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caduceus
 IQ215。




 私が「全ては『やらないか、やるか、(やるか、やらないか、)』という問題だ」とかそういうことを言えてしまうのは、もちろん大幅にストレスを解消して、またストレスの源となる記憶を言語化して記述することによって消し去って、そして抗精神病薬を使用したことに因ります。精神科医との面談や会話なんてものは下手をすると狎れあいでありストレスの源でしかないので、あまりかかずりあわずに薬だけ出させておけばいいんです。



 例えばaを定数とする時、a=aという式に反証することは不可能です。私は先の記事でE=mc・cが当てはまらないNichtseinがどうこうと言いましたけど、あれはそれこそジンブン科学的に比喩表現の道具としてE=mc・cという式を用いただけです。私は物理学の専門家ではないので断言はできませんけど、これはおそらくS=k・logWを用いたとて同じことです。科学性とやらの定義がfalsifiability(反証可能性)に立脚するものであるとするならば、カール・ポパーなる人物の定義した「科学性」とやらは全くナンセンスなものであり、「反証可能性」こそがあっさり反証されます。敢えて皮肉めいた表現をするのならば、それは科学性ではなくて科学哲学性です。

 しかし、「最終地点であるとある真理に到達した」という新興宗教の教義めいたものが、間違っているというのは正しいです。というのは、デカルト的発想がまさに人間の掴みうる真理の限界であり、ヘーゲルの言葉を借りてきて説明するならば「対象が自体的に在るものを概念と呼」んでる時点でそれが人間の限界であり「対象の自体と他者に対する対象の存在とが同じものであるということがある」ということだからです。いくら愛する特定の他者が存在してもその人間と一つにはなれません。どう試みたところで人間においてそれがいろいろな意味で陳腐だということでも。

 仮にあるパラダイムにおける技術革新の具合を何らかの特定の基準に基づいた具体的な数値として計ることが可能であるとしても、それは「真理」ではなく科学的事実に基づく具体的な何かです。falsifiabilityという名の「真理には到達し得ないという真理」を振りかざしていたところで、一つ次元を繰り上げているというと聞こえはいいですけど、そうではなくて単なる秩序からの逃避です。
 オタク文化で言うところの「萌え」というのも現象的にはこれと非常に似ています。商売をする側の人間達は「萌え」うる具体的要素を商品であるアニメその他のキャラクターのうちに散りばめておき、そこからは悪質なユダヤ的義務教育によって想像力・妄想力をたくましくさせられてしまったオタクの人たちが萌えるにまかせておけば儲けられるというわけです。これは原理的には金貸しで儲ける手法と極めて似ていて、非常にユダヤ的なやり方です。



 ところで、2012/02/10日に一つ前の記事で「私に物理的に接近してこのブログの内容についてギャーギャーと文句を言う子供」について書きました。「小学生まで私が書いたものに対する示唆を行うように指図(強要・勧誘)されている」という内容です。また私はこのブログでずっとストーカーとその演技とその被害について書き連ねてます。そして私の父親が2012/02/11日に私に直接話しかけるのではなく私以外の家族と会話中その場の会話に参加してはいない第三者(つまり私)に故意に聞かせるように「~なんとかなんとか子供はなんとかではない!」と、もはや事ここに至っては笑いながら誤魔化すように言いました。そして2012/02/12日、父親は私が睡眠している間に、「~なんとかなんとかは、演技では、ない!」と私の部屋のドアのすぐ前で故意に聞かせるような大きな声で言いました。当然この発言自体が私の父親の演技であり、「演技ではない」という発言をすることによってストーカー集団のストーカー行為たるものも私の父親のその行為(発言)がストーキングであることも彼は証明してしまっているということです。ちなみにこの父親警察が恐くて近寄れません。立派な犯罪者です。
 ちなみに2/10日にその小学生についてのことを書いてupしてから2/11日と2/12日には子供の声がピタっと止みました。子供に情報を与えてもしくはそれに加えてストーカー行為の指図をしていた大人(特定の犯罪者集団)は、私SSに対する加害行為を行っていたということであり、同時に私が被害について書いた2/10日の記事を見て子供に逆の内容の指示をした可能性が高いということです。

