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Croix de Feu
 「紂を滅ぼしたるはこの女なり。」




 私はとある理由でA書類を2011年の8月19日にお役所に提出しました。で、後に手に入ったその書類によって発行される証明書の有効期限は、「法律が改正されない限りは2012年3月31まで、法律が改正されたらば2012年7月31日まで」となっていました。そして証明書を渡される際に手渡された説明用紙には「証明書の有効期限は一年間」と書いてありました。今回2012年の4月10日に区役所へこれに関することを聞きに行ったらば、いつも応対してくれる係りの若い男性職員が居るんですけど、彼は「法律が改正された場合の有効期限が7月31日であるのは提出月である8月の前月の末日であるからである」ということをきちんと説明してくれました。で、この証明書が手に入ったのは2011年の9月であって、その時と2011年の1月頃にこの証明書に関することを区役所へ聞きに行ってその時に応対された女性職員が二人、そして今回2012年の4月9日にこの証明書について聞きに行った時に出てきた女性職員が一人、出てきた女性職員が計三人居ます。この三人の女性職員は、「証明書の(証明書がが発行された場合の)有効期限は法律が改正されない限りは2012年3月31まで、法律が改正されたらば2012年7月31日までである」ということだけを説明し、誰も「法律が改正された場合の有効期限が7月31日であるのは提出月である8月の前月の末日であるからである」ということは説明しませんでした。2012年の4月9日にこれについての説明をした女性職員は「法律が改正されたので平成27年(2015年)まで有効になります」とだけ説明しました。そこで私SSが「平成27年の何月何日までですか?」と問うと、バツの悪そうな顔をして「3月31日までです」と答えました。前者二者の女性職員は「法律が改正された場合は証明書の有効期限は2012年7月31日までになる」ということは説明しても、後者の女性職員を含めてどの女性職員も「法律が改正された場合の有効期限が7月31日であるのは提出月である8月の前月の末日であるからである」ということは説明しませんでした。だから私は「法律が改正されて証明書の有効期限が4ヶ月延長されてその終了日が7月31日になる」と思い込んでいました。今回2012年4月9日に女性職員に説明を受けた後、2012年4月10日にこれを疑問に思って自分で聞きに行って、そしてその場で上記の男性職員が上述のような内容を説明してくれなかったら私は「証明書の有効期限は2012年7月31日までである」と思い込んだままでした。
 で、仮に私と同じ経験をするとして、人によっては「法律が改正されてもどうせ4か月期間が延びるだけだしそれの為に診断書を書いてもらうのにも何千円もかかって差し引き損益になるな」というように思い込みの上に思考を積み上げてしまって、諦めてそもそもお役所に申請に行かない、という人も居ますね、それが問題ですね、ということです。



 前の記事で、「法律は犯罪の加害者のためにある」という考え方は悪行に口実を与えることになりますけど法律を全て無くしてしまえば全ての問題は行った(左)か行わない(右)かの二者択一の問題となります、と書きましたけど、現代日本のような法治国家で社会生活を営むにおいて、あまりにも右に定常し過ぎて「何も無さ過ぎる」と、こういったところから「証拠さえ残らなければ何をやってもいい」という犯罪者や悪人の発想が生まれてきます。これを社会システム上においてのみ象徴として存せしめているのが日本の天皇制である、と言うことも可能です。
 私の父親はこの犯罪者や悪人の類の発想をする人間の典型でした。私だってネットで著作権法違反を犯したことがありますし、10代の頃に計二千円~三千円分の万引きを二、三回やったことがありますけど、(私の場合だと父親の仕事関係により)日本のマスコミやストーキングを行ってくるような悪質な連中に何を勘違いしたか正義ヅラをされる筋合いなど微塵も無いんですね。私の父親は私が子供の頃私をひたすら自身の低コンテクストによって嬲りものにしました。要するに低レベルなチンピラ並みの因縁付けによって、極めてくだらないことで「怒るために怒っていた」ということです。そして私はその内容の理不尽さにも関わらずあまりの低年齢により逆らえないのでひたすら我慢することによってひたすら自分を傷つけるという行動のパターンを刷り込まれました。これをやられると、人間はどんどん自己も含めた人間嫌悪が自己の中で加速していきます。幼少時から親の圧力が強すぎるもしくは過干渉であると、子供はどんどん自虐的で自己破壊的な行動パターンへと釣られてそれがアイデンティティであるかのように刷り込まれてまた同時に自分でもそれが自分の自己同一性であるかのように自己洗脳を掛けるようになり、最悪の場合自殺願望へと駆り立てられていきます。こうやって簡単にユダヤ人を作ることができてしまいます。

 「悪い人間も居るのです!」だとか「汚いやり方でやらないと勝てない人間も居る」だとかを堂々とホザくようなどれだけ馬鹿の極みなのかというエニアグラムを利用したリュウトウマリコを自称するオカルト新興宗教の教祖と何の違いがそこにあるのかという人間(集団)が居ますけど、それがどのようなコミュニティーであっても社会形成上、他者に危害を加える等の悪事を働いたり汚いやり方で他者を陥れたりする人間は排斥されるように出来てます。そんな人間の行為と存在を許容したらばその社会は即刻崩壊に向うからです。こんなことは小学校に入る前の幼稚園児でも理解できます。にもかかわらずにやらかすということは、例えば私の父親の場合ですと、自ら家庭を崩壊させようとしているかもしくは私SSが幼児の頃から私を反社会的人間に仕立て上げようとしていたということです。



 私はナチス賛美者でも何でもないですけど、ヒットラーが民主主義を腐ったものと吐き捨てて憎悪したものよく分かります。試しにfacebookとやらのアカウント取って昔の子供の頃に戯れた人間を検索してみたんですけど、中学生の時同級生の女子を自殺するのではないかというまでに虐めていたような男子がニコやかな笑顔で結婚式の写真とかを自己紹介の写真としてupしているんですね。私にはこの神経の図太さが全く理解できません。恥意識がどうこうとか厚顔だとか言うよりは、他者を貶めて相対的に自分のキャラを上げるという豚の所業によくそこまで及ぶことができるな、というかその分際でよくニコやかに映った結婚式の写真なんざupできるな、という問題です。私はこのブログの記事を読んでもらえば分かる通り日本好きのアメリカ人的であると書きましたけど、そりゃアメリカ的なものを嫌う人間も特に日本には居るわな、という問題です。だから私SSとは逆パターンのアメリカ好きの日本人というのは日本ではウザがられて嫌われてイジめられることが多かったりもします。



