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2025.04.19 Saturday
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the historical present
2012.02.04 Saturday
歴史的現在(文法用語)。
西洋の人たちは必死に民族・人種その他社会について論じ自分たちが自分たちが殺し合いながら生きてきた血みどろの記録やそれに関する考えを書き残してます。ところが馬鹿な日本人たるやバーっと本屋なり図書館の書棚なりを見るに9割はオサレな「大人の男」がどうだとかアイドルの頭パーちゃんがどうだとか巷のなんとかよもやま話がどうだとかゴミみたいな人間がくだらないことを書いてるのがほとんどなんですね。
Judeな人間の書いたものを読んでみると、人(間関係)とか金の視点からひたすら語って論じていて、社会工学的というかシステマティックなものについて言っていることは稀なんですね。しかも人(間関係)を「社会的である」と文字ヅラから勘違いもはなはだしいことこの上なく、これは現代日本の低俗なマスコミ報道に多々見られることです。もちろん近現代社会において金が無ければ人間は経済活動を営めませんから、それについてだけ語ることが間違っているわけではないですし、私は現代のイスラエルに住む人々がどういった社会を形成しているのか知らないですけど、社会というものが如何なるものかおそらくユダヤ人というのはその歴史上ユダヤ人として生きてきた民族意識的にまったく知らないのではないかということです。日本ではマスコミは穢多の仕事、賤業とされてました。私は自分がJudenであったと言いましたけど、生まれてからだいたい三十年の間はそういった人間だったのでこのことについては良く分かります。
たしか精神科医の木村敏さんが精神分裂病に関する「あいだ」とか「ま」とかいうことについて書いていたと思いますけど、Judeなというと言い過ぎですけどこれは日本人的といえば日本人的な解釈です。
関係無いですけど、慶応義塾という学校は三田コネクション学校です。そのコネで教授や講師等の教員になる人間には片山善博前総務大臣から能力も無ければ博識でもない週刊誌にブタ記事載せてるようなバッタ商売人までいろいろ居ますけど、ちょっといかがわしいです。
ヒットラーの"Mein Kampf"が戦後のドイツで禁書にされたというそのところにもまさにドイツの工業性や帝国主義性の名残りが表れて(現れて)ます。大ざっぱに言えば、帝国主義的な考えというのは自分たちの社会システムと社会システムをぶつけ合って相手を倒しそして自分らのシステムの優秀さを証明するというものです。自分たちのシステムの優秀性を証明するためには自分たちのシステム中に敵の要素なんか入れてはいけないというのが帝国主義的発想です。しかし例えばアメリカ人だったらまず敵を知るために一体敵が如何なるものであるのかひたすら調べます。で、どちらが勝つかと言えば当然67年前に世界大戦の勝者となったアメリカです。敵が如何なるものか知っている方が勝つに決まってます。敵がそれであると知った人間にはそれを記録として残したり何らかの情報として味方である他者に伝達することができます。と言うよりは、アメリカというのは汎世界的にmacro economicな国なんですね。今はネットもあるので世界中味方というか世界中の人間が世界市民みたいなもんですけど、前世紀までの戦争だとか様々な人類史上の不幸な出来事は無知にもとづく人間の負の感情から何度も何度も生まれていた惨禍でした。頭がカチコチに固いことが必ずしも良いというわけではないです。
ガンダムのアニメの方よりも富野由悠季さんの書いたライトノベルの方にさかんに出てくる「ニュータイプ」という概念(みたいなもの)は宇宙空間へ出て肉体と同時に精神も依存するものを無くした人間のことです、おそらく。だからニュータイプというのは超自然的に(な)工学的認識を身に付けた人間のことです。シャアが覚醒して汎神的ZEONiズムの神になったらそりゃ当然最強だわな、という話です。無重力空間を嫌というほど体験している宇宙飛行士の人に聞いてみないことには分からないですけど、たぶん「無重力空間において物理的にも精神的にも何物にも依存しない新たなセンスをヒトは身につけた」ということです。
