[PR]
2025.04.17 Thursday
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
Shi San no Te
2012.01.06 Friday
手。
デスペナルティー、デスハンド。
いわゆる青年ヘーゲル学派(ヘーゲル左派)が愚かしいのは、自らも人間であるにもかかわらず人間の限界を自覚せずに表象なるものに鉄槌をくらわそうと、また自らも表象的なる「思想」を喧伝していたところにあるんですね。ヘーゲルを批判しながらもやっていることはヘーゲル先生と同じだったということです。
これは当然に現代でも同じことですけど、リベンジという発想がそもそもリベンジなものだということです。リベンジされる側もリベンジする側もどちらも馬鹿でミクロ経済的なリベンジゴッコを行っているだけです。こういった単純なことが不良人間には分からない、もしくは何らかのこだわりによって理解しようとしないということです。つまり思想的にヘーゲル先生的なものに反発しようというのなら、ナメ腐った奴を片っ端から並べて直立させて運動神経のいい人間がその左頬を拳で殴っていけばいいということです。が、そんなものは単なる暴力でしかありません。
「―前略―それまで絶対精神を食い物にして生きてきたさまざまな哲学的産業家たちが、今やこの新しい化合物にとびついた。誰もが自分の手に入った部分の切り売りに、精一杯商売熱心に、また当然必死になって、いそしんだ。このことは、競争なしに済むはずがなかった。競争は、初めはかなり市民的に堅実に行われていたが、やがてドイツの市場のが供給過剰となり、どんなに努力しても世界市場で商品が何の反響も呼ばなくなると、商売はいつものドイツ流儀に則って、粗製乱造と仮想生産、品質の低下、原料のごまかし、空取引、空手形の使用、そして実際の基礎をまったくもたない信用制度によって、不堅実にされた。競争は戦争に至った。この戦争が、今や世界史的な激変として、赫々たる成果と功績を生み出したものとして、われわれの前に、潤色され描き出されているのである。」
これはマルクス・エンゲルス著の"DIE DEUTSCHE IDEOLOGIE"(「ドイツ・イデオロギー」)という著作からの引用です。こういった哲学者や思想家によく見られるんですけど、どの人間も物の見方が非常に一面的なんですね。戦争に至る原因となったのは競争原理だけではないです。また競争原理だけでは戦争には至りません。それは技術革新や資本蓄積の元ともなります。
ちなみにこれはマルクスかエンゲルスがヘーゲル左派とはこういうものですよという悪い見本としてそれを説明したものです。以下続き。
「こういう哲学的大言壮語――これを布告することが、お上品なドイツ市民の胸にさえ慈悲深い国民感情を奮い起こさせるのだが――を、また、こうした青年ヘーゲル派運動総体の狭量さ、および地方的偏狭さと貧弱な実を明瞭に認識するためには、それらをいったんドイツの外なる見地から眺めてみることが必要である。」
しかしこれもまたマルクスとエンゲルスの事象に対する一面性を表しているものに過ぎないです。ヘーゲルの様に歴史の生成過程を鑑みてみればいいんですね。
「―前略―感性的世界の直観の場合、必然的に彼(人間)は、彼の意識や感情と矛盾する事物にぶつかる。これらの事物は、彼にとって前提をなす感性的世界のあらゆる部分の、とりわけ人間と自然との調和をかき乱す。こういうしろものを片付けるために、彼は、今度は二重の直観に逃げ場を求めざるをえない。―後略―」
「フランス人やイギリス人もまた、この事実といわゆる歴史との連関をせいぜい一面的にしか――とりわけ、彼らが政治的イデオロギーにとらわれていた限りでは――捉えなかったとはいえ、しかし、彼らはともかく歴史記述に唯物論的な土台を与えようとする最初の試みを行った。というのは、彼らが市民社会の歴史、商業と工業の歴史を始めて書いたからである。」
ということです。ヘーゲル先生も同じような内容を言っているように、そこへ到達した(かの様にみえる)ならば、嘘と真実のひたすらな邂逅とその矛盾に苦しむという運命が待っているだけであり、それが人間の限界であり人間の人間たる所以だということです。
