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an industrial complex
2012.04.07 Saturday
哲学科の学生がワープロソフトの白黒反転機能で黒字に白いドイツ語を打つとは、言い得て妙な。
ちょっとあまりに程度が低いという意味で酷いのでこれについて書きますけど、2012年4月2日、つまり私がブログに記事をupした日の直後、外で「なんとかなんとか言ってんじゃね~よぉ~(なんたらかたら」という子供の大きな声がしました。近日では、子供が泣き叫ぶような大きな声を故意に立てたり叫ぶように「ありがとうございま~す」というセリフをホザくパターンまであります。同じような子供の大きな金きり声で「なんとかなんとかは弱いものイジめじゃね~かよぅ!」と言う声が聞こえる場合まであります。先の記事でも書いたように、あの程度の小学校に入学するかしないかあたりの幼児に対して特定のセリフを発するように命令しているストーカーである犯罪者の大人が居る、ということです。幼児が私のブログの記事を読んで内容を理解することは不可能だからです。私にブログに記事をupされると困る悪質な犯罪者が居る、ということです。
これは、昔からこのブログで何度も書いているように、10歳に満たない子供に「ストーキング被害者には当人に関しているかどうか断定できないが、それらしきこと」を直に話しかけるのでも何でもなく遠くから石を投げつけるのというような卑怯なやり方と同じようにして言わせるということで、ということでストーキングを行うというものです。まるで被害者である私SSが何らかの加害者であるかのようにに思い込ませようとする犯罪者集団の試みです。これももう何度もこのブログで書きましたけど、もちろんストーカー被害者がこういっストーカー被害を認知するには何らかのきっかけを必要とし、そしてまたその特定の何らかのきっかけから具体的事実(具体的行動)を連鎖させて「『それがストーカーしていることの証であることをストーカー被害者に知らしめる』という形でストーカー加害を被害者に対して行っていく」ということをストーカー行為の加害者達は行っていきます。
ちなみに私SSの場合であると、弱いものイジメをされているのは私SSであり、私SSはマスコミも含めた集団ストーカー行為の被害者です。これはイジメとかなんとかいう生易しい形容で片付けられるものではなく、殺人です。犯罪者の豚共は、どうしても私SSがストーカー加害行為に屈してくれないので、今度はまるで私SSが弱いものイジメをしたり何らかの加害者であったりするかのように無知な10歳にも満たない子供を使ってまで思い込ませようとする、というわけです。これは被害妄想を煽るならぬ加害妄想を煽るという行為です。(このことについてはもちろん精神科医がストーカー加害者とタグを組んでいる場合が多々あります。精神科医の中にも犯罪者が居るということです。私SSの場合であると、国立精神・神経センター病院の医師であったところのM'z a 悪意(仮称)という名の医師とN田四R医師も若干犯罪行為に噛んでました。)。ストーカー加害を行う犯罪者集団は、「私の書いたものの内容を鑑みて『それは弱いものイジメだ』とそれに対する認識能力の無い10歳以前の子供に言わせる」ことで、まるで被害者が加害行為を行っているかのような被害妄想ならぬ加害妄想の煽りを行っているが、しかしあまりに頭が悪すぎて被害者には通じない、というわけです。ちなみにこの犯罪者集団は直接は絶対に私に話しかけてきません。もう集団を組んでいるところからして個々がチキンであることの証ですし、そもそも一対一の言葉のやり取りではこういった連中は私SSには絶対に勝てないということをストーカー加害者の犯罪者集団はしっかり知っているということもありますし、そもそも警察を呼ばれたら困るというのもある上にストーカー犯罪の証拠を残したら自分らが捕まるというのもあるからなんですね。集団で特定の一個人に対するストーカー行為に及ぶ、という時点でこのストーカー犯罪者共は個々人では無能な豚であることの証です。日本のマスコミなんてのはコレらの為す豚の群れです。私の場合だと近親の行う嫌がらせもそうですけど、近日だと私が外出中の20分くらいの間に母親が私の部屋に侵入して、私の洋服ダンスの引き出し開け放しておくという嫌がらせを行いました。もう外出時のストーカーでもネットのハッカーでも私の場合だと近親者の嫌がらせでも、レベルが低いというかやっていることが頭が悪すぎるわけです。こういった連中は馬鹿というよりは頭が悪いという形容が適切です。ちなみに精神科医はレベルが低いわけでも頭が悪いわけでもありません、彼らがストーカー行為に加担しているとなると明確な重犯罪です。もし自分がやられていると少しでも感じた人はしっかりとした弁護士に相談して法的手段に訴えないとダメです。そうしないと自殺に追い込まれるまでこういった豚共はやらかしてきます。私SSは主に自分の父親が関係する個人的な諸事情によりやらないもしくはできません、おそらくそういった犯罪のアレがあるんです、この日本という国においても。別に私は帝王気取りな人間でもコワモテでも何でもないんで、つまりはこういったストーキングを始めとした犯罪行為を他者に対してやらかすような豚共は一対一では絶対に一般市民には勝てないことが分かってるんで、こういった卑屈行為に及ぶ、というわけです。
要するにストーカーの犯罪者としては、被害者である私SSに自己防衛としての言動や行動に及ばれたら困るというのと、被害者に自己防衛行為に必要な客観的な目を失わせたいというものがあります。残念なことに完全な性善説な人間なんていうのはお話上のナザレのイエスさん以外には居ないんで、私SSも例外ではありません。自分をストーキングしてくる連中に対して、それらを善良であると思えたり考えたりすることのできる人間なんてものは世界中何処を探しても存在しません。
ちなみにジブレキサであろうがリスパダールであろうが抗精神病薬というものを服薬すると、その効能上否応なしに客観的な目が失われます。もちろんただ単にクスリだけ(特に抗精神病薬リスパダール)を飲ませようとする悪質な精神科医はこれを狙っています。
「 ―前略―それ故に、宗教がなお自分の根源に近く立っておって真実であり、誠実であればあるほど、それだけますます宗教は自分のこの本質をかくさない。すなわち、宗教の根源にあっては、神と人間との間の質的な区別または本質的な区別は全くひとつも存在しないのである。そして信心深い人間は、この同一性に対して決していきどおりを感じない。なぜかといえば信心深い人間の悟性はなお彼の宗教と調和しているからである。こうしてエホバは古代ユダヤ教においては、単に実存の方からみて人間的個体から区別された本質(存在者)にすぎなかったのである。しかるに質的には、すなわち彼の内的本質の方からみれば、エホバは完全に人間に等しかった。エホバは人間がもっている情熱と同じ情熱をもち、人間がもっている特性と同じ人間的な特性をもち、人間がもっている身体的特性さえもっていた。人びとは後世のユダヤ教においてはじめてエホバを人間からきわめて鋭く分離した。そして人びとは、後世のユダヤ教においてはじめて神人同感同情説(人間の感情を神へ移入すること)に対して、それがもともともっていた意味とは別な意味を想定するために、比喩のなかに逃げこんだのである。
キリスト教においてもまた事情はこれと同じであった。キリスト教の最古の文書においてはキリストの神性はまだ後のようにそれほど決定的にきわだっていなかた。とくにパウロのもとでは、キリストはなお、天と地との間・神と人間――または一般に最高のものに従属していた存在者――との間を浮動している不明確な存在者である。パウロのともではキリストは、天使のなかの第一のものであり最初に創造されたものではあるが、しかもなお創造されたものである。キリストはまた私のために生まれたものであるが、しかもなお創造されたものである。しかしそのときは天使もまた、そして人間もまた、創造されたものではなくて、産まれたものなのである。なぜかといえば神はまた天使や人間やの父でもあるからである。教会が始めてキリストを明白に神と同一化し、キリストを神のひとり子にし、キリストが人間や天使と違ったものであることを明確にし、そうしてキリストに被造物ではない永遠な存在者という独占権を与えたのである。
宗教に関する反省――神学――は、神の本質を〔人間の本質とは〕別な本質にし、人間の外部に引き出しておく。こういうやり方のうちで概念上最初のものは、正式な証明の対象にされる髪の実存である。」