「与えられた名と共に」どうたらこうたらブツクサと歌うとある日本人の歌が一見胡散臭いようにも見えますけど、実は(名詞的なというか)工学的認識というのは自分の名前というところから始まってるんですね。日常生活をおざなりにしたり「そんなの関係ねぇ」とか「どうでもいい」とか思ったり言ったりする人間というのはまさにここが分かってないんですね。昔SEX MACHINEGUNSの「みかんのうた」という歌がありましたけど、愛媛のみかんはひとつだけということであり、ジュースはオレンジ、お線香は毎日香、ダイアモンドはデビアス、つまりはそういうことです。こういったもの(企業)は、寡占市場における自社の製品の優越性を誇示するが為に宣伝材料に工夫と意匠を凝らし……つまり自分らの商売上こういったことを宣伝しているのではなくて、「なにがどうなっているか」を知っていて、「それ」を宣伝しているということです。哲学者の中島義道さんのような人はこれをいくら説明されても理解できません。ミクロ経済学者の中にもこういった人間が居ますけど、あの人たちはこれを理解できないのではなくて、ミクロ経済学という学問モデルを適用して事象を説明することに職業上のこだわりをみせて「知」的なもの(こと)を無視している、という表現が適切です。浜崎あゆみさんの歌とかじつは結構好きだったりするんですけど、たしかP.S.Ⅱという曲だったと思いますけどこういったことが歌ってある曲がありました。で、統合失調症というのはこれが理解できない人間が多い、というか統合失調症というのはまさにそういった人間を集めて特徴を収集して精神科医が形づくった病気です。これを治すには抗精神病薬という馬鹿につける薬が偉大な先人たちによって開発されたので、「関係なくない」整った環境でこれを一定長期間服薬することが最短にして唯一の道です。だから冨樫なんとかのマンガだとかはこういった点において最悪なわけです。まさに物事一般や自分を取り巻く環境その他について「関係ない」「どうでもいい」というミクロ経済なマザーコンプレックスの人間が描いたそういうマンガです。まさにこの意味において青少年の教育に悪過ぎるということです。半ば面白いからますますタチが悪いんですね。歌舞伎町みたいな繁華街の様相を観察していればよく分かりますし、マンガ等のサブカルチャーもそうですけど、日本にはこういった誘惑みたいなものも多いですし、東アジア的な小汚さみたいなものがまだ多々残ってます。
このあいだハーグ条約の改正だか分かりませんけど取り決めみたいなものが定められてましたけど、あろうことか日本人と外国人の間に生まれた子供の扱いについて日本人側に引き渡されて一年以上経って子供が順応している(?)場合は外国人側に受け渡し拒否ができるとかなんとかいった内容だったと思いますけど、最悪です。黒人さんたちがこれに抗議してデモを起こしている写真も新聞に載ってました。もし日本の海外に住む人で日本語が分かる人でこれを読む人が居たら是非とも訴えたいですけど、日本の社会というのは子供の生育環境としては最悪です。それに順応なんかしたら反社会的人間コースまっしぐらだと考えて差し支えないです。昔に比べればネットのおかげもあってだいぶ良くなりました。それでもおそらく田舎の方へ行けばまだマザコン人間が幅をきかせてのさばっているところがあるっぽいです。例えば私は4、5歳の子供の頃、幼稚園で強制的にやらされる演劇か何かで舞台の上で保母か誰かが作った「僕は犬ですワン、ワン、ワン」というセリフを強制的に言わされたということがあったんですけど、私のこの個人的経験の内に日本の教育の下劣悪さ具合がよく表れています。小学校に入る前の子供とすら呼べないような子供がこういったことを強制的にやらされるわけです。この保母たちは生きていれば2012年現在50歳~70歳くらいです。今はさすがにこういったことはやっていないでしょうけど、本当にこのあたりの世代は好き勝手やらかしてました。
Adolf Hitlerという人物は我というか我的なものを排しようとしていた人です。その意味で実にマクロ的です。ただそれについての強迫観念に取り付かれて追い詰められて他民族やユダヤ人虐殺に走ったところが愚かしかったということです。ところがこれを「しかし対戦終了間際になっても総統アドルフ・ヒットラーの支配力やその命令系統は揺らいでいなかった」という解釈をする学者がいますけど、この人間アドルフ・ヒットラーのその人たる由縁を見ているその視点が極めてユダヤ的なものなんですね。この人たちはMein Kampf(「わが闘争」)をおそらく読んでないです。組織感が無いというか、Judenというのは社会工学的意識に全く欠けているということです。その是非については当然非であるとしても、何故Adolf Hitlerが総統であり命令系統の頂点に立っていたのか、ということをシステマティカルな単純な観点から理解できないんですね。私のこの説明自体がJudenにはおそらく全く通じません。しかしかといってヘーゲルの「人倫の国」も逆にマルクスの「産業の現場」もヒットラーの第三帝国も世界中の何処にも存在しません。