「そもそもの初めからすでに、欲求および生産の様式によって条件づけられ、人間たちそのものと同時に成立している、人間相互間の唯物論的な連関が見られる。」
この「唯物論的な連関」を人間社会におけるコミュニケーションツールとしての母国語や産業における具体的な生産力とやらに求めている時点でマルクス・エンゲルスは間違えてます。これを記述するには数学しかありません。数学が役に立たないとか言ってる人間がたまに居ますけど、というのであれば彼らはPCやネットを使うにあたって自分の行っていることについてどう考えてるんですかね。
「―前略―すなわち、かの大評判の『人間と自然との統一』なるものは、産業の場面で昔から厳存しており、産業の発展の肯定に応じて時代ごとに別様な在り方で厳存してきたということ、同じくまた人間と自然との『闘争』も、人間の生産力が相応の土台の上で発展を遂げるまでは現存し続けるということ、これの洞見である。―後略―」
これには非常にマルクス・エンゲルスのマスコミ性が表れてます。というのは、これは陳腐にも日本のマスコミ的に「自称の社会派」な言説だということです。これが正しいとすると人間の人間性が産業の場面とやらでは完全に排されているということになるんで、ロボットのように働けどころかロボットのようになれ・ロボット万歳と言っているんですね、この御仁たちは。人間の人間性を排しているのはマクロではなくてマルクス・エンゲルスのようなミクロ経済的な価値意識を持つ連中です(というかマクロというのは人間にはそれを数学的に認識することは不可能です)。ドイツというのはその言語からしてこの傾向の強い社会ですけど、この流れの頂点を極めたのがヒットラーです。だからマルクス・エンゲルスは多少ヒットラー的なことも言っているということです。で、実はヒットラーはそれなりにまともなことは言ってます、「わが闘争」を読む限りでは、ユダヤ人排斥の部分を除いて。最悪なのはナチスなのであってヒットラーではないです。もちろん日本の社会にも言えることですけど、ここのところを見誤るとまたバカなことになります。
戦時中の「ぜいたくは敵だ」という標語は、日本語の曖昧なニュアンスで「ぜいたくをするのは止めよう」とか「ぜいたくをするのを止めてお国のために尽くそう」といった意味合いではなくて、ドイツ語的に"ぜいたく ist 敵."というのが理に適っているのであって、つまりはぜいたくをすると病気(病人)になるということです。ドイツ語だとkrankは形容詞で「病気の~」という意味であり、die/der Krankeは名詞で「病人」という意味です。「病気」という名詞はdie Krankheitであって、人を指してdie/der Krankheitと呼ぶことはありません。これは日本語でも同じです。人間は病気にかかって病人になることがあっても病気そのものになることはないということです。
たいていの医者に「こういった症状がある」ではなく「何々(の検査)をしてくれ」と言うと嫌がられたり渋い顔をされたりします。つまりまともな医者というのはそのあたりのことをよく分かっていて、病気というものは如何なるものであるか、そしてそれを治すにはどうすればよいかを知っているということです。しかし中には来院者を食い物にしようとする藪医者も居ます。
「馬鹿は風邪を引かない」という言説がありますけど、これはこの言葉通りの内容ではなくて、「馬鹿は風邪をひいても自分が風邪をひいていることを自覚できない」というのが正しいです。
古風な言い方をするなら、人間はその魂が浄化されるまで煉獄を歩きまわってシバいてもらうべきであるということです。魂というのはおそらく「人間存在の中心にあるもの、そこから肉体に様々な現象として表れる(現れる)もの」と昔は考えられてました。ヤコブ・ベーメというシャーマンみたいな人が「肉体にはそれを動かす内部の力の刻印があらわれる」と言い残してます。それは例えば「食物○○(名詞)を食す」等のつまるところ名詞的というか文学的な物の考え方に基づくものであって、魂という架空の「|∞|/0の因果関係」なものでも何でもなくて肉体的な健康の問題であり、それは必然的に精神の健康にもつながるというわけです。