 で、私の父親というのはコレは強姦魔なんですね。おそらく多くの人様の恨みを買ってます。先の記事で「若い女のような男」だとか「他虐性嗜好のサイコパスのキチガイ」だとか書きましたけど、少なくとも対人関係においてはそういった人間です。女性的なマザコンの男というのはレイプが大好きです。というのはおそらく女性的であるが故にレイプされる女性の苦しみを普通の男性に比べて分かりやすいからなんですね、特にこういった他人を危害を加えて虐待することを好む異常者においては。上で書いた私に対する行動(言動)は、「お前は何をされても何も感じてはいけないんだ!」というレイプを行っているということです。現代でこんな療治が効く大昔の兵隊ヤクザな人間はおそらく居ません、少なくとも私は違います。ちなみにこの父親、女性には業火の如く嫌われてます、一発カマして修正してやろうという発想以外にも男性に対してすらこういった自分のエゴを押し付ける部分をも持っている人間だからです。そしてしかしこんな人間の言うことを他人様が何でもはいはいと聞いてくれるわけはありません、というのは他人は他人であって彼ではないからです。よってこういった人間が何をターゲットにするかと言えば、身近な近親者なんですね。親族ならばこういった自分の「甘え」も受け入れてくれるだろう、という舐めた期待を抱くわけです。このエゴイスティックな部分が非常にアベラール的であって、少なくともこの点においては愚かです。その親族と言えど加害者とは別の人間なのでナメた人間の「甘え」なんざ相手をしてはくれません。私の父親は私が子供の頃から異常者として親族に嫌われていました。異常者だからこそ豚みたいな女としか結婚できなかった、結婚してしまった、ということです。

 コンテクストを全く読まない、ではなくて、コンテクストを全く読む能力の無い、という我々が使っているパーソナルコンピュータのような機能のみを持つロボットのような人間は世界中何処を探しても存在しません。そういった人間は人間として機能していないので世界中の何処を探しても居ません。白痴と呼ばれる人たちや知能に障害を持っている人たちでも何らかのコンテクストを読む能力は持っています。赤ん坊ですら場のコンテクストを読んで泣き叫んだり笑ったりします。
 ちなみにヒットラーはこのパソコン的人間とそれによる社会の構成を目指した人間です、が、当然Adolf Hitlerさんも人間だったので失敗しました。マルクスは阿呆というと言葉が悪いですけど単なる夢想家です。



 左か右かの二者択一というと抽象的過ぎて何を言っているのか分かりにくいですけど、身体のバランス的に左でも右でも定常状態からどちらへ傾きやすいかといったことや、赤ん坊の場合であれば「泣く」か「笑う」かの二つのうちどちらか一つの行動しか取れないとするとそのどちらを選択して行動を取るか、というお話です。

 身体のバランス的に右方向のとある一点においてそこを定常点を仮定します。人間は誰しもヒトの胃の構造に基づいて肉体的な意味で外部的なあらゆる力によって左方向へ釣られて動きやすい、流されやすいです。逆に言うとそれはとある特定の状況における運動能力の高さであったり、コミュニケーション能力の高さであったりもします。右の定常点においては人間は何も感じないロボットでありコンテクストを読む能力を全く無い状態になり得ます。よって右の定常点においては人間は他者の自分に対するストーカー行為も認知することはありません。しかし、人間はロボットになることは不可能である、つまりコンテクストを全く読めなくなることはないのであって、危害を加えられたならばそれを感知してなんらかの手段で意思表示を行います。

 お話であるというのは、ヒトの脳のどこかに左のベクトルを設定するか右のベクトルを設定するかというadministratorな機能を司る能力があるということです、おそらくは。


「 これに対し、物質は存在する物ではなく、一般的な存在としての存在であり、概念という相での存在である。だが理性は、なおまだ本能であるから、この正しい区別をするにしても、すべての感覚的存在において法則の実験をするちょうどそのときに、たんに感覚的であるにすぎないような存在を廃棄していることを意識していない。理性は、感覚的存在の諸々の契機を物質として把むとき、それらの契機の本質が、一般者となり、この物質という表現において、それらが感覚的でない感覚的なものとして、物体的ではないが対象的である存在として、言い表わされていることを、意識していない。
 さてそこで、理性本能にとってその結果がどういうふうに転回するか、そのため、その観察がどんな新しい形をとって現れるかが、明らかにされねばならない。この実験する意識の真理としてわれわれが見るのは、感覚的存在から解放された純粋法則である。つまりわれわれが見るのは、この法則が、感覚的な存在のなかに現存する概念である。が、この概念はこの感覚的存在のなかで、自立しており、制限を受けずに動いており、その存在のなかに沈められていながら、それから解放されており、単一な概念である、ということである。このものは、ほんとうは結果であり、本質であるから、いま、自らを意識に対して現れるといっても、対象として現れるのである。しかも対象は、意識にとってはまさに結果ではなく、その前に来る運動に関係しているのでもないから、特殊な種類の対象として現れるのであり、この対象に対する意識の関係も別の観察として現れるのである。」


