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2025.04.19 Saturday
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Esq.
2012.03.22 Thursday
意識しなくても無意識してる。
今でも私が部屋にいる時にマンションの隣の住居からコツコツコツコツと壁を叩く音や下の階からドカンドカンとドアや壁に対する激しい衝突音やひどいモーター音がしたりするんですけど、これは幻聴でも何でもありません、念のため。私が部屋のドアから一歩出ると全く音が消えるからです。部屋に出たり入ったりする度に聞こえなくなったり聞こえるようになったりする音が幻聴であるわけがないです。ギャグのネタにもなりません。
これはBessarabiaというタイトルの記事でも書いたんですけど、特定のxさんにそれがその行動であるという自覚を当人が持っている行動を取ったときに限って、外部から何らかのサインを送ることで、xさんはその特定のサインが自分がその行動を取っていることの(外部から知らしめられている)サインであると認知するようになります。これの副産物として、自己が外部化され且つまた同時に世界が自己に内部化されるという通常では考えられない事態が起こります。そうすると、「自分を読まれている」という妄念に取り付かれるようになり、また同時に自己以外の世界の事象を認知しそしてそれが自己内化されているので予測でき(ていると思い込んでい)るようになったりします。人間の肉体の構造は基本的には誰しも同じなので、それを当たっていると思ってしまう、というよりはどうやら「同じである」ということです。養老孟司さんという人はこういった考えというか、「そうである(Dasein)」と言っている人です。どのような場の形象においても人間の脳が外部化されているということならば、どのような状況においてもダビデの星やユングにおける曼荼羅模様のような認識もそりゃ共時的に人間の意識の根底に存在するわな、そう考えることができでしまうであろうな、という問題です。例えば視覚情報だけに限っても、おそらく人間の能力の問題でカオスなものとしてしか認識できないもしくはカオスでしかない景色・場の形象に、"Je pense, donc je suis."な人間の限界として何らかのdie Symbolik(the symbolized)を発生させるようになるということです。村上春樹さんがたしか毎日新聞かなにかで、「自分の身の回りのことを考えれば(そこから入っていけば)世界のことに通じることができる」ということを言ってましたけど、これも同じことです。村上春樹さんは「風の歌を聴け」ではこれを否定してましたけど。ちなみにタチが悪いのはその紋章的なdie Symbolikな何かから今度は世界どころか人間関係までをもgelesenされたものとして扱うというユダヤ的マザコン人間の所業です。
で、この記事ではこの副産物の方ではなくて以下に説明する実害の方が主題なんですけど、この洗脳じみたストーカー行為が前のnota beneという記事で書いた「きっかけ」となることが多いです。これが何百回何千回と繰り返されると、xさんはそのサインを表された時に自覚的にその行動へと駆り立てられるようになります。完全にイカれると、おそらくxさんはそのサインが表されるとその行動をとってしまうようになります。そしてサインでない現象をも何らかのサインであると思い込むようになり、結果、自己(self)が完全に外部化されてバラバラになります。これがおそらく精神分裂病の最終到達地点です。盗撮・盗聴されているというのが妄想であるとすると、この妄想の行き着く最終到達点は「自分が自分を盗み見ている」という認識です。三島由紀夫の「esが無い状態」というのが本当だとすると恐らくはこれです。
私の場合は、この自分の感情や思考とは全く関係ないものを関係づけさせまるでそれが関係あるかのように患者の中できっかけとしてのサインを作ったのが、元国立病院であったところの某病院のM'z a 悪意(仮称)という医師でした。非常に悪質です。