女性はこのシバきがストレスになります。女は肉体的にそういう方向へ傾くように出来てます。女性に暴力をふるってはいけないというのはこういうことです。男性はよほど女性的な人や病気の人でない限りはこのシバきがいい方向へ働きます。しかしかといってそんな暴力が良いわけもなく、簡単なトレーニングでもいい効果があらわれますし最悪の場合でも現代では抗精神病薬を使用するという方法があります。
中島義道さんも本で自分の母親のことを書いてますけど、自分の子供を「猫かわいがり」する女は子供をダメにします。子供がある程度成長すると放置するどころか虐待を始めます。こういった女は全て宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯と同じです。自分たちが変態であるという自覚がありません。要するに、生活環境を始めとした社会環境によって自分が腐ったのだということを認めると、自分があまりに憐れになりその憐れさに耐えられないから、こういった人間は遺伝的要因に全ての拠を求めるというわけです。つまり「先天的要因によって全ては決まっているから自分が何をしても影響は無い」という甘えのもと自分より弱い対象を虐待します。よってこういった不良人間が親になると、自分の子供や近しい人間を自分がその様態を見て満足が行くまで貶めてそれだけでは飽き足らず眺めて楽しむということを行うわけです。最悪です。
人間ストレスが溜まるとまず真っ先にそれが表れるのは記憶力の悪さです。もの覚えが悪くなります。こういったものは能力でも性格とかいった根拠の無いものでも何でもなくて、人間の脳のmemoryの問題です。特に対人関係でストレスが溜まると、そのストレスを引き起こした具体的記憶にまつわってそれが忘れられなくなるどころかその記憶からさらにストレスが引き起こされて妄念だらけになっていきます。これが極端に高じたのが統合失調症(精神分裂病)です。
いくつか前のAconitum napellusという記事で経験した状況を具体的に記述しない方が良いとか書いたんですけど、対人の場で悪口として言うのが良くないのであって、書くのは良さげです。今は昔と違ってPCのワープロ機能があるんで、ワープロソフトでもNOTEPAD.EXEでも使ってどんどん他人について不快な感想でも具体的行動の記録でも何でも記述していくというのはストレスの解消には効率的な良い方法です。精神医療の場でこれが行われることの何が問題であるかというと、それを記述するのは精神科医やそれに準ずるケースワーカーのような人間であって患者本人ではないということなんですね。つまり患者はこれを自称治療者によって行われることで被害妄想がより掻き立てられて病状が悪化します。もちろんそんなことは当然自覚した上で一部の悪辣な精神科医を始めとした治療者たちはこういったことを患者に対して行います。これの解決策は、患者本人が他人についてのそういった記述を行うことであり、他人が患者本人についてのそういった記述を行うことではありません。だから自分についての記述を示して性格判断だとか何だとかの名の下にそれをふるいにかけて自分の行動に在りもしないテーゼを与えるというのはこれと同じく最悪な行為です。なぜ最悪かというと、被害妄想のタネになるという側面においても、また存在しないテーゼの新興宗教的な「定説性」に拍車をかけるという側面においてもです。要するに精神科医の一部には自分は金と自己満足を得ながら被治療者を悪化させるという詐欺商売や悪徳商法どころか悪業としか言い様のないことを行っている豚が居るということです。
誤解の無い様に言っておきますけど、精神科医の先生の中にはまともな人間もちゃんと居るので、自分に異常があると思ったら精神科を受診した方が良いです。
