自己に帰った定住、行為を物語る定住として、考えられるであろう。けれども、この場合の存在は一つの他人にとっての対象的な存在なのである。そこで、人相術の観察の結果は、自己意識がまさしくこの自己の現実に対して現れながらも、この現実に対して無関心であるということである。この無関心は、自己に帰っているこの存在がはたらきかけることにおいて、消えてしまう。このため、行為を物語る定住は、自己に帰った存在に必然的に関係する。が、この存在は、定住に結果をもたらすためには、本来対象的な存在ではないけれども、ある存在を自らもたねばならない。そこで自己に帰った存在が、このような器官として、示されねばならないことになるのである。」

日本語では当該人物の人となりを表す比喩表現でも「姿勢が悪い」とか言いますけど、身体が悪いヒトはそれが加害であれ被害であれ悪い方向へイってしまいやすいということです。政治家とか見てりゃ分かりますけど、communicationizedされたものを職としていると人つながり的にそうなっていくんですね。基本的に雑菌というのは油分とくっつきやすいのであって、そのために油分を除去してくれる石鹸が洗浄剤として昔から使われてます。セッケンという物質そのものに殺菌効果があるわけではないです。あとは身体が悪い老人は若者を覗き見るのが好きでいやらしいとか。変態ジジイというのは出歯亀をするのが好きだと昔から相場は決まってます。爺は変態なんです。ネット使ってても広告とか強制的に見せられて汚い思いをすることが多々ありますけど、サーチエンジンの検索結果で出てくる雑多なものを見てるとブサイクになったり老けたりとか。
Ist das Ihr Ernst?
 マジで。




 男性の女性に対する性行為が「暴力」であるという認知は男性には理解し難いんですね。前にも書いたように、男性における異性との肉体的な行為というのは「ああ、ああ、コレコレ、これがオレらの中に内在しているモノさ」という肉の穢れなアニマな感触にもとづいてます。私も時々見ますけど、だから男はエロ本もアダルトビデオもエロ画像もエロアニメも大好きなんですね、なによりありゃ男にとって都合のいい内容を男が作っているからです。つまり同じくオタクが見た目の醜い被差別民として扱われる内容のマンガを作っているオタクの大塚英志さんみたいな人もまた同じく男のエゴにまみれたオスです。マンガ的コンテクストによりオタクがネットで及ぶかと勝手に何処かしらの誰かによって思われていた卑屈行為も、行っていたのはマスコミ属性なチンピラ子豚虫共です。そもそも女は女に暴力をふるうチンピラ男を求めてはいません。芸能人キムタク?あんなものただのネタです。男は女も自分のペニスと同じく肉欲にまみれているのだろうと勝手に思うわけですけど、これは間違ってます。
 女性が特にこういったものを嫌うのは、生存本能として汚い情報を入れない選択をするということもありますし、いくらでもヒトのメスがヒトを生み出させしめられるということがまかり通ればそれが飢饉でも疫病でも戦争でも結果としてそれは生命を尊重しない讃歌しないということにつながるからであって、それは女の性(sex)自体を否定することになるからですね。

 大江健三郎なんて小説を読めば分かりますけど、まああんなもの日本の恥どころか畜生です。穢多です。アレがノーベル賞受賞というのは当て付けや下の世代に対する挑発だとしか考えられないです。まあ2012年現在の今ではノーベル賞も完全に形骸化してますし、今の若い人たちは皆ネットのおかげで頭が良いんでノーベル賞受賞者だからといってどうこうということでもないですから別にどうでもいいんですけど。まああの世代の間違えて東大に紛れ込んだ暴走バイク乗り通称珍走族みたいなもんです、あの大江健三郎というのは。ひたすら不健全で醜く騒音垂れ流すゴキブリ虫の如くです、アノ大江健三郎「の」は。

 仮に、特に男性の英語教員とかに多そうですけど「じゃあお前は英語使うな」と言う日本人の英語教師が居たとして、この発言の時点でもう既にこの人物は発想が日本的であるとか下手をすればドイツ的なんですね。現代日本では「英語スキル」という間違えた表現も用いられたりしてますけど、英語というのは「使う」「使いうる」ものではなくて理念的にヒトの頭にインプットされるというか腑に落ちてしまいうる言語なのであって、皮肉にもこれを(特に日本的・ドイツ的な工学的な価値意識の中でしかも何からの立場を持ちながら)教えている者としてはこの発言どころか発想を行った時点でナンセンスなのであり、この時点で英語教師失格です。英語というのは使わないことを選択しても接した時点で勝手に入る言語だということです。だからこそ女性にとっては英語がやりやすいとか女は英語好きだとかいうことであって、英語は別に汚くないので女性はどんどんこれを身に付けますね。つまりアメリカ的な国際戦略はイギリス語の必然だったりします。



 何処の社会にも、中国でも朝鮮でも黒人でも何でもない、自分が他者との相対において都合のいい位置を得るために他者の負の要因のみを暴き出す指摘するその他で他者を使うということをその行動原理とする、禍を巻き起こす"Juden"というのが居るということです。あんまりこんなこと言いたくないんですけど、警察をゲシュタポにしないからこういった連中が平然と悪事に及べるようになってしまっているんですね。証拠がないと警察は動けないとか悠長なことを言っているやっているから悪質な人間が調子に乗って悪事に及んでしまえるのであって、ヤーさんみたいにガキには警告くれてやればいいし大人は脅して悪事から遠のかせるくらいのことをやればいいんですね。私SSが特にそういうクズチンピラに絡まれてるだけかもしれないですけど、そうでないと卑劣な小汚い悪事をやるのがいっぱい居るんで。
 反社会的人間にとっては警察もワンオブザツールというかワンオブザ機構であって治安を守る絶対的な権力機構ではないんですね。だからそこから一昔前に主に新聞紙上でひたすら日本のマスコミの豚共がわめいていた「自立」だかの発想も出てくるというわけです。連中が「自立」という日本語の単語を使うのにはこういった意味もあったというわけです、無政府主義的に社会を無秩序へと導く。そりゃ奴らが言うところの「自立」した人間には警察という本来絶対的であるはずの権力機構も一つのツールとしか認知され得ないわけです。その方が奴ら業界豚としては悪質な行為に及びやすいわけなんで。あの「自立」を喧伝していた主にマスコミ連中というのは無政府主義国家の住人たちです。人間関係が工学化されているわけです、他者を蹴落としそれが生きるということであることしか知らない。少なくとも私SSはそんな何処にあるのかも分からない無政府主義国家の住人ではないので。



 何度でも書きますけど、私SSの父親の大手マスコミ新聞関係者であったMSというユダヤ人は、この男非常な女々しい男で分かりやすくはオカマ野郎です。エゴのカタマリ、超絶なエゴイストです。まあそうとう子供の頃からウザがられて嫌われてイジめられただろうな、というアレです。
 もう死にましたけど私の父方の祖母が私の父親をアメとムチでごほうびには吐き気がするほどに甘やかして育てました。この祖母はそのアメ具合とムチ具合があまりにも両極端な異常者でしたけど、つまり異常者である私の父親は異常者である私の祖母に「(悪事善事の区別無く)自分の目的が達成されるには何か手を施せばいい」という極めて反社会的で単純な行動パターンを子供の頃からひたすらすり込まれていたということです。

 私が8歳か9歳の時、この父親が海水浴場での沖に流された他人のビーチボールをいきなり「アレを取りに行け!」と私に命令したということがあったんですけど、その時は嫌なことを強制されるという程度にしか思いませんでしたけど、これは今考えると泥棒行為を自分の子供に行わせようというものだったんですね。もちろん私は嫌がって拒否したらば、この父親が人前でギャーギャー怒鳴りちらし喚きちらし私は泣かされながら多くの人があわれそうにこちらを見ているその海水浴場の真っ只中で無理矢理その他人のビーチボールを取りに行かされるという恥さらしな行為を強要されました。私はこういったものを日常茶飯事としてくらわされてました。

 私は確かに他人から何かを隠そうとする傾向が子供の頃からあったんですけど、多分この父親自体が恥ずかしい、他人に見せたくない恥ずべき家族だという意識が幼少時からあったということです。親族の前でもギャーギャー怒鳴り散らし、鼻つまみ者ウザがられ夫っぷりは半端ではありませんでした。前にも書きましたけど、4歳児になるもう幼稚園に入る年の子供の頃から私SSはグレていたということです。
 私は、父親がオカマ野郎の典型である女性的人間、母親が男性的というよりは掃除も食事もロクに行わない・私が学校へ行っている間部屋にワザと漁った形跡を残して嫌がらせをするというまあこんなクズ夫と結婚するだけあって人だとか豚だとかいうよりは嫉妬心で腐敗した豚肉のような生き物でしたけど、この個人性で子供の目の前で週に一、二回はギャアギャアと怒鳴り散らし喚きちらしあう喧嘩をするという場面を強制的に見せ付けられることを十何年も強いられましたけど、もしかしたらユダヤの豚としては自分の子供を反社会的人間に仕立て上げるためにこういったキャラ立てでマンガ的演劇を行って行っていたのかもしれないくらいのものです。同世代の男を女扱いさせてウザがらせ、同世代の女を男扱いさせて犯罪に及ばせよう、という。だからやはり悪質な人間から成長期の子供を守る義務教育というのは大切なものなんだなと改めて考えさせられます。



