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nota bene
 よく書け。




 一つ前の記事で何でも言語化して記録するのが良いと書きましたけど、何でもかんでも言語化して記録するというのは、他人についての不満に基づく悪口(あっこう)だけではなくて、土地や物の記憶についてもそうです。永井荷風みたくづらづらづらづらと書くんです。こういった一見しては愛着だか嫌悪感だか分からないようなものを全て自分の外へ言語による記録という形で出してしまうことで、被害妄想をはじめとした負の感情やイラ立ちのタネが消えます。
 食べた物をひたすら記録していくなんとかメモリーダイエットというのがありましたけど、アレは事後なのでダメです。思い浮かんだ食べ物や食べたいものを言語で記録するのが効果的です。記憶から消えるので。絵に描くというのはおそらく逆効果なので止めた方がいいです、よけいに食欲がそそられます。

 日本では(主に人間関係の)ストレスが、それがストレスであってもストレスでないかのように見せかける見せかけさせるという教育を小中学校で行います(行ってました)。小学校に入る幼稚園児ですらもう同年でも自分とは合わない人間が居ることは分かります。にもかかわらず「みんな仲良く」「クラスみんなで」という馬鹿な標語のもと特定の一個人である教師が発する空気というマザーコンプレックスで押しつぶされそうになるそれのもと暴力的威圧が行われるわけです。愚劣さの極みです。オカルトペテン性格判断はコレをネットでやらかしちゃった大馬鹿です。

 低学力層の子供たちでもアルバイトの仕事の現場で作業に従事する人たちなんかでもそうですけど、場あたり的な手法や問題解決手段に即事的にたよる傾向があって(そもそもアルバイトというのはそうでないと無理)、問題の根本的な解決にはならずにまた問題を再発させるということが多々あるんですね。この対処療法的価値意識を全社会規模で遂行しようとしたのがナチスです。ナチスも含めてこういった連中というのは最悪なまでに愚かです。学校の勉強なんかひたすら問題を解くのが最もコスパが高いとか言いましたけど、ロボットみたいに全くコンテクストを読む能力が無かったら関連性を学べないので学校の勉強は全く出来ないわけであって、空気読みながら問題解くことになるというか問題解いてりゃ空気を読む能力も必然的に使いながら学習をしてくことになるということです。
 人間誰しもその状況を状況たらしめているベクトルや方向性というものをその状況下においては常に感知しているので、それを根本的に解消しないことにはまた同じ方向に流れてしまうということを誰でも知っています。そうでないと何度も何度も場当たり的対応を繰り返してそのうち結局実のところダメであるというレッテルを自分自身に対して貼ってしまうという最悪なことになるからです。だからマルクスが言うところの「産業の現場」なんてものは世界中何処を探しても無いです。



 先の記事で書いたように、人間左に流れやすく右が定常点であるとしても、単純に左右というお話ではないです。同じく単純に、右に圧力をかければ左、左に圧力をかければ右、というお話でも当然ないです。"Je pense, donc je suis."じゃないですけど、圧力を加えられれば人間誰しも自己防衛機制が働いて、まず客観的に自分が如何なる状況にあるかを認識してからそれによって得られた情報に基づいて自分が取る行動を選択しようとします。ストーカーはこの認識の形態を破壊しようと試みてきます。

 抗精神病薬リスパダールが何故悪質かというと、あの薬は服薬してからしばらくの時間は右へ引っぱられます。とある精神科医によると「リスパダールはバインドが強い」とのことです。で、今までそうでなかったにもかかわらず突然右へ引っ張られてその患者がまともな思考や行動・場対応ができるかというと、可能であるわけがないどころか全く不可能です。その意味でも入院するのが最適で最良の措置です。で、それの効能が切れはじめてやがて完全に切れると、反動で服薬中の「右へ引っぱられている」状態とは真逆の状態へと合い成ってしまいます。意識がボヤボヤして何でもかんでもストレスを溜めこんでしかもそれがストレスであるとは自覚的には気付かないというような状態であって、精神科医が説明したり薬局の調剤説明書に書いてあったりする「抗精神病薬を飲むのを止めると一時的に気持ちが良くなる」というのはこれのことです。この状態は最悪のものです。つまりリスパダールを服薬している間は、ドラゴンクエストのゲームで転職してレベル1になったかの如き状態で、今までの思考(の組み上げ方)や下手をすれば記憶さえも失われて擬声語でいうところのアウアウアーな痴呆状態になり、そして飲んでいない時は「ボヤボヤで何でもかんでもストレスを溜めこんでもそれがストレスであるとは気付かない」で何もかもをも溜め込んでしまうという状態になります。
 ここで思考(の組み上げ方)を壊す役割を担っているのがストーカーです。当然ストーカーと精神科医はタグを組んでいます。精神科医はストーカーの被害にあっていると訴える人間に対してまず「それは統合失調症の典型的な症状である」と告げます。これは当然訴える側としてはそのコンテクストからして「ストーカーに尾けられているが、他人を見てそう思ってしまうのは自分の脳の機能に脳内分泌物質の異常も含めて物理的に異常があるせいだ」という意味で、このように自分が訴えたものに対する解答として認知します。当たり前のことですけど、当の精神科医以外の人間は、つまり現代日本で義務教育を受けて日本語を習っている人間は精神科医の告げた内容をこういった意味に認知します。が、ここで精神科医は言葉のアヤを持ってきます。ストーカーは「貴様は異常な感情を抱いているぞ、場合によっては思考すらも異常だぞ」「貴様は異常な方向へ傾いているぞ(そしてそれに基づいた思考を散発させたり感情を抱いたりしているぞ)」というサインを被害者(この場合は患者)に対して示しているという意味で「それを感知してしまうのは精神分裂病(統合失調症)のせいである」というわけです。「ストーカーがそういった信号を貴様に対して発しているから貴様は異常なのだ」というわけです。つまりストーキングを行うような犯罪者の理屈としては、「自分がストーカーされている」というのはその人間が頭がおかしい証拠であるということです、そのストーカー被害者が他人を見てストーカーだと思い込むことがではなくてその被害者が自分らがストーカーに及ぶような対象であるからという。ストーカーの加害者連中は自分らを絶対間違いの無い神的存在だと思い込んでいるということです。笑ってられません。つまりこの精神科医の告げる言葉自体に間違いは無いですが、精神科医ともあろうものが現代では当の子供ですら笑ってくれないような子供騙しのトンチを言いやらかすわけです。もちろんこんなもの現代日本語を使用している日本人には通用しませんから、ナメてんのかということで精神科医を訴えたらほぼ間違いなく精神科医は敗れて医師免許もおそらく取り上げられて社会的に死にます。N田医師がおそらく年齢を詐称してまで閉院の理由として使って逃げるのは、もう高齢で止めるような医師を訴えても仕方がないと特定の被害者に思い込ませる為です(狭い受付に何故か必要もなく三人も自称薬剤師の老婆が居るんですけど、コレと来院者を装った俳優との聞かされる者の被害妄想を煽るべくした聞かせ会話もそうです)。この被害者の内に私SSが入っているかもしれません。ああいった連中はまやかしを敷くためならばあの手この手で何をやってでも被害者を騙します。騙して悪事へと巻き込んで釣ろうとします。しかし精神科医としては精神科医の言う言葉自体に誤りがあるわけではないということにできてしまうので、精神科医は少なくとも診療室においては自分の正当性をその言葉ヅラのみで主張します。ちなみに私は精神科医を訴えるつもりはありません、抗精神病薬を服薬してもろもろの症状が良くなったのは間違い無いので。
 つまり「薬をのませりゃいい」という精神科医のやり方は非常に場当たり的な対処療法であり、それに対する人間によるどうしようもなく頭が悪いという安易な決定事項には留まらず、精神科医は故意に投薬だけという治療を行って患者をシャブ漬けにして、その経過を観察して精神分裂病(統合失調症)というdie Krankheitを形づくっていく、ということを行います。さらには悪質な精神科医だと、患者の行動において好ましくないものだけを質問によって聞き出しそれをカルテに記録する、というリュウトウマリコだかを自称するエニアグラムのオカルトペテン性格判断教祖と同等の行為を行う豚も居ます。N田医師はおそらく患者において全てのものを記録していましたが、M'z a 悪意医師はこの悪質なケースでした。

 ジプレキサという薬はリスパダールのようなこういった作用はしません。

 私がここで言うこの思考の組み上げ方というのは、心理学だと「水路づけ」と言うみたいです。このリスパダールを始めとした抗精神病薬によってもたらされる、それまで生きてきた現在までとは違う思考の組み立てを強要されるということにおいては、入院をして整った環境で治療を受けられるならいいですけど、そうではなくてそれがストーカーによる間接的なものであれ悪質な精神科医が勧誘するロクでもない人間との直接的な人間関係であれ、そのゼロになった思考回路から恐怖や有りもしない罪の意識を植え付けられて洗脳されるということが多々あるんですね。私は統合失調症と診断された初期ひたすらこれをやられました。もっと前からやられていてそれをそうであると私が気付かなかっただけかもしれません。発狂しそうだった、というかほとんど発狂してました。
 ストーカーはそもそも被害者が行った個々の事実について具体的に調べます。その具体的な個々の事柄からそこへ至るまでの心理をその具体的な個々の事柄から新たに捏造して、そして被害者へとそれを流し返すように伝達します。つまり、そういった心理にはその人の人格たるものが表れますから、この行いは紛れもない洗脳です。これは一種の再世界化とも呼べます。エニアグラムだかのオカルトペテン性格判断はまさにコレを行います、というか新興宗教の類は全てコレです。オウム真理教もおそらくこういったものでした。これは新聞の報道にも多々見られることで、「何々の調査を行いました、結果がこう出ました、出た結果『~だということではないか』『『~だということではないでしょうか』」という毎回お決まりのパターンのナメてんのかと言いたくなるようなペテン丸出しのアレです。

 これは「被害者がAという行動を取った時に限って『Aを行え』と指令する」という被害者の被害感情と被コントロール感を掻き立てる悪質なサブリミナルと同じく、「被害者がAという行動を取ることを既に取り決めている時に限ってAという行動を取ることが被害者の中には存在しなかった・被害者の中ではいまだ取り決められていないかのような前提のもと話をすすめて場合によっては何らかの行動を指示する」という、これもまた被害者の被害感情と被コントロール感を煽る悪質なサブリミナルの手法の一つと同じであるというわけです。
 ちなみに関係無いですけど私の母親の長い髪の毛を落としておくという嫌がらせは、とうとうエスカレートして私の部屋の机の引き出しにまで髪の毛を入れておくという程になりました。どうしようもない豚です。

 こういったストーカー行為を行う犯罪者集団は、そういったウィークメイカーな行為を行い、自分達が排斥したから被害者xさんは特定の人間集団の中で孤立したのだという、「他人を求めない人間など居ない」というテーゼに根ざしまたそのテーゼの定説性を補強するという行為を行います。まるで昔のチンピラ不良少年が徒党を組んで他者を脅したり不安を煽ったりすることで仲間を増やそうと試みるように。被害者が回避できない状況に持ち込んでから、相手(被害者)が喧嘩を売ってきたということにする、後付けを行うということです。某巨大匿名掲示板群でよく見られますけど、ネットでもあの手この手で「被害者が他人を求めていることにして」左側へ釣って自分らの攻撃の正当性を確立しようとする連中が多々居ます。
 残念ながら「工学的な」連中にも真に社会工学的意識のもとそういった行動に及んだり価値理念を持ったりしている人間ばかりではなくて、こういった単なるレイプ魔がそこらじゅうに居ます。というかほとんど後者です。ユダヤの人たちだって理不尽に殺されていったわけです。だからこういった火を付けるクズ、第一手目でユダヤ人をユダヤ人たらしめる者、という連中をどんどん取り締まっていかないとダメであるにもかかわらず現代では特に日本の場合にはネットにそういった連中が居場所を求めちゃってるんですね。別に成人男性の性欲とそれにまつわるストレスを解消してくれるだけのアダルト画像を提供してくれるだけならば大いにありがたく結構なんですけど、残念ながら他者に危害を加えるようなクズが大幅な割合を占めるんですね。

 私の場合では、屋外でのストーカー行為では、連中は紫だとかピンクだとかのあまりに場違いな特徴的な服装や左の口角をピクッと上げるという行為その他「秘密を共有している者だけにそれがそれであると分かるような証」によって自分らがストーカーであることを示してくるんですけど、歩いている時ならば人と目を合わせなければ済みますけど、横断歩道の信号待ち等の回避できない(しづらい)状況でこれをやってワザワザ向こうからアピールして絡んでくるストーカーも中には居ます。中には女性でニヤニヤ笑顔を送ってきたりする人が居ますけど、私は見た目キモデブオタのオッサンなんでこういうものはストーカー被害者に嫌がらせを行っているものであるかもしくは喧嘩を売ってるものであると子供の頃から分かってます。

 基本的にこういった犯罪者集団はそれが被害者にとってプラスのものであれマイナスのものであれ「きっかけ」を作るところから被害者を崩そうとします。心理学でゲシュタルトクライスという言葉がありますけど、これがこういったことを意味しているのかどうかはちょっと私は詳しく知りません。
 つまりこれはストックホルム症候群を狙っていると同時に、こういった演劇に被害者を参加させることを強制して「銀行強盗で現に被害に合っている銀行員」の役割を演じさせることで「自分が弱いと思い込ませる」「弱いことにする」というweak makingの行為です。被害者のスペックをひたすら低下させる行為と同時に、被害者がそのスペック全開まで能力を発揮させない・してはいけないかのようなサブリミナルを掛けるという行為である、ということです。つまり被害者の自己防衛能力と自己防衛意識を崩すというやり方です。最悪の場合だとこれを被害者に対する自分らが犯した犯罪行為の口封じとかに持っていきます。
 おそらく若い女性がウザ男にナンパされる時というのはこういった感覚なんだろうなとは予想します。ハンパじゃなくウザいです。
 で、私は防衛できるのでいいですけど、社会的に弱い人たちは本当にこれによって潰されます。殺されます。私も抗精神病薬を服薬しながらの闘病とストーカー被害に合ったことでこのことをよく理解しました。これは合法的な殺人行為です。M'z a 悪意医師が「統合失調症患者の3割は自殺します」とヌケヌケとヌカしてましたけど、そりゃ自殺する人たちは自殺するわ、という問題です。

 Oliver Hirschbiegel監督の"es"という映画にはこの洗脳行為が描かれているみたいです。私SSに関しては、これはストーカーを行う犯罪者集団だけではなく私の父親がこれを私が幼児の頃からやり続けました。エニアグラムだかのペテン性格判断教祖が行っていることもこの類の行為です。エニアグラムを扱っている人たちには人間の性格とやらが絶対固定されたものではないとしている健常な感覚を持った人たちも居ますけど、中には新興宗教の教祖のように自己の不可謬性と自己が振りかざす定説の不可謬性を他人に押し付けるどころかそれを売り物にしているブタクズが居るんですね。
 ストーカー被害に合い続けていると、まるで自分がストーカー行為によって危害を加えてくる連中の一員であるかのように錯覚させられ始めます。これは大分洗脳が進んでしまった状態です。ストーカー連中が行っているゴッコに強制的に参加させられてしまうということです。私はまだそれを認知して記述することができるのでおそらく大丈夫です。この意味では、特に釣られやすい騙されやすい子供にとっては、宮崎駿さんのアニメあたりは一見健全であってしかし地獄の入り口であるということで非常に危険です。



 私は最近、銀行のATMでお金を預けようとしてカードを入れたら、宝くじの購入画面になって宝くじを買わされそうになったことがあります。前の客か客を装った悪質な犯罪者が画面で宝くじの購入を選択してあとはカードを入れて暗証番号を入力するだけという画面まで持っていって放置、ということをやるんですね。まあ万が一にも銀行が故意にこういったことを行って宝くじを売りつけるということは行わないでしょうから、まあ新手のオレオレ詐欺みたいなものです。

 子供がこういったことを行っているのならば、どうしようもありません。昔はこういった悪事を行う子供はどんどん下へ落としていくシステムがありました。私は30歳ですけど、私の世代に限って言うのならば、責任感なんて言葉は辞書に無いかの如くです。社会に対する責任とかそういったものはもう感覚として無いんです。ミクロ経済的な、何それおいしいの?という感慨を抱くのみです。
 かといってそういった悪質な人間を下へ落としていくそのシステムが健全であったかというとその真逆であって、コネや媚びで教師個人に人間的にへつらう者が持ち上げられて数値で高い評価を与えられるという大馬鹿丸出しな世界でした。だから当然の如くそういったクズが社会で一定の地位を得られてしまうことが可能であってしまい、そのクズ共が悪質な土壌を作って、それと様々な要因のもと「社会的責任?何それ?おししいの?」という私の世代の人間たちが生産されました。「なんとかなんとかだと~って言われるから……」という「言われるから」(言われるだけならまあどうでもいい)という発想がすでに社会的責任感を欠いている人間のそれです。何故そう言われるのか何がどうなっているのかというところまで考えを及ぼすことが私の世代は原理的にできない人間が多いです。残念なことに言語的・文化的・地理的な様々な側面から言っても日本という国は劣等であり滅ばざるを得ないのかと考えざるを得ません。まあ私も完全に倫理的に健全な人間ではないのであまり偉そうなことは言えないですけど。

 新聞配達員とか見れば分かると思うんですけど、たまに勤労学生みたいな人もいますけどほとんどはチンピラ紛いの胡散臭い連中ばかりです。昼間は許容できるとしても、深夜の住宅街で迷惑なバイクの騒音を撒き散らしながら、暴走族と見まがう程です。購読契約の取り付けとなるとヤクザの格好をした人間まで出てきます。露骨に新聞を取れと脅してきます。で、肝心の新聞の記事とやらを読んでみるとどうしようもない中身スカスカでしかも場合によっては下劣な内容が書いてあるだけなんですね。日本のマスコミ、少なくとも日本の新聞社というのはどうしようもない反社会的人間集団であって、若い世代を中心として購読者が減るのも当たり前です。



 少なくとも日本で低学力層の人間や知的能力の低い人間にやたらとアメリカを嫌悪する人間が多いのは、彼らは「アメリカは日本を壊す悪である」と洗脳されている場合と、自分の様々な類の能力の低さとそれに基づく劣等感を誤魔化してくれる他者に対する暴力というものを否定されるからであるという場合とがあります。前者はもう今はほとんど居なくなったイデオロギー大好きの「主義者」に多いです。後者は、低い教育レベルに基づくいわゆるチンピラだとかの不良人間たちです。戦前・戦中に右翼だった暴力的な連中は戦後あっさりと左翼へ流れたそうです。これらは全部アカでありJudenであって、いわゆる兵隊ヤクザな暴力大好きなどうしようもないクズ共です。40年くらい前に全共闘がどうとかブサイクな暴力行為にかまけていた内田樹さんみたいな連中だとか、某巨大匿名掲示板の連中だとか、ネットが普及してからはハッキングその他も含めてPCの画面の外の現実世界においてでもストーカー行為を行う連中だとか、性格判断で他人に自分が決め付けたお気に入りの自己像を押し付けて金を取っている老婆だとか、全部こういったのはアカです。肉を食べるのを止めて野菜を食べろという問題です。

 安易にキリスト教的と言ってしまっていいのかどうかわかりませんけど、他者に暴力を奮うことを喜びとしている反社会的人間には常識的な倫理的規範というのは都合が悪いわけです。他者に危害を加えない健全な人間をあの手この手で否定することで、他者に危害を加えない人間は何処にも居ないということを証明し(た気になって)、自分が他者に危害を加えることに対する理由付けにする(気になる)んですね。そしてその他者に危害を加えない人間に進んで危害を加えるということを多々行います。これはアカでありJudenです。だから単純にもあの手この手でこういったのはキリスト教文化やアメリカを否定します。しかし最も強いのはキリスト教国です。アメリカだってロシアだってキリスト教国です。

 少なくとも私たち日本人は、「かわいそうなユダヤ人が悪いヒットラーに殺された」という形でしかそのあたりの歴史について義務教育では教わりません。ヒットラーはもちろんアカの典型であり、ユダヤ人の血脈的な民族保持性については評価しているという点からしてもヒットラーがユダヤ人的であることは明らさまです。だから、帝国主義的な後進地帯への領土拡大による外部性の内部化や何らかの場合で絶対たる自分達のシステムをそれとは異なるものにぶつけようとする場合を除いて、Franz Ferdinand暗殺であろうがパールハーバーへの特攻であろうが、不良人間集団が人間を引きずりこみその規模を拡大した結果その内部でマザーコンプレックス的な人間関係工学に基づいていただけの漠然とした組織構成ではもたなくなってその内部で殺し合いが始まった、というのが戦争たるものの本質です。だから不良人間が「問題だ、問題だ」とやたらと自分らの存在だけを自分らの利点とし、何を勘違いしたか自分らの存在をそれそのものだけで優れているかのように主張しだし、その人口を増やし不良人間の規模を拡大し、挙句には内部で幾重にも分裂しだし殺し合いを始めて人口はその数を減らした、という自然淘汰のメカニズムの前に陳腐にもマザーコンプレックスは敗れ去った、という結果が存在するだけです。戦争とはこういったあまりにもニヒリスティックで悲惨であるどころか陳腐で滑稽なものですらあります。笑えないギャグです。笑えません。最悪の行為です。だからAdolf Hitlerさん個人のみが悪いわけはなくて、人間に巣食うマザーコンプレックスという妄念が諸悪の根源であるということです。
 第二次世界大戦の直接の契機となった1939年のドイツのポーランド侵攻がこの帝国主義的なものにもとづいたものと言ってしまってよいのかどうかは私は歴史学者ではないのでなんとも言えません。

 かといって「右」で健全な人たちが、何でも口先でギャーギャーわめき散らして声の大きさで誤魔化して自分が相手を御した気になっているアカの勘違い野郎を真に社会的に忌まわしとしているのは当然のことです。だから議論なんてものは馬鹿のやることです。ネットで匿名で議論を吹きかけて分が悪くなるとすぐに逃げるようなのには議論の相手をしてやるのではなく中学校の数学の問題集でもくれてやればよろしいわけです。
 マザーコンプレックスに浸されきったミクロ経済的価値意識から抜け出せない連中は、知のpoolを構想することができません。だからWikipediaみたいなものにはついていけないわけです。ちなみにこれをついていけないではなくて彼らは自分達の中で「納得がいかない」と解釈します。内田樹さんとか見れば分かりますけど、自分の映し鏡でしかない性悪説を他者に塗りたくってその自他に対する恐怖心から他者とは情報を共有できないという事態に陥っているわけです。


 悪質な人間達というのは、何も知らない人口の何割かを占めるマスに対して、自分ら何らか特定の「世間内」だけの人間にとって都合の良いような(に)何らかの具体的な情報の提供を行い、そしてそのマスのみを判断基準のリトマス試験紙として使用し、マスが出した結果だからということでそれを漠然とした社会的了解に基づくものであるかのように見せかけて自分たちに都合の良い方向へ持っていきます。この世間内のみに居る人間を日本語では「アカ」と呼び、Judenと呼びます。そしてまたこれはおそらくナチスが政権を取るために行ったやり方です。ゲッベルスです。最悪です。そして現代日本のマスコミの豚共がこれを行っています。私SSはこのマスとして日本のマスコミに利用されてます。

 他者に危害を加える犯罪者というのは被害者において「諦め」を誘発してきます。オカルトペテン性格判断教祖はこの「諦め」を誘発して被害者を犯罪に引きずり込もうとする典型的な分かりやすい例です。例えば性犯罪事件だと、レイプされた女性が泣き寝入りするのが加害者にとっては理想なわけです。ちなみに私の父親はこの性犯罪者性向を持つ人間の典型です。

 小室哲哉みたいなナリをしたM'z a 悪意医師に典型的に見られるんですけど、「自分らの牙城である精神医学というモデル」を固持して守ることに懸命であって、精神病患者や精神病理そのものの真相を見出して解決する、という態度が全くと言っていい程ありません。しかもあろうことか国立病院の医師であるところのM'z a 悪意に言わせると、精神医学界は「業界」だそうです。それぞれの病気に対する具体的な診断基準が存在しながら(というかそれが無ければ精神科医は全てペテン師である)、精神科医個々人によってコロコロコロコロ診断内容や主張の内容が変化し、つまりは国立病院で医師をやっている人間にとっても精神医学界ひいては精神医学というものが戦争が内乱に転化された「業界」であるというどうしようもないご痴態であるということです。誰も相手にしてくれない頭の悪いJポッポ音楽のそれと同じ「業界」である、ということですM'z a 悪意医師によると。非常に保身的でありマザーコンプレックスの塊であって悪質です。まるでミクロ経済学者が自分らの学問モデルを適用して事象を解析してそれに無茶苦茶な説明を与えているかの如くです。おそらく、左に傾いたものを右に、右に傾いたものを左に、というのが精神医学であっても最終的な解決の到達するところです。が、それを客観的に眺められるとどうやら都合が悪いらしいんですね。そこで「世の中には男と女しか居ない、よって貴様もつがいをつくれよ」……とかいうお下劣なところまではさすがに精神科医個人は言いませんけど、つまり、言語でそれを患者に説明してしまうと、精神科医としては「治らない」ということであり、私個人の見解ではおそらく「答えを得られない」ということです。もしくは、「答えは言語に記述してある通りだと思うんですけど」。
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Esq.
 意識しなくても無意識してる。




 今でも私が部屋にいる時にマンションの隣の住居からコツコツコツコツと壁を叩く音や下の階からドカンドカンとドアや壁に対する激しい衝突音やひどいモーター音がしたりするんですけど、これは幻聴でも何でもありません、念のため。私が部屋のドアから一歩出ると全く音が消えるからです。部屋に出たり入ったりする度に聞こえなくなったり聞こえるようになったりする音が幻聴であるわけがないです。ギャグのネタにもなりません。

 これはBessarabiaというタイトルの記事でも書いたんですけど、特定のxさんにそれがその行動であるという自覚を当人が持っている行動を取ったときに限って、外部から何らかのサインを送ることで、xさんはその特定のサインが自分がその行動を取っていることの(外部から知らしめられている)サインであると認知するようになります。これの副産物として、自己が外部化され且つまた同時に世界が自己に内部化されるという通常では考えられない事態が起こります。そうすると、「自分を読まれている」という妄念に取り付かれるようになり、また同時に自己以外の世界の事象を認知しそしてそれが自己内化されているので予測でき(ていると思い込んでい)るようになったりします。人間の肉体の構造は基本的には誰しも同じなので、それを当たっていると思ってしまう、というよりはどうやら「同じである」ということです。養老孟司さんという人はこういった考えというか、「そうである(Dasein)」と言っている人です。どのような場の形象においても人間の脳が外部化されているということならば、どのような状況においてもダビデの星やユングにおける曼荼羅模様のような認識もそりゃ共時的に人間の意識の根底に存在するわな、そう考えることができでしまうであろうな、という問題です。例えば視覚情報だけに限っても、おそらく人間の能力の問題でカオスなものとしてしか認識できないもしくはカオスでしかない景色・場の形象に、"Je pense, donc je suis."な人間の限界として何らかのdie Symbolik(the symbolized)を発生させるようになるということです。村上春樹さんがたしか毎日新聞かなにかで、「自分の身の回りのことを考えれば(そこから入っていけば)世界のことに通じることができる」ということを言ってましたけど、これも同じことです。村上春樹さんは「風の歌を聴け」ではこれを否定してましたけど。ちなみにタチが悪いのはその紋章的なdie Symbolikな何かから今度は世界どころか人間関係までをもgelesenされたものとして扱うというユダヤ的マザコン人間の所業です。
 で、この記事ではこの副産物の方ではなくて以下に説明する実害の方が主題なんですけど、この洗脳じみたストーカー行為が前のnota beneという記事で書いた「きっかけ」となることが多いです。これが何百回何千回と繰り返されると、xさんはそのサインを表された時に自覚的にその行動へと駆り立てられるようになります。完全にイカれると、おそらくxさんはそのサインが表されるとその行動をとってしまうようになります。そしてサインでない現象をも何らかのサインであると思い込むようになり、結果、自己(self)が完全に外部化されてバラバラになります。これがおそらく精神分裂病の最終到達地点です。盗撮・盗聴されているというのが妄想であるとすると、この妄想の行き着く最終到達点は「自分が自分を盗み見ている」という認識です。三島由紀夫の「esが無い状態」というのが本当だとすると恐らくはこれです。