「イく」と「イカれる」という口語表現によって表されるこの二つのものは全く違います。死ぬ方は「イく」方です。日本語でも天皇のような特別な人間に対して使う、「天皇陛下がご崩御あそばされた」という表現がありますけど、ドイツ語でもこれに似たニュアンスを表すのにgehenの過去分詞形であるgegangenを使う表現の仕方があります。主体的に死ぬのは「逝く」です。敬語が使われる限りにおいては、社会工学的な構成のもと何らかの位置に配置された(天皇やder Fühlerのような)人間が工学的な認知におけるところの社会の側からして「死なれる、逝かれる」というわけです。ヒットラーの二人称は"Mein Führer, "です。マクロな定常的社会システムにおける総統の位置である人間に対してそのシステムに溶け込んでいる一員からして、「わが、総統」というわけです。私はドイツ語学者ではないのでちょっとこれが関係あるか分かりませんけど、ドイツ語でg(ゲー)を一つの単語で三回使うのはgegangenだけです。おちゃらけた人間が調子に乗るなバカということでブン殴られたその様を「あいつゲガンゲンされた(笑)」というのもニュアンス的にはドイツ人(の若者等)に通じそうといえば通じそうです。
いわゆる悪ガキがそのまま大人になったようなのがそこらへんに特にネットにはウジャウジャいますけど、ああいうのはひたすら「見せかけ」で騙してきます。女性的というよりは幼女的です。要するに人間関係そのものにおける釣りを人間関係工学化という形で行ってくるわけです、幼女がぬいぐるみの人形をもてあそぼうとするように。一般の人たちは単なる脅しには乗ってくれませんから、新興宗教の類の洗脳と同じくこういったクズは外部的な定常点を一つでも二つでも作ることから一般市民を陥れようと試みてきます。それが陳腐な(陳腐にも)「人間関係工学化」であったりダビデの星であったり、場合によっては律法に裏打ちされた家族形態であったりメディアによって喧伝される愛とかいう正体不明なものであったりするわけです。これはユダヤ人のやり方、というよりはユダヤ(YHWH)というものそのものです。幼女的である彼らは一般市民が自分らの思い通りにならないとギャーギャーとワガママを喚き立てます。十何年か前から某巨大匿名掲示板群で素晴らしい見本を見せてくれてます。性悪(性悪説)の世界です。ストーカー行為というものはこの「見せかけ」の最たるものです。「アカ」の為せる業です。日本のマスメディアの発信する情報を鑑みていれば分かりますけど、日本のマスコミというのは「アカ」が行っている「見せかけ」のこれまた最たるものです。ためしに例えばBBCのニュースと日本のマスコミが垂れ流す情報を見比べてみれば即分かります。前者に比べて後者のレベルが果てしなく低いとかそういったことがどうでもよくなる程に、前者に比べて後者の内容が如何に日本人の特質がよく表現された「見せかけ」に満ちているかがよく理解できます。
目的達成偏重の人間というのはあまりにも非数学的です。目的達成偏重の人間は、物事の道理は決まっていてそれにそって物事を行って決まりきったように行けば上手くいく(に決まっている)ということが分からないというよりは分かろうとしません。何十年も昔の文科系的というとおそらく分かりやすいですけど、こういった連中は「愛だとかなんかこう人間だけに特有のなにか素晴らしいものあるじゃない!」的な、それが自分の外部に在る何らかの定常点だと思い込んでいるエホバな妄念から抜け出せないということです。2012年現在で60代半ばあたりの人たちを言い表す「団塊の世代」という表現はこれを的確に表してますし、おそらく全共闘だとかいったものはこれが如実に現れた現象です。非常にユダヤ的です。自分の能力の低さをこだわりや決め付け等歪んだ趣向で誤魔化そうとしているだけであるということです。おそらく著作「わが闘争」の中でこれを否定しているAdolf Hitlerですらもこの気があります。