 こういうおバカなことを書くのもどうかとは思うんですけど、大学受験の偏差値というのは一種の非常~に分かりやすい日本の社会的ランクの何たるかをそれなりに分かりやすくは表してくれているのでそれを使います。つい先日facebookとやらを初めて見てみてふと思ったので。

東京大学はだいたい偏差値80弱くらいです。
東京大学以外の国立旧帝一期校やその医学部や東工大や一橋や東京外語は偏差値75~の東京大学に満たないくらいです。
早稲田や慶應は偏差値74くらいです。
一部の国立大学やその医学部や上智やICUは偏差値72~73くらいです。
一部の国公立大学やMARCHや関関同立は偏差値70前後です。
日東駒専はだいたい偏差値60前半です。

偏差値70というのはだいたい対象となる母集団の成員のうち上から2%くらいです。人口のうち50人に1人くらいだということです。偏差値65はだいたい対象となる母集団の成員のうち上から7~8%くらいです。偏差値60はだいたい対象となる母集団の成員のうち上から15%くらいです。偏差値55はだいたい対象となる母集団の成員のうち上から33%くらいです。偏差値50は対象となる母集団の成員のうち上から50%、ちょうど平均の位置です。これ以下はここに説明したものを上下反転させたに同じものです。

で、
以下を説明する為に偏差値どうこうとバカなことを言ったんですけど、

NHKの報道はだいたい偏差値45(くらいの人間を対象にしたそれ)です。
民放テレビ局はだいたい偏差値40(くらいの人間を対象にしたそれ)です。
各種新聞はだいたい偏差値55~30(くらいの人間を対象にしたそれ)です。
某巨大匿名掲示板群というところのつまり「2ちゃんねる」という場所は偏差値55~20(くらいの人間を対象にした釣り)です。ここ一、二年で良くなったというのは、ちょっと方向性というか属性が変わったというだけです。一見健全風味な、しかし釣り以外の何物でもない方向へ。

NHKの報道は平均であり最大多数たる偏差値50な人間がちょっと見下しながらテレビを見て悦に浸れる偏差値45レベルなので、つまり半国営放送としては御の字であるということです。10年と少し前くらいに「2ちゃんねる」が一部でひたすら流行っていたのは、平均であり最大多数たる偏差値50な人間にとってネットがブロードバンドで出始めな頃にネットというマスメディアに比べてある程度アングラな場所でちょっと見上げながらPCのモニターをみて悦に浸れる偏差値55レベルであったからであって、しかも「おチ○コ」「おマ○コ」という偏差値20というよりは小中学生みたいな意見を書き込みという形で許容してくれたからです。人口の上位から三分の一のあたりに位置する偏差値55な人間たちが平均であり最大多数たる偏差値50の人間を見下した書き込みをして嘲り笑っているというその様を当のその偏差値50な人間たちが見て「はは~ん、まあ俺にも分かるな、」といってPCのモニター越しに上を見てそして同時に見下しうるという仮初めの満足を与えられて自慰にふけっていたのがしばらく前までの「2ちゃんねる」という場所にまつわる現実です。それが利用者数という数字になって表れた、というだけです。どちらも人の不幸は蜜の味という観念に基づいてます。おそらく欧米人はこういったことは行わないですけど、マザーコンプレックスの強い日本人はこういう他人の不幸が大好きだということです。

 頭の程度の低い連中が人頭としては数が多いが為に、日本では義務教育にてその人口の大多数を占めるような連中をまっとうにするような教育を意図的に行います。その為能力の高い子供はひたすらじっとその頭の悪いまわりの子供たちが為すお遊戯に付き合わされます。文化人類学的な日本人の特質から言って、ここで異を唱えようものならその子供は子供が織り成す社会の中で抹殺されます。イジめとかなんとか生やさしい表現で形容される程度のものではなく、enclosureな殺人行為がそこに成立します。日本人というのはこういった極めて愚かで馬鹿なことを行うわけです。学級委員になったりする類の子供というのは、能力的には平均レベルかそれより少し上であってそしてその多数決的コンテクストに満足して「学校が楽しい」ような子供です。そして馬鹿な教師達はそういった子供に試験の成績は半分くらいしか関係無いような高い成績を付け、田舎社会ではその成績が無ければレベルの高い公立高校へは入学できず、そして能力の低い人間がどんどん社会の上層へと入っていった、というのが前世紀の日本でした。先の記事で書きましたけど、名古屋という土地ではこの現象が非常によく観察されます、イジめや異端排斥も多いです。首都圏で公立高校のレベルがやたらと低くてほとんどどの子供も私立高校へ通うのは都市部にはその物理面においてもシステム面においても社会構成上必然的に頭の良い人間が集まりその子供も頭が良いから、ということです。頭の悪い公立小中学校の教師に媚びていたら自分の能力が落ちる・自分の能力が低いことにされるということを都市部の子供たちはよく自覚して知っているということです。これはおそらくIQを計るテストなんかでよく表れます。私みたいな人間はおそらくIQの値が高く出る類の人間であり、私の父親みたいな人間は自分で語ってましたけどIQの値が低く出る類の人間です。学校のお勉強の偏差値はある程度知的努力が反映されますけど、IQの値を計る為のテストなんてのはあんなもん標準偏差が∞のIQ100の値より高く出るか低く出るかの二つの類に人間を分けるだけのもの、と思っておけばいいです。だから私は個人的には自分が頭がいいとかなんとかいうセリフもそういうことを言う人もあまり好きではないです。敢えて言うなら高等教育(大学や大学院で行われる教育)に向いているのはIQの高い類の「左」側の人間です。語学に強いのも「左」側の人間です。文字学というのはありませんけど、もしあるとしたらこれに強いのは「右」側の人間です、子供の頃にやる毛筆を使った書道から一体何を学ぶかといったような。ちなみに漢字の形象には中国の人たちの知恵が実にによく表れてます。先の記事でも書きましたけど、原点(0,0)を中心とした二次元のxy平面に漢字を当てはめてみると、何がどうなっているかが理解しやすいです。アメリカ人がこういったことを好きそうではあるんで、もし中国や日本で使われている漢字というものに興味があるアメリカの人が居たら全漢字の形象の(それがどういったものであっても)解析とかやって欲しいなと個人的に思ったりもしてます。
 早熟な子供の中には、全ての教育の過程が終了する以前に、教育を受けることを投げ出してしまうこと子供も居るということです。レベルの低い連中と一緒にバカバカしくてやっていられなくなるのと、その勉強を止めてしまうことにより中等教育あたりから始まる論を構成する能力の育成についていけなくなるからです。よく頭の悪い人間で「ああだこうだと何を言っているか分かんない!」みたいなことを言う連中が居ますけど、単(ひとえ)に言うと中学や高校で学習する数学が出来ないからです。数学が出来ない人間はものごととものごとの繋がりが分からない、つまりは単発の知識しか脳にインプットすることができない人間は中学や高校での数学は出来ない・論を構成する力を培うことができない、ということです。しかしいくら自分が早熟だからといって勉強をやめてしまうのは馬鹿であるからということもできます。パスカルという人物はその書いたものを読むにおそらく頭は良いが馬鹿であるというパターンです、先述の通り豚っぽい顔をしています。