本来的には財の性質的にその市場が独占・寡占の産業とはなり得ないものでも利潤を無視して故意に価格設定者を行うことで、社会的に死荷重が生み出されます。例えば近年観察されるもので例を挙げると、家具や衣類等で素材の質によってではなく「形状を」不良なものにすることで身体的な物理的な側面からも死荷重を生み出しうるということです。前の記事で説明した粗悪な音楽CDの録音のされ方にしてもそうです。つまり「粗悪な」財と「優良な」財に故意に分けることで、社会に死荷重を与えることができてしまうということです。数年前にマスコミが騒いでいた二極化というのはこれのことでありまた同時にこれの結果です。しかし総的な利潤を無視したら企業を運営することはできないので、つまり商品の売り上げに関する短期的な利潤は無視してその製品供給者はその代わりに何らかの共益を得る(得られる)ことになっているということです。つまり価格が調整された結果そうなったということではなくて、社会に対する不満を抱えた低所得者階層を意図的に作る為にそういったことを一部の反社会的な連中が行っていたということです。価格が一般的な日本製のそれに比べて数分の一~数十分の一の東南アジア製や中国製の家具なんて値段云々ではなくて物理的に使い勝手が悪過ぎて誰も買いません。本来的に現在の価格よりも低い価格で販売されていた多くの財は、アジア製の低価格な財の出現により「一見して自然な価格調整メカニズムのもとそういった価格が設定されたかの様な」価格に設定されました。
つまりはまあ不幸な他人を見て蜜の味を覚える、蜜の味を覚えるために不幸な他人をわざわざ故意に作り出す、貴族というよりは貴族志向の愚民みたいな女性性と子供性を極めたクズが居るということです。現代日本のマスコミというのはこういったクズ共の集合体です。
新聞は全ての面を社会面にすればいいんですね。三十面くらいあるのをすべて何々の事件がありましたという報道で埋め尽くせばいいんです。そうすればバカ売れです。あの社説なんかは内容が頭悪過ぎて書いてる人間がかわいそうになってきます。あんなもんいらないどころか無い方がいいです。
ミクロ経済的価値意識は、文学的表現で言うところの「自分の影を見て踊る(追いかける)囚人」のそれに似ています。
デスペナルティー、デスハンド。
いわゆる青年ヘーゲル学派(ヘーゲル左派)が愚かしいのは、自らも人間であるにもかかわらず人間の限界を自覚せずに表象なるものに鉄槌をくらわそうと、また自らも表象的なる「思想」を喧伝していたところにあるんですね。ヘーゲルを批判しながらもやっていることはヘーゲル先生と同じだったということです。
これは当然に現代でも同じことですけど、リベンジという発想がそもそもリベンジなものだということです。リベンジされる側もリベンジする側もどちらも馬鹿でミクロ経済的なリベンジゴッコを行っているだけです。こういった単純なことが不良人間には分からない、もしくは何らかのこだわりによって理解しようとしないということです。つまり思想的にヘーゲル先生的なものに反発しようというのなら、ナメ腐った奴を片っ端から並べて直立させて運動神経のいい人間がその左頬を拳で殴っていけばいいということです。が、そんなものは単なる暴力でしかありません。
「―前略―それまで絶対精神を食い物にして生きてきたさまざまな哲学的産業家たちが、今やこの新しい化合物にとびついた。誰もが自分の手に入った部分の切り売りに、精一杯商売熱心に、また当然必死になって、いそしんだ。このことは、競争なしに済むはずがなかった。競争は、初めはかなり市民的に堅実に行われていたが、やがてドイツの市場のが供給過剰となり、どんなに努力しても世界市場で商品が何の反響も呼ばなくなると、商売はいつものドイツ流儀に則って、粗製乱造と仮想生産、品質の低下、原料のごまかし、空取引、空手形の使用、そして実際の基礎をまったくもたない信用制度によって、不堅実にされた。競争は戦争に至った。この戦争が、今や世界史的な激変として、赫々たる成果と功績を生み出したものとして、われわれの前に、潤色され描き出されているのである。」
