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the "Amae"
 甘え。
 甘えでサーチするとfawnやwheedleといった動詞が出てくるが、これは明らかに日本語で表現される「甘え」とはニュアンスを異にする。
 「助け合い」というのは非常に重要である。それは社会にとって有益であるばかりでなく、そもそも倫理的に言って人間として他者と助け合って生きるというのは基本的なところではないかと考えている。身近な例で言えば、例えば日常生活品の貸し借りなどである。今はもう失われてしまったが(田舎の方ではまだこういった光景も見られるのだろうか)、お隣さんと仲良くする、そして困った時は助け合う、ご老人や障害を持つ人たちを助ける、声を掛け合う、道ですれ違ったら挨拶をする、こういったものは私は非常に大切だと思っている。しかし、「助け合い」や「思いやり」といったものと「甘え」とは全く違う。
 「甘え」というのは、精神的な他者に対する依存である。よって物理的な他者への加害行為なども含まれるし、心理的な他者への加害行為も余裕で含まれる。
 土居健朗氏はその著書「『甘え』の構造」の中で日本人特有の甘えについて論じている。ちなみに土居健朗は非常な女性的人間である、「甘え」に対して肯定的な見解を示しているのだから。私は中国や韓国を訪れたことがないので、中国人の人や韓国人の人々がどうだか分からないが、これはおそらくモンゴロイドというよりは特殊な地理的要因、物理的に隔離された世界で生きてきた日本人という民族のどうしようもないみっともない習性なのである。近年ではもちろんこの国においてもこれは解消されてきている。が、先の記事で書いたように、ここへきてネットの普及でそのような連中がまた暴れだしてはいる。




 暴力というものは、他者への甘えの最も単純な形での現れだが、二昔三昔前にいた不良少年少女というのは甘える子供の典型であり、好例である。甘えというものが如何なるものか知りたいという人は、まず不良少年の行動でも観察してみればいい。彼らは例外なく群れる。かといってそこで建設的関係を他者と結んでいるのかというと、そうではない。一見同盟を結びながら、彼らは中で互いに加害行為を行っている。仲間内でも愚かしいケンカ行為をしたりして、甘え合いながら仲良く殺し合いを行っているのである。もちろん部外者に対しては加害意識を丸出しにする、というか少々加害意識を通り越して恐れているような様子も見受けられる(これと日本人については後で述べる)。バイクで集団で暴走してみたり、ほれガンをつけただのなんだのといって人に絡んだり、というのは彼らの甘えを如実に表している。そして部外者の大人にまで身内の甘えが通じると思い込んでいる。だからもっと最悪の非行、性犯罪などへも平気で走る。中学生にでもなればこんなことは自覚していて当然なのだが、その先に被害者の望まない妊娠・出産というものが控えておりその責任を自分が取らなければならないという自覚が性犯罪者には全く無い。性犯罪というのは極限の甘えであると同時に最悪の重犯罪である。現実に奈落の底に突き落とされて地獄の苦しみを味わっている被害者の少女がいるのである。別に男性の性欲の存在自体は否定しない。これが無ければ人類は滅びる。ちなみに私は童貞であり、抗精神病薬の主作用によるものか副作用によるものかは不明だが、ほぼ完全なインポテンツである。しかし、同じ年齢層(私は2011/05/21現在30歳)の健常な男性とは比べ物にならないほどに性欲は薄く量も少なく、しかしまたそのような私にも物理的に精液は精巣に蓄積されるのでマスターベーションは不完全ながらも時々行う。そしてしかし、個人的な抑制能力の優劣により性欲が我慢できないというのであれば、アダルト映像・画像でも何でも見ていればいいのである。あの類のものに存在価値があるとすれば、その主なものの一つは性犯罪抑止効果をもたらすということである。問題は、その性欲のコントロール手段があるにも拘らず、それさえ出来ずに、暴力的に女性にそれを押し付けるというパラノイアックな女々しさにあるということである。もうそれ以前に強姦犯罪者というのは、レイプとセックスの意味内容の区別すらつかない幼児的な性欲を、それをコントロール出来ずにそれに振り回されている情け無い人間としか言い様がない。ちなみに、幼児的な性欲と言ったが、先のSigmund Freudはこれの一つの形態として肛門性欲というものを発見し、ひいては肛門性格というものを自らの学問モデルを為す要素の一つとして見出しながら研究を行っていた人である。簡略に分かり易く言うと誤謬を避けられないのだが、肛門性格者というのはその性欲にまつわる人間の精神の発展段階において幼いままで止まっている、もしくは幼い形での性欲を求める程に退行してしまっている(シュレーバーという人物をフロイトはパラノイアの代表例として挙げている)人間ということである。これらのことからも、これら不良少年連中がパラノイアと呼ばれ得ることが理解できるだろう。

 また、いじめというのも、他者に甘える子供の好例である。自分より物理的に弱い相手に対して暴力性を向けることによってその他者に精神的甘えているのである。これは情けないことに大人になっても行おうとする者がいる。ところが大多数の人間は精神的に大人であり、他者に精神的に依存しておらず他人をいじめるなどという発想は無いので、彼らは次第に人々の間から疎外されていく。


 ちなみに、少なくとも私の住む首都圏では彼ら不良少年少女はほとんど見なくなった。理由は、未成年者飲酒・喫煙取締りの強化などといったものも遠因としてあるかもしれないが、主にネットの存在である。一昔前のネット上でDQNという言葉で彼らが語られてしまっている様に、不良というのは現代においては若者達の間でダサいものの代名詞のようになってしまったからである。かといって潜在的に不良少年性を持った他者に精神的に甘える人間が減ったかというとそうではない。ためしにネットの掲示板でも何でも覘いてみればいい。彼らは荒らしやその他他人を罵倒するという形で相変わらず存在している。そして彼らはその中でも群れだす。先に挙げたネット上のパラノイア、まあ所謂おかしな連中などというものはその典型だろう。そこで彼らはまた他者に甘え続け自分たちの居場所である掲示板をも潰してしまった。そしてネット上で女性的な依存心で自分たちの精神的な他人への甘えそのもの自体をさらに求め同時に自分達の居場所を求め続けている。
 ネットで他者を叩いている人間というのは、仮想世界上ですらどこの誰だか分からない人間に甘えている低級な生き物だが、さらに低級なのは実在の人物を叩いたり貶めたりしている人間である。これはもう精神的に甘える対象を探して彷徨っている、甘える対象を求めるためにネットを利用しているとしか言い様が無い。輪を掛けてこれよりはるかに低級、というか低俗なのが、漫画やアニメなど創作表現の中に登場するキャラクターを叩いて貶めている連中である。もうこれに関してはどうしようもないとしか言い様が無い。アニメのキャラクターにまで甘えているのである。これはオタク云々という問題ではない。そういう問題ではない上に、そもそもオタクの人々はそのようなこと行いたがらない。もう粘着滲みたパラノイア、おかしな連中としか言い様が無い。


 子供を虐待する親というのは他者に甘えながら大人になった人間の中でも最悪の部類であるが、これは他者への精神的甘えを捨てきれず幼い自分の子供にすら甘えるような人間である。それで子供が自分を避けるようになるとさらに虐待の度合いを加速させる。要するに「おれもおまえに甘えるから、おまえもおれに甘えろ!(しかも限りなく自分に都合のいい形で)」と言っているわけである。はっきり言ってクズである。ネットのどこかで、親になる為にも自動車の運転免許の様に免許を必要とする様にして欲しいという意見を見たことがあるが、突飛過ぎてはいるだろうがまあもっともな話ではある。
 冷たいようだが、自分の子供を虐待する親の子供というのはその自分の子供を虐待する人間の遺伝子を受け継いでおり、人類(生物)の進化ということを考えた場合にその子供の滅びは必然的と言えば必然的であり、自分の子供を虐待するような親が自分の子供を虐待するという行為は然りと言えば然りな話である。劣等な遺伝子は滅びる様に出来ているのである。




 彼ら互いに甘えあうパラノイアにとって、精神的に甘えない自立した人間というのは気に入らないようである。「どうして自分は精神的に甘えているのにこいつは甘えないんだ、自分は『他人!他人!他人!他人なんて気に入らない!他人なんて許せない!自分はこんなにすごい!自分はこんなに苦労した!だから自分が!自分だけがー!』と思っているのに、なんでこいつは思わないんだ、こいつにもそう思わせてやる、こいつもおれに甘えさせてやる」、という訳である。




 経験とはその人間を為すものの骨格の周りの謂わば肉づけであり、経験が豊富であればある程その人の人間性が豊かになるというのは万人に基本的な見解であろう。しかしよって、経験そのものは所詮経験でしかなく、つまり単なる記憶であり、RPGにおける経験値の如きものである。つまり経験によって得られた感覚や認識や思考形態ひいては能力に価値が在るのであって、経験そのものに価値は無い。ところが甘える人間というのは、経験そのものを売りにするのである。この日本という中進国では高等教育的な能力があまり問われないようなので、経験から感覚や認識を学ばなくても、経験そのものは記録として残り、下手をすればそれが実績という形で珍重されることすらある。はっきり申し上げてバカ丸出しである。実績というのは実績内容そのものの事であってその記録のことではない。RPGで言えば、経験値を得ることによってレベルが上昇することに意味があり価値があるのに、経験値得ることそのものをレベルの上昇と勘違いしているようなものである。もちろん殆どの人間において経験の豊富さと能力の高さや人間性の豊かさは正の相関を示している。しかし、その人間の経験値が高いからといってその人間の能力が高いと断定することもできないし、経験値が低いからといってその人間の能力が低いと断定することもできない。まあマンガ的に言えば、「おれはこんなことをやったんだ、どうだすごいだろう」という訳である。もちろんこれは「こんなこと」を為し得るのに高い能力を必要とする場合に行われる自慢の類とは違う。それは自慢されて然るべきであり、何も不自然なことはない。しかしこのセリフで表されるのは「経験値そのものが(何故か)価値あるものとして扱われてしまっている」というニュアンスである。

 そして、その経験そのものを価値あるものとして珍重するということを否定された、甘えを基盤とする彼らが、無能力である己を悟り、その上で最終的に彼らが逃げ込む場所はと言えば、それは人間関係という虚構であり虚構の人間関係である。「ボクの知り合いにどうこう……」という訳であり、もちろん知己の存在によって得られるメリットというのは計り知れないが、この場合はそうではない。知り合いの存在自体が自慢の種になってしまうのである。これこれの知り合いを持つ自分は如何なる立場にありそして彼らから如何なるメリットを享受することができるか、ということを通り越して、精神的な依存の対象として知り合いの存在自体を見るようになるのである。
 謂わば甘える人間にとって、知り合いや友人というのは、あくまで自分の延長線上のものであり、彼らは他者を他者として扱うということができない。彼らは他者を自分の延長線上にある、謂わば「他者である自分」としてしか他者を認知できず、自分と他者を区別することができない。要するに他者の存在に甘えているのであり、知り合いや友人(の存在自体)に甘えているのだ。おそらく欧米人の人間関係というのは、哲学書等を読めば理解できるが、他者を他者として扱うということから始まっている。その前提としてあるのは、自己の自己意識であり、自分と他者は別の個別の人間であるというしっかりした自己の精神的な自立的意識である。私が先にヘーゲルをパラノイアと言ったのは、彼は(おそらく)欧米人としてのしっかりした自己意識を持っている(た)にも拘らず、「他人を自分の延長線上として扱いましょう」というセリフに近い哲学を表明していたのであり、謂わば精神的に自立した欧米人に対する甘えのススメを行っていたからである。そういったものを哲学として意図的に表明していたヘーゲル自身にもおそらく甘えというのは理解しきれない異国の神秘として映っていたのではないか?と思われる。三島由紀夫の言葉を借りるならば「十九世紀の欧州の阿片吸引者達の夢の中に出てきたアジア的なカオティックな異国の神秘」とでもいったところか。つまり中島義道氏とは真逆であり、Georg Wilhelm Friedrich Hegelという人物は哲学者らしからぬ哲学者であり、その人物自身は非パラノイアックと言えるかもしれない。欧米人には、甘えを前提とした友人関係は理解できないであろう、というかそのようなものを友人関係とは呼ばないだろう。
 ちなみに性格だ何だ根拠の皆無なもので人間にレッテルを貼るなど、甘える人間の最も好みそうなことであり、倫理的見地からしても論外である。レッテルを貼るという形で、自分以外の全ての人間(の存在自体)に甘えているということだ。
 そうして彼らは、その人間の考えや発言や主張の具体的内容の前にその人間が何者であるかということを意識し始めてしまうようになるのである。こうして最後に甘える人間パラノイア達が堕ち込んでいくのは人種差別的な露骨な偏見意識であり、その最終到達点はアドルフ・ヒットラーの世界である。「諸々の理由などどうでもいい、ユダヤ人だからダメ、ユダヤ人だから殺せ」、と。当然当初はヒットラーとて強姦者的であり拝金主義的であったという理由で当時のユダヤ人を嫌悪していたのであろう。それが彼の中では単純且つ洗練された報復心へと変わってしまったのである。こうなったら地獄である。何が地獄かと言えば、殺されるユダヤ人ももちろん悲惨だが、パラノイアックな被害妄想に苦しみながら「ユダヤ人、ユダヤ人」とひたすらそれに関する散発的な自生思考に苦しむアドルフが一番悲惨な地獄を味わっている(手塚治虫の漫画作品「アドルフに告ぐ」には、苦しむヒットラーの姿が絶妙に描き出されている場面がある)。


 こうして彼ら他人に甘える女性的人間・肛門性格者のパラノイアというのは、攻撃し合い、そして同時に慰めあい、傷を舐め合いながら、相互に精神的な依存をどんどん深め合って自他の傷を深め合っていきながら自らと共に自らの集団の滅びへと向かっていくのである。

 念の為に言っておくが、これを切磋琢磨と呼ぶのは無知蒙昧どころか愚者の証であり勘違いも甚だしい。下で述べるが、切磋琢磨というのは個人主義的な男性的人間の間にのみ存在しうる意識の持ち様である(助け合いということに通ずるものがある、助け合いと甘えとは全く違う)。




 つまり、男性的人間というのは非常に個人主義的であり、女性的人間というのは非常に全体主義的である。これはコーカソイド・ネグロイドの一部とモンゴロイドを見比べて比較すれば容易に理解できるだろう。前者の典型はアメリカ的個人主義であり、後者の典型はこの国のマスコミの社会や40年前のゼンキョートーとその内ゲバの世界である。
 ちなみに、コーカソイドやネグロイド達の先進国を含めてどの国でも社会的低層の教育の行き届いていない人々にはやはり女性的な全体主義的傾向が見られる。

 手元にHillary Rodham Clinton女史の「私たちが子どもの未来のためにできること」という本があるが、彼女のこの著書を読むと、非常に個人主義的かつ広い視野・長期的スパンでの物事の見方というのが理解できる。彼女は非常に建設的かつ肯定的な思考を持った男性的人間であり、まさに賢母そのものであることが理解できる。いい加減日本人は先進国の賢い人々からこのようなものの考え方を学んだ方がよい。

 欧米で生活している人たちを見ればいい。福祉的にも非常に充実しており、個人主義的であると同時に助け合っているのがよく分かる。動物虐待(これも露骨な甘えの一種である。人間どころか飼っているペットにまで甘えている)などは明らかにアジア(東アジア)より少ない。それどころか他者と協力し合って動物愛護の団体活動を行うほどである。

 健全な意識を持ちたいのであれば、他人は他人であるとキチッと割り切ることだ。そこから真の助け合いも他人への思いやりも始まる。甘えは助け合いや思いやりではない。




 また、甘える人間というのは、無視をする、ということができない。理由は単純、甘えているからである。他人の存在そのものに甘えているから他人を無視することができないのである。無視することができないから、叩きや虐待、挙句の果てはレッテル張りといった暴力の形で他人に甘えていくのである。
 そして同時に彼らは無視されるということについても、非常にこれを恐れる。理由は単純、甘えているからである。これに関しては正確に言うならば、甘え合っているから、である。もし仮に彼らが無視された場合、「おれはあいつに甘えて無視しなかったのに、あいつはおれを無視した。あいつはおれに甘えていない、あいつはおれと殺し合って慰め合う甘えの相互関係を築いていない!」と言って、甘えない人間を「あいつはおれを無視した!」と非難し場合によっては攻撃し始めるのである。

 この無視できないということが別の形で現れることもある。「憧れ」である。憧れとは甘えの一種であり、この国で芸能界やマンガ・アニメが盛んなのはそういった理由である。憧れの危険なところは、特に思春期の少年少女に多いのだが、自己投影しだすことである。それは自我の崩壊の微小な始まりであり、それが極端な形になると三島由紀夫のボディビル行為に見られるような突飛な行動として現れるのでかなり危険である。
 基本的に、芸能人や創作作品、極端な例で言うと絵などを見て(三島由紀夫は少年時代Saint Sebastianの絵に心頭していた)、「あ、あの人イイ」とか「このキャラいい」そしてヤバいのは「こいつ自分に似てる」とか思い始めたら危険信号である。黄色が点っている。甘えが始まっている。先の記事でアニメのキャラクターについて語った私にはもちろん甘えがある。健全な精神でいたいのなら芸能人や創作作品のキャラクターに入れ込まないことだ。




 この「甘え」をどうにかしなくては、日本人がこれから世界で生きていくことはできないだろう。精神的に他者に甘えた民族のままでは、日本人を待っているのはまともな未来ではないだろう。「甘え」た人間達は「甘え」ていない人間に対して(「甘え」た人間達の作る)世間の風は厳しいなどとご説教なされるが、国際社会の嵐はその何百倍も厳しいことは明らかである。彼らは自分達より物理的に弱い相手に「甘え」ながら、自分達を取り巻く環境については何も理解していないのである。囲碁の板上を想像してみるがいい。彼ら「甘え」る黒い駒は内と外から「甘え」ない白い駒に挟まれて圧迫されているのである。最初のnot to let you be a paranoiaという記事で「自分自身をよく洞察し自分が精神的に他人に甘えているということをよく自覚し(物理的な甘えはどうでもよい)、それを止めることだ」と書いたが、これを理解しない限り、経済的な意味においても文明・文化的な意味においても日本人というものは衰退の一途を辿り、精神的な他者への甘えを捨てきれない人間達、三流民族として落ちぶれていくだろう。