敢えて言うなら、アートマンかブラフマンかといえばヒットラーは確実にアートマンです。カルト宗教の教祖と同じで異常者です。
ひとまとまりなコミュニティーでも、日本では、「会社に貢献する」だとか「学校の一員として」だとかそういったメッセージを標語的に打ち出すからマズいことになるんです。会社に貢献することも学校の一員として学業に励むこともそれは当然であって、必然的にそういった状態になるはずなんですね。それは物理的に同じ職場環境や教室で同じような行動をするからです。標語や訓告という形で一発目でカマして愚直にもストレートで効くのは大昔の兵隊やくざな男子だけです。女性的な男性にとってもそうですし、特に女性にとってはそれが大きくマイナスの方向に効きます。ものすごくストレスの原因になります。で、私は最近フト思ったんですけど、美形を描くオタク女性というのはそもそもそういった美形的要素を持っている人間なのかと。あまりに馬鹿なやり方で成長期に圧力をかけられるからものすごく歪んで肉体的にも不細工になってしまうのではないかということです。そもそも「絵に慰め的な美形キャラを描く」というのが歪みの現れなのではないかということです。
売春婦は愛されてしまったら売春婦である社会的価値が無くなってしまうんですね。売春婦は愛されずに男性の性欲のはけ口として存することにのみ自分たちの社会的価値が存在し、また大方の売春婦はそんなことは分かってます。これは私個人の売春婦の人間性無視とかではなくて、売春婦というのは人間性を無視され同時に"人間性 ist......"なるものを無視している人々なんですね。だから「愛されては困る!」や「ヤったらさっさと帰って」という態度を客にきっぱりと示すことが、映画とかであるのか知りませんけど、文学や漫画で描かれているんですね。そういった商売を行っているからすれっからしになってしまっているというマンガ的解釈は全く間違ってます。売春婦は人間として見られたら社会的価値を失い売春婦としての価値が無くなってしまうということです。つまり川端康成の「雪国」の主人公みたいな売春婦すらも慰めに愛す女垂らしの馬鹿はその意味で非常に不健全であり社会的な禍を巻き起こすものであり何より売春婦自身に最もウザがられるということです。人間性を無視された売春婦は当然現代では居なくなりましたし(法律で禁止されてます)、人間性を無視する売春婦が居なくなったということは社会が良くなったということです。
田舎社会へ行けば行くほど人間をその能力と共に押しつぶす環境がご丁寧にも整っていたり暴力的マザコン人間が幅を利かせていたりします。というのは人の上に立つ人間に馬鹿の比率が増えてそれがまたそういった馬鹿に媚びるという人間関係が構築されている原因になっているというだけではなく、知力や問題解決能力や仕事能力ではなくその漠然とした人間関係とやらが場のコンテクストを支配する社会がそこに構成されているからです。面倒見の良し悪し等について言うのならば、そんなもの当然面倒見のいい人間の方が良いに決まってますけど、私がここで言っているのはそういったことではなくて実存しない「人間関係」なるものが場を支配したらその場は即崩壊に向って秩序とは逆回転を始めるということです。
これの結果誰が最も被害を被るかというと、女性です。雌性の肉体を持っているヒトたちです。その次に子供です。子供の目の前で男性が女性を嬲るという絵を見せるとかいったのが最悪です。もちろんだから田舎社会ではユダヤ的家父長制度偏重的な、そこに特定の具体的ルールはあって無きものの様なある特定の人間が暴力で他者を支配するというマザーコンプレックスな社会環境が成立してしまうということです。
マスコミの垂れ流す情報がレベルが低くてその低俗さや俗悪さよりもそのレベルの低さに万人がイラつくのは、昔の記事でも言ったようにマスコミというのはイナカ者の集まりだからです。高等学校までグジグジした田舎社会で過ごして(過ごすことを余儀なくされて)、それで大学で東京へ出てきて頭のいい子供だと早稲田大学あたりへ入ってヒャッホーして調子に乗っちゃってそのノリでマスコミとかへ入っちゃったというのが今の50歳代や60歳代のオッサンオバサンたちに極めて多いということです。私が田舎は好きだがイナカ者は嫌いだと言ったのはこういうことです。田舎の環境の良さを全く分かってないんですね。それは自然環境だけではなくて人的な環境においてもそうであって、その場を構成する人間がみんなreadの能力が低くてコンテクストを読めないから気をつかって気苦労をする必要が無いということです。田舎の学校は高校も大学も英語の試験なんかメチャメチャ簡単になってます。国語である日本語もそうです。いわゆる「イナカ者」というのは広義の意味・あらゆる意味でのreadingの能力が低いです。