私は女性が自分を見て本能的に嫌悪を感じるということを知っています。それが健全な人間の心理の流れだということを知っているからです。キモいその他で生物学的な問題からして危険である男性を見て身の危険を感じない女性というのは危険です。そして中にはまるでそういった異性に嫌悪を感じていないかのような態度を取る女性がいます。私はそのような女性に嫌悪を感じます。それが装いでありまやかしであり負の感情を瞬間的にですらあれ押し潰した上での何らかの表しであることを私は知っているからです。私は自分が三十年間Judenとして生きてきたと書きましたけど、私は自分で自分がそのような人間であることを経験したことがある故、このことをよく知ってます。非常に人間的であるというか、非常に忌まわしいです。
人間関係における最大の自己防衛戦略は無為に他者と関わらないことです。女性の場合は生物学的な本能からその傾向が強いので大丈夫でしょうけど、男性の場合は故意にセックスをしないことです。先の記事でも書きましたけど、安易にそこらへんの犬みたいのとセックスをすると脅しのタネに使われます。穢多みたいなのだとかヤクザみたいのとお友達だとかいったのがそこらへんにウジャウジャいるわけです。
精神科の待合室見てると、ああもうこれはと思う程に本当に明らさまに精神病んでる人が多々居ますけど、そういう人は精神科医にベラベラ何でもしゃべっちゃうんですね。他者に対してでも他物に対してでも、長く精神を病みながら生活を続けてしまったことでマザーコンプレックスな社会環境に依存癖のようなものを刷り込まれてしまっているということです。これはつまり∞/0の因果関係を自分の外部に作り出してしまっているということです。ちなみに日本人の男性の場合だと若いうちから黒髪でハゲる人というのはコレが多いです。
しかも悪質なことに、しゃべってしまう患者に対して精神科医は全て吐き出させずに、頃合のところで精神病患者の話を切ります。精神病を患っている人間にとってはしゃべるならしゃべるで全て吐き出してしまった方が良いわけです。それなりに真面目に話を聞いてそれをしっかりとカルテに記録する健全な精神科医も居ますけど、ちなみに私のケースだとM'z a 悪意という医師がこの悪医者の典型的なケースでした。つまり患者を満足させずに生殺しを行って、ますます精神病の患者の容態を悪くするわけです。そして自分らに依存させて、「藪医者である俺らはもうかります、はいご苦労さん」というわけです。
はっきり言いますけど、精神科医なんざ裏で腐るほど患者の情報をベラベラ流しまくってます。とあるクリニックや大学病院で言った特定の言葉をそれとは別のクリニックで発するとそこの医者が露骨にニヤついたりするんですね。おそらく医師法だとか医事法だとか全くの無視で飲み屋でしゃべる感覚でグダグダグダグダしゃべってます。あの精神科医という連中の9割は犯罪者だと考えるのが妥当です。
日常的坐臥・決まりきった行動が何故大切であるかというと、決まりきった行動によって決まりきった良いクセが繰り返し想起されることによってその決まりきったクセを忘れないから、ということです。身体的に安定するからです。統合失調症の治療でも作業療法というものがあります。
ちなみにドイツ語だとArbeitは純粋な意味での「労働」という意味であり、Jobは「副業」「もうけ仕事」という意味です。
そもそも人間はストレスを処理する時に身体的に特定の筋肉を異常な仕方で働かせる傾向があります。(精神的なものに由来する)緊張だとか肩こりだとかはこれの結果としてあらわれます。コレが限界を超えるとその状態で固定されて不眠へとつながっていきます。病気になります。
髪を伸ばしてると肩が凝ったりどうでもいいことでストレスが溜まったりします。だから女性も丸刈りとは言わないまでも、短髪というかショートカットがいいです。ちなみにナチスのConcentration Camp(強制収容所)では収容された女性も丸刈りにされてましたけど、これはもちろん極端過ぎる例です。日本でももともと40年くらい前の全共闘とかの時代は、長髪は反抗の象徴とされてました。根本的な身体的な問題からして、若者はブサイクに髪をぞろぞろ伸ばしてその当時の大人に反抗するために反抗していたということです。もちろん明治の開国以降、そういった長髪が髪型として公に認められていた時期はおそらくありませんでした。