 海の外にはペコペコ頭を下げ、内では殺し合いと同時に傷の舐め合いを行うという甘えた依存関係を行っているのが日本人という民族である。が、先にも言ったように民衆は知恵を持っておりその全てがバカだのなんだのという話ではない。民衆の一部に女性的な依存心で女々しく甘え合う肛門性格者のパラノイアックな人々がいて、彼ら彼女らはそうではない人々に色々な形で害を及ぼすことが多々あるので問題だ、という話である。別に彼らは"paranoia"というレッテルでenclosureされるべきものではない。私はそんな前時代的で野蛮な愚かなことをここで言っているのではない。
 要するに、未来のことを考えた上で、子供たちを虐待やいじめから守りそしてきちんと教育を与え、"paranoia"と言われ得るような人々には彼ら彼女らを健全な状態に戻すべく手ほどきをする、ということである。それは何らかの形での学びであったり、医療であったり、「甘え」のない健全な対人関係であったりするだろう。




 少なくとも精神的なことに関して言うのならば、弱さは必ず悪につながる。パラノイアというのはその内に必ずと言っていい程悪意を潜めている。しかし精神力などというものは、具体的に計り得るものではなく、少年漫画の戦闘力のように単純に数値化できるものではない。よって非パラノイアックな正常で健全な精神状態とは如何なるものか、を感覚として掴んでおく必要がある。
 

13:23 2010/10/02
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VIRTUAL INSANITY (über Raum und Zeit)
 Virtual Insanity。
 そのまんま。
 ジャズ、というか何処となくフュージョンぽい音づくりで音楽をやるバンド、Jamiroquaiという人たちがいます。確かメンバーは黒人さんです(後で調べたら白人さんも居ました)。彼ら、Jamiroquaiの曲の中にVirtual Insanityという名曲があります。
 この狂気に取り付かれている状態というのは、最も恐ろしい感覚、というか正確に言うと最上の恐怖感を伴う外界に対する対し方、に支配されている状態と言うことができます。だから私はわざわざその内容をこちらに分けたのです。その対し方によって知らしめられる外界、それを私はVirtual Insanityと呼びます。




 virtualという英語を日本語に訳出しようと試みる場合、①実質上の、②虚(像)の、という二通りの日本語を当てはめる方法がどうやら一般的なようです。このとある言語における一つの単語を別の言語における一つの単語に当てはめるという、単細胞が如何にも好みそうな、言語というものが如何なるものであるか全く理解していない愚か者のやり方は本来絶対的に避けるべきなのですが、まあこの場合簡単の為致し方無い、ということで説明を進めていきます。
 Virtual Insanityにおけるvirtualというものは、①②どちらの意味も備えております。極めて簡便に説明致します。まず②です。これは単純です。読んで字の如しです。Virtual Insanityという言葉をそのまま読んで下さい。要するにアチラの世界へ(虚の世界へ)イっちゃった、ということです。
 次に①ですが、こちらは重要です。結論から言うと、このブログ内で何度も名前を出しているImmanuel Kantの言うところの"Dinge an sich(物自体)"というものに近い意味合いです。ちなみに"Dinge an sich"というのは直訳すると、「モノが原因であるそのモノ」「モノにおいてそのモノ」「モノに対してそのモノ」「モノに取っ掛かってそのモノ」という意味であり、つまり「物自体」というわけで、この訳語が日本語においては最も"Dinge an sich"のニュアンスを的確に表しています。これについてカントは、「我々の認識能力から独立に物を想定してみても、そのようなものは我々には認識できない」という意味合いで用いているようです。
 つまり、Virtual Insanityである外界に対する状態というものは、カントが言うところの絶対に不可能であるはずの"Dinge an sich"の認識が可能になってしまった状態、ということです。

 ところで、イマヌエル・カントの言う「ア・プリオリな総合的判断」とは、健常人・所謂普通の人々にはそのようなもの必要ない(これは新しく何らかの具体的知識を得るとかそういった低次元の行いのことではない)わけです。これは、その人の物事の認識の偶然性を前提としたものです。というか普通の人にとってはそれが当たり前な訳です。だから昔のブログの記事ではいちいち「普通の人々は偶然性を前提とした外界に対している」などということは書きませんでした。よって正確に述べるならば、「『ア・プリオリな総合的判断』については、健常人・所謂普通の人々にはそのようなものがそれであると(いちいち)認識する必要はなく」という意味です。つまり正常な人たちにとっては、「ア・プリオリな総合的判断」というものは空気のようなもの、と見なしてもよいわけです。
 ところが、外界がVirtual Insanityとなってしまった、狂気に陥ってしまった人々においては、全てが「ア・プリオリな総合的判断」に「なって」しまう訳です。全てが固定された必然性が支配する世界へ堕とされるということです。その世界こそがDante Alighieriが描いたLa Divina Commedia(神曲)の地獄篇の世界な訳です。しかし、その自己に対する外界全てが「ア・プリオリな総合的判断」である時点ではまだ救いはあります。まだ主体性が確保されている訳ですから。これが最悪の状態にまで進行した状態というのは、自己自身でさえもが「ア・プリオリな総合的判断」になってしまう、という状態です。これは、カントが言うところの「純粋理性のオルガノン」が壊れた状態です。もはや認識もクソもなくなってしまう、全ては、自己自身すら外界からのgivenである、というイカれた状態です。これは一種のプラトニズム、森羅万象が一気に襲い掛かってくる、という状態です。この状態は女性的人間にしか体感することはできません(ちなみに我々は下に書くようにとあるおクスリ飲みゃこれを体感できます)。女性的人間ニーチェはそれに抵抗しました。そしておそらく彼はそれに勝りました。女性的人間ヒットラーもそれに抵抗したでしょう。しかし彼はそれに敗れました。敗れて発狂しました。ニーチェは強く、ヒットラーは弱かったのです。
 これが、先の記事でも書きましたアドルフ・ヒットラーの世界であり、フロイトにおける症例シュレーバーの世界なわけです。つまり、この哲学概念を彼らに照らし合わせて現実的・具体的に説明するのならば、それは彼らにおける「私は神から世界を救う使命を与えられた!(だから絶対悪であるユダヤ人を絶滅させる)」「世界のため神の女になり神と交わるのだ!」という狂気の世界から生まれる発想、であるというわけです。ちなみに、まあ神話というと少々ズレますが、聖書のようなもので語られているお話というのは、その神は、自惚れるな、思い上がるなと言って彼らのような「第一天使」を下界へ突き落とし、彼らはサタンとなって地獄を作り上げた、みたいなもの(こと)なんではないでしょうか。実際にヒットラーが行った行為はサタンのそれそのものであり、"Germania"を夢見ながらも、das Drittes Reich(the Ⅲrd Empire)という地獄を作り上げ(ようと試みて失敗し)、自らも自分の内に作り上げた地獄の奥底で破滅的な辛苦を味わいながらのたうちまわっていたのではないでしょうか。三島由紀夫はその作品「わが友ヒットラー」の中で、「ヒットラーはもはや必然の機械に絡め取られた」というようなセリフを確かErnst Röhmに吐かせています。
 ちなみに、再度言いますが、第三帝国というのは、ヒットラーが夢見たHeiliges Romisches Reich Deutscher Nation(Holy Roman Empire of the German Nation、神聖ローマ帝国)を祖とするゲルマン民族による統治形骸のことではなく、「ナチスの支配体制」のことですからお間違えの無き様。それが地獄だ、ということです。

 このあたりのことについて知りたい方は、"Immanuel Kant : Kritik der reinen Vernunft(純粋理性批判)"あたりをお読み下さい。


 ちなみに、このカント氏という人はあまり難しいこと言いません。私は先にも言いましたように哲学科の出でもなければ文学部の出でもないので、哲学者の著作を多量に読んだというわけではないのですが、この人の著作は普通に読んでいけば普通にスラスラと読めます。何を言っているのか普通に理解できます(ちなみに、中島義道さんが言っているようなことは、長く哲学研究を行ってきた者としての権威を振り回したいだけのことなので騙されないで下さい。彼ら哲学研究者がその研究当該の哲学者の哲学をそのまま理解している保障など何処にも無い訳ですから。というか、例えばカント氏ならばカントの哲学を完全に理解しているのはカント本人以外に存在しませんから)。ところが先のヘーゲル氏の著作はかなり難解です。まあ全体として何を言わんとしているのかは理解できないことはないですが、その部分部分では何を言っているのか理解し難い箇所が結構多いです。Friedrich Nietzscheの著作はヘーゲル氏よりは易しいですが、カント氏の著作よりは難解な気(け)があります。先に挙げた「ツァラトゥストラはかく語りき」あたりをお読みになると入り易いのではないかと思われます。Martin Heideggerの「存在と時間」は、難解云々よりも、ギリシアに始まり彼の代までのヨーロッパの哲学を存在を忘却した哲学と非難し、存在者とは区別された存在そのものを求めるという、その内容がまさに(カントの定義をそのままハイデッガーの理屈に当て嵌めるのは好ましくありませんが)"Dinge an sich"的なものでした。
 ちなみにこのマルティン・ハイデッガーは非常にナチスに親和的な人間でした。その人物を知らなくとも、その思想からもはやナチス賛美が窺えます。このハイデッガーの哲学を、別にそのまま取り入れた訳ではないでしょうが、狂気に敗れて具現化してしまったのが憐れなアドルフ・ヒットラーということが言えてしまうかと思われます。

 ニーチェはその思想内容から言って女性的人間でありパラノイアックな人間であったでしょうが、先にも述べましたように、ヒットラーの様にイカれ・発狂はしませんでした。
 ニーチェの言を引用してみましょう。

「真理とはそれがなければある種の生物が生きられないような誤謬のことである。生きることにとっての価値が最終的な決定を下す。」(Friedrich Nietzsche, Der Wille zur Macht. Alfred Kroner Verlag Stuttgart. 1980)

 これは前半は、先にも挙げ以下にも挙げるカントの言とおおむね対を為すものです。ニーチェは"Dinge an sich"を前提としており、それでないものを「誤謬」と呼んでいます。逆にカントは"Dinge an sich"に到達する自己の主体を前提としています。が、後半でニーチェもやはりそれ(真理)は人間という生き物が自己を保ったまま、病気になったり発狂したりすることなく存在していく為には必要なものであると、消極的態度ではありながらも認めています。ここがおそらく同じ女性的人間でありながらニーチェとヒットラーの違うところでしょう。前者は自己を保って人間で在りつづけ、後者は発狂して悪魔になったということです。
 そしてそれはder Wille zur Macht(力への意志)というニーチェの思想体系の一つにもよく表れています。
 以下。

――そしてまた、「力への意志」を、その言葉が記号として表す意味のみをしか認識できないとでも言おうか、上述の表層だけの言葉遊びが大好きな連中に必至までにもと言える傾向であるが、ニーチェの言うところの「力への意志は力の必然である」という1フレーズに表される彼の思想を(詳しい解説は以下)、自慰的自己流に解釈し単なる力(権力等)への意志と取る愚かなある意味幸せな脳を持つ連中の存在もあるのである。「力への意志」とは「意志が意志せざるをへないようなところの意志」である。理神論的ですらある。にもかかわらずまだこの力の一語にしがみ付きたい輩がいる。「力への意志は力の必然で」あり、何物かが「名を与えうる手段」にはまかり間違ってもならず、そもそも「生成」は何物でも無い(「生成」は生成を表す表現であり、生成に「生成」という名が与えられているのではない)。ナチスなどはその言葉記号遊びを意図的に行ってニーチェの思想を利用していたようである。
 力への意志によって存在へと成されたものには、力への意志が言わば宿っているのであり、「力を意志せざるを得ないような力の本質」から逃れるものはない。その意味で、如何なる認識主体にからもそれ以外のものつまりその外にある世界は「勝手にそうな(ってい)る」「あるべくしてある」のであり、それが無限な離散時間的に存在し続けるのである。このように、ニーチェの言う「力への意志」とはある種理神論的見地に立つものかとも思わせる。――

 ちなみにこれは私が昔、学生時代に書いた文章をどっかから引っぱってきたものです。概略として。何かの本の一部を要約したものだったかもしれません。しっかり知りたいという人はニーチェの著作を読んで下さい。

 「力への意志は力の必然である」ということ、そして「意志が意志せざるを得ないようなところの意志」というものは、カントの言うところの「我々の認識能力から独立に物(生成、もしくは力を意志しない力(が存在すると仮定して))を想定してみても、そのようなものは我々には認識できない」ということとだいたい同義であると考えられます。
 つまり、「神は死んだ」と神を否定した女性的人間ニーチェも、「最高(普遍)善」によって神を肯定した男性的人間カントも、"Dinge an sich"に人間が到達することは不可能であるという点、その見解では一致していたというわけです。よって、カントは当然としてニーチェも主体性(自我、自己自身)を最後の点では失うことはなく、主体性を完全に失って自己自身ですらも外界からのgivenとなってしまったヒットラーは発狂しました。



 つまり、Virtual Insanityである外界に対する自己を持つ人々というのは、全てが必然に支配された世界で、その世界の必然性として全てのものの"Dinge an sich"を見、そして全てのものを"das Ding an sich"として見ているわけです。
 そして、とあるもの、そのものを"ein Ding an sich"として見るということは、それが意味する(内包する)「象徴的意味」にそれに対する対し方を支配されるということです。全てが記号、引いては象徴として捉えられざるを得ないということです。象徴というのはVirtual Insanityを構成する要素要素な訳です。
 カントの言を引用してみましょう。
「(前略)それだから我々はこう言い得るだけであろう、通常の知覚は、或るものがこれこれであるということを教えはするが、これこれでなければならないということを教えるものではない、と。」
 上で言った、「全てが記号、引いては象徴として捉えられざるを得ない」というのはつまり「或るものがこれこれでなければならない」という事です。象徴は当然として、記号ですら何かを表すそれとは別の何かな訳ですから。
 もう一つ。
「もし我々が自分自身を内的に直観し、またかかる直観を介して一切の外的現象をも我々の表象力のうちに包括するという我々の直観の仕方を度外視し、従ってまた対象をそれ自体あるがままのものと解するならば、時間はまったく無である。時間は、現象に関してのみ客観的妥当性をもつ、すでに現象というからには、それは我々が我々の感官の対象と見なすような物だからである。これに反してもし我々が、我々の直観を可能ならしめるところの感性を無視し、従ってまた我々に特有な表象方法を度外視して、物一般(物自体)を云々するとなると、時間はもはや客観的ではなくなる。それだから時間は、我々(人間)の直観(この直観は常に感性的である、それは――我々が対象から触発される限りにおいて、と言うことである)の主観的条件にほかならない、そしてこの主観を度外視すれば、時間はそれ自体無である。」
 これは正確に言うと「度外視し」ているわけではなくて、「視認(認識)できなくなっている状態に陥っている」という表現が正確です。だから全てがそのそれぞれの象徴となってしまうわけで、それは同時に必然に支配された世界に陥るということであり、だから外界がVirtual Insanityとなってしまった人間はüber Raum und Zeitな訳です。RaumもZeitも意味を持ちません、というかそのどちらも無くなってしまう訳です。
 理解を深める為にさらにもう一つ。
「諸君は、『二本の直線によって空間を囲むことはできない、従ってこれだけの直線で一個の図形を作ることは不可能である』、という命題を取りあげて、試みにこの命題を直線という概念および二という数の概念から引き出してみ給え。或は『三本の直線を用いて一個の図形を作ることは可能である』、という命題でもよい、前と同じくこの命題を直線という概念および三という数の概念から導来してみ給え。諸君の努力はすべて失敗に帰し、結局は幾何学が常に行っているように、直観を援用せざるを得なくなるだろう。」
 この場合で述べるならば、外界がVirtual Insanityとなってしまった人間というのは、「直線という概念」や「二という数の概念」や「三という数の概念」を象徴として認知し、この命題においてそれらからその命題を導来できて(ると思い込んで)しまうということです。もちろんこれは普通の人にはできません、というかできようが無いわけです。今の私にもできません。「直線」にも概念(concept, begriff)は在りませんし、「二」とか「三」とかいう数字にも概念は在りません、つまりカントがここでどういった意図でこのような表現を用いたのかは分かりませんが「直線という概念」というものも存在しませんし「二(三)という数の概念」も存在しません。数字というものが表意文字ではなく表音文字であることからもそれは理解できるでしょう(起源を辿りゃ何らかの意味は存在するかもしれませんが。しかしそれは何らかの具体的意味であってここで言っている象徴とは違います。ちなみに二とか三とかいう漢字は表意文字です)。ところが彼ら彼女らはそれらに象徴を認知してしまうわけですから、彼ら彼女らの中には「人間(の性格(笑))をtypeA、typeB、typeC、typeD ......typeIに分類できる!」とかのたまうたわけ者、というか気の狂ったペテン教祖みたいのが出てくる、というわけです。

 私は先のhuman intelligenceという記事で「知的直観(intellectual intuition)」という言葉を用い、「知的直観力や思考能力の無い人間は駄目だ」と言いましたが、まあ思考能力云々は置いておいて、ダメどころか直観の無いもしくは直観を無くしてしまった(女性的)人間(の極み)というのは気が狂っているわけです。