 老人は誰でもそうですし、やはり肉体の見た目が醜いヒトは中身まで醜くなってしまっていて、孫とか弱者をかわいがるのもその行動原理はミクロ経済的な第三者に対する反発だったりするんですね。しかしこれを叩くのはナンセンスであって、サタンは最も汚れを背負った者ということで叩くとマズいです。ジャンヌダルクのようなキリスト的偶像を志向してしまうこともイエスさん以外に居るとまずいということで仕方なくサタンと同一と見なされるんで、これはこれでマズいですけど。安定者の弱点は、ラスボスに仕立て上げられることだったりします、善悪左右どちら側のものも、善悪左右どちら側からも、の。

 戦前に言われていた「アメリカは女の国」というのも大嘘ですし、日本は男の国でもなければ肉を持つヒトの身で「神国日本」も嘘ですけど、日本は赤い国です。学習用の地図の上でも赤い色で示されることが多いです。恋の国と言ってしまっていいかどうかは分かりませんけど。ヘーゲルは「歴史哲学」の中で「アジアは歴史の幼年期であり、歴史は東から始まる」と言ってますけど、つまりは文明は西から東へと流れるということですけどまあ今はこれはどうでもいいんですけど、極東の国日本に住む人というのは、最後の最後に残るものは?ということを体感として知っている者なんですね。農耕だけやって生きていた時代には、おそらく嫁か畑仕事かしかオスにとっては無かったんで、メスを奪い合う争いもまず起こらなかったみたいな。これが英語や欧米人でないことは確かですけど、誰が日本を赤くしたんでしょうね?エゴありきで生きる一部のオスのワガママ身勝手とか。
Dichteritis
 「東雲の」。




 ヘーゲルの「歴史哲学」より。

「ソフィストの根本原理は『人間は万物の尺度である』ということであった。しかし、この命題の中には、ソフィストのどの箴言の中でもそうであるように、二義性が含まれている。というのは、ここに云う人間はその深みと真実さをもつ精神ともとれるし、また勝手気ままな、自分の関心だけを見る精神ともとれるからである。」

ヘーゲルはこの後で「しかし、ソフィスト達はこの場合、単に主観的な人間を考えていた。(つまり後者であり最後は感情的になるだけである)」と言ってますけど、この場合の主観的という日本語の言葉の使い方が怪しいですし自身が批判するところのユダヤ的な単純な二元論に陥ってしまっているっぽいですけどまあ今はそれはどうでもいいとして、この「人間は万物の尺度である」との言を残したプロタゴラスという弁論修辞学家ソフィストの元祖みたいな人のその人たるものに拠ってしまうのならばたしかにここでヘーゲルが言う通りだということになってしまうんですね。そもそもSophistというのは「賢き者」という意味でしたけど、そのうち政治学とかいった何故政治に「学」が付くんだか全く不合理なものをしかも有料で教え始めたあたりから詭弁家と言われるようになってしまったんですね。政治が学問化されたらそれは他者を潰す反社会的ツールになるだけです。賢き者ソフィストはここでいう前者であって、詭弁家ソフィストはここでいう後者です。

 哲学者の中島義道さんは「快・不快の哲学」という言語矛盾したタイトルの本を書いておられますけど、快とか不快とかいうのは哲学ではないです。この人が膨大な著書のあちこちで言っているのは「俺らって毎日便所で排便するけど誰もそのことについて目を向けないし語りもしないよね?」というのと同じことです。誰もそのことについて目を向けない眼中に無いのではなくて、誰もそんなこと当たり前に眼中に入り過ぎていて口に出すまでもないという現状が在るのだということです。そりゃ全国から何千通もお前みたいなクズはくたばれ的な内容の手紙が届くわけです。この中島義道さんという人は、キリスト教嫌いだとかユダヤだとかというよりは、あまり良ろしくない意味でのソフィスト的なんですね。

 現代日本でも某ソフィア大学の文学部に新聞学科とかいういかにも愚かそうなネーミングの学科がありますし、この中島義道さんという人もそうですけど、だから業界人というのはJudenでないとできないようになってるんです。まあ数年前まで頑張っていたコレら業界人もマスコミ新聞やネットにおけるマスコミ属性の強制収容所的具現体たるそもそもからして終わっていたところのかつて便所のゴミ箱と形容された2ちゃんねるその他と共にもう終わりですけど。まあ今でも投稿を装ったナメ腐った業界人の宣伝文句やフリーソフトのダウンロードツールありきでYouTubeにそういったものがupされてしまっていたりしますし昔あったwinmxだとかwinnyだとかshareだとかのツールやニコなんとか動画だかなんだかもそうですけど、アレはネットでマスコミ属性なカルマなものの延長である演劇を行うことで「ネットとはこんなに悪いものだ」という少なくとも日本におけるところではそのような社会的コンテクストを立ち上げてネットから人々を離反させる、そしてマスコミもテレビや新聞等でそのようにして「立ち上げられた」ものに沿ってネットは悪いものだとして叩き自分らの存在を肯定させるための材料として使う、という悪質な日本のマスコミの存在とその存続との共存関係にあったものなんですね、アノ2ちゃんねるというのは。ネットで違法ダウンロードとかしたらヤバいですし、テレビがつまらないつまらないと言われて、「つまらないテレビのバラエティー」という形で一般市民に意識を向けられて得をするのはテレビ業界なんですね。



 別にその道の専門家ではなくとも私みたいにちょっと歴史をひもといて勉強してみればすぐ分かるんですけど、いたずらに差別はするわ差別されたがり同士でサークルは作るわ、差別且つ被差別大好きなのがユダヤです。だからユダヤ人は豚と呼ばれるわけであって、逆差別のナチ(の指導者属性)狩りを行って被害者をネタにして使い倒せるまで使い倒して自殺させる、ということをやらかしていたんですね。

 自分らが奴隷にされていたエジプトから脱出するきっかけを作ってくれたモーセに対して、このユダヤ人というのは「アイツがこんなことをしなければこんな面倒くさいことにはならなかった」として悪態をついた連中です。しかもそれにもかかわらず為ったら為ったでそれに従い付いていくという、単なる烏合の衆ではなくて責任逃れをその行動や言動の根本原理としているような連中です。もちろんヒトが生きるにおいて基本的に努力をすればその分むくわれるようになってます、が、そうではなくて自分らに起こったどのような出来事でもまた自分らが行ったどのような悪事についてでも「なるようにしかならない・なるようになった」、という、認識なのではなくてJudenにおいてはもはやこれを認知としてしまっているんですね。そりゃ労働者属性で云々どころの話ではないのであって、この連中が平然と差別や悪事に及べるのも連中にとってはまた然りというわけです。残念ながら殺人者の汚名を被ってこれらを殺してくれる人たちは英雄だと言うことができてしまいます。

 メンデルスゾーンとかいうユダヤ人の自称哲学者が二百何十年か前のドイツに居たらしいんですけど、ヘーゲルによると、

「メンデルスゾーンは、キリスト教に改宗するように勧められたとき、次のように答えた。私の信ずる宗教は、私に対して、永遠の真理を信ぜよとは命じない。むしろただ単に、ある律法を、行動様式を、神事の掟を課すにすぎない。私は、そこでは永遠の真理が命じられているのではないというこのことを、ユダヤ教のもつ一つの卓越した点だと思っている。なぜなら、永遠の真理を見出すのには、理性で充分だからである。すなわち、前者の実定的な法規は、神によって確立されたものであるが、後者の永遠の真理とは、自然法や数学の真理といったものだからである云々、と。」