 左か右かの二者択一というのは実社会においてもいたるところで為されていたりします。精神科クリニックも一つの駅でごくご近所に二軒だけ、というパターンがあったりします。穢多の犯罪者(左)かヤクザ(右)か選べというわけです、少なくとも2012年現在の日本で統合失調症とされている「病気」については。私が現在通院しているとなりの駅のクリニックは上述の右か左かということだと左です、というかご丁寧にご近所に二軒あります。もう一軒の方のクリニックは二、三年前に一回行ったことがあるんですけど、受付嬢は風俗嬢のなりそこないみたいな気持ちの悪い邪悪な笑みのオバさんであって、ケースワーカーとして顔が傷跡だらけのヤクザが出てきました。しかもこの両クリニックの先生方、机の配をわざわざ患者と対面する置き方にして東向き(私が現在通っているクリニック)と西向き(ヤーさんクリニック)で真逆を向いているんですね。

 徳間書店刊の宮崎駿作の「風の谷のナウシカ」の漫画版がありますけど、あんな悪質な漫画見たことがないというくらいに内容が悪質です。あの漫画のラストは本当にマンガ誌にツバを吐きかけたくなるくらいに反吐が出ます(しかし宮崎駿さんが自分の意思を成就させたら如何なる世界になるかということは吐いてくれています)。この宮崎駿さんという人は「天空の城ラピュタ」でもこの「風の谷のナウシカ」の漫画版でもそうですけど、左右どころか上下を逆転させるというやり方をするんですね。つまり子供の味方をするフリをした子殺しをやるわけです。男と女というモノを幼児化させて、「土から離れては生きていけないのよ!」(突き詰めればSEXのこと)、「バルス!」(笑)とかやらかして子供を大人化させてオレ様キャラにしたムスカ大佐を悪役に仕立て上げて描いて殺すわけです。全共闘を子供に刷り込むという試みを行っていたわけです。しかも徳間書店はこの手の込んだ大判のマンガを一冊定価390円とか安い値段で売っていたわけです。狡猾だとかなんだとか生易しい表現では済みません。私には宮崎駿と宮崎勤の区別がつきません。どれだけ悪質な子殺しをブロードバンドな公共電波でやらかしている(た)のかという問題です。貴様だけで嫁とよろしく下品にSEXやらかしてろという問題なんですね。週間少年ジャンプの特にドラゴンボールとかも悪質でしたけど、それとは比べ物にならない程に悪質です。宮崎駿というのはロリコンの大量虐殺者でありながら国民栄誉を授かっていると形容できてしまうような最悪の人間です。もうアニメなんか片っ端から無くせという問題なんですね。
 童貞差別なんてものはJudenが創り出した幻想であって、エロ雑誌やアダルトビデオ等の代替物として近年では特に某巨大掲示板群で必死にこれがスタンダードであるかのように見せかけるということを連中は行ってました。はっきり童貞である私SSから言っておきますけど、差別されうるのは童貞ではなくて童貞ではない連中の方です。



 関係無いですけど、昔の記事でも書きましたけど、ネットを使用する限りにおいてはIPを指定して特定の人間に特定の情報を与える・知らしめることなんかいくらでも可能です。それはfacebookであろうとtwitterであろうと某巨大匿名掲示板群であろうとgoogleやyahoo等のサーチエンジンの検索結果として出てくるものであろうと何だろうとネットならば同じことです。少なくともネットに関してはデカルトみたくとりあえず全てを疑っとけという問題です。釣りだらけです。経済学ではこういった情報の非対称性に関する問題を扱ってテーマにしているものもありますけど、そこまで数理的に解析するまでもなくそこには当然moral hazardが存在しています。だからWikipediaのような一部のところを除いて「ネットで調べ物」だとか馬鹿丸出しどころかコイツ痴呆の大たわけかという問題であって、調べ物があるのであれば公共の所でも学校付属のものでもいいので図書館へ行けという問題です。

 懺悔その他、教師その他の大人など特定のコミュニティーでの指導的な立場にある人間に対する罪の告白というものには、私が先の記事で言った何でも言語化して記述するというものと似た効果があります。昔だとこの役割をお坊さんや神父さんが行っていました。今はパソコンがあるのでどんどん書き散らかせばいいわけです。ネットでもtwitterとか使えばいいんじゃないですかね。twitterで書かれたものを読むとかいうのは上述の通り極めて馬鹿です。