これはマルクス・エンゲルス著の"DIE DEUTSCHE IDEOLOGIE"(「ドイツ・イデオロギー」)という著作からの引用です。こういった哲学者や思想家によく見られるんですけど、どの人間も物の見方が非常に一面的なんですね。戦争に至る原因となったのは競争原理だけではないです。また競争原理だけでは戦争には至りません。それは技術革新や資本蓄積の元ともなります。
ちなみにこれはマルクスかエンゲルスがヘーゲル左派とはこういうものですよという悪い見本としてそれを説明したものです。以下続き。
「こういう哲学的大言壮語――これを布告することが、お上品なドイツ市民の胸にさえ慈悲深い国民感情を奮い起こさせるのだが――を、また、こうした青年ヘーゲル派運動総体の狭量さ、および地方的偏狭さと貧弱な実を明瞭に認識するためには、それらをいったんドイツの外なる見地から眺めてみることが必要である。」
しかしこれもまたマルクスとエンゲルスの事象に対する一面性を表しているものに過ぎないです。ヘーゲルの様に歴史の生成過程を鑑みてみればいいんですね。
「―前略―感性的世界の直観の場合、必然的に彼(人間)は、彼の意識や感情と矛盾する事物にぶつかる。これらの事物は、彼にとって前提をなす感性的世界のあらゆる部分の、とりわけ人間と自然との調和をかき乱す。こういうしろものを片付けるために、彼は、今度は二重の直観に逃げ場を求めざるをえない。―後略―」
「フランス人やイギリス人もまた、この事実といわゆる歴史との連関をせいぜい一面的にしか――とりわけ、彼らが政治的イデオロギーにとらわれていた限りでは――捉えなかったとはいえ、しかし、彼らはともかく歴史記述に唯物論的な土台を与えようとする最初の試みを行った。というのは、彼らが市民社会の歴史、商業と工業の歴史を始めて書いたからである。」
ということです。ヘーゲル先生も同じような内容を言っているように、そこへ到達した(かの様にみえる)ならば、嘘と真実のひたすらな邂逅とその矛盾に苦しむという運命が待っているだけであり、それが人間の限界であり人間の人間たる所以だということです。
「そもそもの初めからすでに、欲求および生産の様式によって条件づけられ、人間たちそのものと同時に成立している、人間相互間の唯物論的な連関が見られる。」
この「唯物論的な連関」を人間社会におけるコミュニケーションツールとしての母国語や産業における具体的な生産力とやらに求めている時点でマルクス・エンゲルスは間違えてます。これを記述するには数学しかありません。数学が役に立たないとか言ってる人間がたまに居ますけど、というのであれば彼らはPCやネットを使うにあたって自分の行っていることについてどう考えてるんですかね。
「―前略―すなわち、かの大評判の『人間と自然との統一』なるものは、産業の場面で昔から厳存しており、産業の発展の肯定に応じて時代ごとに別様な在り方で厳存してきたということ、同じくまた人間と自然との『闘争』も、人間の生産力が相応の土台の上で発展を遂げるまでは現存し続けるということ、これの洞見である。―後略―」
これには非常にマルクス・エンゲルスのマスコミ性が表れてます。というのは、これは陳腐にも日本のマスコミ的に「自称の社会派」な言説だということです。これが正しいとすると人間の人間性が産業の場面とやらでは完全に排されているということになるんで、ロボットのように働けどころかロボットのようになれ・ロボット万歳と言っているんですね、この御仁たちは。人間の人間性を排しているのはマクロではなくてマルクス・エンゲルスのようなミクロ経済的な価値意識を持つ連中です(というかマクロというのは人間にはそれを数学的に認識することは不可能です)。ドイツというのはその言語からしてこの傾向の強い社会ですけど、この流れの頂点を極めたのがヒットラーです。だからマルクス・エンゲルスは多少ヒットラー的なことも言っているということです。で、実はヒットラーはそれなりにまともなことは言ってます、「わが闘争」を読む限りでは、ユダヤ人排斥の部分を除いて。最悪なのはナチスなのであってヒットラーではないです。もちろん日本の社会にも言えることですけど、ここのところを見誤るとまたバカなことになります。