 私の場合は、この自分の感情や思考とは全く関係ないものを関係づけさせまるでそれが関係あるかのように患者の中できっかけとしてのサインを作ったのが、元国立病院であったところの某病院のM'z a 悪意(仮称)という医師でした。非常に悪質です。



 「イく」と「イカれる」という口語表現によって表されるこの二つのものは全く違います。死ぬ方は「イく」方です。日本語でも天皇のような特別な人間に対して使う、「天皇陛下がご崩御あそばされた」という表現がありますけど、ドイツ語でもこれに似たニュアンスを表すのにgehenの過去分詞形であるgegangenを使う表現の仕方があります。主体的に死ぬのは「逝く」です。敬語が使われる限りにおいては、社会工学的な構成のもと何らかの位置に配置された(天皇やder Fühlerのような)人間が工学的な認知におけるところの社会の側からして「死なれる、逝かれる」というわけです。ヒットラーの二人称は"Mein Führer, "です。マクロな定常的社会システムにおける総統の位置である人間に対してそのシステムに溶け込んでいる一員からして、「わが、総統」というわけです。私はドイツ語学者ではないのでちょっとこれが関係あるか分かりませんけど、ドイツ語でg(ゲー)を一つの単語で三回使うのはgegangenだけです。おちゃらけた人間が調子に乗るなバカということでブン殴られたその様を「あいつゲガンゲンされた(笑)」というのもニュアンス的にはドイツ人(の若者等)に通じそうといえば通じそうです。



 いわゆる悪ガキがそのまま大人になったようなのがそこらへんに特にネットにはウジャウジャいますけど、ああいうのはひたすら「見せかけ」で騙してきます。女性的というよりは幼女的です。要するに人間関係そのものにおける釣りを人間関係工学化という形で行ってくるわけです、幼女がぬいぐるみの人形をもてあそぼうとするように。一般の人たちは単なる脅しには乗ってくれませんから、新興宗教の類の洗脳と同じくこういったクズは外部的な定常点を一つでも二つでも作ることから一般市民を陥れようと試みてきます。それが陳腐な(陳腐にも)「人間関係工学化」であったりダビデの星であったり、場合によっては律法に裏打ちされた家族形態であったりメディアによって喧伝される愛とかいう正体不明なものであったりするわけです。これはユダヤ人のやり方、というよりはユダヤ(YHWH)というものそのものです。幼女的である彼らは一般市民が自分らの思い通りにならないとギャーギャーとワガママを喚き立てます。十何年か前から某巨大匿名掲示板群で素晴らしい見本を見せてくれてます。性悪(性悪説)の世界です。ストーカー行為というものはこの「見せかけ」の最たるものです。「アカ」の為せる業です。日本のマスメディアの発信する情報を鑑みていれば分かりますけど、日本のマスコミというのは「アカ」が行っている「見せかけ」のこれまた最たるものです。ためしに例えばBBCのニュースと日本のマスコミが垂れ流す情報を見比べてみれば即分かります。前者に比べて後者のレベルが果てしなく低いとかそういったことがどうでもよくなる程に、前者に比べて後者の内容が如何に日本人の特質がよく表現された「見せかけ」に満ちているかがよく理解できます。

 目的達成偏重の人間というのはあまりにも非数学的です。目的達成偏重の人間は、物事の道理は決まっていてそれにそって物事を行って決まりきったように行けば上手くいく(に決まっている)ということが分からないというよりは分かろうとしません。何十年も昔の文科系的というとおそらく分かりやすいですけど、こういった連中は「愛だとかなんかこう人間だけに特有のなにか素晴らしいものあるじゃない!」的な、それが自分の外部に在る何らかの定常点だと思い込んでいるエホバな妄念から抜け出せないということです。2012年現在で60代半ばあたりの人たちを言い表す「団塊の世代」という表現はこれを的確に表してますし、おそらく全共闘だとかいったものはこれが如実に現れた現象です。非常にユダヤ的です。自分の能力の低さをこだわりや決め付け等歪んだ趣向で誤魔化そうとしているだけであるということです。おそらく著作「わが闘争」の中でこれを否定しているAdolf Hitlerですらもこの気があります。



 私は女性が自分を見て本能的に嫌悪を感じるということを知っています。それが健全な人間の心理の流れだということを知っているからです。キモいその他で生物学的な問題からして危険である男性を見て身の危険を感じない女性というのは危険です。そして中にはまるでそういった異性に嫌悪を感じていないかのような態度を取る女性がいます。私はそのような女性に嫌悪を感じます。それが装いでありまやかしであり負の感情を瞬間的にですらあれ押し潰した上での何らかの表しであることを私は知っているからです。私は自分が三十年間Judenとして生きてきたと書きましたけど、私は自分で自分がそのような人間であることを経験したことがある故、このことをよく知ってます。非常に人間的であるというか、非常に忌まわしいです。

 人間関係における最大の自己防衛戦略は無為に他者と関わらないことです。女性の場合は生物学的な本能からその傾向が強いので大丈夫でしょうけど、男性の場合は故意にセックスをしないことです。先の記事でも書きましたけど、安易にそこらへんの犬みたいのとセックスをすると脅しのタネに使われます。穢多みたいなのだとかヤクザみたいのとお友達だとかいったのがそこらへんにウジャウジャいるわけです。



 精神科の待合室見てると、ああもうこれはと思う程に本当に明らさまに精神病んでる人が多々居ますけど、そういう人は精神科医にベラベラ何でもしゃべっちゃうんですね。他者に対してでも他物に対してでも、長く精神を病みながら生活を続けてしまったことでマザーコンプレックスな社会環境に依存癖のようなものを刷り込まれてしまっているということです。これはつまり∞/0の因果関係を自分の外部に作り出してしまっているということです。ちなみに日本人の男性の場合だと若いうちから黒髪でハゲる人というのはコレが多いです。
 しかも悪質なことに、しゃべってしまう患者に対して精神科医は全て吐き出させずに、頃合のところで精神病患者の話を切ります。精神病を患っている人間にとってはしゃべるならしゃべるで全て吐き出してしまった方が良いわけです。それなりに真面目に話を聞いてそれをしっかりとカルテに記録する健全な精神科医も居ますけど、ちなみに私のケースだとM'z a 悪意という医師がこの悪医者の典型的なケースでした。つまり患者を満足させずに生殺しを行って、ますます精神病の患者の容態を悪くするわけです。そして自分らに依存させて、「藪医者である俺らはもうかります、はいご苦労さん」というわけです。
 はっきり言いますけど、精神科医なんざ裏で腐るほど患者の情報をベラベラ流しまくってます。とあるクリニックや大学病院で言った特定の言葉をそれとは別のクリニックで発するとそこの医者が露骨にニヤついたりするんですね。おそらく医師法だとか医事法だとか全くの無視で飲み屋でしゃべる感覚でグダグダグダグダしゃべってます。あの精神科医という連中の9割は犯罪者だと考えるのが妥当です。



 日常的坐臥・決まりきった行動が何故大切であるかというと、決まりきった行動によって決まりきった良いクセが繰り返し想起されることによってその決まりきったクセを忘れないから、ということです。身体的に安定するからです。統合失調症の治療でも作業療法というものがあります。
 ちなみにドイツ語だとArbeitは純粋な意味での「労働」という意味であり、Jobは「副業」「もうけ仕事」という意味です。
 そもそも人間はストレスを処理する時に身体的に特定の筋肉を異常な仕方で働かせる傾向があります。(精神的なものに由来する)緊張だとか肩こりだとかはこれの結果としてあらわれます。コレが限界を超えるとその状態で固定されて不眠へとつながっていきます。病気になります。

 髪を伸ばしてると肩が凝ったりどうでもいいことでストレスが溜まったりします。だから女性も丸刈りとは言わないまでも、短髪というかショートカットがいいです。ちなみにナチスのConcentration Camp(強制収容所)では収容された女性も丸刈りにされてましたけど、これはもちろん極端過ぎる例です。日本でももともと40年くらい前の全共闘とかの時代は、長髪は反抗の象徴とされてました。根本的な身体的な問題からして、若者はブサイクに髪をぞろぞろ伸ばしてその当時の大人に反抗するために反抗していたということです。もちろん明治の開国以降、そういった長髪が髪型として公に認められていた時期はおそらくありませんでした。
 おそらく髪の毛をはじめとする毛というものは妄念や邪念の具現体ということで穢れたものとされてました。だから短髪や坊主頭のナショナリストを見て恐れるというのが全く間違っているんですね。長い黒髪の国粋主義者が居たらそれこそがキモいわけであって、危険だということです。別に象徴的な観点からして紋章のように妄念を引き連れて歩いていて危険でありどうこうというわけ(だけ)ではなくて、身体的に長髪というのは身体の外側への外圧が増すような感覚をもたらすんですね。

 筋力トレーニングで、特定の部位を一定まで鍛えた後にその部位に別方向からの負荷をかけて鍛えることによって筋肉の量が増していきます。同じく外国語学習において、例えば印欧語の場合だと英語の学習の途中でドイツ語の学習をすることによって上達具合が増します。英語のリスニングなんかで、途中でしばらく英語を聴くのを止めてドイツ語を聴いていると、また英語を聴き始めた時に分かりやすくなっていたりします。こういったことはおそらく他のことでも同じです。
 おそらく、人間においてコミュニケーション性を取り去れば、一戸内での家族系態も存続しなくなるので、一方向からのみの訓練がシステマティカルなものを破壊しないという意味で最も有効かつ有益なものとはなるでしょうけど、communicationizedを避けられない現代の少なくとも日本の死荷重が死荷重を生み出す構造の資本主義社会にあっては多方面からの訓練が必要であってしまいます。しかしこれも個々の案件によって場合によるというものであって、文字の連なりで構成されている文章を読解する為にマンガ(マンガ的解釈)が必要であるというのは間違っているのであって、文字句とマンガの関係については、文字についてはコミュニケーションで用いるという以前に絶対的な知的産物である故、文字の連なりを読むということを絵から発せられる空気を読むということで代替することは不可能です。文字すらも無かった時代もしくは人口のほとんどが識字能力を持たなかったような時代における文字や書物が、それは現代におけるマンガに当てはまるわけでもないです。音韻を文字化することやシンボルを簡略な形象化することと、文章の行間を絵ヅラ化することは全く違います。
Gefühl eines Daseins
 脅迫的自由意志。
 背後の一撃説。




 ストーカーについても嫌がらせをしてくる近親についても一般的な人間関係においてもそうですけど、その行動理念というよりはその行動の基準となっているものについてもう大体はこのブログで書きつくしました。「右の定常点から左へとあの手この手で釣って流して引っ張ろうとする」というつまりはこれに尽きます。これだけだと抽象的過ぎて何を言っているのか分からないので、紙に図でも描いてみれば分かりやすいです。もしくはヒトの脳の機能について研究している研究者に訊ねればたぶん分かります。「精神」だとかマザコンな「妄念」だとか「志向」だとか「血」だとか「楽しみ」だとかは左です。「自らの血に溺れる」というのは左側へイっちゃうということです。連中は不安・恐怖・被害妄想を煽る・ネットにおけるなりすましや特定の行為のなすりつけや偽証・誘惑・何らかの特定の行為によるアピールその他によってひたすら一般市民に投網をかけて左へ引っ張ろうとします。ストーカー行為を私SSのような特定の被害者に対して繰り返すアカいJudeな連中でもそうですし、マスコミは言うまでもなくそうですし、精神科医もこのブログで何度も説明しているように残念ながら例外ではないです。
 で、こういった連中は、そういった特定の人間を集めて作り上げた統合失調症というdie Krankheitをそれそのものだけで最世界化の理由付けとして利用し、「die Krankheitであるから、患者が病気であることであって、患者が患者たらしめることにまつわる全ての具体的事象が問題である」という逃走用具として使用します(ちなみに患者が患者であることにまつわる蓋然性というのは、これは病気です)。自分が危害を加えたところの被害者である患者に対しては「そんなもん知らん知らん、ボクには関係無い」という有様です。こんなもの背後からどんどん銃殺刑にしていかないとダメです。こうやってアカは逃げるんです。別に灼熱の人でも他者に危害を加えずに何らかの形にそれを昇華させられる大江健三郎さんみたいなノーベル賞級の偉人ならばいいんですけど、やはりマザーコンプレックスな何かの下他者に危害を加えてしまう場合がほとんどです。ちなみに、被害者もアカ化してしまっているケースがほとんどなので、かわいそうですけどもし人の情があるなら被害者も殺してあげるべきではあります。一番苦しんでいるのはアカ化している被害者ですし、またその被害者もJudeなアカを伝染させていくからです。



 私は幼稚園児が豚に産ませた子です。もちろん10歳に満たない子供の頃からそれを自覚しながら生きてきました。両親ともにそうでしたけど、徹底して「自分には全く非が無い」というテーゼのもと人間関係を構築する人間でした。Zephyranthesという記事で書いた小話のSi君(仮称)みたいな極めて低知能なユダヤのブタクズもそうですけど、こういった人間は何故か自分が他者に加えた危害は全く考察の材料として採用しません。前世紀の馬鹿な若い女のセリフとしてありそうな「そんなのワタシの勝手でしょ」というものによく表されているように、こういった連中は自分が他者に加えた危害について鑑みるという発想が辞書に無いわけです。絶対的に自分は正しくて他者から非難される筋合いなどカケラも無いと思い込んでいるわけです。これは自己の不可謬化であって、先の記事で説明した通り陳腐にも「人間関係工学化」のベースとなっているところです。だから他人に躊躇も無くレッテルを貼る「タイプ判定」に及んだりしちゃう馬鹿もこういったものの中には居るというわけです。最悪なものだと自ら他者に危害を加えておいて、それについて「自己防衛していない被害者が悪い」とヌカすブタも居るんですけど、こんなもの一刻も早く殺処分すべきであるとしか言い様が無いです。
 ちなみに私はこの両親を反面教師として人間関係を学習したので、「自分は非そのものである」というテーゼのもと人間関係を構築することしか知りません(でした)。私SSを個人的に知っている人間ならば「ああ、」と思うでしょうけど、ひたすら自虐ネタに走ります。穢多が非人を作ったというわけです。人間は幼少時から親の圧力が強すぎるもしくは過干渉であると、家庭以外の場所における他者に対する信用が培われず、例えば学校等で教師をあざけるようになったり、教わることを絶対とは思えないようになり、家庭以外の場所での全てのことに対して不信感を抱くようになっていきます。そして無意識的な性悪説を自分で自分に刷り込むようになってどんどん自己破壊的になり破滅的性格になっていきます。面白いことを言ったりふざけたりしなければ付き合えないような人間とはそもそも付き合うべきではないです。そんなもの友人でもなんでもないです。北野武さんが「そいつが困っている時に無償で助けてやりたいと思うようなやつが本当の友達だ」と「全思考」という本で書いてましたけど、まさにその通りです。



 もうおそらく今は若者にも居なくなりましたけど、だいたいそもそも自分で帝王だかキングだとかまたはビッグだとか自称しちゃうのがもう程度低くて果てしなくイタいわけであって、おそらく小中学生くらいの子供から見ても滑稽に映ります。少なくとも私は子供の頃週間少年ジャンプとかを見て滑稽だと思いました。そのヒーローのヒーローたる滑稽さや陳腐さが面白くてマンガを読んでました。ドラえもんのマンガなんてものはむしろそのヒーローのヒーローたる滑稽さや陳腐さを売りにしてるくらいです。ガンダム(シャア)もある程度こういった滑稽さや陳腐さを売りにしてます。若い頃こういったイタいチンピラだったのももういい加減オッサンになって止めたんで、一部のイタいチンピラ芸能人みたいのを除いてもうこういったのも消えました。



 週間少年ジャンプ的な、二十年くらい昔の(旧)自民党的な「傷ついたままでは終われない」とかいった痴想に基づくお言説に代表されるような、「まるで当該人物が何らかの人的(資本)なものを相手にしているが故にそういった自己防衛行動や他者への攻撃行動に移ったかのような前提のもとその当該人物の行動理由や行動理念を断定する」というユダヤ的なカルマなものが昔は多々見られたんですね。これは釣りです。前世紀はこういったものは「子供だまし」と言われてました。「面白いもの・こと・人」「楽しいもの・こと・人」というのは全て釣りです。全てJudeな釣り、Judenによる釣りです。
 一昔前までの穢多というのは、そうやって必死で自分らの同族を増やそうとしてました。つまり少なくとも戦後のこの日本という国において、女を利用した釣りによる生殖だけにととまらずそういった方策によって子供を騙して釣ることによってユダヤ人は数を増やそうとしていたということです。某巨大匿名掲示板群やtwitterで会話やつぶやきを装って禍を巻き起こすような情報を垂れ流してるのも全て釣りです。何が忌まわしくまた問題であるかと言えば当然そのコミュニティーの中では引き摺り下ろしあいの殺し合いを行うからです。また部外者を巻き込んで途方も無いバトルロワイヤルな会場を敷こうとするからです。何度も言いますけど現代における新興宗教の類は全てコレです。

ユダヤ人A「アイツはさ、自分が他人にどう思われようとどうでもいいし、自分が他人をどう思おうがそれもどうでもいいし、そもそも他人のことなんか思わねーし、好きなものも嫌いなものもな~んにもねぇんだろうな。あ゛~つまんね」

というこの創作ユダヤ人の会話発言に出てくる人物はある種のキリスト的人物です、とは言っても私SSが即興で今書いただけのものですけど。この小話の文面におけるAの発想には非常~に分かりやすくユダヤ人の「特長」が出ています。カネがモノを言う世界です。「おっ母をよろこばすために他人ブッタ斬って女さらってオラの嫁っ子だって見せてやりてえ」というミクロ経済的な修羅コブリンの世界です。万物の元凶たるマザーコンプレックスそのものです。おそらく心理学者とかに聞けば分かると思いますけど、母親への愛情が人間を悪事に駆り立てる、ということです。いくつか前の記事でも書きましたけど、機動戦士ガンダムというアニメにはこれが非常によく表れてます。あのアニメに登場する主要キャラはほとんどがマザーコンプレックスに塗れてます。シャアなんて最も強度のマザコンです。面白いことは間違いないですけど非常に悪質なアニメです。ネットを見てれば分かるとおり、美少女育成ゲームとか昔から巷に溢れてます。その他言語で言い表すのもさすがに私でもはばかられるような女性をネタにしたおぞましいものものがいくらでもあります。日本人の男はこういったおぞましいものを生産するヤクザみたいのとそれにすがる宮崎勤だらけだったということです。同じロリコンでも川端康成といえば聞こえはいいですけど、そうではなくて宮崎勤です。しかしつまりは宮崎勤さん個人はターゲットにされてユダヤなマスコミのネタにされて死刑にまでもっていかれた犠牲者だということです。こういったところ(こと)にマザーコンプレックスの非常に強い日本人の国民性がよく表れてます。だから日本のマスコミの豚共はワイドショーのアーパーコメンテーターから筆頭から底辺の二等兵に至るまで自分らが今まで悪業によって稼いだ金を全て国庫におさめてさっさと首吊って一匹残らず死んでいただきたい。

 中島義道さんとて「(こんなマスメディアに都合の悪いことを書いて)何故自分は潰されないのか?」とか自分の本で書いてますけど、そりゃ当然本にそれなりに面白く馬鹿なことを書いて禍を巻き起こすことに参加しているからです。「業」界人だからである、というわけです。業界人というのは読んで字の如く全てJudenです。だから日本に限って言えばマスコミというのは、自分らが社会に害毒を撒き散らしていることを自覚せずに自分らが社会に害毒を撒き散らすことを社会的責任だと思い込んでいるということです。
 ちなみにこの人が書いておられる、「快・不快の哲学」は哲学たり得ないです。「快・不快」は哲学ではないからです。おそらくはヘーゲル先生に笑われます。快や不快を感じるということにおいては、イっちゃった(gehen)ままで歴史的自己がそこに成立しないからです。この中島義道さんという人の本には「悪への自由」というものがありますけど、こんなカルマなことを言っている人がよく「何故自分は潰されないのか?」とかヌケヌケとヌカすなとは思います。

 

 抗精神病薬ジプレキサというのは若干の「左側への釣られ」が発生します。しかしこのジプレキサ分が足りなくなった時に右へ戻ります。おそらく体感としてはリスパダールとは逆であり、しかも薬を減らしていって止めた時にリスパダールとは逆なことに反動で右側で定常する傾向があってよろしいことになります。リスパダールは飲むのを止めると非常に気持ち良くなりますが、ジプレキサは飲むのを止めると実に気分が悪くなるどころかヤバい状態になります。ジプレキサをしばらく服用していて急に量を減らしたり止めたりすると最初はもちろん体感上非常にヤバい感じがしますしおそらく薬効上危険なので、急激に服用量を変化させるのは危険です。かといって藪精神科医の言う通りに抗精神病薬を服薬していたら心身ともにボロボロになります(特にリスパダールを問答無用で多量に服薬させようとする精神科医は藪医者であると見なして間違いないです)。だから自分で加減を見ながら量を調整するしかありません。



 「未知の海外との間を隔てるように海に囲われながら外を志向せざるを得ないという日本人の地理的感覚」が日本人に不幸な影を落としています。
an industrial complex
 哲学科の学生がワープロソフトの白黒反転機能で黒字に白いドイツ語を打つとは、言い得て妙な。




 ちょっとあまりに程度が低いという意味で酷いのでこれについて書きますけど、2012年4月2日、つまり私がブログに記事をupした日の直後、外で「なんとかなんとか言ってんじゃね~よぉ~(なんたらかたら」という子供の大きな声がしました。近日では、子供が泣き叫ぶような大きな声を故意に立てたり叫ぶように「ありがとうございま~す」というセリフをホザくパターンまであります。同じような子供の大きな金きり声で「なんとかなんとかは弱いものイジめじゃね~かよぅ!」と言う声が聞こえる場合まであります。先の記事でも書いたように、あの程度の小学校に入学するかしないかあたりの幼児に対して特定のセリフを発するように命令しているストーカーである犯罪者の大人が居る、ということです。幼児が私のブログの記事を読んで内容を理解することは不可能だからです。私にブログに記事をupされると困る悪質な犯罪者が居る、ということです。
 これは、昔からこのブログで何度も書いているように、10歳に満たない子供に「ストーキング被害者には当人に関しているかどうか断定できないが、それらしきこと」を直に話しかけるのでも何でもなく遠くから石を投げつけるのというような卑怯なやり方と同じようにして言わせるということで、ということでストーキングを行うというものです。まるで被害者である私SSが何らかの加害者であるかのようにに思い込ませようとする犯罪者集団の試みです。これももう何度もこのブログで書きましたけど、もちろんストーカー被害者がこういっストーカー被害を認知するには何らかのきっかけを必要とし、そしてまたその特定の何らかのきっかけから具体的事実(具体的行動)を連鎖させて「『それがストーカーしていることの証であることをストーカー被害者に知らしめる』という形でストーカー加害を被害者に対して行っていく」ということをストーカー行為の加害者達は行っていきます。
 ちなみに私SSの場合であると、弱いものイジメをされているのは私SSであり、私SSはマスコミも含めた集団ストーカー行為の被害者です。これはイジメとかなんとかいう生易しい形容で片付けられるものではなく、殺人です。犯罪者の豚共は、どうしても私SSがストーカー加害行為に屈してくれないので、今度はまるで私SSが弱いものイジメをしたり何らかの加害者であったりするかのように無知な10歳にも満たない子供を使ってまで思い込ませようとする、というわけです。これは被害妄想を煽るならぬ加害妄想を煽るという行為です。(このことについてはもちろん精神科医がストーカー加害者とタグを組んでいる場合が多々あります。精神科医の中にも犯罪者が居るということです。私SSの場合であると、国立精神・神経センター病院の医師であったところのM'z a 悪意(仮称)という名の医師とN田四R医師も若干犯罪行為に噛んでました。)。ストーカー加害を行う犯罪者集団は、「私の書いたものの内容を鑑みて『それは弱いものイジメだ』とそれに対する認識能力の無い10歳以前の子供に言わせる」ことで、まるで被害者が加害行為を行っているかのような被害妄想ならぬ加害妄想の煽りを行っているが、しかしあまりに頭が悪すぎて被害者には通じない、というわけです。ちなみにこの犯罪者集団は直接は絶対に私に話しかけてきません。もう集団を組んでいるところからして個々がチキンであることの証ですし、そもそも一対一の言葉のやり取りではこういった連中は私SSには絶対に勝てないということをストーカー加害者の犯罪者集団はしっかり知っているということもありますし、そもそも警察を呼ばれたら困るというのもある上にストーカー犯罪の証拠を残したら自分らが捕まるというのもあるからなんですね。集団で特定の一個人に対するストーカー行為に及ぶ、という時点でこのストーカー犯罪者共は個々人では無能な豚であることの証です。日本のマスコミなんてのはコレらの為す豚の群れです。私の場合だと近親の行う嫌がらせもそうですけど、近日だと私が外出中の20分くらいの間に母親が私の部屋に侵入して、私の洋服ダンスの引き出し開け放しておくという嫌がらせを行いました。もう外出時のストーカーでもネットのハッカーでも私の場合だと近親者の嫌がらせでも、レベルが低いというかやっていることが頭が悪すぎるわけです。こういった連中は馬鹿というよりは頭が悪いという形容が適切です。ちなみに精神科医はレベルが低いわけでも頭が悪いわけでもありません、彼らがストーカー行為に加担しているとなると明確な重犯罪です。もし自分がやられていると少しでも感じた人はしっかりとした弁護士に相談して法的手段に訴えないとダメです。そうしないと自殺に追い込まれるまでこういった豚共はやらかしてきます。私SSは主に自分の父親が関係する個人的な諸事情によりやらないもしくはできません、おそらくそういった犯罪のアレがあるんです、この日本という国においても。別に私は帝王気取りな人間でもコワモテでも何でもないんで、つまりはこういったストーキングを始めとした犯罪行為を他者に対してやらかすような豚共は一対一では絶対に一般市民には勝てないことが分かってるんで、こういった卑屈行為に及ぶ、というわけです。

 

 要するにストーカーの犯罪者としては、被害者である私SSに自己防衛としての言動や行動に及ばれたら困るというのと、被害者に自己防衛行為に必要な客観的な目を失わせたいというものがあります。残念なことに完全な性善説な人間なんていうのはお話上のナザレのイエスさん以外には居ないんで、私SSも例外ではありません。自分をストーキングしてくる連中に対して、それらを善良であると思えたり考えたりすることのできる人間なんてものは世界中何処を探しても存在しません。
 ちなみにジブレキサであろうがリスパダールであろうが抗精神病薬というものを服薬すると、その効能上否応なしに客観的な目が失われます。もちろんただ単にクスリだけ(特に抗精神病薬リスパダール)を飲ませようとする悪質な精神科医はこれを狙っています。