昔の人間はそこで東京へよっこらせと出てきて空気を読むことを覚えてから勘違いして調子に乗っちゃうことが多かったということです。太宰治なんかコレの典型です。日本のマスコミの人間たちは社会的コンテクストを読む能力が無い、つまりは「空気を読めない」分際でマスメディアとかで自分らが社会の中心に居るかのように振舞ってるのが一般人から見ればクソがつくほどウザいということです。不良少年の如くやたらと社会不安を煽って、日本のマスコミはレベルが低いどころか社会に悪い影響を与える方向を志向しているんですね。NHKとて同じです。50歳も過ぎたような化粧と映像修正でアイドル気取りの腐敗臭のする女キャスターが「識者にお話をうかがう」夜のNHKのドキュメンタリー番組はこの現代日本におけるマスコミの百害あって一利なしの社会不安を煽るだけの低レベル報道の典型です。
単にreading能力が高いだけの人間を指して「勉強してない」だとか決め付けるのがこういった人たちの何よりの欠点です。「あいつは男や!」とか「あいつは女や!」とかいうのも同じです。広義の意味での勉強なんか誰だってしてます。ヒトだけではなくておそらくどの哺乳類も自動的にそういったものを学習していくように出来てます。勉強の仕方が内容によって違うということです。誰だってコンテクストを読んでるんです。reading能力が高くてコミュニケーションが上手い人間を指して「あいつは女や!ぜんぜん勉強せえへんぜんぜん知らへんくせに分かった気になっとる!」というのは早計です。これが嫉妬ではないことは少なくとも私は知ってます。こういった男性的というよりはイナカ者的な人というのは早計過ぎるということです。だからすぐキレる不良少年たちは某巨大匿名掲示板関連みたいなそういう連中にバカにされるんです。そういう連中がもしコミュ能力だけしかなくて物事知る能力が無かったら他人をバカにすることすらできません。中には本当に物事も他人も嘲ってナメ腐ってる奴が居るかもしれないですけど、たいていの人間は別に舐めてるわけでもなんでもないですね。
不良少年のことを日本ではそれが日本人であってもヤンキーと呼びます(呼ばれてました)けど、例えば私はヤンキーとかチンピラとか不良とかいう言葉を全て一色たんの意味合いとして使ってました。というのは日本(人)であるにもかかわらずアメリカのTexasのYankeeと同じこと・ものを志向しているのが滑稽な上にそもそも間違っていると考えていたからです。しかしこれが間違ってたんですね。彼らはそれを志向しているというよりは、Yankee・ヤンキーというものによって表される一種人間工学的な発想に基づいて自分らという人間を志向して(させて)いたというのが正解のようです。一つの具体的定常情報から全ては始まっているということであり、固有名詞的なものの考え方(?)、固有名詞を重んじる、「知」的である、というのはおそらくそういうことです。唯名的というと語弊があります。というのは唯名論というモノとモノとのつながりが分からない、Dinge an sichを強引に人間が認知しうる情報化したような知的障害めいたものがあるからです。つまりはコンテクストのreadの能力が高いとマザーコンプレックスな妄念から「読了」してしまう傾向へ人間誰しも走りやすいということです。
Judenというかスキゾの気が強い人間というのは過去志向であって、普通の健常人は未来志向であるということが言えそうです。過去志向の人間というのはコンテクスト(いまに連なる過去・経験された事象)を読むのが上手いです。ちなみにこういったreadの能力が高い人間というのはネットの掲示板見れば分かりますけど嫌な奴が多いです。私もずいぶんと長い間一人よがりの嫌な奴でした。
過去の出来事を考察するにおいて、それを眺めるにあたってレンズにいま現在の自己というフィルターをかけてしまう、それを行わないように意識しないとそうしてしまう、このことが既に病的なんですね。事象Aは事象Aであって事象A以外の例えば事象Bではないです。時間の流れは過去からいま(未来)であって、それでこそヘーゲル的に言うところの宗教・芸術も自己(Dasein)として成立するのではないかということです。鏡を見て「これが私か」、と。"Spiegelin, Spiegelin an der Wand......"と鏡に話しかけて自己像にフィルターをかけるどころか故意に歪めるようでは悲惨な分裂病コースまっしぐらです。だから精神病者には女性が多いです。
歴史が技術を与えてくれたと考えると妥当です。マクロ経済学とか少し勉強すると分かりますけど、どう考えたってやはり近現代国家という社会システムにおいて最も重要なのは技術革新です。あらゆる技術のおかげで脱工学的な社会生活を少なくとも現代日本の都会では営むこともできます。とくに首都圏に住んでいる人間は見失いがちですけど、これは当たり前のことではないんですね。