ということであって、Judenというのは自分らが間違えていることを知らずに愚行に及んでしまっている連中のことではなくてもう自分らで自分らが間違えているそのことを充分過ぎる程に自覚しつつそのこと自体を崇めているような連中のことです。これを現代社会における新興宗教と何ら違わない邪教と呼ばずして何なのかという問題であって、これが何度でも何度でも殺されて潰されるのは必然です。これをJudenでありながら解決しようとしたのは私が知っているところではAlbert Einsteinさんただ一人です。このメンデルスゾーンという人物は哲学者とは到底呼び得ないどころか、哲学というものがどういうものであるのか全く分かってません。この人自分でも数学でないと言ってますけど、ユダヤは哲学たり得ないので。数学が無ければ現代の文明社会にある99%のものは存在しませんし、ここでメンデルスゾーンとやら曰くの「後者」はヒトの必然としてその中にあるものなのであって、そのことを文学的表現だと「魂」だとかいうことになるのかもしれません。つまりJudenというのは「魂が抜けている」「自分らから抜けた魂を唯一神YHWHとしてあがめ奉っている」ということが言えるのであって、この日本という国でも戦争直後の1950年手前くらいの生まれの人たちを指して「団塊の世代」という表現がありました。

 私SSは精神医療の現場でこれを散々にやられて被害に遭いましたけど、医療一般における対処療法というのはユダヤの産物なんですね。もちろん怪我の傷口の消毒とかは別ですけど、これは現象面だけを見て・鑑みてそれを外部要因によって現象面だけは解決したように場合によっては見せかけるということでその問題がまるで解決したかのように第二者に対しては騙しを行い第三者に対しては自己保身なエゴイズムに基づく見せかけを行うという鬼畜の所業です。当然このようなものは根本的な治療にはなりようがなく、私SSが個人的に知っているところでは精神科医による恒常的な薬物投与のみによる治療そしてその後作業療法その他によってArbeiterparteiの下部構成員に仕立て上げるという最悪の強姦行為以外の何ものでもない行いというものがあります。
 ちなみに精神科医はまともに日々生活していけるだけの最低でも月20万円程度の収入が得られる就職先を斡旋してくれるわけでもなんでもなくまたその能力も権限も持っていないものであるにもかかわらず先述や上記の強姦行為を行ってきますし、病院や個人のクリニックのケースワーカーに相談しても結局はハローワークへ行けというそれしか無いというのであれば最初からそうするであろうがたわけがという解決手段を提示してくるだけです。特にJudenchristなヤンセンファーマから発売されている商品名リスパダールにこれが顕著ですけど、抗精神病薬を服薬するとその薬効からしてこれが不可能になってしまうんですけど、しっかりとこのあたりのことについては自己防衛しないと非常にまずいことになります。私はヒトのオスですけどヒトのメスがヒトのオスに強姦される心理というのはこういうものなんだろうなと分かりはします。まあ先にも書いたようにこのネットが使える時代に特別な事情を持った老人以外で誰も精神科なんか行きませんけどね。睡眠薬やマイナートランキライザーくらいはもらいに行ってもいいですけど。

 「ユダヤでないもの=ユダヤ人を大量虐殺したナチス」みたいな定式を第二次大戦後に必死に公立小中学校の教師たちが子供たちにまたマスコミや出版業界が大衆に刷り込むということを行ってました。マンガ等のサブカルチャーだけではなくて、岩波とか中公とか講談社現代とかの新書の類も少なくとも私が知る前世紀のものはほとんどがそうでした。一部の悪質な書籍の出版業務とかもそうですけどマスコミ特に日本のマスコミというのはユダヤ業界人による賤業務だからであって、そういう社会的コンテクストを敷けば自分らや自分らのお仲間が儲かるから・自分らのお仲間が儲かるような形式をそもそも敷いていてそれに合致するからということです。もちろん他国に対する侵略やその現場で行われていた具体的行為からしてナチスが正しいわけはないですけど、ユダヤに対するものイコールナチスであるわけではないです。何故こういった事態が起こったのか原因を究明せずに、数百万人のユダヤ人が強制収容所で殺されたその事実のみを取り出して何者かにレッテルを貼るというその行為がもう間違いの元なんですね。これに関してはアインシュタインもそうですけど、「戦争はいけない」という文言の前に何故戦争が起こるのかを考えないと何度でも同じく馬鹿な過ちが繰り返されうるということです。

 前にも書きましたけど、私SSはもう小学校五年の10歳の時にこのユダヤによる逆差別を受けましたし、二年間在籍して卒業した中学校は敷地内の校舎の配置からしてもう異常なユダヤ人学校みたいな中学校でしたし、高校の時は差別大好きで嫌われ者のウザいチンピラ教員をシカトしていたらば大人げのカケラも無く向こうから10代のガキ相手にカラんできましたし、それでも私が人種差別に走らなかったらば大学へ入ったその当初にユダヤ教授やユダヤ人同級生に挑発その他による逆差別を受けました。前にも書いたようにこれがユダヤによる逆差別であると私が知ったのは大人になってからのことですけど、「差別はいけない」という子供の善良で未成熟な心につけ込んで媚びへつらいによる引きずり込みやそれが通用しないとなれば見せかけを主とする逆差別によって反社会的人間自身が反社会的人間の存在を許容させてきたんですね。文学にはあまり居ないと思いますけど、教授とかでも経済だとユダヤの性向の強いヒトは自説を垂れ流してそのプラモデルを無理矢理学生に暗記させて試験で書かせるということを行うだけの教員が居たりします。そんなことをやらされても何の役にも立たないどころかそれが正当性や妥当性を持っているものである保証も何処にもなく、もちろん到底勉強にはなり得ません。少なくとも経済学だと良い先生は数学を使ってのものであってもちゃんとモデルの内容を丁寧に一つ一つ説明して学生に分からせていくんですね。だからこそそこから議論や内容の修正の余地も生まれてきたりします。何度も書いてますけど、Judenというのはひたすら人の善意につけ込んでゴキブリのように生きる・生きのびてきた連中だということです。障害を負っている人たちや事故に遭った人たちを差別することは悪事であり論外ですけど、何故人種差別や反社会的人間が排斥されるのかということを考えないと盲目に陥るだけです。しかもこういった人たちを差別するものこそがユダヤ人であったりします、力量的に無抵抗であったはずの身内の非処女に対してすらも。目的の女が非処女になった瞬間に非人間扱いするような奴らがJudenです。人間関係が工学化されているという表現を私は何回も使ってますけど、Judenというのは他人を道具としか見ていないんですね。私はやっぱり川端康成の「雪国」はなんだかんだいっても読むとジーンときますけど。岸恵子さん主演の「雪国」の映画とかけっこう興味あったりします。

 2012年時点でこの日本の国土に生きるヒトでもこれはよく観察されますけど、Judenというのは顔に特徴があります。唇はヒトによって太い薄いいろいろありますけど、すれっからし風の埃っぽい風貌と卑屈に垂れ下がった目蓋です。現代日本のオタクとはちょっと違いますけど、一見善良人風のものだと詩人Hermann Hesseなんかにもこれはよく観察されます。「そわそわしていてきちっとしておらず、左右両脇に垂れ下がったような風貌」というとたぶん分かりやすいです。これをユダヤの「豚」と呼ぶわけです。マンガ的に分かりやすくはRPGとかのマンガ絵のゴブリンとかオーガとかです。これは昔の絵本とかでもよくあった鬼とか鬼畜とかですけど、まあこのあたりのものです。別に肉体が肥満しているだけのヒトであれば欧米人は皆そうですし、これは一義的に参考とするのは間違ってます。私SSも身長179cmで体重85kgあるので軽く肥満してます。この国で肥満体の人間が安易にブタと呼ばれてしまうのは、第二次大戦後にマンガやアニメやゲームによって必死に流布されていたマンガ的コンテクストのせいです。「豚」というのは「嫉妬豚」なわけであって、「何にでも嫉妬して卑屈な顔を見せる痩せたブタ」のような人間の偶像あたりを想像してもらえばなお分かりやすいです。まあ今は整形技術や画像のデジタル加工技術もあるんで何とも断言できないですけど。あとはまあ醜くめくれあがった唇もまたそれはそれで不健康の証です。

 再びヘーゲルの「歴史哲学」より。

「―前略―このギリシャ精神の概念からいえば、神的なものもまた自然力をやはり要素として含んでいるが、ただこの要素が精神的な力に変容されている。だから、この端初の要素としての自然的要素は精神的な力の観念の中に僅かにその余韻として残っているにすぎない。というのは、ギリシャ人は神を精神的なものとして崇めるからである。それ故に、われわれはギリシャの神をインドの神のように、その内容はそれぞれの自然力で、外形だけが人間の姿をとるにすぎないというように見ることはできない。反対に、その内容こそ精神的なものそのものであって、自然的なものはただその出発点をなしているにとどまるのである。けれども、また他面では、ギリシャの神はまだ絶対的に自由な精神ではなくて、人間的な有限性をもつ特殊な形態をとった精神で、特定の個性を持つものとして、なおいろいろの外的制約にまとわれるものであると云わなければならない。客観的になった美しい諸々の個性がギリシャの神々なのである。」