戦時中の「ぜいたくは敵だ」という標語は、日本語の曖昧なニュアンスで「ぜいたくをするのは止めよう」とか「ぜいたくをするのを止めてお国のために尽くそう」といった意味合いではなくて、ドイツ語的に"ぜいたく ist 敵."というのが理に適っているのであって、つまりはぜいたくをすると病気(病人)になるということです。ドイツ語だとkrankは形容詞で「病気の~」という意味であり、die/der Krankeは名詞で「病人」という意味です。「病気」という名詞はdie Krankheitであって、人を指してdie/der Krankheitと呼ぶことはありません。これは日本語でも同じです。人間は病気にかかって病人になることがあっても病気そのものになることはないということです。
たいていの医者に「こういった症状がある」ではなく「何々(の検査)をしてくれ」と言うと嫌がられたり渋い顔をされたりします。つまりまともな医者というのはそのあたりのことをよく分かっていて、病気というものは如何なるものであるか、そしてそれを治すにはどうすればよいかを知っているということです。しかし中には来院者を食い物にしようとする藪医者も居ます。
「馬鹿は風邪を引かない」という言説がありますけど、これはこの言葉通りの内容ではなくて、「馬鹿は風邪をひいても自分が風邪をひいていることを自覚できない」というのが正しいです。
古風な言い方をするなら、人間はその魂が浄化されるまで煉獄を歩きまわってシバいてもらうべきであるということです。魂というのはおそらく「人間存在の中心にあるもの、そこから肉体に様々な現象として表れる(現れる)もの」と昔は考えられてました。ヤコブ・ベーメというシャーマンみたいな人が「肉体にはそれを動かす内部の力の刻印があらわれる」と言い残してます。それは例えば「食物○○(名詞)を食す」等のつまるところ名詞的というか文学的な物の考え方に基づくものであって、魂という架空の「|∞|/0の因果関係」なものでも何でもなくて肉体的な健康の問題であり、それは必然的に精神の健康にもつながるというわけです。
女性はこのシバきがストレスになります。女は肉体的にそういう方向へ傾くように出来てます。女性に暴力をふるってはいけないというのはこういうことです。男性はよほど女性的な人や病気の人でない限りはこのシバきがいい方向へ働きます。しかしかといってそんな暴力が良いわけもなく、簡単なトレーニングでもいい効果があらわれますし最悪の場合でも現代では抗精神病薬を使用するという方法があります。
中島義道さんも本で自分の母親のことを書いてますけど、自分の子供を「猫かわいがり」する女は子供をダメにします。子供がある程度成長すると放置するどころか虐待を始めます。こういった女は全て宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯と同じです。自分たちが変態であるという自覚がありません。要するに、生活環境を始めとした社会環境によって自分が腐ったのだということを認めると、自分があまりに憐れになりその憐れさに耐えられないから、こういった人間は遺伝的要因に全ての拠を求めるというわけです。つまり「先天的要因によって全ては決まっているから自分が何をしても影響は無い」という甘えのもと自分より弱い対象を虐待します。よってこういった不良人間が親になると、自分の子供や近しい人間を自分がその様態を見て満足が行くまで貶めてそれだけでは飽き足らず眺めて楽しむということを行うわけです。最悪です。
人間ストレスが溜まるとまず真っ先にそれが表れるのは記憶力の悪さです。もの覚えが悪くなります。こういったものは能力でも性格とかいった根拠の無いものでも何でもなくて、人間の脳のmemoryの問題です。特に対人関係でストレスが溜まると、そのストレスを引き起こした具体的記憶にまつわってそれが忘れられなくなるどころかその記憶からさらにストレスが引き起こされて妄念だらけになっていきます。これが極端に高じたのが統合失調症(精神分裂病)です。