これはLudwig Andreas Feuerbachという19世紀のドイツの哲学者のDas Wesen des Christentums(「キリスト教の本質」)という著作からの引用です。「個々の仕事への分業化」、物事における物証面での一面性、それを押し進めて(陳腐なる)人間関係工学においてまでそれを適用する、つまり象徴界までもっていってからそれを再世界化するというやり方で世界を構成した気になる、そして誰か特定少人数の特別な人間に責任を押し付けるという形で逆ナチスを行おうとしている、資本主義というよりは拝金主義に走っているJudenたちが居る、ということです。国歌である「君が代」が学校で唱歌される場合に起立を拒否する人たちが居ますけど、彼らとは同質であってしかも「君が代」を強制的に斉唱させるということとは比べ物にならない程に悪質な「逆君が代」みたいなことをやる穢多のユダヤ人が現在の日本でもまだ居るということです。つまり何百年も千年もの昔は悪徳な山椒大夫みたいな人さらいが主に子供をターゲットとして攫ってバラす(殺す)ということをやっていたんですが、近現代日本のような法治国家でそんなことをやったら即捕まるので、現代で連中が何をやるかというとターゲットの被害者を象徴化して一種のemblemにしてそこから被害者にまつわる肉体的でも精神的なものでも社会的なものでも要素要素を取り出してマスメディアを使ってサブカルチャーの作品群を作っていく、という形で人さらい仮想バラバラ殺人を行っている、ということです。手塚治虫作の「どろろ」という漫画がありますけど、あれは読んでそのまま被害者が妖怪を一匹一匹追いつつ自分の肉体のパーツを取り戻して被害者が加害者に復讐していくという形でこのことを描いた漫画です。Adolf Hitlerという人物はこれをやられて気が狂った人間です。現代日本ではご丁寧にも大塚英志さんが「多重人格探偵サイコ」という漫画で人造のエホバをそれが何たるかと共に描いてました。ちょっと作品のタイトルを忘れてしまった上に見たわけでもないんですけど、石原慎太郎さんが宣伝していて女優の岸恵子さんが出演している第二次大戦時下の特攻隊の若者の映画がありましたけど、こういった「君が代」なものとは逆に、「君を勝手にネタにしてカネを儲けさせてもらう」という「逆君が代」なことを行うJudenが居る、ということです、まだ現代日本でも。私は戦争賛美者ではないですけど、後者は非常に悪質です。豚はノーベル賞級の偉人でもない限り暴力に走ります。
ちなみにここでフォイエルバッハが言うところの、「人間の外部に引き出された神の本質」というのはdaという言葉で表されるものであったり二次元の平面におけるマクロ的定常線であったりします。
人間の行動において主語を無くして(言語による比喩という形で)考えるのがユダヤ人のやり方です。考えを特定の個人に適用して、物事によって分けて考えずに同じ動詞で表されることをひたすら真似して行うという形で行動に出ます。ちなみに人間の行動において主語を無くして「思う」のは日本人です。
ここで個人主義と産業における分業との悪質な履き違えやおそらくは意図的な混同というやり方で攻撃してくる連中も居ます。例えば精神科医です。精神科医の栄養学的無知たるや凄まじいです。M'z a 悪意医師は「学生の時に興味ない授業だとまともに聞かないでしょ。精神科医とてそれは同じです。」とあっさりと言ってのけました。薬物も食物も体内に入れるものという点では同じなわけであって、その薬効成分も栄養(とされている)成分も同じ物質である点で違いは無いです。にもかかわらず、精神科医は抗精神病薬を売らなければならないので、患者を薬漬けにして金の鳴る木に仕立て上げるというわけです。ちなみに抗精神病薬は使いようによっては良い薬にもなり得るものです。資本主義制度下においては儲からなければどうしようもないのでどんどんこういった悲惨な方向へ人間誰しも流されていく、というわけではなくて、意図的に資本主義とはそういうものであるというレッテルを貼り拝金主義へと持っていこうとするマザーコンプレックスに基づく人間の惰性というものがあるということです、特に日本人に多く。ちなみに一見しては意外だと思われるかもしれないですけど反ユダヤの人たちには菜食主義者が多かったりします。
数学的にマクロ的定常線を想定してみると物事何がどうなっているか理解しやすい、決まりごと(Dasein)としての物事のなんたるかが分かる、ということですけど、社会科学や人文(科学)においてこれが理解できるようになるには時間がかかるというか2012年現在の日本ではおそらくいわゆるFランク以外のまともな高等教育機関の大学院あたりまで行って勉強しないと分かるようにはなりません。だからこそ中等教育(中学校や高等学校)での数学の勉強が大事なんです。数学が出来ない人間はおそらく何をやってもダメです。私が予備校時代に、「自分に都合のいいものだけを持ってきてそれを使って証明した気になっている学者がどうたらこうたら~」と言っていた頭の禿げた豚みたいな顔をした無能な予備校講師が居ましたけど、自然科学の技術関連の論文はちょっと別でしょうけど一般的に論文を書くというのはマクロ的定常線に沿って部分的に一部一部材料を抜き出してそれを使って決まり事の何たるかを説明しているというだけに過ぎないのであって、この予備校講師の言っていたことは流浪民であって見失いがちな自己のidentifyのために知を利用するということ(自分に不都合なものは実証しようとしない論理実証主義者)と物事の説明の為に材料を集めて説明することの違いの区別がつかないJudenの発想です。
こういった人間たちは一般には豚と呼ばれてますし、日本ではこういった連中は昔は穢多と呼ばれてました。「豚」というのは見た目が太っているとかどうとか単純な問題だけではないです。「ユダヤ」の「豚」です。しかし肉体が太っている人間に豚が多いのもまた事実ではあります。
これに先立っては、そもそもターゲットに自分が特別な人間であると思い込ませようとする、というものがあります。1980年代のマンガあたりを見ると、そうやって子供を洗脳しようとしていたということがあまりにも明からさまです。それはつまりヒーロー云々の話だけではなくて、「こういう奴らが悪い奴らであり、こういう奴らは悪い奴らではないんだぞ」という間違った善悪像を当時の子供に週間連載という形でひたすらサブリミナルの如く刷り込んでいた、というのがあります。それと小中学校での悪質な穢多教師による「みんな一緒」「(見てくれだけでも)みんな仲良く」というひたすらに人を潰すマザコン義務教育の結果多くの真面目な人間たちがオタクに作り変えられました。昔の週間少年ジャンプに代表される悪質なマンガでは、ファンタジーというバトルロワイヤルな会場を敷いて世界の構成を逆転させてそこでこの卑屈犯罪行為を美化して悪い(ことになっている)大王をやっつける、という描写を週間連載という形でひたすらサブリミナルの如く描き続けて子供を洗脳しようとしてました。2012年時点でこれを読む人にとっては、私がここで言っていること自体がレベルが低すぎて「は?」と思われるかもしれませんけど、現在60歳前後の爺さん連は本当にこういった低レベルな発想で「子供たちにマンガを読んでもらいたい!」とかいう意思のもとマンガを描いてたんですね。ところが当の子供はそんなに頭が悪くはなかったので、先の記事で書いた私の場合の通り「ヒーローのヒーローたる滑稽さや陳腐さが面白くてマンガを読んでいた」というのが実態です(が、しかしそれもまた結果として悪影響ではありました)。特定の「業」界内でカネを回して自分らのマザーコンプレックスに裏打ちされたあまりよろしくないコミュニティーを存続させようとする豚の所業であるということです。
戦後の日本では義務教育でこういった人種差別的なものを教えることをおそらく法律で禁止してます。とは言っても個人的な子供の頃の経験を思い出すに教師が必死に子供同士での差別感を煽る発言を「お話」という形でやらかしてはいました。迷惑な騒音を立てる珍走バイク乗りでもそうですけど、工業高校的な連中の中にもマクロな定常状態から故意に差別を作り出そうとする悪質なクズであり同時にカスであるというのが居る、ということです。
おそらくはどこまで人間を騙せるか実験をしているというのもあります。そして同時に「騙されていることが分かって、社会上どうしようもなくなったならば自分らに屈しろ」と言っているわけです。しかし私SSのように「そして同時に『騙されていることが分かって、社会上どうしようもなくなったならば自分らに屈しろ』と言っているわけです」というところを分かられていては、被害者は自分らには屈してくれないので、ストーカー加害者達は被害者において自己防衛行為に必要な客観的な目を失わせようとする、というわけです。これが日本における穢多やJudenのやり口です。70~80年前のドイツでは、これにやられてしまった狂人Adolf Hitlerがこれがその社会制度上ユダヤ人であるとされている人たちのやっていることである、ということで、ユダヤ人という具体的な社会的カテゴリーにその元凶であることをなすりつけることで一種の復讐を果たしました。その結果罪の無い人たちまでが何百万人と悲惨な目にあって殺されました。しかしということはやはり戦争賛美者は「ユダヤ=ユダヤ人共」であるということでもあります。これが先の記事で書いた、不良人間集団が人間を引きずりこみその規模を拡大した結果その内部でマザーコンプレックス的な人間関係工学に基づいていただけの漠然とした組織構成ではもたなくなってその内部で殺し合いが始まった、というのが戦争たるものの本質であり、だから不良人間が「問題だ、問題だ」とやたらと自分らの存在だけを自分らの利点とし、何を勘違いしたか自分らの存在をそれそのものだけで優れているかのように主張しだし、その人口を増やし不良人間の規模を拡大し、挙句には内部で幾重にも分裂しだし殺し合いを始めて人口はその数を減らした、という自然淘汰のメカニズムの前に陳腐にもマザーコンプレックスは敗れ去った、という結果が存在するだけである、ということです。
