[PR]
2025.04.19 Saturday
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
Veni, vidi, vici.
2012.02.29 Wednesday
「私の闇が白昼のようになる」。
村上春樹さんの「風の歌を聴け」という小説にデレク・ハートフィールドという人物のエピソードが出てきます。フロイト先生がもし知ったら喜びそうな、性欲も含めて吐き散らかして書きなぐった挙句に"Heil, Hitler."で自殺した、みたいなことが書かれてます。人間関係はもちろんそうですけど、ヒトにおいて情報がストレスになるというのはあります。仮にそれが一見してストレスだとは感じられないようなものでも、何でもかんでも情報をsaveしておくのがいいというわけではないです。そこでオススメなのが、このブログの記事で何度か書いているように、経験したことや知ったことを何でも言語化して記述するということです。あいつがウゼえだとかダリーとかクセぇとかブサイクだとか書きまくるんです。書くことで自分にとって不愉快な情報が自分の手によって固定化されることで記憶から消去されます(他人の手に委ねたらダメです)。これがものすごくストレスの解消になるんですね。行動を起こすに躊躇することがなくなって、下手をすると運動しようかななんて気が起こったりします。たしかドストエフスキーの小説のどれかに、なんとかで若い頃転んでも特に野望のある人物でない限りは年をとってから多少肝臓をいためる程度のことであるとか書いてあるものがありましたけど、「酒を飲んで忘れる」というハイリスクでゼロリターンどころかさらに憎しみが膨れ上がって記憶に定着するような負のリターンを生む最悪な行為に及ぶ必要はないです。どんどんワープロソフトでもNOTEPAD.EXEでも使って言語化して記述していけばいいです。
右傾化というとちょっと表現がおかしいですけど、ストレスを解消すれば健常なところで身体的に固定化して実存しない精神的なものは限りなくゼロに近づくということです。
精神科医の先生が言ってましたけど、寝酒というのは最悪らしいです。睡眠誘発効果どころか睡眠に障害をきたすから絶対にやってはいけないということです。アルコールの害というのは計り知れないほどに強大みたいです。大学のサークルだかで強制的に酒を飲ませるとかいったのは論外です。マスコミの馬鹿共がよく言ってますけど禁煙がどうこうとガタガタ騒ぐ前に、禁酒法を作ればいいんですね。私は酒も飲みませんしタバコも吸いませんけど。ちなみに若い女の様にヒステリー症であり「他人の嫌がることをすすんでやります」と顔に書いてあるような私の父親という人間は、「酒は人格を崩壊させる」と言いながら毎日酒をガバガバ飲むというどうしようもない習慣があります。若い女がセックスにハマって売春婦化していくように快楽主義的であってどうしようもないです。
最近大阪市長の橋下徹さんが小学校に留年制度を設定しろと言ってましたけど、そうではなくて小学校の時点から学力別にきっちりクラス分けすればいいんですね。学力の高い子供たちが形成する社会環境は生活環境においても人間関係であっても良いものが出来上がります。人間誰しも皆良質な社会環境で生活したいわけであって、留年制度を設けるというやり方よりも、このクラス分け等によって劣等で悪質な粗暴児等とまともな子供たちの環境や人間関係をきっちりと分断することで子供達に勉強をすることへのincentiveが生まれます。実際フランスでは留年制度は劣等児を増やすだけであって上手くいってないそうです。それぞれの子供がその生育においてどういった社会環境を生きることになるかということを決定づけているその親も重要な役割を担っているのであって、残念ながら官吏やエリートサラリーマンの息子とマスコミ屋の息子とカンバン屋の息子では人間的な性質に上中下の差が有り過ぎます。しかも後者はやたら上昇志向が強くて他人を引きずり下ろそうとするケースが多々あります。豚は嫉妬豚です。豚というのは例外なく嫉妬豚です。あまりに理不尽な経験をしすぎて嫉妬や怨みその他負の感情が強すぎると、人間は自分が他人を恨んでいたり他人に嫉妬していることが自分で分からないまでに客観性を失います。自らも豚になる上に他人も豚へと引きずり下ろしていくということです。また、豚が形成するそういった不幸な社会環境を経験したことの無い人間は、そういった豚も豚が作る社会環境も知ることは無いので、不幸な人間が何故不幸であるかということやまた不幸になるかということをを知ることがありません。私はJudenであることから何とか脱したので自分が如何に豚であったかが今はよく分かります。
「悪い方向」へ傾いているから、いくら圧力をかけられてもどころではなく圧力をかけられればかけられる程に悪くなって精神も肉体も膨れ上がります。人間の場合は気圧の様に単純に外圧をかければへこむというものではないです。こういった悪質な単純思考を極めたのがナチスでした。現代ではネットがあるのであらゆる人が救われてます。
子供を守る母親の心理というのは、女はそもそも自らの呪い・憎しみと区別のつかないいわゆる愛情とやらの産物として子を産むということに基づいてます。つまり女というのは自らがその現在まで生きてきた全ての社会的経験の産物として「子供をつくる」ということです。だから一見したところではベタに見えるものでしかない昔のマンガやドラマでは、女が自分の命と引き換えにすらも自分の子供を守ろうとするシーンが描かれていたりします。自分の子供を殺そうとする女というのは、レイプされるのが好きな女であり売春婦の売春婦たる女王です。最悪のクズです。