いくつか前のAconitum napellusという記事で経験した状況を具体的に記述しない方が良いとか書いたんですけど、対人の場で悪口として言うのが良くないのであって、書くのは良さげです。今は昔と違ってPCのワープロ機能があるんで、ワープロソフトでもNOTEPAD.EXEでも使ってどんどん他人について不快な感想でも具体的行動の記録でも何でも記述していくというのはストレスの解消には効率的な良い方法です。精神医療の場でこれが行われることの何が問題であるかというと、それを記述するのは精神科医やそれに準ずるケースワーカーのような人間であって患者本人ではないということなんですね。つまり患者はこれを自称治療者によって行われることで被害妄想がより掻き立てられて病状が悪化します。もちろんそんなことは当然自覚した上で一部の悪辣な精神科医を始めとした治療者たちはこういったことを患者に対して行います。これの解決策は、患者本人が他人についてのそういった記述を行うことであり、他人が患者本人についてのそういった記述を行うことではありません。だから自分についての記述を示して性格判断だとか何だとかの名の下にそれをふるいにかけて自分の行動に在りもしないテーゼを与えるというのはこれと同じく最悪な行為です。なぜ最悪かというと、被害妄想のタネになるという側面においても、また存在しないテーゼの新興宗教的な「定説性」に拍車をかけるという側面においてもです。要するに精神科医の一部には自分は金と自己満足を得ながら被治療者を悪化させるという詐欺商売や悪徳商法どころか悪業としか言い様のないことを行っている豚が居るということです。
誤解の無い様に言っておきますけど、精神科医の先生の中にはまともな人間もちゃんと居るので、自分に異常があると思ったら精神科を受診した方が良いです。
本来的には財の性質的にその市場が独占・寡占の産業とはなり得ないものでも利潤を無視して故意に価格設定者を行うことで、社会的に死荷重が生み出されます。例えば近年観察されるもので例を挙げると、家具や衣類等で素材の質によってではなく「形状を」不良なものにすることで身体的な物理的な側面からも死荷重を生み出しうるということです。前の記事で説明した粗悪な音楽CDの録音のされ方にしてもそうです。つまり「粗悪な」財と「優良な」財に故意に分けることで、社会に死荷重を与えることができてしまうということです。数年前にマスコミが騒いでいた二極化というのはこれのことでありまた同時にこれの結果です。しかし総的な利潤を無視したら企業を運営することはできないので、つまり商品の売り上げに関する短期的な利潤は無視してその製品供給者はその代わりに何らかの共益を得る(得られる)ことになっているということです。つまり価格が調整された結果そうなったということではなくて、社会に対する不満を抱えた低所得者階層を意図的に作る為にそういったことを一部の反社会的な連中が行っていたということです。価格が一般的な日本製のそれに比べて数分の一~数十分の一の東南アジア製や中国製の家具なんて値段云々ではなくて物理的に使い勝手が悪過ぎて誰も買いません。本来的に現在の価格よりも低い価格で販売されていた多くの財は、アジア製の低価格な財の出現により「一見して自然な価格調整メカニズムのもとそういった価格が設定されたかの様な」価格に設定されました。
つまりはまあ不幸な他人を見て蜜の味を覚える、蜜の味を覚えるために不幸な他人をわざわざ故意に作り出す、貴族というよりは貴族志向の愚民みたいな女性性と子供性を極めたクズが居るということです。現代日本のマスコミというのはこういったクズ共の集合体です。
新聞は全ての面を社会面にすればいいんですね。三十面くらいあるのをすべて何々の事件がありましたという報道で埋め尽くせばいいんです。そうすればバカ売れです。あの社説なんかは内容が頭悪過ぎて書いてる人間がかわいそうになってきます。あんなもんいらないどころか無い方がいいです。
ミクロ経済的価値意識は、文学的表現で言うところの「自分の影を見て踊る(追いかける)囚人」のそれに似ています。
PR