古代ギリシア人のことをHellene(ヘラス人)と呼びますけど、ドイツ語(ゲルマン語)でhellというのは形容詞で明るい・澄み切った・明白な・色白の・利口な・本当のといった意味があります。地獄を作っているのはヒトの恐怖心であって、真実が地獄だというわけではないです。
Amerasian
 アジア太平洋圏。 




 Judeな反社会的人間に見られるものとして「敵」「味方」がどうこうというものがありますけど、この発言や発想自体がもう反社会的なんですね。他者を貶めて相対的に自分の位置を上げるといった手段でしか生存する術を知らない者を排斥しない社会的人間は居ないのであって、そのような反社会的人間だからこそ「味方」云々という発想も出てくるというわけです。「味方」だから悪事に及んでも助けてくれる、そのような他者を求め設定する、という甘えの発想です。敵も味方もそんなもの何処にも居ないのであって、反社会的行為に及べば誰もが「味方」になりうるしまた誰もが「敵」になりうるということです。こんなこと幼稚園児の時点で分かることのはずなんですけど。
 一般的にキリスト教では結婚は最も軽い罪と見なされてます。人類の存続のためにこれだけは必要であるということで、一対一の男女のその決まった相手との情事という反社会的行為だけは結婚というとある社会的承認を得る儀式を通過した上で許されるということです。

 精神科医は診療内容の守秘義務を逆手にとって精神を病んでいたりまた抗精神病薬でシャブ漬けの状態にした来院者に対して精神科の診療室内における出来事は患者によっても守秘されねばならないという錯覚を与えその患者の口封じをした状態で患者に対してその診療行為内においてパワーハラスメントを多々行ってきます。内ゲバの亜種です。幼児的な嫌がらせとかいった生ぬるい表現では済まない程度のものです。だから私も最低限の自己防衛としてこのブログに全てその内容を記述してupするということを行います。
 個人的な経験では、N田四R医師は治療に関する患者の質問を老獪に回避し適当に丸め込んで逃げる、M'z a 悪意医師は前にも書いた通り私と年齢が近くてお若かったので患者を挑発して何かをやらせようとしていた気がありましたけどまあ毎度毎度抗精神病薬漬けの状態の脳の患者に対して嫌味を言いパワーハラスメントを連発する、自称k子curseマ医師は毎度毎度言動とその顔面の表情によって汚い嫌味をタラタラと垂れ流す、ということを行ってきます。自称I福T子医師は今まで二回の診療においては前述の通りであって、まあこれからどういった態度に出るかは不明ですけど。「自称」というのは、N田四R医師もM'z a 悪意医師もまあ同じですけど、k子curseマがそれを名乗っている人物の本名である保証は患者の側からは確認できないからです。この自称k子curseマというのはまあ顔を見てもらえれば分かるんですけど、ブタです。別に他人の顔がどうとかどうでもいいんですけど、その診療内容からして人格の内面性の豚々しさが表面に滲み出たとしか形容仕様の無い人豚、というかまあブタです。おそらく40歳は過ぎているであろうに髪の毛は長髪で汚い茶髪にしたり黒に染め直したり、白衣は着用せず毎回同じ黒いセーターのようなものや夏場はTシャツに下半身は青いジーパン、もう開いた口が塞がらないどころか目も当てられません。毎回この不潔なブタとそのモルボルグレートみたいな臭い口から吐かれる嫌味に抗精神病薬漬けの状態で正面の位置から対面させられる患者の身にもなれということです(でした)。近くにはここともう一軒の以前診療を受けたことのあるあまり良くないクリニックがあるだけであって、どこへ行っても精神科というのはこういったところで同じなんで、もういちいち変えはしませんけど。まあぶっちゃけると、前にも書きましたけど、k子curseマもI福T子もコイツらは芸名なんです、下手をすればサクラです。これらのことにN口クリニックのN口先生の意思が関与しているかしていないかまたは関与しているとしてもどのような形をとってのものかは不明ですけど。ちなみにこの自称k子curseマは今度遁走して逃げます。
 もちろん個人のクリニックも大きな病院もサクラだらけです、精神科というのはそういうところなんです。

 他者を信用できない人間はいたずらに他者を攻撃します、ある場合は対象の負の要因のみを第三者に対して知らしめまたある場合は汚い広告の如く自分らの利得権益たるものの正の要因のみを部外者に喧伝するというやり方で。また先述の通り媚びへつらいによる引きずり込みやそれが通用しないとなれば見せかけによる騙しを主とする逆差別によって。当然こういった者らは必然的に排斥されるように出来てます。人を信用する本来的には健常な一般市民であるはずの人間がターゲットにされてどんどんこういったJudenによって貶められてやくざ者に仕立て上げられていくんですね。そして最後にはそういった人たちに「暴力」のレッテルを貼り自分らは一般市民を装ってどんどん当該社会に毒を垂れ流して悪化させていく、というこれが反社会的人間の当該社会における行動です。Judenの所業です。ヒットラーはこれをユダヤの毒と呼びました。日本でもネットが普及してからは良くなりましたけど、まあ高度経済成長期や80年代は酷いものだったっぽいです。現在31歳の私ですら子供だった頃に公立小学校の教師の酷さという形でそれを味わってます。私SSは騒音でしょっちゅうやられる・どうやら子供の頃からひたすらやられていたのだということ(に最近気付いた)んですけど、他人に嫌がらせをする個体というのはアレは殺す以外にありません。コレらが様々な社会的な災禍や不幸の火種を些細なマッチの火から作っていくのであって。



 私立高校志望の子供たちが塾や予備校でやらされる勉強はそれなりに難しいでしょうけど、公立中学校でやらされる勉強なんか簡単過ぎて絶対評価で五段階評価であれば半数くらいの人間が5や4の成績を取れてしまう程度のものなんですね。あんなものやるかやらないかの問題です。だから相対評価で自分の能力を査定されるということになると試験の成績だけでは決められなくなってくるので結局教師のお気に入り度合いがそれに多分に反映されてしまうという形態が出来上がってしまうのであって、そんなもので中学生が進学先を決められてしまうところの公立高校なんてものはJudeな教師の独善的なユダヤ的基準によって敷かれたカースト以外の何ものでもない上に、人に媚びることを覚えさせられる子供にとっては教育に悪影響どころの問題ではないです。もうとうに公立高校が朽ち果てたところの・レベルの高い私立高校がたくさんあってくれる都市部はいいですけど、地方だとこの2012年現在でも子供たちは理不尽な思いをさせられてるんじゃないですかね。百年近くもの昔の様相が記述してある川端康成の小説とかでも「都会だと英語が難しいでしょう」というセリフでその現象が分かりやすく描かれたりしてます。夏目漱石のだったかもしれませんけど。二つくらい前の記事でも書きましたけど、英語というのはそういった言語で、頭の良し悪しが表れやすいんです。ちなみにあの当時は「修身」だか「道徳」だかで具体的基準に沿って成績を付けられるという形でそういったものが評価されるという形態がちゃんとあったんですね。



 私は半年くらい前に書いたいつかの記事で数学的ということと数理的ということは違うと書いたんですけど、これは違うのではなくて当該の問題の現実的な処理にまつわって存在する定常からのズレ具合の問題であって、どちらも実在論的見地に基づくものであって違いは無いんですね。私みたいに肉体に強度の斜視が現れるほどの「左」に筋金の入っている病的なヒトの場合は別かもしれませんけど。これから「右」に戻って定常する身体感覚の気づきみたいなものを与えてくれたのは抗精神病薬です。

 前にXPという記事で、

「ヒトの恋愛行動においては、オスはアニマの幻影を特定の異性に求め唯名的かつ実在的になるのに対し、メスはアニムスの具現体としての特定の異性において彼を象徴化して知識のバラつきと同化させようと試み、その条件を満たす相手を理想の男であると見なします。平たく言うと女性は恋愛において絶対知たる自分と同じものを男性に求めるということです。そして何もかも捨て去った時に初めてその自覚が芽生えるイドを満たしてくれる女を想うことが男における肉欲に邪魔されない本物の恋というやつです、『ああ、俺はあの娘が好きだったのか』と。」