「 ―前略―それ故に、宗教がなお自分の根源に近く立っておって真実であり、誠実であればあるほど、それだけますます宗教は自分のこの本質をかくさない。すなわち、宗教の根源にあっては、神と人間との間の質的な区別または本質的な区別は全くひとつも存在しないのである。そして信心深い人間は、この同一性に対して決していきどおりを感じない。なぜかといえば信心深い人間の悟性はなお彼の宗教と調和しているからである。こうしてエホバは古代ユダヤ教においては、単に実存の方からみて人間的個体から区別された本質(存在者)にすぎなかったのである。しかるに質的には、すなわち彼の内的本質の方からみれば、エホバは完全に人間に等しかった。エホバは人間がもっている情熱と同じ情熱をもち、人間がもっている特性と同じ人間的な特性をもち、人間がもっている身体的特性さえもっていた。人びとは後世のユダヤ教においてはじめてエホバを人間からきわめて鋭く分離した。そして人びとは、後世のユダヤ教においてはじめて神人同感同情説(人間の感情を神へ移入すること)に対して、それがもともともっていた意味とは別な意味を想定するために、比喩のなかに逃げこんだのである。
 キリスト教においてもまた事情はこれと同じであった。キリスト教の最古の文書においてはキリストの神性はまだ後のようにそれほど決定的にきわだっていなかた。とくにパウロのもとでは、キリストはなお、天と地との間・神と人間――または一般に最高のものに従属していた存在者――との間を浮動している不明確な存在者である。パウロのともではキリストは、天使のなかの第一のものであり最初に創造されたものではあるが、しかもなお創造されたものである。キリストはまた私のために生まれたものであるが、しかもなお創造されたものである。しかしそのときは天使もまた、そして人間もまた、創造されたものではなくて、産まれたものなのである。なぜかといえば神はまた天使や人間やの父でもあるからである。教会が始めてキリストを明白に神と同一化し、キリストを神のひとり子にし、キリストが人間や天使と違ったものであることを明確にし、そうしてキリストに被造物ではない永遠な存在者という独占権を与えたのである。
 宗教に関する反省――神学――は、神の本質を〔人間の本質とは〕別な本質にし、人間の外部に引き出しておく。こういうやり方のうちで概念上最初のものは、正式な証明の対象にされる髪の実存である。」

 これはLudwig Andreas Feuerbachという19世紀のドイツの哲学者のDas Wesen des Christentums(「キリスト教の本質」)という著作からの引用です。「個々の仕事への分業化」、物事における物証面での一面性、それを押し進めて(陳腐なる)人間関係工学においてまでそれを適用する、つまり象徴界までもっていってからそれを再世界化するというやり方で世界を構成した気になる、そして誰か特定少人数の特別な人間に責任を押し付けるという形で逆ナチスを行おうとしている、資本主義というよりは拝金主義に走っているJudenたちが居る、ということです。国歌である「君が代」が学校で唱歌される場合に起立を拒否する人たちが居ますけど、彼らとは同質であってしかも「君が代」を強制的に斉唱させるということとは比べ物にならない程に悪質な「逆君が代」みたいなことをやる穢多のユダヤ人が現在の日本でもまだ居るということです。つまり何百年も千年もの昔は悪徳な山椒大夫みたいな人さらいが主に子供をターゲットとして攫ってバラす(殺す)ということをやっていたんですが、近現代日本のような法治国家でそんなことをやったら即捕まるので、現代で連中が何をやるかというとターゲットの被害者を象徴化して一種のemblemにしてそこから被害者にまつわる肉体的でも精神的なものでも社会的なものでも要素要素を取り出してマスメディアを使ってサブカルチャーの作品群を作っていく、という形で人さらい仮想バラバラ殺人を行っている、ということです。手塚治虫作の「どろろ」という漫画がありますけど、あれは読んでそのまま被害者が妖怪を一匹一匹追いつつ自分の肉体のパーツを取り戻して被害者が加害者に復讐していくという形でこのことを描いた漫画です。Adolf Hitlerという人物はこれをやられて気が狂った人間です。現代日本ではご丁寧にも大塚英志さんが「多重人格探偵サイコ」という漫画で人造のエホバをそれが何たるかと共に描いてました。ちょっと作品のタイトルを忘れてしまった上に見たわけでもないんですけど、石原慎太郎さんが宣伝していて女優の岸恵子さんが出演している第二次大戦時下の特攻隊の若者の映画がありましたけど、こういった「君が代」なものとは逆に、「君を勝手にネタにしてカネを儲けさせてもらう」という「逆君が代」なことを行うJudenが居る、ということです、まだ現代日本でも。私は戦争賛美者ではないですけど、後者は非常に悪質です。豚はノーベル賞級の偉人でもない限り暴力に走ります。
 ちなみにここでフォイエルバッハが言うところの、「人間の外部に引き出された神の本質」というのはdaという言葉で表されるものであったり二次元の平面におけるマクロ的定常線であったりします。

 人間の行動において主語を無くして(言語による比喩という形で)考えるのがユダヤ人のやり方です。考えを特定の個人に適用して、物事によって分けて考えずに同じ動詞で表されることをひたすら真似して行うという形で行動に出ます。ちなみに人間の行動において主語を無くして「思う」のは日本人です。
 ここで個人主義と産業における分業との悪質な履き違えやおそらくは意図的な混同というやり方で攻撃してくる連中も居ます。例えば精神科医です。精神科医の栄養学的無知たるや凄まじいです。M'z a 悪意医師は「学生の時に興味ない授業だとまともに聞かないでしょ。精神科医とてそれは同じです。」とあっさりと言ってのけました。薬物も食物も体内に入れるものという点では同じなわけであって、その薬効成分も栄養(とされている)成分も同じ物質である点で違いは無いです。にもかかわらず、精神科医は抗精神病薬を売らなければならないので、患者を薬漬けにして金の鳴る木に仕立て上げるというわけです。ちなみに抗精神病薬は使いようによっては良い薬にもなり得るものです。資本主義制度下においては儲からなければどうしようもないのでどんどんこういった悲惨な方向へ人間誰しも流されていく、というわけではなくて、意図的に資本主義とはそういうものであるというレッテルを貼り拝金主義へと持っていこうとするマザーコンプレックスに基づく人間の惰性というものがあるということです、特に日本人に多く。ちなみに一見しては意外だと思われるかもしれないですけど反ユダヤの人たちには菜食主義者が多かったりします。
 数学的にマクロ的定常線を想定してみると物事何がどうなっているか理解しやすい、決まりごと(Dasein)としての物事のなんたるかが分かる、ということですけど、社会科学や人文(科学)においてこれが理解できるようになるには時間がかかるというか2012年現在の日本ではおそらくいわゆるFランク以外のまともな高等教育機関の大学院あたりまで行って勉強しないと分かるようにはなりません。だからこそ中等教育(中学校や高等学校)での数学の勉強が大事なんです。数学が出来ない人間はおそらく何をやってもダメです。私が予備校時代に、「自分に都合のいいものだけを持ってきてそれを使って証明した気になっている学者がどうたらこうたら~」と言っていた頭の禿げた豚みたいな顔をした無能な予備校講師が居ましたけど、自然科学の技術関連の論文はちょっと別でしょうけど一般的に論文を書くというのはマクロ的定常線に沿って部分的に一部一部材料を抜き出してそれを使って決まり事の何たるかを説明しているというだけに過ぎないのであって、この予備校講師の言っていたことは流浪民であって見失いがちな自己のidentifyのために知を利用するということ(自分に不都合なものは実証しようとしない論理実証主義者)と物事の説明の為に材料を集めて説明することの違いの区別がつかないJudenの発想です。

 こういった人間たちは一般には豚と呼ばれてますし、日本ではこういった連中は昔は穢多と呼ばれてました。「豚」というのは見た目が太っているとかどうとか単純な問題だけではないです。「ユダヤ」の「豚」です。しかし肉体が太っている人間に豚が多いのもまた事実ではあります。
 これに先立っては、そもそもターゲットに自分が特別な人間であると思い込ませようとする、というものがあります。1980年代のマンガあたりを見ると、そうやって子供を洗脳しようとしていたということがあまりにも明からさまです。それはつまりヒーロー云々の話だけではなくて、「こういう奴らが悪い奴らであり、こういう奴らは悪い奴らではないんだぞ」という間違った善悪像を当時の子供に週間連載という形でひたすらサブリミナルの如く刷り込んでいた、というのがあります。それと小中学校での悪質な穢多教師による「みんな一緒」「(見てくれだけでも)みんな仲良く」というひたすらに人を潰すマザコン義務教育の結果多くの真面目な人間たちがオタクに作り変えられました。昔の週間少年ジャンプに代表される悪質なマンガでは、ファンタジーというバトルロワイヤルな会場を敷いて世界の構成を逆転させてそこでこの卑屈犯罪行為を美化して悪い(ことになっている)大王をやっつける、という描写を週間連載という形でひたすらサブリミナルの如く描き続けて子供を洗脳しようとしてました。2012年時点でこれを読む人にとっては、私がここで言っていること自体がレベルが低すぎて「は?」と思われるかもしれませんけど、現在60歳前後の爺さん連は本当にこういった低レベルな発想で「子供たちにマンガを読んでもらいたい!」とかいう意思のもとマンガを描いてたんですね。ところが当の子供はそんなに頭が悪くはなかったので、先の記事で書いた私の場合の通り「ヒーローのヒーローたる滑稽さや陳腐さが面白くてマンガを読んでいた」というのが実態です(が、しかしそれもまた結果として悪影響ではありました)。特定の「業」界内でカネを回して自分らのマザーコンプレックスに裏打ちされたあまりよろしくないコミュニティーを存続させようとする豚の所業であるということです。

 戦後の日本では義務教育でこういった人種差別的なものを教えることをおそらく法律で禁止してます。とは言っても個人的な子供の頃の経験を思い出すに教師が必死に子供同士での差別感を煽る発言を「お話」という形でやらかしてはいました。迷惑な騒音を立てる珍走バイク乗りでもそうですけど、工業高校的な連中の中にもマクロな定常状態から故意に差別を作り出そうとする悪質なクズであり同時にカスであるというのが居る、ということです。



 おそらくはどこまで人間を騙せるか実験をしているというのもあります。そして同時に「騙されていることが分かって、社会上どうしようもなくなったならば自分らに屈しろ」と言っているわけです。しかし私SSのように「そして同時に『騙されていることが分かって、社会上どうしようもなくなったならば自分らに屈しろ』と言っているわけです」というところを分かられていては、被害者は自分らには屈してくれないので、ストーカー加害者達は被害者において自己防衛行為に必要な客観的な目を失わせようとする、というわけです。これが日本における穢多やJudenのやり口です。70~80年前のドイツでは、これにやられてしまった狂人Adolf Hitlerがこれがその社会制度上ユダヤ人であるとされている人たちのやっていることである、ということで、ユダヤ人という具体的な社会的カテゴリーにその元凶であることをなすりつけることで一種の復讐を果たしました。その結果罪の無い人たちまでが何百万人と悲惨な目にあって殺されました。しかしということはやはり戦争賛美者は「ユダヤ=ユダヤ人共」であるということでもあります。これが先の記事で書いた、不良人間集団が人間を引きずりこみその規模を拡大した結果その内部でマザーコンプレックス的な人間関係工学に基づいていただけの漠然とした組織構成ではもたなくなってその内部で殺し合いが始まった、というのが戦争たるものの本質であり、だから不良人間が「問題だ、問題だ」とやたらと自分らの存在だけを自分らの利点とし、何を勘違いしたか自分らの存在をそれそのものだけで優れているかのように主張しだし、その人口を増やし不良人間の規模を拡大し、挙句には内部で幾重にも分裂しだし殺し合いを始めて人口はその数を減らした、という自然淘汰のメカニズムの前に陳腐にもマザーコンプレックスは敗れ去った、という結果が存在するだけである、ということです。

 先の記事で書いたとおり、「(まるでそうであるかのような)見せかけ」ということであれば、こういった悪質なJudenは何でもやります。例えば、警察署の近辺を走っている県警や警視庁のロゴの入ったパトロールカーがその警察署は当然として県警や警視庁所属のものでない単なるコスプレイヤーである可能性もいくらでもあります。デカルトという人は「理性を正しく導き、諸学における真理を求めるための方法についての叙説(方法叙説)」というもので「方法的懐疑」という形でこれについて語っています。



 特定の人間にサブリミナルをかけるにおいて、それが私が言うところの「左へ流されないところの右の定常点」でもなんでもいいんですけど、そもそもあらかじめ何らかの既定点を作り事あるごとにそこへ立ち返らせるようなプログラミングをかけた上でランダムに「事」をターゲットに見せ付けたり聞かせたりその他五感に訴えることで、サブリミナルをかける側の人間が起こす「事」でないことにおいてもターゲットはその既定点へ立ち返るという行動を取るようになります。Bessarabiaという記事で書いた、「晴れの天気である」という事象において、特定のxさんが行動Aをとった時はxさんは「晴れの天気である」ことには気付かずxさんが行動Bをとった時にはxさんは「晴れの天気である」ことに気付く場合において行動Bを繰り返していると、xさんは「自分が行動Bをとったから→晴れの天気である」という誤った認識にいつの間にか取り憑かれていくというのは、これを被害者の立場から主観的に語ったものです。太宰治もあの時代に「『ラジオの電波に殺される!』という人も現れるというわけです」というようなことを書いてましたし、Virginia Woolfもこれが原因で自殺しましたけど、おそらく百何十年前の精神分裂病というものが医師によって既定されはじめてから、こういったことを行っていた連中が居たということです。
 また、ターゲットが故意に意識を左へ流して何かを為そうとする時に限って、何かのサインを送ることで、反発を煽ってさらにそこで左への釣りを発生させて暴走させることもできます。何故かというと、「左」というのは反発そのものだからです。これが子供の頃からひたすら繰り返されると、あらゆる行為においてターゲットの主体的な左右のコントロール感が失われるという効果もあります。最悪です。私SSの場合はパソコンの電源を入れて何かを書く為のアプリケーションを起動させて何かをキーボードで打ち始めると、家の外で暴走バイクや暴走車の騒音が露骨に鳴り始めます。私のこの行為は自分に危害を加えてくる連中に対する反発と言えば反発の面もあるからです。これが万が一にも私SSの被害妄想ならばいいんですけど、残念ながらそうではないです。
 思い出せば高校1、2年の時、夜に外でジョギングをしていて気持ちの悪い小柄なオバさんが私の前でワザとビビるようなマネをして走って逃げるような演技を行ったり、女子高生の制服を着たギャルみたいなのが道の真ん中でじゃがんでいたりしていたことがありました。さらに思い出すには、その変質者がジョギング中の私の前に現れた翌日学校へ行くと同級生の停学を何回も食らっているような悪童が私を見て何かの文句を言ってきたことも覚えています。

 久しぶりにネットをつらつら見てたらgoogleの検索で出てきましたけど、今度はマスコミの豚共は故意にレベルを下げることで、自分らの表局域性をアピールし始めたんですね。もう大人は誰も新聞やテレビ等のマスコミ情報なんざあまりに表局域性に過ぎるつまりレベルが低すぎて相手にしてくれませんから、ここでマスコミはヤケに走って一見健全風味な空気を流すことによってそうとうに知能の足りない低レベルな人間か小学生くらいの子供に相手にしてもらおう、という魂胆です。メジャーなサーチエンジンを使用してすらあまりに子供騙し過ぎます。

 パスカルの「パンセ」でたしか書いてありましたけど、「デカルトは彼固有の普遍的なものを人間一般のものとして表明したに過ぎない」というものに反論するとするのならば、デカルト的なキリスト教徒というのは、「悪事を含めてあまり何もしないが故に、教育システムが定常されている社会システムにおいては、皆同じ風な経験をするのでその人格形成上同じであるが故に、人間は皆同じで神という普遍的真理が存在するとある時認知し、そしてそう思い込む」ということです。それがキリスト教圏の社会形成上都合が良く、またそのような価値意識のもと形成されたキリスト教社会が最良であり最も強い、ということです。もちろん性悪説に基づいた恐怖政治が敷かれている社会よりも、より多くの人間がその善意のもと所属する社会の形成に参画する社会の方がその発展上上手くいくからです。こんなことはもう二千年前の時点で人類は知っていたということです。JazzやR&Bだかなんだかの黒人音楽や極めてキリスト教的なMarvin Gayeの楽曲を聴きながら、「みんな全ての人間を一律にしようとするからつまんねえんだよな」とかホザいている無知なユダヤのハゲた肉団子みたいな人間は馬鹿を極めているということです。これにおける善悪を巧妙に逆転させていたのが戦後の日本におけるマンガやアニメのいわゆるサブカルチャーでした。漫画家なんざ手塚治虫みたいなごく一部の優れた人間を除いて全てJudenです。で、ここで私は「そう思い込む」と言いましたけど、(これもまた現代日本における教育を受けた日本人としての私SSの「一面性」に陥った上でのキリスト教に対する解釈による言い方ではありますけど)キリスト教という「宗教の枠を超えて」、普遍的というか物理的に人間の身体を健常に保つという観点からして決まり事というのは存在するわけです。おそらく千年やそれ以上の昔はそういった人間が自身の肉体を健康に保つ術というのは医学というものではなく・物理学なんか当然ありませんでしたし・文学的という表現すら無く、決まりごととして皆が知っていたということです。2012年現在ではありがたいアメリカの人たちによってネットというものがあるので、さらにありがたいJimmy Walesさんみたいな人がやってくれているWikipedia等によって誰でも知識を得ることができるようになりました。

 ちなみにパスカルというのはその肖像画を見れば分かりますけど、非常に豚っぽい顔立ちをしています。逆にデカルトは普通のまともな顔をしてます。

 自分らの虚栄に満ちたそれこそ「パスカルが彼固有の普遍的なものを人間一般のものとして解釈したに過ぎない性悪説」によって、「Wikipediaは間違いが多い」という人間も居ますけど、もちろん中には間違いもありますけど、人類全体の知のパフォーマンスが上昇したことは間違いがないです。間違っていると見做したならばその記事を修正するなり自分で図書館へ行って調べればいいんです。馬鹿な日本人と違って賢いイギリス人は、某巨大匿名掲示板群の様ではなくWikipediaに代表されるような賢いネットの使い方をしているということです。



 で、ここ半年かそこらで急激にNot currently under Education, Employee or Trainee対する叩きが減りましたけど、自慢げに「働いてます」とかヌカしたり「働く人」を識別無しに肯定したりする人間が居るんですけど、ヤクザ商売やバッタ商売に加担している分際で何を勘違いしているのかというお話です。そういった社会に禍を巻き起こすような害毒な「仕事」をされたり悪事に加担されたりすると一般市民が多大な損益を被るわけです。そんな社会に害毒撒き散らす商売で金を稼がれるんだったら一刻も早く首を吊って死んでもらわないと一般市民は迷惑するわけです。社会内に流通する貨幣がそういった悪徳な人間に回ってしまうことは大きく国家の損益となるわけです。だからそういった不必要どころか社会に害悪である職業に就く人間においては、それら全員が食料を生産する農作業その他まともな職業に従事して初めて他人に対して「メシ食うな」とか「働け」とか言う筋合いが発生するというわけです。専業主婦だってNot currently under Education, Employee or Traineeですけど、社会に害毒垂れ流す商売で「働い」て「仕事」をしている連中なんかとは比べ物にならない程まともです。だからマスコミ関係者は当然としてネットでグダグダ仕事がどうだとか一昔前だとリア充がどうだとかホザいている馬鹿共は悪事と区別のつかない「仕事」なんかせずにメシも食わずに一刻も早く首を吊って死んでいただきたい。例えばマンガ家やアニメ製作者やゲーム製作者なんか居ない方がいいですし、2012年時点での現代日本においては小説家あたりですらも居ない方がいい人間だらけです。

 ちなみに、「法律は犯罪の加害者のためにある」という考え方は悪行に口実を与えることになりますけど、法律を全て無くしてしまえば全ての問題は行った(左)か行わない(右)かの二者択一の問題となります。

 エニアグラムを利用している詐欺商売に勤しんでいるリュウトウマリコを自称する「当会」(?、笑)だかなんだかの某オカルトペテン教祖の失敗は、人間の「性格」にタイプというレッテルを貼っているのではなくて、過去の事象である人間の「経験」にタイプというレッテルを貼っている点にあります。だから固定されている社会(世界)に生きている(た)サルの如き原始人以外にはその「判定」を受け入れてくれず、一般の健常者はペテン詐欺に引っかかってくれないどころかケンカを売っているようにしか見做してもらえない、というわけです。万死に値します。
 デカルトも再世界化な内容というか蓋然性どうこうと言ってますけど、人間の人格や経験を自分の物差しで再世界化して然りとは言ってません。私が先の記事で書いた精神疾患において「患者が患者であることにまつわる蓋然性というのは、これは病気です」というのは、精神病患者が(自分という)人間の人格や経験を自分の物差しで再世界化して然りであるとしてしまっている状態のことです。要するにマルクスが仮想上で「産業の現場」と形容しヒットラーが理想としたような人間全てが完全にロボットになるような状態にでもならない限りは、人というものにおいてデカルト的思考を適用してはいけないということです。というかいけないも何も失敗します、そういうことをやっても失敗するように出来てます。
 そしてどんどん自分らの悪たるものがバレて都合が悪くなって、「右」の定常点から「左」への釣られが(誰かしらの特定個人というターゲットにおいてでも)否定され始めると、悪質なアカな人間は今度は「それは差別だ」と痴呆的なことを言い出したり「右が半分居るんだから左が半分居てもいい」とかいうことを匂わせたりして、自己の存在が自己の存在それそのもので肯定されることが蓋然的であるかのように主張しだすんですね。心底馬鹿の所業です。



 住宅街で迷惑な騒音を立てる珍走バイクや珍走車の乗り主達を取り締まるには、まず第一に警察官の給料を大幅に上げればいいんですね。こういったところでミクロ経済学が役に立ちます。もちろん給与の高い職業であると同時には国家公務員Ⅰ種試験並の難解な試験を課します。そして警察官の人員を大幅に増やした上で、警察官が医師や弁護士や大学教授並みの名誉職であるという社会的コンテクストを作ればいいわけです。で、迷惑な騒音を立てる珍走バイクや珍走車の乗り主、具体的に言うならば違法改造その他により一定の音量以上の騒音を立てて原動機付き自転車や自動二輪車や自動車を運行させているそれの乗り主は白バイで地の果てまでも徹底的に追い詰めて拳銃で即時射殺することが可能である、という法律を作れば一発でこの問題は解決します。その上で現実的な問題としては、これを回避する為におそらくバイク製造者がエンジン音が極度に立たないものやそもそも一定以上のスピードが出ないものを作るという行為に出るので、これで問題は解決です。

 何でもかんでも行ってしまうような万能的な行動力のある死をも恐れぬ男じみた人間というのは、まさしく死を恐れていないのであって、だからこそ何をするにも躊躇しないので何でもできるということです。そしてそのような人間の目からは、世界というのは何がどうなっているかの蓋然性に満ちているので何か物事を「やるかやらないか」ということしか目に入りません。マザーコンプレックスを全く持たない人間というのは世界中何処を探しても居ませんけど、つまりそのような人間にとっては(ほとんど)原因不明のものでしかない心情だか感情だかで物事を為すことに躊躇する他者は必然的に全て弱小なものに見えるということです。この場合「気が弱い」という形容すら適切ではないです、何故ならばこういった男には「気」などという概念すら無いからです。ちなみに悪質なJudenがはびこってしまった戦後のこの日本という国で30年生きてしまった私はこういった人間ではありません。
 しかしつまりは現代社会で生きていく上で騙されない為には、純粋に行動面だけを鑑みて「(悪いことや法律違反行為を)やるか、やらないか」ということだけを念頭に置いておくもしくは考えておく、ということに尽きます。学校の教師は私SSが先のHide your face.という記事の小話で書いた島見図広吉(仮称)のようなクズを極めたような本来的には前世紀の戦前のドイツでユダヤ人学校にでも勤務していることが然るべきであるような典型的なユダヤ人教師でも実在しない限りは、まず絶対にこんなことは行わないでしょうけど、会社で上司が悪事や法律違反に加担することを強制してくるようであれば、そんなものはサッサと訴えるか警察に届け出るか辞めるかすればいいわけです。そうやって悪事に加担しながら生きれば生きる程に苦しくなっていきます、馬鹿丸出しです。そういった悪事には加担せずに死ぬ方が楽であって何より余程まともです。

「 宗教は自分が対象にそれ自身において(本質的に)外面的な薬味を加えることによってその対象を神聖化しようと望む。宗教はこのことによってただ自分だけを神聖な威力として言明する。宗教は自己以外にはただ地上的非神的な関係を知っているだけである。そのためにこそ宗教は、これらの関係を始めて神聖化し浄めるために、歩み寄って来るのである。」

 これもLudwig Andreas Feuerbachの"Das Wesen des Christentums"(「キリスト教の本質」)からの引用です。もし仮に特定の一個人の自己表現としてこのような形容が可能であってしまうのならば、その人物は完全に何かに洗脳されている人間かもしくは精神異常者であって、2012現在ではおそらくSchizophrenie(日本語では統合失調症)と診断されます。ナザレのイエスと呼ばれた人はこの限りではありません、上述の通り。カトリック教会が後世にナザレのイエスさんをキリストであると取り決めました。分かりやすく二元論で単純化して説明するのならば、イエス・キリストのみがブラフマン的であり、Jeanne d'ArcさんやAdolf Hitlerさんは悪魔の権化たるアートマンであるということです。ジャンヌダルク個人は別に悪質な人間でも何でもなかったでしょうけど、社会統治上キリストであるイエス以外にブラフマン的なシンボルがあると危険だということなんですね。何故ならばジャンヌダルクは実在の一個人物であってブラフマンたり得ないからです。この実在の一個人であるにもかかわらずキリスト的メシアをやってその危険性たるものを体現して証明してくれたのがヒットラーです。ちなみに現代日本のビジュアル系ロックバンドだかは危険も何もお話にならないようなギャグのネタです、これはこれである意味完全なるお笑いギャグネタである(ギャグネタになりうる)という点において「危険性」を体現してくれてはいるので悪い見本としての知の参考にはなります。

 カトリックもジェズイット(イエズス会)に限って言えば、ユダヤ人を子飼いにしているところがあります。もちろん悪い意味でも良い意味でもです。パウロはそもそもユダヤ人でした。上智大学という大学がありますけど、あそこには今もあるのか知りませんけど10年くらい前には文学部に新聞学科という馬鹿みたいな学科がありましたし(悪い意味)、また学生の中にはひたすら本を読んでいるだけという人も居ます(良い意味)。私は中央大学という大学が個人的に好きなんですけど、おそらく法律を勉強するに限って言えば上智の法学部へ行くくらいだったら中央の法学部へ行った方がいいです。少し噂に聞いたことがあるだけですけど、中央大学の法学部というのはかなりいいところみたいです。



 それが法律違反であるということだけに限らず、悪いことというのは絶対にバレるようになってます。昔は子供に対して「大人ナメんなよ、」ということをちゃんと言ってくれる大人も居ました。ということはつまりは罪のなすり付けや冤罪も一発でバレるということです。ストーカーは被害妄想と同時に加害妄想も煽ってきますけど、何も気にする必要は無いです。
 問題は、悪事や法律違反を、「やるか、やらないか」です。だから単純に右を選択しておけばいいというわけです。コンテクストを故意に無視するというのも、また能力の一つです。何か信じるものが無ければ生きていけないというのであれば、"Cogito ergo sum.(Je pense, donc je suis.)"かもしくは自分の肉体だけです。
Croix de Feu
 「紂を滅ぼしたるはこの女なり。」