 ちなみに私はこの記事の中で、「認識(Erkenntnisse)」という言葉と、「認知(Anerkennung)」という言葉を、的確に使い分けています。外界がVirtual Insanityとなるということは、言うなれば、「認知」は可能だが「認識」は不可能になる、ということです。英語で言うと、acknowledgeは可能だがunderstandは不可能である状態とでもいったところでしょうか。recognizeというとこの中間といった感じなのであまりどちらにも適切でないです。ドイツ語におそらくこの中間色な言葉というのは存在しません。たぶん英独辞典を引けばrecognizeの対応語はカタチとしては載っているでしょうが、その言葉も「中間色な」意味合いを表すものではおそらくないでしょう。erblicken、bemerken、 wahrnehmenといった言葉もありますが、どれもrecognize的なニュアンスを表す言葉ではありません。まあともかく、このらへんがモノを考えるにおいてドイツ語の便利なところです。
 あと、ドイツ文学者という人達が居ますが、この人たちはちょっと失礼ですがあんまり当てになりません。哲学科、哲学研究者の人達も間違いなくドイツ語をやっているでしょうが、この人達に関してはまたちょっと別口です。で、ドイツ語を専門とする言語学者(というかドイツ人)、ドイツ「語」学者のような人たちがたぶんいらっしゃると思いますが、勉強するならこういった人たちのところへ行くなり彼らの書いた本を読むなりした方が良いでしょう。



 この象徴云々ということについて、多くの哲学研究者や哲学者研究者は根拠皆無と言って否定するでしょう。先に挙げたカント研究者中島義道氏(この人は哲学研究者ではなく哲学者ですが)もおそらく否定的見解を示すでしょう。が、先にも述べましたように、これを実感する方法が私の知る限りでは一つ存在します。統合失調症(精神分裂病)用の抗精神病薬の一定長期間に渡る服薬です。もはや、過去数百年に渡って哲学者たちが探求し続けてきたもの、もっと遡れば古代ギリシア、さらに求めるならばメソポタミアその他、もしくは有史以前、そこで過去の賢人達が懸命になって求めていたものは、現代に至っては科学の力で全く簡単に得ることが可能となってしまいました。とあるおクスリを一発キメりゃ(笑)いいわけです。別にこれは違法ではないからご安心下さい。私は丁度3年前これを体験しました。その時は確か商品名エビリファイを大量に服薬していました。しかしどちらかと言うと商品名リスパダールの方がおススメです、もしその地獄を味わいたいという奇特な方がいらっしゃるのであれば。



――それは全てが必然に支配されている世界であり、それぞれのものものがそれぞれであるが故にそれぞれであると意識されるような世界、つまり全てが"Dinge an sich"な世界なわけです。よって全てはいやがおうにも象徴と為らざるを得ないわけです。この世界に生きるということはただひたすらな恐怖です。精神の弱い人間は発狂します。
 手塚治虫はその漫画作品「火の鳥」のどこかの巻で、全ての事象が固定されているという惑星を、罪人を送るための流刑星として描いていましたが、あれは非常に的確な表現です。

 これは男性的脳機能、その主なものとしてはイメージング機能、それ(ら)が全て殺された状態であり、女性的脳機能に認識形態全てを支配され、最極度にパラノイアックになった脳機能がもたらす状態です。要するに、それは認識によって対象を識る(しる、kennenに近い)ということがなくなってしまった状態、と言うこともできるでしょう。かといって、それは「全てを知る(wissenに近い)者」になったということかというと、断じてそうではありません。人間にそんなことは絶対に不可能です。「全て(Dinge, es)が必然的にそう(sich)であるように思い込まされた者」になってしまったに過ぎません。要するに「自分に分からないことは無いと勘違いしている者」、独裁者やカルト宗教のペテン教祖の様になってしまうということです。

 ヒットラーはおそらくユダヤ人を悪の権化の「象徴」として見ていました。彼にとってユダヤ人は「絶対的な」悪だったのであり、ユダヤ人は悪の「記号としてgiven」でした。彼にとってユダヤ人を絶滅させるという行為は、それ自体で成立して(Dinge an sich)しまい、何の理由も必要無かったのです。



 どうやら人類は、その科学力によって神をつくることは不可能であっても悪魔をつくることは可能とした(してしまった)のかもしれません。……薬物は恐ろしいものです、違法・合法にかかわらず。


9:54 2010/11/10
medical scientific view
 医学的定義と誤情報の避け方。


 自閉症という病気があります。一つの医学的定義です。医学においては、自閉症圏の病気の一群に分類される病気、自閉症スペクトラムの病気というものが存在するそうです。発達障害という病名で表されるものがありますが、これについては、マスコミや一部の出版業界やそれに類する連中が大嘘垂れ流しながら騒いでいるだけで、これは医学的には単なる軽い自閉症みたいなもの、だそうです。アスペルガー症候群といったものもこの自閉症圏の病気だそうです。これは日本で最大規模を誇る最新鋭の脳神経関連・精神関連の病気を扱う病院の医師から直接伺いました。要するに私はペーパーメディアのカネ取って嘘情報売る詐欺師共とは違って、彼らの本業をタダで請け負って彼らの義務である「調べて書く」ということを行っているわけです、少なくともこのことに関しては。自分について詳しいことを知りたければ信用できる医師の診断を受けて下さい。
 ちなみに統合失調症(精神分裂病)という病気は自閉症圏とは全く別ベクトルの属性の違う病気だそうです。基本的に自閉症児、自閉症の人というのは知的障害を伴っていることが多く、例えば先に挙げた、みすず書房刊/Marguerite Sechehaye著/「分裂病の少女の手記」という書物における少女が書いた手記の部分のようなものを書く程の知的能力を持っていることは無いと言って間違い無さそうです。少なくとも私がこのブログにupしているような文章は自閉症の人たちには書くことはできません。

 自分で書いておいてこんなこと言うのもなんなんですが、このブログの記事の内容とて頭から信じ込んでしまう人というのは危険なわけです。こういったものは参考にするというか情報の一つとして得て、その内容については自分で考えるなり調べるなりして自分で判断して下さい。


10:36 2010/11/12
the world
 対。
 たい。つい。
 
 


 なんか夢という言葉が濫用というか誤用されてるようなので、まずこれから。

 普通「夢」というと、叶えたい願望や理想やそれに向かって邁進すべき目的のことを言います。
 で、Martin Luther King Jr.、キング牧師が言うところの"I have a dream."のdreamは日本語で言うと「理想」みたいな意味です。まあこれ普通です。ところが、最近チラチラ目に(耳に)付くんですけど、同じ「夢」という言葉でも、要するにあの一昔前たくさんいたまあ洗脳か何か分かりませんが麻薬中毒でアタマが狂っちゃったロック・ポップミュージシャン達が言う「夢」というのは彼ら彼女らが見るところの幻覚における幻覚、つまりは現実の世界のことですから言葉を字面どおりにまともに受けないで下さい。あの連中は現実と幻覚が逆転してしまってます。幻覚で同じものを見(たつもりになっ)てそれが現実だと言ってそれを布教しようとしてるまあ一種のたわけた新興宗教の信徒みたいなもんですから騙されないで下さい。中には薬物(麻薬)でラリったアタマで見た"Dinge an sich"な幻覚を絶対普遍の事実だと思い込んでさらにはそれをあろうことか「真実」だとかヌカして単調極まりない陳腐な曲調とメロディーにのせてギャーギャーわめくちょっとかわいそうなロックミュージシャンとかいますね。ちなみにこれはラリったというよりは、ラリった後のoverdoseによりもたらされたものというのが正確そうです。

 あと、いわゆる「物語」とやらを創る連中でもそういったのがいるみたいです。現実世界を「ストーリー」とか言うちょっと頭おかしい人たちもいます。まあ上で書いたロックだのポップスだののミュージシャンとかでもそうですけど簡単に言うと物語の世界と現実の世界との区別がつかない、というのならまだしも悪化を極めてそれが逆転してしまっているような連中です。要するにいわゆる「マンガの読みすぎ」の病的な場合みたいなもんです。これの亜種として「マンガに出てくる悪者のマネをする・したがるバカ」というのがいます、これは子供の場合でも学力の低い子供、チンピラ予備軍みたいなのに多いです。で、これは漫画家に多い感があります、小説家でも村上春樹さんみたいな人がいます。「世界はメタファーだ」とかいういかにもアッチの世界へイッちゃった感というかアッチな感じなセリフを登場人物に吐かせているくらいですから。ちなみにあれは実存主義文学の先駆者であるFranz Kafkaを思いっきり皮肉ってる感がありますけど、まあ今はそんなことはどうでもいいです。しかしこれはマンガ程にはタチが悪くないです。ラノベはあんま読んだことないですけど、マンガはもうほとんどのものが「メタファーな世界が前提」になっちゃってますから村上さんの小説よりぜんぜんタチ悪いです。庵野秀明さんが十何年か前にたしか「オタクがこんなにバカだと思わなかった」とかやたらオタクを攻撃してましたけど、あれはちょっと失礼ですけどバカなのは十何年か前の庵野さんの方です。エヴァンゲリオンのテレビアニメや映画見て感動するのはいいです、十代半ばの私もそうでした。しかし「エヴァを見てアサハラ教祖バリのどっかのイタいロックミュージシャンみたいに世界の真理とかそこに見ちゃう」アレな人間よりも、「綾波萌え~」とか「アスカ萌え~」とか言って見てたただのオタクの人たちの方が余程まともで健全です。音楽でも漫画・アニメでもゲームのストーリーでも小説でも映画でも、ああいった創作表現に心頭しきってしまう、ハマりきってしまう人というのはヤバいわけです。
 真実(truth)というのはそれぞれの人が持ってます。まあその人をその人たらしめる主観感覚みたいなもんです。事物の認識形態は人それぞれ違うということです。事実(a fact)というのは一つしかないです。私は私以外の人間になったことが無いので断定はできませんが、事物の認知形態は万人に共通である可能性が高いということです(正解は脳科学の研究者の人にお任せしましょう)。ちなみに仏教においては「真実」というのはイコール「絶対の真理」のことらしいです。つまり「真実」という言葉は仏教では一般的な意味で言うところの事実の集合の意味で使われているということです。絶対の真理なんてものは現象つまり個々の事実の集合そのもの以外に在りませんから。汎神的というか汎世界的というか「汎」的な概念といったところです。まあちょっと短絡的な発想かとは思いますけど涅槃の観念(概念?)とつながるものがあるんでしょう。で、共時的な感覚に基づいて「これがセフィロスだ!」みたいに「アサハラ教祖バリのどっかのイタいロックミュージシャンみたいに世界の真理とかそこに作っちゃう」意図をそのまま飲み込んじゃう的な人はもうヒットラー的な末路が待っているということです。私が機会主義は危険だと言っている要因の一つにこのようなものもあります。そして、仮に仏教的な理・信念の基、真実イコール絶対の(世界の)真理とみなし、自分の真実が世界のそれだと表明・主張する、つまり「オレが世界だ」みたいなDIO様みたいなノリで創作作品を作るというのならそれはそれでアリだと思います。が、その場合それはその人も含めて宗教になってしまうわけです。新興宗教の教祖になるのは嫌だがしかし創作作品を、という人は坂口安吾が言う様に(たしか)「地球にスッポリと表紙を被せるしかない」ということです。そしてそんなことはいつか将来にでもスーパーコンピュータがとある瞬間に地球上(全宇宙)に起こった全ての事象を演算して導き出すなりsearch(search forではない。ここポイント。我々日本人の感覚で言うところの「探す」における対象が目的語にならない。しかしこのsearchは他動詞。つまりこの動詞の目的語になるのは?という意味)するなりしてその結果を何らかの形の言語を用いて記録する、ということが可能にでもならない限り絶対に無理です。



 それでまあ別にこの創作表現の類をペラペラ漫画雑誌めくって「両さんの日常のなかでの破天荒さが漫画として読んでておもしろい」だとか「ベジータのビッグバンアタックが(名前からして)ネタっぽくてイイ」だとか「DIO様つおい」だとかアハハ程度に楽しめる大人な人は何も問題ないです。で、またここで統合失調症用の抗精神病薬なんですけど、私はこれを一定長期間飲んで知った(識った)んですけど、本っ当にこういうものを真に受けちゃう人ってのがいるんですね。富野由悠季さんとか真に受けて真に作った人な感じですね(ちなみに私はガンダムのアニメもゲームも大好きです)。やたらとサブカルチャーを有害だとか叩く人間もいますけど、この連中も同類です。真に受けちゃうから→(これは有害だと)叩く、か、真に受けちゃうから→(コレだ!とか思って)作る、かの違いです。ちなみに現代でおカタい文学とみなされているものだって100年前は人心をまどわせる俗悪なものとみなされていました。要するに「マンガの読みすぎ」ならぬ「小説の読みすぎ」みたいなものがあったということです。漱石だけは100年前当時においては最初の人と見做されていたかなんか知んないですけど例外としていた人もいたみたいですけど。あんなもん、っつっちゃ作ってる人に失礼ですけど、適当に自己流にでもなんでも気楽に楽しんどきゃいいわけです。だから「アニメは子供が見るもの」と言ってそういう作品を作ってらっしゃる宮崎駿さんはまともであり、宮崎駿さんのアニメは「『子供むけのアニメを大人が見る』というスタンス」で大人でさえも子供といっしょに、形としては親子なんかでも楽しめるものであり、非常に健全なものだと私は思います。


4:51 2010/12/24
show biz(arre) taste
 わりとどうでもいい話。




 その1。
 ストーカーの話。昨日外歩いてたら現れました。けっこう小奇麗なジャケットとか着た、「マスコミ語における草食」みたいな二十歳前後の小男。前方から「わっせ、わっせ」という露骨なセリフで意識してくださいお願いしますを全身で表しながらその格好でjogって来ました。もう一匹同類。チャリで私の前方3、4メートルに達するや否やいきなり歌い始めました。これも淵の太い横長なメガネをかけたネットで他人叩くのが好きそうな的な。オタクの人とはちょっと違います。で、先に書いたちょっと本当におかしい感じの「歌ったり叫んだりしてる人」っていうのはもうはるか先を歩いている時点、要するにその人が現れた時点からもうああもうアイツ歌っちゃってるわってのが分かります。
 あとこういった連中の形容に、歌手として優れた能力を持っておられる河村隆一さんを引き合いに出すのはご本人に大変失礼であんま言いたくないんですけど、最近は別種として見た目が河村隆一が劣化した的な若干チンピラ風なのが出現することがあります。で、これは全く同じ髪型と全く同じ表情と全く同じ行動で意識してくださいお願いしますをやってきます。

 で、まあこういったのが一人や二人や三人くらいだったら普通の人、というか私も何も思いませんけど、これが十人二十人単位でドラクエのモンスターみたく出没するわけです。で、大方の精神科医は最初それが統合失調症の症状だといって「始め」ます。
 私は男だからいいですけど、っつーかウザいで済みますけど、これは女性がやられたらそうとうに恐怖感感じるでしょうね。私もキモいとか言われて女性に対して嫌悪感を感じたこと多々ありますけど、女性のそういったキモがりな言動や行動ってのは今はちょっと分かる気しますね。男というか少なくとも私が他人に向かってキモいとかキメェとか言う時は多分に悪意がこもってますが、女性が言うキモいというのはこれはたぶん本当に本心から気持ちが悪いと思って言ってるんでしょうね。たぶん女性は男には想像つかないくらいキモい思いしてます。霊長目ヒト科の哺乳類のメスとしてはやはり同じヒト科のオスに対して、潜在的な生命を脅かされうるという恐怖感を持ってるんでしょうね。女性は妊娠した瞬間から身体的な物理的な生存活動におけるリスクを背負うことになりますから。私は先にも書いたように童貞なんですが、もうこれで結婚も絶対にしませんから絶対的に自分がこの先童貞でいるという確信が生まれました。私は長身でガタイもいい(よくはないがよく見える)んで、子供はちっこいのがチョロチョロしてるだけなんでどうでもいいっつーか子供もどうでもいいと思ってるでしょうけど、まあ多分女性は私みたいなのを見ると恐怖感や嫌悪感を感じるでしょうね、よってキモい、みたいな。大方の仏門が女人禁制だったのは修行僧の人たちのためだけでなく、女性のためでもあったでしょうね。実際身近に若い女性が居ない環境というのは(少なくとも私の場合は)性欲はほとんど湧きませんから。極端な話をしてしまうならば、異性に対する性欲が目覚め始める中学あたりから男女をばっさり別校舎でも別学校でもなんでも分けちゃった方が生徒の学習の効率も教員の指導の成果も上がるんじゃないかと思うんですけどね。
 ちなみに男でやたらと他人をキモがる奴、やたらガタイのいい運動抜群な奴でもキメぇを連発する奴とかいますけど、こういうのはオカマ野郎です。同性愛者とか以前にオカマ野郎です。っつーかガキというか幼児的な精神の持ち主です。念のために言っときますけど私はヘテロセクシャルです。逆に華奢でナヨナヨな感じでも、小室哲哉さんや浅倉大介さんみたいに大抵ぜんぜんOK問題ないみたいな全くキモがらなそう、というか大人な感じな人もいますね。

 そしてこういった連中ってのは高い確率で基本バイト君です。多分カネもらってやってます。だから彼ら個人個人を悪く思うのは理に適ってない、というかお門違いです。
 彼ら彼女らのやり口というのは、「『さりげなく見せ付けているということ』自体を見せ付けるということによる印象付け」の操作です。要するにサブリミナルエフェクトひたすらターゲットにカマすわけです。ストーカーだと相手に認知してもらえないストーカー行為というものは攻撃効果がありませんから、まずは「自分らがストーカー行為を行っているということを相手に意識させる為のストーカー行為」を行ってくるわけです。そうして下地を作ってからストーカー行為に内容を持たせて洗脳のようなものを始めます。そしてこれはナチスのやり方です。多分歴史学者心理学者その他が証明してます。70年くらい前にドイツという国で実際に社会全体で総出を挙げて行われていたことです。相手に通じないと分かっても何万回も何百万回でもまるでヒットラーにおける思い込みというものに象徴されるように愚直にやり続けるわけです。ロック音楽なんかとも通じるものがあるかもしれません。だから私は思春期の頃にロック音楽にある程度ハマってしまったことを今後悔しています。まあつまり、こういう連中というかマスコミ屋とかが一番恐れるのは無視、シカトされることです。新聞記事を取り上げてネット上で批判というか非難にすらなってない内容スカスカの叩きを行う連中のブログを昨日だか見ましたけど、こういうのは非常に高い確率で新聞屋の回し者です。ちなみにマスコミの中にも健全な人たちはいますから、先にも言ったようにそういった人たちには頑張って欲しいと勝手に思っております。