と書きましたけど、アメリカはこれにおけるオス、日本はこれにおけるメス、そのまんまです。アメリカは唯命的かつ実在的、ちょっと変な言い方ですけど恋する男の国であって表面的には女性性志向なんですね。日本は逆であって象徴的、また変な言い方ですけど恋する女の国であって表面的には男性性志向だということです。もちろんこれの表面だけをとって「アメリカは女の国」だとか「神国日本」だとかいうのは大間違いです。つまり、アメリカはof the people, by the people, for the peopleの国であって、逆に日本はエゴイストの国です。だからアメリカはお国柄的に滅茶苦茶強くて日本はお国柄的に滅茶苦茶弱いんです。アメリカは歴史が最も浅く且つ文明の最も発達した国です。今日の日本では日付変更線が中央右に入ってアメリカ大陸が東側にある世界地図が一般的ですけど、云わばヘーゲル曰くの最も歴史の幼年期でありかつ西の新大陸として世界で最も文明的な国、つまり左右がcrossした良いとこ取りの国ということが言えるっぽいです。南アメリカ大陸のこととかはあまりよく知らないんで、まあ何とも言えないですけど。もちろん世界地図は日本が極東に位置されていてアメリカ大陸が左にあるものが何がどうなっているか分かりやすくて良いです。そして日本は逆に、朝鮮もシャーマニズムの国でしたけど、古来から卑弥呼みたいな悪政を司るアニマの具現体みたいな女が居たんですね。卑弥呼というのは「卑しい弥を呼ぶ(者)」と書きます。だからこそやっぱり日本にはゲイシャやハラキリは別に要りませんけどnichtなサムライが必要だということであって、ヤクザや官僚が否定され得ないのはこういったこともあります。天皇制はあってもなくてもどうでもいいですし、かといってまあ皇室の人たちが居てくれても別になにも問題は無いとは思いますけど。逆にアメリカには自由の女神というかHillary Clintonさんみたいな人が必要だとか。
 云うなれば、nichtはニヒルなアニムス、0は肉の穢れたるアニマです。数学では、0というのは一つの具体的定数であって無ではないんですね。日本というのはサムライをはじめとしたnichtな人間たちと奴隷のように愚かなzeroな人間たちが二種に分かれて作っている(た)国だというと分かりやすいかもしれないです、残念ながら。ちょっとうろ覚えなんで断言はできないですけど、たぶん「啓蒙とは何か」だったと思いますけど、どこかの著作ででImmanuel Kantが「暗い部屋にこもってどうたらこうたらのシナの哲人たちがこのnichtと0を混同している」みたいな内容のことを言ってたような。虚無と0という定数とは違うんですね。

 ヒットラーはもちろんキリスト教的であり数学的です(自身が数学たるものを志向していました)けど、この人物が子供の頃あまり数学が出来なかったというのは結構有名な話です。自身が数学的であるということは(中高生がやる)数学の問題を解く能力はあまりない、どころかそれが皆無であるということかもしれません。決まりきってるので。私も何度もこのブログにupした文章の中で数学数学と言ってますけど、東大の理系や東工大へ行く高校生たちの数学の問題を解く能力が10段階評価の10で中学校の教科書レベルのものしか理解できないのが10段階の1だとすると、私SSの10代の子供の頃の数学の問題を解く能力は10段階のいいところ7か8くらいであってそこまで特別にいわゆる「数学の出来る」子供だったわけではないです。

 数学の問題を解くことがこれに該当するかというとちょっと微妙ですけど、「そうなると→そうなる」という、これをそのまま定常情報としてインプットされてしまう、例えば被洗脳行為から身(頭)を守るためには、何度もこのことはブログで書いてますけど、とりあえずそれを記憶して後でそれを言語化して記述する等で吐き出すということがおそらく有効です。しかし「勉強する」というのはこういう定常情報を拡げていくということなんでしょうけどね。つまり世界知みたいなもので自分を洗脳していくということであって、これは主観性の問題です。つまりは抗精神病薬漬けになっている状態のヒトはあっさりとサブリミナルにはかかってしまってやられます。記憶するというのは客観性の為せる技であってこれは「勉強」ではないです。たぶん記憶というのは「学習」です。だから私はあまり勉強はできませんけど学習能力は高いです、これを多々悪用されることがありはするということなんですけど。先述の、「右→左→右」な身体意識を持つところの、自分の意思にかかわらず何でも記憶してしまうという現象・行為にまつわる感覚を実体感として知っている者としては、やはりこれは病的であり病気のもとであるということが明確に分かりますけど、その後で吐いてしまえばいいんですね。だから私は愚昧な説教をする大人たちのお言説なんざ現象的には馬耳東風のものであって、これを記憶して自分の中で処理して消化するということをやっていた……ら病気になりましたけど、腑に落としたものを再び頭へクるという形で意識上へのぼらせてそれを言語化して吐いてしまったらかなり病状は良くなりました。これをやっていれば愚かな人間の説教に洗脳されるということもありません。たぶん日本人の多くは「左→右→左」の身体意識の持ち主ですけど、欧米人特にキリスト教圏特に英語圏のヒトたちはほとんど皆「右→左→右」の身体意識の持ち主です。私SSは後者であって、前にも書きましたけど日本好きのアメリカ人的です。

 ヒットラーのNichtを求める意志(意思)、またはヒトが唯脳論的な意味合いで最終的にたどり着く左右の二元論というのは、善良な人間が複数の・不特定多数の悪意を持った者たちの意思と接触しそれに翻弄されることを余儀なくされた時、それを処理する方法としてそれら全てを「左」としそれに対するものとして「右」のnichtたる定常を「頭の置き方」として設定するということなのかもしれません。前に唯脳論的見地は間違っていると書きましたけどここで言うのは身体の一器官としての脳のことであって、抗精神病薬を服薬するとこれを身体感覚としての唯脳論的な意味合いで自覚・体感することができる、つまり自分の行動と脳の痛みの因果を自覚できるようになる、つまり「イタいのがドコか」が分かるようになる、ということなんですね。抗精神病薬というのは自分は情報を溜め込んでしまっているということすら分からなくなっているほどに病んでいるヒトに、それが病んでいる状態であるという自覚を与えるきっかけにはなるということです。身体が痛んでいるのにそれの自覚が無いとイタい行動に及んでしまうということです。安静時には「右」で定常していて、「左」への流し・現象を全て釣りであるとする抽象性にたどり着く、というのは善良な人間の自己防衛の本能のようなものによる必然なのかもしれないということです……けどまあしかし少なくとも今の私SSの場合は安静時で「右」で定常している時にも頭はきちんと働いてますけど。

 音楽も(審)美的というか数学的ですけど、音痴というのは運動神経の悪さその他と関係あるっぽいです。たぶん音痴の状態、歌を歌って音がとれない状態というのは肉体があまり健康な状態ではなさそうです。私SSは裏声だと音がとれますけど地声だと音程が全くとれないです。どうでもいいですけどだからカラオケとか全然歌えません。喉の使い方的に裏声を出す時というのは私の場合は体意識的に「右」に定常してます。歌手で運動神経の悪そうな人というのはあんまり見たことないですけど、どうなんですかね。
adiaphora
 どうでもよいこと。




 ちょっとこの記事はつれづれなるままに書きますね。

 私は女を集団として見てしまう傾向があります。ヒトのメスを自分とは違うところの皆同じなアメーバな生き物として認識してしまうんです。そりゃヒトのメスだって個々人居てそれぞれ違うはずなのに、だから女と関わることを空気的に漠然と恐れるという傾向がもう10歳になる前の子供の頃からありました。もう小学校低学年の頃から同級生の可愛い女の子にドギマギしていた、にもかかわらずなにかそれがいけない行為のように思えて仕方なくて恥ずかしくて上手くコミュニケーションが取れませんでした。私は性の成長は早かったんで、もう5歳の時に射精してました。思い出すだけで気持ちの悪くなる忌まわしい記憶なんですけど、幼稚園の時にやたらとペニスが勃起することがあって「ちんちんが大っきくなる」とかなんとか母親に言ったらば、この豚女「悪い膿を出す」とかなんとか言って風呂場で5歳の私のペニスを手で刺激して溜まっていた精液を抜いたんです。呪わしい記憶です。女の子と初キッスをしたのも6歳の時です。初めてマスターベーションをしたのは15歳の高校一年の時で遅かったですけど。そういや9歳の時友達が私のことをおもんぱかって好きな女の子の家まで私を強引に連れて行ってくれて彼女を誘い出してそして皆で一緒に彼の家まで連れさそってくれて行ったことすらあったのに、その時も私はその子に何もロクにしゃべれませんでした。