 前の記事でOliver Hirschbiegel監督の"es"という映画がどうこうと書きましたけど、「演技を行われてあろうことかそれに強制参加させられると、どんどん人(自分)がそうなっていくっていうね」ということを言葉で丁寧に教えてくれたのは卒業必要条件とは関係無く取得したドイツ語の授業の先生だけでした。私は今このドイツ語の先生には実に感謝しています。この先生は人間の慢心や自信過剰さについて警鐘を発するという形で教え諭してくれました。つまり例えば昔だと悪事にたいする懺悔をしないと、その悪事の記憶が(おそくら無意識下に残って)どんどん自分で自分をその悪事の方向へ引っ張っていく、つまり自分で自分を悪役であって悪徳な人間にしていってしまうということです。
 上述の、この記事の冒頭で書いた区役所の女職員らは意図的にこれをやっているんですね。この連中は役所というのはこういったものであるということをワザワザ示す為に演技を行ってます。それがありありと分かってしまう程にやり方が小学生じみていて単純であり、しかも且つそれをやる側も分かっていながらやってくる、ということのようです、どうやら。おそらくは公共のお役所に対する反発を特定の人間(この場合だと私SS)において招く為にです。この国ではお役所の中までこういった子供じみた小学生的なストーキングを行う演劇人である犯罪者で満ち溢れています。

 だから私SSの「ストーカーは私SSに対して、ストーキング行為を見せ付けること自体を見せ付けている」という解釈は、これは私は事実であるとして書いたんですけど、事実ではなくてどうやら私の解釈のようです。というのは、私は自分で自分が頭が良いとか偉そうに言うつもりはないですけど、頭の悪い人間というのは程度の低いことしかできないので、まずは「ストーキング行為」しかできないということに尽きているということです。私はそれがあまりにレベルが低すぎるのでワザと故意にレベルを下げて物量作戦で来ているのであろうな、と解釈していたということです。そして、ここがポイントなんですけど、連中はそれを前提にした上で、ターゲットの被害者が相手にしてくれないと下手な鉄砲を数撃つという形で「ストーキング行為そのものを見せ付ける」という物量作戦に出てくるわけです。だから純粋に集団でストーカー行為を被害者に対して行っている連中がいるということです。人間誰しも限界があるので、家の外へ出るなりストーカーにひたすらまとわりつかれるというのであれば、(慣れるまでは)異様に考えたり思ったりするのは当然のことです。馬鹿の挑発や頭の悪い人間の挑発なんか無視しておけばいいというのもありますけど、それについての限界というものもあります。再世界化により単純思考の要因となる色メガネを植え付けて、「こういう場合にはこういった(小学生じみた単純な)発想をするのだ」ということを強制するという人格破壊たるレイプを行うわけです。他者のキャラクターを故意に貶めて相対的に自分のキャラを上げるという、ユダヤ人を第一手目でユダヤ人たらしめる非常に汚い人間です(そしてコレ自体がまたユダヤの所業です)。これは残念なことに、先の記事で言ったところの馬鹿ではなくどちらかというと賢いが頭の悪い人間というのにこれをやらかしてしまうのが居ます。工業高校の生徒的な人間です。前世紀のネットの無い時代には実際にこういったのが珍走バイクにまたがって女性を襲ってレイプとかやってました。私は自分の父親がこういった人間でした。人間には能力に合った分相応な社会的地位やポジションというものがあります。前世紀の日本の場合だと、それをわきまえずにただひたすら子供の頃から勉強だけして成績だけを取っていい大学に入り、そしてそれからハジけて調子に乗ってしまうと、高等教育(大学や大学院で行われる教育)にはついてゆけずに能力の無い自分を知らしめられることになり、その劣等感から人を騙したり引き摺り下ろしたりするような汚い人間になってしまったりする場合もあります。再び言いますけど、私は自分の父親が大人の男としてはこういった類の若い女みたいな男でした。

 で、2012年31歳時点での私に対する彼らのストーカーによって為そうとしている行動理念(行動理由)には私は一理あると考えてます。
 というのは、そういった人間が多数であることには理由があると考えるからです。私はそもそも何かを感じたり考えたりするにつけ、つまり「左や右に振れる」につけ父親が激しい声量と口調と言葉で怒鳴り散らしながら叱責する、ということを小学校に入る前の幼児の頃からやられていました。今でこそ若い女のように些細なことでギャーギャーと喚き散らす女々しい男である、と形容できますけど、子供の頃はこの父親がひたすらな恐怖の対象でした。で、これだけであれば、「ああ、今自分はいけないことをして、いけない方向へと向っているんだな」ということを自覚してself(自己)を制御することも出来たでしょうけど、ここで母親が怒られている私をかわいそうだといって無理由に庇い泣き叫びながら大声で父親と激口論をするという私にとっては一種の演劇でしかない行いにひたすら及びました。要するに母親は肝心のところで「左側へ釣ろうとする」ということを行うわけです。これが週に1、2回ありました。結果私はself(自己)が左右に引き裂かれました。これが昔ながらの字ヅラ読みの「精神分裂病」です。そもそも私が10歳になる以前に「お父さんとお母さんとで意見や(自分の養育に関する)方針を一致させてくれ」と頼んだこともありましたけど、聞き入れられませんでした。これが子供っぽいかわいい言い方だと「おとおさんとおかあさんでけんかしないで」とかになるんでしょうけど、私はそうは言いませんでしたけど。
 つまり多数を占める一般的人間というのは当然健全な生活環境や社会環境で育った心身ともに健常な人間である、ということです。

 今は携帯電話があるので、ストーカー行為なんざ簡単に行えるんですね。もちろん携帯電話は自己防衛の道具としても当然使えるものなので当然持っていた方が良いに決まってます。110番通報とか。どの端末も逆探知されてて何処の基地局内に居るかが分かって安全とか。