おそらく髪の毛をはじめとする毛というものは妄念や邪念の具現体ということで穢れたものとされてました。だから短髪や坊主頭のナショナリストを見て恐れるというのが全く間違っているんですね。長い黒髪の国粋主義者が居たらそれこそがキモいわけであって、危険だということです。別に象徴的な観点からして紋章のように妄念を引き連れて歩いていて危険でありどうこうというわけ(だけ)ではなくて、身体的に長髪というのは身体の外側への外圧が増すような感覚をもたらすんですね。
筋力トレーニングで、特定の部位を一定まで鍛えた後にその部位に別方向からの負荷をかけて鍛えることによって筋肉の量が増していきます。同じく外国語学習において、例えば印欧語の場合だと英語の学習の途中でドイツ語の学習をすることによって上達具合が増します。英語のリスニングなんかで、途中でしばらく英語を聴くのを止めてドイツ語を聴いていると、また英語を聴き始めた時に分かりやすくなっていたりします。こういったことはおそらく他のことでも同じです。
おそらく、人間においてコミュニケーション性を取り去れば、一戸内での家族系態も存続しなくなるので、一方向からのみの訓練がシステマティカルなものを破壊しないという意味で最も有効かつ有益なものとはなるでしょうけど、communicationizedを避けられない現代の少なくとも日本の死荷重が死荷重を生み出す構造の資本主義社会にあっては多方面からの訓練が必要であってしまいます。しかしこれも個々の案件によって場合によるというものであって、文字の連なりで構成されている文章を読解する為にマンガ(マンガ的解釈)が必要であるというのは間違っているのであって、文字句とマンガの関係については、文字についてはコミュニケーションで用いるという以前に絶対的な知的産物である故、文字の連なりを読むということを絵から発せられる空気を読むということで代替することは不可能です。文字すらも無かった時代もしくは人口のほとんどが識字能力を持たなかったような時代における文字や書物が、それは現代におけるマンガに当てはまるわけでもないです。音韻を文字化することやシンボルを簡略な形象化することと、文章の行間を絵ヅラ化することは全く違います。
今でも私が部屋にいる時にマンションの隣の住居からコツコツコツコツと壁を叩く音や下の階からドカンドカンとドアや壁に対する激しい衝突音やひどいモーター音がしたりするんですけど、これは幻聴でも何でもありません、念のため。私が部屋のドアから一歩出ると全く音が消えるからです。部屋に出たり入ったりする度に聞こえなくなったり聞こえるようになったりする音が幻聴であるわけがないです。ギャグのネタにもなりません。
これはBessarabiaというタイトルの記事でも書いたんですけど、特定のxさんにそれがその行動であるという自覚を当人が持っている行動を取ったときに限って、外部から何らかのサインを送ることで、xさんはその特定のサインが自分がその行動を取っていることの(外部から知らしめられている)サインであると認知するようになります。これの副産物として、自己が外部化され且つまた同時に世界が自己に内部化されるという通常では考えられない事態が起こります。そうすると、「自分を読まれている」という妄念に取り付かれるようになり、また同時に自己以外の世界の事象を認知しそしてそれが自己内化されているので予測でき(ていると思い込んでい)るようになったりします。人間の肉体の構造は基本的には誰しも同じなので、それを当たっていると思ってしまう、というよりはどうやら「同じである」ということです。養老孟司さんという人はこういった考えというか、「そうである(Dasein)」と言っている人です。どのような場の形象においても人間の脳が外部化されているということならば、どのような状況においてもダビデの星やユングにおける曼荼羅模様のような認識もそりゃ共時的に人間の意識の根底に存在するわな、そう考えることができでしまうであろうな、という問題です。例えば視覚情報だけに限っても、おそらく人間の能力の問題でカオスなものとしてしか認識できないもしくはカオスでしかない景色・場の形象に、"Je pense, donc je suis."