 結果として精神を病んでいると見なされる人間やたぶん女性に被害者が多いでしょうけど、学習能力の高さを利用して後天的に恥意識を植え付けることによって現象的には能力を発揮させないとか能力の発揮のさせ方を歪めるとかいった方法を取って攻撃してくる連中が居ます。前に書いたところの「右下」な連中です。人間関係が工学化されていて、「こうやればこうなる」ということでそれが稚拙な方法であれこそすれ他人を駒のように扱う、特に弱いヒトのメスを狙ってこれをやるんですね。私はオスなんで特に恥も無くそれが言語化でもなんであっても自分の外へ出してしまうことができますけど、メスはこれが苦しいはずです。男性に性暴力を加えられた女性がその体験の具体的内容を事細かに語ったり言語化して記述したりすることはその生態的な問題からして非常な苦痛を伴うはずです。が、私はこれも含めてサッサと吐き出してしまうことをオススメしますけど。悪いものは一刻も早く出してしまった方が良いです。ここでそれをまた恥ずかしいものであるかのようなミクロ経済的なコンテクストを作り出す愚かな人間が居るから被害者がさらに苦しむことになるんですね。女が股を開いている画像を猥褻画像だと言って非難するその貴様の心理が猥褻であるということにいい加減気付けたわけがという問題なんですね。ヒトのメスの生殖器が猥褻であるという発想や発言が女を馬鹿にして侮辱しているものだとということが分からないんですかね?確かに男が女が股を開いている画像を需要すると、金銭に釣られてそれを欲望しないにもかかわらず股を開いてしまう女が居るでしょうし、また暴力によってそのための犠牲になる女性が出現することになってしまう、という社会的なリスクがあります。だから「エロ画像を見ることは褒められた行為ではない」という見解はもちろん正しいですけど、女が裸をさらしたり股を開いている画像や映像そのものが否定される筋合いは無いんですね。だからエロアニメやエロCGなんかいくらでもあった方がいいわけです。「オスには男性器がついていてメスには女性器がついている、それだけだ」という認知がただあればいいわけです。アメリカとかたぶんそうです。私は10代の思春期の頃外を歩いていて若い女とすれ違うだけでドギマギムラムラして、女の裸体を見たくて仕方がなかったですけど、いわゆるエロ本やもうちょっと後になってネットでエロ画像を見るようになってから全くこういった愛ではないところの不純な肉欲は無くなって外で女とすれ違ってももなんともなくなりました。オスはこういうもんなんです。



 覚せい剤だとか合法ドラッグと呼ばれる類のものでも麻薬の類に手を出したら絶対にダメです。……で、そこで解決策として睡眠薬というものがあります。これは精神科クリニックで眠れない等の症状を訴えれば医薬品として簡単に処方してもらえます。私が服薬したところでは、商品名リスミーは非常に効果が弱いのであまり飲んでも意味がないですけど、商品名マイスリーや商品名ロヒプノールという医薬品は絶大な効果があります。抗精神病薬を服薬している人であればそれによってもたらされる被害妄想の脳裏に浮かぶ現象化とでも呼べるものが一発で消えます。……ちなみにこの記事の文章はロヒプノール2mg錠とアキネトン1mg錠を二つ飲んだ上で楽になった状態で書いてます。文章の内容はけっこう徒然なるものになったりします。ただ寝ぼけるということでやはり「左」に流される感じではあるので、他者と接する場合は上述のとおり悪意を持った他者にのせられやすくはなりますし、またinputの能力が高まっているということではあるので色々と情報を吸い取りやすくはなります。本とかスラスラ読みやすくなります。outputの性能・精度は落ちるでしょうけど。
die Heiligen Drei Könige
 東方の賢者。




 私は中学生の時三年の二学期が始まるまで公立高校を志望していたんですけど、そこでそれを諦めました。最悪なことに塾で実績を出して公立中学の教師を脅すという方法でしか子供たちは生き様が無かったんです。偏差値70いくつかの早稲田や慶應の付属校に入る子供達が公立中学は偏差値60を切るの三番手高か四番手高を無理矢理受けさせられるんです。そもそも一番手高が偏差値65とか66とかのありさまでした。高いお金を出して塾や予備校へ通わないと子供たちは殺されるんです。というか子供たちを守るために塾の先生たちが頑張ってくれてたと言う方が正解かもしれません。英語教師は無能も極みで帰国子女の子達の方が発音も上手くて文法も何もかも含めて英語という言語についてよく分かっていて英語の授業は陳腐な作業ゲームでしかないという有様です。しかもその老婆英語教師は授業が終わって休み時間になった瞬間にアメリカの悪口を大声で中学生の子供に向かって吐き捨てて教室を去っていくとかそういったブザマです。もう教育もクソもなく生徒と教師の引きずり下ろしあいです。教師は教育の現場に携わる者ではなくて自分が教師として稼いで生きるためだけに教師をやっているようなのが8割だという有様です。是非海外の人には知って欲しいんですけど、日本という国では15歳以下の子供たちは公立小中学校で教職員の名を借りた畜生にひたすらレイプされるのが実態です。少なくとも私が中学二年と三年と二年間在籍して卒業した公立中学校はこういった学校でした。まあネットが普及して、若い先生たちが入ってから大分良くなったでしょうけど。田舎の方はまだ子供がつらい思いをさせられているところがあるんじゃないですかね。
 しかしこの種を蒔いたのが誰であるかというと、たぶん戦争直後にGHQがやったんでしょう。戦争万歳というか爆撃好きなマッカーサーは後に当時のトルーマン大統領に罷免されましたけど、戦後ネットが出るまではGHQの敷いたものに日本の国土は翻弄されていたとかいうのが実態かもしれません。財閥解体や農地改革はよかったが教育の民主化に悪質な人間たちが漬け込んだとか。ユダヤ人国家実験場としてどこまでなにがどうなるかを試されていたとか。まあ事実何があったのか真実のところがどうだったのかは分かりませんけど。もっといえば明治の開国直後に「牛鍋うめえなぁ」とか言って日本人の古来からの知恵であった獣肉忌避を無視して肉を食い始めた愚かな先人たちの所業から始まってるんです。



 前に書いた、「右→左→右」の蓋然的な認識を持つ人間は、「左→右→左」の明確に意識的な・意図された蓋然を持つ人間と違って、「自分には知らないことがあるかもしれないという可能性の認識」は明確に抱いているということなんですね。だから当該人物にまつわる具体的な事情も事実も知らずにいたずらに他者を傷つけるべきでないという意識を明確に持ってます。これは苦しいといえば苦しいです。吐き出すものを吐き出しづらくなるからです。特に一般的な労働に従事する人たちはこんな発想では生きてられないでしょう。が、人間関係においてはこういったスタンスでいないと失敗するわけです、特に子育てとか。というか子供ができて母親や父親になるヒトたちは、それまでそういうことが分からなくても子供ができるとこのことが必然的に分かるようになるんじゃないですかね。もちろん教育従事者はこれを当然然るべきものとして自覚しているべきです。アメリカが人権意識が尊重される国で日本は無視されることが多々あるというのはそういうことです。二、三前の記事で書きましたけど、前者は恋する男で後者は恋する女とか。"Tue nicht anderen, was du nicht willst, dass sie dir tun."のちょっと意訳ですけど、後者は「知らないもの知らないことなんかそもそも知りようがなく、知ったことではない、知ろうとも思わない、知る術も無い」というJudeを表す特徴の文言そのまんまです。

 スープに入った塩だとか嫉妬豚と形容されるくらいであるユダヤ人の嫉妬深さは文学的テーゼだとかなんとか言うよりは運命的と形容しても妥当なくらいですけど、嫉妬心が強い・嫉妬深い人間というのは、自分より能力の高い人間の存在を恐れて最初から意識的に右を選んでおくという選択をします。少なくとも私のような「右→左→右」の感覚のヒトからすると「右」というのは定常でしかないんですけど(もちろん頭は働いてます)、Judenは右へガンバるんです。左ありきのために右へ(で)頑張るという行動原理なんです。漢字だと、ツクリが「里」でヘンが「王」な「理」という文字とは逆をいってるんです。その頑張り方としてそれしか知らないんです。自分より能力が高い人間が失敗した時に私らは最初からこっちだった、ということで自分より有力な人間が罠にかかってくたばるのを待ってるんです。場合によっては不必要どころか人口の保養の為に作られたような無い方が良い社会的に禍根を巻き起こすだけの仕事に従事している場合もあるにもかかわらず、仕事人ぶっておくことを保身や攻撃の材料として使うためにとっておくわけです。だから政治家なんかをネタにしてやたらと無根拠に三文新聞記事の如くこきおろして合理的な内容の批判ではなく幼児的に非難するのもまたこういった連中です。これは「左→右→左」の人間の典型的な行動パターンです。何もかもが左のエゴありきのもと進められるんです。だから他人を左へ蹴落とすこともその行動原理として「エェ~、だってそうじゃなきゃ生きてられないでしょ」とかいったマンガ的セリフの如く当然ありきなものとして認知してしまっているわけです。おそらく身体や脳の使い方の問題としてこの連中はそうやって生きる・それが生きるということだということしか知らないんです、だから連中は連中でまた地獄の中を生きているということっぽいです。これは現代ではアメリカ人が日本人を鑑みた時の異様感として感知されるはずです。ちょっとマンガ的な表現で誤解を招く可能性があるんで申し訳ないですけど、中級役人や下級役人だと形容すると分かりやすいです。少なくとも第二次大戦後の日本で言われる「公(おおやけ)」とか「公立」とかいったものは残念ながらこういった意味合いです。嫉妬、というよりは、夢見る少女、恋する女、目的の(男を得る)ためにはどんなに汚いことをやって第三者を貶め蹴落とし危害を加えてでも達成してやる、という。私は父方の叔母がこういった極めて悪どい人間なんでこれが実態的・実体的に観察されて極めてよく分かるんですけど、最悪です。豚です。まあえげつないどころの話ではないです。サークル作ってその中で同属他者を貶めて自分はいいポジションを確保してニヤニヤ笑っているという、アレです。