西洋の人たちは必死に民族・人種その他社会について論じ自分たちが自分たちが殺し合いながら生きてきた血みどろの記録やそれに関する考えを書き残してます。ところが馬鹿な日本人たるやバーっと本屋なり図書館の書棚なりを見るに9割はオサレな「大人の男」がどうだとかアイドルの頭パーちゃんがどうだとか巷のなんとかよもやま話がどうだとかゴミみたいな人間がくだらないことを書いてるのがほとんどなんですね。
Judeな人間の書いたものを読んでみると、人(間関係)とか金の視点からひたすら語って論じていて、社会工学的というかシステマティックなものについて言っていることは稀なんですね。しかも人(間関係)を「社会的である」と文字ヅラから勘違いもはなはだしいことこの上なく、これは現代日本の低俗なマスコミ報道に多々見られることです。もちろん近現代社会において金が無ければ人間は経済活動を営めませんから、それについてだけ語ることが間違っているわけではないですし、私は現代のイスラエルに住む人々がどういった社会を形成しているのか知らないですけど、社会というものが如何なるものかおそらくユダヤ人というのはその歴史上ユダヤ人として生きてきた民族意識的にまったく知らないのではないかということです。日本ではマスコミは穢多の仕事、賤業とされてました。私は自分がJudenであったと言いましたけど、生まれてからだいたい三十年の間はそういった人間だったのでこのことについては良く分かります。
たしか精神科医の木村敏さんが精神分裂病に関する「あいだ」とか「ま」とかいうことについて書いていたと思いますけど、Judeなというと言い過ぎですけどこれは日本人的といえば日本人的な解釈です。
関係無いですけど、慶応義塾という学校は三田コネクション学校です。そのコネで教授や講師等の教員になる人間には片山善博前総務大臣から能力も無ければ博識でもない週刊誌にブタ記事載せてるようなバッタ商売人までいろいろ居ますけど、ちょっといかがわしいです。
ヒットラーの"Mein Kampf"が戦後のドイツで禁書にされたというそのところにもまさにドイツの工業性や帝国主義性の名残りが表れて(現れて)ます。大ざっぱに言えば、帝国主義的な考えというのは自分たちの社会システムと社会システムをぶつけ合って相手を倒しそして自分らのシステムの優秀さを証明するというものです。自分たちのシステムの優秀性を証明するためには自分たちのシステム中に敵の要素なんか入れてはいけないというのが帝国主義的発想です。しかし例えばアメリカ人だったらまず敵を知るために一体敵が如何なるものであるのかひたすら調べます。で、どちらが勝つかと言えば当然67年前に世界大戦の勝者となったアメリカです。敵が如何なるものか知っている方が勝つに決まってます。敵がそれであると知った人間にはそれを記録として残したり何らかの情報として味方である他者に伝達することができます。と言うよりは、アメリカというのは汎世界的にmacro economicな国なんですね。今はネットもあるので世界中味方というか世界中の人間が世界市民みたいなもんですけど、前世紀までの戦争だとか様々な人類史上の不幸な出来事は無知にもとづく人間の負の感情から何度も何度も生まれていた惨禍でした。頭がカチコチに固いことが必ずしも良いというわけではないです。
ガンダムのアニメの方よりも富野由悠季さんの書いたライトノベルの方にさかんに出てくる「ニュータイプ」という概念(みたいなもの)は宇宙空間へ出て肉体と同時に精神も依存するものを無くした人間のことです、おそらく。だからニュータイプというのは超自然的に(な)工学的認識を身に付けた人間のことです。シャアが覚醒して汎神的ZEONiズムの神になったらそりゃ当然最強だわな、という話です。無重力空間を嫌というほど体験している宇宙飛行士の人に聞いてみないことには分からないですけど、たぶん「無重力空間において物理的にも精神的にも何物にも依存しない新たなセンスをヒトは身につけた」ということです。