先の記事で書いたとおり、「(まるでそうであるかのような)見せかけ」ということであれば、こういった悪質なJudenは何でもやります。例えば、警察署の近辺を走っている県警や警視庁のロゴの入ったパトロールカーがその警察署は当然として県警や警視庁所属のものでない単なるコスプレイヤーである可能性もいくらでもあります。デカルトという人は「理性を正しく導き、諸学における真理を求めるための方法についての叙説(方法叙説)」というもので「方法的懐疑」という形でこれについて語っています。
特定の人間にサブリミナルをかけるにおいて、それが私が言うところの「左へ流されないところの右の定常点」でもなんでもいいんですけど、そもそもあらかじめ何らかの既定点を作り事あるごとにそこへ立ち返らせるようなプログラミングをかけた上でランダムに「事」をターゲットに見せ付けたり聞かせたりその他五感に訴えることで、サブリミナルをかける側の人間が起こす「事」でないことにおいてもターゲットはその既定点へ立ち返るという行動を取るようになります。Bessarabiaという記事で書いた、「晴れの天気である」という事象において、特定のxさんが行動Aをとった時はxさんは「晴れの天気である」ことには気付かずxさんが行動Bをとった時にはxさんは「晴れの天気である」ことに気付く場合において行動Bを繰り返していると、xさんは「自分が行動Bをとったから→晴れの天気である」という誤った認識にいつの間にか取り憑かれていくというのは、これを被害者の立場から主観的に語ったものです。太宰治もあの時代に「『ラジオの電波に殺される!』という人も現れるというわけです」というようなことを書いてましたし、Virginia Woolfもこれが原因で自殺しましたけど、おそらく百何十年前の精神分裂病というものが医師によって既定されはじめてから、こういったことを行っていた連中が居たということです。
また、ターゲットが故意に意識を左へ流して何かを為そうとする時に限って、何かのサインを送ることで、反発を煽ってさらにそこで左への釣りを発生させて暴走させることもできます。何故かというと、「左」というのは反発そのものだからです。これが子供の頃からひたすら繰り返されると、あらゆる行為においてターゲットの主体的な左右のコントロール感が失われるという効果もあります。最悪です。私SSの場合はパソコンの電源を入れて何かを書く為のアプリケーションを起動させて何かをキーボードで打ち始めると、家の外で暴走バイクや暴走車の騒音が露骨に鳴り始めます。私のこの行為は自分に危害を加えてくる連中に対する反発と言えば反発の面もあるからです。これが万が一にも私SSの被害妄想ならばいいんですけど、残念ながらそうではないです。
思い出せば高校1、2年の時、夜に外でジョギングをしていて気持ちの悪い小柄なオバさんが私の前でワザとビビるようなマネをして走って逃げるような演技を行ったり、女子高生の制服を着たギャルみたいなのが道の真ん中でじゃがんでいたりしていたことがありました。さらに思い出すには、その変質者がジョギング中の私の前に現れた翌日学校へ行くと同級生の停学を何回も食らっているような悪童が私を見て何かの文句を言ってきたことも覚えています。
久しぶりにネットをつらつら見てたらgoogleの検索で出てきましたけど、今度はマスコミの豚共は故意にレベルを下げることで、自分らの表局域性をアピールし始めたんですね。もう大人は誰も新聞やテレビ等のマスコミ情報なんざあまりに表局域性に過ぎるつまりレベルが低すぎて相手にしてくれませんから、ここでマスコミはヤケに走って一見健全風味な空気を流すことによってそうとうに知能の足りない低レベルな人間か小学生くらいの子供に相手にしてもらおう、という魂胆です。メジャーなサーチエンジンを使用してすらあまりに子供騙し過ぎます。
パスカルの「パンセ」でたしか書いてありましたけど、「デカルトは彼固有の普遍的なものを人間一般のものとして表明したに過ぎない」というものに反論するとするのならば、デカルト的なキリスト教徒というのは、「悪事を含めてあまり何もしないが故に、教育システムが定常されている社会システムにおいては、皆同じ風な経験をするのでその人格形成上同じであるが故に、人間は皆同じで神という普遍的真理が存在するとある時認知し、そしてそう思い込む」ということです。それがキリスト教圏の社会形成上都合が良く、またそのような価値意識のもと形成されたキリスト教社会が最良であり最も強い、ということです。もちろん性悪説に基づいた恐怖政治が敷かれている社会よりも、より多くの人間がその善意のもと所属する社会の形成に参画する社会の方がその発展上上手くいくからです。こんなことはもう二千年前の時点で人類は知っていたということです。JazzやR&Bだかなんだかの黒人音楽や極めてキリスト教的なMarvin Gayeの楽曲を聴きながら、「みんな全ての人間を一律にしようとするからつまんねえんだよな」とかホザいている無知なユダヤのハゲた肉団子みたいな人間は馬鹿を極めているということです。これにおける善悪を巧妙に逆転させていたのが戦後の日本におけるマンガやアニメのいわゆるサブカルチャーでした。漫画家なんざ手塚治虫みたいなごく一部の優れた人間を除いて全てJudenです。で、ここで私は「そう思い込む」と言いましたけど、(これもまた現代日本における教育を受けた日本人としての私SSの「一面性」に陥った上でのキリスト教に対する解釈による言い方ではありますけど)キリスト教という「宗教の枠を超えて」、普遍的というか物理的に人間の身体を健常に保つという観点からして決まり事というのは存在するわけです。おそらく千年やそれ以上の昔はそういった人間が自身の肉体を健康に保つ術というのは医学というものではなく・物理学なんか当然ありませんでしたし・文学的という表現すら無く、決まりごととして皆が知っていたということです。2012年現在ではありがたいアメリカの人たちによってネットというものがあるので、さらにありがたいJimmy Walesさんみたいな人がやってくれているWikipedia等によって誰でも知識を得ることができるようになりました。
ちなみにパスカルというのはその肖像画を見れば分かりますけど、非常に豚っぽい顔立ちをしています。逆にデカルトは普通のまともな顔をしてます。
自分らの虚栄に満ちたそれこそ「パスカルが彼固有の普遍的なものを人間一般のものとして解釈したに過ぎない性悪説」によって、「Wikipediaは間違いが多い」という人間も居ますけど、もちろん中には間違いもありますけど、人類全体の知のパフォーマンスが上昇したことは間違いがないです。間違っていると見做したならばその記事を修正するなり自分で図書館へ行って調べればいいんです。馬鹿な日本人と違って賢いイギリス人は、某巨大匿名掲示板群の様ではなくWikipediaに代表されるような賢いネットの使い方をしているということです。
で、ここ半年かそこらで急激にNot currently under Education, Employee or Trainee対する叩きが減りましたけど、自慢げに「働いてます」とかヌカしたり「働く人」を識別無しに肯定したりする人間が居るんですけど、ヤクザ商売やバッタ商売に加担している分際で何を勘違いしているのかというお話です。そういった社会に禍を巻き起こすような害毒な「仕事」をされたり悪事に加担されたりすると一般市民が多大な損益を被るわけです。そんな社会に害毒撒き散らす商売で金を稼がれるんだったら一刻も早く首を吊って死んでもらわないと一般市民は迷惑するわけです。社会内に流通する貨幣がそういった悪徳な人間に回ってしまうことは大きく国家の損益となるわけです。だからそういった不必要どころか社会に害悪である職業に就く人間においては、それら全員が食料を生産する農作業その他まともな職業に従事して初めて他人に対して「メシ食うな」とか「働け」とか言う筋合いが発生するというわけです。専業主婦だってNot currently under Education, Employee or Traineeですけど、社会に害毒垂れ流す商売で「働い」て「仕事」をしている連中なんかとは比べ物にならない程まともです。だからマスコミ関係者は当然としてネットでグダグダ仕事がどうだとか一昔前だとリア充がどうだとかホザいている馬鹿共は悪事と区別のつかない「仕事」なんかせずにメシも食わずに一刻も早く首を吊って死んでいただきたい。例えばマンガ家やアニメ製作者やゲーム製作者なんか居ない方がいいですし、2012年時点での現代日本においては小説家あたりですらも居ない方がいい人間だらけです。