ちなみにドイツ語でDameというのは(嫌味な意味で)「ご婦人」「女」「女王(気取り)」という意味です。要するにbitchのことです。
先天的に障害を持つ障害者の人たちは当人には全く非の無い負い目を負いながら生きてます。私は神父さんや坊さんではないので詳しくは知りませんけど、これは宗教の類でいうと、業(カルマ)を背負って生まれてきてその生を生きなければならないというものです。歴史上ユダヤ人だってただユダヤ人であるからという理由でユダヤ人学校等社会的に隔離された環境で教わるべきものを教わる機会を全く奪われた上で差別されていたのであって、それを差別したり虐殺したりしたところにヒットラーやナチスをはじめ迫害を行った者達の愚かさがあったということです。現代日本の義務教育は、こういったことを止めて万人に等しく機会は与えるべきであるというところにその本意義があります。が、しかし、むしろJudeな人間たちが自分たちから差別されたがっているという現状があります。一昔前のマスメディアが喧伝していたところの「下流志向」です。そういった人間たちはマザーコンプレックスで盲目的になってしまってます。マザーというのは最後の最後で愛していたものを捨てます。少なくともヒトのメスにおいては種の保存の欲求よりも自己保存欲の方が優位にあります。だから先の記事でも言ったように母親というのは自分にとっての最大のユダと考えるのが妥当です。にもかかわらずユダ(ヤ)というのは母親を求めるから愚劣の極みだということです。そしてその差別されたがり達がまともな人間たちを汚染して引きずり下ろして悪くしていく程に悪質であるというのが事実であって、おそらくヒットラー的思考というのは「何が何でもユダヤ人を殺してやる」というところからではなくこういった悪を志向する愚劣な人間たちがそこに居るという現実を見てしまったというところから出発しています。
戦前の時代に生きていた人たちは「アカ」が有害であることを分かってました。それに乗じて米英が鬼畜だとか言っていたのはその時代に生きていたそのアカ以外の人間もまた同じく無知で愚かであったということです。他人の不幸を蜜の味であるとの認識から離れられないから「アカ」だということです。現代の日本であってもやたらと中国の人たちを侮辱したりネットで叩いたりしているのは同じく「アカ」な連中です。共産主義者を自称している人たちだってどう鑑みても「アカ」とは呼べない人たちだって居ます。
高度経済成長期以前の大昔は何もかもが工学的でした。川端康成原作の「雪国」の映画で駒子を演じた女優の岸恵子さんはフランス人の男性と結婚する時、「毛唐の嫁になるような女優に駒子が演じられるはずがない」と言われたと自伝で書いてます。この発言をした人間はどう鑑みても明からさまな「アカ」ですけど、おそらく当時の右翼です。Jean Calvinの唱えるところの予定説なんてものは露骨なまでに帝国主義的人間関係工学意識の表れです。最悪なまでに「アカ」いです。つまりそういった知の観念や意思のもと特定の人間たちが特定の場所へ集まり特定の集団を名乗るので、それらのうちの一つとして「共産主義」なるものが「アカ」と呼ばれていたということです。見るものの男性ホルモンの分泌を促す赤い色を発する、若い女に象徴されるような、コミュニティーの内部では殺しあう共産主義ということで。
現代日本で都市部で教育を受けている子供たちや若者たちに「共産=アカであってどうこう……」と言っても全く通じません。別に若者たちが無知であるというわけではなくて、もちろん一定以上の学力を持った若者たちのことですけど、ネットや様々のデジタル機器の高頻度での使用ということもあって若者達はそれを大きく超えた知的能力や現象に対する読解能力を持っているということです。養老孟司さんという人の憂いは、結果としては若者のこの読解力の高さを憂うということに帰着してしまっています。つまり何が問題であるかというと、若者に能力が足りないわけでもなく自堕落なわけでもなく若者はそのあたりのことを学校でも親からも教わっていないということです。偉大な先人たちによって進歩してきた技術によって、そういった政治政党的なイデオロギーめいたものの認識はもはや必要が無いということです。
たしか二葉亭四迷だったと思いますけど、150年前の明治の開国期に英語を国語にしようと言っていた人が居ましたけど、そもそも最初から英語を国語にしておけば良かったんです。そうすればおそらく近代における少なくともこの日本という国にまつわるもろもろの悲劇は起こりませんでした。
マザーコンプレックスの権化たる世の中心地なるものは現代では無くなりました。というかもう何十年も前から無くなっていたのに在るように見せかけてその見せかけで存続してきていたものが実は無いものであるということが近年デジタル技術の発展によって判明したということに過ぎません。
日本人は「思って」ばかりいます。感情で全てをgelesenするので「存在の機」を持った他人は全て敵であり、傲岸不遜な兵隊ヤクザが昔は幅を利かせて滅茶苦茶をやってました。この囲われた鬼ヶ島では、江戸の昔から女性はレイプされながら生きてきました。小奇麗な時代劇なんざ凄まじいほどに作り物のまやかしです。江戸の実態を知っている者としてはとてもではないが江戸時代を肯定したりはできません。私は黒澤明監督の映画とかは見たことないんですけど、北野武さんはそういった暗部を垣間見せるような場面を映画作品の中で作ってます。