「与えられた名と共に」どうたらこうたらブツクサと歌うとある日本人の歌が一見胡散臭いようにも見えますけど、実は(名詞的なというか)工学的認識というのは自分の名前というところから始まってるんですね。日常生活をおざなりにしたり「そんなの関係ねぇ」とか「どうでもいい」とか思ったり言ったりする人間というのはまさにここが分かってないんですね。昔SEX MACHINEGUNSの「みかんのうた」という歌がありましたけど、愛媛のみかんはひとつだけということであり、ジュースはオレンジ、お線香は毎日香、ダイアモンドはデビアス、つまりはそういうことです。こういったもの(企業)は、寡占市場における自社の製品の優越性を誇示するが為に宣伝材料に工夫と意匠を凝らし……つまり自分らの商売上こういったことを宣伝しているのではなくて、「なにがどうなっているか」を知っていて、「それ」を宣伝しているということです。哲学者の中島義道さんのような人はこれをいくら説明されても理解できません。ミクロ経済学者の中にもこういった人間が居ますけど、あの人たちはこれを理解できないのではなくて、ミクロ経済学という学問モデルを適用して事象を説明することに職業上のこだわりをみせて「知」的なもの(こと)を無視している、という表現が適切です。浜崎あゆみさんの歌とかじつは結構好きだったりするんですけど、たしかP.S.Ⅱという曲だったと思いますけどこういったことが歌ってある曲がありました。で、統合失調症というのはこれが理解できない人間が多い、というか統合失調症というのはまさにそういった人間を集めて特徴を収集して精神科医が形づくった病気です。これを治すには抗精神病薬という馬鹿につける薬が偉大な先人たちによって開発されたので、「関係なくない」整った環境でこれを一定長期間服薬することが最短にして唯一の道です。だから冨樫なんとかのマンガだとかはこういった点において最悪なわけです。まさに物事一般や自分を取り巻く環境その他について「関係ない」「どうでもいい」というミクロ経済なマザーコンプレックスの人間が描いたそういうマンガです。まさにこの意味において青少年の教育に悪過ぎるということです。半ば面白いからますますタチが悪いんですね。歌舞伎町みたいな繁華街の様相を観察していればよく分かりますし、マンガ等のサブカルチャーもそうですけど、日本にはこういった誘惑みたいなものも多いですし、東アジア的な小汚さみたいなものがまだ多々残ってます。
このあいだハーグ条約の改正だか分かりませんけど取り決めみたいなものが定められてましたけど、あろうことか日本人と外国人の間に生まれた子供の扱いについて日本人側に引き渡されて一年以上経って子供が順応している(?)場合は外国人側に受け渡し拒否ができるとかなんとかいった内容だったと思いますけど、最悪です。黒人さんたちがこれに抗議してデモを起こしている写真も新聞に載ってました。もし日本の海外に住む人で日本語が分かる人でこれを読む人が居たら是非とも訴えたいですけど、日本の社会というのは子供の生育環境としては最悪です。それに順応なんかしたら反社会的人間コースまっしぐらだと考えて差し支えないです。昔に比べればネットのおかげもあってだいぶ良くなりました。それでもおそらく田舎の方へ行けばまだマザコン人間が幅をきかせてのさばっているところがあるっぽいです。例えば私は4、5歳の子供の頃、幼稚園で強制的にやらされる演劇か何かで舞台の上で保母か誰かが作った「僕は犬ですワン、ワン、ワン」というセリフを強制的に言わされたということがあったんですけど、私のこの個人的経験の内に日本の教育の下劣悪さ具合がよく表れています。小学校に入る前の子供とすら呼べないような子供がこういったことを強制的にやらされるわけです。この保母たちは生きていれば2012年現在50歳~70歳くらいです。今はさすがにこういったことはやっていないでしょうけど、本当にこのあたりの世代は好き勝手やらかしてました。
Adolf Hitlerという人物は我というか我的なものを排しようとしていた人です。その意味で実にマクロ的です。ただそれについての強迫観念に取り付かれて追い詰められて他民族やユダヤ人虐殺に走ったところが愚かしかったということです。ところがこれを「しかし対戦終了間際になっても総統アドルフ・ヒットラーの支配力やその命令系統は揺らいでいなかった」という解釈をする学者がいますけど、この人間アドルフ・ヒットラーのその人たる由縁を見ているその視点が極めてユダヤ的なものなんですね。この人たちはMein Kampf(「わが闘争」)をおそらく読んでないです。組織感が無いというか、Judenというのは社会工学的意識に全く欠けているということです。その是非については当然非であるとしても、何故Adolf Hitlerが総統であり命令系統の頂点に立っていたのか、ということをシステマティカルな単純な観点から理解できないんですね。私のこの説明自体がJudenにはおそらく全く通じません。しかしかといってヘーゲルの「人倫の国」も逆にマルクスの「産業の現場」もヒットラーの第三帝国も世界中の何処にも存在しません。
敢えて言うなら、アートマンかブラフマンかといえばヒットラーは確実にアートマンです。カルト宗教の教祖と同じで異常者です。