な人間の限界として何らかのdie Symbolik(the symbolized)を発生させるようになるということです。村上春樹さんがたしか毎日新聞かなにかで、「自分の身の回りのことを考えれば(そこから入っていけば)世界のことに通じることができる」ということを言ってましたけど、これも同じことです。村上春樹さんは「風の歌を聴け」ではこれを否定してましたけど。ちなみにタチが悪いのはその紋章的なdie Symbolikな何かから今度は世界どころか人間関係までをもgelesenされたものとして扱うというユダヤ的マザコン人間の所業です。
で、この記事ではこの副産物の方ではなくて以下に説明する実害の方が主題なんですけど、この洗脳じみたストーカー行為が前のnota beneという記事で書いた「きっかけ」となることが多いです。これが何百回何千回と繰り返されると、xさんはそのサインを表された時に自覚的にその行動へと駆り立てられるようになります。完全にイカれると、おそらくxさんはそのサインが表されるとその行動をとってしまうようになります。そしてサインでない現象をも何らかのサインであると思い込むようになり、結果、自己(self)が完全に外部化されてバラバラになります。これがおそらく精神分裂病の最終到達地点です。盗撮・盗聴されているというのが妄想であるとすると、この妄想の行き着く最終到達点は「自分が自分を盗み見ている」という認識です。三島由紀夫の「esが無い状態」というのが本当だとすると恐らくはこれです。
私の場合は、この自分の感情や思考とは全く関係ないものを関係づけさせまるでそれが関係あるかのように患者の中できっかけとしてのサインを作ったのが、元国立病院であったところの某病院のM'z a 悪意(仮称)という医師でした。非常に悪質です。
「イく」と「イカれる」という口語表現によって表されるこの二つのものは全く違います。死ぬ方は「イく」方です。日本語でも天皇のような特別な人間に対して使う、「天皇陛下がご崩御あそばされた」という表現がありますけど、ドイツ語でもこれに似たニュアンスを表すのにgehenの過去分詞形であるgegangenを使う表現の仕方があります。主体的に死ぬのは「逝く」です。敬語が使われる限りにおいては、社会工学的な構成のもと何らかの位置に配置された(天皇やder Fühlerのような)人間が工学的な認知におけるところの社会の側からして「死なれる、逝かれる」というわけです。ヒットラーの二人称は"Mein Führer, "です。マクロな定常的社会システムにおける総統の位置である人間に対してそのシステムに溶け込んでいる一員からして、「わが、総統」というわけです。私はドイツ語学者ではないのでちょっとこれが関係あるか分かりませんけど、ドイツ語でg(ゲー)を一つの単語で三回使うのはgegangenだけです。おちゃらけた人間が調子に乗るなバカということでブン殴られたその様を「あいつゲガンゲンされた(笑)」というのもニュアンス的にはドイツ人(の若者等)に通じそうといえば通じそうです。
いわゆる悪ガキがそのまま大人になったようなのがそこらへんに特にネットにはウジャウジャいますけど、ああいうのはひたすら「見せかけ」で騙してきます。女性的というよりは幼女的です。要するに人間関係そのものにおける釣りを人間関係工学化という形で行ってくるわけです、幼女がぬいぐるみの人形をもてあそぼうとするように。一般の人たちは単なる脅しには乗ってくれませんから、新興宗教の類の洗脳と同じくこういったクズは外部的な定常点を一つでも二つでも作ることから一般市民を陥れようと試みてきます。それが陳腐な(陳腐にも)「人間関係工学化」であったりダビデの星であったり、場合によっては律法に裏打ちされた家族形態であったりメディアによって喧伝される愛とかいう正体不明なものであったりするわけです。これはユダヤ人のやり方、というよりはユダヤ(YHWH)というものそのものです。幼女的である彼らは一般市民が自分らの思い通りにならないとギャーギャーとワガママを喚き立てます。十何年か前から某巨大匿名掲示板群で素晴らしい見本を見せてくれてます。性悪(性悪説)の世界です。ストーカー行為というものはこの「見せかけ」の最たるものです。「アカ」の為せる業です。日本のマスメディアの発信する情報を鑑みていれば分かりますけど、日本のマスコミというのは「アカ」が行っている「見せかけ」のこれまた最たるものです。ためしに例えばBBCのニュースと日本のマスコミが垂れ流す情報を見比べてみれば即分かります。前者に比べて後者のレベルが果てしなく低いとかそういったことがどうでもよくなる程に、前者に比べて後者の内容が如何に日本人の特質がよく表現された「見せかけ」に満ちているかがよく理解できます。