昔の日本人は全てスキゾであったと言っても過言ではありません。日本語がそもそもそういった言語であり、主語を欠いても意味が成立してしまうようなあまりいい言語ではありません。おそらく時代劇の製作者でもこのことを理解している人が居て、例えば「稲葉山城、陥落してございまする」というセリフに見られるように、この場合だと「が」という言葉を抜いてますけど、これはゲルマン語的であって良いです。これをものものしいという感慨で嫌うのは間違ってます。
歴史的流れから言って、賢いイギリス人にとっては名詞の性を失ったことが利益だったんですね。これは英語という言語がどういった言語か勉強すれば分かります。英語の言語構造から近代イギリス国家の帝国主義性までを繋げて論文を書いている学者がひょっとしたら居るかもしれません。逆に愚かとは言いませんけど女性的な日本人にとっては名詞に性が無いことがかなり不都合に働いています。だから米英からしてみれば良かれと考えて行っていることも、馬鹿な日本人にとっては「イギリスはずるい国」と映って言いがかりをつける連中が居たり、また「鬼畜米英」と映ってそれを標語化するという行為につながるというわけです。
私の父親というのは戦時中であったらば即徴兵されるような「アカ」です。こういったアカな人間というのは家族だろうが友人だろうが知人だろうが関係なく全てを自分の利益の為に利用する、最悪の場合全てを自分のキャラ立ての為に自分より弱い者は誰でも故意に踏み付けて相対的に自分のポジションを上げるという穢多豚の所業を行うんですね。私の父親はまさにこういった人間でした。だからアカには子供を作らせたらダメです。もう子供の時点で人格検査を行って法律で生殖行為を禁止しないとダメです。アカは大抵子供を作りたがりませんけど、中には子沢山に走るのも居るんですね。
ちなみにその息子の私にも若干アカの気があります、なるべく自分の内からそういったものを消そうと努力はしていますけど。
自分の子供を虐待する親の心理というのは、「自分」なる人間を工学的に捉えて、その一個の完成されたシステムであるところの自分が行うことを絶対的に正しいと思い込み考えるところから他者に対して「システムとして完成された自分なる人間を押し付ける」、ということから発しています。自己の存在に不安を抱えた人間が行う他者に対するレイプです。現代でいうと統合失調症患者に代表されるいわゆるキチガイ、少し前だと宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯的変質者、今でもネットの少し小暗い所を見れば分かる通りこういったのがまだウヨウヨ居ます(居ました)。つまりその絶対たる自分が差し向ける暴力を肯定できない他者は絶対たる存在ではないという非常な単純な思考の運びによって、こういった人間はそれを自己内肯定します。しかもあろうことかこのヒットラー的ユダヤ人であるこの私の父親、「ボクはセイクリッドな人間なんか認めないからねっ」とホザいているクズでもあります。つまり自分を神だと思っているということです。まさにチャップリンにネタ劇の笑いの材料にされる総統閣下です。どうしようもない馬鹿です。この男あまりに人間的につまらな過ぎて会話とかロクに出来ないもので、子供の頃から人様にバカにされまくってきたという「歴史」をご丁寧にもお持ちです。ちなみに分かりやすくマンガ的キャラで言うとジャイアンではなくてスネ夫です。Oliver Hirschbiegel監督の「ヒトラー ~最期の十二日間~」という映画がありますけど、この映画でBruno Ganz氏演じるヒットラーがあまりに自分の父親の特徴を的確に表現しているので驚嘆しました。これに登場するヒットラーの愚かさや子供じみた馬鹿さ加減や陳腐さがあまりに自分の父親のそれと同じなので感動すらしました。
これが心理であるというのは、私の父親はこういった精神異常者であり犯罪者の典型ですけど、これを故意に行っているという自覚はご本人様にもあるということです。というのはこの男警察が恐くて近寄れません。先の記事で言った、私を訪問してきたヤクザというのは下手をすれば父親の敵ではなくて父親の回し者です。私が通っていた精神科クリニックのN田医師とて私の父親のせいで犯罪に加担させられた犠牲者の一人です。父親の部下だった人に直に聞いたんですけど、弱い対象である自分の部下に対しても横暴を振るう人間だったみたいです。
「 しかしこのような記憶のはたらきが心象によるものであるかいなかを、だれが容易に決定することができようか。実際わたしがあるものを石とよび太陽とよぶとき、そのもの自体はわたしの感覚に対して現存しないかもしれないが、しかしそれらのものの心象はたしかにわたしの記憶のうちに存するのである。わたしは身体の苦痛ということを口にするけれども、なにも苦しくないとき身体の苦痛はわたしに対して現存しない。それにもかかわらずその心象がわたしの記憶のうちに存しないなら、わたしは自分の口にすることを知らないであろうし、またそれについて語る際に、それと快楽とを区別することができないであろう。―後略―」
これはAurelius Augustinus著"CONFESSIONES"(「告白」)よりの引用です。ここで聖アウグスティヌスが言っているこの区別できなさが極めて危険である、ということです。これが他に向いたのがヒットラーや私の父親であり、内に向いたのがユダヤ人です。
そもそも父方の祖母が若い頃に苦労をしたような強迫神経的な目的達成偏重とでも呼べる異常者でした。私の父親はその異常者である祖母に子供の頃虐待に近いことをされたようです。