ちなみに、「法律は犯罪の加害者のためにある」という考え方は悪行に口実を与えることになりますけど、法律を全て無くしてしまえば全ての問題は行った(左)か行わない(右)かの二者択一の問題となります。
エニアグラムを利用している詐欺商売に勤しんでいるリュウトウマリコを自称する「当会」(?、笑)だかなんだかの某オカルトペテン教祖の失敗は、人間の「性格」にタイプというレッテルを貼っているのではなくて、過去の事象である人間の「経験」にタイプというレッテルを貼っている点にあります。だから固定されている社会(世界)に生きている(た)サルの如き原始人以外にはその「判定」を受け入れてくれず、一般の健常者はペテン詐欺に引っかかってくれないどころかケンカを売っているようにしか見做してもらえない、というわけです。万死に値します。
デカルトも再世界化な内容というか蓋然性どうこうと言ってますけど、人間の人格や経験を自分の物差しで再世界化して然りとは言ってません。私が先の記事で書いた精神疾患において「患者が患者であることにまつわる蓋然性というのは、これは病気です」というのは、精神病患者が(自分という)人間の人格や経験を自分の物差しで再世界化して然りであるとしてしまっている状態のことです。要するにマルクスが仮想上で「産業の現場」と形容しヒットラーが理想としたような人間全てが完全にロボットになるような状態にでもならない限りは、人というものにおいてデカルト的思考を適用してはいけないということです。というかいけないも何も失敗します、そういうことをやっても失敗するように出来てます。
そしてどんどん自分らの悪たるものがバレて都合が悪くなって、「右」の定常点から「左」への釣られが(誰かしらの特定個人というターゲットにおいてでも)否定され始めると、悪質なアカな人間は今度は「それは差別だ」と痴呆的なことを言い出したり「右が半分居るんだから左が半分居てもいい」とかいうことを匂わせたりして、自己の存在が自己の存在それそのもので肯定されることが蓋然的であるかのように主張しだすんですね。心底馬鹿の所業です。
住宅街で迷惑な騒音を立てる珍走バイクや珍走車の乗り主達を取り締まるには、まず第一に警察官の給料を大幅に上げればいいんですね。こういったところでミクロ経済学が役に立ちます。もちろん給与の高い職業であると同時には国家公務員Ⅰ種試験並の難解な試験を課します。そして警察官の人員を大幅に増やした上で、警察官が医師や弁護士や大学教授並みの名誉職であるという社会的コンテクストを作ればいいわけです。で、迷惑な騒音を立てる珍走バイクや珍走車の乗り主、具体的に言うならば違法改造その他により一定の音量以上の騒音を立てて原動機付き自転車や自動二輪車や自動車を運行させているそれの乗り主は白バイで地の果てまでも徹底的に追い詰めて拳銃で即時射殺することが可能である、という法律を作れば一発でこの問題は解決します。その上で現実的な問題としては、これを回避する為におそらくバイク製造者がエンジン音が極度に立たないものやそもそも一定以上のスピードが出ないものを作るという行為に出るので、これで問題は解決です。
何でもかんでも行ってしまうような万能的な行動力のある死をも恐れぬ男じみた人間というのは、まさしく死を恐れていないのであって、だからこそ何をするにも躊躇しないので何でもできるということです。そしてそのような人間の目からは、世界というのは何がどうなっているかの蓋然性に満ちているので何か物事を「やるかやらないか」ということしか目に入りません。マザーコンプレックスを全く持たない人間というのは世界中何処を探しても居ませんけど、つまりそのような人間にとっては(ほとんど)原因不明のものでしかない心情だか感情だかで物事を為すことに躊躇する他者は必然的に全て弱小なものに見えるということです。この場合「気が弱い」という形容すら適切ではないです、何故ならばこういった男には「気」などという概念すら無いからです。ちなみに悪質なJudenがはびこってしまった戦後のこの日本という国で30年生きてしまった私はこういった人間ではありません。
しかしつまりは現代社会で生きていく上で騙されない為には、純粋に行動面だけを鑑みて「(悪いことや法律違反行為を)やるか、やらないか」ということだけを念頭に置いておくもしくは考えておく、ということに尽きます。学校の教師は私SSが先のHide your face.という記事の小話で書いた島見図広吉(仮称)のようなクズを極めたような本来的には前世紀の戦前のドイツでユダヤ人学校にでも勤務していることが然るべきであるような典型的なユダヤ人教師でも実在しない限りは、まず絶対にこんなことは行わないでしょうけど、会社で上司が悪事や法律違反に加担することを強制してくるようであれば、そんなものはサッサと訴えるか警察に届け出るか辞めるかすればいいわけです。そうやって悪事に加担しながら生きれば生きる程に苦しくなっていきます、馬鹿丸出しです。そういった悪事には加担せずに死ぬ方が楽であって何より余程まともです。
「 宗教は自分が対象にそれ自身において(本質的に)外面的な薬味を加えることによってその対象を神聖化しようと望む。宗教はこのことによってただ自分だけを神聖な威力として言明する。宗教は自己以外にはただ地上的非神的な関係を知っているだけである。そのためにこそ宗教は、これらの関係を始めて神聖化し浄めるために、歩み寄って来るのである。」
これもLudwig Andreas Feuerbachの"Das Wesen des Christentums"(「キリスト教の本質」)からの引用です。もし仮に特定の一個人の自己表現としてこのような形容が可能であってしまうのならば、その人物は完全に何かに洗脳されている人間かもしくは精神異常者であって、2012現在ではおそらくSchizophrenie(日本語では統合失調症)と診断されます。ナザレのイエスと呼ばれた人はこの限りではありません、上述の通り。カトリック教会が後世にナザレのイエスさんをキリストであると取り決めました。分かりやすく二元論で単純化して説明するのならば、イエス・キリストのみがブラフマン的であり、Jeanne d'ArcさんやAdolf Hitlerさんは悪魔の権化たるアートマンであるということです。ジャンヌダルク個人は別に悪質な人間でも何でもなかったでしょうけど、社会統治上キリストであるイエス以外にブラフマン的なシンボルがあると危険だということなんですね。何故ならばジャンヌダルクは実在の一個人物であってブラフマンたり得ないからです。この実在の一個人であるにもかかわらずキリスト的メシアをやってその危険性たるものを体現して証明してくれたのがヒットラーです。ちなみに現代日本のビジュアル系ロックバンドだかは危険も何もお話にならないようなギャグのネタです、これはこれである意味完全なるお笑いギャグネタである(ギャグネタになりうる)という点において「危険性」を体現してくれてはいるので悪い見本としての知の参考にはなります。
カトリックもジェズイット(イエズス会)に限って言えば、ユダヤ人を子飼いにしているところがあります。もちろん悪い意味でも良い意味でもです。パウロはそもそもユダヤ人でした。上智大学という大学がありますけど、あそこには今もあるのか知りませんけど10年くらい前には文学部に新聞学科という馬鹿みたいな学科がありましたし(悪い意味)、また学生の中にはひたすら本を読んでいるだけという人も居ます(良い意味)。私は中央大学という大学が個人的に好きなんですけど、おそらく法律を勉強するに限って言えば上智の法学部へ行くくらいだったら中央の法学部へ行った方がいいです。少し噂に聞いたことがあるだけですけど、中央大学の法学部というのはかなりいいところみたいです。
それが法律違反であるということだけに限らず、悪いことというのは絶対にバレるようになってます。昔は子供に対して「大人ナメんなよ、」ということをちゃんと言ってくれる大人も居ました。ということはつまりは罪のなすり付けや冤罪も一発でバレるということです。ストーカーは被害妄想と同時に加害妄想も煽ってきますけど、何も気にする必要は無いです。
問題は、悪事や法律違反を、「やるか、やらないか」です。だから単純に右を選択しておけばいいというわけです。コンテクストを故意に無視するというのも、また能力の一つです。何か信じるものが無ければ生きていけないというのであれば、"Cogito ergo sum.(Je pense, donc je suis.)"かもしくは自分の肉体だけです。