 私はとある理由でA書類を2011年の8月19日にお役所に提出しました。で、後に手に入ったその書類によって発行される証明書の有効期限は、「法律が改正されない限りは2012年3月31まで、法律が改正されたらば2012年7月31日まで」となっていました。そして証明書を渡される際に手渡された説明用紙には「証明書の有効期限は一年間」と書いてありました。今回2012年の4月10日に区役所へこれに関することを聞きに行ったらば、いつも応対してくれる係りの若い男性職員が居るんですけど、彼は「法律が改正された場合の有効期限が7月31日であるのは提出月である8月の前月の末日であるからである」ということをきちんと説明してくれました。で、この証明書が手に入ったのは2011年の9月であって、その時と2011年の1月頃にこの証明書に関することを区役所へ聞きに行ってその時に応対された女性職員が二人、そして今回2012年の4月9日にこの証明書について聞きに行った時に出てきた女性職員が一人、出てきた女性職員が計三人居ます。この三人の女性職員は、「証明書の(証明書がが発行された場合の)有効期限は法律が改正されない限りは2012年3月31まで、法律が改正されたらば2012年7月31日までである」ということだけを説明し、誰も「法律が改正された場合の有効期限が7月31日であるのは提出月である8月の前月の末日であるからである」ということは説明しませんでした。2012年の4月9日にこれについての説明をした女性職員は「法律が改正されたので平成27年(2015年)まで有効になります」とだけ説明しました。そこで私SSが「平成27年の何月何日までですか?」と問うと、バツの悪そうな顔をして「3月31日までです」と答えました。前者二者の女性職員は「法律が改正された場合は証明書の有効期限は2012年7月31日までになる」ということは説明しても、後者の女性職員を含めてどの女性職員も「法律が改正された場合の有効期限が7月31日であるのは提出月である8月の前月の末日であるからである」ということは説明しませんでした。だから私は「法律が改正されて証明書の有効期限が4ヶ月延長されてその終了日が7月31日になる」と思い込んでいました。今回2012年4月9日に女性職員に説明を受けた後、2012年4月10日にこれを疑問に思って自分で聞きに行って、そしてその場で上記の男性職員が上述のような内容を説明してくれなかったら私は「証明書の有効期限は2012年7月31日までである」と思い込んだままでした。
 で、仮に私と同じ経験をするとして、人によっては「法律が改正されてもどうせ4か月期間が延びるだけだしそれの為に診断書を書いてもらうのにも何千円もかかって差し引き損益になるな」というように思い込みの上に思考を積み上げてしまって、諦めてそもそもお役所に申請に行かない、という人も居ますね、それが問題ですね、ということです。



 前の記事で、「法律は犯罪の加害者のためにある」という考え方は悪行に口実を与えることになりますけど法律を全て無くしてしまえば全ての問題は行った(左)か行わない(右)かの二者択一の問題となります、と書きましたけど、現代日本のような法治国家で社会生活を営むにおいて、あまりにも右に定常し過ぎて「何も無さ過ぎる」と、こういったところから「証拠さえ残らなければ何をやってもいい」という犯罪者や悪人の発想が生まれてきます。これを社会システム上においてのみ象徴として存せしめているのが日本の天皇制である、と言うことも可能です。
 私の父親はこの犯罪者や悪人の類の発想をする人間の典型でした。私だってネットで著作権法違反を犯したことがありますし、10代の頃に計二千円~三千円分の万引きを二、三回やったことがありますけど、(私の場合だと父親の仕事関係により)日本のマスコミやストーキングを行ってくるような悪質な連中に何を勘違いしたか正義ヅラをされる筋合いなど微塵も無いんですね。私の父親は私が子供の頃私をひたすら自身の低コンテクストによって嬲りものにしました。要するに低レベルなチンピラ並みの因縁付けによって、極めてくだらないことで「怒るために怒っていた」ということです。そして私はその内容の理不尽さにも関わらずあまりの低年齢により逆らえないのでひたすら我慢することによってひたすら自分を傷つけるという行動のパターンを刷り込まれました。これをやられると、人間はどんどん自己も含めた人間嫌悪が自己の中で加速していきます。幼少時から親の圧力が強すぎるもしくは過干渉であると、子供はどんどん自虐的で自己破壊的な行動パターンへと釣られてそれがアイデンティティであるかのように刷り込まれてまた同時に自分でもそれが自分の自己同一性であるかのように自己洗脳を掛けるようになり、最悪の場合自殺願望へと駆り立てられていきます。こうやって簡単にユダヤ人を作ることができてしまいます。

 「悪い人間も居るのです!」だとか「汚いやり方でやらないと勝てない人間も居る」だとかを堂々とホザくようなどれだけ馬鹿の極みなのかというエニアグラムを利用したリュウトウマリコを自称するオカルト新興宗教の教祖と何の違いがそこにあるのかという人間(集団)が居ますけど、それがどのようなコミュニティーであっても社会形成上、他者に危害を加える等の悪事を働いたり汚いやり方で他者を陥れたりする人間は排斥されるように出来てます。そんな人間の行為と存在を許容したらばその社会は即刻崩壊に向うからです。こんなことは小学校に入る前の幼稚園児でも理解できます。にもかかわらずにやらかすということは、例えば私の父親の場合ですと、自ら家庭を崩壊させようとしているかもしくは私SSが幼児の頃から私を反社会的人間に仕立て上げようとしていたということです。



 私はナチス賛美者でも何でもないですけど、ヒットラーが民主主義を腐ったものと吐き捨てて憎悪したものよく分かります。試しにfacebookとやらのアカウント取って昔の子供の頃に戯れた人間を検索してみたんですけど、中学生の時同級生の女子を自殺するのではないかというまでに虐めていたような男子がニコやかな笑顔で結婚式の写真とかを自己紹介の写真としてupしているんですね。私にはこの神経の図太さが全く理解できません。恥意識がどうこうとか厚顔だとか言うよりは、他者を貶めて相対的に自分のキャラを上げるという豚の所業によくそこまで及ぶことができるな、というかその分際でよくニコやかに映った結婚式の写真なんざupできるな、という問題です。私はこのブログの記事を読んでもらえば分かる通り日本好きのアメリカ人的であると書きましたけど、そりゃアメリカ的なものを嫌う人間も特に日本には居るわな、という問題です。だから私SSとは逆パターンのアメリカ好きの日本人というのは日本ではウザがられて嫌われてイジめられることが多かったりもします。



 こういうおバカなことを書くのもどうかとは思うんですけど、大学受験の偏差値というのは一種の非常~に分かりやすい日本の社会的ランクの何たるかをそれなりに分かりやすくは表してくれているのでそれを使います。つい先日facebookとやらを初めて見てみてふと思ったので。

東京大学はだいたい偏差値80弱くらいです。
東京大学以外の国立旧帝一期校やその医学部や東工大や一橋や東京外語は偏差値75~の東京大学に満たないくらいです。
早稲田や慶應は偏差値74くらいです。
一部の国立大学やその医学部や上智やICUは偏差値72~73くらいです。
一部の国公立大学やMARCHや関関同立は偏差値70前後です。
日東駒専はだいたい偏差値60前半です。

偏差値70というのはだいたい対象となる母集団の成員のうち上から2%くらいです。人口のうち50人に1人くらいだということです。偏差値65はだいたい対象となる母集団の成員のうち上から7~8%くらいです。偏差値60はだいたい対象となる母集団の成員のうち上から15%くらいです。偏差値55はだいたい対象となる母集団の成員のうち上から33%くらいです。偏差値50は対象となる母集団の成員のうち上から50%、ちょうど平均の位置です。これ以下はここに説明したものを上下反転させたに同じものです。

で、
以下を説明する為に偏差値どうこうとバカなことを言ったんですけど、

NHKの報道はだいたい偏差値45(くらいの人間を対象にしたそれ)です。
民放テレビ局はだいたい偏差値40(くらいの人間を対象にしたそれ)です。
各種新聞はだいたい偏差値55~30(くらいの人間を対象にしたそれ)です。
某巨大匿名掲示板群というところのつまり「2ちゃんねる」という場所は偏差値55~20(くらいの人間を対象にした釣り)です。ここ一、二年で良くなったというのは、ちょっと方向性というか属性が変わったというだけです。一見健全風味な、しかし釣り以外の何物でもない方向へ。

NHKの報道は平均であり最大多数たる偏差値50な人間がちょっと見下しながらテレビを見て悦に浸れる偏差値45レベルなので、つまり半国営放送としては御の字であるということです。10年と少し前くらいに「2ちゃんねる」が一部でひたすら流行っていたのは、平均であり最大多数たる偏差値50な人間にとってネットがブロードバンドで出始めな頃にネットというマスメディアに比べてある程度アングラな場所でちょっと見上げながらPCのモニターをみて悦に浸れる偏差値55レベルであったからであって、しかも「おチ○コ」「おマ○コ」という偏差値20というよりは小中学生みたいな意見を書き込みという形で許容してくれたからです。人口の上位から三分の一のあたりに位置する偏差値55な人間たちが平均であり最大多数たる偏差値50の人間を見下した書き込みをして嘲り笑っているというその様を当のその偏差値50な人間たちが見て「はは~ん、まあ俺にも分かるな、」といってPCのモニター越しに上を見てそして同時に見下しうるという仮初めの満足を与えられて自慰にふけっていたのがしばらく前までの「2ちゃんねる」という場所にまつわる現実です。それが利用者数という数字になって表れた、というだけです。どちらも人の不幸は蜜の味という観念に基づいてます。おそらく欧米人はこういったことは行わないですけど、マザーコンプレックスの強い日本人はこういう他人の不幸が大好きだということです。

 頭の程度の低い連中が人頭としては数が多いが為に、日本では義務教育にてその人口の大多数を占めるような連中をまっとうにするような教育を意図的に行います。その為能力の高い子供はひたすらじっとその頭の悪いまわりの子供たちが為すお遊戯に付き合わされます。文化人類学的な日本人の特質から言って、ここで異を唱えようものならその子供は子供が織り成す社会の中で抹殺されます。イジめとかなんとか生やさしい表現で形容される程度のものではなく、enclosureな殺人行為がそこに成立します。日本人というのはこういった極めて愚かで馬鹿なことを行うわけです。学級委員になったりする類の子供というのは、能力的には平均レベルかそれより少し上であってそしてその多数決的コンテクストに満足して「学校が楽しい」ような子供です。そして馬鹿な教師達はそういった子供に試験の成績は半分くらいしか関係無いような高い成績を付け、田舎社会ではその成績が無ければレベルの高い公立高校へは入学できず、そして能力の低い人間がどんどん社会の上層へと入っていった、というのが前世紀の日本でした。先の記事で書きましたけど、名古屋という土地ではこの現象が非常によく観察されます、イジめや異端排斥も多いです。首都圏で公立高校のレベルがやたらと低くてほとんどどの子供も私立高校へ通うのは都市部にはその物理面においてもシステム面においても社会構成上必然的に頭の良い人間が集まりその子供も頭が良いから、ということです。頭の悪い公立小中学校の教師に媚びていたら自分の能力が落ちる・自分の能力が低いことにされるということを都市部の子供たちはよく自覚して知っているということです。これはおそらくIQを計るテストなんかでよく表れます。私みたいな人間はおそらくIQの値が高く出る類の人間であり、私の父親みたいな人間は自分で語ってましたけどIQの値が低く出る類の人間です。学校のお勉強の偏差値はある程度知的努力が反映されますけど、IQの値を計る為のテストなんてのはあんなもん標準偏差が∞のIQ100の値より高く出るか低く出るかの二つの類に人間を分けるだけのもの、と思っておけばいいです。だから私は個人的には自分が頭がいいとかなんとかいうセリフもそういうことを言う人もあまり好きではないです。敢えて言うなら高等教育(大学や大学院で行われる教育)に向いているのはIQの高い類の「左」側の人間です。語学に強いのも「左」側の人間です。文字学というのはありませんけど、もしあるとしたらこれに強いのは「右」側の人間です、子供の頃にやる毛筆を使った書道から一体何を学ぶかといったような。ちなみに漢字の形象には中国の人たちの知恵が実にによく表れてます。先の記事でも書きましたけど、原点(0,0)を中心とした二次元のxy平面に漢字を当てはめてみると、何がどうなっているかが理解しやすいです。アメリカ人がこういったことを好きそうではあるんで、もし中国や日本で使われている漢字というものに興味があるアメリカの人が居たら全漢字の形象の(それがどういったものであっても)解析とかやって欲しいなと個人的に思ったりもしてます。
 早熟な子供の中には、全ての教育の過程が終了する以前に、教育を受けることを投げ出してしまうこと子供も居るということです。レベルの低い連中と一緒にバカバカしくてやっていられなくなるのと、その勉強を止めてしまうことにより中等教育あたりから始まる論を構成する能力の育成についていけなくなるからです。よく頭の悪い人間で「ああだこうだと何を言っているか分かんない!」みたいなことを言う連中が居ますけど、単(ひとえ)に言うと中学や高校で学習する数学が出来ないからです。数学が出来ない人間はものごととものごとの繋がりが分からない、つまりは単発の知識しか脳にインプットすることができない人間は中学や高校での数学は出来ない・論を構成する力を培うことができない、ということです。しかしいくら自分が早熟だからといって勉強をやめてしまうのは馬鹿であるからということもできます。パスカルという人物はその書いたものを読むにおそらく頭は良いが馬鹿であるというパターンです、先述の通り豚っぽい顔をしています。



 左か右かの二者択一というのは実社会においてもいたるところで為されていたりします。精神科クリニックも一つの駅でごくご近所に二軒だけ、というパターンがあったりします。穢多の犯罪者(左)かヤクザ(右)か選べというわけです、少なくとも2012年現在の日本で統合失調症とされている「病気」については。私が現在通院しているとなりの駅のクリニックは上述の右か左かということだと左です、というかご丁寧にご近所に二軒あります。もう一軒の方のクリニックは二、三年前に一回行ったことがあるんですけど、受付嬢は風俗嬢のなりそこないみたいな気持ちの悪い邪悪な笑みのオバさんであって、ケースワーカーとして顔が傷跡だらけのヤクザが出てきました。しかもこの両クリニックの先生方、机の配をわざわざ患者と対面する置き方にして東向き(私が現在通っているクリニック)と西向き(ヤーさんクリニック)で真逆を向いているんですね。

 徳間書店刊の宮崎駿作の「風の谷のナウシカ」の漫画版がありますけど、あんな悪質な漫画見たことがないというくらいに内容が悪質です。あの漫画のラストは本当にマンガ誌にツバを吐きかけたくなるくらいに反吐が出ます(しかし宮崎駿さんが自分の意思を成就させたら如何なる世界になるかということは吐いてくれています)。この宮崎駿さんという人は「天空の城ラピュタ」でもこの「風の谷のナウシカ」の漫画版でもそうですけど、左右どころか上下を逆転させるというやり方をするんですね。つまり子供の味方をするフリをした子殺しをやるわけです。男と女というモノを幼児化させて、「土から離れては生きていけないのよ!」(突き詰めればSEXのこと)、「バルス!」(笑)とかやらかして子供を大人化させてオレ様キャラにしたムスカ大佐を悪役に仕立て上げて描いて殺すわけです。全共闘を子供に刷り込むという試みを行っていたわけです。しかも徳間書店はこの手の込んだ大判のマンガを一冊定価390円とか安い値段で売っていたわけです。狡猾だとかなんだとか生易しい表現では済みません。私には宮崎駿と宮崎勤の区別がつきません。どれだけ悪質な子殺しをブロードバンドな公共電波でやらかしている(た)のかという問題です。貴様だけで嫁とよろしく下品にSEXやらかしてろという問題なんですね。週間少年ジャンプの特にドラゴンボールとかも悪質でしたけど、それとは比べ物にならない程に悪質です。宮崎駿というのはロリコンの大量虐殺者でありながら国民栄誉を授かっていると形容できてしまうような最悪の人間です。もうアニメなんか片っ端から無くせという問題なんですね。
 童貞差別なんてものはJudenが創り出した幻想であって、エロ雑誌やアダルトビデオ等の代替物として近年では特に某巨大掲示板群で必死にこれがスタンダードであるかのように見せかけるということを連中は行ってました。はっきり童貞である私SSから言っておきますけど、差別されうるのは童貞ではなくて童貞ではない連中の方です。



 関係無いですけど、昔の記事でも書きましたけど、ネットを使用する限りにおいてはIPを指定して特定の人間に特定の情報を与える・知らしめることなんかいくらでも可能です。それはfacebookであろうとtwitterであろうと某巨大匿名掲示板群であろうとgoogleやyahoo等のサーチエンジンの検索結果として出てくるものであろうと何だろうとネットならば同じことです。少なくともネットに関してはデカルトみたくとりあえず全てを疑っとけという問題です。釣りだらけです。経済学ではこういった情報の非対称性に関する問題を扱ってテーマにしているものもありますけど、そこまで数理的に解析するまでもなくそこには当然moral hazardが存在しています。だからWikipediaのような一部のところを除いて「ネットで調べ物」だとか馬鹿丸出しどころかコイツ痴呆の大たわけかという問題であって、調べ物があるのであれば公共の所でも学校付属のものでもいいので図書館へ行けという問題です。

 懺悔その他、教師その他の大人など特定のコミュニティーでの指導的な立場にある人間に対する罪の告白というものには、私が先の記事で言った何でも言語化して記述するというものと似た効果があります。昔だとこの役割をお坊さんや神父さんが行っていました。今はパソコンがあるのでどんどん書き散らかせばいいわけです。ネットでもtwitterとか使えばいいんじゃないですかね。twitterで書かれたものを読むとかいうのは上述の通り極めて馬鹿です。

 前の記事でOliver Hirschbiegel監督の"es"という映画がどうこうと書きましたけど、「演技を行われてあろうことかそれに強制参加させられると、どんどん人(自分)がそうなっていくっていうね」ということを言葉で丁寧に教えてくれたのは卒業必要条件とは関係無く取得したドイツ語の授業の先生だけでした。私は今このドイツ語の先生には実に感謝しています。この先生は人間の慢心や自信過剰さについて警鐘を発するという形で教え諭してくれました。つまり例えば昔だと悪事にたいする懺悔をしないと、その悪事の記憶が(おそくら無意識下に残って)どんどん自分で自分をその悪事の方向へ引っ張っていく、つまり自分で自分を悪役であって悪徳な人間にしていってしまうということです。
 上述の、この記事の冒頭で書いた区役所の女職員らは意図的にこれをやっているんですね。この連中は役所というのはこういったものであるということをワザワザ示す為に演技を行ってます。それがありありと分かってしまう程にやり方が小学生じみていて単純であり、しかも且つそれをやる側も分かっていながらやってくる、ということのようです、どうやら。おそらくは公共のお役所に対する反発を特定の人間(この場合だと私SS)において招く為にです。この国ではお役所の中までこういった子供じみた小学生的なストーキングを行う演劇人である犯罪者で満ち溢れています。

 だから私SSの「ストーカーは私SSに対して、ストーキング行為を見せ付けること自体を見せ付けている」という解釈は、これは私は事実であるとして書いたんですけど、事実ではなくてどうやら私の解釈のようです。というのは、私は自分で自分が頭が良いとか偉そうに言うつもりはないですけど、頭の悪い人間というのは程度の低いことしかできないので、まずは「ストーキング行為」しかできないということに尽きているということです。私はそれがあまりにレベルが低すぎるのでワザと故意にレベルを下げて物量作戦で来ているのであろうな、と解釈していたということです。そして、ここがポイントなんですけど、連中はそれを前提にした上で、ターゲットの被害者が相手にしてくれないと下手な鉄砲を数撃つという形で「ストーキング行為そのものを見せ付ける」という物量作戦に出てくるわけです。だから純粋に集団でストーカー行為を被害者に対して行っている連中がいるということです。人間誰しも限界があるので、家の外へ出るなりストーカーにひたすらまとわりつかれるというのであれば、(慣れるまでは)異様に考えたり思ったりするのは当然のことです。馬鹿の挑発や頭の悪い人間の挑発なんか無視しておけばいいというのもありますけど、それについての限界というものもあります。再世界化により単純思考の要因となる色メガネを植え付けて、「こういう場合にはこういった(小学生じみた単純な)発想をするのだ」ということを強制するという人格破壊たるレイプを行うわけです。他者のキャラクターを故意に貶めて相対的に自分のキャラを上げるという、ユダヤ人を第一手目でユダヤ人たらしめる非常に汚い人間です(そしてコレ自体がまたユダヤの所業です)。これは残念なことに、先の記事で言ったところの馬鹿ではなくどちらかというと賢いが頭の悪い人間というのにこれをやらかしてしまうのが居ます。工業高校の生徒的な人間です。前世紀のネットの無い時代には実際にこういったのが珍走バイクにまたがって女性を襲ってレイプとかやってました。私は自分の父親がこういった人間でした。人間には能力に合った分相応な社会的地位やポジションというものがあります。前世紀の日本の場合だと、それをわきまえずにただひたすら子供の頃から勉強だけして成績だけを取っていい大学に入り、そしてそれからハジけて調子に乗ってしまうと、高等教育(大学や大学院で行われる教育)にはついてゆけずに能力の無い自分を知らしめられることになり、その劣等感から人を騙したり引き摺り下ろしたりするような汚い人間になってしまったりする場合もあります。再び言いますけど、私は自分の父親が大人の男としてはこういった類の若い女みたいな男でした。

 で、2012年31歳時点での私に対する彼らのストーカーによって為そうとしている行動理念(行動理由)には私は一理あると考えてます。
 というのは、そういった人間が多数であることには理由があると考えるからです。私はそもそも何かを感じたり考えたりするにつけ、つまり「左や右に振れる」につけ父親が激しい声量と口調と言葉で怒鳴り散らしながら叱責する、ということを小学校に入る前の幼児の頃からやられていました。今でこそ若い女のように些細なことでギャーギャーと喚き散らす女々しい男である、と形容できますけど、子供の頃はこの父親がひたすらな恐怖の対象でした。で、これだけであれば、「ああ、今自分はいけないことをして、いけない方向へと向っているんだな」ということを自覚してself(自己)を制御することも出来たでしょうけど、ここで母親が怒られている私をかわいそうだといって無理由に庇い泣き叫びながら大声で父親と激口論をするという私にとっては一種の演劇でしかない行いにひたすら及びました。要するに母親は肝心のところで「左側へ釣ろうとする」ということを行うわけです。これが週に1、2回ありました。結果私はself(自己)が左右に引き裂かれました。これが昔ながらの字ヅラ読みの「精神分裂病」です。そもそも私が10歳になる以前に「お父さんとお母さんとで意見や(自分の養育に関する)方針を一致させてくれ」と頼んだこともありましたけど、聞き入れられませんでした。これが子供っぽいかわいい言い方だと「おとおさんとおかあさんでけんかしないで」とかになるんでしょうけど、私はそうは言いませんでしたけど。
 つまり多数を占める一般的人間というのは当然健全な生活環境や社会環境で育った心身ともに健常な人間である、ということです。

 今は携帯電話があるので、ストーカー行為なんざ簡単に行えるんですね。もちろん携帯電話は自己防衛の道具としても当然使えるものなので当然持っていた方が良いに決まってます。110番通報とか。どの端末も逆探知されてて何処の基地局内に居るかが分かって安全とか。



 小学生にも分かるような書き方で、という推奨の仕方をするのは自分は小学校で教わるレベルの単純なことしか理解できない馬鹿だと言っているのと同じです。平明・平易な表現であるかそうではないかということと、分かりやすいもしくは分かりにくい表現であるかどいうかということとは、全くの別問題です。私はこのブログであまり平明な表現は用いていませんけど、かなり分かりやすい文章を書いてます。専門的な学術知識・職業知識を要する固有名詞や常用漢字としては用いられないような難解な固有名詞・もしくは現代では意味不明な昔使われていたような固有表現を用いている場合がそれこそ分かりにくくてあまりよろしくないということであって、例えば人間の種類を9タイプに分類してみたりするとかいう愚行についてもそうですし、大人が生きる社会でどころかそもそも大学生あたりでもはや小学生に分かるような単純な内容でというようなことは通用しません。そういったことしか出来ない人間は高等教育(大学や大学院で行われる教育)にはついていけません。ちなみに、小学生並みの単純な発想で何でも物事を見るにもかかわらず現代日本において誰も知らないような固有表現を持ってきてその他人が知らないことを自分は知っている具合に悦に入っているイタい人間は中二病とか厨二病とか呼ばれて当然嘲られて馬鹿にされます。



 野球のバットでの素振りというのはおそらくものすごく良いです。私は腕力が弱いのでバットを振り回せずに口惜しい思いをしてるんですけど。イチロー選手は通常とは逆の左打ちの人ですけど、この人は唇の分厚い顔をしてますが、まあつまりはそういうことなんです。やはりスタンダードなものが一番良いように皆が知っているということなので、それに従った方がいいです。歴史上おそらくどの文明でも左利きは忌まわしいものとされてます。左手は不浄な手とかも言われてます。だからおそらくPCを使う際にマウスを使用するというのは、スタンダードであって、実に良いです。WINDOWSの環境でPCを使う時には、キーボードのCtrl+z,x,c,v等のショートカットキーはあまり使わない方がいいです、何故かと言うと左手の小指に力を入れてキーを押すことになるからです。多少時間がかかってもマウスを使用して操作を行う方が良いです。道具を使用するにおいてあまりにも変な使い方をしていると肉体を病みます。