ひとまとまりなコミュニティーでも、日本では、「会社に貢献する」だとか「学校の一員として」だとかそういったメッセージを標語的に打ち出すからマズいことになるんです。会社に貢献することも学校の一員として学業に励むこともそれは当然であって、必然的にそういった状態になるはずなんですね。それは物理的に同じ職場環境や教室で同じような行動をするからです。標語や訓告という形で一発目でカマして愚直にもストレートで効くのは大昔の兵隊やくざな男子だけです。女性的な男性にとってもそうですし、特に女性にとってはそれが大きくマイナスの方向に効きます。ものすごくストレスの原因になります。で、私は最近フト思ったんですけど、美形を描くオタク女性というのはそもそもそういった美形的要素を持っている人間なのかと。あまりに馬鹿なやり方で成長期に圧力をかけられるからものすごく歪んで肉体的にも不細工になってしまうのではないかということです。そもそも「絵に慰め的な美形キャラを描く」というのが歪みの現れなのではないかということです。
売春婦は愛されてしまったら売春婦である社会的価値が無くなってしまうんですね。売春婦は愛されずに男性の性欲のはけ口として存することにのみ自分たちの社会的価値が存在し、また大方の売春婦はそんなことは分かってます。これは私個人の売春婦の人間性無視とかではなくて、売春婦というのは人間性を無視され同時に"人間性 ist......"なるものを無視している人々なんですね。だから「愛されては困る!」や「ヤったらさっさと帰って」という態度を客にきっぱりと示すことが、映画とかであるのか知りませんけど、文学や漫画で描かれているんですね。そういった商売を行っているからすれっからしになってしまっているというマンガ的解釈は全く間違ってます。売春婦は人間として見られたら社会的価値を失い売春婦としての価値が無くなってしまうということです。つまり川端康成の「雪国」の主人公みたいな売春婦すらも慰めに愛す女垂らしの馬鹿はその意味で非常に不健全であり社会的な禍を巻き起こすものであり何より売春婦自身に最もウザがられるということです。人間性を無視された売春婦は当然現代では居なくなりましたし(法律で禁止されてます)、人間性を無視する売春婦が居なくなったということは社会が良くなったということです。
田舎社会へ行けば行くほど人間をその能力と共に押しつぶす環境がご丁寧にも整っていたり暴力的マザコン人間が幅を利かせていたりします。というのは人の上に立つ人間に馬鹿の比率が増えてそれがまたそういった馬鹿に媚びるという人間関係が構築されている原因になっているというだけではなく、知力や問題解決能力や仕事能力ではなくその漠然とした人間関係とやらが場のコンテクストを支配する社会がそこに構成されているからです。面倒見の良し悪し等について言うのならば、そんなもの当然面倒見のいい人間の方が良いに決まってますけど、私がここで言っているのはそういったことではなくて実存しない「人間関係」なるものが場を支配したらその場は即崩壊に向って秩序とは逆回転を始めるということです。
これの結果誰が最も被害を被るかというと、女性です。雌性の肉体を持っているヒトたちです。その次に子供です。子供の目の前で男性が女性を嬲るという絵を見せるとかいったのが最悪です。もちろんだから田舎社会ではユダヤ的家父長制度偏重的な、そこに特定の具体的ルールはあって無きものの様なある特定の人間が暴力で他者を支配するというマザーコンプレックスな社会環境が成立してしまうということです。
マスコミの垂れ流す情報がレベルが低くてその低俗さや俗悪さよりもそのレベルの低さに万人がイラつくのは、昔の記事でも言ったようにマスコミというのはイナカ者の集まりだからです。高等学校までグジグジした田舎社会で過ごして(過ごすことを余儀なくされて)、それで大学で東京へ出てきて頭のいい子供だと早稲田大学あたりへ入ってヒャッホーして調子に乗っちゃってそのノリでマスコミとかへ入っちゃったというのが今の50歳代や60歳代のオッサンオバサンたちに極めて多いということです。私が田舎は好きだがイナカ者は嫌いだと言ったのはこういうことです。田舎の環境の良さを全く分かってないんですね。それは自然環境だけではなくて人的な環境においてもそうであって、その場を構成する人間がみんなreadの能力が低くてコンテクストを読めないから気をつかって気苦労をする必要が無いということです。田舎の学校は高校も大学も英語の試験なんかメチャメチャ簡単になってます。国語である日本語もそうです。いわゆる「イナカ者」というのは広義の意味・あらゆる意味でのreadingの能力が低いです。昔の人間はそこで東京へよっこらせと出てきて空気を読むことを覚えてから勘違いして調子に乗っちゃうことが多かったということです。太宰治なんかコレの典型です。日本のマスコミの人間たちは社会的コンテクストを読む能力が無い、つまりは「空気を読めない」分際でマスメディアとかで自分らが社会の中心に居るかのように振舞ってるのが一般人から見ればクソがつくほどウザいということです。不良少年の如くやたらと社会不安を煽って、日本のマスコミはレベルが低いどころか社会に悪い影響を与える方向を志向しているんですね。NHKとて同じです。50歳も過ぎたような化粧と映像修正でアイドル気取りの腐敗臭のする女キャスターが「識者にお話をうかがう」夜のNHKのドキュメンタリー番組はこの現代日本におけるマスコミの百害あって一利なしの社会不安を煽るだけの低レベル報道の典型です。