目的達成偏重の人間というのはあまりにも非数学的です。目的達成偏重の人間は、物事の道理は決まっていてそれにそって物事を行って決まりきったように行けば上手くいく(に決まっている)ということが分からないというよりは分かろうとしません。何十年も昔の文科系的というとおそらく分かりやすいですけど、こういった連中は「愛だとかなんかこう人間だけに特有のなにか素晴らしいものあるじゃない!」的な、それが自分の外部に在る何らかの定常点だと思い込んでいるエホバな妄念から抜け出せないということです。2012年現在で60代半ばあたりの人たちを言い表す「団塊の世代」という表現はこれを的確に表してますし、おそらく全共闘だとかいったものはこれが如実に現れた現象です。非常にユダヤ的です。自分の能力の低さをこだわりや決め付け等歪んだ趣向で誤魔化そうとしているだけであるということです。おそらく著作「わが闘争」の中でこれを否定しているAdolf Hitlerですらもこの気があります。
私は女性が自分を見て本能的に嫌悪を感じるということを知っています。それが健全な人間の心理の流れだということを知っているからです。キモいその他で生物学的な問題からして危険である男性を見て身の危険を感じない女性というのは危険です。そして中にはまるでそういった異性に嫌悪を感じていないかのような態度を取る女性がいます。私はそのような女性に嫌悪を感じます。それが装いでありまやかしであり負の感情を瞬間的にですらあれ押し潰した上での何らかの表しであることを私は知っているからです。私は自分が三十年間Judenとして生きてきたと書きましたけど、私は自分で自分がそのような人間であることを経験したことがある故、このことをよく知ってます。非常に人間的であるというか、非常に忌まわしいです。
人間関係における最大の自己防衛戦略は無為に他者と関わらないことです。女性の場合は生物学的な本能からその傾向が強いので大丈夫でしょうけど、男性の場合は故意にセックスをしないことです。先の記事でも書きましたけど、安易にそこらへんの犬みたいのとセックスをすると脅しのタネに使われます。穢多みたいなのだとかヤクザみたいのとお友達だとかいったのがそこらへんにウジャウジャいるわけです。
精神科の待合室見てると、ああもうこれはと思う程に本当に明らさまに精神病んでる人が多々居ますけど、そういう人は精神科医にベラベラ何でもしゃべっちゃうんですね。他者に対してでも他物に対してでも、長く精神を病みながら生活を続けてしまったことでマザーコンプレックスな社会環境に依存癖のようなものを刷り込まれてしまっているということです。これはつまり∞/0の因果関係を自分の外部に作り出してしまっているということです。ちなみに日本人の男性の場合だと若いうちから黒髪でハゲる人というのはコレが多いです。
しかも悪質なことに、しゃべってしまう患者に対して精神科医は全て吐き出させずに、頃合のところで精神病患者の話を切ります。精神病を患っている人間にとってはしゃべるならしゃべるで全て吐き出してしまった方が良いわけです。それなりに真面目に話を聞いてそれをしっかりとカルテに記録する健全な精神科医も居ますけど、ちなみに私のケースだとM'z a 悪意という医師がこの悪医者の典型的なケースでした。つまり患者を満足させずに生殺しを行って、ますます精神病の患者の容態を悪くするわけです。そして自分らに依存させて、「藪医者である俺らはもうかります、はいご苦労さん」というわけです。