 で、東大生というのは凄いんです。彼ら彼女らは官僚の候補生です。東京大学に入る子供たちというのはあの年でもうそうとうに物事の理みたいなものを分かってるんです。そうでないと官僚を育てる学校として設定された最高学府の東京大学というところには受からないように出来てるんです、構造的に。ひたすら子供の頃か勉強をし続けてもののなんたるかを知った人たちが集まる大学なんです。東大の赤門をくぐり抜けてから彼らは少しアカいカルマなものを身につけてそして社会へ出る、国を取り仕切る官僚になるというルート上にいるんです。
 理科系はちょっと別だと思いますけど、全国各地に名古屋大学とか北海道大学とか旧帝一期校と呼ばれる国立の大学がありますけど、これが上見上げて妬む中級役人的で若干タチの悪いのが居る気があります。レベル的にはローカルに最高峰であっても官僚を育てる学校ではないからです。各地方自治体のお役人を押し出さなければいけない学校だからです。偏差値教育の弊害はこういったことについて子供の目を盲目にしてしまうということもあります。このあいだ書店で市販されている大学案内の本を立ち読みしたら偏差値なんてお決まりの数値がちょろっと載っているだけで大学の特色や校風が載っているものがほとんどであって、「ああ、ちょっと変わったな、」と思いましたけど。

 以下ヘーゲルの「歴史哲学」より。

「 この民族にあっては、以上のような純粋な思想に対する関係を表すものとして厳格な宗教的儀式が重んぜられる。具体的な個人主観はまだ自由をもたない。というのは、絶対者そのものまだ具体的精神として把握されておらず、精神はまだ非精神的に措定されたものと見られているからである。なるほど、清い心だの、懺悔だの、信心などといった内面性は云われているが、しかし個々の具体的主観が絶対者の中で自分を対象化し、自分を問題にするというところまで行っていない。そのために主観は従らに儀式と戒律に縛られ、それを杓子定規に守ることになる。この場合この戒律の根底となっているものは、まさに抽象的な自由という意味での純粋自由にほかならない。ユダヤ人は自分が自分であることの根底を、自分の存在の本質を、ただ一者の中にのみおくものであり、その点で個人主観はそれ自身では何らの自由を持たない。スピノザはモーゼの律法を、神がユダヤ人に罰と戒めの鞭とを与えるために送ったものと見ている。つまり、主観、個人はまだ全然その独立性の意識に到達していない。またそのために、ユダヤ人においては霊魂不滅の信仰は見られない。それは主観がまだ即且向自的に・絶対的に・自立的に存在するものとはなっていないからである。ところが、主観はこのようにユダヤ教においては無価値でるのに反して、家族は独立的なものである。というのは、YHWHの信仰は家族に結びついたものであって、家族は実体的なものだからである。だが、それかといって、また国家もユダヤの原理に一致しないものであり、モーゼの立法の趣旨に背くものである。ユダヤ人の観念からすれば、YHWHは彼らユダヤ人をエジプトから連れ出して、彼らにカナーンの地を与えてくれたところのアブラハム、イサク、ヤコブの神である。これらの家長に関するいろいろの物語は中々おもしろい。この歴史の中に族長的な遊牧状態から農業生活への推移が見られるのである。一体にユダヤの歴史は極めて異色のあるものである。ただしかし、それが他の民族精神の排斥を神聖視している点(カナーンの住民の殲滅さえも神の命令だとしている)、一般に教養の欠如している点、並びに自国民だけが高い価値を持つという選民観念に囚われている迷信の点で、その歴史は不純なものにせられ、すっきりしないものとなっている。また奇蹟もこの歴史を歴史と見ることをさまたげる。というのは、具体的な意識が自由なものとならないかぎり、具体的なものの見方も自由に、囚われのないものとなることはできないからである。それで、自然は神性を剥奪されはしたが、しかし自然の理解ということはまだそこにはないのである。」

ヘーゲルはここでユダヤ人は「つまり、主観、個人はまだ全然その独立性の意識に到達していない。(またそのために、ユダヤ人においては霊魂不滅の信仰は見られない。)それは主観がまだ即且向自的に・絶対的に・自立的に存在するものとはなっていないからである。」と言ってますけど、到達していないのではなくて到達し得ないんです、連中は。印欧語から日本語を訳出するという直接対応させる形をとると誤解を招く可能性があるんであまり妥当ではないんですけど、「主」はmasterで「客」はslaveです。「主」は右で「客」は左です。だからJudenにおいて「個人主観が自由を持たない」のは当たり前なんであって、Judenにとっては(個人)主観は道具なんです。だからご都合主義的に「ユダヤ人の観念からすれば、YHWHは彼らユダヤ人をエジプトから連れ出して、彼らにカナーンの地を与えてくれたところのアブラハム、イサク、ヤコブの神」なのであって、普遍的な神(概念)としてのda(Dasein)ではないということです。



 日本では今でも田んぼでお米を作っている人たちが居るんでちょっと言いづらいんですけど、米なんて汚い食べ物です。八方美人な。米と魚と醤油なんて毎日汗を流してかつそれを処理するだけの身体能力(機能)のある肉体労働者のおっちゃんたちの食べ物です。あれを食ってあの人たちはやっと夜に女と交わったり寝たりすることができるんです。このあいだ私はスーパーでノルウェー産塩サバを買って何ヶ月かぶりに魚を食べたんですけど、「ああ、キっついな」と感じました。肉も魚も良い食べ物であるはずがないんですね。肥満のもととしては糖分よりもたぶん塩分の方が影響が強いです。たしかカリウムを摂取すると血中のナトリウム分の排泄が促される(?)んだったと思いますけど、私はナトリウムがわずかでカリウムがある程度多く含まれている栄養機能食品のKIRINのトロピカーナのオレンジジュースを毎日のように飲むんですけど、これを飲むと黄色い色をした臭いの強いきちんとした尿が排泄されます。また一日くらい絶食してきちんと沸かした水道の水を飲むと、これもまた同じく黄色く臭いきちんとした尿が排泄されます。この黄色い尿が出るとその程度や頻度に従って運動をしなくても肉体が痩せていくんです、不思議と。もちろん運動をした後の尿も黄色くなりはします。悪いものが体から出るんです。塩を抜くと体がきれいになります。
Erie
 イーリー運河、愛を運ぶもの。
 繁栄させるもの、発展させるもの、愛の力。