 小学生にも分かるような書き方で、という推奨の仕方をするのは自分は小学校で教わるレベルの単純なことしか理解できない馬鹿だと言っているのと同じです。平明・平易な表現であるかそうではないかということと、分かりやすいもしくは分かりにくい表現であるかどいうかということとは、全くの別問題です。私はこのブログであまり平明な表現は用いていませんけど、かなり分かりやすい文章を書いてます。専門的な学術知識・職業知識を要する固有名詞や常用漢字としては用いられないような難解な固有名詞・もしくは現代では意味不明な昔使われていたような固有表現を用いている場合がそれこそ分かりにくくてあまりよろしくないということであって、例えば人間の種類を9タイプに分類してみたりするとかいう愚行についてもそうですし、大人が生きる社会でどころかそもそも大学生あたりでもはや小学生に分かるような単純な内容でというようなことは通用しません。そういったことしか出来ない人間は高等教育(大学や大学院で行われる教育)にはついていけません。ちなみに、小学生並みの単純な発想で何でも物事を見るにもかかわらず現代日本において誰も知らないような固有表現を持ってきてその他人が知らないことを自分は知っている具合に悦に入っているイタい人間は中二病とか厨二病とか呼ばれて当然嘲られて馬鹿にされます。



 野球のバットでの素振りというのはおそらくものすごく良いです。私は腕力が弱いのでバットを振り回せずに口惜しい思いをしてるんですけど。イチロー選手は通常とは逆の左打ちの人ですけど、この人は唇の分厚い顔をしてますが、まあつまりはそういうことなんです。やはりスタンダードなものが一番良いように皆が知っているということなので、それに従った方がいいです。歴史上おそらくどの文明でも左利きは忌まわしいものとされてます。左手は不浄な手とかも言われてます。だからおそらくPCを使う際にマウスを使用するというのは、スタンダードであって、実に良いです。WINDOWSの環境でPCを使う時には、キーボードのCtrl+z,x,c,v等のショートカットキーはあまり使わない方がいいです、何故かと言うと左手の小指に力を入れてキーを押すことになるからです。多少時間がかかってもマウスを使用して操作を行う方が良いです。道具を使用するにおいてあまりにも変な使い方をしていると肉体を病みます。

 おヤクザさんの「小指を詰める」というのは、身体感覚上の小指の感覚を失う、文学的に言うとnull pointerたる魂が小指に行かないようにする、ということです。私は手の小指にだけ指輪をはめているんですけど、小指がそこにあるという身体感覚が失われて、実に体が楽です。別におヤクザさんみたいに小指を切り落とすようなことまでやらなくても、些細なことでいくらでも工夫が効きます。で、親指だと逆です、親指を失うと昔話であったところの「鬼」になります。昔の絵本とかであった角の生えた青鬼赤鬼の絵が分かりやすいです。要するに頭蓋の斜め上両脇の部分に角が生えることを身体感覚としてイメージすると分かりやすいということです。鬼というのはつまり穢多のことです、Judenです。人を食ってる(た)奴らです。指で触ると分かりますけど頭蓋の頭頂部に少し凹んだ部分であるところの百会(ひゃくえ)というツボがありますけど、ここを押すと斜め側頭部に「鬼の角が生える」という感覚がよく分かります、つまりこの百会というツボは押したらダメです。余談ですけど、百合(ゆり)の花というのがありますけど、百合で最もメジャーなのは鬼百合という名の植物なんですね。「百会を押すと鬼のツノが生える」、「百合は鬼百合 (百合 ist 鬼百合)」、こういったことの繋がりの認識が知識を得る上でかなり重要だったりします。辞書も電子辞書ではなくてハードコピー(紙で製本された書籍)を順番に並べられている言葉の通り読んでいくと知識の繋がりが分かるようになったりします。音韻や文字の形象の問題であったりします。
 この鬼だとかヤクザだとかいうことに関しては単純な左右の二元論で考えておくのが順当であり賢いです。さすがにおヤクザさんが善人だとは私も言いませんけど、だからつまり戦後日本では善悪が逆転しているということです。日本は戦後鬼畜が跋扈するユダヤ人国家化しているということです。北野武さんという人はこの事実をちゃんと言ってます。だから、実際は仏教徒であることが多いでしょうけど、日本のおヤクザさんは一般的イメージとは逆に実にキリスト教的だということです。マンガ的なキリスト教イコールバタ臭いというイメージに騙されすぎです。ノーベル賞作家の大江健三郎さんという人はこういったことについての知識が失われていくことに異を唱えている人です。そしてその上で「右」のヤクザではなくて「左」の鬼の方を選択している人ですけど、無知なまま悪質な教育によってJudeでアカな鬼にされてしまっている馬鹿な人間のように被操作的でないので、つまり自分でコントロールできるということなので余程マシです。ちなみに私の父親のような人間はユダヤ人を作り出して影でニヤニヤ笑っているような、分かりやすく例を挙げるとドラえもんのマンガのスネ夫のようなキャラの人間であって、最悪です。手をこすり合わせながら他人に媚び媚びする若い女みたいな男です。
 文学的な表現をとるならば魂が体の外部に抜け出ている自由と無責任を履き違えている穢多としか言い様のないような馬鹿は左頬を右手で殴りつけないと何も「知る」ことができないということです。私はただの一般人なのでこういった人たちのことはほとんど何も知らないですけど、おヤクザさんというのは、おそらく何をされても禍を巻き起こさないような業(カルマ)とは限りなく無縁の仏教で言うと仏様だとかキリスト教で言うと聖人だとかいった人たちを守ろうとしてくれる人たちなんですね、おそらく。で、ここがポイントなんですけど、そういう我慢強い人間を「男や!」というわけなんですけど、ここで何もしない・何も実績を打ち立てないと「気が弱くて何もできない」という風に見做されて攻撃の対象になってしまうことを避けられないということです。区別がつかないということです。少なくとも他人からは区別がつかないということであって、そのうち自分でも区別がつかなくなっていきます。つまり何故か自分自分を無根拠にすごい人間だとか優れた人間だとか思い描いてそれを絶対的な(自分の)テーゼであるかのように確立してオカルト新興宗教の教祖のようになってしまうということです。つまり何かをやるとかやらないとかいうのは能力云々の問題ではないです。IQテストの数値や学校のお勉強の偏差値みたいに人間を上下で分けるものなんかどうでもいいです。幼児や小中学生の頃に刷り込まれた悪質な穢多教師による人単位で何もかもをも鑑みるということによって、特に現代日本人は他者と自分との比較により能力云々ということが第一に念頭に置かれてしまうようになるんですね。日本語圏のネットで乱発されるウザいことこの上ない豚臭い広告の嵐はひたすらこの他者との比較を煽ってます。ネットの特に某巨大匿名掲示板群あたりで昔ひたすら下ネタを連発したりキモデブオタがどうこうといったり目の敵にする如く他者叩きを行っていたのは、下手をすれば女性かもしれないとすら考えます。内田樹さんみたいなJudeな人間かもしれませんけど。