はっきり言いますけど、精神科医なんざ裏で腐るほど患者の情報をベラベラ流しまくってます。とあるクリニックや大学病院で言った特定の言葉をそれとは別のクリニックで発するとそこの医者が露骨にニヤついたりするんですね。おそらく医師法だとか医事法だとか全くの無視で飲み屋でしゃべる感覚でグダグダグダグダしゃべってます。あの精神科医という連中の9割は犯罪者だと考えるのが妥当です。
日常的坐臥・決まりきった行動が何故大切であるかというと、決まりきった行動によって決まりきった良いクセが繰り返し想起されることによってその決まりきったクセを忘れないから、ということです。身体的に安定するからです。統合失調症の治療でも作業療法というものがあります。
ちなみにドイツ語だとArbeitは純粋な意味での「労働」という意味であり、Jobは「副業」「もうけ仕事」という意味です。
そもそも人間はストレスを処理する時に身体的に特定の筋肉を異常な仕方で働かせる傾向があります。(精神的なものに由来する)緊張だとか肩こりだとかはこれの結果としてあらわれます。コレが限界を超えるとその状態で固定されて不眠へとつながっていきます。病気になります。
髪を伸ばしてると肩が凝ったりどうでもいいことでストレスが溜まったりします。だから女性も丸刈りとは言わないまでも、短髪というかショートカットがいいです。ちなみにナチスのConcentration Camp(強制収容所)では収容された女性も丸刈りにされてましたけど、これはもちろん極端過ぎる例です。日本でももともと40年くらい前の全共闘とかの時代は、長髪は反抗の象徴とされてました。根本的な身体的な問題からして、若者はブサイクに髪をぞろぞろ伸ばしてその当時の大人に反抗するために反抗していたということです。もちろん明治の開国以降、そういった長髪が髪型として公に認められていた時期はおそらくありませんでした。
おそらく髪の毛をはじめとする毛というものは妄念や邪念の具現体ということで穢れたものとされてました。だから短髪や坊主頭のナショナリストを見て恐れるというのが全く間違っているんですね。長い黒髪の国粋主義者が居たらそれこそがキモいわけであって、危険だということです。別に象徴的な観点からして紋章のように妄念を引き連れて歩いていて危険でありどうこうというわけ(だけ)ではなくて、身体的に長髪というのは身体の外側への外圧が増すような感覚をもたらすんですね。
筋力トレーニングで、特定の部位を一定まで鍛えた後にその部位に別方向からの負荷をかけて鍛えることによって筋肉の量が増していきます。同じく外国語学習において、例えば印欧語の場合だと英語の学習の途中でドイツ語の学習をすることによって上達具合が増します。英語のリスニングなんかで、途中でしばらく英語を聴くのを止めてドイツ語を聴いていると、また英語を聴き始めた時に分かりやすくなっていたりします。こういったことはおそらく他のことでも同じです。
おそらく、人間においてコミュニケーション性を取り去れば、一戸内での家族系態も存続しなくなるので、一方向からのみの訓練がシステマティカルなものを破壊しないという意味で最も有効かつ有益なものとはなるでしょうけど、communicationizedを避けられない現代の少なくとも日本の死荷重が死荷重を生み出す構造の資本主義社会にあっては多方面からの訓練が必要であってしまいます。しかしこれも個々の案件によって場合によるというものであって、文字の連なりで構成されている文章を読解する為にマンガ(マンガ的解釈)が必要であるというのは間違っているのであって、文字句とマンガの関係については、文字についてはコミュニケーションで用いるという以前に絶対的な知的産物である故、文字の連なりを読むということを絵から発せられる空気を読むということで代替することは不可能です。文字すらも無かった時代もしくは人口のほとんどが識字能力を持たなかったような時代における文字や書物が、それは現代におけるマンガに当てはまるわけでもないです。音韻を文字化することやシンボルを簡略な形象化することと、文章の行間を絵ヅラ化することは全く違います。
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