 このあたりのこと、つまり洗脳云々については後日書くかもしれないです。


 その2。
 化粧ギャル。あのー、中島義道さんの本に「電車内で化粧をする女を見ると止めろと怒鳴りつけ、反撃になんか物理的にやらかしてきた女に足蹴りを食らわそうとして短足で空振った」とか書いてあったの読んだ覚えありますけど、あれは別に彼女らの勝手じゃないですかね?年配の女性でもやっぱり不快に思う人がいるみたいですけど、私にはその不快感というのはあんまよく分かりません。「お、」くらいのことは思いますけど、別に他人に危害加えてるわけじゃないし、どちらかっつうと満員電車で新聞おおっぴらに広げて読んでる無神経な人の方が迷惑なんですけど。別に茶髪や金髪のおねーさんが電車ん中で化粧してたって本人たちが良けりゃいいっしょ、って話だと思うんですけど。あれを見てイラつくってのはかなりパラノイアックなんで、少なくとも私は電車の中で化粧ギャルを見てムカついてる奴を見るとムカつきます。
 ちなみに海外でやるのは絶対に止めたほうがいいと思います。つーか止めてください。さすがに私も一度見て見るに耐えなかったんで。


 その3。
 脱毛。男でやる奴とか。アホか。
 そういうことはジャニーズの人たちや木村拓哉さんや福山雅治さんやオダギリジョーさんや竹之内豊さんみたいな美形や超男前な人たちがやるから効果があるわけですね?浅野忠信さんとかはもう男前すぎて髭が似合っちゃってますね。アタマん中が嫉みに狂ったような劣等感のカタマリみてーなのが脱毛すると余計劣等感のカタマリだっつーの。女じゃあるめーし普通に剃っとけ、というお話。

 整形?論外。整形といい脱毛といいそういうイタいことやんのは日本人と韓国人だけ。さすがに中国の人はこの辺賢い感じしますね。まあ医学的によっぽと見た目に問題のある人は適切な美容整形手術を受けるのもまた手かなとは思いますけど。

 関係ないですけど私は日本の男性全員が丸坊主にするんだったら即刻丸坊主にします。別にスキンヘッド的イデオロギー云々は関係ないです。我々の年代に多いあの「中途半端に短髪な若干トガらせてみた髪型」とかよりはるかに見る側としては気分いいですね。我々よりいくらか上の年代の人の七三分けとかは別になんのこともない普通の髪型だと思いますけど。

 ちなみにあのジャニーズの人たちは同性から見ても気分良くなりますね。何が普通のアイドルと違うかっていうとあの人たちは卑屈さがほとんど感じられないからですね。いくら美形でもロックバンドのボーカルなんかによくいる人みたいに卑屈さがうかがえると多分大方の人は見てて気分悪くなりますから。女性だと松下奈緒さんとかは卑屈さは限りなくゼロに近い感じですね。ちなみにああいった超雰囲気が良くて超スタイルが良くて超顔が美しくてしかも特別な能力をお持ちのという才媛の代名詞みたいな人は100万人に一人くらいしかいないんじゃないですかね。
 スポーツ選手だと大リーガーの松井秀喜選手は超感じがいいですね。あのひとはゴジラって呼ばれてましたけど、あんな感じのいい顔した人そうそういないと思うんですけど。私は今でも小学生の時に見たあの甲子園での星陵高校時代の松井選手が敬遠されまくったテレビの中継シーンよく覚えてます。


 その4。
 チンピラの人。某有名な雑貨店みたいなところ久々に行ったんですけど、何と言うかちょっと昔臭のするチンピラの人って見ててそんなに感じ悪くないんですね。何故か。そういうチンピラの人っていうのは「チンピラ」な感じがしないんですね。いわゆる昔いたヤンキー少年少女のことではないです。チンピラというよりは遊び人な感じの人たちです。私は遊び人属性はほぼゼロなのでそういう人みると自分と違うもの見つけて気分良くなるのかなとか思いますけどまあどうだかとは。ちなみにオタクの人、私もまあオタクの人なんですが、彼らは別に見てもなんとも思わないですね。




 やっぱり他人をウザがったりキモがったりする人間っていうのは、そうでない人間から見てウザかったりキモかったりします。まあキモいは人によって個人差ありますけど、ウザさにかんしてはそういう人間は間違いなくウザいです。


 それで、まあこのブログもちょっと見返してみるに内容が書き始めの頃とかはゲテもの風味なわけで、キモかったりイライラしたらbrowserの右上の×ボタンをポチッとな。というお話で。インターネットなんてそんなもんかと思います。無理して苦痛を味わって不快な思いしても何もメリットはないです。
 ちなみにネットでの人間関係なんてものは人間関係と呼び得ませんから。現実世界で会って話してそこではじめて人間関係が成立して「こんにちは」、ネットの時点でウザけりゃさっさと関係切ってバイバイ、人間関係は成立してません。ネットというのは何処の誰だか視聴者側からは分からない人間が情報を発信している、発信できるツールです。とある一個人が不特定多数を装うこともできます。逆も有り得ます。不特定多数が架空の一個人を装うことも可能なわけです。ギャグ臭のする御大層な老婆の筆名前でそれとは明言せずにソクラテスが揶揄られたように「雲」みたいな(笑)、で覆い隠しながら宗教活動やってカネ騙し取るだけならまだしもどんどんそれへと引き摺り込んでいくというような類の超悪質な人物が単一人物である保障も何処にも無いわけです。
sAin't
 心というものを無くした現代版聖人(robots)の存在の有無について。




 動画サイトに載っている日本人しか出演していない映像に英語だけでコメントしてあるものとかありますけど、あんなものほぼ確実に日本人が書いてます。もう日本人の書いた英語というのはいくら頑張ってもなんとなく分かります。いくらスラングを多用してごまかそうとしても無駄です。そういったうわべの知識で騙し騙しやって本質的なところを見ないというか本質的に問題を解決しようとしないところがそもそもからして思いっ切り日本人っぽくてよく分かるので大いに逆効果です。あとは外人さんにお金払って昔あった出会い系のサクラのバイトみたく書いてもらうしかないわけです。英語圏の人たちはメリットや何らかの特殊な好奇心なしにそこまで日本に興味持ってくれないです。ちなみに日本に留学しに来てくれたり日本へ来て好意的な目で寺社仏閣を堪能してくれる外国人の人たちは極めて健全な意味で(文化的な意味で)親日な外国人の人たちです。
 英語圏の人たちはそういった日本人的なバカバカしさや愚かさを持っていないので、そもそもからして日本人に自分たちと同じレベルでの英語運用能力など求めていません。彼らが求めているのは、日本人個々人としての意見や考えもしくは日本人としての意見や感じ方の表明であって、彼らと同じ水準での表現能力やスラングを絡めた抑揚のある会話スキルではありません。アメリカの人もイギリスの人も、その他の欧米の人たちはコミュニケーションの手段としての仕方なくこちらが(主に)英語を使わざるを得ないというハンディキャップを背負っているということをたいていはちゃんと理解してくれています。仮に稚拙な言い回しであっても、こちらが何を言わんとしているかということを相手がバカや無教育な個人でない限りはきちんと理解しようと努めてくれます。昔のブログのhuman intelligenceという記事でも書いた様に、自分たちとは別の環境に生きる人間としてどのような考えや意見を持っているかということやどのようなものの感じ方や認識の仕方をするのかということを彼らは当然の如く問題にしているのであって、彼らと同じ水準の英語運用能力を提示されてそして肝心の言っていることの中身が低レベルであったりスカスカやちゃらんぽらんということであっては、ただバカにされて相手にされずに終わるだけです(まるで現代日本の新聞記事のほとんどや書評の様です、ネットについては言うにあたわず)。この言葉は使いたくないんですが、おそらくはそういった無自覚な売国奴を増やすだけなので、私は小学校での英語教育には少々疑念を抱きます。おそらくは小学生の頭のmemoryの無駄遣いです。事態を改善したいのならば、中学校から行われる英語科目の具体的な教育内容を抜本的に変革しない限りほぼ確実に無理です。そうでもない限り、自分だけよければいい、じぶんわえいごおしゃべれる、外国語運用能力をアクセサリーと勘違いした自分だけ外国人と話して楽しくてわーいという低質な人間の量産に拍車をかけるだけです。ちなみに私は予備校時代にこれの典型の様な30後半の中年の男性が薄化粧と茶髪とピチピチタイツみたいなソレ系の格好でという自意識過剰でナルシスティックな無能な英語講師を一人見ました。こういう人というのは自分の外国語の語彙の知識や知識としての表現方法をひけらかすだけで、ぜんぜん子供たちに外国語(英語)を「教えて」いないんですね。外国語というのは、その国の人以外の人間にとってはその当該の国の人々とコミュニケーションを図るためのツールです。その意味では外国語はスキルなわけです。先の記事で能力と言ったのは、それを身につけるに当たって一般的に言うところのスキルとは違って(主に先天的な)能力に因るところが大きいという意味です。だからやはり普通に何らかの技術を身につけるという場合と同じようには、外国語(の運用能力)をを身につけることはできません。やはりこれに関してはできない人間は頑張ってもできない、もしくは時間が掛かります。

 例えば、日本時間で8:20 2011/05/21の英国BBCのニュースサイトで、"US President Barack Obama and Israeli PM Benjamin Netanyahu admit "differences" on the path to Mid-East peace, after talks in Washington."という見出しの記事が載っているんですが、私の場合だと、この一文を読んで意味を理解するのにだいたい1.7~1.8秒くらいかかります。そしてこの文章の背景にある「Bin Laden氏殺害に対する報復テロを回避する為にアメリカはイスラエルとは違った立場を取りますよということを表明し、それに基づいた意見をオバマ大統領が表明してるんだな」ということを理解するに至るまでにはだいたい2.5秒くらいかかります。これは12年前、私が18歳で大学の受験用の勉強をしていた時から全く変わっていません。
 もうあんまり学歴がどうこうとかくだらんことを言いたくは無いんですが、分かりやすい指標として、これは18や19の少年少女たちで言うとだいたい早慶上智や国立旧帝一期校や東外や東工や一橋や各校医学部レベルの学生だと平均的なレベルです。

 そして私が知るケースだと、外国語だけではなく日本語においてすらその運用能力が極端に低いという人間が居ます。ちなみにその人はけっこう高学歴です。国語の教科書ですらまともに読めないような人ですけど(その程度の知的レベルで何故高学歴なのかというアレなことについてはこの場ではもうツッコみません)。その価値意識の是非はともかくとして、よくよくじっくり話を聞いてみればそこまでバカな人間ではないことも理解できます。つまり何故かその知的レベルに見合わない言語能力の低さを備えてしまっている人です。そういった人も居るというわけであって、つまり頭の良し悪しというよりは、(おそらく先天的な)能力云々というお話です。しかしやはりこの2つは正の相関関係にはあります。やはり頭の(質の)良い人の方が言語能力に恵まれている場合が多いです。そういった人というのは、分かりやすく言うと、要領の悪さが目立ちますがやったことは大抵はできます、が、ウィットに富んだいわゆるおもしろい会話ができません。つまり言葉言葉に隠された微妙なニュアンスや細かな表現の意味内容を、少なくとも会話の流れに乗って瞬時には理解することができず、別に頭が悪いわけではないのにそのせいで少々知能の遅れた感じがして、同級生の悪童に馬鹿呼ばわりされたり下手をするとイジメの対象になったりするわけです。要するに知能の足りない人なのではなく、理知や機知の足りない人という表現が正確です。だから能力どうたらこうたら技術・スキルどうたらこうたらというよりは、人によって得手不得手といったものがあるということですね。ちなみにこの人はボキャブラリーさえ増やせばコミュニケーションツールとしての言語を運用する能力が高まると思い込んでいる、まあ少しアレな人ではあります。……しかしかといってまた、この人は日常会話が全くできない、というわけではないのです。


 要するに、ナザレのイエスさんやマホメットさんやゴータマ=シッダルタさん(仏教は中国に伝来してから仏像という具体的形を与えられることで偶像崇拝化しました)や聖徳太子のような偶像的聖人ではなく、先の記事で言ったような論理実証主義的価値意識を日常生活も含め自分が相対する全ての局面において浸透させ、それに基づく行為を選択する、という「現代版聖人」もしくは「みだりにその名を唱えるなかれ的な現代社会に適応されるべくして適応した聖人」というような人間というのはおそらく世界中何処をさがしても存在しません。
isc(h)a-riot
 カオティックパンドラ。
 ちなみにPandoraは女、彼女に残されたのは希望(金)を与えられるという名の拷問。
 水。あまりいい比喩ではないが、「清水寺に核ミサイルブチ込んだろか?」、という発想。水は女の代名詞であり象徴。清い水?そんな女世界中何処探したっていねーよ(笑)。ちなみに京都の清水寺はちゃっかり拝観料を取る。つまり世界中の全ての女はjailbaitであるという事実。しかし現実問題として水道水は至高の飲み物。
 百花繚乱。
 ベルンハルト作戦云々。
 そして、「阻血」という名の、具現化され得ぬ虚無を具現化してしまったことに対する虚無による怒り。



 個人は、どのような形であろうと、その存在の必然として、広義の意味での社会(世界という言葉の意味に近い)の中に組み込まれている。Deutsche Hanse(ハンザ同盟)が成立していた時代、それより少し過去を遡れば物々交換により経済活動が成り立っていた時代、それより前時代の自給自足的農耕によって得られた農作物により肉体の生命が維持されていた時代、そしてもっと遡れば狩猟採集時代のような、原始的な経済の社会を考えても、一個の人間としての個人は、消費生活、最低でも食糧を消費しなければその(肉体の)生命を保てないわけであり、その意味で、つまり生命を維持、ひいては個人の個人性を維持するという意味で個人はその存在の必然として社会の中に組み込まれている。むしろ個人を集合的に捉えた実体の無いものを社会と呼ぶのであって、その意味で個人が社会の中に組み込まれているのは必然である。
 個人と社会を二項対立で捉えたがる者達は、特定の個々人の恣意的集合体、つまり大文字のコミュニティーと社会を混同しているのであり、その意味では「彼らの言う意味での社会(特定のコミュニティー)に属さない個人も存在する」ということに彼らとて異論はあるまい。そして基本的にその存在の是非やそれぞれへの参加は個人の意に委ねられている。しかし、生命体の存在にまつわる、実体の無いmetaphysicalなものとしての社会を考える時、それは個々人の意思とは無関係なものであって、個々の大文字のコミュニティーと社会は混同されるべきでない。


 そして、仮に狭義の意味での社会というニュアンスが込められた人間社会という枠組みで考えるにおいても、そのことは貨幣という存在で象徴されている。かつて金本位制に基づいて貨幣の価値が定められていたことはこれに輪をかけてそのことを象徴している。一般的には、最初、兌換可能性の高い財が流通度が高いが故にそれを扱う商業人が増え、やがてそれはより兌換性の高いものへ、つまりある局面・パラダイムにおいて最終的には貴金属(金銀等)に落ち着いきそれが貨幣として用いられるようになったと言われている。
 経済学の用語では貨幣のことをliquidity(流動性)と言う……のは間違っているのであって、最も流動的な、流動性の高い価値資産を貨幣と呼ぶわけある。このliquidityという言葉は、貨幣が社会という大きなうねりのような生き物において個々の細胞である個人と個人との間を流れる血液のようなものであるということを象徴しており、つまりそれは、貨幣の存在によって個人は社会の中に組み込まれているということを示すものである。少々自然科学的な比喩を用いるのならば、人体において血液を多く溜め込みまたそれを必要とし利用する大きな細胞組織の方が小さな細胞組織よりも重要な役割を果たしている。金は現代の人間社会における力である……これがおそらく少なくとも現代のこの国の社会に生きる人間の一般的なカネに対する解釈、認識の仕方であり、そのような枠組みで考えるにおいても貨幣の存在によって個人は必然的に社会に組み込まれていると言うことができる。
 念のため、ここで私は、個人が人間社会へ組み込まれているということの具合が、力、つまり所持する貨幣の量や貨幣の用い方により決定されると言っているのではない。ここで私が言っているのは、個人が人間社会に組み込まれているということは、全ての個人が貨幣を用いうるということに基づいているということである。仮にとある個人の貨幣の所持量がゼロであっても、そしてまたとある個人の消費性向が低かろうと(高かろうと)、その個人が貨幣を用いうる限り、その個人は社会に組み込まれているということである。つまり、自らの所持する貨幣にそれが自分のものだからと言って自分の名前を記入する馬鹿者は居ないということであり、極論してしまうのならばそれが流動性の具現体つまり貨幣というものである。

 私は貨幣というものは、それが電子マネーであろうと紙幣や硬貨であろうと、どのような形態・素材の貨幣形式をとろうと、人類史上最も偉大な発明ではないかと考えている。とある経済学者の話によると、当現代社会において銀行を運営するほど大変な仕事はないということである。
 太古の原始的狩猟時代から貨幣(のようなもの)はあったと言われているが、原初、おそらく小規模な経済共同体において、誰もしくはどの集団がこの偉大な発明を最初に考え出したのかということは、貨幣そしてその歴史の起源をたどるという意味で大変興味深い。もちろん、貨幣の役割を果たすものが物理的である限り、そこには偽造云々という問題が存在したわけではあって、偽造された貨幣という枠組みでの経済も考えられるし、そもそも貨幣の種類云々、これについて言い出すとキリがないので、詳しくは経済史を学ぶことをおすすめする。



 多くの言語に携わる学者が、ここで言うところの流動性の役割を果たしているものを言語であるとしているようである。しかし、ここで、タイトルにあるように、個人とその存在に関わってくるものを現代の人間社会という意味に絞るのならば、やはり人間の行動に関して、先立つのはコミュニケーションの道具としての言語より貨幣ではなかろうかと私は考える。もし彼らが、象徴としての流動性のことを言いたいのならば、それは言語というよりは固有名詞、ひいては文字、音韻・音声と言った方がいいだろう。世界や人間の行動は言語で説明されうるが、現実的に考えて人間の経済活動の原理が言語を根源的要素として成り立っているのではない。
 驚くことに、人間の行動を観察し、医学的定義に基づいてその異常・非異常を判断するはずの精神科医にも斎藤環氏のようにそれを言語であるとしている者がいるようである。