 これは再びGeorg Wilhelm Friedrich Hegelの"Phänomenologie des Geistes"(「精神現象学」)という著作からの引用です。ここで「純粋法則」を世界(da)から解放されて自立的に動いているとしているところがヘーゲル先生の先生たる由縁であるというか、ちょっと怪しいところです。ヘーゲル先生はこれを説明するのに数学を使えばよかったんですね。二次元平面上で考えるにおいても、マクロ的定常線を曲線でも直線でもいいので考えてみればいいんです。多分どのような一線を規定してもそれ自体で交差させない限り(?)数式で表現することができます。中学校一年生の一番最初の数学の授業でやると思うんですけど、点は場所は示すが長さや面積を持たない、線は長さは示すが面積を持たない、面は……というやつです。
 つまり、私の父親やAdolf Hitlerさんは、「純粋法則」が自我(Dasein)として存在するに違いないと言っているヘーゲル先生への"Nein, "という否定句を、作り出されたものであるに違いないと思われるDaseinへのアンチテーゼとして現実世界で作り出し返そうと無駄な試みを行っている(た)ということです。人間がヒトという種の哺乳類である限りにおいては、「自慰やめますか?それとも人間やめますか?」という問題が存在するということです。

 以下つづき。


「 概念の単一態の過程を自らにもっているこのような対象は、有機的なものである。有機的なものはこの絶対的な流動である。そこでは、有機的なものが他者に対してもっているにすぎないような規定態は、解体してしまっている。非有機的なものは、規定態をその本質としているため、別の物と一緒になって初めて、概念の諸々の契機を完成するものであり、したがって動きに入るとともに消えてしまうものである。が、これに対し、有機体にあっては、これを他者に対し開いている規定態は、すべて有機的単一な統一のもとに結ばれている。ここでは、自ら自由に他者に関係するようなものは、本質的なものとしては現れないから、有機体は自らの関係自身のなかで維持されている。
 ここで理性本能が観察しようとする法則の両面は、さしあたり、いま言った有機体の規定から当然出てくることだが、相互に関係し合っている。有機的自然と非有機的自然とである。非有機的自然は有機的自然に対するとき、後者の単一な概念に対立した自由であり、制約のない規定態の自由である。この規定態にあるとき、個体的自然は、解体されていると同時に、この規定態の連続からは分離して、『自分だけ』である。―中略―このように、両側面が互いに自由であるため、鳥や魚の本質的性格をもった陸棲動物も『現に存在』するなどということがある。必然性と言っても、存在するものの内的必然性として把握されうるわけではないから、感覚的定住をもつことを止めてしまい、現実性においてはもはや観察されないで、むしろ現実性の外に出てしまっている。だから、必然性は、現に存在するものそのものにおいては見つけられないので、目的論的な関係とよばれることになり、関係させられたものにとっては外的であり、したがってむしろ、法則の反対であるような関係となる。必然性は、必然的な自然からは全く遊離した思想であり、この思想は必然性を捨て去り、必然性を超えて自分だけで動いている。
 これまでのべたように、有機体と有機体の生活の場となる自然の関係は、有機体の本質を表現していない。ところが、この本質は目的概念のうちには含まれている。なるほど、観察する意識からすれば、目的概念は有機体自身の本質ではなく、この本質の外にあり、したがってさきに言った外面的で、目的論的な関係であるにすぎない。けれども、有機体は、前に規定したとおり、実際には、実在的目的そのものである。なぜならば、有機体は、他者との関係のうちに自己を維持するものであるため、その本性が概念に帰るような、自然的存在にほかならないからである。また、有機体は、原因と結果、能動と受動というような、必然性においては分離された契機を一つにまとめている。そのため、ここではあるものは、必然性の結果として立ち現れるだけではなく、自己に帰ってきているため、最後のものつまり結果は、運動を始める最初のものでもあり、また自分にとって、自分が実現する目的でもある。有機体は何かを生み出すのではなく、自分を維持するだけである。言いかえれば、生み出されるものは、生み出されると同じように、すでに現存してもいるのである。」