 「自分が自分であること」が何故マザーコンプレックスの塊であるかといえば、生まれた瞬間には自分についてのことは母体から生まれたという事実しか無く、それのみが基点となり全てを(教育を受けることを)拒絶していくといことが始まるからです。自分の外部にある母親というものを究極に自分にとっての依存の対象とし、自分の外部にある自分の魂として赤子は自分の母親を見做し認識するということです。まさに「アカ(赤)ちゃん」です。



「 しかるに心情とは、自己自身によって規定された自我、そしてもとよりちょうど或る他の存在者によってのように自己によって規定された自我、すなわち受動する自我である。心情は人間のなかの能動を受動に転化し、受動を能動に転化する。心情にとっては、思惟するものが思惟されたものであり、思惟されたものが思惟するものである。心情は夢想家的本性をもているものである。そのために心情はまた夢よりもいっそう浄福なものや夢よりもいっそう深いものを何も知らない。しかし夢とは何であるか?夢とはさめている意識を裏返しにしたものである。夢においては、行動(能動)するものが受動するものであり、受動するものが能動(行動)するものである。夢においては、私は私の自己規定を外からの規定として知覚し、情緒(心情の動き)を私の外の出来事として知覚し、私の表象および感覚を私の外の存在者として知覚し、私が他の場合には能動的に行うことを受動的に行なう。夢は光線を二重に屈折する。夢が与える筆紙につくしがたい刺激はここから生じるのである。夢のなかには覚醒のなかにあると同一の自我・同一の存在者がある。区別は単に、覚醒においては自我が自我自身を規定し、夢においては自我がちょうど或る他の存在者によってのように自己自身によって規定される、ということにすぎない。私が私を考えるということは無情(情味を欠いていること)であり合理主義的である。私が神によって考えられているということと、私が私をもっぱら神によって考えられたものとして考えるということとは、情味に富んでいることであり宗教的なことである。心情とは眼を開いて見る夢である。宗教とはさめた意識が見る夢である。夢は宗教の秘密を解くためのカギである。」

 これは再びFeuerbachの"Das Wesen des Christentums"(「キリスト教の本質」)からの引用です。ここでフォイエルバッハが言うところの宗教とは、非常なまでに自身が言うところの(古代)ユダヤ教的です。
 つまりは身体感覚の問題です。昔からキリスト教で言うところの魂がどうのこうの云々というのは、つまりは自己身体感覚です。それが絶対知であり、社会の構成員の肉体を健常に保つ為であり同時に社会統治上上手く運んでいくための絶対的な方法なわけです。引用はしませんが、このフォイエルバッハさんがこの著作の中の別の部分で言ってますけど、(物理的な肉体的な問題として)自分の魂を自分の外部に置いているのがユダヤ人であり自分の内部においているのがキリスト教徒です。それこそ昔のキリスト教で言われていた魂がどうたらこうたらというのは、自分の体の中にnull pointerを規定してイメージしてみれば理解しやすいです。MBTIでは直観型と感覚型という分類がありますし、エニアグラムでは体か頭かのセンター(?)という分類があるみたいですけど、私のオススメは胃やみぞおちのあたりの身体の中心ではなく、頭部です。いわゆる脳ミソの中にnull pointerを意識するという身体感覚がおそらく最も健康的でまた仕事の生産性もよろしくなります。読書の時以外の時に、「腑に落とす」というのはダメです。文学的な表現で言うと「魂」、つまり自己意識としてのnull pointerを体外へexceptさせるとユダヤ人化して、お前は間違えているぞということの合図としてガッとぶん殴られるというわけです。子供の頃から運動をやっていてスポーツマンな人間は身体感覚として自己体内にあるnull pointerを当然のものとして身につけているので、魂どうこうと言われても理解できない、というか何も問題は無いわけです、人を貶めるような悪事を思考上画策しない限りは。むしろ私みたいな肥満体で球技とかのできなかった人間の方が「悪い」という状態がどのような状態か知っていて安全かもしれません。
 全共闘がどうであるこうであるといって暴れていた2012年現在60代半ばの「団塊の世代」という表現で形容される人たちが居ますけど、これは極めてユダヤな、それを表す表現として的確なものです。あの連中は全てJudenです。