 おヤクザさんの「小指を詰める」というのは、身体感覚上の小指の感覚を失う、文学的に言うとnull pointerたる魂が小指に行かないようにする、ということです。私は手の小指にだけ指輪をはめているんですけど、小指がそこにあるという身体感覚が失われて、実に体が楽です。別におヤクザさんみたいに小指を切り落とすようなことまでやらなくても、些細なことでいくらでも工夫が効きます。で、親指だと逆です、親指を失うと昔話であったところの「鬼」になります。昔の絵本とかであった角の生えた青鬼赤鬼の絵が分かりやすいです。要するに頭蓋の斜め上両脇の部分に角が生えることを身体感覚としてイメージすると分かりやすいということです。鬼というのはつまり穢多のことです、Judenです。人を食ってる(た)奴らです。指で触ると分かりますけど頭蓋の頭頂部に少し凹んだ部分であるところの百会(ひゃくえ)というツボがありますけど、ここを押すと斜め側頭部に「鬼の角が生える」という感覚がよく分かります、つまりこの百会というツボは押したらダメです。余談ですけど、百合(ゆり)の花というのがありますけど、百合で最もメジャーなのは鬼百合という名の植物なんですね。「百会を押すと鬼のツノが生える」、「百合は鬼百合 (百合 ist 鬼百合)」、こういったことの繋がりの認識が知識を得る上でかなり重要だったりします。辞書も電子辞書ではなくてハードコピー(紙で製本された書籍)を順番に並べられている言葉の通り読んでいくと知識の繋がりが分かるようになったりします。音韻や文字の形象の問題であったりします。
 この鬼だとかヤクザだとかいうことに関しては単純な左右の二元論で考えておくのが順当であり賢いです。さすがにおヤクザさんが善人だとは私も言いませんけど、だからつまり戦後日本では善悪が逆転しているということです。日本は戦後鬼畜が跋扈するユダヤ人国家化しているということです。北野武さんという人はこの事実をちゃんと言ってます。だから、実際は仏教徒であることが多いでしょうけど、日本のおヤクザさんは一般的イメージとは逆に実にキリスト教的だということです。マンガ的なキリスト教イコールバタ臭いというイメージに騙されすぎです。ノーベル賞作家の大江健三郎さんという人はこういったことについての知識が失われていくことに異を唱えている人です。そしてその上で「右」のヤクザではなくて「左」の鬼の方を選択している人ですけど、無知なまま悪質な教育によってJudeでアカな鬼にされてしまっている馬鹿な人間のように被操作的でないので、つまり自分でコントロールできるということなので余程マシです。ちなみに私の父親のような人間はユダヤ人を作り出して影でニヤニヤ笑っているような、分かりやすく例を挙げるとドラえもんのマンガのスネ夫のようなキャラの人間であって、最悪です。手をこすり合わせながら他人に媚び媚びする若い女みたいな男です。
 文学的な表現をとるならば魂が体の外部に抜け出ている自由と無責任を履き違えている穢多としか言い様のないような馬鹿は左頬を右手で殴りつけないと何も「知る」ことができないということです。私はただの一般人なのでこういった人たちのことはほとんど何も知らないですけど、おヤクザさんというのは、おそらく何をされても禍を巻き起こさないような業(カルマ)とは限りなく無縁の仏教で言うと仏様だとかキリスト教で言うと聖人だとかいった人たちを守ろうとしてくれる人たちなんですね、おそらく。で、ここがポイントなんですけど、そういう我慢強い人間を「男や!」というわけなんですけど、ここで何もしない・何も実績を打ち立てないと「気が弱くて何もできない」という風に見做されて攻撃の対象になってしまうことを避けられないということです。区別がつかないということです。少なくとも他人からは区別がつかないということであって、そのうち自分でも区別がつかなくなっていきます。つまり何故か自分自分を無根拠にすごい人間だとか優れた人間だとか思い描いてそれを絶対的な(自分の)テーゼであるかのように確立してオカルト新興宗教の教祖のようになってしまうということです。つまり何かをやるとかやらないとかいうのは能力云々の問題ではないです。IQテストの数値や学校のお勉強の偏差値みたいに人間を上下で分けるものなんかどうでもいいです。幼児や小中学生の頃に刷り込まれた悪質な穢多教師による人単位で何もかもをも鑑みるということによって、特に現代日本人は他者と自分との比較により能力云々ということが第一に念頭に置かれてしまうようになるんですね。日本語圏のネットで乱発されるウザいことこの上ない豚臭い広告の嵐はひたすらこの他者との比較を煽ってます。ネットの特に某巨大匿名掲示板群あたりで昔ひたすら下ネタを連発したりキモデブオタがどうこうといったり目の敵にする如く他者叩きを行っていたのは、下手をすれば女性かもしれないとすら考えます。内田樹さんみたいなJudeな人間かもしれませんけど。



 「自分が自分であること」が何故マザーコンプレックスの塊であるかといえば、生まれた瞬間には自分についてのことは母体から生まれたという事実しか無く、それのみが基点となり全てを(教育を受けることを)拒絶していくといことが始まるからです。自分の外部にある母親というものを究極に自分にとっての依存の対象とし、自分の外部にある自分の魂として赤子は自分の母親を見做し認識するということです。まさに「アカ(赤)ちゃん」です。



「 しかるに心情とは、自己自身によって規定された自我、そしてもとよりちょうど或る他の存在者によってのように自己によって規定された自我、すなわち受動する自我である。心情は人間のなかの能動を受動に転化し、受動を能動に転化する。心情にとっては、思惟するものが思惟されたものであり、思惟されたものが思惟するものである。心情は夢想家的本性をもているものである。そのために心情はまた夢よりもいっそう浄福なものや夢よりもいっそう深いものを何も知らない。しかし夢とは何であるか?夢とはさめている意識を裏返しにしたものである。夢においては、行動(能動)するものが受動するものであり、受動するものが能動(行動)するものである。夢においては、私は私の自己規定を外からの規定として知覚し、情緒(心情の動き)を私の外の出来事として知覚し、私の表象および感覚を私の外の存在者として知覚し、私が他の場合には能動的に行うことを受動的に行なう。夢は光線を二重に屈折する。夢が与える筆紙につくしがたい刺激はここから生じるのである。夢のなかには覚醒のなかにあると同一の自我・同一の存在者がある。区別は単に、覚醒においては自我が自我自身を規定し、夢においては自我がちょうど或る他の存在者によってのように自己自身によって規定される、ということにすぎない。私が私を考えるということは無情(情味を欠いていること)であり合理主義的である。私が神によって考えられているということと、私が私をもっぱら神によって考えられたものとして考えるということとは、情味に富んでいることであり宗教的なことである。心情とは眼を開いて見る夢である。宗教とはさめた意識が見る夢である。夢は宗教の秘密を解くためのカギである。」

 これは再びFeuerbachの"Das Wesen des Christentums"(「キリスト教の本質」)からの引用です。ここでフォイエルバッハが言うところの宗教とは、非常なまでに自身が言うところの(古代)ユダヤ教的です。
 つまりは身体感覚の問題です。昔からキリスト教で言うところの魂がどうのこうの云々というのは、つまりは自己身体感覚です。それが絶対知であり、社会の構成員の肉体を健常に保つ為であり同時に社会統治上上手く運んでいくための絶対的な方法なわけです。引用はしませんが、このフォイエルバッハさんがこの著作の中の別の部分で言ってますけど、(物理的な肉体的な問題として)自分の魂を自分の外部に置いているのがユダヤ人であり自分の内部においているのがキリスト教徒です。それこそ昔のキリスト教で言われていた魂がどうたらこうたらというのは、自分の体の中にnull pointerを規定してイメージしてみれば理解しやすいです。MBTIでは直観型と感覚型という分類がありますし、エニアグラムでは体か頭かのセンター(?)という分類があるみたいですけど、私のオススメは胃やみぞおちのあたりの身体の中心ではなく、頭部です。いわゆる脳ミソの中にnull pointerを意識するという身体感覚がおそらく最も健康的でまた仕事の生産性もよろしくなります。読書の時以外の時に、「腑に落とす」というのはダメです。文学的な表現で言うと「魂」、つまり自己意識としてのnull pointerを体外へexceptさせるとユダヤ人化して、お前は間違えているぞということの合図としてガッとぶん殴られるというわけです。子供の頃から運動をやっていてスポーツマンな人間は身体感覚として自己体内にあるnull pointerを当然のものとして身につけているので、魂どうこうと言われても理解できない、というか何も問題は無いわけです、人を貶めるような悪事を思考上画策しない限りは。むしろ私みたいな肥満体で球技とかのできなかった人間の方が「悪い」という状態がどのような状態か知っていて安全かもしれません。
 全共闘がどうであるこうであるといって暴れていた2012年現在60代半ばの「団塊の世代」という表現で形容される人たちが居ますけど、これは極めてユダヤな、それを表す表現として的確なものです。あの連中は全てJudenです。

 大塚英志さんが「多重人格探偵サイコ」という漫画で描いてましたけど、「目」というものを使っていろいろな表現をする人たちが居ます。昔ながらの言い方だと、例えば、「目玉が飛び出るほどおどろいた」とか「大目玉をくらう」とかいうやつです。例えば私は眼圧が高いです、というのは統合失調症用の抗精神病薬の作用として眼圧が高まるというものがありますし(抗精神病薬の説明としてもそれが書かれていますし精神科医もそう言います)、何より指で目を押さえるとかなりの痛みが眼球に走ります。これは抗精神病薬リスパダールを服薬中に異様と言えるまでに訪れる(副)作用です。この状態だと眼の焦点を特定の対象物に合わせたり合わせずにぼやけさせたりすることが通常よりも容易に可能です。眼球にnull pointerたる魂が存在しているようなイメージを自分の肉体の感覚として持っている、と言うと分かりやすいです。目の前のものに焦点を合わせずに、「眼の力を抜く」ということが可能になりすらします。そしてそうすると一発で一瞬にして統合失調症の症状であるとされている肩の激しい凝りや背中の筋肉の凝りが消えたりするんですね。つまりそれが正常の状態であって、目玉が飛び出たことによって病気が治る、というわけです。おそらく文学的な表現を取るならば、病んでいるのは「魂が歪んでいる」という状態であって、私の場合だと「眼の力を抜く」ことによって眼という器官によって為される視界というものに映る全てが真二つに分かれます。これは科学的(医学的)にはおそらく強度の乱視と近視の混ざったものです、というか視神経がもはややられてしまっている可能性もあります。宮崎駿さんの「天空の城ラピュタ」というアニメに、ラストでムスカ大佐が「眼がぁ!眼がぁ~!」と言ってもだえるシーンがありますけど、物語論的というか文学的な表現で説明するとなると、おそらくはああいったことなんです。ムスカ大佐というのは物語上私が前のan industrial complexという記事で書いた逆ナチスをやられているキャラであって、しかし子供(騙し)用に悪い大魔王キャラとして描かれてます。で、眼の焦点のゆるめ具合、「眼の力の抜き」具合によって身体感覚が変わります。科学的にはそれによって脳内の分泌物質の量に変化が起こったりつまりは脳の機能に支障をきたしたりします(科学的に実証されてますということです)、つまり身体感覚が変わると頭の使われ具合も変わるということです。だから極端な話にまで持っていくならば、一人の人間が時によってニシゾノシンジになったりアマミヤカズヒコになったりコバヤシヨウスケになったりするように他人からは見える、ということですけど、もちろんこれは極端過ぎるマンガの世界の表現のお話です。
 オタクとは現実しか見えない人間だと書きましたけど、これは最「低」な人間に映るみたいです。女性ですらも賢い人間は下ネタを言う男に対して「サイテー」と言います。漫画家の二瓶勉さんが「BLAME!」という漫画の中で「基底現実」という言葉を使ってましたけど、現実というのはレベルが「低い」ということです。これは「幼児的で程度が低い」とかいった場合の「低い」という言葉の使い方とは全く別です。現実しか見えないオタクの人たちというのはつまり「低」いという属性の世界に生きる人たちだと言うと分かりやすいです。だから上の段落で書いた身体論的なことだとか物語論的なことは、物語の構成そのものに入り込むということに困難を要する彼らにとっては理解に困難を要します。オタクというのは物語の構成云々も含めたアニメにハマるのではなくて、アニメにハマっている自分にハマりこんでいるということです。

 こういった「知」に関することを真実(truth)というわけであって、factどころか場合によってはliesでしかない事実の積み重ねによって事象どころか人格までをも再世界化によって作り出すということであれば、それは律法の為に存在し律法を他者を攻撃し貶める道具として使用するバトルロワイヤルな殺し合いの女性的なJudenの世界になってしまいます。

 法律云々ということで考えると、つまり証拠さえ残さなければ何をやってもよい、という発想が彼らの中には出てくるんですね。ユダヤ人です。自己の外部に既定点を求める彼らは、律法ということでもそうですし、拝金主義ということでもそうです。2012年時点では偉大なる先人たちが残してくれた技術その他によってどんな悪事もバレるようになってます。

 捏造ということまでをもどうやら行うに及ぶものがあるようです。特に少なくとも2012現在における2000年以前に発行された日付の書籍の後付けの乱発であるとか。ナチスは禁書であるとして多くの本を燃やし消しましたけど、Judenはこれの逆である捏造を行うということです。このJudenを社会制度上「ユダヤ人」とされている人たちであるとして間違いを犯すならばそれはヒットラーと同じ轍を踏むことになります。奴らは削除はしません。民主主義という漠然とした多数決が敷かれている社会において、数で押して誤魔化すというだけには留まらず過去の事実の捏造まで行うわけです。まるで東北を襲った津波のように。2012年時点での日本においてもこれが行われています。図書館の奥の方に並んでいる文学書等の以外の一般観覧コーナーのものとかはひたすらこれだらけです。面白けりゃ何でもいいという価値観はここでその持ち主に墓穴を掘らせます。だから「正統な」「ちゃんとした」、悪い言い方で言うと「ベタな」、良い言い方で言うと「王道な」ものというのは(が)大事なわけであって、書籍だと昔の有名な著作家のもの意外は全て「つくりもの」だということです。だからナチスは禁書だといって大量に本を燃やしたんです。昔よく学校の先生や大学の教授が「こんなの僕は知らないなあ」と渋い顔をして言っていたのが思い出されますけど、要はそういうことです。子供を騙して使っていたということです。これはもちろん反ユダヤ人な人間が反ユダヤ人を煽る為にやっている可能性もある、というかそちらの可能性の方が高いです。まあいずれにしろ時間が経ってから過去にそれが存在したかのように見せかけるどころか捏造が行われていてそしてそれを行っている連中(アカ、Juden)が実在するということは事実です。

 資本主義(capitalism)と拝金主義は全く別です。金(カネ)というのは道具ですけど、現代の日本人の多くがその道具でしかない金が主体である・先のFreund Heinという記事で書いた「具象化された死に対する所属」(=拝金主義)的な認識に至ってしまうのは、前世紀の悪質な教育制度によって他者に対する憎しみや恐怖を植え付けられてしまっているからです。これについては教育だけではなくてマンガ文化や全世紀末から今世紀でもネットの一部で社会に流布されているものにも因は有ります。



 私は先日久しぶりに酒を飲みました。とは言っても一人で部屋でチビチビ飲むだけです。で、その飲んでしばらく経った後に訪れる酔った後の不快感が、抗精神病薬を服薬した時に味わうことになる不快感と全く同じでした。精神医学ではこれは抗精神病薬の副作用であるとされていますし、精神科医もそう言いますけど、これが抗精神病薬の主作用であるか副作用であるかは別として、抗精神病薬を服薬するとこういった効能が人体にある、ということは事実です。高校生の時に学校に内緒で(もちろんおそらくバレてました)やった飲み会とかを思い出すに、ストレスが溜まっている時にアルコールを飲用すると極端にハイになって気持ちよくなってベラベラ色々なことをしゃべったりしますけど、私は最近あまりストレスが溜まってはいない(という自覚がある)ので、ただ体と頭が暖まってその後不快感を味わうだけでした。精神科医が言ってましたけど、寝酒つまり就寝前にアルコールを摂取すると睡眠を阻害する効果があるそうです。だから寝酒というのは最悪です。で、昔の記事で「抗精神病薬を飲んで寝ると肉体は眠っているが脳が覚醒したような状態になりまったく寝た気にならない」というようなことを書いたような気がするんですけど、つまりはこの通りです(ちなみにその時に限って私の父親は私に「よく寝たなぁ~」というご丁寧なサブリミナル演技を行ってくれていました。証拠に残らなければ何をやってもよいという犯罪者です)。私は最近自分の様子を鑑みて、毎晩酒を飲んで寝る自分の父親に極めて似ているなと考えていたところなんですけど、不眠だとか睡眠中の覚醒だとかいったものはこういうものであって、睡眠中よく眠れていないから起きている間もよく覚醒できてもいないし同時に行為としての睡眠時のように眠れている状態でもないという状態になる、もしくは肉体は夜間睡眠して昼間覚醒してはいるがしかし昼夜逆転の生活を送っているアベラール的な昔ながらの遊び人の思考の持ち主になる、ということです。誤解の無い様に言っておきますけど私は違法薬物を自分の意思で使用したことはただの一度もありませんけど、これはおそらく覚醒剤等の麻薬のoverdoseと同じです。抗精神病薬の長期間に渡る服薬や寝酒は麻薬中毒患者と同じ状態をもたらします。顔面の特徴で言うと白目の部分が血走って陳腐なビジュアル系のようにシャドウがかかったような状態になります。ちなみに高校の時に一緒に酒を飲んだ連中は、下手すりゃ私は覚醒剤盛られてたんではないかくらいのアレです、別に露骨なワル(に見える)というわけではないですけど、だからこそそういったのはますます釣りに満ちていてタチが悪いということです。ヒットラーの行動を鑑みたりや書いたものを読んでもそうですけど、Adolf Hitlerさんは現代で言うところの覚醒剤か何かの悪質な薬物を盛られていた可能性も無きにしもあらず、と考えたりもします。N田四R医師は「抗精神病薬は夜寝る前に飲んじゃえばいい」と診察時に言っていたんですけど、ちょっとN田四Rさんがどういった意思のもとこれを言ったかは不明ですけど、おそらくは最悪です。関係無いですけど、このN田四R医師のクリニックを紹介したのは私が学生であった当時大学の嘱託医をつとめていたA刈という女医でした。

 私は若い頃の昔とある親族の女性に「あなたは物事を鑑みるにおいて横のつながりが弱い」と言われたことがあるんですけど、Judenというのはつまりそういう点において「弱い」のであって、逆に人間関係の繋がりでは横のつながりが強い、つまり人単位で何でも物事を見てしまうことへ落ち込んでしまいやすいということです。だから「悪い」ということです。だから他人と自分を比較することばかりに気を取られて、物事(仕事)を為すという発想自体が欠落しているということです。騙されやすく洗脳されやすいということです。私は子供の時分から若い頃までずっとそうでした。こういった人間を作り出す教育を行うことにより、ひたすら社会的死荷重を生み出して特定のコミュニティーひいては国家を破綻に向わせることができてしまいます。これはたしか一部の頭のおかしな学者が言ってたような気もしますけどイギリスの策略でも何でもなくて、どこの国でも居る反社会的人間集団がやらかしている(た)ことであり、この日本という国では昔は穢多と呼ばれていて、Judenという言葉で表されるものです。これを「フリーメーソンの陰謀だ!」とか太宰治曰くの如く「ラジオの電波に殺される!」とか騒ぎ立てるのは現代の悪質な教育によって一面的にしか物事を見れなくなった人間の思い込みであって、つまり頭がおかしいということです。こういう人間は何処へ行っても精神病院へ行けと言われます。これを世界がどうであるこうであるというから宗教臭くうさん臭くなるわけであって、つまりは物事というのはそうなっている(Dasein)ということです。
 この国のオタクというものに関しても事態は同じです。オタクというのは基本的に能力が高いです。だから彼らは今までの経験も記憶も鑑みて「ああ、コレおもろいわ」と思うとそれにのめり込んでしまいます。で、「おもろい」ものなんてのは現代ではコンピュータを使えばいくらでも簡単に出来てしまいます。だから当時青少年だったオタクたちは手作りのドラゴンクエストよりもチャチャチャっと情報並べたファイナルファンタジーに圧倒的にハマってしまったわけです。ドラクエだろうがFFだろうがどちらにしろゲームは悪質ですけど。エヴァンゲリオンだって一般にはほとんどネットを知らない前世紀の10代の青少年のくだらない感傷を利用してエロコスチュームやBachのクラシック音楽を持ってきて色気を付加してゴミみたいなストーリーにグダグダ絵の具ぶっちゃけただけです。彼らはあまりにもいともたやすく釣られてしまうということです。

 どうもなんかここへきて、そこに新興宗教の教祖といったいどんな違いがあるのかというエニアグラムの自称リュウトウマリコもそうですけど、ストーカーとそれが知らしめてくるものといい自分の親族の行動や言動といい私がこのブログを書き始めてから高校時代の知人が急に電話に出なくなったことといい、自分にまつわるキャラや人格設定その他までもひたすら作り上げられて(?)何かをなすりつけられていた、ということに思い当たるようになりました。ひょっとしたら私が口頭の雑談でしゃべったヘンなことが録音されてて脅しに使われているとか、ね。こういう悪質なことをやる連中がいるというのは想像はつきますけど、まさか自分の親や自分が昔付き合っていた連中がそうであるとは?、ということです。前の記事で「つまりは罪のなすり付けや冤罪も一発でバレるということです。」、と書いたのはちょっと何か自分が何者かの何かによって貶められているということに思い至ったからです。ひょっとしたらストーカーの皆さんはそれを私に教えようとしてくれていたということなのかもしれません、くらいに。(十)何年も経ってから知らしめてくることに卑劣な悪意をひしひしと感じはしますけど。私は自分が他人にどう思われているかあまり気にしない方でしたけど、診断書に小学生の悪口であるかと言えるほどに低レベルで且つ酷い内容を記載するM'z a 悪意医師を含めた精神科医の行いもそうですし、ちょっと他人の行動を鑑みて「ちょっとこれは異常だな、」と思うに至ったので。このブログを書いている理由の一つにはこのこともあります(某自己紹介の場所からここへのリンクを貼りました、2012年4月19日)。
No queen
 背筋主義者。
 Very Important Personをわざわざやってる人。




 今でもテレビで「笑点」という番組でやってますけど、「オヤジギャグ」と呼ばれているものがあります。あれは駄洒落ではありません。ああいうことを言う人は別に洒落で言っているわけではないからです。今はネットがあるんでまあなんとかなると言えばなんとかなりそうですけど、こういう人たちは悪質な教育によって当時は失われていた物事の繋がりというものを講談という形で教えようとしてくれていただけであって、笑いをとるというのは副次的な目的なんですね。純粋に他者を笑わせるという観点からすればそりゃギャグの方が面白いに決まってます。ギャグというのは他人を見下しネタにして笑うのが基本だからです。松本人志さんのお笑いみたいな。桂歌丸さんみたいな人だってギャグを言えばおそらく人並みに面白いです。Stefan Ruzowitzky監督の「ヒトラーの贋札」という映画にはナチス占領下での強制収容所内で収容されているユダヤ人がSS隊員の前で下品なお笑いギャグ演劇をして見せて笑いをとるという場面が出てきます。小指を詰めているおヤクザさんはおそらくギャグを理解しません。できないというよりはそういったマザコンなものをヒットラー的に否としているということであり、「ナメとんのか!」ということで撃ち殺されます。
 ロックバンドでも物事の繋がりが分からないそういった人間の愚かさを「悲痛故に美徳見えず」と歌って教えようとしてくれてる人が居たりします。黒人音楽であるJazzというのは即興演奏が基本です。おそらく黒人さんは最適化能力が高いというと妥当です。アフリカの黒人さんとかもそうかもしれませんけど、オーストラリアのアボリジニーの人たちは母系社会です。彼らはいまだに狩猟採集の生活を送ってるんじゃないですかね?獣を追う狩猟活動というのは最適化行動の連続的な繰り返しです。スポーツだとバスケットボールやハンドボールやサッカーがこれですけど、例えばバスケはMicheal Jordanとか名プレイヤーはほとんど黒人さんです。武道だと柔道がこれです。これが離散時間的になったものが大昔の地中海沿岸や中世のヨーロッパその他でよく見られた人間集団同士の殺し合いの戦争です。現代でもアフリカでは部族同士の殺し合いとかやってます。おそらくミクロ経済学的な観点からすると、人類の歴史を鑑みれば分かるとおり人間は文明が発達するに従って最適化行動を緩慢にさせている・せざるをえないということであって、一昔前さかんにマスコミが言ってましたけど現代文明社会がストレス社会であるというのは当然のことです。これを打ち消してくれるのが技術革新です。つまり文明が発展するから技術が革新すると考えることもできますし、逆に技術の進歩に従って文明が発展していくと考えることも可能です。日本語では前者を「必要は発明の母」と表現する諺があります。経済学には経済史という分野がありますけど、こういったことについて論じているというよりは何処で何が食われていたとか何々がありましたとか記録が残っている分野であって実に面白いです。ミクロ経済学も最適化までに費やされる時間の概念を導入すればいいはずなんですけど、無理なんですかね(積分とか)?差別用語なんであんまり使いたくないんですけど、黒人さんのことを「土人」と言ったり「黒んぼ」と言ったりします。土は=黒いです。崩した言い方をすると、nigerはニグロで黒いです。豆の腐った豆腐に入っている「にがり(MgCl2、塩化マグネシウム)」なんてものは非常に不味いです。「大地賛唱」という歌がありますけど、あれはたしか「母なる~大地の~(なんたらかたら~」という歌詞のほとんど繰り返しだったような気がします。動画で黒人さんがストリートで非常に上手いバケツドラムをやっているのを見たことがあるんですけど、少なくとも日本人にはああいったことはマネできません。
 ミクロ経済学というのはそれがほぼ連続的であれ離散時間的であれ最適化を繰り返す個々の経済主体の活動をわざわざ数理化したものです。つまり数学的であるというわけではなくて、人間の行動を「人間とは如何なる時も合理的な行動を選択する経済主体である」という前提のもとそれを数理化しうるように取り扱ったものです。だからミクロ経済学はマザーコンプレックスの権化たる拝金主義者の学問というよりはまさに机上の空論であるというとそれこそ適切です。

 ファミコンやプレーステーションの十字コントローラで左手で十字キーを操作するというのは左利きの養成であって、非常に良くないです。
 特に日本でよく観察されることですけど、数百年前の戦争で最前線の兵士は槍を使用していました。彼らは足軽と呼ばれてました。で、右利きの場合で槍という武器を持って構えて突いたり引いたりというのは超高頻度での連続時間的な最適化行動のそのものです、身体の使い方からしても。原始人の狩猟においても槍という道具が用いられていました、が、これは使い方の点からしてちょっと別かもしれません。右利きの場合だとペンや鉛筆で紙に同じ文字をひたすら書くということに似てます。ゲームは良くないんであまり書きたくないんですけど、パソコンでできるフリーソフトとして配布されているRPGというのがあります(説明書きにある通り何があっても作者は責任をとってはくれないのでやらない方がいいです)。これはパソコンのキーボードの矢印キー・テンキーでキャラを操作しzキーとxキー(とその周辺で)で決定やキャンセルの操作をするというものなんですけど、これと右利きの場合で槍という道具を使うことも体の使い方として全く同じです。

 私は子供の頃ピアノを習っていたんですけど、楽譜を見ながら即興的に演奏するということができませんでした。逆に楽譜を見ないで弾くのは難しい曲でない限りできました。だからそれがどんな簡単な曲であっても取りかかる始めから全て音符を丸暗記して弾いてました。「ドドソソララソ~」というごくごく簡単なフレーズでも楽譜を見ながら弾きなさいと言われるとおそらく弾けなくなります。好き嫌いで言うとクラシック音楽は好きですけどジャズはあまり好きではないです。柔道は少しだけ出来ますけどバスケットボールは全く出来ません(嫌いです)。おそらく野球派は剣道で、サッカー派は柔道が上手いです。野球のバッティングは球を「引っぱる」感覚です。逆にバスケもサッカーも「押す」スポーツです。運動会の綱引きを思い出してもらえば分かりやすいですけど、「引く」時に使うのは腹筋です。逆に「押す」時に使うのは背筋です。うつ伏せに寝て背中を反らす背筋のトレーニングの運動がありますけど、あんなものやらない方がいいです、肩や背中の筋肉の凝りの原因になります。腹筋はいくら鍛えても大丈夫です。野球は紳士のスポーツとか言われてますけど、サッカーは足を使うという点においてそのゲーム形態もまた然りと言えますけどパスケットボールは狩猟民のスポーツです。私は子供の頃高校野球とか好きでよく見ましたけど、バスケというのは巨大な球を地面に叩きつけて振り回しまくるというのがもう見ているだけで気分が悪くなります。あの狭いコートでのがむしゃらで野蛮な行き場の無い場のenergy flowみたいなものが非常に不快であって、バスケットボールの試合の観戦というのは女性特にベチャクチャしゃべって豚のように醜いオバさんを見ているのと同じであって非常に不快です。