ちょっとあまりに程度が低いという意味で酷いのでこれについて書きますけど、2012年4月2日、つまり私がブログに記事をupした日の直後、外で「なんとかなんとか言ってんじゃね~よぉ~(なんたらかたら」という子供の大きな声がしました。近日では、子供が泣き叫ぶような大きな声を故意に立てたり叫ぶように「ありがとうございま~す」というセリフをホザくパターンまであります。同じような子供の大きな金きり声で「なんとかなんとかは弱いものイジめじゃね~かよぅ!」と言う声が聞こえる場合まであります。先の記事でも書いたように、あの程度の小学校に入学するかしないかあたりの幼児に対して特定のセリフを発するように命令しているストーカーである犯罪者の大人が居る、ということです。幼児が私のブログの記事を読んで内容を理解することは不可能だからです。私にブログに記事をupされると困る悪質な犯罪者が居る、ということです。
これは、昔からこのブログで何度も書いているように、10歳に満たない子供に「ストーキング被害者には当人に関しているかどうか断定できないが、それらしきこと」を直に話しかけるのでも何でもなく遠くから石を投げつけるのというような卑怯なやり方と同じようにして言わせるということで、ということでストーキングを行うというものです。まるで被害者である私SSが何らかの加害者であるかのようにに思い込ませようとする犯罪者集団の試みです。これももう何度もこのブログで書きましたけど、もちろんストーカー被害者がこういっストーカー被害を認知するには何らかのきっかけを必要とし、そしてまたその特定の何らかのきっかけから具体的事実(具体的行動)を連鎖させて「『それがストーカーしていることの証であることをストーカー被害者に知らしめる』という形でストーカー加害を被害者に対して行っていく」ということをストーカー行為の加害者達は行っていきます。
ちなみに私SSの場合であると、弱いものイジメをされているのは私SSであり、私SSはマスコミも含めた集団ストーカー行為の被害者です。これはイジメとかなんとかいう生易しい形容で片付けられるものではなく、殺人です。犯罪者の豚共は、どうしても私SSがストーカー加害行為に屈してくれないので、今度はまるで私SSが弱いものイジメをしたり何らかの加害者であったりするかのように無知な10歳にも満たない子供を使ってまで思い込ませようとする、というわけです。これは被害妄想を煽るならぬ加害妄想を煽るという行為です。(このことについてはもちろん精神科医がストーカー加害者とタグを組んでいる場合が多々あります。精神科医の中にも犯罪者が居るということです。私SSの場合であると、国立精神・神経センター病院の医師であったところのM'z a 悪意(仮称)という名の医師とN田四R医師も若干犯罪行為に噛んでました。)。ストーカー加害を行う犯罪者集団は、「私の書いたものの内容を鑑みて『それは弱いものイジメだ』とそれに対する認識能力の無い10歳以前の子供に言わせる」ことで、まるで被害者が加害行為を行っているかのような被害妄想ならぬ加害妄想の煽りを行っているが、しかしあまりに頭が悪すぎて被害者には通じない、というわけです。ちなみにこの犯罪者集団は直接は絶対に私に話しかけてきません。もう集団を組んでいるところからして個々がチキンであることの証ですし、そもそも一対一の言葉のやり取りではこういった連中は私SSには絶対に勝てないということをストーカー加害者の犯罪者集団はしっかり知っているということもありますし、そもそも警察を呼ばれたら困るというのもある上にストーカー犯罪の証拠を残したら自分らが捕まるというのもあるからなんですね。集団で特定の一個人に対するストーカー行為に及ぶ、という時点でこのストーカー犯罪者共は個々人では無能な豚であることの証です。日本のマスコミなんてのはコレらの為す豚の群れです。私の場合だと近親の行う嫌がらせもそうですけど、近日だと私が外出中の20分くらいの間に母親が私の部屋に侵入して、私の洋服ダンスの引き出し開け放しておくという嫌がらせを行いました。もう外出時のストーカーでもネットのハッカーでも私の場合だと近親者の嫌がらせでも、レベルが低いというかやっていることが頭が悪すぎるわけです。こういった連中は馬鹿というよりは頭が悪いという形容が適切です。ちなみに精神科医はレベルが低いわけでも頭が悪いわけでもありません、彼らがストーカー行為に加担しているとなると明確な重犯罪です。もし自分がやられていると少しでも感じた人はしっかりとした弁護士に相談して法的手段に訴えないとダメです。そうしないと自殺に追い込まれるまでこういった豚共はやらかしてきます。私SSは主に自分の父親が関係する個人的な諸事情によりやらないもしくはできません、おそらくそういった犯罪のアレがあるんです、この日本という国においても。別に私は帝王気取りな人間でもコワモテでも何でもないんで、つまりはこういったストーキングを始めとした犯罪行為を他者に対してやらかすような豚共は一対一では絶対に一般市民には勝てないことが分かってるんで、こういった卑屈行為に及ぶ、というわけです。
要するにストーカーの犯罪者としては、被害者である私SSに自己防衛としての言動や行動に及ばれたら困るというのと、被害者に自己防衛行為に必要な客観的な目を失わせたいというものがあります。残念なことに完全な性善説な人間なんていうのはお話上のナザレのイエスさん以外には居ないんで、私SSも例外ではありません。自分をストーキングしてくる連中に対して、それらを善良であると思えたり考えたりすることのできる人間なんてものは世界中何処を探しても存在しません。
ちなみにジブレキサであろうがリスパダールであろうが抗精神病薬というものを服薬すると、その効能上否応なしに客観的な目が失われます。もちろんただ単にクスリだけ(特に抗精神病薬リスパダール)を飲ませようとする悪質な精神科医はこれを狙っています。
「 ―前略―それ故に、宗教がなお自分の根源に近く立っておって真実であり、誠実であればあるほど、それだけますます宗教は自分のこの本質をかくさない。すなわち、宗教の根源にあっては、神と人間との間の質的な区別または本質的な区別は全くひとつも存在しないのである。そして信心深い人間は、この同一性に対して決していきどおりを感じない。なぜかといえば信心深い人間の悟性はなお彼の宗教と調和しているからである。こうしてエホバは古代ユダヤ教においては、単に実存の方からみて人間的個体から区別された本質(存在者)にすぎなかったのである。しかるに質的には、すなわち彼の内的本質の方からみれば、エホバは完全に人間に等しかった。エホバは人間がもっている情熱と同じ情熱をもち、人間がもっている特性と同じ人間的な特性をもち、人間がもっている身体的特性さえもっていた。人びとは後世のユダヤ教においてはじめてエホバを人間からきわめて鋭く分離した。そして人びとは、後世のユダヤ教においてはじめて神人同感同情説(人間の感情を神へ移入すること)に対して、それがもともともっていた意味とは別な意味を想定するために、比喩のなかに逃げこんだのである。
キリスト教においてもまた事情はこれと同じであった。キリスト教の最古の文書においてはキリストの神性はまだ後のようにそれほど決定的にきわだっていなかた。とくにパウロのもとでは、キリストはなお、天と地との間・神と人間――または一般に最高のものに従属していた存在者――との間を浮動している不明確な存在者である。パウロのともではキリストは、天使のなかの第一のものであり最初に創造されたものではあるが、しかもなお創造されたものである。キリストはまた私のために生まれたものであるが、しかもなお創造されたものである。しかしそのときは天使もまた、そして人間もまた、創造されたものではなくて、産まれたものなのである。なぜかといえば神はまた天使や人間やの父でもあるからである。教会が始めてキリストを明白に神と同一化し、キリストを神のひとり子にし、キリストが人間や天使と違ったものであることを明確にし、そうしてキリストに被造物ではない永遠な存在者という独占権を与えたのである。
宗教に関する反省――神学――は、神の本質を〔人間の本質とは〕別な本質にし、人間の外部に引き出しておく。こういうやり方のうちで概念上最初のものは、正式な証明の対象にされる髪の実存である。」