 以下で言う社会とは狭義の意味での社会、現代における人間社会のことである。
 社会と個人ということを考えるにおいて、その問題の本質は、前述の通り社会の中に個人が組み込まれているということを前提とした上で、一つの個人として個人がその個人性を保つということであり、個人が個人としてその社会の中に存在するということに関することであり、社会と個人が対立するしない云々という低レベルな議題の中にあるのではない(マスコミの煽る、政治家と一般庶民が対立するというテーゼのバカバカしさにこれは象徴されている)。つまり、社会が個人の集合体ではなく、社会が「社会」になってしまっては、社会は成り立たないということであり、そもそもそのようなものは為され得ない。その意味で私は共産主義は為され得ないものだと考えている。私は共産主義は思想面においてのみ為されるべきものだと考えており、そのような形で為された時にのみ価値があり、絶対的価値を発露するものであり、その意味ではキリスト教的隣人愛思想は評価されるべきものだと考えている。あくまで共産主義体制を為すものは個々のヒトであり、内部に勃発する内ゲバからは避けられようが無い。庵野秀明監督作品のエヴァンゲリオンの旧劇映画版のように、ヒトはLCLと化すことはできない。

 精神科医の森山公夫氏は統合失調症(精神分裂病)を「自明性の喪失」という言葉で定義している。個人が人間社会に属している中で、個我つまり自己の自明性を失えば、個人は発狂し、社会もそれ自体として成り立たなくなるだろう。このいわゆる発狂については、現代の医学用語で言えばおおむねSchizophrenieと呼ばれ、しかしあくまでこれは社会(学)的見地、あまりこの言葉は使いたくないが「文科系」的見地に基づくものである(つまりSchizophrenieと言いつつも、ここで言う発狂とは現代医学におけるSchizophrenieの定義とは何ら関係のないものであるかもしれない。個々の医師の判断にも依るだろう)。ちなみに、現在のこの国においては、もはや大文字のマスメディアの一つと化したネットも含めマスコミが必死に個人の自我認識性を失わせようと特定の事実に特定のイメージを添付して提示するということが非常によく観察される。
 胡散臭い話ではあるが、ネットを始めとした様々な情報媒体で、統合失調症の症状とされている集団ストーカーの認知(認識ではなく認知、その意味で症状とみなされるわけである)、その集団は実在しそしてその正体が共産系団体(私はここで日本共産党を非難しているのではない、念のため)とされているのが散見されるが、これは社会と個人やSchizophrenieに関する問題の本質をある程度ついているものだと思われる。
 ……ある程度、本質をついている。経済学者の今村仁司氏の言葉を引用するならば「ビッグマン経済」ということである。共産主義的ビッグマン経済。「オマエのモノはオレのモノ、オレのモノはオレのモノ」というジャイアニズムが共産主義の実態であり、共産主義者の最たる人間こそが暴力性を最も好み最も重度の拝金主義者であるという事実。流動性の概念が無くなった世界では最も暴力性の強い人間が最も暴力的に(多額に)カネをその意思で用いることができ、またそう用いるからである。




 ……まあ、というわけで、何でもカネで片がつく、心ある人たちを踏みにじって世の中カネだとか思ってる連中には石原慎太郎さんがおっしゃっておられるように天罰だとか、天誅だとかが下るんじゃないでしょうかね?今回の地震の様に、タイダルウエイブとメガフレア食らわされて何万人もの人々が死んでいったように。

「私は、金が欲しさにあの人について歩いていたのです。おお、それにちがいない。あの人が、ちっとも私に儲けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素早く寝返りを打ったのだ。金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」 -太宰治 「駈込み訴え」より-

 貨幣も、そして抽象概念としての価格も、人間ではありません、念のため。……イスカリオテのユダという人物は実在したのでしょうか?
Jude'lei, Juden'lei nicht
 恐怖心。
 そしてそれに基づく理念・感覚・言動の愚かさ。
 被人種差別者が最も人種差別者であり、逆も然り。彼らこそが選民思想に塗れ堕落したJudeなものに犯されつくした(ヒトのオス・メス問わず)女性的人間。
 そして私は人種差別には徹底的に反対の立場を取るので。




 「恐怖心を抱くことが警戒心を持つことにつながる」、つまり物事や他者を警戒しそれらが自らに危害を及ぼすことから身を守るためには、恐怖心を持つことが必要である、ということを言っている人がネット上に居た(今もいるのか知りませんけど)んですけど、これは根本的に間違っています。

 基本的に恐怖心が湧き起こると警戒心を失う、というか警戒心がグラつきます。武道を経験したことのある方、特に柔道をやったことのある方にならばよくご理解いただけると思うんですが、サッと恐怖心が心を掠めた瞬間に対戦相手につっこまれて技をかけられてあわよくば一本取られて試合終了です。これが柔道だったら試合に負けたで済みますが、柔術だったら死ねます。
 例えば、統合失調症(精神分裂病)用の抗精神病薬である商品名リスパダールを服薬すると、昔のブログで書いていたように「頭蓋の右斜め後ろ辺りに意識が集まり苦痛を感じイライラしてくる」という状態になります。これが究極に高じると先の記事で書いたように「森羅万象が一気に襲い掛かってくる」という最上の恐怖を味わえてしまう状態になります。で、柔道の試合の場でこの(恐怖の)感覚に一瞬でも捕らわれると、人体の筋肉の構造的に、右半身がすこし引いた状態、体の中心が少し左へ捩じれたような状態になり肉体の重心のバランスが若干崩れます。相手がある程度の手練であればその瞬間に入り込まれて左方面へとバランスを崩され大内刈りを掛けられて簡単に一本取られて一瞬で試合終了です。……というか正確に言うと、大内刈りを掛けられて左側へバランスを崩されて倒される、と言った方が正確です。この大内刈りというのは、相手の体へ入りこんでその上体を相手の腕と襟を使って上腕部を締め下腕部で瞬間的に扇を広げる様に左右にさばいて相手の左足を刈り込んで相手の体の体全体を向かってやや右側方向へ倒して背地させる、という技なんですね。で、上で言ったリスパダール状態、つまり「頭蓋の右斜め後ろ辺りに意識が集まり苦痛を感じイライラしてくる」、下で説明しますが頭部の意識そして物理的に頭部が右へ傾いた状態だと簡単にこれを掛けられてしまうわけです。 
 これは決して現実における武道のお話のみにとどまるというわけではなくて、メタなお話としても通用するものです。こういったことをlearn(学習)というわけであって、study(勉強)だけやっていてもこういったことは理解できません。実際に行ってみたり見て観察してみたりすることも、あくまでもstudyの補助の為のlearnという意味で、それはそれで大事だということです。……ちなみにstudyを放棄してlearnだけやっていると悪徳な人間になるのでお気を付け下さい。これは大人子供問わずそういうことになります。

 こういった類のことは江戸時代の剣豪宮本武蔵の著した五輪書とか読めば多分書いてあるんじゃないかと思いますけどね。

 マンガオタク・アニメオタク風な表現をとるならば、こういった技は「北斗神拳」や「シャアのアクシズ落とし」といったところでしょう。ゲームオタクチックな例えで言うのならば、「セフィロスが黒マテリアで呼んだメテオ」とかいったものでしょうし、さらにはここで私が説明していること自体が「FF5で言うと青魔法最強」みたいな表現が使われるでしょう。わざわざオタクという蔑称を使ったのは、ああいうものはただ単に適当に楽しんどきゃいいだけであって、そこまでマンガ・ゲームで読み取っちゃう必要性は無いということです。ああいうものから何か読み取っちゃう・学んじゃう、つまりは洗脳されちゃうから彼らは「ハマりこんじゃってるオタク」みたいな目で見られたりそう呼ばれたりするわけであって、先のthe worldという記事でも書いたように、それを叩く側も叩かれる側のオタクの人の側もどちらもサブカルチャーに対する抵抗力が無いオタク属性保持者だということです。オタク属性を持たない普通の人はそれがどういった楽しみ方であれ、見たり読んだり遊んだりして「ああ楽しかった気分良かった、はい終わり」というわけで、クリエイターの人には申し訳ないんですが、自分にとって必要の無い情報はサッサと忘れていきます。だから別にサブカルからこういったものをlearnする、というかしちゃう必要性はどこにも無いです。大人だったらそれはそれでも楽しめるでしょうけど、子供の場合だと教育に間違いなく害悪なんで。
 ちなみに私はDQは好きですがFFはあまり好きではありません。DQだとⅠやⅡが名作ですね。FFだとⅦが名作ですね。



 ちなみに恐怖心と警戒心が正の因果関係を示しているという、このことを主張していた人はネットで女性の一個人を名乗る人物でした。そしてまた「スポーツに感心が薄く……」と言っている人でした。要するに結論から言ってしまえばこれは極めて女性的な発想です。どうでもいいですけど、その人物が実在の女性である可能性は高いです。女性が外敵から身を守るためには依存心が必要である、つまり何らかの相手を恐怖というか畏怖していることが必要なわけです。つまり女性というのは何らかの他者に必要としててもらわないと生きていけないわけです。中には非常に男性的で他者に精神的に依存しない甘えという感覚を持たない女性もいらっしゃるのかもしれませんけど。アメリカ人の女性にはこういった精神的に自立的な男性的な女性が多数いらっしゃるような感がありますけど。
 まあつまり、だから愛だとか恋だとか恋愛だとかを声高に彼女たちは叫ぶわけです。これは極めて共産主義的な発想であり、それが彼女たちの生存本能に基づいた生命活動維持行為なわけです。念のために言っておきますが、これは先の記事で書いた思想面における助け合いだとか隣人愛的思想だとかとは対極を為すものです。こちらは男性的な発想です。あくまで彼女たちは必要なものはカネであるということをもう意識の根底に植え付けられている、無意識的にそういう感覚を抱いてしまっているそういった生き物なわけです。そして女性にとってそのことを為すために最も都合がよいのがイデオロギーとしての共産主義なわけです。そして中で彼女たちは、「内ゲバ」、選民思想と上昇志向と自己顕示欲その他とそれらに基づいた引き摺り下ろし「愛」(合い)、そしてそれらに因る地獄を作り上げる、というわけです。
 ちなみに現代日本の社会においては男女の不均衡は是正されつつあるので、大企業の総合職でバリバリ働いて稼いでいる女性の方も大勢いらっしゃるでしょう、が、しかしそれとてやはり物理的なもの(カネ)にまつわるお話というわけです。

 関係ないですが、私(男性、ヒト科のオス)に関して言うのならば、「愛」というのはまだ理解可能な気(け)がありますが、「恋」というのは全く理解できません。まあ何らかの創作作品や物に対する愛着だとか、酒を酌み交わして楽しい時間を共有するだとか、そういったものはまあ「愛」の一種なのかなくらいには思います。が、「恋」というのは何なんだか私には全く理解不能です。思春期の少年の頃に女性に対して性的な欲望を抱いたことはありますが、いわゆるその「恋」とやらのステレオタイプな説明で為されているような、「その当該の相手のことが気になって気になって忘れられない」だとかそういう類のことは一度もありません、というか何を言ってんだか全く理解不能です。それと関係あるのかないのかよく分かりませんが、ちなみに私は生まれてこのかた三十年間女性にモテたことはただの一度もありません。
 基本的に男性(霊長目ヒト科の哺乳類のオス)の性欲というのは、射精したら終わりです。このことは中学校の時点で保健体育の教科書で既に説明されてます。これはおそらく多分どの哺乳類のオスに関しても同じで、自然界だと、性行為の後にオスがオルガスムの状態で性的に興奮したままだと、冷静でいることができず妊娠させたメスを外敵から守ることができないからだそうです。だから、非文明的な自然界に生きる動物が子孫を残す、より高い確率で自らの遺伝子を将来より長い時間にわたって存続させてゆくためには、オスは射精したら冷めとかなきゃまずいわけです。要するに、男は「恋」にかまけているヒマなんか無い、私は「恋」とやらを経験したことがないので字面からの予測ですが、いわゆる「恋は盲目」の状態に陥ったらオスは死に至るわけです。その意味では「恋」というのは、浦沢直樹さんの漫画作品MONSTARの中で描かれている「終わりの風景」であるのかな、とも思ったりします。ミもフタも無い言い方をすれば、男は生涯の伴侶としての女を見つけてヤッたら人生終わりというわけです。
 その意味では、「結婚はしないのか?」と問われ、「自分はおそらくいい父親にはならないから」と答えたアドルフ・ヒットラーという人物は、私は極めて人間的な人間、畜生道から次元を隔てられたところに存在する極めて人間らしい人間だと考えます。ドイツ語にはMenschという名詞があり、日本語で表現するならば人間という意味です。そしてこれはドイツ語の辞書には載っていない言葉ですし、現代の我々と同世代のドイツ人の若者に聞いても首を傾げられるかもしれませんが、ヒットラーという人物は言わばmenschelnという動詞によって表される行動を極めた、もしくは極められなくとも"Es ist mein Wille."と志向しDing an sichに抵抗していたおそらく史上最も人間的な人間であったと、私はヒットラーについて考えています。しかし彼は最後にはDing an sichに敗れたのかもしれません。
 ちなみにナチスのやったことは最悪です、念のため。……Adolf Hitlerの意志とNationalsozialistたちの意思はあくまでも合致していなかったのではないかと私は考えています。


 私は運動神経は普通でしたが、筋力が生まれつき弱かったので、体育の授業は苦手でした。しかし、ヒットラーも“Mein Kampf”(「わが闘争」)で書いてますけど、学科科目だけではなくて、体育の授業もそれなりに大事なんですね。体育の先生にはもっと体の使い方を根本的なところから言葉も実技もあらゆる手段を用いてきちんと徹底的に教えてくれるとありがたかった、と私は今になって思っています。



 男性にとって、世界中の99%以上の事柄は警戒すべきことだと思いますけど、恐怖すべきことというのは一つもありません。恐怖心が湧き起こると警戒心が薄れるからです。生物学的な問題からして、警戒心を保つためにおそらく恐怖心を必要とするのは女性だけです。

 つまり、「身を守る為には他者への恐怖心が必要」というこのどっかのお馬鹿さんの吐いたこの文句は、私は男性(ヒト科のオス)なので女性(ヒト科のメス)の心理というものはほとんど分かりませんが、おそらくはこれは女性にとってのみ通用する理屈であり、男性から見れば単なる屁理屈です。



 ……もうこの際なんではっきり言いますけど、最近マスメディアに登場する「顔写真」で左右のどちらかに傾いたり口が歪んだりしている(大部分は意図的にデジタル技術により画像修正された)もの多々ありますね?もちろん例えばスポーツ選手を競技場等でそのまま写したもので、自然体なものがそのまま撮影されてそれがそのまま掲載されているというものもあるでしょう。それらを除外して、アレで右目(見る側から向かって左側の目)が下がっていたり口角が右(見る側から向かって左側の口角)が釣り上がったりしている顔写真の人間は愚かしくも自らがJudenな女性的人間であることを顔面で主張している連中です。

「男から見れば過剰なまでの生存欲求。女は死の世界の住人であり、そしてかつそこで生きようともがいている、男から見れば凄まじく生存欲求と生存能力の高い生き物(例えば流行性感冒に対してはヒトのオスとメスではメスの方がこれに対して強い抵抗力を持つ)。つまり地獄っちゃ地獄。保身。群生体。繁殖と繁殖力。指図したがり。口うるささ、やかましさ、うっとおしさ、そうぞうしさ(オバタリアン等の偶像に象徴されるように、オバサンを想像すればたやすい)、これらを全て同時に持つということ。共時性。見た目大好き。みてくれやうわべ、これらで物事や人格を判断すること、そしてこれらを好むこと。うわべのごまかし、問題を根本的に解決しようとしないこと。妬み。怨嗟。私怨。愚かさ。逃げ、逃避。嫌なものからは目をそらす。陰湿さ。しつこさ、偏執狂。隠蔽。劣等感。恥意識。全体主義。悦楽、快楽主義、極限状態での快楽。マゾヒスティック。上昇志向、選民思想、つまりはイジメ好き、イジメられるのも大好き、嫌がらせをするのもされるのも大好き。虐待。性欲。熱狂。興奮。戯言、それによる自他の現実検討能力の喪失の促し。自己顕示、自己顕示欲。依存心、他者をはじめ「他」を求める心理。恐怖。絶望。不安定さ。狡猾、狡さ。人生とやらへの期待。(無為に)希望を抱こうと試みること。邪悪さ。性悪、性悪説。悪意。悪徳。狂気。穢れ。」

 これらは全てドイツ語のJudeという言葉一つで表される、女性(的人間)の特徴なわけです。
 上で説明した「……ちなみにstudyを放棄してlearnだけやっていると悪徳な人間になるのでお気を付け下さい。」というのはつまりはこういうことです。「勉強ダリー」とか言って即時的・即物的な「とりあえず目の前のモンに食い付いとけ」的learningのみ行っていると自分の中のJudeを増長させます。
 このことは、まあ多かれ少なかれああいったカルトにハマるってのは女が多いじゃん?、というお話に帰着します。オウム真理教の場合だっておそらくそうでした。Xみたいな類のバンドの追っかけにしてもそうです。音楽としてのレベル云々は置いといて、それは男性とてXの音楽聴いて好きになるという当時の思春期くらいの少年だっていたでしょう。私とて中学や高校の時Xの曲聴いてhideやPATAの早弾き聞いていいと思いました。その辺からYngwie Malmsteenの早弾きを好きになっていったとかそういった経緯があるんですけど、まあ今はそれは関係ないので置いておくとして、まあかといって女の追っかけみたいに偶像崇拝信仰的に「ファン」にはならないよね、って話。