 昔の、特に戦前の人の集合写真とかを見るに皆唇の薄い整った顔をしてます。日本人に適した菜食が主であったとか食事の際よく咀嚼してから嚥下していたとかその他様々な要因があるでしょうけど、ともかく現代の日本人の様に醜い顔はしてません。
 Helen Adams Kellerという人は限りなくDaseinな人です。視覚・聴覚を失ったが故にサリヴァンという人の助けを借りてそれを悟る術を知った人です。おそらくヘレン・ケラーさんは絶世の美女でした。私SSみたいな人間は、身体感覚が少し常人に比べて過敏であるというのもありますし視覚と聴覚に頼り過ぎるという点でヘレン・ケラーさんとは真逆の人間です。現代人特に現代日本人は誰でもそうですけど、また私も物事を一面的に鑑みてしまう愚かな傾向のある人間です。やはり一面的にしか物事を見れない人間というのは肉体の見た目が醜い傾向があります。特に頭の髪の毛がハゲていたりとか、論理実証主義者とか。「老成している」という表現でもおそらく形容が可能です。以下Blaise Pascal氏のPenséesから一文引用。

「もし暗さがなかったならば、人間は自己の堕落に気づかなかったであろう。もし光が無かったならばに、人間は救いを望まなかったであろう。それゆえ、神が半ば隠れ、半ば現れているということは、単に正当なことであるばかりでなく、われわれにとって有益なことでもある。というのも、自己の悲惨を知らずに神を知ることと、神を知らずに自己の悲惨を知ることは、人間にとって、ひとしく危険であるからである。」

ということなんですけど、ヘレン・ケラーさんは自己の悲惨を知らずに神を知っていた人であり、逆に私SSのようなJudenとして生きてきた人間は神を知らずに自己の悲惨を知りつくしてしまった人間です、だからJudenであったということです。



 マザーコンプレックスが万物の元凶であり、恐怖心も万物の元凶とか先の記事で書きましたけど、心理学的な表現をするならば人間はおそらく「母親に食われる」という恐怖を持っているということです。生まれたところへ帰るというのは文字通り死を意味します。「墓」です。おそらくやったと言われているドミチウス=ネロの母子相姦を始めとするユダヤ人がその血族を守るために行っていたヒットラーさんご推奨の近親相姦は、文字通り血族相食であって、これはキリスト教では最も禁忌とされていることの一つです。中国の故事でも妲己(九尾の狐)みたいのが出てきますけど、中国の人たちだってちゃんとこういったことを分かっているということです。別にこういったことはゲルマンの雄たるドイツ人やキリスト教の専売特許でもなんでもないです。中国には少林寺拳法というものがありますけど、突きをする場合突ききる瞬間に拳を「引き」ます。
Gewohnheit
 ピーピングトムクルーズ。




※ この記事には罵詈雑言が含まれています。そういうものが不快な方はお読みにならないで下さい。



 前世紀の主にJ-POPの音楽CDの、聴く者の肉体を左へ傾斜させるような録音と君が代を模したようなもしくはその音程やリズムを位置的に反転させたどの曲も同じようなサビのメロディーは、心理学な観点から言うとおそらく殴り合いのケンカや口頭での罵り合い等と同じく聴く者の自殺願望を満足させてくれるものでした。だから今もYoutubeとかで聴けてしまいますけどあんなもの聴いていたらどんどん何もかもをも溜め込んで「腑に落として」いくようになるんですね。vocaloidでどうこうとかなんとかいうのは十年も二十年もかけて社会に浸透させたオタク文化によって産み出されたオタクに作り変えられてしまった真面目な青少年を使って、衰退した芸能音楽に変わって「君が代」を彼らの内にまた彼らから浸透させて再びなんとか社会に流布していこうという悪質な人間達の所「業」だったわけです。
 私は金があったところで頭が悪いどころか馬鹿を作る音楽CDなんざ絶対に買いません。一枚千円の音楽CD?一般市民ナメんな子供騙しのクソ業界人が、という問題です。あんなもの-1000円、つまり1000円あげるからこのCDもらってこの音楽聴いてくれと言われても断ります。一昔前にあったwinmxもしくはwinnyやshare等のP2Pファイル交換ソフトを使って視聴者にとってharmfulな雑多な音楽を垂れ流すことで国家(国庫)に損益となる社会的死荷重たる禍を巻き起こすことでむしろ業界人は得てしたり、というわけです。カネ云々よりも害毒音楽をより多くの人間に聴かせることが奴らの真の目的であるということもできるということです。そりゃYouTubeとかでもガンガンupされるわけです。というかそれこそステルスマーケティングな応援コメントを捏造してバラ撒きそういったものをupをしてるのはそういった「業」界な連中です。最も分かりやすい例として、ゴキブリホイホイならぬオタクホイホイでクズな典型例としてL'Arc~en~Cielというのがありますけど、コレで検索するとMP3TUBEとかなんとかその他でいくらでも出てきますね。つまりP2Pファイル交換ソフトによって音楽を流してもらった(流した)頭パーのゴミロックバンドは狙いが達成されて大喜びだというわけです。業界人とやらが自分らの狙いを達成させてしかも同時にあろうことか被害者を装ってるんですね。マスコミも業界豚の群れですから、もちろんP2Pファイル交換ソフトによってCDの売り上げが減ったとか必死に喧伝してます。L'Arc~en~Cielに関して言うならばあの歌ってる人は道具として使われてるだけです。しかしJanne Da Arcとかだと、もう音楽というのは理論的にベースが決まっていて、それに基づいてきれいに音を並べて作ってますということを売りにして売っているので、少なくとも私は嫌悪感は感じません。"L'Arc~en~Ciel"で「テツ」とかやっちゃってる馬鹿には唾を吐きかけたくなりますけど。前世紀はこういったオノボリのバカがカワイソウなほどに調子に乗って、しかもこの「テツ」(笑)とかいうのに限って言えば30過ぎたオッサンになってまで「ボクは生まれた時からシャアですから」とかホザいてた厨二病の低知能の豚穢多らしいんですね。
 日本だと2012年現在で60代の全共闘世代にコレが多いわけです。あろうことかミクロ経済学という机上の空論を存在しもしない武器として、国庫に収められている金が死荷重であるとヌカす馬鹿も居ます。



 ちょっと大変下品かつ過激な表現でおそらく読む方には不快な思いをさせてしまうと思われるので大変申し訳無いんですが、はっきり言いたいことなので言わせてもらいます。
 芸能人の女の様に男を騙して釣るくらいであれば、股を開いて女性器の穴の奥まで見せろという問題なんですね。この点においては、muslimの人たちは実に賢いです。眼以外の部分を全て衣服で隠しているイスラム教徒の女性は賢くて尊敬に値します。中途半端に見せびらかして男を釣ってストレスを与えるくらいであれば、全部脱げという問題です。だから私は芸能人の女性でもヌード写真集を出してしまうような人は、これも尊敬します、そんなもの見ませんけど。日本においてイスラム教徒の女性のように眼以外の部分全てを隠せとは言いませんけど、ちゃんとそれなりに衣服を着こんでいただきたいです。

 先の記事でも書きましたけど、男性は睾丸で作られた精子をその中に含む精液が体外へ放出されるとそこでオルガスムの状態は終了して性欲はほぼゼロへと帰します。これは医学的(科学的)に証明されていることであって、とうのはるか昔から学校の教科書に載っているくらいです。何より男性は肉体の実感としてそれを知ってます。だから男性はネットでもエロ雑誌でも見て適当に溜まった(物理的な)性欲を解消しておけばいいんです。萌えなんてものは最悪です。google等のサーチエンジンの画像検索でcruiseしているだけで股開いたバカな女の画像がたくさん出てきます。それにアイドルや女優の顔くっつけたのもいっぱい出てきます。エロアニメ画像やエロCGだっていっぱいあります。

 人間誰しも生まれる前の母親の腹の中の安住さへ帰りたいという欲求はあります。だから男性は女性の股を開いて見たがるというわけです。しかしそれを行ってしまったらそいつは穢多畜生の行いだ、というのがまあ分かりやすくは古典的なキリスト教の価値観というか絶対的定義です、つまりそんなことをやったら穢多畜生になってしまうということです。そして女性は自ら女性器を持っているのでそれを特に意識することはない、つまり生まれながらにして自身がMotherであるということです。前の記事のタイトルはNo QueenではなくNo queenとしましたけど、これには女性というのは自分が自分であることにまつわるが蓋然性・人間としての主体性が女性器を持つ女性の由縁であり売りである、それは仕方のないことであるということが含意されてます。「女はユダヤ人だ」とか「女は全てスキゾでバカだ」とかそういった頭の悪いことは私は言いませんけど、人間の女性・哺乳類であるヒトのメスというのはそういう生き物であるということです。



 男女のカップルを見て嫌悪感を感じているような兵隊ヤクザな人間はあまりよろしくない、と先の記事で書きましたけど、男女で仲良くカップルになれるくらいに人間が好きな人たちはどんどんカップルになってもらって子供を作ってもらった方がいいんですね。そういう健常で心身共に健康な人たちが子供をつくって、そして子供を育ててもらった方が社会は良くなるに決まってますし、それこそ言うなれば人的資本な観点から考えても明らかによろしいです。残念ながら私は他人も自分も含めてあまり人間が好きではないので、こういった私のような不健康な人間が人の親になったりすると非常に良くないことになります。
 私は自分が小学生の時、馬鹿な女教師が「男と女しか居ないんだから、男と女で仲良くしなきゃいけないの!」と言っていたのを覚えているんですけど、男と女が仲良くしたらその当該の社会は崩壊に向かいます。女性というのは自分と同質なものを求めるので、付き合わされる男性はどんどん悪くなっていきます。戦後何十年の昔からそうですけど、「男と女が仲良く」した結果現在国がどういった悲惨なことになっているか鑑みてみれば一発で分かります。だから男と女で仲良くしたいのであれば結婚以外にはありません。結婚したいと思うような異性が居る男女の人間同士が結婚してはじめてよろしいことになるということです。

 剣的にペンで攻撃するのは別に問題ないですけど、ペン的に剣で攻撃する人間というのがおそらく何処へ行っても疎まれます(例えば自称竜頭万里子のような人間にレッテルを貼って「タイプ判定」に及ぶ馬鹿とか)。ちなみに私は前者です。アウグスティヌスは前者でアベラールは後者です。「普遍は個物に先立って実在する」という実在論・実念論の考え方が前者で、「普遍は個物の後につくられる」という唯名論の(妄)想念が後者です。おヤクザさんもおそらく後者の部類ですけど、あの人たちは自分らは自覚的にヤクザであるという社会的コンテクストのもとヤクザをやっているから別にアベラール的な悪質さは無い、つまり分かりやすく一言で言うと「ヤクザだから」です。悪を許容したり計らずんば悪を肯定したりする人間はヤクザになれということであって、そうすれば社会の誰もが彼らを許容し肯定することになります。もしヤクザになる覚悟が無いのならば、悪いものを見たり聴いたり悪いことをしたりするのはナンセンスであるということです。

 私は一般人なので所謂ヤクザについては「小指を詰めるのがヤクザ」ということくらいしか知りませんけど、「左」へ流し流され釣り合う穢多が自分らが生み出したカルマな罪「業」を「暴力団」という言葉のアヤ・錯覚を用いて一くくりに「右」のヤクザになすりつけているということです。問題は何故暴力が行われるのかということであって、大江健三郎さんがそれこそ小説で書いてますけど穢多の暴力というのは左へ貶め合う修羅というか餓鬼界の畜生の所業であって、最悪です。筑紫哲也さんが便所のゴミ箱と形容したネットの、特に2ちゃんねるというのは当の筑紫哲也さんのような戦後の左翼の人間がその便所のゴミ箱へ導いたところの、ちょっとこんな連中の形容に大江健三郎さんご尊名を使わせていただいて大変失礼で申し訳ないんですが、まあ「汚穢嫌左風呂」とでもいったところです。これに技術革新が追いつかないと社会は崩壊へ向うというマザーコンプレックスな女の世界です。先の記事でアウグスティヌスの書いたものを引用として引っ張ってきましたけど、自分で自分が苦痛を味わっていることに気付かない、下手をすれば苦痛を快楽と認知してしまうようになるという地獄の世界です。おヤクザさんの小指を詰めるということだとか、もしくは右手で左頬をぶん殴る暴力というのは間違って歪んだ「左」の方向へ行ったものを「右」の定常点へ戻してくれる力であって、「暴」力という表現は適切ではないです。ちなみに抗精神病薬リスパダールはアレは罠です、地雷です。というのは、二十四時間連続時間的に左頬をぶん殴られ続けているようなものであって先の記事でも書いたように何も為すことも考えることもできなくなり、飲むのを止めると反動で左へイってしまうからです。殴って修正してくれるものというわけではなくて、常に殴られ続けている痛みがそこに発生するだけのものであるということです。

 週間少年ジャンプに通称「こち亀」というマンガがありましたけど、あれは警察官を陳腐化且つヤクザ化することで、警察や警察官のネガティブキャンペーンという形で子供に対するよろしくない刷り込みを行ってたんですね。非常に悪質です。

 髪の毛に剃り込みを入れたチンピラお兄ちゃんのことを前に書きましたけど、前頭部に頭髪の剃り込みを入れたことによってもたらされる感覚というのは、「鬼の角が生える」という感覚とは逆です。だから実は良いんです、アレは。頭髪のM字禿げというのは男の勲章みたいなもんです(てっぺん禿げはヤバいです)。アレはマンガ的な解釈によって女性には恐怖に映る、というかそもそも女性がそういったマンガ解釈的コンテクストを作り上げてしまうということなんですね。何故かといえば女性を襲ってレイプとかをやる最悪な男が居る(た)からです。工業高校の生徒の人とかでもしこの文章を読む人が居たら、自分らの行動原理を否定されない為には、女をレイプすることだけはやるなということです。女とヤった瞬間に自分らの行動原理は否定されるものと考えるのが順当です。女と男がセックスをして得をするのは女です。私は昔知人(男)にさんざん言われましたけど、「セックスなんざやっても『アレ?こんなもんなの?』ってモンよ」ということみたいです。女というのは自分と同質なものを求めます。だから昔のチンピラお兄ちゃんたちは「なんでアイツがモテてアイツより男らしいオレがモテないんだ!」という疑問を抱き、そしてモテないというわけです。ちなみに要因が違いますけど私も女にモテたことは生まれてから一度もありません。しかしまた女性は女性でイジめ好きです。さらには嫉妬深いです。イジめというのはレイプです。同族他者を貶めて相対的に自分の価値を上げて強者である男に自分はこんなに優れているから助けてくれと請求するというのがミクロ経済的でマザコンである女性の行動原理です。だから上記の男性の場合とは逆に女性は自分ら女性のコミュニティー内でイジめを行った瞬間に自分らが売り子の売春婦であって自分(ら)の肉体がレイプされることが肯定されるものと考えるのが順当です。「汚穢嫌左風呂」な人倫の国が欲しいのであればタビデの星を利用してエニアグラムだかなんだかホザいていないでヒトのメスだけによって構成される国家でも作ればいいんですね。こんなもの絶対に失敗すると考えているのが正しいところの男性の考えであり、逆はカオスを招く女性原理の内ゲバ大好き全共闘的発想です。
 「人的資本」がベースになっている馬鹿な人間連中は、性欲をその絶対的ドグマとしています。連中はヒトの肉体にまつわる性欲を人間関係への欲求だと勝手に解釈するということですけど、これは女性(霊長目ヒト科の哺乳類のメス)にしか通用しません。しかしよってフロイト先生が絶対的に間違っているわけではないです。この性欲云々では女性は表面的には「サイテー」というセリフに象徴されるように嫌悪感を示します、が、しかしこの「人的資本」をベースとしている連中こそが女性であるというのがオチです。だから男性は「いい加減にしてくれ!」と言わんばかりに一発カマして修正したろかということでレイプとかやっちゃう……と自分らの行動原理を否定されることになってダメなわけです。アメリカではレイプは重罪です、つまりアメリカの人たちは賢くてこういったことをきちんと理解しているということです。



 先の記事で書いたとおりの文学的な表現を用いるのならば、精神医学は「歪んだ魂を正させよう」とするものです。抗精神病薬はその点において一般の薬物とは違います、何故ならば一般に医学において使用される薬は「魂が歪んだ状態で固定させて且つ同時に痛みを消そうとするもの」だからです。とある整形外科医の先生が、私が抗精神病薬を服薬していると申告したらば、「我々はそういった薬は使わないんでね……」と意味深に言ってました。だから横光利一みたいに投薬を拒否して「俺の病気は薬でなく精神で治す(魂を正す)んだ!」と言って死んでいった人も戦後すぐ後あたりでは居たということであって、養老孟司さんという人もそうですけど、戦前はおそらくそういったことをちゃんと教える教育をしていたということです。つまり精神医学的には極論すれば抗精神病薬以外で必要な薬というのは、副作用の無い覚醒剤やヒトが安楽死できる薬のみであるということです。たしかオランダでは安楽死の選択が合法行為でしたけど、おそらく薬物を使うと思うんですけど、日本でも合法化すればいいと思うんですけど。魂がどうこうという表現を使用するから分かりにくいどころか胡散臭くなるのであって、つまり「歪んだ魂が正す」というのはストレスが全部吐き出されるということです。で、この抗精神病薬というのは「歪んだ魂を正す」ものでもなんでもなく、「歪んだ魂に圧力をさらに加えて歪め返して、外部からはまるで正常であるかのように見せかける」ものなのであって、最悪です。だから肉体の各所の筋肉がガチガチに凝って熾烈な痛みを発します。特に抗精神病薬リスパダールでこれが強く現れます。

 N田四R元医師がそもそも最初に私に「他人を見てストーカーにつけられていると認識してしまうのは統合失調症の典型的な症状だ」と言って私SSに抗精神病薬を投薬しました。私は今でも24時間頭が痛いです。抗精神病薬の副作用というよりは後遺症です。睡眠薬を飲むと痛みは消えます。このブログの記事で何度も何度も書いている通り実はN田四Rという老人もそのクリニックに在勤していた三人の看護婦兼薬剤師も全てストーカーとグルであった、というオチです。もちろん私の父親とマスコミもです。最悪です。
 現在通っているNクリニックのk子kurseマ医師(仮称)に、「自分はそもそも、ストーカーにつけられていることの認知やマンションの階下や隣室から聞こえる騒音が幻聴であると言われて統合失調症であるとN田四R元医師に診断された」と申告したら、k子kurseマ医師は演技がかって首を傾げながら「げんちょう~?(↑)、(いやそうじゃないっしょ」と言ってとぼけました。

 統合失調症の症状であるとされている身体感覚の過敏さ、上で書いたところの頭の痛さ、これは商品名マイスリーというものに代表されるいわゆる睡眠薬であっさり消えます。または牛乳を飲むと大分症状は良くなります。昔たしかカルシウムが不足すると人間イライラするという言説がありました。David Horrobinというイギリスの精神医学者の本に書いてあったんですけど、何百年かそれ以上昔の人間はほとんど現代で定義されるところの統合失調症であった、とか。またこれも一面的な物の見方でよろしくないんですけど、私はこれの因を主に食物に求めます。関係無いですけど、経済史というのはこれに関する記録が残っている分野であって実に興味深いです。少なくとも身体感覚の過敏さ云々という点においてだけ鑑みるのならば栄養不良が主な原因です。で、精神科医は身体感覚の過敏さが統合失調症の症状だと言いますけど、私にはこの身体感覚の過敏さは統合失調症によるものだとは考えられません。つまり精神科医が統合失調症の患者に抗精神病薬を投薬し、それによって作り出されたdie Krankheitの中に身体感覚の過敏さというものが医学的定義上含まれているだけである、ということです。つまりそれを健常的感覚と見做すことを分かりやすい表現で一言で言うと、身体感覚が過敏でないと騙されやすいということです。子供の頃から健康的な食事をして肉体もきちんと鍛えて健康に成人に達することができた人は腹を壊さない程度に牛乳を毎日飲んだところで問題は無いです、が、私のように子供の頃から食事が悪くて体を鍛えることもできずに不健康に成人になってしまった人間においてはそうではないんですね。やはり日本人は欧米の特に白色人種に比べてこの私のような傾向が強いです。今の若い人の外形を見て思うんですけど、2012年現在では日本でも健康的で栄養価の高い食品が安価で手に入るので子供の発育も問題は無いでしょうけど、私のように親が悪質な人間であったりまたはよほど貧しくてロクに食品が手に入らないような家庭に育つ人間は非常にマズいことになります。

 黄色人種であったりとかその他様々な見方(側面)がありますけど、「日本人」というものに資本主義を適用した結果拝金主義者の豚の群れと化した、ということです。
fuzz
 悪意は何処にも無い、血の色は赤い。




 日本語のカタカナ語で言うところの「ストーカー」という言葉は英語のstalkerをただ単にカタカナに直したものです。先日私は警察署を訪れて窓口でストーカー被害のことを訴えたらば生活安全課というところへ行けと案内されそこで私に説明をした人間のことなんですけど、日本語を使う(おそらく)日本人でも言語が不自由な人間が居るんですね。日本の法律上ストーカーを規制する法律等で「ストーカー」という言葉が使われていて、その法律の定義上「ストーカー」という言葉に与えられた固有の意味があります、が、普通に日本語で文で書いたり対話で使用したりする時の「ストーカー」という言葉には「特定の人間をターゲットにウロウロ付けまわす人」という意味があります。ちなみに英語のstalkerには「気取って大またに闊歩する」という意味もありますけど、通常日本語で「ストーカー」という場合にはこの意味では使いません。私にこの説明をしに出てきた中年男性は始めからギャーギャー怒鳴り散らし、声の大きさで自分を誤魔化して私にstalkerという言葉の意味を説明をするいとまを与えようとしませんでした。非常な悪意の篭った演技であって、まあ筆舌尽くし難い暴虐というか、どこの野蛮な原始人かという問題です。まあストーカー連中は少なくとも私SSに「見せ付けること自体を見せ付ける」という形でストーキングを行うと私はこのブログで書きましたけど、どうやら言語の意味を一義化させるということを知らしめようとしていたのかな、下手をすれば教えようとしていたのか、くらいには思います。で、この警察で出てきた二人の人間に、「『ストーカー』というのは、既知同士である特定の人間と特定の人間との間の愛情のもつれだとか何だとかいったものが原因となって、特定の人間が特定の人間を付けまわしているような場合に、付けまわされている人間の側が『ストーカーの被害に合っている』と言いうるものである」という説明を受けました。つまりは「ターゲットである人間を集団で付けまわす人間のことは、日本の法律上『ストーカー』とは呼ばない」とも説明を受けました。つまり私に警察署内でこの説明をした二人の人間によると、この悪質な行為は仮にそれが実際行われたところで日本の法律では犯罪とは見做されない、ということです。太宰治が「『ラジオの電波に殺される』と言う人」と形容したところの人やVirginia Woolfが自殺にまで及ぶ原因を作った、おそらく百何十年の昔からこういったことを行っていた連中の行いは少なくともこの国では犯罪とは見做されないということです。つまりその程度のことというよりはその類・そういった属性の行為では犯罪とは見做されない、ということのようです。ストーカーよりも私の父親が私が幼児の頃から私も含めた自分以外の全ての人間にこれを行っていたんですけど、このいたずらに対象の人間の不快感を煽る行為のどこが犯罪でないのか私には全く理解不能です。Adolf Hitlerさんはこれのせいで発狂して、そのおかげで何百万人ものそれとは無関係な罪の無い人間が殺されました。「人間が人間を(強制的に)求めていることにする」というレイプであって、ヒットラーはこれを「民主主義を是とする者共の陰謀だ!」といって狂気に走らされました、が、実態は真逆です。アメリカ人はおそらくこういったもの(こと)を嫌います、というかロシアでも何処でも社会統治上当然こういったことは非・否とされます。ヒットラーは異常者ですけど、別にこの点いおいてヒットラーが異常であるわけではありません。もしこの点においてヒットラーが異常者ならば全人口の九割以上の女性(ヒトのメス)は全て異常者です。女性はそもそも自分がヒトのメスの肉体を持つというだけで凄まじい生物学的ハンデを負ってます、能力を落とされているということです。特にムキムキマッチョだったり男性的な男性にはおそらくこれは理解できません。だからせめて衣服で自分の肌を隠して防衛しなさいというのに、残念ながらこれに関しては肌を露出する馬鹿な女が居るから一発カマしたろかという男も出てくるということです。私はちょっと全面的に女性の味方であるとは偉そうに自分のことを言えませんけど、ヒットラーという人物は限りなく女性の味方です。ナチスは最悪です、念のため。
 私に上記の説明をしたこの二人の人間は警察署の建物の内部にて来訪者である私に対応する人間として出現しましたが、本当に警察官であるかどうかちょっと疑いたくなります。

 知と知の繋がりが、言葉というものにおいては音韻や文字の形象の問題であると言いましたけど、それを現実で使われる言語例えば日本人が日常で使っている日本語というものに適用するとなると、それはFreund Heinという記事で書いたようにそれぞれの単語が品詞性を失った単なる文字の羅列になるんですね。これは物自体であってユダヤ語です。物は物であって現存在(Dasein)なわけであって、言葉はそれで表される物とは違いますから、つまり言葉がそれそのものになってしまうということは有り得ない、不可能であるということです。当のユダヤ教徒の人たちですらYHWHという文字によって表される言葉を「みだりにその名を唱えるなかれ」と戒めているように、国境を越えたユダヤ語なんてものは世界中何処を探しても存在しません。英語でもフランス語でもドイツ語でもアラビア語でも日本語でも中国語でもその他の言語でもそれぞれの言語における品詞性が失われることが音韻や文字の形象の問題として取り扱われ論じられるということでなければ、DaseinならぬDinge an sichな実在しないjüdisch(ユダヤ語)になるだけであって、そんなものでコミュニケーションを取ろうとしたところで不可能なので無駄です。
 パスカルは家庭で教育されて、学校へは通いませんでした。だから極端に言えば数学の問題は解けても物を論じることができない、つまり数学がデカルトのように「出来る」というわけではない、というよりは何がどうなっているかを言葉で説明するという発想がありません。パスカルは非常にユダヤ人的です。しかしパスカルの書いたもの特に「パンセ」というのは、もちろん存在しないjüdischを使って書かれているわけではないですけど、文学的テクストとしては実に価値があります。詩的であって、読んでいてためになる上に面白いです。やはり不必要なコミュニケーションに晒されないと知を重んじるようになるというか知しかないという健全なことになります。だから2ちゃんねるのような場所はやはり最悪です。

 2ちゃんねるごときで頭の悪い人間たちがいくら必死でユダヤ語を使ったところでそんなものを現実の人間と人間との会話や対話で通用させることはできません。しかし何かを学びたいというのであれば、お下劣な下ネタでありながらも(であるからこそ)jüdischめいたものを語ってくれている場所はあります。

 ユダヤ教徒の人たちとて悪い方向へ流されやすいそういった自分の悪い性質をきちんと知っていたからこそ、YHWHの名を「みだりに唱えてはならない」のであって、偶像崇拝を禁止し、音楽へののめりこみ易さからそれへの依存を避けるため禁止したのであって、律法も単なる性悪説に基づくものということではなくて、そうでもしないと何でもやってしまう自分たちの民族の愚かさを大昔のユダヤの指導者の人たちはきちんと知っていたということなのかもしれないです。
 中国の指導者の人たちが行っていた「一人っ子政策」というのはこの上無い賢策です。ユダヤの指導者たちがYHWHの名を「みだりに唱えるなかれ」としたように、中国の指導者たちの人たちも自国民の愚かな特質や自国の文化の悪い点をしっかりと認識し知っていたということです。



 柔道に背負い投げという技がありますけど、あれはあまり良い技ではないです、やる側にとってもやられる側にとっても。野球もボールのオーバースローは良くないです。サイドスローやアンダースローが良いです。女子のソフトボールでピッチャーはアンダースローですけど、オーバースローは腹にキてヤバいということです。イチロー選手は左打ちで、かつ右腕での遠投能力が非常に強い人ですけど、唇の分厚い顔でおそらく身体感覚的に胃や腹に意識が向いている人です。この人が朝カレーを食べるというのもけっこう有名です。ちなみに少なくとも私はカレーを食べると満腹感その他で眠くなるんですけど、どうなんですかね?