 大塚英志さんが「多重人格探偵サイコ」という漫画で描いてましたけど、「目」というものを使っていろいろな表現をする人たちが居ます。昔ながらの言い方だと、例えば、「目玉が飛び出るほどおどろいた」とか「大目玉をくらう」とかいうやつです。例えば私は眼圧が高いです、というのは統合失調症用の抗精神病薬の作用として眼圧が高まるというものがありますし(抗精神病薬の説明としてもそれが書かれていますし精神科医もそう言います)、何より指で目を押さえるとかなりの痛みが眼球に走ります。これは抗精神病薬リスパダールを服薬中に異様と言えるまでに訪れる(副)作用です。この状態だと眼の焦点を特定の対象物に合わせたり合わせずにぼやけさせたりすることが通常よりも容易に可能です。眼球にnull pointerたる魂が存在しているようなイメージを自分の肉体の感覚として持っている、と言うと分かりやすいです。目の前のものに焦点を合わせずに、「眼の力を抜く」ということが可能になりすらします。そしてそうすると一発で一瞬にして統合失調症の症状であるとされている肩の激しい凝りや背中の筋肉の凝りが消えたりするんですね。つまりそれが正常の状態であって、目玉が飛び出たことによって病気が治る、というわけです。おそらく文学的な表現を取るならば、病んでいるのは「魂が歪んでいる」という状態であって、私の場合だと「眼の力を抜く」ことによって眼という器官によって為される視界というものに映る全てが真二つに分かれます。これは科学的(医学的)にはおそらく強度の乱視と近視の混ざったものです、というか視神経がもはややられてしまっている可能性もあります。宮崎駿さんの「天空の城ラピュタ」というアニメに、ラストでムスカ大佐が「眼がぁ!眼がぁ~!」と言ってもだえるシーンがありますけど、物語論的というか文学的な表現で説明するとなると、おそらくはああいったことなんです。ムスカ大佐というのは物語上私が前のan industrial complexという記事で書いた逆ナチスをやられているキャラであって、しかし子供(騙し)用に悪い大魔王キャラとして描かれてます。で、眼の焦点のゆるめ具合、「眼の力の抜き」具合によって身体感覚が変わります。科学的にはそれによって脳内の分泌物質の量に変化が起こったりつまりは脳の機能に支障をきたしたりします(科学的に実証されてますということです)、つまり身体感覚が変わると頭の使われ具合も変わるということです。だから極端な話にまで持っていくならば、一人の人間が時によってニシゾノシンジになったりアマミヤカズヒコになったりコバヤシヨウスケになったりするように他人からは見える、ということですけど、もちろんこれは極端過ぎるマンガの世界の表現のお話です。
 オタクとは現実しか見えない人間だと書きましたけど、これは最「低」な人間に映るみたいです。女性ですらも賢い人間は下ネタを言う男に対して「サイテー」と言います。漫画家の二瓶勉さんが「BLAME!」という漫画の中で「基底現実」という言葉を使ってましたけど、現実というのはレベルが「低い」ということです。これは「幼児的で程度が低い」とかいった場合の「低い」という言葉の使い方とは全く別です。現実しか見えないオタクの人たちというのはつまり「低」いという属性の世界に生きる人たちだと言うと分かりやすいです。だから上の段落で書いた身体論的なことだとか物語論的なことは、物語の構成そのものに入り込むということに困難を要する彼らにとっては理解に困難を要します。オタクというのは物語の構成云々も含めたアニメにハマるのではなくて、アニメにハマっている自分にハマりこんでいるということです。

 こういった「知」に関することを真実(truth)というわけであって、factどころか場合によってはliesでしかない事実の積み重ねによって事象どころか人格までをも再世界化によって作り出すということであれば、それは律法の為に存在し律法を他者を攻撃し貶める道具として使用するバトルロワイヤルな殺し合いの女性的なJudenの世界になってしまいます。

 法律云々ということで考えると、つまり証拠さえ残さなければ何をやってもよい、という発想が彼らの中には出てくるんですね。ユダヤ人です。自己の外部に既定点を求める彼らは、律法ということでもそうですし、拝金主義ということでもそうです。2012年時点では偉大なる先人たちが残してくれた技術その他によってどんな悪事もバレるようになってます。

 捏造ということまでをもどうやら行うに及ぶものがあるようです。特に少なくとも2012現在における2000年以前に発行された日付の書籍の後付けの乱発であるとか。ナチスは禁書であるとして多くの本を燃やし消しましたけど、Judenはこれの逆である捏造を行うということです。このJudenを社会制度上「ユダヤ人」とされている人たちであるとして間違いを犯すならばそれはヒットラーと同じ轍を踏むことになります。奴らは削除はしません。民主主義という漠然とした多数決が敷かれている社会において、数で押して誤魔化すというだけには留まらず過去の事実の捏造まで行うわけです。まるで東北を襲った津波のように。2012年時点での日本においてもこれが行われています。図書館の奥の方に並んでいる文学書等の以外の一般観覧コーナーのものとかはひたすらこれだらけです。面白けりゃ何でもいいという価値観はここでその持ち主に墓穴を掘らせます。だから「正統な」「ちゃんとした」、悪い言い方で言うと「ベタな」、良い言い方で言うと「王道な」ものというのは(が)大事なわけであって、書籍だと昔の有名な著作家のもの意外は全て「つくりもの」だということです。だからナチスは禁書だといって大量に本を燃やしたんです。昔よく学校の先生や大学の教授が「こんなの僕は知らないなあ」と渋い顔をして言っていたのが思い出されますけど、要はそういうことです。子供を騙して使っていたということです。これはもちろん反ユダヤ人な人間が反ユダヤ人を煽る為にやっている可能性もある、というかそちらの可能性の方が高いです。まあいずれにしろ時間が経ってから過去にそれが存在したかのように見せかけるどころか捏造が行われていてそしてそれを行っている連中(アカ、Juden)が実在するということは事実です。

 資本主義(capitalism)と拝金主義は全く別です。金(カネ)というのは道具ですけど、現代の日本人の多くがその道具でしかない金が主体である・先のFreund Heinという記事で書いた「具象化された死に対する所属」(=拝金主義)的な認識に至ってしまうのは、前世紀の悪質な教育制度によって他者に対する憎しみや恐怖を植え付けられてしまっているからです。これについては教育だけではなくてマンガ文化や全世紀末から今世紀でもネットの一部で社会に流布されているものにも因は有ります。