ユダヤの人たちはそもそも第一手目に理不尽な目に合わされるという社会環境を強制されてきました。自分の存在の無根拠な不安を満たすために自分の存在を存在のみで主張するという、甘えを基調とする「アカ」がこういった社会環境を作り出し、あろうことか子供まで作るという行為に及ぶからさらにますます「アカ」であるユダヤ人が増える、ということです。それを憂いて虐殺に走ったヒットラーもまた同じく「アカ」でした。「僕を分かってよ!」というエヴァンゲリオンだかのブサイクアニメキャラと同じです。そしてその理不尽さを転化させてのしめっぽい商売を行うしかなかったんですね、こういった人たちは。Susan Forward著の「毒になる親」という本が出てますけど、こういった「アカ」には生殖行為を禁止して数を減らしていかないと最悪なことになるんですね。そのうち「アカ」には選挙権を認めないとかいったことになって「アカ」自身も悲惨な目に合うことになります。
陳腐な人間関係工学化が陳腐であるだけにとどまらずどういった様に有害であるかというと、人間関係という他者との間に一見したところでは在るかのように思えるだけの漠然としたマザーコンプレックスな妄念が固定されることで、人間たる自己の内部までもが固定されるということにあります。しかし同時に人間は他者と関係を結び社会生活を送らないことには少なくとも現行の社会制度や技術では肉体の生命を保持できないので、そこで何が起こるかというと、「『自分』なる人間を工学的に捉えて、その一個の完成されたシステムであるところの自分が行うことを絶対的に正しいと思い込み考えるところから他者に対して『システムとして完成された自分なる人間を押し付ける』ということを全ての人間が行う」という惨劇です。だから「アカ」は戦争が内乱に転化された社会環境で生きる共産主義者である、ということを(別方面からも)言う・考えることができます。
こういった他人をダメにする「アカ」というのは「他者に対して人間的に足りないものを補おうとする」傾向というよりは性癖を持っています。これでまさしく人間ダメにされていくんですね。他者に対してその人間の短所を直接具体的にひたすら指摘するという行為を繰り返します。それは「アカ」が「アカ」たる自分の為に行っている行為であり、他人とってはいたずらに不快感を煽るだけのものであって何のメリットにもならないものであり、当然の如く「アカ」は他者から排斥されます。だからこそ「アカ」です。私の父親はコレの典型でした。
予定調和の発想だとか歴史を工学的に捉えるということはヘーゲルその他西洋の哲学者や神学者たちが現代の人間達に残してくれた知恵です。歴史が自己をつくっているということであり、全ての存在は歴史的現在であり歴史的自己(Dasein)なわけです。これは過去の思い出に生きるということではないです、その真逆です。要するに分かりやすく言うと常に良い(善い)方向を志向して常にそういった行動をとっていれば物事良い方向に傾くということです。俗な言い方をすればチャンスが転がり込んでくるとかツキがまわってくるだとかそういったことです、良いことをしてれば。
学校の勉強なんかコスパに捕らわれて一つの問題から多くを学ぼうとして曲がったことを行うよりただひたすら問題を解いていた方がいいです。というかそれが最もコストパフォーマンスの高い行いです。
だからもう「著者+書籍」というものが終焉です。知は絶対です。数学的であるとすら言えます。それをただ言語で記述すればいいんです。だからこういったことに関しては、後は昔の偉人たちの残した著作とそれを読み解いて後世に伝えられる知識収集能力を持った人間が居ればいいということであって、だから先の記事で書いたように人文科学教育者資格試験制度を国家試験あたりで作ってそういった教育者を養成できるようにすればいいんですね。
昼夜逆転の生活というのは最悪です。普通に夜しっかりと寝て昼間しっかりと覚醒している人たちは、覚醒剤使ってニュータイプになる必要も無いんですね。きちんと脳が覚醒していれば物事や他人のことが正確に理解できるようになるというだけの問題です。エニアグラムだかの、他者を挑発して、「自分」なる人間を工学的に捉えてその一個の完成されたシステムであるところの自分が行うことを絶対的に正しいと思い込み考えるところから他者に対して「システムとして完成された自分なる人間を押し付ける」という行為以外の何者でもない「タイプ判定」とやらで金を取るだけでは飽き足らず非健常者を何種類にも分けて「人間の性格はタイプ1、タイプ2、タイプ3……タイプ9に分類できます!」とかヌカして非健常者を釣ってメシのタネにしようとしているバカは有害この上無いアカい共産の新興宗教の教祖以外の何物でもないということです。しかもそれをダビデの星という具体的形象シンボルに焼き付けて被害者に記憶させようとするから最悪にタチが悪いわけです。これは陳腐にも人間関係工学化を試みて人間という人間を「アカ」化させようとする有害この上ない試み以外の何物でもないです。現代のイスラエルの人たちに対する冒涜ですらあります。
私はこのブログで哲学の文言を引っぱってきてどうとか言ってますけど、そんなものより食習慣を含めた生活習慣の方が余程大事であるのは言うまでもないとして、そういったことは一見したところでは何について語っているんだか分からないような哲学であろうが食い物のことであろうが全部繋がって関係してるんですね。試しに辞書を引いて音韻・使われている漢字・固有名詞だったらばその属性等を並べて知識の図を形づくっていけばいいんですね。いわゆる勉強が苦手な人でもほんのちょっとした工夫で知識の輪が広がっていきます。中卒だろうが高卒だろうがそういったくだらない形式的なことはどうでもいいです。気付いた時から始めればいいんです。おそらく人間死ぬまで勉強は終わりません。
ドイツ語というのは知恵の宝庫であり実に良い言語です。ドイツ語は英語よりも日本人には分かりやすいので勉強するのにもまったく苦になりません。英文法なんかドイツ語の初級を一通り勉強すればあっさりと分かるようになります。だからどんどんドイツ語の勉強をすることをお勧めします。
