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quitar de si
 己を風化させる。




 去年の大震災の時のたしか読売新聞だったと思いますけど、「全て消えた……」とかの見出しで瓦礫の山の写真が乗ってましたけど、被災者を救うどころか、マスコミはドキュメンタリー調のドラマ捏造のネタとして使ってるだけなんですね。これは日本のマスコミについてだけの話ではなくて被災者にいらなくなった衣服を送ろうとかなんとかいった自慰的な試みでもそうであって、あんなもの実態としてどうしようも扱い様が無くてそこらの空いた運動競技上か何かに山積みにされているというのがオチなんですね。私が見た写真では天井の無い場所に集められて置いてあるものでしたけど、雨や雪が降ったらどうするんですかね?被災地の人たちは処分にもの凄くいらない苦労をさせられる(た?)と思うんですけど。そのボランティアな活動に携わる人間は一時の自慰心にかられて具体的に何がどうなるかを考えていません。受け取る側のニーズをまったく無視しているだけではなくて、不要である場合の処理の方策云々については全く考えていないということです。これはあらゆる場面で非常に大多数の日本人に見られることです。



 私はいわゆるケースワーカーとやらに三、四回遭遇して全て嫌な目に合ってるんですけど、基本的に医師免許を持っている医師でもないのに患者の個人情報について突っ込んだことを訊ね過ぎるどころか、何を勘違いして図に乗ってるんだか分かりませんけど、明らかに精神疾患と関係の無いプライベートなことまで聞いてくるんですね。

 真面目というのは、いわゆる偉い人や学校の先生の言うことを鵜呑みにして言うことを聞く無知蒙昧な人間のことではありません。何がどうなっているかきちんと把握してその上で禍を巻き起こさないことができる優等生のことを言うのであって、若干語弊がありますけどつまりは数学的に物事に対処できる人間が真面目であって同時に賢いということです。だから残念なことに未だ現状では日本人というのはは全くもって真面目からはかけ離れたところにいます。合理性も無い場合が多々あります。
 先の記事でも説明した通り、公立小中学校の教師たちはだいたい5人に4人は馬鹿です。高等学校の教員だって危ないです。穢多というと現代ではちょっと分かりにくいですし、今は若い先生たちも居ますけど、バカでクズでどうしようもないようなのが平気ででもしかで学校の教師をやっちゃってる場合が多々あるんですね。おそらく田舎の方へ行けば行くほどこういったのが学校だけではなく社会のあらゆる所でのさばってます。で、そういった馬鹿の愚言にかかずりあって、そういったどうしようもない人間が作り出した「優等生なキャラ」「真面目なキャラ」を演じることが真面目であるということではありません。そういったのはそのどうしようもない人間(教師)と同じく馬鹿なだけです。例えば子供の場合だと、夏休みを迎えるにあたって「休み中も(いつも学校へ来ている間と同じく)有意義な時間を!」とかなんとか頭の足りない教師が言ったとします。それで休み中も昼間は部活動で学校へ行き毎日の決まりきった量の宿題を行い朝起きて夜寝る(のが有意義であると考えている)というのであれば、そんなものは有意義でも何でもなくただの頭の足りない唐変木です。夏休みでも何でも長いスパンの時間にはそれだけの時間にしかできないことがあるんですね。だから子供の夏休みの場合だったら、ニュージーランドやオーストラリアでもアメリカやイギリスでもショートステイに行くとか、そういった利用の仕方があるわけであって、それを指して「有意義である」と言うわけです。本当に日本人にはこれが多いんですけど、TPOをわきまえられないわきまえる能力が無いからそういった場面においてもあろうことか機会性を無視することを有意義であるとヌカす勘違いの馬鹿が居るということです。まるでナチスの機会主義ならぬ機械主義性のあらわれのようであって、これはこれで非常に愚かしいです。ちなみにヒットラーはユダヤ人と同じく嫉妬豚属性が非常に強いです。ヒットラーというのはこの能力の無さに打ちひしがれて、最後まで自分のこの無能さを自分で受け入れることができなかった馬鹿で弱い人間です。それをナチの幹部たちに上手く利用されてああいう悲惨なことになってしまったということです。

 日本人に似合わない金髪とかで奇怪な化け物みたいな顔に黒い色を塗ったガングロギャルだかなんだかの「外引きこもり」というのが昔ありましたけど、アレは度を越さなければ感覚としてはそれなりに健全です。というのは彼女らが抱いていたのは、ミクロな経済の逆関数というか、世界オタクみたいなものであって、それが仮に低レベルなものであったとしても社会的なものをハマりこむ対象として(無意識的に)選んでいたからということです。それに加えて実践的に社会を良くしていこうという不良少女が抱きがちではあるがしかしこの場合は健全であるプライドにつながりやすいからです。慰めの美形アイドルを求めるオタク女に比べればはるかに健全です。