単にreading能力が高いだけの人間を指して「勉強してない」だとか決め付けるのがこういった人たちの何よりの欠点です。「あいつは男や!」とか「あいつは女や!」とかいうのも同じです。広義の意味での勉強なんか誰だってしてます。ヒトだけではなくておそらくどの哺乳類も自動的にそういったものを学習していくように出来てます。勉強の仕方が内容によって違うということです。誰だってコンテクストを読んでるんです。reading能力が高くてコミュニケーションが上手い人間を指して「あいつは女や!ぜんぜん勉強せえへんぜんぜん知らへんくせに分かった気になっとる!」というのは早計です。これが嫉妬ではないことは少なくとも私は知ってます。こういった男性的というよりはイナカ者的な人というのは早計過ぎるということです。だからすぐキレる不良少年たちは某巨大匿名掲示板関連みたいなそういう連中にバカにされるんです。そういう連中がもしコミュ能力だけしかなくて物事知る能力が無かったら他人をバカにすることすらできません。中には本当に物事も他人も嘲ってナメ腐ってる奴が居るかもしれないですけど、たいていの人間は別に舐めてるわけでもなんでもないですね。
不良少年のことを日本ではそれが日本人であってもヤンキーと呼びます(呼ばれてました)けど、例えば私はヤンキーとかチンピラとか不良とかいう言葉を全て一色たんの意味合いとして使ってました。というのは日本(人)であるにもかかわらずアメリカのTexasのYankeeと同じこと・ものを志向しているのが滑稽な上にそもそも間違っていると考えていたからです。しかしこれが間違ってたんですね。彼らはそれを志向しているというよりは、Yankee・ヤンキーというものによって表される一種人間工学的な発想に基づいて自分らという人間を志向して(させて)いたというのが正解のようです。一つの具体的定常情報から全ては始まっているということであり、固有名詞的なものの考え方(?)、固有名詞を重んじる、「知」的である、というのはおそらくそういうことです。唯名的というと語弊があります。というのは唯名論というモノとモノとのつながりが分からない、Dinge an sichを強引に人間が認知しうる情報化したような知的障害めいたものがあるからです。つまりはコンテクストのreadの能力が高いとマザーコンプレックスな妄念から「読了」してしまう傾向へ人間誰しも走りやすいということです。
Judenというかスキゾの気が強い人間というのは過去志向であって、普通の健常人は未来志向であるということが言えそうです。過去志向の人間というのはコンテクスト(いまに連なる過去・経験された事象)を読むのが上手いです。ちなみにこういったreadの能力が高い人間というのはネットの掲示板見れば分かりますけど嫌な奴が多いです。私もずいぶんと長い間一人よがりの嫌な奴でした。
過去の出来事を考察するにおいて、それを眺めるにあたってレンズにいま現在の自己というフィルターをかけてしまう、それを行わないように意識しないとそうしてしまう、このことが既に病的なんですね。事象Aは事象Aであって事象A以外の例えば事象Bではないです。時間の流れは過去からいま(未来)であって、それでこそヘーゲル的に言うところの宗教・芸術も自己(Dasein)として成立するのではないかということです。鏡を見て「これが私か」、と。"Spiegelin, Spiegelin an der Wand......"と鏡に話しかけて自己像にフィルターをかけるどころか故意に歪めるようでは悲惨な分裂病コースまっしぐらです。だから精神病者には女性が多いです。
歴史が技術を与えてくれたと考えると妥当です。マクロ経済学とか少し勉強すると分かりますけど、どう考えたってやはり近現代国家という社会システムにおいて最も重要なのは技術革新です。あらゆる技術のおかげで脱工学的な社会生活を少なくとも現代日本の都会では営むこともできます。とくに首都圏に住んでいる人間は見失いがちですけど、これは当たり前のことではないんですね。
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