村上春樹さんの「風の歌を聴け」という小説にデレク・ハートフィールドという人物のエピソードが出てきます。フロイト先生がもし知ったら喜びそうな、性欲も含めて吐き散らかして書きなぐった挙句に"Heil, Hitler."で自殺した、みたいなことが書かれてます。人間関係はもちろんそうですけど、ヒトにおいて情報がストレスになるというのはあります。仮にそれが一見してストレスだとは感じられないようなものでも、何でもかんでも情報をsaveしておくのがいいというわけではないです。そこでオススメなのが、このブログの記事で何度か書いているように、経験したことや知ったことを何でも言語化して記述するということです。あいつがウゼえだとかダリーとかクセぇとかブサイクだとか書きまくるんです。書くことで自分にとって不愉快な情報が自分の手によって固定化されることで記憶から消去されます(他人の手に委ねたらダメです)。これがものすごくストレスの解消になるんですね。行動を起こすに躊躇することがなくなって、下手をすると運動しようかななんて気が起こったりします。たしかドストエフスキーの小説のどれかに、なんとかで若い頃転んでも特に野望のある人物でない限りは年をとってから多少肝臓をいためる程度のことであるとか書いてあるものがありましたけど、「酒を飲んで忘れる」というハイリスクでゼロリターンどころかさらに憎しみが膨れ上がって記憶に定着するような負のリターンを生む最悪な行為に及ぶ必要はないです。どんどんワープロソフトでもNOTEPAD.EXEでも使って言語化して記述していけばいいです。
右傾化というとちょっと表現がおかしいですけど、ストレスを解消すれば健常なところで身体的に固定化して実存しない精神的なものは限りなくゼロに近づくということです。
精神科医の先生が言ってましたけど、寝酒というのは最悪らしいです。睡眠誘発効果どころか睡眠に障害をきたすから絶対にやってはいけないということです。アルコールの害というのは計り知れないほどに強大みたいです。大学のサークルだかで強制的に酒を飲ませるとかいったのは論外です。マスコミの馬鹿共がよく言ってますけど禁煙がどうこうとガタガタ騒ぐ前に、禁酒法を作ればいいんですね。私は酒も飲みませんしタバコも吸いませんけど。ちなみに若い女の様にヒステリー症であり「他人の嫌がることをすすんでやります」と顔に書いてあるような私の父親という人間は、「酒は人格を崩壊させる」と言いながら毎日酒をガバガバ飲むというどうしようもない習慣があります。若い女がセックスにハマって売春婦化していくように快楽主義的であってどうしようもないです。
最近大阪市長の橋下徹さんが小学校に留年制度を設定しろと言ってましたけど、そうではなくて小学校の時点から学力別にきっちりクラス分けすればいいんですね。学力の高い子供たちが形成する社会環境は生活環境においても人間関係であっても良いものが出来上がります。人間誰しも皆良質な社会環境で生活したいわけであって、留年制度を設けるというやり方よりも、このクラス分け等によって劣等で悪質な粗暴児等とまともな子供たちの環境や人間関係をきっちりと分断することで子供達に勉強をすることへのincentiveが生まれます。実際フランスでは留年制度は劣等児を増やすだけであって上手くいってないそうです。それぞれの子供がその生育においてどういった社会環境を生きることになるかということを決定づけているその親も重要な役割を担っているのであって、残念ながら官吏やエリートサラリーマンの息子とマスコミ屋の息子とカンバン屋の息子では人間的な性質に上中下の差が有り過ぎます。しかも後者はやたら上昇志向が強くて他人を引きずり下ろそうとするケースが多々あります。豚は嫉妬豚です。豚というのは例外なく嫉妬豚です。あまりに理不尽な経験をしすぎて嫉妬や怨みその他負の感情が強すぎると、人間は自分が他人を恨んでいたり他人に嫉妬していることが自分で分からないまでに客観性を失います。自らも豚になる上に他人も豚へと引きずり下ろしていくということです。また、豚が形成するそういった不幸な社会環境を経験したことの無い人間は、そういった豚も豚が作る社会環境も知ることは無いので、不幸な人間が何故不幸であるかということやまた不幸になるかということをを知ることがありません。私はJudenであることから何とか脱したので自分が如何に豚であったかが今はよく分かります。
「悪い方向」へ傾いているから、いくら圧力をかけられてもどころではなく圧力をかけられればかけられる程に悪くなって精神も肉体も膨れ上がります。人間の場合は気圧の様に単純に外圧をかければへこむというものではないです。こういった悪質な単純思考を極めたのがナチスでした。現代ではネットがあるのであらゆる人が救われてます。
子供を守る母親の心理というのは、女はそもそも自らの呪い・憎しみと区別のつかないいわゆる愛情とやらの産物として子を産むということに基づいてます。つまり女というのは自らがその現在まで生きてきた全ての社会的経験の産物として「子供をつくる」ということです。だから一見したところではベタに見えるものでしかない昔のマンガやドラマでは、女が自分の命と引き換えにすらも自分の子供を守ろうとするシーンが描かれていたりします。自分の子供を殺そうとする女というのは、レイプされるのが好きな女であり売春婦の売春婦たる女王です。最悪のクズです。
ちなみにドイツ語でDameというのは(嫌味な意味で)「ご婦人」「女」「女王(気取り)」という意味です。要するにbitchのことです。