 歴史上何故Judenと呼ばれていた人々が金貸し業しか営めなかったのか、またそのように法規づけられていたのか、ということに問題の本質があります。それは性悪説だとか他者にたいする不信感だとか色々な表現の仕方がありますけど、つまりはミクロ経済的価値意識でありマザーコンプレックスです。
 かく言う私も三十年間Judenとして生きてきた人間です。というかJudenであることをあらゆる劣悪な個々のJudenな社会的環境に形付けられてきた人間であるという表現が的確です。
 少なくとも現代日本において「金さえありゃあ」という人間を放っておくわけにはいきません。無知な人間というのは必ずどこかで歪みを出します。それは無知であることや愚かさを志向しているマザーコンプレックスなJudenの本質なんですね。もしそういったJudeな人間で生涯にわたって歪みを出さずに他者に危害を加えることなく生きられた人間がいたならば、その人物は(前世紀の)ノーベル賞受賞者級の偉人です。

 おそらく誰でも子供の頃を思い出せば分かりますけど、いわゆる悪ガキというのが居ましたけど、ああいったのがそのままの性質と精神年齢で大人になったようなのが某巨大匿名掲示板群周辺にウヨウヨ居るんですね。どういうことかすぐに想像していただけると思うんですけど、最悪です。ナチスです。「気に入らないから殺しちゃえっ」というノリで脅迫や殺人行為を平気で行います。あの周辺の連中はネットというものの悪い利用の仕方の典型例を示してくれました。これは一発カマして修正したろか・シバいたろか的な煉獄的なものではなくて、日本人が大好きな川端康成的変態エロクラブ的レイプな性向を持つものなんですね。
 今でこそネットがあるので私もこういったように自分の被害と共にそれら反社会的行為の社会的損益たるものを訴えることができますけど、これが無かった前世紀は本当にこういったことが平気でまかり通ってたんだだなと考えさせられます。かといってまた極端な話戦前はそれが無かったかとかそういう単純なお話ではなくて、戦前だってさらに酷い程度に社会のあちらこちらで見られたでしょう。

 ストーカーならストーカーでストーキングされてても別に気にしなければいいじゃないかという人がいるかもしれないですけど、ストーカーの何がウザいかというと、ストーカーの豚演技そのものではなくて、ストーカーの演技が下手糞であってしかも豚臭いにもかかわらず自分らが秀逸な演技をしているかのように見せかけまたそういったオーラを漂わせているという事実がこの上なくウザいんですね。コミュニケーション能力が低い分際でコミュニケーション能力を高くみせかけてその稚拙なコミュニケーション性を前面に押し出しているのがこの上なくウザいんですね。分かりやすく言うと一言で言うと「風景としてのワザとらしさがウザい」ということです。特に対人コミュニケーションということでは、苦手な分野の能力であるものを出してもそのレベルの低さにもかからわず(コミュニケーション性において)自分を必死に高く見せようとしているのが他人にとっては異様なまでに不快なだけなんですね。くだらんことに気を使わなくていいということです。他人に対していたずらに気を使えば使うほど人間ダメになります。で、ストーカーにおいて豚演技臭さはもちろん素ですけど、下手糞さというのはもはや故意に演出しているとしか考えられないんですね。一種の挑発です。というのは、何度も説明しているように、被害者に対してストーカーを行っていること自体を被害者に知らしめるという形で被害者にヒビを入れるところからストーキングによる攻撃をストーカーは始めていくからです。

 快楽の何が危険であるかというと、万人が肌で分かっているとおりそれに対する依存性が喚起せしめられるからです。現象としての個々の快楽に対する依存そのものは具体的な何らかの医療手段その他で治せるものなのでそこまで危険であるということはないです。快楽に対する依存性が喚起せしめられることが危険だということです。方向性として悪い方向へ傾くべくベクトルをかけられてしまうということです。つまりそうなるとその人は全ての事象に対して、あらゆる物事に対応する場面において悪い方向へ傾いてしまうということであり、他人への加害意識がつのったり何かを行うにおいて失敗が多くなったりしてしまうということです。だからそれがイデオローグ化された「快楽主義(者)」なんていうものは、悪い方向へ傾くことをそもそも元来的に意識しているということであり、最悪です。



 哲学者の中島義道さんは「想起」は予測や予期や予感するということとは違って、何らかの対象を特定するというものであると言ってますが、それが過去以外のものである時、つまり何らかの対象を想起(予(測)・予(期)・予(感))しうる、何らかの対象を想起(予(測)・予(期)・予(感))するということが成り立つ(かのように見える・思える・錯覚する)そのものが、社会的死荷重たる「|∞|/0の因果関係」の存在でありマザーコンプレックスだということです。


 「私が知りえない未来が存在しつづけることは、どこからも導かれない。未来が存在しないときでも、その後「空虚な時間」が延びているだけと言うべきであろうか。いや、そこには数えられるものも存在しない。したがって、じつは時間自体が存在していないのだ。―中略―未来とは、湧き出してくるところを、そのつど関心に基づいて一つの〈いま〉として区切る操作のたびごとに、その〈いま〉の彼方に描いた次の〈いま〉という幻想にすぎないのである。」