 ちょっとこの記事はつれづれなるままに書きますね。

 先述の6歳の小学一年生の時に女の子と初めてのキスをしたというのも、ポニーテールで細身のキュッと締まった体のかわいい女の子でしたけど、誰もいなくなった教室でこっそり隠れてとかではなくて、体育館に集会かなにかで集められて教師が壇上でガタガタ説法をしている時にそれをシカトしながら列の一番後ろでその子とイチャイチャしながら時には寝っころがったりしてチューチューしてたというありさまのものだったんで、あんまり自分では認めたくはないですけどそういったまあいわゆるワルのベクトルはもう幼児の頃からあったんでしょうね。この子とは四年間同じクラスでしたけど、その後何度かちょっかい出してイジめてやるぅ的なノリでもツっつかれました。私は父親がクズというかまあ少なくとも子供の目からしても悪い人間にしか見えない人間だったんで、「こんな悪い人間と一緒なっちゃダメだ」という自覚のもと真面目で人を傷つけないキャラを学校では押し通してました。同級生にはやっぱりワル予備軍みたいな暴力的な子達がいましたけど、「ああ、オレはこいつらとは違うな」という明確な自意識も持ってました。だから抑圧されたリビドーが歪んだ形で出て、私は週間少年ジャンプとかは絶対に読みませんでしたけど、一見して健全風味だが悪質なものであるところではドラえもんとか、単行本で殺人や人食いシーンのあるドラゴンボールとか幽々白書とかを読み始めたあたりからキモくおかしくなるバイアスが掛かりはじめてたんでしょうね。この歪みが露骨に出始めたのが小学校五年の時に親にスーパーファミコンを買い与えられたあたりからです。その四年生までクラスで好きだったり仲が良かった女の子が引っ越してしまったり別のクラスになってしまったりして、本来は女性に向けるべく愛欲を、性はいけないものだという認識のもと、それを依存させる代替的な対象を求めてファミコンのくだらないゲームにそれが低レベルなものであることを知りつつもなぐさめに求めていたんです。まあその前からファミコンでマリオとかドラクエとかにクソくだらないなりにも依存はしてはいましたけどね。あのへんから猛烈に意識的にも「左」へ引っぱられはじめたんです。この10歳で突如近視になってメガネを掛けはじめたところから自覚的に身体感覚もおかしくなりはじめました。肩や背中が凝りだして痛みを発し始めて椅子に座ってじっとしているのでさえも非常な苦痛になり始めたんです。そこで当時名古屋に住んでいましたけど東京から来た「私東京の田園調布から来たの~」「母親は東大で父親は京大なの~」という目立ちたがり他者に対する嗜虐心の強いウザい女子児童にイジめの対象として目を付けられて攻撃されました。私はイジめっ子でもなかったですしイジめられっ子でもなかったですけど、この時だけは本当に辛辣に酷くイジめられました。ストレスで一時的に髪がボロボロ抜けたくらいです。子供時代の私は前にも書きましたけどwikipediaやgoogleの画像検索で見られるHeinrich Himmlerの幼年時代の写真にかなりそっくりなどちらかというとキレイな顔をしてましたけど、この女子児童には「汚い」とまで言われました。このあたりからマスメディアにのせられて自分をオタク属性であるとの間違った思い込みが始まってました。ちなみに今31歳の私は、高校や大学の時の精神病んで不恰好になってぶっ壊れた顔ではなくて、この子供の時の私がそのまま大人になったような顔してます。もちろん老けてオッサンにはなりかかってますし少し肥満してますけど、ブサイクではないです。やっぱり悪いものを出すとなにもかもが良くなるんですね。
 そもそも私に好意を寄せてくれているかわいい女の子は何人か居ました。たぶんモテてたということなんでしょうね。が、もうドギマギして恥ずかしくてひたすら腑に落としてました。中には絵が好きな子でエッチまんがをノートに書いて私にプレゼントしてくれる女の子まで居ました。この子(女の人)は、6歳でチューした女の子とは違いますけど、今身長170cmくらいある顔もきれいな美女です。それでも私はその時その子が自分のことを好きだと気付かなかったんです。鈍感というよりはやっぱり私は腑に落としてしまって無意識下に封じ込めてしまう、やっぱり精神病んでいる病的な傾向があったんです。

 で、その病的な流れで高校あたりからいかにレベルが低いとはいえ、属性的に似たようなモノであるということでビジュアル系ロックバンドの曲とかをこれまたなぐさめに聴いてたんですね。こんなものがイタくて間違えたどころか低レベルでなものであることは分かってたんですけど、これしか無かったんです。これにまた本来的は女性に求めるはずのものである愛欲を求めてしまってたんですね。あの人たちだってそりゃもっとレベルの高いことできるんでしょうけど、日本の公のレコード会社から公式の出版物として出してる限りではあのレベルのもので抑えておかなければ上が許可しないとかいう理由があったんでしょうね。やっぱりJポップやロックなんて音楽は昔だといわゆる不良だとか頭の悪い子たちが聴く音楽だったからです。そりゃロックミュージシャンは酒とセックスとドラッグだとかいうくらいですから、やっぱり私の大嫌いな騒音垂れ流す暴走バイク・珍走族属性なんですね。
 私は8歳くらいのころからクラシック音楽をよく聴いてました。オルガンの曲が好きで、特にバッハのものとか頻繁に聴いてました。だからやっぱりその属性でレベルを落として且つ歌詞でなぐさめを与えてくれるマイナーコードなJポップスだとか演歌みたいなものに依存的にハマる傾向はあったんです。だからどちらかというと本物ロックンロール風味な清春さんの黒夢とかSADSとかの曲はあまり聴きませんでしたし、海外のロックのnirvanaとかもあまり興味はありませんでした。Marilyn Mansonはちょっと聴きましたけど。deadmanの曲とかビジュアル系にしては珍しく本物ロックな感じであれはあれで好きだったりします。L'Arc~en~Cielはベース弾いてるユダヤの豚のオッサンがいかにもアレでなんかうっといなと思ってましたけど、私は歌ってる小人の人が好きだったんでこれはよく聴きました。インディーズのDUNEというアルバムには思い切りダビデの星がプリントされていて、たしか「PSYCHOSONICSHAKE L'Arc~en~Ciel」とか書いてあったんですね。私はこんなものどうせ低レベルな奴らがやってるんだろということでユダヤだろうがどうでもいいやということで、まあそれなりよく聴いてましたけど、これは失敗でした。レベルの上下や高低にかかわらず方向性的というか属性的にそういったものを情報として取り入れるとその方向のベクトルが発生してしまうということなんですね。やっぱりラルクはアレはユダヤの豚ロックバンドです。花葬とか結構好きでした……が、あんなもの今鑑みると歌詞も曲もあまりにレベルが低くて、YouTubeで視聴できますけどたぶん今の若い人たちには中二病とか言われるでしょうね。聞いたり見たりしたりしてはいけないものは聞いたり見たりしたりしてはいけないんです。Dir en greyだってそうです、ありゃ田舎の珍走族がギャーギャーやってるだけです。Laputaとか、ROUAGEとかレベル低いのも聴きました。LUNA SEAとかもなんで河村隆一さんみたいな歌唱力の高い歌の上手い人があんな低レベルな曲の構成と演奏のバンドで歌ってるのかと疑問でしょうがありませんでした。X JAPANとかには興味は無いです、ありゃただのSEX JAPANですね。そこで知ったのがJanne Da Arcだったんですけど、あの林保徳さんという人の書いた歌詞はそれなりに文学的で中二でもなんでもない上にロックだとかJポップだとかにしては演奏も出来も良いんですね。Janne Da Arcの曲は私はいまだに好きでCD持ってるんで時々聴きます。あのavexというレコード会社はおヤクザさんの会社ですね。だからコンピュータ使ってでもなんでもちゃんとしっかりと作ってるんでしょうね。Acid Black Cherryはあまりシュミではないです。もしあれが好きだという人が居たら、Janne Da ArcはCD買うなりデータファイルダウンロード販売で買うなりして、Dir en greyもそうですけどAcid Black CherryはYouTubeで鑑賞するだけにしときゃいいんです、歌詞や曲の内容的に、業務的に。まあ音楽は私は今はジャンヌの曲をたまに聴くのとクラシック音楽以外はもう聴きません。BGM的にかかるジャズとかボサノヴァの類の音楽はそもそも好きではないので。……音楽はもちろんキリスト教の産物ですけど、あまり聴きすぎると精神的にタマります。たしかシェイクスピアの作品のどれかに登場する人物のセリフで「音楽は恋の滋養になるというが、」というのがありました。

 昔の記事で書いたんですけど、女のイジめ的に女性に対してセクハラを行うのではなくて一発カマして修正したろかということで女を強姦する男というのは、まあそれがどんな悪徳な女であっても行為の結果は逆効果で終わるのでもちろんナンセンスなんですけど、悪徳であるヒトに対してそのヒトがメスである場合はメスの弱みをつく、ということであって、私みたいに女をアメーバ集団として見てそれが仮に薄いものであれ肉欲しか感じない人間とは違って彼らは女をちゃんとヒトとして見ているということなのかもしれません。そうでなければ男のケツを掘るなんて発想は出てきません。……しかしやはり最後に残るのは女と男、メスかオスかということであって、女性が女性で群生体性をかもし出しているというのはこれで妥当性があります。文学のアプローチで歴史(的真実)をひもといてみれば分かるんですけど、私は抗精神病薬の服薬でこれを体感的に知ったんですけど、いつもヒトのメスばかりが苦労をさせられたり辛酸を舐めさせられたりしてきて、何千年もの間犠牲になってきたのは女性なんですね。……実はだから私みたいな人間は私みたいな人間でセクハラ的に女の人をツンツン刺激してしまうあまりよろしくない性向が強いということです、私SS個人には性欲が薄いからもしくは後天的な教育によって行為には及ばないというだけのことであって。強姦とかは絶対にやりませんけど。このブログの記事でここ何ヶ月か書いている愛というのがどういったものか知ったのもやっと31歳になってからのことです。私は「右→左→右」の身体感覚を持つ人間ですけど、肉体に歪みが出てその肉体も精神も病むまで「左」へ引っ張られてそこで定常されていたということです、31歳になってからやっと22年ぶりに「右」へ戻る感覚を取り戻しました。……愛してる女の子のことを思い出したんです。私は女の人にというよりは女性性そのものに惚れっぽいんです、イジめてくる女の子にすらそれを許容するという形で依存してしまうんです。だからいたずらにもてあそんでしまいそうで女の人に近寄り難いのかも。好きなんですけど。
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