先天的に障害を持つ障害者の人たちは当人には全く非の無い負い目を負いながら生きてます。私は神父さんや坊さんではないので詳しくは知りませんけど、これは宗教の類でいうと、業(カルマ)を背負って生まれてきてその生を生きなければならないというものです。歴史上ユダヤ人だってただユダヤ人であるからという理由でユダヤ人学校等社会的に隔離された環境で教わるべきものを教わる機会を全く奪われた上で差別されていたのであって、それを差別したり虐殺したりしたところにヒットラーやナチスをはじめ迫害を行った者達の愚かさがあったということです。現代日本の義務教育は、こういったことを止めて万人に等しく機会は与えるべきであるというところにその本意義があります。が、しかし、むしろJudeな人間たちが自分たちから差別されたがっているという現状があります。一昔前のマスメディアが喧伝していたところの「下流志向」です。そういった人間たちはマザーコンプレックスで盲目的になってしまってます。マザーというのは最後の最後で愛していたものを捨てます。少なくともヒトのメスにおいては種の保存の欲求よりも自己保存欲の方が優位にあります。だから先の記事でも言ったように母親というのは自分にとっての最大のユダと考えるのが妥当です。にもかかわらずユダ(ヤ)というのは母親を求めるから愚劣の極みだということです。そしてその差別されたがり達がまともな人間たちを汚染して引きずり下ろして悪くしていく程に悪質であるというのが事実であって、おそらくヒットラー的思考というのは「何が何でもユダヤ人を殺してやる」というところからではなくこういった悪を志向する愚劣な人間たちがそこに居るという現実を見てしまったというところから出発しています。
戦前の時代に生きていた人たちは「アカ」が有害であることを分かってました。それに乗じて米英が鬼畜だとか言っていたのはその時代に生きていたそのアカ以外の人間もまた同じく無知で愚かであったということです。他人の不幸を蜜の味であるとの認識から離れられないから「アカ」だということです。現代の日本であってもやたらと中国の人たちを侮辱したりネットで叩いたりしているのは同じく「アカ」な連中です。共産主義者を自称している人たちだってどう鑑みても「アカ」とは呼べない人たちだって居ます。
高度経済成長期以前の大昔は何もかもが工学的でした。川端康成原作の「雪国」の映画で駒子を演じた女優の岸恵子さんはフランス人の男性と結婚する時、「毛唐の嫁になるような女優に駒子が演じられるはずがない」と言われたと自伝で書いてます。この発言をした人間はどう鑑みても明からさまな「アカ」ですけど、おそらく当時の右翼です。Jean Calvinの唱えるところの予定説なんてものは露骨なまでに帝国主義的人間関係工学意識の表れです。最悪なまでに「アカ」いです。つまりそういった知の観念や意思のもと特定の人間たちが特定の場所へ集まり特定の集団を名乗るので、それらのうちの一つとして「共産主義」なるものが「アカ」と呼ばれていたということです。見るものの男性ホルモンの分泌を促す赤い色を発する、若い女に象徴されるような、コミュニティーの内部では殺しあう共産主義ということで。
現代日本で都市部で教育を受けている子供たちや若者たちに「共産=アカであってどうこう……」と言っても全く通じません。別に若者たちが無知であるというわけではなくて、もちろん一定以上の学力を持った若者たちのことですけど、ネットや様々のデジタル機器の高頻度での使用ということもあって若者達はそれを大きく超えた知的能力や現象に対する読解能力を持っているということです。養老孟司さんという人の憂いは、結果としては若者のこの読解力の高さを憂うということに帰着してしまっています。つまり何が問題であるかというと、若者に能力が足りないわけでもなく自堕落なわけでもなく若者はそのあたりのことを学校でも親からも教わっていないということです。偉大な先人たちによって進歩してきた技術によって、そういった政治政党的なイデオロギーめいたものの認識はもはや必要が無いということです。
たしか二葉亭四迷だったと思いますけど、150年前の明治の開国期に英語を国語にしようと言っていた人が居ましたけど、そもそも最初から英語を国語にしておけば良かったんです。そうすればおそらく近代における少なくともこの日本という国にまつわるもろもろの悲劇は起こりませんでした。
マザーコンプレックスの権化たる世の中心地なるものは現代では無くなりました。というかもう何十年も前から無くなっていたのに在るように見せかけてその見せかけで存続してきていたものが実は無いものであるということが近年デジタル技術の発展によって判明したということに過ぎません。
日本人は「思って」ばかりいます。感情で全てをgelesenするので「存在の機」を持った他人は全て敵であり、傲岸不遜な兵隊ヤクザが昔は幅を利かせて滅茶苦茶をやってました。この囲われた鬼ヶ島では、江戸の昔から女性はレイプされながら生きてきました。小奇麗な時代劇なんざ凄まじいほどに作り物のまやかしです。江戸の実態を知っている者としてはとてもではないが江戸時代を肯定したりはできません。私は黒澤明監督の映画とかは見たことないんですけど、北野武さんはそういった暗部を垣間見せるような場面を映画作品の中で作ってます。
昔の日本人は全てスキゾであったと言っても過言ではありません。日本語がそもそもそういった言語であり、主語を欠いても意味が成立してしまうようなあまりいい言語ではありません。おそらく時代劇の製作者でもこのことを理解している人が居て、例えば「稲葉山城、陥落してございまする」というセリフに見られるように、この場合だと「が」という言葉を抜いてますけど、これはゲルマン語的であって良いです。これをものものしいという感慨で嫌うのは間違ってます。