これはLudwig Andreas Feuerbachという19世紀のドイツの哲学者のDas Wesen des Christentums(「キリスト教の本質」)という著作からの引用です。「個々の仕事への分業化」、物事における物証面での一面性、それを押し進めて(陳腐なる)人間関係工学においてまでそれを適用する、つまり象徴界までもっていってからそれを再世界化するというやり方で世界を構成した気になる、そして誰か特定少人数の特別な人間に責任を押し付けるという形で逆ナチスを行おうとしている、資本主義というよりは拝金主義に走っているJudenたちが居る、ということです。国歌である「君が代」が学校で唱歌される場合に起立を拒否する人たちが居ますけど、彼らとは同質であってしかも「君が代」を強制的に斉唱させるということとは比べ物にならない程に悪質な「逆君が代」みたいなことをやる穢多のユダヤ人が現在の日本でもまだ居るということです。つまり何百年も千年もの昔は悪徳な山椒大夫みたいな人さらいが主に子供をターゲットとして攫ってバラす(殺す)ということをやっていたんですが、近現代日本のような法治国家でそんなことをやったら即捕まるので、現代で連中が何をやるかというとターゲットの被害者を象徴化して一種のemblemにしてそこから被害者にまつわる肉体的でも精神的なものでも社会的なものでも要素要素を取り出してマスメディアを使ってサブカルチャーの作品群を作っていく、という形で人さらい仮想バラバラ殺人を行っている、ということです。手塚治虫作の「どろろ」という漫画がありますけど、あれは読んでそのまま被害者が妖怪を一匹一匹追いつつ自分の肉体のパーツを取り戻して被害者が加害者に復讐していくという形でこのことを描いた漫画です。Adolf Hitlerという人物はこれをやられて気が狂った人間です。現代日本ではご丁寧にも大塚英志さんが「多重人格探偵サイコ」という漫画で人造のエホバをそれが何たるかと共に描いてました。ちょっと作品のタイトルを忘れてしまった上に見たわけでもないんですけど、石原慎太郎さんが宣伝していて女優の岸恵子さんが出演している第二次大戦時下の特攻隊の若者の映画がありましたけど、こういった「君が代」なものとは逆に、「君を勝手にネタにしてカネを儲けさせてもらう」という「逆君が代」なことを行うJudenが居る、ということです、まだ現代日本でも。私は戦争賛美者ではないですけど、後者は非常に悪質です。豚はノーベル賞級の偉人でもない限り暴力に走ります。
ちなみにここでフォイエルバッハが言うところの、「人間の外部に引き出された神の本質」というのはdaという言葉で表されるものであったり二次元の平面におけるマクロ的定常線であったりします。
人間の行動において主語を無くして(言語による比喩という形で)考えるのがユダヤ人のやり方です。考えを特定の個人に適用して、物事によって分けて考えずに同じ動詞で表されることをひたすら真似して行うという形で行動に出ます。ちなみに人間の行動において主語を無くして「思う」のは日本人です。
ここで個人主義と産業における分業との悪質な履き違えやおそらくは意図的な混同というやり方で攻撃してくる連中も居ます。例えば精神科医です。精神科医の栄養学的無知たるや凄まじいです。M'z a 悪意医師は「学生の時に興味ない授業だとまともに聞かないでしょ。精神科医とてそれは同じです。」とあっさりと言ってのけました。薬物も食物も体内に入れるものという点では同じなわけであって、その薬効成分も栄養(とされている)成分も同じ物質である点で違いは無いです。にもかかわらず、精神科医は抗精神病薬を売らなければならないので、患者を薬漬けにして金の鳴る木に仕立て上げるというわけです。ちなみに抗精神病薬は使いようによっては良い薬にもなり得るものです。資本主義制度下においては儲からなければどうしようもないのでどんどんこういった悲惨な方向へ人間誰しも流されていく、というわけではなくて、意図的に資本主義とはそういうものであるというレッテルを貼り拝金主義へと持っていこうとするマザーコンプレックスに基づく人間の惰性というものがあるということです、特に日本人に多く。ちなみに一見しては意外だと思われるかもしれないですけど反ユダヤの人たちには菜食主義者が多かったりします。
数学的にマクロ的定常線を想定してみると物事何がどうなっているか理解しやすい、決まりごと(Dasein)としての物事のなんたるかが分かる、ということですけど、社会科学や人文(科学)においてこれが理解できるようになるには時間がかかるというか2012年現在の日本ではおそらくいわゆるFランク以外のまともな高等教育機関の大学院あたりまで行って勉強しないと分かるようにはなりません。だからこそ中等教育(中学校や高等学校)での数学の勉強が大事なんです。数学が出来ない人間はおそらく何をやってもダメです。私が予備校時代に、「自分に都合のいいものだけを持ってきてそれを使って証明した気になっている学者がどうたらこうたら~」と言っていた頭の禿げた豚みたいな顔をした無能な予備校講師が居ましたけど、自然科学の技術関連の論文はちょっと別でしょうけど一般的に論文を書くというのはマクロ的定常線に沿って部分的に一部一部材料を抜き出してそれを使って決まり事の何たるかを説明しているというだけに過ぎないのであって、この予備校講師の言っていたことは流浪民であって見失いがちな自己のidentifyのために知を利用するということ(自分に不都合なものは実証しようとしない論理実証主義者)と物事の説明の為に材料を集めて説明することの違いの区別がつかないJudenの発想です。
こういった人間たちは一般には豚と呼ばれてますし、日本ではこういった連中は昔は穢多と呼ばれてました。「豚」というのは見た目が太っているとかどうとか単純な問題だけではないです。「ユダヤ」の「豚」です。しかし肉体が太っている人間に豚が多いのもまた事実ではあります。
これに先立っては、そもそもターゲットに自分が特別な人間であると思い込ませようとする、というものがあります。1980年代のマンガあたりを見ると、そうやって子供を洗脳しようとしていたということがあまりにも明からさまです。それはつまりヒーロー云々の話だけではなくて、「こういう奴らが悪い奴らであり、こういう奴らは悪い奴らではないんだぞ」という間違った善悪像を当時の子供に週間連載という形でひたすらサブリミナルの如く刷り込んでいた、というのがあります。それと小中学校での悪質な穢多教師による「みんな一緒」「(見てくれだけでも)みんな仲良く」というひたすらに人を潰すマザコン義務教育の結果多くの真面目な人間たちがオタクに作り変えられました。昔の週間少年ジャンプに代表される悪質なマンガでは、ファンタジーというバトルロワイヤルな会場を敷いて世界の構成を逆転させてそこでこの卑屈犯罪行為を美化して悪い(ことになっている)大王をやっつける、という描写を週間連載という形でひたすらサブリミナルの如く描き続けて子供を洗脳しようとしてました。2012年時点でこれを読む人にとっては、私がここで言っていること自体がレベルが低すぎて「は?」と思われるかもしれませんけど、現在60歳前後の爺さん連は本当にこういった低レベルな発想で「子供たちにマンガを読んでもらいたい!」とかいう意思のもとマンガを描いてたんですね。ところが当の子供はそんなに頭が悪くはなかったので、先の記事で書いた私の場合の通り「ヒーローのヒーローたる滑稽さや陳腐さが面白くてマンガを読んでいた」というのが実態です(が、しかしそれもまた結果として悪影響ではありました)。特定の「業」界内でカネを回して自分らのマザーコンプレックスに裏打ちされたあまりよろしくないコミュニティーを存続させようとする豚の所業であるということです。
戦後の日本では義務教育でこういった人種差別的なものを教えることをおそらく法律で禁止してます。とは言っても個人的な子供の頃の経験を思い出すに教師が必死に子供同士での差別感を煽る発言を「お話」という形でやらかしてはいました。迷惑な騒音を立てる珍走バイク乗りでもそうですけど、工業高校的な連中の中にもマクロな定常状態から故意に差別を作り出そうとする悪質なクズであり同時にカスであるというのが居る、ということです。
おそらくはどこまで人間を騙せるか実験をしているというのもあります。そして同時に「騙されていることが分かって、社会上どうしようもなくなったならば自分らに屈しろ」と言っているわけです。しかし私SSのように「そして同時に『騙されていることが分かって、社会上どうしようもなくなったならば自分らに屈しろ』と言っているわけです」というところを分かられていては、被害者は自分らには屈してくれないので、ストーカー加害者達は被害者において自己防衛行為に必要な客観的な目を失わせようとする、というわけです。これが日本における穢多やJudenのやり口です。70~80年前のドイツでは、これにやられてしまった狂人Adolf Hitlerがこれがその社会制度上ユダヤ人であるとされている人たちのやっていることである、ということで、ユダヤ人という具体的な社会的カテゴリーにその元凶であることをなすりつけることで一種の復讐を果たしました。その結果罪の無い人たちまでが何百万人と悲惨な目にあって殺されました。しかしということはやはり戦争賛美者は「ユダヤ=ユダヤ人共」であるということでもあります。これが先の記事で書いた、不良人間集団が人間を引きずりこみその規模を拡大した結果その内部でマザーコンプレックス的な人間関係工学に基づいていただけの漠然とした組織構成ではもたなくなってその内部で殺し合いが始まった、というのが戦争たるものの本質であり、だから不良人間が「問題だ、問題だ」とやたらと自分らの存在だけを自分らの利点とし、何を勘違いしたか自分らの存在をそれそのものだけで優れているかのように主張しだし、その人口を増やし不良人間の規模を拡大し、挙句には内部で幾重にも分裂しだし殺し合いを始めて人口はその数を減らした、という自然淘汰のメカニズムの前に陳腐にもマザーコンプレックスは敗れ去った、という結果が存在するだけである、ということです。