 念のために言っておきますが、現時点でイスラエルやその他の地域で生活しているユダヤ人の人たちとは直接にはこれは関係ありません。私は特に反ユダヤ主義者ではありません。要するに彼らは今に至ってはユダヤ人(Juden)などという蔑称ではなくイスラエル人(Israeli)と呼ばれるべきでしょう。
 もっと物理的な側面から言ってしまうのならば、昔のブログで身体論どうこうと書きましたが、これは医学的な意味での女性器と男性器との違いに由来しているわけです。男性器を持っているヒトのオスであるにもかからわず、女性器的感覚を持っている男性、つまり(女性的な)男性の場合で言うと、肛門の痔、前立腺肥大、その他だと外反母趾、背筋力の異様な強さ、そういったものが関係してくるでしょう。要するに男性で言えば、モンゴロイドに多数見られるような線の細い感じのストレスを感じやすい繊細な人、もう少し哲学チックな表現を用いるならば(哲学的意味において)「迷い」のある人、こういった人が女性的男性の典型であるというわけです。ちなみに私はこの「線が細い感じ」だとか「繊細」だとか「迷い」だとかいったものとは対極の「図太い」人間、コーカソイドやネグロイドの人たちに多く見られるような骨格・体型を持つまあ男性的人間、基本的には自分のことを善人だと考えている人間です。そして私が女性(器)的感覚を知り得たのは統合失調症(精神分裂病)用の抗精神病薬の作用に因るものです。
 関係ないですが、男性でニューハーフと呼ばれる人たちが居ますね。医者に頼んで男性器を意図的に切除してしまうような人たちです。アレは絶対に止めた方が良いです。もし生物学的にヒトのオスであるのに、「自分は女よ!」みたいな信念を抱いている人たちがいるのなら、そんな取り返しのつかないことは止めて精神科へ掛かって分裂病用の抗精神病薬を投薬してもらうことを非常に強くおすすめします。これで女性がいかなる感覚で日々生きているかというものがほとんど理解できます。男性にとって大切なものである睾丸を取り去る必要性もメリットもまったく存在しません。


 要するに、合法的に医療の現場で提供される抗精神病薬というものであろうが、少なくとも脳に影響を及ぼすとされている薬物というものは理性や自制心を消し去るということが多々あるので服薬しない方がよろしいということです。というか十中八九それが大方の精神科医の狙いであり、内科医や外科医や整形外科医や歯科医や神経内科医・心療内科医その他の医者の先生方はこの限りではありませんが、あの精神科医という連中(の大方)の言うことを真に受けてしまうことは私はおすすめしません。実際にとある整形外科医の先生が統合失調症用の抗精神病薬に対して「我々はそういうクスリは使わないんでね……」と溜め息混じりにおっしゃっていたことがあります。
 我々は子供の頃から(まともな)両親や(善良な)地域の大人や(まともな)教育機関の教員によって教育を受けます。幼児の頃から、「他人に危害を加えてはいけない」だとか、具体的な事柄としては「左手で茶碗を持ち右手で箸を持つ」などの事柄を教わります。それらは積み重ねとして在るわけであって、ある程度の年齢になったら「左手で箸を持ち右手で茶碗を持つ」ようになるわけでもなければ「ガッついて犬食いをする」ようになるわけでは無いですね?小学校で和差を習わずに積商ができるようになるという類のことはあり得るかもしれないですが、和差積商習わずにいきなり中学校へ放り込まれて一年生ピカピカで一元一次方程式解けるようにはならないですね?で、中学校で一次だの二元一次だの二次だのの方程式を利用した計算問題解けるようにならないと、高校の教科書に載ってる微分積分理解できるようにならないですね?整数関数の微分ぐらいは絵ヅラだけでなんとか分かるような気がしても、数式使わずに積分の概念を正確に理解はできないし、微分方程式も解けなけりゃ三角関数や指数・対数関数の微積分も分からないですね?で、それができないと大学で理科系の学部や経済学部でやる解析学の内容も理解できませんね?「成人したら小学校で教わったことは嘘とみなし女を強姦してもよいし他人を殺してもよい」わけではないですね?そんなことを肯定したら治安は乱れてどうこうとか言ってる前に社会は即刻崩壊します。もう「気に入らない人間は誰であろうと殺すだけだ」というベジータさんだらけになります。もうそういうことを是とする人間は、「……おぬしには邪悪なものが感じられる」→「じゃあ死ね!」とかいったノリで子供みたいに勝手にやりたい人間だけで殺し合いでもなんでもやってて下さいという話です。ベジータ同士で勝手に殺し合っててくれればいいです。公園で小学生の子供に混じって鬼ごっこに興じたり、ウホウホ言いながら素手で殴り合いの殺し合いでもなんでもやっててくれりゃいいわけです。ちなみにマンガのタチ悪いところは、「『ベジータみたいな悪人でも実はイイやつ』とか子供が錯覚されうる」というあたりにあります。現実世界で悪人が実はいい奴とか絶対に有り得ません。マンガ・アニメ・ゲームやテレビの安っぽいドラマや水戸黄門や映画に登場する「悪役」程度を現実の悪人だと思ってたら大間違いです。悪質なのは関しては、ネットを見れば分かるとおり、どんな手段・技術を利用してでも悪意をあらゆる人間の間にはびこらせて「自分らにとっておもしろい」国を作るみたいなことを考えてる人間とか実際多数居ます。そういった人間にのさばられると平和な秩序ある社会は崩壊へと向かうので、警察官の人たちや検察官や弁護士や裁判官その他の法律家等の法曹界の人たちが居てくれるわけです。もう付き合ってはいけない人間とは絶対に付き合ってはいけないわけです。昔は「悪い奴と付き合っちゃダメだ」と言ってくれたり、頭の良い子供の周りから質の悪いのを追い払ってくれる大人や老人がしっかりと居てくれました。ちなみに育った地域にもよるでしょうが、田舎の方へ行くとこういった人たちがまだ居てくれるのかもしれませんが、私が子供の時はもうほとんど居ませんでした。
 そしてそういう「悪」属性なことそのものをイコール世界の真実だみたいに「(一見)合理的に」解説しだすロクでもない人間というのが居ます。頭脳のレベルの高い人間だと哲学者の中島義道さんみたいな人間です。頭脳のレベルの低い人間だとそこらへんのチンピラやおそらく一般の同じ女性から見ても気分の悪くなるであろうセックス教団の信者みたいないわゆる女流小説家や(例外的に小川洋子さんの小説なんかは非常にいいと思います、私は好きです)あとはネットの一部に蔓延ったりしてる連中です。頭脳のイカれた人だとどこぞのカルト教祖みたいな人間です。小説家とか漫画家とかこういうこと書きまくりです。マスコミにもこういうロクでもないのが大勢居ます。人の親になる人間やいわゆる地域の大人や学校の教員にもロクでもない人間が大勢居ます。
 ちょっとこれとは別路線で、「人を殺す経験が必要」だとかふざけたこと言う人間も居ます。「殺す人間より能天気に殺される人間の方が悪い」とか言ってる連中です。常識的に考えれば理解できると思いますが騙したり殺したりする方が悪いに決まってます。で、こういった人間に限って「常識」という言葉を脳内で言語化したりする、というか口に出して発言したりします(私はここで「常識」という言葉をわざと意図して使ってます)。そして自分が非常識であることは全く理解していません。もはや常識云々よりも人間としての基本的な倫理観に欠けているわけです。こういった人間は知的レベルが高かろうが低かろうが、知的レベル・頭脳のレベルが高いことは稀ですが、総じて反社会的です。そしてその中にはとくに反社会的でない一般の善良な人を反社会的な人間に仕立て上げるという超悪質な反社会的人間もいます。もしそういった理由で善良な個人(他者)を排除する人間が存在したならばその人間こそが排除される対象となります。我々が生きているのは低俗で劣悪な野蛮人の跋扈する大昔の古代ギリシア社会ではありません。他者に意図的には危害を加えないというのは現代社会に生きている人間として基本的なところです。

 ちなみにあの中島義道さんという人は悪徳な人間ではないでしょう。が、あの人は「人間としての倫理観を抱くにあたっての微妙な感覚と思考内容との機微」の分からない人です。倫理的な問題を考えるにあたって、「A=B、C=D、よってA+C=B+D、A+D=B+C、よって他人を殺してもよいことになる」とかそういう方向へ考えちゃう人です。ああいった類の人というのは、中島義道さんであれ芥川龍之介であれドストエフスキーであれフランツ・カフカであれ村上春樹さんであれ、実際には間違いなくやらないでしょうけど。おそらく「いやルールではそうだけど、この場合は現実的に考えて多少違反してもまあこっちの方がいいでしょ」とかそのへんの「あいまいな掴み」みたいなものが分からない人です。「で、まあそれやった方がいいじゃん」とか「まあそれ方やんねえがいいじゃん」とかそういったことが分からない、分からないというよりはカチコチっつーかガチガチに考えすぎて常識感覚というと語弊がありますけどそれっぽいものが自分の中から失われてしまった人です。もちろんこれが殺人の場合だとか強盗の場合だとかの重犯罪の場合だと問題は別です。
 しかし、中島義道さんは哲学者なのでいいんですが、これが論理学者とかだと最高にタチ悪いことになります。あんなものに労力を費やすのであれば、同系統の労力の費やし方として数学や物理学を学んだ方が遥かに有益です。


 我々現代の民主主義社会に生きている人間達は、教育や医療や様々な科学技術や優れた食品などその他いろいろなものによって、人々の心、もっと具体的に言えば人間の脳から物理的にJudeなもの(ヒットラーはこれをユダヤの毒と呼びました)を消していこうと努力しているのに、「我々はJudenだ」と叫ぶだけでは飽き足らず「おまえはJudenだ」とレッテルを貼るどころかJudeなものを社会にバラ撒こうとする、若気の至りなどという言葉では形容しきれないようなJugenな幼児的人間の大糞たわけ者が現代社会においてもいまだに生息しているということです。まるで富野由悠季監督作品のアニメ映画「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」に登場するJudenかつJugenの代名詞と化してしまったシャアの如き強姦魔の様な。クワトロ・バジーナとは別人格になってしまったのではないかと思われるあのアニメ映画に登場するシャア・アズナブルというキャラクターは強姦魔の象徴なわけです。統合失調症用の抗精神病薬?アレは「ユダヤの毒」、Judeの具現体そのものです。今は私はもう10日弱に一回ジプレキサ5mgを服薬するだけです。調子は半年前、旧ブログを書いていた頃より非常に快調です。……これではholocaustの犠牲になって死んでいったユダヤ人の人たちも浮かばれないでしょう。我々現代の民主主義社会に生きる人間たちは彼らの死を無駄にしないためにそれぞれの個々人がそれぞれに可能な努力を行っていくべきでしょう。それでもまだ、Judeなものがいいというのならば、汚泥の復讐心に塗れたJudeがいいというのならば、もはや「最終的解決」しかあるまいて……"Heil, Heinl(r)ich."、"Binse, eigentlich"、というお話。男には生を、女には死を。それが幸せというものなんでしょうか?幸せというものについて深く考えたことがないのでこれについては私にはよく分かりません。「まごごろ」という言葉に対しては怒りすら覚えますね。
Solomon's Seal or Schutzstaffel?
 (黒の)逆三角形(は)マジお断り(な意志)。
 ギャーピーやかましいうっとおしいマゾヒストマジお断り。




 まごごろ?庵野秀明監督作品のアニメ、新世紀エヴァンゲリオンの旧映画版第26話「まごころを、君に」のラストで、まさに「まごころ」な状態になってしまった「モンゴロイドに多数見られるような線の細い感じのストレスを感じやすい繊細な人、もう少し哲学チックな表現を用いるならば『迷い」』のある」、こういったモンゴロイド的女性的男性の典型であるような主人公の碇シンジ君をああいったカタチで描くところがあのアニメ映画の如何にもJudenたるものを象徴しています。そりゃ海外でエヴァンゲリオンのアニメが評価されないわけです。もうはっきり言いますけど、こういった連中の脳味噌の単純さや下劣悪さ具合を効果的に表現する為に敢えて意図的に最悪に下品な表現を用いますが、こういったJudenな連中というのはもう世界の全てがオチ○チ○とオマ○マ○で成り立ってると思ってる連中なんですね。極論すれば「uクォークとdクォークが存在します、その証拠に男性と女性でセックスを行えば必ず子供が生まれます」という定理がアタマの中で成り立ってしまっているような連中です。究極に短絡思考を極めた連中です。究極の馬鹿です。もちろんこの定理においては、二項対立的価値意識や二元論におけるという意味で、「|∞|/0の相関関係」は成り立っているでしょうが、ということはつまりは「因果関係」は無いと言うことです。これは自明です。よってこんなものは定理としては成り立ちません。にもかかわらず何故かこれが頭の中で成り立ってしまっているのが彼らだということです。つまり彼らは二元論という外部から与えられた抽象概念に洗脳されている人々だということです。



 少々逸れますが、以下、「『|∞|/0の相関関係』は存在しない」、要するに「世界の真理なんざ何処にもねーよ」つまりは「『|∞|/0の因果関係』は存在する」という仮定のもと、簡単な数学を使って、幾何学性も絡めてJudenについての説明を試みます。まあこれは私のただの私的お遊びであって、特に何らかの証明を試みているわけではありません。
 再度言いますが、「『|∞|/0の相関関係』が存在する」と主張しているという人々は、なんらかの「世界の真理」、あえて言うならば二項対立的価値意識や二元論、というものを脳ミソに焼き付けられそれに基づいて事象を認知してしまっている人たちです。まあ、言うなればカオスな人たちです。本当に「世界の真理」とやらに事象の認知度量衡を汚染されずに事象を認知することが可能な、先の記事で言ったような日常生活の隅々にわたるまで論理実証的である「ホンモノ」なカオスな人というのは、おそらく世界中の何処を探しても居ません。
 もう一つ、0(ゼロ)というのは一つの具体的定数なわけであって、無(nicht)ではありませんので、誤解なされないようにお気をつけください。


xとyは変数、
二元のxy平面上において、
x/y=|∞|/0 (x軸を表す方程式) ―①
y/x=|∞|/0 (y軸を表す方程式) ―②

ここで、①+②+(-①-②)でx軸とy軸の存在を両方満たす式、0/xy=|∞|/0 ―③ が成立します。
また、①×②でxy/xy=|∞|/0 ―④ が成立します。

③は、0=|∞|/0 ⇒ 0=nicht (0の無い世界、Σ2の(k-1)乗(kは1からnまで、nは自然数)のみの世界、十字架の方程式、"painted it Black"、具体的な何かに全てが固定された死の世界、Lotusの花、無限大の象徴的概念ではなく何らかの具体的無量大数つまり"Es ist sein Wille."、「全ては"der Wille zur Macht"(力への意志)」)
④は、1=|∞|/0 ⇒ 1=nicht (1の無い世界、0という数ただ一つのみが存在する世界、ニヒリズムの方程式、"painted it White"「ツァラトゥストラはかく語った」「終わりの風景」、全てはゼロであるつまり"Es ist nichts."、「何も無い」)

※ちなみに「『|∞|/0の相関関係』は存在しない」のであっても、①と②は成り立ちますが、0=|∞|/0と1=|∞|/0は成り立ちません、それはxやyは変数であって、0や1は定数だからです、誤解されませんように(だからそれぞれ、0=nicht、1=nicht、だということです)。


これを我々が生きる三元世界で考えると、

x/(y・y+z・z)=|∞|/0 (x軸を表す方程式) ―①
y/(x・x+z・z)=|∞|/0 (y軸を表す方程式) ―②
z/(x・x+y・y)=|∞|/0 (z軸を表す方程式) ―③

ここで、①+②+③+(-①-②-③)でx軸とy軸とz軸の存在を全て満たす式、
0/(x・x+y・y)(x・x+z・z)(y・y+z・z)=|∞|/0 ―④ が成立します。

④ ⇒ 0=|∞|/0 ⇒ 0=nicht (0の無い世界、Σ2の(k-1)乗(kは1からnまで、nは自然数)のみの世界、十字架の方程式、"painted it Black"、具体的な何かに全てが固定された死の世界、Lotusの花、無限大の象徴的概念ではなく何らかの具体的無量大数つまり"Es ist sein Wille."、「全ては"der Wille zur Macht"(力への意志)」)

⑤=①×②×③ ⇒ xyz/(x・x+y・y)(x・x+z・z)(y・y+z・z)=|∞|/0 (全てがある世界、"painted it Black or White?"、象徴的に全てが固定された世界であり無政府主義の羅刹国、Solomon's Seal、何らかの具体的無量大数ではなく無限大の象徴的概念そのものつまり"Es ist Dinge an sich."、「森羅万象」)

※ちなみに「『|∞|/0の相関関係』は存在しない」のであっても、①と②と③と⑤は成り立ちますが、0=|∞|/0は成り立ちません、それはxやyは変数であって、0は定数だからです、誤解されませんように(だから0=nichtだということです)。


 n次元についてまで考えるための数学的知識を私は持ち合わせておりませんので、悪しからず。

 Σ(シグマ)は、Wikipediaによると、「現代ギリシア語では語末形の(Ϛ, ϛ)を 6を表す "ϛ" (スティグマ、stigma、ギリシャ語で奴隷や犯罪者の身体に刻印された徴(しるし) の意)の代用として用いる。ラテンアルファベットのSはこの文字に由来する。」そうです。ちなみにアルファベットのSはアラビア数字の5にもそっくりですね?何故か。私は詳しく知りませんけどアラビア数字はおそらく表音文字でしょう、表意文字ではなくてね、たぶんね。で、「キリスト教においては、四大元素に加わる第 5 番目のものとしての『神の息吹』を象徴することもある。カトリック教会では聖痕の意味もある。」そうです。私はクロノス的価値意識には同意できますがカイロス的価値意識には同意できません。