 とある主体に対して「法則の反対であるような関係」である必然性が存在するわけがないです。つまりヘーゲルは自我の必然がDaseinではなくDinge an sichだと言いかけてるんですね。こう規定して人間存在をそういうものであると消化してしまうということは非常にアブないことです。ヤバいです。ユダヤ人化が歴史の流れにおける人類の必然だと言っているようなものであって、非常に危険です。
 精神分裂病患者において、妄念として「法則の反対であるような関係」である必然性(という誤認)を認識していながら何らかのきっかけで急激に「(非有機的な)規定態の自由」「自分だけ」な状態に(完全ではないにしても)立ち帰った状態になるということがおそらく精神分裂病の陽性症状です。云わば「関係」を何らかの外部的な力によって断たれた時、そこに一挙にDaseinが現出するということであり、それがヘーゲルの言葉を借りると「法則の反対」のさらには反対であるため、また「動き」を奪われた状態であるため、あまりにも異常に「感じ ら れ る(gefühlt sein)」ということです。分かりやすく言うと、「鏡よ鏡……」と毎日自分の顔を美しいと思い込んでいたブサイクなオバさんがある日突然自分の顔の老化具合を知って突発的にビビるようなもんです。
 ちなみに「断つ」という行為は父性の象徴です。ネットでハッカーと呼ばれる犯罪者が居ますけど、ハッカーはもちろん英語のhackerですけどドイツ語でhackenという動詞は日本語で言うと「ぶった切る」という意味です。キリスト教でもその他の様々の宗教でも聖人と呼ばれていた人たちはおそらくこの状態(に極めて近いもの)で自己を保っていることができた人たちです。

 みすず書房刊の「分裂病の少女の手記」(セシュエー著)の分裂病の少女ルネの手記の項目6の冒頭にこれの体験談が分かりやすく載っています。直接引用はしませんけど、それが名前や機能や意味という種々の一面性のハリボテであれ、自分なりにgelesen(「読了」)していた情報の数々が、リアルなものものとして感知されだしたことにがとても異常に感じられると述べられています。で、これを著者であるフランス人の精神医学者Marguerite Sechehayeを含めてほとんどの精神科医はそのとおり異常であるとしているんですね。これを異常であるというのならば自分たちの歴史・哲学や文化を否定されたとドイツ人は怒ります。養老孟司さんみたいな人間も怒るでしょう。これは当たり前のことであって、当たり前でないところから当たり前な世界へ帰ってきたその心理的な衝撃によって異常であるという感慨が生まれているに過ぎません。が、もちろんそれは患者にとっては絶大な恐怖なので、即時のケアと治療が必要なのは言うまでもないことです。
 おそらくこの当たり前が当たり前である健常な人間にとってはこれはDaseinでしかないんですけど、これが当たり前でないところから当たり前なところへと帰ってきたスキゾの傾向を持つ人間にとってはDinge an sichになってしまっているんですね。このあたりに精神分裂病(統合失調症)というものの本質がありそうです。

 風水というものがありますけど、あれはそもそも陰陽道でその土地の地勢や水勢を占って墓地としてよいかどうかを判断するものでした。Freund Heinという記事で書いたように、墓地というのは集団への帰属を表すものであって、要するにそれ以上は変わりようがないところへ収められても土に帰るべく生気を失って動かなくなった死者が落ち着いているようにと墓として利用する土地のことをしっかり調べておきましょうという試みだったということです。たしか10年くらい前の一頃テレビ等で「風水的に見ると家の部屋の配置がどうこうで何々が良くない……」とかいったものが取り上げられていたことがありましたけど、部屋の家具の配置とかでもおそらく脳のクセ的に悪い方向を志向していると悪い配置に良い方向を志向していると良い配置に、という様に生活環境(社会環境)を形作っていきまたそこから影響を受ける、というのが人間であるということです。何度も言いますけど養老孟司さんという人が唯脳論という本でこういうことを言っています。例えば部屋の物の配置ということで考えると、人間は場の映像の形象的認識を作り出しまたその場の映像の形象的認識から(自己)認識を形作っていくということです。



 子供の頃に少なくとも今の30歳以上の人間がやらされたあの知能検査の類では、自分を取り巻く社会的状況つまりコンテクストを読む能力の性能の良し悪しについては計れません。社会的コンテクストを読むのが上手いが場合によっては意図的にそれを無視する都会の人間と空気を読めないというよりは空気を読むことに慣れていない田舎社会に生きる人間とでは、明らかに前者の方が能力が高いです。私は学生の時に宮崎県(?)の県の職員の人、たしか40歳くらいの男性だったと思いますけど、その人がプレゼンテーションを行っていたのを見たんですけど、自分の通っている大学の学生のプレゼンより程度が低いので唖然としたことがあります。
 養老孟司さんは「頭の良さは社会的適応性で計るしかない」と言ってますが、これは語弊がある上にちょっと言い過ぎだと思いますけど、賢さというのはやはり社会的適応性に表れると考えて間違いなさそうです。