 北斗の拳という悪質なマンガがありましたけど、人間は人間の脳を100%使っているわけであって、まるで一般に健常な人間が脳の一部しか使っていないように見せかけている、つまり子供に身体的に何かを我慢した状態で硬直させようとしている、ということです。人間はもう10歳前の子供の時分にて誰でもマンガのヒーローになれるわけではないという社会的コンテクストを認識します、よってマンガを読むにあたって子供は「自分はマンガの主人公ではない」という学習を行います。これが罠であり落とし穴なわけです。ヒトの体は成長期に運動をすれば筋肉がつくその他で体が大きくなるように出来てますし場合によって姿勢を変えたり肉体を緊張させたり弛緩させたりすることもできるのであって、誰もが孫悟空であってケンシロウであることは当然なのに、それをマンガの主人公の行いという陳腐なコンテクストによって否定的に学習させることで子供をだけでなく下手をすれば子供のまま大人になってしまったオタクな大人をも悪くできてしまうということです。ガンダムだって同じ事で、ニュータイプ的な直観なんて誰もが持っているものであって他人のことや他人が考えていることなんか健常で心身ともに健康な人間にはなんとなく分かるというだけのことなのに、それを特定の選ばれた人間の特殊能力であるかのように演出しているという構図がもう異常なんですね。
 これに関してはおそらくは鳥山明さんだとか武論尊さんだとかいった人たちが悪意を持ってマンガを描いていたというよりは、あの年代の人たちが10歳前後の子供だった時分の子供よりも二十年くらい前私がその年頃の子供だった時の子供たちは精神的にも肉体的にも老成していたということであり、また2012年現在の10歳前後の子供たちは二十年くらい前のその年頃の子供と比べてさらに精神的にも肉体的にも老成しているということです。これは前の記事で書いた昔の日本人に比べて現代の日本人は顔面の形相が不細工であるということと直結してます。



 先の記事でも書いたように女性的な男性で一発カマしたろか的な発想とは別で母親に甘えるノリでレイプとかをやらかすタチの悪いのが居ます。私の父親も若い女のような男だと書きましたけど、Adolf Hitlerさんとは違って嫌がらせや女性的に人の不幸を好むこの上なくウザい性格であることに間違いはないですが露骨に証拠が残る程には人を影で貶めるようなことはおそらくやりません、しかしよって最悪にタチが悪いということです。そしてまた男性的な女性というのがタチが悪いわけです。いくら男性的であっても結局は女性(霊長目ヒト科の哺乳類のメス)だからであって、男性的な思考で女性としての悪事を働くからとでも言えば分かりやすいです。売春婦がこの典型例です。こういった男性的なホイホイと抵抗も無く簡単に男に対して股を開くような女は尻軽女という言葉で言い表されます。最悪です。ちなみにヒットラーはこの売春婦的な女を毛嫌いしました。私も個人的にこの売春婦的な女というのは非常に嫌いです。



 疑うということとただ単に否定するということは全く違います。このあいだ久しぶりにWikipediaを見たんですけど、「ああやっぱWikiは駄目かな~」とは思いました。たしか紂や妲己の項目を見ていて、「中国では(記載された)過去の歴史を疑うということがなんたらかんたら~」とか出ていて、その記述の内容もまるでマンガやアニメのキャラ設定の如く好色で滅茶苦茶なものでした。
 デカルトの書いたもの、特に「方法序説」というのに書いてありますけど、ただ単に物事を否定しているのではない、万事において疑うことと否定することは全く違います。

 「××っていうのは、○○だ」というセリフを使って、当然私SSもそれを知ってますし誰でも知っているようなことをその場において一義化された定義としての何らかの情報としてまるで自分は知っていて相手はそれを知らないという絶対的な前提条件の下に物理的な大声で場のコンテクストを誤魔化しながら相手を押し潰すという人間が居るんですけど(例えば上記の警察官として出てきた中年男)、小学生並の単純発想であるかどうかは別問題であるとして、これは先の記事で書いた「現代日本において誰も知らないような固有表現を持ってきてその他人が知らないことを自分は知っている具合に悦に入っているイタい人間」と同じであって、これはマザーコンプレックスに基づくナルシズムの表れであり自慰です。こういった人間というのは、議論によって何が正当でありまた合理的であるかを相手と互いに確認し合意するためではなくて、自分のエゴを相手に押し付けてそれが正当であるかのように見せかけ他者を自分に屈服させることを第一義・第一の目的として議論やその場を道具として使っているだけであって、エゴイストの豚です。竜頭万里子を自称し究極のエニアグラムなるサイトで人間の性格とやらを「判定」することにいそしんでいた一人の人間かもしくは人間集団は、「~行うのは・~考えるのは、その人間がその性格だからである」と人間の行動どころか思考に定義を与えることで人間がコミュニケーションにおいて使用する言語というものの意味を破壊し自己防衛能力や物と物との繋がりを考える能力をあろうことか負の方向へ落とし込んで(腑へ落として)失わせようとしたものであり、同時に悪徳な人間の他者に対する加害行為に「性格」という判定者ご当人にとっては新興宗教の教祖の如き自身の不可謬性とともに絶対的テーゼである一見したところではそれが正当であるかのような根拠付けを稚拙に試みていたということです。そうやって教育によって培われた人間の人格や思考能力を破壊して誰が得をするかというと、人を利用しようとする悪徳な人間や拝金主義者たちです。私SSは詐欺や当該サイトでの質問コーナーか何かでのなりすましその他で被害に合いました。

 消費税は、累進課税制度として例えば「一万円以下の財・サービスには適用されない」といった取り決めにすれば所得が低い人たちも困らずに済みます。その具体的課金基準はもっと事細かに設定してもいいし、それも場合によっては三次関数のグラフみたくしてもいいし、適当に工夫すりゃいいんですね。そもそも所得税等に対する逆進税的なものとして発足したのが消費税であるということにこだわって、国会で議論を長引かせる必要なんか無いわけですね。こんな発想は別に経済学者ではなくても誰でも出てきますけど、何故行わないんですかね?ちなみに私個人は消費税率upには賛成です、そうでないと国庫がどうしようもないので。



 昔の古い人間だったりとか現代でも田舎社会に生きる人間はそうですけど、基本的に日本人は単純思考で「法」と「経済」を対立させたがったりしますけど、現実問題として法律を知っている人間も経済学を勉強した人間も当然のことながら協力して知識や知恵を分け合って何をどうすれば社会が上手くいくかを共に考えて社会を形成していくというのが基本的に健常な人間の発想であり、欧米人特にアメリカ人の発想です。日本人は真逆であって、法律家と経済学者を分類したがり対立させたがり、挙句の果てには対立しだします。これは本当に馬鹿丸出しであって、数学的思考のコンピュータのような人間の群れのもとそういった現象が起こるということではなくて、他者より抜きん出たいというマザーコンプレックスに基づく悪質な欲求によりひたすら自分とは属性の違う他者を貶めようとしている人間が居るということです。つまり夏目漱石みたいに個人主義とエゴを履き違えて勘違いした何かの思い込みによる赤化であったり、または個人主義と産業における分業との悪質な履き違えやおそらくは意図的な混同によって実績をうち立てさせまい・偽善で真に善良な人間を釣って実績を残すとは如何なることかという発想をそもそも奪い人を貶めるようなことをやる悪質な人間が居るということです。下手をすれば義務教育を担う公立小中学校の教師にすらです。小学校の先生なんて大学教授よりはるかにその職務上重要な任務ですけど、何故あんなに就職上のハードルが低くて薄給なんですかね?第二次大戦以前ドイツではユダヤ人はユダヤ人学校へ入れられていましたが、少なくとも二十年前の私が小中学生の時は日本の公立小中学校はユダヤ人学校化していましたけど、今はどうなんですかね?
Shakespear's Globe
 親玉。
 燃ゆる水。




 2011年3月11日に大地震と共に東北を襲った津波がありました。新潮45という雑誌に「震災後をどう生きるか」なんてタイトルが載ってたりもしましたけど、まあこんな形でブログを書いている私SSもネットという世界制覇の炎に抵抗した戦争犯罪人の一人みたいなもんです。東条英機やヒムラーが自分の顔に似ていたりするようで嫌な気分さえします。

 つい先日Bin Ladin氏の遺稿がアメリカの人たちによって公開されました。ネットで見ることができます。私が見たのはBBCのニュースでのそれの触りの紹介だけなんですけど、どうやらレーニン的にイスラム教圏の人たちの戦争が内乱に転化されたところの社会状況を憂いてアメリカを敵対視してのテロリズムであったようです。たしか二、三年前の読売か毎日かの新聞に載ってましたけど、Bin Ladin氏はパンのようなものとホウレン草だけを食しながら生活していたそうです。私はテロリストではないですけど、基本的に菜食です。



 二、三年前にgoogleで何かを検索していたら、「同和系集団」というのが出てきました。たしか東京都のホームページを見たら「役所を脅す同和系集団」という内容も載ってました。私はもう近年は現代日本の新聞は読まないんですけど、ごくたまに気になって見ることがあります。で、それをネットで見た後に、読売新聞でしたけど、その新聞に「橋下徹と同和」とかいう本の宣伝が載っていたのを見ましたし、BBCのニュースでも橋下徹さんが"gang's son"と形容されて大阪市長に当選したという内容が載ってました。先日のBBCニュースではロシアのプーチン首相が大統領に返り咲いたということで、「プーチン氏は彼の支持者であるgangに取り囲まれて~」という写真とそれの説明が載ってました。gangです、ge・gang・enのギャング。政治家というのは皆そういった人たちであって、「同和」というのは特定の人間集団を表す固有名詞ではなくて形容詞として「同和」という言葉が使われていると考えるのが妥当です。「政界に人無し」なんて言い回しも日本語にはあります。ロシアは国家社会主義の国であると著書で断言してしまう経済学の研究者も居ます。

 私SSは学校でそんなことは教わりませんでしたし自分の親からも近所の大人からも教わりませんでしたけど、昔はそれこそ「穢多だからどうこう」「被差別部落だからどうこう」「同和系集団であるからどうこう」「黒色人種だから」といって差別する連中が居て、そしてまた差別される側も徒党を組んで「差別しやがって!どうたらこうたら」と差別者を取り囲んでいたみたいです。これらはもはや現代では当然の如くナンセンスです。私は人種差別とかそういったものは死ぬほど嫌いなので、人の悪口こそ当人の居ないところで言えど、「囲われる」以前にそんな差別をしたことも差別することを言った覚えも無いんですけど、どうやら勝手に囲んでくる連中が居るのでこのブログで差別的なことを書きまくってます、とは言っても本当のことしか書いてませんけど。差別する側も差別される側もどちらも馬鹿です。この現象に火を点けるのは差別する側であるという見解が一般的ですけど、社会にネットが登場してからどうやら差別される側も差別という現象に火を点けるものであるということがネットのいろいろあるところの掲示板の管理人等の存在により明らかになりました。だから人種差別をキリスト教の特にカトリック教会に帰するような単純な考えを持つ人間も居ますけど、そうではないです。悪いことをやる人間に対しては誰かが負い目を負って灰にしてしまわないとどうしようもないというのもまた自己犠牲の考えです。人間の理性を否定するという大たわけな言説で人間の関係にまで予定説という絶対的テーゼを要求する何百年も昔のヨーロッパのプロテスタントのカルヴィニストとかは怪しいですけど。Max Weberがプロテスタンティズムと資本主義を結びつけて論じたのはこのあたりのことです。「人の為に」、と言っている連中は共産主義者でありナチ党員でありJudenでありアカでありカルマを巻き起こそうとする業界人だということです。仕事、事に仕えていればそれが必然的に人の為になるということです。ヒットラー個人ははこれの真逆であって、人嫌いでニヒリストを志向しながら虚無の為に言論で戦っていながら実のところそれとは真逆のことを行ってしまっていた人間であり、ナチスの政治的イデオロギーにニーチェの哲学を利用したくらいです。白地の中心の赤(アカ)のそのまた中心に象徴としてのヒットラーが居る天皇制だと考えれば分かりやすいです。それをオセロだと考えるとさらに分かりやすいです、人間関係的に。人間関係を工学化するのはよろしくないですけど。
 アカい連中というのは、「幸せ」という言葉で釣っているということです。中国の故事で出てくるところの「女媧」です。「人首蛇身でこわれた天を補修し、天を支える柱を立て、芦の灰を積んで洪水を止めた」という伝説の媧皇とも呼ばれると辞典には記されています。女性には女性の幸せがありますけど、これはミクロ経済的な女性原理であり、女が女の為に作り出している社会的な禍であって、おそらくこれが健全な形で発露されるには幸せな結婚をするということしかありません。「男一匹何をやっても・何処でも食っていける」という言い回しがありますけど、ヒトのメスの肉体を持ちながら健全さを失わずにはいられないということで女性にはこれはほぼ不可能です。それこそもっと突き詰めれば悪魔の正体は人間の右脳であるとかいったことが言えるかもしれないです。

 第二次大戦後左翼へと流れた戦前右翼であった暴力的な連中というのは彼らナチ党員な連中のことです。おそらく戦時中に赤紙で徴兵された人たちというのは、「お前らは自分らと同じ戦闘屋なわけであって、こっちへ来いや」といって徴兵された人たちであって、そういう人間たちを放っておくと社会的に禍を巻き起こしてしまうということを昔の人たちはしっかりと知っていたということです。アカであるにもかからわず自分からSchutzstaffelにならない者はSolomon's Sealを貼ってやるぞ、ということです。おそらく昔からある特に関西の非常な田舎の被差別部落がどうのこうのというのは彼らカルマな人間たちの住処のことです。川端康成の小説なんかにこれっぽいものがよく出てきます。宇宙戦艦ヤマトとか宮崎駿さんのアニメとかはコレです。機動戦士ガンダムはハーフであり左右をバラバラにして要所要所で左右を入れ替えながら組み合わせて現実的にカルマを巻き起こそうとしたアニメであって、まさにカオスなオタクのアニメであって才覚はあるが最悪です。ノーベル賞作家の大江健三郎さんという人は先の記事でも書いた通り赤鬼をやっている人ではあるが、しかし知というものがどういったもの(こと)なのかということが失われていくことに異を唱えている人であって、そもそもAlfred Bernhard Nobelという人は爆薬であるダイナマイトを発明した人です。まあちょっと失礼な言い方ですけど爆弾を抱えての自爆みたいなものであって、非常に自己犠牲的です。灼熱の人であって、背負い投げな人です。世界各地で自爆テロという行為に及んでしまう人たちが居ますけど、こういった人たちは悪質な人間たちに貶められて封じられてノーベル賞受賞者のようには健全な形でそれを発揮できなかった人たちです。フジパンの「本仕込」という食パンの袋に「電話で民話が聞けるよ」というものが載っていたんですけど、良さげです。
 現代でもアメリカでObama大統領が対策に追われていますけど、人類にまつわる悪の全ては人口の増加からくるものであって、だからセックスは忌まわしいものであり特にキリスト教ではそれが禁忌とされているということです。人口が増えて万歳と言っている人間は忌まわしいです。

 火は女の象徴というか技術を与えるもののシンボルなんですね。何万年か何十万年かの昔、ヒトは火を使うことを覚えてから文明の発達が始まりました。「天の火を盗んだウサギ」という絵本がありましたけど、日本では「満月を見上げると月にはウサギが住んでおり、左右から二匹のウサギが餅をひたすらついている」という言説があります。クレーター等の位置の関係によりぼんやりとそう見えます。で、月というのはmaniなんですね、おヤクザさんが好きなアルマーニのmani。3世紀頃にペルシアでマニ教というのがありましたけど、これはゾロアスター教(拝火教)をベースとしていたものです。ツァラトゥストラというのはゾロアスターのことです。
 茹で卵というのは、生の卵が加熱されることによってタンパク質の組成が変化して、あの固体状のゆでたまごになるわけです。

 まあド田舎の被差別部落ではないですけど、私は自分の母親がこの差別したがり差別されたがりなナチ党員の典型のような人間でした。聞いた話によると母方の祖母の家は岐阜県で大きな酒蔵を営んでいたそうですが、放火されて家屋は全焼してしまったそうです、何故ならばおそらくは酒なんか造っていたからです。そしてその私の母方の祖母というのは「ウチは右やで!」と言って戦前の右翼であるところの共産主義の読売情熱新聞を読んでいた人間でした。だから私にも半分は忌まわしいアカの血が流れているということです。まあヒトは誰しもヒトのメスである母親から生まれるということではありますけど。
 戦前叫ばれていた大東亜共栄圏というのは日本を共産主義化するものであり赤化させるものなのであって、最悪です。

 そして現代ではまた愚かにも差別であり同時に被差別であるということに火をつける大馬鹿の愚か者が居るということです。ネットの掲示板は全部これです。私SSはネットは大学三年生(21歳)あたりまで見ませんでしたし使いませんでしたけど。
 私も高校生あたりの時分にてこういった愚かな発想を持っていた人間でした。そしてまたそこに火に油を注ぐようなマネをする馬鹿な教師なんかも居ました。国学院という右翼の学校がありますけど、まあ大学も高校もありますけどあの学校はナチス……というよりはAdolf Hitler養成所であるところのユダヤ人学校みたいなものです。だから頭の良し悪しは別にして、黒いというよりは馬鹿な学校です。
 上智大学という大学があります。あそこは高等教育(大学や大学院で行われる教育)ではなく高等後期中等教育とでも呼びうるような教育を行う学校なんですね。高等学校の授業の延長のような授業を行い、出席は厳しく基準に足りないと退学はあっさりさせられ、破茶滅茶に勉強させられます。そもそも入学試験でマークシートを使って絶対的に試験の点数だけで受験者の能力を査定し、中等教育においてあまり勉強は行わなかったがしかし頭の質がある程度は良いという学生を集めて、そして入学させてからひたすらしごいて鍛えるという学校です。棺おけなんで居心地はいいですけど、勉強しないとどうしようもないです。

 1930年代や1940年代のドイツで殺されていったのは、おそらくある種のヒットラー的人間たちだということです。ヒットラーは発狂した精神でもって自身は自分にユダヤ人の血が流れていることを否定しそして必死に自分が反ユダヤであることを演説の壇上で唱えましたけど、そう言わせて「じゃあこういったのを殺していくか、」といって何百万人もの罪の無い人間たちが殺されました。手塚治虫の「アドルフに告ぐ」という漫画はこのことが結構上手く描かれてます。私は漫画を読むことはおすすめしないですけど。
 「ヒットラーは演技性人格障害」と言った精神科医を個人的に知っているんですけど、「ヒットラー ist 演技性人格障害」であって、「ヒットラーさんは演技性人格障害であり同時に演技性人格障害されていた」というのがオチであり、arbeiter partieであるからどうこうと言いながら、数学が全く出来ずに「私は芸術家になるんだ!」と言っていたAdolf Hitlerは最もナチスからはへだたった人間であったというのがオチです。第一次大戦中は伝令兵をやっていたヒットラーは第一次大戦後「うわさを広げるユダヤ」を言説によってひたすら否定した究極の自己否定者であり、再世界化を人的資本にそれも自己に適用してしまった自殺者です。Oliver Hirschbiegel監督の「ヒトラー ~最期の12日間~」という映画のHelmut Weitling中将役のMichael Mendlさんという人が映画のメイキングのインタビューで「総統は自決しかしなかった」(いいだろ?)と言ってますけど、まさにそういうことです。



 少し前ネット見てて時々ありましたけど、「日本文化は朝鮮発祥だ」とかいったものがちらほらと見られました。たぶんおそらくこれは地理的な形象の問題であって、人間の体意識の問題でもあります。前にも漢字のことで書きましたけど、原点(0,0)を中心とするxy座標を規定してみると分かりやすいです。日本はZ字です。日本列島のZの文字の始点には朝鮮半島があります。イギリスは逆にS字であり、Sの文字の開始点にはPiperやClaymoreといった海底油田があります。Sはローマ字のアルファベト中唯一の象形文字で蛇の象徴です。claymoreというのはhackenするための大剣です。piperというのは「ハーメルンの笛吹き」の笛吹きであり、drunk as a piperで日本語で言うところの「酔っぱらって」という意味があり、pay the piperで日本語で言うところの「(費用を)負担する」とか「愚行の報いを受ける」という意味があっておそらく「焼きが回る」という意味でも通用します。で、Great Britain島を見てからLondonという街の場所を意識するにあたって、普通はこのpiperやclaymoreの位置には意識は向かないはずなんですね。日本地図を見るにおいても、右上から左下へ流れる日本列島があってそして沖縄や沖ノ鳥島や父島を意識することはあっても、朝鮮半島を意識することはないです。
 人間関係なんかどうでもいいんで、物理的なものを見て下さい、という問題です。北海油田と呼ばれるところには何があって、朝鮮半島にはどういった言語や文化があるかという問題です。人間関係なんてものはIとyouしかありません。この間にloveをつっこむかどうかは個々人の趣向の問題です。



 私は何でも記憶してしまう癖があるんですけど、これは特に頭が良いというわけではなく、特に対人関係における負の感情による反発心からそれを記憶してしまうということです。だからそれぞれの事実や映像や音楽等の聴覚によって得られる情報にまつわる愛情がそこで喚起されてしまうんですね。これが悪質なんです。その思い出に捕らわれて物事が正確に把握できなくなったり、あらゆる出来事に対してその思い出との比較により現出する劣等感に基づく鬱屈を感じるようになって「腑に落として」しまうようになります。女性はこういった傾向が男性より強いです、つまり非常なハンデを負っているということです。パスカルがこういったことを書いてますけど、おそらく当のパスカルさんもこういった人間でした。ユダヤ人というのは皆こうです。IQもそうですけど、記憶力も女性の方が男性より高い、ヒトのメスの方がヒトのオスより平均的に高いです。



 やはり人間には知的レベルというものがあります。学校の勉強の偏差値はどうでもいいとか言いましたけど、これはそれが分かりやすい一つの指標としては使えます。やはりどんなにいい奴だと思って(表面上は)仲が良くても、残念ながら知的レベルの違う人間とはお友達にはなれません。そしてまた知的レベルの低い人間は、それを悪意と捉えそう解釈するかどうかは別の問題であるとして、ヒトに備わっている自己の防衛の本能としての不安や恐怖から自分より知的レベルが上の人間を引き摺り下ろそうとするんですね。個人的なことで話がズレて申し訳ないんですが、高校の卒業アルバムの歪められた酷い顔もそうですけどどうやら私SSは私SSの知らないところでそうとうに貶めをやられていたみたいです、卒業アルバム以外で具体的にそれが何なのかは私には知る術はありませんけど。

 イギリスは曇りの天気が多いです、そして日出づる国である日本は晴れの天気が多いはず……なんですけど、現代日本は曇りが多くなってしまいました。大昔の日本では巫女さんが焚き火の前で雨乞いの祈祷とかをやってました、おそらく雨は少なかったんではないかと。
 ヒトの肉体も物質であって、そこには∞/0の相関関係があります。"Der Mensch ist, was er ißt."ということであって、肉や魚を食べることは止めて、穀物や野菜を食べるのが良いです。
troubadour
 そのキレ方がヤバい。
 レッドパージ。




 現在私が通院しているクリニックのk子kurseマ医師によると、それが既知の人間によるものであれ既知ではない特定の人間もしくは人間集団によるものであれ、ストーカーの被害にあうことと統合失調症が関係あるかもしくは関係ないかは断言できない、ということです。現実にストーカー行為をされてそのストレスで統合失調症が発現することがあるからであり、現代では私が先の記事で書いたように携帯電話を使用するその他の技術にていくらでもそのようなことは可能です。つまり私がこのブログの記事で何度も説明しているように、統合失調症というdie Krankheitは存在し、そしてまた私SSもこの病気です。私はストーカー行為やアパートやマンションの階下や隣室の住人からの騒音による嫌がらせや近親の嫌がらせやおそらく私が感知しないところにおける悪事によってこの病気へと追いやられてしまいました。2012年時点のこの日本という国における私SSの場合ではもうほとんどの人間が日本の新聞も読まない上にテレビも見ないので大した社会的損害は無いわけであって別にいいですけど、アメリカの人たちによってネットが与えられる以前、特に何十年も百年も前の昔は、Virginia Woolfはこれで自殺し、Adolf Hitlerはあろうことか利用されて全世界を巻き込む戦争まで起こさしめられ何千万人もの人間が戦争で死にまた強制収容所で何百万人もの人々が殺されました。
 抗精神病薬というのは基本的に口封じ薬です。精神科医の中には抗精神病薬特に商品名リスパダールを強制的に飲ませようとする人間が居ますけど、これは拷問好きのJudenであって最悪です。ちなみにリスパダールを販売しているのはヤンセンファーマという会社で、この「ヤンセン」というのはジャンセニズムの「ジャンセ」であって、ジャンセニズムの総本山はポール・ロワイヤル寺院でした。ポールですPaul。パウロはもともとユダヤ人でした。まず四谷三丁目付近の東京都新宿区舟町にて精神科クリニックを営んでいたN田四Rという男が私SSに「他人を見てストーカーにつけられていると認識してしまうのは統合失調症の典型的な症状だ」と言って抗精神病薬の投薬を開始しました。だからこのN田四Rという人間は統合失調症について無知であるか故意に悪質な行為この場合であると犯罪行為に及んでいたということです。このN田四Rが営んでいた神経科クリニックは自医院名に医薬品をストックし、診療ついでにそこで薬物を処方する、という場所でしたが、下手をするとこのN田四Rという男が医師免許を持っていない人間である、精神科医ではない可能性すらあります。先の記事でも書いたようにストーカーと私の父親を含む私の家族そしてマスコミはグルです。ネットでもどっかの掲示板の元管理人みたいに絡み続けてくるのが居ます。要するにこういったアカな連中の共演であったというのがオチです。私SSはどうやら子供の時分から日本国憲法で定められている基本的人権を奪われておりそして現在も基本的人権を奪われ続けている、ということが事実のようです。
 関係無いですけど、私が書いたものなんか書いた時点どころか書いている途中の時点でハッカーさんが持って行きます。だからひょっとしたら毎日二度配達される新聞に私が書いたものと関係あるようなことが載るかもしれないしネットでもその日付日時にて私が書いたものと関係あるようなことが載るかもしれないしそもそも最悪の場合私の家にだけ一般に配達されるもしくは売っている新聞とは別の新聞が配達されている可能性すらありますけど、私SSはもう今は新聞は全く読んでいないしテレビも全く見ない、ネットはほどんど見ませんし日本のマスコミの流すものは全く関知していないということをここに断言しておきます。ちなみにネットに繋いでいなくても、盗聴器・盗撮機の類を使えばいくらでも情報は垂れ流されます。少なくとも2012年時点においては技術的にそんなことはいくらでも可能です。電化製品を使用しているイコール情報は外部に筒抜けになりうる、と考えるのが妥当です(そう考えて下さい)。