――中島義道著 「時間論」 ちくま学芸文庫 より―― 


 具体的に物事を何がどうなるか考えて予測・予期・予感するのではなくて、「ああ、あの被害にあった人は苦しいだろうな」という「想起」をしている限りでは、大きく間違えたことになるということです。
 ちなみにキリスト教の聖母マリアの処女懐胎は、強引に哲学的に表現するのなら「|∞|/0の相関関係」です。そこに因果関係が成立したら大変です。



 養老孟司さんが2009年の5月頃のどこかの新聞記事で、「インターネットは既知のすべてを情報化した」と言ってるんですけど、私は当時この文面にパッと見違和感を覚えました。が、これに違和感を覚えることに現代の病、突き詰めれば精神分裂病(統合失調症)、Schizophrenieの問題があります。私はこの時、「インターネットは既知のすべてを情報化したのではなく、既知のすべては(言葉で説明されうる)情報であり、インターネットは(情報である)既知のすべてを濾過し、重要なものだけを取り出し、主に言語化・場合によっては映像化した」が正しいと考えました。これが間違ってるんですね。
 例えば、携帯電話というものを考える時に、「電話機能を主としてインターネット接続やカメラ機能等様々の用途に使用されるものであり、重量・大きさ共に手で持ち運べる大きさのもの」という様に言語化してそれを絶対真実であると大方の現代日本人は認知してしまうんですね。画像を見たなら画像を見たで「ああ、これがスマートフォンか」という納得のもとそれがどういったものか100%理解した気になってしまう人間が多いということです。おそらく世代的な問題、受けた教育の問題が色濃く出ているんだと思いますけど、養老孟司さんのような「知」的な人間というのは、携帯電話というものを捉える場合、実際手に取ってみて重量や色や形状や通話機能・オプション機能その他を五感の全てを使ってその物のその物たるを確かめる、ということを行います。下手をすれば舌を使って舐めるということまでやるんじゃないかということです。実際この養老孟司さんという人は虫の採集でも有名です。こういった人たちで常識という言葉をやたらと使う人たちが居ますけど、この人たちの言う常識というのはそのリアルなものそのものということです。カントのDinge an sichはこれとは違います。これは「想起」であり、前の記事で説明したような個々の事物の光という波長の如き"communicationized"だということです。

 現代人におけるこの傾向はネットが社会に普及するはるか昔から、おそらくテレビが登場した50年前から煽られてます。もちろんこれはその後に訪れた高度経済成長と関係があります。養老孟司さんはテレビというものの社会においてのあり方についても言及してました。まあ財やサービスにおける情報の個要素の一義化・一面性化とでも言おうか、宣伝・広告による害悪は凄まじいです。最近は都内の地下鉄や電車でも広告が減ったのが風景的に健全を志向しているようでとても喜ばしいです。
 「~がいい」という、物事のいいところばかりを宣伝するやり方というのはこれにおいて害悪なんですね。「悪いところは見ないでね」と言っているのと同じだからです。現実の財・サービスはそのよろしく映された一面においてのみ存するわけではありません。私はこのブログで「アレはダメ」「コレはダメ」ということを多々書いてますけど、こういったことにおいてもちろんこちらの方が良いわけです。「アレがいい」「コレがいい」だけというのは詐欺や悪徳商法というか単なる騙し以外の何物でもないんで、まったく止めるべきです。だから極端な話、ネットの匿名掲示板はその意味では良かったりします。twitterなんて落書きやネットで活動するにおいての具体的情報提供以外の、「アレがいい」「コレがいい」とかの目的で使ってると最悪です。

 言語の世界で考えているから、というよりは「言語のみで考えているから」そういう一種哲学的な病の方向へ走ってしまうということです。これは言語能力の高い人間に多いです。哲学者の中島義道さんという人もおそらくこういった人です。
 養老孟司さんは「言葉なんてたいしたことない」と言っている人です。つまり言語というものを絶対真実ではなくて物事を表すにあたって一つのアプローチに過ぎないと考えている人だということです。

 文学的知識・唯名的なものの見方というのは、この養老孟司さんが言うところの情報化(言語化)や「想起」の方ではなくて、リアルなその物を一言で表す、少なくともそう試みている点において「知」的なものであるということができそうです。



 漫画家の楳図かずおさんがあの御年になってフランス語の勉強をしているというものをなんか昔NHKのドキュメンタリーか新聞記事か何かで見た覚えがあるんですけど、ああいったご老人の行動は実に尊敬できます。というのはああいった人たちは社会工学的な認識をきちんと持っていて、自分の行いが少しでも社会を良く・悪くすることをしっかりと自覚しているんですね。例えばほとんど寝たきりになったご老人でもノートに字を書いて練習している人というのが居るんですね。こういった人というのは実に賢いです。一見して蒙昧なことでもきちんと物事分かった上での行いであるというか、真に社会的な感覚を備えている人間のそれであって、実に見習うべきものがあります。
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