先の記事で書いたとおり、「(まるでそうであるかのような)見せかけ」ということであれば、こういった悪質なJudenは何でもやります。例えば、警察署の近辺を走っている県警や警視庁のロゴの入ったパトロールカーがその警察署は当然として県警や警視庁所属のものでない単なるコスプレイヤーである可能性もいくらでもあります。デカルトという人は「理性を正しく導き、諸学における真理を求めるための方法についての叙説(方法叙説)」というもので「方法的懐疑」という形でこれについて語っています。
特定の人間にサブリミナルをかけるにおいて、それが私が言うところの「左へ流されないところの右の定常点」でもなんでもいいんですけど、そもそもあらかじめ何らかの既定点を作り事あるごとにそこへ立ち返らせるようなプログラミングをかけた上でランダムに「事」をターゲットに見せ付けたり聞かせたりその他五感に訴えることで、サブリミナルをかける側の人間が起こす「事」でないことにおいてもターゲットはその既定点へ立ち返るという行動を取るようになります。Bessarabiaという記事で書いた、「晴れの天気である」という事象において、特定のxさんが行動Aをとった時はxさんは「晴れの天気である」ことには気付かずxさんが行動Bをとった時にはxさんは「晴れの天気である」ことに気付く場合において行動Bを繰り返していると、xさんは「自分が行動Bをとったから→晴れの天気である」という誤った認識にいつの間にか取り憑かれていくというのは、これを被害者の立場から主観的に語ったものです。太宰治もあの時代に「『ラジオの電波に殺される!』という人も現れるというわけです」というようなことを書いてましたし、Virginia Woolfもこれが原因で自殺しましたけど、おそらく百何十年前の精神分裂病というものが医師によって既定されはじめてから、こういったことを行っていた連中が居たということです。
また、ターゲットが故意に意識を左へ流して何かを為そうとする時に限って、何かのサインを送ることで、反発を煽ってさらにそこで左への釣りを発生させて暴走させることもできます。何故かというと、「左」というのは反発そのものだからです。これが子供の頃からひたすら繰り返されると、あらゆる行為においてターゲットの主体的な左右のコントロール感が失われるという効果もあります。最悪です。私SSの場合はパソコンの電源を入れて何かを書く為のアプリケーションを起動させて何かをキーボードで打ち始めると、家の外で暴走バイクや暴走車の騒音が露骨に鳴り始めます。私のこの行為は自分に危害を加えてくる連中に対する反発と言えば反発の面もあるからです。これが万が一にも私SSの被害妄想ならばいいんですけど、残念ながらそうではないです。
思い出せば高校1、2年の時、夜に外でジョギングをしていて気持ちの悪い小柄なオバさんが私の前でワザとビビるようなマネをして走って逃げるような演技を行ったり、女子高生の制服を着たギャルみたいなのが道の真ん中でじゃがんでいたりしていたことがありました。さらに思い出すには、その変質者がジョギング中の私の前に現れた翌日学校へ行くと同級生の停学を何回も食らっているような悪童が私を見て何かの文句を言ってきたことも覚えています。
久しぶりにネットをつらつら見てたらgoogleの検索で出てきましたけど、今度はマスコミの豚共は故意にレベルを下げることで、自分らの表局域性をアピールし始めたんですね。もう大人は誰も新聞やテレビ等のマスコミ情報なんざあまりに表局域性に過ぎるつまりレベルが低すぎて相手にしてくれませんから、ここでマスコミはヤケに走って一見健全風味な空気を流すことによってそうとうに知能の足りない低レベルな人間か小学生くらいの子供に相手にしてもらおう、という魂胆です。メジャーなサーチエンジンを使用してすらあまりに子供騙し過ぎます。
パスカルの「パンセ」でたしか書いてありましたけど、「デカルトは彼固有の普遍的なものを人間一般のものとして表明したに過ぎない」というものに反論するとするのならば、デカルト的なキリスト教徒というのは、「悪事を含めてあまり何もしないが故に、教育システムが定常されている社会システムにおいては、皆同じ風な経験をするのでその人格形成上同じであるが故に、人間は皆同じで神という普遍的真理が存在するとある時認知し、そしてそう思い込む」ということです。それがキリスト教圏の社会形成上都合が良く、またそのような価値意識のもと形成されたキリスト教社会が最良であり最も強い、ということです。もちろん性悪説に基づいた恐怖政治が敷かれている社会よりも、より多くの人間がその善意のもと所属する社会の形成に参画する社会の方がその発展上上手くいくからです。こんなことはもう二千年前の時点で人類は知っていたということです。JazzやR&Bだかなんだかの黒人音楽や極めてキリスト教的なMarvin Gayeの楽曲を聴きながら、「みんな全ての人間を一律にしようとするからつまんねえんだよな」とかホザいている無知なユダヤのハゲた肉団子みたいな人間は馬鹿を極めているということです。これにおける善悪を巧妙に逆転させていたのが戦後の日本におけるマンガやアニメのいわゆるサブカルチャーでした。漫画家なんざ手塚治虫みたいなごく一部の優れた人間を除いて全てJudenです。で、ここで私は「そう思い込む」と言いましたけど、(これもまた現代日本における教育を受けた日本人としての私SSの「一面性」に陥った上でのキリスト教に対する解釈による言い方ではありますけど)キリスト教という「宗教の枠を超えて」、普遍的というか物理的に人間の身体を健常に保つという観点からして決まり事というのは存在するわけです。おそらく千年やそれ以上の昔はそういった人間が自身の肉体を健康に保つ術というのは医学というものではなく・物理学なんか当然ありませんでしたし・文学的という表現すら無く、決まりごととして皆が知っていたということです。2012年現在ではありがたいアメリカの人たちによってネットというものがあるので、さらにありがたいJimmy Walesさんみたいな人がやってくれているWikipedia等によって誰でも知識を得ることができるようになりました。
ちなみにパスカルというのはその肖像画を見れば分かりますけど、非常に豚っぽい顔立ちをしています。逆にデカルトは普通のまともな顔をしてます。
自分らの虚栄に満ちたそれこそ「パスカルが彼固有の普遍的なものを人間一般のものとして解釈したに過ぎない性悪説」によって、「Wikipediaは間違いが多い」という人間も居ますけど、もちろん中には間違いもありますけど、人類全体の知のパフォーマンスが上昇したことは間違いがないです。間違っていると見做したならばその記事を修正するなり自分で図書館へ行って調べればいいんです。馬鹿な日本人と違って賢いイギリス人は、某巨大匿名掲示板群の様ではなくWikipediaに代表されるような賢いネットの使い方をしているということです。
で、ここ半年かそこらで急激にNot currently under Education, Employee or Trainee対する叩きが減りましたけど、自慢げに「働いてます」とかヌカしたり「働く人」を識別無しに肯定したりする人間が居るんですけど、ヤクザ商売やバッタ商売に加担している分際で何を勘違いしているのかというお話です。そういった社会に禍を巻き起こすような害毒な「仕事」をされたり悪事に加担されたりすると一般市民が多大な損益を被るわけです。そんな社会に害毒撒き散らす商売で金を稼がれるんだったら一刻も早く首を吊って死んでもらわないと一般市民は迷惑するわけです。社会内に流通する貨幣がそういった悪徳な人間に回ってしまうことは大きく国家の損益となるわけです。だからそういった不必要どころか社会に害悪である職業に就く人間においては、それら全員が食料を生産する農作業その他まともな職業に従事して初めて他人に対して「メシ食うな」とか「働け」とか言う筋合いが発生するというわけです。専業主婦だってNot currently under Education, Employee or Traineeですけど、社会に害毒垂れ流す商売で「働い」て「仕事」をしている連中なんかとは比べ物にならない程まともです。だからマスコミ関係者は当然としてネットでグダグダ仕事がどうだとか一昔前だとリア充がどうだとかホザいている馬鹿共は悪事と区別のつかない「仕事」なんかせずにメシも食わずに一刻も早く首を吊って死んでいただきたい。例えばマンガ家やアニメ製作者やゲーム製作者なんか居ない方がいいですし、2012年時点での現代日本においては小説家あたりですらも居ない方がいい人間だらけです。