歴史的流れから言って、賢いイギリス人にとっては名詞の性を失ったことが利益だったんですね。これは英語という言語がどういった言語か勉強すれば分かります。英語の言語構造から近代イギリス国家の帝国主義性までを繋げて論文を書いている学者がひょっとしたら居るかもしれません。逆に愚かとは言いませんけど女性的な日本人にとっては名詞に性が無いことがかなり不都合に働いています。だから米英からしてみれば良かれと考えて行っていることも、馬鹿な日本人にとっては「イギリスはずるい国」と映って言いがかりをつける連中が居たり、また「鬼畜米英」と映ってそれを標語化するという行為につながるというわけです。
私の父親というのは戦時中であったらば即徴兵されるような「アカ」です。こういったアカな人間というのは家族だろうが友人だろうが知人だろうが関係なく全てを自分の利益の為に利用する、最悪の場合全てを自分のキャラ立ての為に自分より弱い者は誰でも故意に踏み付けて相対的に自分のポジションを上げるという穢多豚の所業を行うんですね。私の父親はまさにこういった人間でした。だからアカには子供を作らせたらダメです。もう子供の時点で人格検査を行って法律で生殖行為を禁止しないとダメです。アカは大抵子供を作りたがりませんけど、中には子沢山に走るのも居るんですね。
ちなみにその息子の私にも若干アカの気があります、なるべく自分の内からそういったものを消そうと努力はしていますけど。
自分の子供を虐待する親の心理というのは、「自分」なる人間を工学的に捉えて、その一個の完成されたシステムであるところの自分が行うことを絶対的に正しいと思い込み考えるところから他者に対して「システムとして完成された自分なる人間を押し付ける」、ということから発しています。自己の存在に不安を抱えた人間が行う他者に対するレイプです。現代でいうと統合失調症患者に代表されるいわゆるキチガイ、少し前だと宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯的変質者、今でもネットの少し小暗い所を見れば分かる通りこういったのがまだウヨウヨ居ます(居ました)。つまりその絶対たる自分が差し向ける暴力を肯定できない他者は絶対たる存在ではないという非常な単純な思考の運びによって、こういった人間はそれを自己内肯定します。しかもあろうことかこのヒットラー的ユダヤ人であるこの私の父親、「ボクはセイクリッドな人間なんか認めないからねっ」とホザいているクズでもあります。つまり自分を神だと思っているということです。まさにチャップリンにネタ劇の笑いの材料にされる総統閣下です。どうしようもない馬鹿です。この男あまりに人間的につまらな過ぎて会話とかロクに出来ないもので、子供の頃から人様にバカにされまくってきたという「歴史」をご丁寧にもお持ちです。ちなみに分かりやすくマンガ的キャラで言うとジャイアンではなくてスネ夫です。Oliver Hirschbiegel監督の「ヒトラー ~最期の十二日間~」という映画がありますけど、この映画でBruno Ganz氏演じるヒットラーがあまりに自分の父親の特徴を的確に表現しているので驚嘆しました。これに登場するヒットラーの愚かさや子供じみた馬鹿さ加減や陳腐さがあまりに自分の父親のそれと同じなので感動すらしました。
これが心理であるというのは、私の父親はこういった精神異常者であり犯罪者の典型ですけど、これを故意に行っているという自覚はご本人様にもあるということです。というのはこの男警察が恐くて近寄れません。先の記事で言った、私を訪問してきたヤクザというのは下手をすれば父親の敵ではなくて父親の回し者です。私が通っていた精神科クリニックのN田医師とて私の父親のせいで犯罪に加担させられた犠牲者の一人です。父親の部下だった人に直に聞いたんですけど、弱い対象である自分の部下に対しても横暴を振るう人間だったみたいです。
「 しかしこのような記憶のはたらきが心象によるものであるかいなかを、だれが容易に決定することができようか。実際わたしがあるものを石とよび太陽とよぶとき、そのもの自体はわたしの感覚に対して現存しないかもしれないが、しかしそれらのものの心象はたしかにわたしの記憶のうちに存するのである。わたしは身体の苦痛ということを口にするけれども、なにも苦しくないとき身体の苦痛はわたしに対して現存しない。それにもかかわらずその心象がわたしの記憶のうちに存しないなら、わたしは自分の口にすることを知らないであろうし、またそれについて語る際に、それと快楽とを区別することができないであろう。―後略―」
これはAurelius Augustinus著"CONFESSIONES"(「告白」)よりの引用です。ここで聖アウグスティヌスが言っているこの区別できなさが極めて危険である、ということです。これが他に向いたのがヒットラーや私の父親であり、内に向いたのがユダヤ人です。
そもそも父方の祖母が若い頃に苦労をしたような強迫神経的な目的達成偏重とでも呼べる異常者でした。私の父親はその異常者である祖母に子供の頃虐待に近いことをされたようです。