 私は先日久しぶりに酒を飲みました。とは言っても一人で部屋でチビチビ飲むだけです。で、その飲んでしばらく経った後に訪れる酔った後の不快感が、抗精神病薬を服薬した時に味わうことになる不快感と全く同じでした。精神医学ではこれは抗精神病薬の副作用であるとされていますし、精神科医もそう言いますけど、これが抗精神病薬の主作用であるか副作用であるかは別として、抗精神病薬を服薬するとこういった効能が人体にある、ということは事実です。高校生の時に学校に内緒で(もちろんおそらくバレてました)やった飲み会とかを思い出すに、ストレスが溜まっている時にアルコールを飲用すると極端にハイになって気持ちよくなってベラベラ色々なことをしゃべったりしますけど、私は最近あまりストレスが溜まってはいない(という自覚がある)ので、ただ体と頭が暖まってその後不快感を味わうだけでした。精神科医が言ってましたけど、寝酒つまり就寝前にアルコールを摂取すると睡眠を阻害する効果があるそうです。だから寝酒というのは最悪です。で、昔の記事で「抗精神病薬を飲んで寝ると肉体は眠っているが脳が覚醒したような状態になりまったく寝た気にならない」というようなことを書いたような気がするんですけど、つまりはこの通りです(ちなみにその時に限って私の父親は私に「よく寝たなぁ~」というご丁寧なサブリミナル演技を行ってくれていました。証拠に残らなければ何をやってもよいという犯罪者です)。私は最近自分の様子を鑑みて、毎晩酒を飲んで寝る自分の父親に極めて似ているなと考えていたところなんですけど、不眠だとか睡眠中の覚醒だとかいったものはこういうものであって、睡眠中よく眠れていないから起きている間もよく覚醒できてもいないし同時に行為としての睡眠時のように眠れている状態でもないという状態になる、もしくは肉体は夜間睡眠して昼間覚醒してはいるがしかし昼夜逆転の生活を送っているアベラール的な昔ながらの遊び人の思考の持ち主になる、ということです。誤解の無い様に言っておきますけど私は違法薬物を自分の意思で使用したことはただの一度もありませんけど、これはおそらく覚醒剤等の麻薬のoverdoseと同じです。抗精神病薬の長期間に渡る服薬や寝酒は麻薬中毒患者と同じ状態をもたらします。顔面の特徴で言うと白目の部分が血走って陳腐なビジュアル系のようにシャドウがかかったような状態になります。ちなみに高校の時に一緒に酒を飲んだ連中は、下手すりゃ私は覚醒剤盛られてたんではないかくらいのアレです、別に露骨なワル(に見える)というわけではないですけど、だからこそそういったのはますます釣りに満ちていてタチが悪いということです。ヒットラーの行動を鑑みたりや書いたものを読んでもそうですけど、Adolf Hitlerさんは現代で言うところの覚醒剤か何かの悪質な薬物を盛られていた可能性も無きにしもあらず、と考えたりもします。N田四R医師は「抗精神病薬は夜寝る前に飲んじゃえばいい」と診察時に言っていたんですけど、ちょっとN田四Rさんがどういった意思のもとこれを言ったかは不明ですけど、おそらくは最悪です。関係無いですけど、このN田四R医師のクリニックを紹介したのは私が学生であった当時大学の嘱託医をつとめていたA刈という女医でした。

 私は若い頃の昔とある親族の女性に「あなたは物事を鑑みるにおいて横のつながりが弱い」と言われたことがあるんですけど、Judenというのはつまりそういう点において「弱い」のであって、逆に人間関係の繋がりでは横のつながりが強い、つまり人単位で何でも物事を見てしまうことへ落ち込んでしまいやすいということです。だから「悪い」ということです。だから他人と自分を比較することばかりに気を取られて、物事(仕事)を為すという発想自体が欠落しているということです。騙されやすく洗脳されやすいということです。私は子供の時分から若い頃までずっとそうでした。こういった人間を作り出す教育を行うことにより、ひたすら社会的死荷重を生み出して特定のコミュニティーひいては国家を破綻に向わせることができてしまいます。これはたしか一部の頭のおかしな学者が言ってたような気もしますけどイギリスの策略でも何でもなくて、どこの国でも居る反社会的人間集団がやらかしている(た)ことであり、この日本という国では昔は穢多と呼ばれていて、Judenという言葉で表されるものです。これを「フリーメーソンの陰謀だ!」とか太宰治曰くの如く「ラジオの電波に殺される!」とか騒ぎ立てるのは現代の悪質な教育によって一面的にしか物事を見れなくなった人間の思い込みであって、つまり頭がおかしいということです。こういう人間は何処へ行っても精神病院へ行けと言われます。これを世界がどうであるこうであるというから宗教臭くうさん臭くなるわけであって、つまりは物事というのはそうなっている(Dasein)ということです。
 この国のオタクというものに関しても事態は同じです。オタクというのは基本的に能力が高いです。だから彼らは今までの経験も記憶も鑑みて「ああ、コレおもろいわ」と思うとそれにのめり込んでしまいます。で、「おもろい」ものなんてのは現代ではコンピュータを使えばいくらでも簡単に出来てしまいます。だから当時青少年だったオタクたちは手作りのドラゴンクエストよりもチャチャチャっと情報並べたファイナルファンタジーに圧倒的にハマってしまったわけです。ドラクエだろうがFFだろうがどちらにしろゲームは悪質ですけど。エヴァンゲリオンだって一般にはほとんどネットを知らない前世紀の10代の青少年のくだらない感傷を利用してエロコスチュームやBachのクラシック音楽を持ってきて色気を付加してゴミみたいなストーリーにグダグダ絵の具ぶっちゃけただけです。彼らはあまりにもいともたやすく釣られてしまうということです。

 どうもなんかここへきて、そこに新興宗教の教祖といったいどんな違いがあるのかというエニアグラムの自称リュウトウマリコもそうですけど、ストーカーとそれが知らしめてくるものといい自分の親族の行動や言動といい私がこのブログを書き始めてから高校時代の知人が急に電話に出なくなったことといい、自分にまつわるキャラや人格設定その他までもひたすら作り上げられて(?)何かをなすりつけられていた、ということに思い当たるようになりました。ひょっとしたら私が口頭の雑談でしゃべったヘンなことが録音されてて脅しに使われているとか、ね。こういう悪質なことをやる連中がいるというのは想像はつきますけど、まさか自分の親や自分が昔付き合っていた連中がそうであるとは?、ということです。前の記事で「つまりは罪のなすり付けや冤罪も一発でバレるということです。」、と書いたのはちょっと何か自分が何者かの何かによって貶められているということに思い至ったからです。ひょっとしたらストーカーの皆さんはそれを私に教えようとしてくれていたということなのかもしれません、くらいに。(十)何年も経ってから知らしめてくることに卑劣な悪意をひしひしと感じはしますけど。私は自分が他人にどう思われているかあまり気にしない方でしたけど、診断書に小学生の悪口であるかと言えるほどに低レベルで且つ酷い内容を記載するM'z a 悪意医師を含めた精神科医の行いもそうですし、ちょっと他人の行動を鑑みて「ちょっとこれは異常だな、」と思うに至ったので。このブログを書いている理由の一つにはこのこともあります(某自己紹介の場所からここへのリンクを貼りました、2012年4月19日)。
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