 Friedrich Wilhelm Nietzscheは、この"Es ist sein Wille."と"Es ist nichts."というものを言葉を尽くして説明し、そしてユダヤ=キリスト教とプラトニズムを死ぬほど嫌うが故に"Es ist Dinge an sich."を「神は死んだ」と言って全力で否定しました。何らかの具体的な統治者の下にではなく、神の名の下に課された義務も規範もニーチェにとっては「"Dinge an sich"たる"Dinge an sich"の産物」だったわけです。私の記憶が確かならば、ニーチェは、強者と弱者のそれぞれの定義していたと思いますが、つまり、"sein Wille"には従うべくして従うべきである、と考えていたわけです。ちなみに、|∞|(無限大の絶対値)というのは、読んで字の如くメビウスの輪、infinity、つまりかの有名な「同じものの永劫回帰」のことです。ニーチェ先生は海岸を歩きながらとある時この思想観念にポーンと頭をうたれ"Es ist Dinge an sich."、とか思っちゃったのかもしれません。
 そしてヒットラーはこの思想を好み、"der Wille zur Macht"を自らがder Führerであるが故に"Es ist m(s)ein Wille."つまり「esたる統治者であるmienのWille」と解釈し、ナチスの政治体制に利用しました。

 ちなみにこれらを数学的に考えると、一元世界における直線というものを無限遠点まで延長すると、半径(直径)無限大の円が出来上がります。ちょっと曖昧な表現で申し訳ないんですが、これはおそらくそれが∞か-∞かによって内側が内側になり外側が外側になるか、内側が外側になり外側が内側になるか、という問題が湧き起こってくるでしょう。
 そしてその半径(直径)無限大の円、つまり二元世界における平面というものを無限遠点まで延長すると、半径(直径)無限大の球が出来上がります。そして一次元の場合と同じように、おそらくそれが∞か-∞かによって内側が内側になり外側が外側になるか、内側が外側になり外側が内側になるか、という問題が湧き起こるでしょう。
 そして半径(直径)無限大の球を、つまり三元世界における空間というものを無限遠点まで延長するつまり空間の広がりの速度をそれが光速に至るまでに達っさしめると、時間は止まります。そして二次元の場合と同じように、おそらくそれが∞か-∞かによって内側が内側になり外側が外側になるか、内側が外側になり外側が内側になるか、という問題が湧き起こるでしょう。だから、Albert Einsteinが提唱していた、物体の速度が光速を超えると時間は逆行するというのは、当たり前と言えば当たり前のことです……というのは宇宙の広がりの速度が正の∞を志向している場合であって、この場合は光速に至ると時間が0になるというパターンです。これが-∞の場合、おそらく空間そのものが無くなります。時間が0ではなくnicht(無)になってしまうということです。これはNichtではなくnichtです。たしか西田幾多郎の哲学でそういったものがあるというのをどこかで見たかどうだかしたんですが、要するに「無という名の有」ではなくて、完全な無、「無」という漢字で表わすこともナンセンスであるようなものです。Nichtというのは一般名詞で日本語で言うと無という意味です。nichtは副詞です。つまり「nicht(無)」という表現は形容することしかできないような、名詞としては言語として与えられていないものということだということでここでは使用しています。これが(強引に)具現化されたものがNichtseinだということです。Zeitは当然としてRaumすらも無い、über Raum und Zeitになるわけであって、"Ich bin das Ding an sich."な世界が訪れるわけです……とか言いつつも、Lee Smolinさんという物理学者がループ量子重力理論という理論体系においてプランク体積という約1/(10の33乗)立方センチメートル程度の空間がそれであるという定義をしているようです。
 ……で、これにおける後者の場合、この-∞の場合こそが、まさにSchizophrenieの症状そのものなわけです。自我意識における主観と客観が丸々逆転するわけです。だから森羅万象に襲いかかられるという感覚が(自己の内部において)喚起せしめられます。そして同時に自己もまた森羅万象に対して襲い掛かっているわけです。自分の中にDa(Welt)が存在し、daである自分の外部に自分(Sein)が瞬間的にですらなく放出されて存在してしまうという現象です。あまり適切な比喩ではないのですが、まさに原子核融合による核爆発です。ちなみに核分裂によるエネルギー創出は正の∞の場合であって、これはSchizophrenieではない正常な人間の場合の比喩として用いることができます。そしてこの時自分の外部である世界では何が起こるか?つまり「本来的には客観であった主観」という名の客観がどう現れるか?同時に「本来的には主観であった客観」という名の主観によって世界をどう認識(認知)するか?という問題なんですが、虚数宇宙が表れ(現れ)ます。要するに二乗(自乗)すると-1になる虚数iの存在(Nichtsein)がそこらじゅうに瞬間的にですらなく突如表れ(現れ)はじめるわけです。そして同時に自分も二乗(自乗)して-1と化すような虚数iつまりNichtseinと化すわけです。このあたりに「Schizophrenieにおける集団ストーカーの認識(認知)」云々、「幻覚や幻視」、「幻聴」というお話が関係してくるわけですね。ちなみに先にも書いたように、集団でストーカーを行ってくる連中は居ます。が、そんなもの認識しても普通は無視するか認知しても警察行きますよね、というお話です。認識(認知)や表れ(現れ)や二乗(自乗)と書いたのは、この場合において認識と認知や表れと現れや二乗と自乗の意味がそれぞれ一義化されて全く区別がつかなくなってしまうからです。少なくともこの文章を読む限りにおいて通常はこれらを認識、表れ、二乗と理解するのが正常な人間のそれであるということです。
 ……おそらく、物理学者Stephen William Hawking博士の提唱する、我々が生きる宇宙以前の初期宇宙において虚数時間が流れていたという「無境界仮説」は正しいと考えられます。
 まあ、つまりは無限大における+と-の区別が無くなって、象徴的概念である無限大というものを|∞|(無限大の絶対値)としてリアルに認知してしまっている"Es ist Dinge an sich."な状態というのはヤバいことこの上ないですよ、というかその次元どころか次元そのものを通り越しちゃってヤバいですよ、ということを私は申し上げたいだけです。

 中学あたりになって露骨に頭の悪い子供(いわゆる不良少年少女等)に外国語(英語)が出来ない子供が多いのは、彼らは非常にカイロス的価値意識に縛られた人間だからです。日本語は我々日本人にとっては当然母国語なので、幼児期からのそれを使用しないことには他者とのコミュニケーションが図れないというハードルが存在するので、当然の如く身に付けている、というよりは仕方なく身に付いてしまっているんですが、母国語以外の言語となると、彼らは頭から読めないわけです。要するに彼らには積み重ねという発想がありません。要するに縦書きだろうが横書きだろうが、母国語以外のものを上から下へ左から右へ順を追ってスーッと読んで意味を理解できないわけです。あまりこういうレッテルを貼るようなことは言いたくないんですが、謂わば彼らは「カイロス的価値意識から抜け出せない論理実証主義者のJuden、女性的人間」だということです。ボロボロの歯抜け的人間だということです。実際に観察してみれば分かるんですが、こういった人間には無教育な人間や教育を受けていても馬鹿な人間が多いわけです。稀に頭の質が良いのにそういった積み重ねのクロノス的価値意識を嫌ってわざと勉強をしない、みたいな人たちも居ます。現代社会においては、こういった人たちには基本的に悪人や重犯罪者が多いわけです。
 面白いことに、さらに観察しているとよく分かるんですが、論理実証主義者というかJudeな傾向の強い人々には唇が分厚かったり頭のてっぺんが禿げている人が多いんですね、まるでギリシア神話に登場するカイロスがてっぺん禿げ頭であったように。悪童はハゲる、と。ちなみに唇の分厚い、タラコ唇な、まあ一言で言うとアレな顔というのは、生物学的に言うとネオテニー(幼形成熟)と呼ばれるんですが、女性でこういった顔をした例えばMarilyn Monroeみたいな人は非常にセクシーに見えますが、男性でこの顔だと超がつくほどブサイクですね。というか女性だってセクシーなだけで多分中身最悪ですね。あの男に媚びて誘うようなMonroe walkだとかに象徴されているように、Marilyn Monroeの性格は最悪だったらしいですからね。男前で美しい顔をした男性というのは皆薄い唇をしています。芸能人・有名人は化粧・整形・ライティング・デジタル技術による画像(映像)修正その他によりどうとでも顔形・雰囲気その他を弄れるので観察の対象外です。ちなみに私は背筋その他を緊張させたり逆に腹筋その他に力を入れたりしてタラコ顔と普通顔のどちらもできます、頭はハゲてません、念のため。
 小学校からの英語教育開始にはおそらくそれがカイロス的人種の復権をみたいなものの一端であるということが背景にあると思いますけど、彼らが大人になった時犯罪が増えるどころか社会の秩序が乱れ日本という国が崩壊していないかどうか非常に心配です。というか多分英語に頭のmemoryを取られた分日本語の運用能力が落ちているでしょうから、そういった連中による「日本を崩壊させる試み」すらもおそらくどうかな?という話ではあります。
 ちなみにドイツ語というのは、英語に比べると若干カイロス属性が強いです。あのあたりの土地の言葉というのは、物理的な地理的な流れに従って結構きれいに変化していきますが、もちろんこの言語におけるカイロス属性の強さと中世またはそれ以前~近代~第二次大戦終わりまでのユダヤ人の居住分布密度の高さというのは正の相関を示しているでしょう。で、ヒットラーは当時こういった原因でおそらくドイツにユダヤ人というか、正確に言うとJudeな人間達が集まってくることを問題とし、ああいったことを行ってしまったのかとは考えます。ヒットラーはもちろん人間によって能力の質は違うがそれを磨くなり生かすなりする機会は平等に与えられるべきだ、と言っています。逆にJudeというのはもう最初から全てが決まっているわけです、だから「共産主義」という言葉が内包しているような平等であるという一般的なニュアンスとは逆説的に、最も不平等なわけです。その生まれながらにして決まっているモノを使って内ゲバで殺し合うというのが彼らの世界なわけです。人間存在、Dasein(現存在)としての謂わば「存在の機」がそもそも無いわけであり、最初から、ではなくて、最初すら無くDinge an sichな連中なわけです。
 ヒットラーは非常にクロノス的価値意識の持ち主です。若い頃画家を目指していたヒットラーは、その絵を師に見せたところ「君は画家よりも建築家に向いている」と言われたそうです。今の精神科医の間では、ヒットラーは演技性人格障害だったという説があるらしいですが、私は昔のブログでヒットラーを女性的人間・パラノイアの象徴と言ったんですが、それを精神科医に聞いてから、もし彼らの説が正しいのならば超男性的人間ヒットラーは何かの為に女性的人間を演じていたのかな、とも思います。


 つまり、例えば国家というものに代表されるような秩序ある社会体制を築きそれを存続させてゆくには、「世界の真理」とやらではなく何者かの統治者が必要だということです。それはナザレのイエスさんであったり、マホメットさんであったり、ゴータマ=シッダルタさんであったり、聖徳太子であったり、the PopeであったりHer Majesty the Queenであったり天皇陛下であったり、内閣総理大臣や首相や大統領であったりするでしょう。「世界の真理」を標榜して布教するおカルト教祖や、世界中の何処を探しても存在しないような「みだりにその名を唱えるなかれ的な現代社会に適応されるべくして適応した聖人」つまりはsAin't、は違うと思いますけど。
 森羅万象というのは、我々ヒトがその脳で認知できる何らかの具体的な形象的シンボルとしては在り得ないということです。しかしということは、もし遠い将来スーパーコンピューターが全世界(全宇宙)にとある瞬間に起こった事象を何らかの形の言語を用いて記録するということが可能になれば、まあそれこそヒトの創りしモノに支配される世界がおとずれるかな、とも考えますけど。まあそれで理想的な社会が実現されればいいとはおもうんですけどね。ちなみに、この「とある瞬間」というものは具体的に測定(定義?)できるもののようで、先のLee Smolinさんという物理学者がループ量子重力理論という理論体系においてプランク時間という約1/(10の43乗)秒程度の時間の長さがそれであると言っているようです。

 というわけで、ところで+(plus)と×(multiply, versus)でこういった違ったことになるのは何故でしょうね?、というお話。1を100積み重ねれば100になりますが、1を100乗しても1のままですね。「三人寄れば文殊の知恵」という言葉は、どちらともとれる、というか人によって質は違うがそれをどう生かすか?というような教訓を示唆しているようで非常に意義深い言葉です。逆に「女三人寄れば姦しい(かしましい)」というのは思いっきり×(versus)な意味合いなわけであって、かしまし娘とかマジお断りです。ギャーピーやかましいだけでウザいだけです。アニメ「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」に登場するクェス・「パラヤ」の様な。「パラヤ」の意味を知りたい方は図書館等でお調べ下さい。簡単に言えば"para-J"(paraであるJ)みたいな意味です。



 例えば大方の印欧語では名詞は(ほとんど)全て男性名詞と女性名詞に分類されますが、だからどうであるこうであるという問題はその専門の言語学者の間以外では湧き起こりません。彼らJudenは極めてゾロアスター的観念の持ち主であり、魔女こそが同じ魔女に対して保身の為に「あいつは魔女だ!」と魔女狩りに火をつける人間だとということです。火を拝んで何でも二項対立でカタがつくと思っている大馬鹿者の集団ということなんですね。witch(魔女)という言葉はありますが、錬金術師や魔術師という言葉はあっても魔男という言葉はありません。Judenな女性(的人間)というのは、彼女たちにとっては存在しないものである自己の自明性を、二項対立・二元論という抽象概念で埋め合わせることで自己(自我)の崩壊から自己を守っている人々なわけです。彼らJudenは、ユダヤ人ではあってそしてJudeであるものを全く否定してみせた偉人Albert Einsteinの証明したE=mc・cという式がまさに当てはまらないような、謂わば「Dasein(現存在)として(何かが)欠落しているもの」そして同時に「Sein(存在)としてda(世界)から欠落しているもの(Nichtsein)」なわけです。彼らはカルト宗教の教義の様に二項対立という概念を世界の真理として、自らの外部から自らに与えられたものとして信奉しきってしまっている被洗脳者であると同時に馬鹿というものを極めた人々だと言うことです。
 エヴァンゲリオンのアニメに登場する主人公の碇シンジ君は、アレはJudenなチンピラ人間が想像したところのオタクの偶像ということであり、オタクの人々というのはあんなにバカではなないし、弱くもないし、頭も悪くありません。オタク少女はどうだか知りませんけど。……どうでもいいですが私はオタクを自称している人間ですが、いわゆる「ホンモノ」なオタクの人たちには、お前なんかオタクじゃないと言われることは簡単に予測がつきますけど。


 ところで、いわゆるサディストとマゾヒストの役割に分かれて行う、子供の遊びだと鬼ごっことかドロケイ・ケイドロだとか、あとSMなんてものもありますね?アレはマゾヒストな人間がSとMの役割に分かれてゴッコを行っているだけです。マゾヒストな人間を他の表現で言い表すとすれば、Juden、左翼的人間、女性的人間・幼児的人間、不良、等ということになるでしょう。サディスト、本当にSな人間にはマゾヒストの痛みというものは理解できないわけです。だからもし本当にSな人間がそういう行為を行うんだとしたら、放置プレイです。そしてこれはオスメス問わずMな人間にとっては最も屈辱を味あわされる行為なわけです。つまりは先の記事からずっと説明しているように、甘えを基調とするJudenな女性的・幼児的人間が最も恐れることは無視されること、シカトされることなわけです。
 マゾヒストの男というのは、マゾヒストな女の痛みを理解できるからこそSの役割を担ってマゾヒストの女を痛めつけるわけです。これは強姦犯罪やDVやイジメや幼児虐待・老人虐待なんかとも繋がっているでしょう。マゾヒストな男というのは相手の痛みが分かるからこそ意図してSの役割を行うわけです。文化人類学者の柳田邦男さんは、「人の痛みが分かる人間に」などということを提唱しておられますが、(そういったMな連中にとっては)人の痛みなんか分からない方がいいわけです。ああいったJudenなマゾヒストな連中というのは人の痛みが分かるからこそその痛みを人にくれてやろうとするわけです。このようなことを提唱されておられる柳田邦男さんはS、サディストです。そしてホンモノのS、サディストというのはほぼ例外なく善良な人たちです。彼らは主に言葉を始めとしたコミュニケーションを図れば、その時点で相手(M)の苦しみを理解しようと勤め、Mが訴えた限りでの苦痛を与えるような行為は絶対に止めようとします。ここまで読んでいただければご理解頂けると思いますが、世の中の、この日本という国に限らずほとんどの文明国に生活している人たちはS、(善良な)サディストです。そして私もその中の一人です。
 柳田邦男さんのような、「人の痛みが分かる人間になって、そういった人が痛がるようなことはやめようね」とおっしゃる善良な、おそらくは建設的な人ならば理想的でありいいんですが、「人の痛みが分かるからこそその同じ痛みを他人にもくれてやる」という悪意にまみれたJudenな売国奴連中がそこらへんにのさばりまくってるわけです。彼らは精神が分裂しそのスキマをうめる為、そして分裂した自己を肯定する為、そのために二項対立という抽象概念を外から押し付けられてかろうじて自我を保っているマゾヒスト×(multiplied)二種類=Nichtsein、であるというわけです。
 プランク体積云々とはあまり関係なく、現実問題として、Schizophrenieであると精神科医に診断されそれがどういったかたちであれ、治療を受けている又はそれを自分で治癒しようと試みている人間は何も問題ないんですが、「オレはアタマがおかしくなんかねぇ!」とかいう方向性のNichtseinである分裂病者はどうしようもないわけです。私がその著作を読んだり知っている全ての精神科医はこう言いますが、「私もしかして精神分裂病(統合失調症)ではないですか?」と自ら申告してくる人に精神分裂病(統合失調症)の患者は確実に居ないそうです。ちなみに精神分裂病(統合失調症)用の抗精神病薬というものは服薬すると確実に「オレはアタマがおかしくなんかねぇ!」とかいう方向へ自分を持っていかれます。医師の人たちを侮辱するつもりは全くありませんが、つまりは精神科医に限ってはそのほとんどは所詮は商売だということです。「ユダヤの毒」を使って。今の一部の精神科医、特に多くの若手の精神科医が行っていることは、ナチを装ったJudenによるヒトラー狩りなわけです。