ユダヤの人たちはそもそも第一手目に理不尽な目に合わされるという社会環境を強制されてきました。自分の存在の無根拠な不安を満たすために自分の存在を存在のみで主張するという、甘えを基調とする「アカ」がこういった社会環境を作り出し、あろうことか子供まで作るという行為に及ぶからさらにますます「アカ」であるユダヤ人が増える、ということです。それを憂いて虐殺に走ったヒットラーもまた同じく「アカ」でした。「僕を分かってよ!」というエヴァンゲリオンだかのブサイクアニメキャラと同じです。そしてその理不尽さを転化させてのしめっぽい商売を行うしかなかったんですね、こういった人たちは。Susan Forward著の「毒になる親」という本が出てますけど、こういった「アカ」には生殖行為を禁止して数を減らしていかないと最悪なことになるんですね。そのうち「アカ」には選挙権を認めないとかいったことになって「アカ」自身も悲惨な目に合うことになります。
陳腐な人間関係工学化が陳腐であるだけにとどまらずどういった様に有害であるかというと、人間関係という他者との間に一見したところでは在るかのように思えるだけの漠然としたマザーコンプレックスな妄念が固定されることで、人間たる自己の内部までもが固定されるということにあります。しかし同時に人間は他者と関係を結び社会生活を送らないことには少なくとも現行の社会制度や技術では肉体の生命を保持できないので、そこで何が起こるかというと、「『自分』なる人間を工学的に捉えて、その一個の完成されたシステムであるところの自分が行うことを絶対的に正しいと思い込み考えるところから他者に対して『システムとして完成された自分なる人間を押し付ける』ということを全ての人間が行う」という惨劇です。だから「アカ」は戦争が内乱に転化された社会環境で生きる共産主義者である、ということを(別方面からも)言う・考えることができます。
こういった他人をダメにする「アカ」というのは「他者に対して人間的に足りないものを補おうとする」傾向というよりは性癖を持っています。これでまさしく人間ダメにされていくんですね。他者に対してその人間の短所を直接具体的にひたすら指摘するという行為を繰り返します。それは「アカ」が「アカ」たる自分の為に行っている行為であり、他人とってはいたずらに不快感を煽るだけのものであって何のメリットにもならないものであり、当然の如く「アカ」は他者から排斥されます。だからこそ「アカ」です。私の父親はコレの典型でした。
予定調和の発想だとか歴史を工学的に捉えるということはヘーゲルその他西洋の哲学者や神学者たちが現代の人間達に残してくれた知恵です。歴史が自己をつくっているということであり、全ての存在は歴史的現在であり歴史的自己(Dasein)なわけです。これは過去の思い出に生きるということではないです、その真逆です。要するに分かりやすく言うと常に良い(善い)方向を志向して常にそういった行動をとっていれば物事良い方向に傾くということです。俗な言い方をすればチャンスが転がり込んでくるとかツキがまわってくるだとかそういったことです、良いことをしてれば。
学校の勉強なんかコスパに捕らわれて一つの問題から多くを学ぼうとして曲がったことを行うよりただひたすら問題を解いていた方がいいです。というかそれが最もコストパフォーマンスの高い行いです。
だからもう「著者+書籍」というものが終焉です。知は絶対です。数学的であるとすら言えます。それをただ言語で記述すればいいんです。だからこういったことに関しては、後は昔の偉人たちの残した著作とそれを読み解いて後世に伝えられる知識収集能力を持った人間が居ればいいということであって、だから先の記事で書いたように人文科学教育者資格試験制度を国家試験あたりで作ってそういった教育者を養成できるようにすればいいんですね。
昼夜逆転の生活というのは最悪です。普通に夜しっかりと寝て昼間しっかりと覚醒している人たちは、覚醒剤使ってニュータイプになる必要も無いんですね。きちんと脳が覚醒していれば物事や他人のことが正確に理解できるようになるというだけの問題です。エニアグラムだかの、他者を挑発して、「自分」なる人間を工学的に捉えてその一個の完成されたシステムであるところの自分が行うことを絶対的に正しいと思い込み考えるところから他者に対して「システムとして完成された自分なる人間を押し付ける」という行為以外の何者でもない「タイプ判定」とやらで金を取るだけでは飽き足らず非健常者を何種類にも分けて「人間の性格はタイプ1、タイプ2、タイプ3……タイプ9に分類できます!」とかヌカして非健常者を釣ってメシのタネにしようとしているバカは有害この上無いアカい共産の新興宗教の教祖以外の何物でもないということです。しかもそれをダビデの星という具体的形象シンボルに焼き付けて被害者に記憶させようとするから最悪にタチが悪いわけです。これは陳腐にも人間関係工学化を試みて人間という人間を「アカ」化させようとする有害この上ない試み以外の何物でもないです。現代のイスラエルの人たちに対する冒涜ですらあります。
私はこのブログで哲学の文言を引っぱってきてどうとか言ってますけど、そんなものより食習慣を含めた生活習慣の方が余程大事であるのは言うまでもないとして、そういったことは一見したところでは何について語っているんだか分からないような哲学であろうが食い物のことであろうが全部繋がって関係してるんですね。試しに辞書を引いて音韻・使われている漢字・固有名詞だったらばその属性等を並べて知識の図を形づくっていけばいいんですね。いわゆる勉強が苦手な人でもほんのちょっとした工夫で知識の輪が広がっていきます。中卒だろうが高卒だろうがそういったくだらない形式的なことはどうでもいいです。気付いた時から始めればいいんです。おそらく人間死ぬまで勉強は終わりません。
ドイツ語というのは知恵の宝庫であり実に良い言語です。ドイツ語は英語よりも日本人には分かりやすいので勉強するのにもまったく苦になりません。英文法なんかドイツ語の初級を一通り勉強すればあっさりと分かるようになります。だからどんどんドイツ語の勉強をすることをお勧めします。
PR