ちなみに、「法律は犯罪の加害者のためにある」という考え方は悪行に口実を与えることになりますけど、法律を全て無くしてしまえば全ての問題は行った(左)か行わない(右)かの二者択一の問題となります。
エニアグラムを利用している詐欺商売に勤しんでいるリュウトウマリコを自称する「当会」(?、笑)だかなんだかの某オカルトペテン教祖の失敗は、人間の「性格」にタイプというレッテルを貼っているのではなくて、過去の事象である人間の「経験」にタイプというレッテルを貼っている点にあります。だから固定されている社会(世界)に生きている(た)サルの如き原始人以外にはその「判定」を受け入れてくれず、一般の健常者はペテン詐欺に引っかかってくれないどころかケンカを売っているようにしか見做してもらえない、というわけです。万死に値します。
デカルトも再世界化な内容というか蓋然性どうこうと言ってますけど、人間の人格や経験を自分の物差しで再世界化して然りとは言ってません。私が先の記事で書いた精神疾患において「患者が患者であることにまつわる蓋然性というのは、これは病気です」というのは、精神病患者が(自分という)人間の人格や経験を自分の物差しで再世界化して然りであるとしてしまっている状態のことです。要するにマルクスが仮想上で「産業の現場」と形容しヒットラーが理想としたような人間全てが完全にロボットになるような状態にでもならない限りは、人というものにおいてデカルト的思考を適用してはいけないということです。というかいけないも何も失敗します、そういうことをやっても失敗するように出来てます。
そしてどんどん自分らの悪たるものがバレて都合が悪くなって、「右」の定常点から「左」への釣られが(誰かしらの特定個人というターゲットにおいてでも)否定され始めると、悪質なアカな人間は今度は「それは差別だ」と痴呆的なことを言い出したり「右が半分居るんだから左が半分居てもいい」とかいうことを匂わせたりして、自己の存在が自己の存在それそのもので肯定されることが蓋然的であるかのように主張しだすんですね。心底馬鹿の所業です。
住宅街で迷惑な騒音を立てる珍走バイクや珍走車の乗り主達を取り締まるには、まず第一に警察官の給料を大幅に上げればいいんですね。こういったところでミクロ経済学が役に立ちます。もちろん給与の高い職業であると同時には国家公務員Ⅰ種試験並の難解な試験を課します。そして警察官の人員を大幅に増やした上で、警察官が医師や弁護士や大学教授並みの名誉職であるという社会的コンテクストを作ればいいわけです。で、迷惑な騒音を立てる珍走バイクや珍走車の乗り主、具体的に言うならば違法改造その他により一定の音量以上の騒音を立てて原動機付き自転車や自動二輪車や自動車を運行させているそれの乗り主は白バイで地の果てまでも徹底的に追い詰めて拳銃で即時射殺することが可能である、という法律を作れば一発でこの問題は解決します。その上で現実的な問題としては、これを回避する為におそらくバイク製造者がエンジン音が極度に立たないものやそもそも一定以上のスピードが出ないものを作るという行為に出るので、これで問題は解決です。
何でもかんでも行ってしまうような万能的な行動力のある死をも恐れぬ男じみた人間というのは、まさしく死を恐れていないのであって、だからこそ何をするにも躊躇しないので何でもできるということです。そしてそのような人間の目からは、世界というのは何がどうなっているかの蓋然性に満ちているので何か物事を「やるかやらないか」ということしか目に入りません。マザーコンプレックスを全く持たない人間というのは世界中何処を探しても居ませんけど、つまりそのような人間にとっては(ほとんど)原因不明のものでしかない心情だか感情だかで物事を為すことに躊躇する他者は必然的に全て弱小なものに見えるということです。この場合「気が弱い」という形容すら適切ではないです、何故ならばこういった男には「気」などという概念すら無いからです。ちなみに悪質なJudenがはびこってしまった戦後のこの日本という国で30年生きてしまった私はこういった人間ではありません。
しかしつまりは現代社会で生きていく上で騙されない為には、純粋に行動面だけを鑑みて「(悪いことや法律違反行為を)やるか、やらないか」ということだけを念頭に置いておくもしくは考えておく、ということに尽きます。学校の教師は私SSが先のHide your face.という記事の小話で書いた島見図広吉(仮称)のようなクズを極めたような本来的には前世紀の戦前のドイツでユダヤ人学校にでも勤務していることが然るべきであるような典型的なユダヤ人教師でも実在しない限りは、まず絶対にこんなことは行わないでしょうけど、会社で上司が悪事や法律違反に加担することを強制してくるようであれば、そんなものはサッサと訴えるか警察に届け出るか辞めるかすればいいわけです。そうやって悪事に加担しながら生きれば生きる程に苦しくなっていきます、馬鹿丸出しです。そういった悪事には加担せずに死ぬ方が楽であって何より余程まともです。
「 宗教は自分が対象にそれ自身において(本質的に)外面的な薬味を加えることによってその対象を神聖化しようと望む。宗教はこのことによってただ自分だけを神聖な威力として言明する。宗教は自己以外にはただ地上的非神的な関係を知っているだけである。そのためにこそ宗教は、これらの関係を始めて神聖化し浄めるために、歩み寄って来るのである。」
これもLudwig Andreas Feuerbachの"Das Wesen des Christentums"(「キリスト教の本質」)からの引用です。もし仮に特定の一個人の自己表現としてこのような形容が可能であってしまうのならば、その人物は完全に何かに洗脳されている人間かもしくは精神異常者であって、2012現在ではおそらくSchizophrenie(日本語では統合失調症)と診断されます。ナザレのイエスと呼ばれた人はこの限りではありません、上述の通り。カトリック教会が後世にナザレのイエスさんをキリストであると取り決めました。分かりやすく二元論で単純化して説明するのならば、イエス・キリストのみがブラフマン的であり、Jeanne d'ArcさんやAdolf Hitlerさんは悪魔の権化たるアートマンであるということです。ジャンヌダルク個人は別に悪質な人間でも何でもなかったでしょうけど、社会統治上キリストであるイエス以外にブラフマン的なシンボルがあると危険だということなんですね。何故ならばジャンヌダルクは実在の一個人物であってブラフマンたり得ないからです。この実在の一個人であるにもかかわらずキリスト的メシアをやってその危険性たるものを体現して証明してくれたのがヒットラーです。ちなみに現代日本のビジュアル系ロックバンドだかは危険も何もお話にならないようなギャグのネタです、これはこれである意味完全なるお笑いギャグネタである(ギャグネタになりうる)という点において「危険性」を体現してくれてはいるので悪い見本としての知の参考にはなります。
カトリックもジェズイット(イエズス会)に限って言えば、ユダヤ人を子飼いにしているところがあります。もちろん悪い意味でも良い意味でもです。パウロはそもそもユダヤ人でした。上智大学という大学がありますけど、あそこには今もあるのか知りませんけど10年くらい前には文学部に新聞学科という馬鹿みたいな学科がありましたし(悪い意味)、また学生の中にはひたすら本を読んでいるだけという人も居ます(良い意味)。私は中央大学という大学が個人的に好きなんですけど、おそらく法律を勉強するに限って言えば上智の法学部へ行くくらいだったら中央の法学部へ行った方がいいです。少し噂に聞いたことがあるだけですけど、中央大学の法学部というのはかなりいいところみたいです。
それが法律違反であるということだけに限らず、悪いことというのは絶対にバレるようになってます。昔は子供に対して「大人ナメんなよ、」ということをちゃんと言ってくれる大人も居ました。ということはつまりは罪のなすり付けや冤罪も一発でバレるということです。ストーカーは被害妄想と同時に加害妄想も煽ってきますけど、何も気にする必要は無いです。
問題は、悪事や法律違反を、「やるか、やらないか」です。だから単純に右を選択しておけばいいというわけです。コンテクストを故意に無視するというのも、また能力の一つです。何か信じるものが無ければ生きていけないというのであれば、"Cogito ergo sum.(Je pense, donc je suis.)"かもしくは自分の肉体だけです。
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