 神戸女学院大学名誉教授の内田樹さんは、「木で鼻を括ったような説明というものは、そこに聴き手の知性や判断力に対する尊敬の念を感じられないから不快なのである」とおっしゃってますが、「木で鼻を括ったような説明」に対してこのような感慨を抱く内田樹さんは典型的なマゾヒストです。自己の自明性が欠けている人です。もっと平たい平明な分かりやすい言い方で言えば、自分に自信(自身)の無い人です。しかし内田樹さんは「安易な二元論がなんとかの問題だった」みたいなことをどこか週刊誌か何かで言っておられました。
 ちなみに近いところで養老孟司さんは超自分に自信のある人です。大変失礼な言い方で申し訳ないんですが、著名人で滅茶苦茶なこと言ってあそこまで自信過剰だとさすがにウザがられるでしょう。なんかWikipediaの項目も荒らされてますしね。しかし、先の記事でも言ったように、「誰の利益にもならない上に同時に自分の利益にもならないどころか損をする」というああいったくだらんことやるJudenな連中がいるからJimmy Walesさんみたいな有志の人たちも苦労するんじゃないでしょうかね。とは言ってももう少なくとも今のWikipediaに掲載されている内容というのは誤情報だらけなので、私はWikimedia財団に100$寄付したのを多少後悔しています。
 まあともかく、「木で鼻を括ったような説明」をすることしか知らない、そのようなことしかできない人間というのが真性のサディスト、本物のSなわけです。

 私は先の記事でthe Roman alphabetは表音文字だと言いました、が、一文字だけ例外が存在します。Sです。このアルファベットのSという文字は蛇を象徴した象形文字、つまりはアルファベットで唯一の表意文字です。Eveをそそのかした蛇。悪意は無い。……女が弱くて悪かった、たぶんね(生物学的な意味で)。




 というわけで、今までmui(無為)というHNでやってたんですが、SSというHNに代えました。これは別にSolomon's SealでもSchutzstaffelでもありませんので。悪しからず。私のinitialです。ちなみに私は蛇ではなく霊長目ヒト科の哺乳類のオスの単なる一匹です。別に蛇を気取っているとかそういう若年的なイタい感慨を抱いているわけではないので。悪しからず。
show biz(arre taste)
 わりとどうどもいい話。その2。
 閑談。
 ショービジネスについて適当に感想文。




 昔のブログでも言ってたんですけど、私は基本的にヴィジュアル系ロックバンドの曲に好きなものが多いんですね。というのは、やはり私はドイツ属性なものに惹かれたり郷愁を感じたり、おそらくドイツの人とフィーリングが合うんですね。クラシック音楽なんかもけっこう好きです。文豪Thomas Mannはこの形容をドイツ人に対して容易に使用するなと警告したそうですが、「悲劇的」なものに非常に興味を喚起せしめられる傾向があります。念のために言っておきますが、これはグロテスクな「破滅的」なものとは全く違います、私はそういったものは非常に嫌いなので。
 で、ヴィジュアル系ロックバンドの曲というのは、実際聴いてみれば分かるんですが、戦前生まれの今のだいたい60代から70代の世代の人たちが好む演歌と非常に通じるものがあるんですね。若者版演歌といったところでしょうかね。Janne Da Arcの曲なんてのはほとんど演歌そのものと言ってもいいくらいです(だから好きなんです)。だからやっぱり自分も日本人なのかな、と思うことは多々あります。そりゃ独逸と日本が仲良かったわけです。私が洋楽のロックをあまり好きではないのは、演歌的なものをほとんど感じられないからです。

 私が思春期の頃(10~14年前)は、小室哲哉さんの音楽が少し落ちぶれてHipHopやR&Bという類の音楽が全盛を極めていた時代でした。とは言っても、まあMarc Pantherの非常に上手いrapで日本にHipHop的音楽を輸入したのは、聞いた話によると他でもない小室哲哉さんらしいんですけどね。で、私はこういったHipHopやR&Bのような音楽は大嫌いでした。やっぱり日本人にグッとくる演歌的なものを感じられなかったから、というか私もやはりドイツ的日本的人間なのかな、とは自分のことについて思うときもあったりします。


 ところで、ひとえにオタクとっても様々な種類のオタクの人たちが居ます。私は先にも言ったようにオタクを自称している人間ですが、オタクと呼ばれる人種の中で唯一軽蔑したくなる連中が居ます。アイドルオタクです。彼らはまさに読んで字の如く「アイドル」という偶像にしがみつく女性的人間であり、ちょっと申し訳ないですが、彼らに対しては上から目線で見下さざるを得ません。あんなモノにハマるくらいだったら卑猥な雑誌でもDVDでも見るなり酒宴の席で猥談ブチカマしまくるなりキャバクラでも行ってオネーサンと楽しい会話でもしてた方が余程いいと思うんですけどね。性行為を行う目的で風俗店に通うのは医学的その他の見地からして絶対に止めた方がいいと思いますけど。
 ところで、声優の水樹奈々さんがラジオで「思春期まで演歌とゲームミュージックしか知らなかった」ってことを言ってたんですが、「ははあ、まあ分かるな、」とか思いました。私は生まれて始めて買ったCDは12歳の時に買ったビートルズの青版赤版でした。その次に買ったのが植松伸夫さんのFFⅤのサウンドトラックでした。

 私は基本的にアイドルというのはあまり好きじゃない上にアニオタでもないんですが、声優さんは別です。というかあの人たちは、昔のブログで書いた"not about the Talented, but Genius"という記事におけるファッションモデルと同じ意味でまさに天才だと思っています。というのは、声質なんてものはまさに天から与えられたものという以外に表現の仕様が無いからです。無理な人はいくら頑張っても無理な分野でしょう。あの昔のアイドルの松田聖子さんや中森明菜さんのような歌唱力のある人たちを除いて、私は少女アイドルを見ると若干軽蔑の念を抱くというか少し不快になるんですが、声優さんで水樹奈々さんや平野綾さんみたいな非常に歌唱力の高い、かつ声優業その他もこなしているという女性にはけっこうな尊敬の念を抱きます。



 それで、私は1981年生まれなんですが、我々というのは、第二次大戦後に生まれそれからだいたい20年間の間に教育されてきた連中、つまりは日米安全保障条約反対だとか全共闘で大学ブッ潰せみたいな、左翼というよりは極めて売国奴全盛な若者がのさばってた時代に社会を担っていた世代の人間たちに教育された人間たち(つまり売国奴全盛な若者だった連中)に教育された世代なんですね。このだいたい1945~1965年あたりに生まれた人間たち、つまりは我々の親世代にあたる人間たちというのは、おそらく最も幸せな甘い蜜を啜って大人になった連中です。バブルがハジける前の最も幸せで恵まれていた80’sに青春を謳歌し、仕事なんざ適当にサボタージュして「ダリーから辞める」っつっても労働市場が超過需要状態で売り手市場でいくらでも次の高給取りのラクな仕事が腐るほどある、という時代に生きていた人たちです。私は実際に8年くらい前に中年のオッサン、おそらく今は40代後半の人でしょうね、そういう人と1~2時間しゃべったことがあるんですけど、その人の曰く「もうボクらなんてねー、ダルいっつって会社辞めても昔は就職なんかいくらでもあってね~」ということをひたすら力説してました。
 もう言っちゃ悪いんですが、この世代には何の苦労も知らない程度の低い人たちが多いんです。もちろん中にはそうではない人たちもいらっしゃるでしょう(例えば仙谷由人氏(?)のような)。だいたい今の45~65の年齢の人々です。もし現代の腐った新聞に読む価値があるとしたら、こういった連中の脳ミソの足りなさ具合の確認の為です。優しい人でブログを見た限りでは「新聞なんか読む価値はない」とかおっしゃってる人もいますが、私はそういった人の様には優しくないのでハッキリ言いますが、読む価値が無いどころか新聞なんか読まない方がいいです。というかアレは読んだらダメです。特にここ10年あたりの新聞なんざ読めば読むほど馬鹿になります。もはやアレは読まない方がためになるものです。っつーかギャグとしてもレベル低すぎて笑えねーような官僚・政治家叩きの低俗メロドラマレベルの俗悪論説や報道記事書いたり駄本の宣伝載っけたりする社内外のバカ共やTBS・フジはまだいいとして(日テレやテレ東は民放としては優良)あとは特にテレ朝あたりの糞が付くようなテレビ局員は上から二等兵に至るまでサッサとくたばれと言いたい。どんだけ高給とって社会に害毒垂れ流しゃ気が済むんだってお話なんで。読売新聞ですらもうアブないです。朝日新聞はもう完全にアレを志向しているので見ない方がいいです(そりゃ売国奴アカヒとか揶揄られるわけです)。あの~、毎?なんとか?とかなんとか?という新聞社ありましたね?アノ俗悪週刊誌レベルの記事載せる?アレまだあるんですか?ネットの一部で妙な叩かれ方してますけど、それは関係ないとして、あの低レベルな記事で何で未だに潰れないんですか?今2011/06/08現在に至って何で潰れてないんですか?日経新聞?あの新聞は「株取引に興味のある人」が読むものであって、「株取引を実際に行う人」、少なくとも「株取引で利益を上げようと試みている人」たちはあんなもの見ません。
 で、この連中が残してくれた負の遺産のおかげで我々around30や10年上のaround40の人間たちは辛酸を舐めさせられているわけです。もちろん中にはそうではない狡猾な人間もちゃっかりと居ます。IT関連事業自体が問題であるだとかそういった若かった頃頭の悪かった老人みたいな適応能力のなさげなことは言いませんが、この10年でそういった事業の中でも社会に害毒垂れ流す類の商売で悪銭身に付かずなことやるような、甘い蜜を啜りまくって人間をナメ腐った大人になったクズみたいなのも居ます。別に特定の個人のことを言っているわけではありません。利用できるモノ(者)は何でも利用して、(そういった悪党にとっては)利用価値の高いすぐ上の世代(例えばの話、45~65歳くらいの人たち)に媚びへつらって手を擦り合せながら、という「ぜってーコイツガキの頃ウザがられて友達居なかっただろ?」と言いたくなるようなスネ夫の典型みたいなネット悪童大犯罪者、社会における悪徳の代名詞、みたいなね?まあそちらの方が生き方としては賢いでしょうからね?保身の為に自分にとって都合のいいデータ・材料だけを持ってきてその結果ハイ実証できましたとかいう類の「自称」論理実証主義者の。別に論理実証主義者を自称してなければ問題無いんですけど、それが普通の人間ですから。そしてそのデータとやらは、国立国会図書館や高等教育機関付属の図書館へ足を運んで調べてきたもの、というのではなく、ネットから適当にポチポチっと人差し指で10分くらいで拾ってきたギャグにもならないような陳腐な質の信憑性ほぼゼロのモノがデータとして提示されているというものであったりするわけです。しかしまあ、先の記事でも言ったんですけど、別に私はそういった人種のことを否定するつもりはないですけどね。それが彼らの生き方なんでしょう。別に誰にも他人の生き方を否定する筋合いなんか無いでしょう、特にこの現代社会においてはね。ただ、日本社会の治安をはじめとした秩序・日本経済に大きくマイナスとなるという観点においては、私はただの一般市民なのでそういった力を持ち合わせておりませんので、本当に検察や警察の方々にはこういった連中をこそなんとかして頂きたいというのが、一国民としての切々たる願いです。……先の記事でも言いましたが、カネを身内だけで回して日本(の実態)経済にマイナスになるようなことを商売にしている共産主義的人間が居るわけです。Judenという言葉一言で表されるような。

 私が使わせてもらっている、SAMURAI FACTORYの提供するサービスであるNINJA TOOLSの忍者ブログは、数十個のブログサービスを調べて、そして忍者ブログが一番自分に合ってるかな、と思って私は使い始めました。なんかスタッフの人たちもヴィジュアル系(?)ですしね、ここはツッコミどころじゃないことは重々自覚してますが。まあブログやSNSや動画サイトはそれはそれだと見てすぐに分かるんで、ともかくとして、ネット掲示板なんてモノは、少なくとも2011/06時点(とっくにその遥か昔から)では大文字のメディアの一つと化してしまっており、新聞その他マスコミと同レベルな属性で、そして明らかにそれ以上に日本経済にマイナスの波及効果及ぼしてますね?こういったことを試算して、具体的にそれが日本社会においてどの程度の損失をもたらしているか、ということを具体的数値(価格額)で算出してくれる経済学者・エコノミストの方々がおそらくいらっしゃいます。GDP云々というレベルの低い議論は論外として(GDPというまとめの指標一つで日本経済の云々を理解できる訳が無い)、これはマクロ経済学を始めとして計量経済学・公共経済学・環境経済学・労働経済学・産業組織論、市場の失敗についての考察その他、こういったものを研究対象としている研究者の方々によっておそらくとうに試算されているでしょう。官公省庁や学術機関のホームページやごく一部の優良サイトを除いた、まあ要するにいわゆる大文字のネットというのは、一般市民によるそれに対する自己防衛の恣意が存在するという時点で、もはや公害そのものなわけです。
 まあ平たく言えば、ネットもテレビもペーパーメディアも、それにのめりこんじゃうような性質持ってる人たちは見ない方がよろしいのでは?ということです。

 我々より下の世代の今の子供たちだって大人になったら苦労するでしょうね。我々だってどうしようもないので、彼らだってもうどうしようもないですね。しかし、その上の世代の人たちの中でも、例えば政治家だと民主党の枝野官房長官や前原前外相など非常に優れた能力をもっておられる人たちもいらっしゃいます。こういう優秀・有能な人々に国家を取り仕切ってもらいたいというのがこれもまた一国民としての願いです。失敗してもマスコミは無為に叩くの禁止という前提条件で。そうでなければ誰もやりたがらないでしょう。

 だから、やはり戦前を生きてきた世代の人たち、もしくは戦前生まれの人たち、大体今の70代の壮年の人たちとは、我々30前後の世代、少なくとも私は非常にあの人たちの考えに納得できる部分があります。その世代の一般の人と会話をしていても話が合うんですね。それは石原慎太郎さんにしろ大江健三郎さんにしろ、柳田邦男さんにしろ養老孟司さん(はちょっと怪しいですが)、精神科医の中井久夫さんや木村敏さんや森山公夫さんにしろ、もう少し上の年代だと吉本隆明さんや故三島由紀夫さんにしろその著作を読むと同意できるものが多々あるわけです。もっと言うなら中曽根大勲位のおっしゃることや二宮尊徳のような人に共感したりもするわけです。
 アニメだって甘い蜜啜った世代の庵野秀明さんの作った新世紀エヴァンゲリオンより、御年70歳の富野由悠季さんの作った機動戦士ガンダムの方がアニオタの人たちでなくともはるかに多くの人に支持されてますし、私も見ててアニメとしてはガンダムの方がはるかに面白く感じます。


 で、やっぱりヴィジュアル系バンドの中でも、そういうover45の世代の人たちがやっていた、それこそ「破滅的」なXの曲はあまり好きにはなれませんでしたし、BUCK-TICKやBOWWYみたいなバンドの曲もあまり好きにはなれませんでした。下手糞でレベル低いんで。DIE IN CRIESとかは演奏レベルが高いので好きでしたけど。しかし何故か70代の内田裕也さんは見て「ちょっとかっけえかな」とか思ったりするわけです。
 つまりはもちろん能天気に生きてられた時代に育った連中が作った創作物なんてのは、それが音楽だろうと他の何だろうと、質の低いものしかできないということです。別にそのことを否定しているのではなくて、それが創作だけではなく社会体制その他の流れだということです。やっぱり民主主義も停滞しているとだんだんと腐っていくんでしょうか、とは思います。だから、別に昔の人みたいに「若い頃の苦労は買ってでもしろ」だとか「辛抱我慢」だとかそういう馬鹿馬鹿しいことを推奨しているわけではなくて、普通に義務教育受けて普通に高校と大学行って普通に働いて普通に死ぬのが一番幸せなんじゃないの、ということです。この現代社会に溢れている楽しいもの、それに対する依存性を喚起させる快楽というのは全てJudeな釣り、もっとはっきり言ってしまうのならばJudenによる釣りだと思った方がいいということです。……酒・煙草・ギャンブル・女遊び、私は全てやりません。金があってもやりません。

 だから私は、ロックバンドでメジャーな人たちで分かりやすく例を挙げると、L'Arc~en~CielやJanne Da ArcやDir en greyやその他マイナーシーンで活動していた人たちだとdeadmanの音楽なんかが好きだったりします。この人たちはほとんどaround35~40です。この人たちのやる音楽というのはほとんどすべて演歌属性持ってます。そりゃロックというジャンルの音楽はコード進行が単純で、その単純な運びの中で如何に色を付けて優れた曲に完成させるか、ということに醍醐味があるんでしょうが、やはりその中でこの人たちの音楽はただ音かき鳴らすだけではなくそれに加えるカタチでドイツ的叙情的演歌属性がそれがどういう方向性であれいい感じに出てます。
 しかしそもそもの話、ラルクはそもそもヴィジュアル系のレッテルを嫌がっている人たちでしたしベースの人の構音・演奏が上手いですし、Janneは思いっきり演歌・歌謡曲属性ですが弦楽器隊の人たちとドラムの人の演奏が非常に上手いですし、Dirのボーカルの人は所謂(主に哲学的な意味で)「ホンモノ」です、ロックミュージシャンでメジャーシーンで活動している人ではまず見ることのできない稀有な「ホンモノ」な人です。メジャーなロックバンドの中ではDir en greyの曲はロック音楽としてはかなりレベルが高いんじゃないですかね、おそらく。

 ちなみにアニソンが好きだったりする主にアニオタその他の人たちにはこのJanne Da Arcというヴィジュアル系ロックバンドの曲はオススメです。中古屋とか行けば結構CD売ってます。歌詞も曲によっては結構内容深いので歌詞カードちゃんと読みながら曲を聴いてみてください。たぶんアニソン好きの人たちはこのバンドの曲は気に入ると思いますので実にオススメです。


 この(哲学的な意味で)「ホンモノ」というもの云々についてはまた今度書くかもしれません。……私は「ホンモノ」が決していいとは言いませんが。ちなみに「ニセモノ」というのはJudeのことです。
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