 抗精神病薬というのは、そもそも「疑問に感じたこと」「他者を含めた外界からの抑圧・ストレス」「肉体の物理的な痛み」その他を患者の自己(self)の内側へ込めさせる非常に強い効能があるものなんですね。吐きたくても吐けなくなるという表現が正確です。飲み始めはそれまでの自己認識その他が壊れていくので非常に苦しいです。擬声語で表現するとアウアウアーな状態、まさに精神病者なことになったりもします。だから当然抗精神病薬を服薬中は勉強なんか全く出来なくなりますし、他人とは付き合えなくなります。もし仮に人と付き合おうものなら自分を表に出せず酷い場合には言葉を思い通りに吐くことも出来なくなって当然ながら頭の中は被害妄想怨憎になります。で、先の記事でも書いたように、一部の精神科医は抗精神病薬を投薬しながらロクでもないサークルへの参加を勧めて他人と交際させようとします。もちろんそのサークルには精神病患者を装った犯罪者紛いの人間がウヨウヨ居るということであって、社会的な側面から言うのならば悪質な精神科医はそこへ患者を落とし込もうとするということです。だから現状の精神医療においては、統合失調症の治療を行うということではなく、ただ単に抗精神病薬の服薬を継続するということにおいては、患者ではなく当該患者と接する人間の為に患者が犠牲になるということに落ち着いてしまうんですね。何度も私がこのブログで説明しているように、この精神分裂病(統合失調症)という病気は整った環境で一定長期間抗精神病薬を服薬してそして(まともな)医師の指示通り服薬量を減らしていってそして服薬を止めてはじめて完治、というものです。

 N田医師のクリニックは私がこのブログを書き始めてから客がピタっと居なくなりました。今時珍しい予約制ではない古めかしいところなのでそのことはよく分かります。それはもともとの客が減ったということでもあり、また俳優(サクラ)が俳優であったことが明るみに出されてそれらが居なくなったということでもあります。N田医師のクリニックでは、診察室へ入ると向って右斜め前方に医師が壁向きに座る机と患者が座る丸椅子があります。部屋の左半分はカーテンのようなもので隠されており、患者が座る丸椅子の位置から後方やや左斜めの位置に看護婦だか薬剤師がカルテを受け取る小窓口があります。で、何故か看護婦だか薬剤師だかが極めて小規模のクリニックに三人も在中しているんですけど、この三人が露骨に患者の話に対して声をあげたり音を鳴らしたりして患者に対する嫌がらせを行うんですね。というのは、その中年女たちの個人的な意思のもとそれが行われるというわけではなくて、彼女らはそういった役割を負っているということです。そしてその看護婦もしくは薬剤師の嫌がらせがある度にN田医師は「大丈夫だよ、心配しないで」という態度を表明して、先の記事で説明したようなミクロ経済的価値意識を精神病患者において再発・再燃させるという極めて悪質なことを行う、というわけです。N田医師も個人的な悪意に基づいてそれを行っているわけではなくて、N田医師はその場においてそういった役割だということです。もちろんこれは統合失調症を始めとする精神病一般を悪化させるものであって、悪質な精神科医というのはこういったことを行います。精神科クリニックというのはそういうものそういった場所だということです。ちなみにこのN田医師は軽くイデオロギーに汚れた御仁です。

 そもそも私的なことをいろいろと晒す以前にこのブログを書いている私が何処の誰であるか特定されているというのがそもそもからして犯罪のアレなんですけど、まあ我ながら犯罪者集団もよくやらかしてくれると思っている次第です。

 何度も言いますけど、統合失調症と診断された人は環境を整えてから抗精神病薬を服薬した方がいいです。吐き出せるものは全て吐き出してから、その後で。



 村上春樹さんの「1Q84」という小説のラストは、たしか主人公の男女二人が手をつないで走っているというものだったと思いますけど、あれで男女でやっちゃってるからいかにもベタ~な感じがするんです。人間には右側の脳みそと左側の脳みそとあるので、ラストで主人公が一人で立っていれば良かったんです。



 自分が何らかの行動を取る時には、単純に、「良いことはやる」を選択すればよいし、「悪いことはやらない」を選択すればよい、ということです。
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