 石原慎太郎さんとかもそうですけど、Adolf Hitlerという人はおそらく「極右」の部類であって、いわゆるアカである業界人に味方をするくらいであれば一般人に味方をするであろう、という問題です。私SSはただの一般人なんで自分で右翼主義者を自称するつもりはありませんけど、分類するとするならばおそらく極右と見做され、先にも書いた通り日本好きのアメリカ人的な人間です。甘い蜜をすすってこれよしとする、日本では戦前に右翼を「やって(演じて)」いたアカい連中は、戦闘屋であり戦争行為におもむかない限りにおいて有害であること極まりないということです。しかし戦時中に自ら戦争に志願していった連中は自分らがアカい戦闘屋であることは少なくとも理解していたということであって、先の記事でも書いたように「お前らは自分らと同じ戦闘屋なわけであって、こっちへ来いや」という呼びかけをしていた連中であったということです。現代における、自分が知らず知らずのうちに赤化させられて召集されてしまう人たちの分かりやすい偶像としては、まさに「オタク」というものがあります。ところがオタクは一般的に頭が良く能力が高いので、ストレスを解消するその他で治療を施せば彼らは(歪みが)直ります。ネットの面白い場所だとかゲームというのはは苦痛を快楽と勘違いさせるものなのであって、これはストレス解消になるどころかストレスを溜めませてしまうものです。一見してはそれがストレスとは分からないような苦痛を快感であると誤認させて与えるというものなのであって、最悪です。抗精神病薬リスパダールも、正常な状態とは一体どういった状態であるのかということを知るという目的ならば、一、二回は飲んで知ってみる価値があるかもしれません。



 どうやら現代の社会には「合法ドラッグ」というものがあるらしいんですね、とは言っても私も二、三回その呼び名を耳にしたことはあります。再び誤解の無いように言っておきますけど、私はヒトの脳に作用を及ぼす(とされている)薬物は精神科で処方される抗精神病薬と睡眠薬呼ばれるものとリーゼやデパスといった軽い精神安定剤(マイナートランキライザー)以外は使用したことがありません。まあ要するに医師が処方した薬以外は市販の風邪薬くらいしか服薬したことがないということです。
 「違法薬物を使用したことが無い」というだけでは、じゃあ医師の処方によるものでもなんでもない合法ドラッグは使用したことがあるのか、という誤解を簡単に招いてしまうみたいです。「小指を詰める」ということでも、じゃあ同じ指を切るということで薬指をを切ってもよいのか、という誤解を招きかねないみたいです。が、薬指なんか絶対に切ったら駄目です。おヤクザさんとてそんなことは知っているので、小指を切る人は居ても薬指を切る馬鹿は居ません。よってだから薬指に指輪をはめるというのも実は良くないです。何故手の外側から二番目の指が「薬指」と呼ばれ、そして指輪をはめるということはどういったことでどういった身体感覚をもたらすのか、ということに問題の本質があったりします。

 私は自分のことも含めてつらつらと書いたものをこのブログにupしてますけど、分かりやすくはあるがずいぶんと誤解を招く表現を多用しているんだな、ということをネットを少し見ていて思い知りました。私はどうやら自分が他人にどう捉えられるかにはほぼ興味が無いもののところであるということを最近自分でようやく知ったんですけど、ちょっとこれは危険であるとは知りました。

 で、裁判員制度というのがありますけど、裁判員に選ばれる人たちは特に専門的には法律の知識を持っていないという人たちも選ばれる場合があるんですね。それこそ裁かれる側の人間にとっては、裁判員に選ばれてから法律に関する知識を得てもらっても実名や職業を公開されたところで何処の誰だか分からないに等しいです。で、裁かれる人間が私のように他者やそれにまつわるものを全く度外視してしまいがちな人間であった場合でとある何らかのきっかけによって自己の風評を知らしめられた場合、絶大なる口封じの効果があるのですね。要するにその場合、自分が行ってもいないことをまるで冤罪の如く自分が行った行為であるかの如く思い込まされるという心理的な釣りが結構簡単に効力を発揮してしまいます。私には残念ながらこの裁判員制度が悪法であるかそれともそうではないかということについては何も言えない……と言いたいところなんですけど、莫大なる悪業になりうる可能性があります。原因は以下に書く内容の通りです。
 私SSの場合もおそらくやられてるんですけど、個人攻撃としてその特定個人に関する風説の流布を行う悪質な人間がどうやら居るみたいです。マンガ的に(な)キャラを勝手に作られてそれを元に裁判員制度のもとでの裁判において裁かれかねないということです。とはいっても私も先の記事で書いたような計数百円~数千円程度の万引きを二、三回といったものその他こまごました悪事を子供の頃にやってはいます(キャバクラで酒に酔ってオネーサンの胸を触ったことはあります、が、それを除いて性犯罪に及んだことはただの一度もありません、というかそもそも女性を見ない限りにおいて性欲がほとんどありません)。が、どうやらそういったところに目を付けて入れたヒビから被害者の人格を破壊するに至るまでに悪質な攻撃を行う人間が特に女性に多く居るみたいです。私はそういったヒトのメスの「嫌」さ加減については子供の頃からよく知っていたのでそもそも絶対に女性には近寄らなかったんですけど、卑劣な遠距離個人攻撃を行うのが居るみたいです、残念ながら。先の記事で書いた「そしてしかしまた女性は女性でイジめ好きです。さらには嫉妬深いです。イジめというのはレイプです。同族他者を貶めて相対的に自分の価値を上げて強者である男に自分はこんなに優れているから助けてくれと請求するというのがミクロ経済的でマザーコンプレックスの権化である女性の行動原理です。」というのは、こういったことです。他人のことなんか気にしなきゃいい、ではなく気にしなきゃ危険です。少なくとも法治国家においては、Iとyouしかないyouを全て味方だとは思わずに、同じ法制度の中に生きている敵であると見做すのがどうやら賢いということです。自分にストーカー行為に及んでくる人間についてもそうですけど、私は最近やっとそれを明確に知った次第です。まあ阿呆と言えば阿呆、老人症っぽいものではあります。だから、今はネットがあるので、どんどん悪質な連中の悪業を告発していかないとダメです(嘘は書いても一発でそうであるとバレます)。ネットもそもそもアメリカの人たちが与えてくれたものであってバカなジャップが戦後に女禍を巻き起こしての産物ではないです、本当にアメリカの人たちには感謝するところです。それでもまだ安住の地を求めて馬鹿な日本人は引きこもって中でグジグジした湿っぽいユダヤゲッベルなレイプカントリーを作ろうとするんですね。日本人というのはfuckin'Japであってfucked Japではないんですね。吉良上野介なんてのはこれもまたアカくfuckin'Japの典型であって、さしもの日本人ですら嫌がる程に悪質であってものの見事に討ち取られました(赤穂浪士は自分らがアカい行為に及んだことを自覚したものとして事後に全員切腹して自殺しました)。つまり海流の激しい海に守られてその中ではお互いにfuckしあってレイプしあう愚劣極まりない鬼ヶ島の住人であったということです。私が前の記事で書いた「同和系集団」なるものが実在するとすると、こういったアカで馬鹿な人間達のことであって、何処に言っても排斥されるのは道理です。「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず」と壇上からホザいていた一「マン」円札に顔がプリントされている偽善者福沢諭吉とか。私は慶應義塾という学校は個人的にあまり好きではないんですけど、ご苦労さんなほどに内部で引き摺り下ろし合いの貶め合いをやらかしてください、というお話です。慶應女子とか色々な意味で凄そうです。もう67年前に原子爆弾を落とされてからそういったものは終わったということを思い知らされたはずなのに、まだ必死に馬鹿共が頑張ってたというわけですが、もうここへ来てああいった連中も終わりを告げようとしています。棺桶にお前が稼いだ札束全部突っこんでやるから今すぐそれと一緒に火葬されて居なくなれというお話です。
 こういった他人に因縁を付けるような連中の手にかかると、一般の人たちは何とでも因縁を付けられうるということです。私SSも父親の仕事とは関係無く一般人です。



 もちろんネットで掲示板等を運営して他者に多大な損害を与える人間もそうですけど、そういった連中には稼いで税金を納めてもらわなくとも良いんで、サッサと居なくなってもらった方がいいんですね。少なくとも納税という観点からするのならば、そういった連中の行いにより商品の売り上げが減ってトータルでは国や地方公共団体に入るお金が減っている・国が民間から借金をしなければ運営できないまでに追いつめれられているという事態もいくらでも考えられるわけです。経済学ではこれを数学を使って分析できます。例えばそういった連中が掲示板で風説の流布を行うことにより商品は売れず、そして且つ同時に悪質な人間たちにカネが回りしかしそしてその悪質な連中は高額所得と共に高額納税者であって社会に及ぼした損益を無視してデカい顔が出来る、というものです(しかしデカい顔ができるという発想を持っているという点においては彼らもまた自分らが「悪」事に及んでいるという認識は持ってはいるようです)。高額納税者であるからといってデカい顔はできない、というのが道理です。こんなことは数学を使って証明しなくても、ちょっと考えれば誰でも分かります。だから法律に違反しなければ何を行ってもよいというこういった連中を放っておくと社会はどんどん悪いことになっていきます。こういった連中というのは一般の人間とは法律というものの捉え方の発想が根本的に違います。普通の人たちは万人は自分と同じく良識ある行動をとるものでありその上で何らかの被害に合ったらば日本の法律に照らし合わるべく専門家に相談する、くらいにしか考えていません、が、ああいった連中というのは何々の法律があるからこれは出来ないもしくはこれは出来るという発想でしてその当該社会で適用されうる法律で罰されない限りにおいて何が出来るか?ということが第一義として存在すると思い込んでいます。良識だとか倫理感覚だとかいったものはああいった連中の中にはどうやら無いみたいなんですね。これはアカでありJudenです。こういった法治国家の裏面とでも形容できる事態を放っておくと、一般市民は安心して生きてゆけません。特に女性はレイプされ放題だとかそういった事態が起こります。私SSの場合でも必死に家屋の外・家の近所にてブヒブヒブヒブヒと暴走バイクがひたすら迷惑な音を立てて嫌がらせを深夜ですら行ってきます。深夜3時から早朝5時くらいにかけての新聞配達のカブの音も非常な騒音であって迷惑です。今でも階下や隣室からのドガッという衝撃音や凄まじいモーター音もしくはコツコツと事あるごとに壁を叩いてくる音にて凄まじい嫌がらせが行われます。私が居るマンションの前の道路は何らかの特定の場所へ向うにおいて通行上そこを通る必要性を持つ通路であるわけではないのに、深夜の三時や四時にこの道路をトラックが徐行で非常にやかましい騒音を立てて走っていくということもあります。親の教育に問題があるとしか考えられないんですけど、幼児や小中学生のキーキー騒ぐ声も非常に迷惑です。学校で教師たちがどういった悪教育を行っているんだか知りませんけど、中学生が垂れ流す「ファイ(↑)トぉ(→)~、ファイ(↑)トぉ(→)~」「いちにっさんしぃ!(↑)、いちにっさんしぃ!(↑)」というものその他のワザとらしい騒音声も非常に迷惑です。特にこのバイクが立てる騒音というのは非常に迷惑であって、私は警察署へ行って対策を講じてくれるように頼んだんですけど、対応者として出てきた警察官の制服を着た人間は「具体的に何ホン以上の音でないと日本の法律上騒音とは見做されないので対策を講じることはできない」と私に告げました。こういった連中はあの手この手にて攻撃してくるので、私SSみたく狙われたならば社会的にあっさり殺されます。そういう連中に狙われたらば終わりであるということが平気でまかり通るようになります。本当にこの日本という国はユダヤゲッベルスが跋扈する無政府主義の鬼ヶ島みたいなところであって、子供たちは公立小中学校ではこういったことについては教わらないんですね。だから対策を練ることもできません。子供の教育に携わる人間たち、個人的な経験を思い出しても一部に穢多教師みたいなのがウヨウヨ居ましたけど、ワクチンを打って免疫を作っておかなければいけないのに、故意に子供たちに免疫を作らせないことで結果的には悪い方向へ引っ張りうるということを狙っているということです。
 いくらそういった悪徳な人間たちが悪事によって稼いだ金で税金を納めてまるで自分が正当な行いをしているかのように見せかけたところで無駄です。

 現代日本の報道関係者に良識が無いことなんか一目瞭然です。別にありもしないものを「良識ある報道の方々には~」というセリフによってまるであるかのように見せかける必要なんかありません。というかそういったセリフをネット上で書くことによってそれが意図されたものであるか意図されたものではないかにはかかわらず当の悪質なマスコミとコラボってしまっているだけであるというのが現状です。まあ答えを言ってしまうと、自作自演しているんです、ああいった奴らは。事件が起こらなくなって困るのは日本のマスコミです。奴らは日本という国に禍が巻き起こって欲しくて仕方が無いわけです、何故ならば楽しくて且つ自分らだけは金が儲かるという夢のような構図が出来上がるからです。2ちゃんねるの書き込みの大半も日本のマスコミも自称竜頭万里子のオカルトペテン宗教釣りサイトも、全て最悪です。
 私が先の記事で書いた「法律は犯罪の加害者のためにある」という考え方はもちろん加害者を国家等特定のコミュニティーにおいて定められた法律によって裁くことによって国民として守るという意味ですけど、本来的に人間の織り成すコミュニティーは無政府主義的なものでありそれにおいてどう他者を貶め違法行為を行わせて嵌める為に法律を使うかという悪質な発想を行う人間も居るんですね。ロシアを国家社会主義の国であると著書で言う経済学の研究者が居ると書きましたけど、ロシアという国はこういった人間が織り成す国家みたいです。ロシアの道路は穴ぼこだらけ、とか。中国はもっとそうです。日本人にもこの馬鹿な発想をするアカい人間が居ます。例えば私の父親です。どうやらひたすら状況証拠を積み重ねて被害者を犯罪者に仕立て上げるということを行うらしいんですね。しかし被害者当人は当該の犯罪には及んでいませんから、決定的証拠は残らない残り得ない残り様が無いというわけです。私の父親は大手マスコミ新聞関係者でしたけど、私がそもそも統合失調症の始まりであるとされた頃に「盗聴されている!」と告げたことがあるんですけど、実のところ自宅の電話か何かに盗聴器を仕掛けていた(る)のはこの父親なんですね。そしてそう事態を認識してしまうことを統合失調症の症状であるとして私SSに抗精神病薬の投薬を開始した精神科医N田四Rは完全に金で買収されていた犯罪者です。この私の父親は財布を持たないんですけど、このことも含めて人様の恨みを買うようなことをひたすら行ったが故のSECOM代わりのおつもりなんですね。おそらく家中盗聴器や盗撮器だらけです。中国人は文化人類学的なその特質からして間仕切りを嫌うらしいですけど、典型的な共産主義者のアカです。物理的な仕切りを取り外してしまって後に残るのは、原始人化した野蛮な人間による全共闘です(ネットはこれの逆です)。あまりに演劇がかったマンガ的な小学校における優等生のようなセリフを私の父親であるこの男が吐くのは異様であるなと私も子供の頃から気付いてはいましたけど、盗聴器に「聞かせて」いたわけです。それを黙殺するように暴力によって強制したのもまたこの私の父親であって、私は31年間これに気付かなかったというわけであり(気付かないという演技をすることを無意識的に強要されていた)、これが私SSにまつわる精神疾患の一部です。しかし私の父親がこういった行為に及んでしまうのも、また私の母親のような豚としか形容の仕様の無い人間が嫌がらせや貶めを主とする悪事に及ぶからであるとも言えます。
 私の父親というのは、私の祖母である自分の母親が死んでいるにもかかわらずなおさらにもはや存在しない自分の母親への「グレ」を表明し、齢六十を過ぎてもまたそれを表明する相手を探しているという幼稚園児並の精神遅滞の人間です。私の父方には私の生前に亡くなっている伯母がいるんですけど、この伯母は小児マヒか何かで先天的に脳に障害を負っていました。父方の祖母は献身的な人で、この伯母の面倒をよくみていたそうです。そして長男である私の父親はスパルタ的にこの祖母にしごかれました。一回だけ孫である私にこの祖母がキレたことがあるんですけど、ああこれはちょっと怖いなとは思いました。(聞いた話から総合するに)昔ながらのマンガであるような試験の点数が悪いと怒鳴り散らして怒るような鬼母です。だから悪い言い方をすると先の記事で書いたようにこの私の祖母は「目的達成偏重」とも言えます。そして私もこの歳になるまでずっとJuden、それこそ目的達成偏重の人間として生きてきました。で、この私の父親というのは障害者の類の人たちを露骨に差別する人間なんですけど、息子の私を虐待することで自分の母親への復讐を果たしているということです。そのやり方たるやまるで幼女が自分のぬいぐるみに言うことを聞かせようとしているようであり、非常に幼児的且つ同時に女性的であって、極めて不快であり癇に障ります。また例えば私と口論をした時に決まって自分の悪い特徴を全て口論している相手である私の特徴であるかのように言うというご丁寧にも救い難い特徴がありもしますし、私の特徴をご丁寧に自分の特徴であるかのように発言するという極めて嫌らしいやり方をも行ってもきます、つまり盗聴器に「聞かせて」いたわけです。そしてその私の祖母というのも二、三年前に亡くなりました。しかし私の父親はその亡くなった自分の母親への復讐心でまだ悪事に勤しみます。寝たきりで起き上がれなくなった生前の祖母が私に「あの子(私の父親)は大学へ行ってから悪くなって~」と泣きながら訴えてきたことがありました。この祖母の行為は父親の行為と同じく「逃げ」です。自分の異常な行為を正当化するというものであって、アカに見られる典型的な逃避行動です。

 私がこのブログの文面の中でよく使ってますけど、「小学生でも分かる」とか何とかいったセリフには、「人間は子供の頃からの経験や受けた教育が積み重ねられてその人格や倫理観が形成されていく」ということが含意されています。つまり「小学校で教わったことなんざ忘れちゃったっ」というものは通用しないどころか現実から目を逸らしたものなのであって、だから小学校でアカいJudeな戦闘屋の穢多教師が全共闘を煽るような教育を行うことは許容され得ないわけです。何よりコレが許容されうるものでないことは当の子供たちが最もよく知っています。私は今でも小学校の教師に教わったことはよく覚えていますし、だからこそ彼ら彼女らを穢多教師がどうであるこうであると形容することも可能です。今は30代や40代の若い先生たちが居てくれるんで、まあさすがにもうこういったことは行われていないでしょうけど、今の50代60代の連中においては本当にこういった豚が教師をやってしまっていたというケースが多かったんですね。
 私は少なくとも二十年前の子供であった頃小学校で知識の横のつながりみたいなものは教わりませんでしたし、教科書にそういったことは書いてありませんでした。そのくせひたすら馬鹿なお遊戯ゴッコが学校行事として設定されていて人的な横の繋がりを強めるということがひたすら行われていました。が、そんなものは関係無く、同級生と自然に仲良くなって放課後に遊ぶとかいったことは頻繁にありました。

 差別心や自分にとって気に入らない人間を排斥する心理なんてものはもう幼稚園児の時点で芽生えます。にもかかわらず「差別しちゃいけません」とかいった自慰的なお言説で教職員たちはやらかします。保母や女教師がよくこれを言いますけど、これを教育的指導であると解釈するのが一般的ですし、私も三十歳になるまでそう思い込んでいたんですが、そうではないということです。つまり差別心をより煽って歪んだ形にて大人になってから発露させる目的でこういった教育ならぬ悪質な刷り込みを行っているということです。そうやって社会的に禍が巻き起こってくれることが個人主義とエゴを履き違えたヒトのメスにとっては一見して利得であるかのように思われるという錯覚を彼女ら自身個々人の感慨として抱いているからです。実態としてそうであるまたは現象としてそう現れうるというよりは、拝金主義者的にそう思い込んでいるということです。ヒトのメスは「腑に落として」そうなってしまうということであり、またそうやってしまうということです。
 「戦う哲学者」とあだ名される中島義道さんという人は、これの損益や社会的損害たるものを必死に訴えている人ですが、当の中島義道さんもこういった連中が本気でそう思い込んでやらかしていると思い込んでいるという点において分かっていない人でありアカです。ああいった連中は故意にカルマを巻き起こす為にやっているわけであって、悪人なわけです。そして当の中島義道さんもまたそう思い込んでいるという前提のもとにそれを行っている(演じている)アカい業界人なのかもしれません。



 今の若者や子供たちに最も足りないものは危機感です。特にネットの掲示板等でcommunicationizedされた妄念から場を勝手に読了するようになってしまっていて、どんどん自分らが飼いならされていっていることに気付いてません。そうやってどんどん犯罪のるつぼに嵌っていってしまいます。

 第二次大戦終了前に「戦争に負けたら、女は売春婦にさせられ男は強制労働に駆り立てられる」という噂が流されていたのは、自分ら戦争屋であるその時点では軍人をやっていられたアカが行き場を失って国家という特定の枠組みの社会内でそういったバトルロワイヤルな戦場を作ることになってしまうぞという警告と同時に脅しです。七十年から八十年くらい前のドイツで不当にも正当な位置を得てしまっていたアカの最たるものであるナチス党員は、先の記事で書いたように現代日本で言うところの2ちゃんねるの住人と同じく徒党を為した悪徳なゴキブリの群れに過ぎないです。ユダヤ人もまた人口を増やすことによってアカであると見做されアカに引っ張りこまれてしまったアカですけど、ヒットラーは最後の最後まで自分の部下であったナチス党員がアカであったことを知ることができずそしてまた自分自身がアカの最たるものであったことを理解できずにいた狂人つまり自分の言説そのものに自分が在ると勘違いして生きていた人か、もしくは誰もやらないので仕方なくキリスト的メシアを演じざるを得なかった使命感の強すぎた狂人です。
 アカが豚のように人口を増やすから、当時の日米指導部の人たちが仕方なく戦争を始めざるを得ないということになってしまったわけです。ちょっと一見してはネタくさいと思われるかもしれませんけど、東条英機さんは東条「英」機であって鬼畜米英の一角です。第二次世界大戦中はアカが右翼(の手下)を演じており、そしてそれが戦争が終わった途端に都合良く自由を享楽できる・自由を享楽しうる環境を創り出し得るいわゆる左翼へ流れたということです。こういった言い方はしたくないんですけど、やはり社会の低層にはびこるいわゆる「社会的低層」がベビーブームとやらがあった通りに数十年の昔はSEXへと行き着いてワラワラと増えていた、ということです。一億総中流だとかあんなもの大嘘であって、ただでさえ赤化しかかっていた日本国民全てをさらに赤化させようとする赤熱化した日本のマスコミの超悪質なデマゴーグです。赤は豚、豚は嫉妬豚です。

 しかしまた、戦時中は悪質・陰惨な嫌がらせによって赤化させられてしまった人たちを赤紙で召集して戦地へ送っていた、という見方もできます。これは、現代日本では、「希望」とかいう言葉によって子供や無知な人間たちを釣っているアカい豚の行いにおいても観察することができます。そしてそんな悪質な手段によって赤化させられただけの精神的にも肉体的にも弱い人間たちが戦場で戦えるはずもなく、どんどん死んでゆき当然戦争には負けました。「嫌がらせ」や「嫌悪」といった言葉に使われる「嫌」という字は「女を兼ねる」と書くのであって、つまり女や女性的な女々しい男が行うところのものが多いものであって、私の父親はコレの典型でした。

 ドラえもんのマンガののび太というのは何か問題が起こると「助けてドラえも~ん!」とは言っても「助けてママ~!」とは言いません。つまりあのドラえもんというマンガの藤本なんとかという作者はのび太というキャラを「定式としてのマザコンではないが何かにすがらなければ生きていけないという意味でマザコンなキャラ」として描いたということです。あれは真面目な人間のオタク化現象に対する火付けの一つであると同時に、Heinrich Himmlerを「どうせお前もマザコンなんだろ?」と皮肉ったパロディみたいなもんです。ヒムラー家はカトリックであって、あのドラえもんというマンガはその構成概念からしてカトリックの神父に対する当てつけであると同時にアンチクライストなマンガです。つまりドラえもんというのは他人を求めていない人間など居ないという虚構のテーゼのもと視聴者である子供をレイプするという悪質なアニメです。
 イジめられっ子が大人になって成長過程で頑張ったりしたケースであると、人を貶めたりそれとは自覚せずに例えば年齢の幼い子供であったりとか社会的弱者をそれとは自覚せずに踏み躙ってしまうことになるケースが多いんですね。ちなみに私SSは子供の時分に人をイジめたこともありますし人にイジめられたこともあります。



 以前の私SSに対するストーカー加害行為では、顔面のニヤつかせその他にて私SSにそれがストーカー加害行為であると認知させるという方法を加害者集団はとっていたんですけど、私SSがこのブログを書き始めて以後最近の行為としては、まず顔を見せないことでターゲットにおける加害対象の客観的認識能力を減免させてある程度奪った上でターゲットである被害者の身体意識をコントロールしようと試みるということを行ってくるようになりました。何らかの特定の場の形象を学習させてからそれを表すような行動を被害者の視界内で取り、封じ込めを行ってくるとか。他には背を見せて今度はストーカーされる側を演じてまるで被害者が加害者であるかのように見せかけるとか。マスクで顔を隠してくれている人は健全です、念のため。
 当然の如くこれに先立ってはこのブログで何度も何度も書いているように、まずストーカー被害者に対してストーカー被害に合っているということを認知させるということが必要になります。場合によっては、まずお願いだから自分が叩かれていることに気付いてくれと被害者に対して下手に出て懇願してくるということすらあります。

 私は先の記事でも書いたように、人種差別の類は死ぬほど嫌いです。現代日本の社会の場合で言うと、私はそういった社会的低層の例えば無能力なアルバイターの人たちを差別するつもりも差別する気もサラサラ無ければそのような行為に及んだことも無かったんですけど、どうやら向こうが差別されたがっているようなんですね。私は学生の時にスーパーマーケットやコンビニエンスストアでわずかながらアルバイトをさせてもらったこともありますし、そういった人たちを「社会的低層だ」とか「単純労働力としての能力しか持たない無能者だ」とか差別するのは私の側からして嫌いです。が、必死に向こうがこちらに対してケンカ売ってこいとばかりにカラんでくるのでこういったことをネットに書いてます。ウザいを通り越して唾棄すべきゴミと彼らのことを認知してしまうことを残念ながら避けられそうにないです。自称竜頭万里子のオカルトペテン宗教釣りサイトもそうですし、そこらへんのゴキブリみたいのが必死に絡んでくるんで、私もこういったことを残念ながら書かざるを得ません。で、どうやらこの私SSに対するカラミというのは私SSがもう10歳になるかならないかの子供の時分から行われていたようです。私はそれに全く気付きませんでした。業界豚の群れたるマスコミや芸能その他も当然そうですしそこらへんのゴミみたいなチンピラ同級生や一部の精神科医もそうですし警察署で出てきたおそらく正式の警察官ではない原始的野蛮人もそうですけど、どうやら私を攻撃していたということみたいです。
 それが存在するのかどうかも分からない同和系集団とやらであろうがどうであろうが、私SSは危害を加えられているんで、残念ながらこういった形でこういったことを書いています。

 ストレスを解消するというよりは、私が先の記事で書いたように言語化して記述してしまえば、くだらない対人関係にまつわることなんかは記憶から消去されてストレスの原因としては成立しなくなります。そうすれば誰しもアカではなくなるんで、どんどん悪いものは出してしまうのが良いです。
 悪い奴の中にもいい奴は居るという言語矛盾の極みであるようなことを悪質な人間達が必死にマンガ等のサブカルチャーで当時の子供たちに刷り込んで赤化を狙ってましたけど、ワル(悪)はワルだということであり、ダメな奴はダメだということです。
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